リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

昭和・平成の私のパソコン史

昭和・平成の私のパソコン史

はじめて自分のものになったパソコン――ソニーHiTBiT HB-F500の記憶【第1回】

手が届かなかったPC-88とMZ-2500、その少し近くへ

家庭のテレビ画面に、テレビ番組とはまったく異なる文字が並んでいた。

黒や青を基調とした画面に、アルファベットや数字が表示される。キーボードから何かを入力すると、画面の中の機械がそれに応える。いま振り返れば、それはコンピュータとしてはごく基本的な動作にすぎない。しかし、私にとっては、家庭の中にそれまで存在しなかった新しい世界が開いた瞬間だった。

私が初めて自分で購入したパソコンは、ソニーのHiTBiT HB-F500だった。

HB-F500は、MSX(Microsoftとアスキーが提唱した家庭用パソコンの共通規格)の第二世代に当たるMSX2対応機である。1985年に登場した機種で、本体とキーボードが分かれたセパレート型の外観を持っていた。当時のMSXパソコンには、キーボードと本体が一つになった一体型の製品も多かったが、HB-F500はそれらとは少し違って見えた。

本体があり、その手前に独立したキーボードがある。

その姿は、私が雑誌や店頭で見ていた、本格的なパソコンに少し近かった。

当時、本当に欲しいと思っていたのは、NEC(日本電気)のPC-8800シリーズ、一般にPC-88と呼ばれていたパソコンや、シャープのMZ-2500だった。

PC-88は、当時のパソコン雑誌を開けば必ずと言ってよいほど目に入る存在だった。豊富なソフトウェアがあり、ゲームにもプログラミングにも使える。雑誌の記事や広告からは、MSXより一段上の、本格的なパソコンという印象が伝わってきた。

MZ-2500もまた、強い憧れを抱かせる機械だった。

シャープのMZシリーズが積み重ねてきた流れの先にあり、8ビットパソコンの完成形とも思えるような高性能機だった。雑誌の写真や仕様表を眺めるだけでも、そこには自分の知らない高度な世界があるように感じられた。

しかし、PC-88やMZ-2500は高価だった。

欲しいと思うことと、実際に購入できることとの間には、大きな距離があった。

現在であれば、インターネットで価格を比較し、中古品を探し、全国の販売店から購入することもできる。しかし当時は、そうではない。パソコンとの出会いは、近所や市内の電気店、専門店、雑誌の通信販売など、限られた場所に依存していた。

私の場合、HB-F500は市内の電気店で購入することができた。

遠い場所にある憧れの機械ではなく、自分が生活している町の中で、現実に手に入れることのできるパソコンだった。

セパレート型に感じた「本格的なパソコンらしさ」

HB-F500を選んだ理由の一つは、セパレート型だったことである。

本体とキーボードが分かれている。

ただそれだけのことが、当時の私には重要だった。

一体型のMSXにも優れた機種は数多くあった。価格が抑えられ、家庭のテレビにつなげばすぐに使えることは、MSXの大きな魅力でもあった。しかし、私が求めていたものは、単にゲームができる家庭用の機械だけではなかった。

PC-88やMZ-2500のような、本格的なパソコンに少しでも近いものが欲しかった。

HB-F500の独立した本体とキーボードは、その願いに応えてくれるように見えた。

性能だけを比較すれば、PC-88やMZ-2500と同じではない。それでも、机の上に本体を置き、手前にキーボードを置くと、そこに自分だけのコンピュータ環境ができあがったように感じられた。

機械を所有する満足感とは、必ずしも数値化できる性能だけから生まれるものではない。

本体の形、キーボードの位置、電源を入れる手順、画面が表示されるまでのわずかな時間。その一つ一つが、自分がパソコンを持ったという感覚を形づくっていた。

HB-F500は1985年に発表・発売されたソニーのMSX2機で、セパレート型の外観と内蔵フロッピーディスクドライブを備え、当時の希望小売価格は12万8,000円だったとされる。

安価な機械ではなかった。

それでも、当時のセパレート型MSX2機の中では比較的抑えられた価格設定だったとされる。

私にとっては、手の届かなかったPC-88やMZ-2500の代わりというだけではない。

それらの機械が象徴していた世界へ入っていくための、現実的な入口だった。

MSX-DOSに感じた、将来へのつながり

もう一つ、HB-F500を選ぶうえで大きかったのが、MSX-DOSだった。

MSX-DOS(MSX用のディスク・オペレーティング・システム)は、MS-DOS(Microsoft Disk Operating System・マイクロソフトのディスク基本ソフト)に近い操作体系を持っていた。

当時、MS-DOSは、より本格的な16ビットパソコンの世界で使われる基本ソフトという印象があった。

MSXは家庭用パソコンの規格だったが、MSX-DOSを使うことで、その先にあるMS-DOSの世界へ少し近づけるように思えた。

MSX-DOSは、MS-DOSとの互換性を意識して開発され、COMMAND.COMなどMS-DOSに近い構成を持っていた。

もちろん、実際のMS-DOSとMSX-DOSは、動作するハードウェアも使用できるソフトウェアも同じではない。しかし、ファイルを管理し、コマンドを入力して機械を操作するという考え方には共通する部分があった。

私は、目の前のMSXだけを見ていたのではなかった。

その先にあるPC-88やPC-98、さらに大きなコンピュータの世界を見ていた。

HB-F500は、いま使うための機械であると同時に、将来、別のパソコンへ進むための学習装置でもあった。

後から振り返れば、この感覚は間違っていなかったと思う。

私はその後、PC-8800シリーズ、PC-9800シリーズ、DOS/Vパソコンへと移っていくことになる。さらにMacintosh SEを使い、Windows、Linux、Macへと使用環境を広げていった。

しかし、その始まりにはMSX-DOSがあった。

コマンドを入力すること。

ファイルという単位でデータを考えること。

ディスクに保存されたソフトウェアを読み込むこと。

自分が機械に対して何を命令しているのかを、少しずつ理解すること。

現在のパソコンは、利用者が基本ソフトを強く意識しなくても使えるようになっている。画面上のアイコンを選び、アプリケーションを起動し、クラウド上にファイルを保存する。

便利になった一方で、機械の中で何が起きているのかは見えにくくなった。

HB-F500を使っていた頃は、不便ではあったが、機械の動作が現在よりも身近に感じられた。

家のテレビがパソコンの画面になった

HB-F500は、家にあったテレビに接続して使っていた。

現在のように、パソコンを購入すれば当然のように専用ディスプレイを用意する時代ではなかった。MSXでは、家庭にあるテレビを表示装置として利用することが一般的だった。

テレビは、それまで放送を見るための機械だった。

決められた時間に番組が始まり、こちらはそれを見る。映像は放送局から送られてくるものであり、視聴者が画面の中身を変えることはできない。

しかし、HB-F500を接続すると、テレビは別の機械になった。

自分がキーボードから入力した文字が画面に現れる。

命令を入力すれば、表示が変わる。

プログラムを実行すれば、図形や文字が動く。

それまで受け取るだけだったテレビ画面に、自分の操作が反映される。

この違いは大きかった。

BCL(Broadcast Listening・海外放送や遠距離放送の受信を楽しむ趣味)をしていた頃、ラジオは世界から届く電波を受信する機械だった。ダイヤルを回し、雑音の中から放送局を探し、遠い国の声を聞いた。

HB-F500では、自分が機械に命令を与える側になった。

ラジオでは受信者だった私が、パソコンでは入力者になった。

どちらも機械を通して未知の世界へ近づく体験だったが、関わり方は異なっていた。

短波ラジオは、すでに世界に存在する電波を探すものだった。

パソコンは、自分の入力によって、まだ画面に存在していないものを作り出す機械だった。

雑誌に並んでいた16進数

HB-F500を購入したからといって、すぐに自由自在に使えたわけではない。

当時は、現在のようにインターネット上からソフトウェアを簡単に入手することはできなかった。アプリケーションストアもなければ、検索すれば使い方を説明する動画が出てくるわけでもない。

頼りになるのは、説明書とパソコン雑誌だった。

雑誌には、BASIC(Beginner's All-purpose Symbolic Instruction Code・初心者向け汎用記号命令コード)のプログラムだけでなく、16進数のダンプリストが掲載されていた。

0から9までの数字と、AからFまでの英字が、紙面いっぱいに並んでいる。

現在の感覚で見れば、あれほど単調な文字列をよく入力していたと思う。

しかし当時は、それを入力すれば、手元になかったプログラムが自分のパソコンの中に現れる。

雑誌のページは、単なる読み物ではなかった。

紙に印刷されたソフトウェアそのものだった。

私は、その16進数のダンプリストを必死に入力した。

一行入力しては、次の行へ進む。

数字が続く。

英字が混じる。

一文字でも間違えれば、正しく動作しない可能性がある。

入力を終えて実行しても、何も起きないことがある。画面が乱れることもあれば、途中で止まることもある。

そのたびに、雑誌のページと画面を見比べた。

どこかで数字を一つ間違えていないか。

Aと4を取り違えていないか。

Bと8を見間違えていないか。

一行飛ばしていないか。

入力した位置がずれていないか。

自分の間違いなのか、雑誌側の誤植なのか。

何度も見直した。

現在なら、ファイルをコピーすれば数秒で終わる作業である。

当時は、プログラムを入手するために、自分の指で何百、何千という文字を入力しなければならなかった。

効率だけを考えれば、決して合理的な方法ではない。

しかし、そこには現在とは違う意味があった。

入力しているうちに、データがどのように並んでいるのかを意識するようになる。

同じような数値が続く部分、急に異なる値が現れる部分、規則的に見える並び。意味は完全には分からなくても、プログラムが文字と数字の集積として存在していることを、身体で覚えていった。

動いたときの喜び

長いダンプリストを入力し終え、プログラムが動いたときの喜びは大きかった。

自分がプログラムを設計したわけではない。

自分が考えたゲームでもない。

雑誌に掲載されたデータを、そのまま入力しただけとも言える。

しかし、紙の上に印刷されていた数字の列が、自分の指を通してパソコンに入り、画面上で動き始める。

そこには、単なる複製以上の達成感があった。

入力作業には時間がかかった。

間違いを探すのにも時間がかかった。

途中で嫌になることもあった。

それでも、最後まで入力して動かした。

現在は、ソフトウェアを使うまでの障壁が低い。購入やダウンロードが終われば、すぐに利用できる。利用者にとっては、その方がよい。

しかし、手に入れるまでに苦労しない分、そのソフトウェアがどのようなデータからできているのかを意識する機会は少ない。

HB-F500を使っていた頃、私はコンピュータの内部を深く理解していたわけではない。

それでも、画面の中の動作は、どこかから自然に生まれてくるものではなく、命令やデータの積み重ねで作られていることを感じていた。

動かなければ、原因がある。

間違っていれば、どこかを直さなければならない。

分からなくても、調べて試す。

この姿勢は、その後、別のパソコンを使うようになってからも残った。

最初の一台は、最高の一台とは限らない

HB-F500は、当時もっとも高性能なパソコンではなかった。

私が最も欲しかった機械でもなかった。

本当に憧れていたのはPC-88やMZ-2500だった。

それでも、実際に自分の机の上に置き、家のテレビにつなぎ、キーボードをたたいたのはHB-F500だった。

人の人生を変えるのは、必ずしも最も高性能な道具ではない。

遠くから眺めていた憧れの機械ではなく、現実に手に入り、毎日触れ、失敗しながら使った機械であることが多い。

HB-F500は、私にとってそのような一台だった。

市内の電気店で購入したセパレート型のMSX2。

PC-88やMZ-2500の世界に少しでも近づきたいという思いで選んだパソコン。

家のテレビに接続し、雑誌の16進数を何時間もかけて入力した機械。

やがて私は、このHB-F500をゲームやプログラム入力だけでなく、日本語の文章を作り、紙に印刷するためにも使うようになる。

コンピュータが、憧れの機械から実用的な道具へ変わり始めたのである。

しかし、使えば使うほど、同時に別の感情も生まれてきた。

もっと速い機械が欲しい。

もっと多くのソフトウェアを使いたい。

もっと本格的な環境へ進みたい。

HB-F500は、私を満足させるためだけの機械ではなかった。

次のパソコンを求める気持ちを育てる機械でもあった。

第2回では、カセットで提供されたワープロソフト、第二水準漢字、ブラザーのドットインパクトプリンターによる印刷、そしてHB-F500に物足りなさを感じるようになった私が、PC-88、PC-98、DOS/V、Macintosh SEへ進んでいった過程を振り返りたい。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

テレビ画面の文字が、紙の文書になった日

ソニーHiTBiT HB-F500を購入した当初、私にとってパソコンは、未知の動作を試し、雑誌に掲載されたプログラムを入力し、画面上で何かを動かすための機械だった。

家のテレビに接続し、キーボードから命令やデータを入力する。

雑誌に並んだ16進数のダンプリストを、一文字ずつ必死に打ち込む。

入力を終えても、必ず動くとは限らない。

一文字の誤りを探すために、画面と雑誌を何度も見比べる。

そうした作業を繰り返しているうちに、HB-F500は単に購入した電気製品ではなく、自分が手を動かすことで初めて役に立つ機械になっていった。

そのHB-F500を、私はやがて日本語の文章を作るためにも使うようになった。

カセットで提供されていたワープロソフトを購入したのである。

現在のパソコンでは、日本語を入力し、漢字へ変換し、画面に表示することは当然の機能になっている。

しかし、当時はそうではなかった。

家庭用パソコンで日本語を扱うことは、それ自体が一つの技術的な課題だった。漢字を表示するためには、漢字の字形データが必要になる。使用できる漢字の範囲にも制約がある。

英数字や片仮名を表示することと、多数の漢字を扱うこととの間には、大きな違いがあった。

私が購入したワープロソフトでは、第二水準漢字を使えるようにした。

JIS(Japanese Industrial Standards・日本産業規格)の漢字コードでは、比較的使用頻度の高い漢字を中心とする第一水準と、それ以外の多数の漢字を収めた第二水準が区分されていた。

第二水準漢字まで使えることによって、パソコンで扱える日本語の範囲は大きく広がった。

現在から見れば、漢字が一文字増えることに特別な感動はないかもしれない。

しかし当時は、それまで表示できなかった文字が画面に現れること自体が、機械の能力が広がった証しだった。

コンピュータは、英数字を扱う外国生まれの機械という印象から、日本語で自分の文章を作ることのできる道具へ変わっていった。

カセットからワープロソフトを読み込む

いまのアプリケーションは、内蔵された記憶装置から短時間で起動する。インターネットからダウンロードして、すぐに使い始めることもできる。

当時のソフトウェアは、それほど簡単には始まらなかった。

私が使ったワープロソフトはカセット媒体だった。

カセットからソフトウェアを読み込む。

読み込みが始まると、終わるまで待たなければならない。途中で失敗すれば、もう一度やり直すことになる。

音楽を聴くカセットテープと同じような媒体に、パソコンのプログラムが記録されている。そのテープからデータを読み込み、画面上にワープロの機能を呼び出す。

現在の感覚では、不便な仕組みに思える。

しかし当時は、カセットに記録された信号が、文字を入力し編集するためのソフトウェアとして立ち上がることに、不思議な魅力があった。

ソフトウェアは、目に見えない存在である。

机の上には、パソコン本体とキーボード、テレビ、カセットがあるだけだ。

だが、カセットを読み込ませると、その機械がワープロになる。

別のプログラムを読み込めば、別の機能を持つ機械になる。

同じハードウェアが、ソフトウェアによって役割を変える。

現在では当たり前の考え方だが、私がそれを実感したのは、HB-F500を使っていた時代だった。

自分の文章をパソコンで作る

ワープロソフトを使うようになると、パソコンとの関係が少し変わった。

それまでは、雑誌に掲載されたプログラムを入力し、すでに誰かが作ったものを自分のパソコンで再現することが多かった。

しかしワープロでは、自分が考えた文章を入力する。

画面の中に現れる文字は、雑誌から写した数字の列ではない。

自分が書こうとしている内容そのものだった。

文字を入力し、漢字へ変換し、文章を整える。

間違えれば修正する。

途中に文字を追加し、不要な部分を削除する。

紙に手書きする場合とは違い、書いた後から文章を動かし、直し、組み替えることができる。

現在のワープロソフトと比べれば、機能は限られていた。

画面の解像度も低く、表示できる情報量にも制約がある。日本語入力も、現在ほど自然で高速ではない。

それでも、文章を後から修正できるということは大きかった。

手書きで文章を作れば、途中を直すために行間へ書き足したり、原稿用紙を最初から書き直したりする必要がある。

パソコンでは、文字を消して入れ直すことができる。

文章を書くという行為が、紙と鉛筆だけに限定されなくなった。

HB-F500は、私にとって初めてのパソコンであると同時に、初めて本格的に電子的な文章を作るための道具でもあった。

ブラザーのプリンターが動き始める

画面上で作った文章は、最終的にブラザーのドットインパクトプリンターで印刷した。

印刷を始めると、プリンターが独特の音を立てた。

現在のインクジェットプリンターやレーザープリンターのような静かな動作ではない。

印字ヘッドが左右に動き、細いピンでインクリボンを紙へ打ちつける。

文字が一行ずつ紙の上に現れていく。

印刷には時間がかかる。

動作音も大きい。

しかし、その音は、画面の中だけに存在していた文章が、現実の紙へ移されていく音だった。

家庭のテレビに表示されていた文章が、プリンターから一枚の文書として出てくる。

これは、当時の私にとって大きな変化だった。

雑誌のダンプリストを入力していたとき、パソコンは画面の中で完結する機械だった。

ゲームやプログラムは、電源を切れば見えなくなる。

ところが、ワープロで文章を作り、プリンターで印刷すると、パソコンの中のデータが物理的な成果物になる。

紙は手元に残る。

他の人に渡すこともできる。

読み返すこともできる。

パソコンが遊びや学習の道具から、現実の生活に役立つ生産の道具へ変わった瞬間だった。

不便だったから、仕組みが見えた

HB-F500でワープロを使うには、いくつもの手順が必要だった。

カセットを用意する。

ソフトウェアを読み込む。

日本語を入力するための環境を整える。

文章を作成する。

プリンターを接続する。

用紙やインクリボンを確認する。

印刷を開始する。

どこかで問題が起きれば、その原因を一つずつ考えなければならない。

ソフトウェアが読み込めないのか。

接続が間違っているのか。

入力方法が違うのか。

プリンターの設定なのか。

現在のパソコンや周辺機器は、自動設定によって簡単に利用できるようになった。機器を接続すれば、自動的に認識され、必要なソフトウェアも自動的に用意されることが多い。

その進歩は大きい。

昔の不便さを、過度に美化するべきではない。

ソフトウェアの読み込みに失敗することも、文字を自由に扱えないことも、プリンターの設定に苦労することも、本来は不便でしかない。

ただ、その不便さの中で、私は機械が複数の要素から成り立っていることを学んだ。

パソコン本体だけでは文章を印刷できない。

ソフトウェアが必要である。

文字データが必要である。

記憶媒体が必要である。

プリンターとの接続が必要である。

印刷のための用紙やインクリボンも必要である。

一つの結果を得るまでに、複数の仕組みがつながっている。

そのつながりを意識する習慣は、後のパソコン利用にも影響したと思う。

使い込んだからこそ見えてきた限界

HB-F500は、私に多くのことを教えてくれた。

プログラムを入力すること。

16進数のデータを扱うこと。

ディスクやカセットからソフトウェアを読み込むこと。

MSX-DOSを通して、コマンド型の基本ソフトに触れること。

日本語の文章を作ること。

プリンターで紙に出力すること。

しかし、使えば使うほど、HB-F500ではできないことも見えてきた。

より高性能なパソコンでは、さらに多くのソフトウェアが動いていた。

画面表示も違う。

処理速度も違う。

利用できる周辺機器や情報量も違う。

雑誌を見れば、PC-88向け、PC-98向けのソフトウェアや記事が数多く掲載されていた。

最初はHB-F500を手に入れたことで満足していた。

しかし、しだいに物足りなさを感じるようになった。

これはHB-F500が悪い機械だったからではない。

むしろ逆である。

パソコンを実際に使い、その可能性を知ったからこそ、さらに先へ進みたくなった。

何も知らなければ、限界も感じない。

一つの機械を使い込むと、自分が次に何をしたいのかが分かってくる。

HB-F500は、私にパソコンの楽しさを教えると同時に、次の機械を求める理由も与えた。

ついにPC-88の世界へ

その後、私はPC-8800シリーズへ移った。

かつて高価で購入できず、雑誌や店頭で眺めていたPC-88を、実際に使う側へ進んだのである。

HB-F500を購入したとき、PC-88は遠くにある憧れの機械だった。

しかし、HB-F500でパソコンの基本を学んだ後では、PC-88は単なる憧れではなく、次に進むべき具体的な選択肢になっていた。

使用できるソフトウェアの範囲が広がる。

雑誌に掲載されている情報も増える。

パソコンを中心に形成されていた当時の文化へ、より深く入っていくことができた。

ただし、PC-88へ移ったからといって、HB-F500での経験が不要になったわけではない。

キーボードから命令を入力すること。

ファイルを保存すること。

動かないときに原因を探すこと。

周辺機器を接続すること。

そうした基本的な姿勢は、HB-F500の時代に身についたものだった。

PC-88については、後日、独立した記事として詳しく振り返りたい。

HB-F500からPC-88へ移ったとき、何が変わり、何が変わらなかったのか。

雑誌、ソフトウェア、ゲーム、プログラミング、そして当時のパソコン市場を含めて、一つの時代として書く必要があると思っている。

PC-98と、実用機としてのパソコン

PC-88の後には、PC-9800シリーズ、一般にPC-98と呼ばれたパソコンへ進んだ。

PC-88が趣味やゲーム、プログラミングの印象を強く持つ機械だったのに対し、PC-98は業務や実用の世界にも広く入り込んでいた。

ワープロ、表計算、データ処理、各種の業務ソフトウェア。

パソコンは、個人の趣味のためだけでなく、仕事や社会の仕組みを支える機械になっていった。

HB-F500でワープロソフトを使い、ブラザーのプリンターで文章を印刷した経験は、このPC-98の実用的な世界へつながっていた。

最初から業務用パソコンを使ったのではない。

家庭のテレビにつないだMSXで文章を作り、少しずつ実用性を理解していった。

そのため、PC-98へ移ったときも、パソコンが突然別の機械になったとは感じなかった。

HB-F500で始まったことが、より大規模で本格的な環境へ広がったのである。

PC-98についても、HB-F500の記事の中で詳しく扱いすぎるべきではない。

PC-98には、日本独自のパソコン市場、企業や学校への普及、MS-DOS、国民機と呼ばれた時代など、独立して検討すべき多くの題材がある。

それは後日の記事に譲りたい。

DOS/Vが変えたパソコンの景色

さらに時代が進むと、私はDOS/Vパソコンへ移った。

DOS/Vとは、IBM PC/AT互換機上で日本語を扱うための環境として登場し、その後、日本のパソコン市場が世界標準の互換機へ移行していく契機となった仕組みである。

それまでの日本のパソコン市場では、メーカーごと、機種系列ごとに独自性が強かった。

同じパソコンという名称でも、ハードウェアやソフトウェアの互換性には大きな違いがあった。

DOS/Vの普及によって、海外を含む広い市場の部品やソフトウェアを利用しやすくなった。

パソコンを構成する部品を選び、必要に応じて交換し、自分の用途に合った環境を作るという考え方も広がっていった。

振り返れば、MSXもまた、複数のメーカーが共通規格に基づいてパソコンを製造するという思想を持っていた。

MSXとDOS/Vは、同じものではない。

しかし、一社の独自機だけに閉じず、共通する規格の上で多様な製品が作られるという発想には、どこか通じるものがあった。

私がHB-F500を選んだ理由の一つが、MSX-DOSがMS-DOSに近かったことだった。

その関心は、後のDOS/V環境へ進む流れにもつながっていたと思う。

Macintosh SEという異なる世界

私のパソコン遍歴には、Macintosh SEも加わった。

Macintosh SEは、それまで使っていたパソコンとは、操作の考え方が異なって見えた。

MSX-DOSやMS-DOSでは、文字によるコマンドを入力して機械を操作する場面が多かった。

それに対してMacintoshでは、GUI(Graphical User Interface・アイコンやウインドウを使って視覚的に操作する方式)が、コンピュータの使い方の中心に置かれていた。

画面上のアイコンを選ぶ。

ウインドウを開く。

マウスで対象を動かす。

ファイルやフォルダーが、視覚的な存在として画面に表現される。

現在では一般的な操作方法だが、当時は、コンピュータとの付き合い方そのものを変える考え方に感じられた。

HB-F500で、私はキーボードから機械に命令する感覚を知った。

Macintosh SEでは、画面上の対象を自分の手で扱う感覚を知った。

どちらが優れているという単純な話ではない。

コンピュータには、異なる思想や設計の方法がある。

同じ目的を実現するにも、機械によって入口が違う。

その違いを経験できたことは、その後、Windows、Linux、Macを使い分けるうえでも大きかった。

Macintosh SEについても、その独特な筐体、画面、マウス操作、当時のソフトウェアなど、別の記事で詳しく書く価値がある。

Windows、Linux、Macへ

その後、パソコンの中心はWindowsへ移っていった。

GUIによる操作が一般化し、多くの人が仕事や家庭でパソコンを使うようになった。

インターネットが普及し、パソコンは単独で使う機械から、世界中の情報や人とつながるための機械へ変わった。

現在、私はWindowsだけでなく、LinuxとMacも使っている。

Windowsは、幅広いソフトウェアや周辺機器を利用できる一般的な環境として使う。

Linuxは、基本ソフトやサーバー、プログラム、コンピュータの仕組みに近い環境として使う。

Macは、Appleのハードウェアと基本ソフトが統合された環境として使う。

用途や目的に応じて、それぞれを選ぶ。

最初から複数の環境を使い分けられたわけではない。

HB-F500から始まり、PC-88、PC-98、DOS/V、Macintosh SEと、一台ずつ異なる機械を経験してきた結果として、現在がある。

機械は変わった。

記憶媒体も変わった。

カセットからフロッピーディスク、ハードディスク、光ディスク、半導体記憶装置、クラウドへと移った。

テレビに接続していた画面は、専用ディスプレイになり、やがて高解像度の液晶画面になった。

ドットインパクトプリンターの大きな音は、静かなインクジェットプリンターやレーザープリンターに置き換わった。

16進数のダンプリストを雑誌から入力する必要もなくなった。

ソフトウェアはネットワークから短時間で入手できる。

便利さは比べものにならない。

それでも変わらなかったもの

環境がどれほど変わっても、自分の中に残っている感覚がある。

分からなければ調べる。

動かなければ原因を探す。

一度で成功しなければ、設定や入力を見直す。

機械を自分の用途に合わせる。

必要なものがなければ、別の方法を試す。

この姿勢は、HB-F500で16進数のダンプリストを入力していた頃に作られたものかもしれない。

画面に何も現れなければ、雑誌と入力内容を照合した。

ワープロソフトが使えなければ、読み込みや操作をやり直した。

プリンターが思うように動かなければ、接続や設定を確認した。

現在のLinuxで設定ファイルを修正するときも、プログラムのエラーを探すときも、基本的に行っていることは変わらない。

機械は高度になった。

しかし、問題を一つずつ切り分け、試しながら前へ進む姿勢は、最初のパソコンを使っていた頃と同じである。

憧れの機械ではなく、使った機械が人生を変えた

HB-F500は、私が最も欲しかったパソコンではなかった。

PC-88やMZ-2500の方が高性能に見えた。

雑誌の中では、さらに魅力的な機械が次々に紹介されていた。

それでも、私が実際に購入したのはHB-F500だった。

市内の電気店で手に入れ、家のテレビにつなぎ、キーボードをたたいた。

雑誌の16進数を必死に入力した。

カセットのワープロソフトを読み込んだ。

第二水準漢字を使えるようにした。

ブラザーのドットインパクトプリンターで文章を印刷した。

やがて物足りなさを感じ、PC-88へ進んだ。

PC-98を使い、DOS/Vへ移り、Macintosh SEに触れた。

そしてWindows、Linux、Macを使う現在へ至った。

HB-F500だけで、すべてができたわけではない。

むしろ、できないことがあったから、次へ進んだ。

性能の限界があったから、別の機械を求めた。

しかし、次の機械を求めるためには、最初の一台が必要だった。

HB-F500がなければ、PC-88への憧れは、雑誌の中の憧れのまま終わっていたかもしれない。

自分でパソコンを購入し、使い、失敗し、不満を持ったからこそ、次に何を求めるのかが具体的になった。

最初の一台とは、完成された答えではない。

次の問いを生み出すための機械なのだと思う。

あのテレビ画面から、現在まで

いま、WindowsやLinux、Macの画面を見ながら作業をしているとき、HB-F500を強く意識することはない。

現在の機械とHB-F500では、性能も機能も比較にならない。

それでも、現在の環境の根をたどっていけば、家のテレビに接続したあの一台へ戻っていく。

画面に文字が現れたこと。

キーボードから入力した命令に、機械が反応したこと。

長い16進数の入力を終え、プログラムが動いたこと。

自分の文章を漢字で表示できたこと。

プリンターが大きな音を立てながら、文字を紙に打ち出したこと。

どれも、現在なら特別ではない。

しかし、当時は一つ一つが、コンピュータの可能性を教えてくれる出来事だった。

PC-88、PC-98、DOS/V、Macintosh SE、Windows、Linux、Mac。

これらは、別々の機械や基本ソフトでありながら、私の中では一本の道としてつながっている。

その道の最初に置かれているのが、ソニーHiTBiT HB-F500である。

最も高性能だったからではない。

最も長く使ったからでもない。

初めて、自分の手で選び、自分のものとして購入し、自分の時間を費やして使ったパソコンだったからである。

憧れの機械は、記憶の中で美しく残る。

しかし、人生を実際に動かすのは、多くの場合、手元に来た機械の方である。

市内の電気店で購入したHB-F500は、私にとって、単なる古いMSX2パソコンではない。

現在まで続くコンピュータとの長い関係を始めた、最初の扉だった。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ