リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

太宰や三島とは違う場所から、高校生だった私の前に現れた世界~

高校生になって本格的に文学を読むようになったころ、私の本棚には、性格のかなり違う作家たちが並んでいた。

太宰治がいた。

三島由紀夫がいた。

芥川龍之介や川端康成もいた。

その一方に、片岡義男もいた。

現在から振り返ると、この組み合わせはいささか不思議にも見える。

太宰治や三島由紀夫を日本文学の流れの中で読みながら、同じ時期に片岡義男の小説も読んでいた。

しかし、高校生だった当時の私にとって、それはそれほど不自然なことではなかった。

書店に行けば、新潮文庫や角川文庫などの文庫本が並んでいた。

そこでは、文学史上の評価が定まった作家と、その時代を生きている作家とが、同じ「本」として目の前にあった。

私は文学史を体系的に勉強してから読書を始めたわけではない。

まず本があり、それを読んだ。

その中の一人が片岡義男だった。

そして片岡義男の小説には、太宰や三島とはまったく違う方向から、当時の私たちの前に届いてくるものがあった。

それを一言で表すなら、「アメリカ」だったのだと思う。

ただし、それはアメリカという国について説明する本ではなかった。

地理でも、政治でも、歴史でもない。

オートバイ。

自動車。

音楽。

道路。

海。

男女の関係。

服装。

会話。

そうした断片を通して伝わってくる、生活の感触としてのアメリカだった。

「外国」ではなく、生活のスタイルとしてのアメリカ

片岡義男は1939年東京生まれの作家で、早稲田大学法学部を卒業した。1974年に『白い波の荒野へ』で本格的に小説家として活動を始め、1975年には『スローなブギにしてくれ』で第2回野性時代新人文学賞を受賞している。サーフィン、オートバイ、ジャズなどを作品に取り込み、若い読者から支持された作家だった。

片岡義男の作品に触れたとき、そこにあったアメリカは、学校で習うアメリカとは違っていた。

学校で外国について学ぶときには、国土、人口、産業、歴史、政治制度などが中心になる。

それは必要な知識である。

しかし、小説が運んでくる外国は違う。

どんな車に乗るのか。

どんな音楽を聴くのか。

どんな服を着るのか。

どんな場所で人と出会うのか。

男と女はどのような距離を取るのか。

道路は単なる移動のための施設なのか、それともそこを走ること自体に意味があるのか。

片岡義男の小説に接することで、「外国」というものを、制度や統計ではなく生活の形式として感じることができた。

高校生だった私にとって、それはかなり新しい感覚だったように思う。

オートバイという道具

片岡義男という作家を語るとき、オートバイは避けて通れない。

公式サイトでも、1970年代半ばから1980年代後半にかけて、片岡がオートバイの登場する小説やエッセイを数多く書き、それらの多くが角川書店から文庫化されたことが紹介されている。作品に影響を受けて実際に二輪免許を取った読者も少なくなかったとされる。

しかし、片岡作品のオートバイは、単なる機械としてだけ読んでも十分ではないだろう。

速いか遅いか。

何馬力あるか。

何ccなのか。

そうした性能だけの問題ではない。

オートバイに乗ることで、街から街へ移動する。

一人で走る。

誰かと出会う。

風景が流れる。

目的地そのものより、そこへ向かう途中の時間が重要になる。

オートバイという機械が、人間の行動範囲と感覚を変える。

そのような描かれ方に、片岡義男らしさがあったのだと思う。

今の私は自動二輪車について、性能、安全性、維持費、積載性といった現実的な面から考えることも多い。

しかし高校生のころに文学の中で出会ったオートバイは、それとは別の存在だった。

それは実用品である前に、どこかへ行くことができる機械だった。

そして「どこかへ行ける」という感覚自体が、若さと強く結びついていた。

道路の向こうにあるもの

片岡義男の作品世界について考えると、「移動」という言葉が浮かんでくる。

道路を走る。

島へ行く。

海へ向かう。

街から別の街へ移る。

そこには、家や学校や会社といった固定された場所とは違う時間が流れている。

若いころには、この「移動すること」そのものに特別な意味がある。

まだ自分の生活圏が狭い。

経済的にも自由ではない。

社会的な立場も定まっていない。

だからこそ、道路の向こう側に別の世界があるという感覚は強い。

これは、当時のアメリカ文化に対する距離感とも重なっていたように思う。

昭和の日本にとって、アメリカは近いようで遠かった。

映画がある。

音楽がある。

自動車がある。

ファッションがある。

雑誌にもアメリカ文化が入ってくる。

しかし、現在のようにインターネットで現地の日常をほぼ同時に見ることはできなかった。

だからアメリカは、情報として知っていても、まだ想像する余地の大きい国だった。

片岡義男の小説は、その想像の中に道路を一本通したようなところがあった。

太宰治とはまったく違う世界

高校生だった私が読んでいた作家を、現在の目で比較すると興味深い。

太宰治の場合、人間の内側へ向かう。

弱さ。

自己嫌悪。

孤独。

他人との距離。

自分をどう見せるか。

そうした内面的な問題が読者を引き込む。

片岡義男の場合には、むしろ外側へ向かう感じがある。

道路がある。

オートバイがある。

音楽がある。

海がある。

街がある。

そこへ出ていく。

もちろん、これは単純な二分法ではない。

太宰にも外の世界はあり、片岡義男にも人物の内面はある。

しかし、高校生だった私に届いた印象としては、かなり違った。

太宰を読むと、自分の内側を見る。

片岡義男を読むと、自分のいる場所の外を見たくなる。

同じ文学でも、読者を動かす方向が違う。

その両方が同じ時期に読めたことは、今考えると面白い。

三島由紀夫とも違う

三島由紀夫については、文章そのものの美しさや緊張感が印象に残る。

美。

身体。

死。

思想。

高校生の私には理解しきれないものが多かった。

それでも、文章には力があることを感じた。

片岡義男の文章から感じたものは、それとはまた違った。

もっと軽い。

ここで言う「軽い」は、価値が低いという意味ではない。

むしろ、重々しく意味を説明しすぎないということである。

人物がいる。

物がある。

会話がある。

移動がある。

場面が進む。

そこから読者が空気を感じ取る。

若いころには、この軽さそのものが新鮮だった。

文学というと、難しいもの、深刻なもの、高尚なものを想像しやすい。

しかし、片岡義男を読むと、日常の道具や若者文化も小説になる。

オートバイが出てきてもいい。

自動車が出てきてもいい。

ポピュラー音楽があってもいい。

男女の日常的な関係を書いてもいい。

文学と生活の間に、それほど高い壁を置かなくてもいいことを示す作家だったのではないかと思う。

「軽さ」を「浅さ」と取り違えない

片岡義男について考える際、注意したいことがある。

それは、作品にオートバイや海や音楽や男女の関係が出てくるからといって、それを単純な「若者向けのおしゃれな小説」とだけ見ることだ。

時代の流行を取り入れた作品は、後から見ると軽く評価されやすい。

しかし、流行していたものを書くことと、浅いことは同じではない。

むしろ、その時代に人々が何を欲し、どのような生活に憧れ、何を格好いいと思っていたかを記録することになる。

昭和の若者文化を考えるとき、文学史の代表作だけ読んでいても見えない部分がある。

その時代の人が実際に書店で買っていた本。

電車の中で読んでいた本。

友人同士で話題にした作家。

映画になった作品。

音楽と一緒に記憶されている物語。

そうしたものもまた文化である。

片岡義男は、まさにその場所にいた作家の一人だった。

『スローなブギにしてくれ』という時代

片岡義男を代表する作品の一つが『スローなブギにしてくれ』である。

片岡は同作で1975年に第2回野性時代新人文学賞を受賞した。後に1981年には映画化もされ、片岡作品が文学だけでなく当時の映画文化とも結びついていった。

ここで重要なのは、作品の細かな内容を紹介することではない。

私自身の読書体験として確定していない場面を、読んだ記憶として作るべきではないからだ。

むしろ考えたいのは、「スローなブギ」という言葉が成立した時代の空気である。

ブギという音楽用語。

英語を含んだ題名。

軽さ。

速度感。

それでいて「スロー」という逆方向の言葉。

タイトル自体に、当時の若い文化の感触がある。

昭和の日本文学の題名として考えると、太宰や三島の作品名とは明らかに違った空気をまとっている。

そこには、日本文学でありながら、すでにアメリカ文化が自然に混ざっていた。

『彼のオートバイ、彼女の島』

もう一つ象徴的なのが『彼のオートバイ、彼女の島』である。

同作は1977年に単行本として刊行され、1980年に角川文庫に収録された初期のオートバイ小説で、1986年には大林宣彦監督によって映画化された。

このタイトルも実に片岡義男らしい。

「彼」。

「彼女」。

「オートバイ」。

「島」。

大きな思想を示す言葉は一つもない。

しかし、この四つを並べるだけで、何かが始まりそうな気配がある。

若い男女。

移動する機械。

日常から離れた場所。

タイトルだけでも、閉じた部屋より外へ向かう感覚がある。

高校生のころというのは、不思議なものである。

実際には自由に使えるお金も少ない。

車もない。

場合によってはオートバイもない。

遠くへ自由に旅行できるわけでもない。

だからこそ、本の中にある移動は大きな意味を持つ。

自分は動けなくても、物語の人物は走っていく。

小説とは、その意味でも移動するための道具だった。

昭和のアメリカは、少し遠かった

いまアメリカ文化に触れることは難しくない。

動画を見る。

音楽を聴く。

地図を見る。

街を歩く映像を見る。

現地のニュースを見る。

一般の人の日常生活まで知ることができる。

翻訳も簡単になった。

しかし、昭和の時代は違った。

外国について知るためには、本や雑誌、新聞、映画、音楽、ラジオなどが大きな役割を持っていた。

私自身、中学生のころにはBCL(Broadcast Listening・海外放送や遠距離放送の受信を楽しむ趣味)で短波放送を聞いていた。

短波ラジオから入ってくる外国の声は、インターネット以前の世界への窓だった。

片岡義男の小説も、別の方法で世界への窓になった。

ラジオが外国から実際に飛んでくる電波を受信するものだったとすれば、小説は外国文化を一度作家の感覚の中に通し、物語として読者へ渡すものだった。

同じ「アメリカ」でも、そこには違う距離感があった。

アメリカそのものではなく、「片岡義男のアメリカ」

ここは重要な点だと思う。

片岡義男の小説を読んで感じるアメリカを、現実のアメリカそのものだと考える必要はない。

作品の中のアメリカ文化は、作家が選び取ったアメリカである。

音楽。

自動車。

オートバイ。

道路。

ハワイ。

服装。

言葉。

生活の形式。

つまり、片岡義男という作家の感覚を通過したアメリカだった。

これは文学として当然のことである。

小説は旅行案内でも社会調査でもない。

作家が世界のどこを見るかによって、同じ国でもまったく違った姿になる。

だから片岡義男を読んで「アメリカを知った」というより、

「アメリカ文化を素材として、日本語の小説がこんな世界を作ることができるのか」

と知った、と考えた方が正確なのかもしれない。

男女の関係にも違う空気があった

片岡義男の小説を語る際、車やオートバイだけに注目すると、もう一つ重要な要素を落としてしまう。

男女の関係である。

もちろん、作品ごとに設定は違う。

一括して語ることはできない。

ただ、私が高校生のころに触れていた従来の文学作品と比べると、片岡作品には男女の距離にも別の空気があったように思う。

過剰に運命的ではない。

大げさな悲恋だけでもない。

男と女が出会い、話し、離れ、また動いていく。

そこに車やオートバイや音楽や場所が入り込む。

人間関係だけを世界の中心にせず、生活のさまざまなものと並列に置く。

その描き方もまた、当時「アメリカ的」と感じられた理由の一つだったのかもしれない。

ただ、いま読み返せば、男女観については昭和という時代の価値観が見える部分もあるだろう。

文学作品は、その時代から完全に自由ではない。

だから昔の作品を現在読む意味は、懐かしさだけではない。

どこまでが普遍的で、どこからが時代特有なのかを見ることにもある。

文庫本の棚にあったアメリカ

片岡義男と角川文庫との関係も、私のような世代の読書体験を考えるうえでは重要である。

公式サイトによれば、1970年代半ばから1980年代後半に書かれたオートバイを扱う多くの作品が、角川書店から文庫として刊行された。

高校生にとって、文庫本という形は大きかった。

単行本より小さい。

持ち歩ける。

比較的手に取りやすい。

そして書店の棚に何冊も並んでいる。

文学作品との出会いは、必ずしも学校の推薦図書から始まるわけではない。

隣に並んでいたから手に取る。

表紙や題名が気になる。

一冊読んだので次の一冊へ行く。

そうした偶然がある。

検索してから本を買う現代とは、少し違う。

先に答えがあるのではなく、棚の前で出会う。

片岡義男の小説が運んできたアメリカも、私にとっては、その文庫本の棚から始まったのだと思う。

「憧れ」という言葉だけでは足りない

昭和のアメリカ文化を語るとき、「アメリカへの憧れ」という言葉でまとめられることが多い。

確かに、その側面はあっただろう。

しかし、それだけでは少し単純すぎる。

憧れには、現実を知らないことによる想像も含まれる。

また、アメリカ文化を取り入れながら、日本人の側で独自に変形していくこともある。

音楽もそうだった。

ファッションもそうだった。

自動車文化もそうだった。

文学も同じである。

片岡義男の小説は、アメリカ文学をそのまま日本語に移したものではない。

日本人の人物が日本語の小説の中で動き、その背景にアメリカ文化の断片がある。

つまり、昭和の日本がアメリカをどのように受け止めたのか、その一つの形を見ることができる。

そこが面白い。

現在から読むと、何が変わるのか

高校生だったころ、私はそこまで分析して片岡義男を読んでいたわけではない。

ただ読んでいた。

そして、そこに他の作家とは違う雰囲気を感じていた。

現在なら、もう少し距離を取って考えることができる。

なぜオートバイだったのか。

なぜ道路だったのか。

なぜアメリカ文化が魅力を持ったのか。

なぜその作品を高校生が読んだのか。

そして、その「格好よさ」は時代が変わっても残るのか。

おそらく、残る部分と残らない部分の両方がある。

車種や服装や音楽は変わる。

社会における男女の関係も変化する。

アメリカへの距離感も変わった。

しかし、

「ここではない場所へ行きたい」

という気持ちは、それほど変わっていないのではないか。

若いときほど、その感覚は強い。

片岡義男の小説には、それを道路やオートバイという具体的な形にする力があった。

「昭和のアメリカ」を読んでいた

いま振り返ると、私は高校生のころ、片岡義男の小説を通してアメリカそのものを読んでいたわけではなかったのだと思う。

読んでいたのは、

昭和の日本人が想像したアメリカ

だった。

そして、さらに言えば、

片岡義男という作家が日本語で作り出したアメリカ

だった。

そこには道路があり、オートバイがあり、海があり、音楽があり、若い男女がいた。

それは現実そのものではない。

しかし、文学が作る世界として確かに存在した。

太宰治が人間の弱さを通して私を内側へ向かわせたとすれば、片岡義男は外の世界へ視線を向けさせた。

三島由紀夫が文章というものの強さを感じさせたとすれば、片岡義男は生活そのものも文学の材料になることを見せた。

文学は一種類ではない。

人間の深い苦悩を書くこともできる。

美や死について書くこともできる。

そして、オートバイで道路を走る若者を書くこともできる。

高校時代の本棚の中では、それらが同時に存在していた。

それが私の実際の読書だった。

本の中から聞こえていたエンジンの音

現在では、昭和のアメリカ文化を知ろうと思えば、資料はいくらでも探すことができる。

当時の映像も見られる。

音楽もすぐに聴ける。

古い自動車やオートバイの情報も検索できる。

片岡義男の著作についても、公式サイト「片岡義男.com」で全著作の電子化が進められている。紙の本が書店から姿を消しても、作品そのものは新しい媒体へ移されている。

媒体は変わった。

しかし、読書の記憶は検索結果とは少し違う場所に残っている。

高校生だった私が文庫本を手に取ったころ、ページの向こうには、自分の日常とは違う世界があった。

道路が伸びている。

その先に海がある。

エンジンがかかる。

音楽が聞こえる。

そして誰かが、ここではない場所へ走っていく。

もちろん、それは現実のアメリカではなかった。

けれども、昭和という時代の日本に暮らしていた若い読者にとって、それは確かに「外の世界」の一つだった。

本は、ときに場所を運んでくる。

そして片岡義男の小説が私たちの前に運んできたものの一つが、あの時代の「アメリカ」だったのだと思う。


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太宰治はなぜ高校生の心に入り込むのか

~高校時代に読んだ太宰治を、六十代になった今から考える~

高校生のころ、私は本格的に文学を読むようになった。

小学生のころは、学校から与えられた課題図書を読む程度だった。中学生になると、朝日新聞の「天声人語」を読むようになり、文章を通して社会や時代について考える機会が増えた。そして高校生になると、書店の文庫本の棚から本を選び、太宰治、三島由紀夫、芥川龍之介、川端康成といった作家を読むようになった。

そのなかに太宰治がいた。

いま振り返ってみると、太宰という作家には、高校生という年代の読者を引き寄せる何かがある。

それは、単に文章が読みやすいからでも、暗い物語だからでもない。

高校生という、自分が何者なのかまだ確定していない時期に抱きやすい感情と、太宰の文章が描いている人間の不安定さが、どこかで重なるからではないだろうか。

太宰治は1909年に青森県に生まれ、本名を津島修治という。戦後には『斜陽』や『人間失格』などを発表し、1948年に39歳を目前にして亡くなった。国立国会図書館は、太宰を戦後に『斜陽』『人間失格』などを書き、「無頼派」などと呼ばれた作家として紹介している。

しかし、太宰を読むという経験を、その波乱に満ちた私生活だけから説明してしまうのは、少し違うように思う。

高校生だった私が向き合っていたのは、作家の伝記ではなく、まず文章だったからである。

高校生は、大人でも子どもでもない

高校生という時期は、不思議な年代である。

子どもとして扱われることに抵抗を覚える一方で、大人として社会の中に自分の位置を持っているわけでもない。

将来について問われる。

進学するのか。

何を学ぶのか。

どんな仕事をするのか。

自分には何ができるのか。

しかし、その問いに答えられるほど、自分自身のことを理解しているわけではない。

友人との関係も変化する。

人からどう見られているのかが気になる。

自分だけが周囲とうまくかみ合っていないように感じることもある。

他人から見れば些細な出来事であっても、本人にとっては大きな問題になる。

おそらく、こうした時期に太宰の文章を読むと、大人になってから読む場合とは違った形で言葉が入ってくる。

太宰の作品には、堂々と世界を説明する人間よりも、世界とうまく折り合えない人間がしばしば現れる。

自分を肯定できない。

他人とうまく付き合えない。

人からどう見られているかを過剰に意識する。

自分の弱さを自覚しながら、その弱さから簡単には抜け出せない。

このような人間像は、完成された大人の姿とはかなり遠い。

だからこそ、まだ自分自身が完成していない高校生には、妙に近く感じられるのかもしれない。

「弱い人間」が文学の主人公になる

高校生になるまでに接する物語では、努力する人、勇気のある人、困難を克服する人が肯定的に描かれることが多い。

もちろん、それ自体に問題があるわけではない。

しかし実際の人間は、それほど単純ではない。

努力できないこともある。

逃げることもある。

嫉妬する。

見栄を張る。

人に好かれたいと思いながら、人との付き合いに疲れる。

自分のことを理解してほしいと思いながら、本当の自分を見られるのは怖い。

太宰の文学には、そうした人間の矛盾がある。

ここに、高校生だった私たちの世代を含め、若い読者が引き寄せられる理由の一つがあるのではないかと思う。

文学のなかでは、立派ではない人間も主人公になれる。

自信のない人間にも言葉が与えられる。

迷っている人間にも物語がある。

これは、十代の読者にとって意外に大きな発見である。

文学は、優れた人間だけを書くものではない。

むしろ人に見せたくない感情まで文章にすることができる。

太宰を読むことによって、そんな文学の一面を知ることになる。

自己嫌悪をここまで文章にしてよいのか

太宰の作品を考えるとき、「自己嫌悪」という言葉は避けて通れない。

ただし、太宰の文学を「自分を嫌っている人の文学」とだけ整理してしまえば、あまりにも単純である。

重要なのは、自己嫌悪そのものよりも、それを文章として外へ出していることである。

普通なら隠したくなる感情を、文学として読者の前に置く。

格好の悪さ。

弱さ。

臆病さ。

虚栄心。

他人への依存。

そして、自分自身に対する疑い。

こうした感情は、多かれ少なかれ誰の中にもある。

高校生であれば、なおさら自分と他人を比較する機会が多い。

勉強のできる人。

運動のできる人。

友人の多い人。

異性に好かれる人。

将来の目標がはっきりしている人。

そうした周囲と比較しながら、自分は何者なのだろうと考える。

そのとき太宰の文章には、

「人間は、それほど立派なものではない」

という感覚が流れているように見える。

それは励ましではない。

人生の解決策でもない。

けれども、自分だけが不完全なのではないという感覚を、文学によって知ることはできる。

「道化」という感覚

太宰文学を考えるうえで、もう一つ重要なのが、人前で演じる自分と、本当の自分との距離である。

代表作『人間失格』は1948年に雑誌『展望』で連載され、同年に筑摩書房から刊行された。作品では主人公・大庭葉蔵の手記という形式が用いられている。

この作品について詳しい内容をここで追うつもりはないが、太宰文学に表れる「人前で自分を演じる」という感覚は、高校生にも理解しやすいものだと思う。

学校では、誰もがある程度の役割を持っている。

明るい生徒。

真面目な生徒。

面白い生徒。

優秀な生徒。

おとなしい生徒。

教師から見た自分と、友人から見た自分も違う。

家庭にいる自分とも違う。

そして本人自身が考えている「自分」とも違う。

人間は、社会のなかで多少なりとも役割を演じて生きている。

大人になれば、それを社会性として受け入れることもできる。

しかし高校生くらいの年代では、

「周囲に見せている自分は、本当の自分なのだろうか」

という疑問が生まれやすい。

太宰の文学が若い読者に響く理由の一つは、この「外側の自分」と「内側の自分」のずれを、非常に鋭く文章にしているところにあるのではないか。

太宰の文章には、読者との距離が近いところがある

文学作品には、読者が少し離れた場所から眺めるように読む作品もある。

風景や人物を客観的に描き、世界そのものを構築していく小説である。

それに対して太宰の文章には、ときに読者のすぐ近くから語りかけてくるような感覚がある。

大きな思想を正面から掲げるというより、

「実は私はこうなのだ」

「こんなことを考えてしまう」

という、人間の内側から始まる。

そのため読者は、作品を外から観察するだけでは済まなくなる。

自分にも似たところがあるのではないか、と考えてしまう。

私は高校生のころ、太宰だけを特別な作家として読んでいたわけではなかった。

三島由紀夫も読んだ。

芥川龍之介も読んだ。

川端康成も読んだ。

また、片岡義男や三田誠広のような、当時の空気を感じさせる作家も同じ本棚の中にあった。

古典的な文学と同時代の文学を、いまのように明確に分類して読んでいたわけではない。

書店の棚に文庫本が並んでいて、そこから一冊を取る。

その一冊が次の一冊へつながっていった。

そのなかで太宰には、他の作家とは少し異なる、人間の弱い部分への近さがあったように思う。

三島由紀夫とは違う入り口

高校時代に読んだ作家のなかで、三島由紀夫と太宰治を並べて考えると、その違いは興味深い。

三島の文章には、文章そのものの完成度や美しさを意識させられるところがある。

美、身体、思想、死。

高校生だった私には理解しきれない部分も多かった。

それでも文章の力は感じた。

一方、太宰の場合は、まず人間の側から入ってくる。

弱さ。

恥。

孤独。

自己嫌悪。

他人との距離。

三島を読んで、

「こんな文章があるのか」

と思うとすれば、太宰を読んだときには、

「人間はこんなことまで書いてよいのか」

と感じる。

少なくとも現在の私には、その違いが見える。

高校時代には、そこまで整理して読んでいたわけではなかった。

ただ本を読み、何かを感じ、次の本へ進んでいた。

文学とは本来、そのようにして身体の中に入ってくるものなのかもしれない。

高校生だった私は、太宰をどこまで理解していたのか

六十代になった現在から高校時代の読書を振り返ると、一つ注意しなければならないことがある。

それは、当時読んだ本を、現在の知識によって「理解していたこと」にしてしまわないことである。

高校生だった私は、太宰が生きた昭和前期の社会を十分に理解していたわけではない。

戦前と戦後の価値観の変化。

地主階級をめぐる社会背景。

当時の文学状況。

太宰自身の複雑な人生。

そうした背景を体系的に勉強してから読んだわけではなかった。

読めたところまで読んだ。

感じられたところまで感じた。

おそらく、それが実際の読書だった。

しかし、だから価値がなかったわけではない。

むしろ文学との最初の出会いは、それでよいのではないかと思う。

すべてを理解してから文学を読むことなど、そもそもできない。

分からないところを残しながら読む。

何十年か経ってから、以前とは別の意味が見えてくる。

それも読書なのである。

太宰の人生と作品を同一視しない

太宰治について語ると、どうしてもその生涯が話題になる。

複雑な人間関係。

心中未遂。

酒や薬物をめぐる問題。

そして1948年の死。

確かに、太宰の人生と作品は無関係ではない。

国立国会図書館や山梨県立文学館の略歴を見ても、その人生が作品形成と深く関係していたことは分かる。

しかし、作者の人生を知れば作品がすべて説明できるわけではない。

さらに危険なのは、

「太宰は苦悩した人生を送ったから、作品も優れている」

というように短絡させることである。

苦しんだから文学者になれるわけではない。

破滅的に生きることに文学的価値があるわけでもない。

太宰の作品が残った理由は、その人生の激しさだけではなく、それを言葉に変える文学的な技術があったからだろう。

高校生が太宰を読むときにも、この二つは分けて考えた方がよい。

太宰の生き方をまねる必要はない。

しかし、太宰が書いた人間の弱さについて考えることはできる。

作品を読むとは、作者の人生を肯定することではないのである。

なぜ今も若い読者に読まれるのか

太宰治の『人間失格』や『走れメロス』などは、現在も電子化され、青空文庫などを通じても読むことができる。青空文庫の過去のアクセスランキングでも、『人間失格』『走れメロス』『斜陽』など複数の太宰作品が上位に入っており、デジタル環境になっても継続して読まれていることがうかがえる。

太宰が生きていた昭和と、現在の高校生が生きる令和では、社会環境は大きく違う。

私が高校生だったころには、もちろんスマートフォンもインターネットもなかった。

本を探す場所は、まず書店や図書館だった。

現在は作品名を検索すれば、解説も感想も作者の経歴もすぐに出てくる。

しかし、人間そのものがそれほど簡単に変わったとは思えない。

人からどう見られているのか。

自分は何者なのか。

人間関係の中で、どこまで自分を出してよいのか。

他人に合わせている自分と、本当の自分とのどちらが自分なのか。

こうした問いは、昭和の高校生にも、令和の高校生にも存在する。

むしろ現在は、SNS(Social Networking Service・インターネット上で人と交流し情報を発信するサービス)によって、他人から見える自分を常に意識しやすくなった。

プロフィール。

写真。

短い文章。

「いいね」の数。

他人の生活。

他人の評価。

そうしたものに囲まれた現代では、「他人に見せている自分」と「自分自身が感じている自分」との距離は、むしろ意識されやすくなっているのかもしれない。

そう考えると、太宰文学が古くならない理由も少し分かる。

時代は変わっても、人間が他人の目を意識することは変わらない。

太宰を読むことは、自分の弱さを肯定することではない

太宰を若いころに読むことには、一つ注意すべき点もあると思う。

弱さを描いた文学を読むことと、弱さそのものを美化することは違う。

孤独を描いた作品を読むことと、孤独であることを価値ある生き方として選ぶことも違う。

自己嫌悪を文章として読むことと、自分を否定し続けることも違う。

文学は人生の処方箋ではない。

太宰を読めば悩みが解決するわけでもない。

むしろ文学は、

「人間には、こういう感情もある」

と示してくれるものではないだろうか。

そして、それに名前を与えてくれる。

漠然と感じていた不安。

自分でも説明できなかった違和感。

人には言えなかった恥ずかしさ。

文学の中でそれに似た感情を見つけると、

「これは言葉にできるものなのだ」

と分かる。

文学が人生の答えを与えるのではなく、問いに言葉を与える。

私が現在、文学について考えるときに重要だと思うのは、その点である。

六十代になった今、太宰を考える

高校生だったころと現在とでは、私自身が生きてきた時間がまったく違う。

仕事をし、社会の仕組みを知り、科学や医学、経済、政治、技術など多くの分野の本も読むようになった。

文学だけを読んできたわけではない。

むしろ成人後の読書は、分野を限定せず広がっていった。

それでも高校時代に文学を読んだ経験は残っている。

その意味を現在から考えると、文学は「正しい人間像」を教えるものではなかったのだと思う。

太宰治の文学もそうである。

人間は弱い。

しかし、強い部分もある。

善良なこともあれば、ずるいこともある。

人を求めながら、人から離れたいと思う。

自分を理解してほしいと思いながら、自分を知られることを恐れる。

人間は矛盾している。

十代のころは、その矛盾を自分自身の問題として感じる。

年齢を重ねると、それが自分だけではなく、人間そのものの問題だったのだと少しずつ分かってくる。

太宰治の文学が高校生の心に入り込む理由は、そこにあるのかもしれない。

高校生に人生の答えを教えるからではない。

むしろ逆である。

自分でもまだ説明できない問いがあることを、そのまま文章にして見せる。

だから若い読者は、その中に自分の一部を見つける。

そして何十年も経ってから読み返せば、今度は高校生だった自分の姿まで、その文章の向こう側に見えてくる。

本を読むということは、作品を読むだけではない。

かつてその本を読んだ、自分自身を読み返すことでもあるのだと思う。


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「最近の人は長い文章を読まない」

「若者は本を読まなくなった」

「SNSの短文ばかり読んでいるから読解力が落ちた」

こうした言葉を耳にすることがある。

確かに、書籍を読む習慣について見ると、変化は大きい。

文化庁が2024年に公表した令和5年度「国語に関する世論調査」では、1か月に本を何冊読むかという質問に対し、

「読まない」62.6%

という結果になった。

1冊以上読む人は合計36.9%だった。

さらに、

「以前と比べて読書量は減っている」

と答えた人は69.1%に達している。

この数字だけを見れば、

「日本人は本を読まなくなった」

という説明は間違っていないように見える。

しかし、同じ調査には興味深い結果がある。

本を1冊も読まないと答えた人のうち、

SNS、

インターネット上の記事、

その他の文字情報、

を「ほぼ毎日読む」と答えた人は75.3%だった。

つまり、

本を読まない人の多くも、文字そのものを読んでいないわけではない。

むしろ私たちは毎日、

ニュース。

SNS。

メール。

メッセージ。

検索結果。

商品説明。

口コミ。

仕事上の資料。

など大量の文字を読んでいる。

ここから問題を少し変えてみる必要がある。

「日本人はなぜ文章を読まなくなったのか」

ではない。

「なぜ一つの文章を長時間読み続けることが少なくなったのか」

と問うのである。

この違いは大きい。

本稿では、

総合誌。

新聞。

テレビ。

インターネット。

検索エンジン。

スマートフォン。

SNS。

というメディア環境の変化から、

日本人の「読む能力」ではなく、

読むために使う時間の構造

がどう変化したのかを考えてみたい。


1 かつて「読むこと」にはまとまった時間が必要だった

昭和の情報環境を考えてみよう。

政治について知りたい。

国際問題について知りたい。

文学について考えたい。

社会問題について詳しく知りたい。

そう思った場合、

新聞を読む。

本を読む。

新書を読む。

総合誌を読む。

という方法が大きな位置を占めていた。

もちろんラジオやテレビもあった。

しかし詳しい議論になると、

文章

が重要だった。

総合誌には、

数千字。

時には数万字。

という論考が掲載される。

一冊の新書なら200ページ前後ある。

小説ならさらに長い。

つまり情報を得ることと、

ある程度まとまった時間を一つの文章へ投入すること

が結び付いていた。


2 総合誌は読者に「長く読むこと」を要求した

『世界』

『中央公論』

『文藝春秋』

などの総合誌には、

政治。

経済。

外交。

歴史。

思想。

文学。

科学。

社会問題。

などが同じ一冊に掲載されてきた。

現在でも総合誌は存在するが、かつては知識人や専門家の長い論考に触れる重要な入口だった。

総合誌の文章には、

前提。

歴史的背景。

論点。

反論。

結論。

がある。

そのため、

途中だけ読んでも理解しにくい。

つまり総合誌という媒体そのものが、

読者に一定時間の集中を要求する構造

を持っていた。


3 「長文を読む能力」が高かったというより、他の選択肢が少なかった

ここで昭和を美化してはいけない。

昔の人が現代人より忍耐強かった、

とは限らない。

当時にも、

長い本を読まない人。

雑誌を読まない人。

娯楽だけを楽しむ人。

は当然いた。

重要なのは、

情報を得たい場合の選択肢が現在より少なかったことである。

ある事件について詳しく知りたい。

すると、

新聞を読む。

雑誌を読む。

本を読む。

という方法が中心になる。

だから長文読解は、

特別な精神力というより、

情報を得るために必要だった行動

でもあった。


4 新聞には「途中を飛ばせない情報」があった

紙の新聞にも特徴がある。

新聞を開く。

すると、

自分が関心を持つ記事だけではなく、

政治。

経済。

国際。

社会。

文化。

書評。

が同じ紙面に並ぶ。

目的の記事へ行く途中で、

別の記事の見出しが目に入る。

これは現在の検索とはかなり違う。

検索では、

知りたいものへ直接行く。

新聞では、

知りたいもの以外も視界に入る。

この構造は、

一つ一つの記事を長く読むことだけでなく、

社会の複数の問題を同じ時間の中で読む習慣にもつながっていた。


5 テレビは「読む時間」の最初の大きな競争相手だった

戦後、テレビが普及すると、

情報を得るために文章を読む必要は少しずつ低下する。

ニュースを見る。

討論番組を見る。

ドキュメンタリーを見る。

歴史番組を見る。

文章を読まなくても、

政治や社会について一定の情報を得られる。

これは教養の衰退とは限らない。

むしろ映像によって、

本を読まない人にも知識へ接触する機会が広がった。

しかし、

読書時間とテレビ視聴時間は同じ一日の中で競争する。

一日は24時間しかない。

新しいメディアが増えれば、

既存のメディアへ使える時間は減る。

この単純な原理は、後のインターネット時代にさらに強くなる。


6 読書量が減った最大理由は「読めなくなったから」ではない

文化庁の調査は、この点について興味深い。

読書量が以前より減った人へ理由を尋ねたところ、

最も多かったのは、

「情報機器で時間が取られる」43.6%

だった。

次が、

「仕事や勉強が忙しくて読む時間がない」38.9%。

さらに、

「視力など健康上の理由」31.2%、

「テレビの方が魅力的」19.8%

と続く。

つまり少なくともこの調査からは、

「長文を理解できないから読まない」

が中心原因だとは言えない。

むしろ、

時間の奪い合い

が中心にある。


7 若い世代ほど「情報機器に時間を取られる」

この傾向は年齢別に見るとさらに明確になる。

文化庁調査では、

読書量が減った理由として「情報機器で時間が取られる」を挙げた割合は、

16~19歳で70.9%、

20~30代でも6割台だった。

ここで重要なのは、

若者は文章が嫌いだ、

と考えることではない。

若い世代ほど、

スマートフォン。

動画。

ゲーム。

SNS。

メッセージ。

検索。

など、

読書以外の情報活動の選択肢が圧倒的に多い

ということである。


8 スマートフォンは「一つの媒体」ではない

テレビはテレビを見るための機械だった。

新聞は新聞を読むものだった。

本は本を読むものだった。

しかしスマートフォンは違う。

一台の中に、

新聞。

雑誌。

本。

テレビ。

ラジオ。

音楽。

ゲーム。

SNS。

電話。

カメラ。

地図。

買い物。

銀行。

仕事。

が入っている。

つまりスマートフォンは、

新しい一つのメディアではない。

過去のほぼすべてのメディアを一台に集めた競争空間

である。

そこで長文は、

動画。

メッセージ。

ゲーム。

ニュース速報。

通知。

音楽。

と同じ画面上で時間を奪い合う。


9 本を読む時、ライバルは本だけだった

書店で本を買う。

自宅で開く。

すると、その瞬間の選択肢は比較的少ない。

読む。

読むのをやめる。

テレビを見る。

くらいだった時代もある。

スマートフォンで長文を読む場合は違う。

文章を読んでいる途中に、

通知が来る。

メッセージが来る。

別の記事へのリンクがある。

動画のおすすめが出る。

検索できる。

つまり、

一つの文章に留まり続けること自体に競争が発生する。

文章の質とは別の問題である。


10 「長文を読む時間」は細切れ時間へ変わった

現代人は文字を読んでいないわけではない。

むしろ非常に多く読んでいる可能性がある。

朝、

ニュース通知を見る。

電車でSNSを見る。

仕事でメールを読む。

昼休みに検索する。

帰宅途中にニュースを見る。

夜にメッセージを読む。

しかし一つ一つは短い。

つまり、

文字を読む総時間と、長文を連続して読む時間は別

なのである。

ここを区別しなければならない。

一日に一時間文字を読んでいても、

それが、

2分+3分+30秒+5分……

と分割されていれば、

一冊の本を一時間読むのとは違う認知活動になる。


11 検索は「全文を読む必要」を減らした

インターネット以前、

ある問題を知るには本の一章を読む必要があった。

現在は検索できる。

「○○とは」

と入力する。

必要な答えがすぐ出る。

これは巨大な進歩である。

しかし同時に、

答えへ到達するまでの文章を読まなくてもよくなった。

本では、

問題設定。

歴史。

議論。

例。

を読んでから結論へ進む。

検索では、

結論だけ取り出せる。

この違いが読む習慣を変える。


12 検索は「問い」に強く、本は「問いの背景」に強い

検索には大きな利点がある。

質問が明確なら非常に効率がよい。

「日本国憲法施行日はいつか」

と知りたいなら、

一冊の本を読む必要はない。

しかし、

「なぜ戦後日本でこの憲法が成立したのか」

を理解するには、

歴史的背景が必要になる。

つまり、

検索は、

すでに持っている問いへの答え

に強い。

長文は、

自分がまだ知らなかった問いを作ること

に強い。

この違いは、長文を読む意味を考える上で重要である。


13 SNSは文章を短くしたというより「単位」を小さくした

SNSでは、

一つの投稿。

一つのコメント。

一つの画像。

一つの動画。

が情報単位になる。

長い論考も投稿できる場合はある。

しかし基本的な利用体験は、

次へ、

次へ、

次へ、

と進む構造になりやすい。

つまりSNSが変えたのは、

文章の文字数だけではない。

情報を一つずつ完結した小さな単位として受け取る習慣

である。


14 総合誌は「一人の論者に付き合う」メディアだった

総合誌の長文論考を読む場合、

読者は一人の筆者へ付き合う。

この人は、

なぜこう考えるのか。

どんな前提を置いているのか。

どこで論理が変わるのか。

を追う。

時には、

「この部分は納得できない」

と思いながら先を読む。

つまり長文には、

相手の思考を一定時間、自分の頭の中に置いておく

という作業がある。

SNSでは、

合わなければ次へ行くことが容易である。

ここに大きな違いがある。


15 長文とは「情報量の多い文章」ではない

ここで長文の価値を誤解しないようにしたい。

長ければ良いわけではない。

冗長な文章もある。

同じことを繰り返す文章もある。

短い文章で十分な問題もある。

長文が必要になるのは、

問題そのものが複雑な場合

である。

複数の原因がある。

歴史がある。

例外がある。

反対意見がある。

こうした問題は、

短い結論へすると何かを削らなければならない。


16 短文は悪いメディアではない

SNSの短文を否定する必要もない。

速報。

連絡。

要点。

簡潔な意見。

には短文が適している。

短い文章で正確に説明する能力も重要である。

問題は、

すべての問題を短文だけで理解できると思うこと

である。

人口減少。

戦争。

社会保障。

経済政策。

文学。

歴史。

こうした問題には、

一つの原因だけでは説明できないものが多い。

短文は入口にはなれる。

しかし入口だけで建物全体を理解したことにはならない。


17 「結論を先に」が当たり前になった

現代の文章では、

「最初に結論を書いてください」

と言われることが多い。

ビジネスでは合理的である。

時間を節約できる。

しかし文学や思想、社会分析では、

結論までの過程そのものに意味がある。

なぜその結論になるのか。

反対の可能性はないのか。

途中で何が検討されたのか。

これを読むことで、

結論ではなく考え方を学ぶ。

長文読解の価値の一つはここにある。


18 動画は長くても見ることができるのに、文章は長いと嫌われるのか

興味深い現象がある。

30分の動画を見る人が、

10分で読める文章を「長い」と感じることがある。

これは必ずしも矛盾ではない。

動画は基本的に、

流れてくる。

文章は、

自分で進めなければならない。

理解できなければ戻る。

集中する。

つまり文章の方が、

読者側へ能動的な処理を要求する。

時間の長さだけでは、負担を比較できない。


19 長文読解には「何もしない時間」が必要になる

本を読む場合、

数十分間、

画面を切り替えない。

通知を見ない。

別の記事へ行かない。

一人の文章を追う。

この状態は、

現在では意外に特殊である。

つまり長文読解は、

読む技術だけではなく、

他の情報を一時的に遮断する技術

を必要とするようになった。

昭和には、この遮断が環境によってある程度自動的に成立した。

令和では、自分で作らなければならない。


20 「読む能力」が落ちたのか、「集中の環境」が変わったのか

ここで重要な区別がある。

人間の読解能力そのもの。

長文へ集中する環境。

この二つは別である。

スマートフォンを置いて、

静かな場所で、

関心のある本を読む。

すると普通に長時間読める人も多い。

つまり、

長文を読まなくなったことから、直ちに長文を読めなくなったとは言えない。

行動と能力を混同してはいけない。


21 読書時間は「余った時間」では作りにくい

現代では、

時間があったら本を読もう、

と思う人も多い。

しかし時間が余ると、

スマートフォンを開ける。

数分の空き時間でも使えるからである。

本の場合、

ある程度まとまった時間が欲しい。

すると、

スマートフォンは、

5分。

10分。

15分。

という細かな空き時間を吸収する。

結果として、

まとまった読書時間へ成長するはずだった小さな時間が先に使われる。

これは読書にとって非常に大きな変化である。


22 「暇」が消えたことは大きい

昔の電車の中では、

外を見る。

新聞を読む。

本を読む。

眠る。

という選択肢だった。

現在は、

何もすることがない、

という時間がほとんどなくなった。

スマートフォンを開けば必ず何かある。

つまり現代社会では、

退屈そのものが減った。

しかし読書は、しばしば退屈から始まる。

何となく本を開く。

そのまま読み続ける。

この入口が失われやすくなった。


23 書店で「偶然本に出会う」機会も変わった

文化庁調査では、本を読む人の選書方法として、

「書店で実際に手に取って選ぶ」が57.9%で最も多い一方、

「インターネットの情報を利用して選ぶ」が33.4%だった。

また、過去の参考値では、書店で選ぶ割合は減少傾向、インターネット利用は増加傾向にあった。

インターネットで本を選ぶと、

検索した本。

似た本。

売れている本。

が表示される。

非常に便利である。

しかし書店では、

目的外の本が目に入る。

この違いも、

読む内容の広がりに影響する可能性がある。


24 電子書籍が長文を破壊したわけではない

紙か電子かという問題も単純ではない。

文化庁調査では、

電子書籍を「よく利用する」「たまに利用する」を合わせると40.3%だった。

電子書籍でも小説や専門書は読める。

つまり、

電子化=短文化

ではない。

問題は、

同じ端末の中に別の誘惑が存在するかどうか

である。

専用の電子書籍端末と、

通知が次々届くスマートフォンでは、

同じ電子文章でも読書環境が異なる。


25 長文を読む人が「少数派」になると何が起こるのか

社会全体で長文を読む人が減った場合、

個人の趣味だけでは済まない可能性がある。

政治家の説明。

企業の説明。

政策議論。

研究結果。

社会問題。

これらについて、

「長いから読まない」

となれば、

短いキャッチコピーの力が強くなる。

賛成。

反対。

成功。

失敗。

善。

悪。

という単純な分類が有利になる。

つまり長文を読む文化は、

複雑な問題を複雑なまま議論できる社会の基盤

でもある。


26 総合誌が衰退すると「長い議論の共通場所」も弱くなる

かつて総合誌は、

意見が異なる論者の長文を、

同じ読者が読む場所だった。

全員が同じ結論へ行く必要はない。

しかし、

同じ問題について数千字の議論を読む。

それによって、

「なぜ相手はそう考えるのか」

がある程度分かる。

現在は、

自分に近い意見だけを選ぶことが容易である。

すると問題は、

文章の長さだけではなく、

異なる論理へ付き合う時間が減ること

になる。


27 SNSの問題は「短いこと」より「次があること」

SNSには短文だけでなく長文もある。

それでも長く読み続けにくい場合がある。

理由の一つは、

必ず次の情報が待っているからである。

この文章を最後まで読むより、

次にもっと面白いものがあるかもしれない。

この状態では、

一つの文章へ留まることに機会費用が生まれる。

つまり、

「長文が長すぎる」のではなく、「次へ行く誘惑が強すぎる」

のである。


28 現代人は情報を「読む」より「選別」している

毎日、大量の情報が届く。

すべて読むことは不可能である。

そこで現代人は、

見出しを見る。

冒頭を見る。

必要か判断する。

不要なら閉じる。

という行動を繰り返す。

これは合理的である。

つまり現代の読者には、

読解能力だけでなく、

高速な情報選別能力

が求められている。

これは昭和型読者とは別の能力である。


29 だから現代人を「読書能力が低い」と決めつけるべきではない

昭和と令和では、

必要とされる情報処理が違う。

昭和~

少ない情報を比較的長く読む。

令和~

大量の情報から必要なものを素早く選ぶ。

という違いがある。

どちらかが上位とは限らない。

問題は、

後者だけになった場合、

複雑な問題へ長時間集中する能力を使う機会が減る

ことである。

使わない能力は、使いにくくなる可能性がある。

だから両方必要になる。


30 長文を読む意味は「情報収集」から変わりつつある

インターネット以前、

本には情報を得るという大きな役割があった。

現在、単純な情報なら検索の方が速い。

すると長文の役割は変わる。

長文を読む目的は、

事実を一つ知ること

だけではない。

一人の思考を追う。

因果関係を見る。

矛盾を見る。

歴史を知る。

複数の論点を同時に持つ。

つまり、

情報を得るためではなく、思考の構造を学ぶために読む

という価値が相対的に大きくなる。


31 AI時代にはさらに「読む必要がない」と感じやすくなる

AI(Artificial Intelligence・人工知能)が普及すると、

長い文章を要約できる。

論文を要約する。

本の内容を説明する。

議事録をまとめる。

これによって時間は大幅に節約できる。

しかし、

要約を読むこと

と、

原文を読むこと

は同じではない。

要約では、

何が削られたかが見えない。

論理の微妙な変化。

筆者の迷い。

反論。

具体例。

文体。

は消えやすい。

AI時代には、

何を要約で済ませ、何を原文まで読むか

を判断する能力が重要になる。


32 すべての長文を読む必要はない

ここで昔の読書習慣へ戻ろうとする必要はない。

すべての記事を最後まで読む必要はない。

すべての本を読破する必要もない。

現代の情報量では不可能である。

重要なのは、

何に長い時間を使う価値があるかを選ぶこと

である。

速報は短文。

事実確認は検索。

概要は要約。

しかし、

自分にとって重要な問題。

専門分野。

価値観に関わる問題。

については長文まで読む。

媒体ごとに役割を分ければよい。


33 長文を読む習慣を取り戻すには精神論より環境設計が必要

「もっと集中しよう」

「スマホに負けるな」

だけでは続きにくい。

問題が環境にあるなら、

環境を変える方が合理的である。

例えば、

通知を切る。

スマートフォンを別の場所へ置く。

電子書籍専用端末を使う。

一日20分だけ読む。

通勤時間の一部を本へ固定する。

読む時間を予定表へ入れる。

つまり、

読書を余暇ではなく予定として確保する。

これが現代的な方法になる。


34 「一冊読む」より「30分同じ文章に留まる」

読書目標として、

月10冊読む。

年間100冊読む。

という方法もある。

しかし冊数を競うと、

短い本を急いで読む

方向にもなり得る。

長文読解を維持するという目的なら、

冊数より、

一つの文章へ連続して滞在した時間

を見る方がよい。

30分間、

別の情報へ移らず読む。

これは現代ではかなり高度な情報行動になっている。


35 長文を読むことは「遅く考えること」でもある

短文は判断を速くする。

賛成か。

反対か。

面白いか。

面白くないか。

長文では、判断を保留する時間が長くなる。

最初は反対だった。

しかし途中で納得する。

最後まで読んでも反対だが、理由は理解できる。

こうした変化が起こる。

つまり長文には、

結論を急がずに考える訓練

という側面がある。


36 民主社会では「最後まで読む人」が一定数必要になる

政治や社会問題では、

短い言葉ほど広がりやすい。

しかし制度は複雑である。

税。

年金。

医療。

外交。

安全保障。

教育。

人口問題。

どれも数十文字では説明できない。

社会全体が長文を嫌うようになれば、

政策を詳しく説明する側にも、

「どうせ読まれない」

という誘因が生まれる。

だから長文読解は、

個人的教養だけではなく、

民主社会の情報基盤

でもある。


37 それでも昔へ戻る必要はない

総合誌の時代へ戻ることはできない。

戻る必要もない。

現在には大きな利点がある。

専門家の文章を直接読める。

公的資料を検索できる。

海外の情報へ届く。

電子書籍を持ち歩ける。

多様な人が発信できる。

問題は、

昔と今のどちらが優れているか

ではない。

速く読む環境の中に、遅く読む時間をどう残すか

なのである。


38 日本人は「読まなくなった」のではなく「読み方を変えた」

文化庁の数字をもう一度見る。

本を1か月に一冊も読まない人は62.6%。

しかしその人の75.3%は、本以外の文字・活字情報をほぼ毎日読んでいる。

これは非常に象徴的である。

日本人が文字文化から離れた、

というより、

文章との接触単位が、本から記事や投稿へ移った

と考えることができる。

そして、

長時間・連続・一方向だった読書が、

短時間・断続・多方向の読書へ変わった。

これが現在の大きな変化なのではないだろうか。


結論~失われたのは「読む能力」より「一つの文章に使う時間」なのかもしれない

なぜ日本人は長文を読まなくなったのか。

一つの原因だけで説明することはできない。

忙しくなった。

テレビが登場した。

インターネットが登場した。

検索が便利になった。

スマートフォンが普及した。

SNSが登場した。

動画が増えた。

こうした変化が積み重なっている。

しかし、それらを一つの観点から整理することはできる。

それは、

一日の中で「読む時間」を奪い合う相手が劇的に増えた

ということである。

昭和の読者が一冊の総合誌を開いた時、

最大の競争相手は、

別の本、

新聞、

テレビ、

くらいだった。

現代の読者がスマートフォンで長文を開くと、

その同じ画面の中に、

SNS。

動画。

ゲーム。

メッセージ。

ニュース。

買い物。

音楽。

仕事。

が存在する。

だから長文は、

昔より魅力がなくなった、

というより、

昔とは比較にならない数の情報と競争するようになった。

文化庁調査で、読書量が減った理由の第一位が「情報機器で時間が取られる」だったことは、この構造と整合する。

そして重要なのは、

本を読まない人の多くも、

毎日文字を読んでいる

という事実である。

だから、

「現代人は文字を読めなくなった」

という結論は単純すぎる。

むしろ、

読む行為そのものが変わった。

一冊を読む。

一つの論考を読む。

一人の思想へ付き合う。

という読書から、

大量の情報を高速で選別する読書へ変わった。

これは能力の低下だけではない。

新しい情報社会に適応した結果でもある。

しかし適応には代償がある。

短い文章だけでは、

複雑な問題を複雑なまま理解しにくい。

歴史的背景。

例外。

反対意見。

因果関係。

こうしたものを保持するには、

ある程度長い文章が必要になる。

だから現代社会で必要なのは、

昭和のように長文だけを読む生活へ戻ることではない。

速報は短く読む。

検索で答えを得る。

要約を利用する。

動画で理解する。

その便利さを使いながら、

重要な問題だけは、意識的に長い文章まで読む。

これが現代的な読み方になる。

長文読解とは、

懐古的な文化ではない。

情報が多すぎる現代だからこそ、

一つの問題へ長く留まり、

簡単に次へ移らず、

結論を急がず、

相手の論理を最後まで追う能力には価値がある。

つまり、

失われつつあるのは、

「日本人の読む能力」

ではないのかもしれない。

失われつつあるのは、

一つの文章へ時間を渡す習慣

なのである。

もしそうなら、

長文文化を守るために必要なのは、

「最近の人は本を読まない」と嘆くことではない。

一日の中に、

通知も検索も次の記事もない、

30分間を作ること。

現代における長文読解とは、

本を読む技術以上に、

自分の時間を一つの思考へ預ける技術

になっているのではないだろうか。

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私たちは旅先で、本当にその場所を見ているのか

旅行へ行く。

有名な寺を見る。

景勝地を見る。

写真を撮る。

名物を食べる。

SNS(Social Networking Service・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)へ投稿する。

現代の旅では、ごく自然な行動である。

交通機関が発達した現在では、一日で何百キロメートルも移動できる。

地図を開けば目的地へ迷わず行ける。

インターネットで検索すれば、

歴史、

営業時間、

名物、

おすすめの撮影場所、

口コミ、

まで事前に知ることができる。

私たちは、おそらく松尾芭蕉の時代よりはるかに多くの情報を持って旅をしている。

それでも一つ疑問が残る。

情報をたくさん知っていることと、その場所を経験したことは同じなのだろうか。

名所を見た。

写真を撮った。

説明板を読んだ。

それだけで、その土地を知ったと言えるのか。

この問題を考える時、松尾芭蕉の『おくのほそ道』は興味深い。

芭蕉の旅は、現在の意味での観光旅行ではない。

もちろん名所を見る。

美しい風景にも感動する。

しかし、それだけではない。

ある場所へ立つと、

そこにかつて生きた人を思い出す。

古い和歌を思い出す。

歴史上の戦いを思い出す。

すでに消えた建物を想像する。

そして、

現在目の前にある風景と、そこにはもう存在しない過去を重ねる。

『奥の細道』の旅とは、場所を移動するだけではない。

場所の中に蓄積された時間へ入っていく旅でもある。

だから現代から読み直すなら、

「芭蕉はどこへ行ったのか」

以上に、

芭蕉は、旅先で何を見ようとしたのか

という問いが重要になる。

1 『奥の細道』は単なる旅行日記ではない

『おくのほそ道』は、松尾芭蕉が1689年に行った旅を基礎にした紀行文学である。

江戸を出発し、

日光、

白河の関、

松島、

平泉、

山寺、

最上川、

出羽三山、

象潟、

北陸、

そして大垣へと至る。

全行程は約2,400キロメートルに及ぶとされる。

旅には門人の河合曾良が同行した。

しかし『奥の細道』は、

何月何日に何キロ歩いた。

どこに泊まった。

何を食べた。

という事実をそのまま記録しただけの旅行日記ではない。

実際の旅については曾良の旅日記も残っており、『奥の細道』とは表現や構成が異なる部分がある。

つまり芭蕉は、実際の旅を材料にしながら、

一つの文学作品として旅を再構成した。

ここが重要である。

旅をしたことと、

旅を書くことは違う。

『奥の細道』は、

旅の記録

であると同時に、

旅の意味を作り直した作品

なのである。

2 旅は出発する前から始まっている

『奥の細道』は、有名な書き出しから始まる。

「月日は百代の過客にして」

という言葉である。

月日そのものを旅人として捉える。

過ぎ去る年月も旅をしている。

船頭も旅をする。

馬を引く人も旅の中で年老いていく。

そして芭蕉自身もまた、

旅に生きる人間として自分を置く。

ここでは旅は、

休日に日常生活から離れて行う特別な活動

ではない。

むしろ、

生きていることそのものが移動である

という感覚に近い。

人は同じ家に住んでいても変化する。

年齢が変わる。

人間関係が変わる。

社会が変わる。

昨日と今日で完全に同じ場所にいる人はいない。

芭蕉は旅を、人生の比喩として作品の最初に置いたのである。

3 なぜ芭蕉は旅に出たのか

現代の旅行には明確な目的が設定されることが多い。

休養。

観光。

食事。

温泉。

写真。

イベント。

しかし芭蕉の旅は、単一の目的では説明しにくい。

俳諧修行。

名所訪問。

歌枕。

古人への敬意。

宗教的な場所。

未知の土地。

こうしたものが重なっている。

特に重要なのが、

古人の足跡を訪ねること

である。

芭蕉にとって旅先は、誰も意味を与えていない空白の場所ではない。

すでに、

西行、

能因、

源義経、

奥州藤原氏、

古い和歌の作者たち、

などが存在している。

旅とは、

そうした過去の人々が見た世界へ、

自分も実際に立ってみることだった。

4 「歌枕」を訪ねるという旅

『奥の細道』を理解する上で重要なのが、歌枕である。

歌枕とは、古くから和歌に詠まれてきた名所である。

松島。

白河の関。

象潟。

須賀川。

武隈。

こうした土地には、芭蕉が訪れる以前から文学的な意味が蓄積されていた。

つまり芭蕉は、

初めて見る風景

を見ている一方で、

昔から文章の中で知っている風景

にも会いに行っている。

これは現代にも似た経験がある。

小説に登場した街へ行く。

映画の舞台へ行く。

歴史上の人物が暮らした場所へ行く。

すると私たちは、

目の前の風景だけを見ているのではない。

「ここをあの人物も歩いた」

という想像を重ねる。

場所が単なる座標ではなくなる。

5 知識を持って行くからこそ見える風景がある

観光では、

先入観を持たずに見る方がよい、

と言われることもある。

しかし『奥の細道』は逆の可能性を示す。

芭蕉は大量の文学的・歴史的記憶を持って旅をする。

だから同じ風景でも、

何も知らずに見る人とは違うものが見える。

例えば、

ただの野原。

ただの古い寺。

ただの川。

が、

古典や歴史を知ることによって、

過去の人物の人生と結び付く。

つまり知識には、

風景を邪魔する先入観になる場合と、

風景の奥行きを増やす場合

の両方がある。

重要なのは、知識を現実へ押し付けることではない。

実際の場所に立った時、

知識と現実がどこで重なり、

どこで違うのかを見ることである。

6 白河の関~境界を越えるという経験

白河の関は、古くから多くの歌人が意識してきた場所だった。

芭蕉にとっても、単なる県境のような場所ではない。

ここから本格的な「みちのく」へ入るという意識がある。

現代では国道を走り、

県境標識を通過すれば、

数秒で地域を越える。

しかし徒歩の旅では違う。

何日もかけて進み、

ある地点を越える。

すると、

境界を越えたという身体的感覚

が生まれる。

現代の旅では交通機関が境界を消している。

東京から仙台へ新幹線で移動すれば、

途中の風景は高速で後ろへ流れる。

便利である。

しかし、

どこから土地が変わったのか

という感覚は弱くなる。

芭蕉の旅は、移動そのものが場所の理解に関係している。

7 松島~期待していた場所へ実際に立つ

松島は、『奥の細道』でも特に重要な目的地の一つである。

当時すでに名高い景勝地だった。

ここには現代の観光と共通する構造がある。

写真で見た場所。

本で読んだ場所。

昔から有名な場所。

そこへ実際に行く。

すると、

事前のイメージ

と、

現実の風景

がぶつかる。

有名な観光地に行った時、

「思っていたより小さい」

「写真より広い」

「音が意外に大きい」

「風が強い」

と感じることがある。

これは現地へ行かなければ分からない。

旅の価値の一つは、

頭の中に作られていた場所と、実在する場所の差を経験すること

にある。

8 観光写真では伝わりにくいもの

写真は旅の重要な記録になる。

しかし写真には写らないものがある。

風。

温度。

湿度。

匂い。

音。

疲労。

移動してきた時間。

その場所へ到達するまでの身体感覚。

山寺のような場所は特にそうである。

現在の山形市も、芭蕉が1689年に立石寺を訪れたことを紹介しており、芭蕉は本来の進路から南へ寄り道する形で山寺を訪れたと説明している。

ただ句碑を撮影するだけなら短時間で済む。

しかし階段を上り、

山の中へ入り、

音の環境を経験すると、

句との関係も変わる可能性がある。

9 山寺~「閑さ」は無音ではない

山寺で芭蕉が詠んだ句として知られるのが、

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

である。

山形市によると、芭蕉は1689年旧暦5月27日に山寺を訪れており、『曾良旅日記』の俳諧書留では、この句に至る前の別案も確認できる。

ここで面白いのは、

蝉が鳴いているのに、

静かだ

と感じていることである。

静寂とは、

完全な無音ではない。

むしろ一つの音が鮮明になることで、

周囲の静けさを強く感じる。

この感覚は、写真ではほとんど残らない。

録音でも完全には再現できない。

その場所に自分の身体を置くことで成立する経験

だからである。

10 旅とは「五感を使うこと」だけでもない

では場所を経験するとは、

見る。

聞く。

匂いを嗅ぐ。

触れる。

という五感の問題だけなのだろうか。

『奥の細道』を見ると、それだけでもない。

芭蕉は、

感じる

だけではなく、

思い出す。

歴史を思い出す。

古い和歌を思い出す。

死者を思い出す。

つまり場所の経験には、

身体感覚

と、

記憶・知識

の両方がある。

ここが芭蕉の旅の特徴である。

11 平泉~目の前にないものを見る

この特徴が最も明確に表れる場所の一つが平泉である。

平泉に立った芭蕉は、

現在そこにある野原だけを見ているわけではない。

そこにかつて存在した、

奥州藤原氏の繁栄。

源義経。

戦い。

人々の夢。

を重ねる。

そして、

「夏草や兵どもが夢の跡」

という句へ至る。

ここで重要なのは、

目の前に武者はいない

ということである。

あるのは夏草である。

しかし芭蕉は、

現在の夏草から、消えた人々を見る。

これは場所を経験するということの非常に深い形である。

12 歴史を知ると、同じ草原が違って見える

何も知らずに平泉の野原へ立てば、

美しい緑の風景

に見えるかもしれない。

しかし歴史を知っていれば、

ここで誰が生きたか。

何が争われたか。

何が失われたか。

が見えてくる。

土地そのものは同じである。

変わるのは見る人の内部である。

つまり、

場所の意味は土地だけに存在するのではなく、見る人の知識との関係で生まれる。

この点では、旅と教養は深く関係する。

歴史を知る。

文学を読む。

それによって、実際の場所へ行った時に見えるものが増える。

13 「夏草や」は滅びの句だけなのか

「夏草や兵どもが夢の跡」は、

栄枯盛衰。

無常。

戦いのむなしさ。

を表す句として読まれることが多い。

それは自然な理解である。

しかし場所という視点から見ると、

もう一つ重要なことがある。

人間は消えた。

建物も失われた。

しかし土地は残っている。

そして草が生えている。

つまり、

人間の歴史より土地の時間の方が長い。

私たちは自分の社会や人生を非常に大きなものだと感じる。

しかし場所から見れば、

一つの時代にすぎない。

旅には、こうした時間感覚を変える作用もある。

14 芭蕉は「過去そのもの」を見ているわけではない

ただし注意したい。

芭蕉が平泉へ行ったからといって、

義経の時代そのものを見られるわけではない。

当然である。

芭蕉が見ているのは、

過去が失われた後の風景

である。

だから旅によって歴史が完全に再現されるわけではない。

むしろ逆である。

失われてしまったことを確認する。

ここに旅の重要な働きがある。

歴史書では、

「奥州藤原氏が滅亡した」

と文章で読む。

現地へ行くと、

「本当にもうない」

という事実を身体で感じる。

これは情報とは違う。

15 最上川~場所は静止していない

旅先を写真で見ると、

場所は静止した景色に見える。

しかし実際の場所は動いている。

雲が動く。

川が流れる。

天気が変わる。

季節が変わる。

最上川は、その象徴的な場所の一つである。

芭蕉は旅の途中で最上川を下る。

そこで詠まれた、

「五月雨をあつめて早し最上川」

という句は、

川を固定した景観ではなく、

動いている自然として捉えている。

旅とは名所を見ることだけではなく、

その場所が変化している時間へ自分も入ることなのである。

16 「絶景」という言葉では消えてしまうもの

現代の観光では、

絶景。

映える。

おすすめスポット。

という言葉が多く使われる。

非常に便利な言葉である。

しかし「絶景」という一語でまとめると、

場所ごとの違いが消える場合もある。

松島も絶景。

山寺も絶景。

日本海も絶景。

すると全部、

「きれいな場所」

になってしまう。

芭蕉の旅は逆である。

場所ごとに、

歴史。

人物。

古典。

宗教。

音。

季節。

を重ねる。

その結果、

同じ「美しい風景」でも意味が違う。

教養とは、場所を一般名詞から固有名詞へ戻す能力でもある。

17 象潟~風景も永遠ではない

芭蕉が訪れた象潟は、『奥の細道』の重要な目的地の一つだった。

現在の観光案内でも、象潟は『奥の細道』の最北の目的地として紹介されている。

芭蕉が見た象潟の景観は、その後の地震などによって大きく変化した。

ここには非常に重要な問題がある。

私たちは、

場所は残る

と思いがちである。

しかし場所そのものも変わる。

海岸線。

川。

森。

町。

建物。

すべて変化する。

つまり旅とは、

その時にしか存在しない場所を見ること

でもある。

同じ場所へ十年後に行っても、同じではない。

18 芭蕉自身も同じ旅を二度はできない

場所だけではない。

旅をする本人も変わる。

二十歳で京都を見る。

六十歳で京都を見る。

同じ寺でも感じ方は違う。

知識も違う。

人生経験も違う。

一緒にいる人も違う。

つまり、

同じ場所へ行くことはできても、

同じ旅を繰り返すことはできない。

これは『奥の細道』冒頭の、

月日そのものが旅をする

という考えにもつながる。

旅先だけが変わるのではない。

旅人も変化し続けている。

19 旅には「遠回り」がある

現代の移動は効率を追求する。

最短ルート。

最速列車。

乗換案内。

渋滞回避。

これは非常に合理的である。

しかし旅の価値と移動効率は同じではない。

山寺について、山形市は、芭蕉が本来の経路からわざわざ南へ向かい、人に勧められて立石寺を訪れたことを紹介している。

もし芭蕉が、

最短距離だけ

を目的にしていれば、

有名な句の一つは生まれなかったかもしれない。

旅には、

予定外の寄り道が新しい経験を作る

という性質がある。

20 現代旅行は効率化しすぎているのか

ここから現代への比較になる。

旅行計画を立てると、

一日にできるだけ多くの場所を回りたい

と考えることがある。

午前に寺。

昼に市場。

午後に博物館。

夕方に展望台。

これは悪いことではない。

限られた時間を有効に使える。

しかし問題は、

訪問地点の数

と、

旅の深さ

が一致しないことである。

十か所見たから、

一か所だけ見た人より旅を理解した、

とは言えない。

場合によっては、

一つの寺で二時間過ごした方が、

十の寺を十分ずつ見るより強く記憶に残る。

芭蕉の旅から考えられるのは、

場所を消費する速度を少し落とすこと

である。

21 「行ったことがある」とは何を意味するのか

私たちは、

京都へ行ったことがある。

松島へ行ったことがある。

山寺へ行ったことがある。

と言う。

しかし「行った」の内容には大きな差がある。

バスから見た。

写真を撮った。

一泊した。

何度も訪れた。

歴史を調べて歩いた。

地元の人と話した。

季節を変えて訪れた。

どれも「行った」である。

だから、

訪問経験は0か1ではない。

場所との関係には深さがある。

『奥の細道』は、その深さを考える作品でもある。

22 SNSは旅を浅くするのか

現代の旅を考えると、

SNSが旅を浅くした

という批判もある。

しかしこれは単純すぎる。

SNSによって、

知らなかった場所を知る。

歴史を調べる。

旅行記を読む。

現地の人の情報を得る。

こともできる。

写真を共有すること自体も悪くない。

問題なのはSNSではない。

旅の目的が「他人から見える記録」だけになること

である。

写真を撮った後、

その場所を見るのをやめてしまう。

それでは場所そのものより、

場所にいる自分の証明

が中心になる。

芭蕉の旅と比較すると、この違いが見えやすい。

23 芭蕉もまた「旅を発信した人」ではないのか

ただし、ここで芭蕉を現代人より高尚な旅人として美化してはいけない。

芭蕉も旅を文学作品にした。

つまり、

自分が見たものを他人へ伝えた。

ある意味では、

旅を発信した人

でもある。

違うのは、

発信するために何を選び、どう言葉へ変えたか

である。

すべてを記録していない。

一つの場所から、

歴史。

感情。

自然。

言葉。

を抽出する。

そして短い句と文章へ凝縮する。

問題は発信することではない。

経験をそのまま消費するのか、

一度自分の中で考えて言葉にするのか、

という違いである。

24 写真を撮ることと俳句を詠むこと

写真は、一瞬で風景を記録できる。

俳句は違う。

何を見るかを決める。

言葉を選ぶ。

不要なものを削る。

五七五という非常に小さな形へ落とし込む。

そこでは、

見たものをそのまま保存すること

より、

その場所で何を感じ取ったかを選ぶこと

が必要になる。

だから現代の旅行でも、

俳句を書く必要はないが、

自分なりの言葉を残すことには意味がある。

写真百枚より、

一行の日記の方が、

十年後にその旅を思い出させることもある。

25 場所を経験するためには「事前学習」と「余白」の両方が必要

『奥の細道』から現代の旅へ応用できることを考えると、

一見矛盾する二つの要素が必要になる。

一つは、

事前に知ること。

歴史。

文学。

地理。

人物。

を少し調べる。

もう一つは、

予定を決めすぎないこと。

現地で立ち止まる。

予定外の場所へ行く。

人に勧められた場所を見る。

この二つがあると、

知識だけの旅行にも、

行き当たりばったりの旅行にもならない。

知識を持って行き、

現地で知識を修正する。

これが場所を経験する一つの方法になる。

26 「聖地巡礼」と『奥の細道』

現代には、

映画。

アニメ。

小説。

ドラマ。

の舞台を訪ねる「聖地巡礼」がある。

これは一見すると現代特有の文化に見える。

しかし構造としては、芭蕉の旅と意外に近い部分がある。

作品で知った場所へ実際に行く。

登場人物や作者を思い出す。

現実の風景と物語を重ねる。

つまり、

文学的記憶を持って場所へ行く

という行為である。

もちろん芭蕉の歌枕への旅と現代の聖地巡礼を同一視することはできない。

歴史的背景も文化的位置も違う。

しかし、

人は物語を持つことで場所を深く経験する

という点では共通性がある。

27 旅には「死者と会う」という側面がある

芭蕉の旅には、すでに亡くなった人々が何度も登場する。

西行。

義経。

藤原三代。

昔の歌人。

芭蕉は彼らに実際に会うことはできない。

しかし彼らに関係する場所へ行く。

すると、

文章でしか知らなかった人物が、

土地と結び付く。

ここに、

旅によって死者との距離が変わる

という経験がある。

墓。

古戦場。

生家跡。

文学館。

こうした場所を訪れる意味も同じである。

死者が生き返るわけではない。

しかし、

その人が実際にこの世界に存在した

という感覚が強くなる。

28 場所は「時間の地層」である

この視点から考えると、

場所とは単なる空間ではない。

東京。

京都。

平泉。

松島。

どの場所にも、

現在だけがあるわけではない。

江戸時代。

中世。

古代。

戦争。

災害。

産業。

人々の生活。

複数の時間が重なっている。

つまり場所とは、

時間の地層

のようなものだと考えられる。

旅人がどの地層を見るかによって、

同じ土地でも違う旅になる。

芭蕉は古典と歴史の地層を強く見た旅人だった。

29 観光と旅は対立するものではない

ここで注意したい。

観光は浅く、

旅は深い、

と区別する必要はない。

観光地を見ることにも価値はある。

温泉を楽しんでもよい。

名物を食べてもよい。

写真を撮ってもよい。

重要なのは、

観光の中に、場所を経験する時間を少し加えること

だろう。

有名な寺へ行く。

その寺の歴史を一つだけ知る。

景色を見る。

十分間何もせず座る。

地元の道を少し歩く。

それだけでも旅は変わる。

30 令和の旅で実践できる五つのこと

『奥の細道』から、現代の旅へ直接的な規則を作る必要はない。

しかしヒントとして五つに整理することはできる。

第一に、

旅先について一つだけ事前に読む。

長いガイドブック全部でなくてもよい。

歴史上の人物。

小説。

古い写真。

何か一つ持って行く。

第二に、

移動の一部を歩く。

駅から目的地まででもよい。

土地の距離感が分かる。

第三に、

写真を撮った後に、もう一度見る。

撮影したことで観察を終わらせない。

第四に、

一つの場所に少し長くいる。

予定を一つ減らしてもよい。

第五に、

帰宅後に言葉を残す。

数行の日記でもよい。

「何を見たか」ではなく、

「何が自分に残ったか」

を書く。

31 旅は消費ではなく「関係を作ること」

観光産業では、

旅行商品。

観光資源。

消費額。

宿泊数。

といった言葉が使われる。

これは経済分析として必要である。

しかし個人にとっての旅は、

消費だけでは説明できない。

場所を訪れる。

知る。

記憶する。

また訪れる。

すると、

その場所と自分との間に関係が生まれる。

初めて訪れた街が、

十年後には「昔行った街」になる。

二度目には、

「変わった場所」

が見える。

旅とは、

場所との関係を作る行為

でもある。

32 『奥の細道』は日本全国観光案内ではない

現代から『奥の細道』を読むと、

芭蕉ゆかりの場所を訪ねる旅行ガイド

として使うこともできる。

実際、現在も芭蕉の足跡をたどる旅行は多数行われている。

しかし作品の本質を、

「おすすめ観光スポット集」

にしてしまうと重要なものを失う。

芭蕉が残したのは、

場所の情報

というより、

場所を見る方法

だからである。

歴史を見る。

古典を見る。

自然を見る。

現在と過去を重ねる。

自分自身の感情も見る。

この方法こそ現代に残る価値がある。

33 便利になったからこそ、旅は難しくなったのかもしれない

現代の旅は非常に便利である。

迷わない。

予約できる。

評価が分かる。

写真も事前に見られる。

失敗する可能性が小さい。

しかし逆説的に、

未知の場所へ行く感覚は弱くなった。

到着する前に、

外観。

メニュー。

料金。

評価。

撮影場所。

まで分かっている。

だから現代の旅では、

情報を増やすだけでなく、

時には情報を止める必要もあるのかもしれない。

現地へ着いたら画面を閉じる。

少し歩く。

音を聞く。

その場所が事前情報と違う部分を見る。

これは芭蕉の時代へ戻るという意味ではない。

便利さを利用しながら、

便利さによって失われる経験を意識する

ということである。

結論~旅とは、場所の中にある時間へ入ること

『奥の細道』を読むと、

芭蕉は多くの場所を訪れている。

しかし、その旅の価値は、

訪問地点の数だけにはない。

松島へ行く。

平泉へ行く。

山寺へ行く。

最上川を見る。

象潟へ行く。

その一つ一つで芭蕉は、

現在の風景だけを見ていない。

古い文学を重ねる。

歴史を重ねる。

死者を重ねる。

自然の音を聞く。

そして自分自身がそこに立っている時間を重ねる。

だから芭蕉にとって場所は、

観光対象ではない。

現在と過去が交差する場所

である。

平泉では、

目の前には夏草しかない。

しかしそこに武者たちの「夢」を見る。

山寺では、

蝉が鳴いている。

しかし、その声によってかえって静けさを感じる。

最上川では、

川という物体を見るのではない。

雨を集めながら流れる動きそのものを見る。

こうして考えると、

「場所を経験する」とは、

有名なものを見ることだけではない。

その土地について知り、

自分の身体をそこへ置き、

少し時間を使い、

そこに積み重なっている過去と現在を重ねることである。

現代の旅行は、芭蕉の時代より圧倒的に便利になった。

一日で移動できる距離も増えた。

情報量も増えた。

写真も自由に撮れる。

だから昔のように歩かなければ本当の旅ではない、

という必要はない。

新幹線に乗ってもよい。

飛行機でもよい。

写真も撮ればよい。

SNSへ投稿してもよい。

問題は方法ではない。

その場所を「見終わった」と判断する速度

なのではないだろうか。

写真を一枚撮ったら次へ行く。

有名な景色を確認したら終わる。

それでは場所は、

消費した項目の一つになってしまう。

芭蕉の旅が現代へ教えるものがあるとすれば、

もっとゆっくり歩け、

ということだけではない。

目の前にあるものだけを見ないこと。

その場所で、

昔何があったのか。

誰が生きていたのか。

誰がその風景を文章にしたのか。

何がすでに失われたのか。

そして自分は今、何を感じているのか。

そこまで含めて見る。

すると旅は、

「どこへ行ったか」

の記録から、

「そこで何を考えるようになったか」

という経験へ変わる。

『奥の細道』が三百年以上を経ても旅の文学として読み継がれる理由は、名所の情報が今でも役に立つからではない。

情報だけなら、現代のガイドブックやインターネットの方がはるかに詳しい。

それでも芭蕉が残したものには価値がある。

それは、

場所には、目に見える景色以上のものがある

という感覚である。

旅とは距離を移動することではない。

場所の中に積み重なった時間へ入り、

その時間と自分自身の人生を一瞬だけ重ねること。

『奥の細道』から現代の旅について考えるなら、

「どこへ行くべきか」

よりも、

「行った場所で、どこまで立ち止まることができるか」

という問いの方が、重要なのかもしれない。

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地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

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三島は右、大江は左。それだけで二人を理解できるのか

三島由紀夫と大江健三郎。

戦後日本文学を代表する作家として、この二人ほど対照的に語られやすい人物も少ない。

三島由紀夫。

天皇。

日本文化。

自衛隊。

楯の会。

1970年11月25日の市ヶ谷での行動と自決。

一方、大江健三郎。

戦後民主主義。

広島。

核兵器。

平和。

憲法。

1994年のノーベル文学賞。

このように並べれば、

三島=保守・右翼 大江=リベラル・左派

という構図が成立するように見える。

政治的位置を大きく整理するなら、この違いを無視することはできない。

しかし、それだけで二人を比較すると、非常に重要な部分が見えなくなる。

なぜなら二人とも、

「敗戦後の日本とは何なのか」

という同じ巨大な問題から出発しているからである。

三島は、戦後日本によって失われたものを見ようとした。

大江は、敗戦後に獲得されたものを守り、さらに徹底しようとした。

三島は、

日本文化、

天皇、

歴史、

身体、

死、

国家、

へ向かった。

大江は、

民主主義、

個人、

核、

広島、

沖縄、

少数者、

へ向かった。

方向は大きく異なる。

しかし二人とも、

経済的に豊かになれば、それで戦後日本は完成する、

とは考えなかった。

だからこの二人を比較する意味は、

どちらが正しかったかを決めることではない。

同じ戦後日本を見ながら、なぜこれほど異なる答えへ到達したのか。

そこを考えることにある。

1 二人は同じ「戦後作家」でも世代が少し違う

三島由紀夫は1925年生まれである。

大江健三郎は1935年生まれである。大江は1994年にノーベル文学賞を受賞し、2023年に87歳で亡くなった。ノーベル財団も1935年1月31日生まれ、2023年3月3日没としている。

二人の年齢差は10歳である。

この10年は大きい。

三島は敗戦時に20歳だった。

大江は10歳だった。

つまり三島には、

戦前から戦後へ、自分自身の青年期の途中で世界が断絶した

という経験がある。

一方、大江の場合には、

敗戦後の新しい日本で青年期を形成した

という側面が強い。

大江自身も1994年のノーベル賞講演で、第二次世界大戦中、四国の山村で少年時代を送っていたことから語り始めている。

この世代差は、二人の戦後観を考える重要な前提になる。

2 三島にとっての戦後~「何かが失われた」という感覚

三島の文学や評論を読むと、

戦後日本に対する強い違和感が繰り返し現れる。

もちろん三島を、

「昔の日本へ戻りたかっただけの作家」

と整理することはできない。

三島自身は西欧文学を深く読み、非常に近代的な小説技法を使った作家でもある。

しかし政治・文化論では、

日本の歴史と文化が、

戦後の社会の中でどのように連続するのか、

という問題を強く意識した。

その代表的な文章の一つが『文化防衛論』である。

同書は1969年に刊行され、戦後文化が成熟し学生運動も激しかった時期に、「最後に護られねばならぬ日本」をめぐって展開された評論・対談などを収録している。

三島にとって重要だったのは、

日本が経済成長することだけではない。

日本が日本であり続けるとはどういうことなのか

という問題だった。

3 大江にとっての戦後~「新しく始めることのできる日本」

一方、大江にとって戦後は違う意味を持った。

大江は戦後日本の民主主義を、自分自身の思想形成に深く関係するものとして受け止めた。

その背景には、

敗戦、

戦争体験、

広島・長崎、

日本国憲法、

といった問題がある。

大江は1994年のノーベル賞講演を「Japan, the Ambiguous, and Myself」、日本語では一般に『あいまいな日本の私』として知られる題で行った。そこでは、日本が近代化の中で西洋との関係に引き裂かれ、戦後には民主主義と非軍事化を新しい方向として選んだことについて論じている。

つまり大江にとって戦後は、

失われた伝統を回復する時代

というより、

戦前とは異なる原理によって日本を作り直す可能性

を持った時代だった。

ここに三島との大きな分岐がある。

4 しかし二人とも「戦後日本はこれでよい」とは考えなかった

この違いだけを見ると、

三島は戦後を否定し、

大江は戦後を肯定した、

と整理したくなる。

しかし、それも単純すぎる。

大江は戦後日本の現実を無条件に肯定したわけではない。

核兵器。

広島。

沖縄。

国家。

少数者。

こうした問題について、戦後日本が掲げた民主主義や平和主義を本当に実現しているのかを繰り返し問うた。

東京大学の大江健三郎文庫には、原稿・関連資料・書誌情報が保存されており、大江の文学と公共的活動を研究する基盤になっている。 つまり大江も、

現実の戦後日本

と、

戦後日本が掲げた理念

の間に大きな距離を見ていた。

その点では三島と共通している。

二人とも、

現実の日本に満足していなかった。

違ったのは、

何を基準に現実を批判したのか

なのである。

5 三島は「失われた連続性」から戦後を批判した

三島の戦後批判を大きく整理すれば、

戦後によって、

歴史、

文化、

天皇、

国家、

身体、

死、

といったものの意味が切断されたのではないか、

という問題になる。

三島の天皇論は、単純に戦前の政治制度をそのまま復活させようという議論と同一ではない。

『文化防衛論』を中心とする三島の天皇論については、天皇を文化概念として捉える側面が研究されている。

三島にとって天皇は、

単なる行政権力者というより、

日本文化の歴史的連続性を象徴する存在

として重要だった。

ここを理解しないと、

三島=天皇制支持

という政治ラベルだけになってしまう。

6 大江は「戦後民主主義の未完成」から日本を批判した

大江の場合は逆方向である。

大江が基準にしたのは、

民主主義、

個人の尊厳、

平和、

核への抵抗、

などだった。

戦後日本がそうした理念を掲げた以上、

現実の日本もその原理へ近づくべきだ、

と考える。

だから大江にとって問題なのは、

戦後によって伝統が失われたこと

というより、

戦後が掲げた理念が十分に実現されていないこと

だった。

つまり二人の批判は、

三島~

「戦後によって何を失ったのか」

大江~

「戦後が約束したものを本当に実現したのか」

という違いとして考えることができる。

7 三島にとって「天皇」は何だったのか

三島を語る場合、天皇の問題を避けることはできない。

しかし、

三島は天皇を政治的独裁者にしようとした、

と単純化するのも適切ではない。

三島の政治・文化論における天皇は、

日本の歴史、

祭祀、

文化、

共同体、

と結び付いた存在として考えられている。

彼が問題視したのは、

戦後日本が、

経済、

消費、

生活水準、

という方向では豊かになる一方、

自分たちが何を共有する国家なのかを説明できなくなること

だった。

ここで天皇が、

文化的な統合原理として現れる。

もちろん、この考え方には多くの批判があり得る。

日本文化を一つの原理へまとめることが可能なのか。

文化的多様性をどう扱うのか。

天皇を共有しない人々はどう位置付けられるのか。

こうした問題は残る。

8 大江にとって「民主主義」は何だったのか

大江にとって民主主義は、

単なる政治制度ではなかった。

戦後を生きる人間の基本的な価値に近い。

大江はノーベル賞講演でも、日本が戦後に民主主義と非軍事化を自らの新しい道として選んだことを重視している。

ここには三島との鮮明な違いがある。

三島は、

戦後制度だけでは日本の文化的根拠を支えられない、

と考える。

大江は、

戦後民主主義こそ、過去の破局を繰り返さないための重要な原理だ、

と考える。

二人は同じ「戦後」を、

ほぼ逆方向から評価したのである。

9 文化勲章辞退に表れた大江の立場

1994年、大江はノーベル文学賞を受賞した。

同じ年、日本国内では文化勲章の授与を辞退したことでも大きく注目された。

当時報じられた理由は、自分は戦後民主主義の人間であり、民主主義に勝る権威や価値観を認めないという趣旨のものだった。

この行動は、

大江が単に政治について発言する作家だったのではなく、

自分自身の公的な立場についても、戦後民主主義との整合性を意識していた

ことを象徴する出来事として読むことができる。

三島が天皇を文化的な中心として考えたのに対し、

大江は国家的・天皇的権威より民主主義の価値を優先した。

ここでは両者の違いが極めて鮮明になる。

10 しかし三島も単純な「国家権力礼賛」ではない

ここで三島についても注意が必要である。

三島を、

国家権力を無条件に支持した作家

とするのは正確ではない。

三島は戦後日本の国家そのものに強い不満を持っていた。

その不満の対象には、

日本国憲法、

安全保障、

自衛隊の位置付け、

対米関係、

などがあった。

つまり三島は、

当時の日本国家を守ろうとしたというより、

当時の日本国家を不完全なものとして批判していた

のである。

だから三島の国家観は、

現状維持型の保守主義

とも少し違う。

11 三島事件~文学と政治が最終的に重なった瞬間

1970年11月25日、三島は楯の会の会員4人とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地へ入り、東部方面総監を拘束し、自衛隊員に向けて演説した後、自決した。毎日新聞の写真資料にも同日の事件が記録されている。

三島の最後の声明文「檄」は全集にも収録されている。国立国会図書館のレファレンス事例でも、その所在が確認されている。

ここでは三島の文学、

身体、

死、

国家、

政治、

が一つの行為へ重なった。

だから三島を読む場合、

文学作品と政治行動を完全に切り離すことも難しい。

しかし逆に、

すべての小説を1970年の自決から逆算して読むことも危険

である。

三島文学は政治思想だけでは説明できないからである。

12 大江は「行動する文学者」だったが、方法は三島と正反対だった

大江も文学だけに閉じこもった作家ではない。

核兵器。

広島。

沖縄。

憲法。

社会問題。

などについて長期間公的発言を続けた。

しかし方法は三島と大きく異なる。

大江が選んだのは、

文章。

講演。

市民運動。

社会的発言。

といった方法だった。

三島の場合には、

最終的に身体そのものを政治的表現へ変えた。

大江の場合には、

言葉と市民社会の中で主張し続けること

を選んだ。

この対照は非常に大きい。

13 「身体」の三島と「言葉」の大江

三島文学を考える上で身体は重要である。

三島自身、肉体鍛錬を行い、

身体、

美、

死、

行為、

を結び付けていった。

彼には、

言葉だけでは現実へ到達できない、

という感覚が強くなっていったと読むことができる。

一方、大江は極めて言語的な作家である。

複雑な文章。

自己検証。

引用。

歴史。

政治。

文学。

を通して問題を考える。

大きく整理すれば、

三島は、

言葉を身体と行動へ近づけようとした作家

であり、

大江は、

言葉によって世界の複雑さを引き受け続けようとした作家

と見ることもできる。

ただしこれは比較のための整理であり、二人の全作品をこの一点へ還元することはできない。

14 三島の「明晰さ」と大江の「あいまいさ」

文章の方向にも興味深い違いがある。

三島は、

美。

死。

天皇。

文化。

国家。

といった概念を、

非常に強い輪郭を持たせて提示する傾向がある。

大江は逆に、

矛盾。

曖昧さ。

複数の声。

弱さ。

周縁。

を残そうとする。

1994年のノーベル賞講演で、大江が自ら選んだ言葉が、

「ambiguous」~あいまいな

だったことは象徴的である。

大江は、日本を一つの明確な本質によって定義することそのものへ慎重だった。

ここにも三島との差が見える。

15 三島は「日本とは何か」を一つの中心から考えようとした

三島にとって、

日本文化には何らかの中心が存在する。

歴史。

伝統。

天皇。

古典芸能。

武士的倫理。

そうしたものを通して日本を考える。

だから三島の思考は、

中心を探す思考

だと言える。

日本とは何か。

何を守れば日本なのか。

何が失われれば日本ではなくなるのか。

という問いである。

『文化防衛論』という題名そのものが、

守るべき文化が存在する

という前提に立っている。

16 大江は「中心から外された人」から日本を考えた

大江の文学には、

周縁に置かれた存在が繰り返し現れる。

社会から外れた人。

弱い人。

障害を持つ人。

地方。

広島の被爆者。

国家の中心的物語から外れる人々。

大江は、

日本の中心とは何か

という問いより、

中心から見えなくなっている人間は誰か

という方向へ向かう。

ここに三島との根本的な違いがある。

三島は中心を回復しようとする。

大江は中心によって消されるものを見ようとする。

17 広島~大江が戦後日本を見る重要な場所

大江の思想と文学を考える上で、広島は極めて重要である。

『ヒロシマ・ノート』などを通じて、大江は被爆者や核兵器の問題を長期間考え続けた。

大江にとって広島は、

過去の一事件

ではない。

近代国家。

戦争。

科学。

核。

人間の尊厳。

を問い続ける場所である。

ここから大江の平和・核に関する社会的発言もつながっていく。

三島が、

日本文化の断絶

を戦後の核心問題として見るとすれば、

大江は、

戦争と核の経験を経た国家が、どうすれば再び人間を犠牲にしない社会になれるのか

を重要な問題とした。

18 二人の「日本」はどちらも単純な現状肯定ではない

ここまでを見ると、

三島は日本を愛した。

大江は日本を批判した。

という対立に見えるかもしれない。

しかしこれも違う。

三島は現実の日本を激しく批判した。

大江も日本社会を批判しながら、日本語で日本社会について書き続けた。

つまり二人とも、

現実の日本と、自分が望む日本との距離

に苦しんだ作家である。

違うのは理想像だった。

三島~

文化的連続性を回復した日本。

大江~

戦後民主主義をより徹底した日本。

という方向である。

19 二人とも「経済成長だけでは人間は満たされない」と考えた

戦後日本は高度経済成長によって急速に豊かになった。

生活水準が向上する。

消費社会が拡大する。

都市化が進む。

しかし三島も大江も、

経済成長だけで日本社会の問題が解決した

とは考えなかった。

三島には、

豊かさの中で文化的中心が失われる、

という危機感があった。

大江には、

経済的繁栄の背後に、

広島、

沖縄、

核、

社会的弱者、

などの問題が残されるという意識があった。

したがって二人は、

政治思想は反対でも、

高度成長社会への違和感

という点では意外に近い。

20 三島は「強さ」を、大江は「弱さ」をどう見たか

二人の文学を比較すると、

人間の強さと弱さに対する視線にも違いがある。

三島の作品では、

美しい身体。

意志。

決断。

死。

英雄性。

といったものが強い魅力を持つ。

もちろん三島文学には弱い人間も多く登場するが、その弱さと理想的な美との緊張が作品を生む。

一方、大江文学では、

弱さ。

傷。

障害。

失敗。

周縁。

を抱えた人間が重要になる。

大江は、

弱さを克服して完全な人間になる、

という方向だけではなく、

弱さを抱えたまま他者と生きる可能性

を探る。

ここにも二人の戦後的人間像の違いがある。

21 「個人」を重視する点では意外に共通している

それでも二人には重要な共通点がある。

どちらも、

国家や社会の中へ完全に溶け込んだ人間

を描いた作家ではない。

三島の登場人物も、

社会から孤立する。

欲望を抱える。

美への執着を持つ。

自分だけの世界を作る。

大江の登場人物も、

社会の中で葛藤し、

個人として選択を迫られる。

二人とも、

近代的な「個人」の孤独を描いた作家

なのである。

ここを見ると、

三島=集団主義、

大江=個人主義、

と単純には分けられない。

22 なぜ作家が政治について語ったのか

現在では、

小説家は文学だけを書けばよい。

政治は政治学者へ任せればよい。

という考え方もある。

しかし三島と大江の時代には、

文学者が社会問題について公に語ることは現在ほど珍しくなかった。

それは、

戦後日本において作家が、

人間、

社会、

国家、

歴史、

について考える公共的知識人でもあったからである。

三島と大江は、その意味で二人とも、

戦後型知識人としての作家

だった。

思想は反対でも、

「作家は社会について語る資格と責任を持つ」

という点では共通していたと見ることができる。

23 三島の行動は文学によって正当化されるのか

三島について語る場合、一つ慎重に区別しなければならない。

優れた文学を書いたこと

と、

政治行動が正しかったこと

は別である。

文学的価値によって、

1970年の行動を政治的に正当化することはできない。

逆に、

政治的立場に反対だから文学作品にも価値がない、

ということにもならない。

ここは重要である。

作品の評価と政治行動の評価は、関連させながらも区別する必要がある。

それをしなければ、

三島支持=文学評価、

三島批判=文学否定、

という不毛な二択になってしまう。

24 大江の政治的発言も文学的権威だけで正しいとは言えない

これは大江についても同じである。

ノーベル文学賞を受賞したからといって、

大江の政治的主張が自動的に正しいわけではない。

文学的才能。

社会分析。

政治判断。

は別の能力である。

したがって大江の、

核。

憲法。

沖縄。

国家。

についての主張も、

内容それ自体によって検討されるべき

である。

この区別をしなければ、

ノーベル賞作家だから正しい、

という権威主義になってしまう。

二人を公平に比較するためには、

三島についても大江についても、

作家としての評価と政治的評価を分ける必要がある。

25 二人は本当に「正反対」だったのか

ここで記事の題名へ戻ろう。

三島と大江は、

戦後日本を正反対の方向から考えた二人

なのか。

大きな政治的方向としては、

確かに非常に遠い。

天皇。

憲法。

軍事。

戦後民主主義。

国家。

について、二人の立場には大きな隔たりがある。

しかし、

問題意識の深い部分では共通点もある。

二人とも、

戦後日本とは何か

を問い続けた。

二人とも、

経済成長だけでは社会を評価しなかった。

二人とも、

文学を社会から隔離しなかった。

二人とも、

国家と個人の関係を考えた。

二人とも、

戦後日本に何らかの「欠落」を感じていた。

ただし、その欠落の名前が違った。

26 三島が見た欠落、大江が見た欠落

整理すると分かりやすい。

三島が見た欠落は、

歴史的連続性。

文化的中心。

天皇。

国家としての自立。

身体と行為。

だった。

大江が見た欠落は、

民主主義の徹底。

戦争責任。

被爆者への視線。

核への抵抗。

少数者や周縁への視線。

だった。

つまり、

二人は違う日本を見ていた、

というより、

同じ日本の中で、違う欠落を見ていた

と考える方がよい。

27 三島は過去から未来を作ろうとした

三島の方向を簡潔に表すなら、

過去との連続性を取り戻すことで未来を作ろうとした

と言える。

古典。

伝統。

天皇。

武士。

身体。

そうした歴史的・文化的資源を現代へ取り戻す。

もちろん単純な復古ではない。

三島自身は極めて近代的な作家だったからである。

むしろ、

近代化した日本が、

それでも日本として何を保持できるのか

を問う。

これは、

過去を使って未来を考える方法だった。

28 大江は戦後の理念を徹底することで未来を作ろうとした

大江の場合は違う。

敗戦後に日本が掲げた、

民主主義。

平和。

個人の尊厳。

を、

不十分だから捨てるのではなく、

不十分だからこそ徹底する

方向へ向かう。

過去の日本へ戻るのではない。

戦後日本が始めたものを完成に近づける。

だから大江の未来像は、

戦後の否定

ではなく、

戦後民主主義の自己修正

に近い。

ここが二人の決定的な分岐である。

29 現代から見ると、どちらの問いもまだ終わっていない

三島が問いかけた、

日本文化とは何か。

国家として自立するとは何か。

歴史と現代をどう接続するのか。

という問題は、現在も消えていない。

一方、大江が問い続けた、

核兵器。

戦争。

民主主義。

個人の尊厳。

少数者。

という問題も消えていない。

つまり二人の「答え」は違っても、

二人が設定した問いそのものは現在にも残っている。

これが、二人が今も読まれる大きな理由の一つだろう。

30 二人の対立を「右対左」に閉じ込めない

三島と大江を比較するとき、最も簡単なのは、

右翼対左翼。

保守対リベラル。

天皇対民主主義。

という図式である。

しかし、それだけでは文学評論として浅い。

なぜなら、

三島の文学には個人の孤独や欲望がある。

大江の文学にも国家や共同体への強い関心がある。

二人とも西欧文学の強い影響を受けながら日本について考えた。

二人とも戦後日本を国際社会の中から見ている。

つまり、

単純な日本主義対西洋主義

でもない。

二人の思想はもっと複雑である。

31 「どちらが正しかったか」ではなく、「何が見えたか」を比較する

思想家や作家を比較すると、

最終的に、

どちらが正しいか

を決めたくなる。

しかし文学を読む場合、それだけが目的ではない。

三島の視点から見ると、

戦後日本の、

文化的断絶。

歴史。

国家。

身体。

という問題が見える。

大江の視点から見ると、

戦後日本の、

民主主義。

被爆。

弱者。

核。

周縁。

という問題が見える。

つまり、

違う思想を読むことによって、同じ社会の違う部分が見える。

ここに二人を並べる意味がある。

32 三島だけを読む危険、大江だけを読む危険

三島だけから戦後日本を見ると、

伝統や国家の問題はよく見える。

しかし、

国家によって傷つけられる人、

少数者、

戦争被害、

という問題が弱くなる危険がある。

一方、大江だけから見ると、

民主主義、

平和、

弱者、

という問題はよく見える。

しかし、

共同体の歴史、

伝統、

国家的帰属、

文化的連続性、

といった問題を十分に説明できない場合がある。

だから、

二人を並べる。

賛成するためではない。

一人の視点によって見えなくなるものを、もう一人によって補うためである。

33 現代の分断社会に二人を読む意味

現在の社会では、

自分と同じ意見だけを読むことが容易になっている。

SNSでは、

自分が賛成する人をフォローする。

反対する人を遮断する。

似た思想の情報が集まる。

その結果、

相手の考えがなぜ成立するのか

を理解する機会が減る。

三島と大江を同時に読むことには、

この問題への一つの意味がある。

二人は簡単には統合できない。

どちらか一方を選べば済むわけでもない。

だからこそ、

両方を読んで、自分の中に矛盾した問いを残す。

それ自体が教養の一つの形になる。

結論~二人は「違う日本」を望んだのではなく、「日本の違う欠落」を見ていた

三島由紀夫と大江健三郎。

政治的位置から見れば、

二人は確かに遠い。

三島は、

日本文化、

天皇、

国家、

歴史、

身体、

を通して戦後日本を問い直した。

大江は、

民主主義、

広島、

核、

個人、

弱者、

を通して戦後日本を問い直した。

三島は戦後によって失われたものを見た。

大江は戦後が約束しながら実現できていないものを見た。

この違いを一言で整理すれば、

三島は「戦後以前との断絶」を問題にし、 大江は「戦後理念と戦後現実との断絶」を問題にした

と言えるかもしれない。

三島は、

過去との連続性を取り戻そうとした。

大江は、

戦後民主主義をさらに前へ進めようとした。

一人は過去を見た。

もう一人は未来を見た。

と表現したくなる。

しかし、それも完全には正しくない。

三島も未来の日本を考えていた。

大江も過去の戦争を繰り返し振り返った。

つまり二人とも、

過去・現在・未来の関係をどう結び直すか

を考えた作家だった。

そして二人とも、

現実の戦後日本へ強い違和感を持っていた。

高度経済成長。

豊かな生活。

消費社会。

それだけでは、

人間はどう生きるのか。

国家とは何か。

日本とは何か。

という問いには答えられない。

この点では、二人はむしろ同じ場所に立っていた。

そこから、

三島は、

文化、

天皇、

身体、

死、

へ進んだ。

大江は、

民主主義、

核、

個人、

弱者、

へ進んだ。

だから二人を読む時に重要なのは、

「三島と大江のどちらを支持するか」

だけではない。

より重要なのは、

なぜ同じ戦後日本を見て、二人はこれほど違う答えへ進んだのか

を考えることである。

そしてさらに、

現代の私たちは、

三島が見た問題と、

大江が見た問題の、

どちらをすでに解決したのだろうか。

文化と歴史。

民主主義と個人。

国家の自立。

核と戦争。

共同体。

少数者。

これらの問いを見る限り、

二人が考え続けた「戦後」は、

完全に過去になったとは言いにくい。

三島由紀夫と大江健三郎を同時に読む意味は、

正反対の思想のどちらかを選ぶことではない。

互いに相手が見なかった日本を、二人の視線を重ねることで見ること。

そこにあるのではないだろうか。

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「昔の人には教養があった」は本当なのか

昭和という時代について語るとき、

「昔の人は本を読んでいた」

「学生は難しい哲学書を読んでいた」

「大学生なら岩波文庫を読むのが当たり前だった」

「総合誌を読んで政治や社会について考えていた」

といった話を聞くことがある。

そこから、

昭和の日本人には教養があり、現代人は教養を失った

という結論へ進むこともある。

しかし、本当にそうなのだろうか。

昭和の人々全員が哲学書を読んでいたわけではない。

難解な本を買っても最後まで読まなかった人もいただろう。

娯楽小説、漫画、映画、ラジオ、テレビを楽しむ人も当然多かった。

したがって、

「昭和の日本人は現代人より知的だった」

と単純に比較することはできない。

それでも昭和には、現在とは少し違う「教養」という文化が存在したことは確かである。

その違いは、人間の能力よりも、

知識へ到達する道筋

にあったのではないだろうか。

本屋へ行く。

岩波文庫を手に取る。

新書を読む。

新聞を読む。

『世界』や『中央公論』などの総合誌を読む。

そこで、

文学、

哲学、

歴史、

政治、

経済、

科学、

社会問題、

へ触れる。

つまり昭和の教養とは、

単に「たくさん知っていること」ではない。

異なる分野の知識を、一人の人間の中である程度つなげて考えようとする文化

だったと考えることができる。

本稿では、

岩波文庫、

岩波新書、

総合誌、

大学、

新聞、

テレビ、

というメディア環境を通して、

「昭和の教養」とは何だったのかを考えてみたい。

そして最後に、

令和の時代には教養が失われたのか、それとも別の形へ変わっただけなのか

を検討する。

1 「教養」は単なる知識量ではない

まず、教養という言葉を整理しておきたい。

教養は、

知識量、

学歴、

資格、

専門能力、

とは必ずしも同じではない。

医学について非常に詳しい医師がいる。

法律について非常に詳しい弁護士がいる。

数学について非常に詳しい研究者がいる。

もちろん、その専門知識は極めて高度である。

しかし昔から「教養」という言葉には、

専門分野だけではなく、

文学、

歴史、

哲学、

芸術、

社会、

政治、

科学、

などについて幅広く触れ、

それらを使って人間や社会を考える、

という意味が含まれていた。

したがって教養とは、

多くの答えを知っていること

よりも、

一つの問題を複数の角度から考えるための背景知識を持っていること

に近い。

例えば戦争を考える場合、

軍事だけでは足りない。

歴史。

外交。

経済。

政治。

倫理。

文学。

人間心理。

こうしたものが関係する。

この「分野をまたぐ思考」を支えたのが、昭和の出版文化だった。

2 岩波文庫~古典を個人の本棚へ持ち込む仕組み

昭和の教養を象徴するものの一つが岩波文庫である。

岩波文庫は1927年、昭和2年に創刊された。

岩波書店によれば、現在の岩波文庫は、

日本古典文学、

日本近現代文学、

外国文学、

哲学・歴史学など、

社会科学など、

という広い領域を持っている。

つまり岩波文庫は、

「文学作品を安く読むシリーズ」

だけではない。

プラトン。

カント。

マルクス。

歴史書。

政治思想。

経済。

宗教。

自然科学。

日本古典。

近代文学。

さまざまな分野へアクセスする入口になっていた。

1927年7月10日の創刊時には22点が刊行されている。

ここで重要なのは、

古典的著作を、専門研究者だけではなく一般読者が所有できる形にした

ことである。

大学図書館でしか読めない。

専門家しか手にできない。

という本ではなく、

書店で買い、

電車で読み、

自宅の本棚へ置く。

そうした文化が生まれた。

3 「文庫本を持つ」ということ自体に意味があった

現在では、一冊の本を所有することの意味は相対的に小さくなっている。

検索すれば概要が分かる。

電子書籍もある。

動画解説もある。

しかし昭和期には、

本を持っていること自体が、

知識へアクセスする重要な手段だった。

一冊買う。

読み終わる。

本棚へ置く。

別の本を買う。

すると本棚そのものが、

その人の知的履歴になる。

文学。

哲学。

歴史。

社会科学。

それらが一つの部屋に並ぶ。

この環境には一つの特徴がある。

知識が物理的に隣り合う。

夏目漱石の隣にプラトンがある。

その隣に歴史書がある。

さらに経済学の本がある。

本棚は検索結果と違い、

一つの関心だけに最適化されていない。

この「偶然の隣接」が教養形成に一定の役割を持っていたと考えられる。

4 岩波文庫の分類そのものが一つの世界観だった

岩波文庫には帯色による分類がある。

現在の分類では、

黄帯が日本古典文学、

緑帯が日本近現代文学、

赤帯が外国文学、

青帯が哲学・歴史・宗教・自然科学など、

白帯が法律・政治・経済・社会、

という大きな構造を持つ。

これは単なる整理番号ではない。

一つの出版社が、

「人間が学ぶべき世界には、こうした領域がある」

と示していることになる。

文学だけではない。

哲学だけでもない。

政治だけでもない。

複数の知識領域を一つの体系の中へ置く。

ここに「教養」の特徴がある。

現代のインターネットでは、

知識は検索単位で出てくる。

岩波文庫では、

知識がシリーズ全体として提示される。

両者はかなり違う。

5 岩波新書~専門知を一般読者へ翻訳する装置

岩波文庫が古典への入口だったとすれば、

岩波新書は、

現代社会や専門知識への入口

として大きな役割を持った。

岩波新書は1938年11月に創刊された。

創刊時は赤い装丁だった。

岩波茂雄は、新書が普及し、電車の中で多くの人が赤い本を持っているようになることを望んだと伝えられている。

この発想は興味深い。

学問を大学の中だけに置かない。

専門家の研究を、

一般の読者でも読める大きさ、

価格、

文章量、

へ変換する。

つまり新書とは、

専門知と一般社会の中間に作られたメディア

だった。

6 新書は「大学の授業」と「新聞記事」の中間だった

新聞記事は短い。

専門書は長い。

大学の授業を受けるには大学へ行かなければならない。

新書は、その中間を埋める。

一冊で、

歴史。

政治。

経済。

科学。

哲学。

宗教。

社会問題。

などについて一定の知識を得る。

専門研究の完全な代替ではない。

しかし、

「この問題について初めて体系的に学びたい」

という読者には非常に適している。

ここに昭和型教養の重要な特徴がある。

専門家になる前に、まず全体像を知る。

この段階を支えたのが新書だった。

7 教養人とは「専門家ではない読者」でもあった

昭和の教養文化を考えると、

一つ面白いことがある。

教養の中心となる読者は、

必ずしも専門家ではない。

経済学者ではない人が経済学の新書を読む。

歴史家ではない人が歴史の本を読む。

哲学者ではない人が哲学書を読む。

文学研究者ではない人が古典文学を読む。

つまり、

自分の専門外の本を読むこと自体が教養だった。

現代社会では、

「それはあなたの専門ですか」

と問われることが多い。

もちろん専門性を尊重することは重要である。

しかし、

専門外だから読まない、

専門外だから考えない、

となれば、

社会全体を考える能力は弱くなる。

昭和の教養文化には、

専門家ではないからこそ読む、

という発想が一定程度存在していた。

8 総合誌~異なる知識が同じ一冊に入っていた

そして昭和の教養文化を支えたもう一つの媒体が、

総合誌である。

『中央公論』

『世界』

『文藝春秋』

などである。

『中央公論』は現在も、創刊130年を超える日本最長寿の月刊総合誌として、政治、経済、国際、教育、医療、科学、歴史、文化など幅広い領域を扱っている。

岩波書店も、1946年創刊の『世界』が戦後日本社会へ大きな影響を及ぼしてきた雑誌だと位置付けている。

総合誌には、

一つの問題だけを専門的に扱う雑誌とは違う特徴があった。

政治の論文の次に、

文学論がある。

その次に、

国際問題。

さらに、

科学。

社会問題。

文化。

が並ぶ。

つまり読者は一冊買うことで、

自分が最初から探していなかった問題にも出会う。

この偶然性は重要だった。

9 総合誌は「共通して考える問題」を作っていた

総合誌にはもう一つの役割がある。

読者へ情報を渡すだけではない。

「今、社会ではこの問題を考えるべきだ」

という議題を設定する。

憲法。

安全保障。

教育。

公害。

経済成長。

文学。

国際情勢。

編集部が特集を組むことで、

それまで詳しく知らなかった読者も、その問題へ接触する。

この意味で総合誌は、

知識を売る媒体であると同時に、

公共的な問題を編集する媒体

だった。

昭和の教養人とは、

一定の本を読んだ人というだけではない。

同じ時代の社会問題について、

異なる分野の文章を読みながら考える人でもあった。

10 昭和の教養には「編集された世界」があった

ここまでの共通点を見ると、

昭和の教養には一つの特徴が見える。

岩波文庫。

岩波新書。

総合誌。

いずれにも、

編集者がいる。

何を文庫へ入れるか。

誰に新書を書いてもらうか。

総合誌で何を特集するか。

出版社が選ぶ。

つまり読者は、

無限の情報から自分で全部選ぶのではなく、

ある程度編集された世界を読む。

この仕組みには欠点もある。

出版社の思想。

編集者の判断。

人的ネットワーク。

によって、読者が触れる情報が偏る可能性もある。

しかし利点もある。

何を読めばよいのか分からない人でも、知識への入口を持つことができる。

これは現在との大きな違いである。

11 大学進学と教養文化

昭和期、とくに戦後には大学教育も拡大していく。

大学には専門教育だけではなく、

一般教育、

教養課程、

という考え方があった。

専門学部へ進んでも、

哲学。

文学。

歴史。

外国語。

社会科学。

自然科学。

などへ触れる。

つまり、

専門家になる前に、

社会や人間について幅広く学ぶ段階

を置く。

これは文庫、新書、総合誌の文化とも相性がよかった。

大学で名前を聞いた思想家を文庫で読む。

新聞で知った社会問題を新書で調べる。

総合誌で専門家の議論を読む。

学問と出版文化がつながる。

ここに昭和型教養の一つの循環があったと考えられる。

12 「学生なら難しい本を読むべきだ」という文化

昭和の学生文化には、

難しい本へ挑戦すること自体に価値を置く傾向もあった。

完全に理解できなくても読む。

哲学書を買う。

思想書を持ち歩く。

議論する。

この文化には良い面と悪い面がある。

良い面は、

理解できないものへ時間を使う習慣

ができることだった。

すぐ役に立つか。

試験に出るか。

仕事に使えるか。

という基準だけで本を選ばない。

一方で悪い面もある。

難しい本を持っていることが、

知的な自己演出になる。

読んでいなくても本棚へ置く。

難解であること自体を価値と考える。

したがって、

昭和の教養文化を無条件に理想化するべきではない。

13 教養には「役に立たないものを読む余裕」が必要だった

現代では学習に対して、

資格になるか。

転職に使えるか。

収入が増えるか。

仕事に役立つか。

という実用性が重視されやすい。

もちろん合理的である。

しかし教養には、

すぐ役に立たない読書

も含まれる。

古代ギリシャ哲学。

古典文学。

宗教史。

美術史。

思想史。

これらは明日の仕事に直接使えないかもしれない。

しかし、

国家とは何か。

正義とは何か。

人間とは何か。

幸福とは何か。

死とは何か。

という問いを考える材料になる。

昭和型教養には、

実用性から一度離れて考える時間

が比較的強く価値付けられていた。

14 新聞も教養メディアだった

昭和の教養文化では新聞も重要だった。

新聞には、

政治。

経済。

国際。

社会。

文化。

書評。

論壇。

が同じ紙面にある。

現在の検索では、

自分が興味を持ったものを探す。

新聞では、

興味がなくても同じ紙面に置かれている。

国際政治の記事の隣に文化記事がある。

経済面をめくれば書評がある。

この構造は総合誌と似ている。

つまり昭和の情報環境には、

一つの媒体を読むだけで複数の領域へ触れる仕組み

が多かった。

15 テレビの登場は教養を壊したのか

テレビが普及すると、

「人々が本を読まなくなった」

という批判が起こりやすくなる。

しかしテレビを単純に反教養的な媒体と考えるのも適切ではない。

テレビには、

ドキュメンタリー。

歴史番組。

科学番組。

討論番組。

文学紹介。

教育番組。

があった。

つまり、

出版物を読まなかった人にも、

歴史や科学へ接触する機会を与えた。

テレビは一面では、

教養の大衆化

を進めた。

ただし、

文章で読む教養

と、

映像で知る教養

では、思考の方法が違う。

16 読む教養と見る教養

本では、自分の速度で読む。

戻る。

止まる。

考える。

線を引く。

別の本と比較する。

テレビでは基本的に、

番組の速度で情報が流れる。

その代わり、

映像。

音声。

図表。

現場映像。

を使える。

どちらが優れているという話ではない。

しかし、

教養の獲得方法が変わった

ことは重要である。

昭和後半には、

文庫・新書・総合誌・新聞

という活字文化に、

テレビ

が加わった。

これによって「教養人」の姿も変わった。

17 昭和の教養は「少ない情報」を深く読む文化だった

現在と昭和を比べた時、最も大きな違いの一つは、

情報量である。

昭和にはインターネットがない。

検索エンジンもない。

動画共有サービスもない。

SNSもない。

したがって、個人が一日に接触できる情報量は現在より少なかった。

これは不便である。

しかし、

一冊の本。

一つの記事。

一人の著者。

と長く付き合いやすい環境でもある。

現在は逆である。

情報へ到達する速度は劇的に速くなった。

しかし、

一つの情報へ滞在する時間は短くなりやすい。

昭和型教養を考える時、

知識量より、情報との接触時間

を見る必要がある。

18 「全部読む」から「検索して必要な部分だけ読む」へ

本を読む時には、

著者が設定した順番で進むことが多い。

第一章。

第二章。

第三章。

前提から結論へ進む。

検索の場合は違う。

知りたい部分へ直接飛ぶ。

これは極めて効率的である。

しかし一方で、

自分が質問しなかったことには出会いにくい。

例えば「ケインズとは誰か」と検索すれば、

ケインズについての答えは得られる。

しかし経済思想史全体を一冊読むと、

ケインズだけでなく、

古典派。

マルクス。

新古典派。

制度派。

などとの関係が見えてくる。

つまり、

検索は答えに強い。

読書は、

問いの背景を広げることに強い。

昭和の教養文化は後者を重視する環境だった。

19 昭和の教養には「共通の本」があった

もう一つ重要なのは、

多くの人が同じ本の名前を知っていたことである。

実際に読破していたかどうかは別として、

夏目漱石。

森鴎外。

ドストエフスキー。

カント。

マルクス。

など、

「教養として知っておくべき名前」

が比較的共有されていた。

新書や文庫のシリーズも同じである。

同じ出版レーベルを通して、

多くの読者が似た知識へ触れる。

その結果、

議論するための共通背景

が作られる。

現在は読むものが多様化している。

これは自由という点では大きな進歩である。

しかし、

共通して知っている本、

共通して読んだ文章、

は少なくなりやすい。

20 共通知識は本当に必要なのか

では、全員が同じ本を読む社会の方がよいのだろうか。

そうとも言えない。

共通の教養には、

排除

も伴う。

「この本を読んでいない人は教養がない」

「この思想を知らない人は話にならない」

という階層意識が生まれることがある。

出版社や大学が選んだ古典だけが、

価値ある知識

とされる危険もある。

世界には、

地域文化。

女性の経験。

労働者の文化。

少数者の歴史。

大衆文化。

など、従来の「教養」から十分に扱われなかった領域もある。

したがって昭和の教養を評価するとき、

共通基盤という長所と、選択された知識による排除という短所の両方

を見る必要がある。

21 岩波文化は「昭和の教養」そのものだったのか

昭和の教養を語ると、

岩波文化

という言葉を連想する人もいる。

岩波書店は、

岩波文庫。

岩波新書。

『世界』。

『思想』。

『科学』。

『図書』。

など、文学・思想・学術・社会問題を横断する出版活動を行ってきた。『世界』は1946年創刊、『思想』は1921年、『科学』は1931年、『図書』は1938年創刊である。

この体系を見ると、

古典を読む。

現代社会を知る。

思想を読む。

科学を読む。

総合誌で社会問題を考える。

という教養形成の経路を、一つの出版社がかなり広く提供していたことが分かる。

しかし、

昭和の教養=岩波

とするのも狭すぎる。

22 中央公論、文藝春秋、新潮なども別の教養を作った

昭和の読者は岩波書店だけを読んだわけではない。

『中央公論』

『文藝春秋』

『新潮』

など、それぞれ異なる編集文化を持つ出版社・雑誌が存在した。

現在の『中央公論』も、政治・経済から科学・文化までを横断している。

重要なのは、

一つの正しい教養があったのではない、

ということである。

岩波的教養。

中央公論的教養。

文藝春秋的教養。

文学中心の教養。

社会科学中心の教養。

それぞれが存在した。

だから昭和の教養文化を、

一つの出版社の思想へ還元するべきではない。

23 教養は社会的地位を示す記号にもなった

ここで昭和の教養文化の負の側面にも触れる必要がある。

難しい本を読む。

有名な思想家を知っている。

外国文学を読む。

こうしたことが、

社会的な自己評価につながる場合がある。

つまり教養は、

知識であると同時に、文化的な地位を示す記号

にもなる。

「その本を読んでいないのか」

「そんなことも知らないのか」

という形で他人を評価する。

こうなると、

教養は人間の視野を広げるものではなく、

他者と自分を区別する道具になる。

これは教養文化の矛盾である。

24 「教養人」が男性・都市・大学中心になりやすかった問題

昭和の典型的な教養人像を考えると、

大学へ行き、

都市で働き、

本を購入し、

総合誌を読む、

というモデルが想定されやすい。

しかし日本社会全体がその生活を送っていたわけではない。

家事や育児に多くの時間を使う人。

長時間労働をする人。

農業や漁業に従事する人。

高等教育へ進まなかった人。

こうした人々にも当然、生活の中で蓄積された知識や文化がある。

したがって、

出版物中心の教養だけを「本当の教養」と考えること自体が、一つの歴史的価値観

だったと見る必要がある。

25 専門化は教養を弱くしたのか

戦後の日本社会が発展すると、学問も仕事も専門化する。

医学。

工学。

経済。

法律。

情報科学。

それぞれが高度になる。

一人の人間がすべてを深く知ることは不可能になる。

すると、

「広く浅く知る教養」

より、

「一つを深く知る専門性」

の価値が高まる。

これは社会の進歩でもある。

高度な医療を、

一般教養だけで行うことはできない。

しかし専門化には、

別の問題がある。

自分の専門以外の問題が見えにくくなる。

ここに教養の必要性が再び出てくる。

26 現代社会ほど教養が必要なのではないか

現在の問題を考えてみる。

人工知能。

人口減少。

気候変動。

社会保障。

安全保障。

地域衰退。

どれも一つの専門分野だけでは理解できない。

例えば人工知能なら、

情報科学。

数学。

法律。

倫理。

教育。

労働。

経済。

著作権。

が関わる。

人口減少なら、

人口統計。

経済。

医療。

住宅。

交通。

教育。

家族。

地域文化。

が関わる。

つまり現代社会は、

昭和以上に総合的思考を必要としている。

それにもかかわらず、情報環境は専門別に細分化している。

ここに現代の教養問題がある。

27 インターネットは教養を破壊したのか

インターネットには大きな利点がある。

古典文学を無料で読める。

大学の講義を見られる。

論文を検索できる。

公的統計へ直接アクセスできる。

海外の資料も読める。

昭和の読者から見れば、

夢のような知識環境である。

だから、

インターネットによって教養が破壊された

と考えるのは正確ではない。

むしろ、

知識へのアクセスは歴史上かつてないほど広がった。

問題は別のところにある。

28 情報が多すぎて「何を読めばよいか」が分からない

昭和には情報が少なかった。

だから文庫や新書のシリーズが、

「まずこれを読んでみる」

という入口を提供できた。

現在は情報が多すぎる。

検索結果。

動画。

SNS。

ブログ。

ニュース。

電子書籍。

論文。

すべてが並ぶ。

すると、

どれを読むかを決める能力そのものが必要になる。

昭和では出版社が編集した。

令和では読者自身が編集しなければならない。

ここが決定的な違いである。

29 アルゴリズムは現代の「編集者」なのか

現在では、多くの情報が推薦機能によって届けられる。

過去に見たもの。

検索したもの。

反応したもの。

に近い情報が表示される。

これは非常に便利である。

しかし、

自分が好きなものを見れば見るほど、

同じ分野の情報が増える。

文学好きには文学。

投資好きには投資。

政治好きには政治。

すると、

一つの分野を深く知ることはできても、

異なる分野との偶然の出会いが減る可能性がある。

昭和の総合誌とは逆方向の構造である。

総合誌は、

自分が選ばなかった記事も同じ冊子に入っている。

推薦システムは、

自分が好みそうなものを集める。

ここには教養形成の大きな違いがある。

30 令和には「共通の本棚」がない

昭和には、

文庫シリーズ。

新書シリーズ。

新聞。

総合誌。

が一種の共通本棚として機能した。

令和には、

一人ひとり違う画面がある。

検索履歴が違う。

推薦される動画も違う。

読むニュースも違う。

SNSのフォロー相手も違う。

つまり、

社会全体で共有する「知識への入口」が弱くなった。

これは多様化という意味では利点である。

しかし、

違う意見を持つ以前に、

違う事実、

違う問題、

違う世界

を見ている状態にもなり得る。

31 昭和の教養を復活させればよいのか

では、岩波文庫を読めば昔の教養が復活するのだろうか。

そう単純ではない。

昭和の出版文化をそのまま復活させる必要はない。

当時の教養には、

限られた編集者が知識を選ぶ。

特定の文化を正統とする。

学歴や読書歴による階層意識を生む。

という問題もあった。

現代には現代の利点がある。

多様な人が発信できる。

地方からでも参加できる。

専門家の一次情報へ直接届く。

少数者の経験も知ることができる。

したがって必要なのは、

昔へ戻ることではない。

32 昭和から引き継ぐべきなのは「本の名前」ではない

昭和の教養文化から学べるものがあるとすれば、

必ずしも、

カントを読め。

岩波文庫を読め。

総合誌を読め。

という具体的な読書リストではない。

重要なのは、

異なる分野をつなげる習慣

である。

文学を読んだら、

その時代の歴史を調べる。

経済を学んだら、

政治との関係を見る。

科学技術を学んだら、

倫理や法律も考える。

現代社会のニュースを見たら、

歴史的背景を調べる。

こうした横断的思考が教養の中心になる。

33 令和型教養に必要な五つの能力

昭和型教養を現代へ置き換えるなら、少なくとも五つの能力が考えられる。

第一に、

一つの専門分野を持つこと。

広く浅い知識だけでは、情報の正確性を判断しにくい。

第二に、

専門外の分野にも触れること。

自分の専門だけで社会全体を説明しない。

第三に、

長い文章を読む能力を維持すること。

短い情報だけでは複雑な問題を理解しにくい。

第四に、

一次資料へ戻ること。

要約だけでなく、統計、原文、公的資料を確認する。

第五に、

異なる考えを読むこと。

自分が最初から賛成できる文章だけを読まない。

これが現代型教養の基本になるのではないだろうか。

34 AI時代の教養とは何か

AI(Artificial Intelligence・人工知能)が普及すると、

事実を覚えていることの価値はさらに変わる。

人名。

年代。

用語。

概要。

は短時間で検索・整理できる。

すると、

教養は不要になるようにも見える。

しかし、むしろ逆かもしれない。

AIが答えを出した時、

その答えが妥当か判断するには、

背景知識が必要になる。

どの論点が抜けているか。

歴史的背景は正しいか。

価値判断と事実が混ざっていないか。

複数の見方があるのではないか。

こうした判断には、

一分野の知識だけでは足りない。

つまりAI時代には、

知識を記憶する教養から、知識を位置付ける教養へ

変わっていく可能性がある。

35 教養とは「すぐ答えを出さない能力」でもある

教養の重要な役割は、

正解をたくさん知ること

だけではない。

問題を単純化しないことでもある。

地方は良い。

都会は悪い。

若者は進歩的。

高齢者は保守的。

科学技術は善。

伝統は善。

こうした単純な二項対立を疑う。

歴史を知れば、

現在の制度が突然できたものではないことが分かる。

文学を読めば、

人間が合理性だけで動かないことが分かる。

経済を学べば、

理想だけでは資源配分できないことが分かる。

科学を学べば、

直感が間違うことがあると分かる。

つまり教養とは、

簡単な答えに飛び付かないための知識

でもある。

36 昭和の教養を美化してはいけない

ここで最初の問いへ戻ろう。

昭和には、本当に現代より教養があったのだろうか。

これは簡単には証明できない。

読書文化が強かった時期はあった。

岩波文庫や新書、総合誌が知的文化の重要な媒体だったことも事実である。

しかし、

国民全員が高度な本を読んでいたわけではない。

教養文化から距離のある人もいた。

読書を社会的地位の記号として使う人もいた。

したがって、

昭和=教養、令和=無教養

という比較は成立しない。

重要なのは、人間の質ではなく環境の違いである。

結論~昭和の教養とは「知識の共通本棚」だった

昭和の教養とは何だったのか。

一言で表すなら、

社会にある程度共有された「知識の本棚」を持つこと

だったのではないだろうか。

岩波文庫が古典を並べる。

岩波新書が専門知を一般読者へ運ぶ。

総合誌が政治、経済、文学、科学、文化を同じ一冊へ置く。

新聞が国際問題と書評を同じ紙面へ載せる。

大学が専門教育の前後に教養教育を置く。

こうした複数の仕組みが、

文学。

哲学。

歴史。

社会。

科学。

を完全に別々の世界へしなかった。

もちろん、その本棚には偏りがあった。

誰が「読むべき本」を選ぶのか。

誰の思想が正統とされるのか。

誰が教養人と認められるのか。

昭和型教養には、そうした問題もあった。

だから私たちは、

昔の本棚をそのまま復元する必要はない。

しかし現在、

私たちは別の問題を抱えている。

情報は無限にある。

専門家も多い。

動画も論文も統計もすぐに見られる。

それでも、

異なる知識を一つの世界として見ることが難しくなっている。

検索すれば答えは出る。

しかし、

何を検索すべきかは教えてくれない。

SNSを開けば情報は流れる。

しかし、

自分の関心の外に何があるかは見えにくい。

専門家は正確な知識を持つ。

しかし、

専門と専門をどう結ぶかは別の問題である。

その意味で、

昭和の教養から現代が学ぶべきものは、

難しい本を読んでいたという外形ではない。

一つの専門だけで世界を理解したと思わない姿勢

なのではないだろうか。

古典文学を読む。

歴史を知る。

科学を学ぶ。

経済を見る。

社会制度を調べる。

異なる思想も読む。

それらを一人の人間の中でつなげていく。

これが教養であるなら、

教養は昭和とともに消えたわけではない。

ただ、

出版社や総合誌が用意してくれた「共通の本棚」が弱くなり、

自分自身で本棚を作らなければならない時代になった

のである。

昭和の教養人は、

何を読むかを出版社や大学からある程度教えてもらえた。

令和の私たちは、

無限の情報の中から、

何を読み、

何を疑い、

何と何を結び付けるかまで、

自分で決めなければならない。

その意味では、

現代の教養形成は昭和より簡単になったのではない。

情報へのアクセスは容易になった。

しかし、

知識を自分の中で一つの世界へ組み立てる仕事は、むしろ個人へ委ねられるようになった。

昭和の教養を懐かしむより、

その仕組みが果たしていた役割を理解し、

現代の環境でどう再構築するかを考える。

それが、令和の時代に「教養とは何か」を問う意味なのではないだろうか。

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