リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

梶井基次郎の『檸檬』を読んで、少し困った経験のある人は多いのではないだろうか。

大きな事件が起きるわけではない。恋愛があるわけでもなく、殺人もなければ、人生を変えるような決断が語られるわけでもない。

主人公らしき「私」は京都の街を歩き、果物屋で一個の檸檬を買う。そして最後には、その檸檬を丸善の本の上に置いて店を出ていく。

それだけである。

しかも彼は、その檸檬を「爆弾」に見立てる。

丸善が爆発したところを想像して、妙に愉快な気分になる。

初めて読んだときには、「それで、結局何の話だったのだろう」と感じても不思議ではない。

しかし、『檸檬』のおもしろさは、まさにそこにある。

この小説は、檸檬について書かれた小説ではない。

丸善を爆破したい男の小説でもない。

もっと言えば、京都の街を歩く青年の日常を描いた作品ですらない。

『檸檬』が描いているのは、自分を押しつぶしていた世界が、ほんの一瞬だけ別のものに見える瞬間なのである。

主人公は、最初から世界に疲れている

『檸檬』の冒頭には、作品全体を決めてしまう重要な言葉が出てくる。

「えたいの知れない不吉な塊」。

これが「私」の心を押さえつけている。

ここで梶井基次郎は、不安の原因をはっきり説明しない。

仕事に失敗したとも、恋人と別れたとも、誰かに裏切られたとも書かない。ただ何か分からないものが胸に居座り、以前は好きだったものまで楽しめなくなっている。

この感覚は、現代の私たちにも意外なほど分かりやすい。

何か重大な事件があったわけではない。それなのに気分が重い。本を読んでも楽しくない。買い物に行っても心が動かない。以前なら魅力的だったものが、なぜか色褪せて見える。

原因を一つに特定できないからこそ、厄介なのである。

「私」は病んでいるとも読めるし、貧困や将来への不安を抱えているとも読める。しかし梶井は、それを診断名のように整理しない。

ただ、世界との間に薄い膜が張られてしまったような青年を置く。

そして重要なのは、彼自身が暗いだけではなく、彼の目には世界そのものまで重く見えているということである。

なぜ、立派なものではなく「みすぼらしいもの」に惹かれるのか

そんな「私」は、以前なら好んでいた立派な店や美しい品物を避けるようになる。

代わりに惹かれるのが、裏通りや安っぽいもの、壊れかけたもの、少し怪しげな場所である。

これは単なる変わった趣味ではない。

自分が弱っているとき、人は「完成された世界」に居心地の悪さを覚えることがある。

立派な建物、整然と並んだ商品、文化的な書物、高価な品々。そうしたものは本来美しいはずなのに、自分の内側が崩れていると、その完全さがかえって圧力になる。

『檸檬』の「私」にとって丸善がまさにそうだった。

丸善は本や美術品や舶来品が並ぶ、知的で洗練された場所である。

かつてなら心を躍らせた場所だった。

ところが今の「私」には、その豊かさが苦しい。

欲しいものがたくさん並んでいるのに買えないから、というだけではないだろう。

むしろそこには、「文化」「知性」「美」「豊かさ」といった、完成された価値の世界がある。

その世界に対して、自分だけがうまく参加できない。

だから丸善に入ると、ますます気持ちが沈んでしまう。

ここに『檸檬』の一つの重要な構造がある。

世界が醜いから苦しいのではない。美しい世界に自分が入れないこともまた、人を苦しませるのである。

そこで一個の檸檬が現れる

そんな青年が、寺町の果物屋で檸檬を見つける。

ここから、小説の空気が変わる。

檸檬は高価なものではない。

芸術作品でもなければ、知識を与えてくれるものでもない。社会的な地位を示す商品でもない。

ただの果物である。

ところが「私」は、その色、形、重さ、冷たさに強く惹きつけられる。

ここが非常におもしろい。

それまで彼を苦しめていたものは、頭の中にある正体の分からない不安だった。

それに対して檸檬は、徹底的に具体的である。

黄色い。

丸みがある。

手のひらに収まる。

重さがある。

冷たい。

つまり檸檬は、「考えなければ分からないもの」ではなく、「触れば分かるもの」なのである。

将来の不安には形がない。

貧困にも、憂鬱にも、人生の行き詰まりにも、手でつかめる形はない。

しかし檸檬には形がある。

その一点だけでも、この小さな果実は「えたいの知れない不吉な塊」と正反対の存在になっている。

正体不明の重苦しさに対して、鮮やかで、単純で、触れることのできる黄色い物体。

だから檸檬を手にした瞬間、「私」の世界は少しだけ変わり始める。

檸檬が美しいのではなく、世界を見る目が変わった

ここで『檸檬』を「美しい果物に癒やされた物語」と読んでしまうと、少し物足りない。

重要なのは檸檬そのものの美しさだけではない。

檸檬を持ったことで、主人公の世界を見る方法が変わったことなのである。

それまで街は重苦しかった。

丸善も苦しかった。

本も画集も彼を疲れさせるものだった。

ところが檸檬という一個の異物を手にした途端、同じ世界が遊び場のように変わっていく。

そして彼は丸善へ入る。

そこで画集を積み上げ、その頂上に檸檬を置く。

考えてみれば、実にくだらない行為である。

しかし、このくだらなさこそが重要なのだ。

丸善の商品には、本来それぞれ意味がある。

本は読むものだし、画集は鑑賞するものである。店の商品は丁寧に扱わなければならない。

ところが「私」は、その意味を勝手に壊してしまう。

画集を積み木のように積み上げ、その上に果物を載せる。

つまり彼は一瞬だけ、社会が決めた物の意味から自由になる。

本は「読むべきもの」ではなくなる。

檸檬は「食べるもの」ではなくなる。

丸善は「買い物をする場所」ではなくなる。

全部が彼の想像力によって別のものに変換される。

その瞬間、これまで自分を圧迫していた世界に対して、「私」の側が主導権を握るのである。

なぜ檸檬は「爆弾」になったのか

そして檸檬は、ついに爆弾になる。

もちろん本物の爆弾ではない。

「私」は、積み上げた画集の上に檸檬を置き、そのまま丸善を出る。

そして想像する。

あの檸檬が爆発して、丸善が大変なことになっているのではないか。

ここだけ取り出せば、少し危ない青年にも見える。

しかし彼が本当に破壊したいのは建物ではない。

彼が壊したいのは、自分を押しつぶしてきた世界の秩序なのではないだろうか。

丸善に並ぶ本や画集は、美しく文化的で価値のあるものだ。

しかし今の彼には、その価値の体系そのものが重い。

そこで一個の安い檸檬を持ち込み、それを爆弾にしてしまう。

文化の殿堂ともいえる空間の真ん中に、果物一個を置く。

そして頭の中で全部吹き飛ばす。

これは現実の破壊ではない。

想像力による小さな反乱である。

会社を辞めるわけでもない。

社会を変えるわけでもない。

貧困から抜け出すわけでもない。

病気が治るわけでもない。

それでも人間は、自分の頭の中で世界との関係を少し変えることができる。

『檸檬』は、そのごく小さな自由を描いている。

だから、この小説では何も解決していない

ここは大切なところである。

物語の最後で、「私」の問題は何一つ解決していない。

お金が増えたわけでもない。

健康になったわけでもない。

将来が開けたわけでもない。

胸を押さえていた「不吉な塊」の根本原因が消えたとも書かれていない。

つまり『檸檬』は、問題解決の物語ではないのである。

普通の物語なら、主人公は何かを乗り越え、成長し、状況を変えて終わる。

しかし現実の人生では、そんな劇的な解決などめったに起こらない。

憂鬱な日に一冊の本を読んだからといって人生は変わらないし、美しい夕焼けを見ても借金はなくならない。

それでも、ほんの数分だけ気持ちが軽くなることはある。

帰り道で急に風が気持ちよく感じられることがある。

どうにもならない現実を、少しだけ違った角度から眺められる瞬間がある。

梶井基次郎が書いたのは、おそらくその種類の救いである。

大きな救済ではない。

人生を立て直すほどの力もない。

しかし、その一瞬があるから人間は歩いていける。

『檸檬』の最後にある妙な爽快感は、そこから生まれている。

「黄色」がこれほど鮮烈に残る理由

『檸檬』を読み終えたあと、多くの人の頭には黄色い果実が残る。

なぜだろう。

作品の冒頭にある世界は、どこか灰色である。

不安、倦怠、貧しさ、病、憂鬱。

そこへ突然、鮮烈な黄色が入ってくる。

色彩というものは理屈より速い。

「希望とは何か」と説明されれば、人は考えなければならない。

しかし真っ黄色な檸檬を目の前に置かれれば、考えるより先に目に飛び込んでくる。

だからこの作品では、「私は少し元気になった」と説明する必要がない。

檸檬がある。

その黄色だけで、主人公の内部に起きた変化が読者にも伝わる。

梶井基次郎の巧さは、心理状態を長々と説明するのではなく、色や重さや手触りによって見せてしまうところにある。

読者は「私」の憂鬱について完全には理解できなくても、檸檬の鮮やかさなら理解できる。

そこに文学としての強さがある。

『檸檬』は青春小説でもある

そして、もう一つ忘れてはいけない。

この奇妙な行為には、どこか若さがある。

大人になってから丸善のような書店へ入り、画集を積み上げ、その上に檸檬を置いて「爆弾だ」と想像する人はあまりいない。

くだらない。

役に立たない。

現実を何も変えない。

しかし、その無意味な行為によって世界が一瞬おもしろく見える。

そこには若者特有の感覚がある。

若い時代、人は世界に強く傷つく一方で、世界を勝手に作り替える力も持っている。

路地一本が特別な場所になる。

安い果物一個が宝物になる。

本屋が爆破される空想だけで、街を歩く足取りが軽くなる。

年齢を重ねるほど私たちは、「そんなことをして何になるのか」と考えるようになる。

だが『檸檬』の主人公は、そんな計算をしない。

だからこそ、この作品には百年近くたっても消えない若さがある。

結局、『檸檬』は何を描いているのか

では改めて問いたい。

『檸檬』は結局、何を描いているのだろう。

一言でいえば、

どうにもならない現実の中で、人間が想像力によって一瞬だけ自由になる物語

なのだと思う。

「私」を苦しめているものは最後まで消えない。

しかし檸檬を一個手にしたことで、彼は世界を見る方法を変える。

重苦しかった街が遊びの空間になる。

自分を圧迫していた丸善が、想像上の爆破対象になる。

ただの果物が爆弾になる。

現実そのものは変わらない。

変わったのは、現実との距離である。

そこに『檸檬』の不思議な明るさがある。

人生には、ときどき何も解決できない日がある。

努力しても答えが出ず、原因すら分からないまま気分だけが沈んでいる日もある。

そんな日に必要なのは、必ずしも壮大な人生論ではないのかもしれない。

一杯のコーヒーかもしれない。

一本の音楽かもしれない。

偶然入った路地かもしれない。

そして梶井基次郎にとって、それは一個の檸檬だった。

だから『檸檬』は、一個の果物についての小説ではない。

世界に押しつぶされそうになった人間が、想像力を使ってほんの一瞬だけ世界の上に立つ。

その小さな逆転を描いた小説なのである。

そして丸善を出た「私」が楽しそうに京都の街を歩いていく姿を思うと、私たちは少しだけ分かる気がする。

人生を救うものは、必ずしも人生を変えるほど大きなものでなくてもよい。

ときには、一個の檸檬くらいの大きさで十分なのだ。

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三島由紀夫の『金閣寺』を読み終えたとき、もっとも大きな疑問として残るのは、主人公・溝口がなぜ金閣を燃やしたのかということである。

金閣が嫌いだったからではない。むしろ逆である。

溝口にとって金閣は、幼いころから憧れ続けた、この世でもっとも美しいものだった。それほど愛し、崇拝した存在を、なぜ最後には自らの手で焼き払わなければならなかったのか。

この矛盾を理解するには、『金閣寺』を単なる放火事件の小説として読むのではなく、「美に支配された人間が、その支配から逃れようとする物語」として読む必要がある。

金閣は最初から現実の建物ではなかった

溝口にとって金閣は、実物を見る以前から特別な存在だった。

父親から金閣の美しさについて繰り返し聞かされるうちに、少年の心の中には現実の建築物とは別の「理想の金閣」が作られていく。

ここが重要である。

普通であれば、人は美しいものを見て感動する。しかし溝口の場合、順序が逆だった。実物を見る前に、頭の中ですでに絶対的な美が完成していたのである。

そのため、実際の金閣を初めて見たとき、現実の建物は想像していたほど圧倒的ではない。

ところが、それによって金閣への信仰が消えるわけではない。むしろ時間が経つにつれて、現実の金閣と心の中の金閣が再び重なり、彼にとって金閣は単なる寺院ではなくなっていく。

金閣は「美そのもの」に近い存在になっていった。

そして、この美が次第に溝口の人生を支配する。

溝口は自分自身を「美の反対側」に置いている

溝口には吃音がある。

彼にとって吃音は単なる話しにくさではない。自分と他人との間にある壁として意識されている。

言葉を自由に発することができないため、他者との関係に自信を持てない。そこから、自分は周囲の人間とは違うという意識が強くなっていく。

さらに溝口は、自分自身を美しい人間だとは考えていない。

つまり彼の世界には、

完全な美としての金閣

と、

不完全な存在としての自分

という対立がある。

この距離が大きければ大きいほど、金閣は美しくなる。

しかし同時に、自分自身は惨めになる。

金閣を愛することと、自分を否定することが、溝口の中ではほとんど同じことになってしまうのである。

この構造が、『金閣寺』の悲劇の中心にある。

金閣は溝口が現実へ進むことを妨げる

さらに重要なのは、金閣が単に眺める対象ではなく、溝口の行動を阻む存在として描かれていくことである。

溝口は女性との関係を持とうとする。しかし現実の世界に踏み込もうとする重要な場面になると、彼の意識の中に金閣が現れる。

本来、美しいものは人生を豊かにするはずである。

ところが溝口の場合は逆だった。

金閣の美しさがあまりに完全であるため、現実の恋愛や欲望、人間関係がすべて不完全なものに見えてしまう。

現実の女性より金閣のほうが美しい。

現実の経験より、頭の中にある美のほうが完全である。

そうなると、人は現実を生きられなくなる。

金閣は溝口にとって憧れであると同時に、現実世界へ出ていくことを妨げる巨大な壁になっていった。

戦争中、溝口は金閣が焼けることを期待していた

『金閣寺』を理解するうえで見逃せないのが、戦争である。

太平洋戦争末期、京都も空襲を受ける可能性があった。金閣もいつ焼失するかわからない。

この状況は、溝口に奇妙な感覚を与える。

永遠に存在するように思われた金閣が、戦争によって失われるかもしれない。

つまり、自分と金閣が同じ「滅びる世界」に存在することになる。

それまで金閣は、自分とは別の次元にある絶対的な美だった。しかし焼失する可能性を持った瞬間、金閣もまた有限な存在になる。

溝口にとって、それはある意味で救いだった。

ところが戦争は終わり、金閣は焼けなかった。

人間が死に、都市が焼かれ、社会が大きく変わったにもかかわらず、金閣は以前と同じ姿で残った。

ここで金閣は再び、溝口の前に圧倒的な存在として立ちはだかる。

自分の人生は変化する。

人間は老い、失敗し、死ぬ。

しかし金閣は変わらない。

この不均衡が、溝口にとって次第に耐え難いものになっていく。

「美しいから壊したい」という逆説

普通に考えれば、美しいものは保存したいと思う。

しかし『金閣寺』では、美が完全であればあるほど、それを破壊したいという逆説が生まれる。

なぜか。

金閣が存在し続ける限り、溝口は金閣と比較され続けるからである。

もちろん、実際に誰かが彼と金閣を比較しているわけではない。比較しているのは溝口自身である。

金閣を見るたびに、自分の不完全さが意識される。

金閣が美しければ美しいほど、自分の人生が貧弱に感じられる。

つまり溝口にとって、

金閣の存在=自分の劣等感を永続させる装置

になってしまった。

そう考えると、彼に残された選択肢は極端なものになる。

自分自身を変えるか。

金閣を消すか。

現実の人間関係を通じて自分を変えていくことができなかった溝口は、後者を選ぶ。

それが放火だった。

金閣を燃やすことは「美を所有する」ことでもあった

しかし、単に金閣が邪魔だから燃やしたと考えるだけでは、『金閣寺』の複雑さは十分に説明できない。

放火には、もう一つの意味がある。

それは、金閣を自分の行為の中へ取り込むことである。

それまで金閣は、溝口とは関係なく存在していた。

彼が苦しんでも、恋愛に失敗しても、人生に絶望しても、金閣は変わらない。

その意味で、金閣は溝口を必要としていない。

しかし自分が火をつければ事情は変わる。

金閣の運命を決めるのは溝口になる。

崇拝するだけだった人間が、美しいものの生死を決定する側へ回るのである。

これは非常に歪んだ形ではあるが、金閣を自分のものにしようとする行為とも解釈できる。

手に入らないものを破壊することで、初めてその存在に決定的に関与する。

溝口にとって放火は、美から逃げる行為であると同時に、美をもっとも強烈な形で自分と結び付ける行為でもあった。

柏木は「現実を生きる別の方法」を見せる

作品の中で溝口と対照的な人物が柏木である。

柏木もまた、自分の身体に強いコンプレックスを持っている。

しかし、そのコンプレックスへの向き合い方が溝口とは違う。

溝口が自分の劣等感によって現実から遠ざかっていくのに対し、柏木はむしろそれを利用しながら現実の人間関係の中へ入っていく。

倫理的に好ましい人物として描かれているわけではない。

それでも、柏木は「不完全な自分のまま現実を生きる」ことができる。

溝口には、それができない。

彼は完全な美にこだわり続ける。

ここに二人の決定的な違いがある。

人間は本来、不完全な存在である。

恋愛も友情も身体も人生も、不完全である。

柏木はその不完全さの中で生きる。

溝口はそれを受け入れられない。

だから最後には、不完全な自分ではなく、完全な美のほうを破壊することになる。

金閣放火は自殺ではなかった

物語の終盤で重要なのは、溝口が金閣とともに死ななかったことである。

放火という行為だけを見れば、破滅へ向かう物語のようにも見える。

しかし最後に残るのは、むしろ「生きる」という方向である。

ここに『金閣寺』の大きな転換がある。

溝口は金閣を燃やすことで、自分を支配していた絶対的な美を消した。

その結果、彼の前には不完全な現実だけが残る。

しかし、それこそが人間が生きる世界なのである。

美しくないかもしれない。

理想的でもない。

失敗するかもしれない。

それでも、自分自身が行動できる世界である。

したがって、金閣放火は単純な破滅ではない。

溝口にとっては、極端で犯罪的な方法ではあるものの、現実の人生へ戻ろうとする行為でもあったと考えることができる。

なぜ溝口は金閣を燃やしたのか

結局、溝口が金閣を燃やした理由を一つだけに絞ることはできない。

金閣への憎しみだけでもなければ、単純な劣等感だけでもない。

彼は金閣を愛していた。

しかし、その美しさに支配されていた。

金閣が完全であるほど、自分が不完全に見えた。

金閣が永遠であるほど、自分の人生が無意味に感じられた。

そして金閣が存在する限り、自分は現実の世界へ踏み出すことができないと考えるようになった。

だから彼は、美を手に入れようとするのではなく、美そのものを消すことを選んだ。

『金閣寺』の放火を理解する鍵は、ここにある。

溝口は金閣が醜かったから燃やしたのではない。美しすぎたから燃やしたのである。

そして、その美を破壊した先で初めて、完全ではない自分自身の人生を生きようとした。

『金閣寺』は、美とは何かを描いた小説であると同時に、さらに逆説的な問いを私たちに突きつける。

人間は、あまりにも完全な美を前にして、それでも自由に生きることができるのだろうか。

金閣を燃やした溝口の行動は決して肯定できない。

しかし、三島由紀夫が描こうとしたのは犯罪の是非だけではない。

人間が理想を絶対化したとき、その理想は憧れから支配へ変わることがある。

そして『金閣寺』は、その支配から逃れるために「美そのものを破壊する」という極端な地点まで追い詰められた一人の青年を描いた小説なのである。

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