リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 古本屋で昭和の中公文庫を眺めていると、ときどき時間の感覚がおかしくなる。少し黄ばんだ紙、小さな活字、いまより地味な装幀、その背表紙の中に三島由紀夫の名前を見つけると、三島という作家が昔からずっと「中公文庫の作家」であったように思えてくる。しかし年代を確認してみると、この印象には一つ大きな錯覚が含まれている。

 現在につながる中公文庫が創刊されたのは1973年6月10日、昭和48年のことである。三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決したのは1970年11月25日だから、三島は現在の中公文庫を見ることなく亡くなっている。自分の本に中公文庫のカバーが掛かり、本屋の文庫棚に並び、電車の中で読まれる光景を、三島本人は一度も見ることがなかった。

 つまり三島由紀夫は中公文庫に何冊もの本を残しているのに、「中公文庫の時代」を一日も生きていないのである。

 この小さな時間のねじれから、中公文庫と三島由紀夫という組み合わせを眺めてみると、単なる出版社と作家の関係とは少し違ったものが見えてくる。中公文庫は三島という現役作家とともに歩いた文庫ではない。すでに死者となった三島の文章を選び直し、形を変え、昭和後期の読者へ渡していった文庫だったのである。

三島が死んだあと、中公文庫が始まった

 1973年の創刊時、中公文庫には谷崎潤一郎訳『源氏物語』、司馬遼太郎『豊臣家の人々』、安部公房『榎本武揚』、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、ニーチェ『ツァラトゥストラ』などが並んでいた。日本の古典から現代文学、外国思想までが同じ文庫の棚に収まっているところを見ると、特定のジャンルだけを集めるのではなく、文学や思想を広く読者へ届けようとする志向を読み取ることができる。

 その中公文庫に三島由紀夫が登場したのは早かった。創刊からわずか二か月後の1973年8月、『文章読本』が中公文庫になっている。

 ここで興味深いのは、最初に文庫になったものが三島の代表的小説ではなかったことである。『仮面の告白』でも『金閣寺』でも『潮騒』でもなく、文章とは何か、文体とは何か、文学作品をどう読むのかについて三島自身が論じた『文章読本』だった。

 現在、三島由紀夫という名前を聞けば、小説とともに1970年11月25日の出来事を思い浮かべる人は少なくない。しかし『文章読本』を開いたときに現れる三島は、そのような後世のイメージとはかなり違う。文章の構造を考え、散文と韻文について論じ、美しい文章とは何なのかを分類し、優れた文章をどのように読めばよいかを執拗なほど考えている。

 そこにいるのは、劇的な死を選んだ思想家というより、文章という精密機械の構造を一つずつ分解して確かめようとしている職業作家である。

 中公文庫から三島へ入ると、こんな三島が最初に現れてくる。そのこと自体が、三島由紀夫という作家を考えるうえで案外大きな意味を持っているのではないだろうか。

しかし、三島と「中公」の関係はもっと古い

 もっとも、三島と中央公論社との関係が1973年に突然始まったわけではない。ここには少しややこしい出版史がある。

 現在の中公文庫以前に、中央公論社には「中央公論文庫」という別のシリーズが存在していた。その中央公論文庫から1962年、三島由紀夫の『不道徳教育講座』が刊行されている。

 名前が似ているので古書を眺めていると同じシリーズのように見えることがあるが、書誌上は1973年創刊の中公文庫とは区別した方がよい。それでも三島と中央公論社との関係を考えるうえでは、この古い中央公論文庫の存在は無視できない。

 さらにさかのぼれば、『不道徳教育講座』は1959年に中央公論社から刊行され、翌1960年には続編が出ている。同じ1959年には『文章読本』も中央公論社から刊行されている。つまり三島がまだ三十代で、文壇の第一線を猛烈な速度で走っていたころから、中央公論社は三島の小説とは少し違った顔を本にしていたことになる。

 これはなかなか面白い。

 『不道徳教育講座』にいる三島は、後世に作られた重苦しい三島像とはかなり違う。世間一般の道徳をわざと裏返し、「本当にそれは正しいのか」と読者をからかいながら問い直す。もちろん単なる冗談を書いているわけではなく、常識というものを反対側から照らすことで、その不自然さや偽善性をあぶり出しているのだが、そこには軽妙さとサービス精神がある。

 『文章読本』へ行けば、また違った三島がいる。こちらでは文章というものを感覚だけで語るのではなく、文体や構造や表現の働きを分類しながら、自分が文学の何を美しいと思うのかを説明していく。

 今日の私たちは三島由紀夫を、その最期を知ったうえで読む。しかし1959年の読者は違った。彼らにとって三島は死者でも伝説でもなく、次々と新しい文章を書く同時代の人気作家だったのである。

 中央公論社が刊行していた本を年代順にたどると、後世の巨大な三島像の奥から、その時々の「現在を生きていた三島」が少しずつ見えてくる。

中公文庫に残ったのは「小説家だけではない三島」だった

 1973年の『文章読本』に続き、中公文庫では1974年に『作家論』、1975年には『荒野より』や戯曲『癩王のテラス』などが刊行されていく。

 ここから見えてくるのは、単純に「小説ではない三島」ではない。三島はもちろん小説家であり、戯曲も書いた。しかし中公文庫の書目を眺めていると、代表的な長編小説だけでは捉えることのできない三島の輪郭が次第に現れてくるのである。

 たとえば『作家論』で三島が見つめているのは自分自身ではなく、森鴎外や谷崎潤一郎、川端康成をはじめとする先行作家たちである。しかし他人について書いた文章ほど、意外に書き手自身をさらけ出すものはない。誰を高く評価するのか、作品のどこに執着するのか、何を美しいと考え、何を退屈だと考えるのか。その選択を追っていけば、批評されている作家と同時に、批評している三島自身の文学観まで浮かび上がってくる。

 『荒野より』になると境界はさらに曖昧になる。小説だけではなく評論や随筆などさまざまな文章が収められ、作家の日常、社会を見る目、文学についての思考が一冊の中で入り混じる。こうした本を続けて読んでいると、三島由紀夫という人物の輪郭が、代表作の中心からではなく、その周囲から浮かび上がってくる感覚がある。

 これは『金閣寺』一冊を読む経験とはかなり違う。

 小説を読んでいるとき、読者は基本的に作品世界の中にいる。しかし『文章読本』や『作家論』へ移ると、突然その舞台裏へ連れていかれる。さっきまで絢爛たる文章を生み出していた作家本人が机の向こう側へ座り、「文章というものはこうできている」「この作家のここが面白い」と語り始める。

 いわば魔術を見せていた人間が、その魔術の仕掛けまで説明し始めるのである。

 ところが不思議なことに、説明を読んでも魔術は消えない。それどころか、三島がどれほど意識的に言葉を扱っていたかを知ることで、小説へ戻ったとき以前には見えなかったものが見えてくる。

 中公文庫で三島を読む面白さは、この往復運動の中にある。

1970年11月25日から三島を読むという誘惑

 三島由紀夫について考えるとき、どうしても一つの日付が巨大な重力を持つ。1970年11月25日である。

 あの日の出来事があまりに劇的だったため、それ以前の三島の文章まで、すべてが最後の日へ向かって書かれていたように読まれてしまうことがある。『太陽と鉄』を読んでも死への予兆を探し、小説の中に肉体や美や滅びが現れれば、そこから市ヶ谷を逆算したくなる。

 しかしこれは、伝記を読む人間が陥りやすい一種の錯覚でもある。

 人生を最後まで知っている後世の読者と、その途中を生きている本人では時間の見え方が違う。1959年に『文章読本』を書いていた三十四歳の三島は、その文章を1970年11月25日の説明書として書いていたわけではない。そのときの三島には、そのときの仕事があり、締切があり、読んでいる本があり、会っている人があり、次に書こうとしている作品があった。

 だから三島を最後の日から逆向きに読むだけでは、その途中に存在していた多くの三島を取り落としてしまう。

 文庫という形式には、その時間を少しだけ取り戻す働きがあるのかもしれない。文庫本を開けば、歴史的大事件も作者の伝説も、とりあえず表紙の外側に置かれる。そこにあるのは数百ページの活字であり、読者は文章そのものと向き合わなければならない。

 ただし、中公文庫が意図的に「三島を事件から文学へ引き戻した」とまで言うことはできない。そのような編集方針があったことを裏付ける資料や、文庫化によって読者の三島像が実際に変化したことを示すデータがなければ、そこまでの因果関係は証明できないからである。

 それでも、中公文庫に残された書目を眺めれば、少なくとも一つのことは言える。そこには1970年11月25日だけでは説明できない三島由紀夫が、かなり豊富に残されている。

『太陽と鉄』を加えると、話はもっと複雑になる

 そして昭和の中公文庫と三島の関係を考えるとき、見逃せない一冊が1987年、昭和62年に中公文庫となった『太陽と鉄』である。この文庫には『私の遍歴時代』も収録された。

 この本まで視野に入れると、「中公文庫は三島を事件から切り離した」という単純な説明が成り立たないことがよく分かる。

 『太陽と鉄』で三島が考えているのは、言葉と身体、精神と肉体、文学と行動という問題である。それらは晩年の三島を理解するうえで避けて通ることのできない主題であり、1970年の行動とも無関係ではない。

 つまり中公文庫に残った三島は、政治や肉体や死を取り除いた「純粋な文学者三島」ではないのである。

 むしろ逆なのではないか。

 文章について考える三島がいて、他の文学者を批評する三島がいて、世間の道徳をからかう三島がいて、戯曲を書く三島がいて、肉体と言葉の関係を考える三島がいる。それらを読み重ねていくことで、1970年の出来事もまた、それだけが孤立した異常な事件なのではなく、一人の作家が長年考えてきた問題の延長線上から読み直すことができる。

 事件を消すのではない。

 事件だけで作家を説明しないのである。

 この違いは大きい。

昭和の終わりには「三島を覚えている人」の本まで並んだ

 さらに1986年、昭和61年には、澁澤龍彦の『三島由紀夫おぼえがき』が中公文庫になっている。

 ここまで来ると、中公文庫の中の三島は新しい段階へ入る。三島本人が書いた文章を読むだけではなく、「三島を知っていた人が三島について書いた文章」まで文庫棚に加わるからである。

 三島が亡くなってから十六年が経過している。1970年には生々しい現在だった出来事が、少しずつ文学史や記憶の領域へ移り始めていた。

 しかし澁澤龍彦が書く三島は、教科書に載っている「昭和を代表する文学者」ではない。実際に会い、話し、同じ時代の空気を吸った人間が記憶している三島である。死後に巨大化した三島像とは違い、一人の知人としての手触りがそこには残っている。

 ここまで中公文庫の書棚を歩いてくると、文庫というものが単に名作を安価に再刊する仕組みではないことが見えてくる。

 一人の作家が書いた本が残る。その作家が他人について書いた文章が残る。その作家自身について考えた文章が残る。そしてその作家を知っていた人間の記憶まで残る。

 こうして一人の作家は、一冊の代表作ではなく、複数の本の関係として保存されていく。

 三島由紀夫ほど、その仕組みがよく見える作家も珍しいのではないだろうか。

文庫本になると、三島は少し小さくなる

 三島由紀夫という人物には、どうしても巨大な映像がつきまとう。

 鍛えられた肉体、写真、制服、演説、市ヶ谷、割腹、そして死の直前に完成した『豊饒の海』。一つ一つの像があまりに強いため、普通に机へ座り、原稿用紙に文章を書いていた職業作家としての三島が、その陰に隠れてしまうことがある。

 ところが昭和の古い中公文庫を一冊手に取ると、その巨大な三島が不思議なほど小さくなる。

 もちろん価値が小さくなるという意味ではない。手のひらに収まるのである。

 『文章読本』を電車で読み、『作家論』を寝る前に数ページ読み、『荒野より』を喫茶店で開き、『太陽と鉄』を鞄に入れて持ち歩くことができる。歴史映像の中にいた人物が文庫本になると、突然、読者のすぐ隣へやってくる。

 そこには演説の声も制服もない。ページを開けば、活字だけがある。

 文庫というものは、作家を小さくすることによって、かえって長く生かす装置なのかもしれない。

 全集は作家を大きく保存する。何巻も並んだ立派な全集は、その人物が文学史上の重要人物であることを物理的な重さによって示している。しかし文庫本は反対である。作家を小さくして鞄に入れ、電車へ乗せ、旅先へ連れていき、枕元へ置く。

 全集が作家を記念碑にするものだとすれば、文庫は作家を再び読者の生活へ戻すものなのだろう。

中公文庫の棚には「複数の三島」が残った

 考えてみれば、三島由紀夫本人は1973年に生まれた現在の中公文庫を知らない。鳥を図案化したマークを見ることも、自分の『文章読本』が小さな文庫本になって書店へ並ぶところを見ることもなかった。

 それでも昭和48年以降、中公文庫の棚には三島がいた。

 しかも、そこに残ったのは一人の三島ではない。

 文章について考えている三島がいる。他の作家を論じている三島がいる。道徳をひっくり返して読者を挑発する三島がいる。戯曲を書く三島がいる。自分の身体について考えている三島がいる。そして、その三島を覚えている澁澤龍彦のような同時代人までいる。

 こうして昭和後期の中公文庫を年代順に眺めていくと、三島由紀夫という作家が一枚の有名な写真や一日の歴史的事件へ収束するのではなく、反対にいくつもの方向へ広がっていく。

 おそらく、そこが中公文庫と三島由紀夫の関係を考えるとき最も面白いところなのだと思う。

 三島を「事件から文学へ戻した」とまで断言することはできない。しかし中公文庫に残された本を読み継いでいけば、1970年11月25日だけでは到底説明できない三島由紀夫が見えてくる。

 一人の人間について私たちは、どうしても最も劇的だった一場面で記憶してしまう。しかし文学者の場合、その人が死んだあとにも文章は残る。そして文章が読み続けられる限り、その人物についての理解は一つに固定されることがない。

 文庫は、そのための小さな装置なのだろう。

 事件によって作家を記憶することもできる。写真によって記憶することもできるし、伝説によって記憶することもできる。しかし文庫には、それらとはまったく違う方法がある。

 何十年たっても、もう一度その人の文章を読ませるのである。

 三島由紀夫が中公文庫を見ることなく亡くなってから半世紀以上が過ぎた。それでも古本屋の棚から一冊を抜き出してページを開けば、そこにいる三島はまだ過去の人物になりきっていない。

 読者が文章を読み始めた瞬間だけ、作家は再び現在形になる。

 昭和の中公文庫が残したものを考えていると、結局そこへ行き着く。文学者を長く生かすのは巨大な記念碑ではなく、誰かが何気なく手に取ることのできる、小さな一冊なのかもしれない。

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かつて町の書店の文庫棚には、赤川次郎の本が何冊も並んでいた。『三毛猫ホームズ』があり、『三姉妹探偵団』があり、『セーラー服と機関銃』があり、その隣にはまだ読んだことのない題名がいくつも続いている。一冊を読み終えても世界は閉じず、書店へ行けば次の一冊が待っていた。

赤川次郎という作家を考えるとき、この「いつも本があった」という記憶は軽く扱えない。

1976年、「幽霊列車」でオール讀物推理小説新人賞を受賞して作家としてデビューし、1978年に刊行された『三毛猫ホームズの推理』によって、一躍ベストセラー作家となった。新潮社の著者紹介では2024年1月時点ですでに著書は650冊を超えており、さらに2026年の山陰中央新報の報道では、これまでに刊行した本は約670冊、累計発行部数は3億部を超えるとされている。

3億部という数字は、単に「人気作家だった」という言葉だけでは説明しきれない。

ところが赤川次郎について語ろうとすると、しばしば最初に出てくる言葉は「読みやすい」である。それは確かに彼の作品の大きな特徴だろう。しかし、それだけでは何十年にもわたって膨大な読者を獲得した理由を説明したことにはならない。

むしろ考えるべきなのは、なぜ赤川次郎の「読みやすさ」が、あの時代のこれほど多くの人に必要とされたのかということである。

小説を読むための「構え」を取り払った

赤川次郎の小説を開くと、文章がこちらを威圧してこない。

長い背景説明を読み解いてからようやく物語が始まるのではなく、人が現れ、話し、何かが起こり、その結果として次の場面へ進んでいく。会話が物語を運び、登場人物の性格も、作者による長い説明ではなく、言葉や行動のなかから少しずつ見えてくる。

赤川作品について語られる「読みやすさ」は、単に漢字が少ないとか、一文が短いという意味ではない。むしろ、読者が物語へ入るまでに必要とする労力が小さいのである。

赤川次郎本人はインタビューのなかで、映画会社に勤めていた父親の影響から幼いころより映画を身近に見て育ったことを語っている。そうした経験を考えれば、彼の小説に見られる会話の速度や場面転換の軽快さに、映像的な感覚を見ることもできるだろう。出版社による作品紹介でも、赤川作品では会話やテンポの良さが大きな魅力として扱われてきた。

もちろん、映画を多く見たからそのまま文章が映像的になった、と単純に因果関係を決めつけることはできない。ただ、赤川作品を読んでいると、登場人物が現れ、しゃべり、場面が切り替わり、そのうち読者も事件のなかへ入り込んでいるという感覚がある。小説を読んでいるのに、どこか映画やテレビドラマを追っているような速度があるのだ。

しかし、この読みやすさを「簡単な小説」と言い換えてしまえば、本質を取り逃がす。

赤川次郎の小説では殺人が起こり、嫉妬があり、裏切りがあり、家族の秘密があり、ときにはかなり陰惨な出来事も起こる。題材だけを抜き出してみれば、決して軽いものばかりではない。それでも読者が重苦しさに押しつぶされずページを進められるのは、作者が物語と読者との間に巨大な壁をつくらないからである。

本を読むには教養が必要で、文学を理解するには訓練が必要で、名作を前にしたら少し襟を正さなければならない。そんな文学につきまとう無言の緊張から読者を解放し、「面白そうだから読んでみる」という、ごく普通の入口を大きく開いた。

赤川次郎の重要性は、まずそこにあったのではないだろうか。

強くない男と、動き出す女性たち

赤川次郎の小説には、もう一つ興味深い特徴がある。

主人公が必ずしも強くない。

『三毛猫ホームズ』の片山義太郎は刑事でありながら血を見ることが苦手で、女性にも弱い。昔ながらの探偵小説や刑事小説を考えれば、冷静沈着で頭脳明晰な男性主人公が事件を支配していても不思議ではない。しかし片山の周囲には行動力のある妹の晴美がいて、さらには人間以上の存在感を持つ三毛猫ホームズがいる。

事件解決の中心にいるのが、必ずしも「強い男」ではないのである。

この構図は『セーラー服と機関銃』になると、さらに鮮明になる。

主人公の星泉は17歳の女子高校生でありながら、父の死をきっかけとして小さな暴力団の組長になる。女子高校生と暴力団という、本来なら決して結びつかない二つの世界を組み合わせることで、物語そのものに強烈な入口をつくった。

ここで面白いのは、赤川次郎が最初から超人的な人物を主人公にしたのではなく、ごく普通の人物を、普通なら起こり得ない状況へ放り込んだことである。

女子高校生が組長になる。猫が人間よりも鋭く事件を見る。女性が苦手な刑事が女性たちに囲まれて捜査する。

設定だけ取り出せば漫画のようにも見える。しかし、その軽やかな入口があったからこそ、それまで本格的な推理小説には近づかなかった読者も物語へ入ることができた。

文春文庫の歴史を振り返る出版社側の回顧でも、1980年代には赤川次郎や星新一が中学生、高校生に広く読まれ、それまで以上に若い世代へ文庫読者が広がったことが語られている。

これは赤川次郎を考えるうえで非常に重要な事実である。

彼は、すでに本をたくさん読んでいる人だけを相手にしたのではなかった。

これから本を読む人を、読者にしたのである。

赤川次郎が現れたころ、文庫本そのものが変わっていた

しかし、どれほど読みやすく面白い作家であっても、時代と出会わなければ3億部という巨大な数字にはならない。

赤川次郎が作家として走り始めた1970年代後半から1980年代は、日本の文庫をめぐる環境そのものが大きく変わっていた。

1970年代前半には講談社文庫、中公文庫、文春文庫などが相次いで創刊され、それまでの岩波文庫、新潮文庫、角川文庫などを中心とした文庫市場に新しい競争が生まれた。文庫本は、すでに評価の定まった文学作品を廉価版で読むためだけの存在ではなく、新しい作品や娯楽小説を楽しむための身近な商品へと変わっていく。

その流れをさらに加速させたのが角川書店だった。

角川映画では映画と原作本を結びつけ、大規模な広告宣伝によって作品そのものを一つの文化現象へと変えていった。国立国会図書館による戦後ベストセラー史の整理でも、この時代には映画と文庫を結びつけたメディアミックスが多くのベストセラーを生み出したことが指摘されている。

そこへ『セーラー服と機関銃』が現れる。

1978年に刊行された原作は、1981年に薬師丸ひろ子主演で映画化され、大きな話題となった。作品は書店で「読むもの」であるだけでなく、映画館で「見るもの」となり、主題歌を通じて「聴くもの」にまで広がっていった。

文学作品が書店の棚だけに存在するのではなく、映画、テレビ、雑誌、音楽、広告を行き来する。その流れの中心近くに赤川次郎の作品はあった。

だから赤川作品を手に取った人すべてが、最初から「赤川次郎という作家を読もう」と考えていたわけではなかっただろう。

映画を見たから読む。テレビドラマで知ったから読む。友人が持っていたから読む。書店の棚に何冊も並んでいたから一冊買ってみる。そして一冊が面白ければ、別の作品へ進む。

文学史を考えるとき、私たちはつい、作家が作品を書き、作品が評価され、その結果として読者が読むという順序を想像する。

しかし実際の大衆的な読書は、そんなに整然としていない。

表紙が気になったから買うこともある。映画を見たから原作を読むこともある。題名が面白そうだから手に取ることもある。

赤川次郎は、そうした偶然の入口から入ってきた人を、きちんと次のページへ連れていくことのできる作家だった。

一冊で終わらせなかった「シリーズ」という力

赤川次郎の膨大な作品数を、単純に「多作だった」という言葉だけで説明するのも十分ではない。

『三毛猫ホームズ』『三姉妹探偵団』『幽霊』『杉原爽香』『吸血鬼』など、彼は数多くのシリーズを書いてきた。

そこには、本を読むという行為を一回限りの勝負にしない強さがある。

初めて読む小説には、わずかな緊張がある。知らない世界に入り、知らない人物の名前を覚え、作者の文体にも慣れなければならない。

しかし一度知ったシリーズなら、その負担は小さくなる。

読者は片山義太郎を知っている。晴美を知っている。ホームズを知っている。本を開いた瞬間、しばらく会っていなかった知人のところへ帰ってきたような安心感がある。

これは連続テレビドラマにも少し似ている。

事件は毎回変わる。しかし帰る場所は変わらない。

シリーズ小説の強さとは、毎回新しい事件を提供することだけではなく、「またここへ来たい」と思わせる世界をつくることにある。

だから一冊のベストセラーが、一冊だけで終わらない。

赤川次郎を一冊読んだ人が二冊目を読み、二冊目を読んだ人が三冊目へ進む。その積み重ねが、やがて信じがたいほど巨大な読者数へつながっていく。

そして1978年に始まった『三毛猫ホームズ』は、半世紀近くを経た2026年にも新作が刊行されている。

その事実だけでも、赤川次郎と読者との関係が、一時的な流行では説明できないほど長く続いてきたことが分かる。

「軽い」という評価で見えなくなったもの

これほど読まれた作家でありながら、赤川次郎を語るときには、ときどき奇妙な遠慮がつきまとう。

読みやすいけれど、文学的にはどうなのか。

そんな問いである。

しかし、そもそも小説は難しくなければ文学ではないのだろうか。

文章に長い修飾があり、思想的な言葉が並び、一度読んだだけでは意味をつかみにくいことが、文学の価値なのだろうか。

もちろん、難解さからしか生まれない文学がある。時間をかけて読み返すことで初めて見えてくる作品もある。それを否定する必要はまったくない。

けれどもその反対に、複雑な人間関係や社会の不条理を、できるだけ平易な言葉に落とし込み、読者を物語から離さない文学もある。

赤川次郎の小説は、読者に努力を要求するより先に、物語の面白さを渡した。

一見すると簡単なことのように思えるが、実際には難しい。

説明を減らしすぎれば人物が薄くなる。会話を増やしすぎれば物語が軽くなる。展開を速くすれば感情を描く時間がなくなる。それでも読者を迷わせず、事件を進め、登場人物を生かし、一冊の物語として着地させなければならない。

しかも、それを何百冊にもわたって続けている。

読みやすい文章とは、必ずしも書きやすい文章ではないのである。

本を読まなかったかもしれない人を、本の側へ連れてきた

赤川次郎の文学的な役割を考えるとき、作品の技巧や売上だけでは見えにくいものがある。

それは、本を読む習慣のなかった人を、本の側へ連れてきたことである。

中学生や高校生にも、通勤電車のなかで少しだけ読みたい会社員にも、難しい小説には気後れしてしまう人にも、赤川作品には入っていける入口があった。

そこには猫がいて、女子高校生がいて、少し頼りない刑事がいる。殺人事件が起こっているのに、思わず笑ってしまう会話もある。

気がつけば事件が始まり、「もう少しだけ」とページをめくっているうちに一冊が終わる。

そして書店へ行けば、また次の一冊がある。

こうして何百万人もの人が小説を読んだ。

考えてみれば、これは文学にとって決して小さな仕事ではない。

文学史には、文学の形式そのものを変えた作家がいる。新しい文体を生み出した作家、新しい思想を作品に持ち込んだ作家、新しい文学運動をつくった作家もいる。

その一方で、文学と読者との距離を変えた作家もいる。

赤川次郎は、おそらく後者だった。

文学の側へ読者を引き上げるのではなく、文学の方から読者の日常へ降りてきた。

文庫本を一冊買えば始まり、難しい準備はいらない。読み始めれば物語が動き、読み終えれば次の本が待っている。

その仕組みと文章の感覚が、1970年代後半から1980年代に急速に広がった文庫文化、映画、テレビ、若者文化と非常によく噛み合った。

だから「赤川次郎はなぜあれほど読まれたのか」という問いへの答えを、「読みやすかったから」という一言で終わらせるのは惜しい。

読みやすい文章があった。物語へ入りやすい設定があった。普通の人間が思いがけない事件へ巻き込まれる楽しさがあった。シリーズを読むことで再び帰ってこられる世界があった。そしてその背景には、文庫本が若者の日常へ入り込み、映画やテレビと小説の境界が薄くなっていく時代があった。

作家の資質と時代の仕組みが、ほとんど理想的な場所で出会ったのである。

3億部という数字は、その結果の一つだったのだろう。

しかし、本当に興味深いのは、その数字の向こう側である。

赤川次郎を一冊読んだことをきっかけに、別の推理小説を読み、さらに別の作家へ進んでいった人がどれほどいたのかは、どこにも統計として残らない。

少年少女のころに『三毛猫ホームズ』を一冊手に取り、それまで「自分は本を読む人間ではない」と思っていたのに、いつの間にか読書をするようになった人もいたはずである。

その一冊は、文学史の年表には載らない。

しかし文学というものが、本棚の中に置かれているだけではなく、読者のなかで生きるものだとするなら、赤川次郎が残した最も大きなものは、約670冊という著書の数でも、3億部という発行部数でもないのかもしれない。

「本って、こんなに面白かったのか」

そう思った読者の数こそが、赤川次郎という作家の本当の大きさを示しているのではないだろうか。

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向田邦子の文章を読んでいると、ときどき不思議な気持ちになる。

そこに書かれているものは、決して特別なものではない。食卓があり、父親がいて、母親がいて、姉妹がいる。台所から匂いがして、誰かが機嫌を損ね、誰かが黙り込み、また何事もなかったように夕飯が始まる。

世界を揺るがすような事件が起きるわけではない。

それなのに、何十年も前に書かれた文章の一節が、妙に鮮やかにこちらへ届いてくる。

古い写真を見ているのとは少し違う。写真なら、そこに写っている髪型や服装や家具を見て、「昔だな」と思う。しかし向田邦子の文章を読んでいると、昔を見ているはずなのに、いつの間にか自分の家のことを考えている。

父親の咳払い。

母親の台所仕事。

食卓で交わされる、どうでもいいような会話。

子供のころには気づかなかった、大人たちの小さな嘘。

そういうものが、文章の向こう側から静かに立ち上がってくる。

向田邦子の文章が今も美しい理由は、昭和を書いたからではない。

昭和という時代を借りながら、その奥にある、人間が家族と暮らすときの「どうにも説明できない感情」を書いたからなのだと思う。

美しい文章なのに、美しく見せようとしない

文章の美しさというと、私たちはつい華麗な比喩や、難しい言葉や、長く流れるような文体を想像する。

しかし向田邦子の文章は、そういう美しさとは少し違う。

むしろ、言葉は驚くほど普通である。

普通の言葉を普通に並べているように見える。

ところが読み終えると、一枚の絵が残っている。

それも、輪郭のはっきりした絵ではない。

夕方の台所の明かりであったり、食卓の上に置かれた皿であったり、黙って新聞を読んでいる父親の横顔であったりする。

向田邦子は、読者に「ここで感動してください」と言わない。

悲しい場面でも、悲しいと大声で言わない。

寂しい人間が出てきても、「この人は寂しい人なのです」と説明しない。

その代わり、ちょっとした仕草を書く。

返事の間を書く。

食べものを書く。

着ているものを書く。

人間というものは、本当に悲しいときほど「私は悲しい」とは言わない。

むしろ味噌汁をすすったり、窓を閉めたり、テレビをつけたりする。

向田邦子は、そのことをよく知っていた。

だから文章が芝居がからない。

読者が感動するための場所を、作者が先回りして埋めてしまわないのである。

文章の中に、少しだけ空白が残されている。

その空白に、読者自身の記憶が入り込む。

そこに、向田邦子の文章の強さがある。

食べものを書けば、人間が見えてくる

向田邦子の文章には、食べものがよく似合う。

豪華な料理である必要はない。

むしろ、家庭の中にあるごく普通の食べもののほうがいい。

汁物、煮物、漬物、御飯。

そうしたものを書いているだけなのに、家族の姿が見えてくる。

考えてみれば、家族ほど不思議な集団はない。

会社なら嫌いな人とは距離を置ける。友人なら付き合わなくなることもできる。しかし家族は、腹を立てながら同じ鍋をつつき、口をきかなくても翌朝には同じ味噌汁を飲んでいたりする。

そこには愛情もある。

しかし愛情だけではない。

鬱陶しさもある。

嫉妬もある。

諦めもある。

それでも同じ卓袱台を囲んでいる。

向田邦子の描く食卓が美しいのは、家庭を理想化していないからだ。

仲のよい家族という、きれいな額縁には入れない。

父親には父親の勝手があり、母親には母親の我慢があり、子供には子供の反抗がある。

誰も完全には善人ではない。

それでも夕飯になると、みんなが集まってくる。

人間は理屈で家族をしているわけではない。

この当たり前だが説明しにくい事実を、向田邦子は料理の湯気の向こうから見せてくる。

昭和の父親を、単純な悪役にしなかった

向田邦子の世界には、昭和の父親がいる。

今の感覚で見れば、かなり横暴な父親もいる。

家では威張り、妻や子供に厳しく、自分の都合を押し通す。今日なら到底そのまま肯定されないような人物も少なくない。

しかし向田邦子は、そういう父親を単純な悪役にしなかった。

そこが重要である。

人間は、悪いところだけを切り取れば悪人になる。

よいところだけを集めれば聖人になる。

しかし現実の人間はそんなふうにはできていない。

腹を立てるほど嫌なところがあるのに、死んでしまえば思い出す。

怖かった父親の背中に、ある日突然、小ささを感じる。

子供のころには絶対者に見えた人が、こちらが大人になって振り返ると、実は一人の不器用な男にすぎなかったことに気づく。

向田邦子は、その距離を書く。

子供から見た父。

大人になって思い出す父。

生きている父。

記憶の中の父。

同じ人物なのに、見る場所によって姿が変わる。

人を理解するということは、相手の性格を分析することではなく、その人を見る自分自身もまた変わっていくことなのだと、彼女の文章は教えてくれる。

だから向田邦子の家族像は古びない。

父権的な家族制度そのものは変わっても、「親を完全には理解できない子供」と「子供には理解されない親」という関係は、今もほとんど変わっていないからである。

記憶には、いつも少し嘘がある

子供のころの家を思い出してみる。

不思議なことに、間取りの全部は思い出せないのに、どうでもよいものだけが残っている。

柱についた傷。

食器棚の取っ手。

雨の日の玄関の匂い。

誰かが着ていたセーター。

夕食前に流れていたテレビの音。

人間の記憶とは、歴史年表のようにはできていない。

重要な出来事から順番に残っているわけではない。

むしろ、何の意味があるのか分からない断片ばかりが残る。

向田邦子の文章は、この記憶の仕組みによく似ている。

だから読んでいると、読者の中に眠っていた記憶まで引き出される。

「ああ、こういうことがあった」

と思う。

しかし実際には、向田邦子と同じ経験をしたわけではない。

時代も家も家族も違う。

それでも懐かしい。

文学の不思議はここにある。

優れた文章は、作者の記憶を書いているはずなのに、いつの間にか読者自身の記憶へ変わってしまう。

向田邦子は、その変換が驚くほどうまい。

人間のおかしさを知っている文章

向田邦子の文章には、悲しさと一緒に、どこかおかしさがある。

ここも大きな魅力だと思う。

人間は、悲劇の中でも妙なことをする。

深刻な場面なのに腹が減る。

喧嘩をしている最中に、鍋が吹きこぼれる。

泣いていた人が、突然くしゃみをする。

葬式の日にも誰かが靴を間違える。

現実の人生とは、本来そういうものなのだろう。

悲しい日だから一日中悲しい音楽が流れるわけではない。

深刻な出来事の横に、くだらない出来事が普通に置いてある。

向田邦子は、この人生の「調子の外れ方」をよく知っている。

そのため文章が湿っぽくならない。

哀しい話を書いていても、どこか乾いている。

乾いているからこそ、かえって哀しさが残る。

読者を泣かせようとする文章より、泣かせようとしない文章のほうが、人を泣かせることがある。

向田邦子の文章には、その逆説がある。

説明しすぎないから、時代を越える

現代の文章は、説明が多い。

何が問題なのか。

誰が悪いのか。

なぜそうなったのか。

どう考えるべきなのか。

情報を伝える文章なら、それは必要である。

しかし文学では、説明するほど消えてしまうものもある。

たとえば、ある夫婦の間に流れている微妙な空気を、「二人の関係は冷え切っていた」と書けば、一行で説明できる。

けれども向田邦子なら、おそらく別のものを書く。

茶碗の置き方かもしれない。

呼び方かもしれない。

夫が帰ってきたときの妻の返事かもしれない。

人間関係というものは、説明ではなく、そうした細部に現れるからだ。

文章が美しいというのは、飾られていることではない。

必要以上に言わないことで、見えないものまで見えるようにすることなのだろう。

向田邦子の文章には、その節度がある。

読者を信用している文章、と言ってもいい。

全部説明しなくても、読者は分かる。

全部言わなくても、読者には届く。

その信頼が文章を軽くし、同時に深くしている。

昭和を書いたのではなく、「失われていくもの」を書いた

向田邦子を読むと、昭和という時代への郷愁を感じる人は多いだろう。

しかし彼女の文章を単なる昭和懐古として読むと、大切なものを取り逃がす気がする。

向田邦子が書いたのは、昭和そのものではない。

失われていくものではなかったか。

家族の形。

食卓。

父親。

母親。

若かった自分。

子供だった自分。

誰かと過ごした時間。

そのときには何とも思わなかったものが、失ってから初めて意味を持つ。

これは昭和だけの話ではない。

令和を生きる私たちも、今この瞬間、何かを失いつつある。

家族と食べている夕飯も、毎日見ている部屋も、電話をかければ声を聞ける人も、永遠には続かない。

だが私たちは、続いている間はその価値に気づかない。

向田邦子の文章を読んでいると、その当たり前のことを、不意に思い知らされる。

だから懐かしいのだ。

昔が懐かしいのではない。

失ってしまったものを持っていた自分が懐かしいのである。

美しい文章とは、記憶に残る文章なのかもしれない

向田邦子の文章を読み終えたあと、難しい言葉はほとんど残らない。

思想を一文で説明しろと言われても、案外困る。

しかし、景色が残る。

人が残る。

匂いが残る。

食卓の音が残る。

そして数日後、スーパーで昔ながらの惣菜を見かけたり、古い食器を手に取ったりしたとき、突然その文章を思い出す。

これこそ文章の強さなのだと思う。

読んでいる間だけ感心させる文章はたくさんある。

しかし本当に美しい文章は、本を閉じたあとから始まる。

日常のどこかに潜み込み、何でもない瞬間にふっと戻ってくる。

向田邦子の文章は、そういう文章である。

彼女が書いた昭和の家は、もうほとんど残っていない。

卓袱台を囲む家族も減った。

父親の権威も変わった。

食生活も変わった。

電話もテレビも、家族の会話の仕方さえ変わった。

それでも、人は家族に腹を立てる。

言わなくていいことを言い、言うべきことを言わない。

愛している人に素直になれず、いなくなってから思い出す。

その部分だけは、あまり変わらない。

だから向田邦子は古くならない。

彼女が書いていたのは、昭和の茶の間ではなく、その茶の間に座っていた人間だったからである。

そして人間というものは、時代が変わっても、驚くほど同じところで笑い、同じところで腹を立て、同じように後悔する。

向田邦子の文章の美しさとは、結局そこにあるのではないだろうか。

大げさな人生を書かずに、人生そのものを書いてしまう。

特別な言葉を使わずに、忘れられない文章を残してしまう。

そうして私たちは、何十年も前の昭和の食卓を読みながら、いつの間にか自分自身の家族を思い出しているのである。

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田中康夫の『なんとなく、クリスタル』という題名を聞くと、1980年代のブランド文化を思い浮かべる人は多いだろう。

高価な洋服、洒落たレストラン、輸入車、洋楽、東京の街。若者たちが、何を着て、どこで食事をし、どんな音楽を聴くのかによって、自分自身を表現し始めた時代である。

しかし、この小説を単なる「1980年代の流行を並べた作品」と考えると、その重要な部分を見落としてしまう。

『なんとなく、クリスタル』が描いたのは、ブランドそのものではない。

それまでとは違う「豊かさの中で生きる人間」の姿だった。

バブル経済より前に現れた新しい若者

『なんとなく、クリスタル』は1980年に第17回文藝賞を受賞した田中康夫のデビュー作である。当時、田中康夫は一橋大学の学生だった。作品は大きな反響を呼び、のちに発行部数100万部に達した。

重要なのは、この作品が書かれた1980年という時期である。

日本で一般に「バブル経済」と呼ばれる時代が本格化するのは、もう少し後になる。つまり『なんとなく、クリスタル』は、バブル時代を後から振り返って描いた作品ではない。

日本社会がこれから一段と消費社会へ向かっていこうとしていた、その入口に立って書かれた小説だった。河出書房新社も新装版を「日本がバブル経済に沸く直前の東京」を描いた作品として紹介している。

主人公の由利は、東京で暮らす女子大生であり、モデルでもある。

彼女の生活には大きな事件が起こるわけではない。恋愛をし、友人と会い、食事をし、音楽を聴き、服を選び、東京の街を移動する。

従来の小説から見れば、「何も起きない」とさえ言える生活である。

ところが田中康夫は、その何気ない日常そのものを小説の中心に置いた。

そこに、この作品の新しさがあった。

「何を考えるか」より「何を選ぶか」

それ以前の若者を描いた文学では、思想や政治、社会との対立、家族との葛藤、貧困、恋愛などが物語を動かす大きな要素になっていた。

ところが『なんとなく、クリスタル』の世界では、人間を形づくるものが少し違っている。

どのブランドを選ぶのか。

どの店へ行くのか。

どんな音楽を聴くのか。

どの街に住むのか。

つまり「何を考えている人間なのか」だけではなく、「何を選んでいる人間なのか」によって、その人の輪郭が作られていく。

これは1980年代以降の日本社会を考えるうえで、非常に象徴的な変化だった。

大量生産された同じ商品を多くの人が所有することが豊かさだった時代から、自分の感覚に合った商品や店や音楽を選び、それによって他人との差異を示す時代へ移ろうとしていたのである。

だから、この小説に登場する商品名や店名は単なる背景ではない。

それ自体が登場人物を説明する言葉になっている。

膨大な「註」は何のためにあったのか

『なんとなく、クリスタル』を特徴づけているものとして、本文以上に有名なのが膨大な註である。

作品には実在するブランド、レストラン、学校、地名、音楽などが次々と登場し、それらに442もの註が付けられている。

普通の小説なら、

「彼女は高級な服を着ていた」

と書けばよいところを、この作品では具体的なブランド名が出てくる。

しかし、そのブランドを知らない読者には、そこに込められた意味が分からない。

だから註が必要になる。

言い換えれば、この作品では商品や店についての「知識」そのものが、一種の文化的な暗号になっている。

知っている人には説明しなくても分かる。

知らない人には註釈が必要になる。

そして、その「知っている/知らない」という境界そのものが、当時の都市文化の一部分だった。

この構造は現在にも通じる。

今日なら、どのスマートフォンを使い、どのSNS(インターネット上で人間関係や情報を共有するサービス)を使い、どのカフェへ行き、どの動画配信サービスを見ているのかによって、ある程度その人の生活や価値観を想像できる。

『なんとなく、クリスタル』は、そのような社会が日本に現れ始めた瞬間を記録した作品でもあった。

「クリスタル」とは何だったのか

では、題名にある「クリスタル」とは何なのだろう。

もちろん、何か特定の商品を意味しているわけではない。

むしろ重要なのは「なんとなく」という言葉である。

絶対的な思想や信念によって行動するのではなく、「なんとなく気分がいい」「なんとなくこちらの方が好き」という感覚によって物や生活を選んでいく。

朝日新聞の田中康夫への取材記事でも、この作品は「なんとなく気分がいい」ことを買い物や行動の尺度にする若者の生き方を描いた作品として整理されている。

それまでの日本では、何かを選ぶときに「役に立つ」「長持ちする」「安い」といった実用的な価値が重視されてきた。

ところが経済的な豊かさが広がるにつれて、「自分の感覚に合う」「雰囲気がいい」「格好いい」といった価値が重要になっていく。

クリスタルとは、その新しい感覚を象徴する言葉だったと考えると分かりやすい。

実は「豊かな日本」を礼賛した小説ではない

この作品は、しばしばブランド志向の若者を描いた小説として語られる。

しかし、田中康夫がその生活を全面的に肯定していると読むのも少し違う。

作品を読んでいると、華やかな都市生活に対する奇妙な距離感がある。

ブランドを詳しく紹介しながら、そのブランドを選ぶ人間を観察している。

流行を知り尽くしているようでありながら、その流行そのものを少し離れた場所から眺めてもいる。

そのため、『なんとなく、クリスタル』は消費文化の内側から書かれた小説であると同時に、消費文化を観察した小説でもある。

ここが、この作品を単なる風俗小説にしなかった重要な部分だろう。

最後に突然現れる「人口」の話

そして『なんとなく、クリスタル』を現在から読み返したとき、最も興味深いのが作品の終わり方である。

華やかな東京の若者たちを描いた物語の最後に、突然、人口問題に関する公的資料が登場する。

そこでは、出生力の低下や高齢化に関する将来予測が示されている。作品末尾に人口問題審議会の報告や当時の厚生白書から人口動向を示す資料が置かれていたことは、後年の解説でも確認できる。

なぜ、ブランドと恋愛と音楽に囲まれた若者の物語の最後に、人口統計が出てくるのか。

ここに、この作品のもう一つの顔がある。

1980年の日本は、まだ「これからもっと豊かになる国」に見えていた。

しかし、その同じ時代に、出生率の低下と高齢化はすでに始まっていた。

目の前には新しい服があり、新しいレストランがあり、新しい音楽があり、消費社会は華やかになっていく。

その一方で、長期的に見れば日本社会の人口構造は静かに変化し始めている。

この二つを同じ作品の中に置いたことが重要なのである。

『なんとなく、クリスタル』が本当に描いたもの

そう考えると、この作品が描いたものは「1980年代のブランド生活」だけではない。

より正確に言えば、

日本人が「生きるために物を買う社会」から、「自分らしくあるために物を選ぶ社会」へ移っていく瞬間

だったのではないだろうか。

高度経済成長を経て、若者たちは親の世代より豊かになった。

海外の商品や音楽に触れ、自分の趣味で生活を組み立てることができるようになった。

自由になったのである。

しかし、その自由を何に使うのかという問いには、必ずしも明確な答えがない。

だから「なんとなく」なのである。

この言葉には、豊かさと同時に、どこか頼りなさも含まれている。

40年以上たった今だから分かること

1980年から40年以上が過ぎた現在、この小説に登場する店や商品を知らない読者も増えた。

その意味では、『なんとなく、クリスタル』は確かに時代を映した作品である。

しかし不思議なことに、その基本構造はそれほど古びていない。

ブランドが別のものに置き換わっただけで、私たちは今も「何を選ぶか」によって自分自身を表現しているからである。

服だけではない。

スマートフォン、クルマ、旅行先、食事、音楽、動画、SNS。

私たちは無数の選択を通じて、「自分はこういう人間である」という像を作っている。

その意味では、現在の私たちもまた、形を変えた「クリスタル」の時代を生きているのかもしれない。

ただし、1980年と現在には大きな違いがある。

当時の若者たちの背後には、「明日は今日より豊かになる」という日本社会全体の空気があった。

現在の私たちは、人口減少、高齢化、社会保障、地方の衰退といった問題が現実になった社会に生きている。

『なんとなく、クリスタル』の最後に置かれていた人口の話は、もはや未来予測ではない。

私たちが現在暮らしている社会そのものになった。

だからこそ、この小説は懐かしいだけでは終わらない。

『なんとなく、クリスタル』が描いたのは、1980年の若者たちの華やかな生活であると同時に、豊かさの頂上へ向かって歩きながら、その先にある黄昏にはまだ気づいていなかった日本社会の姿だったのである。

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日本の戦後文学を読んでいると、実際には日本を舞台にしているにもかかわらず、その向こう側にアメリカが見えてくる作品がある。登場人物がアメリカへ行くわけでもなく、物語そのものがアメリカ社会を描いているわけでもない。それでも、自動車、オートバイ、道路、音楽、コーヒー、服装、会話の仕方、男女の距離といった細部を通して、日本とは少し違う生活の感覚が伝わってくる。

そのことを考えるとき、私には片岡義男と村上春樹という二人の作家が思い浮かぶ。

二人を「アメリカの影響を受けた日本人作家」という一言でまとめることはできる。しかし、それではあまりにも大ざっぱである。二人の作品に現れるアメリカは、同じものではないからだ。

片岡義男の小説に感じられるアメリカは、道路の向こう側にあり、オートバイや自動車とともに移動する。それに対して村上春樹の文学では、アメリカは必ずしも遠くにある国として登場しない。音楽や小説や言葉のリズムを通して、日本で暮らしている人物の内側にまで入り込んでいる。

同じアメリカを見ていながら、片岡義男はそこへ向かって走り、村上春樹はそこから言葉を取り込み、日本語の文学そのものを組み替えていったように見える。

この違いを考えると、戦後の日本人にとって「アメリカ」とは何だったのかも、少し違って見えてくる。

高校生だった私に片岡義男が運んできたアメリカ

私は高校生の頃、太宰治、三島由紀夫、芥川龍之介、川端康成といった作家とともに片岡義男を読んでいた。

現在から考えると、この組み合わせは少し不思議に見えるかもしれない。しかし当時の高校生にとって、文学史上の作家と同時代の人気作家が明確に別々の棚に存在していたわけではない。書店の文庫本の棚には過去と現在が同時に並んでいて、こちらもそれほど厳密に区別せずに読んでいた。

そのなかで片岡義男は、太宰や三島とは明らかに違った方向へ私を連れていった。

そこにあったのは、自分の内面を掘り下げていく文学というより、外へ向かって移動していく感覚だった。道路があり、オートバイがあり、自動車があり、海があり、音楽があり、男女が出会う。人間の心理を長く説明するよりも、人物がどこにいて、何をして、何を身につけ、何に乗っているのかによって、その人の生き方が伝わってくる。

以前の記事「片岡義男の小説が運んできた、昭和のアメリカ」でも考えたように、そこにあったのは現実のアメリカそのものというより、昭和の日本人がアメリカに重ねていたイメージだった。

自由、移動、乾いた風景、個人主義、男女の対等な距離、そして日本の生活とは少し違う軽さ。

もちろん、現実のアメリカ社会がそのような単純な場所でなかったことは言うまでもない。人種問題も貧困も政治的対立もあり、アメリカを自由な社会としてのみ捉えることはできない。

しかし文化は、必ずしも外国の現実をそのまま輸入するわけではない。外国について断片的に得た情報から、その時代の人々が自分たちなりの外国像を作り上げることがある。

片岡義男の作品に現れるアメリカは、そのような「日本から見たアメリカ」の一つだったのだと思う。

片岡義男のアメリカは「風景」として見える

片岡義男を考えるとき、私が特に重要だと思うのは、アメリカ的なものが目に見える形で現れやすいことである。

オートバイ、自動車、ジーンズ、道路、海岸、飲み物、音楽、カメラといったものが、単なる小道具ではなく人物の生き方と結びつく。

たとえばオートバイは、ある地点から別の地点へ移動するためだけの機械ではない。それに乗るという行為そのものが、一人でいること、自分で行き先を決めること、都市から離れること、誰かと出会い、また別れることとつながっていく。

自動車も同じである。

日本の文学では、家や学校や会社といった固定された場所が人間関係の舞台になることが多かった。しかし自動車の中では、人は家庭にも会社にも完全には属していない。

移動している途中にいる。

この「途中にいる」という感覚は、片岡義男の文学に感じるアメリカを理解するうえで重要なのではないかと思う。

そこでは人間は共同体から少し離れ、自分自身の意思で動くことができる。

だから片岡義男が描いたアメリカ的世界は、思想として説明される前に風景として見える。

道路の向こうへ行けそうだという感覚そのものが、一つの自由を表していた。

村上春樹のアメリカは、少し違う場所にある

村上春樹にも、アメリカ文化との深い関係がある。

村上は1979年に『風の歌を聴け』でデビューし、その後、小説を書く一方で翻訳を継続してきた。新潮社の著者紹介でも、スコット・フィッツジェラルド、レイモンド・カーヴァー、トルーマン・カポーティ、レイモンド・チャンドラーなど、多くの英語圏作家を翻訳してきたことが確認できる。

本人も翻訳について「主として現代アメリカ小説」を長年訳してきたと述べており、アメリカ文学との関係は単なる読書上の趣味ではなく、作家活動のもう一つの大きな柱になっている。

ここからすでに、片岡義男との違いが見えてくる。

片岡義男の作品では、アメリカ的なものが外側の世界として見えやすい。それに対して村上春樹の場合、アメリカ文学は日本語の文章を書く行為そのものにまで入り込んでいる。

『パリ・レビュー』のインタビューでも、村上文学とアメリカのポピュラー文化との強い関係が論じられ、村上自身がフィッツジェラルド、カポーティ、カーヴァーなどを翻訳してきたことが語られている。

つまり村上春樹にとってアメリカとは、物語のなかに登場させる外国文化である以前に、文章を作るための一つの言語的経験でもあったと考えることができる。

「アメリカを見る」のと「アメリカを通して日本語を書く」の違い

ここに二人を比較するうえで最も興味深い違いがある。

片岡義男の場合、日本の若者がアメリカ文化を見る。

村上春樹の場合、アメリカ文学を通して日本語そのものを見る。

もちろん、この区別は完全なものではない。片岡義男にも言葉への鋭い感覚があり、村上春樹の作品にも自動車、音楽、服装、食べ物など具体的な生活文化が数多く登場する。

それでも、重心は違うように思える。

片岡義男を読むと、人物が何に乗り、どこへ行き、どのように人と関わるのかという外側の動きが印象に残る。

村上春樹を読むと、日常生活のなかに音楽や外国文学や料理や酒が自然に入り込み、それらが人物の孤独や記憶や喪失と結びついている。

アメリカが「向こう側」にあるのではない。

すでにこちら側の生活に入り込んでいる。

これが二人の大きな違いではないだろうか。

片岡義男には道路があり、村上春樹には部屋がある

二人の違いをかなり単純化するなら、片岡義男には道路があり、村上春樹には部屋がある、と表現することもできる。

ただし、これは作品を二分するための分類ではない。二人の文学に漂う方向性を考えるための比喩である。

片岡義男の人物は移動する。

道路を走り、都市を離れ、海へ向かい、別の場所へ行く。その移動のなかで男女が出会い、関係が生まれ、やがてそれぞれの方向へ進んでいく。

一方、村上春樹の人物には、部屋で音楽を聴き、料理をし、本を読み、電話を受け、何かを考えている姿がよく似合う。

そこにもアメリカ文化は存在する。

しかしそれは巨大な星条旗のように目立って存在するわけではない。レコードや小説やウイスキーの名前として、あるいは文章の呼吸として、静かに日常へ埋め込まれている。

この違いは、戦後日本におけるアメリカ文化の受け入れ方の変化とも重なっているように思う。

アメリカが「憧れ」から「日常」へ変わっていく

戦後しばらくの日本にとって、アメリカは圧倒的に大きな存在だった。

政治や軍事だけではなく、映画、音楽、ファッション、家電、自動車、食生活などを通して、アメリカ式の生活は豊かさや新しさと結びついて見えることがあった。

しかし高度経済成長を経て日本が豊かになり、1970年代から1980年代へ進むにつれ、アメリカ文化との距離は少しずつ変化していく。

外国映画を見ることも、ロックやジャズを聴くことも、ジーンズを履くことも、コーヒーを飲むことも、特別な行為ではなくなっていった。

アメリカ文化は、遠くから眺めるものだけではなく、日本の日常生活の一部になっていく。

片岡義男と村上春樹の違いは、この変化を考える材料にもなる。

片岡義男の世界では、まだアメリカ的な生活様式そのものに新鮮さがある。

オートバイで移動すること、男女が互いに自立していること、乾いた会話を交わすこと、持ち物や服装によって個人のスタイルを示すことが、それまでの日本的生活とは違うものとして見える。

ところが村上春樹になると、それらの文化はすでに説明する必要さえないほど生活の内部へ入っている。

ジャズを聴く人物が出てきても、それだけで「アメリカ人のような人物」を意味するわけではない。

アメリカ文化を取り入れているという意識さえ薄くなり、日本の日常のなかに異文化が普通に存在している。

それは日本がアメリカ化したという単純な話ではなく、文化の境界そのものが曖昧になったということなのだろう。

音楽の役割も二人では少し違う

音楽は、二人を比較するときにも興味深い。

片岡義男の世界では、音楽はオートバイや自動車や服装と同じように、生活のスタイルを構成する要素として見えてくる。

何を聴いているかは、その人物がどのような世界に属しているかを示す。

これに対して村上春樹の作品では、音楽は人物の記憶や時間とより深く結びついていく。

一つの曲を聴くことによって過去が戻り、失われた人物や時間が現在へ入り込んでくる。

したがって同じアメリカ音楽であっても、それが物語の中で果たす役割は必ずしも同じではない。

片岡義男では音楽が「どのように生きるか」というスタイルに近づき、村上春樹では「どのように記憶するか」という内面に近づいていく。

こう考えると、外側と内側という二人の違いが、音楽の扱いにも現れているように見える。

二人とも「日本から逃げた作家」ではない

アメリカとの関係を強調しすぎると、もう一つの誤解が生まれる。

片岡義男も村上春樹も、日本的なものを嫌い、アメリカへ逃げようとした作家だったという見方である。

これは単純すぎると思う。

むしろ二人が行ったのは、外国文化を利用して日本を違う角度から見ることだったのではないだろうか。

外国を見ることによって、自分が暮らしている社会の特徴が見えてくることがある。

日本の家族、日本の男女関係、日本の会社、日本の集団、日本語の文章。

そのなかにずっといると当たり前に見えるものでも、別の文化と比較すると急に輪郭が現れる。

片岡義男が描く男女の距離や移動の自由さが新鮮に感じられたのは、それを読む側が同時に日本社会の人間関係を知っていたからである。

村上春樹の文章が従来の日本文学と違って感じられたのも、それ以前の日本語小説の文体が読者の中に存在していたからだろう。

アメリカは日本を消すために使われたのではなく、日本を別の角度から見るための鏡になったのである。

片岡義男の「軽さ」と村上春樹の「軽さ」

二人には、もう一つ共通して語られやすい言葉がある。

それが「軽さ」である。

片岡義男の文章や人物関係には、従来の日本文学にあった重苦しい心理説明とは違う軽さを感じることがある。

村上春樹も、デビュー当時から、それまでの純文学とは異なる会話や文章のリズムを持った作家として受け止められてきた。

しかし、この二つの軽さも同じものではない。

片岡義男の軽さは、人物を過度に共同体へ縛りつけないところから生まれているように思う。

人は出会うが、永遠に相手を所有しようとはしない。

場所を離れれば、関係も変化する。

その軽さは、移動することのできる身体の軽さでもある。

一方で村上春樹の軽さは、深刻な問題を深刻な言葉だけで語らないことにある。

孤独や喪失や死といった重い題材があっても、文章そのものが必要以上に感情を説明しない。

日常的な行動や音楽や食事の描写の間から、少しずつ重いものが現れてくる。

だから表面が軽いからといって、内容まで軽いとは限らない。

この点でも二人は似ているようで違っている。

アメリカを描きながら、二人が描いていたのは日本だった

結局のところ、片岡義男と村上春樹が描いてきたものを「アメリカ文学的」とだけ呼ぶと、大切なものが抜け落ちてしまう。

二人が書いていたのは日本語であり、その読者の多くも日本で暮らしていた。

だから作品に現れるアメリカ的なものは、常に日本との関係のなかで意味を持つ。

片岡義男の道路が魅力的に見えるのは、日本社会の固定された人間関係から離れられる可能性を感じさせるからである。

村上春樹の人物が一人で音楽を聴き、料理をし、自分の時間を守る姿が印象に残るのも、日本社会における集団と個人の関係を私たちが知っているからだろう。

アメリカを描くことによって、二人はむしろ「日本人が個人として生きるとはどういうことなのか」を別々の方法で考えていた、と見ることもできる。

ここで二人は意外なところで近づく。

片岡義男の人物も、村上春樹の人物も、集団の中心で大声を上げる人物ではない。

自分の好きなものを持ち、自分の時間を持ち、必要以上に他人へ入り込まない。

その人物像には、戦後日本が少しずつ発見していった「個人」というものが映っているように思える。

道路の向こうにあったアメリカと、すでに自分の中にあるアメリカ

高校生だった私に、片岡義男の小説はそれまでとは違う方向の風景を見せた。

そこには道路があり、オートバイや自動車があり、音楽があり、海があった。

それはアメリカそのものではなかった。

昭和の日本から見たアメリカだった。

しかし若い読者にとって、現実のアメリカと完全に一致している必要はなかったのだと思う。

重要だったのは、自分が暮らしている場所とは違う生き方があるかもしれない、と想像できることだった。

村上春樹になると、そのアメリカはさらに近くなる。

外国へ向かって走る必要さえない。

アメリカ文学を読み、翻訳し、ジャズやロックを聴き、その感覚を日本語の文章へ持ち込むことで、国境は文学の内部で越えられていく。

だから二人が描いた「アメリカ」の違いを一言で表すなら、片岡義男のアメリカは道路の向こう側に見えるアメリカであり、村上春樹のアメリカはすでに自分の内側に入り込んでいるアメリカなのかもしれない。

前者には、まだ知らない世界へ出ていく魅力がある。

後者には、外国文化と日本文化を分けること自体が次第に難しくなっていく時代の感覚がある。

そして二人のあいだにあるこの違いは、単なる作家の個性だけではなく、戦後の日本人とアメリカ文化との距離が変化していった過程とも重なっている。

かつてアメリカは、海の向こうにある巨大な外国だった。

やがて映画や音楽や商品を通して身近になり、さらに文学や言葉の中へ入り込んでいった。

片岡義男と村上春樹を続けて読むと、その変化が二人の作品の向こう側に見えてくる。

文学とは、作家が物語を作るだけのものではない。

一つの時代が外国をどのように見ていたのか、そして外国を見ることによって自分たち自身をどのように見直したのかを残すものでもある。

片岡義男と村上春樹が描いた二つの「アメリカ」の間には、昭和から平成へと移っていった日本人の感覚の変化も、静かに記録されているように思う。

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太宰や三島とは違う場所から、高校生だった私の前に現れた世界~

高校生になって本格的に文学を読むようになったころ、私の本棚には、性格のかなり違う作家たちが並んでいた。

太宰治がいた。

三島由紀夫がいた。

芥川龍之介や川端康成もいた。

その一方に、片岡義男もいた。

現在から振り返ると、この組み合わせはいささか不思議にも見える。

太宰治や三島由紀夫を日本文学の流れの中で読みながら、同じ時期に片岡義男の小説も読んでいた。

しかし、高校生だった当時の私にとって、それはそれほど不自然なことではなかった。

書店に行けば、新潮文庫や角川文庫などの文庫本が並んでいた。

そこでは、文学史上の評価が定まった作家と、その時代を生きている作家とが、同じ「本」として目の前にあった。

私は文学史を体系的に勉強してから読書を始めたわけではない。

まず本があり、それを読んだ。

その中の一人が片岡義男だった。

そして片岡義男の小説には、太宰や三島とはまったく違う方向から、当時の私たちの前に届いてくるものがあった。

それを一言で表すなら、「アメリカ」だったのだと思う。

ただし、それはアメリカという国について説明する本ではなかった。

地理でも、政治でも、歴史でもない。

オートバイ。

自動車。

音楽。

道路。

海。

男女の関係。

服装。

会話。

そうした断片を通して伝わってくる、生活の感触としてのアメリカだった。

「外国」ではなく、生活のスタイルとしてのアメリカ

片岡義男は1939年東京生まれの作家で、早稲田大学法学部を卒業した。1974年に『白い波の荒野へ』で本格的に小説家として活動を始め、1975年には『スローなブギにしてくれ』で第2回野性時代新人文学賞を受賞している。サーフィン、オートバイ、ジャズなどを作品に取り込み、若い読者から支持された作家だった。

片岡義男の作品に触れたとき、そこにあったアメリカは、学校で習うアメリカとは違っていた。

学校で外国について学ぶときには、国土、人口、産業、歴史、政治制度などが中心になる。

それは必要な知識である。

しかし、小説が運んでくる外国は違う。

どんな車に乗るのか。

どんな音楽を聴くのか。

どんな服を着るのか。

どんな場所で人と出会うのか。

男と女はどのような距離を取るのか。

道路は単なる移動のための施設なのか、それともそこを走ること自体に意味があるのか。

片岡義男の小説に接することで、「外国」というものを、制度や統計ではなく生活の形式として感じることができた。

高校生だった私にとって、それはかなり新しい感覚だったように思う。

オートバイという道具

片岡義男という作家を語るとき、オートバイは避けて通れない。

公式サイトでも、1970年代半ばから1980年代後半にかけて、片岡がオートバイの登場する小説やエッセイを数多く書き、それらの多くが角川書店から文庫化されたことが紹介されている。作品に影響を受けて実際に二輪免許を取った読者も少なくなかったとされる。

しかし、片岡作品のオートバイは、単なる機械としてだけ読んでも十分ではないだろう。

速いか遅いか。

何馬力あるか。

何ccなのか。

そうした性能だけの問題ではない。

オートバイに乗ることで、街から街へ移動する。

一人で走る。

誰かと出会う。

風景が流れる。

目的地そのものより、そこへ向かう途中の時間が重要になる。

オートバイという機械が、人間の行動範囲と感覚を変える。

そのような描かれ方に、片岡義男らしさがあったのだと思う。

今の私は自動二輪車について、性能、安全性、維持費、積載性といった現実的な面から考えることも多い。

しかし高校生のころに文学の中で出会ったオートバイは、それとは別の存在だった。

それは実用品である前に、どこかへ行くことができる機械だった。

そして「どこかへ行ける」という感覚自体が、若さと強く結びついていた。

道路の向こうにあるもの

片岡義男の作品世界について考えると、「移動」という言葉が浮かんでくる。

道路を走る。

島へ行く。

海へ向かう。

街から別の街へ移る。

そこには、家や学校や会社といった固定された場所とは違う時間が流れている。

若いころには、この「移動すること」そのものに特別な意味がある。

まだ自分の生活圏が狭い。

経済的にも自由ではない。

社会的な立場も定まっていない。

だからこそ、道路の向こう側に別の世界があるという感覚は強い。

これは、当時のアメリカ文化に対する距離感とも重なっていたように思う。

昭和の日本にとって、アメリカは近いようで遠かった。

映画がある。

音楽がある。

自動車がある。

ファッションがある。

雑誌にもアメリカ文化が入ってくる。

しかし、現在のようにインターネットで現地の日常をほぼ同時に見ることはできなかった。

だからアメリカは、情報として知っていても、まだ想像する余地の大きい国だった。

片岡義男の小説は、その想像の中に道路を一本通したようなところがあった。

太宰治とはまったく違う世界

高校生だった私が読んでいた作家を、現在の目で比較すると興味深い。

太宰治の場合、人間の内側へ向かう。

弱さ。

自己嫌悪。

孤独。

他人との距離。

自分をどう見せるか。

そうした内面的な問題が読者を引き込む。

片岡義男の場合には、むしろ外側へ向かう感じがある。

道路がある。

オートバイがある。

音楽がある。

海がある。

街がある。

そこへ出ていく。

もちろん、これは単純な二分法ではない。

太宰にも外の世界はあり、片岡義男にも人物の内面はある。

しかし、高校生だった私に届いた印象としては、かなり違った。

太宰を読むと、自分の内側を見る。

片岡義男を読むと、自分のいる場所の外を見たくなる。

同じ文学でも、読者を動かす方向が違う。

その両方が同じ時期に読めたことは、今考えると面白い。

三島由紀夫とも違う

三島由紀夫については、文章そのものの美しさや緊張感が印象に残る。

美。

身体。

死。

思想。

高校生の私には理解しきれないものが多かった。

それでも、文章には力があることを感じた。

片岡義男の文章から感じたものは、それとはまた違った。

もっと軽い。

ここで言う「軽い」は、価値が低いという意味ではない。

むしろ、重々しく意味を説明しすぎないということである。

人物がいる。

物がある。

会話がある。

移動がある。

場面が進む。

そこから読者が空気を感じ取る。

若いころには、この軽さそのものが新鮮だった。

文学というと、難しいもの、深刻なもの、高尚なものを想像しやすい。

しかし、片岡義男を読むと、日常の道具や若者文化も小説になる。

オートバイが出てきてもいい。

自動車が出てきてもいい。

ポピュラー音楽があってもいい。

男女の日常的な関係を書いてもいい。

文学と生活の間に、それほど高い壁を置かなくてもいいことを示す作家だったのではないかと思う。

「軽さ」を「浅さ」と取り違えない

片岡義男について考える際、注意したいことがある。

それは、作品にオートバイや海や音楽や男女の関係が出てくるからといって、それを単純な「若者向けのおしゃれな小説」とだけ見ることだ。

時代の流行を取り入れた作品は、後から見ると軽く評価されやすい。

しかし、流行していたものを書くことと、浅いことは同じではない。

むしろ、その時代に人々が何を欲し、どのような生活に憧れ、何を格好いいと思っていたかを記録することになる。

昭和の若者文化を考えるとき、文学史の代表作だけ読んでいても見えない部分がある。

その時代の人が実際に書店で買っていた本。

電車の中で読んでいた本。

友人同士で話題にした作家。

映画になった作品。

音楽と一緒に記憶されている物語。

そうしたものもまた文化である。

片岡義男は、まさにその場所にいた作家の一人だった。

『スローなブギにしてくれ』という時代

片岡義男を代表する作品の一つが『スローなブギにしてくれ』である。

片岡は同作で1975年に第2回野性時代新人文学賞を受賞した。後に1981年には映画化もされ、片岡作品が文学だけでなく当時の映画文化とも結びついていった。

ここで重要なのは、作品の細かな内容を紹介することではない。

私自身の読書体験として確定していない場面を、読んだ記憶として作るべきではないからだ。

むしろ考えたいのは、「スローなブギ」という言葉が成立した時代の空気である。

ブギという音楽用語。

英語を含んだ題名。

軽さ。

速度感。

それでいて「スロー」という逆方向の言葉。

タイトル自体に、当時の若い文化の感触がある。

昭和の日本文学の題名として考えると、太宰や三島の作品名とは明らかに違った空気をまとっている。

そこには、日本文学でありながら、すでにアメリカ文化が自然に混ざっていた。

『彼のオートバイ、彼女の島』

もう一つ象徴的なのが『彼のオートバイ、彼女の島』である。

同作は1977年に単行本として刊行され、1980年に角川文庫に収録された初期のオートバイ小説で、1986年には大林宣彦監督によって映画化された。

このタイトルも実に片岡義男らしい。

「彼」。

「彼女」。

「オートバイ」。

「島」。

大きな思想を示す言葉は一つもない。

しかし、この四つを並べるだけで、何かが始まりそうな気配がある。

若い男女。

移動する機械。

日常から離れた場所。

タイトルだけでも、閉じた部屋より外へ向かう感覚がある。

高校生のころというのは、不思議なものである。

実際には自由に使えるお金も少ない。

車もない。

場合によってはオートバイもない。

遠くへ自由に旅行できるわけでもない。

だからこそ、本の中にある移動は大きな意味を持つ。

自分は動けなくても、物語の人物は走っていく。

小説とは、その意味でも移動するための道具だった。

昭和のアメリカは、少し遠かった

いまアメリカ文化に触れることは難しくない。

動画を見る。

音楽を聴く。

地図を見る。

街を歩く映像を見る。

現地のニュースを見る。

一般の人の日常生活まで知ることができる。

翻訳も簡単になった。

しかし、昭和の時代は違った。

外国について知るためには、本や雑誌、新聞、映画、音楽、ラジオなどが大きな役割を持っていた。

私自身、中学生のころにはBCL(Broadcast Listening・海外放送や遠距離放送の受信を楽しむ趣味)で短波放送を聞いていた。

短波ラジオから入ってくる外国の声は、インターネット以前の世界への窓だった。

片岡義男の小説も、別の方法で世界への窓になった。

ラジオが外国から実際に飛んでくる電波を受信するものだったとすれば、小説は外国文化を一度作家の感覚の中に通し、物語として読者へ渡すものだった。

同じ「アメリカ」でも、そこには違う距離感があった。

アメリカそのものではなく、「片岡義男のアメリカ」

ここは重要な点だと思う。

片岡義男の小説を読んで感じるアメリカを、現実のアメリカそのものだと考える必要はない。

作品の中のアメリカ文化は、作家が選び取ったアメリカである。

音楽。

自動車。

オートバイ。

道路。

ハワイ。

服装。

言葉。

生活の形式。

つまり、片岡義男という作家の感覚を通過したアメリカだった。

これは文学として当然のことである。

小説は旅行案内でも社会調査でもない。

作家が世界のどこを見るかによって、同じ国でもまったく違った姿になる。

だから片岡義男を読んで「アメリカを知った」というより、

「アメリカ文化を素材として、日本語の小説がこんな世界を作ることができるのか」

と知った、と考えた方が正確なのかもしれない。

男女の関係にも違う空気があった

片岡義男の小説を語る際、車やオートバイだけに注目すると、もう一つ重要な要素を落としてしまう。

男女の関係である。

もちろん、作品ごとに設定は違う。

一括して語ることはできない。

ただ、私が高校生のころに触れていた従来の文学作品と比べると、片岡作品には男女の距離にも別の空気があったように思う。

過剰に運命的ではない。

大げさな悲恋だけでもない。

男と女が出会い、話し、離れ、また動いていく。

そこに車やオートバイや音楽や場所が入り込む。

人間関係だけを世界の中心にせず、生活のさまざまなものと並列に置く。

その描き方もまた、当時「アメリカ的」と感じられた理由の一つだったのかもしれない。

ただ、いま読み返せば、男女観については昭和という時代の価値観が見える部分もあるだろう。

文学作品は、その時代から完全に自由ではない。

だから昔の作品を現在読む意味は、懐かしさだけではない。

どこまでが普遍的で、どこからが時代特有なのかを見ることにもある。

文庫本の棚にあったアメリカ

片岡義男と角川文庫との関係も、私のような世代の読書体験を考えるうえでは重要である。

公式サイトによれば、1970年代半ばから1980年代後半に書かれたオートバイを扱う多くの作品が、角川書店から文庫として刊行された。

高校生にとって、文庫本という形は大きかった。

単行本より小さい。

持ち歩ける。

比較的手に取りやすい。

そして書店の棚に何冊も並んでいる。

文学作品との出会いは、必ずしも学校の推薦図書から始まるわけではない。

隣に並んでいたから手に取る。

表紙や題名が気になる。

一冊読んだので次の一冊へ行く。

そうした偶然がある。

検索してから本を買う現代とは、少し違う。

先に答えがあるのではなく、棚の前で出会う。

片岡義男の小説が運んできたアメリカも、私にとっては、その文庫本の棚から始まったのだと思う。

「憧れ」という言葉だけでは足りない

昭和のアメリカ文化を語るとき、「アメリカへの憧れ」という言葉でまとめられることが多い。

確かに、その側面はあっただろう。

しかし、それだけでは少し単純すぎる。

憧れには、現実を知らないことによる想像も含まれる。

また、アメリカ文化を取り入れながら、日本人の側で独自に変形していくこともある。

音楽もそうだった。

ファッションもそうだった。

自動車文化もそうだった。

文学も同じである。

片岡義男の小説は、アメリカ文学をそのまま日本語に移したものではない。

日本人の人物が日本語の小説の中で動き、その背景にアメリカ文化の断片がある。

つまり、昭和の日本がアメリカをどのように受け止めたのか、その一つの形を見ることができる。

そこが面白い。

現在から読むと、何が変わるのか

高校生だったころ、私はそこまで分析して片岡義男を読んでいたわけではない。

ただ読んでいた。

そして、そこに他の作家とは違う雰囲気を感じていた。

現在なら、もう少し距離を取って考えることができる。

なぜオートバイだったのか。

なぜ道路だったのか。

なぜアメリカ文化が魅力を持ったのか。

なぜその作品を高校生が読んだのか。

そして、その「格好よさ」は時代が変わっても残るのか。

おそらく、残る部分と残らない部分の両方がある。

車種や服装や音楽は変わる。

社会における男女の関係も変化する。

アメリカへの距離感も変わった。

しかし、

「ここではない場所へ行きたい」

という気持ちは、それほど変わっていないのではないか。

若いときほど、その感覚は強い。

片岡義男の小説には、それを道路やオートバイという具体的な形にする力があった。

「昭和のアメリカ」を読んでいた

いま振り返ると、私は高校生のころ、片岡義男の小説を通してアメリカそのものを読んでいたわけではなかったのだと思う。

読んでいたのは、

昭和の日本人が想像したアメリカ

だった。

そして、さらに言えば、

片岡義男という作家が日本語で作り出したアメリカ

だった。

そこには道路があり、オートバイがあり、海があり、音楽があり、若い男女がいた。

それは現実そのものではない。

しかし、文学が作る世界として確かに存在した。

太宰治が人間の弱さを通して私を内側へ向かわせたとすれば、片岡義男は外の世界へ視線を向けさせた。

三島由紀夫が文章というものの強さを感じさせたとすれば、片岡義男は生活そのものも文学の材料になることを見せた。

文学は一種類ではない。

人間の深い苦悩を書くこともできる。

美や死について書くこともできる。

そして、オートバイで道路を走る若者を書くこともできる。

高校時代の本棚の中では、それらが同時に存在していた。

それが私の実際の読書だった。

本の中から聞こえていたエンジンの音

現在では、昭和のアメリカ文化を知ろうと思えば、資料はいくらでも探すことができる。

当時の映像も見られる。

音楽もすぐに聴ける。

古い自動車やオートバイの情報も検索できる。

片岡義男の著作についても、公式サイト「片岡義男.com」で全著作の電子化が進められている。紙の本が書店から姿を消しても、作品そのものは新しい媒体へ移されている。

媒体は変わった。

しかし、読書の記憶は検索結果とは少し違う場所に残っている。

高校生だった私が文庫本を手に取ったころ、ページの向こうには、自分の日常とは違う世界があった。

道路が伸びている。

その先に海がある。

エンジンがかかる。

音楽が聞こえる。

そして誰かが、ここではない場所へ走っていく。

もちろん、それは現実のアメリカではなかった。

けれども、昭和という時代の日本に暮らしていた若い読者にとって、それは確かに「外の世界」の一つだった。

本は、ときに場所を運んでくる。

そして片岡義男の小説が私たちの前に運んできたものの一つが、あの時代の「アメリカ」だったのだと思う。


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