手が届かなかったPC-88とMZ-2500、その少し近くへ
家庭のテレビ画面に、テレビ番組とはまったく異なる文字が並んでいた。黒や青を基調とした画面にアルファベットや数字が現れ、キーボードから何かを入力すると、画面の中の機械がそれに応える。いま振り返れば、コンピュータとしてはごく基本的な動作にすぎない。しかし、家庭の中にそれまで存在しなかった新しい世界が開いたように感じられたことを、私はいまでも覚えている。
私が初めて自分で購入したパソコンは、ソニーのHiTBiT HB-F500だった。1985年に登場したMSX2(マイクロソフトとアスキーが推進した家庭用パソコンの共通規格MSXの第二世代)対応機で、本体とキーボードが分かれたセパレート型の外観を持ち、3.5インチのフロッピーディスクドライブを1基内蔵していた。当時のMSXパソコンには、キーボードと本体が一体になった製品も多かったが、HB-F500はそれらとは少し異なり、私が雑誌や電気店で見ていた本格的なパソコンに近い姿をしていた。
当時、本当に欲しいと思っていたのは、NEC(日本電気)のPC-8800シリーズ、一般にPC-88と呼ばれていたパソコンや、シャープのMZ-2500だった。PC-88は当時のパソコン雑誌で存在感が大きく、ゲームからプログラミング、実用ソフトウェアまで幅広い情報が紹介されていた。雑誌の広告や特集記事を眺めていると、そこには家庭用のMSXとは違う、さらに広いコンピュータの世界があるように感じられた。
MZ-2500もまた、強い憧れを抱かせる機械だった。シャープが長年展開してきたMZシリーズの技術を受け継ぎ、当時の8ビットパソコンとして高度な表示機能や拡張性を備えていた。雑誌に掲載された写真や仕様表を見るだけでも、機械としての完成度の高さが伝わってくるようで、いつか自分もこうしたパソコンを所有したいと思ったものである。
しかし、憧れと購入できることは別だった。1985年当時、HB-F500の希望小売価格は12万8,000円であったのに対し、PC-8801mkIISRには構成によって16万8,000円から25万8,000円のモデルがあり、MZ-2500シリーズにも16万8,000円や19万8,000円のモデルが存在した。ディスクドライブの搭載数や機能が異なるため単純な性能比較はできないが、少なくとも価格面では、私が欲しかった機械との間に数万円から十数万円もの差があった。
現在なら、インターネットで価格を比較し、全国の中古販売店や個人売買の情報を調べることができる。しかし当時、私がパソコンを購入するために頼ることのできた場所は、近所や市内の電気店、専門店、そして雑誌の通信販売などに限られていた。高価な精密機器を購入する以上、実際に販売店で確認できることや、身近な場所で相談できることも大切だった。
私の場合、HB-F500は市内の電気店で購入することができた。雑誌の中で眺めるだけだった高性能機ではなく、自分が生活している町の中で現実に手に入れられるパソコンだったのである。憧れの機械を諦めたという気持ちがなかったわけではないが、それ以上に、自分のパソコンを持てるという期待の方が大きかった。
セパレート型に感じた「本格的なパソコンらしさ」
HB-F500を選んだ理由の一つは、本体とキーボードが独立していたことである。いま考えれば、キーボードが分離しているかどうかは、処理性能を直接決めるものではない。それでも当時の私にとっては、机の上に本体を置き、その手前に独立したキーボードを配置できるということが、パソコンを所有するうえで重要な意味を持っていた。
一体型のMSXにも優れた機種は数多くあり、価格を抑えながら家庭のテレビに接続して利用できることは、共通規格としてのMSXの大きな魅力だった。一方、私が求めていたのは、ゲームを楽しむための家庭用機械だけではなかった。雑誌で見ていたPC-88やMZ-2500のように、プログラムを書き、ファイルを扱い、さまざまな周辺機器を接続できる、より本格的なコンピュータ環境に近づきたいという気持ちがあった。
HB-F500は、そのような希望に対して、外観と機能の両面から応えてくれる機種だった。中央処理装置にはZ80系の8ビットプロセッサを採用し、主記憶容量は64キロバイト、画像表示用の記憶容量は128キロバイトであった。現在の機械と比較すれば極めて小さな数字だが、MSX2では従来のMSXから画像表示機能が強化され、色彩や画面表現の可能性が広がっていた。PC-88やMZ-2500と比べてすべての性能が劣っていたわけではなく、それぞれの機種に異なる長所と制約があった。
また、HB-F500の内蔵フロッピーディスクドライブも魅力的だった。カセットテープがプログラムの保存や読み込みに広く利用されていた時代に、ディスクを使ってファイルを管理できることは、実用機としての性格を強める要素だった。ソニーはHB-F500に日本語文書を扱う「漢字MEMO」などの機能を収録したディスクも付属させており、単なるゲーム用パソコンではなく、家庭で実用的に使うことも意識した製品だったと考えられる。
希望小売価格の12万8,000円は、決して安価ではなかった。しかし、同時期に発売された他社のセパレート型MSX2機と比べれば、比較的購入しやすい価格に設定されていた。私にとってHB-F500は、高価なPC-88やMZ-2500の代用品というだけでなく、それらの機械が象徴していた世界へ入っていくための、現実的な出発点だった。
機械を所有する満足感は、必ずしも数値化できる性能だけで決まるものではない。本体の形、キーボードの位置、電源を入れたときの感覚、画面に文字が表示されるまでの時間など、日々の操作の一つ一つが、自分のパソコンを持ったという実感を形づくっていく。HB-F500を机の上に置いたとき、そこには、それまで雑誌の写真でしか知らなかったコンピュータの世界が、自分の生活の一部として存在していた。
MSX-DOSに感じた、将来へのつながり
HB-F500を選ぶうえで、私が関心を持っていたものの一つに、MSX-DOS(MSX Disk Operating System・MSX向けディスク基本ソフト)があった。MSX-DOSは、当時16ビットパソコンの世界で普及し始めていたMS-DOS(Microsoft Disk Operating System・マイクロソフトのディスク基本ソフト)と、ファイル管理やコマンド操作の考え方に共通する部分を持っていた。
MSX-DOSは、MS-DOSとの互換性を意識して設計されており、COMMAND.COM(コマンドを解釈して実行するプログラム)など、似た名称や機能を持つ構成要素が用いられていた。ディスク上のファイルを一覧表示したり、コピーしたり、名前を変更したりする操作にも共通点がある。一方、MSXでは主にZ80系、当時のMS-DOSパソコンでは8086系などの中央処理装置が使われており、実行プログラムをそのまま共通して動かせるわけではなかった。
この違いは重要だが、利用者として操作方法を学ぶという点では、MSX-DOSには将来へつながるものがあった。画面上の文字を読み、コマンドを入力し、ディスクの中にあるファイルを意識して操作するという経験は、後にPC-98でMS-DOSを使い、さらにDOS/Vパソコンへ進んだときにも役立つ考え方だった。
もっとも、日本国内向けHB-F500にMSX-DOSの独立したシステムディスクが標準付属していたわけではない。機械がディスクを扱えることと、コマンド操作型のMSX-DOS環境を利用することは区別しなければならず、利用には対応するシステムやソフトウェアが必要だった。当時の私がどのディスクやソフトウェアを通じてMSX-DOSに触れたのか、細かな経緯まではいまでは明確に思い出せないが、その操作体系に関心を持っていたことは確かである。
私は目の前のMSXだけで満足しようとしていたわけではなかった。雑誌で見ていたPC-88やPC-98、さらにはもっと大きなコンピュータの世界へ、いつか進みたいと考えていた。HB-F500は、当時自分が使用するための機械であると同時に、次の機械へ進むための学習の場でもあった。
現在のパソコンでは、基本ソフトの存在を強く意識しなくても、アイコンを選んでアプリケーションを起動し、ファイルを保存することができる。しかし、コマンド操作では、自分がどのファイルを対象にし、何を実行させているのかを意識しなければならない。もちろん、文字による操作が視覚的な操作より本質的に優れているということではないが、私にとっては、コンピュータがどのように仕事を進めるのかを考えるための重要な経験になった。
家のテレビがパソコンの画面になった
HB-F500は、家にあったテレビに接続して使っていた。現在のように、パソコンを購入すれば専用の高解像度ディスプレイを用意することが一般的だったわけではなく、MSXでは家庭用テレビを表示装置として利用することが想定されていた。すでに家にあるテレビを利用できることは、パソコンを始める際の費用を抑えるうえでも意味があった。
それまでテレビは、放送局から送られてくる映像を受け取るための機械だった。番組は決められた時間に始まり、視聴者はその内容を見る。チャンネルを選ぶことはできても、画面に表示される内容を自分で作り変えることはできない。しかし、HB-F500を接続すると、同じテレビがまったく異なる性格を持つ機械に変わった。
キーボードから入力した文字が画面に現れ、命令を与えれば表示が変わる。プログラムを実行すれば、図形や文字が動き、ときには音も出る。それまで一方的に情報を受け取っていた画面が、自分の操作に応じて反応するようになったのである。これは、現在では当たり前の双方向的な操作だが、当時の私にとっては、テレビという身近な機械の意味が変わるほどの体験だった。
私はそれ以前、BCL(Broadcast Listening・海外放送や遠距離放送の受信を楽しむ趣味)にも親しんでいた。短波ラジオでは、ダイヤルを慎重に回し、雑音の中から遠い国の放送を探していた。受信状態が変わるたびに耳を澄ませ、目的の放送局を捉えるまで試行錯誤を繰り返す。電波という目に見えないものを通じて、遠くに存在する世界とつながることに魅力を感じていた。
ラジオとパソコンには、どちらも機械を介して未知の世界へ近づくという共通点があった。しかし、その関わり方は異なっていた。短波ラジオでは、すでに発信されている電波を探すことが中心だったのに対し、パソコンでは自分の入力によって画面の内容を作り出すことができた。受信する側だった私が、機械に働きかけ、結果を生み出す側にもなったのである。
もちろん、コンピュータの内部で何が起きているのかを、最初から理解していたわけではない。それでも、キーボードから入力したものが画面上の変化につながるという体験を繰り返すうちに、機械はただ眺める対象ではなく、自分の考えや操作を反映できる道具なのだと感じるようになった。
雑誌に並んでいた16進数のダンプリスト
HB-F500を購入したからといって、すぐに自由自在に使えたわけではない。当時はインターネットからソフトウェアを簡単に入手する環境がなく、使い方を調べるにも説明書やパソコン雑誌が重要な情報源だった。雑誌には新製品の紹介やプログラミングの解説だけでなく、読者が自分のパソコンへ入力して実行するためのプログラムも数多く掲載されていた。
掲載されていたのは、BASIC(Beginner's All-purpose Symbolic Instruction Code・初心者向け汎用プログラミング言語)によるプログラムだけではなかった。機械語プログラムを16進数の列として表したダンプリストもあり、紙面には0から9までの数字とAからFまでの英字が、規則正しく並んでいた。16進数は、二進数を4桁ずつまとめて表現できるため、コンピュータ内部のデータを人間が扱いやすい形で記述する方法として利用されていた。
私も、そのような16進数のダンプリストを何時間もかけて入力した。一行ずつ数字と英字を確かめながら打ち込み、入力が終わったら次の行へ進む。数百文字で済むものもあれば、さらに長い入力が必要なものもあった。現在なら一つのファイルをコピーするだけで終わるような作業を、当時は印刷された紙面とキーボードだけを頼りに進めていたのである。
問題は、入力を終えれば必ず正しく動くわけではなかったことだった。16進数の一文字を間違えれば、プログラムが意図しない命令やデータとして解釈される可能性がある。実行しても何も起きなかったり、画面が乱れたり、途中で止まったりすることもあり、そのたびに私は雑誌の紙面と入力内容を照合しなければならなかった。
間違いを探す作業では、数字の4と英字のA、数字の8と英字のBなど、見間違えやすい文字にも注意を払った。一行を飛ばしていないか、入力する位置がずれていないか、同じ行を二度入力していないかなど、考えられる原因を一つずつ確認した。なかなか誤りが見つからないときには、自分の入力ミスではなく、雑誌に掲載されたリストそのものに誤植があるのではないかと疑うこともあった。
当時のプログラム掲載には、入力内容を照合するための検査値や、入力を補助するプログラムが用いられることもあったが、それによって作業の負担がすべてなくなるわけではなかった。画面と印刷物を何度も見比べ、少しずつ原因を絞り込むという作業には、根気と時間が必要だった。
いま考えれば、あれほど多くの文字を手作業で入力する方法は、効率のよいものではなかった。入力中の文字列が何を意味しているのかも、ほとんど分からない場合があった。それでも、同じような数値の並びや、ある位置から急に変化するデータに気づくことがあり、プログラムは画面の中に突然現れるものではなく、命令やデータの集まりとして存在しているのだと、少しずつ意識するようになった。
ただし、16進数を入力したからといって、それだけでコンピュータの仕組みを理解できたわけではない。命令の意味やメモリの構造、中央処理装置がどのようにプログラムを実行するのかといった知識は、別に学ぶ必要がある。私にとって重要だったのは、機械の動作には原因があり、正しく動かないときにはどこかを調べなければならないという感覚が、この入力作業を通じて身につき始めたことだった。
紙に印刷されたプログラムが動き始めたとき
長いダンプリストの入力を終え、プログラムが正しく動き始めたときの喜びは大きかった。自分で設計したプログラムではなく、雑誌に掲載されたデータを入力しただけとも言える。しかし、紙の上に並んでいた数字と英字が、自分の手で入力することによってコンピュータ内部のデータとなり、やがて画面上の動作として現れる過程には、単なる複製とは異なる達成感があった。
それまで動かなかったプログラムが、一文字の修正によって突然動き始めることもあった。原因を探すまでに費やした時間が長いほど、画面に期待した表示が現れたときの印象は強かった。現在のようにソフトウェアを簡単に入手できる環境では、利用者がこのような入力作業を負担する必要はほとんどないが、当時の私には、その苦労を含めてパソコンを使う楽しさがあった。
もちろん、不便な方法であれば学習効果が高いと単純に言えるわけではない。プログラムを入手するだけで多くの時間を費やすより、完成したソフトウェアを利用して、さらに高度な操作やプログラミングを学べる方が有益な場合もある。それでも私自身について言えば、入力と修正を繰り返した経験が、コンピュータに対する向き合い方に影響したことは確かだと思っている。
動かなければ原因を考え、入力した内容を調べ、必要なら最初からやり直す。正しいと思っていた操作でも、実際の結果が異なれば、自分の理解を修正しなければならない。こうした姿勢は、後に別のパソコンを使い、プログラムを作ったり設定を変更したりするときにも役立った。
最初の一台が教えてくれたこと
HB-F500は、当時のパソコンの中で最も高性能な機械ではなかったし、私が最初に欲しいと思った機械でもなかった。本当に憧れていたのは、雑誌で見ていたPC-88やMZ-2500だった。それでも、実際に自分の机の上へ置き、家のテレビにつなぎ、毎日のように触れていたのはHB-F500だった。
高性能な機械には、それだけ多くの可能性がある。しかし、どれほど優れた製品でも、手に入れることができなければ、実際に操作して経験を積むことはできない。私がコンピュータについて学び始めることができたのは、最も欲しかった機械を購入したからではなく、当時の条件の中で購入できたHB-F500を使い込んだからだった。
振り返ると、この一台から学んだことは、プログラミングやファイル操作の知識だけではなかった。機械の性能には限界があること、ソフトウェアによって使い道が変わること、正しく動かすには手順や設定を理解する必要があること、そして自分で試した結果から次の疑問が生まれることなど、現在のコンピュータ利用にも通じる基本的な考え方を身につける機会になった。
やがて私は、HB-F500をゲームや雑誌のプログラム入力だけでなく、日本語の文章を作り、プリンターで紙に印刷するためにも利用するようになった。購入した当初は、コンピュータが動くこと自体に驚き、何かを表示させるだけでも満足していたが、使い続けるうちに、自分の日常生活の中で実際に役立つ道具として見るようになっていった。
一方で、使い込むほど、さらに高性能な機械への関心も強くなっていった。より多くのソフトウェアを利用したい、処理速度を上げたい、広い画面で作業したいという希望が少しずつ具体的になり、当初から憧れていたPC-88や、その後に登場する別のパソコンへと関心が広がっていったのである。
HB-F500は、私を十分に満足させるためだけの機械ではなかった。むしろ、コンピュータの可能性を実際に知ったことで、新しい機械を求める理由を与えてくれた一台だった。最初のパソコンが持つ意味は、必ずしもその性能や利用期間だけで決まるものではなく、その後の関心や行動をどのように変えたかにもあるのだと思う。
次回へ~画面の中の文字を紙に残す
第2回では、HB-F500を日本語の文章作成に利用するようになった頃を振り返りたい。カセットテープから読み込んだと記憶しているワープロソフト、第二水準漢字を使えるようにした経験、そしてブラザーのドットインパクトプリンターで文章を印刷したときの感動は、パソコンが趣味の機械から実用的な道具へ変わっていく過程を象徴していた。
また、HB-F500を使い込んだからこそ感じるようになった性能や機能の限界と、その後のPC-88、PC-98、DOS/Vパソコン、Macintosh SEへの移行についても触れることにしたい。それぞれの機械については、いずれ独立した記事で詳しく振り返るつもりだが、まずは最初の一台から現在まで続く道筋を整理しておきたい。
市内の電気店で購入し、家のテレビにつないだソニーHiTBiT HB-F500。あの一台は、憧れていたコンピュータの世界を、初めて自分の生活の中に引き寄せてくれた機械だった。そして、そこで始まった試行錯誤は、後にさまざまなパソコンを使うようになっても、私の中で途切れることなく続いていくことになった。

