誰かについて「あの人は仕事ができる」「文章はうまいが内容が浅い」「この作家は昔ほど面白くない」と語るとき、私たちはごく自然に他人を評価している。映画を見れば星を付け、本を読めば感想を書き、店に行けば口コミを残す。インターネットとSNS(Social Networking Service・社会的ネットワークを形成するサービス)の普及によって、商品や作品だけでなく、人間そのものについても評価を示し、それを他人と共有することが以前より容易になった。私たちは、自分自身が評価する側に立つだけでなく、他人から評価される側にも立ちながら暮らしている。
そのため「批評」という言葉にも、どこか採点に似た響きがまとわりついている。優れているか劣っているか、正しいか間違っているか、見る価値があるかないかを判定することが批評なのだと思われやすい。しかし、小林秀雄の文章を読んでいると、批評という仕事はそのような単純な採点とはかなり違うことに気づかされる。小林は評価そのものを否定しているわけではない。むしろ、対象を正しく評価するためには、あらかじめ用意した物差しで測るだけでは足りず、その人物や作品が持つ固有の性質を十分に理解しなければならないと考えていた。そこには、他人を評価するという行為そのものを、もう一度問い直すための手がかりがある。
評価することは、案外簡単である
人を評価するためには、何らかの物差しが必要になる。文章なら分かりやすさ、映画なら面白さ、政治家なら政策や実績、料理なら味や価格というように、私たちは意識するかどうかにかかわらず、何らかの基準を持ち出して対象を測っている。その基準そのものが悪いわけではない。試験に採点基準がなければ点数は付けられないし、商品を比較するときにも価格や性能という尺度は必要である。評価の基準を明確にすることは、判断の根拠を他人に説明するためにも役立つ。
問題は、物差しを持った瞬間に、その物差しで測れる範囲だけを対象そのものだと思ってしまうことである。たとえば、ある小説を「展開が遅い」という理由で低く評価するとする。その判断自体は間違いとは言えない。しかし、なぜその小説は遅く書かれているのか、その遅さによって作者は何を感じさせようとしているのか、さらに考えれば、自分はいつから「展開が速い作品ほど面白い」という基準を持つようになったのかという問いまで現れてくる。展開の遅さは欠点かもしれないが、作品の主題や表現方法と深く結びついた特徴である可能性もある。そうした可能性を検討しないまま低い点数を付ければ、評価することはできても、作品を十分に理解したとは言えないだろう。
ここまで来ると、対象を測っていたはずの物差しそのものが、今度は問いの対象になる。評価は対象を一定の基準に照らして判断するが、批評はときとして、その基準が本当に適切なのかまで考え直そうとする。もっとも、これは評価と批評が互いに対立するという意味ではない。丁寧な観察や分析を経て、対象の価値を判断することも批評の重要な働きである。違いがあるとすれば、結論を出すことだけを目的とするのか、それとも結論に至る過程で対象についての理解を深め、判断の根拠まで問い直そうとするのかという点にあるのだろう。
小林秀雄にとって、批評は欠点探しではなかった
文春文庫版『考えるヒント』に収められた「批評」で、小林秀雄は、対象を正しく評価することについて、その対象が持つ性質を積極的に肯定し、他のものとは異なる特質を明らかにするという考えを示している。そのためには、対象を注意深く観察するだけでなく、分析したり、性質を限定したりする作業も必要になる。ここでいう評価は、現在よく見かける「5点満点で3.8」といった意味とはかなり異なる。対象を外側から序列に並べるのではなく、「これはいったい何なのか」「何がこれを他のものと異なる存在にしているのか」という問いを通じて、その固有性へ近づいていこうとするのである。
これは、今日の感覚からすれば少し不思議な批評観かもしれない。一般に批評家という言葉から想像するのは、作品の弱点を鋭く指摘し、作者も気づかなかった矛盾を暴き出す人物ではないだろうか。しかし、小林の考えをたどれば、単に対象を貶すことと、その対象を深く理解したうえで批評することは区別される。文章が長い、説明が足りない、論理が弱い、古臭いといった言葉を並べれば、それらしい批評文は作れるが、その言葉だけでは対象の固有性についてほとんど何も発見していないこともある。一方で、作品の構造を詳しく分析し、表現上の問題点や限界を具体的に指摘することは、正当な批評になり得る。問題なのは批判すること自体ではなく、対象を理解する努力を省略したまま、否定的な評価だけで論じたつもりになることである。
他人の欠点を指摘しているとき、私たちはしばしば安全な場所に立っている。自分は観察する側であり、相手は観察される側である。その距離が保たれているかぎり、自分自身の価値観を問い直す必要はあまり感じないかもしれない。ところが、強く心を動かす作品や人物に出会うと、その安全な距離が崩れることがある。理解できないのに無視できず、嫌いなのに気になり、間違っていると思うのに、そこには自分の知らない何かがあるように感じる。そのような抵抗のある対象に出会ったとき、これまで当然だと思っていた判断基準が揺さぶられ、批評は単なる評価を超えた営みになっていくのかもしれない。
「分からないもの」をすぐ裁かない
心理学では、曖昧な状態を解消して明確な結論を得たいとする欲求が研究されており、認知的完結欲求と呼ばれている。この欲求の強さには個人差があり、同じ人でも状況によって変化することが知られている。私たちは不確実な状態に置かれたとき、十分な情報を集めるよりも先に、何らかの判断を下すことで落ち着こうとする場合がある。しかし、結論を早く出すことが常に誤りなのではなく、判断に必要な情報がそろっているかどうかを確かめることが重要なのである。
分からないものに出会ったとき、評価によってひとまず結論を与えてしまうことは、不確実さから逃れる一つの方法になる。「つまらない」「時代遅れだ」「難しいだけだ」と名前を付ければ、その対象について考え続けなくても済む。しかし、名前を付けたことと、理解したことは同じではない。難しい作品を難しいと感じることは自然であり、その感想を否定する必要もない。ただ、難しいという感想だけで作品の価値を確定してしまえば、自分にはまだ理解できていない部分があるかもしれないという可能性まで閉ざしてしまう。
小林秀雄の文章を読んでいると、一つの作品、一人の人物、一つの思想の前で長い時間立ち止まっているような感覚を覚えることがある。それは結論を出せないからではなく、簡単な結論によって対象を処理してしまうことを警戒しているからだろう。ただし、長く考えれば必ず正しい理解に到達するわけではない。自分の最初の判断に都合のよい情報ばかりを集めながら考え続けることもあるからである。大切なのは、時間をかけること自体ではなく、対象を別の角度から見直し、自分の判断が間違っている可能性にも開かれていることなのだと思う。
ある人物について「私はこの人が嫌いだ」と感じる場合も同じである。嫌いという感情を否定する必要はない。しかし批評するのであれば、「嫌いだから価値がない」というところで止まることはできない。なぜ自分はその人を嫌うのか、その人物のどのような性質が自分に抵抗を感じさせるのか、その抵抗の中に自分自身の価値観がどのように現れているのかまで考え始めれば、批評の矢印はいつの間にか対象だけでなく自分にも向かっている。批評とは、他人を裁くために高い場所へ上ることではなく、対象と自分との間に何が起きているのかを注意深く見ることでもあるのだろう。
星の数では見えなくなるもの
インターネットが普及した現在、私たちは対象そのものに触れる前から、その対象についての評価を目にすることが多くなった。本を買おうとすれば星が並び、映画を選べば点数が表示され、飲食店を探せば口コミの平均値が先に目に入る。数字は便利である。知らない店が100軒並んでいれば、一軒ずつ確かめることなどできないから、平均評価は大量の情報を一つの数値に圧縮してくれる。比較の基準をそろえたり、候補を絞り込んだりするうえでも、数値による評価には合理的な役割がある。
しかし、その便利さには限界もある。たとえば、100人全員が3点を付けた作品と、50人が5点を付け、残りの50人が1点を付けた作品を考えてみよう。どちらも平均評価は3点だが、前者は評価が一致しており、後者は好みが大きく分かれている。同じ平均値であっても、評価の分布が異なれば、その数字が持つ意味も違ってくる。さらに、評価件数が少ない場合には偶然による変動が大きくなりやすく、実際に評価を投稿した人々が利用者全体を代表しているとも限らない。平均値は情報を整理するための有用な道具ではあっても、対象の性質や価値のすべてを表しているわけではないのである。
心理学や行動科学の研究では、事前に示された他者の評価が、その後の判断や評価行動に影響することが実験によって示されている。オンライン上の評価を操作した研究では、初めに肯定的な評価が示されることで、その後の利用者による評価にも肯定的な方向への影響が生じた。また、未知の楽曲を選ぶ実験では、他人の選択を知ることによって人気の偏りが大きくなり、どの作品が人気を集めるかという結果の予測も難しくなることが確認されている。これらは、他人の評価が単に情報を提供するだけでなく、後から評価する人々の行動にも影響し得ることを示している。
もっとも、こうした研究から、他人の評価を見ることが必ず対象の理解を妨げると結論づけることはできない。評判を参考にすることで、これまで知らなかった優れた作品に出会うこともあるだろう。ただ、他人の評価を知ったあとでは、それを知らなかった場合と完全に同じ条件で対象を判断しているとは限らない。「これは傑作なのだ」と思って見れば長所に注意が向きやすくなり、「評判が悪い」と聞いて見れば欠点を探しやすくなる可能性がある。だからこそ、自分が何を見ているのかだけでなく、どのような先入観を通して見ているのかまで意識する必要がある。
SNSでは、この問題が人物への評価として現れることもある。ある人物が発言したとき、その内容を十分に読む前に、「この人は信用できる側か」「信用できない側か」と分類してしまうことがある。一度形成された人物像に合う情報を優先して受け入れ、合わない情報を軽視する傾向は、心理学でいう確証バイアスとも関係している。もちろん、すべての人が同じように判断するわけではないが、過去の印象が現在の発言の解釈に影響する可能性は考えなければならない。批評しているように見えながら、実際には目の前の発言ではなく、自分の中ですでに完成している人物像を批判していることもあるのだ。
評価があふれる時代だからこそ、小林秀雄の批評観から考えられる、評価を急がず対象の固有性を見ようとする態度には、現代的な意味があるのかもしれない。ただし、それは数字や評判を無視するということではない。数字によって分かることと、数字だけでは分からないことを区別し、他人の評価を参考にしながらも、それだけで自分の判断を完成させないことが重要なのである。
「褒める」とは、お世辞を言うことではない
小林秀雄は批評について、自分自身の批評文を振り返るなかで、「人をほめる特殊の技術」と表現している。これは一見すると奇妙に聞こえる。批評家が何でも褒めてしまったら、批評ではなくなるようにも思えるからである。しかし、ここでいう「ほめる」は、お世辞を言うことでも、対象を無条件に称賛することでもない。小林自身の批評経験から生まれたこの言葉には、対象の価値や固有の性質を発見し、それを言葉によって明らかにするという意味が込められていると考えられる。
本当に誰かを褒めようとすると、それは意外に難しい。「すごいですね」「素晴らしいですね」と言うだけなら簡単だが、何がどのように優れているのかを正確に言葉にしようとすれば、その人物や作品をかなり注意深く見なければならない。何が他と異なるのか、その特徴がどのように生まれ、どのように働いているのかを理解する必要があるからである。たとえば、ある作家の文章を優れていると評価するなら、単に美しいと述べるだけでなく、語彙の選び方、文体のリズム、構成、人物の描写などを分析し、それらが作品全体にどのような効果をもたらしているのかを説明しなければ、十分な批評にはならないだろう。
反対に、人を貶す言葉には、対象を取り替えてもそのまま使えるものが少なくない。「能力がない」「浅い」「古い」「分かっていない」といった言葉である。ただし、褒めることが常に貶すことより難しいという科学的法則があるわけではない。正確な批判には高度な知識や分析が必要な場合もあり、根拠のない称賛であれば、根拠のない非難と同じように批評としての価値は乏しい。重要なのは肯定的な言葉を使うか否定的な言葉を使うかではなく、その言葉が対象の具体的な性質をどこまで明らかにしているかということなのである。
このように考えると、小林のいう「ほめる」は、対象を甘く評価することとは反対に、対象を正確に理解するための厳しい作業であるように思えてくる。ある作品を深く理解しようとすれば、その表現が成功している部分だけでなく、十分に実現できていない部分も見えてくるだろう。しかし、それは最初から欠点を探すことを目的とした批評とは異なる。対象が何を実現しようとしているのかを理解したうえで、その可能性と限界の両方を明らかにしようとするのである。
批評されるのは、実は自分でもある
ここまで考えると、批評という行為には奇妙な反転が起きる。他人を批評していたはずなのに、最後には批評している自分自身の姿が見えてくるのである。なぜ自分はこの小説を退屈だと感じたのか。なぜこの人物の言葉には腹が立つのか。なぜこの音楽には心を動かされ、この絵には何も感じなかったのか。対象について真剣に考えれば考えるほど、自分が当然だと思っていた感覚や価値観が姿を現してくる。自分にとって自然な判断であったものが、実はこれまでの経験や習慣によって形作られた一つの見方にすぎなかったと気づくこともある。
これは、小林秀雄が「批評とは自分自身を批評することである」と単純に定義しているという意味ではない。しかし、小林の初期の批評活動にも、他人や作品について語ることが、自分自身のものの見方を明らかにすることにつながるという問題意識を見いだすことができる。対象を正確に見ようとする行為は、同時に、その対象を見ている自分の判断基準を浮かび上がらせる行為にもなる。自分の外にあるものを理解しようとすることが、結果として自分自身への理解を深める契機になるのである。
もっとも、自分の価値観を問い直すことと、その価値観が正しいかどうかを確かめることは同じではない。長く考えたとしても、自分に都合のよい理由だけを集め、最初の判断をますます強く信じ込んでしまう可能性はある。だからこそ、自分の判断を問い直すという行為には、その判断を支持する理由だけでなく、それを否定する可能性のある事実にも目を向ける姿勢が必要になる。批評が自己理解につながるとしても、その自己理解が正しいかどうかは、さらに検討されなければならないのである。
そう考えると、本当の批評には、どこか危険なところがある。相手を評価して終わるつもりだったのに、自分の考えの狭さを発見してしまうかもしれない。間違っていると思っていた人物の中に、自分にはなかった視点を見つけることもあるだろう。嫌っていた作品を読み続けるうちに、自分の方が変わってしまうことさえある。採点なら、あらかじめ定められた基準に従うだけで終えることもできる。しかし批評は、ときにその基準そのものを問い直し、批評する側まで変えてしまうのである。
理解することと、認めることは同じではない
ただし、ここで一つ注意しなければならないことがある。それは、相手を理解しようとすることと、相手の考えや行動を正しいと認めることは別だという点である。ある人物がなぜ特定の考え方を持つようになったのか、その背景を理解できたとしても、その考え方が事実に合致しているか、社会的に妥当であるかは、別に検討しなければならない。人物への共感が、その人物の主張の正しさを保証するわけではないのである。
たとえば、政治家の政策を評価する場合、その政治家がどのような問題意識から政策を提案したのかを理解することには意味がある。しかし、政策の有効性については、法制度、財政、統計、社会的公平性などの観点から客観的に検証する必要がある。医療や教育、行政などの分野でも、対象への理解を深めることと、一定の基準に従って合理的に評価することは両立しなければならない。問題点を明らかにして責任を問う必要がある場合に、理解することだけで判断を終えてしまうのは適切ではない。
したがって、小林秀雄の批評観を現代社会へ応用するときには、文学的な批評と、社会制度の中で必要となる評価とを区別して考える必要がある。作品の意味や人間の固有性を理解することと、安全性や有効性、法的責任を判断することでは、求められる方法も判断基準も異なる。ただし、両者は無関係ではない。対象を十分に理解せずに評価を下せば、制度上の判断にも誤りが生じる可能性がある。理解する努力と根拠に基づく判断を対立させるのではなく、互いを補い合うものとして考えることが大切なのだろう。
他人を評価する前に、もう少し見てみる
私たちは評価から逃れて生きることはできない。仕事では判断が必要であり、選挙では候補者を選び、買い物では商品を比較しなければならない。何も評価しないことが知的に優れた態度なのではなく、必要な場面では、根拠を示しながら適切な判断を下すことが求められる。問題は、評価した瞬間に考えることまで終えてしまうことである。ある時点で合理的だった判断も、新しい事実が明らかになれば見直す必要がある。評価は結論であると同時に、さらなる理解へ進むための出発点にもなり得るのである。
「あの人はこういう人だ」と言ったあとに、本当にそうだろうかともう一度見る。「この作品はつまらない」と感じたあとに、なぜ自分にはつまらなかったのかを考える。「間違っている」と判断した相手についても、なぜそのように考えるようになったのかを確かめ、そのうえで、どこが事実に合わず、どこに検討すべき論点が残っているのかを考えてみる。そのわずかな余白に、単なる評価から、より深い批評へ移る入口があるのではないだろうか。
批評とは、他人に点数を付けることだけではない。点数を付けたくなる自分の判断基準を少し疑いながら、目の前の対象がどのような性質を持ち、何によって他と異なる存在になっているのかを見続ける営みでもある。人を見ることと、人を評価することは同じではない。評価は短い時間でできることがあるが、対象を理解するには時間がかかる。そして、小林秀雄が私たちに残した『考えるヒント』の一つは、おそらく、その理解のための時間と労力を惜しまないことにある。
誰かを理解したと思ったところから、もう一度その人を見る。作品について結論を出したところから、もう一度読み始める。そうして見直すたびに、対象についての理解だけでなく、自分が何を基準に世界を見ていたのかまで少しずつ変わっていくかもしれない。しかし、その変化を無条件に正しいものと考えるのではなく、そこに新たな思い込みが入り込んでいないかも確かめなければならない。対象を疑うだけでなく、自分自身の理解も疑うことが、批評をより確かなものにしていくのだろう。
批評の終わりに残るものは、他人について下した判決だけではないのかもしれない。むしろ、「分かった」と思っていた相手が以前より複雑に見え、自分自身についても以前より簡単には説明できなくなったという感覚ではないだろうか。それは判断する能力を失うことではなく、判断することの難しさを知り、それでも必要な判断を引き受けようとする態度である。もしそうだとすれば、批評とは他人を評価するための技術であると同時に、世界を簡単に決めつけず、理解と判断の両方を深めていくための技術なのである。




