小説から表紙を外し、作者名を消し、作品名も伏せる。登場人物の名前や地名のように作品を特定できそうな手掛かりまで隠して、本文だけを読者の前に置いたとする。それでも私たちは、ときに「これは太宰治ではないか」「この硬質な感じは芥川龍之介に近い」と感じる。
ところが、なぜそう思ったのかと尋ねられると、説明は急に難しくなる。太宰らしい、芥川らしい、川端らしいという感触はたしかにあるのに、それを言葉にしようとすると、作品の題材、作家の人生、思想、あるいは誰もが知っている有名な一節へ逃げ込みたくなる。しかし、それでは作者について知っている情報から文章を読んでいるだけであり、文章そのものから作者を見分けたことにはならない。
そこで、もう少し意地の悪い実験を考えてみたい。
作家について何も教えられず、ある程度の長さをもった文章だけを渡されたとき、それでも作者を推定できるのだろうか。そして、もしそれが可能なら、作家の名前は文章のどこに隠れているのだろう。
これは文学好きの遊びのように見えるが、実は「計量文体学」と呼ばれる研究分野が長いあいだ取り組んできた問いでもある。文章を意味や思想だけでなく、語彙、品詞、助詞、句読点、文の長さなど、数えることのできる特徴として捉え、そこから作者や時代、ジャンルによる違いを調べていく研究である。
つまり、「文体には作家の個性が現れる」という昔からの文学的直感を、数字の側から確かめようという試みなのである。
作家は「何を書くか」より、「どう書いてしまうか」に現れる
作者を判別しようと考えたとき、最初に思いつくのは語彙だろう。ある作家は古風な言葉を好み、ある作家は日常的な口語を多用し、またある作家は漢語を好む。それだけでも文章の印象は大きく変わるから、使われた単語を調べれば作者を見分けられそうに思える。
しかし、語彙には厄介な問題がある。
作家はいつも同じ題材を書いているわけではない。戦争を扱った作品と恋愛を扱った作品では当然使われる名詞が変わり、歴史小説を書けば、その作家が普段ほとんど使わない言葉まで大量に登場する。これでは、作者を判別しているのか、作品のテーマを判別しているのかが分からなくなってしまう。
そこで著者識別の研究では、むしろ作品内容から少し離れた、地味な特徴が重要視されてきた。
一文をどのくらいの長さで終えるのか。「は」と「が」をどのように使うのか。接続詞をどの程度挟むのか。どのような品詞の後に読点を置きやすいのか。名詞、動詞、助詞がどのような順序で並ぶのか。句点や読点をどの程度使うのか。
こうした特徴を一つだけ取り出しても、作品の意味はほとんど分からない。しかし大量の文章から繰り返し測定すると、その作家が文章を組み立てるときの傾向が少しずつ姿を現す。
特に研究上よく利用されてきたものの一つが、助詞や前置詞などに代表される「機能語」である。物語の内容を直接表す名詞ほど題材に左右されにくく、しかも文章中に頻繁に現れるため、作者の特徴を測る材料として都合がよい。
ただし、ここで注意しなければならない。
機能語や句読点に作者の特徴が表れるからといって、それらが純粋に「作者だけ」を反映しているわけではない。近年の研究では、機能語の使い方にも、小説なのか評論なのか、学術論文なのかブログなのかといった文章ジャンルの違いが現れることが確認されている。
つまり、文章から取り出した特徴の中には、作者、時代、ジャンル、題材、語り手など、複数の要因が重なっている。
ここが本物の指紋と文体の「指紋」が違うところである。
人間の指紋は本人が小説を書こうが手紙を書こうが変わらない。しかし文体は作品によって揺れる。それでも完全に自由に変わるわけでもない。その変わる部分と、なぜか残ってしまう部分との境界に、私たちが文体と呼んできたものがあるのかもしれない。
太宰治を太宰治にしているのは、「太宰らしい言葉」だけではない
太宰治を例にすると、この問題はいっそう分かりやすくなる。
太宰の文章には、読者へ直接話しかけてくるような近さがある。告白するように語ったかと思えば、急に自分自身を笑い、自嘲と誇張の間を揺れながら文章が進んでいく。文学を読む側から見れば、それを「太宰らしい語り」と呼ぶことができる。
ところが計量的に文章を見ると、その感覚の背後にもっと小さな特徴が見えてくる。
尾城奈緒子と金明哲による研究では、太宰治、芥川龍之介、菊池寛、坂口安吾、織田作之助の作品を比較し、読点の打ち方を含む文章上の特徴が分析されている。その中で太宰には、動詞、副詞、普通名詞などさまざまな品詞の後に読点を置く傾向があり、比較した作家たちより読点の用い方が多様であることが報告されている。
ここで興味深いことが起きる。
読者は太宰を読んで、「この文章には独特の呼吸がある」と感じる。一方、文章を数量化した研究では、その呼吸の一部が、読点をどこに置くのかという具体的な特徴として現れてくる。
もちろん、太宰文学が読点の数で説明できるわけではない。
『人間失格』の痛切さも、『斜陽』の寂しさも、『走れメロス』の速度も、句読点を数えれば理解できるという話ではない。文学作品の意味や感情は、それほど単純ではない。
しかし、私たちが「この文章には太宰独特のリズムがある」と感じていたものの一部分について、数字によって別の角度から説明できる可能性がある。
数字は文学の代わりになるのではない。
これまで「何となく」としか言えなかった感触の一部を、別の言葉に翻訳してくれるのである。
本当に作者が問題になった小説を、文章から調べた研究もある
著者識別は、既に作者が分かっている作品を分類するだけの技術ではない。文学史の中で実際に作者が問題となった作品へ応用された例もある。
その一つが、菊池寛の『受難華』である。
この作品については、横光利一による代筆ではないかという説があり、その背景には川端康成の証言などもあった。しかし証言とは別に、文章そのものを比較することで、この問題へ近づこうとした研究がある。
柳燁佳と金明哲による研究では、菊池寛と横光利一の作品群に加え、『受難華』の連載各回を対象に分析が行われた。使われたのは、読点をどこに打つのか、品詞がどのような順序で現れるのか、文節がどのような構造を取るのかといった文章上の特徴であり、それらを複数の統計的方法と機械学習によって比較している。
その結果、この研究では、『受難華』の各回を菊池寛の作品とみなす結論が示された。
ここには、文学研究として少し奇妙で魅力的な光景がある。
日記を探すのでもなく、編集者への手紙を発見するのでもない。証言者を探し出すのでもない。残された文章そのものから、作者についての統計的証拠を取り出すのである。
もちろん、統計分析は法廷で提出される筆跡鑑定のような絶対的な証明ではない。分析対象や比較作品、選んだ特徴、使用する手法によって結果が影響を受ける可能性はある。
それでも、作品の内部に残された無数の小さな文章上の癖が、作者を考えるための新しい証拠になることは確かである。
作家が作品へ署名する場所は、原稿の最後だけではないのかもしれない。
では、作家名を消せば「かなり当てられる」のか
ここまで読むと、答えは簡単に「できる」と言いたくなる。
しかし、科学的にはもう一つ重要な条件を付けなければならない。
たとえば、「この文章は太宰治、芥川龍之介、菊池寛、坂口安吾、織田作之助の5人のうち誰のものか」と尋ねられる場合を考える。このとき、本当の作者が5人の中に必ずいると分かっているなら、比較は比較的行いやすい。
著者識別では、このような問題をclosed-set(閉集合型・正しい作者が候補の中に必ず含まれている条件)として考える。
ところが、作品だけを渡されて、「日本文学史上のすべての作家の中から作者を見つけなさい」と言われたら事情はまったく違う。候補の中に本当の作者が含まれている保証さえないからである。このようなopen-set(開集合型・正しい作者が候補の中に存在するとは限らない条件)の著者識別は、はるかに難しい。
五つの扉の中から一つを選ぶ問題と、出口の見えない長い廊下から一枚の扉を探す問題くらい違う。
したがって、「作家名を消しても文章だけから作者を当てられる」という言葉を、そのまま無制限に一般化することはできない。
より正確には、候補となる作家がある程度限定され、それぞれについて十分な比較作品が存在し、ジャンルや時代などの条件も適切にそろえられているならば、文章の統計的特徴から作者をかなりの程度識別できる、と考えるべきである。
ここまで条件を付けても、この結果は十分に面白い。
なぜなら、人間が無意識に行ってきた「この文章はあの作家らしい」という判断の少なくとも一部が、測定可能なものとして現れるからである。
数行だけ渡されても同じように当てられるわけではない
もう一つ重要なのが、文章量である。
一般に文章が短くなるほど、作者固有の統計的特徴を安定して推定することは難しくなる。
考えてみれば当然である。
ある作家が平均すれば短い文を書くとしても、一文だけなら非常に長い文章を書くこともある。普段は読点を頻繁に使う作家でも、偶然取り出した数行にはほとんど読点がないかもしれない。文章が十分に長ければ、そのような偶然は平均化されていくが、数行だけでは偶然の影響が大きい。
したがって、
「この一文を読んだだけで太宰治だと分かった」
という文学的な読書体験と、
「一定量の匿名文章を複数作家の作品群と統計的に比較し、太宰作品である可能性が高いと判定した」
という科学的な著者識別は、似ているようでまったく違う。
前者は読者の経験と直感を楽しむ文学クイズになり得る。
後者では、比較する文章量、候補作家、特徴量、学習データ、判定方法などをそろえなければならない。
文学の「勘」と科学的な「判別」は、同じ入口から始まっても、途中から別の道を歩くのである。
さらに厄介なのは、一人の作家が一人ではないことだ
もし文章に作者の指紋があるなら、同じ作家の作品はすべて同じ場所へ集まるはずだと考えたくなる。
ところが、文学はそこでも単純な答えを拒む。
二十代の作家と五十代の作家が同じ文章を書くとは限らない。長編小説、短編、随筆、新聞連載でも文体は変わる。語り手が少年なら少年らしく書き、老人なら老人らしく書こうとする。作家自身も他の作家から影響を受け、ときには意識的にそれまでとは異なる文章を試みる。
太宰治についても、作品の時期による文体変化が数量的に研究されている。
太宰の前期作品を分析した研究では、品詞、助詞、記号など複数の特徴から作品を比較すると、1935年前後を境として文体上の変化が現れることが報告されている。さらに、前期の後半では読点頻度が増えるなど、同じ太宰作品の内部でも文章上の特徴が一定ではないことが示されている。
つまり、「太宰治」という一つの不動点が存在するわけではない。
太宰自身も時間の中を移動している。
そう考えると、「文体の指紋」という表現より、むしろ「歩き方の癖」と考えた方が近いのかもしれない。
人間は、若いころと老いたころでは歩く速さが変わる。疲れている日もあれば、急いでいる日もある。それでも長い時間その人を見ていれば、足の運び方や身体の重心に、その人らしさが残っている。
文章も同じなのではないだろうか。
一つひとつの作品は変化しても、大量の文章を並べて眺めると、言葉を運ぶときの重心が少しずつ現れてくる。
本当に実験するなら、正解率より「間違い」が面白い
では、実際に作家名を消して実験するとしたら、どのようなことができるだろう。
複数の近代作家から作品を選び、作者名、作品名、章題など作者を直接推測できる情報を除く。さらに文章量をそろえ、一文の長さ、文長のばらつき、読点や句点の頻度、助詞、品詞の並び方などを測定する。
すると、それまで文学として読んでいた文章が、多数の数値をもったデータとしても眺められるようになる。
太宰作品はある方向へ集まり、芥川作品は別の場所へ集まり、菊池作品はさらに違う場所へ分布するかもしれない。もちろん完全に分離するとは限らず、境界付近にはどちらとも判定しにくい作品が現れるだろう。
そして、実はそこが最も面白い。
もし太宰作品なのに芥川作品に近いと判定された文章があったなら、単に「機械が間違えた」で終わらせる必要はない。その作品が書かれた時期、作家同士の影響関係、語り手の設定、作品のジャンルなどを調べることで、文学史的な理由が見つかる可能性がある。
もちろん、本当に単なるモデルの誤判定である可能性もある。
だからこそ面白いのである。
統計モデルの結果は、文学作品についての最終判決ではない。むしろ「なぜこの作品だけここへ来たのだろう」という新しい問いを作る装置になる。
数字が文学を終わらせるのではない。
数字がうまく説明できなかったところから、次の読解が始まる。
人間の読者と計量分析は、違うものを見ている
同じ匿名文章を、人間にも読ませてみたらどうなるだろう。
文学を長く読んできた人なら、統計分析より簡単に作者を当てられるかもしれない。文章の皮肉、感情の距離、語り手と読者との関係、全体を覆う緊張感など、数えにくい特徴を同時に受け取ることができるからである。
しかし、人間には別の弱点もある。
作家をよく知っているほど、文体以外の情報に引きずられやすい。
自殺、病気、故郷、戦争、家庭といった、その作家を連想させる題材が現れれば、「これは太宰らしい」「これは漱石らしい」と考えてしまうかもしれない。そこで判断しているのは文体ではなく、文学史の知識である可能性がある。
一方、計量分析は人間とは違った手掛かりを見る。
人間なら読み飛ばしてしまうほど頻繁に現れる助詞、句読点、品詞の配列などを、何百、何千という文章の中から繰り返し測ることができる。
だから、人間と機械のどちらが文学を「正しく」読めるのかという二者択一で考える必要はない。
人間が感じているものと、数量分析が捉えているものは必ずしも同じではない。
その二つを重ね合わせたとき、これまで「文体」という一語で済ませていたものが、少しずつ分解されて見えてくるのである。
作家の名前を消すと、かえって作家が見えてくる
結局、「作家名を消しても文章だけで作家を当てられるのか」という問いに、無条件の「はい」と答えることはできない。
候補作家が限定されているか。比較に使える十分な作品があるか。文章量は十分か。ジャンルや時代はそろっているか。同じ作者の文体変化をどう扱うのか。
こうした条件によって判別の難しさは大きく変わる。
それでも、条件を適切に設定すれば、語彙、助詞、品詞、句読点、文の長さなどに表れる統計的特徴から、作者を一定程度識別できることは、これまでの計量文体学研究によって示されてきた。
しかし、この問いの面白さは「人工知能や統計なら作家を当てられる」というところにはない。
むしろ逆である。
作者名を消し、作品名を消し、文学史の知識までできるだけ遠ざけたあとに、それでも残ってしまうものは何なのか。
作家本人さえ意識していないかもしれない助詞の選び方。
どこで息を継ぐのか。
どこに読点を置くのか。
一文をどこまで伸ばして、どこで切るのか。
その一回一回は偶然に見える。
しかし、一人の作家が何十万、何百万という文字を書いたあとには、無数の小さな選択が積み重なっている。その集積を私たちは昔から、説明できないまま「この人らしい文章」と感じ取ってきた。
計量文体学は、その感覚を数字へ置き換えて文学を解体しようとしているのではない。
むしろ、「らしさ」という曖昧な言葉の内部に何があるのかを、別の窓からのぞいている。
そう考えると、作家の名前を消すという実験は、作家を消すためのものではない。
名前を消したあと、それでも文章の中に残っているものを探す実験なのである。
作家が作品に署名するのは、原稿用紙の最後だけではないのかもしれない。
名前をすべて消したあとにも、句読点の一つ、助詞の一つ、一文を終える場所の一つ一つに、本人さえ気づかなかった小さな署名が残っている。
そして読者は、それを数字で測るよりずっと前から、「文体」と呼んでいたのである。






