リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

はじめに

 憲法という言葉は、多くの人にとって「遠い」。政治の話、専門家の話、あるいは学校の教科書の話に見えるかもしれないが、実際には、憲法は私たちの生活を支える制度の土台である。床板がしっかりしていれば、家具を置き、人が歩いても家は安定する一方、床板に弱い部分があれば、普段は見えなくても、何かの衝撃を受けたときに問題が表面化する。憲法について考えるということは、政治的なスローガンを選ぶことではなく、その床板がどのような構造で、どこに強さと弱さがあるのかを点検することに近い。

 では、なぜ日本国憲法第九条が、制定から長い年月を経ても議論され続けるのか。第九条は、単に「戦争をしない」と宣言するだけの条文ではなく、国家が武力という強力な手段をどのような条件で扱うのか、国民の生命や自由をどのように守るのか、国際社会の中で日本がどのような安全保障政策を取るのかという、複数の問題が交差する条文だからである。さらに、第九条をめぐる問題は外交・防衛だけでは終わらず、軍事組織を誰が統制するのか、国会がどこまで関与するのか、秘密情報と情報公開をどう両立させるのか、非常時に行政へどこまで権限を与えるのかという、立憲主義そのものにかかわる問題へとつながっていく。

 本稿の目的は、第九条を「護憲か改憲か」という二つの陣営の争いとして扱うことではない。第九条を入口として、憲法が国家権力をどのように構成し、どのように制約しているのかを確認したうえで、改正を求める主張と現状維持を求める主張の双方をできる限り強い形で取り上げ、制度としてどのような利益と危険が存在するのかを比較していく。

 その際、注意しなければならないのは、制度には二種類の失敗があり得るということである。国家に強い権限を与え過ぎれば、権力の濫用や権利侵害が起こる危険があるが、反対に、必要な権限まで制限すれば、侵略や大規模危機に十分対応できず、国民の生命や自由を守れない危険が生じる。本稿では、どちらか一方だけを危険視するのではなく、国家権力の過剰による損失と、国家能力の不足による損失を同じ制度問題として扱う。

 安全保障政策の評価についても、軍事力が強ければよい、あるいは弱ければよいという単純なものではない。軍事力による抑止、軍拡による緊張、財政負担、同盟による安全保障、同盟による巻き込まれ、外交や経済安全保障による危機回避などを総合して考える必要があり、そのうえで、どの組み合わせが国民の生命、自由、生活を最も安定して守るのかを検討しなければならない。

 憲法は、国家を単純に弱くするための法ではない。国会、内閣、裁判所などを設け、それぞれに権限を与えると同時に、その権限に限界を設け、国民の基本的人権を保障する仕組みである。したがって、憲法を考える際の中心的な問いは、「国家を強くするか弱くするか」ではなく、「必要な国家能力を確保しながら、その力をどのように制御するか」にある。

第1章 憲法は国家をつくり、同時に国家を縛る

 憲法は「国の基本ルール」と説明されることが多いが、その言葉だけでは憲法の役割を十分に説明できない。近代憲法には、国会、内閣、裁判所などの国家機関を設け、その権限を定める働きがある一方、国家権力が越えてはならない限界を定め、国民の基本的人権を保障する働きもあるため、「憲法は国家を縛るためにある」という説明は立憲主義の重要な側面を示しているものの、それだけですべてを説明したことにはならない。

 より正確には、憲法は国家権力を成立させ、その権限を配分すると同時に、権力の濫用を防ぐための制約を設ける制度である。この考え方が立憲主義(Constitutionalism・憲法によって国家権力を制限し、基本的人権を保障する考え方)であり、国家は社会を維持するために必要な存在であるからこそ、強い権限を持たせる一方で、その使用条件をあらかじめ定めておく必要がある。

1-1 権力は必要だからこそ、統制も必要になる

 国家権力がなければ、法律を執行することも、犯罪を取り締まることも、災害に対応することも、国を防衛することも難しいため、権力そのものを否定することは現実的ではない。しかし、権力は大きな問題を迅速に処理できるという利点を持つ一方、一度集中すると誤りや濫用の影響も大きくなる。統一的に決定し、迅速に実行する仕組みは危機時には有効だが、異論を排除すれば誤りが訂正されにくくなり、手続きを省略すれば責任の所在が曖昧になり、情報が過度に閉鎖されれば外部から検証することが難しくなる。

 これは政治家や行政官が悪意を持つ場合だけの問題ではなく、限られた時間と情報の中で判断する人間が誤る可能性を制度としてどう扱うかという問題である。そのため立憲主義は、人物の善悪よりも制度を重視し、優れた政治家だけが権力を握ることを前提とするのではなく、誤った判断をする政治家や、将来現れるかもしれない好ましくない権力者の下でも重大な逸脱が起きにくい仕組みを設計しようとする。

 一方で、統制を強くし過ぎれば別の問題が生じる。行政や防衛に必要な行動まで妨げられれば、国家が本来果たすべき安全確保の機能そのものが弱くなるため、重要なのは権力をなくすことではなく、必要な権限と必要な制約の境界を探ることである。

1-2 第九条は「武力」という強い国家権力を扱う

 この視点から見ると、第九条は国家が扱う最も強力な手段の一つである武力について、憲法上の原則と制約を設ける条文として理解できる。武力は国家の安全を守るために必要となる場合がある一方、実際に使用された場合の人的・経済的損失が極めて大きく、政策判断を誤った場合に容易に元へ戻すことができないため、他の行政権限以上に慎重な統制が求められる。

 ただし、第九条を「武力を一切認めない条文」と単純化することは、現在の日本の法制度を正確に説明しない。歴代政府は、第九条によって日本固有の自衛権まで否定されたわけではなく、自衛のために必要最小限度の実力を保持することは許されるという解釈を取ってきた。この解釈に基づいて自衛隊が存在しており、現在では一定の厳格な条件の下で、国際法上は集団的自衛権に当たり得る武力行使についても、憲法上許容され得るという政府解釈が採用されている。

 したがって、現在の第九条をめぐる問題は、「武力を持つか持たないか」という二択ではない。現実には自衛隊という大規模な実力組織が存在し、防衛政策が運営されている以上、どの範囲までを自衛として認め、どのような条件と手続で武力を使用し、誰がその判断を監視し、誤った場合にどのように止めるのかという制度の精度こそが問われている。

第2章 第九条の成立史~戦争の経験と占領政策の中で生まれた制度

 条文は歴史から切り離されて突然生まれるものではない。第九条の成立には、第二次世界大戦とその被害、日本の敗戦、連合国による占領政策、戦後国際秩序、日本政府と連合国軍総司令部との交渉、帝国議会での審議など複数の要因が重なっているため、第九条を単に「日本人の戦争反省から生まれた条文」と説明することも、「占領軍から一方的に与えられた条文」と説明することも、成立過程を一つの要因に還元し過ぎる。

2-1 戦争が国家と生活を変える

 戦争は戦場の兵士だけに影響するものではない。長期的な戦争になれば、財政、産業、教育、医療、物流、報道、行政など社会の広い領域が戦争遂行に適応するように変化し、物資不足、家族の分断、医療資源の不足、産業構造の変化、言論統制や社会的緊張などが、戦場から離れた市民生活にも影響する。さらに、戦争による損失は終戦によって直ちに消えるわけではなく、死傷者、障害、住宅や社会資本の破壊、政府債務、産業への打撃、家族関係の断絶、国際関係の悪化などが長期に残ることがある。

 第二次世界大戦の経験が、日本国憲法に平和主義を強く位置づける歴史的背景の一つとなったことは否定できないが、第九条の具体的な条文形成には、GHQ(General Headquarters・連合国軍総司令部)の占領政策と憲法草案が大きく関与している。マッカーサー・ノート、GHQ草案、日本政府案、帝国議会での修正などを経て現在の条文が形成されたため、その成立史は国内の戦争反省だけでも、外国による押し付けだけでも説明できない。

2-2 「成立の由来」と「現在の制度価値」は別に検討する

 ある制度がどのような事情で導入されたかを調べることは重要であり、成立事情を知れば、その制度が当時どの問題を解決しようとしていたのかを理解しやすくなる。しかし、制度の現在の価値が、その成立経緯だけで自動的に決まるわけではない。外部から強い影響を受けて導入された制度であっても、その後の社会で有効に機能することはあり得る一方、民主的な手続で導入された制度であっても、長期的に見れば問題を生む場合がある。

 したがって、第九条についても、「誰が原案を作ったのか」という問いと、「現在の日本でどのような利益とコストを持っているのか」という問いは分ける必要がある。成立史は制度を理解するための重要な材料だが、それだけで現在の制度評価を終えることはできない。

第3章 第九条の意味~禁止だけでなく、許容範囲と統制を考える

 第九条の第一項は、国際紛争を解決する手段としての戦争と武力による威嚇または武力の行使を放棄すると定め、第二項では戦力不保持と交戦権の否認を規定している。しかし、条文を読むだけで現在の日本の安全保障法制全体を理解することは難しく、実際の制度は、条文、政府解釈、国会で制定された法律、司法判断、国際法などが重なって形成されている。

3-1 第九条と自衛権

 現行政府解釈では、第九条は日本が独立国家として持つ自衛権そのものを否定していないため、日本を防衛するために必要最小限度の実力は、第九条第二項の「戦力」には当たらないと説明され、自衛隊の存在が正当化されてきた。この解釈には長年議論があり、第九条と自衛隊との関係について異なる憲法学説も存在するが、現行制度を説明する場合には、「第九条があるため日本は武力を一切行使できない」と書くのは正確ではない。

 さらに現在の政府解釈では、日本に対する直接の武力攻撃だけでなく、日本と密接な関係にある他国への武力攻撃によって日本の存立が脅かされ、国民の生命や自由などが根底から覆される明白な危険があり、他に適当な手段がなく、必要最小限度の実力行使にとどまる場合には、武力行使が憲法上許され得るとされている。そのため現在の争点は、自衛そのものを認めるかどうかではなく、自衛の範囲、発動条件、必要最小限度の意味、国会の関与、指揮命令、情報公開、司法による審査などをどのように設計するかに移っている。

3-2 第九条は「何ができるか」と「何をさせないか」の両方にかかわる

 第九条を考える際には、「自衛隊に何ができるか」だけを見るのでは不十分であり、国家に武力行使を認めるなら、その権限をどこで止めるのかという問題が必ず生じる。一方で、制約を強くすることで必要な防衛行動まで遅れたり不可能になったりすれば、そのことによって国民の生命や自由が危険にさらされる可能性もあるため、この二つは対立するように見えて、制度設計では同時に考えなければならない。

 第九条の問題を数理的に単純化するなら、安全保障制度による社会的な期待損失は、防衛力不足によって攻撃を受ける損失、軍備や対立の拡大によって生じる損失、軍事費などの財政負担、誤認や偶発的衝突による損失、国家権力の濫用による損失などの合計として考えることができる。したがって、どれか一つをゼロにすれば最適になるとは限らず、防衛力を増やせば攻撃を思いとどまらせる可能性がある一方で、軍拡競争や誤認による緊張を高める可能性もあり、防衛力を減らせば緊張を緩和する可能性がある一方で、攻撃を抑止する能力が低下する可能性もある。

 つまり、第九条の制度評価は「軍事力があるから危険だ」「軍事力がないから危険だ」という一方向の議論ではなく、複数のリスクの大きさを比較する作業として行う必要がある。

第4章 反論①「きれいごとでは国は守れない」~抑止とエスカレーションの両面

4-A 主反論セット

相手の最善形

 国際社会には、外交や国際法だけでは解決できない武力紛争が現実に存在する。相手国が武力を持っている以上、自国に十分な防衛能力がなければ、相手は攻撃による利益が大きいと判断するかもしれず、その意味で防衛力には、実際に戦うためだけでなく、「攻撃しても成功しない」「攻撃すれば大きな代償を払う」と相手に認識させることで攻撃そのものを思いとどまらせる抑止の役割がある。平和を維持するためには理想だけでなく、攻撃を受けた場合に対処できる能力が必要であり、国家には国民の生命と領土を守る責任がある以上、国際環境が変化しているにもかかわらず過去の制度を固定すれば、結果として国民を危険にさらす可能性がある。

検討

 この主張には合理的な部分がある。国際政治学には、攻撃によって得られる利益よりも失うものの方が大きいと相手に認識させることで攻撃を抑制するという抑止理論があり、軍事力や同盟が実際に抑止として作用する局面があることを示す研究も存在するため、「武力を持てば必ず戦争になる」と考えることは適切ではない。

 しかし、抑止が常に成功するわけでもない。相手国の意図を誤って推測したり、軍事行動を防衛ではなく攻撃準備だと誤認したりすれば、双方が安全のために軍備を増強した結果、かえって緊張が高まることがあり、これは安全保障のジレンマとして知られる問題である。したがって、安全保障政策を評価する際には、「防衛力があるから安全」「防衛力があるから危険」というどちらかの結論を先に置くのではなく、相手国の軍事能力、地理条件、兵器の性質、同盟関係、外交関係、危機管理の仕組みなどを含めて考える必要がある。

 また、「国を守る」という場合には、何を守るのかを具体化しなければならない。領土と主権だけでなく、国民の生命、自由、経済活動、社会基盤なども防衛の対象であり、軍事的安全保障を強化するために社会全体の持続可能性を過度に損なえば、その国は別の意味で脆弱になる。したがって現実的な安全保障とは、防衛力、外交、経済安全保障、情報能力、サイバー防衛、社会インフラ、エネルギー、食料、医療、災害対策などを組み合わせることであり、軍事力だけを切り離して評価するべきではない。

4-B 派生反論セット~軍備は「戦争を避ける保険」なのか

相手の最善形

 外交や国際協力は重要だが、それだけでは相手国の武力行使を止められない場合があり、軍事力は実際に使用することを目的とするだけではなく、存在することで相手の攻撃を思いとどまらせる。火災保険が火事を望んで加入するものではないのと同じように、防衛力も「使わずに済ませるための保険」と考えることができる。

検討

 この比喩は抑止を理解するうえでは分かりやすいが、通常の保険と軍備には大きな違いがある。一般的な保険では、自分が保険に加入したからといって隣人が保険料を増やす必要はないが、軍備の場合には、自国の軍備増強を相手国が脅威と認識し、相手国も軍備を増強する可能性があるため、防衛力には抑止効果と安全保障のジレンマが同時に存在し得る。

 また、軍事力には財政上の機会費用があり、財政資源に限界がある以上、防衛費を増やせば、その分だけ他の政策を直ちに同額削減するとは限らないものの、社会保障、教育、インフラ、科学技術、災害対策などとの資源配分を考える必要がある。一方で、防衛費を抑えた結果として十分な防衛能力を確保できず、大規模な攻撃を受ければ、その経済的・人的損失は通常の予算比較をはるかに上回る可能性もあるため、軍事費の適正水準を「多いほどよい」「少ないほどよい」と単純に決めることはできない。

 「保険」という表現を使うのであれば、必要なのは保険そのものを否定することでも、無制限に保障額を増やすことでもない。どの危険に備えるのか、どの程度の保険料を負担するのか、どの条件で使用するのか、誤作動をどう防ぐのかまで含めて制度として設計する必要がある。

第5章 反論②「自衛のためなら当然だ」~自衛権とその限界

5-A 主反論セット

相手の最善形

 個人が攻撃されたときに自らを守ることが認められるのと同様に、国家が侵略を受けた場合に国民と領土を守ることも当然認められるべきであり、国際連合憲章も、武力攻撃が発生した場合の個別的・集団的自衛権を認めている。第九条の解釈が現実の防衛を過度に制約するのであれば、条文を現実に合わせ、自衛隊の存在と権限を明確にする方が、国民に対して誠実ではないかという考え方が成り立つ。

検討

 自衛権そのものを認めることと、自衛の名の下でどのような行動でも認めることは同じではない。国際法でも武力行使は原則として禁止され、自衛権など一定の例外が認められており、その行使については必要性や比例性などが重要な論点となる。

 国家による武力行使は、個人の正当防衛とは規模も影響も異なり、軍事作戦は多数の人員と兵器を動かすだけでなく、他国との関係、経済、市民生活にまで影響するため、「自衛だから正当である」という一語だけで判断することはできない。何を武力攻撃と判断するのか、どの時点から武力行使を認めるのか、どの程度までを必要最小限度とするのか、誰が判断するのか、国会はいつ承認するのか、判断が誤っていた場合にどのように是正するのかまで含めて考える必要がある。

 ただし、条件を細かくし過ぎて緊急時に判断できない制度になれば、それも問題である。したがって制度設計では、濫用を防ぐことと必要な防衛行動を可能にすることを同時に実現しなければならない。

5-B 派生反論セット~解釈の不安定と明文化

相手の最善形

 現在の制度は、第九条の条文と現実の自衛隊との関係を政府解釈で調整してきたため、政府の解釈変更によって許容される活動範囲が変化し、国民から見ても憲法上どこまで認められるのか分かりにくい。自衛隊の存在や基本的任務を憲法に明記すれば、法的安定性が高まり、国民による民主的な統制も行いやすくなるのではないかという主張である。

検討

 この指摘には重要な論点がある。憲法上の重要問題が政府解釈に大きく依存している場合、その解釈がどこまで変更可能なのかという法的安定性の問題が生じるため、自衛隊や自衛権について一定の事項を憲法上明確化すべきだという考え方には制度上の理由がある。

 ただし、「明記すれば透明になる」と自動的に決まるわけではなく、例えば自衛隊の存在だけを規定し、任務、権限、海外活動、指揮命令、国会関与などを広く法律に委ねれば、新たな解釈問題が生じる可能性がある。反対に、任務や発動条件を憲法上詳細に規定すれば、政府や法律による拡張を抑制する効果を持つ可能性もあり、明記すること自体が権限拡大になるとも、権限制限になるとも一概にはいえない。

 したがって、改憲の是非を考える場合には、「自衛隊という文字を入れるか」という問題だけでなく、現行制度と改正案を比較し、どちらの方が権限の範囲、国会統制、文民統制、情報公開、司法的統制を明確にできるのかを確認する必要がある。

第6章 反論③「国際社会では普通の国であるべきだ」~国家モデルと同盟を考える

6-A 主反論セット

相手の最善形

 国際社会では、多くの国家が軍隊を保持し、自国防衛や同盟国との共同防衛に備えている。日本だけが安全保障上の活動を過度に制限すれば、同盟国から十分な責任を果たしていないと見られたり、国際危機への対応能力を欠いたりする可能性があるため、日本も国際社会の一般的な安全保障制度に近づけ、必要な役割を果たすべきではないかという考え方である。

検討

 「普通の国」という表現には注意が必要である。国際法には、すべての国家が同じ形態の軍隊を持たなければならないという規則はなく、各国の安全保障制度は地理、歴史、人口、同盟関係などによって大きく異なる。実際、常備軍を持たない国家も存在するが、それらの国の多くは、警察や沿岸警備組織、地域安全保障制度、他国との防衛協力などを利用しているため、「軍隊がない国がある」という事実だけから、日本も軍事力を持つ必要がないという結論を導くことはできない。

 反対に、多くの国が軍隊を持っているから、日本も同じ制度にすべきだという結論も自動的には導けない。日本は島国であり、人口規模、経済規模、周辺国の軍事力、日米安全保障体制など独自の条件を持っているため、制度の評価は日本自身の条件に基づいて行う必要がある。

 また、国際社会への貢献は軍事だけに限られず、外交、経済支援、人道支援、災害救援、国際機関への協力、海上交通路の安定、科学技術、サイバー防衛など多くの方法がある一方で、軍事的協力が国際秩序の維持に必要となる局面もあり得るため、どの手段が最も効果的なのかを具体的な状況ごとに検討する必要がある。問題は「普通か特殊か」ではなく、日本の安全と国民の自由を両立させる制度として合理的かどうかである。

6-B 派生反論セット~同盟と共同対処

相手の最善形

 現代の安全保障では、一国だけであらゆる脅威に対処することは難しく、複数国が共同で防衛することを約束すれば、潜在的な攻撃国は一国だけでなく同盟全体と対峙することになるため、攻撃を思いとどまる可能性が高まる。共同防衛への参加を過度に制限すれば、日本だけが他国に守ってもらう片務的な関係になり、同盟の信頼性を損なう可能性があるという主張である。

検討

 同盟が抑止力を高める可能性には国際政治学上の根拠があり、攻撃を受けた国を他の同盟国が支援するという約束が信頼されれば、攻撃側が予想する戦争コストは高くなり、攻撃を思いとどまる可能性があるため、「同盟は常に危険を増やす」と考えるのは適切ではない。

 一方で、同盟には別の問題もあり、国際政治学では、同盟国に見捨てられる危険と、同盟国が起こした紛争に巻き込まれる危険の双方が論じられてきた。同盟を強くすれば必ず戦争に巻き込まれるわけではないが、共同防衛義務の範囲が広いほど、他国の判断が自国の安全保障上の選択に影響する可能性は高まるため、共同対処を認めるか否かだけではなく、どの事態を共同防衛の対象とし、誰が参加を決定し、国会がどの段階で関与し、どのような条件で活動を終了するのかを明確にする必要がある。

 また、同盟が抑止として機能するためには、単に条約が存在するだけでは十分ではなく、相手国に「実際に共同対処する」と信じさせる必要がある一方で、同盟国自身が不用意な行動を取らないようにする仕組みも必要になる。つまり、同盟には抑止だけでなく、同盟国間の調整と抑制も求められるのであり、安全保障制度の質は「どれだけ多くのことができるか」だけではなく、必要な時には行動でき、必要のない時には行動を抑制できるかどうかによって評価されるべきである。

上巻のまとめ~問うべきなのは「強さ」ではなく制度の精度

 ここまで見てきたように、第九条をめぐる問題には単純な答えがない。防衛能力を高めれば抑止力が向上する可能性がある一方、軍拡や誤認によって緊張が高まる可能性もあり、防衛費には財政的な機会費用がある一方、十分な防衛能力を欠いた場合の損失は極めて大きくなる可能性がある。同盟についても、攻撃を抑止する働きが期待できる一方、同盟国の行動に自国が影響を受けるという問題が存在する。

 第九条についても同様であり、第九条による制約は、武力行使を慎重にする制度的効果を持ち得る一方、安全保障環境が変化した場合に必要な対応まで制約する可能性がある。反対に、制約を弱めれば行動の自由度は高まるが、その分だけ権力行使をどのように統制するかという問題が大きくなる。

 したがって、第九条や憲法改正を評価する際に重要なのは、「平和を重視するか安全保障を重視するか」という二者択一ではない。平和を維持すること自体が安全保障の目的であり、国家が防衛能力を持つことも、国家の武力行使を制約することも、最終的には国民の生命、自由、生活を守るための手段である。

 制度を評価するときには、権限の範囲が明確か、必要なときに行動できるか、濫用を防げるか、国会や司法による監視が働くか、情報公開と安全保障上の秘密をどう両立するか、誤った判断を後から検証し修正できるかという複数の尺度を同時に見る必要がある。憲法は国家を単純に弱くするための仕組みでも、国家を強くするための仕組みでもなく、国家に必要な力を与えながら、その力が国民の自由や尊厳を壊さないように制御するための基本設計なのである。

 その意味で、第九条をめぐる本当の問いは、「戦争に賛成か反対か」ではない。どのような危険に備え、どの程度の国家能力を持ち、その力を誰が、どの条件で、どの範囲まで使うことを認め、どのような制度によって止めることができるのかという問いである。そして、その答えは安全保障環境や社会状況が変化すれば検証し直す必要があり、憲法を守ることも、憲法を改めることも、それ自体が目的ではない。最終的に評価されるべきなのは、その制度によって国民の生命、自由、尊厳、そして将来にわたる社会の安全がどの程度守られるのかである。

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第7章 改憲論を「論点別」に分解する

 憲法改正をめぐる議論は、「改憲派」と「護憲派」という二つの立場に分けられがちである。しかし、実際の憲法改正論には、自衛隊の明記、緊急時の国会機能、行政権限、国民の権利と義務など性質の異なる論点が含まれており、それらを一括して賛成か反対かで処理すると、制度の具体的な利益と危険が見えにくくなる。

 そこで本章では、それぞれの改正論について、まず改正を求める側が何を解決しようとしているのかをできる限り強い形で捉え、そのうえで生じ得る問題と、制度として採用する場合に必要となる条件を検討する。ただし、ここでいう「条件」は、それを満たせば必ず改正すべきだという意味ではない。現行制度と改正後の制度を比較し、権限を与え過ぎる危険と、必要な権限を与えない危険の双方を検討するための評価軸である。

7-1 第九条に自衛隊を明記する

第一層 狙い、懸念、条件

狙い

 自衛隊は現実に存在し、日本の防衛、災害派遣、警戒監視など広い役割を担っている一方、その憲法上の位置づけは第九条の文言そのものではなく、長年積み重ねられてきた政府解釈によって説明されている。そのため、自衛隊の存在を憲法に明記することで、「実際に存在する重要な国家機関」と「憲法の文言」との距離を縮め、法的安定性や国民への説明可能性を高めようとする考え方には一定の制度的理由がある。

 現在も自衛隊に対して統制が存在しないわけではなく、国会は自衛官の定数、主要な組織、予算などを法律や予算によって決定し、防衛出動などについて承認する役割を持っている。また、内閣総理大臣は自衛隊に対する最高の指揮監督権を持ち、憲法上、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない。このように現在の日本にも文民統制(Civilian Control・軍事組織を民主的な政治権力の統制下に置く仕組み)は存在しており、自衛隊明記の問題は、統制が存在するか存在しないかではなく、現在法律や解釈に置かれている統制のどこまでを憲法上明確にするのかという問題として考える方が正確である。

懸念

 自衛隊を憲法に明記したからといって、権限が必ず拡大するわけではない。しかし反対に、明記しただけで統制が強まるとも限らない。例えば「自衛隊を保持する」という存在だけを憲法に置き、任務、権限、武力行使の条件、海外活動、国会関与などの重要事項を広く法律や政府解釈に委ねれば、現在とは異なる形で解釈上の余地が残る可能性がある。

 一方、任務や発動条件を憲法上限定すれば、政府や国会が通常の法律だけで活動範囲を拡大することを難しくすることもできるため、「明記=権限拡大」「明記=統制強化」といういずれの図式も、それだけでは成立しない。問題は自衛隊という名称を憲法に書くこと自体ではなく、何を憲法で固定し、何を法律に委ね、どの変更にどの程度の民主的手続きを要求するのかという制度設計にある。

条件

 自衛隊の明記によって法的安定性を高めようとするのであれば、少なくとも任務と権限の範囲、武力行使の条件、指揮命令系統、国会の関与、情報公開と安全保障上の秘密との境界、活動終了後の検証方法などを、現行制度との比較ができる形で示す必要がある。

 重要なのは、単に「できること」を増やすことでも、「できないこと」を増やすことでもない。必要な防衛行動を可能にしながら、目的から外れた活動や過度な権限行使を止めることができるかという二つの側面を同時に評価する必要がある。

第二層 派生論点A 任務まで明記すべきではないか

相手の最善形

 現代の安全保障は、領土への直接侵攻だけではなく、ミサイル、サイバー攻撃、宇宙領域、無人機、重要インフラへの攻撃など多様化しており、自衛隊という存在だけを明記しても、現場が何を行えるのかが曖昧であれば問題は残る。そのため、自衛隊を明記するのであれば、現在想定される任務も整理し、必要な権限を明確に与えた方が法的予測可能性は高まるという考え方である。

検討

 任務の明確化には、現場の判断基準を明らかにするという利点がある一方、サイバーや宇宙のように平時と有事、民間と軍事の境界が明確ではない領域では、任務の名称だけを憲法や法律に置いても、実際の権限範囲が明確になるとは限らない。そのため、任務を列挙する場合には、名称だけでなく、その任務を開始できる条件、目的、許容される手段、国会への報告や承認、終了条件などを組み合わせる必要がある。

 ここでも評価すべきなのは、任務が多いか少ないかではなく、必要な事態に対応できるだけの柔軟性と、目的を外れた拡張を防ぐ限定性を両立できるかである。

第二層 派生論点B 国民投票を経れば民主的正当性が高まるのではないか

相手の最善形

 憲法改正は、国会だけで成立するものではなく、憲法第九十六条に基づき、各議院の総議員の三分の二以上の賛成による発議の後、国民投票などによって国民の承認を得なければならない。そのため、政府解釈の積み重ねによって制度を変化させるより、自衛隊の位置づけを憲法改正案として示し、国民自身が判断する方が民主的な正当性が高いという考え方には制度上の根拠がある。

検討

 国民投票による承認は、憲法改正に強い手続的正当性を与える。しかし、民主的に決定された制度であることと、濫用されにくく実務上も優れた制度であることは同じではないため、国民投票を行うだけで統制の細部まで自動的に保証されるわけではない。

 したがって重要なのは、国民投票そのものを過小評価することではなく、投票時に何が変わり、何が変わらないのかを判断できる情報を十分に示すことである。民主的正当性と制度的安全性は別の尺度として評価し、その双方を満たせるかを見る必要がある。

7-2 緊急事態条項を設ける

 緊急事態条項を考える際に最初に確認しなければならないのは、日本には現在、緊急時に国家が何もできないわけではないという事実である。憲法第五十四条には、衆議院解散中に国に緊急の必要がある場合、内閣が参議院の緊急集会を求める制度があり、そこで採られた措置は臨時のものとして、その後の衆議院の同意を必要とする。

 法律上にも複数の緊急対応制度が存在する。災害対策基本法には重大な災害について災害緊急事態を布告する制度があり、布告後には国会承認を求める仕組みが設けられている。新型インフルエンザ等対策特別措置法にも、一定の要件を満たす場合の緊急事態宣言と国会への報告制度があり、武力攻撃事態や存立危機事態についても、対処基本方針や防衛出動と国会承認を組み合わせた制度がすでに存在する。したがって争点は、「日本に緊急制度があるかないか」ではなく、現在の憲法と法律で対処できない事態があるのか、その空白を憲法改正によって補う必要があるのかという点にある。

 さらに、2026年の衆議院憲法審査会で議論されている緊急事態条項は、すべてが行政権強化を目的としているわけではない。大規模災害、感染症、内乱、武力攻撃などによって国政選挙を長期間適正に実施できない場合に、参議院の緊急集会をどこまで利用できるのか、衆参両院による国会機能を維持するため議員任期の特例を設ける必要があるのかという問題と、内閣に緊急政令や緊急財政処分の権限を与える問題とは、制度的性質が異なるものとして議論されている。したがって、「緊急事態条項」という一つの言葉でまとめるのではなく、国会機能維持の問題と行政権限強化の問題を分けて検討する必要がある。

7-2-A 国会機能を維持するための緊急制度

狙い

 大規模な自然災害や武力攻撃などによって広い地域で長期間選挙を実施できなくなった場合、議員の任期が終了したにもかかわらず新しい議員を選べず、国会機能に空白が生じる可能性がある。そこで、参議院の緊急集会によって対応する範囲を明確にする、あるいは極めて限定された場合に議員任期を延長して衆参両院による国会を維持するという考え方が提起されている。

 2026年の憲法審査会でも、参議院の緊急集会を中心に対応すべきだという考え方と、長期間かつ広範囲に選挙が実施できない場合には議員任期の特例が必要だという考え方、さらに両者を組み合わせる考え方が議論されている。これは行政権を強くする問題というより、危機時にも立法府を存続させ、内閣に対する民主的統制を維持できるかという問題である。

懸念

 議員任期を延長する制度を設ければ、本来なら選挙によって更新されるはずだった民主的代表が、選挙を経ずに議席を維持することになる。そのため、どのような状況を「選挙不能」と判断するのかが曖昧であれば、必要以上に選挙を延期する危険が生じる。

 一方で、任期延長を一切認めず、参議院の緊急集会だけであらゆる長期危機に対応できると仮定することにも検討の余地がある。危機が長期化し、衆議院が長期間存在しない状況で、通常国会と同じ範囲の立法や予算、政府統制をどこまで参議院だけで担えるのかという問題があるためである。

条件

 この問題を評価する際には、緊急制度を設けるか否かだけでなく、選挙を延期できる事態をどれだけ限定できるか、延期期間に上限を置けるか、一定期間ごとに国会や司法が必要性を再確認できるか、選挙可能な地域から段階的に民主的手続きを回復できるかなどを具体的に比較する必要がある。

 重要なのは、民主的制度を守るという理由で民主的な選挙を無期限に停止する矛盾を避ける一方、形式的に選挙期日を守ることによって現実に選挙を実施できず、国会そのものが機能しなくなる事態も避けることである。

7-2-B 行政への緊急権限を設ける

狙い

 大規模災害、感染症、武力攻撃などでは、通常の立法手続きを待っていては対応が間に合わない場合があり、指揮命令系統を明確にし、一定期間に限って行政が迅速に判断できる制度を設けることで被害を減らそうとする考え方には合理性がある。実際、日本の現行法にも災害、感染症、武力攻撃などについて通常時とは異なる権限や手続が置かれており、危機時に迅速性が必要になること自体は現行法も前提としている。

懸念

 他方、緊急権には構造的な危険もある。危機の最中には情報が不完全で、社会全体が強い不安の中にあり、通常より迅速な決定が求められるため、権限を集中させる必要性が高まる一方、その判断を検証する条件は弱くなりやすい。

 比較研究では、現代の憲法の多くが何らかの緊急事態制度を持っているため、「緊急事態条項が存在すること自体が異常である」とはいえない。しかし、853件の緊急事態宣言を分析した研究では115件が憲法上違法と分類されており、緊急制度には実際に濫用や逸脱の問題が生じ得ることも確認されている。したがって、緊急権は一律に否定すべき制度でも、一律に安全な制度でもなく、その発動要件と統制構造が中心問題となる。

条件

 行政への緊急権限を憲法上新たに設ける場合には、何が起きたら発動できるのか、誰が認定するのか、どの権限が追加されるのか、何日間有効なのか、延長にはどのような承認が必要なのか、国会や司法が停止できるのか、終了後に記録を公開し検証できるのかという条件を具体化する必要がある。

 ここで制度評価を一方向にしてはならない。緊急権を弱くし過ぎれば、行政判断の遅れによって避難、救命、防衛、感染症対応などに損失が生じる可能性がある一方、強くし過ぎれば、必要以上の権利制限や権限の長期化による損失が生じる可能性があるため、問題は「強い権限か弱い権限か」ではなく、両方の期待損失をできるだけ小さくする制度を設計できるかである。

派生論点 緊急時には権利制限が必要ではないか

相手の最善形

 感染症、災害、治安危機、武力攻撃などでは、移動、営業、施設利用などについて一定の制限を行わなければ、多数の人の生命や安全を守れない場合がある。個人の自由を一切制限できない制度では、社会全体の被害が拡大する可能性があるため、緊急時に必要となる権利制限をあらかじめ法律や憲法上明確にしておく方が、行政の恣意的な判断を減らせるという考え方である。

検討

 この問題では、「権利を制限するか、しないか」という二択ではなく、どの権利を、どの目的のために、どの程度、どれだけの期間制限できるのかが重要になる。一定の権利制限が必要となる場合でも、その必要性や相当性を示し、より制限の小さい代替手段がないかを検討し、期間を限定し、不服申立てや司法的救済を可能にすることによって、必要な危機対応と基本的人権の保護を両立させることが求められる。

 逆に、権利制限を法律上明確にすること自体が権利侵害を意味するわけでもない。行政が何をできるかを限定的に法定することで、法的根拠のない制限を防ぐ効果も期待できるため、「合法化=権限拡大」と考えるのではなく、許される制限と許されない制限の境界を明確にできるかを見る必要がある。

7-3 国民の権利と義務のバランスを見直す

第一層 狙い、懸念、条件

狙い

 社会は個人だけで成立しているわけではなく、災害対応、教育、社会保障、税負担など、多数の人が一定の責任を分担することで維持されている。そのため、権利だけではなく公共への責任や他者への配慮についても憲法上明確にし、自由と社会的責任の均衡を図るべきだという考え方がある。

 ただし、日本国憲法が現在「権利だけ」を規定しているわけではない。第十二条は自由及び権利について濫用を禁じ、公共の福祉のために利用する責任に言及しており、第十三条も生命、自由及び幸福追求に対する権利について公共の福祉との関係を定めている。また、第二十六条には子に普通教育を受けさせる義務、第二十七条には勤労の義務、第三十条には納税の義務がすでに置かれているため、「権利だけの憲法を義務もある憲法に変える」という説明は現行憲法を正確には表さない。

懸念

 新たな義務規定や公共的な責任を憲法に加える場合に問題となるのは、「公共」「秩序」「責任」「国益」といった抽象的な言葉の意味が、政治や社会状況によって変化し得ることである。抽象的な義務規定が広く解釈されれば、本来保護されるべき言論、集会、思想などに対する制限の根拠として利用される可能性がある。

 一方、抽象的な概念が存在するから直ちに権利が失われるわけでもなく、現行憲法にも「公共の福祉」という概念は存在するため、重要なのは抽象語の有無だけではない。具体的な法律、司法審査、行政手続などを通じて、その概念がどこまで権利制限を正当化できるのかを限定できるかが問題となる。

条件

 新たな義務や公共的責任を憲法上規定する場合には、義務そのものを掲げるだけではなく、その義務を理由に国家がどの範囲まで国民の権利を制限できるのかを明確にする必要がある。特に政治的な表現、報道、集会など、民主的な政策修正に直接関係する権利については、権力を批判する自由そのものが統治機構を検証する手段でもあるため、慎重な制度設計が求められる。

派生論点A 権利ばかりでは社会が維持できないのではないか

相手の最善形

 人口減少や高齢化、地域社会の担い手不足、大規模災害などを考えると、社会を維持するためには個人が一定の責任を負う必要があり、自由や権利だけを強調しても共同体は維持できない。そこで、社会に対する責任や公共への貢献を憲法上示すことで、社会の連帯を支える基礎を作るべきだという考え方である。

検討

 共同体の維持に一定の協力が必要であることと、その協力を憲法上の義務として国家が強制できるようにすることは別問題である。地域活動や災害時の助け合いなどは、法的義務よりも信頼、行政支援、社会保障、情報共有などによって支えられている場合も多いため、どの問題を憲法上の義務によって解決しようとしているのかを具体化する必要がある。

 反対に、社会的責任という考え方をすべて憲法から排除すべきだともいえない。現行憲法自身が権利の濫用禁止や複数の義務を定めている以上、問題は「権利か義務か」という二択ではなく、国民に義務を課す必要性と、それを国家が強制する範囲との均衡である。

派生論点B 表現の自由には責任が伴うのではないか

相手の最善形

 インターネットやソーシャルメディアでは、誹謗中傷、虚偽情報、個人情報の拡散などによって現実の被害が生じることがあるため、「表現の自由」という言葉だけであらゆる発信を正当化することはできない。自由には他者の権利を侵害しない責任が伴うことを、制度上明確にする必要があるという考え方である。

検討

 他人の名誉、プライバシー、安全などを守るため、表現に一定の法的責任が伴うこと自体は現在の法制度でも認められている。問題は、具体的な権利侵害を規制することと、抽象的な「責任ある表現」を国家が求めることとの違いである。

 表現の内容について国家が広い裁量で「責任があるか」を判断できる制度にすれば、政治的批判や少数意見まで萎縮させる可能性がある一方、名誉毀損、脅迫、違法な情報流通など具体的な被害について法的救済を整えることは、表現の自由と必ずしも矛盾しない。したがって、表現の自由を守ることと被害者を救済することを対立させるのではなく、具体的な被害を対象とし、適正な手続によって判断する制度として設計することが重要になる。

7-4 改憲議論を評価する共通の尺度

 ここまでの論点には共通した構造がある。自衛隊を明記する場合にも、緊急事態制度を設ける場合にも、国民の義務を見直す場合にも、「権限を広げるか狭めるか」という一方向だけでは制度の良し悪しを判断できない。権限が狭過ぎれば必要な行政や防衛が機能しないことがあり、広過ぎれば濫用や権利侵害が起こる可能性が高まる。

 したがって、制度を比較するときには、どの事態を対象とするのか、権限の範囲が明確か、必要なときに実際に機能するか、期間や終了条件が設定されているか、国会や司法による監視が働くか、情報や記録が後から検証できるか、誤りが起きた場合に修正できるかという観点を組み合わせて考える必要がある。

 数理的に単純化するなら、制度の社会的な期待損失は、権限不足によって危機対応に失敗する損失と、権限過剰によって濫用や権利侵害が生じる損失、それに制度運用のコストなどを合わせたものとして考えることができる。この見方に立てば、最適な制度とは最も強い国家でも最も弱い国家でもなく、想定される危険に対して必要な能力を持ちながら、誤った使用をできるだけ限定できる国家制度ということになる。

第8章 何を守るべきか~憲法を生活の尺度で考える

 憲法や安全保障の議論では、「国家」「主権」「公共の利益」「安全保障」といった大きな言葉が使われるため、制度の変更が日常生活とどのようにつながるのかが見えにくくなることがある。しかし、憲法上の制度が最終的に影響するのは、人が暮らし、働き、病気になり、家族を持ち、意見を表明し、行政サービスを利用する具体的な生活である。

 そこで本章では、医療、災害、行政、地域社会という身近な制度を手がかりとして、権限、統制、記録、検証がなぜ重要なのかを考える。ただし、これらは憲法制度の効果を直接証明するものではなく、制度設計の構造を理解するための類推である。医療で有効な仕組みがそのまま国家統治にも有効だと証明されるわけではない点には注意が必要である。

8-1 医療の尺度① 迅速さと確認手順

 夜間に救急患者が重なり、人員が限られ、患者の状態が急速に変化する場面では、医療者には迅速な判断が求められる。そのような状況では、確認や記録が時間を奪うように見えることもあるが、医療安全では、患者確認、薬剤確認、機器設定の確認などを標準化することによってヒューマンエラーの発生可能性を下げようとしてきた。

 ここで重要なのは、確認手順を増やせば増やすほど安全になるわけではないということである。確認が過剰になって救命処置そのものが遅れれば、別の危険を生むため、医療でも迅速さと安全確認を両立させる必要がある。

 憲法上の統制にも似た構造がある。緊急時だからすべてを通常手続のまま行うという制度では迅速性を欠く可能性がある一方、緊急だから手続きを不要にするという制度では誤判断を止めにくくなる。必要なのは、危機時にも最低限必要な確認を残しながら、通常より迅速に動ける仕組みをあらかじめ設計することである。

8-2 医療の尺度② 記録がなければ検証能力が落ちる

 医療事故の再発防止では、誰かを非難することだけでは問題は解決しない。何が起き、どの時点でどの情報があり、どの判断が行われたのかという記録が残っていれば、個人の失敗なのか、情報伝達や勤務体制、機器設計などシステムの問題なのかを検討することができる。

 逆に、記録が十分に残らなければ、後から原因を検証する能力は大きく低下する。これは国家の権限行使についても同様であり、安全保障上の理由から一定の秘密が必要になる場合はあっても、秘密であることと、誰にも記録を残さないことは同じではない。一定期間後に国会、裁判所、監査機関などが検証できる記録を残しておけば、機密性と事後検証を一定程度両立させることができる。

 重要なのは、「政府を信用するか、しないか」という人物論ではなく、正しい判断をした場合にも誤った判断をした場合にも、後から何が起きたかを確かめられる構造を持つことである。

8-3 災害の尺度~急ぐことと、止められること

 災害時には道路、通信、医療、物流など複数の機能が同時に損なわれるため、行政が通常より早く判断しなければ被害が拡大する場合がある。そのため、災害対策基本法をはじめとする現行法も、危機時には通常時とは異なる対応を可能にしている。

 しかし、災害時は情報そのものが不完全であり、最初の判断が常に正しいとは限らない。状況が変われば避難区域や物資配分などを修正する必要があるため、指揮命令を迅速にするだけでなく、現場から情報を戻し、方針を変更し、必要がなくなった措置を終了する仕組みも重要になる。

 この視点から見ると、緊急制度における「迅速性」と「統制」は必ずしも反対概念ではない。あらかじめ発動条件、権限、報告方法、終了条件を決めておけば、危機が起きてから権限の根拠を一から議論する必要がなくなるため、統制を明確にすることが迅速性を高める場合もある。

8-4 行政の尺度~裁量と救済

 行政には、法律の文章だけでは一つの答えを出せない場面があるため、一定の裁量(Discretion・法律や基準の範囲内で行政機関が行う判断)が必要になる。しかし、裁量が大きくなれば、同じ制度でも担当者や地域によって扱いが異なったり、制度を理解しやすい人と理解しにくい人との間で利用可能性に差が生じたりする可能性がある。

 だからこそ行政制度では、裁量を完全になくすことより、判断基準をできる限り明らかにし、理由を説明し、不服がある場合には別の機関や裁判所へ申し立てられる仕組みを用意することが重要になる。安全保障や緊急時の制度でも同じであり、「必要」「緊急」「公共」といった抽象的な言葉だけで権限を認めるのではなく、具体的な判断基準と救済手段を組み合わせることによって、必要な行政能力と権利保護の両立を図ることができる。

8-5 地域の尺度~自由と協力は対立するのか

 地方や人口の少ない地域では、医療、介護、防災、交通などを行政だけで完全に提供することが難しく、住民同士の協力や地域団体の活動が生活を支えることがある。その意味では、社会を維持するために一定の連帯が必要であるという主張には現実的な側面がある。

 しかし、協力が持続するためには、異論を言えない同調圧力だけに依存することはできない。行政や地域の方針に疑問を持った人が意見を述べ、その意見によって誤りが修正される仕組みも、長期的には地域の安全に関係するためである。

 自由と連帯を単純な反対概念として扱う必要はない。自由に意見を述べられることと、共同体が必要なときに協力できることの双方を支える制度を作れるかという点に、憲法上の権利と社会的責任を考える意味がある。

第9章 結論~「強い国家か弱い国家か」ではなく、制御できる国家か

 憲法は、国家の権力をただ弱くするための制度でも、国家の行動を最大限自由にするための制度でもない。国会、内閣、裁判所などに国家として必要な権限を与えながら、その力が国民の自由や生命を不必要に侵害しないように境界を設ける基本的な制度である。

 第九条の問題も、この構造から切り離して考えることはできない。国家に十分な防衛能力がなければ、侵略や武力による威圧から国民を守れない可能性がある一方、防衛を理由として国家に無制限の権限を与えれば、それ自体が国民の自由や民主的統制を弱める可能性がある。したがって、重要なのは「武力を持つか持たないか」だけではなく、どのような危険に対して、どの程度の能力を持ち、その力を誰がどの条件で使い、誰が監視し、どのような条件で終了させるのかを制度として明確にすることである。

 緊急事態についても同じである。日本にはすでに参議院の緊急集会、災害対策基本法、新型インフルエンザ等対策特別措置法、武力攻撃事態に対応する法制度などが存在するため、議論の出発点は「緊急時に何もできない」ということではない。現行制度で対応できる範囲と対応が難しい範囲を区別し、その不足を法律の改正で補えるのか、憲法改正が必要なのかを比較する必要がある。

 また、2026年現在の緊急事態条項の議論には、行政権限を強める問題だけでなく、大規模危機によって選挙が長期間実施できない場合に国会機能をどう維持するかという問題が含まれている。参議院の緊急集会でどこまで対応できるのか、議員任期の特例が必要なのか、緊急政令や緊急財政処分を認めるのかという論点は、それぞれ制度的性質が異なるため、一つの言葉で賛否を決めるより、個別に比較する方が正確である。

 憲法改正を評価する場合にも、現行憲法を維持する場合にも、同じ尺度を用いることが重要である。権限の範囲は明確か、必要な危機に対応できるか、権限濫用を防げるか、国会と司法の統制が機能するか、情報と記録が後から検証できるか、終了条件が存在するか、誤りが起きたときに修正できるかを問えば、「改正だから危険」「現行制度だから安全」という先入観から離れて制度そのものを比較しやすくなる。

 制度には、権力を与え過ぎる失敗と、権力を与えなさ過ぎる失敗の双方が存在する。前者だけを考えれば国家は必要な行動を取れなくなり、後者だけを考えれば国家の力を止められなくなるため、現実的な制度設計では、その二つの期待損失を同時に小さくする必要がある。

 その意味で、「憲法は誰を守るのか」という問いへの答えは、国家か国民かという単純な二択にはならない。国家という制度が機能しなければ国民の生命や権利を守れない一方、国家の力が制御されなければ、その国家自身が国民の権利を侵害する可能性が生じるからである。

 憲法が担うのは、この二つの危険の間に制度的な境界を引く仕事である。必要なときには国家が動けること、しかし必要を超えて動かないこと、権限を使った理由を説明できること、誤った判断を検証して修正できること、そして制度そのものを国民が民主的に見直せることが重要になる。

 第九条を守ることも、第九条を改めることも、それ自体を目的にしてしまえば、憲法の本来の問題から離れる。最終的に問われるべきなのは、どの制度が、どのような危険に対して、どの程度国民の生命、自由、尊厳、生活を守ることができ、そのために国家へ与えた力をどこまで民主的に制御できるのかということである。

 憲法について考えるとは、国家を信じるか疑うかを決めることではない。必要な国家能力を認めながら、その力が誤った方向へ進む可能性も前提として、修正できる仕組みをつくることである。そして、その制度が本当に機能するかどうかを、時代の変化と現実の結果に照らして何度でも検証することこそ、立憲主義を現実の社会で機能させるために必要なのである。

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