リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

数字で読む町の奇譚 第二編

注記

この物語はフィクションです。

現実の路線バスや自治体運営交通では、乗車人数、降車人数、運賃、運行記録、車両重量などが、すべて完全に連動して記録されるわけではありません。また、乗車した記録がない人が、実際に車内から次々に降りてくるという現象は起こりません。

本作は、人口減少地域における公共交通の縮小、路線廃止、地域から失われていく施設や生活の記憶を背景にした幻想小説です。


潮見町営バスの第一便は、午前六時四十分に車庫を出る。

始発の停留所は、潮見町役場前だった。

そこから海岸通りを南へ走り、旧市街、潮見駅、町立診療所、青葉団地、山側の集落を回って、終点の松ヶ浜公民館まで行く。

一周、四十七分。

走行距離、二十三・四キロメートル。

停留所、二十六か所。

一日の運行回数、六便。

かつては朝夕の通勤便があり、車両も三台あった。高校生や工場勤務者、買い物へ行く主婦、病院へ通う高齢者が乗り、雨の日には立っている客もいたという。

今では、運行するのは十八人乗りの小型バス一台だけだった。

運転手の江藤正明は、六十三歳だった。

民間のバス会社を定年退職した後、町の委託を受ける交通会社へ再就職し、潮見町営バスを運転していた。

町内の道は、ほとんど目をつぶっていても走れる。

海岸沿いでは横風が強い。

青葉団地の坂には、雨の日だけ水が流れる。

山根集落の細い道では、午前七時頃に白い軽トラックが出てくる。

旧商店街の交差点では、使われなくなった信号が、今も一定の時間で赤と青を繰り返している。

道路だけではない。

江藤は、客の顔もほとんど覚えていた。

火曜日の第一便には、診療所へ通う黒田さんが乗る。

木曜日の第三便には、町内唯一の大型スーパーへ行く中村さんが乗る。

月末には、年金を下ろしに行く夫婦が潮見駅前で降りる。

冬になると利用者が少し減り、夏には観光客が間違えて乗ることがある。

バスの乗客は、年々減っていた。

江藤が運転を始めた六年前には、一日平均四十人ほど乗った。

昨年度は二十三人。

今年度に入ってからは十八人を下回る日も珍しくない。

第一便など、始発から終点まで誰も乗らない日さえあった。

それでも江藤は、すべての停留所で速度を落とした。

屋根の下に人影がなくても、時刻表の前に立つ者がいなくても、必ず一度は停車位置へ車体を寄せた。

民間会社にいた頃、先輩運転手から教えられたことがある。

バスを待つ者は、運転席から見える場所に立っているとは限らない。

雨宿りをしていることもある。

足の悪い者が、少し離れた場所から歩いてくることもある。

時刻を間違えた子どもが、家の陰から走ってくることもある。

客がいないと決めつけるな。

その教えだけは、町営バスに移っても守っていた。

異変が起きたのは、十月二日の第一便だった。

その朝、江藤はいつもより十五分早く車庫へ着いた。

前夜に強い風が吹き、車体へ潮が付着していた。フロントガラスを拭き、タイヤを確認し、車内の忘れ物を点検した。

座席に異常はなかった。

一番後ろの座席に、小さな枯れ葉が一枚落ちていた。江藤はそれを拾い、運転席横のごみ箱へ捨てた。

午前六時三十七分、エンジンを始動した。

燃料計、正常。

ブレーキ圧、正常。

扉、正常。

車内灯、正常。

運行記録用の端末には、乗車人数ゼロと表示されていた。

車庫を出て、町役場前へ向かった。

始発停留所には誰もいなかった。

江藤は定刻まで待ち、扉を開けた。

朝の冷たい空気が車内へ入った。

誰も乗らなかった。

扉を閉め、発車した。

次の停留所は、中央公民館前。

誰もいない。

その次は、旧郵便局前。

誰もいない。

海岸通りへ出る頃、空はようやく明るくなり始めていた。

雲の切れ間から差す光が、海面へ細い帯を作っている。

四番目の停留所、南浜二丁目に近づいたとき、降車ボタンが鳴った。

ポーン。

車内前方の表示板に、「次、止まります」と赤い文字が点灯した。

江藤はバックミラーを見た。

誰も乗っていない。

空の座席が並んでいる。

最前列。

中央。

最後部。

人影はない。

誤作動だと思った。

古い車両では、湿気や接触不良で降車ボタンが反応することがある。

江藤は南浜二丁目へ停車した。

扉を開けた。

誰も降りない。

当然だった。

車内には誰もいない。

十秒ほど待ち、扉を閉めた。

運行端末を見ると、降車人数が一人と表示されていた。

江藤は眉を寄せた。

通常、乗客が降りても人数は自動では記録されない。運転手が端末の操作ボタンを押して入力する。

江藤は操作していなかった。

表示は、乗車ゼロ、降車一。

端末の不具合だろう。

江藤は画面を一度消し、再起動した。

乗車ゼロ。

降車ゼロ。

数字は戻った。

バスを発車させた。

次の停留所は、潮見小学校前だった。

校舎は二年前に閉校している。

校庭には草が伸び、錆びた鉄棒の下に落ち葉が積もっていた。正門には立入禁止の札が掛かっている。

停留所の手前で、再び降車ボタンが鳴った。

ポーン。

表示板に赤い文字が点灯する。

江藤はバックミラーを見た。

やはり誰もいない。

それでもバスを止めた。

前扉を開ける。

冷たい風が入ってきた。

その瞬間、車体がわずかに浮き上がった。

人が一人、降りたような感覚だった。

バスの車高がほんの少し上がり、右側のサスペンションが小さく揺れた。

江藤は運転席から振り返った。

座席には誰もいない。

開いた扉の向こうには、閉鎖された小学校の門があるだけだった。

端末を見る。

乗車ゼロ。

降車一。

江藤は再起動しなかった。

そのまま扉を閉めた。

潮見駅では、実際の乗客が二人乗った。

買い物袋を持った高齢の女性と、作業着姿の男性だった。

江藤は乗車人数を二人と入力した。

次の診療所前で、女性が降りた。

江藤は降車一を入力した。

端末には、乗車二、降車二と表示された。

一人多い。

「どうかしましたか」

作業着の男性が尋ねた。

「いえ、端末の調子が少し悪いだけです」

江藤は答えた。

男性は青葉団地入口で降りた。

江藤が降車ボタンを押すと、表示は乗車二、降車三になった。

車内には誰もいなくなった。

それでも、まだ誰かが一人乗っていることになる。

その後、山根入口、杉谷橋、松ヶ浜公民館の三か所で、降車ボタンが鳴った。

そのたびに江藤は停車し、扉を開けた。

誰も見えなかった。

だが、扉が開くたび、車体が少しずつ軽くなった。

終点へ着いたとき、端末には乗車二、降車六と表示されていた。

四人多く降りている。

江藤はエンジンを切り、車内を確認した。

座席の下。

最後部。

荷物置き場。

何もない。

忘れ物もなかった。

ただ、一番後ろの座席に、朝捨てたはずの枯れ葉が落ちていた。

江藤は拾い上げた。

葉は乾いておらず、雨に濡れたように冷たかった。

その日の運行を終え、江藤は会社の営業所へ報告した。

「降車ボタンと運行端末の故障だと思います」

所長の山倉は、整備担当者を呼んだ。

車両の配線、ボタン、端末を確認した。

異常は見つからなかった。

「ボタンの接点が一時的に誤作動したんでしょう」

整備担当者は言った。

「古い車ですから」

「車体が軽くなる感じもした」

江藤が言うと、整備担当者は笑った。

「空気ばねの調整ですよ。乗客がいなくても、路面の傾きで車高は変わります」

江藤はそれ以上何も言わなかった。

翌日の第一便。

始発時点の乗客はゼロ。

旧郵便局前で、降車ボタンが鳴った。

潮見小学校前でも鳴った。

診療所前。

杉谷橋。

廃止された市場前。

一度も誰かが乗らないまま、五人が降りた。

三日目には七人。

四日目には九人。

降車する停留所は、日によって違った。

しかし、共通点があった。

降車ボタンが鳴る場所は、かつて何かが存在していた場所だった。

潮見小学校前。

旧郵便局前。

市場前。

紡績工場跡。

産婦人科医院前。

青葉団地北口。

漁業組合倉庫前。

海浜劇場前。

名前だけが残っている停留所もあれば、停留所自体が移設され、昔の場所から数十メートル離れているものもあった。

江藤は古い路線図を営業所で探した。

書庫の奥に、昭和五十八年の民間バス会社の時刻表が残っていた。

現在の町営バスとは違い、路線は海岸線、山側線、駅前循環線の三系統に分かれていた。

停留所は全部で五十二か所。

江藤は現在の路線図と重ねた。

降車ボタンが鳴った場所の多くは、廃止された停留所の近くだった。

潮見小学校前ではなく、昔の「小学校裏門前」。

旧郵便局前ではなく、「銀座通り」。

市場前ではなく、「魚市場西口」。

杉谷橋ではなく、「製材所前」。

現在の停留所名と、降りる場所が少しずつずれている。

まるで、見えない乗客たちは、昔の路線図を使っているようだった。

江藤は、運転日報へ正確に記録することにした。

十月二日、見えない降車四人。

十月三日、五人。

十月四日、七人。

十月五日、九人。

所長は、その書き方を見て顔をしかめた。

「見えない降車という項目はありません」

「実際に端末へ数字が出ています」

「端末が故障しているなら、故障と書いてください」

「整備では異常なしでした」

「では、入力ミスです」

「私は入力していません」

所長は鉛筆を置いた。

「江藤さん。こういう記録が町へ提出されたら困ります。町営バスは来年度の継続がまだ決まっていないんです」

潮見町営バスは、毎年多額の赤字を出していた。

運賃収入だけでは、燃料費にも届かない。

車両更新の時期も近い。

町議会では、予約制の乗合交通へ切り替える案や、路線を半分に縮小する案が議論されていた。

利用者が少ないことは、誰もが知っている。

乗車人数が減れば、廃止の理由になる。

一方で、降車人数だけが増えるという記録は、説明のしようがなかった。

「数字が合わないものを、そのまま出すわけにはいきません」

所長は言った。

「乗った人数と降りた人数は、原則として一致させてください」

「乗っていない人を、乗ったことにするんですか」

「故障による補正です」

「どの停留所から乗ったことにすればいいんです」

所長は答えなかった。

「始発から乗っていたことにしてください」

しばらくして、所長は言った。

「始発時点で車内にいた、と処理すれば数字は合います」

「車庫からですか」

「町役場前からです」

「誰もいませんでした」

「実際の人間の話ではなく、帳簿上の処理です」

江藤は日報を持って営業所を出た。

始発から乗っていたことにする。

見えない者たちは、どこから乗ったのか。

江藤はその疑問を考えたことがなかった。

降りる場所ばかり気にしていた。

乗った場所は、もっと前にあるのかもしれない。

現在の路線が始まる前。

バスが車庫へ入る前。

町営バスになる前。

あるいは、江藤が運転するずっと前から、彼らは乗り続けていたのかもしれない。

十月八日、第一便。

江藤は車庫でエンジンをかけた後、すぐには出発しなかった。

車内を一周した。

誰もいない。

運転席へ戻り、すべての扉を閉めた。

運行端末を初期化する。

乗車ゼロ。

降車ゼロ。

その隣に、車両総重量が表示されている。

通常、乗客を含まない状態の重量は、およそ五千六百キログラムだった。

表示は、六千四百八十キログラム。

約八百八十キログラム重い。

一人六十キログラムとすれば、十四人から十五人分。

江藤は息を止めた。

車内には誰もいない。

座席も空だ。

だが車両は、ほぼ満員に近い重さだった。

江藤は運転席に座った。

バックミラーに、空の座席が映っている。

その一番後ろに、誰かが座っているような気がした。

黒い影ではない。

輪郭もない。

ただ、座席の布地がわずかに沈んでいる。

隣の座席も。

その前も。

通路側も。

江藤は始発時刻まで待った。

午前六時四十分。

町役場前を発車した。

その日のバスは、いつもより重かった。

加速が鈍く、坂道ではエンジン音が高くなった。

最初の降車は、中央公民館前だった。

ポーン。

扉を開ける。

車両重量が六十七キログラム減った。

二人目は、旧郵便局前。

五十四キログラム減少。

三人目は、潮見小学校前。

二十一キログラム。

子ども一人分だった。

江藤はハンドルを握る手に力を入れた。

閉校した校舎の窓に、朝日が反射している。

誰もいないはずの二階の窓に、小さな影が並んで見えた。

黄色い帽子。

白いシャツ。

赤いランドセル。

バスが動き出すと、影は消えた。

魚市場西口跡で、七十三キログラム。

産婦人科医院前で、五十八キログラム。

紡績工場跡で、六十一キログラム、五十九キログラム、五十二キログラム。

三人続けて降りた。

扉の外には、草に覆われた工場跡地が広がっていた。

かつて五百人以上が働いていた工場は、二十年前に閉鎖された。

江藤は現役時代、この停留所で毎朝多くの従業員を降ろした。

制服姿の女性たち。

作業着の男性。

遅刻しそうになって走る若者。

夜勤を終え、眠そうな顔で乗り込む者。

工場がなくなった日、バス停も廃止された。

路線図から名前が消えた。

その日を境に、誰もそこで降りなくなったはずだった。

ポーン。

再びボタンが鳴った。

江藤はまだ扉を閉めていなかった。

車両重量が四十八キログラム減った。

さらに六十三キログラム。

五十六キログラム。

次々に人が降りていく。

空の通路を、見えない足音が進んでいるようだった。

車体が一人分ずつ浮き上がる。

扉の外の草が、人が通る幅だけ左右に倒れていく。

江藤は運転席に座ったまま、帽子を取った。

誰に対してか分からなかった。

それでも、長年乗せてきた客を最後に見送るように、頭を下げた。

重量表示が五千六百二十キログラムになったところで、降車は止まった。

あと一人分ほど重い。

江藤は扉を閉めた。

終点の松ヶ浜公民館まで、降車ボタンは鳴らなかった。

終点には誰もいなかった。

江藤は停車し、扉を開けた。

「終点です」

誰もいない車内へ向かって言った。

反応はない。

「終点ですよ」

もう一度言った。

車両重量は五千六百二十キログラムのままだった。

二十キログラムほど重い。

子どもかもしれない。

荷物かもしれない。

機器の誤差かもしれない。

江藤は運転席を立ち、車内を後ろへ歩いた。

座席を一つずつ見る。

誰もいない。

一番後ろの窓側の席まで来たとき、座面に浅いへこみがあった。

江藤は向かい側の座席へ座った。

「どこで降りるんだ」

声に出して尋ねた。

返事はない。

「終点まで来たぞ」

窓の外には、松ヶ浜公民館がある。

公民館は今年度末で閉鎖される予定だった。

利用者が減り、耐震補強に費用がかかるためである。

その隣には、かつて保育所があった。

今は更地になり、防草シートの上に雨水がたまっている。

江藤は古い路線図を取り出した。

昭和五十八年の終点は、松ヶ浜公民館ではなかった。

路線はさらに山側へ三・八キロメートル続いている。

最終停留所の名前は、「霧生分校前」。

霧生分校は四十年以上前に閉校していた。

道路は今も残っているが、町営バスの運行区間には含まれていない。

江藤は運転席へ戻った。

会社へ連絡すべきだった。

決められた路線を外れることは認められていない。

乗客がいない以上、行く理由もない。

しかし、車両重量は二十キログラム重いままだった。

江藤は方向指示器を出した。

バスは終点を越え、山側の旧道へ入った。

道幅は狭く、両側から木の枝が張り出していた。

舗装には亀裂が入り、落ち葉が積もっている。

路線バスが走った形跡はない。

江藤はゆっくり進んだ。

古い電柱。

空き家。

崩れかけた石垣。

小さな墓地。

集落には人の姿がなかった。

かつて霧生地区には、百人以上が暮らしていた。

今では住民登録上、三世帯五人だけになっている。

その五人も高齢で、冬の間は町外の家族宅や施設へ移ることが多かった。

十分ほど走ると、錆びた標識が見えた。

「霧生分校前」

文字はほとんど消えている。

停留所の柱は傾き、草に埋もれていた。

江藤はバスを止めた。

降車ボタンは鳴らない。

「着いたぞ」

扉を開けた。

何も起きなかった。

車両重量は二十キログラム重いまま。

江藤はエンジンを切った。

辺りが静かになった。

風が木の葉を揺らす音。

遠くの沢の音。

バスの金属部品が冷えて鳴る音。

その中に、小さな呼吸音が混じった。

後ろからだった。

江藤は振り返った。

最後部の座席に、少年が座っていた。

十歳くらいだった。

白い半袖のシャツ。

紺色の半ズボン。

膝の上に、古い革製の鞄を置いている。

少年は窓の外を見ていた。

江藤は声を出せなかった。

少年の姿は透けていない。

影もある。

座席も確かに沈んでいる。

どこにでもいる子どものようだった。

「ここでいいのか」

江藤が尋ねた。

少年はうなずいた。

「いつ乗った」

少年は答えなかった。

「名前は」

しばらくして、少年は言った。

「分からない」

「家はどこだ」

少年は窓の外を指さした。

分校跡の奥に、一本の細い道が続いている。

「帰るのか」

「帰るところがなくなったから、降りられなかった」

少年の声は、ひどく静かだった。

「家はなくなったのか」

「家も、学校も、停留所も、全部なくなった」

「それで、ずっと乗っていたのか」

少年はまたうなずいた。

「ほかの人たちは」

「降りる場所が残っていた」

少年は革の鞄を抱え直した。

「学校だった場所、働いていた場所、病院だった場所。建物がなくても、名前が残っていれば降りられる」

「ここにも名前は残っている」

江藤は錆びた停留所標識を見た。

「今日まで、バスが来なかった」

少年は言った。

「バスが来なければ、停留所ではない」

江藤は運転席から立ち、扉の横へ移動した。

「降りられるか」

少年は座席から下りた。

通路を歩く。

靴音はしなかった。

前扉の前で立ち止まり、江藤を見上げた。

「もう一度、来ますか」

「ここへか」

「はい」

江藤は答えに迷った。

町営バスの路線ではない。

会社にも町にも無断で走っている。

道路状況も悪い。

明日も来られると約束できない。

しかし江藤は言った。

「来る」

少年は小さく笑った。

「誰も乗らなくても」

「誰も乗らなくても来る」

少年はバスを降りた。

車両重量が二十キログラム減った。

表示は五千六百キログラム。

完全な空車重量になった。

少年は分校跡へ続く道を歩いていった。

途中で一度振り返った。

江藤が手を上げると、少年も手を上げた。

木々の間へ入り、姿が見えなくなった。

江藤は営業所へ戻った。

予定より四十五分遅れていた。

所長は激しく怒った。

「どこへ行っていたんですか」

「霧生分校前です」

「運行区間外ですよ」

「客を降ろしました」

「誰を」

江藤は答えなかった。

運行端末の記録を提出した。

乗車人数ゼロ。

降車人数十五。

始発時車両重量六千四百八十キログラム。

終点到着時五千六百二十キログラム。

霧生分校前到着後、五千六百キログラム。

所長は何度も画面を確認した。

「こんな記録は出せません」

「機械が記録した数字です」

「乗車ゼロで、十五人降りるわけがないでしょう」

「私もそう思います」

「では、故障です」

「故障なら、修理してください」

整備担当者が呼ばれた。

重量計測装置を確認した。

異常はなかった。

端末も正常だった。

その日の午後、町の交通担当者が営業所へ来た。

江藤は事情を聞かれた。

見えない乗客のことは話さなかった。

古い停留所で降車反応が出たこと。

車両重量が一人分ずつ減ったこと。

霧生分校前で最後の二十キログラムが消えたこと。

事実だけを話した。

担当者は困惑した顔でメモを取った。

「霧生分校前という停留所は、現在の台帳にはありません」

「古い路線図にはあります」

「廃止日は昭和六十年三月三十一日です」

「その翌日から、バスは一度も行っていないんですか」

「正式な路線としては」

「四十年以上」

担当者は書類を閉じた。

「江藤さん。これは運行上の重大な問題です。今後、許可なく路線外へ出ないでください」

「分かりました」

「今日の記録は機器異常として処理します」

「十五人はどうしますか」

「削除します」

「降りた人たちをですか」

担当者は江藤を見た。

「数字をです」

翌日、江藤は通常どおり第一便を運転した。

車庫での重量は五千六百キログラム。

見えない乗客はいなかった。

町役場前。

中央公民館前。

旧郵便局前。

降車ボタンは鳴らない。

潮見小学校前でも鳴らなかった。

町営バスは、本来の静かな路線へ戻っていた。

実際の乗客が三人乗り、三人降りた。

乗車数と降車数は一致した。

その翌日も。

その次の日も。

すべての数字が合っていた。

江藤は毎朝、車両重量を確認した。

五千六百キログラム。

空車。

誰も乗っていない。

一週間後、潮見町議会の全員協議会で、町営バスの縮小案が示された。

第一便と第六便を廃止する。

山側区間を予約制に変更する。

利用者の少ない八つの停留所を廃止する。

その中には、潮見小学校前、旧郵便局前、紡績工場跡、松ヶ浜公民館前が含まれていた。

江藤は営業所の掲示板で資料を読んだ。

降りる場所が、またなくなる。

建物が消え、名前が消え、バスが止まらなくなる。

そうなれば、まだ乗り続けている者たちは、どこで降りればよいのか。

十月二十一日。

第一便。

車庫でエンジンをかけた。

車両重量は、六千七百二十キログラムだった。

前回より重い。

十八人乗りの小型バスに、ほぼ定員いっぱいの重量が加わっている。

座席は空だった。

だが、バックミラーに映る窓ガラスが、乗客の息で曇っていた。

一枚ずつ、曇りが広がっていく。

江藤は運行端末を見た。

乗車人数の欄には、ゼロではなく、文字が表示されていた。

「始発以前」

江藤はゆっくりバスを発車させた。

町役場前には誰もいなかった。

定刻になり、扉を開けた。

一人も乗らない。

江藤はマイクのスイッチを入れた。

「お待たせしました。潮見町営バス、松ヶ浜公民館行きです」

空の車内へ声が流れた。

「停車する場所は、古い停留所を含みます」

運行端末が警告音を鳴らした。

登録された路線から外れる予定が入力されたためだった。

江藤は警告を解除した。

「降りる方は、ボタンを押してください」

扉を閉めた。

バスは走り出した。

旧郵便局前で一人。

潮見小学校前で三人。

魚市場西口跡で二人。

産婦人科医院前で一人。

紡績工場跡で五人。

廃止された海浜劇場前で四人。

青葉団地北口で二人。

停留所の名前が残っている場所。

標識だけが残っている場所。

道路拡張で跡形もなくなった場所。

そのすべてで、降車ボタンが鳴った。

扉を開けるたび、風景の中に一瞬だけ昔の建物が現れた。

市場の屋根。

学校の窓。

映画館の看板。

工場の煙突。

診療所の白い壁。

買い物袋を下げた人。

制服姿の子ども。

作業着の若者。

乳児を抱く母親。

江藤には、それらがはっきり見えた。

扉を閉めると、現在の空き地や閉鎖された建物へ戻った。

終点の松ヶ浜公民館へ着いた時、車両重量は五千八百キログラムだった。

まだ二百キログラム重い。

江藤はそのまま旧道へ入った。

霧生分校前へ向かった。

停留所には、あの少年が立っていた。

今度は一人ではなかった。

少年の後ろに、十人ほどの子どもが並んでいる。

皆、古い鞄や布製の手提げを持っていた。

江藤は停車し、扉を開けた。

「乗るのか」

少年は首を横に振った。

「今日は降りる人を待っています」

車内で降車ボタンが鳴った。

ポーン。

最初に、七十キログラム減った。

次に、五十五キログラム。

四十八キログラム。

二十七キログラム。

最後に、車両重量が五千六百キログラムになった。

扉の外には、子どもたちに加えて、大人の姿があった。

教師らしい女性。

作業着姿の男性。

白い割烹着を着た女性。

杖をついた老人。

誰も江藤を見なかった。

彼らは分校跡へ続く道を歩いていった。

少年だけが残った。

「もう、みんな降りました」

「本当に全員か」

「今日の人は」

「まだ乗っている人がいるのか」

少年は町の方角を見た。

「町がなくしたものの数だけ、います」

「それでは、いつまでも終わらないな」

「町は、毎日何かをなくします」

江藤は運転席に座ったまま、しばらく黙っていた。

「この路線は、なくなるかもしれない」

少年は驚かなかった。

「バスがなくなったら、どうなる」

「降りられなくなります」

「では、乗ったままか」

「町がどこにあったか、分からなくなるまで」

少年は一歩下がった。

「また来ますか」

江藤は答えた。

「来る」

「誰も乗らなくても」

「誰も乗らなくても走る」

少年は笑った。

バスの扉が閉まった。

江藤は町へ戻った。

営業所では、所長と町の担当者が待っていた。

路線外運行を繰り返したため、江藤はその日から乗務を外された。

始末書を書き、事情聴取を受けた。

運行端末の記録は、また機器異常として削除された。

車両重量の変化も、計測誤差とされた。

江藤は反論しなかった。

一か月後、町営バスの運行縮小が正式に決まった。

翌年四月から、第一便は廃止。

八つの停留所がなくなる。

霧生分校前へ路線が延びることはなかった。

江藤は年度末で会社を退職した。

最後の乗務日。

三月三十一日。

第一便の始発前、江藤は車庫で車両重量を確認した。

五千六百キログラム。

完全な空車だった。

町役場前へ行く。

誰も待っていない。

定刻になった。

江藤は扉を開けた。

しばらく待った。

誰も乗らない。

それでも、車内のすべての座席が少しずつ沈んだ。

車両重量の数字は変わらなかった。

江藤はマイクを入れた。

「おはようございます」

自分の声が、空の車内へ響いた。

「本日、第一便は最後の運行となります」

窓ガラスが白く曇った。

小さな手の跡が一つ現れた。

次に、大人の手の跡。

指の細いもの。

太いもの。

幾つもの手形が、窓一面に浮かび上がった。

「長い間、ご利用ありがとうございました」

江藤は言った。

発車時刻になった。

バスはゆっくり動き始めた。

その日の第一便では、降車ボタンは一度も鳴らなかった。

潮見小学校前。

旧郵便局前。

紡績工場跡。

松ヶ浜公民館前。

どこでも誰も降りなかった。

終点へ着いても、座席のへこみは戻らなかった。

江藤はエンジンを切らず、そのまま旧道へ入った。

誰にも連絡しなかった。

霧生分校前を越え、さらに山道を進んだ。

古い路線図にもない道だった。

舗装は途中で終わった。

それでもバスは進んだ。

木々の間を抜けると、広い場所へ出た。

そこには、潮見町から消えた建物が並んでいた。

潮見小学校。

魚市場。

紡績工場。

海浜劇場。

旧診療所。

郵便局。

木造の駅舎。

商店街。

霧生分校。

どの建物も新しくはなかった。

人が使っていた最後の日の姿で、静かに残っていた。

建物の間には、大勢の人が立っていた。

江藤の知っている顔もあった。

亡くなった利用者。

町を出た若者。

工場で働いていた人。

学校へ通っていた子ども。

バスを待ち続けた老人。

誰も手を振らなかった。

ただ、バスが来るのを当然のように待っていた。

降車ボタンが鳴った。

一つ。

また一つ。

車内のすべてのボタンが、順番に光った。

ポーン。

ポーン。

ポーン。

江藤は停車した。

扉を開けた。

座席のへこみが、一つずつ戻っていく。

誰かが降りるたび、窓の曇りが消えた。

最後に、後部座席の小さな手形が残った。

少年が通路を歩いてきた。

「ここが終点か」

江藤は尋ねた。

少年は答えた。

「ここは、なくならなかった町です」

「地図にはない」

「地図から消えたから、ここにあります」

少年は扉の前で止まった。

「運転手さんは、戻りますか」

江藤は運転席から外を見た。

消えた町の人々が、静かにこちらを見ている。

遠くで、朝の放送を知らせる音楽が流れた。

潮見町で、かつて正午に流れていた曲だった。

「戻らないと、バスがなくなる」

江藤は言った。

「バスは、町に必要ですか」

「乗る人がいれば」

「乗る人がいなくても走ると言いました」

江藤は笑った。

「そうだったな」

少年はバスを降りた。

最後の手形が消えた。

車内は完全に空になった。

江藤は扉を閉めた。

ミラーを確認する。

方向指示器を出す。

バスをゆっくり転回させた。

消えた町の人々は、道の両側に並んでいた。

江藤が手を上げると、大勢が同時に頭を下げた。

バスは来た道を戻った。

車庫へ到着したのは、予定より一時間二十三分遅れだった。

所長は江藤を叱らなかった。

最後の日だったからではない。

江藤が戻った時、車両の走行距離計は、出発前と同じ数字を示していた。

燃料も減っていなかった。

運行端末には、通常の路線を定刻どおり走った記録だけが残っていた。

乗車、ゼロ。

降車、ゼロ。

遅延、なし。

異常、なし。

江藤は制服を返し、営業所を出た。

四月一日から、第一便はなくなった。

午前六時四十分の町役場前には、バスが来なくなった。

それでも、近隣の住民は時折、不思議な音を聞いた。

まだ暗い早朝。

誰もいないバス停で、降車ボタンの音がする。

ポーン。

その直後、見えない扉が開くような空気の動きがあり、舗道の草が一人分だけ踏まれる。

潮見小学校前。

旧郵便局前。

紡績工場跡。

松ヶ浜公民館前。

廃止された停留所では、毎朝少しずつ、誰かが降り続けた。

町の交通統計では、その後も利用者数が減り続けた。

乗車人数は、正確に記録された。

降車人数も、乗車人数と必ず一致した。

帳簿上の誤差は、一度も発生しなかった。

ただし、廃止された第一便の時刻になると、車庫の奥に止められたバスの車両重量が、一人分ずつ軽くなった。

誰も乗っていないのに。

一人。

また一人。

町から消えたものが、ようやく自分の降りる場所を見つけたように。

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注記

この物語はフィクションです。

現実の住民基本台帳人口は、住民一人ひとりの記録を積み上げて集計されます。そのため、出生、死亡、転入、転出、訂正などの理由がないまま、人口が自然に一人だけ増えることは通常ありません。

実際に人口数が一致しない場合には、集計時点の違い、届出や処理の遅れ、入力・転記上の誤り、統計の定義の違いなど、何らかの行政上または技術上の理由があります。

本作は、そうした現実の制度を土台にしながら、数字の中に説明できない一人が現れたとしたら、という仮定から生まれた幻想小説です。


九月最初の月曜日、午前八時十三分。

潮見町役場の地域政策課で、村瀬修一は人口異動表を印刷した。

複合機から吐き出された紙には、まだ機械の熱が残っていた。村瀬は用紙の端を指でつまみ、自席へ戻った。

窓の外には、低い雲が海の方角から押し寄せていた。役場の駐車場では、塩気を含んだ風が二本の町旗を力なく揺らしている。

人口異動表は、毎月最初の開庁日に確認する。

前月末人口、出生、死亡、転入、転出、その他増減。数字を順番に追い、合計が一致していることを確かめる。村瀬にとっては三十年以上続けてきた習慣だった。

人口の減少は、もはや珍しいことではない。

潮見町では、毎月五人、十人、多い月には二十人近く人口が減った。出生が一人か二人である一方、死亡は十人を超える。転入者があっても、それ以上に転出者が出る。

昔は人口の増減に一喜一憂した時期もあったが、今では減ること自体よりも、どの程度の速さで減っているかを確認する作業になっていた。

村瀬は表の上段から数字を指でなぞった。

前月末人口、七千八百四十二。

出生、〇。

転入、三。

死亡、四。

転出、六。

その他増減、〇。

計算すれば、月末人口は七千八百三十五になる。

ところが、表の最下段には七千八百三十六と記されていた。

村瀬は指を止めた。

もう一度、計算した。

七千八百四十二に三を足し、四を引き、六を引く。

七千八百三十五。

印刷された月末人口は、七千八百三十六。

一人多い。

村瀬は卓上の計算機を引き寄せた。わざわざ使うほどの計算ではなかったが、念のため数字を入力した。

結果は同じだった。

七千八百三十五。

「また転記か」

独り言を言い、村瀬は庁内システムへログインした。

人口統計の画面を開く。処理日、異動区分、年齢、性別、地区。前月に行われた登録処理を一件ずつ確認した。

出生はない。

転入が三人。

死亡が四人。

転出が六人。

職権記載なし。

職権消除なし。

国籍取得、国籍喪失、帰化、国外からの転入、国外への転出、いずれにも該当者はいなかった。

一覧の最下部には、確かに月末人口七千八百三十六と表示されている。

村瀬は画面を閉じ、もう一度開いた。

数字は変わらなかった。

午前八時三十分になると、庁内放送が流れた。

「おはようございます。本日も住民の皆さまに丁寧で分かりやすい対応を心がけてください」

いつもと同じ声だった。

職員たちが次々に出勤し、椅子を引く音や書類を置く音が課内に広がった。電話が鳴り始め、窓口には最初の来庁者が現れた。

村瀬は表を裏返し、机の右端へ置いた。

入力上の問題だろうと思った。

人口統計の不一致など、過去にもなかったわけではない。異動日と届出日の混同、処理区分の誤選択、月末締め後の訂正、集計プログラムの反映遅れ。

一人という差は、むしろ事務上よくありそうな大きさだった。

問題なのは、原因がすぐに見つからなかったことだけである。

午前十時を過ぎた頃、村瀬は住民課へ内線をかけた。

「地域政策課の村瀬です。先月末の人口について、少し確認したいことがありまして」

電話に出たのは、住民記録担当の早坂だった。

早坂は三十代半ばで、異動処理に慎重な職員だった。

「人口ですか」

「異動数から計算すると、一人合わないんです」

「一人多いんですか、少ないんですか」

「多いです」

受話器の向こうでキーボードを打つ音がした。

「少々お待ちください」

村瀬は窓の外を見た。

午前の雲は薄くなり、国道沿いの海が細い銀色の線になって見えた。

「村瀬さん」

「はい」

「こちらの締めでは合っています。前月末七千八百四十二、月末七千八百三十六です」

「異動を足し引きすると七千八百三十五になりませんか」

「なりますね」

早坂の声が少し低くなった。

「その他増減は」

「ゼロです」

「訂正処理も」

「見当たりません」

再びキーボードの音が続いた。

「こちらで調べます。システム担当にも確認してみます」

「お願いします」

電話を切ると、村瀬は人口異動表を表に返した。

七千八百三十六。

印刷された数字を見ても、特に異常な感じはしなかった。一人多いと言っても、町の人口全体から見れば約〇・〇一パーセントにすぎない。

町民のほとんどは気づかない。

町長も、議員も、新聞記者も気づかないだろう。

人口減少対策の会議で資料を配っても、七千八百三十五と七千八百三十六の違いを問題にする者はいない。

人口は減っている。

その事実に変わりはなかった。

しかし村瀬には、一人という数字が小さいとは思えなかった。

一人は、一人である。

出生届一件。

死亡届一件。

転入届一件。

転出届一件。

役場では、一人の増減が一枚の書類として現れる。その紙には氏名があり、生年月日があり、住所がある。

一人が増えたなら、誰かがいるはずだった。

昼休み前、早坂から内線が入った。

「原因が分かりません」

「システムの問題ではないんですか」

「集計プログラムも確認してもらいました。個人記録の件数が、実際に七千八百三十六件あるそうです」

「では、一人分の記録がある」

「あるはずなんですが」

早坂はそこで言葉を切った。

「住民記録を個別に数えると七千八百三十六件です。ただ、異動履歴を追うと七千八百三十五人にしかならない」

「重複登録は」

「ありません」

「削除漏れは」

「ありません」

「では、どこから一人出てきたんですか」

「それが分からないんです」

早坂は、冗談を言っているような声ではなかった。

午後、住民課と情報管理担当を交えた確認作業が行われた。

会議室の長机に、人口表、異動者一覧、地区別人口表、年齢別人口表が並べられた。

情報管理担当の三谷がノートパソコンを開き、画面を大型モニターへ映した。

「まず、総人口は七千八百三十六です」

三谷は言った。

「これは住民記録データベースに存在する有効なレコード数です。無効化された記録、転出予定、削除済みの記録は除いています」

「男女別は合っていますか」

村瀬が尋ねた。

「男性三千七百二十一、女性四千百十五。合計七千八百三十六です」

「前月との差は」

「男性が三人減、女性が三人減です」

村瀬は手元の異動者一覧を見た。

男性は、転入一、死亡二、転出三。

差し引き四人減るはずだった。

女性は、転入二、死亡二、転出三。

差し引き三人減。

男性が一人多い。

「男性ですか」

「そうなります」

「年齢は」

三谷が画面を切り替えた。

年齢別人口の一覧が表示された。

〇歳から百歳以上まで、男女別の人数が並んでいる。

「全ての年齢階級を合計すると七千八百三十五になります」

三谷は言った。

「総人口と一致しません」

会議室が静かになった。

「年齢が設定されていない記録があるんですか」

早坂が尋ねた。

「検索上はありません。生年月日が空欄の有効レコードもありません」

「地区別では」

地区別人口を合計すると、七千八百三十五だった。

世帯別人口を合計しても、七千八百三十五だった。

外国人住民を含めても、除いても、一人分の説明はつかなかった。

「つまり」

村瀬は言った。

「総人口としては存在する。しかし、年齢にも、地区にも、世帯にも属していない」

三谷は腕を組んだ。

「データベースとしては、あり得ない状態です」

「でも、数字はそうなっている」

「総数の集計だけが壊れている可能性があります」

「個別レコードが七千八百三十六件あると、さっき言いませんでしたか」

「件数上は、そうです」

「その一件を表示できないんですか」

三谷は検索画面を操作した。

有効な全住民記録を一覧へ出力した。

行番号は一から始まり、七千八百三十六で終わっていた。

しかしCSV(Comma-Separated Values・項目をカンマで区切って保存するデータ形式)へ書き出し、表計算ソフトで開くと、データは七千八百三十五行しかなかった。

最終行の下には何もない。

それでも、画面左下には「七千八百三十六件」と表示されていた。

三谷は何度も条件を変えた。

結果は同じだった。

件数は七千八百三十六。

表示される住民は七千八百三十五人。

村瀬は、紙に印刷してみるよう頼んだ。

複合機から大量の用紙が出てきた。

氏名や住所を含むため、印刷物は会議室の中だけで確認し、後で裁断処理することになった。

三人で行数を数えた。

七千八百三十五人。

最後の一人は印刷されなかった。

「システム業者へ連絡します」

三谷は言った。

「データを外部へ持ち出すには手続きが必要ですが、検証用の複製環境を作れば原因は分かると思います」

会議は午後四時過ぎに終わった。

村瀬は自席へ戻り、人口異動表を机の引き出しへしまった。

翌日には原因が分かるだろう。

そう思っていた。

ところが、業者の回答は翌日にも、その次の日にも来なかった。

調査に時間がかかっているのではなく、検証環境では異常が再現しなかったのである。

データを複製すると、人口は七千八百三十五人になる。

役場の本番環境へ戻すと、七千八百三十六人になる。

サーバーを再起動しても変わらない。

集計プログラムを再導入しても変わらない。

一人は、潮見町役場のシステムの中にだけ存在していた。

「無理に直さない方がよいと思います」

金曜日の夕方、三谷は村瀬に言った。

「月末までにもう一度照合します。原因が分からない状態でデータを直接修正する方が危険です」

「国や県へ出す数字はどうするんですか」

「住民記録の件数なら七千八百三十六です」

「異動表なら七千八百三十五です」

「どちらを正とするかは、住民課と協議してください」

三谷は疲れた顔で笑った。

「人口一人で、こんなに時間を使うとは思いませんでした」

村瀬は笑わなかった。

その週の土曜日、村瀬は自宅で朝食を取りながら、町の広報紙を読んでいた。

一面には、防災訓練のお知らせが載っていた。

二面には、町の人口と世帯数が掲載されている。

前月末現在、人口七千八百三十六人。

男三千七百二十一人。

女四千百十五人。

世帯数三千九百八十二世帯。

すでに広報紙の印刷は終わっていた。

人口の一人は、町民へ公表されていた。

妻の由美子が台所から言った。

「また減ったのね」

村瀬は広報紙から顔を上げた。

「何が」

「人口。先月より六人少ない」

「よく見ているな」

「毎月載っているでしょう」

由美子は味噌汁の椀を運びながら、広報紙をのぞき込んだ。

「昔は一万人以上いたのにね」

村瀬は七千八百三十六という数字を見た。

減ったのは本当だった。

しかし、本来なら七人減るはずだったところを、六人しか減っていない。

一人が、町の減少を食い止めている。

「一人違ったら、気になるか」

村瀬は尋ねた。

「何が」

「人口が一人違ったら」

由美子は椅子に座り、少し考えた。

「一人くらいなら、数え間違いじゃないの」

「役場の人口を数え間違えると思うか」

「人がやることなら、間違えることもあるでしょう」

「その一人にとっては、数え間違いでは済まない」

由美子は怪訝そうに村瀬を見た。

「何の話をしているの」

村瀬は「仕事の話だ」とだけ答えた。

翌週、村瀬は人口以外の統計を調べ始めた。

最初は原因を特定するためではなかった。

一人多いという数字が、他の資料に何か影響していないかを確認したかっただけである。

国民健康保険の被保険者数。

介護保険の被保険者数。

選挙人名簿登録者数。

水道契約件数。

ごみ収集量。

学校の児童生徒数。

いずれも住民基本台帳人口とは直接一致しない。年齢条件があり、加入条件があり、世帯単位のものもある。

当然、一人分の差など簡単には見つからなかった。

しかし村瀬は、町営バスの利用実績を見たとき、手を止めた。

潮見町では、高齢者や通院者の移動手段として、一日六便の小型バスを運行している。

前月の利用者数は、千二百四十一人。

運行記録に残る乗車人数を便ごとに合計すると、千二百四十人だった。

一人多い。

村瀬は担当課へ行き、原票を見せてもらった。

運転手は各停留所で乗車人数を記録し、終点で一日の合計を記入する。

日別の合計を足すと千二百四十人。

月次集計表では千二百四十一人。

「単なる集計ミスですね」

担当者は言った。

「表計算の式が一行ずれているんじゃないですか」

式を確認した。

ずれていなかった。

入力された日別合計を再集計すると、なぜか千二百四十一になる。

数値を紙に書き出し、電卓で足すと千二百四十だった。

別の表計算ソフトへ貼り付けても千二百四十。

役場のファイルを元の場所で開いたときだけ、千二百四十一になる。

「人口と同じですね」

村瀬が言うと、担当者は笑った。

「まさか、同じ一人がバスに乗ったんですか」

冗談だった。

しかし村瀬は、その言葉を手帳に書いた。

同じ一人がバスに乗った。

その日の午後、村瀬は水道課を訪ねた。

町全体の使用水量は、前月より十二立方メートル増えていた。

季節変動の範囲だった。

一人分かどうか判断できる数字ではない。

ごみの収集量も調べた。

可燃ごみは前月より二百八十キログラム増えていた。観光客や連休の影響が大きく、一人分を推定することは不可能だった。

スーパーの販売量など、役場が把握できるはずもない。

診療所の受診者情報は個人情報であり、目的外に利用できない。

村瀬は、自分が何をしようとしているのか分からなくなった。

人口表の不一致を調べているだけだったはずだ。

いつの間にか、記録に現れない一人の生活を探している。

九月半ば、台風が町の沖合を通過した。

直撃は免れたが、強い雨が一晩中降った。

翌朝、町内の一部で停電が起こり、役場のシステムも一時的に停止した。

復旧後、人口は七千八百三十五人に戻っていた。

「直りましたよ」

三谷は明るい声で言った。

「停電の影響でキャッシュが消えたのかもしれません」

「原因は分かったんですか」

「完全には分かりません。ただ、現在の数字は異動表と一致しています」

年齢別人口も、地区別人口も、世帯別人口も、全て七千八百三十五人になった。

町営バスの利用者数も千二百四十人へ訂正された。

不可解な一人は消えた。

村瀬は安堵した。

県へ提出する人口報告も、正しい数字で作成できる。

広報紙だけは七千八百三十六人と掲載済みだったが、翌月号で訂正すれば済む。

その日の夕方、村瀬は役場を出た。

雨上がりの空は低く、道路には枯れ葉と小枝が散らばっていた。

庁舎前のバス停に、一人の男が立っていた。

年齢は六十代にも、七十代にも見えた。

薄い灰色の上着を着て、黒い布製の鞄を持っている。

村瀬は男の横を通り過ぎ、駐車場へ向かった。

間もなく町営バスが来た。

バスは停留所の手前で減速したが、止まらずに通過した。

男は手を上げなかった。

運転手も男に気づかなかったようだった。

村瀬は足を止めた。

「乗らないんですか」

男は答えなかった。

雨で濡れた時刻表を見上げている。

「次は一時間後ですよ」

村瀬がもう一度声をかけると、男はようやく顔を向けた。

見覚えのない顔だった。

町内で三十年以上働いていても、全ての町民を知っているわけではない。知らない人がいて当然だった。

「町の方ですか」

村瀬は尋ねた。

男は少し考えてから言った。

「そうだったと思います」

不思議な答えだった。

「住所はどちらですか」

「住所」

男はその言葉を確かめるように繰り返した。

「住所が必要ですか」

「バスに乗るだけなら必要ありませんが」

「人口に入るには必要ですか」

村瀬は男を見た。

台風の後の冷たい風が、濡れた道路を渡ってきた。

「何の話ですか」

「私がどこにいることになっているか、分からなくなりました」

男は黒い鞄を両手で持ち直した。

「家はあるんですか」

「家だったものはあります」

「住民票は」

「昔はありました」

「今は」

男は首を傾げた。

「消したのは、あなたではありませんか」

村瀬の背中に冷たいものが走った。

「私は住民記録を消す仕事はしていません」

「でも、数字から一人を消したでしょう」

村瀬は何も答えられなかった。

男は穏やかな声で続けた。

「私は一人ではありません」

役場の玄関から、職員が数人出てきた。

彼らは村瀬の近くを通ったが、男には目を向けなかった。

「どういう意味ですか」

「町を出た人。施設へ移った人。届けを出さずに暮らしている人。家だけ残して死んだ人。ここに住んでいるのに、別の町に数えられている人。別の町で暮らしているのに、まだここに数えられている人」

男の声は風の音に混じった。

「私たちは、どこにもぴったり入りません」

「あなたは誰なんですか」

「七千八百三十六人目でした」

男はそう言った。

遠くから、海鳴りのような低い音が聞こえた。

村瀬が一歩近づくと、男の輪郭が少し薄く見えた。

雨雲の下で光が変わっただけかもしれない。

「名前を教えてください」

「名前は、それぞれにあります」

「あなたの名前です」

「一人分にまとめられた者に、一つの名前が必要でしょうか」

男は時刻表から目を離した。

「あなたたちは、人数が合えば安心する」

村瀬は反論しようとした。

数字を合わせることは仕事である。

統計が正しくなければ、予算も計画も政策も成り立たない。学校、病院、道路、福祉、公共交通。全ては人数をもとに組み立てられる。

「数字が正しくなければ困るんです」

「正しい数字とは、何ですか」

男は尋ねた。

「一人ずつ数えた数字です」

「数えられなかった人は、一人ではありませんか」

村瀬は答えられなかった。

次のバスが来るまで一時間あるはずだった。

しかし、坂の向こうから小型バスが現れた。

行先表示は消えていた。

車内の照明もついていない。

バスはゆっくり停留所へ近づき、今度は男の前で止まった。

扉が開いた。

運転席に人影はなかった。

男は村瀬へ一礼し、バスへ乗った。

車内には誰もいない。

男が最後部の座席へ座ると、扉が閉まった。

バスは音もなく発車した。

村瀬は道路へ出て、後を追うように数歩歩いた。

バスは交差点を曲がらず、そのまま海へ向かう細い道へ進んだ。

その先は、十年前に廃止された旧道だった。

台風による崖崩れで通行止めになっている。

村瀬が角まで走ったとき、バスの姿はなかった。

翌朝、村瀬は早く役場へ行った。

庁舎には清掃員しかいなかった。

自席のパソコンを起動し、人口統計の画面を開いた。

総人口は七千八百三十五人。

異常はない。

村瀬は前月の人口表を開いた。

七千八百三十六という数字は消え、七千八百三十五に修正されていた。

変更履歴を確認した。

修正者の欄には、村瀬修一と表示されていた。

修正時刻は、昨日の午後六時十二分。

男と話していた時刻だった。

村瀬は画面を閉じた。

机の引き出しから、最初に印刷した人口異動表を取り出した。

紙の最下段には、今も七千八百三十六と印刷されていた。

村瀬は鉛筆を手に取った。

七千八百三十六の「六」に二本の線を引き、「五」と書き直そうとした。

しかし、鉛筆の先は紙の上で止まった。

一人を消せば、数字は合う。

数字が合えば、仕事は終わる。

では、消された一人はどこへ行くのか。

村瀬は別の紙を取り出した。

町内人口の空欄へ、地区名を書いた。

「未定」

年齢欄にも「未定」と書いた。

住所欄には何も書かなかった。

その下に、人数を記入した。

一。

正式な帳票ではなかった。

役場のどの規程にも存在しない数字だった。

村瀬はその紙を机の一番下の引き出しへ入れた。

午前八時三十分、庁内放送が流れた。

「おはようございます。本日も住民の皆さまに丁寧で分かりやすい対応を心がけてください」

窓口が開き、電話が鳴り始めた。

町は昨日までと変わらず動いていた。

正午前、町営バスの担当者から内線が入った。

「村瀬さん、ちょっと妙なことがありまして」

「何ですか」

「昨日の最終便です。乗車人数が一人合わないんです」

村瀬は受話器を握り直した。

「多いんですか」

「いえ」

担当者は言った。

「一人、少ないんです」

村瀬は窓の外を見た。

庁舎前のバス停には、誰もいなかった。

ただ、ベンチの端に黒い布製の鞄が置かれていた。

村瀬は電話を切り、階段を下りた。

外へ出ると、海から風が吹いてきた。

鞄は古く、角が白く擦れていた。持ち手には紙の札が結びつけられている。

札には、鉛筆で一文字だけ書かれていた。

「一」

村瀬が鞄を持ち上げると、見た目よりずっと重かった。

中に何が入っているのかは分からない。

留め金に手をかけたが、開けることはできなかった。

鞄の内側から、紙を一枚ずつめくるような音がした。

一枚。

また一枚。

町から消えていった人々の記録を、誰かが数えているような音だった。

村瀬は鞄を抱え、役場へ戻った。

人口表の数字は、その後、二度と狂わなかった。

潮見町の人口は、毎月、正しく減り続けた。

七千八百二十一人。

七千八百九人。

七千七百九十四人。

全ての数字が、出生、死亡、転入、転出と正確に一致していた。

それでも村瀬は、人口表を印刷するたび、最下段の余白を確認した。

そこには、印刷直後だけ、薄い鉛筆の跡のようなものが浮かぶことがあった。

数字ではなかった。

人の名前のようにも見えた。

しかし、目を近づけると消えてしまった。

定年を迎える前日、村瀬は机を整理した。

一番下の引き出しには、「未定、一人」と書いた紙が残っていた。

黒い鞄は、その日以来、開けていない。

村瀬は紙を処分せず、鞄の中へ入れた。

留め金は、今度は抵抗なく開いた。

中には何もなかった。

底に、小さな鏡が一枚置かれているだけだった。

鏡には村瀬の顔が映っていた。

その下に、細い文字が刻まれていた。

――あなたは、どこの人口に入っていますか。

村瀬は鏡を伏せ、鞄を閉じた。

翌日、町役場を退職した。

その月の人口異動表では、潮見町の人口が一人減っていた。

転出者欄にも、死亡者欄にも、村瀬の名前はなかった。

それでも数字は、正確に一人減っていた。

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