筒井康隆の小説を読んでいると、ときどき自分が何を読んでいるのか分からなくなる。
笑っていたはずなのに、いつの間にか怖くなっている。現実の話だと思っていたら、その現実自体がどこか怪しくなってくる。真面目な社会の話が突然ばかばかしい方向へ暴走し、逆に、ばかばかしい話を読んでいたはずなのに、最後には社会そのものの異様さを見せつけられる。
普通の小説なら、作者は読者を物語の中へ連れていこうとする。しかし筒井康隆は、ときどき物語そのものを揺さぶり、読者が安心して寄りかかっていた前提まで壊してしまう。
それは偶然ではない。
どうやら筒井康隆という作家は、私たちが「小説とはこういうものだ」「社会ではこう振る舞うものだ」「これは普通で、これは普通ではない」と無意識に決めている、その境界線を見つけると、そこを押してみたくなる人なのである。
では、なぜ彼はこれほど長いあいだ「常識」を壊し続けてきたのだろうか。
SFは、常識を疑うための装置だった
筒井康隆は1934年に大阪市で生まれた。1960年には弟たちとSF(Science Fiction・科学や未来、架空の設定などを用いて現実を問い直す文学)の同人誌『NULL』を創刊し、創刊号に発表した「お助け」が江戸川乱歩に認められて『宝石』に転載された。そこから本格的な作家活動へと進んでいく。
筒井康隆の出発点はSFだった。
しかし、彼の作品を読んでいると、科学技術の未来を予測することそのものが目的ではなかったことが分かる。むしろSFという形式は、現実社会から少し離れた場所に立ち、今の社会を別の角度から眺め直すための装置として使われている。
たとえば私たちは、満員電車に乗る。会社へ行く。学校へ行く。テレビを見る。人の噂を気にする。肩書によって相手への態度を変える。
毎日繰り返しているうちに、それらは「普通のこと」になる。
ところが、その普通の行動を少しだけ極端にしてみる。
全員が同じことを始めたらどうなるのか。ある制度を徹底したら何が起こるのか。人間の欲望を遠慮なく拡大したら社会はどうなるのか。
そこまでやると、それまで普通に見えていた社会が突然奇妙なものに見えてくる。
筒井康隆の風刺には、この方法が何度も現れる。
彼が壊しているのは、現実そのものではない。現実を見るときに私たちが無意識に使っている「これは普通だ」という物差しなのである。
笑わせることで、読者の警戒心を解いてしまう
筒井作品には笑いが多い。
しかも、上品なユーモアだけではない。誇張、悪ふざけ、ナンセンス、ブラックユーモア、ときには下品ささえもためらわずに使う。
ここが重要なのだと思う。
人は正面から「あなたが信じている社会常識は間違っています」と言われれば反発する。けれども、笑っているときには少し無防備になる。
「そんな馬鹿な話があるか」と笑いながら読み進めているうちに、ふと気づく。
これは本当に馬鹿な話なのだろうか。
極端に描かれているだけで、似たようなことは現実社会でも起きているのではないか。
筒井康隆の笑いには、ときとして鏡のような役割がある。
鏡に映っている人物を笑っていたはずなのに、その人物が自分自身に似ていることに気づいてしまう。
だから、笑ったあとに妙な後味が残る。
筒井康隆の風刺が、単なる悪ふざけで終わらない理由はそこにある。
やがて「小説という常識」まで疑い始めた
しかし筒井康隆は、社会の常識を壊すだけでは満足しなかった。
やがて疑い始めたのは、小説そのものだった。
小説には文章があり、登場人物がいて、時間が進み、読者は作者が用意した物語を読む。
考えてみれば、これも一つの約束事である。
では、その約束を壊したらどうなるのか。
筒井康隆は1970年代以降、前衛的、実験的な小説へ本格的に踏み込んでいく。本人も後年の対談で、前衛的なものへの憧れがあったことを語っている。
一方で、単に難しい文学を書きたかったわけではない。本人は、読者をもっと広げたいという意識も持っていた。
ここが筒井康隆の面白いところである。
実験文学というと、一般の読者から遠ざかっていくように思える。
ところが筒井康隆は逆だった。
難しいことをやりながら、面白さを捨てない。文学の仕組みを壊しながら、その壊れていく様子そのものを娯楽にしてしまう。
読者にとっては、文学理論を学ばなくても「何かがおかしい」「普通の小説とは違う」と感じられる。
その違和感そのものが、筒井文学の入口になっている。
『残像に口紅を』では、日本語そのものが実験の対象になった
その到達点の一つが『残像に口紅を』だろう。
この小説では、世界から一つずつ文字が消えていく。
文字が消えれば、その文字を使った言葉が使えなくなる。そして言葉が消えるにつれて、その言葉によって表現されていたものまで世界から失われていく。
つまり筒井康隆は、小説を書くために絶対に必要なはずの「言葉」を、自分から少しずつ減らしていった。
普通なら作家は、使える言葉が多いほど有利である。
筒井康隆は逆に、自分の道具を一つずつ捨てながら小説を書いた。
これほど奇妙な文学的ゲームもない。
しかし読み進めていると、単なる言葉遊びでは済まなくなってくる。
ある文字が消え、その文字を含む言葉が使えなくなる。それによって、それまで当たり前に語ることのできた世界が少しずつ狭くなっていく。
そうなると読者は、言葉が世界をどのように切り取り、認識するためにどれほど大きな役割を果たしているのかまで考えさせられる。
これは、作者が一つの答えを提示しているというより、実験的な仕掛けを通じて読者の側に問いが生まれてくる作品だと言った方がよいだろう。
1989年に発表された作品でありながら、その後も長く読まれ、近年には漫画化もされている。
数十年前の言語実験小説が、今なお新しい読者を獲得しているのは興味深い。
常識を壊す文学は、案外古くなりにくいのかもしれない。
なぜなら、常識そのものが時代によって作り替えられていくからである。
『文学部唯野教授』では、文学を語る側まで小説の中に入れた
筒井康隆が壊してきた対象は、日常生活だけではない。
文学そのものを権威化する世界も例外ではなかった。
『文学部唯野教授』では、大学という制度、教授たちの人間関係、文学研究や文学理論の世界が、小説の材料になっていく。
文学を分析する側にいた人間が、今度は小説の登場人物として描かれ、その権威や欲望や人間臭さまで笑いの対象になる。
ここには筒井康隆らしい逆転がある。
普通なら文学理論は、小説を外側から分析するための道具である。
ところが筒井康隆は、その文学理論を扱う人々まで小説の内側へ引きずり込んでしまう。
分析する側だった人間が、分析される側になる。
権威とは、外側から眺めると立派に見える。しかし、その内部にいる人々の欲望や嫉妬や打算まで描いてしまえば、急に滑稽になる。
筒井康隆は、こうして何度も「偉そうに見えるもの」を地上へ引き下ろしてきた。
『パプリカ』では、現実そのものが信用できなくなる
そして『パプリカ』まで来ると、揺さぶられるのは現実と夢の境界である。
他人の夢に入り込む技術をめぐって物語が進み、夢と現実が次第に混ざり合っていく。
私たちは普通、「これは現実で、これは夢だ」と区別できることを前提に生活している。
その境界が壊れたらどうなるのか。
筒井康隆は、ここでも人間が当然だと思っている認識の土台を揺らす。
考えてみれば、彼が長年やってきたことは一貫している。
社会の常識を疑う。文学の常識を疑う。言葉の常識を疑う。そして最後には、現実とは何かという常識まで疑う。
壊す対象が次々に変わっているだけで、「本当にそれは当然なのか」という問いそのものは変わっていない。
「何を書いてもいい作家」になろうとした
筒井康隆自身の言葉をたどると、さらに興味深い。
近年の対談で筒井は、自分が目指してきた作家像について語っている。
一つのジャンルに固定されるのではなく、「筒井康隆なら何を書いてもよい」と読者から思ってもらえるような作家になりたかった、という趣旨である。
これはかなり重要な発言だと思う。
普通、作家は「この人はミステリー作家」「この人はSF作家」「この人は純文学作家」と分類される。
分類された方が、読者にも出版社にも分かりやすい。
しかし分類とは、別の言い方をすれば、「この人はここから出てはいけない」という境界線でもある。
筒井康隆は、その境界まで壊そうとした。
SFを書く。
風刺を書く。
実験小説を書く。
娯楽小説を書く。
文学理論まで小説にしてしまう。
夢と現実の境界まで揺さぶる。
一つの作家像に収まること自体を拒む。
だから筒井康隆について説明しようとすると、説明する側が困るのである。
「結局、この人は何の作家なのか」
その質問に簡単に答えられないこと自体が、筒井康隆という作家の成功なのかもしれない。
常識を壊すことは、自由になることでもある
では、筒井康隆はなぜ常識を壊し続けたのか。
単に人を驚かせることが好きだったから、と説明することもできる。
実際、本人は人を驚かせることが好きだという趣旨の発言もしている。
権威を嫌ったから、と考えることもできる。笑わせたかったから、文学の可能性を試したかったから、新しい表現を求め続けたからという説明も、それぞれ間違いではないだろう。
しかし、その根底にはもっと単純なものがあるように思える。
「そうしなければならない」と言われると、本当にそうなのか確かめたくなる。
社会が正しいと言えば、本当に正しいのか疑う。
文学はこう書くものだと言われれば、別の書き方を試す。
使ってはいけない方法があれば、使ったら何が起きるのか見てみる。
そこには非常に強い知的好奇心がある。
常識を壊すとは、何でも否定することではない。
いったん常識の外側に出てみることである。
外側から眺めたとき、それでも必要だと思えるものなら残せばよい。
しかし、ただ誰も疑わなかったから残っているだけなら、笑い飛ばしてしまってもよい。
筒井康隆は、その作業を文学の中で長く繰り返してきた。
だから彼の作品を読むと、ときどき居心地が悪くなる。
笑ってよいのか迷う。
これは本当に小説なのかと戸惑う。
作者にからかわれているような気さえする。
しかし、その戸惑いこそが筒井文学なのだろう。
読者が「これはこういうものだ」と安心した瞬間、その足元にある床板を一枚抜いてみる。
落ちた読者を見て、作者は少し笑っている。
そして読者も、仕方なく笑う。
床が最初からそこにあると思い込んでいた自分自身を。
筒井康隆が壊し続けてきた「常識」とは、結局のところ、社会の常識でも文学の常識でもないのかもしれない。
それは、私たち一人ひとりの頭の中にある、
「世界とは、こういうものだ」
という思い込みなのである。






