リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

筒井康隆の小説を読んでいると、ときどき自分が何を読んでいるのか分からなくなる。

笑っていたはずなのに、いつの間にか怖くなっている。現実の話だと思っていたら、その現実自体がどこか怪しくなってくる。真面目な社会の話が突然ばかばかしい方向へ暴走し、逆に、ばかばかしい話を読んでいたはずなのに、最後には社会そのものの異様さを見せつけられる。

普通の小説なら、作者は読者を物語の中へ連れていこうとする。しかし筒井康隆は、ときどき物語そのものを揺さぶり、読者が安心して寄りかかっていた前提まで壊してしまう。

それは偶然ではない。

どうやら筒井康隆という作家は、私たちが「小説とはこういうものだ」「社会ではこう振る舞うものだ」「これは普通で、これは普通ではない」と無意識に決めている、その境界線を見つけると、そこを押してみたくなる人なのである。

では、なぜ彼はこれほど長いあいだ「常識」を壊し続けてきたのだろうか。

SFは、常識を疑うための装置だった

筒井康隆は1934年に大阪市で生まれた。1960年には弟たちとSF(Science Fiction・科学や未来、架空の設定などを用いて現実を問い直す文学)の同人誌『NULL』を創刊し、創刊号に発表した「お助け」が江戸川乱歩に認められて『宝石』に転載された。そこから本格的な作家活動へと進んでいく。

筒井康隆の出発点はSFだった。

しかし、彼の作品を読んでいると、科学技術の未来を予測することそのものが目的ではなかったことが分かる。むしろSFという形式は、現実社会から少し離れた場所に立ち、今の社会を別の角度から眺め直すための装置として使われている。

たとえば私たちは、満員電車に乗る。会社へ行く。学校へ行く。テレビを見る。人の噂を気にする。肩書によって相手への態度を変える。

毎日繰り返しているうちに、それらは「普通のこと」になる。

ところが、その普通の行動を少しだけ極端にしてみる。

全員が同じことを始めたらどうなるのか。ある制度を徹底したら何が起こるのか。人間の欲望を遠慮なく拡大したら社会はどうなるのか。

そこまでやると、それまで普通に見えていた社会が突然奇妙なものに見えてくる。

筒井康隆の風刺には、この方法が何度も現れる。

彼が壊しているのは、現実そのものではない。現実を見るときに私たちが無意識に使っている「これは普通だ」という物差しなのである。

笑わせることで、読者の警戒心を解いてしまう

筒井作品には笑いが多い。

しかも、上品なユーモアだけではない。誇張、悪ふざけ、ナンセンス、ブラックユーモア、ときには下品ささえもためらわずに使う。

ここが重要なのだと思う。

人は正面から「あなたが信じている社会常識は間違っています」と言われれば反発する。けれども、笑っているときには少し無防備になる。

「そんな馬鹿な話があるか」と笑いながら読み進めているうちに、ふと気づく。

これは本当に馬鹿な話なのだろうか。

極端に描かれているだけで、似たようなことは現実社会でも起きているのではないか。

筒井康隆の笑いには、ときとして鏡のような役割がある。

鏡に映っている人物を笑っていたはずなのに、その人物が自分自身に似ていることに気づいてしまう。

だから、笑ったあとに妙な後味が残る。

筒井康隆の風刺が、単なる悪ふざけで終わらない理由はそこにある。

やがて「小説という常識」まで疑い始めた

しかし筒井康隆は、社会の常識を壊すだけでは満足しなかった。

やがて疑い始めたのは、小説そのものだった。

小説には文章があり、登場人物がいて、時間が進み、読者は作者が用意した物語を読む。

考えてみれば、これも一つの約束事である。

では、その約束を壊したらどうなるのか。

筒井康隆は1970年代以降、前衛的、実験的な小説へ本格的に踏み込んでいく。本人も後年の対談で、前衛的なものへの憧れがあったことを語っている。

一方で、単に難しい文学を書きたかったわけではない。本人は、読者をもっと広げたいという意識も持っていた。

ここが筒井康隆の面白いところである。

実験文学というと、一般の読者から遠ざかっていくように思える。

ところが筒井康隆は逆だった。

難しいことをやりながら、面白さを捨てない。文学の仕組みを壊しながら、その壊れていく様子そのものを娯楽にしてしまう。

読者にとっては、文学理論を学ばなくても「何かがおかしい」「普通の小説とは違う」と感じられる。

その違和感そのものが、筒井文学の入口になっている。

『残像に口紅を』では、日本語そのものが実験の対象になった

その到達点の一つが『残像に口紅を』だろう。

この小説では、世界から一つずつ文字が消えていく。

文字が消えれば、その文字を使った言葉が使えなくなる。そして言葉が消えるにつれて、その言葉によって表現されていたものまで世界から失われていく。

つまり筒井康隆は、小説を書くために絶対に必要なはずの「言葉」を、自分から少しずつ減らしていった。

普通なら作家は、使える言葉が多いほど有利である。

筒井康隆は逆に、自分の道具を一つずつ捨てながら小説を書いた。

これほど奇妙な文学的ゲームもない。

しかし読み進めていると、単なる言葉遊びでは済まなくなってくる。

ある文字が消え、その文字を含む言葉が使えなくなる。それによって、それまで当たり前に語ることのできた世界が少しずつ狭くなっていく。

そうなると読者は、言葉が世界をどのように切り取り、認識するためにどれほど大きな役割を果たしているのかまで考えさせられる。

これは、作者が一つの答えを提示しているというより、実験的な仕掛けを通じて読者の側に問いが生まれてくる作品だと言った方がよいだろう。

1989年に発表された作品でありながら、その後も長く読まれ、近年には漫画化もされている。

数十年前の言語実験小説が、今なお新しい読者を獲得しているのは興味深い。

常識を壊す文学は、案外古くなりにくいのかもしれない。

なぜなら、常識そのものが時代によって作り替えられていくからである。

『文学部唯野教授』では、文学を語る側まで小説の中に入れた

筒井康隆が壊してきた対象は、日常生活だけではない。

文学そのものを権威化する世界も例外ではなかった。

『文学部唯野教授』では、大学という制度、教授たちの人間関係、文学研究や文学理論の世界が、小説の材料になっていく。

文学を分析する側にいた人間が、今度は小説の登場人物として描かれ、その権威や欲望や人間臭さまで笑いの対象になる。

ここには筒井康隆らしい逆転がある。

普通なら文学理論は、小説を外側から分析するための道具である。

ところが筒井康隆は、その文学理論を扱う人々まで小説の内側へ引きずり込んでしまう。

分析する側だった人間が、分析される側になる。

権威とは、外側から眺めると立派に見える。しかし、その内部にいる人々の欲望や嫉妬や打算まで描いてしまえば、急に滑稽になる。

筒井康隆は、こうして何度も「偉そうに見えるもの」を地上へ引き下ろしてきた。

『パプリカ』では、現実そのものが信用できなくなる

そして『パプリカ』まで来ると、揺さぶられるのは現実と夢の境界である。

他人の夢に入り込む技術をめぐって物語が進み、夢と現実が次第に混ざり合っていく。

私たちは普通、「これは現実で、これは夢だ」と区別できることを前提に生活している。

その境界が壊れたらどうなるのか。

筒井康隆は、ここでも人間が当然だと思っている認識の土台を揺らす。

考えてみれば、彼が長年やってきたことは一貫している。

社会の常識を疑う。文学の常識を疑う。言葉の常識を疑う。そして最後には、現実とは何かという常識まで疑う。

壊す対象が次々に変わっているだけで、「本当にそれは当然なのか」という問いそのものは変わっていない。

「何を書いてもいい作家」になろうとした

筒井康隆自身の言葉をたどると、さらに興味深い。

近年の対談で筒井は、自分が目指してきた作家像について語っている。

一つのジャンルに固定されるのではなく、「筒井康隆なら何を書いてもよい」と読者から思ってもらえるような作家になりたかった、という趣旨である。

これはかなり重要な発言だと思う。

普通、作家は「この人はミステリー作家」「この人はSF作家」「この人は純文学作家」と分類される。

分類された方が、読者にも出版社にも分かりやすい。

しかし分類とは、別の言い方をすれば、「この人はここから出てはいけない」という境界線でもある。

筒井康隆は、その境界まで壊そうとした。

SFを書く。

風刺を書く。

実験小説を書く。

娯楽小説を書く。

文学理論まで小説にしてしまう。

夢と現実の境界まで揺さぶる。

一つの作家像に収まること自体を拒む。

だから筒井康隆について説明しようとすると、説明する側が困るのである。

「結局、この人は何の作家なのか」

その質問に簡単に答えられないこと自体が、筒井康隆という作家の成功なのかもしれない。

常識を壊すことは、自由になることでもある

では、筒井康隆はなぜ常識を壊し続けたのか。

単に人を驚かせることが好きだったから、と説明することもできる。

実際、本人は人を驚かせることが好きだという趣旨の発言もしている。

権威を嫌ったから、と考えることもできる。笑わせたかったから、文学の可能性を試したかったから、新しい表現を求め続けたからという説明も、それぞれ間違いではないだろう。

しかし、その根底にはもっと単純なものがあるように思える。

「そうしなければならない」と言われると、本当にそうなのか確かめたくなる。

社会が正しいと言えば、本当に正しいのか疑う。

文学はこう書くものだと言われれば、別の書き方を試す。

使ってはいけない方法があれば、使ったら何が起きるのか見てみる。

そこには非常に強い知的好奇心がある。

常識を壊すとは、何でも否定することではない。

いったん常識の外側に出てみることである。

外側から眺めたとき、それでも必要だと思えるものなら残せばよい。

しかし、ただ誰も疑わなかったから残っているだけなら、笑い飛ばしてしまってもよい。

筒井康隆は、その作業を文学の中で長く繰り返してきた。

だから彼の作品を読むと、ときどき居心地が悪くなる。

笑ってよいのか迷う。

これは本当に小説なのかと戸惑う。

作者にからかわれているような気さえする。

しかし、その戸惑いこそが筒井文学なのだろう。

読者が「これはこういうものだ」と安心した瞬間、その足元にある床板を一枚抜いてみる。

落ちた読者を見て、作者は少し笑っている。

そして読者も、仕方なく笑う。

床が最初からそこにあると思い込んでいた自分自身を。

筒井康隆が壊し続けてきた「常識」とは、結局のところ、社会の常識でも文学の常識でもないのかもしれない。

それは、私たち一人ひとりの頭の中にある、

「世界とは、こういうものだ」

という思い込みなのである。

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梶井基次郎の『檸檬』を読んで、少し困った経験のある人は多いのではないだろうか。

大きな事件が起きるわけではない。恋愛があるわけでもなく、殺人もなければ、人生を変えるような決断が語られるわけでもない。

主人公らしき「私」は京都の街を歩き、果物屋で一個の檸檬を買う。そして最後には、その檸檬を丸善の本の上に置いて店を出ていく。

それだけである。

しかも彼は、その檸檬を「爆弾」に見立てる。

丸善が爆発したところを想像して、妙に愉快な気分になる。

初めて読んだときには、「それで、結局何の話だったのだろう」と感じても不思議ではない。

しかし、『檸檬』のおもしろさは、まさにそこにある。

この小説は、檸檬について書かれた小説ではない。

丸善を爆破したい男の小説でもない。

もっと言えば、京都の街を歩く青年の日常を描いた作品ですらない。

『檸檬』が描いているのは、自分を押しつぶしていた世界が、ほんの一瞬だけ別のものに見える瞬間なのである。

主人公は、最初から世界に疲れている

『檸檬』の冒頭には、作品全体を決めてしまう重要な言葉が出てくる。

「えたいの知れない不吉な塊」。

これが「私」の心を押さえつけている。

ここで梶井基次郎は、不安の原因をはっきり説明しない。

仕事に失敗したとも、恋人と別れたとも、誰かに裏切られたとも書かない。ただ何か分からないものが胸に居座り、以前は好きだったものまで楽しめなくなっている。

この感覚は、現代の私たちにも意外なほど分かりやすい。

何か重大な事件があったわけではない。それなのに気分が重い。本を読んでも楽しくない。買い物に行っても心が動かない。以前なら魅力的だったものが、なぜか色褪せて見える。

原因を一つに特定できないからこそ、厄介なのである。

「私」は病んでいるとも読めるし、貧困や将来への不安を抱えているとも読める。しかし梶井は、それを診断名のように整理しない。

ただ、世界との間に薄い膜が張られてしまったような青年を置く。

そして重要なのは、彼自身が暗いだけではなく、彼の目には世界そのものまで重く見えているということである。

なぜ、立派なものではなく「みすぼらしいもの」に惹かれるのか

そんな「私」は、以前なら好んでいた立派な店や美しい品物を避けるようになる。

代わりに惹かれるのが、裏通りや安っぽいもの、壊れかけたもの、少し怪しげな場所である。

これは単なる変わった趣味ではない。

自分が弱っているとき、人は「完成された世界」に居心地の悪さを覚えることがある。

立派な建物、整然と並んだ商品、文化的な書物、高価な品々。そうしたものは本来美しいはずなのに、自分の内側が崩れていると、その完全さがかえって圧力になる。

『檸檬』の「私」にとって丸善がまさにそうだった。

丸善は本や美術品や舶来品が並ぶ、知的で洗練された場所である。

かつてなら心を躍らせた場所だった。

ところが今の「私」には、その豊かさが苦しい。

欲しいものがたくさん並んでいるのに買えないから、というだけではないだろう。

むしろそこには、「文化」「知性」「美」「豊かさ」といった、完成された価値の世界がある。

その世界に対して、自分だけがうまく参加できない。

だから丸善に入ると、ますます気持ちが沈んでしまう。

ここに『檸檬』の一つの重要な構造がある。

世界が醜いから苦しいのではない。美しい世界に自分が入れないこともまた、人を苦しませるのである。

そこで一個の檸檬が現れる

そんな青年が、寺町の果物屋で檸檬を見つける。

ここから、小説の空気が変わる。

檸檬は高価なものではない。

芸術作品でもなければ、知識を与えてくれるものでもない。社会的な地位を示す商品でもない。

ただの果物である。

ところが「私」は、その色、形、重さ、冷たさに強く惹きつけられる。

ここが非常におもしろい。

それまで彼を苦しめていたものは、頭の中にある正体の分からない不安だった。

それに対して檸檬は、徹底的に具体的である。

黄色い。

丸みがある。

手のひらに収まる。

重さがある。

冷たい。

つまり檸檬は、「考えなければ分からないもの」ではなく、「触れば分かるもの」なのである。

将来の不安には形がない。

貧困にも、憂鬱にも、人生の行き詰まりにも、手でつかめる形はない。

しかし檸檬には形がある。

その一点だけでも、この小さな果実は「えたいの知れない不吉な塊」と正反対の存在になっている。

正体不明の重苦しさに対して、鮮やかで、単純で、触れることのできる黄色い物体。

だから檸檬を手にした瞬間、「私」の世界は少しだけ変わり始める。

檸檬が美しいのではなく、世界を見る目が変わった

ここで『檸檬』を「美しい果物に癒やされた物語」と読んでしまうと、少し物足りない。

重要なのは檸檬そのものの美しさだけではない。

檸檬を持ったことで、主人公の世界を見る方法が変わったことなのである。

それまで街は重苦しかった。

丸善も苦しかった。

本も画集も彼を疲れさせるものだった。

ところが檸檬という一個の異物を手にした途端、同じ世界が遊び場のように変わっていく。

そして彼は丸善へ入る。

そこで画集を積み上げ、その頂上に檸檬を置く。

考えてみれば、実にくだらない行為である。

しかし、このくだらなさこそが重要なのだ。

丸善の商品には、本来それぞれ意味がある。

本は読むものだし、画集は鑑賞するものである。店の商品は丁寧に扱わなければならない。

ところが「私」は、その意味を勝手に壊してしまう。

画集を積み木のように積み上げ、その上に果物を載せる。

つまり彼は一瞬だけ、社会が決めた物の意味から自由になる。

本は「読むべきもの」ではなくなる。

檸檬は「食べるもの」ではなくなる。

丸善は「買い物をする場所」ではなくなる。

全部が彼の想像力によって別のものに変換される。

その瞬間、これまで自分を圧迫していた世界に対して、「私」の側が主導権を握るのである。

なぜ檸檬は「爆弾」になったのか

そして檸檬は、ついに爆弾になる。

もちろん本物の爆弾ではない。

「私」は、積み上げた画集の上に檸檬を置き、そのまま丸善を出る。

そして想像する。

あの檸檬が爆発して、丸善が大変なことになっているのではないか。

ここだけ取り出せば、少し危ない青年にも見える。

しかし彼が本当に破壊したいのは建物ではない。

彼が壊したいのは、自分を押しつぶしてきた世界の秩序なのではないだろうか。

丸善に並ぶ本や画集は、美しく文化的で価値のあるものだ。

しかし今の彼には、その価値の体系そのものが重い。

そこで一個の安い檸檬を持ち込み、それを爆弾にしてしまう。

文化の殿堂ともいえる空間の真ん中に、果物一個を置く。

そして頭の中で全部吹き飛ばす。

これは現実の破壊ではない。

想像力による小さな反乱である。

会社を辞めるわけでもない。

社会を変えるわけでもない。

貧困から抜け出すわけでもない。

病気が治るわけでもない。

それでも人間は、自分の頭の中で世界との関係を少し変えることができる。

『檸檬』は、そのごく小さな自由を描いている。

だから、この小説では何も解決していない

ここは大切なところである。

物語の最後で、「私」の問題は何一つ解決していない。

お金が増えたわけでもない。

健康になったわけでもない。

将来が開けたわけでもない。

胸を押さえていた「不吉な塊」の根本原因が消えたとも書かれていない。

つまり『檸檬』は、問題解決の物語ではないのである。

普通の物語なら、主人公は何かを乗り越え、成長し、状況を変えて終わる。

しかし現実の人生では、そんな劇的な解決などめったに起こらない。

憂鬱な日に一冊の本を読んだからといって人生は変わらないし、美しい夕焼けを見ても借金はなくならない。

それでも、ほんの数分だけ気持ちが軽くなることはある。

帰り道で急に風が気持ちよく感じられることがある。

どうにもならない現実を、少しだけ違った角度から眺められる瞬間がある。

梶井基次郎が書いたのは、おそらくその種類の救いである。

大きな救済ではない。

人生を立て直すほどの力もない。

しかし、その一瞬があるから人間は歩いていける。

『檸檬』の最後にある妙な爽快感は、そこから生まれている。

「黄色」がこれほど鮮烈に残る理由

『檸檬』を読み終えたあと、多くの人の頭には黄色い果実が残る。

なぜだろう。

作品の冒頭にある世界は、どこか灰色である。

不安、倦怠、貧しさ、病、憂鬱。

そこへ突然、鮮烈な黄色が入ってくる。

色彩というものは理屈より速い。

「希望とは何か」と説明されれば、人は考えなければならない。

しかし真っ黄色な檸檬を目の前に置かれれば、考えるより先に目に飛び込んでくる。

だからこの作品では、「私は少し元気になった」と説明する必要がない。

檸檬がある。

その黄色だけで、主人公の内部に起きた変化が読者にも伝わる。

梶井基次郎の巧さは、心理状態を長々と説明するのではなく、色や重さや手触りによって見せてしまうところにある。

読者は「私」の憂鬱について完全には理解できなくても、檸檬の鮮やかさなら理解できる。

そこに文学としての強さがある。

『檸檬』は青春小説でもある

そして、もう一つ忘れてはいけない。

この奇妙な行為には、どこか若さがある。

大人になってから丸善のような書店へ入り、画集を積み上げ、その上に檸檬を置いて「爆弾だ」と想像する人はあまりいない。

くだらない。

役に立たない。

現実を何も変えない。

しかし、その無意味な行為によって世界が一瞬おもしろく見える。

そこには若者特有の感覚がある。

若い時代、人は世界に強く傷つく一方で、世界を勝手に作り替える力も持っている。

路地一本が特別な場所になる。

安い果物一個が宝物になる。

本屋が爆破される空想だけで、街を歩く足取りが軽くなる。

年齢を重ねるほど私たちは、「そんなことをして何になるのか」と考えるようになる。

だが『檸檬』の主人公は、そんな計算をしない。

だからこそ、この作品には百年近くたっても消えない若さがある。

結局、『檸檬』は何を描いているのか

では改めて問いたい。

『檸檬』は結局、何を描いているのだろう。

一言でいえば、

どうにもならない現実の中で、人間が想像力によって一瞬だけ自由になる物語

なのだと思う。

「私」を苦しめているものは最後まで消えない。

しかし檸檬を一個手にしたことで、彼は世界を見る方法を変える。

重苦しかった街が遊びの空間になる。

自分を圧迫していた丸善が、想像上の爆破対象になる。

ただの果物が爆弾になる。

現実そのものは変わらない。

変わったのは、現実との距離である。

そこに『檸檬』の不思議な明るさがある。

人生には、ときどき何も解決できない日がある。

努力しても答えが出ず、原因すら分からないまま気分だけが沈んでいる日もある。

そんな日に必要なのは、必ずしも壮大な人生論ではないのかもしれない。

一杯のコーヒーかもしれない。

一本の音楽かもしれない。

偶然入った路地かもしれない。

そして梶井基次郎にとって、それは一個の檸檬だった。

だから『檸檬』は、一個の果物についての小説ではない。

世界に押しつぶされそうになった人間が、想像力を使ってほんの一瞬だけ世界の上に立つ。

その小さな逆転を描いた小説なのである。

そして丸善を出た「私」が楽しそうに京都の街を歩いていく姿を思うと、私たちは少しだけ分かる気がする。

人生を救うものは、必ずしも人生を変えるほど大きなものでなくてもよい。

ときには、一個の檸檬くらいの大きさで十分なのだ。

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昭和40年代から50年代に青春時代を過ごした人にとって、「深夜ラジオ」という言葉は、単なる放送番組のジャンルを意味するものではないだろう。

家族が眠ったあとの部屋で、音量を絞ったラジオに耳を傾ける。勉強机の上には教科書や参考書が開かれているけれど、本当に待っているのは午前零時、あるいは午前一時から始まる番組だった。少し雑音の混じった声の向こうに、自分と同じ時間を起きている誰かがいる。

テレビが家族で共有することの多いメディアだった時代、小型化したラジオは、若者が自分の部屋で一人で聴くことのできる、より個人的なメディアになっていった。なかでも深夜放送は、親や学校とは少し違った世界を若者に見せてくれた。

だから昭和の深夜ラジオを振り返ることは、懐かしい番組を思い出すだけではない。それは、インターネットもスマートフォンもなかった時代に、若者たちがどのように自分だけの時間を持ち、自分たちの文化をつくっていったのかを考えることでもある。

深夜に「若者の時間」が生まれた

日本の深夜放送が若者文化として大きく広がっていったのは、1960年代後半だった。

TBSラジオの『パック・イン・ミュージック』は1967年に始まり、1982年まで15年間放送された。放送番組センターの放送ライブラリーも、この番組を当時の若者を強く引きつけた代表的な深夜番組として位置づけている。

同じ1967年10月2日深夜25時、すなわち10月3日午前1時には、ニッポン放送の『オールナイトニッポン』が放送を開始した。半世紀以上にわたり続くことになる、若者向け深夜放送を代表する番組の誕生だった。

さらに文化放送では、1969年6月2日深夜に『セイ!ヤング』が始まった。当時、深夜放送を聴く人々は「みみずく族」と呼ばれることもあったという。『セイ!ヤング』は、そうした夜更かしをする若い聴取者と結びつきながら人気を広げていった。

こうして1960年代末には、主要なラジオ局で若者を強く意識した深夜番組が相次いで登場した。

重要なのは、単に放送時間が夜遅くなったということではない。

深夜という、それまで社会的には目立たなかった時間帯に、「若者のための時間」が生まれたことである。

テレビは家族のもの、深夜ラジオは自分のものだった

昭和の家庭では、テレビは茶の間や居間に置かれ、一台を家族で見ることが多かった。

何を見るかは必ずしも自分一人では決められない。チャンネルを誰が選ぶかという小さな争いさえ、当時の家庭の日常の一つだった。

それに対して、小型のラジオなら自分の部屋へ持っていくことができた。イヤホンを使えば、家族が眠ったあとでも一人で聴くことができる。

この違いは大きい。

昼間の若者は、学校では生徒であり、家庭では子どもだった。しかし深夜になり、周囲が眠りにつくと、その役割から一時的に離れることができる。

そこへラジオから聞こえてくるのは、昼間のテレビ番組とは少し違う言葉だった。

くだらない冗談を延々と話すこともあれば、恋愛について語ることもある。音楽の話、学校への不満、若者自身の悩みが取り上げられることもあった。

当時の深夜放送が若者にどのように受け止められていたかを示す興味深い記録も残っている。文化放送のアーカイブには、1969年に高校生が制作した「深夜放送をさぐる」という番組があり、同世代の若者がなぜ深夜放送を聴くのかを調べている。つまり、深夜ラジオが若者の生活文化として意識される現象は、すでに1960年代末には起きていたのである。

また当時の文化放送には、『セイ!ヤング』とは別に、若者を取り巻く社会問題などを本音で語る深夜番組も存在した。

深夜という時間帯そのものが、昼間とは違う言葉を許す場所になっていたと考えることができる。

パーソナリティは「遠い芸能人」ではなかった

深夜放送を特徴づけたもう一つの存在が、パーソナリティだった。

テレビのスターは、画面の向こう側にいる華やかな存在だった。しかしラジオから聞こえてくる人間は、それとは少し違った距離に感じられる。

姿が見えないからこそ、聞き手は声や話し方から人物像を想像する。

しかも深夜である。

周囲が静まり返った部屋で一人で聴いていると、スタジオから発せられた言葉が、自分一人に向けて語られているように感じられることがある。

もちろん実際には、多くのリスナーが同じ番組を聴いている。

それでも、聴取体験そのものは一人である。

この「大勢が聴いているのに、一対一のように感じる」という距離感が、深夜ラジオ独特の親密さを生んだのではないだろうか。

『セイ!ヤング』の初期には、みのもんた、なかにし礼、土居まさるらが曜日ごとのパーソナリティを務めていたことが文化放送の記録から確認できる。

その後も各局の深夜番組には、アナウンサー、音楽家、タレント、文化人などさまざまな人物が登場した。

ラジオのパーソナリティは、テレビのスターとは別の意味で、「自分のことを分かってくれる少し年上の人」のような位置にいたのかもしれない。

ハガキを出せば、自分が番組の一部になれた

昭和の深夜ラジオを考えるうえで欠かせないのが、ハガキによる投稿文化である。

電子メールもSNS(Social Networking Service・インターネット上で利用者同士が交流するサービス)もない。

リスナーが番組へ言葉を届ける代表的な方法の一つが、ハガキだった。

番組を聴きながら思いついたことを書く。宛名を書き、切手を貼り、ポストへ入れる。そして次の放送を待つ。

採用される保証はない。

それでも、自分の書いたハガキが読まれるかもしれないと思ってラジオを聴く。

そして自分の名前やペンネームが突然ラジオから聞こえてくる。

それは当時の若者にとって、かなり特別な経験だっただろう。

放送史の研究でも、1960年代から1970年代にかけて、リスナーから届いたハガキをパーソナリティが読み、それに応じる番組が数多く生まれたことが指摘されている。電話リクエストなども含め、番組をつくる側と聴く側との距離が近づいていった時代だった。

つまりリスナーは、番組を受動的に聴いていただけではない。

ハガキを送り、それが読まれ、その言葉にパーソナリティが反応し、さらに別のリスナーがそれを聴く。

現在のインターネット上のコミュニティーとは技術的にまったく異なるが、聞き手自身が番組を構成する一員になる仕組みが、すでに存在していたのである。

それは、一方向に情報を受け取るだけのメディアとは少し違っていた。

深夜ラジオは音楽への入口でもあった

もう一つ忘れてはならないのが音楽である。

現在なら、気になる曲があれば検索して、その場で聴くことができる。

しかし昭和の若者に、そのような環境はなかった。

レコードを買わなければ聴けない曲も多い。しかも若者にとって、何枚ものレコードを自由に購入できるほど安価な商品ではなかった。

だからこそ、ラジオから流れてくる音楽そのものに大きな価値があった。

知らない外国の曲が流れる。

まだ買っていない歌手の新曲がかかる。

好きな曲を偶然耳にする。

そして、その数分間が終われば、次にいつ聴けるか分からない。

『オールナイトニッポン』も、長い歴史の中で新しい才能や文化を発信してきた番組として位置づけられている。

1970年代以降になると、ラジオから好きな曲をカセットテープへ録音することも、若者の音楽生活の一部になっていった。

深夜ラジオ、レコード、カセットテープ、雑誌、文庫本。

昭和の若者文化は、それぞれが完全に独立していたわけではない。

ラジオから曲を知り、その歌手について雑誌で読み、レコード店へ行く。番組で紹介された本を読んだり、映画を見たりする。

一つのメディアとの出会いが、別のメディアへつながっていく。

現在のように一瞬で検索結果が表示されるわけではない。しかし時間をかけながら、一人の若者の世界は少しずつ広がっていった。

「全国で自分だけが起きている」ような感覚

深夜ラジオには、昼間の放送にはない奇妙な感覚があった。

午前一時。

外を走る車も少なくなり、家族は眠っている。

その静けさの中でラジオをつける。

すると東京のスタジオから声が聞こえてくる。

そして、その声を日本のどこかで、同じように布団の中や勉強机の前で聴いている若者がいる。

実際には一人ではない。

けれども、一人で聴いている。

この「孤独なのに孤独ではない」という感覚こそ、深夜ラジオの魅力の一つだったのではないだろうか。

学校で友達とうまく話せない若者もいただろう。

受験勉強をしている若者もいた。

恋愛で悩んでいる人も、将来を考えて眠れない人もいたはずだ。

深夜ラジオは彼らの問題を解決してくれたわけではない。

ただ、同じ時間に誰かが起きていて、話していた。

それだけでも夜は少し違った。

放送史研究の中で、当時の深夜ラジオが「若者たちの解放区」と表現されていることは、この独特の位置づけをよく示している。昼間の社会とは少し違う価値観や言葉が許される場所が、夜のラジオの中に形成されていたのである。

スマートフォンの時代には再現しにくいもの

現在の若者には、昭和の若者とは比較にならないほど多くの情報がある。

好きな音楽は好きな時間に聴ける。動画も映画も見ることができる。誰かと話したければ、インターネットを通じてすぐにつながることもできる。

便利さだけを比較すれば、昭和の深夜ラジオより現在のメディア環境の方が圧倒的に優れている。

それでも、失われたものがあるとすれば、それは「待つ時間」なのかもしれない。

好きな番組が始まる時刻まで待つ。

好きな曲が流れるのを待つ。

送ったハガキが読まれるかどうか、次の放送まで待つ。

そして聞き逃せば、その言葉にもう一度出会えるとは限らない。

現在では、情報は保存され、検索され、繰り返し再生されることを前提としている。

しかし、かつてのラジオ放送は基本的に、その時間に流れていくものだった。

だからこそ、その瞬間に耳を澄ませた。

不便だったからこそ、一つの番組との関係が濃くなったという側面もあったのではないだろうか。

深夜ラジオがつくった「自分だけの青春」

昭和という時代を振り返るとき、ついヒット曲やテレビ番組、流行した商品などを並べてしまう。

しかし青春の記憶は、そうした大きな歴史だけでできているわけではない。

夜中の一時にラジオのスイッチを入れたこと。

雑音の向こうから聞こえてきた声。

眠くなりながら聴いた知らない曲。

読まれるかどうかも分からない一枚のハガキを書いたこと。

翌朝、学校で友達と昨夜の放送について話したこと。

そうした小さな記憶の積み重ねも、昭和という時代をつくっている。

深夜ラジオは若者に何かを教えるための学校ではなかった。

けれども学校や家庭だけでは知ることのできない音楽、言葉、大人の世界、そして価値観に触れる場所の一つだった。

何よりそこには、自分で選んで聴いているという感覚があった。

昼間は親や教師によって予定を決められていた少年や少女が、家族が眠ったあと、自分の意思でラジオのスイッチを入れ、ダイヤルを合わせる。

その瞬間だけは、誰にも選ばされていない。

おそらく昭和の深夜ラジオが若者をあれほど惹きつけた理由は、番組そのものの面白さだけではなかった。

深夜ラジオとは、若者が自分の意思で選ぶことのできた「自分だけの時間」だったのである。

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いま書店に入れば、話題の小説やビジネス書、コミック、雑誌が並んでいる。店によって規模の違いはあるものの、本を買う場所という基本的な役割そのものは、昭和の書店と大きく変わっていないようにも見える。

しかし、昭和の書店を知っている人にとって、現在の書店にはどこか違うものがある。

それは単純に「昔のほうが本が多かった」という話ではない。

昭和の書店には、本と一緒に、その時代の文化そのものが並んでいたのである。

書店に行かなければ、何が流行しているのか分からなかった

インターネットのなかった時代、世の中で何が読まれているのかを知る方法は限られていた。

新聞には書籍広告があり、テレビでは話題の作家が紹介されることもあった。しかし、新しい本や雑誌を実際に一覧できる場所として、書店は圧倒的に重要だった。

店に入ると、入口付近には新刊が積まれている。その横にはベストセラーがあり、雑誌棚にはその月の表紙が一斉にこちらを向いていた。

そこで初めて、

「こんな本が出たのか」

「この作家は最近人気があるらしい」

「こんな雑誌が創刊されたのか」

と気づく。

いまであれば検索サイトやSNS(Social Networking Service)が担っている「世の中で何が起きているのかを発見する機能」を、当時の書店はかなりの部分まで担っていたのである。

書店は単なる小売店ではなかった。

情報の入口だった。

雑誌棚は、その時代の社会そのものだった

昭和の書店を思い出すとき、現在以上に大きな存在感を持っていたのが雑誌である。

週刊誌、月刊誌、漫画雑誌、文芸誌、女性誌、男性誌、音楽誌、映画誌、クルマ雑誌、オートバイ雑誌、鉄道雑誌、カメラ雑誌、無線雑誌、コンピュータ雑誌、模型雑誌。

さらに子ども向けの学習雑誌まであった。

雑誌棚を一周するだけで、その時代の人々が何に関心を持っているのかが見えた。

昭和後期になると、若者向けの雑誌文化はさらに大きくなる。

『POPEYE』のような雑誌を見れば、アメリカのファッションや生活文化を知ることができた。クルマやバイクの雑誌を開けば、まだ実際には所有できない乗り物について想像を膨らませることができた。オーディオ雑誌を読めば、スピーカーやアンプを比較しながら、自分なりの理想のシステムを考えることができた。

旅行雑誌を開けば、まだ行ったことのない町があった。

雑誌は情報媒体であると同時に、未来を想像する装置でもあった。

だから昭和の書店では、買う予定のない雑誌まで眺めた。

その偶然が重要だったのである。

文庫本には独特の存在感があった

昭和の書店を語るうえで欠かせないのが文庫本である。

新潮文庫、岩波文庫、角川文庫、講談社文庫、中公文庫、集英社文庫など、それぞれの出版社が異なる性格を持っていた。

文庫本は安価で、小さく、持ち歩くことができた。

学生や若い会社員にとって、それは非常に重要だった。

一冊の単行本を買うことには少し決断が必要でも、文庫本ならば比較的手軽に買える。学校帰りや仕事帰りに一冊買い、電車の中や喫茶店で読むという生活が成立していた。

特に1970年代から1980年代になると、文庫は単なる廉価版ではなく、若者文化の一部にもなっていく。

角川文庫の存在はその象徴だった。

映画と小説が結びつき、広告と出版が結びつき、作家そのものが若者文化の中に入っていく。

本を読むという行為が、勉強だけでも教養だけでもなく、「自分がどのような人間でありたいか」を表す行為になっていた。

書店の文庫棚には、小さな本が並んでいた。

しかし、その一冊一冊の向こうには、かなり大きな世界があった。

本屋には「知らない本」があった

現在、本を買うときには検索することが多い。

作家名や書名を入力し、目的の本を見つけて購入する。

これは極めて便利である。

一方、昭和の書店では少し違う買い方が多かった。

最初から買う本を決めずに店へ行くのである。

棚を眺めていると、知らない作家の本が目に入る。

タイトルが気になる。

表紙が気になる。

裏表紙の紹介文を読む。

少し迷った末に買う。

この過程には検索とは違う性質がある。

検索では、基本的には「すでに知っている何か」を探す。

ところが棚を見る行為では、「存在すら知らなかった何か」に出会える。

これは書店という空間が持っていた重要な機能だった。

文学を読む人が哲学の棚に迷い込み、歴史を読んでいた人が科学書を手に取り、小説を買いに来た学生が隣に置かれていた評論を読む。

そうした偶然の移動があった。

書店では、知識がカテゴリーごとに完全には分断されていなかったのである。

小さな町にも本屋があった

昭和の町を思い出すと、駅前や商店街に小さな書店があった。

現在の大型書店のように何十万冊もの在庫を持つわけではない。

間口の狭い店も多かった。

しかし、そこには新聞や雑誌、新刊、文庫、参考書、漫画などが並んでいた。

学校の近くなら参考書や辞書が充実していたし、町によっては教科書を扱う書店もあった。

家族経営の店では、店主が長年そこに立っていた。

客の顔を覚えていることさえあった。

新しい雑誌が発売される曜日になると店に行く。

発売日になると漫画雑誌を買う。

夏休み前になると課題図書を見る。

受験が近づけば参考書を探す。

書店は生活の中に組み込まれていた。

本を買うという目的だけでなく、「ちょっと本屋を見てくる」という行動そのものが成立していたのである。

参考書売り場は学生にとって重要な場所だった

昭和の書店には、学生にとってもう一つ特別な場所があった。

参考書売り場である。

現在ならインターネットで評判を調べ、通販で購入することもできる。しかし当時は、実際に本を開いて比べることが非常に重要だった。

同じ数学でも、説明の細かい参考書、問題中心の問題集、受験向けの分厚い本が並んでいる。

英和辞典を何冊も比較する。

赤本と呼ばれる大学入試過去問題集を探す。

資格試験の本を眺める。

それらを買うことは、ときには「これから勉強を始める」という決意のようなものでもあった。

新品の参考書を持って店を出ると、少しだけ賢くなったような気持ちになった人もいたのではないだろうか。

もちろん、買っただけで勉強したことにはならない。

それでも書店には、人間に何かを始めさせる力があった。

書店は暇つぶしのできる場所でもあった

昭和にはスマートフォンがなかった。

駅で人を待つ時間も、バスを待つ時間も、現在のように画面を眺めて過ごすことはできない。

そういうとき、書店に入ることがあった。

待ち合わせまで20分ある。

本屋を見る。

雑誌を眺める。

文庫本を見る。

気づけば一冊買っている。

書店は、数少ない「一人で入っても不自然ではなく、何も買わなくてもある程度の時間を過ごせる場所」でもあった。

この意味でも、書店は都市や町の文化的な公共空間に近い役割を持っていた。

図書館ほど静粛ではなく、喫茶店のように注文も必要ない。

商品を売る場所でありながら、同時に文化を眺める場所でもあった。

書店の匂いと音

文化の記憶は、情報だけでできているわけではない。

書店には匂いがあった。

新しい本の紙とインクの匂い。

古い店なら、少し時間の経った紙の匂いも混じっていた。

店内には音楽が流れていることもあったが、基本的には静かだった。

本を棚から抜く音。

ページをめくる音。

レジの音。

雑誌を立ち読みする人々。

こうしたものまで含めて、昭和の書店という空間だった。

インターネット書店では、本の情報は得られる。

電子書籍なら、その場で読むこともできる。

しかし匂いも、棚の高さも、隣で別の本を見ている人の存在もない。

便利さとは別の次元で、失われたものがある。

なぜ書店に長くいられたのか

昭和の書店では、目的もなく長い時間を過ごすことができた。

なぜだったのだろうか。

一つには、情報が不足していたからだろう。

現在は情報が多すぎる。

知りたいことがあれば検索すればよい。

動画を見ることもできる。

レビューも読める。

昭和は逆だった。

情報を得られる場所そのものが少なかった。

だから書店に並ぶ本や雑誌には、一冊一冊に現在以上の情報価値があった。

もう一つは、選択肢が適度に限られていたことである。

インターネット上ではほぼ無限の本から選ぶことができる。

しかし町の書店に並んでいる本は有限である。

その限られた棚の中から選ぶ。

これは不便である。

しかし、人間にとって有限の選択肢は必ずしも悪いことではない。

目の前にあるものをじっくり見るからである。

消えていったものは、本だけではない

昭和から平成、そして令和へと移る中で、多くの町から書店が姿を消した。

その原因を単純に「本を読まなくなったから」と考えるのは十分ではない。

大型店への集中、インターネット通販、電子書籍、雑誌販売の減少、人口減少、商店街の衰退など、複数の変化が重なっている。

そして書店が一軒なくなると、単に本の販売場所が一つ減るだけではない。

新しい本を偶然見つける場所がなくなる。

雑誌の表紙から世の中を眺める場所がなくなる。

子どもが参考書を選ぶ場所がなくなる。

待ち合わせまで本を眺める場所がなくなる。

町から小さな文化的空間が一つ消える。

この意味で、書店の減少は流通の変化だけでは説明できない。

町の文化構造そのものの変化でもある。

昭和の書店にあったもの

では、昭和の書店には何があったのだろう。

本があった。

雑誌があった。

文庫があった。

参考書があった。

しかし、それだけではない。

まだ知らない作家との出会いがあった。

行ったことのない土地への想像があった。

買えないクルマやオーディオへの憧れがあった。

いつか読みたい難しい本があった。

自分とは違う世界で生きる人々の物語があった。

そして何より、「知らないものを見に行く場所」があった。

現在は昭和よりはるかに多くの情報を、瞬時に手に入れられる。

それは間違いなく進歩である。

それでも、ときどき思う。

何を探しているのか自分でも分からないまま書店に入り、棚から一冊を取り出し、その本によって自分の興味そのものが変わってしまう。

昭和の書店にあった最も大切なものは、本そのものではなく、そんな偶然の出会いだったのかもしれない。

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三島由紀夫の『金閣寺』を読み終えたとき、もっとも大きな疑問として残るのは、主人公・溝口がなぜ金閣を燃やしたのかということである。

金閣が嫌いだったからではない。むしろ逆である。

溝口にとって金閣は、幼いころから憧れ続けた、この世でもっとも美しいものだった。それほど愛し、崇拝した存在を、なぜ最後には自らの手で焼き払わなければならなかったのか。

この矛盾を理解するには、『金閣寺』を単なる放火事件の小説として読むのではなく、「美に支配された人間が、その支配から逃れようとする物語」として読む必要がある。

金閣は最初から現実の建物ではなかった

溝口にとって金閣は、実物を見る以前から特別な存在だった。

父親から金閣の美しさについて繰り返し聞かされるうちに、少年の心の中には現実の建築物とは別の「理想の金閣」が作られていく。

ここが重要である。

普通であれば、人は美しいものを見て感動する。しかし溝口の場合、順序が逆だった。実物を見る前に、頭の中ですでに絶対的な美が完成していたのである。

そのため、実際の金閣を初めて見たとき、現実の建物は想像していたほど圧倒的ではない。

ところが、それによって金閣への信仰が消えるわけではない。むしろ時間が経つにつれて、現実の金閣と心の中の金閣が再び重なり、彼にとって金閣は単なる寺院ではなくなっていく。

金閣は「美そのもの」に近い存在になっていった。

そして、この美が次第に溝口の人生を支配する。

溝口は自分自身を「美の反対側」に置いている

溝口には吃音がある。

彼にとって吃音は単なる話しにくさではない。自分と他人との間にある壁として意識されている。

言葉を自由に発することができないため、他者との関係に自信を持てない。そこから、自分は周囲の人間とは違うという意識が強くなっていく。

さらに溝口は、自分自身を美しい人間だとは考えていない。

つまり彼の世界には、

完全な美としての金閣

と、

不完全な存在としての自分

という対立がある。

この距離が大きければ大きいほど、金閣は美しくなる。

しかし同時に、自分自身は惨めになる。

金閣を愛することと、自分を否定することが、溝口の中ではほとんど同じことになってしまうのである。

この構造が、『金閣寺』の悲劇の中心にある。

金閣は溝口が現実へ進むことを妨げる

さらに重要なのは、金閣が単に眺める対象ではなく、溝口の行動を阻む存在として描かれていくことである。

溝口は女性との関係を持とうとする。しかし現実の世界に踏み込もうとする重要な場面になると、彼の意識の中に金閣が現れる。

本来、美しいものは人生を豊かにするはずである。

ところが溝口の場合は逆だった。

金閣の美しさがあまりに完全であるため、現実の恋愛や欲望、人間関係がすべて不完全なものに見えてしまう。

現実の女性より金閣のほうが美しい。

現実の経験より、頭の中にある美のほうが完全である。

そうなると、人は現実を生きられなくなる。

金閣は溝口にとって憧れであると同時に、現実世界へ出ていくことを妨げる巨大な壁になっていった。

戦争中、溝口は金閣が焼けることを期待していた

『金閣寺』を理解するうえで見逃せないのが、戦争である。

太平洋戦争末期、京都も空襲を受ける可能性があった。金閣もいつ焼失するかわからない。

この状況は、溝口に奇妙な感覚を与える。

永遠に存在するように思われた金閣が、戦争によって失われるかもしれない。

つまり、自分と金閣が同じ「滅びる世界」に存在することになる。

それまで金閣は、自分とは別の次元にある絶対的な美だった。しかし焼失する可能性を持った瞬間、金閣もまた有限な存在になる。

溝口にとって、それはある意味で救いだった。

ところが戦争は終わり、金閣は焼けなかった。

人間が死に、都市が焼かれ、社会が大きく変わったにもかかわらず、金閣は以前と同じ姿で残った。

ここで金閣は再び、溝口の前に圧倒的な存在として立ちはだかる。

自分の人生は変化する。

人間は老い、失敗し、死ぬ。

しかし金閣は変わらない。

この不均衡が、溝口にとって次第に耐え難いものになっていく。

「美しいから壊したい」という逆説

普通に考えれば、美しいものは保存したいと思う。

しかし『金閣寺』では、美が完全であればあるほど、それを破壊したいという逆説が生まれる。

なぜか。

金閣が存在し続ける限り、溝口は金閣と比較され続けるからである。

もちろん、実際に誰かが彼と金閣を比較しているわけではない。比較しているのは溝口自身である。

金閣を見るたびに、自分の不完全さが意識される。

金閣が美しければ美しいほど、自分の人生が貧弱に感じられる。

つまり溝口にとって、

金閣の存在=自分の劣等感を永続させる装置

になってしまった。

そう考えると、彼に残された選択肢は極端なものになる。

自分自身を変えるか。

金閣を消すか。

現実の人間関係を通じて自分を変えていくことができなかった溝口は、後者を選ぶ。

それが放火だった。

金閣を燃やすことは「美を所有する」ことでもあった

しかし、単に金閣が邪魔だから燃やしたと考えるだけでは、『金閣寺』の複雑さは十分に説明できない。

放火には、もう一つの意味がある。

それは、金閣を自分の行為の中へ取り込むことである。

それまで金閣は、溝口とは関係なく存在していた。

彼が苦しんでも、恋愛に失敗しても、人生に絶望しても、金閣は変わらない。

その意味で、金閣は溝口を必要としていない。

しかし自分が火をつければ事情は変わる。

金閣の運命を決めるのは溝口になる。

崇拝するだけだった人間が、美しいものの生死を決定する側へ回るのである。

これは非常に歪んだ形ではあるが、金閣を自分のものにしようとする行為とも解釈できる。

手に入らないものを破壊することで、初めてその存在に決定的に関与する。

溝口にとって放火は、美から逃げる行為であると同時に、美をもっとも強烈な形で自分と結び付ける行為でもあった。

柏木は「現実を生きる別の方法」を見せる

作品の中で溝口と対照的な人物が柏木である。

柏木もまた、自分の身体に強いコンプレックスを持っている。

しかし、そのコンプレックスへの向き合い方が溝口とは違う。

溝口が自分の劣等感によって現実から遠ざかっていくのに対し、柏木はむしろそれを利用しながら現実の人間関係の中へ入っていく。

倫理的に好ましい人物として描かれているわけではない。

それでも、柏木は「不完全な自分のまま現実を生きる」ことができる。

溝口には、それができない。

彼は完全な美にこだわり続ける。

ここに二人の決定的な違いがある。

人間は本来、不完全な存在である。

恋愛も友情も身体も人生も、不完全である。

柏木はその不完全さの中で生きる。

溝口はそれを受け入れられない。

だから最後には、不完全な自分ではなく、完全な美のほうを破壊することになる。

金閣放火は自殺ではなかった

物語の終盤で重要なのは、溝口が金閣とともに死ななかったことである。

放火という行為だけを見れば、破滅へ向かう物語のようにも見える。

しかし最後に残るのは、むしろ「生きる」という方向である。

ここに『金閣寺』の大きな転換がある。

溝口は金閣を燃やすことで、自分を支配していた絶対的な美を消した。

その結果、彼の前には不完全な現実だけが残る。

しかし、それこそが人間が生きる世界なのである。

美しくないかもしれない。

理想的でもない。

失敗するかもしれない。

それでも、自分自身が行動できる世界である。

したがって、金閣放火は単純な破滅ではない。

溝口にとっては、極端で犯罪的な方法ではあるものの、現実の人生へ戻ろうとする行為でもあったと考えることができる。

なぜ溝口は金閣を燃やしたのか

結局、溝口が金閣を燃やした理由を一つだけに絞ることはできない。

金閣への憎しみだけでもなければ、単純な劣等感だけでもない。

彼は金閣を愛していた。

しかし、その美しさに支配されていた。

金閣が完全であるほど、自分が不完全に見えた。

金閣が永遠であるほど、自分の人生が無意味に感じられた。

そして金閣が存在する限り、自分は現実の世界へ踏み出すことができないと考えるようになった。

だから彼は、美を手に入れようとするのではなく、美そのものを消すことを選んだ。

『金閣寺』の放火を理解する鍵は、ここにある。

溝口は金閣が醜かったから燃やしたのではない。美しすぎたから燃やしたのである。

そして、その美を破壊した先で初めて、完全ではない自分自身の人生を生きようとした。

『金閣寺』は、美とは何かを描いた小説であると同時に、さらに逆説的な問いを私たちに突きつける。

人間は、あまりにも完全な美を前にして、それでも自由に生きることができるのだろうか。

金閣を燃やした溝口の行動は決して肯定できない。

しかし、三島由紀夫が描こうとしたのは犯罪の是非だけではない。

人間が理想を絶対化したとき、その理想は憧れから支配へ変わることがある。

そして『金閣寺』は、その支配から逃れるために「美そのものを破壊する」という極端な地点まで追い詰められた一人の青年を描いた小説なのである。

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村上龍の『限りなく透明に近いブルー』が発表されたのは1976年である。村上龍は当時24歳。この作品で第19回群像新人文学賞を受賞し、さらに第75回芥川龍之介賞を受賞した。デビュー作がそのまま芥川賞受賞作となり、大きな社会的反響を呼んだ作品である。

しかし、約半世紀が過ぎた現在、この作品をあらためて読む意味は、当時「若者のセックスやドラッグを赤裸々に描いた小説」として話題になったことだけにはない。

『限りなく透明に近いブルー』が変えたものは、日本文学が描くことのできる対象であり、若者の描き方であり、そして日本人が文学の中でアメリカを見る角度だったのではないか。

1976年、日本文学の中に突然現れた異質な風景

物語の舞台は米軍基地周辺である。そこに暮らす若者たちは、酒、ドラッグ、セックス、音楽などに囲まれながら日々を過ごしている。

重要なのは、それらが特別な事件として描かれていないことである。

何か重大な出来事が起こり、それによって主人公が成長するという、一般的な青春小説の構造とはかなり違う。若者たちは何かを目指しているわけでもなければ、社会を変えようとしているわけでもない。ただ目の前にある刺激の中を漂っている。

有隣堂の情報紙「有鄰」に掲載された芥川賞を論じる記事でも、この作品はでも、この作品は米軍基地を背景として薬物や性の世界に生きる若者を描き、それまでの純文学の枠には収まりにくい視覚性の強い文体によって、当時の空気を伝えた作品として位置づけられている。

ここに、この小説の最初の大きな転換がある。

若者を「未来を持つ存在」として描かなくても、小説は成立するのである。

「反抗する若者」から「空白を抱えた若者」へ

戦後文学にも、既成社会に反発する若者は何度も登場してきた。

しかし、反抗するということは、裏返せば反抗すべき対象を強く意識しているということである。親の世代、社会制度、道徳、政治体制など、何かに対して「否」と言うからこそ反抗が成立する。

『限りなく透明に近いブルー』の若者たちには、その構図が弱い。

彼らが社会に適応しているわけではない。しかし、社会を変革しようとしているようにも見えない。

ここには1960年代的な若者像とは違う感覚がある。

政治的な理想を掲げて社会と対立するのでもなく、高度経済成長の中で立身出世を目指すのでもない。豊かになったはずの社会の片隅で、刺激だけが大量に存在している。

その中で人間の内側が少しずつ空洞になっていく。

『限りなく透明に近いブルー』は、その空洞そのものを青春として描いた小説だったと考えることができる。

アメリカは「憧れ」ではなくなった

戦後日本の若者文化を考えるとき、アメリカの存在は非常に大きい。

音楽、映画、ファッション、自動車、オートバイ、雑誌。1950年代から1970年代にかけて、多くの若者にとってアメリカは豊かさや自由、新しい生活様式を象徴する存在でもあった。

しかし、『限りなく透明に近いブルー』に現れるアメリカは、それほど単純ではない。

ここにあるのは観念としてのアメリカではなく、米軍基地を通じて物理的に日本へ入り込んでいるアメリカである。

音楽がある。酒がある。ドラッグがある。外国人兵士がいる。若者たちは、その文化と直接接触している。

だからこそ、この小説のアメリカには明るい憧れだけではない、生々しさがある。

片岡義男の作品にもアメリカ文化は濃厚に存在する。しかし、片岡義男が描くアメリカが、オートバイや道路、音楽、男女関係などを通じて日本の日常とは少し違う自由な空間を想像させることが多いのに対し、村上龍の初期作品に現れるアメリカはもっと暴力的で身体的である。

同じ1970年代の日本からアメリカを見ていても、その距離感はかなり違う。

この違いを知ると、村上龍と片岡義男を同じ時代に読む面白さが見えてくる。

村上龍は「説明」を減らした

この作品を特徴づけているもう一つの要素が、文章の視覚性である。

登場人物が何を考えているのかを延々と説明するのではなく、身体、光、色、音、匂い、食べ物、昆虫、血液、部屋の中にある物などが次々と視界に入ってくる。

文章を読んでいるというより、カメラで撮影された映像を見せられているような感覚になることがある。

『限りなく透明に近いブルー』を論じた研究者の対談でも、主人公リュウは積極的に行動する人物というより「見る」側の人物として捉えられている。周囲で起きている出来事を観察し続け、自分自身さえ空虚な存在として認識していくという読み方である。

これは重要である。

作者が「この若者たちは間違っている」と説明するわけではない。

逆に「彼らこそ新しい時代の若者なのだ」と賛美するわけでもない。

そこにあるものを見せる。

読者は、その映像の意味を自分で考えなければならない。

この距離感が、『限りなく透明に近いブルー』を単なる風俗小説では終わらせなかった一つの理由だろう。

なぜタイトルは「ブルー」なのか

そして、この小説を単なる退廃的な若者の記録から少し違う場所へ引き上げているのが、タイトルである。

「限りなく透明に近いブルー」。

非常に美しい言葉である。

小説の中で描かれている世界の激しさや汚れとは、一見すると正反対に思える。

物語の終盤ではガラスの破片と「ブルー」が結びつき、主人公自身の空虚さとも重なっていく。この部分についても、作品論では主人公が自分を人形や空っぽな存在として捉えていることと、タイトルの「限りなく透明に近いブルー」が密接に関連していると論じられている。

透明とは、何もないということでもある。

しかし完全に透明なのではなく、わずかに青い。

そこにはまだ色が残っている。

もし、この小説を単なるドラッグやセックスの物語として読んでしまえば、このタイトルの美しさは説明できない。

むしろ作品全体を覆っているのは、刺激の強さとは反対側にある空虚さなのではないか。

激しいことが起き続けているのに、中心には何もない。

その奇妙な感覚を、「限りなく透明に近いブルー」という言葉ほど的確に表した題名はなかったように思える。

芥川賞そのものの見え方も変えた

この作品は文学史だけでなく、出版史の上でも大きな存在になった。

国立国会図書館は、芥川賞受賞を契機として作品がマスメディアに大きく取り上げられ、ベストセラーになった代表的な事例として、石原慎太郎の『太陽の季節』とともに『限りなく透明に近いブルー』を紹介している。

日本ペンクラブの電子文藝館に掲載された文章では、同作が130万部を超えたと紹介されている。

ここで興味深いのは、「純文学」と「若者文化」が大規模に接続したことである。

芥川賞作品は文学好きだけが読むものではなくなった。

若い作家が、若者の現実を、若者自身の感覚に近い文章で描き、それを大量の読者が読む。

文学が社会現象になる。

『限りなく透明に近いブルー』は、その一つの象徴になった。

「純文学らしさ」の境界を動かした

もちろん、一冊の小説だけが日本文学を変えた、と考えるのは正確ではない。

1970年代の文学はすでに大きく変化していたし、村上龍の翌年には村上春樹が『風の歌を聴け』を書き始め、1979年に群像新人文学賞を受賞することになる。

後に「二人の村上」と呼ばれる作家たちは、それぞれ全く異なる方法で、それまでの日本文学とは違う感覚を持ち込んだ。

有隣堂の情報紙「有鄰」に掲載された芥川賞を論じる記事でも、この作品はも、村上龍と村上春樹を、その後の現代文学の状況を変えていった存在として位置づけている。

だから『限りなく透明に近いブルー』を「この作品以前と以後で文学が完全に変わった」と評価する必要はない。

むしろ重要なのは、文学の境界線を動かしたことである。

こんな若者を主人公にしてもいい。

こんな生活を書いてもいい。

思想を語らなくてもいい。

登場人物を成長させなくてもいい。

作者が善悪を説明しなくてもいい。

音楽やドラッグやセックスや米軍基地といった、当時の若者が実際に接触していた文化そのものを純文学へ持ち込んでもいい。

その範囲を大きく広げた作品の一つが、『限りなく透明に近いブルー』だったのである。

半世紀後に読むと、むしろ「静かな小説」に見えてくる

1976年当時、この作品を読んだ人が最初に感じたのは、その刺激の強さだっただろう。

しかし現代から読むと、別の姿も見えてくる。

大量の刺激に囲まれながら、何を求めているのか分からない若者。

人とつながっているようで、深くはつながっていない人間関係。

外国文化や商品や音楽が身の回りにあふれているのに、自分自身が何者なのかは分からない。

これは1976年だけの問題なのだろうか。

スマートフォンを通じて膨大な映像、音楽、商品、情報、人間関係が流れ込み続ける現在の方が、むしろ理解しやすい部分さえある。

そう考えると、『限りなく透明に近いブルー』が残したものは、ドラッグや性を文学に持ち込んだという表面的な新しさではなかったことが分かる。

人間は刺激に満たされれば、満たされるのか。

自由になれば、自分自身を見つけることができるのか。

豊かな社会では、若者は何を求めればよいのか。

村上龍は、その問いに答えてはいない。

ただ、答えのない状態そのものを一冊の小説にした。

だから『限りなく透明に近いブルー』は、1976年のスキャンダラスなベストセラーとして終わらなかった。

この作品が変えたのは、文学の中で「何を書くことができるか」という境界だけではない。

何も見つけられない若者を、その何も見つけられない状態のまま描いても文学になる。

そのことを、日本の読者の前にはっきりと示した。

『限りなく透明に近いブルー』の本当の新しさは、おそらくそこにある。

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