リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

三島は右、大江は左。それだけで二人を理解できるのか

三島由紀夫と大江健三郎。

戦後日本文学を代表する作家として、この二人ほど対照的に語られやすい人物も少ない。

三島由紀夫。

天皇。

日本文化。

自衛隊。

楯の会。

1970年11月25日の市ヶ谷での行動と自決。

一方、大江健三郎。

戦後民主主義。

広島。

核兵器。

平和。

憲法。

1994年のノーベル文学賞。

このように並べれば、

三島=保守・右翼 大江=リベラル・左派

という構図が成立するように見える。

政治的位置を大きく整理するなら、この違いを無視することはできない。

しかし、それだけで二人を比較すると、非常に重要な部分が見えなくなる。

なぜなら二人とも、

「敗戦後の日本とは何なのか」

という同じ巨大な問題から出発しているからである。

三島は、戦後日本によって失われたものを見ようとした。

大江は、敗戦後に獲得されたものを守り、さらに徹底しようとした。

三島は、

日本文化、

天皇、

歴史、

身体、

死、

国家、

へ向かった。

大江は、

民主主義、

個人、

核、

広島、

沖縄、

少数者、

へ向かった。

方向は大きく異なる。

しかし二人とも、

経済的に豊かになれば、それで戦後日本は完成する、

とは考えなかった。

だからこの二人を比較する意味は、

どちらが正しかったかを決めることではない。

同じ戦後日本を見ながら、なぜこれほど異なる答えへ到達したのか。

そこを考えることにある。

1 二人は同じ「戦後作家」でも世代が少し違う

三島由紀夫は1925年生まれである。

大江健三郎は1935年生まれである。大江は1994年にノーベル文学賞を受賞し、2023年に87歳で亡くなった。ノーベル財団も1935年1月31日生まれ、2023年3月3日没としている。

二人の年齢差は10歳である。

この10年は大きい。

三島は敗戦時に20歳だった。

大江は10歳だった。

つまり三島には、

戦前から戦後へ、自分自身の青年期の途中で世界が断絶した

という経験がある。

一方、大江の場合には、

敗戦後の新しい日本で青年期を形成した

という側面が強い。

大江自身も1994年のノーベル賞講演で、第二次世界大戦中、四国の山村で少年時代を送っていたことから語り始めている。

この世代差は、二人の戦後観を考える重要な前提になる。

2 三島にとっての戦後~「何かが失われた」という感覚

三島の文学や評論を読むと、

戦後日本に対する強い違和感が繰り返し現れる。

もちろん三島を、

「昔の日本へ戻りたかっただけの作家」

と整理することはできない。

三島自身は西欧文学を深く読み、非常に近代的な小説技法を使った作家でもある。

しかし政治・文化論では、

日本の歴史と文化が、

戦後の社会の中でどのように連続するのか、

という問題を強く意識した。

その代表的な文章の一つが『文化防衛論』である。

同書は1969年に刊行され、戦後文化が成熟し学生運動も激しかった時期に、「最後に護られねばならぬ日本」をめぐって展開された評論・対談などを収録している。

三島にとって重要だったのは、

日本が経済成長することだけではない。

日本が日本であり続けるとはどういうことなのか

という問題だった。

3 大江にとっての戦後~「新しく始めることのできる日本」

一方、大江にとって戦後は違う意味を持った。

大江は戦後日本の民主主義を、自分自身の思想形成に深く関係するものとして受け止めた。

その背景には、

敗戦、

戦争体験、

広島・長崎、

日本国憲法、

といった問題がある。

大江は1994年のノーベル賞講演を「Japan, the Ambiguous, and Myself」、日本語では一般に『あいまいな日本の私』として知られる題で行った。そこでは、日本が近代化の中で西洋との関係に引き裂かれ、戦後には民主主義と非軍事化を新しい方向として選んだことについて論じている。

つまり大江にとって戦後は、

失われた伝統を回復する時代

というより、

戦前とは異なる原理によって日本を作り直す可能性

を持った時代だった。

ここに三島との大きな分岐がある。

4 しかし二人とも「戦後日本はこれでよい」とは考えなかった

この違いだけを見ると、

三島は戦後を否定し、

大江は戦後を肯定した、

と整理したくなる。

しかし、それも単純すぎる。

大江は戦後日本の現実を無条件に肯定したわけではない。

核兵器。

広島。

沖縄。

国家。

少数者。

こうした問題について、戦後日本が掲げた民主主義や平和主義を本当に実現しているのかを繰り返し問うた。

東京大学の大江健三郎文庫には、原稿・関連資料・書誌情報が保存されており、大江の文学と公共的活動を研究する基盤になっている。 つまり大江も、

現実の戦後日本

と、

戦後日本が掲げた理念

の間に大きな距離を見ていた。

その点では三島と共通している。

二人とも、

現実の日本に満足していなかった。

違ったのは、

何を基準に現実を批判したのか

なのである。

5 三島は「失われた連続性」から戦後を批判した

三島の戦後批判を大きく整理すれば、

戦後によって、

歴史、

文化、

天皇、

国家、

身体、

死、

といったものの意味が切断されたのではないか、

という問題になる。

三島の天皇論は、単純に戦前の政治制度をそのまま復活させようという議論と同一ではない。

『文化防衛論』を中心とする三島の天皇論については、天皇を文化概念として捉える側面が研究されている。

三島にとって天皇は、

単なる行政権力者というより、

日本文化の歴史的連続性を象徴する存在

として重要だった。

ここを理解しないと、

三島=天皇制支持

という政治ラベルだけになってしまう。

6 大江は「戦後民主主義の未完成」から日本を批判した

大江の場合は逆方向である。

大江が基準にしたのは、

民主主義、

個人の尊厳、

平和、

核への抵抗、

などだった。

戦後日本がそうした理念を掲げた以上、

現実の日本もその原理へ近づくべきだ、

と考える。

だから大江にとって問題なのは、

戦後によって伝統が失われたこと

というより、

戦後が掲げた理念が十分に実現されていないこと

だった。

つまり二人の批判は、

三島~

「戦後によって何を失ったのか」

大江~

「戦後が約束したものを本当に実現したのか」

という違いとして考えることができる。

7 三島にとって「天皇」は何だったのか

三島を語る場合、天皇の問題を避けることはできない。

しかし、

三島は天皇を政治的独裁者にしようとした、

と単純化するのも適切ではない。

三島の政治・文化論における天皇は、

日本の歴史、

祭祀、

文化、

共同体、

と結び付いた存在として考えられている。

彼が問題視したのは、

戦後日本が、

経済、

消費、

生活水準、

という方向では豊かになる一方、

自分たちが何を共有する国家なのかを説明できなくなること

だった。

ここで天皇が、

文化的な統合原理として現れる。

もちろん、この考え方には多くの批判があり得る。

日本文化を一つの原理へまとめることが可能なのか。

文化的多様性をどう扱うのか。

天皇を共有しない人々はどう位置付けられるのか。

こうした問題は残る。

8 大江にとって「民主主義」は何だったのか

大江にとって民主主義は、

単なる政治制度ではなかった。

戦後を生きる人間の基本的な価値に近い。

大江はノーベル賞講演でも、日本が戦後に民主主義と非軍事化を自らの新しい道として選んだことを重視している。

ここには三島との鮮明な違いがある。

三島は、

戦後制度だけでは日本の文化的根拠を支えられない、

と考える。

大江は、

戦後民主主義こそ、過去の破局を繰り返さないための重要な原理だ、

と考える。

二人は同じ「戦後」を、

ほぼ逆方向から評価したのである。

9 文化勲章辞退に表れた大江の立場

1994年、大江はノーベル文学賞を受賞した。

同じ年、日本国内では文化勲章の授与を辞退したことでも大きく注目された。

当時報じられた理由は、自分は戦後民主主義の人間であり、民主主義に勝る権威や価値観を認めないという趣旨のものだった。

この行動は、

大江が単に政治について発言する作家だったのではなく、

自分自身の公的な立場についても、戦後民主主義との整合性を意識していた

ことを象徴する出来事として読むことができる。

三島が天皇を文化的な中心として考えたのに対し、

大江は国家的・天皇的権威より民主主義の価値を優先した。

ここでは両者の違いが極めて鮮明になる。

10 しかし三島も単純な「国家権力礼賛」ではない

ここで三島についても注意が必要である。

三島を、

国家権力を無条件に支持した作家

とするのは正確ではない。

三島は戦後日本の国家そのものに強い不満を持っていた。

その不満の対象には、

日本国憲法、

安全保障、

自衛隊の位置付け、

対米関係、

などがあった。

つまり三島は、

当時の日本国家を守ろうとしたというより、

当時の日本国家を不完全なものとして批判していた

のである。

だから三島の国家観は、

現状維持型の保守主義

とも少し違う。

11 三島事件~文学と政治が最終的に重なった瞬間

1970年11月25日、三島は楯の会の会員4人とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地へ入り、東部方面総監を拘束し、自衛隊員に向けて演説した後、自決した。毎日新聞の写真資料にも同日の事件が記録されている。

三島の最後の声明文「檄」は全集にも収録されている。国立国会図書館のレファレンス事例でも、その所在が確認されている。

ここでは三島の文学、

身体、

死、

国家、

政治、

が一つの行為へ重なった。

だから三島を読む場合、

文学作品と政治行動を完全に切り離すことも難しい。

しかし逆に、

すべての小説を1970年の自決から逆算して読むことも危険

である。

三島文学は政治思想だけでは説明できないからである。

12 大江は「行動する文学者」だったが、方法は三島と正反対だった

大江も文学だけに閉じこもった作家ではない。

核兵器。

広島。

沖縄。

憲法。

社会問題。

などについて長期間公的発言を続けた。

しかし方法は三島と大きく異なる。

大江が選んだのは、

文章。

講演。

市民運動。

社会的発言。

といった方法だった。

三島の場合には、

最終的に身体そのものを政治的表現へ変えた。

大江の場合には、

言葉と市民社会の中で主張し続けること

を選んだ。

この対照は非常に大きい。

13 「身体」の三島と「言葉」の大江

三島文学を考える上で身体は重要である。

三島自身、肉体鍛錬を行い、

身体、

美、

死、

行為、

を結び付けていった。

彼には、

言葉だけでは現実へ到達できない、

という感覚が強くなっていったと読むことができる。

一方、大江は極めて言語的な作家である。

複雑な文章。

自己検証。

引用。

歴史。

政治。

文学。

を通して問題を考える。

大きく整理すれば、

三島は、

言葉を身体と行動へ近づけようとした作家

であり、

大江は、

言葉によって世界の複雑さを引き受け続けようとした作家

と見ることもできる。

ただしこれは比較のための整理であり、二人の全作品をこの一点へ還元することはできない。

14 三島の「明晰さ」と大江の「あいまいさ」

文章の方向にも興味深い違いがある。

三島は、

美。

死。

天皇。

文化。

国家。

といった概念を、

非常に強い輪郭を持たせて提示する傾向がある。

大江は逆に、

矛盾。

曖昧さ。

複数の声。

弱さ。

周縁。

を残そうとする。

1994年のノーベル賞講演で、大江が自ら選んだ言葉が、

「ambiguous」~あいまいな

だったことは象徴的である。

大江は、日本を一つの明確な本質によって定義することそのものへ慎重だった。

ここにも三島との差が見える。

15 三島は「日本とは何か」を一つの中心から考えようとした

三島にとって、

日本文化には何らかの中心が存在する。

歴史。

伝統。

天皇。

古典芸能。

武士的倫理。

そうしたものを通して日本を考える。

だから三島の思考は、

中心を探す思考

だと言える。

日本とは何か。

何を守れば日本なのか。

何が失われれば日本ではなくなるのか。

という問いである。

『文化防衛論』という題名そのものが、

守るべき文化が存在する

という前提に立っている。

16 大江は「中心から外された人」から日本を考えた

大江の文学には、

周縁に置かれた存在が繰り返し現れる。

社会から外れた人。

弱い人。

障害を持つ人。

地方。

広島の被爆者。

国家の中心的物語から外れる人々。

大江は、

日本の中心とは何か

という問いより、

中心から見えなくなっている人間は誰か

という方向へ向かう。

ここに三島との根本的な違いがある。

三島は中心を回復しようとする。

大江は中心によって消されるものを見ようとする。

17 広島~大江が戦後日本を見る重要な場所

大江の思想と文学を考える上で、広島は極めて重要である。

『ヒロシマ・ノート』などを通じて、大江は被爆者や核兵器の問題を長期間考え続けた。

大江にとって広島は、

過去の一事件

ではない。

近代国家。

戦争。

科学。

核。

人間の尊厳。

を問い続ける場所である。

ここから大江の平和・核に関する社会的発言もつながっていく。

三島が、

日本文化の断絶

を戦後の核心問題として見るとすれば、

大江は、

戦争と核の経験を経た国家が、どうすれば再び人間を犠牲にしない社会になれるのか

を重要な問題とした。

18 二人の「日本」はどちらも単純な現状肯定ではない

ここまでを見ると、

三島は日本を愛した。

大江は日本を批判した。

という対立に見えるかもしれない。

しかしこれも違う。

三島は現実の日本を激しく批判した。

大江も日本社会を批判しながら、日本語で日本社会について書き続けた。

つまり二人とも、

現実の日本と、自分が望む日本との距離

に苦しんだ作家である。

違うのは理想像だった。

三島~

文化的連続性を回復した日本。

大江~

戦後民主主義をより徹底した日本。

という方向である。

19 二人とも「経済成長だけでは人間は満たされない」と考えた

戦後日本は高度経済成長によって急速に豊かになった。

生活水準が向上する。

消費社会が拡大する。

都市化が進む。

しかし三島も大江も、

経済成長だけで日本社会の問題が解決した

とは考えなかった。

三島には、

豊かさの中で文化的中心が失われる、

という危機感があった。

大江には、

経済的繁栄の背後に、

広島、

沖縄、

核、

社会的弱者、

などの問題が残されるという意識があった。

したがって二人は、

政治思想は反対でも、

高度成長社会への違和感

という点では意外に近い。

20 三島は「強さ」を、大江は「弱さ」をどう見たか

二人の文学を比較すると、

人間の強さと弱さに対する視線にも違いがある。

三島の作品では、

美しい身体。

意志。

決断。

死。

英雄性。

といったものが強い魅力を持つ。

もちろん三島文学には弱い人間も多く登場するが、その弱さと理想的な美との緊張が作品を生む。

一方、大江文学では、

弱さ。

傷。

障害。

失敗。

周縁。

を抱えた人間が重要になる。

大江は、

弱さを克服して完全な人間になる、

という方向だけではなく、

弱さを抱えたまま他者と生きる可能性

を探る。

ここにも二人の戦後的人間像の違いがある。

21 「個人」を重視する点では意外に共通している

それでも二人には重要な共通点がある。

どちらも、

国家や社会の中へ完全に溶け込んだ人間

を描いた作家ではない。

三島の登場人物も、

社会から孤立する。

欲望を抱える。

美への執着を持つ。

自分だけの世界を作る。

大江の登場人物も、

社会の中で葛藤し、

個人として選択を迫られる。

二人とも、

近代的な「個人」の孤独を描いた作家

なのである。

ここを見ると、

三島=集団主義、

大江=個人主義、

と単純には分けられない。

22 なぜ作家が政治について語ったのか

現在では、

小説家は文学だけを書けばよい。

政治は政治学者へ任せればよい。

という考え方もある。

しかし三島と大江の時代には、

文学者が社会問題について公に語ることは現在ほど珍しくなかった。

それは、

戦後日本において作家が、

人間、

社会、

国家、

歴史、

について考える公共的知識人でもあったからである。

三島と大江は、その意味で二人とも、

戦後型知識人としての作家

だった。

思想は反対でも、

「作家は社会について語る資格と責任を持つ」

という点では共通していたと見ることができる。

23 三島の行動は文学によって正当化されるのか

三島について語る場合、一つ慎重に区別しなければならない。

優れた文学を書いたこと

と、

政治行動が正しかったこと

は別である。

文学的価値によって、

1970年の行動を政治的に正当化することはできない。

逆に、

政治的立場に反対だから文学作品にも価値がない、

ということにもならない。

ここは重要である。

作品の評価と政治行動の評価は、関連させながらも区別する必要がある。

それをしなければ、

三島支持=文学評価、

三島批判=文学否定、

という不毛な二択になってしまう。

24 大江の政治的発言も文学的権威だけで正しいとは言えない

これは大江についても同じである。

ノーベル文学賞を受賞したからといって、

大江の政治的主張が自動的に正しいわけではない。

文学的才能。

社会分析。

政治判断。

は別の能力である。

したがって大江の、

核。

憲法。

沖縄。

国家。

についての主張も、

内容それ自体によって検討されるべき

である。

この区別をしなければ、

ノーベル賞作家だから正しい、

という権威主義になってしまう。

二人を公平に比較するためには、

三島についても大江についても、

作家としての評価と政治的評価を分ける必要がある。

25 二人は本当に「正反対」だったのか

ここで記事の題名へ戻ろう。

三島と大江は、

戦後日本を正反対の方向から考えた二人

なのか。

大きな政治的方向としては、

確かに非常に遠い。

天皇。

憲法。

軍事。

戦後民主主義。

国家。

について、二人の立場には大きな隔たりがある。

しかし、

問題意識の深い部分では共通点もある。

二人とも、

戦後日本とは何か

を問い続けた。

二人とも、

経済成長だけでは社会を評価しなかった。

二人とも、

文学を社会から隔離しなかった。

二人とも、

国家と個人の関係を考えた。

二人とも、

戦後日本に何らかの「欠落」を感じていた。

ただし、その欠落の名前が違った。

26 三島が見た欠落、大江が見た欠落

整理すると分かりやすい。

三島が見た欠落は、

歴史的連続性。

文化的中心。

天皇。

国家としての自立。

身体と行為。

だった。

大江が見た欠落は、

民主主義の徹底。

戦争責任。

被爆者への視線。

核への抵抗。

少数者や周縁への視線。

だった。

つまり、

二人は違う日本を見ていた、

というより、

同じ日本の中で、違う欠落を見ていた

と考える方がよい。

27 三島は過去から未来を作ろうとした

三島の方向を簡潔に表すなら、

過去との連続性を取り戻すことで未来を作ろうとした

と言える。

古典。

伝統。

天皇。

武士。

身体。

そうした歴史的・文化的資源を現代へ取り戻す。

もちろん単純な復古ではない。

三島自身は極めて近代的な作家だったからである。

むしろ、

近代化した日本が、

それでも日本として何を保持できるのか

を問う。

これは、

過去を使って未来を考える方法だった。

28 大江は戦後の理念を徹底することで未来を作ろうとした

大江の場合は違う。

敗戦後に日本が掲げた、

民主主義。

平和。

個人の尊厳。

を、

不十分だから捨てるのではなく、

不十分だからこそ徹底する

方向へ向かう。

過去の日本へ戻るのではない。

戦後日本が始めたものを完成に近づける。

だから大江の未来像は、

戦後の否定

ではなく、

戦後民主主義の自己修正

に近い。

ここが二人の決定的な分岐である。

29 現代から見ると、どちらの問いもまだ終わっていない

三島が問いかけた、

日本文化とは何か。

国家として自立するとは何か。

歴史と現代をどう接続するのか。

という問題は、現在も消えていない。

一方、大江が問い続けた、

核兵器。

戦争。

民主主義。

個人の尊厳。

少数者。

という問題も消えていない。

つまり二人の「答え」は違っても、

二人が設定した問いそのものは現在にも残っている。

これが、二人が今も読まれる大きな理由の一つだろう。

30 二人の対立を「右対左」に閉じ込めない

三島と大江を比較するとき、最も簡単なのは、

右翼対左翼。

保守対リベラル。

天皇対民主主義。

という図式である。

しかし、それだけでは文学評論として浅い。

なぜなら、

三島の文学には個人の孤独や欲望がある。

大江の文学にも国家や共同体への強い関心がある。

二人とも西欧文学の強い影響を受けながら日本について考えた。

二人とも戦後日本を国際社会の中から見ている。

つまり、

単純な日本主義対西洋主義

でもない。

二人の思想はもっと複雑である。

31 「どちらが正しかったか」ではなく、「何が見えたか」を比較する

思想家や作家を比較すると、

最終的に、

どちらが正しいか

を決めたくなる。

しかし文学を読む場合、それだけが目的ではない。

三島の視点から見ると、

戦後日本の、

文化的断絶。

歴史。

国家。

身体。

という問題が見える。

大江の視点から見ると、

戦後日本の、

民主主義。

被爆。

弱者。

核。

周縁。

という問題が見える。

つまり、

違う思想を読むことによって、同じ社会の違う部分が見える。

ここに二人を並べる意味がある。

32 三島だけを読む危険、大江だけを読む危険

三島だけから戦後日本を見ると、

伝統や国家の問題はよく見える。

しかし、

国家によって傷つけられる人、

少数者、

戦争被害、

という問題が弱くなる危険がある。

一方、大江だけから見ると、

民主主義、

平和、

弱者、

という問題はよく見える。

しかし、

共同体の歴史、

伝統、

国家的帰属、

文化的連続性、

といった問題を十分に説明できない場合がある。

だから、

二人を並べる。

賛成するためではない。

一人の視点によって見えなくなるものを、もう一人によって補うためである。

33 現代の分断社会に二人を読む意味

現在の社会では、

自分と同じ意見だけを読むことが容易になっている。

SNSでは、

自分が賛成する人をフォローする。

反対する人を遮断する。

似た思想の情報が集まる。

その結果、

相手の考えがなぜ成立するのか

を理解する機会が減る。

三島と大江を同時に読むことには、

この問題への一つの意味がある。

二人は簡単には統合できない。

どちらか一方を選べば済むわけでもない。

だからこそ、

両方を読んで、自分の中に矛盾した問いを残す。

それ自体が教養の一つの形になる。

結論~二人は「違う日本」を望んだのではなく、「日本の違う欠落」を見ていた

三島由紀夫と大江健三郎。

政治的位置から見れば、

二人は確かに遠い。

三島は、

日本文化、

天皇、

国家、

歴史、

身体、

を通して戦後日本を問い直した。

大江は、

民主主義、

広島、

核、

個人、

弱者、

を通して戦後日本を問い直した。

三島は戦後によって失われたものを見た。

大江は戦後が約束しながら実現できていないものを見た。

この違いを一言で整理すれば、

三島は「戦後以前との断絶」を問題にし、 大江は「戦後理念と戦後現実との断絶」を問題にした

と言えるかもしれない。

三島は、

過去との連続性を取り戻そうとした。

大江は、

戦後民主主義をさらに前へ進めようとした。

一人は過去を見た。

もう一人は未来を見た。

と表現したくなる。

しかし、それも完全には正しくない。

三島も未来の日本を考えていた。

大江も過去の戦争を繰り返し振り返った。

つまり二人とも、

過去・現在・未来の関係をどう結び直すか

を考えた作家だった。

そして二人とも、

現実の戦後日本へ強い違和感を持っていた。

高度経済成長。

豊かな生活。

消費社会。

それだけでは、

人間はどう生きるのか。

国家とは何か。

日本とは何か。

という問いには答えられない。

この点では、二人はむしろ同じ場所に立っていた。

そこから、

三島は、

文化、

天皇、

身体、

死、

へ進んだ。

大江は、

民主主義、

核、

個人、

弱者、

へ進んだ。

だから二人を読む時に重要なのは、

「三島と大江のどちらを支持するか」

だけではない。

より重要なのは、

なぜ同じ戦後日本を見て、二人はこれほど違う答えへ進んだのか

を考えることである。

そしてさらに、

現代の私たちは、

三島が見た問題と、

大江が見た問題の、

どちらをすでに解決したのだろうか。

文化と歴史。

民主主義と個人。

国家の自立。

核と戦争。

共同体。

少数者。

これらの問いを見る限り、

二人が考え続けた「戦後」は、

完全に過去になったとは言いにくい。

三島由紀夫と大江健三郎を同時に読む意味は、

正反対の思想のどちらかを選ぶことではない。

互いに相手が見なかった日本を、二人の視線を重ねることで見ること。

そこにあるのではないだろうか。

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「昔の人には教養があった」は本当なのか

昭和という時代について語るとき、

「昔の人は本を読んでいた」

「学生は難しい哲学書を読んでいた」

「大学生なら岩波文庫を読むのが当たり前だった」

「総合誌を読んで政治や社会について考えていた」

といった話を聞くことがある。

そこから、

昭和の日本人には教養があり、現代人は教養を失った

という結論へ進むこともある。

しかし、本当にそうなのだろうか。

昭和の人々全員が哲学書を読んでいたわけではない。

難解な本を買っても最後まで読まなかった人もいただろう。

娯楽小説、漫画、映画、ラジオ、テレビを楽しむ人も当然多かった。

したがって、

「昭和の日本人は現代人より知的だった」

と単純に比較することはできない。

それでも昭和には、現在とは少し違う「教養」という文化が存在したことは確かである。

その違いは、人間の能力よりも、

知識へ到達する道筋

にあったのではないだろうか。

本屋へ行く。

岩波文庫を手に取る。

新書を読む。

新聞を読む。

『世界』や『中央公論』などの総合誌を読む。

そこで、

文学、

哲学、

歴史、

政治、

経済、

科学、

社会問題、

へ触れる。

つまり昭和の教養とは、

単に「たくさん知っていること」ではない。

異なる分野の知識を、一人の人間の中である程度つなげて考えようとする文化

だったと考えることができる。

本稿では、

岩波文庫、

岩波新書、

総合誌、

大学、

新聞、

テレビ、

というメディア環境を通して、

「昭和の教養」とは何だったのかを考えてみたい。

そして最後に、

令和の時代には教養が失われたのか、それとも別の形へ変わっただけなのか

を検討する。

1 「教養」は単なる知識量ではない

まず、教養という言葉を整理しておきたい。

教養は、

知識量、

学歴、

資格、

専門能力、

とは必ずしも同じではない。

医学について非常に詳しい医師がいる。

法律について非常に詳しい弁護士がいる。

数学について非常に詳しい研究者がいる。

もちろん、その専門知識は極めて高度である。

しかし昔から「教養」という言葉には、

専門分野だけではなく、

文学、

歴史、

哲学、

芸術、

社会、

政治、

科学、

などについて幅広く触れ、

それらを使って人間や社会を考える、

という意味が含まれていた。

したがって教養とは、

多くの答えを知っていること

よりも、

一つの問題を複数の角度から考えるための背景知識を持っていること

に近い。

例えば戦争を考える場合、

軍事だけでは足りない。

歴史。

外交。

経済。

政治。

倫理。

文学。

人間心理。

こうしたものが関係する。

この「分野をまたぐ思考」を支えたのが、昭和の出版文化だった。

2 岩波文庫~古典を個人の本棚へ持ち込む仕組み

昭和の教養を象徴するものの一つが岩波文庫である。

岩波文庫は1927年、昭和2年に創刊された。

岩波書店によれば、現在の岩波文庫は、

日本古典文学、

日本近現代文学、

外国文学、

哲学・歴史学など、

社会科学など、

という広い領域を持っている。

つまり岩波文庫は、

「文学作品を安く読むシリーズ」

だけではない。

プラトン。

カント。

マルクス。

歴史書。

政治思想。

経済。

宗教。

自然科学。

日本古典。

近代文学。

さまざまな分野へアクセスする入口になっていた。

1927年7月10日の創刊時には22点が刊行されている。

ここで重要なのは、

古典的著作を、専門研究者だけではなく一般読者が所有できる形にした

ことである。

大学図書館でしか読めない。

専門家しか手にできない。

という本ではなく、

書店で買い、

電車で読み、

自宅の本棚へ置く。

そうした文化が生まれた。

3 「文庫本を持つ」ということ自体に意味があった

現在では、一冊の本を所有することの意味は相対的に小さくなっている。

検索すれば概要が分かる。

電子書籍もある。

動画解説もある。

しかし昭和期には、

本を持っていること自体が、

知識へアクセスする重要な手段だった。

一冊買う。

読み終わる。

本棚へ置く。

別の本を買う。

すると本棚そのものが、

その人の知的履歴になる。

文学。

哲学。

歴史。

社会科学。

それらが一つの部屋に並ぶ。

この環境には一つの特徴がある。

知識が物理的に隣り合う。

夏目漱石の隣にプラトンがある。

その隣に歴史書がある。

さらに経済学の本がある。

本棚は検索結果と違い、

一つの関心だけに最適化されていない。

この「偶然の隣接」が教養形成に一定の役割を持っていたと考えられる。

4 岩波文庫の分類そのものが一つの世界観だった

岩波文庫には帯色による分類がある。

現在の分類では、

黄帯が日本古典文学、

緑帯が日本近現代文学、

赤帯が外国文学、

青帯が哲学・歴史・宗教・自然科学など、

白帯が法律・政治・経済・社会、

という大きな構造を持つ。

これは単なる整理番号ではない。

一つの出版社が、

「人間が学ぶべき世界には、こうした領域がある」

と示していることになる。

文学だけではない。

哲学だけでもない。

政治だけでもない。

複数の知識領域を一つの体系の中へ置く。

ここに「教養」の特徴がある。

現代のインターネットでは、

知識は検索単位で出てくる。

岩波文庫では、

知識がシリーズ全体として提示される。

両者はかなり違う。

5 岩波新書~専門知を一般読者へ翻訳する装置

岩波文庫が古典への入口だったとすれば、

岩波新書は、

現代社会や専門知識への入口

として大きな役割を持った。

岩波新書は1938年11月に創刊された。

創刊時は赤い装丁だった。

岩波茂雄は、新書が普及し、電車の中で多くの人が赤い本を持っているようになることを望んだと伝えられている。

この発想は興味深い。

学問を大学の中だけに置かない。

専門家の研究を、

一般の読者でも読める大きさ、

価格、

文章量、

へ変換する。

つまり新書とは、

専門知と一般社会の中間に作られたメディア

だった。

6 新書は「大学の授業」と「新聞記事」の中間だった

新聞記事は短い。

専門書は長い。

大学の授業を受けるには大学へ行かなければならない。

新書は、その中間を埋める。

一冊で、

歴史。

政治。

経済。

科学。

哲学。

宗教。

社会問題。

などについて一定の知識を得る。

専門研究の完全な代替ではない。

しかし、

「この問題について初めて体系的に学びたい」

という読者には非常に適している。

ここに昭和型教養の重要な特徴がある。

専門家になる前に、まず全体像を知る。

この段階を支えたのが新書だった。

7 教養人とは「専門家ではない読者」でもあった

昭和の教養文化を考えると、

一つ面白いことがある。

教養の中心となる読者は、

必ずしも専門家ではない。

経済学者ではない人が経済学の新書を読む。

歴史家ではない人が歴史の本を読む。

哲学者ではない人が哲学書を読む。

文学研究者ではない人が古典文学を読む。

つまり、

自分の専門外の本を読むこと自体が教養だった。

現代社会では、

「それはあなたの専門ですか」

と問われることが多い。

もちろん専門性を尊重することは重要である。

しかし、

専門外だから読まない、

専門外だから考えない、

となれば、

社会全体を考える能力は弱くなる。

昭和の教養文化には、

専門家ではないからこそ読む、

という発想が一定程度存在していた。

8 総合誌~異なる知識が同じ一冊に入っていた

そして昭和の教養文化を支えたもう一つの媒体が、

総合誌である。

『中央公論』

『世界』

『文藝春秋』

などである。

『中央公論』は現在も、創刊130年を超える日本最長寿の月刊総合誌として、政治、経済、国際、教育、医療、科学、歴史、文化など幅広い領域を扱っている。

岩波書店も、1946年創刊の『世界』が戦後日本社会へ大きな影響を及ぼしてきた雑誌だと位置付けている。

総合誌には、

一つの問題だけを専門的に扱う雑誌とは違う特徴があった。

政治の論文の次に、

文学論がある。

その次に、

国際問題。

さらに、

科学。

社会問題。

文化。

が並ぶ。

つまり読者は一冊買うことで、

自分が最初から探していなかった問題にも出会う。

この偶然性は重要だった。

9 総合誌は「共通して考える問題」を作っていた

総合誌にはもう一つの役割がある。

読者へ情報を渡すだけではない。

「今、社会ではこの問題を考えるべきだ」

という議題を設定する。

憲法。

安全保障。

教育。

公害。

経済成長。

文学。

国際情勢。

編集部が特集を組むことで、

それまで詳しく知らなかった読者も、その問題へ接触する。

この意味で総合誌は、

知識を売る媒体であると同時に、

公共的な問題を編集する媒体

だった。

昭和の教養人とは、

一定の本を読んだ人というだけではない。

同じ時代の社会問題について、

異なる分野の文章を読みながら考える人でもあった。

10 昭和の教養には「編集された世界」があった

ここまでの共通点を見ると、

昭和の教養には一つの特徴が見える。

岩波文庫。

岩波新書。

総合誌。

いずれにも、

編集者がいる。

何を文庫へ入れるか。

誰に新書を書いてもらうか。

総合誌で何を特集するか。

出版社が選ぶ。

つまり読者は、

無限の情報から自分で全部選ぶのではなく、

ある程度編集された世界を読む。

この仕組みには欠点もある。

出版社の思想。

編集者の判断。

人的ネットワーク。

によって、読者が触れる情報が偏る可能性もある。

しかし利点もある。

何を読めばよいのか分からない人でも、知識への入口を持つことができる。

これは現在との大きな違いである。

11 大学進学と教養文化

昭和期、とくに戦後には大学教育も拡大していく。

大学には専門教育だけではなく、

一般教育、

教養課程、

という考え方があった。

専門学部へ進んでも、

哲学。

文学。

歴史。

外国語。

社会科学。

自然科学。

などへ触れる。

つまり、

専門家になる前に、

社会や人間について幅広く学ぶ段階

を置く。

これは文庫、新書、総合誌の文化とも相性がよかった。

大学で名前を聞いた思想家を文庫で読む。

新聞で知った社会問題を新書で調べる。

総合誌で専門家の議論を読む。

学問と出版文化がつながる。

ここに昭和型教養の一つの循環があったと考えられる。

12 「学生なら難しい本を読むべきだ」という文化

昭和の学生文化には、

難しい本へ挑戦すること自体に価値を置く傾向もあった。

完全に理解できなくても読む。

哲学書を買う。

思想書を持ち歩く。

議論する。

この文化には良い面と悪い面がある。

良い面は、

理解できないものへ時間を使う習慣

ができることだった。

すぐ役に立つか。

試験に出るか。

仕事に使えるか。

という基準だけで本を選ばない。

一方で悪い面もある。

難しい本を持っていることが、

知的な自己演出になる。

読んでいなくても本棚へ置く。

難解であること自体を価値と考える。

したがって、

昭和の教養文化を無条件に理想化するべきではない。

13 教養には「役に立たないものを読む余裕」が必要だった

現代では学習に対して、

資格になるか。

転職に使えるか。

収入が増えるか。

仕事に役立つか。

という実用性が重視されやすい。

もちろん合理的である。

しかし教養には、

すぐ役に立たない読書

も含まれる。

古代ギリシャ哲学。

古典文学。

宗教史。

美術史。

思想史。

これらは明日の仕事に直接使えないかもしれない。

しかし、

国家とは何か。

正義とは何か。

人間とは何か。

幸福とは何か。

死とは何か。

という問いを考える材料になる。

昭和型教養には、

実用性から一度離れて考える時間

が比較的強く価値付けられていた。

14 新聞も教養メディアだった

昭和の教養文化では新聞も重要だった。

新聞には、

政治。

経済。

国際。

社会。

文化。

書評。

論壇。

が同じ紙面にある。

現在の検索では、

自分が興味を持ったものを探す。

新聞では、

興味がなくても同じ紙面に置かれている。

国際政治の記事の隣に文化記事がある。

経済面をめくれば書評がある。

この構造は総合誌と似ている。

つまり昭和の情報環境には、

一つの媒体を読むだけで複数の領域へ触れる仕組み

が多かった。

15 テレビの登場は教養を壊したのか

テレビが普及すると、

「人々が本を読まなくなった」

という批判が起こりやすくなる。

しかしテレビを単純に反教養的な媒体と考えるのも適切ではない。

テレビには、

ドキュメンタリー。

歴史番組。

科学番組。

討論番組。

文学紹介。

教育番組。

があった。

つまり、

出版物を読まなかった人にも、

歴史や科学へ接触する機会を与えた。

テレビは一面では、

教養の大衆化

を進めた。

ただし、

文章で読む教養

と、

映像で知る教養

では、思考の方法が違う。

16 読む教養と見る教養

本では、自分の速度で読む。

戻る。

止まる。

考える。

線を引く。

別の本と比較する。

テレビでは基本的に、

番組の速度で情報が流れる。

その代わり、

映像。

音声。

図表。

現場映像。

を使える。

どちらが優れているという話ではない。

しかし、

教養の獲得方法が変わった

ことは重要である。

昭和後半には、

文庫・新書・総合誌・新聞

という活字文化に、

テレビ

が加わった。

これによって「教養人」の姿も変わった。

17 昭和の教養は「少ない情報」を深く読む文化だった

現在と昭和を比べた時、最も大きな違いの一つは、

情報量である。

昭和にはインターネットがない。

検索エンジンもない。

動画共有サービスもない。

SNSもない。

したがって、個人が一日に接触できる情報量は現在より少なかった。

これは不便である。

しかし、

一冊の本。

一つの記事。

一人の著者。

と長く付き合いやすい環境でもある。

現在は逆である。

情報へ到達する速度は劇的に速くなった。

しかし、

一つの情報へ滞在する時間は短くなりやすい。

昭和型教養を考える時、

知識量より、情報との接触時間

を見る必要がある。

18 「全部読む」から「検索して必要な部分だけ読む」へ

本を読む時には、

著者が設定した順番で進むことが多い。

第一章。

第二章。

第三章。

前提から結論へ進む。

検索の場合は違う。

知りたい部分へ直接飛ぶ。

これは極めて効率的である。

しかし一方で、

自分が質問しなかったことには出会いにくい。

例えば「ケインズとは誰か」と検索すれば、

ケインズについての答えは得られる。

しかし経済思想史全体を一冊読むと、

ケインズだけでなく、

古典派。

マルクス。

新古典派。

制度派。

などとの関係が見えてくる。

つまり、

検索は答えに強い。

読書は、

問いの背景を広げることに強い。

昭和の教養文化は後者を重視する環境だった。

19 昭和の教養には「共通の本」があった

もう一つ重要なのは、

多くの人が同じ本の名前を知っていたことである。

実際に読破していたかどうかは別として、

夏目漱石。

森鴎外。

ドストエフスキー。

カント。

マルクス。

など、

「教養として知っておくべき名前」

が比較的共有されていた。

新書や文庫のシリーズも同じである。

同じ出版レーベルを通して、

多くの読者が似た知識へ触れる。

その結果、

議論するための共通背景

が作られる。

現在は読むものが多様化している。

これは自由という点では大きな進歩である。

しかし、

共通して知っている本、

共通して読んだ文章、

は少なくなりやすい。

20 共通知識は本当に必要なのか

では、全員が同じ本を読む社会の方がよいのだろうか。

そうとも言えない。

共通の教養には、

排除

も伴う。

「この本を読んでいない人は教養がない」

「この思想を知らない人は話にならない」

という階層意識が生まれることがある。

出版社や大学が選んだ古典だけが、

価値ある知識

とされる危険もある。

世界には、

地域文化。

女性の経験。

労働者の文化。

少数者の歴史。

大衆文化。

など、従来の「教養」から十分に扱われなかった領域もある。

したがって昭和の教養を評価するとき、

共通基盤という長所と、選択された知識による排除という短所の両方

を見る必要がある。

21 岩波文化は「昭和の教養」そのものだったのか

昭和の教養を語ると、

岩波文化

という言葉を連想する人もいる。

岩波書店は、

岩波文庫。

岩波新書。

『世界』。

『思想』。

『科学』。

『図書』。

など、文学・思想・学術・社会問題を横断する出版活動を行ってきた。『世界』は1946年創刊、『思想』は1921年、『科学』は1931年、『図書』は1938年創刊である。

この体系を見ると、

古典を読む。

現代社会を知る。

思想を読む。

科学を読む。

総合誌で社会問題を考える。

という教養形成の経路を、一つの出版社がかなり広く提供していたことが分かる。

しかし、

昭和の教養=岩波

とするのも狭すぎる。

22 中央公論、文藝春秋、新潮なども別の教養を作った

昭和の読者は岩波書店だけを読んだわけではない。

『中央公論』

『文藝春秋』

『新潮』

など、それぞれ異なる編集文化を持つ出版社・雑誌が存在した。

現在の『中央公論』も、政治・経済から科学・文化までを横断している。

重要なのは、

一つの正しい教養があったのではない、

ということである。

岩波的教養。

中央公論的教養。

文藝春秋的教養。

文学中心の教養。

社会科学中心の教養。

それぞれが存在した。

だから昭和の教養文化を、

一つの出版社の思想へ還元するべきではない。

23 教養は社会的地位を示す記号にもなった

ここで昭和の教養文化の負の側面にも触れる必要がある。

難しい本を読む。

有名な思想家を知っている。

外国文学を読む。

こうしたことが、

社会的な自己評価につながる場合がある。

つまり教養は、

知識であると同時に、文化的な地位を示す記号

にもなる。

「その本を読んでいないのか」

「そんなことも知らないのか」

という形で他人を評価する。

こうなると、

教養は人間の視野を広げるものではなく、

他者と自分を区別する道具になる。

これは教養文化の矛盾である。

24 「教養人」が男性・都市・大学中心になりやすかった問題

昭和の典型的な教養人像を考えると、

大学へ行き、

都市で働き、

本を購入し、

総合誌を読む、

というモデルが想定されやすい。

しかし日本社会全体がその生活を送っていたわけではない。

家事や育児に多くの時間を使う人。

長時間労働をする人。

農業や漁業に従事する人。

高等教育へ進まなかった人。

こうした人々にも当然、生活の中で蓄積された知識や文化がある。

したがって、

出版物中心の教養だけを「本当の教養」と考えること自体が、一つの歴史的価値観

だったと見る必要がある。

25 専門化は教養を弱くしたのか

戦後の日本社会が発展すると、学問も仕事も専門化する。

医学。

工学。

経済。

法律。

情報科学。

それぞれが高度になる。

一人の人間がすべてを深く知ることは不可能になる。

すると、

「広く浅く知る教養」

より、

「一つを深く知る専門性」

の価値が高まる。

これは社会の進歩でもある。

高度な医療を、

一般教養だけで行うことはできない。

しかし専門化には、

別の問題がある。

自分の専門以外の問題が見えにくくなる。

ここに教養の必要性が再び出てくる。

26 現代社会ほど教養が必要なのではないか

現在の問題を考えてみる。

人工知能。

人口減少。

気候変動。

社会保障。

安全保障。

地域衰退。

どれも一つの専門分野だけでは理解できない。

例えば人工知能なら、

情報科学。

数学。

法律。

倫理。

教育。

労働。

経済。

著作権。

が関わる。

人口減少なら、

人口統計。

経済。

医療。

住宅。

交通。

教育。

家族。

地域文化。

が関わる。

つまり現代社会は、

昭和以上に総合的思考を必要としている。

それにもかかわらず、情報環境は専門別に細分化している。

ここに現代の教養問題がある。

27 インターネットは教養を破壊したのか

インターネットには大きな利点がある。

古典文学を無料で読める。

大学の講義を見られる。

論文を検索できる。

公的統計へ直接アクセスできる。

海外の資料も読める。

昭和の読者から見れば、

夢のような知識環境である。

だから、

インターネットによって教養が破壊された

と考えるのは正確ではない。

むしろ、

知識へのアクセスは歴史上かつてないほど広がった。

問題は別のところにある。

28 情報が多すぎて「何を読めばよいか」が分からない

昭和には情報が少なかった。

だから文庫や新書のシリーズが、

「まずこれを読んでみる」

という入口を提供できた。

現在は情報が多すぎる。

検索結果。

動画。

SNS。

ブログ。

ニュース。

電子書籍。

論文。

すべてが並ぶ。

すると、

どれを読むかを決める能力そのものが必要になる。

昭和では出版社が編集した。

令和では読者自身が編集しなければならない。

ここが決定的な違いである。

29 アルゴリズムは現代の「編集者」なのか

現在では、多くの情報が推薦機能によって届けられる。

過去に見たもの。

検索したもの。

反応したもの。

に近い情報が表示される。

これは非常に便利である。

しかし、

自分が好きなものを見れば見るほど、

同じ分野の情報が増える。

文学好きには文学。

投資好きには投資。

政治好きには政治。

すると、

一つの分野を深く知ることはできても、

異なる分野との偶然の出会いが減る可能性がある。

昭和の総合誌とは逆方向の構造である。

総合誌は、

自分が選ばなかった記事も同じ冊子に入っている。

推薦システムは、

自分が好みそうなものを集める。

ここには教養形成の大きな違いがある。

30 令和には「共通の本棚」がない

昭和には、

文庫シリーズ。

新書シリーズ。

新聞。

総合誌。

が一種の共通本棚として機能した。

令和には、

一人ひとり違う画面がある。

検索履歴が違う。

推薦される動画も違う。

読むニュースも違う。

SNSのフォロー相手も違う。

つまり、

社会全体で共有する「知識への入口」が弱くなった。

これは多様化という意味では利点である。

しかし、

違う意見を持つ以前に、

違う事実、

違う問題、

違う世界

を見ている状態にもなり得る。

31 昭和の教養を復活させればよいのか

では、岩波文庫を読めば昔の教養が復活するのだろうか。

そう単純ではない。

昭和の出版文化をそのまま復活させる必要はない。

当時の教養には、

限られた編集者が知識を選ぶ。

特定の文化を正統とする。

学歴や読書歴による階層意識を生む。

という問題もあった。

現代には現代の利点がある。

多様な人が発信できる。

地方からでも参加できる。

専門家の一次情報へ直接届く。

少数者の経験も知ることができる。

したがって必要なのは、

昔へ戻ることではない。

32 昭和から引き継ぐべきなのは「本の名前」ではない

昭和の教養文化から学べるものがあるとすれば、

必ずしも、

カントを読め。

岩波文庫を読め。

総合誌を読め。

という具体的な読書リストではない。

重要なのは、

異なる分野をつなげる習慣

である。

文学を読んだら、

その時代の歴史を調べる。

経済を学んだら、

政治との関係を見る。

科学技術を学んだら、

倫理や法律も考える。

現代社会のニュースを見たら、

歴史的背景を調べる。

こうした横断的思考が教養の中心になる。

33 令和型教養に必要な五つの能力

昭和型教養を現代へ置き換えるなら、少なくとも五つの能力が考えられる。

第一に、

一つの専門分野を持つこと。

広く浅い知識だけでは、情報の正確性を判断しにくい。

第二に、

専門外の分野にも触れること。

自分の専門だけで社会全体を説明しない。

第三に、

長い文章を読む能力を維持すること。

短い情報だけでは複雑な問題を理解しにくい。

第四に、

一次資料へ戻ること。

要約だけでなく、統計、原文、公的資料を確認する。

第五に、

異なる考えを読むこと。

自分が最初から賛成できる文章だけを読まない。

これが現代型教養の基本になるのではないだろうか。

34 AI時代の教養とは何か

AI(Artificial Intelligence・人工知能)が普及すると、

事実を覚えていることの価値はさらに変わる。

人名。

年代。

用語。

概要。

は短時間で検索・整理できる。

すると、

教養は不要になるようにも見える。

しかし、むしろ逆かもしれない。

AIが答えを出した時、

その答えが妥当か判断するには、

背景知識が必要になる。

どの論点が抜けているか。

歴史的背景は正しいか。

価値判断と事実が混ざっていないか。

複数の見方があるのではないか。

こうした判断には、

一分野の知識だけでは足りない。

つまりAI時代には、

知識を記憶する教養から、知識を位置付ける教養へ

変わっていく可能性がある。

35 教養とは「すぐ答えを出さない能力」でもある

教養の重要な役割は、

正解をたくさん知ること

だけではない。

問題を単純化しないことでもある。

地方は良い。

都会は悪い。

若者は進歩的。

高齢者は保守的。

科学技術は善。

伝統は善。

こうした単純な二項対立を疑う。

歴史を知れば、

現在の制度が突然できたものではないことが分かる。

文学を読めば、

人間が合理性だけで動かないことが分かる。

経済を学べば、

理想だけでは資源配分できないことが分かる。

科学を学べば、

直感が間違うことがあると分かる。

つまり教養とは、

簡単な答えに飛び付かないための知識

でもある。

36 昭和の教養を美化してはいけない

ここで最初の問いへ戻ろう。

昭和には、本当に現代より教養があったのだろうか。

これは簡単には証明できない。

読書文化が強かった時期はあった。

岩波文庫や新書、総合誌が知的文化の重要な媒体だったことも事実である。

しかし、

国民全員が高度な本を読んでいたわけではない。

教養文化から距離のある人もいた。

読書を社会的地位の記号として使う人もいた。

したがって、

昭和=教養、令和=無教養

という比較は成立しない。

重要なのは、人間の質ではなく環境の違いである。

結論~昭和の教養とは「知識の共通本棚」だった

昭和の教養とは何だったのか。

一言で表すなら、

社会にある程度共有された「知識の本棚」を持つこと

だったのではないだろうか。

岩波文庫が古典を並べる。

岩波新書が専門知を一般読者へ運ぶ。

総合誌が政治、経済、文学、科学、文化を同じ一冊へ置く。

新聞が国際問題と書評を同じ紙面へ載せる。

大学が専門教育の前後に教養教育を置く。

こうした複数の仕組みが、

文学。

哲学。

歴史。

社会。

科学。

を完全に別々の世界へしなかった。

もちろん、その本棚には偏りがあった。

誰が「読むべき本」を選ぶのか。

誰の思想が正統とされるのか。

誰が教養人と認められるのか。

昭和型教養には、そうした問題もあった。

だから私たちは、

昔の本棚をそのまま復元する必要はない。

しかし現在、

私たちは別の問題を抱えている。

情報は無限にある。

専門家も多い。

動画も論文も統計もすぐに見られる。

それでも、

異なる知識を一つの世界として見ることが難しくなっている。

検索すれば答えは出る。

しかし、

何を検索すべきかは教えてくれない。

SNSを開けば情報は流れる。

しかし、

自分の関心の外に何があるかは見えにくい。

専門家は正確な知識を持つ。

しかし、

専門と専門をどう結ぶかは別の問題である。

その意味で、

昭和の教養から現代が学ぶべきものは、

難しい本を読んでいたという外形ではない。

一つの専門だけで世界を理解したと思わない姿勢

なのではないだろうか。

古典文学を読む。

歴史を知る。

科学を学ぶ。

経済を見る。

社会制度を調べる。

異なる思想も読む。

それらを一人の人間の中でつなげていく。

これが教養であるなら、

教養は昭和とともに消えたわけではない。

ただ、

出版社や総合誌が用意してくれた「共通の本棚」が弱くなり、

自分自身で本棚を作らなければならない時代になった

のである。

昭和の教養人は、

何を読むかを出版社や大学からある程度教えてもらえた。

令和の私たちは、

無限の情報の中から、

何を読み、

何を疑い、

何と何を結び付けるかまで、

自分で決めなければならない。

その意味では、

現代の教養形成は昭和より簡単になったのではない。

情報へのアクセスは容易になった。

しかし、

知識を自分の中で一つの世界へ組み立てる仕事は、むしろ個人へ委ねられるようになった。

昭和の教養を懐かしむより、

その仕組みが果たしていた役割を理解し、

現代の環境でどう再構築するかを考える。

それが、令和の時代に「教養とは何か」を問う意味なのではないだろうか。

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