リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 暖房の効いた部屋で、温かいコーヒーを飲みながら、食べるものにも困る人間の物語を読む。ページの中では一家が家賃を払えず、子どもが空腹に耐え、誰かがわずかな金のために尊厳を削られている。しかし読者は、本を閉じれば台所へ行くことができるし、冷蔵庫を開けることもできれば、その小説があまりにつらければ今日はここまでにして眠ることさえできる。

 ここには、文学について考えるときには少し居心地の悪い矛盾がある。私たちは貧困を悲惨なものだと知りながら、その悲惨さが巧みに描かれた小説を「面白かった」「胸を打たれた」「素晴らしい作品だった」と評価する。現実に目の前で同じことが起きれば、とうてい「面白い」とは言えないはずなのに、それが小説になった瞬間、他人の苦痛は読書体験の一部へと組み込まれる。

 では、貧困を描いた文学を安全な場所から楽しむという行為には、どこか残酷なところがあるのだろうか。それとも、人間が自分では経験していない人生を想像するためには、むしろその安全な距離こそ必要なのだろうか。

読者だけが物語から退出できる

 貧困小説を読む者と、そこに描かれた人物との最大の違いは、財産の額でも社会的地位でもない。もっと単純で決定的な違いがあり、それは読者には「途中でやめる自由」があるということだ。

 チャールズ・ディケンズの『オリバー・ツイスト』を読んでいて、救貧院や犯罪世界の描写がつらくなれば、本を閉じることができる。ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』で、ジャン・ヴァルジャンがパンを盗んだことをきっかけに人生を翻弄されていく姿に耐えられなくなれば、しおりを挟んで席を立てばよい。しかし物語の中の人物には、その自由がない。彼らにとって貧困は一章ではなく生活そのものであり、読者の「今日はここまでにしよう」に相当する出口は存在しない。

 この非対称性こそ、安全な場所から貧困文学を読むことの核心にある。読者は苦しみに近づくことができるが、その苦しみに実際に巻き込まれる義務までは負わない。嵐の音を窓越しに聞くように、恐ろしさを感じられるところまで近づきながら、最後の一線では守られている。

 心理学や美学では、現実の危険そのものと、芸術として表現された危険や悲しみとは同じようには受け取られないと考えられている。作品がフィクションであり、自分はいま安全であるという心理的な距離が存在するからこそ、人は本来なら避けたいはずの悲しみや恐怖に接近し、それを感動や美しさ、意味のある経験として受け止めることができる。

 つまり、安全であることは貧困文学を読む上での倫理的欠陥であると同時に、そもそも悲惨な物語を最後まで読むことを可能にしている条件でもある。

苦しみが物語を動かすという不気味さ

 小説では、人物に何も起こらなければ物語は動きにくい。十分な収入があり、家族にも恵まれ、健康で、人間関係にも問題がなく、毎日が静かに過ぎていく人物だけを数百ページにわたって追い続けることは容易ではないため、文学は昔から欠乏、喪失、病気、犯罪、差別、孤独といった、人間の生活が揺らぐ場所から物語を取り出してきた。

 その結果、現実世界では減ってほしいと願うものが、文学の世界では強力な物語装置になるという逆転が起こる。飢えも借金も失業も、現実では避けるべき苦痛なのに、小説では人物を追い詰め、選択を迫り、それまで隠れていた性格や欲望や倫理観を露出させる。

 ただし、ここで「悲惨であればあるほど物語は面白くなる」と単純化することはできない。読者が物語に引き込まれるのは、悲しさそのものではなく、そこから生まれる葛藤や緊張、人物への関心、美しい表現、結末への期待、そして自分なりの意味を見つけようとする働きが組み合わさるからだと考えた方がよい。あまりに悲惨で救いがなければ読むのをやめる人もいるし、逆に深い悲しみの中に人間について考える材料を見つける人もいる。

 それでも、登場人物にとって状況が悪化している最中に、読者の側では「この先はどうなるのだろう」という関心が高まることがあるという事実には、どこか不気味なものが残る。物語の中では不幸が増え、物語の外ではページをめくる力が強くなる。その二つが完全には一致しないところに、悲惨な文学を読むことの根本的な矛盾がある。

貧困が「美しいもの」に変わる瞬間

 文学には、現実の苦痛を言葉によって鑑賞可能なものへ変えてしまう力がある。雨漏りする部屋も、薄暗い路地も、擦り切れた衣服も、優れた作家の文章を通れば強烈な情景になり、現実に住むことを求められれば拒みたくなる場所であっても、物語の中ではどこか心を引かれる風景になることさえある。

 ここには文学の魅力と危うさが同居している。言葉は悲惨さを伝えるだけでなく、その悲惨さに秩序を与え、意味を与え、ときには美しさまで与えてしまう。

 貧しい食卓が丁寧に描かれれば、それを「慎ましく美しい暮らし」と読みたくなることがある。狭い長屋で人々が助け合う姿を読めば、「昔は人間関係が温かかった」と感じるかもしれない。しかし、実際にそこで暮らす人にとって、狭さは風情ではなく狭さであり、食事の乏しさは素朴さではなく欠乏だった可能性がある。

 外から眺める者は、ときとして不便を情緒に変える。田舎の古い家を旅行者が「味わい深い」と感じる一方で、そこに暮らす人は冬の寒さや雨漏りや修繕費に悩んでいるのと同じように、貧困もまた、自分がいつでも退出できる場所から眺めると、美しい風景へ変換される危険を持っている。

 問題なのは、美しいと感じることそれ自体ではない。文学から美しさを取り除けば、それは文学でなくなるかもしれない。しかし、そこで描かれた暮らしを「貧しくても人間らしい幸福があった」と簡単にまとめてしまう瞬間、現実の欠乏が持っていた不自由さまで美化してしまう危険が生まれる。

「かわいそう」と思えば理解したことになるのか

 さらに難しいのは、貧困文学を読んで登場人物に同情することと、現実の貧困を理解することは同じではないという問題である。

 物語には主人公がいる。読者はその人物がどこで生まれ、何を失い、なぜその選択をしたのかを知ることができるため、「この人は悪くない」「救われてほしい」と感じやすい。物語は一人の人間について、現実では簡単には手に入らないほど大量の背景情報を与えてくれる。

 ところが現実の街で出会う人間には、作者による人物紹介が付いていない。駅前で座り込んでいる人がなぜそこにいるのか、生活に困窮した人がどのような経緯をたどったのか、私たちはほとんど知らない。借金を抱えた人が合理的な選択だけをしてきたとも限らず、浪費や依存、人間関係の失敗など、簡単には共感できない事情が入り交じっている場合もある。

 心理学や社会心理学の研究では、貧困の原因を本人の怠慢や選択に帰属すると、同情や支援への賛意が弱まりやすく、反対に社会的・状況的な背景を知ることで、判断が変化する場合があることが示されている。つまり、ある人がなぜその状態に至ったのかという物語を知ることは、私たちの評価に実際に影響を与え得る。

 もっとも、「背景を知らなければ人は必ず自己責任だと判断する」とまで言うことはできない。貧困への態度には、その人自身の経験、政治的価値観、社会階層、対象となる人物の属性など、さまざまな要因が影響する。それでも、情報が与えられていない現実の人間より、人生の経緯を詳しく知らされている小説の人物の方が理解しやすいという非対称性は残る。

 ここから一つの厄介な問いが生まれる。私たちは本当に「他人」を理解しているのだろうか。それとも、作者によって理解しやすい形に整理され、背景まで与えられた他人を理解しているだけなのだろうか。これは実証的に決着のついた結論ではなく、文学が読者に突きつける仮説として考えた方がよいが、少なくとも簡単に捨ててしまえる問いではない。

私たちは「貧困」ではなく「貧困の物語」を消費している

 さらに厄介なのは、本そのものが商品であるという事実である。作家が貧困を描き、出版社が本を作り、書店が販売し、読者が購入する。作品が成功すれば売上が生まれ、映画やドラマになり、文学賞を受け、作者の評価が上がることもあるため、誰かの困窮を題材とした物語が、別の場所では文化的価値や経済的価値を生み出していることになる。

 もちろん、だからといって作家が貧困を書いてはいけないという話ではない。自ら経験した困窮を書いた作品もあれば、社会の不平等を告発するために書かれた作品もあり、文学がそれまで社会から見えなかった苦痛を可視化してきた歴史も長い。貧困を書かなければ貧困がなくなるわけではなく、むしろ書かれなければ存在しないことにされてしまう苦しみもある。

 それでも読者として、ときどき立ち止まってよい問いがある。自分はいま貧困について考えているのか、それとも「貧困について書かれた、よくできた物語」を味わっているのかという問いである。

 両者は矛盾せず、同時に起こることもある。一冊の小説を純粋に面白いと思いながら、その作品を通じて社会について考えることもできる。ただ、その二つを無意識に同一視してしまうと、「貧困文学を読んだから、自分は貧困を理解している」という危うい錯覚が生まれる。

それでも安全な場所から読む意味はある

 ここまで考えると、暖かい部屋で貧困文学を読むことそのものが偽善のようにも見えてくる。しかし、おそらく結論はそこではない。

 人間が自分で経験した人生しか理解してはならないとしたら、文学そのものが成立しなくなる。戦争を経験していなければ戦争文学を読んでも意味がない、貧困を経験していなければ貧困文学を語ってはいけない、差別を受けたことがなければ差別を描いた作品を読む資格がないということになれば、人間は永遠に自分自身の人生から外へ出られない。

 文学の価値はむしろ、その越えられない境界を完全ではないにせよ、一時的に越えさせるところにある。食事に困った経験のない人が空腹の不安を想像し、家賃を払えなくなったことのない人が住居を失う恐怖を思い、生まれた家庭の経済状態によって人生の選択肢が狭くなる感覚に接近する。もちろん、それは実際に経験することとは違う。しかし、何も想像しなかった状態と同じでもない。

 実際、フィクションを読むことと他者の心理を理解する能力や共感との関係を調べた研究では、平均すると小さいながらも一定の正の効果が示されている。ただし、その効果は決して巨大なものではなく、作品を読めば自動的に人間理解が深まるというほど単純でもない。作品への没入の程度、読み手の性格、作品の内容などによって結果は変わり得る。

 だからこそ、安全な場所は必ずしも文学を無意味にする場所ではない。むしろ安全だからこそ、人は自分とは無関係だった苦痛に長時間向き合うことができるのであり、そのとき必要なのは「自分も同じ経験をした」「この人の気持ちは完全に分かった」と考えないことなのだろう。

読書だけで人が善良になるとは限らない

 本を読む人は他人の気持ちが分かる、本を読む人は視野が広い、文学を読む人は社会問題を深く考えられるという読書観には魅力がある。しかし、少なくとも科学的には、読書から道徳的人格までを一直線に結ぶことはできない。

 研究で示されているのは主として、物語を読むことが社会的認知や他者理解、共感などに小さな影響を与える可能性であり、「文学を読む人は善良な人間になる」ということではない。共感する能力が高まることと、現実の場面で常に倫理的な行動を取ることも同じではない。

 だから、人は貧困小説を読んで涙を流した翌日に、現実の困窮者について厳しい言葉を口にすることもあり得る。差別を扱った名作に感動しながら、自分の日常にある偏見には気づかないこともある。文学を読むことと、倫理的に優れた人間になることとの間には、自動的な通路が用意されているわけではない。

 むしろ文学が与えてくれるものは答えではなく、自分の中にある矛盾を見る機会なのかもしれない。かわいそうな主人公には同情するのに、現実の困窮者には厳しくなることがあるのはなぜなのか。小説の中の格差には怒れるのに、自分の日常を支えている格差には気づきにくいことがあるのはなぜなのか。そして何より、他人の苦しみを描いた物語を「面白い」と感じる自分は、いったい何を面白がっているのか。

 この問いに正解はないが、その居心地の悪さを消さないことに、貧困文学を読む意味の一部がある。

「感動した」で終わるとき、何が失われるのか

 貧困を扱った作品を読み終えたあと、「感動した」という言葉はとても便利である。悲しかった、苦しかった、考えさせられた、登場人物が好きだった、文章が美しかったという複数の感情を、一つの言葉にまとめてくれるからだ。

 しかし、その便利さには危険もある。「感動した」という言葉で読書体験を閉じてしまえば、作品の中で示された貧困が、読者自身とは無関係な美しい悲劇として完結してしまうことがある。

 小説の登場人物には名前があり、顔があり、過去があり、読者が応援できる理由がある。しかし現実の貧困は、そう都合よく物語になってはいない。原因が分からず、本人にも責任があり、周囲にも責任があり、制度にも問題があり、その境界が曖昧なまま存在していることが多い。現実の人間は、小説の主人公ほど理解しやすくない。

 だから、文学を社会理解の入口として使うなら、作品から受け取った感情をそのまま現実へ当てはめるのではなく、むしろ作品と現実の違いを意識した方がよい。小説は他人の人生を見せてくれるが、現実の他人には作者がいない。その違いを忘れないことが、文学的共感を現実の人間理解へつなげるための最初の条件なのかもしれない。

本を閉じたあとに残るもの

 小説には終わりがある。最後のページを読み終えれば、本は閉じられる。しかし貧困そのものには奥付も裏表紙もなく、読者が物語を読み終えた瞬間にも、どこかで家賃を払えない人がいて、食費を削っている家庭があり、将来の選択肢を金銭的な理由で諦めている人がいる。

 だからといって、小説を読むたびに寄付をしなければならないわけでも、社会運動を始めなければならないわけでもない。文学にそのような義務を課せば、読書は道徳の試験になり、作品を「正しい行動をしたかどうか」で評価することになってしまう。それでは文学が持つ曖昧さや不穏さまで失われてしまう。

 ただ、本を閉じたあとまで、ほんの少し違和感が残る作品はある。自分はなぜこの物語を面白いと思ったのか、なぜこの人物には同情できたのか、もし同じ境遇の人間と現実の街で出会ったなら、自分は同じようにその人の事情を想像できるのかという問いが、作品の続きを読むように頭の中へ残っていく。

 安全な場所から貧困を読むという矛盾は、おそらく完全には解消できない。読者が本当に登場人物と同じ苦しみに陥ってしまえば、そもそも落ち着いてその物語を読むことなどできないからである。安全であるから読めるという事実と、安全であるからこそ他人の苦痛を鑑賞できてしまうという事実は、同じ場所から生まれている。

 だから問題は、安全な場所にいること自体ではないのだろう。

 危ういのは、自分が安全な場所にいるという条件を忘れ、物語によって与えられた共感を現実への理解と取り違え、ページの向こう側にある苦しみを美しい物語として消費したところで思考を終えてしまうことなのだと思う。

 貧困文学の本当に不穏なところは、貧しい人々の人生を描いていることだけではない。暖かい部屋でその人生を読んでいる私たち自身を、いつの間にか物語の外側から照らし返してくるところにある。そして、その光の中で見えるのは、貧困そのものだけではなく、他人の苦しみを理解したいと願いながら、それを安全な距離から眺めてもいる、読者自身の矛盾なのである。

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 文学を読んでいると、ときどき奇妙なことが起こる。現実に出会えば距離を置きたくなるような人物なのに、小説の中ではなぜか目が離せなくなるのである。嘘をつき、男を翻弄し、自分の欲望を優先し、ときには他人の人生まで壊してしまう。それでも彼女が登場すると物語の空気が変わり、読者は次に何をするのか知りたくなる。一方で、誠実で、思いやりがあり、他人を傷つけようとしない女性は、現実ならば好ましい人物であるにもかかわらず、その「善良さ」だけでは必ずしも同じ強さで読者を引きつけない。

 もっとも、ここから「悪い女性の方が善良な女性より魅力的である」と結論づけるのは早い。心理学や物語研究でも、道徳的に曖昧な人物が善良な人物より必ず好かれるとは確認されていない。むしろ興味深いのは、好感度では劣っていても、物語への没入や緊張感、人物について考え続けさせる力では、善良な人物に匹敵し得るということである。つまり私たちは、必ずしも悪女を「好き」なのではない。それでも彼女から目を離せない。この「好きではないのに気になる」というねじれた感情こそ、文学の悪女を考える入口になる。

悪女が現れると、物語の均衡が崩れる

 小説にとって扱いの難しい人物の一つは、何も問題を起こさない人である。約束を守り、常識をわきまえ、他人に配慮し、自分の欲望を適度に抑える人物は、現実社会では信頼されやすいが、その性質だけでは物語上の摩擦を生みにくい。もちろん善良な人物を主人公とした名作は数え切れないほど存在するが、そうした人物が読者を強く引きつける場合、そこにはたいてい迷い、嫉妬、恐怖、弱さ、欲望、罪悪感といった、単純な「善良さ」では割り切れない何かが潜んでいる。

 それに対して、いわゆる悪女として描かれる人物は、登場した瞬間から既存の秩序を揺さぶることが多い。メリメの『カルメン』では、ホセはカルメンに惹かれ、やがて彼女への執着を深めながら、それまでの生活から大きく逸脱していく。ラクロの『危険な関係』では、メルトゥイユ侯爵夫人だけでなくヴァルモンもまた、恋愛や誘惑を策略の道具へ変え、社交界の人間関係そのものをゲームにしてしまう。ゾラの『ナナ』では、一人の女性をめぐる男たちの欲望と破滅が、個人的な恋愛の範囲を越え、第二帝政期の華美と腐敗、階級社会の虚飾まで照らし出していく。

 ここで重要なのは、彼女たちが単に「性格が悪いから面白い」のではないということである。彼女たちが動くと、それまで周囲の人物が隠していた嫉妬や所有欲や虚栄心まで動き始め、平穏に見えた社会の内部にあった亀裂が表面へ現れる。悪女は物語を一人で作るのではなく、周囲の人間に潜んでいたものを露出させる触媒として機能するのである。

「何をするか分からない」という人物に、読者はなぜ引きつけられるのか

 悪女が物語上で強く見える理由の一つに、行動の予測しにくさがある。善良であろうとする人物には、少なくとも一定の行動原理がある。困っている人がいれば助けようとするだろうし、愛する人を傷つければ苦しむだろうし、約束を破れば罪悪感を覚えるだろうという予想を、読者はある程度立てることができる。

 しかし道徳的な境界を簡単には守らない人物については、この予測が難しい。愛していると思った次の瞬間に相手を裏切るかもしれず、金銭のために行動しているように見えて突然感情に負けるかもしれない。相手を操っているように見えながら、実際には自分自身も嫉妬や恐怖や欲望に振り回されていることさえある。そのため読者は、「この人物は次にどうするのか」「本当は何を望んでいるのか」という問いを持ち続けることになる。

 物語研究でも、これから起こることについて未解決の問いが残されることは、読者の緊張感や物語への関与を生む一つの要因と考えられている。ただし、単純に「予測できなければ面白い」と考えるのも正確ではない。結末を知っていても物語を楽しめるように、読者を引きつけるものは不確実性だけではなく、人物への関心や感情移入、その結果にどのような意味があるのかという期待も含まれている。

 したがって悪女の魅力を、「何をするか分からないから面白い」と一つの原因だけで説明することはできない。むしろ予測不能性が、人物の矛盾や道徳的な曖昧さと結びついたとき、読者は彼女を完全には理解できない存在として追い続けることになる。その距離が、単純な好感とは違う種類の魅力へ変わるのである。

「悪い人物なのに面白い」という不思議

 ここで、文学における好感と魅力を分けて考える必要がある。現実では、嘘をつき、人を利用し、他人の生活を壊す人物は普通なら警戒される。ところが物語の中では、そのような人物が強烈な人気を持つことがある。

 心理学やメディア研究では、反英雄や道徳的に曖昧な人物について、読者や視聴者が行為そのものを正しいと判断していなくても、その人物に一時的に感情移入したり、物語の中だけでは通常より道徳的な非難を弱めたりすることがあると考えられている。これは、私たちが「悪いことをしているから好きになる」という意味ではない。むしろ、人間には道徳的評価とは別に、人物の複雑さや目的、危険性、能力、葛藤に関心を持つ回路があると考えた方が自然である。

 この点から見ると、「現実なら避けたい人物を、文学ではもっと見ていたい」という現象はそれほど矛盾していない。現実の人間関係では安全性や信頼性が重要だが、物語では安全すぎる人物より、何かを起こしそうな人物の方が重要な役割を持つことがある。現実で求められる人格と、物語で求められる人物の強さは、そもそも別の尺度で測られているのである。

悪女は「してはいけないこと」を可視化する

 悪女の魅力を考えるとき、もう一つ無視できないのが欲望である。ただし、「読者が抑圧している欲望を悪女が代わりに実行するから魅力的なのだ」と断定することはできない。そこまで単純な因果関係は実証されておらず、これは文学的・心理学的な一つの解釈として扱う方が妥当である。

 それでも文学の中では、現実には実行しにくい欲望を人物が可視化するという現象は確かにある。人は社会の中で生きている以上、自分の欲望をそのまま行動へ移すことはできない。嫌いな相手を傷つけたいと思っても実行するわけにはいかず、別の人生を生きたいと思っても仕事や家庭を簡単に捨てることはできない。恋愛感情が生まれても、相手や状況によっては諦めなければならない。

 ところが物語の中の悪女は、その境界線を越えることがある。欲しいものを欲しいと言い、退屈な生活を拒み、愛が冷めれば別の相手へ向かい、他人が自分に期待する役割そのものを拒絶する。読者は必ずしも同じ行動を望んでいるわけではない。それでも、自分が現実には越えない境界を誰かが越える場面には、恐怖と同時にある種の解放感が生まれる。

 文学は、現実に行動しなくても、人間がどこまで欲望に従うことができるのかを安全な距離から見せてくれる。その意味では悪女は、悪を勧める人物ではなく、人間の欲望が規範を越えたとき何が起こるのかを実験する人物でもある。

そもそも誰が彼女を「悪女」と呼んだのか

 ここまで悪女という言葉を使ってきたが、この呼び名そのものを疑う必要もある。文学史の中で「悪女」「危険な女」と見なされてきた女性は、犯罪や残虐行為を行った人物だけではない。性的に奔放であったり、夫や恋人の支配を拒んだり、家庭より自分の欲望を優先したり、男性社会が期待した女性像から外れたりしたことで、危険な存在として表象された女性も少なくない。

 とりわけ女性に従順さ、貞節、母性、献身が強く要求された社会では、それらから逸脱する女性は単なる一個人ではなく、社会秩序への脅威として描かれやすかった。女性が法律や道徳を破ったとき、行為そのものに加えて「女性らしさを破った」という二重の逸脱として受け止められる場合もあったのである。

 そう考えると、悪女は一つの固定した人格類型ではない。ある時代には「悪」とされた行動が、別の時代には自立や自己決定として読み直されることもある。古い文学を現代の読者が読むと、当時は危険でわがままな女性として描かれた人物が、むしろ自分の人生を自分で選ぼうとしている女性に見えることがあるが、これは人物が変わったのではなく、彼女を見る社会の物差しが変わったのである。

 ただし、「悪女」という人物像をすべて特定の時代の女性差別だけで説明するのも単純すぎる。魅力的であると同時に危険な女性という物語は、西欧近代文学だけではなく、さまざまな社会の伝承や物語に繰り返し現れてきたことが指摘されている。そこには女性に対する社会規範だけでなく、人間が恋愛相手の魅力と危険性、信頼と疑念をどう判断するかという、より普遍的な問題も重なっている可能性がある。

 悪女という像は、一つの原因から生まれたのではない。社会が女性に求める役割、男女の欲望と警戒、時代ごとの道徳、物語が必要とする葛藤が重なった場所に現れる人物なのである。

男は本当に「悪女のせい」で破滅するのか

 悪女をめぐる物語には、女性そのものよりも、彼女に魅了されて破滅していく男性の方が重要な意味を持っている作品が少なくない。そこではしばしば、「男は危険な女に人生を狂わされた」という物語が語られる。

 しかし、本当に彼女だけが男を破滅させたのだろうか。

 『カルメン』のホセを考えてみても、彼を破滅へ導くものはカルメンの存在だけではない。彼自身の執着、嫉妬、所有欲、そして彼女を自分の思い通りにしたいという欲望が、状況を次第に取り返しのつかないものへ変えていく。『ナナ』でも、ナナに群がる男たちは何も知らない善人として一方的に犠牲になるわけではなく、彼ら自身の虚栄や欲望や階級意識を抱えて彼女へ近づいている。

 そう考えると、悪女は男の中に新しい欲望を植え付ける存在というより、すでにそこにあった欲望を露出させる存在として読むことができる。彼女は破滅の原因であると同時に、周囲の人物がもともと抱えていたものを映し出す鏡でもある。

 ここで物語の責任関係は急に曖昧になる。「彼女のせいで人生を狂わせた」と考えていたはずなのに、「彼は彼女を愛したのか、それとも所有したかったのか」「彼女に騙されたのか、それとも自分の欲望に騙されたのか」という別の問いが立ち上がってくる。

 文学の面白さは、善人と悪人を分類して判決を下すことだけにはない。誰かを悪人だと思って読み始めたはずなのに、物語が進むにつれて別の人物の方が怪しく見え、最後には最初の判断そのものを疑わされる。その価値判断の揺れこそ、悪女文学が持つ大きな力の一つである。

善良な女性が退屈なのではない

 ここまで読むと、「結局、小説では善良な女性より悪い女性の方が面白いのか」と思うかもしれない。しかし、問題は善悪そのものではない。

 善良な人物であっても、自分の幸福と他人の幸福が衝突し、正しいことをしようとするほど別の誰かを傷つけ、愛と義務の間で迷い、自分自身の弱さに苦しむなら、その人物は十分に複雑で魅力的になる。反対に、どれほど残酷で奔放な悪女でも、ただ人を騙し、誘惑し、破壊し続けるだけなら、人物はやがて単調になる。

 文学が強く必要としているのは、悪そのものというより矛盾である。

 愛しているのに裏切る。自由を求めながら誰かを束縛する。金を欲しがりながら金では満たされない。誰にも支配されたくないと言いながら、誰かに愛されることを必要としている。人間は一つの原理だけでは動かない。その矛盾が人物の内部で衝突したとき、登場人物は善人や悪人という分類を越えて、生きた人間として読者の前に現れる。

 悪女は、この矛盾を露骨な形で背負わされやすい人物である。だから彼女は強く見えるのであって、悪いから魅力的なのではない。

悪女の魅力は、一つの原因では説明できない

 科学的に考えるなら、悪女の魅力を一つの原因から説明することは難しい。人物の予測不能性、道徳的な曖昧さ、内面的な葛藤、社会規範からの逸脱、物語の中で占める重要性、読者がその人物へどの程度感情移入するか、さらに読者自身が曖昧な人物を好むかどうかまで、複数の要因が重なって人物への関心が作られると考える方が合理的である。

 同じ悪女を読んでも、ある人は自由な女性として見るかもしれず、別の人は自己中心的な人物として嫌悪するかもしれない。ある読者には魅力的な危険人物に見え、別の読者には単なる加害者にしか見えないこともある。作品の中に一つの「魅力度」が固定されているわけではなく、人物の性質と物語の構造、さらに読者の価値観や経験が組み合わさって評価が生まれるのである。

 したがって、「悪女だから魅力的」という一本の矢印ではなく、「逸脱、葛藤、予測不能性、道徳的曖昧さ」と「読者側の心理」が交差した結果として、悪女への関心が生まれると考えた方が現実に近い。

読者が見ているのは「悪」ではなく自由なのかもしれない

 文学の悪女について考えていくと、最後には善悪とは少し違う場所へたどり着く。私たちが彼女の中に見ているものは、悪そのものではなく、社会が許してくれない自由の姿なのかもしれない。

 自分の欲望を認めること、他人の期待通りに生きないこと、与えられた役割を拒むこと、嫌われる可能性を引き受けながら自分で選択することは、どの時代でも簡単ではない。悪女として描かれる人物は、ときにその自由を極端な形で体現する。しかし自由であることと善良であることは同じではないから、その選択によって他人を傷つけ、自分自身も傷つき、物語の最後には孤独や破滅へ向かうこともある。

 古い文学では、そうした破滅が「秩序を乱した女性への罰」のように見える場合もある。しかし別の読み方をすれば、それは社会の規範から外れて生きようとした人間が支払わされた代償とも見える。この二つの解釈の間で読者の判断が揺れるからこそ、悪女は簡単には古びない。

 私たちは彼女を嫌悪しながら惹かれ、批判しながら次の行動を待ち、ときには最後まで理解できないまま読み終える。近づきたくはないのに、物語から消えてほしくもない。もし彼女がいなくなれば、世界が急に静かになり、何か重要なものまで失われてしまうような気がする。

 おそらく文学における魅力とは、好感度のことではない。善良な人物には「幸せになってほしい」と思うことができるが、悪女と呼ばれる人物に対して私たちが抱く感情は、それほど簡単ではない。恐れ、嫌悪、好奇心、欲望、共感、反発が同時に存在し、そのどれか一つへ整理できないからこそ、彼女は記憶に残る。

 そしてページを閉じたあとに残る本当の問いは、「あの女は悪かったのか」ではないのかもしれない。

 むしろ、「なぜ自分は、あの人物から目を離せなかったのか」。

 文学は悪女を裁くためだけに存在しているのではない。悪女を観察しているつもりだった読者自身を、いつの間にか観察される側へ移してしまう。善良な人物より悪女が魅力的なのではなく、私たちは善悪だけでは説明できない人間に強く惹かれることがある。そのことを最も鮮やかに見せてくれる存在の一つが、文学の「悪女」なのである。

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 アニメの画面に映った駅へ行く。登場人物が歩いた坂道に立ち、何気ない交差点を写真に撮り、作品の一場面と同じ角度になるようスマートフォンを少し傾ける。その場所に世界遺産があるわけでも、誰もが驚く絶景が広がっているわけでもなく、地元の人にとっては毎朝通り過ぎるだけの道であり、作品を知らなければ旅行者がわざわざ降り立つ理由さえ見つからない場所かもしれない。それでも、ある作品を愛する人にとっては、そこへ行くこと自体が旅の目的になる。

 アニメの舞台やモデルになった場所を訪ねる行為は、いつしか「聖地巡礼」と呼ばれるようになった。本来は宗教的な意味を持つ言葉だが、現在では作品と結びついた現実の土地をファンが訪ねる行為にも広く用いられている。しかし、考えてみれば不思議な現象である。作品の映像なら自宅で何度でも見ることができ、背景になった場所も写真や動画、地図を使えばかなり詳しく調べられる。それでも人は列車や自動車に乗り、ときには数百キロを移動して、「画面ですでに見た場所」を自分の目で見ようとする。

 なぜなのだろう。

 単に「好きなアニメの場所を見たいから」と答えることもできるが、それだけでは、人が時間と費用を使ってまで現地へ向かい、さらに同じ町を何度も訪れることまで説明できない。聖地巡礼を詳しく見ていくと、その背後には作品への没入、場所に与えられた意味、ファン同士の情報共有、現地で生まれる地域への愛着といういくつもの過程があり、そこからは私たちがそもそも「場所を好きになる」とはどういうことなのかという、観光だけでは収まらない問題まで見えてくる。

「ただの場所」が突然、代わりのない場所になる

 一般的な観光地には、旅行者が訪れる理由があらかじめ存在していることが多い。海が美しい、寺院が古い、温泉が湧く、料理がおいしいといった特徴があり、その価値を知った旅行者が現地へ向かう。ところがアニメの聖地では、ときにこの順序が反対になる。最初から観光地として価値が認識されていたのではなく、作品によって物語が重なった結果、それまで普通だった場所が特別な場所へ変わるのである。

 駅前のベンチは全国に無数にあり、学校へ続く坂道も珍しくない。それでも、主人公がそこで誰かを待ち、物語を左右する会話を交わし、最後にもう一度その場所へ戻ってきたとなれば、そのベンチや坂道は、ファンにとってほかの場所では代用できなくなる。同じ形のベンチを別の町に置いても意味はなく、もっと美しい坂道を見つけたとしても代わりにはならない。「あの場面の場所」という物語上の意味が加わった瞬間、ありふれた風景に交換不可能な価値が生まれるからである。

 ここには、観光資源についての興味深い逆転がある。一般には、魅力的な場所だから人が物語を語ると考えがちだが、聖地巡礼では、物語があるから場所が魅力的になることがある。海そのものが変わったわけでも、駅舎が豪華になったわけでもないのに、作品を知った人の目には、それまでとは違う風景として映り始める。

 もちろん、アニメの登場人物が現実にその場所を歩いたわけではない。登場人物そのものが架空の存在であり、作品の背景も現実の景色を忠実に写したとは限らない。それでもファンが現地に立ち、作品の記憶と実際の風景が重なった瞬間、画面の中にしかなかった世界と現実の土地との間に、自分なりの接点が生まれる。現実の場所が作品を「本物」にするというより、現実の場所を見ることで、自分の中にあった物語が立体的になっていくのである。

作品を見ることと、作品の場所を歩くことは違う

 アニメを見る行為を単純に「受動的」と考えるのは正確ではない。視聴している人は登場人物の意図を推測し、過去の場面を思い出し、次の展開を予想し、人物に感情移入しながら物語を理解しているため、心理的にはかなり能動的に作品へ参加している。ただし、どれほど深く作品へ入り込んでも、自分の身体まで画面の中へ置くことはできない。

 聖地巡礼では、この最後の境界が少しだけ動く。駅に降り、坂道を上り、作品と似た風景を探して歩くとき、ファンは作品について考えるだけでなく、自分の身体を使って作品世界をなぞることになる。画面では数秒だった道が実際には思いのほか長かったり、静かな場面として描かれた海岸では波の音や自動車の音が聞こえたり、夏の物語なら強い日差しや潮の匂いまで感じたりすることで、視覚と聴覚だけで知っていた物語へ、温度、匂い、距離、疲労といった身体感覚が加わっていく。

 作品舞台を訪れた人を対象にした研究でも、場所に対する「知っている感じ」や懐かしさ、現地での感動と作品への没入との関連が確認されている。ここから直ちに「作品に没入すれば必ず聖地へ行く」とまでは言えないが、作品と現実の場所が結びつくことが旅行体験を特別なものにするという説明には、一定の実証的な裏付けがある。

 情報だけなら現地へ行かなくても手に入る時代に、それでも巡礼がなくならない理由もここにある。インターネット上の写真は「その場所がどう見えるか」を教えてくれるが、「自分がそこへ行った」という経験までは与えてくれないからである。旅の価値は、未知の情報を手に入れることだけではなく、自分自身の記憶に新しい出来事を加えることにもある。

なぜ作品と同じ構図で写真を撮るのか

 聖地を訪れた人がよく行う行為の一つに、アニメの画面と同じ角度から現実の風景を撮影する「構図合わせ」がある。純粋に美しい写真を撮りたいのであれば、もっと自由に構図を選べばよいはずだが、巡礼者は電柱の位置や道路の曲がり方、建物の角度まで確かめながら、自分が立つべき位置を探すことがある。

 そこで行われているのは、単なる記念撮影というより、虚構と現実の照合に近い。

 作品の画面と目の前の景色が重なる場所を見つけ、「確かにここだ」と感じる瞬間には、他人から教えられた観光名所を見るのとは少し違う発見の喜びがある。作品の舞台を探し出す行為そのものが一種のゲームのようになり、場所を見つけた人が写真や情報を公開すると、その情報を手掛かりに別のファンが訪れ、再び写真を撮り、その体験を共有する。この連鎖によって、制作側や自治体が最初から観光地として指定したわけではない場所でも、ファンの間で徐々に「聖地」として認識されるようになる。

 だから聖地は、作品だけによって生まれるものではない。作品が最初の意味を与え、ファンが現実の場所を探し出し、訪問と情報共有を繰り返し、さらに地域の人々がその訪問者を受け入れることで、一つの場所に新しい意味が積み重なっていく。聖地とは地図上の点ではなく、作品、ファン、地域の関係によって育っていく場所だと考えた方が実態に近い。

「なぜ最初に行くのか」と「なぜまた行くのか」は同じではない

 ここで重要なのは、聖地巡礼を一つの心理だけで説明しないことである。初めてその土地へ行こうと思う理由と、一度訪れた土地へ再び行きたくなる理由は、必ずしも同じではない。

 初回の訪問では、作品への強い興味、画面と現実を照合したい好奇心、ほかのファンが投稿した写真や旅行記などが動機になりやすい。ところが実際に現地へ行ったあとは、作品には登場しなかった店で食事をし、地元の人と話し、作品とは直接関係のない風景を見るため、旅行者の中に「作品の舞台」とは別の「実際に訪れた町」としての記憶が生まれる。

 この二つが重なると、巡礼は少しずつ性質を変える。

 最初は作品を確かめるために訪れたはずなのに、二度目には前回入った店へ行きたいと思い、三度目には季節の違う風景を見たくなり、やがて作品に登場しない場所まで歩くようになる。ここまで来れば、旅行者を引きつけているものは作品だけではない。

 アニメ聖地巡礼に関する複数の研究でも、作品への興味を出発点とした訪問が、その後の地域への関心や愛着と結びつくことが報告されている。熊本県人吉市を舞台の一つとする『夏目友人帳』についても、作品への関心から始まった行動が地域そのものへの関心へ広がり、再訪につながる可能性が指摘されている。また、静岡県沼津市を舞台とする『ラブライブ!サンシャイン!!』を対象とした調査でも、訪問回数や旅行満足度、地域住民との交流などと地域への愛着との関連が確認されている。

 ただし、「地域を好きになったから何度も訪れる」のか、「何度も訪れたから地域を好きになった」のかを完全に切り分けるのは簡単ではない。旅行好きで人との交流を好む人ほど巡礼や再訪をしやすいという第三の要因も考えられるため、研究から分かるのは、作品への関心、現地での経験、地域への愛着、再訪が互いに関連しているというところまでである。

 それでも、この区別をした方が聖地巡礼という現象はむしろ面白くなる。アニメには人を初めてその町へ連れてくる力があり、町には一度来た人をもう一度呼び戻す力があるのかもしれないからだ。

作品を見に来た人が、町を好きになって帰る

 近年の数量的な研究でも、この変化を支持する結果が報告されている。日本国内でアニメ聖地巡礼を経験した人を対象とした研究では、作品世界を感じられる目的地としての魅力が、場所への愛着と関係し、その愛着が再訪意向などの目的地へのロイヤルティーと結びつく経路が統計的に検討されている。

 この結果を「作品が地域愛着を生み、それが必ず再訪を引き起こす」と断定することはできない。調査研究では、無作為化された実験のように因果関係を完全に統制できるわけではなく、モデルの適合度にも限界がある。それでも、作品世界を追体験できるという魅力だけでなく、訪問後に形成される「この場所が好きだ」という感情が、その土地との長期的な関係に関わっているという考えには、数量的な裏付けが積み重なりつつある。

 これは地域観光にとって興味深い現象である。一般的な観光宣伝では、地域が先に自分の魅力を旅行者へ説明しようとする。「美しい自然があります」「歴史があります」「おいしい料理があります」と知らせ、その魅力を理解した人に来てもらうわけだが、聖地巡礼では旅行者がその町についてほとんど知らない状態でも、作品が最初の訪問理由を作ることがある。

 言ってみれば、作品がとりあえず人を町まで連れてくるのである。

 そこから先は現実の町の仕事になる。作品には登場しなかった料理を食べ、商店の人と話し、季節によって変わる海や山を見て、「この町にはこんな場所もあったのか」と気づけば、作品と地域の関係は逆転し始める。最初はアニメを見るために町を訪れた人が、やがて町を訪れる理由の一つとしてアニメを持つようになるのである。

「何を見るか」より「どんな記憶を持って見るか」

 聖地巡礼は、観光地の価値とは何かという問いにもつながっている。

 作品を知らない人と熱心なファンが同じ踏切を見れば、物理的にはまったく同じ踏切を見ている。しかし、二人が経験しているものは同じではない。片方にとっては単なる交通設備でも、もう片方には登場人物の表情、台詞、音楽、その場面を初めて見た日の記憶まで重なって見えることがある。

 風景そのものには、そこまで多くの情報が含まれているわけではない。見る人が持ってきた記憶が風景へ重なることで、その場所の意味が増えていく。

 これはアニメだけに起こる特殊な現象でもない。小説を読んだあとで作家ゆかりの土地を歩いたり、映画のロケ地を訪ねたり、歴史上の人物が歩いた道に立ったりするときにも、似た経験が生じる。何も知らずに見る風景と物語を知ったうえで見る風景が違って見えるのは、人が土地そのものだけでなく、自分が知っている物語や記憶を通して場所を経験しているからである。

 そう考えると、観光資源とは必ずしも巨大な建築物や絶景だけではない。「その場所をどのように見るか」という意味の枠組みも、観光資源になり得る。

地域が「聖地」を作り過ぎるという難しさ

 ここまで読むと、「それならアニメに町を登場させ、自治体が聖地として宣伝すれば地域活性化になる」と考えたくなるが、話はそれほど単純ではない。

 すべての作品で大規模な巡礼が起こるわけではなく、巡礼が始まっても長期間続くとは限らない。作品の人気だけでなく、風景の印象、場所を発見する楽しさ、交通の利便性、ファン同士の情報共有、地域住民の受け入れ方など多くの条件が絡み合ううえ、人気作品が終了したあとまで同じ人数が訪れ続ける保証もない。

 しかも、地域側が熱心になればなるほど成功するとも限らない。ファン自身が作品の場面を手掛かりに場所を探し、「ここではないか」と発見することも聖地巡礼の楽しみの一部であり、近年の研究では、巡礼を通常の商品化された観光とは異なるファン活動として捉える議論もある。行政や観光事業者が最初からあらゆる場所を「公式の聖地」として定義してしまえば、ファン自身が場所に意味を与える余地を狭める可能性はある。

 ただし、ここでも「整備すれば必ず失敗する」と考えるべきではない。案内表示や交通情報、地域との交流機会が巡礼者の満足度を高める場合もあるため、重要なのは整備するかしないかという二択ではなく、ファンが発見する余白と地域側が受け入れる仕組みとのバランスなのだろう。

 観光地に仕立て上げることより、すでに生まれているファンと場所との関係を壊さず育てることの方が難しいのである。

数字で見るときに忘れてはいけないこと

 聖地巡礼についての調査を見るときには、もう一つ注意が必要になる。研究の多くは、実際に聖地を訪れた人を対象としているため、「なぜ巡礼した人がその場所を好きになるのか」は比較的調べやすいが、「作品を見た人の中で、なぜ一部の人だけが現地へ向かうのか」という問題は、それほど単純ではない。

 たとえば一万人のファンのうち千人だけが聖地を訪れ、その千人の半数が地域へ強い愛着を持ったとする。巡礼者だけを見れば「半数が地域を好きになった」と言えるが、ファン全体で考えれば五%である。現地に来なかった九千人を除いて調査すれば、聖地巡礼の力を実際より大きく見積もってしまう可能性がある。

 これは聖地巡礼の価値を否定する話ではなく、むしろ現象を正確に見るために必要な区別である。作品を見る人、実際に初めて訪れる人、再訪する人、長期的に地域との関係を持つ人は同じ集団ではなく、その段階ごとに働く心理も違うと考えた方が自然だからだ。

 最初の一歩では作品への興味や好奇心が働き、現地では作品世界との照合や発見が満足感を生み、その後には地域での経験や人との交流が愛着と結びつく。聖地巡礼を一本の矢印で説明するのではなく、このようないくつかの段階からなる行動として見る方が、実際の姿に近い。

人は場所へ旅をするのではなく、意味へ旅をする

 アニメの聖地巡礼がなぜ人を現地へ向かわせるのかを考えてきたが、最後に残るのは、意外に単純なことなのかもしれない。

 人は美しい場所だから旅をすることもあれば、有名だから旅をすることもある。しかし、それだけではない。自分にとって意味のある場所になったから旅をすることもある。

 アニメは、本来なら旅行者が通り過ぎていた駅や商店街、踏切、坂道、海岸に物語を重ねる。作品を見た人は、画面の中で知っていた風景を自分の身体で確かめたくなり、現地へ着けば今度は作品にはなかった音や匂い、店、人との出会いまで記憶に加わる。その結果として必ず地域愛着が生まれるわけではないが、少なくとも一部の巡礼者にとっては、作品への愛着と現実の土地への愛着が少しずつ重なっていく。

 最初に好きだったのはアニメだったはずなのに、いつの間にかその町の店が閉店しないか気になり、祭りの日程を調べ、季節が変わればまた行きたいと思うようになる。そこまで来れば、その人にとって聖地はもうアニメの背景ではなく、自分自身の記憶が置かれた場所になっている。

 だから、インターネットでどれほど鮮明な写真を見ることができ、映像の中で何度その風景を確認できるようになっても、聖地巡礼そのものは簡単には消えないのだろう。場所の情報を見ることと、自分がその場所まで行き、「ここにいた」と記憶することは同じではないからである。

 アニメが人を遠くの町へ向かわせる力とは、架空の世界を現実にしてしまう魔法ではない。それはむしろ、誰かにとって何でもなかった現実の場所へ物語を重ね、その場所を「自分にとって意味のある場所」に変えてしまう力なのかもしれない。そして人は、ときに場所そのものではなく、そこに生まれた意味を確かめるために旅をするのである。

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 書店に入ると、棚にたどり着く前に、本のほうからこちらへ近づいてくる。入口の正面や通路沿いの平台には、表紙を上に向けた本が何冊も重ねられ、帯には「話題作」「累計○万部」「映像化決定」「いま最も読まれている」といった言葉が並んでいる。私たちはそれらを眺めながら、ほとんど無意識のうちに「この本は売れているのだろう」と判断するが、その一冊を手に取ったところで少し意地の悪い問いを立ててみると、書店という場所の見え方は急に変わってくる。

 その本は、本当に売れているから平積みされているのだろうか。それとも、平積みされているから売れているのだろうか。

 前者なら平積みは人気の「結果」であり、後者なら人気を生み出す「原因」である。ところが現実の書店では、この二つをきれいに分けることができない。売れているから良い場所へ移される本がある一方で、売れそうだと期待されて良い場所を与えられ、その結果として売上を伸ばす本もあるからである。そして売上が伸びれば、その本はさらに目立つ場所に置かれやすくなる。人気が陳列を呼び、陳列が人気を増やし、その人気が再び陳列を正当化するという円環が、書店の平台の上では静かに回っている。

 だから平積みとは、売れている本を映す鏡であると同時に、そこに映った人気を少し大きくして返す鏡でもある。

棚の本と平台の本は、本当に同じ商品なのか

 もちろん、本そのものは何も変わらない。棚に一冊だけ差してあっても、入口に二十冊積まれていても、文章も著者も価格も同じである。それなのに読者から見た商品の意味は、置かれる場所によってかなり変化する。

 背表紙しか見えない棚の本には、読者の側から近づかなければならない。著者名を知っている、題名を覚えている、その分野の棚を見るという目的がある、といった何らかの動機が必要になる。それに対して平積みの本は、こちらが探していなくても視界に入ってくる。表紙も題名も帯の言葉も一度に見え、その瞬間、それまで存在すら知らなかった一冊が突然「買うかもしれない本」の候補に入る。

 ここには、本を選ぶ行為を考えるうえで重要な問題が潜んでいる。私たちは何万冊もの本から自由に選んでいるように思っているが、実際には、一度も認識しなかった本を選ぶことはできない。巨大な書店に十万冊が並んでいたとしても、一人の客がその日に視界へ入れる本はごく一部であり、購買以前にまず「候補として認識される競争」が存在しているのである。

 小売店舗を対象にした研究でも、商品の位置や視認性が選択に影響することは繰り返し確認されてきた。目につきやすい場所へ移した商品では購買行動が変化することがあり、単に商品数を増やす以上に、「どこに置くか」が重要になる場合もある。本についても、図書館で棚の高さと本の利用状況を調べた研究では、利用者の目線に近い本ほど手に取られやすく、低い位置に置かれた本は利用されにくい傾向が確認されている。

 書店での購入と図書館での閲覧は同じ行動ではないため、その結果をそのまま販売数へ置き換えることはできない。それでも、人間が棚にあるすべての対象を均等な確率で認識しているわけではないという点については、かなり自然な説明ができる。

 そう考えると、平積みにされた本は単に目立っているのではない。数万冊のなかから、「少なくとも一度、この本について考えてみませんか」と店の空間によって指名された本なのである。

二十冊積まれていること自体が、ひとつの情報になる

 さらに平積みには、表紙が見えるという以上の効果がある。同じ本が十冊、二十冊と重なっている光景そのものが、読者に情報を与えるからである。

 一冊だけ棚に差してある本を見ても、それが売れている本なのか、たまたま一冊だけ残っているのか、あるいはほとんど動いていない本なのかは分からない。しかし平台に山ができていれば、少なくともその書店が一定の販売を見込んで仕入れていることは伝わってくる。その量が、「この本には何か理由があるらしい」という無言の合図になる。

 人間は、他人の行動から判断の手掛かりを得る。初めて入る飲食店で、誰も客がいない店より何人か客が入っている店に安心することがあるように、本を選ぶときにも「多くの人が読んでいるらしい」という情報は無視できない。ただし、ここで慎重にならなければならないのは、平積みの量そのものが必ずしも実際の人気を正確に表しているとは限らないことである。大量に積んであるのは、すでによく売れたからかもしれないし、出版社や書店がこれから売れると予測して大量に仕入れたからかもしれない。

 読者には、その違いはほとんど見えない。

 その曖昧さこそが、平積みのおもしろさでもある。現在の人気と未来への期待が、同じ本の山のなかに混ざっているのである。

書店は過去の売上ではなく、未来の売上も並べている

 書店が、過去の販売実績だけを見て本を並べているのだとすれば話は簡単である。しかし発売されたばかりの新刊には、そもそも十分な販売実績が存在しない。それでも発売日に何十冊も積まれる本はある。

 著名な作家の新作、文学賞候補として注目されそうな作品、映画やテレビドラマの原作、新聞やテレビで紹介された本、その店の客層なら動きそうだと書店員が判断した本など、平台には「すでに売れた本」だけでなく「これから売れると予想された本」も置かれている。

 ここで書店は、少し奇妙な立場に立つことになる。未来を予測しているだけなのに、その予測に基づいて陳列を変えることで、未来の売上そのものに影響を与えられるからである。

 天気予報で「明日は晴れる」と言ったからといって空が晴れるわけではない。しかし書店が「この本は売れそうだ」と判断して入口に置けば、少なくともその本が客の目に触れる機会は増える。目に触れる機会が増えれば、手に取る人も増える可能性があり、そのなかの一定割合が購入すれば、結果として販売数も増える可能性が高くなる。

 つまり書店の予測は、純粋な予測ではない。結果へ少しだけ働きかける予測なのである。

数字にすると、平積みの意味が見えてくる

 この仕組みは、非常に単純化すると数理的にも説明できる。

 ある本の販売数は、大まかには「その本を買う可能性のある客の数」「その本に気づく確率」「手に取る確率」「手に取ったあと購入する確率」の積み重ねとして考えることができる。

 仮に一日に千人が書店を訪れ、その本が通常の棚では客の二割にしか認識されず、そのうち一割が手に取り、手に取った人の二割が買うとする。この仮定なら、一日に売れる冊数の期待値は四冊程度になる。

 ところが入口の平台へ移したことで、その本に気づく人が二割から五割へ増えたとすれば、手に取る割合も購入する割合も変わらなくても、期待される販売数は十冊になる。ここで使った数字は説明のための仮定にすぎず、実際の書店の数値を示しているわけではないが、重要なのは、内容や価格を一切変えなくても「認識される確率」が変化するだけで期待売上が変わり得るという構造である。

 さらに書店が、今週よく売れた本を来週も目立つ場所へ残すと考えると、売上は次の陳列に影響し、その陳列が次の売上へ影響する。そこにランキング、口コミ、新聞紹介、映像化、読者による投稿などが加われば、販売数が露出を生み、露出がさらに販売数を生むという正のフィードバックが形成される。

 最初はほんの小さな差だったものが、何度も循環するうちに大きな差へ育つ可能性があるのである。

本当に「売れているから売れる」ということは起きるのか

 この現象に近いものは、文化商品の研究でも確認されている。

 音楽を使った大規模な実験では、参加者に無名の楽曲を選ばせ、一方の集団には他の人が何回その曲を選んだかという人気情報を見せ、もう一方には見せないという比較が行われた。その結果、人気情報が見える環境では、特定の曲へ人気が集中しやすくなり、最終的なヒットのばらつきも大きくなった。

 さらに興味深いのは、人気情報を意図的に操作して、本来はそれほど人気のない曲を上位に見せた実験である。すると一部では、その「見せかけの人気」が実際の選択を呼び、やがて本当に人気になる現象が観察された。ただし、どんな作品でも宣伝だけで成功させられるわけではなく、作品そのものの魅力が低ければ効果には限界がある。

 この結果は、本の平積みについて非常に重要な示唆を与える。

 「良い場所へ置けば、どんな本でもベストセラーになる」と考えるのは間違いである。しかし「同じ程度の魅力を持った本でも、最初の露出や人気情報の違いによって、その後の売れ方が変わる可能性がある」と考えるのは十分に合理的である。

 つまり作品の力と売り方は、どちらか一方だけが重要なのではない。作品の力が読者を引きつけ、露出が作品と読者を出会わせ、その結果として生まれた人気が次の読者を呼び込むのである。

ベストセラーランキングも、単なる成績表ではない

 平積みと同じようなことは、ベストセラーランキングにも起こる。

 本来、ランキングは過去の販売結果を集計した成績表である。しかし「今週よく売れた本」という情報を来週の客が見ると、ランキングは過去を記録するだけではなく、未来の購買行動にも影響する。

 書籍のベストセラーランキングについて因果関係を調べた研究でも、単に売れている本がランキング入りするというだけではなく、ランキングに掲載されること自体が、その後の売上を一定程度押し上げる効果が確認されている。とりわけ、それまで読者に広く知られていなかった作家では効果が大きく、すでに著名な作家では比較的小さい傾向が示されている。

 ここには非常に分かりやすい理由がある。誰もが知っている作家の新刊なら、ランキングを見なくても買う人は多い。しかし名前を知られていない作家にとって、「ベストセラーに入った」という情報は読者がその本を見る理由そのものになり得る。

 結果を示す数字が、次の結果を生み出すのである。

 この意味で、ベストセラーという言葉には不思議な二重性がある。それは「売れた本」という過去形であると同時に、「みんなが読んでいるのだから読んでみよう」という未来への誘惑でもある。

それでも「平積みにすれば売れる」と単純化してはいけない

 ここまで読むと、平積みされた本と売上には強い関係があるように見える。しかし、ここに統計の罠がある。

 仮に調査をして、平積みの本が平均百冊売れ、棚に差してある本が平均二十冊しか売れていなかったとしても、「平積みにすると売上が五倍になる」と結論づけることはできない。

 なぜなら、最初から売れる可能性の高い本ほど平積みに選ばれているからである。

 有名作家の新刊、映画化作品、受賞作、広告量の多い作品、発売前から予約の多かった作品と、ほとんど知られていない本を比べれば、もともとの販売力が違う。その差を無視して「平積みだから売れた」と考えると、原因と結果を取り違えることになる。

 この問題は、因果関係を考えるときに非常に重要である。

 売れたから平積みされたのか、平積みにされたから売れたのか。

 実際には、おそらく両方が起きている。

 研究で厳密に調べるなら、似た条件の本を無作為に平積みと通常棚へ振り分け、価格、在庫数、宣伝量、店舗、販売期間などをなるべく同じにして比較する必要がある。現実の書店でこのような実験を大規模に行うことは容易ではないため、平積みそのものの効果を一つの数字で示すことは難しい。

 したがって科学的に最も慎重な言い方をすれば、平積みは「売上を必ず増やす装置」ではなく、「本が認識される機会を増やし、条件によっては購入確率を押し上げる可能性のある装置」ということになる。

 文学的な響きは少し弱くなるが、現実はこちらのほうがおもしろい。書店には一方向の単純な因果関係ではなく、複数の原因が絡み合う世界が広がっているからである。

一冊の成功は、なぜ次の成功を呼ぶのか

 本が売れ始める過程を追っていくと、その複雑さはさらによく分かる。

 ある読者が一冊の本を買う。その本を別の人に薦める。書店員が売れ方に気づく。平台へ移される。表紙を見る人が増える。販売数が伸びる。ランキングに入る。ランキングに入ったという事実が記事になる。別の書店も目立つ場所へ置く。

 こうして、最初は小さかった動きが次の動きを呼び込み、やがて誰の目にも見える「ヒット」へ変わることがある。

 ここまで来ると、「本当に良い作品だったから売れた」という説明だけでは足りないことが分かる。しかし逆に、「宣伝がうまかったから売れただけ」と片づけるのも同じくらい雑である。

 作品に魅力がなければ、たとえ一度は目立つ場所へ置かれても、読者の評価が続かないことはある。一方で、どれほど優れた作品でも、存在を知られなければ読者と出会うことができない。

 作品の価値と露出の効果は敵同士ではない。むしろ、この二つが出会ったときに初めてヒットが生まれる可能性が高くなる。

平積みから消えたとき、本は価値を失ったのか

 書店で本を見ていると、昨日まで入口に二十冊積まれていた本が、数週間後には棚に一冊だけ差し込まれていることがある。その姿を見ると、作品の価値まで下がったような奇妙な錯覚を覚える。

 しかし本の中身は一文字も変わっていない。

 変わったのは、本の周囲にある環境である。

 新刊だった本が既刊になり、新しい新刊が入ってくる。社会的な話題だった本が日常へ戻り、ニュースだった作品が一冊の本へ戻る。平台から棚へ移された瞬間、その本は初めて「目立たせてもらわなくても見つけてもらえるか」という別の競争に入る。

 ここに出版の世界の残酷さと面白さがある。

 発売直後にはほとんど注目されなかった作品が、何年もたってから突然発見されることがある一方で、大ベストセラーだった本が数年後には店頭から消えていることもある。売上の速さと作品の寿命は、同じ時計では動いていない。

 文学にとって、このずれはむしろ重要なのかもしれない。

 その年に何十万冊売れた本が百年後にも読まれているとは限らず、発売時にはほとんど売れなかった本が後世の古典になることもある。市場は「いま何を読む人が多いか」を測ることはできても、「何が長く読むに値するか」を完全には決められない。

平台に並んでいるのは、本だけではない

 それでは最初の問いに戻ろう。

 書店の平積みは「売れている本」を並べているのか。それとも「売れる本」を作っているのか。

 答えは、どちらか一方ではない。

 売れているから積まれる本があり、売れそうだから積まれる本があり、積まれたことでさらに売れる本がある。そして、その売上が次の陳列を呼び、ランキングや口コミがその循環をさらに強くする。

 原因と結果は一本道ではなく、輪になってつながっている。

 しかも、その輪を回しているのは書店だけではない。出版社の営業も、書店員の判断も、新聞やテレビの記事も、読者の口コミも、そして昨日一冊の本を買った名も知らない誰かも、少しずつ次の日の平台を作っている。

 そう考えると、平台に積まれているのは本だけではない。

 出版社の期待があり、書店の予測があり、読者の選択があり、その時代の関心がある。

 書店の入口に積まれた二十冊の本は、単なる在庫の山ではなく、「いま、この本が読まれるかもしれない」という多くの人間の予測が、一時的に形になったものなのである。

私たちは本を選んでいるのか、それとも選ばれた本から選んでいるのか

 私たちは書店で本を選ぶとき、自分の意思で選んでいると思っている。それは間違いではない。しかし、その自由は何もない空間で働いているわけではない。

 入口には入口に置かれた本があり、目線の高さには目線の高さへ置かれた本があり、ランキングにはランキング入りした本がある。私たちは、その環境のなかで選択している。

 だからといって、読者が書店に操られているという話でもない。

 平台の本を手に取ってもいいし、無視して棚の奥へ進んでもいい。ベストセラーを読むこともできれば、誰も話題にしていない一冊を見つけることもできる。重要なのは、自分の選択の前に、すでに誰かの選択が存在していると知ることなのだろう。

 次に書店へ行ったとき、入口に積まれた本を見ながら、ほんの一瞬だけ考えてみてもいい。

 「私はこの本を選んだのだろうか。それとも、この本が私の目に入るところまで、誰かが先に選んでいたのだろうか。」

 そして、おそらく答えはその両方である。

 書店とは、本を売る場所であると同時に、出版社、書店員、読者、メディア、そして偶然が互いに働きかけながら、「一冊の本と一人の人間が出会う確率」を絶えず変化させている場所なのだ。

 平積みは、売上を測る温度計でありながら、その温度をわずかに変えてしまう暖房器具でもある。そのことに気づいたとき、いつも見慣れた書店の平台は、単なる商品の山ではなく、人気が生まれ、増幅され、ときには消えていく瞬間を目の前で見せてくれる、小さな文化市場の実験場に見えてくるのである。

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作品保存と現代倫理の衝突

 古い小説を読んでいると、それまで滑らかに進んでいた視線が、ある一語のところで突然止まることがある。物語の筋が難しいわけでも、文章が古めかしいからでもない。かつては新聞や雑誌にも現れた呼称が、いまでは人を傷つける差別語と考えられていたり、障害、病気、出自、民族などについて、現代ならまず許容されない表現が何気なく使われていたりするからである。

 そこで、ごく自然な疑問が生まれる。いま読んで不快な言葉なら、現代の言葉に直してしまえばよいのではないか。しかし文学について考え始めると、この「直せばよい」という発想は、思った以上に厄介である。一つの差別語を削除することは、現代の読者への配慮になる一方、その版を読む人から、かつて社会の中で実際に使われていた差別の言葉を見えにくくすることにもなるからだ。

 もちろん、一冊の現代版から言葉を削除したところで、歴史的事実そのものが消滅するわけではない。初版本や研究資料が保存されていれば、過去にその表現が存在したことは確認できる。それでも、多くの人が読む普及版だけが現代的な表現に置き換えられていけば、一般の読者が過去の社会に触れる入口から、その時代特有の生々しさが少しずつ取り除かれていくことになる。

 過去の文学を現代の読者に届けるために、われわれはどこまで文章を書き換えてよいのだろうか。それとも、過去の醜さまで含めて原文を残すべきなのだろうか。この問いが難しいのは、どちらを選んでも、何か大切なものを守る代わりに別の何かを失う可能性があるからである。

『破戒』をきれいな言葉にしたら、何が残るのか

 日本文学でこの問題を考えるとき、島崎藤村の『破戒』は避けて通りにくい作品である。1906年に刊行されたこの小説は、被差別部落出身であることを隠して生きる小学校教師、瀬川丑松を主人公とし、出自を知られることへの恐怖、社会の偏見、自己告白をめぐる苦悩を描いている。作品の中心に差別問題が存在していることは明らかだが、その本文には、現在では使用を避けるべき被差別部落民への蔑称も登場する。

 現在、青空文庫で『破戒』を読もうとすると、そこには現代では不適切とされる表現が含まれていることを示す注意が置かれている。しかし本文そのものは、現代的な言葉に置き換えられてはいない。この対応は、差別的な言葉を肯定しているというより、過去の本文と現在の倫理的評価を分離して提示しようとする方法と考えた方がよい。

 ここに、この問題の核心が見えてくる。『破戒』は差別を主要な問題として描いた作品であるにもかかわらず、その作品自体が現代の読者には差別的と受け取られる言葉を含んでいる。そのため、「差別を扱った作品なのだから差別語を消すべきだ」という考えと、「差別がどのような言葉によって人間を傷つけていたのかを知るためにも原文を残すべきだ」という考えが、同じ作品の中で衝突するのである。

 もし本文の差別語をすべて穏当な表現へ変更すれば、物語そのものは読めるだろう。しかし丑松が自分の出自を知られることをなぜそれほど恐れていたのか、当時の社会で人間を分類する言葉がどれほど強い力を持っていたのかは、いくらか見えにくくなるかもしれない。差別は抽象的な「偏見」として宙に浮いていたのではなく、人間が実際に口にする言葉となり、学校、職場、地域社会の中で人を傷つける現実として存在していたからである。

 ところが、この説明だけで『破戒』を「差別と闘った進歩的な作品」として安全な場所に置くこともできない。『破戒』そのものについても、被差別部落の描き方や登場人物の認識をめぐって、後世さまざまな批判が行われてきた。つまり問題は、「差別を告発した作品にたまたま古い言葉が残っている」という単純な話ではなく、差別を描こうとした文学作品自身もまた、その時代の社会認識から完全には自由ではなかった、というところにある。

 だから『破戒』を読むことは、藤村が正しかったか間違っていたかを判定する作業ではない。作品が差別を描きながら、同時にその時代の限界も抱えていた可能性まで読むことなのである。

作者が書き直すことと、後世の私たちが直すこと

 『破戒』の問題をさらに複雑にするのは、作品そのものに改訂の歴史があることである。藤村は生前に本文へ手を入れており、後年の版では多くの変更が加えられている。そのため、「文学作品の文章には一字たりとも触れてはいけない」という考えも、そのままでは成立しない。

 文学史を見れば、作者が自分の作品を書き直すことは珍しくない。連載時と単行本で文章が違う作品もあれば、再版のたびに表現を変更する作家もいる。その場合、われわれが「原文」と呼んでいるもの自体、一つしか存在しないとは限らない。

 しかし、作者が自分の作品を書き直すことと、作者の死後に編集者や出版社が現代の倫理観に合わせて文章を変更することは、同じ「改訂」という言葉で括るには性質が違う。作者による改稿であれば、新しい文章も作者自身の表現である。それに対して後世の編集者が「現在ならこの言葉の方が望ましい」と判断して変更すれば、その瞬間から本文には別の時代の倫理判断が入り込む。

 一語くらいなら問題ないと思えるかもしれない。しかし、その一語を許せば、次は人物の呼び方が問題になり、その次には女性観や家族観、病気や障害についての表現が問題になるかもしれない。さらに進めば、登場人物の発言や行動まで「現代の読者には不適切だから」という理由で変更することも理屈の上では可能になる。

 そこで百年後の世界を想像してみるとよい。現在われわれが当然と思って使っている言葉や価値観のいくつかは、おそらく未来から見れば奇妙であり、ときには残酷に見えるだろう。その未来の編集者が、21世紀の小説を22世紀の倫理基準に合わせて修正し、「現代の読者が安心して読めるようにしておきました」と差し出してきたとき、それを作品の保存と呼べるのかという問題が残る。

 過去の文章を読むとは、過去の人間が現在と同じ価値観を持っていたことを確認する行為ではない。むしろ、同じではなかったことを知るための行為でもある。

「原文だから仕方がない」でも終われない

 ここまで考えると、「それなら何も変えず、原文を残せばよい」という結論になりそうだが、それもまた十分ではない。

 文学作品は、古文書のように研究室の中だけで保存されているわけではない。書店で売られ、学校や図書館で読まれ、電子化され、新しい読者が今日も初めてその言葉に出会う。作品は過去の文化財であると同時に、現在も人間に作用し続けている。

 ある差別表現を歴史資料として保存することと、その言葉を何の説明もなく現代の読者へ差し出すことは別の問題である。「これは昔の文章だから」という理由だけで、その表現が生まれた背景や、なぜ現在では問題とされるのかを説明しなくてもよいことにはならない。

 とりわけ、その差別と現在も無関係ではない人々にとって、「歴史だからそのまま読め」という態度は、原文尊重というより、編集する側が説明責任を放棄しているように映る可能性がある。

 だから原文保存を選ぶなら、それに伴う責任も引き受けなければならない。なぜこの言葉を残しているのか、それがどのような歴史的背景を持つのか、現在ではなぜ使用が避けられているのかを、本文の外側から説明する必要がある。

 青空文庫は『破戒』だけでなく、芥川龍之介の一部作品についても、現在では不適切と受け取られる可能性がある表現を含むことを示しながら、本文は底本に従って公開している。ここで重要なのは、「古典なのだから問題にするな」と言っているのでも、「問題があるから削除する」と言っているのでもなく、現在の評価と過去の文章を同時に読者へ渡そうとしていることである。

注意書きを付ければ、それで解決するのか

 ただし、ここでも一つ注意しておかなければならない。注意書きを付ければ読者への心理的な負担が大きく減る、と科学的に証明されているわけではない。

 刺激の強い内容について事前に警告を示す方法については心理学的な実験研究があり、警告によって読後の不快感が大幅に減少するとは限らず、読む前の不安をわずかに高める場合もあることが報告されている。したがって、「注意書きを付ければ傷つく読者を守れる」という単純な説明は避けた方がよい。

 しかし、文学作品に付けられる解説には、読者の感情を和らげることとは別の役割がある。現在の出版社や編集者がその表現を無批判に肯定しているわけではないと示すこと、その言葉が生まれた歴史的な背景を伝えること、そして作者と現代の読者との間に存在する時間的な距離を可視化することである。

 つまり、注記や解説は「嫌な気持ちにならないための薬」というより、作品をどの時代の文章として読んでいるのかを知らせる標識に近い。

 文学には、その標識が意外に重要なのだと思う。

消してしまうと、作者の限界まで消えてしまう

 古典文学を読む面白さは、昔の偉大な作家がわれわれと同じ価値観を持っていたことを確認するところにはない。

 夏目漱石であれ、芥川龍之介であれ、島崎藤村であれ、文章の中には現代の感覚から見れば奇妙な社会観や人間観が現れる。その一部は作者個人の偏見かもしれないし、その時代にはほとんど疑問を持たれなかった社会的常識かもしれない。どこまでが個人の考えで、どこからが時代の考えなのかを考えること自体が、古典を読む面白さでもある。

 ところが、現代人にとって不快な部分を後世が一つずつ取り除けば、過去の作家は不思議なほど21世紀的になっていく。明治の作家も大正の作家も、いつの間にか現代の人権感覚を備えた人物に見えるようになり、読者は作品を安心して読めるようになる代わりに、作者が生きていた社会との距離を感じる機会を失う。

 それは作家を尊重しているようでいて、むしろ作家を別人にしてしまうことでもある。

 優れた文学を書いた人間が、あらゆる面で優れた倫理観を持っていたとは限らない。名作の中に偏見があり、見事な文章の中に現代なら受け入れられない表現があり、人間を深く描いた作家自身が別の人間について十分な理解を持っていなかったとしても、その矛盾そのものを読むことが文学なのではないか。

 古典を現在の倫理に完全に一致させようとすると、われわれは作品を読みやすくする代わりに、その作品が過去に書かれたという事実を読みづらくしてしまう。

「原文を残すか、配慮するか」という二択ではない

 この問題がしばしば混乱するのは、「原文を残すなら読者への配慮を諦めなければならない」「読者へ配慮するなら原文を書き換えなければならない」と考えてしまうからである。

 しかし実際には、その間に多くの方法がある。

 たとえば一般の成人向け文学作品であれば、本文は保存し、巻頭や巻末に歴史的背景や現在の評価について解説を置く方法がある。現在の新潮文庫版『破戒』にも、作品と差別問題を考えるための解説が収められており、読者は小説の本文だけでなく、その作品をめぐって生じてきた議論まで含めて読むことができる。

 一方、児童向けの再話や学校教材では事情が異なる。対象年齢や教育目的によって表現を変更することには十分な合理性があり、それ自体が文学の破壊とは限らない。ただし、その場合には「原文そのもの」であるかのように扱わず、現代向けに一部表現を変更した版であることや、原作をもとに再構成した文章であることを明示すればよい。

 一冊の作品に一つの版しか存在してはいけない理由はない。研究者や原文を読みたい読者のために原典を保存した版があり、一般読者向けには詳しい解説を付けた版があり、子ども向けには現代的な再話があってもよい。問題なのは複数の版が存在することではなく、変更された文章が何の説明もなく「これが作者の文章です」と提示されることである。

 こう考えると、「原文を残して説明する」という方法が比較的合理的に見えてくる。これは唯一の正解だからではない。原文を保存すること、現代の読者へ配慮すること、歴史的背景を伝えることという、互いに競合しやすい目的を、比較的同時に満たしやすいからである。

 言い換えれば、全面的に書き換える方法は現代的な読みやすさを高める代わりに原文性を失い、何の説明もなく原文を掲載する方法は原文性を守る代わりに読者へ文脈を渡さない。その中間にある「本文は残し、本文外で説明する」という方法は、どれか一つを完全に犠牲にせずに済む。

 ただし、どの価値を最も重く見るべきかは、研究用全集、一般文庫、学校教材、児童書では当然異なる。したがって、すべての本に同じ処方箋を当てはめる必要もない。

差別語を消したとき、差別まで過去になる危うさ

 この問題でもっとも警戒したいのは、不適切な言葉を削除することによって、社会そのものが少し良くなったような錯覚を持つことである。

 古い小説に残る差別表現は、不快である。しかし、その不快さは偶然そこに存在するのではなく、ある社会が実際に人間をそのような言葉で呼び、分類していた歴史から生まれている。文章だけをきれいにしても、その時代まできれいになるわけではない。

 そして、もう一つ厄介なことがある。われわれは昔の差別語を見ると、「昔の人はひどかった」と考え、そこで安心してしまいがちである。しかし、百年後の読者が21世紀の文学や新聞やインターネット上の文章を読んだとき、われわれが何気なく使っている言葉のどれかで同じように立ち止まる可能性は十分にある。

 その言葉が何であるかを、現在のわれわれはまだ知らない。

 当時の人々も、自分たちが未来から「差別的な時代」と呼ばれることを意識しながら毎日の言葉を使っていたわけではないだろう。同じように、われわれも現在の倫理を歴史の最終到達点だと思いがちだが、未来から見れば現在の常識もまた途中経過にすぎない。

 そう考えると、古典文学の不快な表現には意外な役割がある。それは過去の人間を裁く証拠であるだけでなく、「自分たちの常識もまた時代によって作られている」と現在の読者に知らせる装置でもある。

文学は、きれいに保存するものではない

 昔の文学にある差別表現を書き換えるべきかという問いに、どんな作品にも通用する一つの答えを出すことは難しい。それでも一般の文学作品について原則を置くなら、私は、原文を消してしまうよりも、まず残し、その表現が持つ歴史と現在の評価を十分に説明する方が望ましいと考える。

 ただし、それは差別語を文化財としてありがたがるという意味ではない。逆である。なぜその言葉が存在したのか、誰がその言葉によって傷つけられたのか、なぜ現在では使うべきではないのかまで含めて読める状態にしておくのである。

 文学を保存するとは、美しい文章だけを保存することではない。作者の偏見も、その時代の常識も、作品が抱えていた矛盾も、後世から見れば耐え難い社会の残酷さも保存することである。

 古い本を開き、ある言葉の前で思わず手が止まる。その瞬間は不快かもしれない。しかし編集者が先回りしてその違和感をすべて取り除いてしまえば、われわれは作品を快適に読む代わりに、「なぜこんな言葉が書かれているのだろう」と考える機会まで失ってしまう。

 過去を現代倫理によって無罪にする必要はないし、「昔だから仕方がない」と免罪する必要もない。むしろ、不快なところを不快なまま残し、それがなぜ不快なのかを考えられるようにする方が、過去に対しても現在に対しても誠実なのではないか。

 文学に必要なのは、過去をきれいに保存することではない。

 過去がきれいではなかったことまで、未来の読者が読めるようにしておくことなのである。

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表紙だけで本を買う「ジャケ買い」は浅い読書なのか

 書店を歩いていると、ときどき妙なことが起こる。買う予定などなかった一冊が、こちらを見ているように感じるのである。作者の名前に覚えはなく、書評を読んだ記憶もなく、話題になっている本でもない。それなのに棚の前を通り過ぎようとした足が止まり、気がつけばその本を手に取っている。なぜ気になったのかと尋ねられても、うまく説明できない。ただ表紙が気になった。それだけである。

 こうして本を買うことを俗に「ジャケ買い」という。もともとはレコードやCDのジャケットだけを見て購入する行為から広がった言葉だが、本についてもすっかり定着した。ただし読書の世界では、この買い方にはどこか後ろめたい響きがつきまとう。「内容も知らずに買うのは浅い」「本は中身で選ぶものだ」「デザインに釣られているだけではないか」と言われれば、たしかにもっともらしく聞こえる。

 しかし、その批判には一つ奇妙な前提が隠れている。それは、本の「中身」と「外見」は完全に別のものであり、優れた読者ほど外見を無視して中身だけを判断するはずだ、という考え方である。ところが実際の読書という行為を少し丁寧に眺めてみると、私たちは本文だけを読んでいるわけではないことが分かってくる。

本は、一行目より前から始まっている

 一冊の本を手に取った読者はいきなり本文の第一行へ到達するわけではない。最初に目に入るのは表紙であり、そこに題名があり、作者名があり、書体があり、色があり、場合によっては帯や推薦文がある。それらを眺めたあとでようやくページを開き、本文へ入っていく。

 フランスの文学理論家ジェラール・ジュネットは、題名、序文、著者名、表紙など、本文そのものではないように見えながら作品を読者へ提示する周辺的な要素を「パラテクスト」として論じた。パラテクストとは単なる飾りではなく、読者が作品へ入っていく入口でもある。この考え方に立てば、表紙は本を保護する包装紙ではなく、本文を読む以前に「これはどのような本なのだろう」と読者に予想させる装置でもあることになる。

 しかも、こうした考え方は文学理論だけにとどまらない。物語を読む前に、それが事実として書かれた文章なのか、それともフィクションとして書かれた文章なのかという情報を与えると、同じような文章を読んでいても認知処理の仕方が変化することを示した研究がある。つまり、人間は文章だけを真空状態で読んでいるのではなく、「これはどのような文章なのか」という事前情報を持った状態で本文へ入り、その枠組みを使いながら理解している。

 そう考えると、「本は一行目から始まる」という言い方さえ、少し正確ではないのかもしれない。本は読者が表紙を見た瞬間から、すでに始まりかけている。

表紙は中身を教えているのか

 もちろん、表紙だけを見て小説の内容を正確に知ることはできない。しかし、それは表紙にまったく情報がないことを意味しない。

 文学研究者のピーター・ディクソン、マリサ・ボルトルッシ、ブレイン・マリンズらは、サイエンス・フィクションやミステリーの表紙を使い、読者がそこからジャンルをどのように読み取るかを調べている。その研究では、ジャンルに慣れた読者ほど表紙から一定の特徴を読み取り、どの種類の本なのかをある程度判断できることが示された。つまり表紙には、出版社やデザイナーが意図するか否かにかかわらず、読者にジャンルや雰囲気を伝える情報が含まれている。

 たとえば、暗い色調の中に一つだけ人物の影が描かれていれば、読者はサスペンスや犯罪小説を連想するかもしれない。余白の多い白い表紙に小さな題名だけが置かれていれば、静かな文学作品を想像するかもしれないし、鮮やかなイラストと大きな文字が並べられていれば、軽快な物語を予想するかもしれない。それらの推測が正しいとは限らないが、人は何も感じずに表紙を見るわけではない。

 ここで重要なのは、「表紙には内容についての手がかりがある」ということと、「表紙を見れば作品の文学的価値まで分かる」ということを区別することである。前者には一定の実証的な裏付けがあるが、後者まで証明されているわけではない。美しい表紙だから優れた小説であるとも、地味な表紙だから退屈な本であるとも言えない。表紙が教えてくれるのは、作品そのものの価値というより、作品へ入る前に形成される予想なのである。

「中身で選ぶ人」は、本当に中身だけを見ているのか

 それでも、「私は表紙では本を選ばない」と言う人はいるだろう。書評を読み、あらすじを確認し、文学賞を調べ、作者の経歴を見たうえで本を選ぶ方が、ずっと慎重で知的な行為に思える。

 だが、ここには少し厄介な問題がある。まだ読んでいない本の中身を、購入する前に完全に知ることはできないからである。もし本文を最後まで読んでしまえば、その時点ではもう「買う前の判断」ではない。したがって本を選ぶという行為そのものが、必ず何らかの外部情報から未知の内容を推測する作業になる。

 ある人は表紙を使い、ある人は作者名を使い、ある人は書評を使う。芥川賞を受賞したから読む人もいれば、好きな評論家が推薦したから読む人もいるし、新聞の書評欄で高く評価されていたから手を伸ばす人もいる。しかし文学賞、批評、推薦文もまた、本文そのものではない。

 しかも実験研究では、文学作品を読む前後に与えられた批評情報によって、その作品に対する評価が変化することも示されている。つまり読者は本文だけを完全に独立して評価しているわけではなく、誰がどのように評価した作品なのかという情報からも影響を受ける。

 そうなると、表紙の色に惹かれて本を買う人だけを「外見に左右されている」と批判するのは少し不公平である。文学賞に左右される人も、評論家に左右される人も、ベストセラーランキングを参考にする人もいる。違うのは、判断に利用している手がかりの種類なのである。

美しい表紙は、文章まで美しく見せるのか

 もっとも、表紙には明らかに販売戦略という側面がある。本は文学作品であると同時に商品でもあり、出版社は読者に手に取ってもらうために装丁を考える。色、写真、イラスト、書体、紙の質感、題名の位置までが、本を売るための設計の一部になり得る。

 心理学には、対象の目立った特徴に対する評価が別の特徴の判断にまで影響する「ハロー効果」と呼ばれる現象が知られている。人間や商品について、美しい、信頼できそうだ、洗練されているといった第一印象が、その対象についての別の評価へ波及することがある。

 ここから考えれば、美しい装丁を見た読者が、文章にもどこか洗練された印象を抱く可能性はある。ただし、この部分は慎重に考えなければならない。一般的なハロー効果の研究があるからといって、「美しい本の表紙を見せれば、その小説の文章評価が必ず上がる」とまで直接証明されたことにはならない。外見と中身の情報が食い違った場合には、単純な好印象の波及とは異なる判断が生じることもある。

 したがって問題は、「表紙に影響される読者は愚かだ」ということではない。人間の認知そのものが、第一印象や周辺情報からある程度の影響を受ける。その事実を知ったうえで、自分がいま何を根拠に作品を評価しているのかを考え直せるかどうかの方が重要なのである。

 美しい表紙に惹かれ、「なぜ自分はこの本を文学的だと感じたのだろう」と振り返る読者と、有名作家の新刊だから優れているに違いないと考える読者のどちらが深く読んでいるかは、表紙を見たかどうかだけでは決められない。

ジャケ買いに残されている「偶然」

 ジャケ買いにはもう一つ、現代の読書環境だからこそ興味深く見える側面がある。それは、本との出会いに偶然を残していることである。

 現在、本を選ぶ方法は驚くほど合理化されている。インターネットで題名を検索すれば感想が並び、購入履歴をもとに次の本が薦められ、SNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)を開けば「今年読んでよかった本」や「絶対に読むべき十冊」が次々と流れてくる。失敗を避けたい読者にとって、これほど便利な時代はない。

 しかし推薦という仕組みには、別の問題もある。過去の好みとの類似性ばかりを強く重視すれば、ミステリーを読む人にはミステリーが、歴史書を読む人には歴史書が薦められ続けることになり、推薦が過度に専門化する可能性がある。そのため推薦システムの研究では、単に利用者の好みに合うかどうかだけではなく、新しさ、多様性、そして「予想していなかったが価値のある発見」を意味するセレンディピティも重要な評価対象になっている。

 もっとも、推薦アルゴリズムそのものが必ず偶然を奪うわけではない。現在では意外性や多様性を意図的に取り入れる推薦も研究されているため、「アルゴリズムがあるほど読書の世界は狭くなる」と単純に言い切ることはできない。

 それでも書店を歩いていて、普段なら検索すらしなかった一冊の表紙に突然引っかかるという経験には、推薦とは違う種類の偶然がある。これまで詩集を買ったことのない人が、奇妙な表紙だけを理由に詩集を買うこともあれば、名前さえ知らなかった海外作家の小説を持ち帰ることもある。その選択は合理的とは言いにくいかもしれないが、本を読む価値の一つが「自分では選ばなかった世界に連れていかれること」にあるなら、この非合理性は必ずしも欠点とは言えない。

 よく調べなかったからこそ出会える本がある。これは、情報不足というジャケ買いの弱点が、そのまま偶然性という長所へ反転する瞬間でもある。

期待は読書を邪魔するのか

 表紙だけでなく、書評や帯や口コミも読者に期待を与える。「感動する小説」「最後に驚く結末が待っている」「人生観が変わる一冊」と先に知らされれば、読者はその情報を持った状態で本文を読むことになる。

 認知心理学的に考えれば、これは不思議なことではない。人間は先に持った知識や期待を利用しながら、新しい情報を理解するからである。物語について事前に与えられた情報が読み方や評価に影響する研究もあり、読書とは文章をただ受動的に受け取る作業ではなく、予想し、修正し、意味を組み立てながら進んでいく行為だと考える方が自然である。

 ただし、期待を与えられれば必ず作品がつまらなくなるわけでもない。物語の結末を事前に知らされた場合でも、条件によっては楽しさが失われず、むしろ評価が高くなることを示した実験さえある。つまり事前情報は読書を単純に「悪くする」のではなく、注意の向け方や物語の理解の仕方そのものを変える可能性があると考える方が適切である。

 その意味では、表紙という事前情報には少し独特なところがある。書評のように「ここが素晴らしい」と具体的な答えを示すのではなく、色や形や雰囲気によって漠然とした予感を与えるからである。表紙を見た読者は何かを期待するが、その期待にはまだ多くの余白が残っている。

表紙と中身が違ったとき、読書は失敗なのか

 もちろん、ジャケ買いには失敗がある。表紙は素晴らしかったのに、読み始めるとまったく好みに合わないこともあれば、静かな文学作品だと思って買ったら想像とはまるで違う物語だったということもある。

 しかし、その失望さえ少し面白い。なぜ自分はこの表紙からこんな物語を想像したのか、出版社はなぜこの作品にこの装丁を選んだのか、表紙が予感させた世界と本文が作る世界はなぜずれたのか。そこまで考え始めれば、失敗だったはずのジャケ買いが、読者の期待と作品との関係を考える材料へ変わる。

 そもそも読書とは、予想が何度も修正される行為でもある。最初は嫌な人物だと思った主人公に途中から共感することがあり、軽い物語だと思った小説が思いがけず重い問題へ踏み込むこともある。第一印象が間違っていたという経験そのものが、作品を読む面白さになることさえある。

 だから表紙から受けた印象と本文が一致しないことを、ただ「装丁にだまされた」と片づける必要はない。そのずれに気づくこと自体が、すでに読書なのである。

「浅い入口」から深く入ることはできる

 ここまで考えてくると、そもそも「ジャケ買いは浅い読書なのか」という問いの中に、少し不自然な飛躍があることが分かる。

 本を購入するときに持っている情報の量と、その本を読んだあとにどこまで深く考えるかは、本来別の問題だからである。

 表紙だけを見て買った人が作品を何度も読み返し、作者のほかの作品へ進み、その時代背景まで調べることはあり得る。一方で、書評を読み、文学賞を確認し、作品研究まで調べて慎重に選んだ本を、数ページ読んだところで本棚へ戻すこともある。

 つまり、「購入時の情報が少ない」という事実だけから、「読後の理解も浅い」と結論することはできない。

 むしろ私たちは、読書という行為に知らないうちに妙な道徳を持ち込んでいるのかもしれない。名作を読む方が知的であり、難しい本を読む方が立派であり、流行している本より古典を選ぶ方が深く、表紙ではなく書評を読んで選ぶ方が正しい。そのような価値観が強くなればなるほど、本を読むことは楽しみではなく、自分がどれほど文化的な人間であるかを証明する行為へ近づいてしまう。

 だが、本との出会いの理由など、もっと雑然としていてよいのではないだろうか。題名がおかしかったから、友人が読んでいたから、装丁が美しかったから、書店の隅に一冊だけ残っていたから、好きな人が読んでいたから、あるいは何となく気になったから。そんな偶然の入口から、一生忘れられない一冊に出会うこともある。

浅いのは「ジャケ買い」ではなく、そこで判断を止めること

 では、表紙だけで本を買うジャケ買いは浅い読書なのだろうか。

 買う瞬間だけを見れば、たしかに持っている情報は少ない。表紙しか見ていないのだから当然である。しかし、それは「情報が少ない」ということであって、「読書が浅い」ということとは同じではない。

 本当に浅いと呼ぶべきなのは、むしろ最初の印象を最後まで修正しない態度なのかもしれない。おしゃれな表紙だから文学的に優れていると決めつけ、難しそうな装丁だから自分には理解できないと避け、かわいらしいイラストだから軽い作品に違いないと片づける。そこで判断を止めてしまえば、たしかに表紙しか見ていない。

 反対に、表紙に惹かれて本を買い、読み進めながら「思っていた本とは違う」と気づき、その違いによって最初の印象を書き換えていくなら、ジャケ買いは立派な読書の入口になる。

 考えてみれば、人との出会いにも少し似ている。最初は顔や服装や声に惹かれることがあるが、付き合いが始まれば、その人の考え方や弱さや意外な一面を知り、第一印象は何度も修正されていく。入口が外見だったからといって、その関係全体まで浅いとは限らない。

 本も同じなのだろう。

 書店の棚の前で、知らない一冊が妙に気になることがある。その理由をうまく説明できなくてもよい。表紙が美しいからでも、色が好きだからでも、題名との組み合わせが不思議だからでもいい。その本を手に取った瞬間、私たちはまだ作品についてほとんど何も知らない。

 けれども、読書とはもともと「まだ知らないもの」に手を伸ばす行為である。表紙という薄い一枚の向こう側に何があるのか分からないからこそページを開き、予想し、裏切られ、考え直しながら先へ進む。そう考えるなら、ジャケ買いとは読書から最も遠い行為なのではなく、知っている情報の少なさを承知のうえで未知の世界へ入っていくという意味で、むしろ読書という行為の原型に意外なほど近いのかもしれない。

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