リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 誰かについて「あの人は仕事ができる」「文章はうまいが内容が浅い」「この作家は昔ほど面白くない」と語るとき、私たちはごく自然に他人を評価している。映画を見れば星を付け、本を読めば感想を書き、店に行けば口コミを残す。インターネットとSNS(Social Networking Service・社会的ネットワークを形成するサービス)の普及によって、私たちは以前よりもはるかに多く、商品や作品だけでなく、人間そのものまで数値や短い言葉で評価し、その評価を他人と共有するようになった。

 そのため「批評」という言葉にも、どこか採点に似た響きがまとわりついている。優れているか劣っているか、正しいか間違っているか、見る価値があるかないかを判定することが批評なのだと思われやすい。しかし、小林秀雄の文章を読んでいると、批評という仕事はそのような単純な採点とはかなり違うことに気づかされる。むしろ、他人を簡単に評価してしまう態度から離れ、目の前にある人物や作品が本当はどのようなものなのかを見続けるところに、批評の核心があるのではないかと思えてくる。

評価することは、案外簡単である

 人を評価するためには、何らかの物差しが必要になる。文章なら分かりやすさ、映画なら面白さ、政治家なら政策や実績、料理なら味や価格というように、私たちは意識するかどうかにかかわらず、何らかの基準を持ち出して対象を測っている。その基準そのものが悪いわけではない。試験に採点基準がなければ点数は付けられないし、商品を比較するときにも価格や性能という尺度は必要である。

 問題は、物差しを持った瞬間に、その物差しで測れる範囲だけを対象そのものだと思ってしまうことである。たとえば、ある小説を「展開が遅い」という理由で低く評価するとする。その判断自体は間違いとは言えない。しかし、なぜその小説は遅く書かれているのか、その遅さによって作者は何を感じさせようとしているのか、さらに考えれば、自分はいつから「展開が速い作品ほど面白い」という基準を持つようになったのかという問いまで現れてくる。

 ここまで来ると、対象を測っていたはずの物差しそのものが、今度は問いの対象になる。評価は対象を物差しの上に置くが、批評はときとして、その物差しを握っている自分の手まで見ようとするのである。

小林秀雄にとって、批評は欠点探しではなかった

 文春文庫版『考えるヒント』に収められた「批評」で、小林秀雄は、対象を正しく評価することを、その対象に固有の性質を明らかにすることとして考えている。ここでいう評価は、現在よく見かける「5点満点で3.8」といった意味とはかなり異なる。対象を外側から序列に並べるのではなく、「これはいったい何なのか」と、そのものにしかない性質へ近づいていこうとするのである。

 これは、今日の感覚からすれば少し不思議な批評観かもしれない。一般に批評家という言葉から想像するのは、作品の弱点を鋭く指摘し、作者も気づかなかった矛盾を暴き出す人物ではないだろうか。しかし小林の考えでは、単に貶すことそのものには、それほど大きな批評性はない。欠点なら比較的簡単に挙げることができるからである。文章が長い、説明が足りない、論理が弱い、古臭いといった言葉を並べれば、それらしい批評文は作れるが、その言葉だけでは対象の固有性についてほとんど何も発見していないこともある。

 他人の欠点を指摘しているとき、私たちはしばしば安全な場所に立っている。自分は観察する側であり、相手は観察される側である。その距離が保たれているかぎり、自分自身の価値観が揺さぶられることは少ない。ところが、本当に強い作品や人物に出会うと、その安全な距離が崩れることがある。理解できないのに無視できず、嫌いなのに気になり、間違っていると思うのに、そこには自分の知らない何かがあるように感じる。そのような抵抗のある対象に出会ったときこそ、批評は始まるのかもしれない。

「分からないもの」をすぐ裁かない

 人間には、曖昧な状態を長く抱えるよりも、何らかの結論を得て不確実性を小さくしたいという傾向がある。心理学でも、曖昧さに耐えながら判断を保留することには個人差があり、はっきりした答えを早く求めようとする傾向が研究されている。

 そのため、分からないものに出会ったとき、評価によってひとまず結論を与えてしまうことは、不確実さから逃れる一つの方法になる。「つまらない」「時代遅れだ」「難しいだけだ」と名前を付ければ、その対象について考え続けなくても済む。しかし、名前を付けたことと、理解したことは同じではない。

 小林秀雄の文章を読んでいると、一つの作品、一人の人物、一つの思想の前で長い時間立ち止まっているような感覚を覚えることがある。それは結論を出せないからではなく、簡単な結論によって対象を処理してしまうことを警戒しているからだろう。考えるとは、すぐに答えを出すことではなく、答えが出ない状態にも一定の時間とどまることなのかもしれない。

 ある人物について「私はこの人が嫌いだ」と感じる場合も同じである。嫌いという感情を否定する必要はない。しかし批評するのであれば、「嫌いだから価値がない」というところで止まることはできない。なぜ自分はその人を嫌うのか、その人物のどのような性質が自分に抵抗を感じさせるのか、その抵抗の中に自分自身の価値観がどのように現れているのかまで考え始めれば、批評の矢印はいつの間にか対象だけでなく自分にも向かっている。

 批評とは、他人を裁くために高い場所へ上ることではなく、対象と自分との間に何が起きているのかを注意深く見ることなのではないだろうか。

星の数では見えなくなるもの

 インターネット以後、私たちは対象そのものに触れる前から、その対象についての評価を目にすることが増えた。本を買えば星が並び、映画を選べば点数が表示され、飲食店を探せば口コミの平均値が先に目に入る。数字は便利である。知らない店が100軒並んでいれば、一軒ずつ確かめることなどできないから、評価は大量の情報を圧縮してくれる。

 しかし、その便利さには代償もある。心理学や行動研究では、事前に示された他者の評価が、その後の判断に影響することがあると知られている。つまり、星が高いと知らされてから作品を見る場合と、評判が悪いと知らされてから見る場合では、私たちは必ずしも完全に同じ条件で対象を見ているわけではない。

 「これは傑作なのだ」と思って見れば、傑作らしい理由を探しやすくなり、「評判が悪い」と聞いて見れば、欠点へ注意が向きやすくなる可能性がある。もちろん、人間が完全な白紙の状態で何かを見ることは難しい。だからこそ、自分が何を見ているのかだけでなく、どのような先入観を通して見ているのかまで意識する必要がある。

 SNSでは、この問題がさらに分かりやすい形で現れる。ある人物が発言したとき、その内容を十分に読む前に、「この人は信用できる側か」「信用できない側か」と分類してしまうことがある。一度そのような人物像を作ると、その後の発言も、その人物像に沿って解釈されやすくなることがある。批評しているように見えながら、実際には目の前の発言ではなく、自分の中ですでに完成している人物像を批判しているのである。

 評価があふれる時代だからこそ、小林秀雄的な意味での批評、すなわち評価より先に対象そのものを見ようとする態度は、むしろ以前より難しくなっているのかもしれない。

「褒める」とは、お世辞を言うことではない

 小林秀雄は批評について、「人をほめる特殊の技術」とまで表現している。これは一見すると奇妙に聞こえる。批評家が何でも褒めてしまったら、批評ではなくなるようにも思えるからである。しかし、ここでいう「褒める」は、お世辞を言うことではない。

 本当に誰かを褒めようとすると、それは意外に難しい。「すごいですね」「素晴らしいですね」と言うだけなら簡単だが、何がどのように優れているのかを正確に言葉にしようとすれば、その人物や作品をかなり注意深く見なければならない。他人にはない特徴を見つけ、それがどのように働いているのかを理解しなければならないからである。

 反対に、人を貶す言葉には、対象を取り替えてもそのまま使えるものが少なくない。「能力がない」「浅い」「古い」「分かっていない」といった言葉である。もちろん、褒めることが常に貶すことより難しいという科学的法則があるわけではない。しかし、小林秀雄のいう批評という観点から見れば、対象の固有性を発見するためには、単に欠点を並べるよりも、その対象がなぜそのような形をしているのかを丁寧に見なければならないということなのだろう。

 優れた批評とは対象を無条件に称賛することではなく、その対象が「それである理由」を探し当てることなのである。その過程で欠点が見えることもある。しかし欠点を見つけること自体が目的なのではなく、一つの人間、一つの作品、一つの思想がなぜそのような形になったのかを理解しようとした結果として、その限界も見えてくるのである。

批評されるのは、実は自分でもある

 ここまで考えると、批評という行為には奇妙な反転が起きる。他人を批評していたはずなのに、最後には批評している自分自身の姿が見えてくるのである。

 なぜ自分はこの小説を退屈だと感じたのか。なぜこの人物の言葉には腹が立つのか。なぜこの音楽には心を動かされ、この絵には何も感じなかったのか。対象について真剣に考えれば考えるほど、自分が当然だと思っていた感覚や価値観が姿を現してくる。

 これは、小林秀雄が「批評とは自分自身を批評することである」と単純に定義しているという意味ではない。ただ、小林の批評観を押し広げて考えるならば、対象を正確に見ようとする行為は、同時に、その対象を見ている自分の判断基準を浮かび上がらせる行為にもなる。

 だから本当の批評には、どこか危険なところがある。相手を評価して終わるつもりだったのに、自分の考えの狭さを発見してしまうかもしれない。間違っていると思っていた人物の中に、自分にはなかった視点を見つけることもあるだろう。嫌っていた作品を読み続けるうちに、自分の方が変わってしまうことさえある。

 採点なら、採点者は変わらなくてもよい。しかし批評は、ときに批評する側まで変えてしまう。

他人を評価する前に、もう少し見てみる

 私たちは評価から逃れて生きることはできない。仕事では判断が必要であり、選挙では候補者を選び、買い物では商品を比較しなければならない。何も評価しないことが知的に優れた態度なのではない。問題は、評価した瞬間に考えることまで終えてしまうことである。

 「あの人はこういう人だ」と言ったあとに、本当にそうだろうかともう一度見る。「この作品はつまらない」と感じたあとに、なぜ自分にはつまらなかったのかを考える。「間違っている」と判断した相手についても、なぜその人にはその考えが必要なのかを考えてみる。そのわずかな余白に、単なる評価から批評へ移る入口がある。

 批評とは、他人に点数を付ける技術ではないのだろう。むしろ、点数を付けたくなる自分を少し疑いながら、目の前の対象が本当は何であるのかを見続ける技術なのである。

 人を見ることと、人を評価することは同じではない。評価は一瞬でできることがあるが、見ることには時間がかかる。そして小林秀雄が私たちに残した「考えるヒント」の一つは、おそらくその時間を惜しまないことにある。誰かを理解したと思ったところから、もう一度その人を見る。作品について結論を出したところから、もう一度読み始める。そうして見直すたびに、対象についての理解だけでなく、自分が何を基準に世界を見ていたのかまで少しずつ変わっていく。

 批評の終わりに残るものは、他人について下した判決ではないのかもしれない。むしろ、「分かった」と思っていた相手が以前より複雑に見え、自分自身についても以前より簡単には説明できなくなったという感覚ではないだろうか。もしそうだとすれば、批評とは他人を評価するための技術である以上に、世界を簡単に決めつけないための技術なのである。

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 私たちは、ものをたくさん知っている人を見ると、その人はきっとよく考えているのだろうと思う。歴史上の出来事を正確に覚え、政治や経済について数字を挙げ、難しい言葉を使って説明できる人を前にすると、そこには確かな知性があるように感じられる。もちろん知識は大切であり、何も知らずに正しく考えることはできない。しかし小林秀雄の『考えるヒント』を読んでいると、「知っていること」と「考えていること」の間には、私たちが普段ほとんど意識しない深い溝があるのではないか、という疑いが生まれてくる。

 小林秀雄は、決して知識を軽蔑した人ではない。古典を読み、歴史を調べ、哲学者の言葉と格闘し続けた彼自身が、途方もない読書家であり、学ぶことに執着した人だった。だからこそ彼は、知識の価値だけでなく、その危うさも知っていたのだろう。知識は人間に力を与えるが、同時に「自分は分かっている」という安心も与える。そして、その安心が、ときとして考えることを終わらせてしまう。

知識は、考える時間を短くしてくれる

 知識には文明を支える重要な働きがある。一度分かったことを保存し、次の人へ渡すことができるという性質である。富士山の高さを知るために、私たちは毎回測量をする必要はない。江戸幕府がいつ始まったのかを確認するために、一人ひとりが古文書を読み直す必要もない。誰かが調べ、確かめ、体系化した知識を受け取ることができるからこそ、人間は前の世代が到達した地点から先へ進むことができる。

 言い換えれば、知識とは他人が費やした時間を受け取る仕組みでもある。だから知識が増えるほど、人間は効率よく世界を理解できるようになる。しかし、その便利さの中には小さな罠が潜んでいる。答えを知ってしまうと、問題そのものまで理解したような気分になってしまうからである。

 この感覚は、現代の私たちにはとりわけ身近だろう。分からない言葉があれば検索し、歴史上の事件が気になれば数秒で概要を読み、病気について知りたければ専門的な説明までたどり着くことができる。かつてなら何時間も図書館を歩かなければ得られなかった情報が、今では数分もかからず手に入る。

 しかし、「答えを見つけた」ということと、「その問題を考えた」ということは同じではない。

 この違いは、現代の認知科学から見ても興味深い。人間には、自分が実際に理解している以上に物事を理解していると思い込む傾向があり、仕組みを詳しく説明するよう求められて初めて、自分の理解が思ったほど深くなかったことに気づく場合がある。研究ではこれを「説明深度の錯覚」と呼んでいる。私たちは、ある事柄を聞いたことがあり、説明を読んだことがあり、言葉の意味を知っているというだけで、その仕組みまで理解したように感じやすいのである。

 小林秀雄が心理学的な実験を知っていたわけではない。しかし彼が繰り返し警戒した「分かったつもり」という問題と、現代の認知科学が明らかにしている人間の理解の錯覚には、不思議な重なりがある。

小林秀雄が嫌ったのは、知識ではなく「考えたつもり」だった

 『考えるヒント』に収められた「良心」で、小林は「能率的に考える事」と「合理的に考える事」を取り違えてはいけないと述べ、能率ばかりを求めれば、結局は「考える手間」を省くことになると警戒する。そして彼は、物を考えるとは、対象をつかんだら簡単には離さないことだと言う。考えれば考えるほど、かえって分からなくなることさえあるというのである。

 一見すると奇妙な話である。普通なら、考えれば考えるほど分かるようになるはずだと思う。しかし実際には、長く一つの問題に向き合った人ほど、その問題が最初に見えたほど単純ではなかったことに気づく。入口では一つの答えしか見えなかったものが、奥へ進むにつれて例外や矛盾や別の立場を見せ始め、簡単には結論を出せなくなる。

 それは思考の失敗ではない。むしろ、対象の複雑さを知ったということである。

 この意味で、小林のいう「考える」は、問題を素早く処理して答えを出すこととはかなり違っている。「考えるという事」では、本居宣長の言葉を手がかりに、考えることが単なる頭の操作ではなく、対象と「あひむかふ」こと、つまり物と親身に交わることとして語られる。対象の外側に立って説明するだけではなく、自分自身もその問題の中へ入り込んでしまうのである。

 ここから、「知識」と「思想」の違いについて考えるための手がかりが得られる。

知識と思想は、小林自身が分けた二つの箱ではない

 ここで一つ注意しておかなければならない。小林秀雄自身が『考えるヒント』の中で、「知識とはこういうものであり、思想とはこういうものである」と明確な二分法を提示しているわけではない。本記事で考える「知識と思想の違い」は、小林の「知ること」「考えること」「対象と交わること」についての議論を手がかりに、そこから現代の私たちなりに引き出す問いである。

 この区別をしておかないと、小林自身が述べていない定義を、あたかも彼の言葉であるかのように扱うことになってしまう。しかし逆に言えば、小林の文章が面白いのは、明快な定義を渡してくれるからではなく、読者の側に新しい問いを発生させるからでもある。

 では、知識と思想はどこで分かれるのだろう。

 たとえば、「人間はいつか死ぬ」という事実を知らない大人はほとんどいない。それは誰にでも共有できる知識であり、文章にすれば一行で済む。しかし、親しい人を失った人、自分の老いを身体で感じ始めた人、大きな病気を経験した人にとって、「人間はいつか死ぬ」という同じ一文は、それ以前とはまったく違った重さを持つことがある。

 言葉は同じである。知識としての内容も変わっていない。それでも、その言葉が自分の中で占める場所は変わってしまう。死が辞書の中の言葉ではなく、自分自身の時間に関わる問題になったからである。

 思想とは、もしかすると、知識がこのように人間の内部へ入り込み、単なる説明では済まなくなったところから始まるものなのかもしれない。

思想は、暗記することができない

 知識はある程度まで外から受け取ることができる。教科書を読み、講義を聞き、数字を覚えれば、その知識は自分の中へ入ってくる。しかし思想は、同じようには受け取れない。

 たとえば、哲学者の本を読んで「人間にとって自由は重要である」という考えに深く共感したとする。その文章を覚え、意味を説明し、別の人に語ることまではできる。しかし、自分とまったく違う意見を持つ人の自由まで認めるのか、自分に不利益が生じてもその原則を守るのかという場面に立ったとき、初めてその言葉の本当の重さが現れる。

 「弱い人を助けるべきだ」という考えも同じである。抽象的に賛成することは難しくないが、そのために自分の税負担が増えるとなれば、言葉は突然現実の問題になる。「地方を守るべきだ」と言うことも簡単だが、人口が減り続ける地域ですべての道路、学校、病院、公共施設を維持するために、誰がどれだけ負担するのかという問題まで進めば、きれいな言葉だけでは答えられなくなる。

 このとき問われているのは、何を知っているかだけではない。知ったうえで、何を選ぶのかである。

 思想とは、立派な言葉を持っていることではなく、言葉が現実と衝突したときに、それでも何を大切だと考えるのかという判断の中に現れるのではないだろうか。

借り物の思想ほど、簡単に口にできる

 本を読むと、ときどき世界が急に整理されたように感じることがある。自分ではうまく説明できなかった問題を、ある哲学者や作家が驚くほど鮮やかな言葉で言い表してくれる。「そうか、自分が言いたかったのはこれだったのだ」と思う瞬間は、読書の大きな喜びの一つである。

 しかし、その喜びにも危うさがある。

 他人の思想は、完成された形で読むことができる。書き手が何年も悩み、失敗し、考え直した末にたどり着いた結論を、読者は数分で読むことができる。そこに至るまでの迷いや矛盾を経験せず、完成した言葉だけを手に入れることができるのである。

 すると、ある奇妙な錯覚が起こる。相手の説明を理解しただけなのに、自分自身もそこまで考えたような気分になってしまう。

 ここでも「分かったつもり」の問題が現れる。説明を読むことと、自分で説明できることは違い、自分で説明できることと、その考えを現実の判断に使えることもまた違う。一つの思想を理解したと思っていても、反対意見を突きつけられた途端に説明できなくなったり、自分に都合の悪い事例を前にすると原則を変えてしまったりすることがある。

 だから、本を読んで思想を得るというのは、本当はかなり面倒な仕事なのだろう。他人の言葉を覚えるだけでは足りない。その言葉を自分の経験にぶつけ、反論を考え、ときには捨て、何年か後にもう一度拾い直す必要がある。

「深く考えた人ほど慎重になる」とは限らない

 ここには、もう一つ注意すべき点がある。

 私たちは、ともすると「深く考えている人は必ず謙虚であり、浅い人ほど断言する」と言いたくなる。しかし、これは少し美しすぎる話である。認知科学や心理学の研究を見ても、知識が増えれば自動的に自分の理解を正確に評価できるようになるわけではなく、専門家であっても自分の説明能力や判断を過大評価することはある。

 したがって、専門家だから慎重とは限らず、断言しているから浅いとも限らない。

 それでも、一つの問題を長く考え、反対意見や例外や失敗に繰り返し出会った人が、問題を単純な一色では見にくくなるということはあるだろう。深く考えるとは、必ずしも結論が弱くなることではなく、自分の結論が成り立つ条件と、成り立たない条件まで見えるようになることなのかもしれない。

 重要なのは、言葉の強さではなく、その言葉がどれほど現実によって試されてきたかである。

知識だけでは「何を選ぶべきか」は決まらない

 現代社会では、判断のためのデータは昔とは比較にならないほど豊富になった。人口統計、医療データ、経済指標、環境データ、世論調査など、私たちは社会を理解するための大量の数字を持っている。

 しかし数字が増えれば、正しい答えが自動的に一つに決まるわけではない。

 ある地域の病院を維持すれば、財政負担がどれだけ増えるかを計算することはできる。病院までの移動時間や救急搬送時間を測ることもできる。しかし、「そこまで費用をかけても病院を残すべきか」という最後の問いは、数字だけでは決められない。

 同じことは教育でも環境でも社会保障でも起きる。データは選択の結果を予測するために不可欠だが、何を大切にすべきかという価値そのものを決めるわけではない。

 哲学では昔から、事実についての命題と、「何をすべきか」という規範的な判断の間には距離があると考えられてきた。「こうなっている」という事実をどれほど詳しく知っても、それだけから「だからこうすべきだ」という結論が自動的に出るわけではないのである。

 ここで初めて思想が必要になる。

 ただし、これは科学が「思想の必要性」を証明したという意味ではない。データだけでは価値判断が完結しないという事実から、私たちは自分が何を優先するのかを考えざるを得ない。その判断の積み重ねを、本記事では思想と呼んでいるのである。

知識が増えた時代ほど、思想は簡単にはならない

 私たちは、知識が増えれば社会の対立は減っていくように想像することがある。皆が正確な情報を持てば、合理的な答えに近づくはずだと考えるからだ。

 しかし現実には、同じデータを見ても異なる結論に至ることがある。

 経済成長を優先すべきだという人もいれば、環境への負荷を減らすことを優先すべきだという人もいる。医療では一日でも長く生きることを重視する考えもあれば、生活の質を重視する考えもある。地域政策でも、人口が減っても公共サービスを広く残すべきだという考えと、限られた資源を集約すべきだという考えが衝突する。

 どちらか一方が必ず無知だから対立しているわけではない。同じ事実を知っていても、何を重要だと思うかが違えば結論は変わる。

 だから知識社会は、思想を不要にするのではなく、むしろ思想の問題を見えやすくする。情報が少なかった時代には、選択肢そのものを知らずに済んだ。しかし選択肢を知ってしまった時代には、「では、どれを選ぶのか」という問いから逃げにくくなる。

思想とは、変わらない答えではない

 思想という言葉には、ときどき硬い響きがある。一度決めた信念を生涯守り抜くこと、揺るがない世界観を持つことが思想なのだと思われがちである。

 しかし本当に考えることが、対象と長く付き合うことだとすれば、思想はむしろ変化することがあって当然ではないだろうか。

 二十歳のときに正しいと思っていたことが、四十歳になると単純に見えることがある。四十歳で確信していたことが、六十歳で揺らぐこともある。家庭を持ち、仕事をし、人を失い、老い、病気を経験するうちに、同じ言葉が別の意味を持つようになる。

 それは思想がなかった証拠とは限らない。むしろ現実と向き合い続けたために、思想が形を変えたとも考えられる。

 小林秀雄の「考える」という言葉にも、完成した理論を築いて安心するという響きはあまり感じられない。対象をつかんだら簡単に離さず、分からなくなっても考え続ける。そこには、答えを所有するというより、問いと長く付き合う姿勢がある。

 思想とは、正解を持つことではなく、何を問い続けてきたかの痕跡なのかもしれない。

知識は持つことができるが、思想には動かされる

 ここまで考えてくると、知識と思想の違いを一つの比喩で表すことができる。

 知識は、私たちが「持つ」ものである。歴史の年代を覚え、統計の数字を知り、制度の仕組みを理解すれば、その知識は頭の中に蓄えられていく。

 しかし思想は、ときとして私たちの方を動かす。

 ある歴史的事実を知っただけでは、今日の行動は変わらないかもしれない。しかし、その事実について何年も考え、自分なりの歴史観ができれば、現在の政治を見る目まで変わることがある。一冊の小説について詳しい知識を持っていても人生は変わらないかもしれないが、ある登場人物の生き方が何十年も心に残れば、自分が何かを決断するとき、その記憶が思いがけず現れることがある。

 そのとき、言葉は単なる情報ではなくなっている。

 物を見る角度になり、迷ったときの判断基準になり、本人が意識しないところで選択に影響する。だから、人間の思想はその人が語る言葉だけでは分からないことがある。何を選び、何を捨て、何に時間を使い、何を許せず、何を守ろうとするのかを見る方が、その人の思想を正確に表している場合さえある。

良い本は、知識を増やすだけでなく、分からなくさせる

 『考えるヒント』を読んでいて妙なのは、読み終えたあとに「小林秀雄について詳しくなった」という満足だけでは終わらないことである。常識、良心、歴史、学問、哲学といった、誰でも知っているはずの言葉が、小林の文章を通ると急に扱いにくくなる。

 それまで分かっていたつもりの言葉に、まだ考えていなかった部分が残っていることに気づくからだ。

 普通の教科書なら、読んだ後には分かることが増える。しかし、世の中には読んだ後で分からないことが増える本がある。知識は増えているのに、以前ほど簡単には断言できなくなる。

 一見すると不親切な本である。

 しかし考えてみれば、それこそ本当に考え始めた証拠なのかもしれない。

 良い本は、必ずしも答えを与えてくれる本ではない。むしろ、それまで答えだと思っていたものを疑わせる本がある。一度読んで理解したと思ったのに、十年後に読み返すとまるで違う文章に見えることがある。それは本が変わったのではない。読んでいる人間の経験が変わり、以前は見えなかった問題が見えるようになったのである。

私たちは何のために知るのか

 検索技術が発達し、人工知能によって大量の情報を短時間で整理できる時代になると、「知っていること」そのものの希少価値は以前より小さくなるかもしれない。質問すれば、多くの事実はすぐに得られる。

 しかし、だから考える必要がなくなるわけではない。

 むしろ反対である。

 情報を集める仕事が容易になるほど、「どの情報を信じるのか」「何を重く見るのか」「異なる価値が衝突したときに何を選ぶのか」という問題が残る。そこには、自動的な答えがない。

 小林秀雄の『考えるヒント』が今なお妙に古びないのは、彼が未来の情報社会を予言したからではない。彼がもっと古く、もっと単純で、それゆえ消えない人間の癖を見ていたからではないだろうか。

 人間は、知らないことを不安に思う。そして答えを得ると安心する。安心すると、考えることをやめたくなる。

 けれども、本当に重要な問題ほど、一度の説明では終わらない。

 幸福とは何か、自由とは何か、よく生きるとは何か、社会は何を公平と考えるべきか、自分は何を大切にして残りの時間を使うのか。こうした問いには大量の知識が必要でありながら、どれほど知識を集めても、最後には自分自身で考えなければならない部分が残る。

 知識は、答えへ近づくための力である。

 思想は、その答えを自分の人生の中で引き受けようとした跡である。

 だから両者は敵ではない。思想のない知識は、集めただけの情報になりやすく、知識のない思想は、思い込みや独善へ傾きやすい。必要なのはどちらか一方ではなく、知ったことを何度も現実にぶつけ、疑い、考え直す往復なのである。

 そしてその往復には、どうしても時間がかかる。

 私たちは以前よりはるかに速く「知る」ことができるようになった。

 しかし、速く知ることができる時代だからこそ、小林秀雄が投げかけた問いは重くなる。

 知ったあとで、あなたは本当に考えただろうか。

 あるいは、分かったと思ったところで、考えることをやめてはいないだろうか。

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