リベラル文庫(九条レオン)

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人はなぜ、わかったと思いたがるのか~小林秀雄の考えるヒントから第1弾

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 難しい話を聞いているとき、私たちはしばしば「つまり、こういうことでしょう」と言いたくなる。政治でも経済でも、歴史でも文学でも、複雑に入り組んでいた話が一つの言葉にまとまると、急に世界が整理されたような気がする。「なるほど」と思えた瞬間には独特の安心があり、それまで自分の前に立ちはだかっていた問題を、ようやくこちら側へ引き寄せることができたように感じられる。

 しかし、その安心は本当に理解した証拠なのだろうか。私たちは理解したから「わかった」と感じるだけではなく、わからない状態を終わらせたいから「わかった」と感じることもあるのではないか。

 小林秀雄の『考えるヒント』を読んでいると、そんな疑問が次第に浮かんでくる。この随筆集には、「常識」「良心」「歴史」「平家物語」など、一見すると互いに遠く離れた題材を扱った文章が収められている。ところが小林は、それらについて便利な結論を用意してくれるわけではない。むしろ私たちが何となく知っていると思っていた言葉を手に取り、その意味を確かめ直し、いつの間にか慣れによって見えなくなっていた問題をもう一度こちらへ差し戻してくる。

 そのため、『考えるヒント』は必ずしも「わかりやすい本」ではない。何かを知らなかった読者に知識を与え、「これで理解できました」と安心させる種類の本とも少し違う。ある問題について考えていたつもりが、気づけば歴史や人間の経験、言葉そのものの問題へ移っており、読み始めたときよりも問いが深くなっていることさえある。そこにあるのは、答えを渡すというより、読者がすでに持っている答えを揺さぶるような思考である。

 もちろん、小林秀雄自身が「人間はなぜ『わかった』と思いたがるのか」という心理学的な問いを立て、その仕組みを科学的に説明したわけではない。この記事の題名にある問いは、『考えるヒント』を現代から読み返したときに浮かび上がってくる問いである。しかし興味深いことに、小林の文章から感じ取れる「簡単に理解したことにしてはいけない」という警戒は、現在の認知心理学が明らかにしてきた人間の思考の癖とも、意外なほどよく響き合う。

「わかった」という感覚は、理解そのものではない

 私たちは学校でも仕事でも、物事を理解することを求められてきた。「わかりましたか」と聞かれて「まだわかりません」と答え続けるより、「要するにこういうことです」と説明できる人のほうが、理解の速い人、頭のよい人と評価されやすい。複雑な情報を整理する能力はもちろん重要であり、社会生活には欠かせない。しかし問題は、整理できたことと、対象そのものを十分に理解したこととが、しばしば同じものとして扱われてしまうことである。

 現代の認知心理学には、Illusion of Explanatory Depth(説明深度の錯覚・実際以上に自分が仕組みを理解していると思い込む現象)と呼ばれる研究領域がある。人は日常的に使っている物や社会制度について、「だいたい仕組みはわかっている」と感じていても、いざ詳細に説明しようとすると、意外なほど説明できない場合がある。自分の理解の浅さは、説明を求められて初めて明らかになるのである。

 たとえば、自転車がどうして倒れずに走れるのか、冷蔵庫がどのような仕組みで食品を冷やしているのか、あるいは日常的に利用している制度がどのような仕組みで成立しているのかについて、私たちは名前や大まかな役割を知っているだけで「だいたいわかっている」と感じやすい。しかし、その仕組みを順序立てて説明しようとすると、途中で言葉に詰まることがある。そこで初めて、知っていることと理解していることの間に思った以上の距離があったことに気づく。

 この現象は、『考えるヒント』を読むときにも興味深い補助線になる。「常識」「歴史」「良心」といった言葉は、いずれも私たちが日常的に知っていると思っている言葉である。ところが、それでは常識とは何か、歴史とは何を知ることなのか、良心とはどこから生まれるのかと問われると、急に簡単ではなくなる。言葉を知っていることが、その言葉の指し示す現実を理解していることと同じではないからだ。

 小林の文章は、この「知っている」という感覚の表面を破るところから始まることが多い。だから読者は、読んで知識が増えるだけではなく、それまで知っていると思っていたものまで、いったんわからなくなる。普通なら不便に感じられるその状態こそ、小林にとっての「考える」という行為に近かったのではないかと思えてくる。

人はなぜ、わからない状態から早く抜け出したがるのか

 では、なぜ私たちは「わからない」という状態に長くとどまることを嫌うのだろう。

 心理学では、Need for Cognitive Closure(認知的完結欲求・曖昧な状態を終わらせ、明確な答えを得たいとする心理的傾向)という考え方が研究されてきた。人間には、物事がはっきりしない状態を不快に感じ、できるだけ早く一定の判断や説明を得たいとする傾向がある。その程度には個人差があり、また置かれている状況によっても変化するため、「人間は必ず曖昧さを嫌う」と単純化することはできないが、答えのない状態が心理的な負担になり得ること自体は、決して珍しい現象ではない。

 考えてみれば、日常生活でも思い当たる場面は多い。原因のわからない出来事に遭遇したとき、私たちは何らかの理由を見つけると安心する。誰かの理解しにくい行動にも、「あの人はこういう性格だから」と説明を与えれば、それ以上考えなくても済む。社会で起きた複雑な事件についても、「結局、原因はこれだ」と一つの説明を得ると、世界が再び秩序を取り戻したように感じる。

 だが、一つの説明を得たことと、その説明が正しいことは別である。さらに言えば、その説明によって対象のすべてが理解されたわけでもない。わからない状態に耐えられないとき、人間は正しい答えよりも、答えが存在すること自体に安心してしまう可能性がある。

 ここに「わかったつもり」が入り込む余地が生まれる。

 人間にとって理解は、単なる知的作業ではない。理解することによって世界を予測し、自分の位置を確かめ、次にどう行動すればよいかを決めることができる。その意味では、物事を説明可能な形へ整理する能力は、生きるために必要な働きでもある。しかし、その便利な能力は、ときとして現実の複雑さを切り落としてしまう。

歴史を「説明」したとき、何が失われるのか

 この問題を考えるうえで、小林秀雄が歴史について書いた文章は興味深い。

 歴史上の出来事は、後世から見ればかなり整理して説明することができる。ある戦争が起きた原因を挙げ、政治制度の変化を整理し、人物の行動を分類し、最後に結果を示せば、一つの筋道だった物語になる。教科書を書くためにはそのような整理が必要であり、歴史学において因果関係を検討することも当然重要である。

 しかし、実際にその時代を生きていた人々は、後世の歴史家が知っている結末を知らなかった。敗北する人物も、自分が将来「敗北した人物」として教科書に載ることを知りながら生きていたわけではなく、成功する人物も、その時点では成功を保証されていなかった。彼らが生きていたのは、未来がまだ確定していない時間であり、そこには期待も誤算も偶然も恐れも迷いもあった。

 小林の歴史についての思考を、単純に「歴史学への批判」と呼ぶのは適切ではない。むしろ彼が強く意識していたのは、歴史を説明することと、過去に実際に生きた人間の経験に触れることとの間にある距離だったと考えたほうがよい。後世の私たちは、結果を知っているからこそ、過去を必要以上に整った物語にしてしまう危険を持っている。

 歴史上の人物を「改革者」「保守派」「革命家」「独裁者」と名づければ、その人物について何か重要なことを理解したように感じられる。しかし、一つの名前が与えられた瞬間、その人物の矛盾した行動や、分類からはみ出す言葉が見えにくくなる場合もある。名前は理解を助けるが、同時に現実の複雑さを隠す幕にもなる。

 ここで重要なのは、「説明してはいけない」ということではない。説明なくして歴史研究は成立しない。問題は、説明が完成したと感じた瞬間に、説明しきれなかったものまで存在しなかったことにしてしまわないかという点にある。

 わかりやすさが増すことと、真実に近づくことは、必ずしも同じではないのである。

言葉を知ることで、世界まで知った気になる

 人間が「わかった」と感じやすいもう一つの理由は、言葉そのものの便利さにある。

 私たちは「民主主義」「自由」「良心」「伝統」「進歩」「常識」といった言葉を日常的に使用している。意味を尋ねられれば、ある程度の説明もできるだろう。そのため、それらについて自分は知っていると思いやすい。しかし、同じ言葉を少し深く掘り下げてみると、その安定した意味は急に揺らぎ始める。

 たとえば「良心」とは何なのだろう。人はどのようなときに良心を感じるのか。自分の価値観を良心と呼んでいるだけではないのか。時代や社会によってその内容が異なるなら、良心にはどこまで普遍性があるのか。一つの言葉から問いを広げていくだけで、それまで単純に見えていたものが急に複雑になる。

 これは言葉が不完全だからではない。むしろ言葉とは、複雑すぎる世界を人間が扱うための優れた道具である。ただし便利な道具であるからこそ、名前をつけたことを理解したことと取り違えやすい。

 小林秀雄の文章には、その取り違えを嫌う姿勢が繰り返し現れる。抽象的な概念だけを積み上げるのではなく、作品を読み、人間を見、歴史上の言葉と向き合い、自分自身の経験にまで戻って確かめようとする。そのため、ときには遠回りをしているように見える。しかし、最短距離で結論へ向かうことそのものが、本当に考えることなのかを疑えば、その遠回りには別の意味が見えてくる。

わかりやすい説明ほど、本当に正しいのか

 さらに現代心理学には、Processing Fluency(処理流暢性・情報を理解したり処理したりするときに感じる容易さ)という考え方がある。人間は、読みやすい文章、聞き慣れた表現、何度も見た情報などを処理するとき、それを比較的自然に受け入れやすくなることがある。

 つまり、「わかりやすい」と感じることと、「正しい」こととは、本来別であるにもかかわらず、人間の感覚の中では両者が近づいてしまう場合があるのである。

 これは日常でも経験する。複雑な説明よりも、短く明快な説明のほうが説得力を持つことがある。長い議論よりも、「原因はこれだ」と言い切る人のほうが自信に満ちて見える。政治的なスローガンや広告の言葉が短いのも偶然ではない。人間の頭は、複雑な説明よりも、筋道の明快な説明を扱いやすい。

 もちろん、わかりやすい説明が間違っているという意味ではない。優れた科学者や教師は、複雑なことを正確さを失わずにわかりやすく説明できる。問題になるのは、「わかりやすいから正しい」「納得できたから理解した」と無意識に判断してしまうことである。

 その意味で、「わかった」という感覚は一種の信号にすぎない。それは理解が進んだことを知らせている場合もあれば、単に説明が頭へ入りやすかったことを知らせているだけの場合もある。

説明があふれる時代に、考える時間はどうなるのか

 小林秀雄の時代と現在との大きな違いの一つは、説明を手に入れる速度である。

 現在では、わからない言葉を検索すれば数秒で説明が出てくる。歴史上の事件も文学作品も、政治制度も科学用語も、多くの場合はすぐに概要を知ることができる。さらに生成型人工知能を利用すれば、専門的な説明を自分の理解しやすい水準まで言い換えたり、長い文章を短く要約したりすることもできる。

 これは明らかに大きな進歩である。かつてなら専門書を探し、何冊もの資料を読み比べなければ得られなかった情報へ、非常に短い時間で到達できるようになった。その利便性を否定する必要はない。

 ただし、ここには別の問題も生まれる。

 問いを持った直後に説明が得られるようになると、「わからないまま考えている時間」は短くなる。かつてなら一日考え続けていた疑問が、数十秒で一つの回答へ収束することもある。その回答が正確であれば知識の獲得としては効率的だが、問いを抱えていた時間の中で起こるはずだった別の思考まで不要になるとは限らない。

 人間は、外部の道具へ記憶や計算を委ねることができる。心理学では、Cognitive Offloading(認知的オフローディング・記憶や思考の一部を外部の道具へ任せること)という概念で研究されている。紙に予定を書くことも、電卓を使うことも、検索エンジンに情報探索を任せることも、この広い意味での外部化に含めて考えることができる。

 それ自体は悪いことではない。人類は文字、書物、計算機などを使いながら、頭の外へ情報を保存することによって知的活動を発展させてきた。生成型人工知能もまた、使い方によっては、人間の思考を奪うものではなく、問いを広げたり、自分とは異なる見方を確かめたりする道具になり得る。

 したがって、「人工知能を使うと思考力が低下する」と単純に結論づけるのは適切ではない。重要なのは、人工知能を使ったかどうかではなく、どの部分まで任せたかである。情報を探す作業を任せ、その情報を自分で比較し、疑い、考えるのであれば、人工知能は思考を助ける。しかし問いを立てることから判断までをすべて外部へ渡し、得られた回答をそのまま「理解」として受け取れば、考える過程のかなりの部分を省略することになる。

 この違いは小さいようで大きい。

要約を読んだことと、本を読んだことは同じではない

 この問題は文学に戻ると、さらにわかりやすくなる。

 一冊の小説について、そのあらすじを数百字で読むことはできる。登場人物、事件、結末、作者の時代背景まで知れば、その作品についてかなり多くの情報を持つことになる。しかし、それでその小説を読んだことになるだろうか。

 おそらく、そうではない。

 文学作品では、何が起こったかだけでなく、どの順序で起こったか、どんな言葉で語られたか、読者がどこで立ち止まり、どこで誤解し、どこで予想を裏切られたかという時間そのものが作品を形づくっている。要約によって物語の情報を得ることはできても、その時間まで短縮することはできない。

 小林秀雄の文章についても同じことが言える。「小林秀雄は何を言いたかったのか」と一文にまとめようとすると、その瞬間に彼の文章で最も重要だったものを落としてしまう可能性がある。結論だけではなく、ある言葉から次の言葉へ移っていく思考の運動そのものが文章になっているからである。

 だから『考えるヒント』という題名は、改めて興味深く見えてくる。「考える答え」でもなければ「考え方の公式」でもない。あくまでヒントなのである。ヒントは答えの代わりにはならない。受け取った人間がそこから自分で考えなければ意味を持たない。

「わからない」は、知性の空白ではない

 私たちは普通、「わからない」という状態を知識の不足として扱う。知らないものを調べ、理解し、わかる状態へ移れば問題は解決したと考える。

 しかし、本当に重要な問いの中には、一度の説明で終了しないものがある。

 人間とは何か。歴史とは何か。美とは何か。幸福とは何か。自由とは何か。

 こうした問いには、研究によって明らかにできる部分もあれば、哲学や文学が何世紀にもわたって考え続けてきた部分もある。一つの定義を覚えれば終了する種類の問題ではない。そのため、ここでは「わからない」という状態そのものが、単なる失敗ではなくなる。

 自分にはまだわからないと気づくことは、自分が何を知らないかを知ることでもある。

 説明深度の錯覚の研究が興味深いのも、この点である。人は実際に説明してみることによって、自分の理解が思っていたほど深くなかったことに気づく。その瞬間、理解は後退したように見える。しかし実際には、「わかったつもり」から「どこがわからないかがわかった」状態へ進んでいる。

 知性とは、常に答えを持っていることではないのかもしれない。自分の理解がどこまで届き、どこから先がまだ曖昧なのかを見分ける力もまた、知性の重要な部分である。

人は「わかった」ことで、世界を自分の大きさに縮める

 世界そのものは、人間が理解しやすいようにはできていない。

 一人の人間の性格でさえ、完全には説明できない。普段は優しい人がある場面では冷酷になることもあり、慎重な人が突然大胆な決断をすることもある。社会現象ならさらに複雑で、経済、制度、文化、偶然、人間の感情など、いくつもの要因が同時に動いている。

 それでも私たちは、世界に筋道を求める。それは必要な行為でもある。科学も歴史研究も日常の判断も、複雑な現実から一定の構造を見つけることによって成立している。

 問題は、自分が見つけた筋道と、現実そのものを同じものだと思ってしまうことである。

 「この人はこういう人だ」「この事件の原因はこれだ」「この小説が言いたいことはこれだ」と言い切った瞬間、それ以外の可能性を見る必要がなくなる。説明は世界を見通す窓になる一方で、ときには世界を囲い込む壁にもなる。

 人は「わかった」と感じることで、世界を所有したような安心を得る。しかし実際には、世界を完全に理解したのではなく、自分の理解できる大きさまで世界を縮めただけなのかもしれない。

 小林秀雄の文章が容易に一つの結論へ収束しないのは、その縮小を警戒していたからだと読むことができる。考えるとは、世界を自分の頭の中へきれいに収納することではなく、対象に触れることによって、それまでの自分の理解のほうを変えていく作業なのではないか。対象を本気で見れば、ときには自分が持っていた説明が壊れる。だがそれは理解の失敗ではなく、より深い理解へ向かう入口になる。

昨日わかったものを、今日もう一度わからなくしてみる

 人間は「わかった人」でありたがる。知らないと言うより知っていると言いたいし、迷っているより結論を持っていたい。そのほうが他人にも説明しやすく、自分自身も安心できる。

 しかし私たちの日常を振り返れば、一度わかったと思ったものが、後になってまったく違って見える経験はいくらでもある。

 長く付き合った人について、ある出来事をきっかけに「こんなことを考えていたのか」と驚くことがある。若いころには退屈だった小説が、何十年後かに読むと、こちらへ直接語りかけてくるように感じられることもある。作品の文字は同じなのに、読む人間の経験が変わったため、そこから見えるものが変わる。

 そう考えると、「一度わかったものは、もうわかっている」という考えそのものが怪しくなってくる。本当に考える価値のあるものは、何度考えても同じ姿を見せるとは限らない。

 だから古典は読み返される。もし一度の説明ですべてが理解できるのであれば、古典には要約だけが残ればよい。しかし実際には、同じ作品について何十年、何百年と新しい読み方が生まれ続けている。それは人間が愚かで、いつまでたっても正解に到達できないからではない。作品と人間との関係そのものが、一つの答えには閉じないからである。

 『考えるヒント』も、「小林秀雄の思想を理解するための答え集」として読むより、こちらがすでに持っている理解を問い直す本として読むほうが面白い。

 「なるほど」と思った瞬間に、もう一度「本当にそうだろうか」と考える。その説明は対象そのものから生まれたものなのか、それとも自分が安心するために作ったものなのか。別の見方をすれば、同じ出来事は違って見えないだろうか。

 情報を得ること自体に大きな労力を必要とした時代に比べれば、現在は答えへ到達するまでの時間が驚くほど短くなった。だからこそ、手に入れた答えをそのまま理解と取り違えず、いったん立ち止まり、もう一度問いへ戻る力は以前にも増して重要になっているのかもしれない。

 考えるということは、答えを持たないことではない。答えを得ても、それですべてが終わったとは思わないことである。自分の理解にはまだ外側があると知り、わからないものを性急に切り捨てず、ときには昨日まで「わかっていた」ものを、今日もう一度わからなくしてみる。

 小林秀雄が『考えるヒント』という題名に込めた意味を一つに決めることはできない。しかし、答えそのものではなく「ヒント」という言葉が選ばれていることを考えると、この本は今の時代にも奇妙なほどよく似合っている。

 私たちの周囲には答えがあふれている。検索すれば説明が出てきて、人工知能に尋ねれば、さらに読みやすい形に整理してくれる。それでも最後に、その答えで本当に納得してよいのかを判断するのは、自分自身である。

 「わかった」と言ったところで考えるのを終えるのではなく、そこからもう一度考え始める。その小さな習慣こそが、答えの多すぎる時代における、新しい意味での「考えるヒント」なのかもしれない。

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