リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

いま映画を見ようと思えば、スマートフォンを取り出して検索すればいい。上映中の作品も、映画館の場所も、開始時刻も、空席も、その場で分かる。コンサートに行きたければアーティスト名を検索し、演劇を見たければ劇団の公式サイトを開けばいい。便利になったというより、私たちは「情報を探している」という感覚さえ持たなくなった。

けれども、かつて東京で映画を見ようと思った若者は、そう簡単には目的の映画へたどり着けなかった。ロードショーが終わった作品が、どこの二番館に移ったのか。小さな劇場で面白そうな芝居をやっていないか。名前だけ聞いたバンドは、今月どこでライブをするのか。情報は確かに存在していたが、それぞれ別の場所に散らばっていた。

その散らばった文化情報を、一冊の雑誌の中に集めてしまったのが『ぴあ』だった。

1972年7月、当時大学生だった矢内廣らによって創刊された『ぴあ』は、映画、演劇、コンサートなどの情報をまとめた月刊誌として出発した。当時は「情報誌」という言葉そのものが一般的ではなかったという。ぴあ株式会社自身が後に『ぴあ』を「文化・街歩きの道しるべ」と表現しているのは、この雑誌が果たした役割をよく表している。

しかし、『ぴあ』が若者の必需品になった理由は、単に情報量が多かったからではない。

そこには、インターネットが存在しなかった時代ならではの、「自分で文化を探す」という行動の形があった。

見たいものがあっても、どこで見られるか分からなかった

『ぴあ』誕生の原点には、ひどく実用的な不便があった。

創刊者の矢内廣は映画好きの学生だったが、ロードショー料金は学生には高かった。そのため、ロードショーが終わった映画を二番館、三番館で安く見る。しかし問題は、その映画が次に「いつ、どこの映画館にかかるのか」を簡単に知る方法がなかったことだったという。そこで映画情報を一冊にまとめ、さらに演劇や音楽、美術展なども加えれば便利なのではないかという発想が生まれた。

この話は、現代から見ると意外なほど重要である。

現在なら、私たちは作品名から場所を探す。しかし当時は、作品を知っていても場所が分からないことがあり、逆に町を歩いて初めて面白そうな映画や芝居に出会うこともあった。

つまり文化と人との間に、いまよりはるかに大きな「情報の距離」が存在していた。

『ぴあ』は、その距離を縮めた。

しかし、距離を完全になくしたわけではない。むしろ、この中途半端さこそが面白かった。

ページをめくっていると、目的だった映画の隣に知らない映画が載っている。その下には小劇場の公演があり、さらにページを進めれば聞いたことのないミュージシャンのライブがある。

検索ではない。

一覧するのである。

ここに、現在のインターネットとの決定的な違いがある。

『ぴあ』を読むことは、予定を立てることだった

『ぴあ』は、一般的な雑誌のように文章を順番に読むものではなかった。

買ったらページをめくりながら、映画のタイトルを見る。上映館を確かめ、上映時間を見る。コンサートの日程を調べ、劇場の場所を確認する。そして、「土曜日はここへ行こう」と考える。

つまり『ぴあ』は、読む雑誌であると同時に、行動を組み立てる道具だった。

これは旅行における時刻表に少し似ている。

鉄道時刻表を読む人が、列車の発車時刻だけを見ているわけではないように、『ぴあ』を開く若者も、単に上映時間だけを調べていたのではない。その情報を組み合わせながら、自分の一日を設計していた。

午後から映画を一本見る。そのあと新宿を歩き、夕方からライブを見る。途中で喫茶店に入るかもしれない。本屋にも寄るかもしれない。

『ぴあ』に載っていたのはイベント情報だったが、その向こう側にあったのは「自分は今度の休日をどう過ごすか」という生活そのものだった。

だから、一冊の雑誌が若者のバッグの中に入った。

読み終えれば捨ててしまう雑誌ではなく、何度も開く必要があったからである。

若者は『ぴあ』によって東京を覚えていった

情報を調べることと、街を知ることもまた、当時は切り離せなかった。

1979年、『ぴあ』誌上に「ぴあMAP」が登場する。最初に扱われたのは新宿東口だった。映画館、劇場、ライブハウス、美術館などを載せる一方、一般的な地図に必要な行政界などは省き、実際に歩いて道路を確認して作られたという。その後、この地図は若者から支持され、1982年にはムックとして刊行された。

ここには、『ぴあ』という雑誌の性格がよく表れている。

普通の地図が「街そのもの」を描くのだとすれば、『ぴあ』の地図は「遊ぶための街」を描いていた。

新宿、渋谷、池袋、銀座、下北沢。

街の名前は単なる地名ではなく、「映画を見る街」「ライブへ行く街」「芝居を見る街」という文化的な意味を持つようになる。

地方から東京へ出てきた学生にとってはなおさらだっただろう。東京という巨大な都市は、最初から理解できる場所ではない。しかし『ぴあ』を開き、映画館へ行き、劇場へ行き、その間を歩くうちに、街の位置関係が身体の中に入ってくる。

そう考えると、『ぴあ』は情報誌であると同時に、一種の都市案内書でもあった。

東京という街の使い方を教える雑誌だったのである。

有名なものと無名なものが、同じページに並んでいた

『ぴあ』にはもう一つ、当時としては特徴的な思想があった。

ぴあ株式会社が振り返っている創刊当時の編集方針には、客観情報を中心として批評性をできるだけ排し、情報を選ぶのは読者自身であるという考え方があった。さらに、メジャーなものとマイナーなものを平等に扱うことも掲げられていた。

この思想は、『ぴあ』が若者に支持された理由を考えるうえで非常に重要である。

評論家が「この映画を見るべきだ」と決めるのではない。編集者が「今年はこれが流行する」と教えるのでもない。

情報を並べる。

そして、自分で選ぶ。

いまでは当たり前に見える考え方だが、これは1970年代という時代の空気ともつながっていた。学園紛争の熱が冷め、従来の権威への距離感が生まれる一方で、フォークソングやミニコミ誌など、それまでの大手メディアとは異なる若者文化が広がっていた。矢内自身も、そうした時代背景の中で『ぴあ』が生まれたことを語っている。

だから『ぴあ』には、どこか民主的なところがあった。

大スターの公演も、小さな劇団の芝居も、名画座の古い映画も、ページの中では「今日見ることのできるもの」として並ぶ。

若者はその中から自分で選ぶ。

その選択の積み重ねによって、「自分の趣味」が出来上がっていったのである。

表紙を見るだけで『ぴあ』だと分かった

そして忘れてはならないのが、及川正通による表紙である。

1975年から始まった独特の似顔絵風イラストは、長く『ぴあ』の顔になった。書店や駅の売店で並んでいても、タイトルを確認する前に「あ、ぴあだ」と分かるほど強い個性を持っていた。ぴあの資料によれば、情報誌『ぴあ』は最盛期に発行部数約80万部に達し、最終的には通巻1341号まで続いた。

中身は徹底して実用的なのに、表紙は遊んでいる。

この組み合わせも『ぴあ』らしかった。

時刻や場所や料金という無機質なデータだけを詰め込めば、単なる情報一覧になってしまう。しかし、あの表紙が付くことで、『ぴあ』そのものが若者文化の一部になった。

バッグから取り出したとき、それが何の雑誌であるかを説明する必要はなかった。

『ぴあ』を持っていることそのものが、「映画や音楽や芝居に関心のある人」という小さな自己表現にもなっていたのである。

そして「情報」と「チケット」がつながった

『ぴあ』の発展を考えると、1984年の「チケットぴあ」開始は自然な出来事だったようにも見える。

映画やコンサートの情報を知れば、次に必要になるのはチケットである。それまで情報を提供していた会社が、コンピュータのオンラインネットワークを使ったチケット販売へ進む。ぴあはこの時期、自らを単なる出版社ではなく「情報流通業」と捉えるようになっていった。

これはかなり先進的な発想だった。

雑誌を売ることが目的なのではない。

人が「何かを見たい」と思い、その情報を知り、実際に会場へ行く。その一連の流れを支えることが事業だった。

だから『ぴあ』という雑誌は、最初から普通の雑誌とは少し違っていたのかもしれない。

記事そのものを読むために買うというより、その先にある現実の体験へ行くために買う。

紙面は目的地ではなく、入口だったのである。

『ぴあ』の最大の魅力は、知らないものが目に入ることだった

ところが、この仕組みを現在のインターネットと比較すると、意外な逆転が見えてくる。

情報量では、もちろんインターネットの方が圧倒的に多い。

映画一本を調べるだけでも、上映時間だけでなく、予告編、出演者、レビュー、座席状況まで分かる。『ぴあ』の時代には想像できなかったほど便利である。

しかし便利になった結果、私たちは「自分が探していない情報」に出会いにくくなった。

検索窓に映画名を入れれば、その映画の情報が出る。

音楽配信サービスを使えば、これまでの視聴履歴から自分が好きそうな曲が推薦される。

つまり現代の情報環境は、自分の好みを知れば知るほど、自分の好みに合ったものを見せてくれる。

『ぴあ』は逆だった。

必要な映画の上映時間を探しているだけなのに、隣に知らない映画が載っている。

その下を見ると、聞いたこともない劇団の名前がある。

さらにページをめくれば、美術展がある。

情報が整理されているのに、そこには偶然が残っていた。

この「予定していなかった出会い」が、『ぴあ』を読む楽しさのかなり大きな部分だったのではないだろうか。

お金のない若者ほど『ぴあ』を必要とした

もう一つ、当時の若者文化を考えるときに重要なのは、若者には今も昔も、それほどお金がないという単純な事実である。

だからこそ、安く映画を見る方法を探す。

どこかで自主映画を上映していないか調べる。

小劇場へ行く。

まだ有名になる前のミュージシャンを見る。

限られたお金で、できるだけ面白いものに出会いたい。

『ぴあ』は、そのための道具として非常に合理的だった。

これは高級な文化を紹介する雑誌ではない。

むしろ、財布の中身が乏しい若者が、それでも映画を見たい、音楽を聴きたい、芝居を見たいと思ったときに役に立つ雑誌だった。

創刊そのものが「ロードショーは高いから、安くなった映画を見たい」という学生の感覚から始まっているのだから、当然なのかもしれない。

『ぴあ』には、文化を楽しむためには大金が必要だという発想がなかった。

必要なのは、少しの金と時間と情報だった。

その情報を提供したのである。

インターネットが『ぴあ』の役割を引き継いだ

『ぴあ』は2011年7月、39年の歴史を経て休刊した。

しかし、それを単純に「雑誌がインターネットに負けた」と考えると、本質を見失う。

なぜなら、『ぴあ』が目指していたものとインターネットには、よく似たところがあるからだ。

情報を集める。

できるだけ広く提供する。

権威が選んだものだけではなく、多様な選択肢を並べる。

そして、最終的に何を見るかは利用者自身が決める。

ぴあ株式会社自身も、創刊時の「送り手と受け手がフラットである」という思想を、後のインターネットの考え方と重なるものとして振り返っている。

そう考えると、『ぴあ』はインターネットによって否定された雑誌というより、インターネット以前にインターネット的なことを紙でやっていた雑誌だった、と考えた方が正確なのかもしれない。

紙という限界の中で、都市に存在する文化情報をできるだけ集め、一冊の中から利用者自身が選ぶ。

その仕組みそのものが新しかったのである。

若者が失ったのは『ぴあ』ではなく、「探す時間」なのかもしれない

それでも、『ぴあ』がなくなったことに、どこか寂しさを感じる人は少なくないだろう。

それは紙の雑誌が一冊なくなったからだけではない。

文化との出会い方が変わったからである。

かつては『ぴあ』を買い、ページをめくり、丸を付ける。友人と相談する。地図を見る。電車に乗る。駅を出て、少し迷いながら映画館やライブハウスを探す。

その一連の行動全部が、映画を見ることや音楽を聴くことの一部だった。

現在なら数分で終わる情報収集に、昔はずいぶん時間がかかった。

けれども、その不便な時間の途中で、知らない映画を知り、知らない街を歩き、知らない店に入り、予定していなかったものに出会った。

便利になるとは、目的地へ早く到着できることである。

しかし目的地へ早く到着できるようになればなるほど、途中で何かに出会う機会は減っていく。

『ぴあ』が若者の必需品だった理由は、そこに必要な情報が載っていたからである。

けれども、長い時間を経て振り返ってみれば、それだけではなかったことに気づく。

あの小さな文字が並んだページを眺めながら、

「今度の日曜日、どこへ行こうか」

と考える。

その瞬間、まだ行ったことのない映画館も、知らないバンドも、歩いたことのない街も、自分の未来の選択肢になった。

『ぴあ』が売っていたのは、映画情報でも、コンサート情報でもなかったのかもしれない。

若者が自分自身で休日を選び、自分自身で街へ出て、自分自身の好きなものを見つけていくための、無数の入口だったのである。

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日本の戦後文学を読んでいると、実際には日本を舞台にしているにもかかわらず、その向こう側にアメリカが見えてくる作品がある。登場人物がアメリカへ行くわけでもなく、物語そのものがアメリカ社会を描いているわけでもない。それでも、自動車、オートバイ、道路、音楽、コーヒー、服装、会話の仕方、男女の距離といった細部を通して、日本とは少し違う生活の感覚が伝わってくる。

そのことを考えるとき、私には片岡義男と村上春樹という二人の作家が思い浮かぶ。

二人を「アメリカの影響を受けた日本人作家」という一言でまとめることはできる。しかし、それではあまりにも大ざっぱである。二人の作品に現れるアメリカは、同じものではないからだ。

片岡義男の小説に感じられるアメリカは、道路の向こう側にあり、オートバイや自動車とともに移動する。それに対して村上春樹の文学では、アメリカは必ずしも遠くにある国として登場しない。音楽や小説や言葉のリズムを通して、日本で暮らしている人物の内側にまで入り込んでいる。

同じアメリカを見ていながら、片岡義男はそこへ向かって走り、村上春樹はそこから言葉を取り込み、日本語の文学そのものを組み替えていったように見える。

この違いを考えると、戦後の日本人にとって「アメリカ」とは何だったのかも、少し違って見えてくる。

高校生だった私に片岡義男が運んできたアメリカ

私は高校生の頃、太宰治、三島由紀夫、芥川龍之介、川端康成といった作家とともに片岡義男を読んでいた。

現在から考えると、この組み合わせは少し不思議に見えるかもしれない。しかし当時の高校生にとって、文学史上の作家と同時代の人気作家が明確に別々の棚に存在していたわけではない。書店の文庫本の棚には過去と現在が同時に並んでいて、こちらもそれほど厳密に区別せずに読んでいた。

そのなかで片岡義男は、太宰や三島とは明らかに違った方向へ私を連れていった。

そこにあったのは、自分の内面を掘り下げていく文学というより、外へ向かって移動していく感覚だった。道路があり、オートバイがあり、自動車があり、海があり、音楽があり、男女が出会う。人間の心理を長く説明するよりも、人物がどこにいて、何をして、何を身につけ、何に乗っているのかによって、その人の生き方が伝わってくる。

以前の記事「片岡義男の小説が運んできた、昭和のアメリカ」でも考えたように、そこにあったのは現実のアメリカそのものというより、昭和の日本人がアメリカに重ねていたイメージだった。

自由、移動、乾いた風景、個人主義、男女の対等な距離、そして日本の生活とは少し違う軽さ。

もちろん、現実のアメリカ社会がそのような単純な場所でなかったことは言うまでもない。人種問題も貧困も政治的対立もあり、アメリカを自由な社会としてのみ捉えることはできない。

しかし文化は、必ずしも外国の現実をそのまま輸入するわけではない。外国について断片的に得た情報から、その時代の人々が自分たちなりの外国像を作り上げることがある。

片岡義男の作品に現れるアメリカは、そのような「日本から見たアメリカ」の一つだったのだと思う。

片岡義男のアメリカは「風景」として見える

片岡義男を考えるとき、私が特に重要だと思うのは、アメリカ的なものが目に見える形で現れやすいことである。

オートバイ、自動車、ジーンズ、道路、海岸、飲み物、音楽、カメラといったものが、単なる小道具ではなく人物の生き方と結びつく。

たとえばオートバイは、ある地点から別の地点へ移動するためだけの機械ではない。それに乗るという行為そのものが、一人でいること、自分で行き先を決めること、都市から離れること、誰かと出会い、また別れることとつながっていく。

自動車も同じである。

日本の文学では、家や学校や会社といった固定された場所が人間関係の舞台になることが多かった。しかし自動車の中では、人は家庭にも会社にも完全には属していない。

移動している途中にいる。

この「途中にいる」という感覚は、片岡義男の文学に感じるアメリカを理解するうえで重要なのではないかと思う。

そこでは人間は共同体から少し離れ、自分自身の意思で動くことができる。

だから片岡義男が描いたアメリカ的世界は、思想として説明される前に風景として見える。

道路の向こうへ行けそうだという感覚そのものが、一つの自由を表していた。

村上春樹のアメリカは、少し違う場所にある

村上春樹にも、アメリカ文化との深い関係がある。

村上は1979年に『風の歌を聴け』でデビューし、その後、小説を書く一方で翻訳を継続してきた。新潮社の著者紹介でも、スコット・フィッツジェラルド、レイモンド・カーヴァー、トルーマン・カポーティ、レイモンド・チャンドラーなど、多くの英語圏作家を翻訳してきたことが確認できる。

本人も翻訳について「主として現代アメリカ小説」を長年訳してきたと述べており、アメリカ文学との関係は単なる読書上の趣味ではなく、作家活動のもう一つの大きな柱になっている。

ここからすでに、片岡義男との違いが見えてくる。

片岡義男の作品では、アメリカ的なものが外側の世界として見えやすい。それに対して村上春樹の場合、アメリカ文学は日本語の文章を書く行為そのものにまで入り込んでいる。

『パリ・レビュー』のインタビューでも、村上文学とアメリカのポピュラー文化との強い関係が論じられ、村上自身がフィッツジェラルド、カポーティ、カーヴァーなどを翻訳してきたことが語られている。

つまり村上春樹にとってアメリカとは、物語のなかに登場させる外国文化である以前に、文章を作るための一つの言語的経験でもあったと考えることができる。

「アメリカを見る」のと「アメリカを通して日本語を書く」の違い

ここに二人を比較するうえで最も興味深い違いがある。

片岡義男の場合、日本の若者がアメリカ文化を見る。

村上春樹の場合、アメリカ文学を通して日本語そのものを見る。

もちろん、この区別は完全なものではない。片岡義男にも言葉への鋭い感覚があり、村上春樹の作品にも自動車、音楽、服装、食べ物など具体的な生活文化が数多く登場する。

それでも、重心は違うように思える。

片岡義男を読むと、人物が何に乗り、どこへ行き、どのように人と関わるのかという外側の動きが印象に残る。

村上春樹を読むと、日常生活のなかに音楽や外国文学や料理や酒が自然に入り込み、それらが人物の孤独や記憶や喪失と結びついている。

アメリカが「向こう側」にあるのではない。

すでにこちら側の生活に入り込んでいる。

これが二人の大きな違いではないだろうか。

片岡義男には道路があり、村上春樹には部屋がある

二人の違いをかなり単純化するなら、片岡義男には道路があり、村上春樹には部屋がある、と表現することもできる。

ただし、これは作品を二分するための分類ではない。二人の文学に漂う方向性を考えるための比喩である。

片岡義男の人物は移動する。

道路を走り、都市を離れ、海へ向かい、別の場所へ行く。その移動のなかで男女が出会い、関係が生まれ、やがてそれぞれの方向へ進んでいく。

一方、村上春樹の人物には、部屋で音楽を聴き、料理をし、本を読み、電話を受け、何かを考えている姿がよく似合う。

そこにもアメリカ文化は存在する。

しかしそれは巨大な星条旗のように目立って存在するわけではない。レコードや小説やウイスキーの名前として、あるいは文章の呼吸として、静かに日常へ埋め込まれている。

この違いは、戦後日本におけるアメリカ文化の受け入れ方の変化とも重なっているように思う。

アメリカが「憧れ」から「日常」へ変わっていく

戦後しばらくの日本にとって、アメリカは圧倒的に大きな存在だった。

政治や軍事だけではなく、映画、音楽、ファッション、家電、自動車、食生活などを通して、アメリカ式の生活は豊かさや新しさと結びついて見えることがあった。

しかし高度経済成長を経て日本が豊かになり、1970年代から1980年代へ進むにつれ、アメリカ文化との距離は少しずつ変化していく。

外国映画を見ることも、ロックやジャズを聴くことも、ジーンズを履くことも、コーヒーを飲むことも、特別な行為ではなくなっていった。

アメリカ文化は、遠くから眺めるものだけではなく、日本の日常生活の一部になっていく。

片岡義男と村上春樹の違いは、この変化を考える材料にもなる。

片岡義男の世界では、まだアメリカ的な生活様式そのものに新鮮さがある。

オートバイで移動すること、男女が互いに自立していること、乾いた会話を交わすこと、持ち物や服装によって個人のスタイルを示すことが、それまでの日本的生活とは違うものとして見える。

ところが村上春樹になると、それらの文化はすでに説明する必要さえないほど生活の内部へ入っている。

ジャズを聴く人物が出てきても、それだけで「アメリカ人のような人物」を意味するわけではない。

アメリカ文化を取り入れているという意識さえ薄くなり、日本の日常のなかに異文化が普通に存在している。

それは日本がアメリカ化したという単純な話ではなく、文化の境界そのものが曖昧になったということなのだろう。

音楽の役割も二人では少し違う

音楽は、二人を比較するときにも興味深い。

片岡義男の世界では、音楽はオートバイや自動車や服装と同じように、生活のスタイルを構成する要素として見えてくる。

何を聴いているかは、その人物がどのような世界に属しているかを示す。

これに対して村上春樹の作品では、音楽は人物の記憶や時間とより深く結びついていく。

一つの曲を聴くことによって過去が戻り、失われた人物や時間が現在へ入り込んでくる。

したがって同じアメリカ音楽であっても、それが物語の中で果たす役割は必ずしも同じではない。

片岡義男では音楽が「どのように生きるか」というスタイルに近づき、村上春樹では「どのように記憶するか」という内面に近づいていく。

こう考えると、外側と内側という二人の違いが、音楽の扱いにも現れているように見える。

二人とも「日本から逃げた作家」ではない

アメリカとの関係を強調しすぎると、もう一つの誤解が生まれる。

片岡義男も村上春樹も、日本的なものを嫌い、アメリカへ逃げようとした作家だったという見方である。

これは単純すぎると思う。

むしろ二人が行ったのは、外国文化を利用して日本を違う角度から見ることだったのではないだろうか。

外国を見ることによって、自分が暮らしている社会の特徴が見えてくることがある。

日本の家族、日本の男女関係、日本の会社、日本の集団、日本語の文章。

そのなかにずっといると当たり前に見えるものでも、別の文化と比較すると急に輪郭が現れる。

片岡義男が描く男女の距離や移動の自由さが新鮮に感じられたのは、それを読む側が同時に日本社会の人間関係を知っていたからである。

村上春樹の文章が従来の日本文学と違って感じられたのも、それ以前の日本語小説の文体が読者の中に存在していたからだろう。

アメリカは日本を消すために使われたのではなく、日本を別の角度から見るための鏡になったのである。

片岡義男の「軽さ」と村上春樹の「軽さ」

二人には、もう一つ共通して語られやすい言葉がある。

それが「軽さ」である。

片岡義男の文章や人物関係には、従来の日本文学にあった重苦しい心理説明とは違う軽さを感じることがある。

村上春樹も、デビュー当時から、それまでの純文学とは異なる会話や文章のリズムを持った作家として受け止められてきた。

しかし、この二つの軽さも同じものではない。

片岡義男の軽さは、人物を過度に共同体へ縛りつけないところから生まれているように思う。

人は出会うが、永遠に相手を所有しようとはしない。

場所を離れれば、関係も変化する。

その軽さは、移動することのできる身体の軽さでもある。

一方で村上春樹の軽さは、深刻な問題を深刻な言葉だけで語らないことにある。

孤独や喪失や死といった重い題材があっても、文章そのものが必要以上に感情を説明しない。

日常的な行動や音楽や食事の描写の間から、少しずつ重いものが現れてくる。

だから表面が軽いからといって、内容まで軽いとは限らない。

この点でも二人は似ているようで違っている。

アメリカを描きながら、二人が描いていたのは日本だった

結局のところ、片岡義男と村上春樹が描いてきたものを「アメリカ文学的」とだけ呼ぶと、大切なものが抜け落ちてしまう。

二人が書いていたのは日本語であり、その読者の多くも日本で暮らしていた。

だから作品に現れるアメリカ的なものは、常に日本との関係のなかで意味を持つ。

片岡義男の道路が魅力的に見えるのは、日本社会の固定された人間関係から離れられる可能性を感じさせるからである。

村上春樹の人物が一人で音楽を聴き、料理をし、自分の時間を守る姿が印象に残るのも、日本社会における集団と個人の関係を私たちが知っているからだろう。

アメリカを描くことによって、二人はむしろ「日本人が個人として生きるとはどういうことなのか」を別々の方法で考えていた、と見ることもできる。

ここで二人は意外なところで近づく。

片岡義男の人物も、村上春樹の人物も、集団の中心で大声を上げる人物ではない。

自分の好きなものを持ち、自分の時間を持ち、必要以上に他人へ入り込まない。

その人物像には、戦後日本が少しずつ発見していった「個人」というものが映っているように思える。

道路の向こうにあったアメリカと、すでに自分の中にあるアメリカ

高校生だった私に、片岡義男の小説はそれまでとは違う方向の風景を見せた。

そこには道路があり、オートバイや自動車があり、音楽があり、海があった。

それはアメリカそのものではなかった。

昭和の日本から見たアメリカだった。

しかし若い読者にとって、現実のアメリカと完全に一致している必要はなかったのだと思う。

重要だったのは、自分が暮らしている場所とは違う生き方があるかもしれない、と想像できることだった。

村上春樹になると、そのアメリカはさらに近くなる。

外国へ向かって走る必要さえない。

アメリカ文学を読み、翻訳し、ジャズやロックを聴き、その感覚を日本語の文章へ持ち込むことで、国境は文学の内部で越えられていく。

だから二人が描いた「アメリカ」の違いを一言で表すなら、片岡義男のアメリカは道路の向こう側に見えるアメリカであり、村上春樹のアメリカはすでに自分の内側に入り込んでいるアメリカなのかもしれない。

前者には、まだ知らない世界へ出ていく魅力がある。

後者には、外国文化と日本文化を分けること自体が次第に難しくなっていく時代の感覚がある。

そして二人のあいだにあるこの違いは、単なる作家の個性だけではなく、戦後の日本人とアメリカ文化との距離が変化していった過程とも重なっている。

かつてアメリカは、海の向こうにある巨大な外国だった。

やがて映画や音楽や商品を通して身近になり、さらに文学や言葉の中へ入り込んでいった。

片岡義男と村上春樹を続けて読むと、その変化が二人の作品の向こう側に見えてくる。

文学とは、作家が物語を作るだけのものではない。

一つの時代が外国をどのように見ていたのか、そして外国を見ることによって自分たち自身をどのように見直したのかを残すものでもある。

片岡義男と村上春樹が描いた二つの「アメリカ」の間には、昭和から平成へと移っていった日本人の感覚の変化も、静かに記録されているように思う。

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『Hot-Dog PRESS』が作った1980年代の青年文化

1980年代の若者文化を振り返ろうとすると、音楽なら松田聖子やサザンオールスターズ、YMO(Yellow Magic Orchestra・日本のテクノポップを代表する音楽グループ)、自動車ならソアラやプレリュード、ファッションならDCブランド(Designer and Character Brands・デザイナーやブランドの個性を前面に出したファッションブランド群)といった名前が次々に出てくる。

しかし、その時代を実際に生きた若者が、何を格好いいと思い、どんな服を着て、どんな店へ行き、どんな音楽を聴き、異性とどう付き合えばいいと考えていたのかを知ろうとすると、個々の商品や流行だけを並べても十分ではない。

そこには、若者に向かって「いまはこれが格好いい」「こういうものを知っている男になったほうがいい」と教える媒体が存在していた。

その一つが、講談社の『Hot-Dog PRESS』だった。

『Hot-Dog PRESS』は1979年に創刊された若年男性向けの情報誌である。ファッション、音楽、商品、遊び、恋愛など、若い男性の生活に関わるさまざまなテーマを扱い、1980年代から1990年代にかけて大きな存在感を持った。とりわけ後年まで語られるのが、「デート・マニュアル」としての側面である。

だが、『Hot-Dog PRESS』を単なる恋愛指南雑誌として片づけてしまうと、この雑誌が1980年代の若者文化に果たした役割のかなりの部分を見失う。

この雑誌が若者に教えていたのは、女の子との付き合い方だけではなかった。

むしろ重要だったのは、若い男性に対して「青年としての生活様式」そのものを提示したことである。

若者が自分で情報を探さなければならなかった時代

現在なら、服を買おうと思えばインターネットで検索できる。レストランを探すことも、映画の評判を調べることも、知らないブランドについて調べることも難しくない。

SNS(Social Networking Service・インターネット上で情報を発信し交流するサービス)を開けば、他人が何を着て、何を食べ、どこへ出かけているのかまで大量に流れてくる。

1980年代には、そのような情報環境は存在しなかった。

もちろんテレビも新聞もラジオもあった。しかし、それらは若者一人ひとりに向かって、「今度のデートではどこへ行けばいいのか」「どんな服を着ればいいのか」「どんな時計を持つと格好いいのか」まで教えてくれる媒体ではない。

そこで大きな役割を果たしたのが雑誌だった。

『POPEYE』『MEN'S CLUB』『平凡パンチ』『週刊プレイボーイ』など、それぞれ性格の異なる雑誌が若者に情報を届けていた。そのなかで『Hot-Dog PRESS』は、商品情報とファッションと恋愛と遊びを比較的近い場所に置いた。

ここが重要だったと思う。

服は服、音楽は音楽、自動車は自動車、恋愛は恋愛というように、それぞれを独立した趣味として扱うのではない。それらを一つに組み合わせて、「こういう生活をする若者が格好いい」というモデルを作ったのである。

つまり雑誌を一冊読むことによって、自分がまだ知らない世界の輪郭を見ることができた。

その意味で雑誌は情報源であると同時に、若者にとって一種の教科書でもあった。

『Hot-Dog PRESS』は「青年になる方法」を教えていた

少年から青年へ移るとき、人は急に大人になるわけではない。

高校生や大学生になったからといって、どんな服を選べばいいのかが突然分かるわけでもなければ、女性との付き合い方が分かるわけでもない。レストランの選び方も、自動車の知識も、時計やオーディオや酒についての知識も、最初から持っているわけではない。

家庭や学校が教えてくれる範囲にも限界がある。

学校は数学や国語を教えてくれるが、デートでどこへ行けばよいのかまでは教えてくれない。

親から受け継ぐ生活文化もあるが、1980年代の若者が求めた新しいファッションや音楽や都市文化について、親世代が必ずしも詳しかったわけではない。

その空白を雑誌が埋めた。

『Hot-Dog PRESS』を読むという行為には、単に新商品を知ること以上の意味があったのではないか。

そこには「大人になる前の予習」という側面があった。

何を着るのか。

何を持つのか。

どこへ行くのか。

何を聴くのか。

そして女性とどう付き合うのか。

現在から見ると奇妙に思えるほど、1980年代にはこうした事柄を雑誌から学ぶ文化が成立していた。

「モノを知っていること」が青年の教養だった

1980年代の青年文化を考えるうえで、もう一つ見逃せないものがある。

それは商品について知っていることそのものが、一種の教養になっていたことである。

時計、スニーカー、ジーンズ、ジャケット、オーディオ、自動車、バイク、カメラ。

ブランドや型番を知り、違いを説明できることには、それなりの意味があった。

現在から見ると単なる消費文化のようにも見える。

実際、批判的に考えれば、『Hot-Dog PRESS』を含む若者雑誌が消費を刺激する役割を果たしていたことは否定できない。格好いい若者になるためには、この服、この時計、この店、この自動車が必要だというメッセージは、企業の商品販売とも極めて相性がよかった。

しかし、そこだけで評価すると1980年代の青年文化を単純化しすぎる。

雑誌を読んだからといって、紹介された商品をすべて買えるわけではなかった。

むしろ、多くの若者にとって雑誌に載っている商品は「見るもの」でもあった。

高校生ならなおさらである。

高価な時計や自動車を購入できるわけではない。それでも写真を眺め、メーカー名を覚え、いつか欲しいと思う。その過程で、自分なりの好みが形成されていく。

消費とは、必ずしも購入だけではない。

何を欲しいと思うかもまた文化なのである。

『Hot-Dog PRESS』は、その「欲しいと思うもの」の体系を作る雑誌でもあった。

ファッションは服ではなく、自己紹介だった

1980年代の若者向け雑誌にとって、ファッションは重要なテーマだった。

しかし、そこで扱われていたファッションは単に防寒のための衣服ではない。

どんな服を選ぶかによって、その人がどんな人物なのかを表現する。

現在ならごく普通の考え方に見えるが、若者が自分自身のアイデンティティーを商品やブランドによって表現する文化が急速に広がった時代として1980年代を見ると、その意味はかなり大きい。

雑誌は商品を紹介しながら、同時に人物像を提示する。

この服を着る男。

この靴を履く男。

この音楽を聴く男。

この自動車に乗る男。

そこから、一つの青年像が作られていく。

そして読者は、それをそのまま真似する場合もあれば、自分には合わないと思う場合もあっただろう。

重要なのは、比較する対象が与えられたことである。

人は何もないところから自分のスタイルを作ることは難しい。

誰かが示した型を見て、それを真似したり、少し変えたり、ときには拒否したりしながら、自分の好みを作っていく。

雑誌は、そのための巨大な見本帳だった。

デートまで「方法」が必要になった

『Hot-Dog PRESS』について現在まで最も強く記憶されているのは、やはり恋愛やデートを扱った記事だろう。同誌が若者の「デート・マニュアル」として一時代を築いたことは、後年の紹介でも繰り返し言及されている。

なぜ恋愛にマニュアルが必要だったのだろう。

考えてみれば不思議である。

好きな人がいれば話しかければよい。二人で行きたい場所へ行けばよい。それだけなら、雑誌が教える必要はない。

しかし1980年代になると、デートは単に男女が会う行為ではなくなっていた。

どこで待ち合わせるのか。

どんな店へ行くのか。

何を着ていくのか。

どのように誘うのか。

どんな話題を選ぶのか。

都市化と消費社会の発達によって選択肢が増えた結果、逆に「正解が分からない」という状況が生まれた。

選択肢が少なければ、人はそれほど迷わない。

選択肢が増えると、選ぶための情報が必要になる。

『Hot-Dog PRESS』が支持された背景には、この構造があったのではないかと思う。

携帯電話のなかったデート

ここには現在との決定的な違いもある。

携帯電話もスマートフォンも普及していない時代のデートでは、待ち合わせそのものが現在より重い意味を持った。

約束した場所へ決められた時間に行かなければならない。

相手が遅れても、外出してしまえば簡単には連絡できない。

現在のように「10分遅れます」とメッセージを送ることもできない。

後年、『Hot-Dog PRESS』のデート文化を振り返る記事でも、こうした携帯電話以前の待ち合わせ事情が紹介されている。

この違いは単なる技術の差ではない。

人間関係の作り方そのものが違っていた。

相手の行動がリアルタイムで見えない。

既読もない。

位置情報もない。

だから雑誌が提供する「どう振る舞えばいいのか」という情報には、現在とは違う切実さがあった。

都市を知らない若者に、都市を教えた

もう一つ、『Hot-Dog PRESS』のような雑誌の重要な役割として考えたいのが、東京を中心とする都市文化を全国へ運んだことである。

これは1980年代の雑誌文化全体にいえることでもある。

地方に住んでいても雑誌は買える。

東京の店へすぐ行くことはできなくても、その店が存在することは知ることができる。

原宿、渋谷、青山、六本木といった地名が、単なる地理上の名称ではなく、ファッションや音楽や遊びと結びついた文化的記号になっていく。

これは、片岡義男の小説を通して昭和の若者が「アメリカ」を想像したことと、どこか似ている。

実際のアメリカへ行かなくても、小説、映画、音楽、雑誌を通してアメリカを想像できる。

同じように地方の若者は、東京に住んでいなくても雑誌を通して東京を想像することができた。

その東京が現実の東京と完全に一致していたかどうかは、それほど重要ではない。

重要なのは、雑誌のなかに「行ってみたい世界」が存在していたことである。

北方謙三という、もう一つの顔

『Hot-Dog PRESS』の文化を考えるとき、商品やデートだけでは語れない人物がいる。

作家の北方謙三である。

北方は1980年代から長期間にわたり『Hot-Dog PRESS』で若者の人生相談を担当した。後年、新潮社も北方の若者へのメッセージを語る際、この連載を代表的な仕事の一つとして振り返っている。

ここにも、この雑誌の性格がよく表れている。

若者が知りたかったのは服や自動車だけではなかった。

恋愛、仕事、将来、自信のなさ、人間関係。

青年期には、いくらでも悩みが生まれる。

その相談に対して作家が答える。

雑誌は商品カタログであると同時に、人生について考える場所でもあった。

もちろん、そこで示される男性像には明らかに時代性がある。

強い男、決断する男、女性をリードする男。

現在の価値観から見れば違和感を持つ部分もあるだろう。

しかし、それも含めて1980年代なのである。

文化を振り返るということは、現在の価値観に合う部分だけを選んで懐かしむことではない。

当時どのような男性像が支持されていたのかを見ることも、時代を理解するためには必要だ。

『Hot-Dog PRESS』は本当に若者文化を「作った」のか

ここまで書いてくると、一つ疑問が生じる。

本当に『Hot-Dog PRESS』が若者文化を作ったのだろうか。

雑誌が若者に命令し、その通りに若者が行動していたという説明なら単純すぎる。

若者文化は雑誌だけから生まれたものではない。

テレビ、ラジオ、映画、レコード、ファッションブランド、自動車メーカー、百貨店、広告、大学、繁華街、ディスコなど、無数の要素が相互に影響していた。

雑誌はその一部である。

しかし、雑誌にはそれらを一つの誌面に集める力があった。

音楽を聴き、自動車に乗り、服を選び、女性とデートする。

本来別々だった行為を一つのライフスタイルとして編集する。

ここに雑誌の大きな力があった。

だから「作った」という言葉を、何もないところから文化を発明したという意味で使うのは適切ではない。

むしろ社会のなかに生まれていたさまざまな欲望や流行を集め、それを「これが現在の若者だ」という形に編集し、再び若者へ返した。

その循環によって文化を強めた。

それが『Hot-Dog PRESS』の役割だったのではないかと思う。

情報が少なかったから、雑誌の影響力が大きかった

現在は情報が多すぎる時代である。

検索すれば何万件もの情報が出てくる。

動画を見れば誰かが商品を紹介している。

SNSを開けば無数のファッションを見ることができる。

その代わり、一つの媒体が若者全体の価値観に強い影響を与えることは難しくなった。

1980年代は逆だった。

情報源が現在より限られていたため、一冊の雑誌が持つ影響力は大きかった。

本屋へ行き、雑誌を買い、最初のページから最後のページまでめくる。

興味のない記事まで目に入る。

これはインターネット検索との大きな違いである。

検索では、自分が知りたい情報を探す。

雑誌では、自分が知ろうとも思っていなかった情報に出会う。

ファッションの記事を読むつもりだったのに自動車の記事を読み、音楽の記事を読み、作家の文章を読む。

その偶然性が、一人の若者の興味を広げていく。

雑誌文化には、そのような力があった。

1980年代を美化する必要はない

だからといって、雑誌の時代が現在より優れていたと結論づける必要はない。

情報を得る方法についていえば、現在のほうが圧倒的に便利である。

地方に住んでいても海外の情報を直接調べることができる。商品価格を比較し、利用者の評価を読み、自分に合ったものを選択できる。

1980年代の雑誌が示した価値観には、商業主義もあった。

高価な商品を持つことが格好よさと結びつきやすく、男性と女性の役割にも固定的な考え方が残っていた。

誰もが雑誌の提示する青年像に当てはまったわけでもない。

そこを忘れて1980年代を「良い時代だった」とだけ語れば、単なる懐古趣味になってしまう。

それでも『Hot-Dog PRESS』を振り返る意味があるとすれば、そこには現在とは違う「青年になる仕組み」が見えるからである。

一冊の雑誌のなかに、青年の世界があった

1979年に創刊された『Hot-Dog PRESS』は、2004年にいったん休刊した。その後2014年にデジタル媒体として復活したとき、想定された読者の中心は、かつて若者として雑誌を読んでいた世代だった。

この事実は象徴的である。

若者のための雑誌だったものが、年月を経て、その若者たち自身の過去を呼び戻す媒体になった。

雑誌のページに載っていた服の多くはもう流行ではない。

紹介された店も、自動車も、オーディオも変わった。

デートの方法も変わった。

待ち合わせ場所で相手を30分待つような経験さえ、スマートフォンの時代には少なくなった。

それでも雑誌を開いた経験が消えるわけではない。

なぜなら、そこに載っていたのは商品だけではなかったからだ。

「大人になったらこんな生活をしてみたい」

「こんな服を着てみたい」

「こんな場所へ行ってみたい」

という、まだ経験していない未来が載っていた。

若者向け雑誌とは、未来の生活を先に見るための媒体でもあったのである。

『Hot-Dog PRESS』が作った1980年代の青年文化とは、特定のファッションやデート方法だけではない。

情報を集め、モノを選び、都市に憧れ、異性との関係に悩みながら、自分がどんな大人になりたいのかを考える文化だった。

一冊の雑誌のなかに、青年になるための世界がほとんど丸ごと入っていた。

いま同じ役割を一冊の雑誌に求めることは、おそらく難しい。

だからこそ『Hot-Dog PRESS』を振り返ることは、一つの雑誌を懐かしむだけではなく、若者が雑誌によって自分の未来を想像することのできた時代そのものを振り返ることになるのだと思う。

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