リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 孤独という言葉には、あまりよい響きがない。孤独死、孤立、ひきこもり、社会からの断絶といった言葉がその周囲に並び、できることなら避けるべき状態として語られることが多い。友人が多く、家族との関係が良好で、誰かと食事をし、休日にも予定がある人を見ると、私たちはそこに幸福の姿を重ねる。その反対に、一人で過ごす時間の長い人を見ると、何か問題があるのではないかと考えてしまう。

 しかし、三木清の『人生論ノート』を読むと、こうした単純な図式が崩れてくる。三木は孤独を、一人でいることそのものとは考えなかった。「孤独は山になく、街にある。」というよく知られた言葉が、その考えを象徴している。誰もいない山奥より、人々が行き交う街の方に孤独があるというのだから、常識とは反対である。

 けれども、少し自分の経験を振り返れば、この言葉はそれほど奇妙ではない。誰もいない部屋で本を読んでいる時より、大勢の人が楽しそうに話している席で、自分だけがそこに入れないと感じた時の方が孤独は強いことがある。職場で毎日何人もの人と話していても、自分の言葉が誰にも届かないと感じることはあるし、家族と暮らしていてさえ、自分だけが別の世界にいるように思える瞬間もある。人間の数が増えれば孤独が減るというほど、人の心は単純にはできていない。

 三木が見ていたのも、まさにこの奇妙な構造だった。彼は孤独を「独居」と区別し、一人で暮らすことを孤独そのものとはしなかった。むしろ孤独とは、人と人との間に生じるものだと考える。孤独が一人の人間の内部だけにあるのではなく、人間同士の関係の中に現れるとすれば、友人の数を増やすだけでは解決できない孤独があることになる。

一人になることで、孤独から離れることもある

 私たちは日常語では「一人でいる」と「孤独である」をほとんど同じ意味で使うが、この二つを分けてみると景色が変わる。人付き合いに疲れた日に一人で散歩すると、不思議に気持ちが落ち着くことがある。休日を誰とも会わず、本を読み、音楽を聴き、何も話さず過ごしたことで、むしろ心が回復する場合さえある。

 これは一人になったから孤独になったのではない。反対に、人間関係の中で感じていた孤独から、一時的に離れられたと考えることもできる。

 現代の心理学でも、ここには重要な区別がある。社会的孤立とは、人との接触や関係が客観的に少ない状態を指すのに対し、孤独感とは、自分が望んでいる人間関係と実際の人間関係との間に隔たりがあると感じる主観的な経験である。一人暮らしだから必ず孤独になるわけではなく、家族や友人に囲まれているから孤独ではないとも限らない。

 もちろん、三木が『人生論ノート』で論じている「孤独」と、現代心理学が測定する孤独感は同じ概念ではない。三木が考えていたのは、健康指標として測られる孤独というより、人間が他者や世界とどのように関わるかという哲学的な問題である。それでも、「一人でいること」と「孤独であること」を単純に同一視しない点では、八十年以上前の三木の考察と現代の研究は、不思議なほど近いところに立っている。

人とつながれば、孤独はなくなるのか

 三木の時代と比べれば、現代人ははるかに簡単に他人とつながることができる。遠く離れた友人とも瞬時に連絡が取れ、見知らぬ人の生活まで画面越しに知ることができる。人間同士を隔てていた物理的な距離は、確かに小さくなった。

 しかし、つながる手段が増えたからといって、孤独が同じ割合で減ったわけではない。これは、交流の回数と人間関係の充足感が別のものだからである。

 誰かが旅行していることを知り、誰かが仕事で成功したことを知り、誰かが家族と楽しそうに過ごしていることを知る。そうした情報は人との距離を縮めることもあるが、ときには自分と他人との違いを意識させることもある。ただし、ここで「インターネットや交流サイトが孤独を生み出す」と単純化するのは正確ではない。現代の研究でも、デジタルな交流そのものが孤独の直接原因だとは一概に言えず、どのような使い方をしているか、対面での交流を置き換えているかなどによって結果は異なると考えられている。

 三木の言葉を現代に置き換えて言うなら、「街」はもはや道路や建物だけでできているのではないのかもしれない。人々の言葉や生活が絶え間なく流れてくる画面の中にも街があり、そこでも私たちは他人と出会い、ときにはその出会いの中で孤独を感じる。

孤独には、どこか人を惹きつけるものがある

 三木の孤独論が興味深いのは、孤独を単なる苦痛として扱っていないことである。彼は孤独には「美的な誘惑」があると書いている。

 確かに孤独という言葉には、どこか文学的な美しさがある。夕暮れの海岸を一人で歩く人、深夜の書斎で本を読む人、大勢に理解されなくても自分の考えを守り続ける人。文学や映画は昔から、こうした孤独な人物を魅力的に描いてきた。集団から少し距離を置いている人物は、周囲に流されない独立した人間のように見える。

 そこには危うさもある。「誰にも自分は理解されない」という思いは苦しいが、同時に、自分は普通の人とは違うという感覚を与えることもある。孤独に傷つきながら、その孤独を自分自身の物語として愛してしまうことがあるのである。

 三木が「美的な誘惑」と呼んだものを現代の言葉に置き換えるなら、孤独そのものよりも「孤独な自分」に魅力を感じてしまう心理に近いのかもしれない。

 しかし三木は、そこで止まらない。孤独を味わうことから、その倫理的な意味へ進まなければならないと考える。孤独を美しいものとして眺め続けるだけなら、それは自己陶酔になる。大切なのは、孤独な自分をどのように見せるかではなく、その孤独から何を考え、何をするかということである。

なぜ孤独は「知性」に属するのか

 さらに三木は、現代人から見るといっそう奇妙に聞こえることを書く。孤独は感情ではなく、知性に属するものでなければならないというのである。

 普通に考えれば、孤独ほど感情的な経験はない。寂しさ、取り残された感じ、自分が誰からも必要とされていないような感覚。それらはいずれも感情として経験される。それなのに、なぜ三木は知性と言うのだろうか。

 ここで注意したいのは、三木のいう知性を、単なる論理的思考能力や冷静な自己分析と同じものとして読むべきではないことである。彼のいう知性は、自分自身だけでなく、他者や世界との関係を客観的に捉えようとする働きまで含んでいる。

 「私は寂しい」「私は理解されない」という思いの中にとどまっている限り、意識の中心にはいつも自分がいる。しかし、その経験から少し距離を取り、なぜ自分はこのような孤独を感じているのか、自分は他人に何を求めているのか、自分と他人との間にはどのような隔たりがあるのかと考え始めた時、孤独は単なる感情ではなくなる。

 孤独が世界を見るための場所に変わるのである。

 ここに三木が孤独を「知性」に結びつけた意味の一つを見ることができる。ただ悲しむだけではなく、その悲しみを通して自分と世界の関係を考える。孤独を感情として味わうことから、孤独について考えることへ移る。その時、人は少なくとも孤独に完全に支配されてはいない。

孤独を超えるところに「表現」がある

 三木の孤独論は、孤独とは何かを説明して終わらない。そこからどう進むかという問題へ向かっていく。

 その鍵になるのが「表現」である。

 三木は、人間が孤独を超えることのできる場所を、自己の表現活動の中に見ようとした。表現と聞けば、文章を書くことや絵を描くことを思い浮かべるが、この言葉を三木の思想全体に沿って広く捉えるなら、自分の内側にあるものを何らかの形で世界に差し出す行為と考えることもできる。

 人は孤独になると、「誰も自分を理解してくれない」と考えやすい。しかし、その問いを反対向きにしてみることもできる。誰かが自分を理解してくれることだけを待つのではなく、自分は世界に向かって何を表そうとしているのか、と考えるのである。

 文章を書くことでもよい。誰かと話すことでもよい。仕事をすることや、誰かのために何かを作ることも、広い意味では自分と世界との関係を形にする行為になり得る。ただし、これは三木が料理や仕事を具体例として挙げているという意味ではない。彼のいう「表現」を現代の日常生活まで広げて考えれば、そのような理解も可能だということである。

 表現したからといって、必ず理解されるとは限らない。文章を書いても読まれないことがあり、話しても伝わらないことがある。それでも、自分から世界へ何かを差し出す方向が生まれれば、孤独は完全に閉じた空間ではなくなる。

 孤独の中で自分自身だけを眺め続けていた人が、もう一度世界の方を向く。その転換を、三木は表現という言葉によって考えようとしたのではないだろうか。

孤独と愛は、本当に反対なのか

 ここで三木の孤独論は、さらに意外な場所へ進む。

 普通なら、孤独の反対は愛だと考える。愛してくれる人がいるから孤独ではない。家族や友人との関係があるから、人は孤独から救われる。そのように考えるのが自然である。

 ところが三木は、「孤独は最も深い愛に根差している」と書く。

 これは「孤独を深く経験すれば、その先に愛が待っている」という単純な意味ではない。むしろ、愛と孤独が最初から深いところで結びついているという考えである。

 人は、どうでもよい相手から理解されなくても、それほど傷つかない。自分にとって大切な人だからこそ、理解されないことが苦しくなる。世界に何の関心も持っていない人なら、世界との隔たりを問題にする必要もない。人や物事と深く関わろうとするからこそ、その距離を痛みとして経験することがある。

 そう考えれば、孤独は必ずしも愛が欠けている証拠ではない。愛そうとするからこそ生じる孤独もある。

 親しい者同士であっても、相手の心の中へ完全に入ることはできない。夫婦でも、親子でも、長年の友人でも、他者は最後まで自分とは異なる人間である。その違いがなくなれば、愛することも理解しようとすることも意味を失ってしまうだろう。

 人と人との間には、どうしても埋めきれない空間が残る。

 三木が孤独を人間の「間」に見たことと、孤独を深い愛に結びつけたことは、おそらく無関係ではない。人間の間に距離があるから孤独が生じる。しかし、その同じ距離があるからこそ、人は相手を知ろうとし、言葉をかけ、理解しようとする。

 孤独と愛は、単純な反対語ではないのである。

孤独を美化してはいけない

 ただし、ここまで読んで「孤独には価値があるのだから、一人でいる方がよい」と考えるのは早すぎる。

 現代医学や心理学の研究では、慢性的な孤独感や社会的孤立が、心身の健康と関連することが繰り返し報告されている。長期間にわたって他者との関係を失い、望んでも援助を得られず、強い孤独感を抱えている状態を哲学的な美しさによって正当化することはできない。

 三木の孤独論も、そのような医学的問題について書かれたものではない。

 ここで区別しなければならないのは、自ら選んで一人になる時間と、自分の意思とは関係なく社会から切り離されてしまう状態である。一人でいる時間が心を落ち着かせることもある一方、望まない孤立が長く続けば苦痛になる。それらをすべて「孤独」という一語でまとめてしまうと、議論を誤る。

 したがって、「孤独は悪いものなのか」という問いへの答えは、「孤独は良いものだ」ということではない。

 むしろ三木を読むことで分かってくるのは、孤独を善か悪かという二択だけで判断することの危うさである。

人間はなぜ言葉を必要とするのか

 人間同士が互いの内面を完全に知ることができないと考えるなら、そこには必ず距離が残る。その距離を私たちは言葉によって越えようとする。

 「私はこう思う」と話し、「あなたはどう思う」と尋ねる。説明し、聞き返し、誤解し、もう一度説明する。その繰り返しが人間関係を作っている。

 完全に分かり合えることが最初から保証されているなら、対話する必要はない。しかし実際には、分からないから話すのである。相手が自分とは違う人間だからこそ、言葉を渡す必要がある。

 そう考えると、孤独と対話は同じ場所から生まれていることになる。

 三木がいうように孤独が人間の「間」にあるのなら、その「間」は単なる空白ではない。その空間を越えようとして、表現が生まれ、対話が生まれ、理解しようとする努力が生まれる。

 孤独は、人間関係が失敗した時だけに現れるものではない。人間が他人と関係を結ぼうとする限り、ある程度の孤独は避けられないのかもしれない。

孤独をなくすのではなく、孤独から何をするのか

 『人生論ノート』を読んでも、孤独にならない方法は書かれていない。友人を増やしなさいとも、一人の時間を楽しみなさいとも書かれていない。三木は人生相談の回答者ではなく、人間が生きるということの構造を考えようとした哲学者だからである。

 彼の文章を読んでいると、孤独という言葉が少しずつ姿を変えていく。

 一人でいることだけが孤独なのではない。人の中にも孤独はある。そして孤独には、自分自身の中へ閉じこもり、「孤独な私」という物語に浸りたくなる誘惑がある。しかし、その孤独について考え、自分と世界との関係を問い直し、そこから何かを表現することができれば、孤独は単なる苦痛とは違う意味を持ち始める。

 だから三木の議論からは、孤独を「良い」「悪い」という二つの箱に簡単に分けることはできない。

 問題は孤独が存在することそのものより、孤独が自分をどちらへ向かわせているかにある。

 世界から遠ざかり、誰の言葉にも耳を閉ざし、自分の中だけへ沈んでいく孤独もある。一方で、一度立ち止まり、自分が何を考え、何を求め、他人とどのような関係を結びたいのかを考えるための孤独もある。

 そしておそらく、この二つは外から見ただけでは区別できない。

 一人で静かに本を読んでいる人が孤独とは限らず、大勢の人に囲まれて笑っている人が孤独ではないとも限らない。孤独とは人数で測ることのできない、人と世界との関係の問題なのである。

 「孤独は山になく、街にある。」

 この短い言葉が今なお印象に残るのは、私たちが孤独について抱いている常識を逆さにしてしまうからだろう。

 人のいない場所だけに孤独があるのではない。人と人との間にあるからこそ、孤独はなくならない。しかし、その「間」が存在するからこそ、私たちは言葉を使い、表現し、相手を理解しようともする。

 孤独とは、人間関係が終わった場所ではないのかもしれない。

 むしろ他人は自分とは違うのだという事実を認め、それでもなお、その隔たりを越えようとするところから、人間の関係は始まる。

 三木清の『人生論ノート』が孤独について考えさせるのは、孤独から逃げる方法ではない。孤独を抱えた人間が、それでも世界へ向かっていくとはどういうことなのかという、もっと難しい問いである。

 そして、その問いが残るからこそ、八十年以上前に書かれたこの文章は、人とつながる手段がかつてないほど増えた現在にも、奇妙なほど古びていないのである。

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~日本文学でありながら、国境を越えて読まれる理由を考える~

日本の作家でありながら、世界の多くの国で名前を知られている作家がいる。村上春樹である。

村上春樹の作品は、現在では50を超える言語に翻訳され、アジア、ヨーロッパ、北米をはじめ、さまざまな地域で読まれている。日本で人気のある作家が外国語に翻訳されること自体は珍しくないが、村上春樹の場合は、単に「日本の有名作家が海外でも紹介されている」という段階を越えている。国によって読者層は異なり、作品の受け止め方も違う。それでも長く読み継がれ、新作が出れば世界各地で話題になる作家になっている。

なぜなのだろう。

日本文化への関心が高いからなのか。翻訳に恵まれたからなのか。文章が読みやすいからなのか。それとも、世界の読者が共感できる何かが作品の中にあるからなのか。

おそらく、そのどれか一つでは説明できない。

村上春樹の小説には、日本で書かれた文学でありながら、日本社会について詳しい知識を持たなくても作品の中へ入っていける特徴がある。その一方で、物語の中心には孤独や喪失、自分が自分であることへの違和感、他人との距離といった、人間が国籍に関係なく抱きうる感情が置かれている。

そして、そこには音楽があり、食事があり、仕事があり、恋愛があり、都市生活がある。極めて日常的な生活が続いていると思うと、そのすぐ隣に説明のつかない世界が開く。

この現実と非現実の混ざり方に、村上春樹が世界で読まれる理由の一つがあるのではないかと思う。

日本を説明しなくても読める日本文学

外国文学を読むとき、その国の歴史や宗教、社会制度についての知識がないために、作品へ入りにくいことがある。

私自身、高校生のころにフランス文学やロシア文学へ挑戦したことがあるが、作品そのものの難しさに加えて、そこに描かれている社会の仕組みや階級、宗教観、人物の複数の呼び名などが理解を難しくした。

その経験から考えると、村上春樹の小説には、外国人読者にとって比較的入りやすい部分があるように思う。

登場人物は音楽を聴く。食事を作る。コーヒーを飲む。本を読む。仕事をする。誰かからの電話を待つ。失われた人を思い出す。

もちろん舞台は日本であり、日本社会の中で人物は生活している。しかし、それらの日常は、日本にしか存在しないものではない。

ニューヨークでもロンドンでもパリでも、あるいは上海でもソウルでも、人は一人で食事をし、音楽を聴き、誰かを思い出す。

つまり、村上作品には、読者が自分の生活から物語へ入っていける入口がある。

外国文学を読むときに必要になることのある「まずその国を理解しなければならない」という壁が、比較的低いのである。

だからといって、村上春樹の文学が日本的でないということではない。

むしろ重要なのは、日本社会の中にいる人物を描きながら、そこに普遍的な生活感覚が存在していることではないだろうか。

西洋文化の影響だけでは説明できない

村上春樹については、しばしば「西洋的な作家」という評価がなされる。

実際、作品の中にはジャズやクラシック音楽、ロックなどが頻繁に登場する。外国文学への言及も多く、本人自身が英語圏文学から強い影響を受けてきたことも知られている。

しかし、「西洋的だから西洋でも読まれた」と考えるだけでは、説明としては不十分である。

もし外国文化を取り入れるだけで世界的な作家になれるのであれば、同じことをしている作家は世界中に数多く存在するはずだからである。

村上春樹の場合に興味深いのは、西洋文化を異物として描くのではなく、日本の日常生活の中へ自然に置いているところだと思う。

登場人物がジャズを聴いていても、それは外国文化を紹介するためではない。クラシック音楽について語っていても、教養を示すためだけに登場するわけではない。それらは人物の生活の一部として存在している。

考えてみれば、現在の私たちの生活そのものがそうである。

日本人がアメリカの音楽を聴き、ヨーロッパの映画を見て、外国製のコンピューターを使い、海外の情報に日常的に接する。

同時に、外国の人々も日本のアニメや小説に触れ、韓国の音楽を聴き、世界中の文化を混ぜながら生活している。

現代社会では、文化はすでに国境できれいに分かれてはいない。

村上春樹の小説は、そうした時代の生活感覚をかなり早い段階から文学の中に取り込んでいたのではないかと思う。

孤独は国境を越える

しかし、文化的に入りやすいというだけなら、村上作品がこれほど長く世界で読まれている理由にはならない。

もっと重要なのは、物語の中心に置かれている人間の問題である。

村上春樹の小説には、孤独な人物がしばしば登場する。

ただし、その孤独は社会から完全に排除された人間の孤独とは限らない。

仕事を持っている。住む場所もある。恋人や配偶者がいることもある。日常生活も送っている。それでも、どこか世界と完全にはつながっていない。

周囲と普通に会話をしながら、自分だけが少し別の場所にいるように感じる。

誰かを失った記憶が残っている。

過去の出来事から完全には離れられない。

自分は何者なのかと考える。

この感覚は、日本人だけのものではない。

むしろ、都市化が進み、人間関係が複雑になった現代社会では、多くの国の読者が理解できる感情ではないだろうか。

大勢の人に囲まれていても孤独を感じることがある。

SNS(Social Networking Service・インターネット上で人と交流し情報を発信するサービス)で多くの人と接続していても、心の距離が縮まるとは限らない。

社会が便利になれば、人間の孤独が自動的に消えるわけでもない。

むしろ、社会との接続が増えるほど、自分自身の内側にある孤独がはっきり見える場合もある。

村上春樹の小説には、そのような現代人の感覚が繰り返し現れる。

だから読者は、作品の舞台が日本であっても、自分自身の問題として読むことができるのだと思う。

日常のすぐ隣に、別の世界がある

村上春樹の小説を特徴づけるものの一つが、現実と非現実の境界の曖昧さである。

主人公は普通に生活している。

朝起きて、食事をし、音楽を聴き、仕事をする。

ところが、その日常の中に突然、説明のできない出来事が入り込んでくる。

現実には存在しないような場所へ行くこともある。夢と現実の境界が曖昧になり、不可解な人物と出会うこともある。

しかし、それらは完全なファンタジー世界として切り離されてはいない。

あくまでも現実の続きとして現れる。

昨日まで普通だった世界の床板が一枚外れ、その下に別の世界があることに気づくような感覚である。

この構造もまた、国境を越えやすい。

特定の宗教や神話について詳しい知識を持っていなくても、「今、自分が見ている世界だけが本当なのだろうか」という感覚は理解できるからである。

人間は現実の中で生きているが、頭の中では常に記憶や想像、夢と一緒に生きている。

過去に起きたことを現在の出来事のように思い出すこともある。

存在しない未来について不安になることもある。

現実だけで人間の内面を説明することはできない。

村上春樹の小説は、その内面を異世界や夢のような形にして見せているとも考えられる。

音楽が作品の中に流れている

村上春樹の作品について語るとき、音楽を無視することはできない。

ジャズ、クラシック、ロックなど、多くの音楽が作品の中に登場する。

興味深いのは、この音楽が世界の読者をつなぐ共通の記号になることである。

日本語の文章は、外国の読者が読むためには翻訳されなければならない。

しかし、作品の中に登場する音楽そのものは翻訳する必要がない。

日本の登場人物が聴いている曲を、アメリカの読者も知っているかもしれない。ヨーロッパの読者も同じ演奏家を聴いているかもしれない。

すると、日本語で書かれた小説の中に、読者がすでに知っている世界が現れる。

これは作品への距離をかなり縮める。

また、音楽は単なる固有名詞ではなく、作品の時間や感情を作る役割も持っている。

文章を読みながら、読者の頭の中では音が鳴る。

本来、文字だけで作られている小説の中に、音楽によるもう一つの層が生まれる。

この感覚も、村上作品の独特な読みやすさと世界性に関係しているように思う。

翻訳されても残りやすい文章

世界文学として広がるためには、当然ながら翻訳が必要になる。

村上春樹の作品が多くの言語で読まれているということは、作品そのものの魅力だけでなく、それを別の言語へ移した翻訳者の仕事があって初めて成立する。

ただ、それと同時に、村上春樹の文章には、他言語に移しても一定の骨格を保ちやすい特徴があるのではないかとも思う。

文章は比較的明確で、過度に古典的な日本語表現に依存していない。

難しい修辞を幾重にも重ねるというより、比較的平明な文章を積み上げながら独特のリズムを作る。

もちろん、日本語で読む場合と英語やフランス語で読む場合とが同じであるはずはない。

翻訳は必ず何かを変える。

しかし、孤独や喪失という主題、人物の会話、音楽、食事、都市生活、現実と異世界の境界といった作品の大きな構造は、言語が変わっても比較的残りやすい。

さらに、村上春樹自身が長く翻訳を行ってきた作家であることも興味深い。

自分の文章を書く一方で、別の言語で書かれた文学を日本語へ移す仕事を続けてきた。

一つの言葉を別の言葉に移すと何が残り、何が失われるのかを、作家自身が経験してきた。

それが自分の文章にも何らかの影響を与えていると考えるのは、不自然ではないだろう。

本当に「無国籍」なのか

村上春樹については、「無国籍的な文学」という表現が使われることがある。

確かに、世界中の読者が入りやすいという意味では理解できる。

しかし、完全に国籍のない文学というものが本当に存在するのだろうか。

村上春樹は日本語で書いている。

日本社会の中で生きてきた。

東京をはじめ日本の都市も作品に登場する。

日本の歴史や社会と関係する作品もある。

したがって、日本性がないから世界で読まれると考えるのは適切ではない。

むしろ、村上作品の特徴は、日本の中にいながら世界と接続しているところにあるのではないか。

その姿は、現在の日本人の生活そのものにも近い。

私たちは日本語で暮らし、日本の社会制度の中で生活している。しかし同時に、外国の音楽を聴き、海外の映画を見て、世界中の情報に接している。

完全に日本だけで閉じた生活でもなければ、国籍を失った生活でもない。

村上春樹の文学は、その中間にある現代人の感覚を早い時期から描いていたのだと思う。

説明されないことが残る

村上春樹の作品を読んでいると、最後まで説明されないことが残る。

なぜあの出来事が起きたのか。

あの人物は何を意味していたのか。

なぜあの場所へ行かなければならなかったのか。

すべてが論理的に整理され、読者に答えとして提示されるとは限らない。

この点は評価が分かれる。

余韻と考える読者もいる。

曖昧だと感じる読者もいる。

謎が残ることで作品について考え続ける人もいれば、結末がはっきりしないことに不満を持つ人もいる。

世界で読まれている作家だからといって、すべての読者が同じように高く評価しているわけではない。

これは当然のことである。

世界的人気と文学的評価は別であるし、販売部数と作品の完成度も同じではない。

村上作品には、同じような人物設定やモチーフが繰り返されるという批判もある。

孤独な人物、失われた誰か、音楽、料理、猫、井戸、地下空間、夢、別世界。

長く読み続けている読者から見れば、また同じ世界が現れたと感じることもあるだろう。

しかし、その反復そのものが「村上春樹らしさ」を作っているとも言える。

音楽家が新しい曲を作っても、その人の音だと分かるように、文学にも作者固有の世界がある。

数ページ読めば村上春樹だと分かる。

それほど明確な作家性を持つことは、世界中に固定読者を作るうえでも大きな力になる。

世界で読まれるのは、世界を書いているからではない

村上春樹が世界で読まれる理由を考えていくと、少し逆説的なことに気づく。

世界を説明しているから世界で読まれるのではない。

国際政治を書いているからでもない。

世界各地を舞台にするからでもない。

むしろ、一人の人間の内側を書いているから世界へ広がっているのではないかと思う。

誰かを失った記憶。

自分は何者なのかという問い。

他人と完全には理解し合えない感覚。

社会の中に居場所を持ちながら、どこか違和感が残ること。

過去から離れたつもりでも、突然その記憶が戻ってくること。

これらは国籍を問わない。

人間であることそのものに関係する。

文学が国境を越えるとき、本当に読者をつなぐものは異国情緒だけではない。

「この感覚は自分にも分かる」

という瞬間である。

日本人の登場人物が感じている孤独を、別の国の読者が自分自身の孤独として読む。

日本の都市で起きた物語が、外国の読者の人生と重なる。

そのとき小説は、日本文学でありながら日本だけのものではなくなる。

世界文学とは何なのか

村上春樹について考えていると、最後には「世界文学とは何か」という問いに行き着く。

世界文学とは、国籍を失った文学ではない。

どこの国のものでもなくなることでもない。

むしろ、一つの土地、一つの言語、一人の作家から生まれた物語が、別の土地にいる人間にも届くことなのではないだろうか。

村上春樹は日本語で書く。

翻訳者がそれを別の言語へ移す。

アメリカの読者が読む。

中国の読者が読む。

ヨーロッパの読者が読む。

しかし、それぞれの読者がまったく同じ村上春樹を読んでいるわけではない。

日本人には当たり前に見える場面が、外国の読者には強い日本性として感じられるかもしれない。

逆に、日本人には特別ではない音楽や生活の描写が、外国の読者にとって親近感を生むこともある。

同じ文章でも、読者の経験によって意味は変わる。

文学は、作者が一つの正解を世界へ配るものではない。

読者が自分自身の人生を持ち込むことで、一つの作品が何通りもの意味を持つ。

そこに文学が国境を越える本当の力があるのだと思う。

日本から世界へではなく、人間から人間へ

では、村上春樹はなぜ世界で読まれるのか。

日本文化への関心もあるだろう。

翻訳の力も大きい。

文章の読みやすさも関係している。

音楽や都市生活の描写が国境を越えやすいことも理由の一つである。

しかし、その中心にあるのは、人間の孤独と喪失、自分自身への違和感ではないだろうか。

誰かを失うこと。

誰かを求めること。

世界とうまくつながれないこと。

それでも日常を続けていくこと。

その感覚を、日本の作家が日本語で書き、それを別の国の読者が自分の問題として読む。

そのとき文学は、日本から外国へ輸出される商品というだけではなくなる。

一人の人間から、別の一人の人間へ言葉が届く。

それが翻訳文学なのだと思う。

村上春樹が世界で読まれているという事実は、文学というものが、国境や言語の違いを越えて人間の内側へ入っていくことができることを示している。

世界のどこかで、一人の読者が本を開く。

そこには日本で書かれた物語がある。

けれども読み進めるうちに、その人が見ているのは遠い日本だけではなくなる。

いつの間にか、自分自身の孤独や記憶や喪失を読んでいる。

おそらく、村上春樹が世界で読まれる最大の理由は、そこにあるのだと思う。

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つながっているのに、なぜ孤独なのか

私たちは、かつてないほど簡単に他人とつながることのできる時代を生きている。

SNS(Social Networking Service・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を開けば、友人や知人の近況を知ることができる。

遠く離れた人とも連絡できる。

自分の考えや写真を公開すれば、多くの人から反応を受け取ることもできる。

しかし、

人とつながる手段が増えたことと、孤独がなくなることは同じではない。

大勢の人と交流していても孤独を感じることがある。

自分について多くの情報を公開していても、「本当の自分は誰にも分かってもらえていない」と感じることもある。

逆に、自分の内面をすべて他人へ公開すれば、深い信頼関係が成立するわけでもない。

こうした問題を考えるとき、百年以上前に発表された夏目漱石の『こころ』は意外なほど現代的な問いを投げかけてくる。

『こころ』の中心人物である「先生」は、社会的に完全に孤立している人物ではない。

妻がいる。

若い「私」が先生を慕って訪ねてくる。

生活そのものにも、ただちに困窮しているわけではない。

それでも先生は、

「私は淋しい人間です」

と「私」に語る。

そして若い「私」に、

「若いうちほど淋しいものはありません」

とも語る。

先生自身が孤独を自覚している一方、「私」の中にも同じ孤独を見ているのである。

ここで重要なのは、先生の孤独が、

周囲に人がいない孤独

ではないことである。

むしろ、

人がそばにいても、自分の最も重要な部分を他者と共有できない孤独

である。

だから『こころ』を現代に読み直すとき、問いは、

「先生はなぜ孤独だったのか」

だけでは終わらない。

もう一つ重要な問いが現れる。

人間にとって、信頼とは何なのか。

そして、

人とつながることと、人を信頼することは同じなのか。

SNS時代に『こころ』を読む意味は、この問いから始まる。

1 『こころ』はどのような物語なのか

『こころ』は、

「先生と私」

「両親と私」

「先生と遺書」

という三部から構成されている。

物語の前半では、大学生の「私」が鎌倉で先生と知り合い、次第に先生へ強く惹かれていく。

しかし先生は、自分の過去について簡単には語らない。

「私」は先生の家へ通う。

先生と散歩する。

先生の妻とも話す。

先生が定期的に墓参りをすることも知る。

それでも先生の核心には近づけない。

つまり、

接触することと、理解することが一致していない。

ここが『こころ』の重要な構造である。

人と頻繁に会う。

会話する。

家へ行く。

一緒に食事をする。

それでも、その人物が過去に何を経験し、何を恐れ、何を後悔しているのかまでは分からないことがある。

これはSNS時代にもそのまま考えられる問題である。

毎日投稿を見る。

メッセージを交換する。

写真を見る。

職業も趣味も知っている。

それでも、

その人について「知っている情報」が増えたことと、

その人の内面を理解したことは同じではない。

『こころ』では、この距離が先生と「私」の関係を通して描かれている。

2 先生は最初から人間嫌いだったわけではない

先生を、

「もともと他人を信用できない性格の人物だった」

と説明してしまうと、作品の重要な部分を失う。

先生の遺書によれば、若い頃の先生は、両親を亡くした後、叔父を信頼していた。

財産の管理についても叔父を頼っている。

ところが、後になって先生は叔父が自分の財産をめぐって誠実ではなかったと知る。

先生にとって、この経験は単なる金銭上の損失ではなかった。

重要なのは、

自分が信頼していた人間への見方が崩れたこと

である。

先生は、後に「私」に対して、人間を最初から善人と悪人という二種類に分けることのできない存在として語る。

通常は善人に見える人でも、ある条件によって行動が変わる可能性がある。

先生は自分自身の経験から、人間の善悪を固定的に考えることができなくなったのである。

3 信頼を失うと、人は何を疑うようになるのか

大きな裏切りを経験すれば、

「もう同じ目には遭いたくない」

と思うのは自然である。

先生も、叔父との経験を通して他人を警戒するようになる。

下宿先の奥さんが自分へ親切にすると、

何か別の意図があるのではないか、

と考える。

お嬢さんとの関係についても、奥さんが何らかの考えを持っているのではないかと疑う。

つまり先生は、

他人の表面的な言葉と、その背後にある動機を分けて考える

ようになる。

これはある意味では自己防衛である。

しかし、この防御には代償がある。

他人を疑えば、再び裏切られる可能性を下げることができるかもしれない。

その一方で、

他人へ頼る。

弱みを見せる。

自分を委ねる。

本音を話す。

ということも難しくなる。

したがって不信は、

人間を傷つくことから守る壁であると同時に、人との親密さを妨げる壁

にもなる。

先生の孤独は、この二重性と深く結び付いている。

4 しかし先生は誰も信用しなかったわけではない

ここで注意したい。

先生を、

「叔父に裏切られて以来、すべての人間を信用しなくなった」

と単純化するのも正確ではない。

Kとの関係を見ると、それほど単純ではないからである。

先生とKには長い付き合いがある。

Kの家族関係や宗教的・精神的な志向についても先生は詳しく知っている。

先生はKの複雑な事情を知った後も、Kという人物そのものを一定程度信用している。

つまり先生の問題は、

すべての人間を一律に疑うこと

というより、

他人を信じたい感情と、

人間は状況によって変わるという疑念との間で揺れていることにある。

この複雑さを残しておかなければ、『こころ』の先生を単なる「人間不信の人物」にしてしまう。

5 先生の最大の転換点はKとの関係にある

先生の人生で大きな意味を持つのがKである。

先生とKは親しい友人だった。

そして二人は同じ家で暮らすようになる。

その家には奥さんとお嬢さんがいる。

先生は次第にお嬢さんへ恋愛感情を持つ。

一方、Kも先生に対して、お嬢さんへの気持ちを告白する。

ここで状況が変わる。

先生はKから秘密を打ち明けられた側になる。

しかし先生自身もお嬢さんを愛している。

つまり、

友情と恋愛上の利害が衝突する。

この場面で、『こころ』の人間観が最も厳しい形で表れる。

6 「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」

『こころ』の中で非常に有名なのが、

「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」

という言葉である。

もともとこの言葉は、以前Kが先生に対して使ったものである。

その後、お嬢さんへの恋愛感情を告白したKに対して、今度は先生が同じ言葉を返す。

先生自身は遺書の中で、この言葉について極めて厳しく自己分析している。

先生は、

Kが自分と同じお嬢さんを求めることで、自分の利害と衝突することを恐れた。

そして自分の言葉を、

「単なる利己心の発現」

だったと認めている。

ここが重要である。

先生は後になって自分の行動を正当化していない。

自分が友情だけではなく、自分自身の利益を守ろうとして行動したことを認めている。

7 自己開示の非対称性

Kとの場面を「信頼」という観点から見ると、もう一つ重要な問題がある。

Kは先生に、自分の恋愛感情を打ち明けている。

先生はそれを知った。

ところが先生は、自分もお嬢さんを愛しているという重要な情報をKへ同じようには開示しない。

そしてKより先に奥さんへ結婚を申し込む。

ここには、

自己開示の非対称性

がある。

Kは自分の内面を先生へ渡した。

先生はその情報を受け取った。

しかし先生は、自分の同種の情報をKへ渡さない。

情報は、人間関係の中で一種の力になる。

相手の秘密。

弱点。

希望。

恐れていること。

価値観。

それを知っている人は、知らない人より有利な立場に立つことがある。

だから信頼とは、

秘密を漏らさないことだけではない。

相手が信頼して差し出した情報を、自分の利益のために利用しないこと

も含んでいる。

『こころ』における先生とKの関係は、その難しさを示している。

8 先生がKを死なせた、と単純化してはいけない

その後、Kは自ら命を絶つ。

ここで、

「先生がKを自殺させた」

と単純に説明するのは慎重であるべきだろう。

Kには、

家族との対立、

養家との問題、

自分の生き方についての厳しい理想、

精神的な葛藤、

などがある。

作品はKの死を一つの原因だけで完全に説明しているわけではない。

したがって文学的により正確なのは、

先生自身が、Kの死を自分の行動と強く結び付けて受け止めた

ということである。

先生はKの死後、自分自身の言動を何度も振り返る。

そこから罪悪感を抱え続ける。

重要なのは、客観的に誰が何パーセント責任を負うかという問題ではない。

先生自身の中では、自分はKを裏切ったという認識が消えなかった。

そこが、その後の先生の人生を決定的に変える。

9 他人への不信から、自分自身への不信へ

叔父との出来事で先生が学んだのは、

「人間は信用できない場合がある」

ということであった。

しかしKとの出来事によって、問題はさらに深くなる。

先生自身も、

利害が生じれば、

友情より自分の欲望を優先することがある。

つまり叔父を批判した先生自身の中にも、

自分が嫌悪した人間と共通する部分があることに気付く。

ここで先生の問題は、

他人への不信

だけではなく、

自分自身への不信

へ移る。

他人が信用できないだけなら、

「少なくとも自分は正しく生きればよい」

と思うことができる。

しかし自分自身も状況によって変わる人間だと知ってしまうと、その逃げ道もなくなる。

これは先生の孤独を考える上で非常に重要である。

10 先生には妻がいる。それでも孤独である

Kの死後、先生はお嬢さんと結婚する。

つまり先生は家庭を持っている。

妻との生活が常に不幸であるとも描かれていない。

それでも先生は孤独である。

なぜなら、夫婦の間には非常に大きな秘密が存在するからである。

妻は、Kと先生の間で何が起きたのかを知らない。

Kが自分に恋愛感情を抱いていたことも知らない。

そして先生が、自分との結婚をめぐってどれほどKへの罪悪感を抱えているのかも知らない。

先生はその真相を妻へ知らせないまま生きている。

ここで、

一緒に暮らしていることと、すべてを共有していることは違う

という問題が生じる。

11 先生が妻に話さないのは不信なのか

先生は最後の遺書の中で、妻には自分の過去を知らせたくないという意思を明確にする。

妻が自分の過去について持っている記憶を、

できるだけ「純白」に残しておきたい、

と考えている。

さらに「私」に対して、自分の死後も妻が生きている間は、この秘密を胸の内にしまっておくよう求める。

この態度を、

「先生は妻を信用していない」

だけで説明するのは難しい。

先生の中には、

妻を傷つけたくないという思いもある。

妻のKについての記憶を変えたくないという思いもある。

しかし一方で、

先生が一人で「妻は知らない方がよい」と決めていることも事実である。

ここには、

思いやりと信頼は同じではない

という難しい問題がある。

相手を守るために秘密にする。

それ自体が常に間違いとは言えない。

しかし、秘密によって相手から「知るかどうかを選ぶ可能性」まで奪う場合、

それを完全な信頼関係と呼べるのか。

『こころ』は簡単な答えを出さない。

12 信頼とは「何でも話すこと」ではない

ここから現代のSNSを考えてみよう。

SNS時代には自己開示の機会が大きく増えた。

仕事。

食事。

旅行。

家庭。

恋愛。

成功。

失敗。

悩み。

自分について多くのことを公開できる。

しかし、

自己開示の量と信頼の深さは一致しない。

自分について大量に公開していても、誰にも本当に相談できないことはある。

逆に、生活をほとんど公開していなくても、一人の人と深い信頼関係を持っている場合もある。

したがって、

秘密がある=信頼がない

とは言えない。

同様に、

全部話す=信頼している

とも言えない。

大切なのは、

何を、誰に、なぜ話すのか。

そして、

話した情報を相手がどう扱うのか。

ということである。

13 なぜ先生は妻ではなく「私」に語ったのか

『こころ』最大の逆説の一つはここにある。

先生は、最も身近な妻には話さなかった過去を、

最後に若い「私」へ長い遺書として語る。

なぜ「私」なのか。

作品から唯一の理由を断定することはできない。

しかし先生自身は、自分の過去を他人の参考に供する意思を示している。

そして妻だけはその対象から外す。

つまり「私」は、

妻のように過去の事件そのものの関係者ではない。

Kとの関係者でもない。

しかも先生に強い関心を持ち、先生の生き方を理解しようとしてきた若者である。

先生にとって「私」は、

自分の人生を受け取ることのできる、一定の距離を持った他者

だったと読むことができる。

ただしこれは文学的な解釈であり、作品本文から一つの動機として断定するべきではない。

14 告白には距離が必要なこともある

現実の人間関係でも、

最も身近な人だから最も話しやすい、

とは限らない。

家族には話せない。

長年の友人には話せない。

同僚には話せない。

しかし少し離れた人には話せる。

そういうことがある。

関係が近いほど、告白した後の影響が大きいからである。

妻に真実を伝えれば、先生と妻の関係そのものが変わる。

Kについての妻の記憶も変わる。

結婚についての意味も変わる可能性がある。

「私」には、その直接的な利害が少ない。

現代でも、

専門家への相談、

匿名相談、

ネット上での相談、

などでは、身近な人より遠い人の方が話しやすいことがある。

これは『こころ』がSNSを予言したという意味ではない。

しかし現代的な比較として、

親密さだけでなく、適度な距離も自己開示を可能にする場合がある

と考えることはできる。

15 若い「私」も孤独である

先生は、自分だけを孤独な人間だとは考えていない。

「私」にも孤独を見ている。

先生は、

「私は淋しい人間です」

と語ったうえで、

「若いうちほど淋しいものはありません」

と「私」に話す。

そして、もし孤独でないなら、なぜ何度も自分の家へ来るのかと問いかける。

ここには興味深い逆転がある。

孤独な人間とは、

一人で部屋に閉じこもっている人だけではない。

むしろ人との接触を求めて、

動き、

訪ね、

話し、

誰かを探している人の中にも孤独がある。

SNS時代であれば、

投稿を見る。

反応を確認する。

メッセージを送る。

交流する。

そうした行為によって人との接触を求める場合もある。

もちろん、SNSを頻繁に使う人が孤独だと断定することはできない。

ここで考えたいのは、より一般的な問題である。

人は孤独だからこそ、他者を求めることがある。

16 「自由と独立と己れ」に満ちた現代

『こころ』には、先生の孤独を個人的経験だけではなく、時代の問題へ広げる重要な言葉がある。

先生は、

「自由と独立と己れとに充ちた現代」

を生きる人間は、その代償として淋しさを味わわなければならない、という趣旨を語る。

ここでは原文に合わせ、

「自由・独立・自己」

ではなく、

「自由・独立・己れ」

と捉える方がよい。

近代社会では、個人が以前より大きな自由を持つ。

自分で考える。

自分で選ぶ。

自分で人生を作る。

しかしその自由は、

共同体から与えられた答えだけで生きなくてよい、

ということであると同時に、

自分の選択を自分で背負わなければならない

ということでもある。

先生自身が、この自由と孤独を結び付けて考えているのである。

17 SNSは「己れ」をさらに強く見せる装置なのか

ここから先は、作品そのものの説明ではなく現代的な比較である。

SNSでは、個人が自分自身を社会へ直接提示できる。

自分の写真。

経歴。

意見。

作品。

仕事。

趣味。

生活。

こうした情報を自分で選び、発信する。

これは個人の自由を拡大した。

同時に、

「自分」というものを絶えず編集し、他者へ提示する社会

も生み出した。

何を見せるか。

どう見られたいか。

どんな人だと思われたいか。

現代人は、以前より頻繁にこうした問題に向き合う可能性がある。

その意味で、『こころ』にある「己れ」の問題を、SNS時代から考え直すことには意味がある。

ただし、

SNS=孤独を生む

と単純化してはいけない。

SNSによって人との関係を維持できる人もいる。

孤立を避けられる人もいる。

趣味や経験を共有できる人に出会うこともできる。

問題なのはSNSそのものではなく、

つながっていることと理解されていることを同一視すること

である。

18 「見られている」と「理解されている」は違う

SNSでは多くの人から見られることがある。

しかし、

見られること、

知られること、

理解されること、

信頼されること、

は同じではない。

先生にも似た構造がある。

妻は先生と毎日生活している。

「私」は頻繁に先生を訪ねる。

しかし先生がKとの過去をどう背負っているのかは知らない。

つまり、

接触できる情報量が多いことと、その人の核心へ到達することは別である。

現代では大量のプロフィール情報を見ることで、

「あの人を知っている」

と思いやすくなった。

だが、画面に表示される情報は、その人の一部でしかない。

『こころ』が描いている、

外から見える人間と、

内側に抱えている人間との距離は、

SNS時代にも消えていない。

19 先生の遺書は対話なのか

最後に先生は、「私」へ長い遺書を書く。

これは非常に深い自己開示である。

しかし、通常の対話とは違う。

先生は告白した後で、

「私」と話し合おうとしているのではない。

質問に答えるわけでもない。

批判を聞くわけでもない。

許しを求めて相互に関係を作り直すわけでもない。

先生の告白は、

先生から「私」への一方向の伝達

である。

ここが重要である。

自分について深く語ることと、

他者と対話することは同じではない。

20 SNS時代の自己開示にも同じ問題がある

現在では、自分の過去や悩みを不特定多数へ語ることもできる。

長文を書く。

動画で話す。

体験を公開する。

そこには自己開示がある。

しかし、公開したからといって対話したことにはならない。

自分の言葉だけを出す。

相手の反応を受け取らない。

自分の説明だけを完成させる。

この場合、

自己開示は増えても、人間関係が深まるとは限らない。

先生の遺書は、SNS投稿ではない。

両者を同一視することはできない。

しかし比較することで、

「語ること」

と、

「他人と関係を作ること」

の違いが見えてくる。

21 明治という時代の終わり

『こころ』を、先生・K・お嬢さんの恋愛関係だけで読むと、作品のもう一つの大きな軸を見落とす。

物語の後半では、

明治天皇の崩御、

そして乃木希典の殉死、

が重要な背景になる。

先生は明治天皇の死を受け、明治という時代そのものが終わっていく感覚を持つ。

そして乃木の殉死は、先生自身の死についての意識とも結び付いていく。

ただし、

「乃木の殉死だけが原因となって先生が死を決めた」

と一本化するのは適切ではない。

先生には、それ以前から、

Kへの罪悪感、

自己不信、

長年の孤独、

死への意識、

が存在している。

明治の終焉は、それらと重なって作用する。

したがって『こころ』は、

個人的な罪の物語であると同時に、

明治という時代の終わりを生きる個人の物語

でもある。

22 もし先生にSNSがあったら孤独ではなかったか

ここで一つ思考実験をしてみる。

先生が現代に生きていたとして、

SNSを利用できれば孤独ではなかっただろうか。

匿名で相談する。

同じ悩みを持つ人を探す。

文章を書く。

専門家へ相談する。

こうした選択肢は増える。

それによって助けられる可能性もあるだろう。

しかし先生の問題は、

単純に話し相手がいないことではない。

他人との間で何を信頼できるのか。

自分自身をどこまで信頼できるのか。

過去を他人へどう渡すのか。

という問題である。

したがって、

フォロワー数が増えるだけでは先生の問題は解決しない。

ここから考えられるのは、

孤独の大きさは、人間関係の数だけでは測れない

ということである。

23 信頼とは「絶対に裏切らない人」を探すことなのか

先生は、人間が状況によって変わり得ることを知った。

そして先生自身もKとの関係で、自分が必ずしも理想通りに行動できない人間であることを知る。

ここから現代的に考えられることがある。

信頼とは、

「この人は絶対に悪いことをしない」

と確信することなのだろうか。

人間が完全ではない以上、その保証を得ることは難しい。

むしろ現実的な信頼とは、

相手が間違える可能性を認める。

自分も間違える可能性を認める。

利害が違う場合があることを認める。

問題が起きたら話し合う。

必要なら距離を取る。

関係を修復できる場合には修復する。

というものかもしれない。

ここは『こころ』そのものが明確な答えを示しているわけではない。

作品から現代へ引き出すことのできる、一つの考察である。

24 完全に分かり合えなくても、人は信頼できるのか

『こころ』では、誰も他人を完全には理解していない。

「私」は先生の過去を長く知らない。

妻も先生の秘密を知らない。

先生はKの内面を完全には理解できない。

Kも先生が同じ女性を愛していることを知らない。

人間は他人の心の全体を見ることができない。

これは現実の人間関係でも同じである。

したがって、

完全に理解した後で信頼する

という順序は、現実には成立しにくい。

むしろ信頼とは、

相手には分からない部分が残っている。

自分にも相手へ見せていない部分がある。

それでも一定の関係を作る。

という行為なのかもしれない。

25 秘密を持つことと孤立することは違う

SNS時代には、

本音を言う。

ありのままの自分を見せる。

隠し事をしない。

といった自己開示が肯定されることがある。

しかし、人間には秘密があってもよい。

すべての人にすべてを公開する必要はない。

問題は、

秘密を持っていることそのものではなく、

その秘密によって、誰とも重要な部分を共有できない状態になっているかどうか

だろう。

先生の人生では、Kとの過去が長く閉じられたままになる。

そのため妻とも共有できず、

社会とも距離を置き、

自分自身の中で抱え続けることになる。

秘密は必要な場合もある。

しかし秘密が自分と世界との間を完全に遮断する壁になると、孤独は深くなる。

26 『こころ』を心理診断へ変換してはいけない

先生について、

現代の特定の精神疾患だった、

特定の人格障害だった、

などと作品だけから診断することは適切ではない。

先生は文学作品の登場人物である。

作品の中で描かれているのは、

孤独、

嫉妬、

罪悪感、

不信、

欲望、

自己嫌悪、

近代的個人、

といった複数の問題である。

それらを一つの診断名に置き換えてしまうと、文学作品の複雑さを失う。

同じ理由で、

「先生はコミュニケーション能力が低い」

だけで説明することもできない。

先生は鋭く他人を観察する。

「私」と会話する。

自分自身をかなり厳しく分析することもできる。

問題は単純な会話能力ではなく、

他者との信頼関係の中へ自分の核心を置くことができなかった

ところにある。

27 令和の私たちが『こころ』から考えられること

『こころ』はSNS時代のために書かれた小説ではない。

したがって現代への教訓を無理に取り出す必要はない。

しかし考える材料としては、少なくとも五つの論点が見えてくる。

第一に、

人との接触量と孤独の大きさは一致しない。

多くの人と交流していても孤独な場合がある。

第二に、

信頼には一定の危険が伴う。

完全な安全を確認してから他人を信じることは難しい。

第三に、

他人への不信と自分への不信は別の問題であり、先生の場合は後者まで深まっていく。

第四に、

自己開示と信頼は同じではない。

大量に自分を語ることによって自動的に信頼関係が生まれるわけではない。

第五に、

完全に理解し合えなくても、人間関係は成立し得る。

他人には分からない部分が残ることを認めたうえで、関係を続ける必要がある。

28 『こころ』をSNS社会の予言書にしてはいけない

一方で、『こころ』とSNS社会を直接同一視してはいけない。

1914年の日本と令和の日本では、

家族制度、

男女関係、

教育、

職業、

通信手段、

社会規範、

が大きく異なる。

漱石がSNS社会を予測して先生を書いたわけではない。

だから、

「先生は現代ならSNS疲れをしていた」

「Kとの問題は現代の既読無視と同じだ」

というような単純な置き換えは文学作品を軽くしてしまう。

現代との比較に意味があるのは、

具体的な道具ではなく、人間関係の構造

である。

人に知られていることと、

理解されること。

自己開示することと、

信頼すること。

自由であることと、

孤独であること。

こうした問題は、媒体が変わっても考えることができる。

29 先生の最大の悲劇は、孤独だったことだけではない

先生には妻がいる。

「私」もいる。

完全に社会との接触を失った人物ではない。

それでも先生は、自分の最も重要な過去を生きている間に妻と共有しない。

最後に「私」へ語る。

しかし、その告白は未来の対話を始めるためのものではない。

先生自身が去ることを前提とした遺書である。

ここに『こころ』の非常に厳しい部分がある。

先生はついに自分の「こころ」を他者へ渡す。

しかし、

渡した後で相手と生き続ける時間を自ら残さない。

「私」は先生の言葉を受け取る。

しかし先生へ問い返すことができない。

これは深い自己開示であると同時に、

最後まで完成しない対話でもある。

結論~孤独の反対は「つながり」ではなく「信頼」なのかもしれない

『こころ』の先生は一人ではない。

妻がいる。

「私」がいる。

それでも先生は、

「私は淋しい人間です」

と語る。

先生の孤独は、

人間が周囲に存在しないことではない。

自分の最も重要な部分を、他者との関係の中へ置くことができない孤独

である。

先生は叔父を信頼し、その信頼を傷つけられた。

だから人間を以前と同じようには信じられなくなった。

しかし先生は、すべての人間を完全に拒絶したわけでもない。

Kとの友情もある。

妻への愛情もある。

「私」との交流もある。

それでもKとの出来事によって、先生は別の問題に直面する。

他人だけではない。

自分自身も、利害や欲望によって理想通りには行動できない。

先生はそのことを知ってしまう。

だから先生の問題は、

「人間は信用できない」

という単純な人間不信だけではない。

自分自身を含め、人間という存在を無条件には信じられなくなったこと

にある。

令和の私たちは、先生の時代とは比較にならないほど多くの人と接触できる。

SNSを通じて、

数百人、

数千人、

場合によっては数万人とつながることもできる。

しかし、

フォロワーがいること。

「いいね」が付くこと。

自分について多くを公開すること。

誰かの生活を毎日見ていること。

それだけで信頼関係が成立するわけではない。

なぜなら人間が必要としているのは、単なる情報交換だけではないからである。

自分の一部をこの人に預けてもよいと思えること。

そして、

相手から預けられた一部を、自分の利益のために利用しないこと。

そこに信頼の一つの形がある。

しかし、その信頼にも完全な保証はない。

相手も間違える。

自分も間違える。

人間は状況によって変わる。

それでも、完全に安全になるまで他者を拒み続ければ、先生が抱えたような孤独へ近づいてしまう可能性がある。

孤独の反対は、

単純に大勢の人とつながっている状態ではないのかもしれない。

一人でもよい。

自分の全部を公開しなくてもよい。

秘密があってもよい。

しかし、自分の一部を渡すことのできる相手がいる。

そして、その人から渡された一部を大切に扱うことができる。

それを信頼と呼ぶならば、『こころ』は百年以上前の作品でありながら、SNS時代の私たちにも非常に厳しい問いを残している。

あなたには、何人の知り合いがいるのか。

という問いではない。

あなたには、自分の「こころ」の一部を預けられる人がいるのか。

そして、もう一つ。

誰かがあなたに預けた「こころ」を、自分の利益のために使わずにいられるのか。

『こころ』を現代に読み直す価値は、この二つの問いが、通信手段がどれほど進歩しても簡単には古くならないところにあるのではないだろうか。

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