リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

三島由紀夫について論じるとき、その政治的な言動や晩年の行動が大きく取り上げられることは少なくない。しかし、それらの事柄が強い印象を残しているために、三島が小説家として何を描き、どのような言葉によって文学作品を構築したのかが、十分に検討されないままになることもある。

本稿では、三島由紀夫の政治的な主張や行動、またその最期については扱わない。

それらを軽視するためではなく、考察の対象を意識的に文学作品の内部へ限定するためである。三島由紀夫の小説において、美しいものはどのように描かれているのか。美は登場人物を幸福にするのか、それとも現実から遠ざけるのか。また、人物の容貌や肉体、自然、建築物、季節、恋愛といった要素は、三島の文体によってどのような美へと組み替えられているのか。

こうした問題を、小説の描写、人物造形、物語構造、文体表現に即して考えてみたい。

三島由紀夫を「美の作家」と呼ぶことは難しくない。だが、その言葉だけでは、三島文学の特徴を明らかにしたことにはならない。

三島の小説に現れる美は、必ずしも人を慰めるものではない。人を幸福に導くとも限らない。ときには見る者を圧倒し、劣等感を刺激し、現実との間に越えがたい隔たりを生じさせる。

一方で、『潮騒』のように、肉体、自然、労働、恋愛が一つの調和を形成する作品もある。

三島由紀夫の文学における美は、単純な一つの原理によって説明できるものではない。それは幸福であると同時に不安であり、調和であると同時に緊張であり、現実に存在しながら、現実を超えた観念にもなる。

本稿では、『金閣寺』『仮面の告白』『潮騒』『春の雪』を中心に、三島由紀夫が美をどのように小説の中へ組み込み、その美によって人物の内面や人間関係をどのように描き出したのかを考察する。


第一章 三島由紀夫は本当に「美の作家」なのか

三島由紀夫は、しばしば「美の作家」と評される。

その評価には、いくつかの異なる意味が含まれている。

第一に、三島の小説には、美しい人物、美しい肉体、美しい建築物、美しい自然が数多く登場する。

第二に、その文章自体が、華麗で視覚的であり、精密に構築されている。

第三に、美とは何か、美しいものを前にした人間がどのように変化するのかという問題が、物語の中心に置かれることがある。

したがって、三島を「美の作家」と呼ぶ場合、美しい題材を扱った作家という意味だけでは不十分である。

三島文学において重要なのは、美しいものそのものだけではない。それを見た人間が何を感じ、どのような行動を取り、現実との関係をどのように変化させるかという問題である。

一般に、美しいものは人を喜ばせ、慰め、生活を豊かにすると考えられている。

美術館で絵画を見ること、美しい音楽を聴くこと、自然の風景を眺めることは、人間に安らぎや感動を与える。美は、人間にとって肯定的な価値を持つものとして理解されることが多い。

しかし、三島の小説では、美は必ずしも穏やかなものではない。

美しいものを前にした人物は、しばしば自分自身の醜さ、弱さ、未熟さを意識させられる。美は人間を励ますどころか、現実の自分を否定する力として働くことさえある。

この構造が最も明確に現れる作品が『金閣寺』である。

『金閣寺』では、美しい建築物が主人公を救済するのではなく、次第に主人公の現実生活を圧迫する存在となっていく。

一方、『仮面の告白』では、美しい肉体が、見る者の憧れや欲望を喚起すると同時に、見る者と見られる者との距離を明らかにする。

『春の雪』では、美しい人物や恋愛が、日常生活の中に安定して存在するのではなく、距離、身分、時間、失われていく季節によって強調される。

これに対し、『潮騒』では、美しい肉体と自然と労働が比較的調和した関係を形成している。新潮社も同作を、太陽や海、若い男女の肉体と恋愛が結びついた「恩寵的な世界」を描く作品として紹介している。

この違いを見ると、三島文学の美は、単に暗いものでも、破壊的なものでもないことが分かる。

美が人物を苦しめるか、人物の生活と調和するかは、その美が現実から切り離されているか、それとも労働や生活の中に置かれているかによって変わる。

三島由紀夫が描いたのは、美そのものの定義というよりも、美と人間との関係だったのではないだろうか。

美しいものは、そこに存在しているだけでは文学にならない。

それを見る人間がいる。

憧れる人間がいる。

所有しようとする人間がいる。

拒絶される人間がいる。

美にふさわしい自分になろうとする人間もいれば、美を前にして自分の価値を失ったように感じる人間もいる。

三島文学における美は、このような人間の感情や欲望を映し出す鏡として働いている。


第二章 『金閣寺』――美は人間を幸福にするのか

『金閣寺』は、三島由紀夫の美の問題を考えるうえで、最も重要な作品の一つである。

主人公の溝口は、吃音と自らの容貌に強い劣等感を抱いている青年である。彼にとって金閣は、単なる歴史的建造物ではない。

それは父から語り聞かされた、世界で最も美しいものだった。

新潮社の作品紹介でも、溝口にとって金閣は「世界を超脱した美そのもの」であったと説明されている。

重要なのは、溝口が最初から現実の金閣を見て、その美しさに感動したわけではないことである。

金閣は、実物を見る前から、父の言葉や溝口自身の想像によって作り上げられていた。

つまり、金閣の美は、現実の建築物として存在する以前に、溝口の内面に観念として形成されている。

この順序は、『金閣寺』を理解するうえで重要である。

現実の金閣と、溝口の想像の中の金閣は、同じものではない。

現実の建築物には、物質的な古さや傷みがあり、見る位置や天候によって印象も変わる。しかし、観念の中の金閣は完全であり、変化せず、溝口の日常生活を超越している。

そのため、溝口は金閣を自由に見ることができない。

金閣は目の前に存在しているにもかかわらず、溝口にとっては決して日常的な建物にならない。それは常に、現実を超えた美として立ち現れる。

ここに、美と人間との不均衡が生まれる。

溝口は、自分の吃音や外見に悩み、他者との円滑な関係を築くことができない。現実の世界では、自分が不完全な存在であることを意識させられる。

それに対し、金閣は完全な美として存在する。

溝口の不完全さと、金閣の完全さが対比されるほど、金閣の美は彼を幸福にするのではなく、圧迫するものになる。

美しいものは、自分もまた美しくなれるという希望を与えるとは限らない。

むしろ、自分がその美から遠く隔てられた存在であることを、残酷なほど明確に示すことがある。

溝口にとって金閣は、憧れの対象であると同時に、自分の劣等感を絶えず確認させる存在でもある。

また、金閣の美は、溝口が現実の行動を起こすことを妨げる。

溝口が女性と関係を持とうとするときにも、金閣の像が彼の意識に現れ、目の前の現実を遮る。

ここでは、美が現実を豊かにするのではなく、現実への参加を困難にしている。

美しいものを想像することによって、現実の人間関係が色鮮やかになるのではない。反対に、観念として完成された美が、現実の人間や出来事を価値の低いものに見せてしまう。

その意味で、『金閣寺』における美は、一種の絶対的な基準である。

完全な美を基準にすれば、現実の人間も、日常生活も、身体も、恋愛も、すべてが不完全に見える。

だが、人間が生きるのは、完全な観念の世界ではない。

不完全で変化し続ける現実の中である。

溝口の苦しみは、美を愛したことだけから生じているのではない。美を現実とは異なる絶対的なものとして捉え、その美と自分との間に関係を築けなかったことから生じている。

『金閣寺』が示しているのは、美しいものが必ず人間を善い方向へ導くわけではないという事実である。

美は人間を高めることもあるが、人間を現実から遠ざけることもある。

美を前にした人間は、感動するだけではない。嫉妬し、恐れ、支配され、ときにはその美が存在すること自体を重荷に感じる。

三島由紀夫は、金閣の美しさを説明するだけではなく、その美に耐えられなくなる人間の内面を描いた。

そこに、『金閣寺』が単なる建築美の小説ではなく、人間と美との緊張関係を描いた文学作品である理由がある。


第三章 『仮面の告白』――美しい肉体はなぜ遠いのか

『仮面の告白』では、美の対象が建築物から人間の肉体へと移る。

この作品の語り手である「私」は、自らの内面を他者に知られないようにしながら、社会の中で生きている。

題名にある「仮面」とは、単なる嘘や演技を意味するものではない。

人間が社会の中で求められる役割を演じ、自分の内面と外部に示す姿との間に距離を作ることを表している。

新潮社の作品紹介では、この小説は、少年である「私」が自らの性的指向に煩悶し、級友の妹との関係を通して、自分が一般的な幸福に適合できないことを認識していく物語として紹介されている。

『仮面の告白』に登場する美しい肉体は、「私」が自然に近づき、触れ合い、日常を共有できる対象ではない。

それは、遠くから見つめられる対象である。

ここに、『金閣寺』と共通する構造がある。

金閣が溝口にとって所有できない美であったように、美しい男性の肉体は、「私」にとって自由に近づくことのできない美である。

ただし、『仮面の告白』における距離は、物理的な距離だけではない。

社会的な距離であり、心理的な距離であり、言葉にすることのできない内面と、他者に見せている自分との距離でもある。

美しい肉体を見つめる「私」は、その肉体を純粋な自然物として見ているわけではない。

肉体は、想像、物語、絵画、宗教的な図像などと結びつき、現実以上の意味を与えられる。

そのため、肉体の美は、単なる健康や均整だけでは説明できない。

「私」の想像力によって、肉体は現実の身体でありながら、象徴的な像へと変化する。

ここでも、美は見る者の内面によって作られている。

美しい人物が客観的に存在し、その美しさがそのまま語り手へ伝わるのではない。

語り手の欲望、記憶、不安、孤独が、美しい肉体の意味を変える。

同じ人物を見ても、別の人間には同じ美が見えるとは限らない。

美とは対象だけに属するものではなく、対象と見る者との関係の中に成立する。

さらに、『仮面の告白』では、美しい肉体と、語り手自身の身体感覚との間にも大きな差がある。

「私」は、美しい肉体を外側から見つめる。その視線には憧れがあるが、同時に、自分はその美の側にはいないという感覚も含まれている。

美を見るという行為は、自分と対象との違いを確認する行為でもある。

自分が持っていないもの、自分がなることのできないもの、自分が近づくことを許されないものほど、強く美しく見える場合がある。

この意味で、『仮面の告白』における美は、距離によって成立している。

完全に理解し、日常的に接し、自由に所有できるものは、観念的な美を維持しにくい。

遠く、禁じられ、言葉にできないからこそ、美は強くなる。

しかし、距離によって成立する美は、見る者を幸福にするとは限らない。

美が強くなるほど、それに近づけない自分の孤独も強くなるからである。

三島由紀夫は、美しい肉体を描くことによって、単に官能的な世界を作ったのではない。

美を見つめる人間が、なぜ自分を隠さなければならないのか。

なぜ美しいものを欲望することと、社会の中で普通に生きることの間に緊張が生じるのか。

そして、なぜ人間は他者に見せる自分と、自分だけが知る自分との間に仮面を必要とするのか。

美しい肉体は、こうした問いを引き出す装置として機能している。

『仮面の告白』の美は、人間を外部へ導くよりも、自己の内面へと深く沈める。

美しいものを見たために、自分自身が何者であるかを問わざるを得なくなる。

その点に、この作品における美の厳しさがある。


第四章 『潮騒』――生活と調和する美

『金閣寺』と『仮面の告白』では、美は人物と現実との間に距離を生じさせていた。

しかし、三島由紀夫の小説に登場する美が、常に人間を孤独にし、現実から遠ざけるわけではない。

そのことを示す作品が『潮騒』である。

『潮騒』の舞台は、伊勢湾の小島である。

若い漁師の新治と、島へ戻ってきた少女・初江との恋愛を中心に物語が展開する。二人の周囲には、海、太陽、風、星、漁、船、島の共同体が存在する。新潮社の紹介でも、同作は海の若者と少女の恋を中心に、若い肉体と自然が結びついた澄明な作品として位置づけられている。

『潮騒』における美は、現実から切り離された観念ではない。

新治の肉体は、鑑賞されるためだけの肉体ではなく、働くための肉体である。

漁に出て、船を動かし、海の危険に対応する。

初江の美しさも、遠くから眺められるだけの人工的な美ではない。島の自然や日常生活の中に存在し、労働や共同体との関係を持っている。

ここでは、肉体の美しさと、肉体の有用性が分離していない。

現代社会では、美しい肉体は、しばしば日常的な労働から切り離されて表現される。

鍛えられた身体、美しい容貌、若さなどが、それ自体の価値として提示される。

しかし、『潮騒』の肉体美は、海で働き、困難に耐え、他者を守る力と結びついている。

そのため、新治の肉体は観念的な像になりすぎない。

彼は美しい若者である以前に、生活する人間である。

この点が、『仮面の告白』に登場する、遠くから見つめられる肉体との大きな違いである。

『潮騒』では、美しいものが生活の外部に置かれていない。

太陽は人物を照らし、海は人物の生活を支える。

同時に、海は危険をもたらし、若者の力量を試す場所でもある。

自然は単なる背景ではなく、人物の身体、感情、成長に関わる現実の環境である。

また、新治と初江の恋愛は、二人だけの観念的な世界に閉じこもるものではない。

島の噂や家族、経済的な立場、結婚といった現実的な条件にさらされる。

それでも二人は、現実を拒絶して自分たちの世界へ逃げるのではなく、困難を乗り越えながら共同体の中で関係を成立させようとする。

ここでは、美と幸福が比較的近い位置にある。

美しい人物が、美しい自然の中で、互いを愛し、労働し、将来の生活へ向かっていく。

これは三島文学の中では、きわめて明るい美の形である。

ただし、『潮騒』の美を単純な楽観主義と見るべきではない。

二人の恋愛は、最初から無条件に認められているわけではない。嫉妬、噂、身分や経済的な違い、自然の危険が存在する。

それでも美と現実が決定的に分裂しないのは、新治と初江が、観念の中に閉じこもらず、行動によって現実との関係を築いていくからである。

『金閣寺』の溝口は、美を見つめ続ける。

『仮面の告白』の「私」も、美しい対象を見つめ、その意味を内面で増幅させる。

これに対し、『潮騒』の新治は、美しいものを見つめるだけではない。

働き、選択し、危険に立ち向かい、人間関係の中で責任を引き受ける。

『潮騒』が示すのは、美が生活と結びつくためには、美を観念として所有するのではなく、現実の行動の中で経験する必要があるということではないだろうか。

美が日常生活を超越した絶対的なものになるとき、人間は美に支配される。

しかし、美が労働や自然や人間関係の中に存在するとき、それは生活を肯定する力になり得る。

『潮騒』は、三島由紀夫が美を苦悩や孤独だけでなく、人間と世界との調和としても描くことのできた作家であることを示している。


第五章 『春の雪』――美はなぜ失われるときに強くなるのか

『春の雪』は、『豊饒の海』四部作の第一巻である。

物語の中心となるのは、華族の家に生まれた松枝清顕と綾倉聡子である。

二人は互いに惹かれ合いながらも、清顕の自尊心やためらいによって関係を素直に進めることができない。清顕が聡子を遠ざけた後、聡子は皇族との婚約を受け入れる。その後、二人の関係は、許されないものとなったことによって、かえって激しさを増していく。

『春の雪』における美は、若さ、季節、身分、恋愛、距離、時間と密接に結びついている。

題名にある「春の雪」は、その性質を象徴している。

春の雪は美しい。

しかし、長く残ることはない。

降り積もったとしても、季節の暖かさによって間もなく消えてしまう。

その美しさは、永続することではなく、消えてしまうことと結びついている。

清顕と聡子の関係も、安定した日常の中で少しずつ育つ恋愛ではない。

二人が自由に結ばれる可能性があるとき、清顕は自分の感情を十分に受け入れることができない。

ところが、聡子が他者との婚約によって遠い存在になると、清顕の感情は強くなる。

ここには、美と距離の関係がある。

身近にあり、手に入れることのできるものよりも、失われようとしているものの方が美しく見える。

自由に会えるときよりも、会うことを禁じられた後の方が、相手の存在が強く感じられる。

人間は、対象そのものを愛しているのか。

それとも、その対象を失う可能性によって、自分の感情を強めているのか。

『春の雪』は、この判別しにくい問題を描いている。

清顕は、聡子を愛している。

しかし、その愛は、聡子が遠ざかるほど強くなる。

もし聡子がいつでも会える身近な存在であり続けたならば、清顕は同じように彼女を求めただろうか。

この問いに、簡単な答えは出せない。

ただし、三島は、愛や美が対象との距離によって変化することを、物語の構造として明確に描いている。

また、『春の雪』では、若さそのものが美として表現されている。

若さは、永続する性質ではない。

若者は、自分の若さが失われることを十分には理解していない。清顕の繊細さ、傲慢さ、ためらい、気まぐれは、若さの魅力であると同時に、若さの未熟さでもある。

三島は、清顕を道徳的に完全な人物として描いてはいない。

清顕は、自分の感情を扱いきれず、相手を傷つけ、決断を遅らせる。

それでも、その未熟さを含んだ存在全体が、美しいものとして描かれる。

ここでの美は、人格的な善良さと一致しない。

人は善良であるから美しいとは限らず、正しい判断をするから美しいとも限らない。

矛盾や欠点を持ちながら、二度と戻らない若い時間の中に存在していること自体が、美を生み出している。

『春の雪』の自然描写や室内描写も、この失われる時間を強く意識させる。

季節、光、庭園、衣服、建物、儀礼などが細かく描かれ、人物たちは美しく整えられた世界の中に置かれる。

しかし、その世界は安定していない。

旧い貴族社会の秩序と、新しい時代の動きが重なり、登場人物たちが属する世界そのものも変化しようとしている。

美しい形式が存在しているからこそ、それが長くは続かないという予感が生まれる。

三島文学において、美はしばしば、変化しない完全なものとして求められる。

しかし、『春の雪』の美は、変化を拒むことで成立するのではない。

むしろ、失われていくことが、美を強くしている。

雪は溶けるから美しい。

春は過ぎるから美しい。

若さは失われるから美しい。

自由に結ばれない恋愛は、その不可能性によって、日常的な恋愛よりも鮮烈なものになる。

ただし、このような美は、人を幸福にする美ではない。

失われるから美しいものを愛するならば、その美を感じることは、同時に喪失を経験することでもある。

『春の雪』における美は、所有や安定ではなく、時間と距離の中で成立する。

それは完成された幸福の美ではなく、幸福になり得た可能性が失われていく美である。


第六章 三島由紀夫の文体はどのように美を作るのか

三島由紀夫は、美しい建築物、肉体、自然、恋愛を題材にした。

しかし、題材そのものが美しいだけで、文学作品が自動的に美しくなるわけではない。

同じ海、同じ庭園、同じ若者、同じ建築物を描いても、文章の選び方によって、読者が受け取る印象は大きく変わる。

三島文学の美を考えるためには、何が描かれているかだけではなく、どのように描かれているかを見る必要がある。

1 視覚的に構成される文章

三島の文章は、視覚的な印象が強い。

色、光、影、形、輪郭、表面の質感などが細かく描かれ、読者は場面を頭の中に映像として想像しやすい。

ただし、それは写真のように現実をそのまま写す描写ではない。

三島は、現実の風景から特定の要素を選び取り、強調し、配置し直す。

光をどこに当てるか。

何を暗い影の中に置くか。

人物の身体のどの部分を描くか。

背景をどの程度まで説明するか。

こうした選択によって、現実の場面が一つの構図へ変えられる。

三島の自然描写が、単なる写生とは異なるのはそのためである。

海や庭園や雪は、自然のままに存在しているのではなく、文章の中で造形された美として読者の前に現れる。

2 比喩によって現実を変形する

三島の文体では、比喩が重要な役割を持つ。

比喩は、あるものを別のものにたとえる表現である。

しかし、三島の比喩は、単に説明を分かりやすくするためだけに用いられているのではない。

比喩によって、現実のものが別の意味を持ち始める。

身体が彫刻のように見える。

水面が金属や宝石のように見える。

雲や光が布や紙のように見える。

自然物が人工物のように描かれ、人工物が生き物のように描かれる。

この変換によって、読者は日常的な対象を、普段とは異なる角度から見ることになる。

比喩は現実を忠実に再現するのではなく、現実に新しい形を与える。

その意味で、三島の文章は、世界を説明する文章というよりも、世界を作り直す文章である。

3 感覚と観念を結びつける

三島の文章には、視覚、聴覚、触覚、嗅覚などの具体的な感覚が多く現れる。

一方で、美、時間、孤独、欲望、幸福といった抽象的な観念も頻繁に語られる。

三島の特徴は、感覚と観念を別々に書くのではなく、両者を一つの文章の中で結びつける点にある。

たとえば、ある光景が美しく描かれた後、その光景が人物にとって何を意味するかが考察される。

また、人物の感情が抽象的に説明されるだけでなく、身体感覚や風景の変化として表現される。

そのため、読者は単に場面を見るだけではなく、その場面に与えられた思想的な意味まで同時に読むことになる。

『金閣寺』における金閣は、建築物であると同時に、溝口にとっての絶対的な美の観念である。

『仮面の告白』の肉体は、身体であると同時に、欲望、孤独、自己認識を引き出す象徴である。

『潮騒』の海は、自然環境であると同時に、新治の労働能力や勇気を試す場所である。

『春の雪』の雪は、自然現象であると同時に、若さや恋愛のはかなさを表している。

三島の文体は、物と意味を結びつける。

物を物のまま放置せず、その背後に観念を生じさせる。

4 人物を一つの造形物として描く

三島の人物描写では、人間の内面だけでなく、外見、姿勢、衣服、動作、周囲の光景が重視される。

人物は心理だけで作られているのではない。

身体の形、歩き方、視線、服装、置かれている空間によって、一つの視覚的な像として構成される。

この方法によって、登場人物は単なる現実の人間以上の存在感を持つ。

清顕や聡子は、一人の若者、一人の女性であると同時に、失われていく時代や若さを表す美しい像にもなる。

新治と初江は、個人であると同時に、海と太陽の下で生きる若い男女の象徴的な姿としても描かれる。

ただし、人物を美しい像として描くことには危うさもある。

人物が造形的に完成するほど、日常生活を送る普通の人間から遠ざかる可能性があるからである。

三島文学の人物には、ときに現実の人間以上に整いすぎている印象がある。

しかし、その人工性こそが三島の文体の特徴でもある。

三島は、現実の人物をそのまま写すのではなく、言葉によって人物を造形する。

小説の人物を、彫刻や絵画のように配置し、光を当て、輪郭を与える。

5 自然美ではなく、構築された美

三島の文章は、自然に流れ出た感情をそのまま記したような文章ではない。

語句、比喩、文の長さ、場面の配置が強く意識され、人工的に構築されている。

ここでいう人工的とは、不自然で価値が低いという意味ではない。

庭園、建築、彫刻、舞台などと同じように、人間の意志によって形を整えられた美という意味である。

三島の文体は、感情を無加工で表に出すのではなく、感情に形式を与える。

苦悩をそのまま叫ぶのではなく、比喩や構図の中に置く。

恋愛を直接的な感情表現だけで描くのではなく、季節や衣服や建物と結びつける。

人物の孤独を説明するだけでなく、その人物と美しい対象との距離として表現する。

そのため、三島の文章には、感情の激しさと、形式の冷静さが同時に存在する。

内容は激しくても、文章は制御されている。

人物は混乱していても、場面の構成は整っている。

この緊張関係が、三島の文体に独特の美しさを与えている。


おわりに――美は人を救うのか

三島由紀夫の文学における美は、一つの意味に固定することができない。

『金閣寺』では、美は溝口を現実から遠ざけ、その劣等感を強める。

金閣の完全な美は、溝口に幸福を与えるのではなく、自分の不完全さを意識させる。

『仮面の告白』では、美しい肉体は、欲望の対象であると同時に、語り手が自分自身の孤独を知るきっかけとなる。

美しいものは近くにあるのではなく、距離や禁忌によって、いっそう強い美となる。

『潮騒』では、美は現実の生活と調和している。

若い肉体は労働する身体であり、海は美しい背景であると同時に、人間の力を試す生活の場である。

ここでは、美が人間を現実から遠ざけるのではなく、現実の行動や共同体の中で成立している。

『春の雪』では、美は時間と喪失によって強められる。

若さ、恋愛、季節、旧い社会の形式は、永遠に続くから美しいのではない。

失われていくことが避けられないからこそ、強い美として感じられる。

これらの作品を比較すると、三島文学における美は、対象そのものに固定された性質ではないことが分かる。

美は、見る者との関係によって変わる。

近づけるか、近づけないか。

生活の中に置かれているか、現実を超越した観念になっているか。

所有できるか、失われようとしているか。

美を前にした人物が行動するか、ただ見つめ続けるか。

こうした条件によって、美は幸福にもなり、苦悩にもなる。

三島由紀夫は、美しいものを数多く描いた。

しかし、三島文学の本質は、美しい対象を並べたことにはない。

美しいものを前にした人間が、どのように自分を知り、どのように現実との距離を測り、どのように欲望し、ためらい、行動するかを描いたことにある。

また、その美は、文章の外部に最初から存在しているわけではない。

光、色彩、比喩、身体、季節、建築、自然を精密に配置する文体によって、美は小説の中に作り出される。

三島由紀夫は、美を説明した作家というよりも、言葉によって美が成立する瞬間を構築した作家だったと言える。

美は人を救うのか。

三島の小説は、この問いに一つの答えを与えない。

美は人を幸福にすることもあれば、自分の不完全さを意識させることもある。

現実の生活を肯定することもあれば、現実を価値のないものに見せることもある。

美しいものが人間に何をもたらすかは、美そのものによって決まるのではない。

人間がその美と、どのような関係を結ぶかによって決まる。

三島由紀夫の文学が今も読者を引きつける理由の一つは、美を単なる慰めや装飾として扱わなかった点にある。

三島が描いた美は、人間を静かに満足させるだけのものではない。

見る者の内面を照らし、その欲望、劣等感、孤独、若さ、幸福、時間への恐れを浮かび上がらせる。

だからこそ、三島由紀夫の小説における美は、美しいだけでは終わらない。

それは、人間が現実をどのように生きるのかを問い返す、文学の力そのものなのである。

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数字で読む町の奇譚 第五編

注記

この物語はフィクションです。

作中に登場する潮見町、自治体、人物、統計制度、行政手続、地図、選挙、郵便、公共サービスなどは、すべて架空のものです。

現実の国勢調査や住民基本台帳では、住民が一日だけ町外へ出たからといって、その自治体の人口が直ちにゼロとして確定することはありません。また、人口統計上の誤りを理由に、町が地図、郵便、予算、選挙制度などから自動的に消えることもありません。

本作は、町は人が住んでいるから存在するのか、それとも制度に記録されるから存在できるのか、という問いを描いた幻想小説です。


十月一日の午前八時、潮見町には誰もいなかった。

役場の正面玄関は閉まっていた。

町立診療所の待合室には、椅子だけが並んでいた。

商店街では、魚屋の冷蔵ケースが低い音を立て、新聞販売店の前には配達されなかった朝刊が束のまま置かれていた。

町営バスの車庫には、小型バスが一台止まっていた。

エンジンは冷えていた。

道路には車がなかった。

歩道にも人影はなかった。

海岸には波が寄せていた。

山では鳥が鳴いていた。

信号機は、誰も見ていない交差点で赤と青を繰り返していた。

家々の中では、炊飯器が保温を続けていた。

洗濯機の中には、脱水を終えた衣類が残されていた。

テレビがついたままの家もあった。

仏壇の線香は消えていたが、湯飲みにはまだ朝の茶が入っていた。

住民は、消えたのではなかった。

町の外へ出ていた。

七千六百二十一人。

住民基本台帳に記録された潮見町民の全員が、その日の午前零時から午後十一時五十九分まで、町の境界線の外側にいた。

理由を知る者はいなかった。

誰かが命令したわけではない。

避難指示も出ていない。

災害予報もなかった。

祭りでも、選挙でも、抗議活動でもない。

それでも、全員が町を出た。

ある者は隣市の大型商業施設へ行った。

ある者は県庁所在地の病院へ行った。

ある者は東京の子どもの家へ行った。

ある者は山を越えた道の駅で一日を過ごした。

町外の介護施設に入所している者もいた。

通勤や通学で、いつもどおり朝早く町を出た者もいた。

普段なら家にいる高齢者も、乳児を連れた母親も、その日は町外にいた。

町内の病院へ入院している者はいなかった。

町内の宿泊施設に泊まっていた観光客も、午前零時前に全員チェックアウトしていた。

留置場もない。

刑務所もない。

住み込みの施設もない。

潮見町という行政区域の中に、人間が一人もいなかった。

ただし、全員が自分の意思で町を出たわけではなかった。

後日、住民たちはそれぞれ違う説明をした。

「朝、なぜか海を見たくなくなった」

「家にいると、時計が進まない気がした」

「町の外へ買い物に行かなければならないと思った」

「夢の中で、今日だけは帰るなと言われた」

「何も考えず、車を走らせていた」

「気づいたら隣町の駅にいた」

説明は一致しなかった。

共通していたのは、その日が終わるまで潮見町へ戻ろうと思わなかったことだった。

町役場の職員も例外ではなかった。

町長の秋元は県庁へ出張していた。

副町長は病院で検査を受けていた。

総務課長は休暇を取り、妻と県外へ出かけていた。

企画財政課の長谷川拓郎は、退職後の手続きで年金事務所へ行っていた。

健康福祉課の大崎美奈は、町外施設で行われる研修に参加していた。

住民課の職員は全員、県主催の合同研修へ出席していた。

町営バスの運転手は、その日だけ一斉健康診断を受けていた。

消防団員も、民生委員も、学校教員も、郵便局員も、商店主も、偶然のように町を離れていた。

役場は無人だった。

防災無線は午前七時に、いつもの音楽を流した。

放送の終わりに、自動音声が言った。

「本日も、安心して暮らせる町づくりにご協力ください」

聞いている者はいなかった。

その日、潮見町では国勢調査の現地確認が行われる予定だった。

五年に一度の調査ではなかった。

前回調査後に人口の不一致が続いたため、県と国の担当者が特別確認に入ることになっていた。

第1編で、潮見町の人口が理由もなく一人増えたこと。

第3編で、死亡者数が一時的にゼロになったこと。

町外施設への住所異動と、実際の居住地が大きくずれていたこと。

空き家台帳と住民記録の不一致。

町営バスの利用者数が、乗車記録と合わなかったこと。

一つひとつは説明可能な事務上の問題として処理された。

しかし、県の担当者は潮見町の統計に、継続的な異常があると判断していた。

午前九時十五分、県の調査車両が町役場へ到着した。

乗っていたのは、県統計課の職員三人と、国から派遣された調査官一人だった。

正面玄関は閉まっている。

インターホンを押しても応答がない。

代表電話へかけても、庁舎内で着信音が鳴るだけだった。

県職員の一人が町長へ連絡した。

町長は県庁の会議室にいた。

「今日は休庁日ではありませんよね」

「違います」

「職員が誰もいません」

「そんなはずはない」

町長は総務課長へ電話をかけた。

つながらない。

副町長。

企画財政課長。

住民課長。

誰も町内にいなかった。

「何が起きているんですか」

県職員が尋ねた。

「こちらが聞きたい」

町長は答えた。

県職員は、役場裏口の緊急用キーボックスを使い、庁舎へ入った。

町の職員が不在の状態で庁内システムを操作することはできない。

しかし、その日は特別確認のため、事前に限定された閲覧権限が付与されていた。

調査官は、住民基本台帳から抽出された人口集計画面を開いた。

総人口、七千六百二十一人。

男性、三千六百四十二人。

女性、三千九百七十九人。

数字は正常だった。

地区別人口も一致している。

年齢別人口も一致している。

世帯数も問題ない。

「システム上は異常ありません」

県職員が言った。

国の調査官は、窓の外を見た。

駐車場には、公用車しかない。

庁舎前の道路にも車が通らない。

「実際には何人いるのでしょう」

調査官は尋ねた。

「町内にですか」

「はい」

県職員は笑った。

「全戸を確認するわけにはいきません」

「今日は現地確認です」

調査官は無表情だった。

「標本地区だけでも訪問しましょう」

四人は、あらかじめ選ばれた調査区へ向かった。

最初は、役場に近い中央地区。

住宅二十七戸。

インターホンを押しても応答はない。

郵便受けには朝刊が入っている。

玄関先に靴がある家もある。

犬が庭で吠えている。

しかし、人はいない。

次は南浜地区。

四十一戸。

不在。

青葉団地。

六十三戸。

不在。

山根地区。

十九戸。

不在。

海岸沿いの集合住宅。

七十八戸。

不在。

観光用の別荘ではなく、住民登録のある世帯を選んで訪問した。

どの家にも生活の痕跡がある。

食器。

洗濯物。

自転車。

園芸用品。

子どもの玩具。

介護用手すり。

玄関先の杖。

それでも、一人もいなかった。

午後一時、町立診療所へ行った。

自動ドアは電源が入っていた。

扉の前に立つと開いた。

受付には誰もいない。

診察室も空。

処置室も空。

診療予定表には、午前の予約患者の名前が並んでいる。

全員、来院していなかった。

調査官は町長へ再び電話をかけた。

「町民はどこにいますか」

町長は県庁から、住民課職員や関係者へ連絡を続けていた。

「町外にいるようです」

「何人が」

「確認できた範囲では、全員です」

「全員」

「住民から問い合わせも来ています。町へ戻れないという相談が」

「道路が封鎖されているのですか」

「封鎖されていません」

「鉄道は」

「通常運行です」

「では、なぜ戻れない」

町長は答えられなかった。

町の境界付近では、不思議なことが起きていた。

午後三時頃、隣市にいた住民の一人が、忘れ物を取りに自宅へ戻ろうとした。

自動車で国道を走り、潮見町の標識を越えた。

その直後、見慣れない交差点に出た。

道を間違えたと思い、カーナビゲーション・システムを確認した。

画面上では、まだ隣市を走っている。

しかし道路脇には、潮見町立小学校跡の校舎が見えた。

少し走ると、再び隣市の大型店舗前へ戻っていた。

別の住民は電車で潮見駅へ向かった。

駅名表示は、潮見駅の一つ手前から、二つ先の駅へ変わった。

列車は止まらず、潮見駅を通過したらしい。

しかし窓の外に駅は見えなかった。

町営バスで戻ろうとした者もいた。

行先表示には「潮見町役場前」と出ている。

バスは定刻どおり発車した。

ところが終点は、隣町の市民体育館前だった。

運転手は、

「潮見町役場前に到着しました」

と案内した。

乗客が違うと指摘すると、運転手は首をかしげた。

「潮見町という町は、この路線にはありません」

地図アプリケーションで潮見町を検索すると、その日の午後から結果が表示されなくなった。

住所を入力しても、

「該当する地点がありません」

と出る。

地図上には海岸線と山だけが描かれ、町の区域が空白になっていた。

道路は存在している。

建物もある。

衛星画像にも家並みが写っている。

それでも、町名だけが消えていた。

県統計課の調査官たちは、町内に残っていた。

外から入ることは難しくなったが、中にいる者は自由に移動できた。

ただし、外へ出ようとすると、町の境界を越えた瞬間に方向感覚を失った。

同じ道を走っているはずなのに、役場前へ戻ってくる。

海岸通りを北へ進んでも、南へ進んでも、最後には町役場の前に出た。

午後四時、国の調査官は役場へ戻った。

人口集計画面を再び開いた。

総人口は七千六百二十一人のままだった。

調査官は、別の画面を開いた。

「常住地確認状況」

住民が通常生活している場所を、調査時点の現地確認によって分類する項目だった。

確認済み、〇人。

不在、七千六百二十一人。

町内滞在、〇人。

調査官は長い間、画面を見ていた。

県職員が言った。

「不在だから人口ゼロになるわけではありません」

「当然です」

「住民票もあります」

「あります」

「なら、問題ありません」

調査官は画面を指した。

「調査時点で、この町に常住している人を一人も確認できない」

「一日だけです」

「一日だけでも、確認結果は結果です」

「国勢調査は一日の外出を居住地変更とは扱いません」

「通常は」

調査官は言った。

「しかし、全員が同時に不在となり、町へ戻れず、地図から町名が消えている状況を、通常の外出と呼べますか」

県職員は答えられなかった。

午後五時三十分。

町長は県庁から緊急会見を行った。

「潮見町が消滅した事実はありません」

記者から質問が相次いだ。

「町民全員が不在というのは事実ですか」

「現時点では、その可能性があります」

「なぜ全員が町外へ出たのですか」

「確認中です」

「町へ戻れないという相談があります」

「道路交通上の問題は確認されていません」

「地図サービスから町名が消えています」

「民間サービスの不具合と思われます」

「町内にいる県職員が外へ出られないという情報があります」

「事実関係を確認しています」

「町は存在していますか」

最後の質問に、町長はしばらく答えなかった。

「行政区域として、存在しています」

その言葉は、翌朝の新聞に大きく掲載された。

しかし、その新聞が潮見町へ届くことはなかった。

午後六時、役場の統計システムに警告が表示された。

「居住実態未確認」

続いて、

「人口集計再判定を実行しますか」

という画面が現れた。

調査官は実行しなかった。

画面を閉じる。

しかし数分後、再び表示された。

今度は、選択肢が変わっていた。

「実行」

一つしかない。

調査官は電源を切った。

庁舎内の照明が一瞬消えた。

非常灯がついた。

数秒後、システムは自動的に再起動した。

人口集計画面が開く。

総人口、〇人。

男性、〇人。

女性、〇人。

世帯数、〇世帯。

地区別人口もすべて〇。

高齢化率、算出不能。

出生数、〇。

死亡数、〇。

転入数、〇。

転出数、〇。

町の人口はゼロになった。

「元データは」

県職員が住民個票を検索した。

七千六百二十一人の記録は残っている。

氏名も住所も生年月日もある。

しかし、すべての記録に同じ注記が付いていた。

「所在自治体未確定」

住所欄には、潮見町南浜三丁目、潮見町中央一丁目など、従来の住所が表示されている。

自治体コード欄だけが空白だった。

「住所はあるのに、自治体がない」

県職員が言った。

第1編では、一人だけが年齢にも地区にも世帯にも属さなかった。

この日は、七千六百二十一人全員が、どの自治体にも属さなくなった。

午後七時、潮見町の自治体コードが国の行政情報システムから消えた。

最初に影響が出たのは、郵便だった。

町外の集配局で、潮見町宛ての郵便物がすべてエラーになった。

郵便番号は存在する。

番地も存在する。

しかし宛先自治体が見つからない。

荷物は配達不能として保留された。

次に、金融機関の住所確認システムで潮見町が選択できなくなった。

オンライン手続きで、都道府県の次に潮見町を指定しようとしても、一覧に表示されない。

住民票の写しを申請しようとしても、

「該当する地方公共団体がありません」

と出た。

午後八時、気象情報から潮見町が消えた。

天気予報は、隣市と海上予報に分割された。

潮見町の降水確率も、注意報も、日の出時刻も表示されない。

防災情報システムでは、町域が未指定区域として灰色に塗られた。

午後八時三十分、選挙管理システムから潮見町選挙区が消えた。

町民は選挙人名簿に登録されている。

しかし、投票すべき選挙区がない。

国政選挙。

県議会議員選挙。

町長選挙。

町議会議員選挙。

すべての欄が空白になった。

午後九時、地方交付税の算定画面で潮見町が表示されなくなった。

人口ゼロ。

世帯ゼロ。

道路延長、不明。

学校数、〇。

福祉施設数、〇。

基準財政需要額、算定対象外。

役場の画面上で、翌年度の歳入見込額が次々に消えた。

地方交付税。

国庫支出金。

県支出金。

地方消費税交付金。

人口や自治体コードを基準に配分される金額が、すべて〇円になった。

町の預金口座は残っている。

庁舎も車両も施設もある。

職員も住民も存在する。

それでも、制度の上では予算を受け取る主体がなくなった。

「人口がゼロだから、町が消えるのか」

県職員が言った。

国の調査官は首を横に振った。

「逆かもしれません」

「逆」

「町が消えたから、人口がゼロになった」

「何が違うんです」

「人は残っている。住所も残っている。消えたのは、人ではなく所属先です」

役場の外は暗かった。

海の方角から、町営バスのエンジン音が聞こえた。

運行しているはずはない。

その日は運転手が全員町外にいた。

四人は玄関へ出た。

道路の向こうから、小型バスが近づいてくる。

第2編で廃止された第一便だった。

行先表示には、

「所在自治体未確定」

と出ている。

バスは役場前へ止まった。

扉が開いた。

運転席には、江藤正明が座っていた。

すでに会社を退職しているはずの男だった。

「乗りますか」

江藤は尋ねた。

国の調査官が答えた。

「どこへ行くんです」

「町の外です」

県職員が言った。

「外へ出られないんです」

「今なら出られます」

「どこへ着きますか」

江藤は少し考えた。

「どこにも属していない人が集まる場所です」

車内には大勢の人影があった。

第1編で人口に入れなかった者。

第2編で廃止停留所から降りた者。

第3編で町の死亡者数から外れた者。

第4編で空き家に残された記憶。

見える人も、見えない人もいた。

「町民ですか」

調査官が尋ねた。

江藤は答えた。

「町民だった人です」

「今は」

「町がないので、町民ではありません」

役場庁舎の壁に、「潮見町役場」と書かれている。

看板は残っている。

文字も読める。

それでも、その場所が潮見町だという制度上の証拠は消えていた。

調査官はバスへ乗らなかった。

「町を戻す方法はありますか」

江藤はバックミラーを見た。

「町民を戻せばいい」

「戻れないんです」

「戻りたいと思っていません」

「全員がですか」

「全員ではありません」

「では、誰が」

江藤は役場の二階を指した。

「一人、残っています」

四人は庁舎へ戻った。

全室を確認したはずだった。

会議室。

町長室。

議場。

資料室。

機械室。

書庫。

誰もいなかった。

しかし二階の住民課窓口に、一人の男が座っていた。

六十代か、七十代。

黒い布製の鞄を持っている。

第1編で七千八百三十六人目と名乗った男だった。

男は整理券を持っていた。

番号は「一」。

「いつから、ここに」

調査官が尋ねた。

「最初からです」

「今日は町民全員が町外にいるはずです」

「私は町民ではありません」

「では、なぜ役場に」

「町民になりに来ました」

窓口に職員はいない。

男の前には、住民異動届が置かれていた。

氏名欄、空白。

生年月日、空白。

前住所、空白。

新住所、潮見町。

番地は書かれていない。

「住所がありません」

県職員が言った。

「町があれば、住所は後から決められます」

「町が消えているんです」

「だから、一人必要です」

男は言った。

「人口ゼロの町は、誰の町でもない。誰の町でもない場所には、最初の一人が必要です」

調査官は住民異動届を見た。

「あなたが一人目になる」

「前にも、一人増えたことがあります」

「あなたでしたか」

「私だけではありません」

男は黒い鞄を開けた。

中から、紙が何枚も出てきた。

死亡者の記録。

廃止停留所の時刻表。

空き家台帳。

住民異動届。

選挙人名簿。

学校名簿。

町内会名簿。

診療記録。

税台帳。

すべて、名前の一部が薄く消えている。

「町は、人を一人ずつ記録します」

男は言った。

「しかし、人は一つの記録だけでは町民になりません」

「住民票があれば町民です」

県職員が答えた。

「住民票だけなら、町外に暮らしていても町民です。住民票がなくても、ここで暮らしている人がいます。生まれた町、働いた町、家族を看取った町、墓のある町。どれがその人の町ですか」

調査官は言った。

「制度上は、生活の本拠です」

「今日、誰の生活の本拠もありません」

男は窓の外を見た。

「だから町が消えた」

午後十時。

町外では、住民たちが異変に気づき始めていた。

帰ろうとしなかった人々が、急に不安を覚えた。

自宅の住所を地図で検索できない。

固定電話へかけても、

「現在使われておりません」

という音声が流れる。

自宅の防犯カメラへ接続できない。

電力会社の契約画面から住所が消えている。

子どもの学校名が、学籍情報から消えている。

運転免許証の住所をオンラインで確認すると、町名の部分が空白になっている。

墓地の所在地も検索できない。

町外の施設にいる高齢者は、職員へ尋ねた。

「私はどこの人ですか」

職員は答えられなかった。

若い住民は、家族へ連絡した。

「町へ戻ろう」

最初は道路に迷った。

地図も使えない。

標識から潮見町の文字が消えている。

それでも住民たちは、記憶を頼りに動き始めた。

海のにおい。

山の形。

鉄道のカーブ。

古い煙突。

閉校した小学校の屋根。

町外からは見えないはずのものを目印にした。

東京にいた者は終電へ乗った。

隣市にいた者は歩き出した。

介護施設の入所者は、

「今夜だけ帰りたい」

と家族へ頼んだ。

病院にいた者も、外泊の許可を求めた。

しかし町へ戻るには、町の入口が必要だった。

すべての道路は別の場所へつながっている。

鉄道は潮見駅へ止まらない。

海から船で近づいても、海岸線が霧に覆われる。

午後十時二十分。

役場の防災無線が自動的に起動した。

放送室には誰もいない。

町内に聞く者もほとんどいない。

それでも、音声は町外へも流れた。

スマートフォン。

自動車のラジオ。

駅の放送設備。

病院のテレビ。

商業施設の館内放送。

あらゆる音声機器から、潮見町の防災無線が聞こえた。

「潮見町民の皆さまへお知らせします」

女声の自動音声だった。

「本日の人口は、〇人です」

住民たちは足を止めた。

「町へ戻る方は、ご自身が町民であることを証明してください」

証明。

住民票か。

免許証か。

保険証か。

それらの住所から町名は消えている。

放送は続いた。

「証明に、書類は必要ありません」

「潮見町で覚えていることを、一つ持って帰ってください」

住民たちは考えた。

住所ではない。

番号でもない。

書類でもない。

覚えていること。

閉校した小学校の校歌。

魚市場のにおい。

夏祭りの太鼓。

台風の夜に聞いた防災無線。

町営バスの降車ボタン。

役場前の桜。

診療所の待合室。

海岸の砂。

家の柱に刻んだ身長。

父が毎朝開けた雨戸。

母が使った台所。

亡くなった家族の名前。

誰かが、声に出した。

「潮見小学校の校庭には、大きな銀杏の木があった」

その瞬間、町の境界に一本の道が現れた。

別の者が言った。

「市場の食堂では、朝六時から味噌汁のにおいがした」

もう一本、道が現れた。

「駅前の時計は、いつも三分遅れていた」

線路の先に、潮見駅が現れた。

「南浜の坂から、冬の朝だけ島が見えた」

霧の中に海岸線が現れた。

「第一便の運転手は、誰もいない停留所でも必ず速度を落とした」

町営バスが、町外の道路へ一台ずつ現れた。

「父の家の柱時計は、十時二十三分で止まっていた」

空き家の玄関に灯りがついた。

住民たちは、自分の記憶を口にしながら町へ戻った。

一人。

十人。

百人。

道路、鉄道、バス、徒歩。

午後十時四十五分、最初の住民が町の境界を越えた。

役場の人口集計画面が変わった。

総人口、一人。

地区、未定。

年齢、未定。

住所、未定。

第1編の七千八百三十六人目ではない。

実際の潮見町民だった。

南浜三丁目に住む八十二歳の女性。

町外の娘宅から戻ってきた。

女性は町の入口で、海へ向かって頭を下げた。

「ただいま」

その言葉が記録されたわけではない。

しかし人口画面に、地区と年齢と住所が表示された。

総人口、一人。

女性、八十二歳。

南浜地区。

次の住民が戻った。

総人口、二人。

三人。

十人。

百人。

町は、帰ってきた人の数だけ形を取り戻した。

郵便番号が復活した。

地図に町名が表示された。

気象情報に潮見町が戻った。

選挙区が再設定された。

自治体コードが再び割り当てられた。

午後十一時三十分、人口は六千人を超えた。

まだ町外にいる者もいた。

遠方にいる者。

病院から動けない者。

町外施設で暮らしている者。

帰る意思のない者。

すべての住民が物理的に戻ることはできなかった。

それでも、町は消えなかった。

帰れない者は、電話で記憶を語った。

「潮見町の墓地に夫がいる」

「私はあの町で四十年働いた」

「家は売ったが、町の海を忘れていない」

「住民票は施設へ移したが、自分は潮見町の人間だと思っている」

「もう戻るつもりはない。それでも、町がなくなるのは嫌だ」

その言葉が届くたび、人口集計画面とは別の欄が増えた。

「居住人口」

「登録人口」

「帰属人口」

最後の項目は、制度には存在しなかった。

帰属人口。

その町を自分の町だと考える人の数。

登録人口、七千六百二十一人。

居住人口、六千九百八十二人。

帰属人口、八千四百三十七人。

町外へ転出した元住民。

町内に別荘を持つ人。

町で働くが住んでいない人。

町に墓がある人。

かつて町の学校へ通った人。

帰属人口には、さまざまな人が含まれていた。

統計的には定義できない。

重複もある。

本人の申告だけで増える。

行政指標としては使えない。

それでも、その数字が表示されると、町の輪郭は安定した。

午後十一時五十五分。

役場の住民課にいた黒い鞄の男は、住民異動届を手に取った。

「もう、私が一人目になる必要はありません」

国の調査官が尋ねた。

「あなたは、どこへ行くんです」

「人口の合わない町へ」

「ほかにもあるんですか」

「すべての町にあります」

男は言った。

「数えられる人と、数えられない人。住んでいる人と、帰りたい人。忘れた人と、忘れられた人。その差が一人分になったとき、私は現れます」

黒い鞄を閉じた。

「潮見町は戻ったのですか」

調査官は尋ねた。

「戻ったのではありません」

男は窓口の整理券を置いた。

番号は「一」。

「今日、初めて町になったのです」

男は役場を出た。

庁舎前には町営バスが止まっていた。

運転席には江藤がいる。

男が乗る。

扉が閉まった。

バスの行先表示は空白だった。

車両は海岸方向へ走り、暗闇の中へ消えた。

午後十一時五十九分。

潮見町の人口は七千六百二十一人に戻った。

すべての住民が町内にいたわけではない。

それでも登録人口は元の数字になった。

自治体コード。

郵便番号。

選挙区。

予算。

地図。

気象情報。

公共交通。

すべてが復旧した。

午前零時。

十月二日になった。

町内の時計が一斉に一分進んだ。

翌朝、住民たちは昨日の出来事について話した。

町へ戻れなかったこと。

住所が消えたこと。

地図に町がなかったこと。

防災無線から記憶を持ち帰れと言われたこと。

しかし、ニュースでは大きく扱われなかった。

国も県も、広域情報システムの一時的な障害と説明した。

地図サービス会社は、データ配信上の不具合と発表した。

鉄道会社は、表示機器の誤作動。

郵便事業者は、住所データ照合の障害。

金融機関は、自治体コード更新処理の不備。

それぞれの説明は、技術的には成立していた。

潮見町の住民が全員町外にいたという事実も、公式には確認されなかった。

調査時点で不在だっただけ。

国勢調査上の人口は、通常の居住実態に基づき七千六百二十一人とされた。

町長は記者会見で言った。

「潮見町が一日だけ消えたという事実はありません」

記者から尋ねられた。

「では、昨日、町内には何人いたのですか」

町長は答えた。

「把握していません」

「ゼロだった可能性は」

「人口は七千六百二十一人です」

「登録人口ではなく、実際に町内にいた人数です」

町長は資料を見た。

「一時的な外出状況について、行政が全住民を把握することはできません」

それ以上の質問には答えなかった。

国の調査官は、最終報告書を作成した。

「潮見町特別人口実態確認結果」

報告書には、住民基本台帳人口と実際の居住実態に差があること。

町外施設入所者や長期不在者がいること。

空き家の増加。

人口集計システムに一時的な不整合が生じたこと。

自治体コード連携に障害が発生したこと。

そうした内容が記された。

町内人口が一時ゼロになったとは書かなかった。

根拠を示せないからだった。

しかし、報告書の最後に一文だけ加えた。

「自治体の存在は、行政区域、住民登録、居住実態、住民の帰属意識のいずれか一つだけでは定義できない可能性がある」

上司から削除を求められた。

「統計報告として曖昧だ」

調査官は削除しなかった。

「一日だけ人口ゼロとなった事実を裏付けられない以上、せめて残すべき考察です」

最終的に、その一文は本文から外され、参考意見として別紙に付けられた。

別紙を読む者はほとんどいなかった。

潮見町では、十月一日を休日にしようという話が出た。

「町民帰還の日」

「潮見町再出発の日」

「人口の日」

名称案はいくつも出た。

しかし、公式の記念日にはならなかった。

町が一度消えたことを、行政が認めることになるからだった。

代わりに、住民たちは毎年十月一日の夜、家の外へ小さな灯りを置くようになった。

灯籠でも、ろうそくでも、電灯でもよい。

自分がその家に住んでいることを示す灯り。

町外に暮らす元住民も、同じ日に窓辺へ灯りを置いた。

潮見町へ向けて。

理由を尋ねられると、

「帰る場所を忘れないため」

と答えた。

数年後、潮見町の人口は七千人を下回った。

出生より死亡が多い。

転入より転出が多い。

人口減少は続いた。

町は以前より小さくなった。

学校は統合された。

商店も減った。

町営バスの便数も少なくなった。

それでも、十月一日の夜には、町の内外に多くの灯りがついた。

統計人口より多い数だった。

誰も正確に数えなかった。

数えれば、また一人合わなくなるかもしれない。

ある年、役場の若い職員が、人口統計の画面に見慣れない項目を見つけた。

登録人口。

居住推計人口。

世帯数。

その下に、小さな文字で、

「帰属人口」

とある。

数字は表示されていない。

職員がクリックすると、注意書きが出た。

「この値は集計できません」

「本人が帰る場所と考える町を、行政が一意に定めることはできないためです」

職員は上司に報告した。

システム業者へ問い合わせたが、そのような項目は実装していないという。

削除を試みても消えなかった。

ただし、十月一日にだけ、数字が表示された。

九千二百一人。

登録人口より二千人以上多い。

翌日には、再び空欄へ戻った。

町長は公表しないよう指示した。

根拠がない。

定義がない。

誰を含むか分からない。

統計として使えない。

判断は正しかった。

それでも、若い職員は数字を紙へ書き写し、机の引き出しへしまった。

引き出しの奥には、以前の職員が残した紙があった。

地区、未定。

年齢、未定。

住所、空欄。

人数、一。

死亡者数、百三十八。

その下に、新しい欄が増えている。

「一日だけ住民がゼロになった町」

人口、〇人。

帰属人口、算出不能。

さらに小さな文字で、こう書かれていた。

「町は、人がいなくなった日に消えるのではない」

「誰も帰ろうと思わなくなった日に消える」

若い職員は、その紙を処分しなかった。

窓の外では、町営バスが役場前へ止まった。

乗る人が二人。

降りる人が一人。

運転手は人数を正確に入力した。

バスが発車した後、誰もいない停留所に、黒い布製の鞄が一つ残されていた。

鞄の札には、住所ではなく一文だけ書かれていた。

「帰るところがある人は、まだゼロではない」

海から風が吹いた。

札が揺れた。

役場の人口表示板には、七千人に満たない数字が出ていた。

その下に、一瞬だけ別の数字が浮かんだ。

〇。

次に、一。

そして、数えきれないほどの数字が重なり、白い光になった。

職員が目をこすると、表示は元へ戻っていた。

潮見町人口、六千九百八十七人。

前月比、十一人減。

計算は正確に一致していた。

町は、まだ存在していた。

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数字で読む町の奇譚 第四編

注記

この物語はフィクションです。

作中に登場する潮見町、自治体、人物、住宅、制度、契約、査定額、税額、解体費用などは、すべて架空のものです。現実の空き家が意思を持って所有者を選んだり、どの処分方法を選んでも同一の損失額になることはありません。

実際の空き家では、建物の状態、土地の価格、接道条件、相続関係、税制、地域需要、修繕費、解体費、管理状況などによって、売却、賃貸、維持、解体の結果は大きく異なります。

本作は、家を所有するとは何を引き受けることなのか、という問いを、地方の空き家問題と数字の不一致を通して描いた幻想小説です。


父が亡くなった翌月、桐原直樹は潮見町へ戻った。

戻ったといっても、住むためではなかった。

父の家を片づけるためだった。

潮見町南浜三丁目。

海から直線距離で六百メートルほど内側に入り、旧商店街へ向かう坂の途中に、その家はあった。

木造二階建て。

築四十八年。

敷地六十二坪。

延べ床面積三十一坪。

瓦屋根。

南向き。

駐車場一台分。

不動産の広告に書けば、それなりの形にはなる。

実際の家は、広告の言葉より古かった。

外壁には細い亀裂が走り、雨戸の戸袋は下側が腐っている。庭の梅の木は枝が伸びすぎ、隣家の屋根へ触れそうになっていた。

玄関の鍵は固かった。

直樹は何度か左右へ揺らし、力を入れて回した。

扉を開けると、湿った畳と古い木材のにおいがした。

父が入院してから一年近く、人が暮らしていなかった。

玄関には、父の茶色い靴がそろえて置いてある。

杖も立てかけられていた。

廊下の先には、止まった柱時計が見えた。

十時十七分。

父が倒れた時刻ではない。

電池が切れた時刻でもないだろう。

ただ、家の中では時間が止まると、すべてに意味があるように見えてしまう。

直樹は窓を開けた。

潮のにおいを含んだ風が入った。

居間のカレンダーは、前年十一月のままだった。

父が救急搬送されたのは十一月二十三日。

二十四日以降の日付には、何も書かれていない。

二十三日の欄には、青いボールペンで、

「市立病院 十時」

とある。

それ以外に特別な記載はなかった。

父は一人暮らしだった。

母は七年前に亡くなっている。

直樹は東京で会社員をしていた。妻と二人の娘がいる。

潮見町へ戻るのは、年に二、三回だった。

正月。

盆。

父の通院に付き添う必要があるとき。

父は、家のことをほとんど話さなかった。

「古いから、俺が死んだら好きにしろ」

何度かそう言った。

好きにしろと言われても、家は好きにはならない。

売る。

貸す。

使う。

壊す。

放置する。

どれかを選ばなければならない。

選ばなければ、所有している状態だけが続く。

直樹は居間の座卓にノートパソコンを置いた。

父の死亡に伴う手続きは、まだ終わっていなかった。

年金。

健康保険。

公共料金。

預金。

生命保険。

固定資産。

墓。

相続人は直樹一人だった。

兄弟はいない。

遺言書もなかった。

相続関係そのものは単純だった。

しかし、単純であることと、楽であることは違った。

家を相続すれば、土地も建物も直樹のものになる。

相続しなければ、預金などほかの財産も含めて放棄しなければならない。

父の預金は約九百万円あった。

住宅ローンはない。

借金もない。

相続放棄を考える理由はなかった。

家だけを除いて相続することはできない。

直樹は不動産会社へ査定を依頼した。

町内の業者。

隣市の大手系列。

空き家専門を名乗る会社。

三社に見てもらった。

最初の会社は、土地建物で三百八十万円と査定した。

「建物の価値は、ほぼありません」

担当者は言った。

「土地値から解体費の一部を考慮した金額です」

二社目は、二百五十万円。

「接道は問題ありませんが、需要が弱いです。買い手が見つかるまで時間がかかると思います」

三社目は、百八十万円だった。

「買取なら、このくらいです」

直樹は思っていたより安いと感じた。

父は何十年も固定資産税を払い、屋根を直し、外壁を塗り、庭を手入れしてきた。

家を建てた当時の金額を直樹は知らない。

ただ、父の人生の大部分が、この家に使われたことは分かる。

それが百八十万円。

中古車一台より安い。

しかし、値段が安いからといって、買い手がいるとは限らない。

三社とも、すぐに売れるとは言わなかった。

直樹は売却以外の方法も調べた。

賃貸に出す。

月額五万円程度。

ただし、屋根、浴室、給湯器、配管、床、壁紙の修繕が必要になる。

最低でも四百万円。

状態によっては六百万円。

入居者が見つかる保証はない。

管理会社への手数料もかかる。

空室期間中も、固定資産税と維持費は続く。

解体する。

見積額は二百七十万円から三百六十万円。

庭木とブロック塀を含めれば、さらに上がる可能性がある。

更地にすると、土地の固定資産税が上がる場合もある。

維持する。

固定資産税。

火災保険。

電気の基本料金。

水道。

草刈り。

換気。

清掃。

屋根や外壁の補修。

十年間で、少なく見積もっても数百万円。

どの方法にも金がかかった。

父の預金がある。

その中から払えばよい。

理屈ではそうだった。

しかし、父の預金を使って父の家を壊すことに、直樹は抵抗を感じた。

残された金で、残されたものを消す。

合理的ではある。

それでも、何かを二度失うようだった。

直樹は表計算ソフトを開いた。

売却。

賃貸。

維持。

解体。

四つの案について、十年間の収支を比較する表を作った。

売却価格。

仲介手数料。

登記費用。

残置物処分。

修繕費。

解体費。

固定資産税。

保険料。

管理費。

賃料収入。

空室率。

所得税。

将来の売却価格。

数字を一つずつ入れた。

直樹は経理の仕事をしている。

厳密な不動産投資の計算ではないが、比較表を作ることには慣れていた。

最初の結果は、次のようになった。

すぐ売却する場合、十年間の実質収支はプラス九十四万円。

賃貸する場合、プラス百三十二万円。

維持して十年後に売却する場合、マイナス二百八十六万円。

解体して土地を売る場合、マイナス百四十万円。

賃貸が最も有利だった。

ただし、修繕費を四百万円、空室率を二十パーセントと仮定した場合である。

直樹は修繕費を五百万円に変更した。

賃貸の収支はプラス三十二万円になった。

空室率を三十パーセントにすると、マイナス五十八万円。

給湯器交換を追加すると、マイナス八十九万円。

条件を変えると、結果は大きく変わる。

当然だった。

将来のことは分からない。

直樹は夜まで作業を続けた。

窓の外は暗くなった。

町営バスが坂を下っていく音がした。

廃止された第一便とは違い、現在の時刻表にある最終便だった。

車内灯が家々の壁を一瞬だけ照らし、そのまま海側へ消えた。

直樹は表へ戻った。

何かがおかしかった。

賃貸案の最終収支が、マイナス三百二十七万四千円になっている。

さきほどまで、マイナス八十九万円だった。

数式を確認した。

家賃収入。

空室率。

修繕費。

管理費。

税金。

計算式に誤りはない。

しかし結果だけが変わっている。

売却案を見る。

マイナス三百二十七万四千円。

維持案。

マイナス三百二十七万四千円。

解体案。

マイナス三百二十七万四千円。

四つの案が、すべて同じ金額になっていた。

直樹は数式を一つずつ確認した。

参照セルの誤りかと思った。

違った。

独立した式になっている。

入力値を変えた。

売却価格を三百万円から一千万円にする。

最終収支は、マイナス三百二十七万四千円。

賃料を月五万円から十万円にする。

同じ。

修繕費をゼロにする。

同じ。

固定資産税をゼロにする。

同じ。

解体費を一円にする。

同じ。

どの数字を変えても、最終結果は変わらなかった。

マイナス三百二十七万四千円。

直樹はファイルを閉じた。

保存せず、もう一度開いた。

元の結果へ戻っていた。

売却、プラス九十四万円。

賃貸、マイナス八十九万円。

維持、マイナス二百八十六万円。

解体、マイナス百四十万円。

直樹は安堵した。

疲れて数式を壊したのだろう。

時計を見ると、午後十一時を過ぎていた。

その日は父の寝室で休むことにした。

布団は押し入れに入っていた。

父が最後まで使っていたベッドには寝たくなかった。

客用の布団を居間へ敷いた。

電気を消すと、家の音が聞こえた。

木材が縮む音。

冷蔵庫のモーター。

風が雨戸を揺らす音。

二階から、何かを引きずるような音がした。

直樹は目を開けた。

音はすぐに止んだ。

この家には昔から、夜になると音がした。

子どもの頃、二階で誰かが歩いているように聞こえることがあった。

父は、

「木が鳴っているだけだ」

と言った。

母は、

「家も寝返りを打つのよ」

と言った。

直樹は母の言葉を思い出した。

家も寝返りを打つ。

その夜、二階から何度も足音がした。

翌朝、直樹は二階へ上がった。

自分が高校を卒業するまで使っていた部屋。

両親の寝室。

物置。

どの部屋にも人はいなかった。

窓は閉まっている。

床に異常もない。

自分の部屋には、古い学習机が残っていた。

引き出しを開ける。

高校時代のノート。

大学受験の参考書。

使わなくなった腕時計。

切れたギターの弦。

父は何も捨てていなかった。

直樹が家を出た後も、部屋をそのまま残していた。

机の一番下の引き出しに、茶封筒が入っていた。

表には父の字で、

「家の費用」

と書かれている。

中には、領収書と手書きの一覧表が入っていた。

屋根修理。

外壁塗装。

給湯器交換。

浴室改修。

畳替え。

庭木剪定。

固定資産税。

火災保険。

町内会費。

浄化槽点検。

父は、家にかかった費用を何十年も記録していた。

直樹は一覧表を居間へ持っていった。

年度ごとの金額を表計算ソフトへ入力した。

合計は、三百二十七万四千円だった。

直樹は手を止めた。

昨夜、どの選択肢を計算しても現れた損失額。

マイナス三百二十七万四千円。

父が家の維持に使った金額と、完全に一致していた。

ただし、一覧表は全期間の記録ではなかった。

日付が確認できるものだけで、二十七年間分。

家を建てた費用も、住宅ローンの利息も含まれていない。

日常的な電気や水道も入っていない。

それでも、三百二十七万四千円という数字は同じだった。

直樹は父の字を見た。

一覧表の最後に、小さな文字がある。

「ここまで返した」

何を返したのか。

誰に返したのか。

家へ返したのか。

直樹は封筒の中をもう一度調べた。

最後に、折り畳まれた古い便箋が入っていた。

父の字ではなかった。

青いインクで、こう書かれている。

「この家は、買った人のものにはなりません。払い終えた人のものになります」

署名はない。

日付は、父が家を購入した年だった。

直樹は不動産登記を確認した。

父は四十八年前、この土地と建物を中古で購入している。

建築したのは父ではなかった。

それまで直樹は、父が建てた家だと思っていた。

子どもの頃から、そう聞かされていた気がする。

しかし登記上、建物は父が購入する七年前に建てられていた。

最初の所有者は、榊原雄一。

次が、桐原昭夫。

父である。

榊原雄一について、直樹は何も知らなかった。

町内の古い住宅地図を見ると、家は確かに榊原宅と記されている。

直樹は市役所ではなく、潮見町役場へ行った。

固定資産の記録は、本人の所有物ではないため自由に見られない。

過去の所有者の個人情報も教えてもらえない。

それでも、父が取得した当時の課税資料や登記情報から、確認できる範囲はあった。

窓口の職員は、古い台帳を見ながら言った。

「榊原さんは、この家を手放した後、町外へ転出しています」

「理由は分かりますか」

「そこまでは記録にありません」

「その後は」

「申し訳ありませんが、お答えできません」

役場を出ると、庁舎前のバス停に高齢の男性が立っていた。

黒い布製の鞄を持っている。

直樹は、その男を知らない。

男は時刻表ではなく、役場の建物を見ていた。

町営バスが来た。

扉が開いたが、男は乗らなかった。

バスはそのまま発車した。

直樹が歩き出すと、男も同じ方向へ歩いた。

南浜三丁目へ向かう坂。

直樹の少し前を歩いている。

歩幅は小さいが、距離が縮まらない。

直樹が速度を上げると、男も同じ速さになる。

家の前まで来た。

男は門の前で立ち止まった。

「何か御用ですか」

直樹が尋ねた。

男は家を見上げた。

「まだ残っていたんですね」

「この家をご存じですか」

「住んでいました」

直樹は男を見た。

「榊原さんですか」

男は答えなかった。

年齢を考えると、最初の所有者本人でも不思議ではない。

家は築四十八年。

当時三十代なら、今は八十歳前後になる。

「父の前に住んでいた方ですか」

「あなたのお父さんは、払い終えましたか」

男は尋ねた。

直樹の背中が冷たくなった。

「何をですか」

「家が決めた額です」

「三百二十七万四千円ですか」

男は少し驚いた顔をした。

「あなたには、そう見えましたか」

「父が払った修理費と同じです」

「私のときは違いました」

「いくらだったんですか」

「二百四十八万円」

男は門柱へ手を置いた。

「妻が亡くなるまでに使った医療費と同じでした」

直樹は意味を理解できなかった。

「この家の修繕費がですか」

「売ろうとしても、貸そうとしても、壊そうとしても、最後には同じ額を失う」

男は言った。

「その額は、その人が人生で返せなかったものと同じになる」

「返せなかったもの」

「私の場合は、妻でした」

男は家の窓を見た。

「病気に気づくのが遅かった。もっと早く病院へ連れていけばよかったと思い続けた。治療に使った金額を、何度も計算した」

「それと家に何の関係があるんです」

「関係はありません」

男は静かに言った。

「だから怖いんです」

家は何も説明しない。

ただ、持ち主が忘れられない金額を見つけ、それと同じだけを要求する。

男は、妻が亡くなった後に家を売ろうとした。

売却価格から手数料や修繕費を引くと、二百四十八万円の損失。

賃貸へ出そうとすると、必要な改修費が二百四十八万円。

解体見積もりも、追加工事を含めて二百四十八万円。

偶然だと思った。

別の業者へ頼んだ。

条件を変えた。

それでも最終的な負担は同じ額になった。

「それで父に売ったんですか」

「あなたのお父さんが、私の代わりに二百四十八万円を払ったわけではありません」

「では、どうやって売れたんです」

「私が認めたからです」

「何を」

「二百四十八万円では、妻は戻らないことを」

男は門柱から手を離した。

「家は、金を払わせたいわけではありません。金額にして持ち続けているものを、手放せるか確かめている」

「父は何を持ち続けていたんですか」

男は直樹を見た。

「それは、あなたが知ることではありません」

「父が払った三百二十七万四千円は何だったんです」

「あなたのお父さんが、誰にも返せなかったものです」

男は坂を下り始めた。

「待ってください」

直樹は追いかけた。

角を曲がる。

男の姿はなかった。

黒い鞄だけが、道路脇の石垣に置かれていた。

直樹は近づいた。

鞄には触れなかった。

第1編で町役場の前に置かれたという、記録にない一人の鞄の話を、直樹は知らない。

ただ、その鞄を持ち帰ってはいけないと感じた。

家へ戻ると、玄関の扉が開いていた。

鍵をかけたはずだった。

居間の机に、父の費用一覧が広げられている。

直樹が置いた位置とは違う。

最後の行の下に、新しい数字が書かれていた。

三百二十七万四千円。

その下に、

「直樹」

とある。

父の字だった。

直樹は紙を裏返した。

裏面には、さらに文章が書かれていた。

「お前に払わせるつもりはない」

直樹は父の字を見間違えるはずがなかった。

短く角張った文字。

「払わせるつもりはない。そのために、私はここまで返した」

父は何を返したのか。

直樹は母のことを考えた。

母は七年前、膵臓がんで亡くなった。

見つかったときには進行していた。

父は母を自宅で看取った。

病院への通院。

介護用ベッド。

手すり。

浴室の改修。

給湯器。

畳の交換。

一覧表にある修繕の多くは、母の療養中に行われていた。

三百二十七万四千円。

母の医療費ではない。

家を、母が最後まで暮らせる場所にするために父が使った金額だった。

父はそれを「返した」と書いている。

母に返したのか。

家に返したのか。

共に暮らした年月に返したのか。

直樹には分からなかった。

その夜、直樹は表計算ソフトを開いた。

四つの案を再計算した。

売却。

賃貸。

維持。

解体。

結果は、すべてマイナス三百二十七万四千円。

前日と同じだった。

直樹は数字を見つめた。

父は、もう三百二十七万四千円を払っている。

それなのに、なぜ同じ額が直樹へ現れるのか。

試しに、新しい項目を加えた。

「父が支払済み」

三百二十七万四千円。

最終収支は変わらない。

「母のための改修」

三百二十七万四千円。

変わらない。

「父の後悔」

金額は入力できない。

直樹はセルへ、

〇円

と入力した。

結果が変わった。

四つの案すべて、マイナス六百八十四万円。

直樹は画面を見た。

三百二十七万四千円ではない。

六百八十四万円。

その金額に覚えがあった。

大学進学から卒業まで、父が直樹に送った仕送りの合計。

入学金。

授業料。

家賃。

生活費。

正確な総額を計算したことはない。

しかし、父の古い通帳を見れば、おそらくそのくらいになる。

直樹は通帳を探した。

寝室の机の引き出し。

銀行ごとに束ねられた古い通帳。

直樹名義の大学時代の振込記録。

四年間の総額を計算した。

六百八十四万円。

完全に一致した。

直樹は椅子から立ち上がった。

家が要求する金額は、父の後悔ではなかった。

直樹自身が、父へ返していないと思っている金額だった。

父に大学へ行かせてもらった。

東京で就職した。

結婚した。

家を買った。

潮見町へ戻らなかった。

母の介護も、父に任せた。

父が入院してからも、毎週は来られなかった。

仕事がある。

家庭がある。

距離がある。

理由はすべて正しい。

正しい理由を積み重ねた結果、父は一人で家を守り、母を看取り、自分も病院で亡くなった。

六百八十四万円。

直樹は、その金額を返していないと感じていた。

父から返せと言われたことはない。

仕送りを貸付金だと言われたこともない。

それでも直樹の中では、金額として残っていた。

家は、それを見つけた。

直樹は表の数字を消した。

代わりに、

「返済不要」

と入力した。

最終収支は、マイナス六百八十四万円のままだった。

「贈与」

変わらない。

「親の責任」

変わらない。

「感謝している」

変わらない。

「仕方がなかった」

変わらない。

言葉を変えても、家は受け付けなかった。

翌朝、不動産会社から電話があった。

最初に査定を依頼した町内業者だった。

「購入を検討したい方がいます」

担当者は言った。

「まだ正式ではありませんが、潮見町への移住希望者です。古い家を自分で直したいそうです」

提示価格は三百万円。

直樹が想定していたより高い。

残置物は直樹が処分する。

契約不適合責任は一定範囲で免責。

境界確認が必要。

それでも、現実的な話だった。

直樹は内覧を受け入れた。

購入希望者は、三十代の夫婦だった。

夫は在宅勤務が可能な会社員。

妻は陶芸をしている。

子どもはいない。

海に近く、庭のある家を探していた。

二人は、古さを嫌がらなかった。

「この柱、いいですね」

夫が言った。

「台所は直さないと使えませんが、土間を作っても面白いかもしれません」

妻は庭の梅の木を見た。

「切らずに残したいです」

直樹は、初めてこの家を欲しいと言う人を見た。

父も、最初に買ったときは同じような顔をしていたのかもしれない。

内覧後、夫婦は前向きに検討すると言った。

その夜、直樹は表計算ソフトを開いた。

売却案。

売却価格三百万円。

諸費用を入力する。

最終収支、マイナス六百八十四万円。

直樹は予想していた。

残置物処分費が異常に増えている。

見積書を確認すると、百万円以下だったはずが、表の中では七百万円を超えている。

セルを修正する。

今度は境界確定費用が増える。

そこを直すと、譲渡費用が変わる。

どこを修正しても、最終結果は六百八十四万円の損失へ戻った。

直樹は画面を閉じた。

パソコンではなく、紙と電卓で計算した。

三百万円から費用を引いても、六百八十四万円の損失にはならない。

現実の契約では、家の計算は通用しない。

数字が勝手に変わるのは、直樹のパソコンの中だけかもしれない。

それなら売ればよい。

家が何を見せても、登記を移せば終わる。

直樹はそう考えた。

売買契約の日、購入希望者夫婦と不動産会社の担当者が家へ来た。

重要事項説明が行われた。

契約書。

物件状況報告書。

設備表。

印紙。

手付金。

書類は順調に進んだ。

最後に、夫が契約書へ署名しようとしたとき、玄関の柱時計が動き出した。

止まっていた時計。

十時十七分を示していた針が、一度だけ進んだ。

十時十八分。

全員が音の方を見た。

「時計、動くんですね」

妻が言った。

「いえ、電池は切れているはずです」

直樹が答えた。

再び針が進んだ。

十時十九分。

柱時計の振り子は動いていない。

秒針もない。

それでも、長針だけが一分ずつ進んでいく。

十時二十分。

十時二十一分。

夫は笑った。

「古い時計だから、残った力で動いたんでしょう」

契約書へ署名した。

その瞬間、家全体が低く鳴った。

風ではない。

地震でもない。

柱、床、壁、屋根が同時に息を吐いたような音だった。

妻が顔を上げた。

「今、何か聞こえませんでしたか」

不動産会社の担当者も黙っていた。

夫は契約書を見た。

署名欄に、自分の名前がない。

確かに書いたはずだった。

黒いインクの跡だけが、紙の中へ沈んだように消えている。

もう一度書いた。

また消えた。

ボールペンを替えた。

消えた。

妻が書いても同じだった。

担当者が試しに余白へ線を引いた。

その線は残った。

購入者欄へ書いた文字だけが消える。

「紙の不良でしょうか」

担当者は別の契約書を取り出した。

同じだった。

夫婦の署名は残らない。

直樹が自分の名前を書く。

売主欄には、はっきり残った。

契約は中止になった。

不動産会社は、書類を作り直して後日改めると言った。

夫婦は気味悪がってはいなかった。

ただ、妻は帰り際、梅の木を見ながら言った。

「この家、私たちを嫌っているのでしょうか」

直樹は答えられなかった。

二日後、夫婦は購入を辞退した。

理由は、家族の反対ということだった。

直樹は不動産会社を責めなかった。

不動産会社も、直樹を責めなかった。

誰も、署名が消えたことには触れなかった。

直樹は一人で家に残った。

父の費用一覧。

自分の仕送り総額。

売却計算。

すべてを居間の机に並べた。

「何をすればいい」

直樹は家へ向かって言った。

返事はない。

「六百八十四万円を払えばいいのか」

柱時計が一分進んだ。

「誰に払う」

進まない。

「父か」

進まない。

「この家か」

進まない。

「自分にか」

長針が一分進んだ。

十時二十二分。

直樹は椅子へ座った。

自分に払う。

その意味が分からない。

六百八十四万円を自分の口座へ移しても何も変わらない。

父から受け取ったものを、損失として数え続ける自分に何を返すのか。

直樹は高校を卒業して、この家を出た。

東京の大学へ進み、そのまま就職した。

父は、戻ってこいと言わなかった。

母も言わなかった。

帰省するたび、両親は、

「向こうの生活を大事にしなさい」

と言った。

直樹はその言葉に従った。

両親が望んだとおりに生きた。

それでも、親元を離れたことに負債を感じている。

親が使った金額を、借金のように覚えている。

感謝と負債を、同じものにしていた。

家は、その計算を終わらせろと言っているのかもしれない。

直樹は父の通帳を閉じた。

六百八十四万円と書いた紙を破った。

ごみ箱へ入れた。

柱時計は動かなかった。

「返さない」

直樹は言った。

「返せないからではない。返すものではなかった」

家は静かだった。

「父が自分で使った金だ。父が選んだ。母も選んだ。俺に返せとは言わなかった」

風が窓を揺らした。

「俺がここに戻らなかったことも、借金ではない」

二階から足音がした。

一歩。

二歩。

階段へ近づいてくる。

直樹は立ち上がらなかった。

足音は階段を下りた。

一段ずつ。

姿は見えない。

廊下を通り、居間の入口で止まった。

父の気配だと思った。

父であってほしいと思った。

しかし、何も見えない。

「ごめんとは思っている」

直樹は言った。

「でも、金額にはしない」

柱時計が鳴った。

本来なら時刻を知らせる音。

一度。

二度。

何時を示しているのか分からないほど、長く鳴り続けた。

音が止まると、家の中が急に明るくなった。

朝でもない。

照明も変わっていない。

ただ、空気に積もっていたものが消えたように感じた。

直樹はパソコンを開いた。

売却案を計算した。

プラス百十六万円。

賃貸案。

条件によって、プラスにもマイナスにもなる。

維持案。

マイナス三百万円前後。

解体案。

マイナス百数十万円。

現実的な、ばらばらの数字に戻っていた。

六百八十四万円は、どこにもなかった。

父の費用一覧を見る。

三百二十七万四千円。

その下の「直樹」という文字は消えていた。

「お前に払わせるつもりはない」

という文章だけが残っている。

直樹は家を売ることにした。

ただし、最初の夫婦ではなかった。

夫婦はすでに別の物件を決めていた。

次の買い手が現れるまで、半年かかった。

購入を申し込んだのは、潮見町内で賃貸住宅に暮らす四十二歳の女性だった。

中学生の息子と二人暮らし。

町内の介護施設で働いている。

新しく開設された施設だった。

女性は家を内覧し、長い時間、台所を見ていた。

「ここ、母が昔働いていた家に似ています」

「この家でですか」

「いえ、別の家です。もう解体されました」

女性は玄関の柱時計を見た。

「この時計は残してもらえますか」

「動きませんよ」

「それでも構いません」

購入価格は二百四十万円。

大きな利益は出ない。

残置物処分、測量、登記、仲介手数料を引けば、直樹の手元に残るのは多くなかった。

それでも契約を進めた。

署名の日。

女性は契約書へ名前を書いた。

文字は消えなかった。

息子も隣で見ていた。

柱時計は、十時二十二分を示して止まっている。

何も起こらない。

不動産会社の担当者が書類を確認した。

契約は成立した。

直樹は女性に尋ねた。

「失礼ですが、なぜこの家を選んだのですか」

「安かったからです」

女性は笑った。

「それと、息子がここがいいと言ったので」

息子は庭に出て、梅の木を見上げている。

「古いですよ」

「直せるところから直します」

「費用もかかります」

「分かっています」

女性は家の中を見回した。

「でも、家賃を払い続けても、最後には何も残りません。この家なら、直した分だけ残るかもしれない」

直樹は、家が女性を選んだのかどうか考えた。

家は、所有者を選ぶ。

最初の榊原。

父。

直樹。

そして、この女性。

しかし、女性に特別な力があるようには見えない。

父のように何かを払い終えたわけでもないだろう。

榊原のように後悔を手放したとも限らない。

直樹は気づいた。

家が選ぶのは、罪のない人でも、正しい人でもない。

家を資産だけとして見ない人。

過去の値段だけで価値を決めない人。

自分が払うものを、誰かへの返済と混同しない人。

その家でこれから使う金を、損失だけとは考えない人。

女性が契約書を閉じた。

「この家、嫌がりませんでしたね」

以前の出来事を不動産会社から聞いたのかもしれない。

直樹は答えた。

「たぶん、決まったんだと思います」

「何がですか」

「次に住む人が」

引き渡しの日、直樹は最後に家の中を歩いた。

二階の自分の部屋。

両親の寝室。

居間。

台所。

浴室。

母が最後まで使った手すり。

父が座っていた椅子。

処分するものは処分した。

残すものは、女性と相談して残した。

柱時計。

梅の木。

居間の柱に刻まれた身長の跡。

直樹が小学生の頃から高校生になるまでの印。

女性の息子が、それを消さないでほしいと言った。

「誰の身長ですか」

「私です」

直樹が答えると、少年は自分の背を並べた。

「もう少しで同じです」

直樹は笑った。

玄関を出る前、父の費用一覧を取り出した。

家へ置いていくつもりだった。

しかし、女性に渡すものではない。

父の記録であり、直樹の記憶だった。

持ち帰ることにした。

玄関の鍵を女性へ渡した。

その瞬間、柱時計が動いた。

十時二十三分。

一分だけ進み、また止まった。

女性も息子も気づかなかった。

直樹だけが見ていた。

家は、直樹を追い出したのではない。

手放すことを認めたのだと思った。

直樹は東京へ戻った。

父の預金から、家の処分にかかった費用を支払った。

残った相続財産は、自分の口座へ入れた。

以前なら、その金額を父からの最後の借金のように感じたかもしれない。

今は違った。

父が残したものを受け取った。

それだけだった。

一年後、直樹は潮見町を訪れた。

墓参りの帰り、南浜三丁目の家の前を通った。

外壁は薄い灰色に塗り直されていた。

屋根の一部も補修されている。

庭の梅の木は剪定され、低い枝に洗濯物が揺れていた。

玄関先には自転車が二台ある。

家の中から、少年の声がした。

女性の笑い声も聞こえた。

直樹は立ち止まらず、そのまま歩いた。

角を曲がる前、柱時計の音が聞こえた。

一度。

二度。

今度は正しい時刻を知らせているようだった。

その年、潮見町の空き家数は一戸減った。

役場の統計では、

「売買による居住再開 一件」

と記録された。

家が誰を拒み、誰を選び、何を払い終えさせたのかは記録されない。

統計上は、ただ一件の空き家が解消しただけだった。

その後、南浜三丁目の家は何度か修理された。

給湯器。

雨どい。

床。

台所。

塀。

費用は少しずつ増えた。

女性は家計簿へ記録した。

しかし、どの合計額も、彼女が人生で失った金額と一致することはなかった。

家が要求しなくなったのか。

女性が金額として抱えているものがなかったのか。

それは誰にも分からない。

ただ、家は空き家ではなくなった。

夜になると灯りがつき、朝には窓が開いた。

人が出ていき、人が帰った。

雨の日には屋根が家族を守り、晴れた日には洗濯物の影が庭へ落ちた。

家は再び、所有されるものではなく、暮らす場所になった。

それでも、ときどき玄関の柱時計が、一分だけ遅れることがあった。

その家に住む者が、自分の人生を金額へ置き換えようとしたときだった。

失った時間。

返せなかった恩。

言えなかった言葉。

選ばなかった道。

それらを費用として計算し始めると、時計は静かに止まった。

家は何も話さない。

数字も示さない。

ただ、その計算が終わるまで、次の一分を進めなかった。

空き家が所有者を選ぶのではない。

本当は、家を持つ人間が、何を自分の負債として抱え続けるかを選んでいる。

しかし潮見町では今も、南浜三丁目の古い家について、別の話が残っている。

売ろうとして署名が消えた人がいる。

壊そうとして見積額が変わった人がいる。

貸そうとして、入居者の名前だけが契約書から消えた人がいる。

そして、家に選ばれた人だけが、玄関の時計を一分先へ進められる。

町の空き家台帳には、そのような項目はない。

所在地。

所有者。

建築年。

構造。

管理状態。

危険度。

利活用意向。

すべての欄が埋められている。

南浜三丁目の家は、現在、

「居住中」

と記録されている。

備考欄は空白だった。

ただ、台帳を印刷した直後にだけ、空白の中へ薄い文字が浮かぶことがある。

「所有者 選定済み」

職員が目を近づけると、その文字は消える。

そして家では、柱時計がもう一分だけ進む。

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数字で読む町の奇譚 第三編

注記

この物語はフィクションです。

作中に登場する潮見町、自治体、施設、制度、人物、統計資料は、すべて架空のものです。現実の自治体が、死亡率を下げる目的で、病気の住民や高齢者を他自治体へ転出させる施策を行っているという意味ではありません。

また、死亡率は人口構成、年齢構成、集計期間、分母となる人口、標準化の方法などによって数値が変わります。単純な死亡者数や粗死亡率だけで、地域の医療水準、住民の健康状態、行政の成果を評価することはできません。

本作は、正確な数字が必ずしも正しい現実を表すとは限らない、という仮定から生まれた社会幻想小説です。


四月最初の月曜日、潮見町役場の企画財政課に、県から一通の電子メールが届いた。

件名は、

「地域健康指標改善支援事業に係る事前照会」

だった。

担当係長の長谷川拓郎は、受信箱の一覧でその文字を見たとき、また新しい補助事業が始まるのだと思った。

国や県から送られてくる事業名は、年々長くなっていた。

健康。

地域。

連携。

包括。

支援。

推進。

強化。

持続可能。

そうした言葉を幾つか組み合わせれば、新しい政策の名称になる。

長谷川はメールを開いた。

本文には、県内市町村の健康関連指標を比較し、改善計画の提出を求める旨が記されていた。添付ファイルは七つあった。

事業概要。

提出様式。

評価指標一覧。

参考資料。

過去五年間の市町村別データ。

説明会資料。

よくある質問。

長谷川は評価指標一覧を開いた。

健康診査受診率。

特定保健指導実施率。

一人当たり医療費。

要介護認定率。

救急搬送件数。

平均寿命。

健康寿命。

死亡率。

最後の項目に、赤い印が付いていた。

潮見町の死亡率は、県内で最も高い区分に入っていた。

人口千人当たり、年間二十・八人。

県平均は十一・六人。

長谷川は驚かなかった。

潮見町では住民の四割以上が六十五歳以上である。若い世代が少なく、高齢者が多ければ、人口当たりの死亡者数が増えるのは当然だった。

町の医療が特別に悪いわけではない。

感染症が流行したわけでもない。

事故が多いわけでもない。

人は年齢を重ねれば、いずれ亡くなる。

高齢者の割合が高い町では、死亡率が高くなる。

長谷川はそう理解していた。

添付された説明資料にも、小さな文字で注意書きがあった。

「粗死亡率は年齢構成の影響を受けるため、市町村間比較には留意を要する」

しかし、その注意書きは資料の三十七ページ目にあった。

一方、県内順位を示す表は二ページ目にあった。

潮見町。

四十七位。

背景は赤色だった。

午前十時から、町長室で幹部会議が開かれた。

町長、副町長、総務課長、企画財政課長、健康福祉課長、町立診療所の事務長が出席した。

長谷川は説明担当として、壁面の画面に資料を映した。

「潮見町の粗死亡率は、県内で最も高い区分です。ただし、これは高齢化率の影響が大きく、年齢調整を行った場合には――」

「長谷川君」

町長の秋元が話を遮った。

「細かい説明は後でいい。県内で何番なんだ」

「四十七自治体中、四十七番です」

「最下位か」

「資料上はそうなっています」

町長は椅子の背にもたれた。

秋元は二年前に初当選した。

元県議会議員で、演説では「数字で変える潮見町」を掲げていた。

人口減少率。

観光客数。

ふるさと納税額。

空き家解消件数。

企業誘致数。

道路整備率。

行政の成果は、数値で示さなければならないというのが持論だった。

「このまま公表されるのか」

「県のウェブサイトへ掲載される予定です」

「死亡率が県内最悪の町と書かれる」

「正確には、人口千人当たりの粗死亡率が最も高いという意味です。医療の質が最も悪いという意味ではありません」

「町外の人間が、そんな読み方をしてくれると思うか」

長谷川は答えなかった。

町長は資料を指で叩いた。

「移住促進をやっているんだ。子育て世帯を呼び込もうとしている。そこへ死亡率県内最悪と出たら、どう見られる」

健康福祉課長が口を開いた。

「高齢化率を併記すれば、ある程度は説明できます」

「説明しなければ分からない数字は、もう負けている」

町長は言った。

副町長が長谷川に尋ねた。

「改善目標は、どの程度を求められている」

「県は一律の数値を示していません。各自治体が現状を分析し、三年間の目標を設定します」

「では、潮見町として目標を立てる必要がある」

「はい」

「どれくらい下げられる」

長谷川は資料をめくった。

「短期間で粗死亡率そのものを大きく下げるのは困難です。高齢者人口が多いため、健康増進施策の効果が出ても、死亡者数へ反映されるまで時間がかかります」

「何もしなくていいということか」

「そうではありません。健診、介護予防、重症化予防、在宅医療、救急体制など、取り組むべきことはあります。ただ、死亡率の低下だけを成果指標にするのは――」

「県は死亡率を指標にしている」

町長の声が強くなった。

「県が数字を出した以上、こちらも数字で答えるしかない」

会議は一時間続いた。

結論として、企画財政課、健康福祉課、町立診療所による横断チームが設置されることになった。

名称は、

「健康長寿指標改善プロジェクトチーム」

となった。

長谷川が事務局を務めることになった。

会議の最後に、町長は言った。

「三年で県平均とは言わない。まず最下位を脱出する。数字を一つでも上げる方法を考えてくれ」

順位を上げるためには、死亡率を下げる必要があった。

死亡率を下げるためには、死亡者数を減らすか、人口を増やす必要がある。

単純な式だった。

長谷川は自席へ戻り、白い紙に書いた。

死亡率=死亡者数÷人口

その下に、二つの方法を書いた。

一、死亡者数を減らす。

二、人口を増やす。

人口を増やすことは、三年間では難しい。

移住促進施策を行っても、年間数十人の転入があれば成功とされる。死亡率を大きく変えるほどの人口増加は期待できない。

残るのは、死亡者数を減らすことだった。

しかし、行政が三年で死亡者数を減らせる範囲には限界がある。

長谷川は、過去十年間の死亡者データを確認した。

年間百四十人から百七十人。

死因は、悪性新生物、心疾患、老衰、脳血管疾患、肺炎など。

年ごとの変動はあるが、長期的には増えていた。

七十五歳以上の人口が増えているためだった。

健康診査の受診率を上げる。

運動教室を開く。

減塩を呼びかける。

禁煙支援を行う。

それらは必要だった。

だが、翌年度の死亡率を目に見えて改善する施策ではない。

午後五時を過ぎた頃、健康福祉課の主査である大崎美奈が、長谷川の机へ来た。

「難しい顔をしていますね」

「簡単な式ほど難しい」

長谷川は紙を見せた。

大崎は式を読み、向かいの椅子へ座った。

「死亡者を減らすか、人口を増やすか」

「それしかない」

「年齢調整死亡率を使うように県へ求めた方がいいのでは」

「県は粗死亡率も公表する。町長は順位を気にしている」

「順位のために人を長生きさせるんですか」

「長生きしてもらうこと自体は悪くない」

「数字のためでなければ」

長谷川は苦笑した。

「とにかく、できることを並べるしかない」

二人は、施策案を書き出した。

健診受診率向上。

高血圧対策。

糖尿病重症化予防。

高齢者のフレイル予防。

救急搬送時間の短縮。

町立診療所と県立病院の連携。

独居高齢者の見守り。

肺炎球菌ワクチン接種。

熱中症対策。

転倒予防。

自殺対策。

どれも重要だった。

しかし、どの施策についても、三年間で何人の死亡を防げるかを正確に示すことはできなかった。

大崎が席を立とうとしたとき、長谷川は何気なく尋ねた。

「町外の病院で亡くなった人も、潮見町の死亡者に入るんだよな」

「住民票が潮見町にあれば入ります」

「施設に入所して、住民票を施設所在地へ移した場合は」

「その自治体の住民として扱われます」

大崎は答えた後、長谷川を見た。

「何を考えていますか」

「何も」

長谷川は紙を裏返した。

大崎はしばらく立ったまま、長谷川の顔を見ていた。

「その方法は、考えない方がいいです」

「まだ何も言っていない」

「言わなくても分かります」

「制度上の確認をしただけだ」

「制度上できることと、してよいことは違います」

大崎はそう言って、席を離れた。

長谷川も同じことを考えていた。

制度上できることと、してよいことは違う。

ただし、行政の仕事では、その境界がいつも明確とは限らなかった。

一週間後、県庁で説明会が開かれた。

県内各自治体から担当者が集まり、健康指標の分析方法や改善計画の作成について説明を受けた。

講師は、県の健康政策課長だった。

「重要なのは、結果指標と活動指標を分けることです」

課長は画面を指しながら話した。

「死亡率や健康寿命は結果指標です。一方、健診受診率、運動教室参加者数、訪問指導件数などは活動指標です。各自治体には、双方を設定していただきます」

質疑応答で、別の町の担当者が手を挙げた。

「高齢化率が高い自治体ほど粗死亡率が高くなるのは当然です。単純な順位公表は誤解を招きませんか」

会場の数人がうなずいた。

県の課長は、用意された回答を読むように答えた。

「粗死亡率のみで自治体の優劣を判断するものではありません。年齢調整値や人口構成と併せて、総合的にご覧いただく趣旨です」

「しかし、報道では順位だけが使われます」

「公表方法については、今後検討します」

それ以上の回答はなかった。

休憩時間、長谷川は廊下の自動販売機前で、隣の自治体の担当者と話した。

その自治体も高齢化率が高く、死亡率は県内下位だった。

担当者は紙コップのコーヒーを飲みながら言った。

「うちは昨年、少し下がりましたよ」

「何か特別な施策を」

「特別養護老人ホームが閉鎖されました」

「閉鎖」

「入所者の多くが県北の施設へ移りました。住民票も移したので、高齢者人口と死亡者数が同時に減った」

担当者は笑った。

「健康になったわけではありませんが、死亡率は改善しました」

長谷川は何も言わなかった。

「逆に、隣の市は新しい介護施設を誘致した。入所者が百人以上転入して、数年後から死亡者数が増えた。医療も介護も充実させたのに、指標だけ見れば悪化です」

「制度として、おかしいですね」

「制度は正しいですよ」

担当者は紙コップを捨てた。

「住んでいる人を数えている。亡くなった人を数えている。それぞれは正しい。ただ、正しい数字を並べても、正しい評価になるとは限らない」

帰りの電車で、長谷川はその言葉を手帳へ書いた。

正しい数字を並べても、正しい評価になるとは限らない。

その下に、もう一つ書いた。

居住地を変えれば、死亡する自治体が変わる。

すぐに線を引いて消した。

しかし、紙に残った筆圧までは消えなかった。

五月、プロジェクトチームの会議が始まった。

初回会議では、町の現状分析が行われた。

潮見町の死亡率が高い最大の理由は、高齢化だった。

特に、八十五歳以上の人口比率が県平均の約二倍に達している。

独居高齢者も多い。

町立診療所には入院病床がなく、重症者は隣市の総合病院へ搬送される。

町内には小規模な介護施設が二つあったが、特別養護老人ホームはなかった。

介護度が高くなると、町外の施設へ入る人が多かった。

その際、住民票を潮見町へ残す人と、施設所在地へ移す人がいた。

大崎が資料を説明した。

「現在、町外施設へ入所している潮見町民は、把握できる範囲で百八十六人です。このうち、住民票を潮見町に残している人は九十一人です」

町長が出席していた。

「その九十一人は、潮見町に住んでいないのか」

「生活の本拠は町外施設です。ただし、住民票をどこに置くかは個別事情があります」

「なぜ移さない」

「家族が実家を維持している、郵便物や財産管理の都合がある、本人や家族が住所を変えたくないなど、理由はさまざまです」

「行政サービスは施設所在地で受けるのか」

「介護保険には住所地特例があります。すべてが単純ではありません」

町長は資料をめくった。

「この九十一人が施設所在地へ住所を移したら、町の人口は減る」

「はい」

「死亡者数も減る」

会議室が静かになった。

大崎は慎重に答えた。

「将来的には、潮見町の死亡者として集計されない人が増える可能性があります」

「死亡率はどうなる」

長谷川が計算した。

九十一人が転出すると、分母となる人口も減る。

ただし、その多くが高齢で死亡リスクの高い層であるため、数年単位では死亡者数の減少効果の方が大きく出る可能性があった。

「試算しなければ分かりません」

長谷川は答えた。

町長は言った。

「試算してくれ」

会議後、大崎は長谷川を廊下へ呼び止めた。

「本当に計算するんですか」

「指示された」

「計算した数字は、一人歩きします」

「計算しなくても、誰かが同じことを考える」

「だから出すんですか」

長谷川は答えられなかった。

その夜、長谷川は自宅の食卓でノートパソコンを開いた。

妻は先に寝ていた。

画面には、町外施設入所者の年齢階級、要介護度、過去の死亡状況が表示されていた。個人を特定できない集計データだった。

長谷川は幾つかの仮定を置いた。

町外施設入所者のうち、住民票を残している九十一人。

平均年齢、八十七・四歳。

過去三年間の年間死亡割合。

転出による人口減少。

予測される死亡者数の変化。

計算上、九十一人全員が住民票を施設所在地へ移した場合、潮見町の粗死亡率は、翌年度にはわずかに上昇する可能性があった。

人口が先に減り、死亡者数の減少が遅れて表れるためだった。

しかし三年間で見ると、死亡率は低下する。

県内順位は、四十七位から四十一位程度まで改善する可能性がある。

長谷川は表を見つめた。

人の健康状態は、一人も変わっていない。

医療も改善していない。

介護予防も進んでいない。

それでも順位は六つ上がる。

長谷川はファイル名を付けた。

「参考試算」

保存した後、別の名前に変更した。

「町外施設入所者住所異動影響分析」

さらに変更した。

「高齢者人口動態に関する内部資料」

どの名称にしても、内容は同じだった。

翌週、町長室で試算を説明した。

町長は最後まで黙って聞いた。

「強制的に住所を移すことはできません」

長谷川は最初に念を押した。

「住民票は生活の本拠へ置くのが原則ですが、個々の事情を確認する必要があります。死亡率改善だけを目的に住所異動を促すことは適切ではありません」

「誰が強制と言った」

町長は答えた。

「生活実態に合わせて、正しい住所へ移してもらう。それだけだ」

「結果として死亡率が下がる可能性があります」

「それは副次的効果だ」

「副次的効果を目的に始めれば、順序が逆です」

副町長が口を挟んだ。

「住民票と居住実態の一致は、行政として当然のことだろう」

「原則としてはそうです」

「ならば、実態調査をして、必要な案内を行う。何も問題はない」

大崎は会議へ呼ばれていなかった。

健康福祉課長は、資料を見ながら黙っていた。

町長は言った。

「施策名を考えてくれ。高齢者の住所を移す事業だと受け取られない名称がいい」

長谷川は胸の奥が冷えるのを感じた。

数日後、事業名が決まった。

「高齢者生活拠点確認支援事業」

目的は、

「高齢者の生活実態と行政登録情報を適正化し、円滑な福祉サービス提供を図る」

とされた。

死亡率という言葉は、どこにも書かれなかった。

事業の対象は、町外の医療機関や介護施設へ長期入院・入所している町民だった。

家族へ案内文を送り、生活の本拠を確認する。

住民票の異動が必要と考えられる場合には、手続きを案内する。

法的には、特別なことをしているわけではない。

虚偽の説明もない。

不利益を示して脅すわけでもない。

ただ、案内文には次の一文が加えられた。

「現在の生活拠点と住民登録地が異なる場合、各種行政サービスの適正な提供のため、住所異動をご検討ください」

最初の月に、十二人が転出した。

翌月、九人。

その次の月、十五人。

家族からの問い合わせはあったが、大きな反発はなかった。

「施設に住んでいるのだから、住所も移した方がいいと思っていた」

「郵便物が二か所に届いて困っていた」

「本人はもう潮見町の家へ戻れない」

そう話す家族も多かった。

一方で、住所を移さない家族もいた。

「本人は潮見町へ帰りたがっている」

「家を処分していない」

「先祖代々の住所を変えたくない」

「亡くなるまでは町民でいさせたい」

役場は強制しなかった。

案内するだけだった。

それでも、半年で四十八人が潮見町から転出した。

町の人口は減った。

月次人口表には、通常より多い転出者数が並んだ。

しかし翌年、死亡者数は減少した。

前年百六十二人。

当年百四十七人。

死亡率は二十・八から十九・四へ下がった。

県内順位は四十七位から四十三位へ上昇した。

町長は議会で報告した。

「健康増進、重症化予防、医療・介護連携など、総合的な取り組みにより、本町の死亡率は改善傾向にあります」

嘘ではなかった。

健康教室も増やした。

健診受診率も少し上がった。

見守り事業も始めた。

死亡率の改善が、どの施策によるものかは特定できない。

町長は、住所異動について触れなかった。

県からは評価された。

「短期間で明確な改善が見られる」

「部局横断の取り組みが有効に機能している」

「他自治体の参考となる」

潮見町は、県主催の事例発表会で報告することになった。

発表資料を作ったのは長谷川だった。

表紙には、

「データに基づく健康長寿のまちづくり」

と書いた。

死亡率の折れ線グラフ。

健診受診率の棒グラフ。

保健指導件数。

介護予防教室参加者数。

救急連携会議の開催回数。

グラフはすべて事実だった。

ただし、町外施設入所者の転出数を示すグラフは入れなかった。

大崎は完成した資料を読み、長谷川へ返した。

「きれいな資料ですね」

「数字を並べただけだ」

「都合のよい数字を」

「嘘は書いていない」

「書いていないことがある」

長谷川は資料を閉じた。

「発表の目的は、健康施策の報告だ」

「死亡率が下がった主な理由を、健康施策だけのように見せるんですか」

「主な理由だと断定していない」

「聞く人はそう受け取ります」

「説明時間は十五分しかない」

大崎は窓の外を見た。

役場前のバス停には、誰もいなかった。

第一便が廃止されてから、朝の時間帯にバスが来ることはなくなっていた。

「数字は便利ですね」

大崎は言った。

「話したくないことを、話さずに済む」

その年の冬、町内で一人暮らしをしていた八十九歳の女性が、隣市の介護施設へ入所した。

名前は、菅原澄江。

潮見町で生まれ、結婚後も町内で暮らしてきた。

夫は十年前に亡くなった。

息子は東京に住んでいた。

足腰が弱り、自宅での生活が難しくなったため、町外施設への入所が決まった。

役場から住所異動の案内が届いた。

息子は、施設所在地へ住民票を移す手続きをした。

その三か月後、菅原澄江は施設で亡くなった。

死亡届は施設所在地の市へ提出された。

潮見町の死亡者数には含まれなかった。

長谷川は、その事実を個別には知らなかった。

しかし、ある日、役場の一階ロビーで、一人の男性に呼び止められた。

五十代後半くらいだった。

「企画財政課の長谷川さんですか」

「はい」

「菅原と申します」

男性は、折り畳んだ広報紙を持っていた。

「母が昨年、町外の施設へ入りました」

長谷川は、すぐに何の話か理解した。

「住所異動の案内についてでしょうか」

「母は亡くなりました」

「それは、ご愁傷さまでございます」

男性は頭を下げなかった。

怒っている様子でもなかった。

ただ、困惑していた。

「母は、どこの町の人として死んだのでしょうか」

長谷川は答えに詰まった。

「住民票のある自治体の住民として、統計上は扱われます」

「統計の話を聞いているんじゃありません」

男性は広報紙を開いた。

町の人口欄を示した。

前月比、人口十二人減。

死亡者十一人。

転出者十六人。

「母は、この死亡者十一人には入っていないんですね」

「住民票を移していた場合は、含まれません」

「でも、母は潮見町の墓に入ります」

「はい」

「家も残っています。近所の人も、母を潮見町の人だと思っています」

「生活の本拠は施設へ移っていましたので、住民登録上は――」

「三か月ですよ」

男性は言った。

「八十九年、潮見町で暮らして、最後の三か月を隣の市で過ごした。だから母は、隣の市で死んだ人になるんですか」

長谷川は、答える言葉を持っていなかった。

男性は広報紙を畳んだ。

「住所を移したのは私です。役場から案内が来て、施設の人にも、その方が手続きしやすいと言われた。誰かに強制されたわけではありません」

「はい」

「でも、母の死亡が潮見町の数字から消えることは、誰も教えてくれなかった」

長谷川は頭を下げた。

「説明が不足していました」

「説明されても、住所は移したと思います」

男性は静かに言った。

「ただ、母が町から二度出ていったように感じるんです。一度目は施設へ入ったとき。二度目は、死亡者の数からも消えたとき」

男性が帰った後、長谷川は人口動態の資料を開いた。

菅原澄江という名前はなかった。

個人情報を扱わない集計資料には、当然、名前は載らない。

前年の転出者数に一人として含まれ、その後は潮見町の統計から消えていた。

生まれたこと。

結婚したこと。

子どもを育てたこと。

夫を看取ったこと。

税金を納めたこと。

町内会の清掃に参加したこと。

選挙で投票したこと。

診療所へ通ったこと。

町営バスに乗ったこと。

それらの記録は、各所に残っているかもしれない。

しかし、死亡という最後の記録だけは、別の自治体に属していた。

その日の夕方、長谷川は大崎の机へ行った。

「菅原澄江さんを知っているか」

大崎はしばらく考えた。

「南浜地区の方ですか」

「たぶん」

「高齢者訪問で、何度か会ったことがあります」

「どんな人だった」

「静かな方でした。若い頃、魚市場の食堂で働いていたそうです。閉校した潮見小学校の給食室も手伝っていたと聞きました」

長谷川は、第1編の人口異動表と、第2編で問題になった町営バスの運行記録を思い出した。

数字に存在しない一人。

誰も乗っていないのに降りていく人々。

潮見町では、記録から外れた者が、別の場所に現れることがあった。

「菅原さんは、町営バスを利用していたか」

「足が悪くなる前は、よく乗っていたと思います」

「どこで降りていた」

「魚市場西口じゃないですか。昔の話ですが」

魚市場西口。

すでに廃止された停留所だった。

長谷川は、その夜、町営バスの古い運行記録を確認した。

江藤正明という運転手が、異常な降車人数を報告した日の記録。

公式記録では、乗車人数と降車人数はゼロに修正されていた。

しかし、修正前の控えが一枚だけ保存されていた。

魚市場西口跡。

見えない降車、二人。

氏名欄はない。

ただ、運転手の手書きで小さく記されていた。

「白い割烹着の女性一名」

長谷川は紙から目を離した。

菅原澄江が施設へ入所したのは、その記録より後だった。

したがって、その女性が菅原本人であるはずはない。

それでも、長谷川には偶然とは思えなかった。

町から失われた人々は、死んだ後に現れるのではない。

数字から居場所を失った時点で、すでに別の町へ降り始めているのかもしれない。

翌年度、潮見町の死亡率はさらに下がった。

十九・四から十七・九。

県内順位は三十六位になった。

町外施設入所者の住所異動は、七十三人に達していた。

県は潮見町を「重点改善自治体の成功例」として表彰した。

町長は記者会見で語った。

「住民一人ひとりの健康を守る地道な取り組みが、成果として表れたものと考えています」

記者から質問が出た。

「具体的に、死亡者数が減った要因は何ですか」

町長は答えた。

「健診、予防、医療、介護、地域の見守りなど、複合的な要因です」

それも嘘ではなかった。

人は一つの理由だけで生き延びたり、亡くなったりするわけではない。

しかし、会見後に作成された新聞記事の見出しは、

「潮見町、健康施策で死亡率大幅改善」

となった。

町長室では、記事のコピーが職員へ配られた。

長谷川の机にも一枚置かれた。

彼は記事を読まず、裏返した。

午後、町長から呼び出された。

「次の段階へ進みたい」

町長は上機嫌だった。

「何でしょうか」

「町内の介護施設整備計画だ」

長谷川は耳を疑った。

「介護施設を整備するんですか」

「高齢者が町外へ出なくても済むようにする。家族の負担も減る。雇用も生まれる」

「それは必要な施策だと思います」

「民間事業者が、百二十床の施設を建設したいと言っている」

長谷川は黙った。

百二十床。

町外からの入所者も受け入れることになる。

多くの高齢者が、潮見町へ住民票を移す可能性がある。

町長は続けた。

「健康長寿の町として、医療と介護を産業にする。これからは高齢者を外へ出すのではなく、受け入れる側になる」

「死亡率は上がります」

長谷川は言った。

町長の笑顔が消えた。

「何だと」

「高齢者人口が増えます。入所者の年齢構成によっては、数年後に死亡者数が大きく増えます」

「施設整備は必要だろう」

「必要です」

「ならば進める」

「死亡率は、県内下位へ戻る可能性があります」

町長は立ち上がり、窓の外を見た。

「それは困る」

「人を受け入れれば、当然です」

「健康長寿の町として施設を誘致するのに、死亡率が悪化したら説明がつかない」

「施設があるから死亡率が上がるのではありません。高齢者が増えるからです」

「県は、そんな事情を考慮してくれるのか」

「注意書きには書かれます」

町長は振り返った。

「注意書きは、誰も読まない」

長谷川は、二年前の会議を思い出した。

同じ言葉だった。

説明しなければ分からない数字は、もう負けている。

町長は尋ねた。

「施設入所者の住民票を、元の自治体へ残してもらうことはできないのか」

「生活の本拠が潮見町なら、潮見町へ置くのが原則です」

「住所地特例は」

「介護保険上の制度であって、人口統計そのものを都合よく操作する制度ではありません」

「方法を考えてくれ」

「何の方法ですか」

「施設は誘致する。雇用も税収も得る。しかし死亡率は上げない」

長谷川は町長を見た。

「それはできません」

「君は、死亡率を下げた」

「下げたのではありません」

長谷川は初めて、はっきりと言った。

「死亡する場所を、町の外へ移しただけです」

町長室が静かになった。

町長はゆっくり椅子へ座った。

「その言い方は聞き捨てならないな」

「人を長生きさせた結果ではありません。高齢者が転出した結果です」

「君が提案した事業だ」

「試算しただけです」

「実施に反対したのか」

長谷川は答えられなかった。

強く反対したとは言えない。

資料を作った。

事業名を考えた。

案内文を作成した。

実績を集計した。

県への報告書を書いた。

事例発表を行った。

新聞記事を訂正しなかった。

長谷川は、町の死亡率を下げる仕事をした。

町長は言った。

「今さら、自分だけ正しい側に立つつもりか」

長谷川は何も言えなかった。

その夜、役場を出たのは午後九時を過ぎていた。

庁舎前のバス停に、人が立っていた。

高齢の女性だった。

白い割烹着を着て、布製の買い物袋を持っている。

バスはすでに終わっている。

長谷川は声をかけた。

「バスをお待ちですか」

女性は答えなかった。

「最終便は、もう出ましたよ」

女性は時刻表を見上げた。

廃止された第一便の欄が、薄い灰色で塗りつぶされている。

「どちらへ行かれますか」

長谷川が尋ねると、女性は言った。

「帰るところです」

「ご自宅は」

「潮見町です」

「住所はどちらでしょう」

女性は長谷川を見た。

「住所が分からない人には、帰るところがないのですか」

長谷川は息を止めた。

女性の顔に見覚えはなかった。

それでも、菅原澄江ではないかと思った。

「菅原さんですか」

女性は答えなかった。

遠くから、エンジン音が聞こえた。

廃止されたはずの町営バスが、暗い道路の向こうから近づいてきた。

行先表示には、文字ではなく数字が並んでいた。

二十・八。

十九・四。

十七・九。

潮見町の死亡率だった。

バスは停留所へ止まった。

扉が開いた。

車内には、大勢の高齢者が座っていた。

病衣を着た人。

施設の室内着を着た人。

杖を持つ人。

車椅子の人。

皆、長谷川を見ていた。

運転席には誰もいなかった。

女性は乗ろうとしなかった。

「乗らないんですか」

長谷川は尋ねた。

「これは、降りる人のバスです」

女性は言った。

車内で降車ボタンが鳴った。

ポーン。

最前列の男性が立ち上がった。

扉から降りる。

男性の足が地面へ着いた瞬間、バスの行先表示が変わった。

十七・八。

次の女性が降りた。

十七・七。

一人降りるたび、死亡率が下がっていく。

十七・六。

十七・五。

十七・四。

長谷川は表示を見つめた。

「この人たちは、どこへ行くんですか」

白い割烹着の女性が答えた。

「数字に入らない場所です」

「そんな場所はありません」

「あなたが作りました」

高齢者たちは、次々にバスを降りた。

役場の敷地へ入る者。

海へ向かう者。

閉校した小学校の方角へ歩く者。

廃止された魚市場へ向かう者。

姿は一人ずつ、街灯の届かない場所で消えていった。

バスの行先表示は、ついにゼロになった。

死亡率、〇・〇。

町では誰も死なない数字だった。

車内には、誰も残っていなかった。

女性が長谷川へ言った。

「これで、よい町になりましたか」

長谷川は答えられなかった。

バスの扉が閉じた。

車両は音もなく走り去った。

女性もいなくなっていた。

翌朝、長谷川は役場へ早く出勤した。

人口統計のシステムを開いた。

潮見町の前年度死亡者数は、〇人になっていた。

粗死亡率、〇・〇。

県内順位、一位。

長谷川は画面を閉じ、再び開いた。

数字は変わらない。

住民課へ電話をかけた。

「死亡者数のデータがおかしい」

担当者は確認した。

「こちらでは百三十八人です」

「企画財政課の集計ではゼロになっている」

「システム障害では」

情報管理担当が調査した。

元データには百三十八人の死亡記録がある。

氏名も、住所も、死亡日も登録されている。

しかし、統計集計を行うと〇人になる。

死亡者は存在する。

死亡者数だけが存在しない。

長谷川は、第1編で退職した村瀬修一の古い引き出しを思い出した。

村瀬が使っていた机は、現在、空席になっていた。

人員削減で後任が配置されず、書類保管用として使われている。

長谷川は引き出しを開けた。

最下段に、一枚の紙があった。

地区、未定。

年齢、未定。

住所、空欄。

人数、一。

その下に、別の文字が加えられていた。

死亡者数、未定。

人数、百三十八。

誰が書いたのか分からない。

長谷川は紙を持ち、健康福祉課へ行った。

大崎は紙を読んだ。

「この人たちを、統計へ戻せますか」

長谷川は尋ねた。

「亡くなった人をですか」

「数字から消えた人を」

大崎は紙を机へ置いた。

「戻したら、死亡率は上がります」

「分かっています」

「県内順位も下がります」

「分かっています」

「町長は認めません」

長谷川は言った。

「認めてもらう必要はない」

二人は、統計システムの設定、抽出条件、集計区分を一つずつ確認した。

異常は見つからない。

百三十八人の死亡記録には、共通点があった。

全員、死亡時点では潮見町に住民票があった。

当然のことだった。

しかし、住所欄を過去へさかのぼると、そのうち四十一人は一度、町外施設へ転出し、その後、潮見町へ戻っていた。

帰宅した者は少ない。

施設を変えた際、家族の意向で住民票だけを潮見町へ戻した者。

自宅へ戻る予定があるとして住所を戻した者。

町外で暮らしながら、再び潮見町民になった者。

人の居場所と住所は、何度もずれていた。

長谷川は一人ずつ、死亡記録を印刷した。

個人情報を扱うため、閲覧権限を取り、施錠された会議室で確認した。

百三十八枚。

氏名。

生年月日。

住所。

死亡日。

紙として並べると、百三十八人は確かに存在した。

長谷川と大崎は、死亡者を地区別に分けた。

南浜。

中央。

青葉。

山根。

松ヶ浜。

霧生。

集計すると百三十八人になった。

年齢別に分けても、死因別に分けても百三十八人。

しかし、統計システムへ入力すると〇人になる。

大崎が言った。

「システムが、死亡者を数えたくないんでしょうか」

「機械に意思はない」

「町にはあります」

「町の意思が、機械に移ったとでも言うのか」

「死亡率を下げたいと、何年も数字を直し続けた」

大崎は百三十八枚の紙を見た。

「町にとって、この人たちは邪魔な数字になったんです」

長谷川は町長室へ向かった。

町長に事情を説明した。

町長は驚くより先に、尋ねた。

「県への報告前か」

「はい」

「ならば、復旧するまで前年値を使えばいい」

「前年の数値ではありません。死亡者数がゼロになっています」

「ゼロのまま出すわけではない」

「問題は報告値ではありません」

長谷川は紙の束を机へ置いた。

「この百三十八人が、町の統計から消えています」

「元データにはいるんだろう」

「います」

「ならば、消えていない」

「町の死亡者として数えられません」

町長は苛立った表情を見せた。

「統計システムの障害だ。業者に直させれば済む」

「それだけではありません」

「何だ」

「私たちが、消えるようにしたんです」

町長は長谷川を見た。

「また、その話か」

「死亡率を下げるため、死亡しそうな人が町外へ移る仕組みを作った。転出を促し、成果として報告した。町外の人を受け入れる施設には、死亡率が上がるから困ると言った」

「行政運営では、複数の指標を考慮する必要がある」

「人を指標の外へ動かした」

「本人と家族が決めたことだ」

「決める方向を、町が作った」

町長は立ち上がった。

「君は何を求めている」

「事実を公表します」

「何の事実だ」

「死亡率が下がった理由です。健康施策だけではなく、町外施設入所者の住所異動が影響した可能性を明記します。粗死亡率の限界も説明します」

「町の評価を、自分から下げるのか」

「評価方法が間違っていると伝えます」

「県も国も同じ指標を使っている」

「だから、町から言う必要があります」

町長は長谷川を見つめた。

「君一人の判断でできることではない」

「私一人で始めたことでもありません」

「責任を私に押しつけるつもりか」

「責任を数字へ押しつけるのをやめたいんです」

長谷川は百三十八枚の死亡記録を持ち、町長室を出た。

その日の午後、プロジェクトチームの臨時会議が開かれた。

長谷川は、死亡率改善の要因分析を説明した。

年齢構成。

人口減少。

町外施設入所者の転出。

死亡者数の自然変動。

健診や予防施策。

一つの要因だけでは説明できないこと。

粗死亡率だけで自治体を評価する危険。

そして、死亡率を下げることが行政目標になると、死亡する可能性の高い人を分母から外す誘因が生まれること。

会議室には、町長、副町長、各課長、診療所長、町議会議長がいた。

誰もすぐには発言しなかった。

最初に口を開いたのは、診療所長だった。

「医療の目的は、死亡率を下げることではありません」

町長が顔を上げた。

「人を救うことではないのか」

「救える命を救うことです。しかし、すべての死を失敗として扱えば、高齢者の多い地域は必ず劣った地域になります」

診療所長は続けた。

「九十歳の人が、家族に看取られて穏やかに亡くなる。その死亡は統計上、一件です。四十歳の人が、予防可能な病気で亡くなる。それも一件です。同じ一件ですが、意味は同じではありません」

健康福祉課長が言った。

「町外施設への住所異動案内は、生活実態の適正化という面では必要でした。ただし、死亡率改善の内部試算を前提に始まったことは事実です」

副町長が尋ねた。

「今後、どうする」

長谷川は答えた。

「死亡率を、町の単独目標から外します」

「県への計画は」

「年齢調整値、予防可能な死亡、健診受診率、救急搬送時間、在宅看取りの希望達成など、複数の指標を使います」

「順位は」

「追いません」

町長は苦い顔をした。

「町民に、県内四十七位でも気にするなと言うのか」

「四十七位が何を意味するか説明します」

「説明でイメージは変わらない」

長谷川は言った。

「数字を良く見せるために人を外へ出した町というイメージよりは、ましです」

会議の結論は、その場では出なかった。

しかし翌月、潮見町は県へ提出する改善計画を修正した。

粗死亡率の目標順位を削除した。

代わりに、年齢構成を考慮した分析と、住民の生活の質に関する指標を加えた。

町外施設入所者の住所異動が死亡率へ与えた影響についても、注記を入れた。

県から問い合わせが来た。

「他自治体への影響を考慮し、表現を穏当なものにできないか」

「住所異動が死亡率改善の主因であると断定しないでほしい」

「成功事例として公表済みであるため、整合性を確認したい」

長谷川は、断定を避けながらも、記述を削除しなかった。

県のウェブサイトに掲載された潮見町の事例には、以前のような大きな見出しは付かなかった。

表彰も取り消されなかったが、翌年度から成功事例集に掲載されなくなった。

町長は不満だった。

議会でも批判された。

「せっかく改善した数値を、自ら否定するのか」

「町の評判を落とす行為ではないか」

「担当職員の個人的見解ではないか」

長谷川は、一つずつ説明した。

死亡率は下がった。

それは事実。

健康施策を行った。

それも事実。

住所異動の影響があった。

それも事実。

一つの数字には、複数の事実が重なっている。

都合のよい一つだけを原因として語るべきではない。

議会後、役場へ戻る途中、長谷川は庁舎前のバス停で足を止めた。

白い割烹着の女性が立っていた。

今度は昼間だった。

通行人も、役場職員も、女性の横を通り過ぎた。

誰も気づかない。

長谷川は近づいた。

「菅原さんですか」

女性は、わずかに笑った。

「名前を覚えたのですね」

「あなたは菅原澄江さんですか」

「その名前の人も、私の中にいます」

「ほかにもいるんですか」

「町から出た人。町へ戻った人。住んでいるのに数えられない人。数えられているのに住んでいない人」

第1編で現れた、七千八百三十六人目の男と同じようなことを言った。

「あなたたちは、一人ではない」

「数字では、一人ずつです」

女性は答えた。

「人は、数字になると一人ずつになります。でも、生きている間は、誰も一人だけではありません」

遠くから町営バスが来た。

現在の時刻表にある第三便だった。

バスは停留所へ止まった。

扉が開く。

運転手は江藤ではない若い男性だった。

車内には三人の乗客がいた。

女性は乗らなかった。

「行かないんですか」

長谷川が尋ねた。

「今日は、ここに残ります」

「なぜ」

「町が、死んだ人を数えることにしたからです」

バスは発車した。

女性の姿は、排気の揺らぎの中で薄くなった。

「死亡率は上がりますよ」

長谷川は言った。

女性は笑った。

「人が死ぬ町は、生きていた人がいる町です」

そう言い残し、姿を消した。

翌朝、統計システムの死亡者数は百三十八人へ戻っていた。

死亡率は十七・九から十九・六へ上昇した。

県内順位は四十四位になった。

システム障害の原因は、最後まで特定できなかった。

情報管理担当者は、集計条件の一時的な不整合と報告した。

長谷川は、百三十八人分の死亡記録を正式な手続きに従って廃棄した。

ただし、氏名のない一覧表を一枚だけ残した。

地区別人数。

年齢階級別人数。

死亡場所。

町内。

町外病院。

町外施設。

自宅。

最後の欄に、新しい項目を加えた。

「この町で生きた人」

人数、百三十八。

統計上は不要な項目だった。

同じ年度、潮見町に新しい介護施設が開設された。

町内外から百人を超える高齢者が入所した。

施設で働く職員も増えた。

家族の面会で町を訪れる人も増えた。

町内の弁当店、理美容店、薬局の利用者が増えた。

一方、数年後には死亡者数も増えた。

潮見町の粗死亡率は、再び県内最下位になった。

新聞には、小さな記事が載った。

「潮見町、死亡率県内最高」

町長は記者会見を開いた。

以前なら、順位の理由を弁解したかもしれない。

しかしその日は、準備された原稿を途中で閉じた。

「潮見町には、高齢者が多く暮らしています」

町長は言った。

「町内の介護施設には、他地域から移ってきた方もいます。高齢者が多ければ、亡くなる方も多くなります。死亡率が高いことだけで、健康施策や医療、介護の良し悪しを判断することはできません」

記者が尋ねた。

「死亡率改善の目標は持たないのですか」

町長は少し間を置いた。

「防げる死を減らす努力は続けます。しかし、亡くなる人を町の外へ出すことで、数字を良くするつもりはありません」

長谷川は会見室の後方で、その言葉を聞いていた。

全面的に正しい政策へ変わったわけではない。

行政はこれからも数字を使う。

比較もする。

順位も付ける。

成果を求める。

都合の悪い説明を小さく書きたくなることもある。

それでも、一度、数字の外へ出された人々がいたことを、町は記録に残した。

年度末、長谷川は健康長寿指標改善プロジェクトチームの最終報告書を作成した。

最後のページには、次の文章を書いた。

「死亡率は、地域で亡くなった人の割合を示す指標である。しかし、その数値のみでは、住民がどのように生き、どのように支えられ、どこで最期を迎えたかを示すことはできない。行政は死亡を減らす努力を行う一方、死亡者を成果を損なう数字として扱ってはならない」

町長から、最後の一文を削るよう指示された。

「強すぎる表現だ」

長谷川は削らなかった。

代わりに、その前へ一文を加えた。

「本町が過去に行った施策への反省を含め、」

町長は長い間、修正原稿を見ていた。

最終的には押印した。

報告書は町のウェブサイトへ掲載された。

閲覧数は多くなかった。

新聞にも取り上げられなかった。

県から特別な評価を受けることもなかった。

それでも、資料は残った。

数年後、長谷川は役場を定年退職した。

最後の日、自分の机を整理した。

引き出しの奥から、白い紙が出てきた。

地区、未定。

年齢、未定。

住所、空欄。

人数、一。

死亡者数、百三十八。

その下に、見覚えのない文字が増えていた。

「町の死亡率を下げる仕事 完了」

さらに小さく、続きが書かれていた。

「人を町へ戻す仕事 未完了」

長谷川は紙を折り、上着の内ポケットへ入れた。

役場を出ると、庁舎前のバス停に大勢の人が並んでいた。

通院する高齢者。

施設で働く若い職員。

買い物袋を持つ女性。

学校帰りの子ども。

町外から面会に来た家族。

見える人もいた。

見えない人もいた。

町営バスが到着した。

扉が開く。

乗る人がいる。

降りる人もいる。

運転手は一人ずつ確認しながら、端末へ人数を入力した。

乗車、七人。

降車、四人。

数字は正確だった。

長谷川はバスへ乗らず、歩いて帰ることにした。

町を歩けば、自分がどこの人口に入っているかを、少しだけ確かめられるような気がした。

海から風が吹いてきた。

閉校した小学校の方角から、子どもたちの声が聞こえた。

廃止された魚市場の前には、白い割烹着の女性が立っていた。

女性は長谷川へ頭を下げた。

長谷川も頭を下げた。

翌月、潮見町の人口は三人減った。

出生、一。

転入、四。

死亡、十一。

転出、三。

計算は正確に一致していた。

死亡率は、わずかに上がった。

しかし、その月の人口動態表には、以前にはなかった備考欄が設けられていた。

そこには、こう書かれていた。

「死亡者十一人は、いずれもこの町で生きた人である」

統計としては、何の役にも立たない一文だった。

それでも町は、その一文を消さなかった。

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数字で読む町の奇譚 第二編

注記

この物語はフィクションです。

現実の路線バスや自治体運営交通では、乗車人数、降車人数、運賃、運行記録、車両重量などが、すべて完全に連動して記録されるわけではありません。また、乗車した記録がない人が、実際に車内から次々に降りてくるという現象は起こりません。

本作は、人口減少地域における公共交通の縮小、路線廃止、地域から失われていく施設や生活の記憶を背景にした幻想小説です。


潮見町営バスの第一便は、午前六時四十分に車庫を出る。

始発の停留所は、潮見町役場前だった。

そこから海岸通りを南へ走り、旧市街、潮見駅、町立診療所、青葉団地、山側の集落を回って、終点の松ヶ浜公民館まで行く。

一周、四十七分。

走行距離、二十三・四キロメートル。

停留所、二十六か所。

一日の運行回数、六便。

かつては朝夕の通勤便があり、車両も三台あった。高校生や工場勤務者、買い物へ行く主婦、病院へ通う高齢者が乗り、雨の日には立っている客もいたという。

今では、運行するのは十八人乗りの小型バス一台だけだった。

運転手の江藤正明は、六十三歳だった。

民間のバス会社を定年退職した後、町の委託を受ける交通会社へ再就職し、潮見町営バスを運転していた。

町内の道は、ほとんど目をつぶっていても走れる。

海岸沿いでは横風が強い。

青葉団地の坂には、雨の日だけ水が流れる。

山根集落の細い道では、午前七時頃に白い軽トラックが出てくる。

旧商店街の交差点では、使われなくなった信号が、今も一定の時間で赤と青を繰り返している。

道路だけではない。

江藤は、客の顔もほとんど覚えていた。

火曜日の第一便には、診療所へ通う黒田さんが乗る。

木曜日の第三便には、町内唯一の大型スーパーへ行く中村さんが乗る。

月末には、年金を下ろしに行く夫婦が潮見駅前で降りる。

冬になると利用者が少し減り、夏には観光客が間違えて乗ることがある。

バスの乗客は、年々減っていた。

江藤が運転を始めた六年前には、一日平均四十人ほど乗った。

昨年度は二十三人。

今年度に入ってからは十八人を下回る日も珍しくない。

第一便など、始発から終点まで誰も乗らない日さえあった。

それでも江藤は、すべての停留所で速度を落とした。

屋根の下に人影がなくても、時刻表の前に立つ者がいなくても、必ず一度は停車位置へ車体を寄せた。

民間会社にいた頃、先輩運転手から教えられたことがある。

バスを待つ者は、運転席から見える場所に立っているとは限らない。

雨宿りをしていることもある。

足の悪い者が、少し離れた場所から歩いてくることもある。

時刻を間違えた子どもが、家の陰から走ってくることもある。

客がいないと決めつけるな。

その教えだけは、町営バスに移っても守っていた。

異変が起きたのは、十月二日の第一便だった。

その朝、江藤はいつもより十五分早く車庫へ着いた。

前夜に強い風が吹き、車体へ潮が付着していた。フロントガラスを拭き、タイヤを確認し、車内の忘れ物を点検した。

座席に異常はなかった。

一番後ろの座席に、小さな枯れ葉が一枚落ちていた。江藤はそれを拾い、運転席横のごみ箱へ捨てた。

午前六時三十七分、エンジンを始動した。

燃料計、正常。

ブレーキ圧、正常。

扉、正常。

車内灯、正常。

運行記録用の端末には、乗車人数ゼロと表示されていた。

車庫を出て、町役場前へ向かった。

始発停留所には誰もいなかった。

江藤は定刻まで待ち、扉を開けた。

朝の冷たい空気が車内へ入った。

誰も乗らなかった。

扉を閉め、発車した。

次の停留所は、中央公民館前。

誰もいない。

その次は、旧郵便局前。

誰もいない。

海岸通りへ出る頃、空はようやく明るくなり始めていた。

雲の切れ間から差す光が、海面へ細い帯を作っている。

四番目の停留所、南浜二丁目に近づいたとき、降車ボタンが鳴った。

ポーン。

車内前方の表示板に、「次、止まります」と赤い文字が点灯した。

江藤はバックミラーを見た。

誰も乗っていない。

空の座席が並んでいる。

最前列。

中央。

最後部。

人影はない。

誤作動だと思った。

古い車両では、湿気や接触不良で降車ボタンが反応することがある。

江藤は南浜二丁目へ停車した。

扉を開けた。

誰も降りない。

当然だった。

車内には誰もいない。

十秒ほど待ち、扉を閉めた。

運行端末を見ると、降車人数が一人と表示されていた。

江藤は眉を寄せた。

通常、乗客が降りても人数は自動では記録されない。運転手が端末の操作ボタンを押して入力する。

江藤は操作していなかった。

表示は、乗車ゼロ、降車一。

端末の不具合だろう。

江藤は画面を一度消し、再起動した。

乗車ゼロ。

降車ゼロ。

数字は戻った。

バスを発車させた。

次の停留所は、潮見小学校前だった。

校舎は二年前に閉校している。

校庭には草が伸び、錆びた鉄棒の下に落ち葉が積もっていた。正門には立入禁止の札が掛かっている。

停留所の手前で、再び降車ボタンが鳴った。

ポーン。

表示板に赤い文字が点灯する。

江藤はバックミラーを見た。

やはり誰もいない。

それでもバスを止めた。

前扉を開ける。

冷たい風が入ってきた。

その瞬間、車体がわずかに浮き上がった。

人が一人、降りたような感覚だった。

バスの車高がほんの少し上がり、右側のサスペンションが小さく揺れた。

江藤は運転席から振り返った。

座席には誰もいない。

開いた扉の向こうには、閉鎖された小学校の門があるだけだった。

端末を見る。

乗車ゼロ。

降車一。

江藤は再起動しなかった。

そのまま扉を閉めた。

潮見駅では、実際の乗客が二人乗った。

買い物袋を持った高齢の女性と、作業着姿の男性だった。

江藤は乗車人数を二人と入力した。

次の診療所前で、女性が降りた。

江藤は降車一を入力した。

端末には、乗車二、降車二と表示された。

一人多い。

「どうかしましたか」

作業着の男性が尋ねた。

「いえ、端末の調子が少し悪いだけです」

江藤は答えた。

男性は青葉団地入口で降りた。

江藤が降車ボタンを押すと、表示は乗車二、降車三になった。

車内には誰もいなくなった。

それでも、まだ誰かが一人乗っていることになる。

その後、山根入口、杉谷橋、松ヶ浜公民館の三か所で、降車ボタンが鳴った。

そのたびに江藤は停車し、扉を開けた。

誰も見えなかった。

だが、扉が開くたび、車体が少しずつ軽くなった。

終点へ着いたとき、端末には乗車二、降車六と表示されていた。

四人多く降りている。

江藤はエンジンを切り、車内を確認した。

座席の下。

最後部。

荷物置き場。

何もない。

忘れ物もなかった。

ただ、一番後ろの座席に、朝捨てたはずの枯れ葉が落ちていた。

江藤は拾い上げた。

葉は乾いておらず、雨に濡れたように冷たかった。

その日の運行を終え、江藤は会社の営業所へ報告した。

「降車ボタンと運行端末の故障だと思います」

所長の山倉は、整備担当者を呼んだ。

車両の配線、ボタン、端末を確認した。

異常は見つからなかった。

「ボタンの接点が一時的に誤作動したんでしょう」

整備担当者は言った。

「古い車ですから」

「車体が軽くなる感じもした」

江藤が言うと、整備担当者は笑った。

「空気ばねの調整ですよ。乗客がいなくても、路面の傾きで車高は変わります」

江藤はそれ以上何も言わなかった。

翌日の第一便。

始発時点の乗客はゼロ。

旧郵便局前で、降車ボタンが鳴った。

潮見小学校前でも鳴った。

診療所前。

杉谷橋。

廃止された市場前。

一度も誰かが乗らないまま、五人が降りた。

三日目には七人。

四日目には九人。

降車する停留所は、日によって違った。

しかし、共通点があった。

降車ボタンが鳴る場所は、かつて何かが存在していた場所だった。

潮見小学校前。

旧郵便局前。

市場前。

紡績工場跡。

産婦人科医院前。

青葉団地北口。

漁業組合倉庫前。

海浜劇場前。

名前だけが残っている停留所もあれば、停留所自体が移設され、昔の場所から数十メートル離れているものもあった。

江藤は古い路線図を営業所で探した。

書庫の奥に、昭和五十八年の民間バス会社の時刻表が残っていた。

現在の町営バスとは違い、路線は海岸線、山側線、駅前循環線の三系統に分かれていた。

停留所は全部で五十二か所。

江藤は現在の路線図と重ねた。

降車ボタンが鳴った場所の多くは、廃止された停留所の近くだった。

潮見小学校前ではなく、昔の「小学校裏門前」。

旧郵便局前ではなく、「銀座通り」。

市場前ではなく、「魚市場西口」。

杉谷橋ではなく、「製材所前」。

現在の停留所名と、降りる場所が少しずつずれている。

まるで、見えない乗客たちは、昔の路線図を使っているようだった。

江藤は、運転日報へ正確に記録することにした。

十月二日、見えない降車四人。

十月三日、五人。

十月四日、七人。

十月五日、九人。

所長は、その書き方を見て顔をしかめた。

「見えない降車という項目はありません」

「実際に端末へ数字が出ています」

「端末が故障しているなら、故障と書いてください」

「整備では異常なしでした」

「では、入力ミスです」

「私は入力していません」

所長は鉛筆を置いた。

「江藤さん。こういう記録が町へ提出されたら困ります。町営バスは来年度の継続がまだ決まっていないんです」

潮見町営バスは、毎年多額の赤字を出していた。

運賃収入だけでは、燃料費にも届かない。

車両更新の時期も近い。

町議会では、予約制の乗合交通へ切り替える案や、路線を半分に縮小する案が議論されていた。

利用者が少ないことは、誰もが知っている。

乗車人数が減れば、廃止の理由になる。

一方で、降車人数だけが増えるという記録は、説明のしようがなかった。

「数字が合わないものを、そのまま出すわけにはいきません」

所長は言った。

「乗った人数と降りた人数は、原則として一致させてください」

「乗っていない人を、乗ったことにするんですか」

「故障による補正です」

「どの停留所から乗ったことにすればいいんです」

所長は答えなかった。

「始発から乗っていたことにしてください」

しばらくして、所長は言った。

「始発時点で車内にいた、と処理すれば数字は合います」

「車庫からですか」

「町役場前からです」

「誰もいませんでした」

「実際の人間の話ではなく、帳簿上の処理です」

江藤は日報を持って営業所を出た。

始発から乗っていたことにする。

見えない者たちは、どこから乗ったのか。

江藤はその疑問を考えたことがなかった。

降りる場所ばかり気にしていた。

乗った場所は、もっと前にあるのかもしれない。

現在の路線が始まる前。

バスが車庫へ入る前。

町営バスになる前。

あるいは、江藤が運転するずっと前から、彼らは乗り続けていたのかもしれない。

十月八日、第一便。

江藤は車庫でエンジンをかけた後、すぐには出発しなかった。

車内を一周した。

誰もいない。

運転席へ戻り、すべての扉を閉めた。

運行端末を初期化する。

乗車ゼロ。

降車ゼロ。

その隣に、車両総重量が表示されている。

通常、乗客を含まない状態の重量は、およそ五千六百キログラムだった。

表示は、六千四百八十キログラム。

約八百八十キログラム重い。

一人六十キログラムとすれば、十四人から十五人分。

江藤は息を止めた。

車内には誰もいない。

座席も空だ。

だが車両は、ほぼ満員に近い重さだった。

江藤は運転席に座った。

バックミラーに、空の座席が映っている。

その一番後ろに、誰かが座っているような気がした。

黒い影ではない。

輪郭もない。

ただ、座席の布地がわずかに沈んでいる。

隣の座席も。

その前も。

通路側も。

江藤は始発時刻まで待った。

午前六時四十分。

町役場前を発車した。

その日のバスは、いつもより重かった。

加速が鈍く、坂道ではエンジン音が高くなった。

最初の降車は、中央公民館前だった。

ポーン。

扉を開ける。

車両重量が六十七キログラム減った。

二人目は、旧郵便局前。

五十四キログラム減少。

三人目は、潮見小学校前。

二十一キログラム。

子ども一人分だった。

江藤はハンドルを握る手に力を入れた。

閉校した校舎の窓に、朝日が反射している。

誰もいないはずの二階の窓に、小さな影が並んで見えた。

黄色い帽子。

白いシャツ。

赤いランドセル。

バスが動き出すと、影は消えた。

魚市場西口跡で、七十三キログラム。

産婦人科医院前で、五十八キログラム。

紡績工場跡で、六十一キログラム、五十九キログラム、五十二キログラム。

三人続けて降りた。

扉の外には、草に覆われた工場跡地が広がっていた。

かつて五百人以上が働いていた工場は、二十年前に閉鎖された。

江藤は現役時代、この停留所で毎朝多くの従業員を降ろした。

制服姿の女性たち。

作業着の男性。

遅刻しそうになって走る若者。

夜勤を終え、眠そうな顔で乗り込む者。

工場がなくなった日、バス停も廃止された。

路線図から名前が消えた。

その日を境に、誰もそこで降りなくなったはずだった。

ポーン。

再びボタンが鳴った。

江藤はまだ扉を閉めていなかった。

車両重量が四十八キログラム減った。

さらに六十三キログラム。

五十六キログラム。

次々に人が降りていく。

空の通路を、見えない足音が進んでいるようだった。

車体が一人分ずつ浮き上がる。

扉の外の草が、人が通る幅だけ左右に倒れていく。

江藤は運転席に座ったまま、帽子を取った。

誰に対してか分からなかった。

それでも、長年乗せてきた客を最後に見送るように、頭を下げた。

重量表示が五千六百二十キログラムになったところで、降車は止まった。

あと一人分ほど重い。

江藤は扉を閉めた。

終点の松ヶ浜公民館まで、降車ボタンは鳴らなかった。

終点には誰もいなかった。

江藤は停車し、扉を開けた。

「終点です」

誰もいない車内へ向かって言った。

反応はない。

「終点ですよ」

もう一度言った。

車両重量は五千六百二十キログラムのままだった。

二十キログラムほど重い。

子どもかもしれない。

荷物かもしれない。

機器の誤差かもしれない。

江藤は運転席を立ち、車内を後ろへ歩いた。

座席を一つずつ見る。

誰もいない。

一番後ろの窓側の席まで来たとき、座面に浅いへこみがあった。

江藤は向かい側の座席へ座った。

「どこで降りるんだ」

声に出して尋ねた。

返事はない。

「終点まで来たぞ」

窓の外には、松ヶ浜公民館がある。

公民館は今年度末で閉鎖される予定だった。

利用者が減り、耐震補強に費用がかかるためである。

その隣には、かつて保育所があった。

今は更地になり、防草シートの上に雨水がたまっている。

江藤は古い路線図を取り出した。

昭和五十八年の終点は、松ヶ浜公民館ではなかった。

路線はさらに山側へ三・八キロメートル続いている。

最終停留所の名前は、「霧生分校前」。

霧生分校は四十年以上前に閉校していた。

道路は今も残っているが、町営バスの運行区間には含まれていない。

江藤は運転席へ戻った。

会社へ連絡すべきだった。

決められた路線を外れることは認められていない。

乗客がいない以上、行く理由もない。

しかし、車両重量は二十キログラム重いままだった。

江藤は方向指示器を出した。

バスは終点を越え、山側の旧道へ入った。

道幅は狭く、両側から木の枝が張り出していた。

舗装には亀裂が入り、落ち葉が積もっている。

路線バスが走った形跡はない。

江藤はゆっくり進んだ。

古い電柱。

空き家。

崩れかけた石垣。

小さな墓地。

集落には人の姿がなかった。

かつて霧生地区には、百人以上が暮らしていた。

今では住民登録上、三世帯五人だけになっている。

その五人も高齢で、冬の間は町外の家族宅や施設へ移ることが多かった。

十分ほど走ると、錆びた標識が見えた。

「霧生分校前」

文字はほとんど消えている。

停留所の柱は傾き、草に埋もれていた。

江藤はバスを止めた。

降車ボタンは鳴らない。

「着いたぞ」

扉を開けた。

何も起きなかった。

車両重量は二十キログラム重いまま。

江藤はエンジンを切った。

辺りが静かになった。

風が木の葉を揺らす音。

遠くの沢の音。

バスの金属部品が冷えて鳴る音。

その中に、小さな呼吸音が混じった。

後ろからだった。

江藤は振り返った。

最後部の座席に、少年が座っていた。

十歳くらいだった。

白い半袖のシャツ。

紺色の半ズボン。

膝の上に、古い革製の鞄を置いている。

少年は窓の外を見ていた。

江藤は声を出せなかった。

少年の姿は透けていない。

影もある。

座席も確かに沈んでいる。

どこにでもいる子どものようだった。

「ここでいいのか」

江藤が尋ねた。

少年はうなずいた。

「いつ乗った」

少年は答えなかった。

「名前は」

しばらくして、少年は言った。

「分からない」

「家はどこだ」

少年は窓の外を指さした。

分校跡の奥に、一本の細い道が続いている。

「帰るのか」

「帰るところがなくなったから、降りられなかった」

少年の声は、ひどく静かだった。

「家はなくなったのか」

「家も、学校も、停留所も、全部なくなった」

「それで、ずっと乗っていたのか」

少年はまたうなずいた。

「ほかの人たちは」

「降りる場所が残っていた」

少年は革の鞄を抱え直した。

「学校だった場所、働いていた場所、病院だった場所。建物がなくても、名前が残っていれば降りられる」

「ここにも名前は残っている」

江藤は錆びた停留所標識を見た。

「今日まで、バスが来なかった」

少年は言った。

「バスが来なければ、停留所ではない」

江藤は運転席から立ち、扉の横へ移動した。

「降りられるか」

少年は座席から下りた。

通路を歩く。

靴音はしなかった。

前扉の前で立ち止まり、江藤を見上げた。

「もう一度、来ますか」

「ここへか」

「はい」

江藤は答えに迷った。

町営バスの路線ではない。

会社にも町にも無断で走っている。

道路状況も悪い。

明日も来られると約束できない。

しかし江藤は言った。

「来る」

少年は小さく笑った。

「誰も乗らなくても」

「誰も乗らなくても来る」

少年はバスを降りた。

車両重量が二十キログラム減った。

表示は五千六百キログラム。

完全な空車重量になった。

少年は分校跡へ続く道を歩いていった。

途中で一度振り返った。

江藤が手を上げると、少年も手を上げた。

木々の間へ入り、姿が見えなくなった。

江藤は営業所へ戻った。

予定より四十五分遅れていた。

所長は激しく怒った。

「どこへ行っていたんですか」

「霧生分校前です」

「運行区間外ですよ」

「客を降ろしました」

「誰を」

江藤は答えなかった。

運行端末の記録を提出した。

乗車人数ゼロ。

降車人数十五。

始発時車両重量六千四百八十キログラム。

終点到着時五千六百二十キログラム。

霧生分校前到着後、五千六百キログラム。

所長は何度も画面を確認した。

「こんな記録は出せません」

「機械が記録した数字です」

「乗車ゼロで、十五人降りるわけがないでしょう」

「私もそう思います」

「では、故障です」

「故障なら、修理してください」

整備担当者が呼ばれた。

重量計測装置を確認した。

異常はなかった。

端末も正常だった。

その日の午後、町の交通担当者が営業所へ来た。

江藤は事情を聞かれた。

見えない乗客のことは話さなかった。

古い停留所で降車反応が出たこと。

車両重量が一人分ずつ減ったこと。

霧生分校前で最後の二十キログラムが消えたこと。

事実だけを話した。

担当者は困惑した顔でメモを取った。

「霧生分校前という停留所は、現在の台帳にはありません」

「古い路線図にはあります」

「廃止日は昭和六十年三月三十一日です」

「その翌日から、バスは一度も行っていないんですか」

「正式な路線としては」

「四十年以上」

担当者は書類を閉じた。

「江藤さん。これは運行上の重大な問題です。今後、許可なく路線外へ出ないでください」

「分かりました」

「今日の記録は機器異常として処理します」

「十五人はどうしますか」

「削除します」

「降りた人たちをですか」

担当者は江藤を見た。

「数字をです」

翌日、江藤は通常どおり第一便を運転した。

車庫での重量は五千六百キログラム。

見えない乗客はいなかった。

町役場前。

中央公民館前。

旧郵便局前。

降車ボタンは鳴らない。

潮見小学校前でも鳴らなかった。

町営バスは、本来の静かな路線へ戻っていた。

実際の乗客が三人乗り、三人降りた。

乗車数と降車数は一致した。

その翌日も。

その次の日も。

すべての数字が合っていた。

江藤は毎朝、車両重量を確認した。

五千六百キログラム。

空車。

誰も乗っていない。

一週間後、潮見町議会の全員協議会で、町営バスの縮小案が示された。

第一便と第六便を廃止する。

山側区間を予約制に変更する。

利用者の少ない八つの停留所を廃止する。

その中には、潮見小学校前、旧郵便局前、紡績工場跡、松ヶ浜公民館前が含まれていた。

江藤は営業所の掲示板で資料を読んだ。

降りる場所が、またなくなる。

建物が消え、名前が消え、バスが止まらなくなる。

そうなれば、まだ乗り続けている者たちは、どこで降りればよいのか。

十月二十一日。

第一便。

車庫でエンジンをかけた。

車両重量は、六千七百二十キログラムだった。

前回より重い。

十八人乗りの小型バスに、ほぼ定員いっぱいの重量が加わっている。

座席は空だった。

だが、バックミラーに映る窓ガラスが、乗客の息で曇っていた。

一枚ずつ、曇りが広がっていく。

江藤は運行端末を見た。

乗車人数の欄には、ゼロではなく、文字が表示されていた。

「始発以前」

江藤はゆっくりバスを発車させた。

町役場前には誰もいなかった。

定刻になり、扉を開けた。

一人も乗らない。

江藤はマイクのスイッチを入れた。

「お待たせしました。潮見町営バス、松ヶ浜公民館行きです」

空の車内へ声が流れた。

「停車する場所は、古い停留所を含みます」

運行端末が警告音を鳴らした。

登録された路線から外れる予定が入力されたためだった。

江藤は警告を解除した。

「降りる方は、ボタンを押してください」

扉を閉めた。

バスは走り出した。

旧郵便局前で一人。

潮見小学校前で三人。

魚市場西口跡で二人。

産婦人科医院前で一人。

紡績工場跡で五人。

廃止された海浜劇場前で四人。

青葉団地北口で二人。

停留所の名前が残っている場所。

標識だけが残っている場所。

道路拡張で跡形もなくなった場所。

そのすべてで、降車ボタンが鳴った。

扉を開けるたび、風景の中に一瞬だけ昔の建物が現れた。

市場の屋根。

学校の窓。

映画館の看板。

工場の煙突。

診療所の白い壁。

買い物袋を下げた人。

制服姿の子ども。

作業着の若者。

乳児を抱く母親。

江藤には、それらがはっきり見えた。

扉を閉めると、現在の空き地や閉鎖された建物へ戻った。

終点の松ヶ浜公民館へ着いた時、車両重量は五千八百キログラムだった。

まだ二百キログラム重い。

江藤はそのまま旧道へ入った。

霧生分校前へ向かった。

停留所には、あの少年が立っていた。

今度は一人ではなかった。

少年の後ろに、十人ほどの子どもが並んでいる。

皆、古い鞄や布製の手提げを持っていた。

江藤は停車し、扉を開けた。

「乗るのか」

少年は首を横に振った。

「今日は降りる人を待っています」

車内で降車ボタンが鳴った。

ポーン。

最初に、七十キログラム減った。

次に、五十五キログラム。

四十八キログラム。

二十七キログラム。

最後に、車両重量が五千六百キログラムになった。

扉の外には、子どもたちに加えて、大人の姿があった。

教師らしい女性。

作業着姿の男性。

白い割烹着を着た女性。

杖をついた老人。

誰も江藤を見なかった。

彼らは分校跡へ続く道を歩いていった。

少年だけが残った。

「もう、みんな降りました」

「本当に全員か」

「今日の人は」

「まだ乗っている人がいるのか」

少年は町の方角を見た。

「町がなくしたものの数だけ、います」

「それでは、いつまでも終わらないな」

「町は、毎日何かをなくします」

江藤は運転席に座ったまま、しばらく黙っていた。

「この路線は、なくなるかもしれない」

少年は驚かなかった。

「バスがなくなったら、どうなる」

「降りられなくなります」

「では、乗ったままか」

「町がどこにあったか、分からなくなるまで」

少年は一歩下がった。

「また来ますか」

江藤は答えた。

「来る」

「誰も乗らなくても」

「誰も乗らなくても走る」

少年は笑った。

バスの扉が閉まった。

江藤は町へ戻った。

営業所では、所長と町の担当者が待っていた。

路線外運行を繰り返したため、江藤はその日から乗務を外された。

始末書を書き、事情聴取を受けた。

運行端末の記録は、また機器異常として削除された。

車両重量の変化も、計測誤差とされた。

江藤は反論しなかった。

一か月後、町営バスの運行縮小が正式に決まった。

翌年四月から、第一便は廃止。

八つの停留所がなくなる。

霧生分校前へ路線が延びることはなかった。

江藤は年度末で会社を退職した。

最後の乗務日。

三月三十一日。

第一便の始発前、江藤は車庫で車両重量を確認した。

五千六百キログラム。

完全な空車だった。

町役場前へ行く。

誰も待っていない。

定刻になった。

江藤は扉を開けた。

しばらく待った。

誰も乗らない。

それでも、車内のすべての座席が少しずつ沈んだ。

車両重量の数字は変わらなかった。

江藤はマイクを入れた。

「おはようございます」

自分の声が、空の車内へ響いた。

「本日、第一便は最後の運行となります」

窓ガラスが白く曇った。

小さな手の跡が一つ現れた。

次に、大人の手の跡。

指の細いもの。

太いもの。

幾つもの手形が、窓一面に浮かび上がった。

「長い間、ご利用ありがとうございました」

江藤は言った。

発車時刻になった。

バスはゆっくり動き始めた。

その日の第一便では、降車ボタンは一度も鳴らなかった。

潮見小学校前。

旧郵便局前。

紡績工場跡。

松ヶ浜公民館前。

どこでも誰も降りなかった。

終点へ着いても、座席のへこみは戻らなかった。

江藤はエンジンを切らず、そのまま旧道へ入った。

誰にも連絡しなかった。

霧生分校前を越え、さらに山道を進んだ。

古い路線図にもない道だった。

舗装は途中で終わった。

それでもバスは進んだ。

木々の間を抜けると、広い場所へ出た。

そこには、潮見町から消えた建物が並んでいた。

潮見小学校。

魚市場。

紡績工場。

海浜劇場。

旧診療所。

郵便局。

木造の駅舎。

商店街。

霧生分校。

どの建物も新しくはなかった。

人が使っていた最後の日の姿で、静かに残っていた。

建物の間には、大勢の人が立っていた。

江藤の知っている顔もあった。

亡くなった利用者。

町を出た若者。

工場で働いていた人。

学校へ通っていた子ども。

バスを待ち続けた老人。

誰も手を振らなかった。

ただ、バスが来るのを当然のように待っていた。

降車ボタンが鳴った。

一つ。

また一つ。

車内のすべてのボタンが、順番に光った。

ポーン。

ポーン。

ポーン。

江藤は停車した。

扉を開けた。

座席のへこみが、一つずつ戻っていく。

誰かが降りるたび、窓の曇りが消えた。

最後に、後部座席の小さな手形が残った。

少年が通路を歩いてきた。

「ここが終点か」

江藤は尋ねた。

少年は答えた。

「ここは、なくならなかった町です」

「地図にはない」

「地図から消えたから、ここにあります」

少年は扉の前で止まった。

「運転手さんは、戻りますか」

江藤は運転席から外を見た。

消えた町の人々が、静かにこちらを見ている。

遠くで、朝の放送を知らせる音楽が流れた。

潮見町で、かつて正午に流れていた曲だった。

「戻らないと、バスがなくなる」

江藤は言った。

「バスは、町に必要ですか」

「乗る人がいれば」

「乗る人がいなくても走ると言いました」

江藤は笑った。

「そうだったな」

少年はバスを降りた。

最後の手形が消えた。

車内は完全に空になった。

江藤は扉を閉めた。

ミラーを確認する。

方向指示器を出す。

バスをゆっくり転回させた。

消えた町の人々は、道の両側に並んでいた。

江藤が手を上げると、大勢が同時に頭を下げた。

バスは来た道を戻った。

車庫へ到着したのは、予定より一時間二十三分遅れだった。

所長は江藤を叱らなかった。

最後の日だったからではない。

江藤が戻った時、車両の走行距離計は、出発前と同じ数字を示していた。

燃料も減っていなかった。

運行端末には、通常の路線を定刻どおり走った記録だけが残っていた。

乗車、ゼロ。

降車、ゼロ。

遅延、なし。

異常、なし。

江藤は制服を返し、営業所を出た。

四月一日から、第一便はなくなった。

午前六時四十分の町役場前には、バスが来なくなった。

それでも、近隣の住民は時折、不思議な音を聞いた。

まだ暗い早朝。

誰もいないバス停で、降車ボタンの音がする。

ポーン。

その直後、見えない扉が開くような空気の動きがあり、舗道の草が一人分だけ踏まれる。

潮見小学校前。

旧郵便局前。

紡績工場跡。

松ヶ浜公民館前。

廃止された停留所では、毎朝少しずつ、誰かが降り続けた。

町の交通統計では、その後も利用者数が減り続けた。

乗車人数は、正確に記録された。

降車人数も、乗車人数と必ず一致した。

帳簿上の誤差は、一度も発生しなかった。

ただし、廃止された第一便の時刻になると、車庫の奥に止められたバスの車両重量が、一人分ずつ軽くなった。

誰も乗っていないのに。

一人。

また一人。

町から消えたものが、ようやく自分の降りる場所を見つけたように。

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注記

この物語はフィクションです。

現実の住民基本台帳人口は、住民一人ひとりの記録を積み上げて集計されます。そのため、出生、死亡、転入、転出、訂正などの理由がないまま、人口が自然に一人だけ増えることは通常ありません。

実際に人口数が一致しない場合には、集計時点の違い、届出や処理の遅れ、入力・転記上の誤り、統計の定義の違いなど、何らかの行政上または技術上の理由があります。

本作は、そうした現実の制度を土台にしながら、数字の中に説明できない一人が現れたとしたら、という仮定から生まれた幻想小説です。


九月最初の月曜日、午前八時十三分。

潮見町役場の地域政策課で、村瀬修一は人口異動表を印刷した。

複合機から吐き出された紙には、まだ機械の熱が残っていた。村瀬は用紙の端を指でつまみ、自席へ戻った。

窓の外には、低い雲が海の方角から押し寄せていた。役場の駐車場では、塩気を含んだ風が二本の町旗を力なく揺らしている。

人口異動表は、毎月最初の開庁日に確認する。

前月末人口、出生、死亡、転入、転出、その他増減。数字を順番に追い、合計が一致していることを確かめる。村瀬にとっては三十年以上続けてきた習慣だった。

人口の減少は、もはや珍しいことではない。

潮見町では、毎月五人、十人、多い月には二十人近く人口が減った。出生が一人か二人である一方、死亡は十人を超える。転入者があっても、それ以上に転出者が出る。

昔は人口の増減に一喜一憂した時期もあったが、今では減ること自体よりも、どの程度の速さで減っているかを確認する作業になっていた。

村瀬は表の上段から数字を指でなぞった。

前月末人口、七千八百四十二。

出生、〇。

転入、三。

死亡、四。

転出、六。

その他増減、〇。

計算すれば、月末人口は七千八百三十五になる。

ところが、表の最下段には七千八百三十六と記されていた。

村瀬は指を止めた。

もう一度、計算した。

七千八百四十二に三を足し、四を引き、六を引く。

七千八百三十五。

印刷された月末人口は、七千八百三十六。

一人多い。

村瀬は卓上の計算機を引き寄せた。わざわざ使うほどの計算ではなかったが、念のため数字を入力した。

結果は同じだった。

七千八百三十五。

「また転記か」

独り言を言い、村瀬は庁内システムへログインした。

人口統計の画面を開く。処理日、異動区分、年齢、性別、地区。前月に行われた登録処理を一件ずつ確認した。

出生はない。

転入が三人。

死亡が四人。

転出が六人。

職権記載なし。

職権消除なし。

国籍取得、国籍喪失、帰化、国外からの転入、国外への転出、いずれにも該当者はいなかった。

一覧の最下部には、確かに月末人口七千八百三十六と表示されている。

村瀬は画面を閉じ、もう一度開いた。

数字は変わらなかった。

午前八時三十分になると、庁内放送が流れた。

「おはようございます。本日も住民の皆さまに丁寧で分かりやすい対応を心がけてください」

いつもと同じ声だった。

職員たちが次々に出勤し、椅子を引く音や書類を置く音が課内に広がった。電話が鳴り始め、窓口には最初の来庁者が現れた。

村瀬は表を裏返し、机の右端へ置いた。

入力上の問題だろうと思った。

人口統計の不一致など、過去にもなかったわけではない。異動日と届出日の混同、処理区分の誤選択、月末締め後の訂正、集計プログラムの反映遅れ。

一人という差は、むしろ事務上よくありそうな大きさだった。

問題なのは、原因がすぐに見つからなかったことだけである。

午前十時を過ぎた頃、村瀬は住民課へ内線をかけた。

「地域政策課の村瀬です。先月末の人口について、少し確認したいことがありまして」

電話に出たのは、住民記録担当の早坂だった。

早坂は三十代半ばで、異動処理に慎重な職員だった。

「人口ですか」

「異動数から計算すると、一人合わないんです」

「一人多いんですか、少ないんですか」

「多いです」

受話器の向こうでキーボードを打つ音がした。

「少々お待ちください」

村瀬は窓の外を見た。

午前の雲は薄くなり、国道沿いの海が細い銀色の線になって見えた。

「村瀬さん」

「はい」

「こちらの締めでは合っています。前月末七千八百四十二、月末七千八百三十六です」

「異動を足し引きすると七千八百三十五になりませんか」

「なりますね」

早坂の声が少し低くなった。

「その他増減は」

「ゼロです」

「訂正処理も」

「見当たりません」

再びキーボードの音が続いた。

「こちらで調べます。システム担当にも確認してみます」

「お願いします」

電話を切ると、村瀬は人口異動表を表に返した。

七千八百三十六。

印刷された数字を見ても、特に異常な感じはしなかった。一人多いと言っても、町の人口全体から見れば約〇・〇一パーセントにすぎない。

町民のほとんどは気づかない。

町長も、議員も、新聞記者も気づかないだろう。

人口減少対策の会議で資料を配っても、七千八百三十五と七千八百三十六の違いを問題にする者はいない。

人口は減っている。

その事実に変わりはなかった。

しかし村瀬には、一人という数字が小さいとは思えなかった。

一人は、一人である。

出生届一件。

死亡届一件。

転入届一件。

転出届一件。

役場では、一人の増減が一枚の書類として現れる。その紙には氏名があり、生年月日があり、住所がある。

一人が増えたなら、誰かがいるはずだった。

昼休み前、早坂から内線が入った。

「原因が分かりません」

「システムの問題ではないんですか」

「集計プログラムも確認してもらいました。個人記録の件数が、実際に七千八百三十六件あるそうです」

「では、一人分の記録がある」

「あるはずなんですが」

早坂はそこで言葉を切った。

「住民記録を個別に数えると七千八百三十六件です。ただ、異動履歴を追うと七千八百三十五人にしかならない」

「重複登録は」

「ありません」

「削除漏れは」

「ありません」

「では、どこから一人出てきたんですか」

「それが分からないんです」

早坂は、冗談を言っているような声ではなかった。

午後、住民課と情報管理担当を交えた確認作業が行われた。

会議室の長机に、人口表、異動者一覧、地区別人口表、年齢別人口表が並べられた。

情報管理担当の三谷がノートパソコンを開き、画面を大型モニターへ映した。

「まず、総人口は七千八百三十六です」

三谷は言った。

「これは住民記録データベースに存在する有効なレコード数です。無効化された記録、転出予定、削除済みの記録は除いています」

「男女別は合っていますか」

村瀬が尋ねた。

「男性三千七百二十一、女性四千百十五。合計七千八百三十六です」

「前月との差は」

「男性が三人減、女性が三人減です」

村瀬は手元の異動者一覧を見た。

男性は、転入一、死亡二、転出三。

差し引き四人減るはずだった。

女性は、転入二、死亡二、転出三。

差し引き三人減。

男性が一人多い。

「男性ですか」

「そうなります」

「年齢は」

三谷が画面を切り替えた。

年齢別人口の一覧が表示された。

〇歳から百歳以上まで、男女別の人数が並んでいる。

「全ての年齢階級を合計すると七千八百三十五になります」

三谷は言った。

「総人口と一致しません」

会議室が静かになった。

「年齢が設定されていない記録があるんですか」

早坂が尋ねた。

「検索上はありません。生年月日が空欄の有効レコードもありません」

「地区別では」

地区別人口を合計すると、七千八百三十五だった。

世帯別人口を合計しても、七千八百三十五だった。

外国人住民を含めても、除いても、一人分の説明はつかなかった。

「つまり」

村瀬は言った。

「総人口としては存在する。しかし、年齢にも、地区にも、世帯にも属していない」

三谷は腕を組んだ。

「データベースとしては、あり得ない状態です」

「でも、数字はそうなっている」

「総数の集計だけが壊れている可能性があります」

「個別レコードが七千八百三十六件あると、さっき言いませんでしたか」

「件数上は、そうです」

「その一件を表示できないんですか」

三谷は検索画面を操作した。

有効な全住民記録を一覧へ出力した。

行番号は一から始まり、七千八百三十六で終わっていた。

しかしCSV(Comma-Separated Values・項目をカンマで区切って保存するデータ形式)へ書き出し、表計算ソフトで開くと、データは七千八百三十五行しかなかった。

最終行の下には何もない。

それでも、画面左下には「七千八百三十六件」と表示されていた。

三谷は何度も条件を変えた。

結果は同じだった。

件数は七千八百三十六。

表示される住民は七千八百三十五人。

村瀬は、紙に印刷してみるよう頼んだ。

複合機から大量の用紙が出てきた。

氏名や住所を含むため、印刷物は会議室の中だけで確認し、後で裁断処理することになった。

三人で行数を数えた。

七千八百三十五人。

最後の一人は印刷されなかった。

「システム業者へ連絡します」

三谷は言った。

「データを外部へ持ち出すには手続きが必要ですが、検証用の複製環境を作れば原因は分かると思います」

会議は午後四時過ぎに終わった。

村瀬は自席へ戻り、人口異動表を机の引き出しへしまった。

翌日には原因が分かるだろう。

そう思っていた。

ところが、業者の回答は翌日にも、その次の日にも来なかった。

調査に時間がかかっているのではなく、検証環境では異常が再現しなかったのである。

データを複製すると、人口は七千八百三十五人になる。

役場の本番環境へ戻すと、七千八百三十六人になる。

サーバーを再起動しても変わらない。

集計プログラムを再導入しても変わらない。

一人は、潮見町役場のシステムの中にだけ存在していた。

「無理に直さない方がよいと思います」

金曜日の夕方、三谷は村瀬に言った。

「月末までにもう一度照合します。原因が分からない状態でデータを直接修正する方が危険です」

「国や県へ出す数字はどうするんですか」

「住民記録の件数なら七千八百三十六です」

「異動表なら七千八百三十五です」

「どちらを正とするかは、住民課と協議してください」

三谷は疲れた顔で笑った。

「人口一人で、こんなに時間を使うとは思いませんでした」

村瀬は笑わなかった。

その週の土曜日、村瀬は自宅で朝食を取りながら、町の広報紙を読んでいた。

一面には、防災訓練のお知らせが載っていた。

二面には、町の人口と世帯数が掲載されている。

前月末現在、人口七千八百三十六人。

男三千七百二十一人。

女四千百十五人。

世帯数三千九百八十二世帯。

すでに広報紙の印刷は終わっていた。

人口の一人は、町民へ公表されていた。

妻の由美子が台所から言った。

「また減ったのね」

村瀬は広報紙から顔を上げた。

「何が」

「人口。先月より六人少ない」

「よく見ているな」

「毎月載っているでしょう」

由美子は味噌汁の椀を運びながら、広報紙をのぞき込んだ。

「昔は一万人以上いたのにね」

村瀬は七千八百三十六という数字を見た。

減ったのは本当だった。

しかし、本来なら七人減るはずだったところを、六人しか減っていない。

一人が、町の減少を食い止めている。

「一人違ったら、気になるか」

村瀬は尋ねた。

「何が」

「人口が一人違ったら」

由美子は椅子に座り、少し考えた。

「一人くらいなら、数え間違いじゃないの」

「役場の人口を数え間違えると思うか」

「人がやることなら、間違えることもあるでしょう」

「その一人にとっては、数え間違いでは済まない」

由美子は怪訝そうに村瀬を見た。

「何の話をしているの」

村瀬は「仕事の話だ」とだけ答えた。

翌週、村瀬は人口以外の統計を調べ始めた。

最初は原因を特定するためではなかった。

一人多いという数字が、他の資料に何か影響していないかを確認したかっただけである。

国民健康保険の被保険者数。

介護保険の被保険者数。

選挙人名簿登録者数。

水道契約件数。

ごみ収集量。

学校の児童生徒数。

いずれも住民基本台帳人口とは直接一致しない。年齢条件があり、加入条件があり、世帯単位のものもある。

当然、一人分の差など簡単には見つからなかった。

しかし村瀬は、町営バスの利用実績を見たとき、手を止めた。

潮見町では、高齢者や通院者の移動手段として、一日六便の小型バスを運行している。

前月の利用者数は、千二百四十一人。

運行記録に残る乗車人数を便ごとに合計すると、千二百四十人だった。

一人多い。

村瀬は担当課へ行き、原票を見せてもらった。

運転手は各停留所で乗車人数を記録し、終点で一日の合計を記入する。

日別の合計を足すと千二百四十人。

月次集計表では千二百四十一人。

「単なる集計ミスですね」

担当者は言った。

「表計算の式が一行ずれているんじゃないですか」

式を確認した。

ずれていなかった。

入力された日別合計を再集計すると、なぜか千二百四十一になる。

数値を紙に書き出し、電卓で足すと千二百四十だった。

別の表計算ソフトへ貼り付けても千二百四十。

役場のファイルを元の場所で開いたときだけ、千二百四十一になる。

「人口と同じですね」

村瀬が言うと、担当者は笑った。

「まさか、同じ一人がバスに乗ったんですか」

冗談だった。

しかし村瀬は、その言葉を手帳に書いた。

同じ一人がバスに乗った。

その日の午後、村瀬は水道課を訪ねた。

町全体の使用水量は、前月より十二立方メートル増えていた。

季節変動の範囲だった。

一人分かどうか判断できる数字ではない。

ごみの収集量も調べた。

可燃ごみは前月より二百八十キログラム増えていた。観光客や連休の影響が大きく、一人分を推定することは不可能だった。

スーパーの販売量など、役場が把握できるはずもない。

診療所の受診者情報は個人情報であり、目的外に利用できない。

村瀬は、自分が何をしようとしているのか分からなくなった。

人口表の不一致を調べているだけだったはずだ。

いつの間にか、記録に現れない一人の生活を探している。

九月半ば、台風が町の沖合を通過した。

直撃は免れたが、強い雨が一晩中降った。

翌朝、町内の一部で停電が起こり、役場のシステムも一時的に停止した。

復旧後、人口は七千八百三十五人に戻っていた。

「直りましたよ」

三谷は明るい声で言った。

「停電の影響でキャッシュが消えたのかもしれません」

「原因は分かったんですか」

「完全には分かりません。ただ、現在の数字は異動表と一致しています」

年齢別人口も、地区別人口も、世帯別人口も、全て七千八百三十五人になった。

町営バスの利用者数も千二百四十人へ訂正された。

不可解な一人は消えた。

村瀬は安堵した。

県へ提出する人口報告も、正しい数字で作成できる。

広報紙だけは七千八百三十六人と掲載済みだったが、翌月号で訂正すれば済む。

その日の夕方、村瀬は役場を出た。

雨上がりの空は低く、道路には枯れ葉と小枝が散らばっていた。

庁舎前のバス停に、一人の男が立っていた。

年齢は六十代にも、七十代にも見えた。

薄い灰色の上着を着て、黒い布製の鞄を持っている。

村瀬は男の横を通り過ぎ、駐車場へ向かった。

間もなく町営バスが来た。

バスは停留所の手前で減速したが、止まらずに通過した。

男は手を上げなかった。

運転手も男に気づかなかったようだった。

村瀬は足を止めた。

「乗らないんですか」

男は答えなかった。

雨で濡れた時刻表を見上げている。

「次は一時間後ですよ」

村瀬がもう一度声をかけると、男はようやく顔を向けた。

見覚えのない顔だった。

町内で三十年以上働いていても、全ての町民を知っているわけではない。知らない人がいて当然だった。

「町の方ですか」

村瀬は尋ねた。

男は少し考えてから言った。

「そうだったと思います」

不思議な答えだった。

「住所はどちらですか」

「住所」

男はその言葉を確かめるように繰り返した。

「住所が必要ですか」

「バスに乗るだけなら必要ありませんが」

「人口に入るには必要ですか」

村瀬は男を見た。

台風の後の冷たい風が、濡れた道路を渡ってきた。

「何の話ですか」

「私がどこにいることになっているか、分からなくなりました」

男は黒い鞄を両手で持ち直した。

「家はあるんですか」

「家だったものはあります」

「住民票は」

「昔はありました」

「今は」

男は首を傾げた。

「消したのは、あなたではありませんか」

村瀬の背中に冷たいものが走った。

「私は住民記録を消す仕事はしていません」

「でも、数字から一人を消したでしょう」

村瀬は何も答えられなかった。

男は穏やかな声で続けた。

「私は一人ではありません」

役場の玄関から、職員が数人出てきた。

彼らは村瀬の近くを通ったが、男には目を向けなかった。

「どういう意味ですか」

「町を出た人。施設へ移った人。届けを出さずに暮らしている人。家だけ残して死んだ人。ここに住んでいるのに、別の町に数えられている人。別の町で暮らしているのに、まだここに数えられている人」

男の声は風の音に混じった。

「私たちは、どこにもぴったり入りません」

「あなたは誰なんですか」

「七千八百三十六人目でした」

男はそう言った。

遠くから、海鳴りのような低い音が聞こえた。

村瀬が一歩近づくと、男の輪郭が少し薄く見えた。

雨雲の下で光が変わっただけかもしれない。

「名前を教えてください」

「名前は、それぞれにあります」

「あなたの名前です」

「一人分にまとめられた者に、一つの名前が必要でしょうか」

男は時刻表から目を離した。

「あなたたちは、人数が合えば安心する」

村瀬は反論しようとした。

数字を合わせることは仕事である。

統計が正しくなければ、予算も計画も政策も成り立たない。学校、病院、道路、福祉、公共交通。全ては人数をもとに組み立てられる。

「数字が正しくなければ困るんです」

「正しい数字とは、何ですか」

男は尋ねた。

「一人ずつ数えた数字です」

「数えられなかった人は、一人ではありませんか」

村瀬は答えられなかった。

次のバスが来るまで一時間あるはずだった。

しかし、坂の向こうから小型バスが現れた。

行先表示は消えていた。

車内の照明もついていない。

バスはゆっくり停留所へ近づき、今度は男の前で止まった。

扉が開いた。

運転席に人影はなかった。

男は村瀬へ一礼し、バスへ乗った。

車内には誰もいない。

男が最後部の座席へ座ると、扉が閉まった。

バスは音もなく発車した。

村瀬は道路へ出て、後を追うように数歩歩いた。

バスは交差点を曲がらず、そのまま海へ向かう細い道へ進んだ。

その先は、十年前に廃止された旧道だった。

台風による崖崩れで通行止めになっている。

村瀬が角まで走ったとき、バスの姿はなかった。

翌朝、村瀬は早く役場へ行った。

庁舎には清掃員しかいなかった。

自席のパソコンを起動し、人口統計の画面を開いた。

総人口は七千八百三十五人。

異常はない。

村瀬は前月の人口表を開いた。

七千八百三十六という数字は消え、七千八百三十五に修正されていた。

変更履歴を確認した。

修正者の欄には、村瀬修一と表示されていた。

修正時刻は、昨日の午後六時十二分。

男と話していた時刻だった。

村瀬は画面を閉じた。

机の引き出しから、最初に印刷した人口異動表を取り出した。

紙の最下段には、今も七千八百三十六と印刷されていた。

村瀬は鉛筆を手に取った。

七千八百三十六の「六」に二本の線を引き、「五」と書き直そうとした。

しかし、鉛筆の先は紙の上で止まった。

一人を消せば、数字は合う。

数字が合えば、仕事は終わる。

では、消された一人はどこへ行くのか。

村瀬は別の紙を取り出した。

町内人口の空欄へ、地区名を書いた。

「未定」

年齢欄にも「未定」と書いた。

住所欄には何も書かなかった。

その下に、人数を記入した。

一。

正式な帳票ではなかった。

役場のどの規程にも存在しない数字だった。

村瀬はその紙を机の一番下の引き出しへ入れた。

午前八時三十分、庁内放送が流れた。

「おはようございます。本日も住民の皆さまに丁寧で分かりやすい対応を心がけてください」

窓口が開き、電話が鳴り始めた。

町は昨日までと変わらず動いていた。

正午前、町営バスの担当者から内線が入った。

「村瀬さん、ちょっと妙なことがありまして」

「何ですか」

「昨日の最終便です。乗車人数が一人合わないんです」

村瀬は受話器を握り直した。

「多いんですか」

「いえ」

担当者は言った。

「一人、少ないんです」

村瀬は窓の外を見た。

庁舎前のバス停には、誰もいなかった。

ただ、ベンチの端に黒い布製の鞄が置かれていた。

村瀬は電話を切り、階段を下りた。

外へ出ると、海から風が吹いてきた。

鞄は古く、角が白く擦れていた。持ち手には紙の札が結びつけられている。

札には、鉛筆で一文字だけ書かれていた。

「一」

村瀬が鞄を持ち上げると、見た目よりずっと重かった。

中に何が入っているのかは分からない。

留め金に手をかけたが、開けることはできなかった。

鞄の内側から、紙を一枚ずつめくるような音がした。

一枚。

また一枚。

町から消えていった人々の記録を、誰かが数えているような音だった。

村瀬は鞄を抱え、役場へ戻った。

人口表の数字は、その後、二度と狂わなかった。

潮見町の人口は、毎月、正しく減り続けた。

七千八百二十一人。

七千八百九人。

七千七百九十四人。

全ての数字が、出生、死亡、転入、転出と正確に一致していた。

それでも村瀬は、人口表を印刷するたび、最下段の余白を確認した。

そこには、印刷直後だけ、薄い鉛筆の跡のようなものが浮かぶことがあった。

数字ではなかった。

人の名前のようにも見えた。

しかし、目を近づけると消えてしまった。

定年を迎える前日、村瀬は机を整理した。

一番下の引き出しには、「未定、一人」と書いた紙が残っていた。

黒い鞄は、その日以来、開けていない。

村瀬は紙を処分せず、鞄の中へ入れた。

留め金は、今度は抵抗なく開いた。

中には何もなかった。

底に、小さな鏡が一枚置かれているだけだった。

鏡には村瀬の顔が映っていた。

その下に、細い文字が刻まれていた。

――あなたは、どこの人口に入っていますか。

村瀬は鏡を伏せ、鞄を閉じた。

翌日、町役場を退職した。

その月の人口異動表では、潮見町の人口が一人減っていた。

転出者欄にも、死亡者欄にも、村瀬の名前はなかった。

それでも数字は、正確に一人減っていた。

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