「嫌い」と言うことは悪いことなのか
現代社会では、多様性を尊重することが強く求められている。
性別。
年齢。
文化。
宗教。
家族の形。
働き方。
趣味。
価値観。
生き方。
人はそれぞれ違っていて、その違いを理由に排除したり、不当に扱ったりしてはいけない。
これは重要な原則である。
しかし、ここで一つ難しい問題が生まれる。
他者を尊重することと、「嫌い」と思わないことは同じなのか。
ある音楽が嫌い。
ある服装が苦手。
ある話し方が好きではない。
ある考え方には共感できない。
ある人とはどうしても相性が合わない。
こうした感情まで、多様性の名のもとに否定すべきなのだろうか。
もし、
「すべての違いを尊重するためには、好き嫌いを持ってはいけない」
となれば、それは現実の人間感情からかなり離れてしまう。
人間には好みがある。
快・不快がある。
美しいと思うものがある。
見苦しいと思うものもある。
千年以上前に書かれた『枕草子』は、まさにそうした人間の好き嫌いを驚くほど率直に書いた作品である。
清少納言は、
美しいもの。
心ときめくもの。
ありがたいもの。
うれしいもの。
に心を動かす。
その一方で、
にくいもの。
すさまじいもの。
興ざめするもの。
見苦しいもの。
にも敏感である。
現代から読むと、
「そんなことまで嫌うのか」
と思う箇所もある。
しかし、この率直さこそ『枕草子』の特徴でもある。
本稿では、
『枕草子』の好き嫌いを、多様性社会における「寛容」と「個人的評価」の違いから考えてみたい。
結論を先に言えば、
多様性を尊重することは、
すべてを好きになることではない。
しかし同時に、
嫌いだから排除してよい、
という意味でもない。
『枕草子』を読むと、この二つの間にある難しい境界が見えてくる。
1 『枕草子』は「好き嫌い」を隠さない文学である
『枕草子』は平安時代中期、清少納言によって書かれた随筆である。
作品には、
季節の風景。
宮廷生活。
人間関係。
衣服。
恋愛。
手紙。
儀礼。
宗教行事。
動植物。
日常の失敗。
など、非常に多くの話題が登場する。
そして特徴的なのが、
「私はこれが好き」「これは嫌い」
という評価がはっきりしていることである。
例えば「春はあけぼの」に代表される季節の美しさ。
「うつくしきもの」
「心ときめきするもの」
などには、清少納言が何に魅力を感じていたのかが表れる。
一方、
「にくきもの」
「すさまじきもの」
などでは、日常の小さな不快や、人の振る舞いへの厳しい評価が並ぶ。
つまり『枕草子』には、
客観的な百科事典のような視点ではなく、
強い主観
がある。
清少納言は世界を、
「これは良い」
「これは嫌だ」
と選びながら見ている。
そこが『枕草子』の魅力でもある。
2 「をかし」は単なる「おもしろい」ではない
『枕草子』を理解するうえで重要なのが、
「をかし」
という美意識である。
現代語の「おかしい」と同じではない。
場面によって、
趣がある。
美しい。
興味深い。
心ひかれる。
印象的である。
など複数の意味を持つ。
清少納言は、
季節。
色。
光。
衣服。
言葉。
人の振る舞い。
の中から「をかし」と感じる瞬間を拾い上げる。
ここで重要なのは、
世界を均等に見るのではなく、差を付けて見る
ということである。
すべての景色が同じではない。
すべての言葉が同じではない。
すべての行動が同じでもない。
「これは特に良い」
と選び取る。
美意識とは本来、差を付ける行為でもある。
だから、
好き嫌いを完全になくしてしまえば、
美意識そのものも成立しにくくなる。
3 清少納言は「嫌い」をかなり細かく言語化する
『枕草子』のおもしろさは、美しいものだけではない。
不快なものについても非常に具体的である。
「にくきもの」のような章段では、
日常の中で腹立たしいこと、
気に障る人の行動、
タイミングの悪さ、
気配りの不足、
などが次々に挙げられる。
現代的に言えば、
「あるある」
に近い感覚もある。
たとえば、
忙しい時に邪魔される。
期待していたのに外される。
相手が状況を読まない。
気の利かない行動をされる。
こうした不快感は、千年後の人間にも理解できる。
つまり『枕草子』は、
嫌いという感情を否定せず、むしろ細かく観察して言葉へ変換する。
ここには一つの文学的価値がある。
感情をただぶつけるのではなく、
「なぜ嫌なのか」
を言葉にするからである。
4 「嫌い」と「相手を傷つける」は同じではない
ここから現代社会へ考えを進めてみよう。
あるものを嫌いだと思うことと、
嫌いな相手を攻撃することは別である。
例えば、
ある音楽が嫌い。
ある食べ物が苦手。
ある服装が好みではない。
これは個人的な感覚である。
しかし、
その音楽を好む人を見下す。
その文化を禁止しようとする。
その人を排除する。
となれば話が変わる。
つまり、
内面の評価と、他者への行為を分ける必要がある。
多様性社会で重要なのは、
「嫌いという感情を持ってはいけない」
ことではない。
むしろ、
嫌いという感情を理由に、不当に相手の権利を奪わないこと
である。
この区別が重要になる。
5 多様性とは「何でも好きになること」ではない
多様性という言葉は、ときどき誤解される。
異なる価値観を尊重する。
異なる生活様式を認める。
異なる文化と共存する。
こうした考え方が、
「すべてを肯定しなければならない」
という意味に変わることがある。
しかし、それでは現実的ではない。
人は、
共感できない考え方を持つことがある。
苦手な文化もある。
理解できない生活習慣もある。
それでも、
相手が存在する権利まで否定しない。
これが寛容の基本的な形である。
寛容とは、
賛成すること
ではない。
好きになること
でもない。
違うと思いながら共存すること
である。
6 『枕草子』には「差別的」に見える部分もある
ただし、『枕草子』の好き嫌いをそのまま現代の多様性論へ利用することはできない。
なぜなら作品には、
身分。
年齢。
職業。
容姿。
男女関係。
などについて、現代から見れば厳しい評価や固定観念に見える部分もあるからである。
清少納言は平安宮廷社会の人物である。
身分秩序が存在する。
性別による社会的役割も現代とは大きく異なる。
宮廷文化には、
服装。
言葉遣い。
振る舞い。
教養。
に関する細かな規範があった。
だから、
『枕草子』に書かれた好き嫌い
=
現代にも通用する正しい価値判断
ではない。
重要なのは、
好き嫌いを持つこと自体と、その好き嫌いを社会的評価へ変換することを分けて読む
ことである。
7 清少納言の評価には「宮廷文化の基準」がある
清少納言の好き嫌いは、完全に個人的なものでもない。
その背後には、
宮廷社会の美意識。
身分秩序。
教養。
儀礼。
言葉遣い。
があります。
つまり、
「これは美しい」
「これは見苦しい」
という判断には、
社会的なルール
も含まれている。
例えば服装。
当時の宮廷社会では、
色の組み合わせ。
季節。
場面。
身分。
によって「ふさわしさ」が存在した。
そのため、
「好き嫌い」
と、
「社会規範」
が混ざっている。
ここが現代との違いである。
8 現代にも「好き嫌い」と社会規範は混ざっている
しかし、この問題は平安時代だけではない。
現代でも、
「私は嫌い」
と思っているだけなのか、
「社会的に間違っている」
と判断しているのか、
自分自身でも区別できていないことがある。
例えば、
若者の言葉遣いが嫌い。
新しい服装が嫌い。
特定の音楽が嫌い。
SNSの使い方が嫌い。
ここまでは個人的好みかもしれない。
しかし、
「こんな文化はなくなるべきだ」
「こういう人は社会的に劣っている」
となれば、
個人的な好みが社会的な序列へ変わっている。
つまり人間はしばしば、
自分の好みを普遍的な正しさだと錯覚する。
ここに注意が必要である。
9 「私は嫌い」と「これは悪い」は違う
多様性社会では、この区別が非常に重要になる。
「私は嫌いです」
と、
「これは悪いものです」
は同じではない。
前者は主観である。
後者は、より一般的な判断を含む。
例えば、
私は納豆が嫌いだ。
これは個人の好みである。
しかし、
納豆を食べる人は間違っている。
となれば論理が飛躍している。
価値観についても同じである。
私はある生き方を選ばない。
これは自由である。
しかし、
その生き方を選ぶ人は劣っている。
となれば、他者への評価に変わる。
自分の好みを自分の範囲にとどめられるか。
これは現代の寛容において重要な能力である。
10 清少納言は「好みを言語化する力」が非常に強い
『枕草子』のおもしろさは、
好き嫌いが強いことだけではない。
その感覚を細かく言葉にできるところにある。
単に、
「嫌い」
で終わらない。
どの瞬間が嫌なのか。
どの振る舞いが興ざめなのか。
何と何の組み合わせが美しいのか。
どんなタイミングが心地よいのか。
これを具体的に書く。
ここには現代にも参考になるものがある。
感情を言葉にすることができれば、
他人を直接攻撃せずに、自分の好みを表現できる。
「あなたが嫌い」
ではなく、
「私はこういう場面が苦手だ」
と言える。
この差は大きい。
11 好き嫌いを分析すると「自分」が見えてくる
人が何を好きかを見ると、
その人の価値観が見える。
何を嫌うかを見ても同じである。
清少納言が何を美しいと感じ、
何を興ざめだと感じたかを見ることで、
彼女がどのような世界を理想としていたのかが見えてくる。
例えば、
季節感。
細やかな配慮。
機転。
言葉の美しさ。
場面に合った振る舞い。
こうしたものに高い価値を置いている。
逆に、
鈍感さ。
場違いな振る舞い。
気の利かなさ。
期待外れ。
などに厳しい。
つまり、
嫌いなものの一覧は、裏返せば理想の一覧でもある。
これは現代人にも当てはまる。
自分が何を嫌うのかを分析すると、
自分が何を大切にしているのかが見えてくる。
12 しかし「嫌い」は自己理解だけでは終わらない
問題は、
自分の嫌悪感をどのように他人へ向けるかである。
例えば、
私は時間にルーズな人が嫌い。
という場合、
その背景には、
時間を守ることを大切にしている
という価値観がある。
ここまでは自己理解になる。
しかし、
時間にルーズな人は人間として劣っている。
となると、
評価が人格全体へ拡大している。
つまり、
一つの行動への嫌悪と、人間全体への否定を分ける必要がある。
これはSNS時代には特に重要である。
13 SNSでは「嫌い」が増幅されやすい
SNSでは、
短い言葉。
強い表現。
明確な賛否。
が広がりやすい。
「私は苦手です」
より、
「最悪だ」
「あり得ない」
「こんな人間は駄目だ」
という表現の方が注目を集めることもある。
すると、
個人的な好き嫌いが、
社会的な善悪判定へ変化しやすい。
さらに他の人が賛同すると、
「自分の嫌いは正しい」
と確信しやすくなる。
ここで、
好みの集団化
が起きる。
個人の不快感が、
集団的な攻撃へ変わる場合もある。
14 清少納言の「嫌い」は炎上とは違う
ここで『枕草子』と現代SNSを単純に同じものとしてはいけない。
清少納言が「にくきもの」を書くことと、
現代で特定の個人を名指しして集団攻撃することは違う。
作品の多くは、
日常の類型。
一般的な場面。
人間の振る舞い。
への観察である。
もちろん実在の宮廷社会や人物を背景に持つ箇所もあるが、
現代のSNSのように、
不特定多数が即座に一人の人間へ反応を集中させる構造とは違う。
したがって現代に応用するなら、
『枕草子』から学ぶべきなのは、
「嫌いな人を言葉で攻撃してよい」
ということではない。
むしろ、
嫌悪感を観察し、一般化し、文学へ変える能力
である。
15 「にくい」と感じること自体を否定しない
現代のコミュニケーションでは、
「そんなことを嫌いと言ってはいけない」
という圧力が生じる場合がある。
しかし、感情そのものを禁止することは難しい。
嫌いなものは嫌い。
苦手なものは苦手。
問題は、
その感情をどう扱うかである。
感情を否定すると、
表面では寛容でも、
内側では不満が蓄積することがある。
だから、
嫌いと感じること自体を認める
ことは重要である。
ただし、
嫌いだから攻撃する。
嫌いだから排除する。
嫌いだから権利を認めない。
とはしない。
ここが境界である。
16 寛容とは「我慢」だけでもない
寛容という言葉には、
嫌だけれど我慢する
という印象もある。
しかし、それだけでは長続きしない。
より現実的なのは、
自分には自分の好みがある。
相手には相手の好みがある。
その違いが、
重大な権利侵害や危険を生まない限り、
互いに違ったまま存在する。
という考え方である。
つまり、
多様性社会で必要なのは、
「好きになる努力」
より、
「嫌いでも共存できる技術」
なのかもしれない。
17 嫌いなら距離を取ってもよい
多様性を尊重することは、
すべての人と親しく付き合うことでもない。
人間には相性がある。
ある人とはよく合う。
ある人とは合わない。
だから、
無理に友達になる必要はない。
距離を取ることもできる。
重要なのは、
その人を排除することと、
自分が距離を取ることを分けることだ。
例えば、
ある人とは価値観が合わない。
だから個人的には深く付き合わない。
しかしその人が社会で生活する権利は尊重する。
これは十分に両立する。
共存と親密さは別である。
18 職場では「好き嫌い」と公平性を分ける必要がある
この区別は、職場や学校ではさらに重要になる。
上司が、
この部下は好き。
この部下は嫌い。
という感情を持つこと自体は完全には防げない。
しかし、
評価。
昇進。
仕事の配分。
給与。
にその感情を直接反映すれば問題になる。
つまり、
個人的評価と制度的判断を分ける必要がある。
多様性社会では、
「嫌いにならないこと」より、「嫌いでも公平に扱えること」
の方が重要である。
これは非常に実務的な考え方でもある。
19 民主主義も「嫌いな相手と共存する制度」である
この問題を社会全体へ広げると、民主主義にもつながる。
民主主義とは、
全員が同じ価値観になる制度ではない。
むしろ、
自分とは違う考えの人がいる。
嫌いな政治思想がある。
納得できない政策がある。
それでも、
選挙。
法律。
議会。
言論。
によって共存する制度である。
つまり民主主義は、
好きな人同士だけで社会を作る仕組みではない。
嫌いな人、
反対意見を持つ人、
理解しにくい人、
とも同じ社会を構成する。
ここに寛容の本当の難しさがある。
20 「嫌い」と言えない社会も危険である
一方で、
「嫌いと言ってはいけない」
という社会にも問題がある。
何でも肯定する。
批判しない。
不快感を表明しない。
それが「多様性」だとすれば、
議論そのものができなくなる。
ある考え方には反対する。
ある作品はつまらないと思う。
ある政策は嫌いだ。
ある文化は自分には合わない。
こうした発言まで禁止されれば、
表面的には穏やかでも、
思想や文化を評価する自由が失われる。
多様性とは、
評価しないことではない。
評価が複数存在することでもある。
21 文学批評は「好き嫌い」から始まってもよい
文学を読むときも同じである。
すべての名作を好きになる必要はない。
夏目漱石が苦手。
芥川龍之介が好き。
古典文学が好き。
現代小説は苦手。
それでよい。
重要なのは、
なぜそう感じるのか
を考えることだ。
「嫌い」で終わると感想である。
しかし、
文章のリズムが合わない。
人物描写が苦手。
世界観に共感できない。
語り方が好きではない。
と分析すれば、批評になる。
清少納言の強さは、
感覚を言葉へ変えるところ
にある。
22 「好き嫌いを持つ自由」と「他者の自由」は両立する
ここまでを整理すると、
多様性社会には二つの自由がある。
一つは、
自分が好き嫌いを持つ自由。
もう一つは、
相手が自分と違う生き方をする自由。
この二つが衝突する場合がある。
例えば、
自分はある文化が嫌い。
しかしその文化を楽しむ人には自由がある。
自分はある服装が好きではない。
しかし他人には着る自由がある。
つまり、
自分の感情と、
相手の権利、
を切り分ける。
これが重要になる。
23 ただし「何でも許される」わけではない
ここで、多様性をもう一方向からも整理しておく必要がある。
嫌いでも認める。
違っていても共存する。
だからといって、
すべての行為を認めなければならないわけではない。
暴力。
詐欺。
差別。
脅迫。
権利侵害。
こうした行為は、
単なる「多様な価値観」として扱うことはできない。
つまり多様性には、
共通のルール
が必要である。
価値観は違ってよい。
しかし他人の基本的な権利を侵害してはいけない。
ここが共存の土台になる。
24 清少納言の「主観」は、現代ではむしろ重要かもしれない
現代社会では、
客観的であること。
公平であること。
中立であること。
が重視される。
もちろん公共政策や報道では重要である。
しかし文学は必ずしも中立である必要はない。
むしろ、
一人の人間がどう世界を感じたか
を書く。
だから面白い。
『枕草子』から千年以上たった今でも、
清少納言の声が聞こえるように感じるのは、
彼女が無理に中立を装っていないからだろう。
好きなものは好き。
嫌いなものは嫌い。
その代わり、
なぜそう感じるのかを具体的に描く。
この態度は、
現代の文章にも重要な示唆を持つ。
25 主観を持つことと、独善的であることは違う
「私はこう思う」
という主観と、
「私がそう思うのだから正しい」
という独善は違う。
清少納言的な主観を現代へ応用するなら、
自分の感覚を隠さない。
しかし、
それを普遍的真理だとは思わない。
という姿勢が必要になる。
つまり、
強い主観と、弱い断定
を組み合わせる。
「私は嫌いだ」
とは言う。
しかし、
「だから全員が嫌うべきだ」
とは言わない。
この区別は、多様性社会にかなり重要である。
26 「あなたが嫌い」と「あなたのこの行動が嫌い」を分ける
人間関係では、もう一つ有効な区別がある。
人物全体への評価と、
特定の行動への評価を分けることである。
「あなたが嫌い」
ではなく、
「その言い方は苦手だ」
「その行動は困る」
と言う。
人間全体を否定するのではなく、
問題となっている行動を限定する。
これはコミュニケーション上、大きな違いになる。
嫌悪を具体化することで、
修正可能な問題へ変えられる場合がある。
ここでも、
『枕草子』の具体的な観察力は参考になる。
27 嫌いな理由を説明できないこともある
ただし、すべての好き嫌いを論理的に説明できるわけではない。
なぜか好き。
なぜか苦手。
ということもある。
美意識には、
合理的説明だけでは捉えられない部分がある。
清少納言の「をかし」も、
完全な論理体系ではない。
瞬間的な感覚。
色。
音。
季節。
人の気配。
によって心が動く。
現代社会ではデータや論理が重要である。
しかし、
人間のすべての価値判断が論理だけで作られているわけではない。
文学は、その部分を残している。
28 多様性社会に必要なのは「感情の統一」ではない
ここまで考えると、
多様性社会とは、
全員が同じ感情を持つ社会
ではないことが分かる。
むしろ、
好き。
嫌い。
興味がある。
興味がない。
理解できる。
理解できない。
さまざまな感情が存在する。
そのうえで、
基本的な権利。
公共ルール。
公平性。
を守る。
つまり、
感情の多様性まで認めること
が、本当の意味での多様性なのかもしれない。
29 令和の私たちが『枕草子』から考えられる五つのこと
『枕草子』を現代の多様性論へそのまま教科書として使うことはできない。
しかし、考える材料として整理するなら、五つの視点がある。
第一に、
好き嫌いを持つこと自体は悪ではない。
人間には好みがある。
第二に、
好き嫌いと他者の権利を分ける。
嫌いだから排除してよいわけではない。
第三に、
自分の好みを普遍的な正しさにしない。
「私は嫌い」と「これは悪い」は違う。
第四に、
感情を具体的な言葉へ変える。
単なる攻撃ではなく、なぜ嫌なのかを考える。
第五に、
嫌いな相手とも必要な範囲で公平に共存する。
親しくなる必要はない。
しかし不当に扱わない。
30 『枕草子』を現代の多様性思想にしてはいけない
最後に、最も重要な注意を確認しておきたい。
清少納言は、
現代の人権思想。
多様性政策。
社会的包摂。
を考えて『枕草子』を書いたわけではない。
平安時代の宮廷女性である。
その価値観には、
当時の身分社会。
男女関係。
教養観。
美意識。
社会規範。
が反映されている。
したがって、
「清少納言は現代的な多様性を理解していた」
と書くのは正確ではない。
現代へ応用できるのは、
作品に描かれた具体的な価値判断そのものではなく、
人間が好き嫌いを持ちながら世界を見るという事実
である。
結論~多様性とは「嫌いにならないこと」ではない
『枕草子』は、
非常に好き嫌いの多い文学である。
春の曙は美しい。
夏の夜はよい。
あるものは心ときめく。
あるものはかわいらしい。
そして、
あるものはにくい。
あるものは興ざめである。
清少納言は、そうした感情を隠さない。
この率直さを現代から読むと、
一つの問いが生まれる。
多様性を尊重する社会では、
「嫌い」
と言ってはいけないのだろうか。
答えは、おそらくそうではない。
人間は、
すべての文化を好きになる必要はない。
すべての人と親しくなる必要もない。
すべての価値観へ共感する必要もない。
好き嫌いは残る。
むしろ人間から好き嫌いを完全に取り除けば、
美意識も、
趣味も、
批評も、
個性も、
かなり失われてしまう。
問題は、
嫌いという感情を、そのまま他者の価値の否定へ変換すること
である。
私は嫌い。
だからあなたは間違っている。
私は不快だ。
だから存在してはいけない。
この飛躍をしないことが重要になる。
多様性社会とは、
全員が互いを好きになる社会ではない。
むしろ、
好きになれない人や、理解しにくい価値観が存在することを前提に、それでも共存できる社会
である。
そして寛容とは、
何でも賛成することではない。
我慢して黙ることでもない。
自分の好き嫌いを持ちながら、
相手にも相手の自由があることを認めることである。
清少納言の『枕草子』から現代へ引き出せるものがあるとすれば、
「嫌いと言ってよい」
という単純な許可ではない。
もっと重要なのは、
嫌いという感情を、自分の感情として引き受けること
なのだろう。
「私はこれが嫌いだ」
と言う。
しかし、
「だからあなたも嫌うべきだ」
とは言わない。
「私はこの人とは合わない」
と言う。
しかし、
「だからこの人には価値がない」
とは言わない。
「私はこの文化が苦手だ」
と言う。
しかし、
「だから存在してはいけない」
とは言わない。
その距離を保つ。
これは簡単ではない。
しかし、おそらく多様性社会に必要なのは、
好き嫌いをなくすことではなく、
好き嫌いを持ったまま、他者を不当に傷つけずに生きる技術
なのではないだろうか。
『枕草子』は千年前の宮廷社会を描いた作品である。
それでも私たちがそこに親近感を覚えるのは、
清少納言が、
美しいと思い、
腹を立て、
心をときめかせ、
興ざめし、
人を観察する、
極めて人間的な存在だからである。
多様性の時代だからこそ、
人間に好き嫌いがあるという現実から出発した方がよい。
そのうえで問うべきなのは、
「嫌いと思ってはいけないのか」ではなく、「嫌いと思ったあと、私はその感情をどう扱うのか」
なのである。


