導入~かつて「雑誌」が社会を考える場所だった
現在、政治について知ろうと思えば、新聞だけでなく、テレビ、ニュースサイト、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)、動画配信、個人ブログなど無数の入口がある。
しかし、戦後の日本では事情が違った。
政治、経済、外交、思想、文学、科学、社会問題について、専門家や作家、政治家、評論家がまとまった文章を書き、それを一般読者が読む。その重要な舞台の一つが「総合誌」だった。
『世界』『中央公論』『改造』『文藝春秋』は、その代表として語られることが多い。
ただし、この四誌を単純に、
「左派の雑誌」 「保守の雑誌」 「知識人の雑誌」 「大衆向けの雑誌」
と分類するだけでは、日本の総合誌が果たしてきた役割を十分に理解できない。
なぜなら、四誌はそもそも誕生した時代も、編集思想も、想定した読者も異なるからである。
『中央公論』の起源は1887年(明治20年)、『改造』は1919年(大正8年)、『文藝春秋』は1923年(大正12年)、そして『世界』は敗戦直後の1946年(昭和21年)に創刊された。『改造』だけは1955年(昭和30年)に刊行を終えている。
つまり、この四誌を比較することは、四つの雑誌を比べるだけではない。
明治以来の教養主義、大正期の思想的大衆化、昭和のジャーナリズム、敗戦後の民主主義、冷戦、高度経済成長、そしてインターネット時代まで、日本人が「社会について考える場所」をどこに求めてきたのかを見ることでもある。
1 四誌は、最初から同じ種類の雑誌ではなかった
まず四誌の違いを簡単に整理してみよう。
| 雑誌 | 創刊 | 出発点の特徴 | 戦後の位置 |
|---|---|---|---|
| 中央公論 | 1887年 | 明治以来の言論・教養・文学 | 中道的な総合論壇 |
| 改造 | 1919年 | 大正期の社会問題・思想・社会改革 | 戦後復刊するが1955年休刊 |
| 文藝春秋 | 1923年 | 文人による自由な言論 | 文学・政治・社会を横断する大型総合誌 |
| 世界 | 1946年 | 敗戦後の平和・民主主義・知識人論壇 | 戦後進歩派・リベラル論壇の重要拠点 |
この表だけを見ても、『世界』と他の三誌には大きな違いがある。
『世界』は戦前から続いた雑誌ではない。
1945年の敗戦そのものを出発点としている。
岩波書店の社史によれば、創業者の岩波茂雄は、日本に優れた知性が存在していたにもかかわらず、国家が戦争へ向かうことを阻止できなかったことを強く問題視し、文化と広い国民を結び付ける必要があると考えて総合雑誌の創刊を構想した。編集主任となったのが吉野源三郎だった。1946年1月号として『世界』創刊号が発行されている。
これに対し、『中央公論』『改造』『文藝春秋』は、戦前日本の言論空間をすでに経験していた。
この差は、その後の雑誌の性格にも大きく影響する。
2 『中央公論』~「一つの思想」よりも「議論する場所」
『中央公論』の前身は、1887年に京都の西本願寺普通教校で創刊された『反省会雑誌』である。
現在まで続く日本の代表的総合誌の中でも、圧倒的に長い歴史を持つ。現在の『中央公論』自身も「日本最長寿雑誌」と位置付けている。
その長い歴史を考えると、『中央公論』を特定の政治思想だけで定義するのは難しい。
むしろ特徴的なのは、
「一定の教養を前提として、異なる立場の論者が国家や社会を論じる場所」
という性質である。
明治から大正、昭和へと社会が変わる中で、政治論だけではなく、文学、思想、科学、文化を同じ雑誌の中に置くことができた。
ここには、かつての「総合誌」の重要な特徴がある。
現代であれば、
政治は政治サイト、 経済は経済誌、 文学は文芸誌、 科学は科学誌、
と分かれている。
しかし総合誌はそれらを一冊にまとめた。
その根底には、
社会問題は政治だけでは理解できない
という教養主義的な発想があったのである。
現在の『中央公論』も政治・経済、国際情勢、教育、医療、歴史、文化など広範なテーマを扱っている。つまり、規模や社会的影響力は変化しても、「複数分野を一つの知的空間で考える」という総合誌の構造を比較的強く残している。
3 『改造』~大正デモクラシーが生んだ「社会を変える」雑誌
『改造』は1919年に創刊された。
題名そのものが象徴的である。
「中央」でも「世界」でも「文藝」でもない。
改造する。
第一次世界大戦後の社会変動、大正デモクラシー、労働問題、社会主義、民主主義などが社会的関心を集めていた時代に登場した雑誌だった。
その意味で、『改造』には単なる時事評論誌以上に、
社会制度そのものを問い直す思想誌
としての色彩があった。
重要なのは、戦後になって突然進歩的思想が日本に現れたわけではないということである。
自由主義、社会主義、民主主義、労働問題、社会改革を論じる知的空間は、大正から昭和戦前期にも存在していた。
『改造』は、その一つの象徴だった。
戦時下では刊行が途切れ、1946年1月に「復刊第1号」を出して再出発する。しかし最終的には1955年2月の36巻2号で休刊した。
ここで1955年という年は興味深い。
日本政治では一般に、この頃から自由民主党と日本社会党を中心とする、いわゆる「55年体制」が成立する。
同時に社会は復興期から高度経済成長へ向かっていく。
つまり『改造』が退場した時期は、
「社会を根本からどう作り直すか」が最大の問題だった戦後直後から、「既存の社会をどう運営し成長させるか」という時代への移行期
とも重なっていた。
もちろん、『改造』の休刊を55年体制だけで説明することはできない。
しかし思想史的に見るならば、『改造』の消滅は、戦前から続いた「社会改造」という言葉そのものが持っていた時代的エネルギーの変化を象徴しているようにも見える。
4 『世界』~敗戦から生まれた戦後民主主義の論壇
四誌の中で、『世界』は最も明確に「戦後」という時代から生まれた雑誌である。
初代編集長・吉野源三郎は、その後、平和問題談話会などにも関わり、『世界』を中心に平和や民主主義について論陣を張った。岩波書店自身も、吉野について戦後日本の平和と民主主義を支える活動を行った人物として紹介している。
ここから、『世界』はしばしば「進歩的文化人の雑誌」「リベラル・左派系論壇誌」と理解されてきた。
その評価には一定の根拠がある。
しかし、『世界』の歴史的役割をそれだけで終わらせると重要な点を見落とす。
創刊時の問題意識は、
「どの政治勢力を支持するか」
より以前に、
なぜ日本の知識人は戦争を止めることができなかったのか
という問いにあったからである。
ここから、
平和、 民主主義、 基本的人権、 日本国憲法、 安全保障、 沖縄、 東アジア、
などが重要な論点になっていく。
実際、『世界』は長期にわたり、日本の講和、安全保障、日韓関係、沖縄など平和と外交にかかわる問題を扱ってきた一方、文学や文化についても重要な作品・論考を掲載してきた。
したがって『世界』は、
「総合誌」から次第に「思想的立場を明確にした論壇誌」へ重点を移していった雑誌
と見ることもできる。
ここに『中央公論』との違いが現れる。
『中央公論』が「異なる議論を載せる広場」という性格を比較的強く維持したのに対し、『世界』は「何を守るために議論するのか」という価値判断をより明確に持った。
これは長所にも短所にもなる。
立場が明確だからこそ、一貫した論陣を形成できる。
一方で読者が政治的立場によって分かれる時代になると、「異なる立場の人が同じ雑誌を読む」という総合誌本来の機能は弱まりやすい。
5 『文藝春秋』~思想体系よりも「人間が語ること」を重視した雑誌
『文藝春秋』は1923年、作家・菊池寛によって創刊された。
菊池は創刊に際し、自分が考えていることを編集者や読者に過度に気兼ねせず、自由に語りたいという趣旨を書いている。
創刊号には芥川龍之介、川端康成、横光利一らが参加し、3000部が短期間で売り切れたという。
この出発点は、『世界』や『改造』とかなり異なる。
最初に社会思想があったのではない。
「書き手が自由にものを言う場所」
という発想が先にある。
そのため『文藝春秋』は、文学から出発しながら、政治、社会、歴史、人物論へと領域を拡大していった。
昭和初期から時事問題の記事が掲載されるようになり、著名人を集めた座談会も同誌の重要な形式となった。
ここに『文藝春秋』の独特な性格が形成される。
『世界』が理念から社会を見る傾向が強いとすれば、『文藝春秋』は、
政治家、 官僚、 経営者、 軍人、 研究者、 作家、 芸能人、
といった具体的な「人」を通じて社会を見る傾向が強い。
これは必ずしも「保守だから」というだけではない。
編集方法そのものが違うのである。
『世界』が「問題」を中心に論理を組み立てやすいのに対し、『文藝春秋』は「人物」「証言」「回想」「対談」「事件」を中心に社会を描きやすい。
この違いは、両誌が同じ政治問題を扱った場合にも文章の雰囲気を大きく変える。
6 戦後直後~総合誌が「国家の設計図」を議論した時代
1945年の敗戦直後、日本社会には巨大な空白が生まれた。
帝国憲法から日本国憲法へ。 軍国主義から民主主義へ。 帝国から新しい国際秩序へ。
社会制度だけでなく、
「日本とは何か」 「民主主義とは何か」 「戦争責任とは何か」 「文化とは何か」
という問いそのものが社会に投げ出された。
この時期の総合誌は、現在の雑誌以上に大きな意味を持っていた。
新聞は日々の出来事を伝える。
しかし、
これから日本をどのような国にするのか
という問題は、新聞記事だけでは議論しにくい。
数十ページを使った論文や座談会が必要になる。
そのため戦後初期の総合誌には、現在で言えば、
新聞のオピニオン面、 大学の公開講座、 政策研究所、 テレビ討論番組、 専門家ブログ、
などの一部を合わせたような機能があったと考えられる。
『改造』の1953年号を見ても、民主政治、米国との関係、中国問題など、戦後日本の国家的位置そのものを問う論考が並んでいる。
総合誌とは単なる娯楽ではなく、
国家と社会について考えるためのインフラの一つだったのである。
7 1955年以降~「社会を作る議論」から「社会を評価する議論」へ
しかし、日本社会が安定すると総合誌の役割も変化する。
1950年代後半から高度経済成長が始まり、
所得、 企業、 雇用、 住宅、 教育、 消費生活
が急速に拡大した。
戦後直後には、
「日本という国をどう作るか」
が問題だった。
ところが社会制度が安定してくると、
「現在の日本社会をどう評価するか」
が問題になる。
この変化の中で、総合誌も分化していった。
『世界』は平和、憲法、安全保障などを中心とする戦後民主主義的論壇の一角を形成する。
『中央公論』は政治・経済・文化・学問を横断する総合的言論空間を維持する。
『文藝春秋』は政治から文学、事件、人物までを含む国民的総合誌として大型化していく。
そして『改造』は退場した。
戦前には四誌がある程度共有していた「総合誌」という市場が、
それぞれ異なる読者層を持つ複数の論壇へ分かれていった
と考えることができる。
8 1960年代~総合誌の政治性が最も見えやすくなった時代
1960年の日米安全保障条約改定をめぐる社会運動は、戦後論壇にとって大きな分岐点だった。
安全保障、憲法、米国との関係、社会主義、民主主義といった問題について、知識人の政治的立場が明確になる。
ここから、総合誌を読む行為そのものが、
「自分はどの立場から社会を見るのか」
という意味を帯びやすくなる。
この時期以後、
『世界』を読む人、 『中央公論』を読む人、 『文藝春秋』を読む人、
には、ある程度異なる政治的・文化的傾向が形成されていったと考えられる。
ただし、これを単純な左右対立として理解するのは危険である。
各誌には異なる立場の論者が登場するし、時代によって編集方針も変化する。
重要なのは、
雑誌そのものが一種の「知的共同体」を形成していた
ということである。
9 1970~80年代~「知識人」の権威が変化する
戦後初期の総合誌では、大学教授、哲学者、文学者、評論家など「知識人」が社会全体について語ることが比較的自然だった。
しかし高度経済成長によって社会は高度に専門化する。
経済政策なら経済学者。 医療なら医師。 外交なら国際政治学者。 科学技術なら研究者。
というように、問題ごとに専門家が必要になる。
ここで総合誌が依存していた「万能型知識人」の立場が弱くなる。
さらにテレビが普及する。
政治家や文化人の発言を知るために、必ずしも数十ページの論文を読む必要はなくなった。
それでも総合誌が生き残れた理由は、
テレビでは扱えない長さと複雑さ
を提供できたからだろう。
短時間の討論ではなく、
歴史的背景、 論理展開、 資料、 思想、
まで含めて問題を考える。
総合誌は「速報性」ではなく「熟考」に価値を置くメディアになっていった。
10 1990年代~冷戦終了が論壇の座標軸を崩した
1991年前後の冷戦終結は、日本の論壇にも大きな影響を与えた。
それまで、
資本主義対社会主義、 米国対ソ連、 保守対革新、
という軸で整理できた問題が、それほど単純ではなくなる。
さらに、
バブル崩壊、 少子高齢化、 グローバル化、 環境問題、 情報化、 格差、 地方衰退、
など、新しい問題が前面に出てくる。
これらは従来の「保守対革新」という一本の軸では説明できない。
例えば、
原子力政策では保守内部でも意見が分かれる。
グローバル化では経済的自由主義と文化的保守主義が衝突することがある。
社会保障では財政規律と生活保障が対立する。
こうして総合誌は、
一つの思想体系で世界を説明することが難しい時代
に入った。
11 インターネットが奪ったのは「文章」ではなく「入口」である
2000年代以降、総合誌にとって最大の変化はインターネットである。
かつて社会問題について考えようと思えば、
新聞を読む、 本を買う、 総合誌を読む、
という経路が中心だった。
しかし現在は検索すれば、
政府資料、 統計、 新聞記事、 専門家の解説、 海外メディア、 動画、 SNS、
へ直接アクセスできる。
つまり総合誌が失ったものは、必ずしも「長文を読む人」だけではない。
より本質的には、
知識へ到達するための入口としての独占的地位
を失ったのである。
これは大きな変化である。
昔の読者は『中央公論』を開くことで、自分が知らなかった問題に出会った。
現在は検索エンジンが、読者の「知りたい問題」へ直接連れていく。
一見すると便利になった。
しかし副作用もある。
自分が関心を持っていないテーマに偶然出会う機会が減る。
政治に関心のある人は政治だけを見る。
投資に関心のある人は投資だけを見る。
文学好きは文学だけを見る。
社会の知識が縦割りになる。
ここに、総合誌が失われることによる意外な問題がある。
12 四誌を「左右」ではなく四つの編集モデルとして見る
ここまでの歴史を踏まえると、四誌は次のように整理できる。
『改造』
社会を変えるために思想を提示する雑誌
社会改革そのものが大きな知的テーマだった時代の総合誌。
『世界』
守るべき価値から社会を問い続ける雑誌
平和、民主主義、人権などを重要な基準として現実社会を検証する。
『中央公論』
異なる専門領域と論者を一つの場所に集める雑誌
教養と論壇の「広場」としての総合誌。
『文藝春秋』
人物・証言・文学・政治を通じて社会を描く雑誌
抽象的思想体系より、人間や事件から時代を見る編集モデル。
もちろんこれは絶対的分類ではない。
四誌はいずれも長い歴史の中で編集方針を変えている。
だが政治的な「右・左」という一本の軸よりも、このように編集思想の違いとして見る方が、各誌の特徴を理解しやすい。
13 なぜ『改造』は消え、三誌は残ったのか
ここには興味深い問題がある。
なぜ『改造』だけが1955年で姿を消したのだろうか。
経営事情を無視して思想だけで説明することはできない。
しかしメディア史的に見ると、「改造」という概念そのものが特定の時代環境と強く結び付いていた点は注目できる。
社会制度そのものが激しく揺れている時代には、
「社会を改造する」
という言葉は強い意味を持つ。
しかし戦後体制が固定化し、高度経済成長に入ると、社会の中心課題は、
革命や改造
より、
成長、 経営、 政策、 生活、
へ移っていく。
一方、
「世界」 「中央公論」 「文藝春秋」
という名称は、特定の政治課題に限定されない。
その意味で長期的に編集内容を変化させやすかったとも考えられる。
これはあくまで一つの解釈だが、雑誌の寿命を考える上で興味深い点である。
14 現代では総合誌はもう必要ないのか
部数や社会的影響力だけを考えれば、総合誌の時代が最盛期を過ぎたことは否定しにくい。
しかし、
総合誌という形式そのものが不要になった
とは限らない。
むしろインターネット時代だからこそ、総合誌的思考には意味がある。
例えば少子化を考える。
出生数の統計だけを見ても理解できない。
雇用、 住宅、 教育費、 ジェンダー、 結婚観、 地域構造、 社会保障、 医療、 文化、
を同時に考える必要がある。
地方の人口減少も同じである。
人口統計だけではなく、
産業、 交通、 医療、 学校、 住宅、 自治体財政、 家族、 文化、
が結び付いている。
つまり現代社会の問題そのものが「総合的」なのである。
ところが情報メディアは逆に専門化している。
ここに矛盾がある。
問題は総合化しているのに、情報は細分化している。
総合誌が本来持っていた意味は、この分断された知識を一つの場所へ戻すことだった。
15 ただし、昔の総合誌を理想化してはいけない
ここで注意しなければならない。
「昔は知識人が総合誌を読み、社会について深く考えていた。それに比べ現代はSNSで短文ばかり読んでいる」
という結論は単純すぎる。
昔の総合誌にも限界はあった。
執筆者となれる人は限られていた。
東京の大学、出版社、新聞社などを中心とする知識人ネットワークに発言力が集中しやすかった。
一般市民は基本的に読者であり、発信者ではなかった。
現在のインターネットでは、地方在住者、専門職、市民、当事者などが直接情報を発信できる。
これは明らかな進歩でもある。
したがって、
総合誌の衰退=言論の衰退
とは言えない。
より正確には、
言論の中心が少数の雑誌編集部から、無数の発信者へ分散した
のである。
問題は、その結果として「共通して読む場所」も失われたことにある。
16 総合誌が作っていたのは「意見」ではなく「共通の議題」だった
総合誌の歴史を考えると、最も重要なのはここかもしれない。
『世界』の読者と『文藝春秋』の読者は、同じ意見を持っていたわけではない。
むしろ政治的には大きく異なることもあった。
しかし、
安全保障、 憲法、 中国、 経済成長、 教育、 文学、 人口問題、
といった「何について考えるべきか」はある程度共有されていた。
総合誌が社会に提供していた最大のものは、
正しい答えではなく、共通して議論すべき問い
だったのである。
インターネット時代には、この「共通の問い」が成立しにくい。
ある人の画面には政治が並び、別の人の画面には芸能が並び、さらに別の人には投資情報が並ぶ。
一人ひとりが違う情報世界を生きる。
これは情報の多様化であると同時に、公共圏の分裂でもある。
結論~総合誌の歴史は、日本人が「社会をどう考えてきたか」の歴史である
『中央公論』『改造』『文藝春秋』『世界』は、同じ「総合誌」と呼ばれていても、その出発点は異なっていた。
『中央公論』には明治以来の教養論壇の伝統がある。
『改造』には大正期から続く社会改革への強い問題意識があった。
『文藝春秋』は文人が自由にものを語る場所から始まり、人物、文学、政治、社会へ広がった。
『世界』は敗戦を出発点に、平和と民主主義を戦後社会にどう根付かせるかという問題を背負った。
四誌の違いは、単純な保守と革新の違いではない。
それぞれ、
社会を変える。 社会を問い直す。 異なる議論を集める。 人間を通じて時代を見る。
という異なる方法で、日本社会を文章にしてきたのである。
そして戦後80年を経た現在、総合誌がかつて持っていた圧倒的な影響力は小さくなった。
しかし、それは社会について総合的に考える必要がなくなったからではない。
むしろ逆である。
人口減少、人工知能、気候変動、安全保障、社会保障、地域衰退、格差など、現代の問題ほど複数分野が絡み合っている。
私たちは膨大な情報を手に入れた。
しかし、
異なる情報を一つの問題として考える場所
を失いつつある。
戦後総合誌の歴史から現代が学べるものがあるとすれば、それは特定の雑誌の政治思想ではないだろう。
重要なのは、
異なる専門、異なる思想、異なる世代の人間が、同じ社会について長い文章で考える場所を持つこと
なのではないか。
『改造』は消えた。
『世界』『中央公論』『文藝春秋』は現在まで刊行されている。『中央公論』は1887年以来、『文藝春秋』は1923年以来、『世界』は1946年以来、それぞれ異なる形で時代の議論を記録してきた。
その変遷を読むことは、雑誌史を読むことにとどまらない。
それは、
日本社会が何を問題と考え、誰の言葉を信頼し、どのような形で公共的な議論を成立させようとしてきたのかを読むことでもある。
そしておそらく、総合誌の歴史が現代に投げかける最大の問いは、
「どの雑誌が正しかったのか」
ではない。
「私たちはこれから、異なる考えを持つ人々と、どこで同じ社会について考えるのか」
という問いなのである。






