リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 文学を読んでいると、ときどき奇妙なことが起こる。現実に出会えば距離を置きたくなるような人物なのに、小説の中ではなぜか目が離せなくなるのである。嘘をつき、男を翻弄し、自分の欲望を優先し、ときには他人の人生まで壊してしまう。それでも彼女が登場すると物語の空気が変わり、読者は次に何をするのか知りたくなる。一方で、誠実で、思いやりがあり、他人を傷つけようとしない女性は、現実ならば好ましい人物であるにもかかわらず、その「善良さ」だけでは必ずしも同じ強さで読者を引きつけない。

 もっとも、ここから「悪い女性の方が善良な女性より魅力的である」と結論づけるのは早い。心理学や物語研究でも、道徳的に曖昧な人物が善良な人物より必ず好かれるとは確認されていない。むしろ興味深いのは、好感度では劣っていても、物語への没入や緊張感、人物について考え続けさせる力では、善良な人物に匹敵し得るということである。つまり私たちは、必ずしも悪女を「好き」なのではない。それでも彼女から目を離せない。この「好きではないのに気になる」というねじれた感情こそ、文学の悪女を考える入口になる。

悪女が現れると、物語の均衡が崩れる

 小説にとって扱いの難しい人物の一つは、何も問題を起こさない人である。約束を守り、常識をわきまえ、他人に配慮し、自分の欲望を適度に抑える人物は、現実社会では信頼されやすいが、その性質だけでは物語上の摩擦を生みにくい。もちろん善良な人物を主人公とした名作は数え切れないほど存在するが、そうした人物が読者を強く引きつける場合、そこにはたいてい迷い、嫉妬、恐怖、弱さ、欲望、罪悪感といった、単純な「善良さ」では割り切れない何かが潜んでいる。

 それに対して、いわゆる悪女として描かれる人物は、登場した瞬間から既存の秩序を揺さぶることが多い。メリメの『カルメン』では、ホセはカルメンに惹かれ、やがて彼女への執着を深めながら、それまでの生活から大きく逸脱していく。ラクロの『危険な関係』では、メルトゥイユ侯爵夫人だけでなくヴァルモンもまた、恋愛や誘惑を策略の道具へ変え、社交界の人間関係そのものをゲームにしてしまう。ゾラの『ナナ』では、一人の女性をめぐる男たちの欲望と破滅が、個人的な恋愛の範囲を越え、第二帝政期の華美と腐敗、階級社会の虚飾まで照らし出していく。

 ここで重要なのは、彼女たちが単に「性格が悪いから面白い」のではないということである。彼女たちが動くと、それまで周囲の人物が隠していた嫉妬や所有欲や虚栄心まで動き始め、平穏に見えた社会の内部にあった亀裂が表面へ現れる。悪女は物語を一人で作るのではなく、周囲の人間に潜んでいたものを露出させる触媒として機能するのである。

「何をするか分からない」という人物に、読者はなぜ引きつけられるのか

 悪女が物語上で強く見える理由の一つに、行動の予測しにくさがある。善良であろうとする人物には、少なくとも一定の行動原理がある。困っている人がいれば助けようとするだろうし、愛する人を傷つければ苦しむだろうし、約束を破れば罪悪感を覚えるだろうという予想を、読者はある程度立てることができる。

 しかし道徳的な境界を簡単には守らない人物については、この予測が難しい。愛していると思った次の瞬間に相手を裏切るかもしれず、金銭のために行動しているように見えて突然感情に負けるかもしれない。相手を操っているように見えながら、実際には自分自身も嫉妬や恐怖や欲望に振り回されていることさえある。そのため読者は、「この人物は次にどうするのか」「本当は何を望んでいるのか」という問いを持ち続けることになる。

 物語研究でも、これから起こることについて未解決の問いが残されることは、読者の緊張感や物語への関与を生む一つの要因と考えられている。ただし、単純に「予測できなければ面白い」と考えるのも正確ではない。結末を知っていても物語を楽しめるように、読者を引きつけるものは不確実性だけではなく、人物への関心や感情移入、その結果にどのような意味があるのかという期待も含まれている。

 したがって悪女の魅力を、「何をするか分からないから面白い」と一つの原因だけで説明することはできない。むしろ予測不能性が、人物の矛盾や道徳的な曖昧さと結びついたとき、読者は彼女を完全には理解できない存在として追い続けることになる。その距離が、単純な好感とは違う種類の魅力へ変わるのである。

「悪い人物なのに面白い」という不思議

 ここで、文学における好感と魅力を分けて考える必要がある。現実では、嘘をつき、人を利用し、他人の生活を壊す人物は普通なら警戒される。ところが物語の中では、そのような人物が強烈な人気を持つことがある。

 心理学やメディア研究では、反英雄や道徳的に曖昧な人物について、読者や視聴者が行為そのものを正しいと判断していなくても、その人物に一時的に感情移入したり、物語の中だけでは通常より道徳的な非難を弱めたりすることがあると考えられている。これは、私たちが「悪いことをしているから好きになる」という意味ではない。むしろ、人間には道徳的評価とは別に、人物の複雑さや目的、危険性、能力、葛藤に関心を持つ回路があると考えた方が自然である。

 この点から見ると、「現実なら避けたい人物を、文学ではもっと見ていたい」という現象はそれほど矛盾していない。現実の人間関係では安全性や信頼性が重要だが、物語では安全すぎる人物より、何かを起こしそうな人物の方が重要な役割を持つことがある。現実で求められる人格と、物語で求められる人物の強さは、そもそも別の尺度で測られているのである。

悪女は「してはいけないこと」を可視化する

 悪女の魅力を考えるとき、もう一つ無視できないのが欲望である。ただし、「読者が抑圧している欲望を悪女が代わりに実行するから魅力的なのだ」と断定することはできない。そこまで単純な因果関係は実証されておらず、これは文学的・心理学的な一つの解釈として扱う方が妥当である。

 それでも文学の中では、現実には実行しにくい欲望を人物が可視化するという現象は確かにある。人は社会の中で生きている以上、自分の欲望をそのまま行動へ移すことはできない。嫌いな相手を傷つけたいと思っても実行するわけにはいかず、別の人生を生きたいと思っても仕事や家庭を簡単に捨てることはできない。恋愛感情が生まれても、相手や状況によっては諦めなければならない。

 ところが物語の中の悪女は、その境界線を越えることがある。欲しいものを欲しいと言い、退屈な生活を拒み、愛が冷めれば別の相手へ向かい、他人が自分に期待する役割そのものを拒絶する。読者は必ずしも同じ行動を望んでいるわけではない。それでも、自分が現実には越えない境界を誰かが越える場面には、恐怖と同時にある種の解放感が生まれる。

 文学は、現実に行動しなくても、人間がどこまで欲望に従うことができるのかを安全な距離から見せてくれる。その意味では悪女は、悪を勧める人物ではなく、人間の欲望が規範を越えたとき何が起こるのかを実験する人物でもある。

そもそも誰が彼女を「悪女」と呼んだのか

 ここまで悪女という言葉を使ってきたが、この呼び名そのものを疑う必要もある。文学史の中で「悪女」「危険な女」と見なされてきた女性は、犯罪や残虐行為を行った人物だけではない。性的に奔放であったり、夫や恋人の支配を拒んだり、家庭より自分の欲望を優先したり、男性社会が期待した女性像から外れたりしたことで、危険な存在として表象された女性も少なくない。

 とりわけ女性に従順さ、貞節、母性、献身が強く要求された社会では、それらから逸脱する女性は単なる一個人ではなく、社会秩序への脅威として描かれやすかった。女性が法律や道徳を破ったとき、行為そのものに加えて「女性らしさを破った」という二重の逸脱として受け止められる場合もあったのである。

 そう考えると、悪女は一つの固定した人格類型ではない。ある時代には「悪」とされた行動が、別の時代には自立や自己決定として読み直されることもある。古い文学を現代の読者が読むと、当時は危険でわがままな女性として描かれた人物が、むしろ自分の人生を自分で選ぼうとしている女性に見えることがあるが、これは人物が変わったのではなく、彼女を見る社会の物差しが変わったのである。

 ただし、「悪女」という人物像をすべて特定の時代の女性差別だけで説明するのも単純すぎる。魅力的であると同時に危険な女性という物語は、西欧近代文学だけではなく、さまざまな社会の伝承や物語に繰り返し現れてきたことが指摘されている。そこには女性に対する社会規範だけでなく、人間が恋愛相手の魅力と危険性、信頼と疑念をどう判断するかという、より普遍的な問題も重なっている可能性がある。

 悪女という像は、一つの原因から生まれたのではない。社会が女性に求める役割、男女の欲望と警戒、時代ごとの道徳、物語が必要とする葛藤が重なった場所に現れる人物なのである。

男は本当に「悪女のせい」で破滅するのか

 悪女をめぐる物語には、女性そのものよりも、彼女に魅了されて破滅していく男性の方が重要な意味を持っている作品が少なくない。そこではしばしば、「男は危険な女に人生を狂わされた」という物語が語られる。

 しかし、本当に彼女だけが男を破滅させたのだろうか。

 『カルメン』のホセを考えてみても、彼を破滅へ導くものはカルメンの存在だけではない。彼自身の執着、嫉妬、所有欲、そして彼女を自分の思い通りにしたいという欲望が、状況を次第に取り返しのつかないものへ変えていく。『ナナ』でも、ナナに群がる男たちは何も知らない善人として一方的に犠牲になるわけではなく、彼ら自身の虚栄や欲望や階級意識を抱えて彼女へ近づいている。

 そう考えると、悪女は男の中に新しい欲望を植え付ける存在というより、すでにそこにあった欲望を露出させる存在として読むことができる。彼女は破滅の原因であると同時に、周囲の人物がもともと抱えていたものを映し出す鏡でもある。

 ここで物語の責任関係は急に曖昧になる。「彼女のせいで人生を狂わせた」と考えていたはずなのに、「彼は彼女を愛したのか、それとも所有したかったのか」「彼女に騙されたのか、それとも自分の欲望に騙されたのか」という別の問いが立ち上がってくる。

 文学の面白さは、善人と悪人を分類して判決を下すことだけにはない。誰かを悪人だと思って読み始めたはずなのに、物語が進むにつれて別の人物の方が怪しく見え、最後には最初の判断そのものを疑わされる。その価値判断の揺れこそ、悪女文学が持つ大きな力の一つである。

善良な女性が退屈なのではない

 ここまで読むと、「結局、小説では善良な女性より悪い女性の方が面白いのか」と思うかもしれない。しかし、問題は善悪そのものではない。

 善良な人物であっても、自分の幸福と他人の幸福が衝突し、正しいことをしようとするほど別の誰かを傷つけ、愛と義務の間で迷い、自分自身の弱さに苦しむなら、その人物は十分に複雑で魅力的になる。反対に、どれほど残酷で奔放な悪女でも、ただ人を騙し、誘惑し、破壊し続けるだけなら、人物はやがて単調になる。

 文学が強く必要としているのは、悪そのものというより矛盾である。

 愛しているのに裏切る。自由を求めながら誰かを束縛する。金を欲しがりながら金では満たされない。誰にも支配されたくないと言いながら、誰かに愛されることを必要としている。人間は一つの原理だけでは動かない。その矛盾が人物の内部で衝突したとき、登場人物は善人や悪人という分類を越えて、生きた人間として読者の前に現れる。

 悪女は、この矛盾を露骨な形で背負わされやすい人物である。だから彼女は強く見えるのであって、悪いから魅力的なのではない。

悪女の魅力は、一つの原因では説明できない

 科学的に考えるなら、悪女の魅力を一つの原因から説明することは難しい。人物の予測不能性、道徳的な曖昧さ、内面的な葛藤、社会規範からの逸脱、物語の中で占める重要性、読者がその人物へどの程度感情移入するか、さらに読者自身が曖昧な人物を好むかどうかまで、複数の要因が重なって人物への関心が作られると考える方が合理的である。

 同じ悪女を読んでも、ある人は自由な女性として見るかもしれず、別の人は自己中心的な人物として嫌悪するかもしれない。ある読者には魅力的な危険人物に見え、別の読者には単なる加害者にしか見えないこともある。作品の中に一つの「魅力度」が固定されているわけではなく、人物の性質と物語の構造、さらに読者の価値観や経験が組み合わさって評価が生まれるのである。

 したがって、「悪女だから魅力的」という一本の矢印ではなく、「逸脱、葛藤、予測不能性、道徳的曖昧さ」と「読者側の心理」が交差した結果として、悪女への関心が生まれると考えた方が現実に近い。

読者が見ているのは「悪」ではなく自由なのかもしれない

 文学の悪女について考えていくと、最後には善悪とは少し違う場所へたどり着く。私たちが彼女の中に見ているものは、悪そのものではなく、社会が許してくれない自由の姿なのかもしれない。

 自分の欲望を認めること、他人の期待通りに生きないこと、与えられた役割を拒むこと、嫌われる可能性を引き受けながら自分で選択することは、どの時代でも簡単ではない。悪女として描かれる人物は、ときにその自由を極端な形で体現する。しかし自由であることと善良であることは同じではないから、その選択によって他人を傷つけ、自分自身も傷つき、物語の最後には孤独や破滅へ向かうこともある。

 古い文学では、そうした破滅が「秩序を乱した女性への罰」のように見える場合もある。しかし別の読み方をすれば、それは社会の規範から外れて生きようとした人間が支払わされた代償とも見える。この二つの解釈の間で読者の判断が揺れるからこそ、悪女は簡単には古びない。

 私たちは彼女を嫌悪しながら惹かれ、批判しながら次の行動を待ち、ときには最後まで理解できないまま読み終える。近づきたくはないのに、物語から消えてほしくもない。もし彼女がいなくなれば、世界が急に静かになり、何か重要なものまで失われてしまうような気がする。

 おそらく文学における魅力とは、好感度のことではない。善良な人物には「幸せになってほしい」と思うことができるが、悪女と呼ばれる人物に対して私たちが抱く感情は、それほど簡単ではない。恐れ、嫌悪、好奇心、欲望、共感、反発が同時に存在し、そのどれか一つへ整理できないからこそ、彼女は記憶に残る。

 そしてページを閉じたあとに残る本当の問いは、「あの女は悪かったのか」ではないのかもしれない。

 むしろ、「なぜ自分は、あの人物から目を離せなかったのか」。

 文学は悪女を裁くためだけに存在しているのではない。悪女を観察しているつもりだった読者自身を、いつの間にか観察される側へ移してしまう。善良な人物より悪女が魅力的なのではなく、私たちは善悪だけでは説明できない人間に強く惹かれることがある。そのことを最も鮮やかに見せてくれる存在の一つが、文学の「悪女」なのである。

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近松門左衛門の虚実皮膜論は、令和の文学にも通じるのか

 「これは実話をもとにした物語です」という一言が付いただけで、作品の見え方が少し変わることがある。同じ悲劇でも、本当に起きた出来事だと思えば登場人物の苦しみが急に身近に感じられる読者もいるだろうし、逆に完全な創作だと知っているからこそ安心して物語へ入り込める人もいる。実際、心理学の研究でも「実話に基づく」という情報が作品のもっともらしさや評価を高める場合がある一方、没入感や好感度に明瞭な違いが生じない場合も報告されている。つまり、人間は単純に「事実だから感動する」のではなく、事実と虚構の関係を意識しながら物語を読んでいるのである。

 この複雑な感覚を考えていくと、三百年ほど前の大坂で人形浄瑠璃を書いていた近松門左衛門の言葉へ行き着く。近松の芸術論として有名な「虚実皮膜論」である。しかし、この言葉を「文学は現実と嘘を半分ずつ混ぜればよい」という意味に取ってしまうと、近松が考えていた問題の面白さはほとんど失われてしまう。彼が問うていたのは、事実と虚構をどの割合で混ぜるかではなく、現実そのものと、人間が「現実らしい」と感じる表現との間には、なぜずれが生じるのかという問題だった。

「虚実皮膜論」という本を近松が書いたわけではない

 まず押さえておきたいのは、近松自身が『虚実皮膜論』という著書を書いたわけではないということである。近松は体系化された芸術論を著書として残しておらず、今日「虚実皮膜論」と呼ばれている考え方は、近松の死後、穂積以貫が近松から聞いた話として『難波土産』に記したものを中心に後世まとめられたものである。そこには「芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也」という有名な言葉が伝えられており、現在では一般に、芸術は現実そのものでも完全な作り事でもなく、その微妙な接触面に成立するという芸論として理解されている。

 ただし、この「間」という言葉を数学的な中間地点のように考えてはいけない。現実が五割、虚構が五割という話ではなく、現実に忠実でありすぎても芸にはならず、現実から離れすぎても観客には届かないという、表現の微妙な距離について語られているからである。

 近松がこの問題を考えた背景には、人形浄瑠璃という芸能そのものが抱えていた矛盾がある。舞台上の人形は木でできており、本当の感情も人生経験も持っていない。それにもかかわらず、観客は人形の恋に胸を痛め、人形の死に涙を流す。生きていない木偶が、ときには生身の人間以上に「生きている」と感じられるのである。これは現実を忠実に再現するだけでは説明できない現象だった。

本物そっくりなら、本当にリアルなのか

 『難波土産』に伝えられた近松の話には、この問題を象徴する興味深い例がある。家老を演じる役者について、本物の家老そのままに振る舞えば、それで優れた芝居になるのかという問題である。現実の家老が舞台役者のような化粧をしているわけではないのだから、現実を忠実に再現しようとすれば、むしろ舞台上では地味で分かりにくい人物になってしまうかもしれない。そこで役者は現実を少し変形し、観客が「家老らしい」と感じる身振りや表情を作り出す。そのとき舞台上に現れるのは現実の家老のコピーではないが、観客にはかえって家老らしく見える。

 さらに『難波土産』には、恋する女性のために、愛する男性の姿を毛穴や歯の数までそっくりに再現した木像を作ったところ、あまりにも生身の人間そのままであったため女性が気味悪がってしまった、という趣旨の逸話も伝えられている。この話を史実そのものとして受け取る必要はないが、近松の芸論を説明する比喩としては非常に分かりやすい。私たちが「本物らしい」と感じるものと、本物を寸分違わず複製したものとは、必ずしも同じではないのである。

 写真より肖像画の方が、その人物らしく見えることがある。実際の会話より、巧みに作られた映画の台詞の方が人間の本音を言い当てているように感じることもある。人間がリアリティと呼んでいるものは、現実との物理的な一致だけによって生まれるのではなく、見る側が持っている経験、期待、感情、物語の文脈などによって作り上げられている。

小説は、現実を削ることで現実に近づく

 この考えを小説に置き換えると、虚実皮膜論は急に現代的になる。例えば実際の夫婦喧嘩を三十分録音し、一言一句そのまま文字に起こしたとする。そこには沈黙、言い直し、同じ話の繰り返し、話題の脱線、本人たちにしか分からない言葉などが大量に含まれているだろう。それは記録としては忠実だが、読者がその夫婦の関係を理解する文章として優れているとは限らない。

 小説家はそこから不要な部分を削り、何度も繰り返された言葉を一つの台詞へまとめ、実際には数日離れて起きた出来事を一晩の出来事として組み直すかもしれない。現実には降っていなかった雨を降らせることさえあるだろう。そうして事実から離れていくにもかかわらず、作品の中では、二人の間にあった怒りや寂しさや未練が現実以上にはっきり見えてくることがある。

 ここに文学の奇妙さがある。虚構を加えることによって事実から離れているはずなのに、人間の感情については、かえって現実へ近づく場合があるのである。

 近松が女形について語った話も、この問題とつながっている。現実の女性なら実際には口にしないような言葉を舞台上の女性に言わせることで、現実の女性が胸の内に秘めている「情」を表現できることがある。実際の言動をそのままコピーするのではなく、現実には存在しなかった言葉を作ることで、現実に存在していた感情が観客に見えるようになる。

 したがって、虚実皮膜論を単なる「嘘を上手に混ぜる技術」と考えるのは適切ではない。そこにはむしろ、「事実を正確に写すことと、人間についての真実を表現することは同じなのか」という、現在の文学にもそのまま残っている問いがある。

「虚構だから感情移入できない」は本当なのか

 心理学的に考えても、虚構であると分かっている物語が人間の感情を動かすこと自体は不思議なことではない。私たちは映画を見ながら、スクリーンに映っている人物が俳優であることを知っている。それでも登場人物が死ねば悲しくなり、危険な場面では緊張する。小説についても同様で、そこに書かれている人物が実在しないと理解していても、その人物の人生を頭の中で想像し、感情を追体験することができる。

 物語研究や認知心理学では、フィクションを人間関係や感情を疑似的に経験する一種のシミュレーションとして捉える考え方がある。ただし、文学を読めば必ず共感性が高まるとか、実話だと分かれば必ず感動が強くなる、とまで言うことはできない。読者の性格、作品のジャンル、物語への没入の程度などによって結果は変わり、研究でも一貫した効果が出ているわけではないからである。

 それでも、虚構だと理解しながら人間が泣いたり笑ったりできるという現象そのものは確かに存在する。近松が人形浄瑠璃の舞台で向き合っていたのも、結局はこの問題だったのではないだろうか。観客は人形が木でできていることを知っている。それでも、その木偶の中に人間を見る。その瞬間、虚構は現実の代用品ではなく、現実を感じるための別の経路になる。

令和の文学では「皮膜」がますます見えやすくなった

 虚実皮膜論が令和になって突然復活したわけではない。文学は昔から、現実から距離を取るためだけではなく、現実を別の角度から見せるためにも虚構を用いてきた。したがって、「昔の虚構は現実から逃げるためのものだったが、現代になって現実と近づいた」と単純に整理することはできない。

 ただし現代文学では、事実と虚構の境界そのものを作品の仕掛けにする作品が以前にも増して意識されている。その代表として挙げられるのが、オートフィクションである。

 オートフィクションという言葉そのものは令和になって生まれたものではなく、一般にはフランスの作家セルジュ・ドゥブロフスキーが1977年に用いた概念として知られている。作者自身の人生と物語上の人物を近づけながら、どこまでが事実でどこからが創作なのかを意図的に揺らす作品では、読者は「これは作者本人の経験なのだろうか」と考えながら読むことになる。そのため、事実と虚構の境界が消えるというより、むしろ境界そのものが目立つようになる。

 日本文学には、それ以前から私小説という大きな伝統がある。もちろん私小説とオートフィクションは同じものではなく、その成立事情も文学制度も異なる。しかし、作者、語り手、主人公の距離が読者の読み方に影響するという点では、両者を比較する意味はある。作者本人に似た人物が登場すれば、読者は作品世界の外側にいる作者の人生まで意識するようになり、その結果、作品の中の一文が単なる創作ではなく、作者自身の告白のように感じられることさえある。

 ここでも不思議な逆転が生じる。虚構を加えれば現実から遠ざかるはずなのに、読者にはかえって「これは作者の本音なのではないか」と感じられる場合がある。作れば作るほど本当らしくなり、本当らしく書けば書くほど、どこまでが本当なのか分からなくなる。その不安定な境界こそ、現代の読者が歩いている「皮膜」なのである。

文学の虚構と「嘘」は同じではない

 もっとも、虚実皮膜論を令和へ持ち込む際には、慎重に区別しておかなければならないことがある。現在では事実と虚構の境界が揺らぐ現象が、文学だけでなくニュース、広告、動画、SNS(Social Networking Service・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)にも広がっているため、「真実と嘘の境界など曖昧なのだ」と言ってしまえば、文学の虚構と偽情報を同じものとして扱うことになりかねないからである。

 しかし両者は根本的に違う。小説を読むとき、読者は基本的にそこに書かれている出来事が創作であり得ることを承知している。芝居を見る観客も、舞台上で起きた殺人を現実の事件だとは考えない。その暗黙の約束が存在するからこそ、作者は実際には起きなかった出来事を作り、現実には存在しない人物を生きさせることができる。

 一方、ニュースとして提示される情報には、「これは現実に起きた出来事について述べている」という別の約束がある。そこで意図的に虚偽を事実として示せば、作品内部で虚構を作るのとは意味がまったく違う。

 したがって近松の「虚と実の皮膜」は、真実と嘘を区別しなくてもよいという思想ではない。むしろ虚構であると分かったうえで、その虚構から人間についての真実を感じ取るという、芸術固有の仕組みを考えたものとして読む方が自然である。

生成AIは、現代の「人形」なのか

 そして令和には、近松の時代には存在しなかった新しい問題が加わった。生成AI(Generative Artificial Intelligence・生成型人工知能)である。

 生成型人工知能は、大量の文章から言語のパターンを学習し、小説らしい文章、恋愛小説らしい台詞、悲しい回想のような文章まで生成することができる。その登場によって、「作者とは誰なのか」「創造性とは何なのか」「人間と道具の境界をどこに置くのか」といった問いが、文学や芸術の世界でも改めて議論されるようになった。

 ここで人形浄瑠璃を思い出すと、不思議な類似が見えてくる。木偶には人生経験も感情もない。それにもかかわらず、近松の文章、太夫の語り、人形遣いの動きが重なれば、観客はその人形の悲しみに涙する。生成型人工知能にも、人間と同じ意味で幼少期の記憶や失恋経験があるわけではない。それでも生成された文章を読んだ人間が、そこに悲しみや孤独を感じることはあり得る。

 もちろん、人形浄瑠璃と生成型人工知能が同じだということではない。これは科学的な同一性ではなく、表現の構造を比較するための類推にすぎない。しかし、感情を持たない媒体を通して、人間が感情を受け取るという点では興味深い共通性がある。

 むしろ近松から学べるのは、木偶だけを見ても人形浄瑠璃を理解できないということである。そこには作者がおり、太夫がおり、三味線があり、人形遣いがいる。同じように生成型人工知能を用いた作品についても、機械が文章を生成したという一部分だけを見るのではなく、誰が指示を与え、誰が文章を選び、どこを削り、どのような作品として提示したのかという制作過程全体を見る必要があるだろう。

 そう考えると、令和に現れた「皮膜」は、事実と虚構の境界だけではない。人間と機械、経験と言葉、作者と道具、創作と編集の境界にも、新しい皮膜が生まれている。

文学は「本当のことを書く技術」ではない

 では、近松門左衛門の虚実皮膜論は、令和の文学にも通じるのだろうか。結論を言えば、十分に通じる。ただし、それは近松が三百年前にオートフィクションや生成型人工知能を予言していたという意味ではないし、人形浄瑠璃のために語られた芸論を、そのまま現代の文学理論として使えるという意味でもない。

 それでも、近松が向き合った問いそのものは古びていない。現実そのものよりも作られた物語の方が、人間に現実を強く感じさせることがあるのはなぜなのか。実際には誰も口にしなかった台詞が、なぜ人間の本心を言い当てているように聞こえるのか。作者が体験した出来事をそのまま記録した文章より、存在しない人物について書かれた小説の方が、なぜ自分自身の人生について考えさせてくれることがあるのか。

 文学は現実をそのまま映す鏡ではない。もし完全な鏡ならば、そこに映るのは私たちが毎日見ている現実と同じものだけである。しかし文学は現実を削り、並べ替え、誇張し、時には存在しなかった出来事を加える。その加工された像を通して初めて、日常の中では見落としていた人間の感情や社会の姿が見えてくることがある。

 だから優れた小説を読み終えた読者は、ときに「こんなことは現実には起こらないだろう。それでも、なぜか分かる」と感じる。考えてみれば不思議な感想である。事実ではないと理解しながら、その物語を真実のように受け取っているからである。

 三百年前、近松門左衛門が「実」と「虚」の間に見ていたものは、まさにこの奇妙な場所だったのかもしれない。事実だけでは届かず、嘘だけでも届かない。その薄い境界で、作り物が突然、人間の現実へ触れる。

 令和になっても文学が文学であり続ける限り、その皮膜が消えることはないだろう。むしろ実話と創作、人間と生成型人工知能、記録と物語の境界が以前より複雑になった現在だからこそ、近松の古い言葉は思いがけず新しく響く。三百年前の人形浄瑠璃の舞台と、令和の小説や生成型人工知能との間には途方もない時間が流れているが、そこで人間が問うていることは、案外変わっていないのである。

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本を買って帰ると、読み始める前に帯を外してしまう人がいる。反対に、読み終えるまで帯を付けたままにしておく人もいるし、読み終えたあとも表紙と一緒に保存しておく人もいる。帯というものは、本そのものに比べればあまりに頼りない。少し乱暴に扱えば折れ、破れ、古書になれば失われ、図書館では取り除かれることさえある。それほど脆弱な紙なのに、読書という行為を考えるとき、帯は思いのほか厄介な存在である。

なぜなら、帯は捨てることができても、一度そこに書かれていた言葉を読んだという事実までは捨てられないからだ。

「今年最大の問題作」「涙なしには読めない」「最後の一行ですべてが覆る」。そうした言葉を目にしてから本を開けば、読者はもう完全な白紙ではない。「最後の一行」が重要だと知らされた読者は、何気ない会話にも伏線を探すようになるかもしれないし、「涙なしには読めない」と告げられた読者は、物語のどこかに待っているはずの悲しみを無意識に探し始めるかもしれない。もちろん、帯に書かれた通りにすべての人が読むわけではない。それでも、まだ一頁も読んでいない段階で「この作品は何を見るべき本なのか」という予想が生まれている以上、帯を読まなかった場合とまったく同じ読書が始まるとは考えにくい。

帯は本文を書き換えない。しかし、本文へ向ける読者の視線の角度を変えることはある。その意味で、帯は本の外側にある小さな広告であると同時に、読書が始まる直前に差し出される最初の解釈でもある。

読書は第一行より前に始まっている

文学作品とは何かと問われれば、多くの人は本文そのものを思い浮かべるだろう。しかし実際に私たちが一冊の本と出会うとき、文章だけが裸の状態で現れることはない。書店ではまず題名が見え、作者名が見え、表紙の色や写真やイラストが目に入り、文学賞の受賞歴や映画化の告知まで視界に入ってくる。そのうえ日本の書籍では、しばしば表紙の一部を覆うように帯が巻かれ、作品について最も断定的な言葉を読者へ投げかけている。

フランスの文学理論家ジェラール・ジュネットは、題名や作者名、序文、装丁など、本文そのものではないにもかかわらず、読者が作品へ入っていく過程に関与する要素を「パラテクスト」として論じた。ジュネットが興味深いのは、こうしたものを単なる付属品と考えなかったところにある。本文と外部世界との境目に位置し、読者が作品へ近づく際の「敷居」のようなものとして捉えたのである。日本独特の出版文化である帯をジュネット自身が詳しく論じたわけではないが、出版社が作品の外側に置き、読者に対して「これはこういう本です」と語りかける帯を、この理論の延長上に置いて考えることには十分な妥当性がある。

そう考えると、私たちは本文の第一行から読書を始めているのではないことになる。本を手に取った瞬間から、すでに作品についての情報を受け取り、その情報を携えたまま第一行へ入っていく。帯はその過程の一部分にすぎないが、日本の書店では非常に目立つ位置を占めているため、読書の入口として無視しにくい。

この「入口」という考え方は重要である。帯が作品の意味そのものを決定すると考える必要はない。しかし、一つの作品にいくつもの入口があるとき、どの入口を最初に明るく照らすかには関与できるからである。

「泣ける小説」と知らされてから読む

仮に、何の予備知識もない小説を渡されたとしよう。読み始めた段階では、それが恋愛小説なのか、家族の物語なのか、社会の矛盾を描いた作品なのかさえ分からないかもしれない。物語を追いながら人物関係を理解し、何が重要なのかを探し、自分なりに作品の輪郭をつくっていく。その過程では、「自分はいったい何を読んでいるのだろう」と考えること自体が読書の楽しみになる。

ところが同じ作品に「今年もっとも泣ける家族小説」という帯が巻かれていたら、事情は少し変わる。家族の場面が現れたとき、それを作品の中心に近いものとして受け取りやすくなるだろうし、登場人物の何気ない別れにも後の悲劇を予感するかもしれない。反対に「現代社会の孤独を描いた問題作」と書かれていれば、同じ会話の中に家族愛よりも断絶を読み取る可能性が高まる。同じ文章を読んでいるにもかかわらず、読む前に渡された言葉によって、何を重要なものとして拾い上げるかが変わり得るのである。

この考え方には、少なくとも周辺的な実験研究の裏付けがある。ピーター・ディクソン、マリサ・ボルトルッシ、ポール・ソプチャークが2015年に発表した研究では、文学作品の抜粋を読む前後に、その作品についての評価情報を提示し、読者の評価がどのように変化するかが調べられた。結果は単純に「事前情報なら何でも強く効く」というものではなく、誰による評価なのか、それが肯定的か否定的か、読む前なのか後なのかによって効果が異なっていた。とりわけ作品を読む前に専門家による否定的な評価を示した場合には影響が明瞭であり、研究者たちは、事前情報が本文中のある要素へ読者を向かわせる「方向づけ」として働く可能性を論じている。

ただし、この研究は日本の本の帯を使った実験ではない。ここを飛ばして「帯が読者の解釈を変えることは科学的に証明されている」と言えば、記事はたちまち過剰な断定になってしまう。実証されているのは、作品の外部から与えられた情報が作品評価や読みの方向に影響し得るというところまでであり、そこから帯にも似た作用があるのではないかと考えることは合理的な推論ではあっても、同一のものではない。

むしろ、この不確かさを残しておいたほうが帯という存在はおもしろい。私たちは毎日のように帯を目にしているのに、「同じ本文に違う帯を巻いたら、本当に読後の解釈は変わるのか」という極めて素朴な問いには、まだ十分な実験的答えがないからである。

帯は作品の中から一つの顔を選び出す

そもそも、一冊の小説を一つの言葉だけで説明することには無理がある。長く読まれてきた作品ほど、家族の物語として読むこともできれば、恋愛や孤独、階級、戦争、老い、成長についての物語として読むこともできる。同じ作品を二十歳で読んだときと六十歳で読んだときに違うものが見えるのも、作品の意味が一つに閉じていないからだろう。

しかし、出版社には別の事情がある。書店の棚を通り過ぎる読者に、「この作品にはいろいろな読み方があります」と語るだけでは、本の魅力を一瞬で伝えにくい。そこで帯は、作品が持っているいくつもの可能性の中から、いま最も読者へ届きそうな一面を選び出して前面へ押し出す。

かつて新世代の恋愛小説として売られた作品が、三十年後の新装版では「孤独の時代を予見した名作」と紹介されることもあり得るし、作者の生前には新作として宣伝されていた作品が、没後には「文豪の代表作」という権威をまとって書店へ戻ってくることもある。本文そのものがほとんど変わっていないのに、作品について語る言葉だけが変化していくとすれば、そこに見えてくるのは作品の変化ではなく、作品を見る社会の変化である。

ここで帯は、単なる販売促進物とは違った価値を持ち始める。

古い帯を年代順に並べれば、その作品が社会からどのように位置づけられてきたのかという、小さな受容史をたどることができるかもしれない。ただし、「当時の帯に青春小説と書かれているから、当時の読者は青春小説として読んでいた」とまで考えるのは行き過ぎである。帯から直接分かるのは、出版社や編集者が「この時代の読者には、この作品をこう提示しよう」と判断したということだからだ。実際の読者がどう受け止めたかを確かめるには、当時の書評や読者投稿、日記、売上記録など、別の資料を重ねる必要がある。

それでも、出版社がどの言葉なら作品を社会へ届けられると考えたかを知る資料として、帯は十分におもしろい。同じ作品の帯を二十年、三十年と追えば、その作品の歴史だけでなく、出版社が想定していた読者像の変化まで見えてくる可能性がある。

「読め!」という帯の伝説

帯の歴史を調べていくと、その起源が意外にはっきりしていないことにも気づく。

国立国会図書館のレファレンス協同データベースには、本の帯の歴史について調査した事例が収録されており、その中では1914年に刊行された阿部次郎『三太郎の日記』に付けられた帯が古い例として紹介されている。その帯には白い紙に緑色の文字で、ただ「読め!」と記されていたという話がある。

文学や出版に興味のある人なら、この二文字には強く惹かれるだろう。現代の帯のように「感動」「衝撃」「人生が変わる」といった効能を説明するのではなく、ただ本へ向かって読者を押し出しているからである。

しかし、この話を「日本最初の帯」として断定することはできない。同じレファレンス資料にも裏付けが取れていない旨が記されており、昭和初期の左翼出版物から帯が始まったという別の説も存在する。したがって、「日本の帯は『読め!』から始まった」と書けば歴史的事実としては危うい。

それでも、確証のない逸話であることを承知したうえで、この「読め!」という二文字を帯の象徴として眺めてみると、現代の帯との連続性が見えてくる。現在の帯は、読者に対して露骨に命令するかわりに、「涙が止まらない」「衝撃のラスト」「いま読むべき一冊」と語りかける。表現は柔らかくなり、マーケティングとして洗練されたが、その根底には「まずこの本を手に取ってほしい」という同じ願いがある。

ただ、現代の帯にはそこからさらに一歩進んだ働きがあるように思える。

「この本を読んでほしい」だけではなく、「できれば、この本をこのように読んでほしい」という働きである。

ネタバレをしなくても、感情の予定表は渡せる

帯を書く人は当然、物語の核心をそのまま明かすわけにはいかない。推理小説で犯人を書いたり、大きなどんでん返しの内容を説明したりすれば、本を売るどころか作品の魅力を損なうことになる。

ところが、出来事を隠したままでも、その出来事に対して読者が抱くはずの感情については先に教えることができる。「衝撃の結末」と書かれていれば、読者は平凡な終わり方を予想しなくなるし、「涙のラスト」と書かれていれば、何が起きるかは知らなくても、悲しみが待っていると予想する。「すべての伏線がつながる」と書かれれば、それまでなら読み流した一言まで、後で意味を持つのではないかと疑いながら読むようになる。

これは普通の意味でのネタバレではない。出来事そのものは明かされていないからである。しかし、読者が物語を読みながら自分で発見するはずだった感情の方向だけは、先回りして示されている。

文学を読む楽しみの一部は、自分が何を読んでいるのかを途中で発見することにある。恋愛小説だと思っていたものが、読み進めるうちに老いの小説へ変わって見えることもあれば、家庭の話として読み始めた作品が、最後には社会全体の構造を描いた物語に思えてくることもある。作品が途中で別のものになったわけではない。読む側の理解が変化したのである。

帯があまりに丁寧に作品の「正しい読み方」を先回りしてしまえば、この発見の余地を少し狭める可能性はあるだろう。ただし、ここでも「必ず狭める」と断定するのではなく、帯そのものを用いた実験が必要である。同じ小説に「切ない恋愛小説」と「現代社会の孤独を描いた問題作」という二種類の帯を付け、それぞれ別の読者に読ませて、重要だと感じた人物や場面、作品の主題、読後評価を比較すれば、帯が解釈に与える影響をより直接的に測ることができる。さらに視線計測などを組み合わせれば、帯の言葉が本文中のどこへ注意を向けたのかまで調べられるかもしれない。

このような研究が十分に積み重なっていない以上、帯の支配力を数字で表すことはまだできない。だが、そのことはこのテーマの弱さではなく、むしろ文学研究と認知科学と出版研究の間に、まだ調べられていない余白が残っていることを意味している。

帯を外しても、純粋な読者には戻れない

では、帯による先入観を避けたいなら、帯を読まずに外してしまえばよいのだろうか。

おそらく、それでも問題は解決しない。

私たちは帯だけから予備知識を得ているわけではないからである。太宰治という名前を知って『人間失格』を読むことと、作者について何一つ知らずに同じ文章を読むことは同じではない。「世界文学の名作」と書かれたシリーズに収録されていれば、理解できない箇所に出会ったとき、「つまらない作品だ」と判断する前に、「自分がまだ理解できていないのではないか」と考える人もいるだろう。文学賞の受賞作だと知っていれば、それだけで作品のどこかに評価された理由を探そうとすることもある。

友人から「人生で一番好きな小説だ」と薦められた本と、古書店の均一棚で偶然見つけた無名の本とでは、同じ本文であっても最初の姿勢は違ってくる。映画を先に見ていれば俳優の顔を思い浮かべながら読むし、学校で文学史を学んでいれば作者の時代背景を重ねながら読む。

つまり、帯だけを取り除けば「何の先入観もない純粋な読書」が現れるわけではない。そもそも、そのような読書は現実にはほとんど存在しないのである。

だから帯について考えるとき、本当に興味深いのは、先入観を完全に排除できるかどうかではない。私たちが作品へ到達するまでに、どのような情報を通過してきたのかを自覚することである。その意味でジュネットのいう「敷居」という比喩はよくできている。敷居は家そのものではないが、家へ入るときにはそこを越える。読書にも同じように、本文の外側から本文へ入っていく通路がある。

帯は、その通路の中でひときわ声の大きな存在なのだろう。

読み終えたとき、帯のほうが試される

ただし、帯と読者の関係は、本を読み終えた瞬間に大きく変わる。

読む前には、読者はまだ作品を知らない。だから「感動の家族小説」「究極の恋愛小説」「今年最大の問題作」といった言葉は、作品を見るための強い手掛かりになる。しかし最後の頁まで読み終えれば、読者自身の中に、その作品についての経験ができあがっている。

すると、それまでは作品を説明していた帯が、今度は読者から評価される側へ回る。

「感動の家族小説」と書いてあったのに、自分にはむしろ家族という制度の息苦しさを描いた作品に思えた。「究極の恋愛小説」という宣伝に惹かれて読んだのに、読み終えて残ったのは恋愛より孤独についての感覚だった。そう感じた瞬間、読者は帯に示された入口とは違う場所から作品を見始めている。

この逆転こそ、帯が作品を完全には支配できない理由でもある。

帯には最初の入口を選ばせる力があるかもしれない。しかし、一度作品の内部へ入った読者が、どこを歩き、何を見つけ、どの出口から出てくるかまで決めることはできない。むしろ優れた文学作品ほど、帯が与えた説明からはみ出していく。恋愛小説だと思って開いたのに政治的な作品に見え、青春小説だと思って読んだのに老いについて考えさせられる。その予想外のはみ出しこそ、読書のおもしろさなのである。

再読すれば、この関係はいっそう変わる。一度目の読書では帯に照らされて重要に見えた人物が二度目には背景へ退き、最初には気づかなかった場面が作品の中心に見えることもある。本文は同じなのに作品が変わったように感じるのは、読む人間の側が変わったからである。

本より先に消えていくもの

帯がさらに興味深いのは、作品本文よりもはるかに寿命が短いことである。

小説は文庫になり、全集に入り、電子化され、百年後まで残ることがある。しかし帯はそうではない。買った人が捨てればそれまでであり、古書の流通過程で失われることもある。作品が後世へ残ったとしても、刊行当時にその作品をどんな言葉で売ろうとしていたのかは、簡単に消えてしまう。

だからこそ、残された古い帯には独特の価値がある。

作品本文が長い時間を生きようとするのに対して、帯は「いま」に強く結びついている。いまこの作家はどう評価されているのか、いまの読者にはどんな言葉が響くのか、いまこの作品のどの部分を押し出せば手に取ってもらえるのか。帯には、その時代の出版社が考えた答えが数十文字に圧縮されている。

もちろん、ある時代の帯に「号泣」という言葉が多いからといって、その時代の読者全員が泣ける小説を求めていたと断定することはできない。そこから直接読み取れるのは、出版社側が「感情の強さを前面に出すことには販売上の意味がある」と考えていたという程度である。

しかし、一枚ではなく何百枚、何千枚という帯を時代ごとに並べれば、別のものが見えてくるかもしれない。「感動」「衝撃」「癒やし」「人生」「共感」といった言葉がいつ増え、いつ消えたのかを追えば、出版業界がどんな読者を想定してきたのかという文化史へ近づいていく。

帯は本を説明する資料であると同時に、本を売ろうとした時代を記録する資料でもある。

その意味で、最も捨てられやすい紙が、最もその時代らしい言葉を残しているという逆説が生まれる。

帯が支配するのは「作品」ではなく「入口」なのかもしれない

では結局、本の帯は作品の読み方をどこまで支配しているのだろうか。

科学的に厳密に答えるなら、現時点で「どこまで」という大きさを示すことはできない。作品外から与えられた評価情報が読者の作品評価や読みの方向に影響し得ることには実験的な裏付けがあるが、日本の帯そのものについて、異なるコピーを無作為に提示し、その後の作品解釈まで比較した研究が十分に蓄積されているわけではないからである。

したがって、「帯は読者を支配する」と事実として断定するのは強すぎる。

しかし同時に、帯を作品とは無関係な紙片として片づけることも難しい。

読む前に目へ入り、作品のジャンルを名づけ、感情を予告し、ときには「この作品の価値はここにある」と断定する。その言葉を読者が携えたまま本文へ入る以上、帯は作品の意味そのものではなくても、作品へ入る最初の方向には関与していると考えるのが自然だろう。

帯は作品を支配するのではなく、入口を支配しようとする。

おそらく、そのくらいの言い方が最も正確である。

けれど入口は一つではない。

出版社が「ここから入ってください」と扉を開いても、読者は中へ入ったあとで別の廊下を見つけることができる。読み終えたあとには、そもそも別の入口から入ったほうがよかったと思うことさえある。

そして、そのときもう一度帯を眺めると、読む前には作品そのものの説明に見えた数十文字が、別のものに見えてくる。

それは出版社による一つの解釈であり、その時代が作品に与えた一つの名前であり、読者をある方向へ誘おうとした小さな痕跡である。

本の帯は、本の腰に巻かれた薄い紙にすぎない。破れば捨てられるし、なくても本文は一文字も欠けない。それでも、一度そこに書かれた言葉を読んだあとでは、その言葉が存在しなかった読書へ完全に戻ることはできない。

だから帯を読むということは、広告を読むことだけではない。

誰かがこの作品をどう読ませようとしたのかを読むことであり、その誘いに自分がどこまで従い、どこから外れたのかを確かめることでもある。

そう考えれば、一冊の本を読み終えたあとに帯をもう一度見るという行為には、少し違った意味が生まれる。

読む前には帯が作品を説明していた。

読み終えたあとには、作品を知った自分が帯を読む。

その小さな逆転の中に、本と読者と出版社との関係が凝縮されている。

文学は本文の第一行からだけ始まるのではない。私たちがその第一行へたどり着くまでに目にした言葉もまた、読書という経験の一部なのである。

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~日本文学でありながら、国境を越えて読まれる理由を考える~

日本の作家でありながら、世界の多くの国で名前を知られている作家がいる。村上春樹である。

村上春樹の作品は、現在では50を超える言語に翻訳され、アジア、ヨーロッパ、北米をはじめ、さまざまな地域で読まれている。日本で人気のある作家が外国語に翻訳されること自体は珍しくないが、村上春樹の場合は、単に「日本の有名作家が海外でも紹介されている」という段階を越えている。国によって読者層は異なり、作品の受け止め方も違う。それでも長く読み継がれ、新作が出れば世界各地で話題になる作家になっている。

なぜなのだろう。

日本文化への関心が高いからなのか。翻訳に恵まれたからなのか。文章が読みやすいからなのか。それとも、世界の読者が共感できる何かが作品の中にあるからなのか。

おそらく、そのどれか一つでは説明できない。

村上春樹の小説には、日本で書かれた文学でありながら、日本社会について詳しい知識を持たなくても作品の中へ入っていける特徴がある。その一方で、物語の中心には孤独や喪失、自分が自分であることへの違和感、他人との距離といった、人間が国籍に関係なく抱きうる感情が置かれている。

そして、そこには音楽があり、食事があり、仕事があり、恋愛があり、都市生活がある。極めて日常的な生活が続いていると思うと、そのすぐ隣に説明のつかない世界が開く。

この現実と非現実の混ざり方に、村上春樹が世界で読まれる理由の一つがあるのではないかと思う。

日本を説明しなくても読める日本文学

外国文学を読むとき、その国の歴史や宗教、社会制度についての知識がないために、作品へ入りにくいことがある。

私自身、高校生のころにフランス文学やロシア文学へ挑戦したことがあるが、作品そのものの難しさに加えて、そこに描かれている社会の仕組みや階級、宗教観、人物の複数の呼び名などが理解を難しくした。

その経験から考えると、村上春樹の小説には、外国人読者にとって比較的入りやすい部分があるように思う。

登場人物は音楽を聴く。食事を作る。コーヒーを飲む。本を読む。仕事をする。誰かからの電話を待つ。失われた人を思い出す。

もちろん舞台は日本であり、日本社会の中で人物は生活している。しかし、それらの日常は、日本にしか存在しないものではない。

ニューヨークでもロンドンでもパリでも、あるいは上海でもソウルでも、人は一人で食事をし、音楽を聴き、誰かを思い出す。

つまり、村上作品には、読者が自分の生活から物語へ入っていける入口がある。

外国文学を読むときに必要になることのある「まずその国を理解しなければならない」という壁が、比較的低いのである。

だからといって、村上春樹の文学が日本的でないということではない。

むしろ重要なのは、日本社会の中にいる人物を描きながら、そこに普遍的な生活感覚が存在していることではないだろうか。

西洋文化の影響だけでは説明できない

村上春樹については、しばしば「西洋的な作家」という評価がなされる。

実際、作品の中にはジャズやクラシック音楽、ロックなどが頻繁に登場する。外国文学への言及も多く、本人自身が英語圏文学から強い影響を受けてきたことも知られている。

しかし、「西洋的だから西洋でも読まれた」と考えるだけでは、説明としては不十分である。

もし外国文化を取り入れるだけで世界的な作家になれるのであれば、同じことをしている作家は世界中に数多く存在するはずだからである。

村上春樹の場合に興味深いのは、西洋文化を異物として描くのではなく、日本の日常生活の中へ自然に置いているところだと思う。

登場人物がジャズを聴いていても、それは外国文化を紹介するためではない。クラシック音楽について語っていても、教養を示すためだけに登場するわけではない。それらは人物の生活の一部として存在している。

考えてみれば、現在の私たちの生活そのものがそうである。

日本人がアメリカの音楽を聴き、ヨーロッパの映画を見て、外国製のコンピューターを使い、海外の情報に日常的に接する。

同時に、外国の人々も日本のアニメや小説に触れ、韓国の音楽を聴き、世界中の文化を混ぜながら生活している。

現代社会では、文化はすでに国境できれいに分かれてはいない。

村上春樹の小説は、そうした時代の生活感覚をかなり早い段階から文学の中に取り込んでいたのではないかと思う。

孤独は国境を越える

しかし、文化的に入りやすいというだけなら、村上作品がこれほど長く世界で読まれている理由にはならない。

もっと重要なのは、物語の中心に置かれている人間の問題である。

村上春樹の小説には、孤独な人物がしばしば登場する。

ただし、その孤独は社会から完全に排除された人間の孤独とは限らない。

仕事を持っている。住む場所もある。恋人や配偶者がいることもある。日常生活も送っている。それでも、どこか世界と完全にはつながっていない。

周囲と普通に会話をしながら、自分だけが少し別の場所にいるように感じる。

誰かを失った記憶が残っている。

過去の出来事から完全には離れられない。

自分は何者なのかと考える。

この感覚は、日本人だけのものではない。

むしろ、都市化が進み、人間関係が複雑になった現代社会では、多くの国の読者が理解できる感情ではないだろうか。

大勢の人に囲まれていても孤独を感じることがある。

SNS(Social Networking Service・インターネット上で人と交流し情報を発信するサービス)で多くの人と接続していても、心の距離が縮まるとは限らない。

社会が便利になれば、人間の孤独が自動的に消えるわけでもない。

むしろ、社会との接続が増えるほど、自分自身の内側にある孤独がはっきり見える場合もある。

村上春樹の小説には、そのような現代人の感覚が繰り返し現れる。

だから読者は、作品の舞台が日本であっても、自分自身の問題として読むことができるのだと思う。

日常のすぐ隣に、別の世界がある

村上春樹の小説を特徴づけるものの一つが、現実と非現実の境界の曖昧さである。

主人公は普通に生活している。

朝起きて、食事をし、音楽を聴き、仕事をする。

ところが、その日常の中に突然、説明のできない出来事が入り込んでくる。

現実には存在しないような場所へ行くこともある。夢と現実の境界が曖昧になり、不可解な人物と出会うこともある。

しかし、それらは完全なファンタジー世界として切り離されてはいない。

あくまでも現実の続きとして現れる。

昨日まで普通だった世界の床板が一枚外れ、その下に別の世界があることに気づくような感覚である。

この構造もまた、国境を越えやすい。

特定の宗教や神話について詳しい知識を持っていなくても、「今、自分が見ている世界だけが本当なのだろうか」という感覚は理解できるからである。

人間は現実の中で生きているが、頭の中では常に記憶や想像、夢と一緒に生きている。

過去に起きたことを現在の出来事のように思い出すこともある。

存在しない未来について不安になることもある。

現実だけで人間の内面を説明することはできない。

村上春樹の小説は、その内面を異世界や夢のような形にして見せているとも考えられる。

音楽が作品の中に流れている

村上春樹の作品について語るとき、音楽を無視することはできない。

ジャズ、クラシック、ロックなど、多くの音楽が作品の中に登場する。

興味深いのは、この音楽が世界の読者をつなぐ共通の記号になることである。

日本語の文章は、外国の読者が読むためには翻訳されなければならない。

しかし、作品の中に登場する音楽そのものは翻訳する必要がない。

日本の登場人物が聴いている曲を、アメリカの読者も知っているかもしれない。ヨーロッパの読者も同じ演奏家を聴いているかもしれない。

すると、日本語で書かれた小説の中に、読者がすでに知っている世界が現れる。

これは作品への距離をかなり縮める。

また、音楽は単なる固有名詞ではなく、作品の時間や感情を作る役割も持っている。

文章を読みながら、読者の頭の中では音が鳴る。

本来、文字だけで作られている小説の中に、音楽によるもう一つの層が生まれる。

この感覚も、村上作品の独特な読みやすさと世界性に関係しているように思う。

翻訳されても残りやすい文章

世界文学として広がるためには、当然ながら翻訳が必要になる。

村上春樹の作品が多くの言語で読まれているということは、作品そのものの魅力だけでなく、それを別の言語へ移した翻訳者の仕事があって初めて成立する。

ただ、それと同時に、村上春樹の文章には、他言語に移しても一定の骨格を保ちやすい特徴があるのではないかとも思う。

文章は比較的明確で、過度に古典的な日本語表現に依存していない。

難しい修辞を幾重にも重ねるというより、比較的平明な文章を積み上げながら独特のリズムを作る。

もちろん、日本語で読む場合と英語やフランス語で読む場合とが同じであるはずはない。

翻訳は必ず何かを変える。

しかし、孤独や喪失という主題、人物の会話、音楽、食事、都市生活、現実と異世界の境界といった作品の大きな構造は、言語が変わっても比較的残りやすい。

さらに、村上春樹自身が長く翻訳を行ってきた作家であることも興味深い。

自分の文章を書く一方で、別の言語で書かれた文学を日本語へ移す仕事を続けてきた。

一つの言葉を別の言葉に移すと何が残り、何が失われるのかを、作家自身が経験してきた。

それが自分の文章にも何らかの影響を与えていると考えるのは、不自然ではないだろう。

本当に「無国籍」なのか

村上春樹については、「無国籍的な文学」という表現が使われることがある。

確かに、世界中の読者が入りやすいという意味では理解できる。

しかし、完全に国籍のない文学というものが本当に存在するのだろうか。

村上春樹は日本語で書いている。

日本社会の中で生きてきた。

東京をはじめ日本の都市も作品に登場する。

日本の歴史や社会と関係する作品もある。

したがって、日本性がないから世界で読まれると考えるのは適切ではない。

むしろ、村上作品の特徴は、日本の中にいながら世界と接続しているところにあるのではないか。

その姿は、現在の日本人の生活そのものにも近い。

私たちは日本語で暮らし、日本の社会制度の中で生活している。しかし同時に、外国の音楽を聴き、海外の映画を見て、世界中の情報に接している。

完全に日本だけで閉じた生活でもなければ、国籍を失った生活でもない。

村上春樹の文学は、その中間にある現代人の感覚を早い時期から描いていたのだと思う。

説明されないことが残る

村上春樹の作品を読んでいると、最後まで説明されないことが残る。

なぜあの出来事が起きたのか。

あの人物は何を意味していたのか。

なぜあの場所へ行かなければならなかったのか。

すべてが論理的に整理され、読者に答えとして提示されるとは限らない。

この点は評価が分かれる。

余韻と考える読者もいる。

曖昧だと感じる読者もいる。

謎が残ることで作品について考え続ける人もいれば、結末がはっきりしないことに不満を持つ人もいる。

世界で読まれている作家だからといって、すべての読者が同じように高く評価しているわけではない。

これは当然のことである。

世界的人気と文学的評価は別であるし、販売部数と作品の完成度も同じではない。

村上作品には、同じような人物設定やモチーフが繰り返されるという批判もある。

孤独な人物、失われた誰か、音楽、料理、猫、井戸、地下空間、夢、別世界。

長く読み続けている読者から見れば、また同じ世界が現れたと感じることもあるだろう。

しかし、その反復そのものが「村上春樹らしさ」を作っているとも言える。

音楽家が新しい曲を作っても、その人の音だと分かるように、文学にも作者固有の世界がある。

数ページ読めば村上春樹だと分かる。

それほど明確な作家性を持つことは、世界中に固定読者を作るうえでも大きな力になる。

世界で読まれるのは、世界を書いているからではない

村上春樹が世界で読まれる理由を考えていくと、少し逆説的なことに気づく。

世界を説明しているから世界で読まれるのではない。

国際政治を書いているからでもない。

世界各地を舞台にするからでもない。

むしろ、一人の人間の内側を書いているから世界へ広がっているのではないかと思う。

誰かを失った記憶。

自分は何者なのかという問い。

他人と完全には理解し合えない感覚。

社会の中に居場所を持ちながら、どこか違和感が残ること。

過去から離れたつもりでも、突然その記憶が戻ってくること。

これらは国籍を問わない。

人間であることそのものに関係する。

文学が国境を越えるとき、本当に読者をつなぐものは異国情緒だけではない。

「この感覚は自分にも分かる」

という瞬間である。

日本人の登場人物が感じている孤独を、別の国の読者が自分自身の孤独として読む。

日本の都市で起きた物語が、外国の読者の人生と重なる。

そのとき小説は、日本文学でありながら日本だけのものではなくなる。

世界文学とは何なのか

村上春樹について考えていると、最後には「世界文学とは何か」という問いに行き着く。

世界文学とは、国籍を失った文学ではない。

どこの国のものでもなくなることでもない。

むしろ、一つの土地、一つの言語、一人の作家から生まれた物語が、別の土地にいる人間にも届くことなのではないだろうか。

村上春樹は日本語で書く。

翻訳者がそれを別の言語へ移す。

アメリカの読者が読む。

中国の読者が読む。

ヨーロッパの読者が読む。

しかし、それぞれの読者がまったく同じ村上春樹を読んでいるわけではない。

日本人には当たり前に見える場面が、外国の読者には強い日本性として感じられるかもしれない。

逆に、日本人には特別ではない音楽や生活の描写が、外国の読者にとって親近感を生むこともある。

同じ文章でも、読者の経験によって意味は変わる。

文学は、作者が一つの正解を世界へ配るものではない。

読者が自分自身の人生を持ち込むことで、一つの作品が何通りもの意味を持つ。

そこに文学が国境を越える本当の力があるのだと思う。

日本から世界へではなく、人間から人間へ

では、村上春樹はなぜ世界で読まれるのか。

日本文化への関心もあるだろう。

翻訳の力も大きい。

文章の読みやすさも関係している。

音楽や都市生活の描写が国境を越えやすいことも理由の一つである。

しかし、その中心にあるのは、人間の孤独と喪失、自分自身への違和感ではないだろうか。

誰かを失うこと。

誰かを求めること。

世界とうまくつながれないこと。

それでも日常を続けていくこと。

その感覚を、日本の作家が日本語で書き、それを別の国の読者が自分の問題として読む。

そのとき文学は、日本から外国へ輸出される商品というだけではなくなる。

一人の人間から、別の一人の人間へ言葉が届く。

それが翻訳文学なのだと思う。

村上春樹が世界で読まれているという事実は、文学というものが、国境や言語の違いを越えて人間の内側へ入っていくことができることを示している。

世界のどこかで、一人の読者が本を開く。

そこには日本で書かれた物語がある。

けれども読み進めるうちに、その人が見ているのは遠い日本だけではなくなる。

いつの間にか、自分自身の孤独や記憶や喪失を読んでいる。

おそらく、村上春樹が世界で読まれる最大の理由は、そこにあるのだと思う。

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