リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

角川映画が若者を惹きつけた時代

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 1970年代後半から1980年代にかけて、「角川映画」という言葉には、単なる映画の製作ブランドを超えた特別な響きがあった。映画館では新作が話題となり、書店には原作となった角川文庫が並び、テレビでは印象的な宣伝が繰り返された。ラジオやレコード店からは映画の主題歌が流れ、作品に出演した若い俳優が新しいスターとして注目を集める。映画、出版、音楽、広告が互いに結びつくことで、角川映画は当時の大衆文化の中で独特の存在感を持つようになったのである。

 現在の視点から見れば、こうした仕組みは「メディアミックス」と呼ばれる販売戦略として説明できる。一つの作品や企画を複数の媒体で展開し、それぞれの認知度や販売機会を高める方法である。しかし、当時の若者にとって角川映画が持っていた意味は、必ずしも企業の販売戦略だけでは説明できない。映画を見ること、本を読むこと、音楽を聴くこと、新しいスターに憧れることが重なり合い、一つの文化体験として記憶されていったからである。

 もっとも、角川映画の観客が若者ばかりだったわけではない。初期の作品には幅広い年齢層を対象とした大作も多く、若者の支持が他の映画より際立って高かったかどうかを判断するには、当時の観客の年齢構成などを確認する必要がある。それでも、1980年代に若い俳優を中心とした作品が相次いで登場し、音楽や出版とともに注目されたことは、角川映画と青春文化の関係を考えるうえで重要な歴史的事実である。

『犬神家の一族』から始まった角川映画

 角川映画の出発点は、1976年11月に公開された市川崑監督の『犬神家の一族』である。横溝正史の推理小説を原作とするこの作品は、角川映画の第1作として位置づけられており、出版社が映画事業へ本格的に進出する象徴的な出来事となった。1975年に角川書店の社長となった角川春樹は、書籍の出版だけに事業を限定せず、映画を通じて原作や作家の知名度をさらに高める方法を推し進めたのである。

 当時の映画製作と配給の仕組みを正確に見ると、『犬神家の一族』を製作したのは角川春樹事務所であり、配給を担当したのは東宝だった。翌1977年の『人間の証明』も角川春樹事務所が製作し、東映が配給している。つまり、角川書店が映画の製作から配給、上映までを単独で担っていたわけではなく、既存の映画会社が持つ配給網を活用しながら、出版と映画を結びつける事業を展開したのである。

 その戦略を象徴するのが、「読んでから見るか、見てから読むか。」という有名な宣伝コピーだった。原作小説を読んだ人に映画館へ足を運んでもらうだけでなく、映画を見た人にも原作小説への関心を持ってもらう。映画と書籍のどちらを先に楽しんでもよいという発想は、読者と観客の双方に働きかけるものだった。小説の映画化自体は以前から存在していたが、出版社が映画製作に積極的に関与し、大規模な宣伝と文庫販売を継続的に連動させたことに、角川映画の大きな特徴があった。

 この戦略は商業的にも成果を収めた。『犬神家の一族』の配給収入は15億6,000万円に達し、角川書店が展開した横溝正史作品の販売促進では、文庫40点で1,800万部を超える販売実績が記録されている。ただし、これは複数の横溝作品を対象とする実績であり、すべてが『犬神家の一族』という映画一本の効果だったと解釈することはできない。作家自身の人気や書店での販売促進なども影響したと考えられるが、映画と出版を組み合わせた事業が大きな成果を上げたことは確かである。

 重要なのは、映画と本が互いの存在を知らせる役割を果たすようになったことである。横溝正史の小説を読んでいた人は映像化された作品に関心を持ち、映画から横溝作品に出会った人は、ほかの小説にも手を伸ばす可能性が生まれた。映画館と書店が別々の娯楽や文化の場所でありながら、一つの作品を通じて結びつくようになったのである。

映画そのものだけでなく、公開を待つことも楽しみになった

 『犬神家の一族』の成功後、角川映画は次々と大作を送り出した。1977年には『人間の証明』、1978年には『野性の証明』、1979年には『戦国自衛隊』と『蘇える金狼』、1980年には『復活の日』が公開された。推理映画、社会派サスペンス、アクション、科学的な想像を取り入れた作品など、そのジャンルは幅広く、角川映画が特定の種類の映画だけを製作していたわけではなかったことが分かる。

 これらの作品に共通していたのは、内容や出演者だけでなく、公開前から作品の存在を広く知らせようとする積極的な宣伝だった。テレビのコマーシャル、新聞広告、映画雑誌、書店のポスターなどを通じて作品の題名や印象的な場面が紹介され、観客は実際に映画を見る前から、その作品について何らかのイメージを持つことができた。角川映画の宣伝は、映画そのものを知らせるだけでなく、公開までの期待感を高める役割も果たしていたと考えられる。

 現在では映画の予告編や出演者の情報をインターネットで容易に確認でき、公開前の評判も短時間で調べられる。しかし、1970年代から1980年代前半の一般的な観客にとって、映画の情報に接する機会はテレビ、新聞、雑誌、ラジオなどに大きく依存していた。そのため、テレビで偶然見た宣伝や、書店に掲示されたポスター、映画雑誌の特集などが、新作を知る重要なきっかけになっていた。

 もっとも、当時の人々が角川映画の公開をどの程度楽しみにしていたのか、ほかの映画と比べて期待感がどれほど高かったのかについて、十分な統計資料があるわけではない。それでも、繰り返し行われる宣伝と、書籍や音楽を組み合わせた販売促進が、新作への関心を継続させる仕組みになっていたことは合理的に説明できる。角川映画は、映画を見終えた後だけでなく、公開を知ってから映画館へ足を運ぶまでの時間にも、商品としての価値を生み出そうとしていたのである。

大作映画から若いスターを中心とする時代へ

 角川映画の歴史を考えるとき、1970年代後半の作品と1980年代前半の作品を、まったく同じ性格のものとして扱うことは適切ではない。初期には『犬神家の一族』『人間の証明』『野性の証明』など、幅広い観客を想定した大作が中心だったが、1980年代に入ると、若い俳優の魅力を前面に出した作品が存在感を増していった。もちろん、両者の間に明確な境界線があったわけではないものの、角川映画の性格が変化していったことは重要である。

 その変化を象徴する存在が、薬師丸ひろ子だった。1978年の『野性の証明』のオーディションをきっかけに映画デビューした薬師丸は、1981年の『セーラー服と機関銃』で主演を務め、大きな人気を獲得した。同作品では薬師丸自身が歌った同名の主題歌もヒットし、映画の成功と出演者の人気、音楽の売上が重なり合う現象が注目された。

 『セーラー服と機関銃』が興味深いのは、映画の題名を聞いたとき、物語だけでなく、薬師丸ひろ子の姿や歌声まで一緒に思い出す人がいることである。映画の出演者が主題歌を歌い、その音楽が映画館以外の場所でも繰り返し流れることで、作品に接する機会は広がっていく。映画を見ていない人でも主題歌を知っている場合があり、音楽をきっかけに映画への関心を持つことも考えられる。映画と音楽が別々の商品でありながら、同じ作品の印象を強める役割を果たしていたのである。

 1983年には、原田知世が主演した大林宣彦監督の『時をかける少女』が公開された。筒井康隆の小説を原作とするこの作品も、映画、原作、主題歌、若い主演俳優の魅力が結びついた角川映画の代表例となった。同じ年には薬師丸ひろ子主演の『探偵物語』や『里見八犬伝』も公開され、翌1984年には『Wの悲劇』が登場する。これらの作品は、それぞれ内容や表現方法が異なりながらも、1980年代前半の角川映画を印象づける存在となった。

 角川映画は、すでに人気を確立した俳優を出演させるだけではなく、映画を通じて新しいスターを世に送り出す役割も担った。もっとも、スターの誕生をすべて映画会社の販売戦略の成果と考えることはできない。俳優自身の演技力や個性、監督の演出、作品の内容、当時の社会的な流行などが組み合わさって人気が形成されたと考える方が自然である。角川映画の特徴は、そうして生まれた人気を映画だけに閉じ込めず、音楽や出版などへ広げる仕組みを持っていたことだった。

角川文庫が映画と日常生活を結びつけた

 角川映画を文化現象として理解するには、映画館だけでなく、当時の書店や文庫市場にも目を向ける必要がある。1970年代の出版業界では文庫本の競争が活発になり、講談社文庫、中公文庫、文春文庫などが相次いで創刊された。文庫本は単行本に比べて比較的安価で、持ち運びやすく、限られた小遣いや生活費の中で本を購入する学生や若い社会人にも利用しやすい商品だった。

 角川書店は、こうした文庫市場の中で映画との連動を強め、作品の認知度を高める方法を展開した。映画を見た後で原作に興味を持ち、書店で文庫本を探す人がいた一方、先に原作を読んだ人が映画化をきっかけに映画館へ足を運ぶこともあったと考えられる。映画の公開に合わせて原作本を目立つ場所へ並べることは、映画に関心を持った人が書籍を見つけやすくなるという点で、販売上も合理的な方法だった。

 映画館で作品を見る体験と、文庫本を読む体験には違いがある。映画は決められた上映時間の中で映像と音楽を受け取るが、本は読む場所や時間を自分で選べる。通学や通勤の電車の中、学校や大学、喫茶店、自宅など、さまざまな場所で作品の世界に触れることができる。映画館で数時間楽しんだ物語を、文庫本という形で日常生活の中へ持ち帰ることができたのである。

 ただし、当時の若者の何%が角川文庫を購入していたのか、映画を見た人のうち何%が原作も読んでいたのかについては、個別の調査が必要である。そのため、角川文庫を持つこと自体が若者全体の流行だったと断定することは難しい。それでも、映画と文庫本を結びつけた販売戦略によって、作品が映画館の外でも人々の生活に接する機会を増やしたことは、角川映画の文化的な広がりを考えるうえで見逃せない。

商業的成功を支えた仕組みと、その限界

 角川映画の販売戦略には、経営上の合理性があった。一つの作品を映画だけで販売するのではなく、原作小説、主題歌、出演者の人気、広告などを結びつけることで、複数の商品や媒体が互いの認知度を高める可能性が生まれる。映画の宣伝が原作本の販売を後押しし、書籍の読者が映画に関心を持つようになれば、企業はそれぞれの商品を独立して販売する場合とは異なる効果を期待できる。

 ただし、この仕組みがどの程度の売上増加を生んだのかを数値で確定することは容易ではない。例えば、ある映画の公開時期に原作本の売上が増えたとしても、その増加が映画の影響によるものなのか、広告費の増加によるものなのか、作家の人気や社会的な流行によるものなのかを区別する必要がある。厳密な分析には、映画が公開されなかった場合の売上を推定し、実際の売上と比較するような方法が求められる。

 さらに、角川映画の成功を日本の映画市場全体の成長と同一視することにも注意が必要である。日本映画製作者連盟の統計によると、国内の映画館入場者数は1976年の約1億7,100万人から、1986年には約1億6,100万人へと減少している。この間には入場者数が増加した年もあったが、映画市場が一貫して拡大していたわけではなかった。したがって、角川映画のヒット作品が相次いだことは、日本の映画市場全体が成長していたことを意味しない。

 むしろ、映画館への入場者数が長期的には伸び悩む環境の中で、出版、音楽、広告などを組み合わせた事業を展開した点に、角川映画の経営上の特徴があったと考えられる。個々の作品の採算性や宣伝費の回収状況まで検証しなければ、すべての映画が事業として成功したとは言えないものの、映画と出版を組み合わせるという発想が、その後の日本の娯楽産業を考えるうえで重要な先例となったことは確かである。

なぜ角川映画には青春の記憶が残るのか

 角川映画を振り返るとき、興味深いのは、作品のすべてが青春映画だったわけではないことである。『犬神家の一族』は推理映画であり、『人間の証明』は社会派サスペンス、『戦国自衛隊』は異色のアクション映画、『復活の日』は人類規模の危機を描いた作品だった。それにもかかわらず、これらの作品を含めた角川映画の時代そのものを、自分の青春時代と重ね合わせて語る人がいる。

 その理由を考えるうえで重要なのは、映画の中で青春が描かれていたかどうかだけではなく、その映画に接していた人自身が何歳だったかということである。中学生や高校生として映画を見た人もいれば、大学生や就職したばかりの社会人として角川映画に親しんだ人もいただろう。映画を見るために友人と街へ出かけ、上映後に喫茶店で感想を話し、帰りに書店やレコード店へ寄る。そのような経験があった人にとって、映画の記憶は作品の内容だけでなく、当時の人間関係や生活環境とも結びついている。

 こうした現象は、認知心理学の研究とも整合する。自分自身の人生経験に関する記憶を調べると、青年期から成人初期に経験した出来事が、後年になって比較的多く思い出される傾向があることが知られている。これはレミニセンス・バンプと呼ばれる現象であり、研究によって年齢範囲に違いはあるものの、おおむね10代から20代頃の経験が、長期的な自伝的記憶の中で重要な位置を占めることが示されている。

 さらに、音楽や映画が過去の個人的な記憶を呼び起こすことも、心理学の研究対象となっている。若い頃に繰り返し聴いた曲や見た映像に接すると、その作品だけでなく、当時の場所や人間関係、感情まで思い出される場合がある。角川映画の場合、映画の題名、出演者の姿、主題歌、原作の表紙などが同じ作品に結びついていたため、後年になってそれらの一つに接することが、当時の生活を思い出すきっかけになった可能性がある。

 ただし、こうした心理学的な現象は角川映画だけに特有のものではない。同じ時代に親しんだ音楽やテレビ番組、ほかの映画についても同様の記憶が生まれると考えられる。したがって、角川映画が他の作品以上に青春の記憶を呼び起こすとまでは断定できない。それでも、映画、音楽、出版、スターの人気が重なっていたことが、一つの作品から複数の記憶へとつながる機会を生み出していたという見方には、十分な合理性がある。

「メディアミックス」という言葉だけでは説明できない魅力

 角川映画は、日本のメディアミックスを語るうえで重要な事例である。しかし、映画と原作小説を結びつけたり、映画の主題歌を販売したりする方法そのものを角川映画が初めて考案したわけではない。以前から存在していた複数の販売方法を、出版社が中心となって大規模かつ継続的に組み合わせ、作品の宣伝と販売を一体化させた点に、その独自性があった。

 こうした仕組みは、現在の映画、アニメーション、ゲーム、音楽などの事業にも通じる。一つの作品を複数の媒体で展開することによって、作品との接点を増やし、長期間にわたって関心を維持するという考え方である。ただし、現在のメディアミックスには多様な方式があり、そのすべてが角川映画から直接生まれたと説明するのは適切ではない。角川映画は、その後に広く発展していく事業手法の重要な先行例の一つとして位置づけることができる。

 一方、映画が人々の記憶に残る理由を販売戦略だけで説明することにも限界がある。宣伝がどれほど大規模であっても、それだけで長く語り継がれる作品が生まれるとは限らない。市川崑、佐藤純彌、深作欣二、相米慎二、大林宣彦といった監督たちが、それぞれ異なる表現方法で作品を作り上げ、出演者たちが人物の魅力を映像の中で伝えたことも重要だった。映画そのものに観客を引きつける力があったからこそ、宣伝や主題歌、原作小説との連動も意味を持ったのである。

 薬師丸ひろ子や原田知世の人気についても、映画会社が宣伝によって生み出したという説明だけでは不十分だろう。二人の個性や演技、歌声、出演した作品の魅力などが組み合わさり、当時の観客に受け入れられていったと考える必要がある。角川映画の事業戦略は、その魅力を多くの人へ届ける仕組みとして機能したのであって、作品や出演者が持つ価値そのものに代わるものではなかった。

私たちは映画だけを見ていたのではなかった

 1976年の『犬神家の一族』から1986年頃までの約10年間は、初期角川映画の発展を振り返るうえで、一つの重要な時期として捉えることができる。中川右介の著書『角川映画 1976-1986 日本を変えた10年』も、この期間を対象に角川映画の歴史を整理している。実際には、その後も角川映画の製作は続いており、事業の歴史が1986年で終わったわけではない。それでも、この約10年間に数多くの代表作が集中していることは、日本の映画史や出版史を考えるうえで注目に値する。

 では、なぜ角川映画は当時の若者を惹きつけ、現在も一部の世代に強い印象を残しているのだろうか。映画そのものが面白かったこと、出演者に魅力があったこと、主題歌が親しまれたこと、広告によって作品が広く知られたこと、原作小説を通じて作品の世界に触れる機会が増えたことなど、複数の要因が考えられる。ただし、どの要因が最も重要だったかを統計的に順位づけるだけの資料があるわけではなく、世代や個人によっても、その受け止め方は異なっていたはずである。

 それでも、角川映画の時代を振り返るとき、もう一つ考えてみたいことがある。それは、次の作品が公開されるまでの期待そのものが、楽しみの一部になっていたのではないかということである。今度はどんな映画が作られるのか、誰が主演するのか、どのような主題歌が流れるのか、原作はどんな小説なのか。そうした関心がテレビや雑誌、書店、レコード店を通じて少しずつ広がり、人々が映画館へ向かう理由の一つになっていたと考えられる。

 現在では、映画の情報を調べることも、原作を購入することも、音楽を聴くことも、一台のスマートフォンから行えるようになった。もちろん、今でも映画館や書店、音楽を扱う店は存在しており、街の中で文化を楽しむ行動がなくなったわけではない。しかし、1970年代後半から1980年代にかけては、それぞれの文化に接するために、異なる場所や媒体を利用する機会が現在より多かった。映画館で作品を見て、書店で原作を探し、レコード店で主題歌を手に取るという行動には、街を移動しながら作品との接点を増やしていく楽しみもあったのだろう。

 数十年後に角川映画の題名を目にしたとき、映画の場面だけでなく、当時の書店や映画館、レコード店、友人と歩いた街並みまで思い出す人がいるとすれば、それは映画が個人の生活経験と深く結びついていたからではないだろうか。映画の記憶とは、映像の中に描かれた物語だけで成立するものではない。その作品を何歳のときに見たのか、誰と一緒にいたのか、どのような暮らしをしていたのかという、自分自身の人生の記憶とも重なり合っている。

 角川映画が若者を惹きつけた時代とは、映画、出版、音楽、広告が大規模に結びついた時代であると同時に、それらが人々の日常生活の中で、さまざまな場所や経験を通じて受け止められていた時代でもあった。角川映画が現在も語られる理由は、商業的な成功や話題性だけにあるのではない。映画をきっかけに本を読み、音楽を聴き、友人と語り合った経験が、それぞれの人生のある時期と結びついていることにもあるのだろう。

 私たちは、映画だけを見ていたのではなかった。映画を通じて新しい物語や音楽、人々の姿に触れ、その時代の空気を感じながら、自分自身の青春を過ごしていたのである。

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