リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

戦後日本から「知識人」はなぜ消えたのか~総合誌、テレビ、インターネットまで

導入~「知識人を見なくなった」という感覚は何を意味するのか

戦後日本の歴史を読んでいると、「知識人」という言葉が現在より頻繁に登場する。

大学教授。

哲学者。

文学者。

評論家。

作家。

科学者。

こうした人々が、専門分野の内部だけではなく、

政治、

外交、

戦争と平和、

民主主義、

教育、

文化、

道徳、

社会の将来、

について公に発言していた。

丸山眞男、加藤周一、大江健三郎、吉本隆明など、立場も思想も異なる人物たちが、「知識人」と呼ばれながら社会的な議論に参加した時代があった。

現在にも当然、大学教授、研究者、作家、評論家は存在する。

専門家の数そのものは、むしろ戦後直後よりはるかに多い。

インターネットを開けば、大学教授、医師、弁護士、経済学者、科学者、ジャーナリストなどが直接発信している。

それにもかかわらず、

「昔のような知識人がいなくなった」

という感覚が生まれる。

これはなぜなのだろうか。

知的能力の高い人が減ったからなのか。

社会について考える人がいなくなったからなのか。

大学教授の権威が落ちたからなのか。

それとも、私たちが知識人を見る場所そのものが変わったのだろうか。

本稿では、

「知識人が消えた」という現象を、人材の消滅ではなく、メディアと社会構造の変化として考える。

戦後直後には総合誌が重要な舞台だった。

その後テレビが巨大な影響力を持つ。

社会の専門化が進む。

そしてインターネットとSNS(Social Networking Service・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が登場する。

この過程で、

「一人の人物が社会全体について語る」という知識人モデルそのものが成立しにくくなった。

そう考えると、戦後日本における知識人の変化が見えやすくなる。

1 そもそも「知識人」とは何だったのか

「知識人」という言葉は、単に知識の多い人を意味するわけではない。

専門知識を持つだけなら、

研究者、

技術者、

専門職、

教師、

なども含まれる。

しかし戦後日本で「知識人」と呼ばれた人物には、もう一つ特徴があった。

自分の専門領域を越えて、社会全体について発言する。

ということである。

例えば政治学者が、

政治制度だけではなく、

民主主義、

戦争責任、

市民社会、

教育、

文化、

について論じる。

文学者が、

小説だけではなく、

核兵器、

憲法、

国際政治、

人権、

について発言する。

科学者が、

研究内容だけでなく、

核兵器、

科学技術と社会、

戦争、

倫理、

について語る。

つまり知識人とは、

専門家であると同時に、公共的な問題について発言する人

だった。

ここで重要なのは、

知識人=正しい人

ではないことである。

知識人同士の意見は大きく異なっていた。

保守もいた。

リベラルもいた。

社会主義者もいた。

国家を重視する人もいた。

個人を重視する人もいた。

重要なのは思想の一致ではなく、

社会全体について考え、公共の場へ言葉を出す役割

が成立していたことである。

2 敗戦は「知識人とは何か」を問い直した

戦後日本における知識人を考える上で、1945年の敗戦は決定的に重要である。

日本には戦前にも、

大学教授、

文学者、

哲学者、

科学者、

評論家、

が存在していた。

しかし日本は戦争へ進み、1945年に敗戦を迎える。

そこで大きな問いが生じた。

知識を持つ人々は、なぜ戦争を止めることができなかったのか。

岩波書店の社史によれば、岩波茂雄は敗戦に際し、日本に優れた知性が存在していたにもかかわらず、国が破局へ進むことを阻止できなかったことを大きな痛恨と考えた。

そこで文化と広い国民を結び付ける必要があるとして、総合雑誌『世界』の創刊へつながっていく。1946年1月号として『世界』が創刊され、吉野源三郎が編集主任を務めた。

吉野はその後、『世界』を中心として平和や民主主義に関する議論へ深く関わっていった。岩波書店自身も、吉野が知識人を組織し、戦後日本の平和と民主主義を支える論陣を張った人物として紹介している。

つまり戦後知識人には、

「知っている人」

以上に、

知識を公共社会へ返す責任を負う人

という自己像が生まれたのである。

3 総合誌が「知識人の舞台」になった理由

戦後知識人が社会的影響力を持つためには、

発言する場所

が必要だった。

その重要な場所の一つが総合誌である。

『世界』

『中央公論』

『文藝春秋』

などには、

政治、

経済、

国際問題、

哲学、

文学、

科学、

社会問題、

について長い文章が掲載された。

『中央公論』は現在も、自らを創刊130年を超える日本最長寿の月刊総合誌と位置付け、政治、経済、国際、教育、医療、科学、文化などを横断して論者を登場させている。

『文藝春秋』も1923年の創刊時から、菊池寛が編集者や読者に過度に気兼ねせず自由にものを語る場所を志向していた。

こうした雑誌には、一つの特徴があった。

異なる専門分野が一冊の中に同居する。

政治学者の次に作家が登場する。

経済学者の隣に歴史家がいる。

科学者と哲学者が同じ社会問題について論じる。

この構造によって、

専門家が、

専門の外に向かって話す

ことが可能になった。

それが「知識人」という存在を成立させる一つの条件だった。

4 総合誌は単なる情報媒体ではなく「選択装置」だった

現在では、検索すれば専門家の文章を直接読むことができる。

しかし戦後直後の読者には、現在ほど情報への入口が多くなかった。

そこで雑誌編集部が重要な役割を持った。

誰に書かせるか。

どの問題を特集するか。

どの論争を取り上げるか。

どの文章を重要だと判断するか。

つまり総合誌は、

情報を運ぶだけではなく、

「誰の発言を社会的に読む価値があると認定するか」を決める装置

でもあった。

編集部が、

大学教授、

作家、

評論家、

研究者、

を選び、

誌面へ載せる。

その人物は読者の前に、

「この問題について読むべき人物」

として現れる。

ここで知識人の権威は、

本人の知識だけではなく、

大学、出版社、新聞社などの制度によって支えられていた

と考えることができる。

5 戦後初期には「社会全体について語る」必要があった

なぜ戦後には、専門家が社会全体について発言する必要が大きかったのか。

理由の一つは、

社会そのものを作り直す必要があったからである。

敗戦。

占領。

日本国憲法。

民主化。

教育改革。

農地改革。

労働制度。

安全保障。

講和。

冷戦。

戦後直後には、

「既存の制度をどう改善するか」

だけではなく、

「日本という社会をこれからどうするのか」

という問題が存在した。

こうした問題は、一つの専門分野だけでは解けない。

政治だけではない。

法律だけでもない。

経済だけでもない。

歴史。

倫理。

文化。

教育。

国際関係。

多くの問題が同時に絡み合う。

だからこそ、

社会全体を論じる知識人

が必要とされたのである。

6 「進歩的文化人」という戦後モデル

戦後日本には、しばしば「進歩的文化人」と呼ばれる人々が登場した。

この名称には後に批判的な意味も加わるため、単純に一つの思想集団として扱うべきではない。

しかし概念的には、

民主主義、

平和、

市民社会、

人権、

戦争責任、

などについて、

学者や文化人が公共的発言を行うモデルが成立した。

その象徴的なメディアの一つが『世界』だった。

吉野源三郎が編集を担い、知識人を公共的議論へ組織したことは、戦後知識人モデルを理解するうえで重要である。

ただし、ここで注意しなければならない。

戦後知識人がすべて同じ思想だったわけではない。

また、

進歩的知識人=知識人全体

でもない。

戦後日本には、

保守系知識人、

自由主義者、

社会主義者、

民族主義者、

文学者、

宗教者、

など多様な公共的論者がいた。

知識人の時代とは、

全員が同じ方向を向いていた時代

ではない。

むしろ、

少数の論者たちが、互いに対立しながらも同じ社会的議題を共有していた時代

と考える方がよい。

7 丸山眞男型の知識人~専門家でありながら社会全体を論じる

戦後知識人を象徴する存在として、しばしば丸山眞男が挙げられる。

丸山をここで思想的に評価する必要はない。

重要なのは役割である。

政治思想史の研究者でありながら、

民主主義、

日本社会、

戦争、

政治意識、

市民、

などについて広く社会へ発言する。

つまり、

専門研究者+公共的論者

という二つの役割を同時に担う。

このタイプの知識人は、戦後社会では成立しやすかった。

なぜなら、

専門知識を持つことが社会的権威となり、

その権威を使って社会全体について語ることが比較的受け入れられていたからである。

現在では、この二つは次第に分離している。

8 作家も「社会について語る人」だった

戦後知識人は大学教授だけではない。

文学者も重要だった。

例えば大江健三郎は、小説家であると同時に、広島、核、戦争、民主主義などについて継続的に文章を書いた。

東京大学の大江健三郎文庫の資料でも、『ヒロシマ・ノート』が『世界』への連載をもとに成立し、被爆者や平和をめぐる問題について作家が社会へ発言していたことが確認できる。

現代から考えると、

「なぜ小説家が政治について語るのか」

という疑問も生じるかもしれない。

しかし戦後知識人のモデルでは、

文学者は人間や社会について考える人であり、

専門分野を越えて公共問題へ発言することが必ずしも不自然ではなかった。

ここでも、

専門と公共的発言の境界が現在ほど厳格ではなかった

ことが分かる。

9 一方で「知識人への批判」も戦後すぐに始まっていた

知識人が社会的権威を持てば、その権威への批判も生まれる。

その代表的な問題の一つが、

知識人は本当に大衆を理解しているのか

という問いである。

戦後知識人が民主主義や平和を語っても、

一般の人々の日常生活、

労働、

家族、

欲望、

感情、

から離れているのではないか。

知識人が上から大衆を「教育」しようとしているだけではないか。

こうした批判は戦後思想の内部からも出てきた。

吉本隆明の議論も、その大きな流れの一つとして研究されている。吉本は、既成の知識人と大衆の関係そのものを重要な問題として扱った。

つまり、

知識人の時代は、知識人が無条件に尊敬された時代ではない。

知識人の権威と、

知識人批判が、

同時に存在していたのである。

10 1960年代~知識人が政治の前面へ出た時代

1960年前後には、

安全保障、

学生運動、

核兵器、

ベトナム戦争、

大学制度、

公害、

などが大きな社会問題になる。

これらをめぐって、

大学教授、

作家、

評論家、

科学者、

などが公に発言した。

政治家だけが政治を語るのではない。

新聞記者だけが社会を論じるのでもない。

「文化人」「知識人」と呼ばれる人々が、

署名、

声明、

雑誌論文、

集会、

講演、

などを通して政治的問題へ参加した。

ここでは知識人は、

専門知識を持つ観察者ではなく、社会運動へ参加する主体

にもなった。

しかし、この時代こそ、後に知識人への不信が強まる原因の一つにもなった。

11 なぜ「知識人の言うことは正しい」とはならなかったのか

知識人も当然、間違える。

政治情勢の予測を外す。

外国の社会を理想化する。

思想的立場から現実を単純化する。

特定の政治体制について十分な批判をしない。

逆に過剰に批判する。

つまり、

高度な学問的能力を持つこと

と、

政治的判断が常に正しいこと

は別である。

社会がこのことを経験するほど、

「大学教授だから正しい」

「有名作家だから正しい」

という単純な権威は弱くなる。

これは知識人の衰退というより、

権威の相対化

と見ることができる。

民主社会としては、必ずしも悪い変化ではない。

12 高度経済成長が社会を専門化した

1950年代後半以降、日本社会は高度経済成長へ向かう。

社会制度が複雑になる。

企業が巨大化する。

行政が専門化する。

科学技術が高度化する。

医療も複雑になる。

金融も複雑になる。

ここで、

「社会全体について一人で語る」という知識人モデルが徐々に難しくなる。

例えば原子力政策を論じるには、

原子核物理学、

工学、

電力制度、

経済、

安全工学、

環境、

行政法、

地域政策、

など複数の知識が必要になる。

医療政策なら、

医学、

疫学、

医療経済、

社会保障、

人口統計、

行政、

倫理、

が関係する。

一人の思想家が、

「社会とはこうあるべきだ」

と大きな方向性を語ることはできる。

しかし政策の細部になるほど、

専門家が必要になる。

ここで、

知識人から専門家へ

という社会的重心の移動が起きる。

13 「知識人」と「専門家」は何が違うのか

この違いは重要である。

知識人は、

社会全体について語る。

専門家は、

特定分野について高い精度で語る。

例えば、

政治学者が民主主義全体について語るのが知識人的役割だとすれば、

選挙制度の効果をデータで分析する研究者は専門家的役割になる。

医学者が生命や人間の尊厳について社会へ語れば知識人的役割を持つ。

特定の薬の有効性について臨床研究を説明する場合は専門家的役割になる。

もちろん一人の人物が両方を担うこともできる。

しかし社会が高度化するほど、

「専門外について語ること」に対する要求水準が高くなる。

これが知識人モデルを難しくした。

14 テレビが「知識人」を変えた

次に大きな変化をもたらしたのがテレビである。

総合誌では、数千字から数万字を使って議論できる。

複雑な前提条件を書く。

反論を想定する。

歴史を説明する。

例外を示す。

しかしテレビでは、

時間が限られる。

出演者の人数も多い。

視聴者に分かりやすく話す必要がある。

ここで知識人の能力に、

新しい条件が加わる。

短時間で分かりやすく説明できること

である。

これは悪いことではない。

難解な学問を社会へ伝える重要な能力である。

しかしメディア形式が変われば、

社会で評価される知識人のタイプも変わる。

15 「書く知識人」から「話す文化人」へ

総合誌時代には、

何を考えたか

が文章で評価された。

テレビ時代になると、

何を言ったか

だけではなく、

どう話したか

も重要になる。

声。

表情。

話す速度。

分かりやすさ。

ユーモア。

瞬発力。

対立する相手への対応。

テレビに適した人物と、長文に適した人物は同じとは限らない。

すると、

大学教授、

作家、

評論家、

の一部が、

「テレビ文化人」

「コメンテーター」

として登場する。

ここで戦後知識人の役割は、

少しずつ別の職業へ変化していく。

16 テレビでは「考える人」より「説明する人」が求められる

総合誌では、

読者が知らなかった問題そのものを論者が提示できる。

一方テレビのニュースや情報番組では、

すでに起きた事件について、

「これはどういうことですか」

と説明を求められることが多い。

つまり役割が、

問題を設定する人

から、

出来事を解説する人

へ変わりやすい。

ここで、

知識人

から、

専門家、

解説者、

コメンテーター、

への分化が進む。

この違いは小さくない。

「日本社会はこれから何を問題にすべきか」

と問うことと、

「今日起きた事件をどう理解すればよいか」

と説明することは別だからである。

17 テレビは知識人の権威を高めると同時に壊した

テレビには逆説的な作用があった。

有名大学の教授がテレビに出演する。

有名作家がニュース番組で語る。

それによって知識人の社会的知名度は高まる。

しかし同時に、

知識人も芸能人や政治家と同じ画面に登場する。

反論される。

失言する。

間違える。

人間的な癖も見える。

つまりテレビは、

知識人を社会へ近づける一方で、

知識人を特別な存在ではなくする。

活字だけで知っていた人物と、

毎週テレビで見る人物では、

権威の感じ方も変わる。

知識人の大衆化は、

知識人の権威の相対化でもあった。

18 1980年代~思想そのものも「商品」になった

1980年代には、

思想、

哲学、

記号論、

現代思想、

などが若い読者にも消費される文化が生まれた。

ここでは、

知識人が社会運動の指導者として語るだけではなく、

思想そのものが一種の文化商品になる。

難しい思想を読むこと自体が、

知的な趣味、

ファッション、

自己表現、

になる。

これは思想の大衆化という意味では重要だった。

一方で、

「この思想を使って社会をどう変えるか」

よりも、

「この思想は面白い」

という消費へ変わる場合もある。

知識人の役割が、

社会を導く人

から、

知的刺激を提供する人

へ変わる兆候でもあった。

19 1990年代~冷戦終結で大きな物語が崩れる

戦後知識人の多くは、

資本主義、

社会主義、

民主主義、

国家、

平和、

革命、

市民社会、

といった大きな概念で社会を論じた。

しかし冷戦が終わると、

世界を大きな思想体系だけで整理することが難しくなる。

日本国内でも、

バブル崩壊、

少子高齢化、

雇用、

金融、

地方衰退、

情報化、

環境問題、

など、

従来の左右対立だけでは整理できない問題が増える。

つまり、

「社会全体を説明する一つの思想」

の説得力が弱くなる。

ここでも知識人より専門家が優位になる。

20 専門家社会では「何でも語る人」はむしろ疑われる

現在では、

医学者が安全保障を語る。

経済学者が感染症を語る。

文学者が金融政策を語る。

政治学者が医学を語る。

となれば、

「それは専門なのか」

と問われる。

これは健全な態度でもある。

専門外の発言を、肩書だけで信用しない。

しかし戦後型知識人は、

まさに専門を越えて語る存在だった。

したがって、

専門性を重視すればするほど、古典的な知識人は成立しにくくなる。

ここには構造的な矛盾がある。

社会問題はますます複雑になり総合的視点を必要とする。

一方、その問題について語る人には、ますます高度な専門性が要求される。

21 インターネットは「知識人になる入口」を開放した

そしてインターネットが登場する。

これは知識人の歴史における非常に大きな転換である。

総合誌時代には、

出版社に選ばれなければ多くの読者へ届きにくかった。

新聞も同じである。

テレビも、

放送局に呼ばれなければ出演できない。

つまり従来の公共的発言には、

編集者という門番

がいた。

しかしインターネットでは、

誰でも文章を公開できる。

動画を出せる。

SNSで意見を発信できる。

専門家も出版社を通さず直接発信できる。

文藝春秋自身も現在、紙だけでは読者へ広がりにくい時代になり、デジタル技術を使ってコンテンツを届ける必要性を説明している。

知識の発信は大幅に民主化された。

22 しかし「誰でも発信できる」は「誰を読めばよいか分からない」でもある

インターネットの最大の利点は、

門番がいないこと

である。

しかし最大の問題も、

門番がいないこと

である。

大学教授の文章。

専門家の文章。

一般市民の文章。

広告。

宣伝。

陰謀論。

誤情報。

個人的体験。

一次資料。

すべてが同じ検索結果やSNS画面に並ぶ。

すると読者自身が、

誰を信頼するかを選ばなければならない。

これは総合誌時代との大きな違いである。

かつては編集部が、

「この人を読む価値がある」

とある程度選別していた。

現在は読者自身が編集者になった。

23 知識人の「権威」がフォロワー数に置き換わったのか

インターネットでは、新しい評価指標が生まれた。

閲覧数。

フォロワー数。

再生回数。

「いいね」。

共有数。

これらは、

どれだけ多くの人に届いたか

を測るには便利である。

しかし、

多く読まれたことと、内容が正しいことは一致しない。

ここで知識人の権威は、

大学、

出版社、

専門学会、

という制度的権威だけではなく、

可視化された人気

とも競争することになる。

非常に専門的で正確だが読みにくい説明より、

簡潔で断定的な説明の方が広がりやすいこともある。

これは知識人の社会的立場をさらに複雑にした。

24 SNSは「知識人」を無数の小さな論者へ分解した

総合誌の時代には、

全国的に知られる論者は限られていた。

現在は違う。

経済に詳しい人。

医療に詳しい人。

地方行政に詳しい人。

鉄道に詳しい人。

安全保障に詳しい人。

教育に詳しい人。

それぞれに数千人、数万人の読者がいる。

つまり、

一人の巨大な知識人の代わりに、無数の小さな専門的公共圏が生まれた

と考えることができる。

これは「知識人の消滅」ではない。

むしろ、

知識人の分散

である。

25 現代では「国民全員が知っている知識人」が生まれにくい

昭和のテレビには、

国民の多くが同じ番組を見る

という構造があった。

総合誌も読者層は限られていたが、論壇そのものは比較的狭い空間だった。

現在は、

YouTubeを見る人。

Xを見る人。

新聞を読む人。

テレビを見る人。

専門サイトを見る人。

それぞれが違う。

したがって、

ある分野では非常に有名でも、

別の分野の人は名前すら知らない

ということが普通になる。

知識人がいないのではない。

共通して知っている知識人がいない。

この違いは大きい。

26 公共圏が「一つ」ではなくなった

戦後総合誌が作ったのは、

正解だけではなかった。

「今、日本社会ではこれを考えるべきだ」

という共通議題だった。

安全保障。

憲法。

公害。

教育。

文学。

経済。

読者は意見が違っても、

同じ問題について考えることができた。

インターネットでは、

人によって見える問題そのものが違う。

ある人には、

国際政治。

別の人には、

芸能。

別の人には、

投資。

別の人には、

子育て。

別の人には、

ゲーム。

アルゴリズムによる推薦も含め、それぞれ異なる情報環境を生きる。

その結果、

「国民的な議論の中心」という場所そのものが弱くなる。

知識人が消えたように見える最大の理由の一つは、ここにある。

27 知識人の衰退は民主化でもある

ここまで読むと、

昔は良かった、

という話に見えるかもしれない。

しかし、そう単純ではない。

戦後知識人の世界には問題もあった。

発言できる人が限られていた。

東京の大学。

大手出版社。

新聞社。

著名作家。

そうした人的ネットワークへ参加できる人の言葉が社会へ届きやすかった。

地方の市民。

若者。

女性。

少数者。

現場の専門職。

当事者。

こうした人の声は現在ほど簡単には全国へ届かなかった。

インターネットは、この構造を大きく変えた。

したがって、

知識人の権威が弱くなったことには、言論の民主化という側面もある。

28 「誰でも発言できる社会」は本当に平等なのか

しかし新しい問題もある。

誰でも発言できる。

しかし、

誰の発言も同じだけ届く

わけではない。

情報発信能力。

動画制作能力。

文章力。

知名度。

資金。

時間。

アルゴリズム。

ネットワーク。

こうした差によって影響力が変わる。

つまり、

旧来の出版社中心の権威構造は弱まったが、

完全に平等な言論空間になったわけではない。

新しい形の影響力が形成されている。

29 「知識人」から「インフルエンサー」へ変わったのか

ここで、

知識人はインフルエンサーに取って代わられた、

という説明もできそうに見える。

しかし両者は同じではない。

インフルエンサーとは基本的に、

他人へ影響を与える力

によって定義される。

知識人とは、

知識や思考を公共問題へ結び付ける役割

によって定義される。

したがって、

フォロワーの多い学者は、

知識人でもありインフルエンサーでもあり得る。

一方、

非常に影響力があっても社会的問題を論じない人は、

従来の意味での知識人とは違う。

重要なのは、

影響力と知的権威が別の尺度になった

ことである。

30 専門家は増えたが「総合する人」が減った

現在社会には専門家が大量にいる。

これは大きな進歩である。

しかし専門化には弱点もある。

人口減少を考える。

人口統計だけでは足りない。

雇用。

住宅。

教育。

医療。

交通。

地域経済。

社会保障。

家族。

文化。

全部関係する。

気候変動も同じである。

科学。

経済。

エネルギー。

国際政治。

生活。

産業。

倫理。

が関わる。

現代社会の問題は、

専門分野をまたいでいる。

ところが専門家は、一つの分野を深く研究する。

ここに、

「総合する人」

の必要性が再び現れる。

31 知識人が消えたのではなく「総合知の担い手」が空席になった

ここまでを整理すると、

知識人が本当に消えたのではない。

大学教授もいる。

作家もいる。

評論家もいる。

専門家もいる。

社会へ発言する人もいる。

しかし、

複数分野を横断し、社会全体の問題として整理し、広い層から一定の信頼を得る人物

は以前より成立しにくくなった。

なぜなら、

社会が複雑化した。

専門家が増えた。

権威が相対化した。

メディアが分散した。

読者が細分化した。

情報量が爆発的に増えた。

この条件の中では、

一人の人物が、

「社会とはこういうものだ」

と語ることへの疑いが強くなる。

それはある意味で健全でもある。

32 現代に必要なのは「万能知識人」ではない

では、もう一度昔のような巨大な知識人を作ればよいのだろうか。

それも現実的ではない。

現代社会は、一人で理解できるほど単純ではない。

医学。

経済。

人工知能。

安全保障。

環境。

人口。

法律。

すべてを高い専門水準で理解する人は存在しない。

したがって必要なのは、

「何でも知っている人」

ではない。

むしろ、

自分が知らないことを認識し、異なる専門家の知識を結び付ける人

である。

これは戦後知識人とは少し違うモデルになる。

33 令和の知識人に必要な能力

現代型の知識人を考えるなら、いくつか条件が考えられる。

第一に、

専門性を持つこと。

単なる思いつきではなく、何らかの専門的基盤が必要になる。

第二に、

専門外では専門家へ譲ること。

何でも断定しない。

第三に、

異なる分野を接続できること。

経済だけ。

政治だけ。

科学だけ。

ではなく、関連を考える。

第四に、

一次資料やデータを確認すること。

肩書だけに依存しない。

第五に、

自分の考えを修正できること。

間違いが分かったら変える。

つまり現代の知識人には、

権威

より、

修正可能性

が重要になるのではないだろうか。

34 「答えを教える知識人」から「問いを整理する知識人」へ

戦後知識人の中には、

社会はこうあるべきだ、

という強い方向性を提示する人も多かった。

現代では、それだけでは受け入れられにくい。

価値観が多様化している。

専門知識も細分化している。

そこで知識人の役割を、

答えを与える人

から、

問題を整理する人

へ変えることができる。

何が事実なのか。

何が価値判断なのか。

どこに利害対立があるのか。

どのデータが不足しているのか。

専門家同士はなぜ意見が違うのか。

こうしたことを整理する。

これは現代社会に非常に必要な仕事である。

35 総合誌の役割も同じように変わる

総合誌も完全に消えたわけではない。

『中央公論』は現在も刊行され、ウェブでも政治、経済、国際、社会、科学、歴史、文化など広い領域を扱っている。

『文藝春秋』も紙媒体だけでなくデジタルへ発信経路を広げている。

つまり総合誌自身も、

紙だけの論壇

から、

紙+ウェブ+デジタル

へ変わっている。

しかし本当に重要なのは媒体ではない。

異なる専門分野を一つの場所で考える機能

を残せるかどうかである。

36 インターネット時代だからこそ「編集」が重要になる

情報が少なかった時代には、

情報を集めること

に価値があった。

現在は逆である。

情報が多すぎる。

そこで重要になるのは、

何を捨てるか。

何を残すか。

何を関連付けるか。

という編集能力である。

この意味で、

知識人、

総合誌、

優れたジャーナリスト、

研究者、

には共通する新しい役割がある。

知識を増やすことではなく、知識の位置関係を示すこと

である。

37 AI時代には知識人はさらに不要になるのか

AI(Artificial Intelligence・人工知能)が発達すると、

知識を持っていること自体の価値はさらに変化する可能性がある。

多くの事実は検索できる。

文献を要約できる。

統計を整理できる。

複数の議論を比較できる。

それなら知識人は不要になるのか。

必ずしもそうではない。

なぜなら、

どの問題を重要と考えるか。

どの価値を優先するか。

どのデータを信頼するか。

不確実性をどう扱うか。

社会的利害をどう調整するか。

という問題は、

情報量だけでは決まらないからである。

むしろ情報が大量になるほど、

何をどう考えるかを整理する能力

の価値が増える可能性がある。

38 ただし知識人を「先生」に戻してはいけない

ここで過去を理想化する必要はない。

知識人が上に立ち、

大衆へ正しい考えを教える。

という構図には問題がある。

市民にも知識がある。

現場にも知識がある。

当事者にも経験がある。

専門家も間違える。

だから令和の知識人が存在するとすれば、

大衆を教育する教師

ではなく、

異なる知識をつなぐ参加者

である方がよい。

権威によって従わせるのではない。

根拠を示す。

議論する。

訂正する。

そうした態度が重要になる。

39 「知識人の不在」は、本当は「共通の広場の不在」なのかもしれない

ここまで考えると、

知識人がいなくなったように見える理由は、

人物の問題だけではない。

むしろ、

知識人が立つ広場がなくなった

と考える方が分かりやすい。

戦後直後には総合誌があった。

新聞論壇があった。

その後テレビが国民的な共通空間になった。

現在はメディアが細分化している。

したがって、

一人の知識人が全員の前へ立つことが難しい。

これは、

スターがいなくなった

のではなく、

観客が同じ会場に集まらなくなった

ということなのである。

結論~知識人は消えたのではなく、社会の中へ分解された

戦後日本では、

総合誌、

新聞、

大学、

出版社、

などを中心として、

「知識人」という存在が成立した。

敗戦後には、

日本社会をどう再建するか、

民主主義とは何か、

戦争と平和をどう考えるか、

という巨大な問題があった。

そのため、

一つの専門分野を越えて社会全体について語る人物が必要とされた。

『世界』の創刊には、日本に知性が存在しながら戦争への道を阻止できなかったという出版人側の反省があり、知識と社会を結び付けようとする明確な意図があった。

しかし社会は変わった。

高度経済成長によって専門化が進んだ。

テレビが登場し、

「長く書く知識人」

から、

「短く説明する文化人」

が目立つようになった。

冷戦が終わり、

社会を一つの思想体系で説明することが難しくなった。

さらにインターネットによって、

出版社、

新聞社、

テレビ局、

という情報の門番が弱くなった。

誰でも発信できるようになった。

その結果、

知識人は消えたように見える。

しかし実際には、

大学、

専門メディア、

ブログ、

動画、

SNS、

研究機関、

地域社会、

さまざまな場所へ分散した。

つまり、

知識人が消えたのではない。 「知識人」という一つの社会的役割が、専門家、評論家、ジャーナリスト、コメンテーター、研究者、インフルエンサー、市民へ分解されたのである。

これは単純な衰退ではない。

言論が民主化されたという利点もある。

かつてなら大手出版社に選ばれなければ社会へ届かなかった人の言葉が、現在は直接届く。

一方で問題もある。

誰の言葉を信頼すればよいのか。

何が専門知識で、

何が意見で、

何が宣伝で、

何が誤情報なのか。

読者自身が判断しなければならなくなった。

そして、もう一つ大きな問題がある。

専門家は増えた。

情報も増えた。

それでも、

複数の専門分野を結び付けて、社会全体の問題として整理する人が不足している。

人口減少。

人工知能。

安全保障。

社会保障。

環境。

地域衰退。

これらは、一つの専門分野だけでは考えられない。

だから現代に必要なのは、

昔のように、

「私が社会の正解を教える」

という知識人ではないだろう。

必要なのは、

自分の専門を持ちながら、

専門外では他者の知識を尊重し、

異なる領域をつなぎ、

事実と価値判断を分け、

分からないことを分からないと言い、

間違えれば修正する人である。

知識人の役割を、

「正しい答えを持つ人」

ではなく、

「複雑な社会について、何をどう考えればよいのかを整理する人」

と捉え直すのである。

そう考えると、

知識人の時代は終わった、

とは言い切れない。

むしろ私たちは、

戦後型とは違う、新しい知識人の形をまだ十分に作れていない

のかもしれない。

総合誌の時代には、少数の知識人が同じ舞台に立った。

テレビの時代には、同じ画面に映った。

インターネットの時代には、無数の人がそれぞれ別の画面にいる。

問題は、

誰が一番偉い知識人なのか、

ではない。

これから問われるのは、

分散した知識を、誰が、どのように、もう一度社会の共通問題として結び直すのか。

なのではないだろうか。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

導入~かつて「雑誌」が社会を考える場所だった

現在、政治について知ろうと思えば、新聞だけでなく、テレビ、ニュースサイト、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)、動画配信、個人ブログなど無数の入口がある。

しかし、戦後の日本では事情が違った。

政治、経済、外交、思想、文学、科学、社会問題について、専門家や作家、政治家、評論家がまとまった文章を書き、それを一般読者が読む。その重要な舞台の一つが「総合誌」だった。

『世界』『中央公論』『改造』『文藝春秋』は、その代表として語られることが多い。

ただし、この四誌を単純に、

「左派の雑誌」 「保守の雑誌」 「知識人の雑誌」 「大衆向けの雑誌」

と分類するだけでは、日本の総合誌が果たしてきた役割を十分に理解できない。

なぜなら、四誌はそもそも誕生した時代も、編集思想も、想定した読者も異なるからである。

『中央公論』の起源は1887年(明治20年)、『改造』は1919年(大正8年)、『文藝春秋』は1923年(大正12年)、そして『世界』は敗戦直後の1946年(昭和21年)に創刊された。『改造』だけは1955年(昭和30年)に刊行を終えている。

つまり、この四誌を比較することは、四つの雑誌を比べるだけではない。

明治以来の教養主義、大正期の思想的大衆化、昭和のジャーナリズム、敗戦後の民主主義、冷戦、高度経済成長、そしてインターネット時代まで、日本人が「社会について考える場所」をどこに求めてきたのかを見ることでもある。


1 四誌は、最初から同じ種類の雑誌ではなかった

まず四誌の違いを簡単に整理してみよう。

雑誌 創刊 出発点の特徴 戦後の位置
中央公論 1887年 明治以来の言論・教養・文学 中道的な総合論壇
改造 1919年 大正期の社会問題・思想・社会改革 戦後復刊するが1955年休刊
文藝春秋 1923年 文人による自由な言論 文学・政治・社会を横断する大型総合誌
世界 1946年 敗戦後の平和・民主主義・知識人論壇 戦後進歩派・リベラル論壇の重要拠点

この表だけを見ても、『世界』と他の三誌には大きな違いがある。

『世界』は戦前から続いた雑誌ではない。

1945年の敗戦そのものを出発点としている。

岩波書店の社史によれば、創業者の岩波茂雄は、日本に優れた知性が存在していたにもかかわらず、国家が戦争へ向かうことを阻止できなかったことを強く問題視し、文化と広い国民を結び付ける必要があると考えて総合雑誌の創刊を構想した。編集主任となったのが吉野源三郎だった。1946年1月号として『世界』創刊号が発行されている。

これに対し、『中央公論』『改造』『文藝春秋』は、戦前日本の言論空間をすでに経験していた。

この差は、その後の雑誌の性格にも大きく影響する。


2 『中央公論』~「一つの思想」よりも「議論する場所」

『中央公論』の前身は、1887年に京都の西本願寺普通教校で創刊された『反省会雑誌』である。

現在まで続く日本の代表的総合誌の中でも、圧倒的に長い歴史を持つ。現在の『中央公論』自身も「日本最長寿雑誌」と位置付けている。

その長い歴史を考えると、『中央公論』を特定の政治思想だけで定義するのは難しい。

むしろ特徴的なのは、

「一定の教養を前提として、異なる立場の論者が国家や社会を論じる場所」

という性質である。

明治から大正、昭和へと社会が変わる中で、政治論だけではなく、文学、思想、科学、文化を同じ雑誌の中に置くことができた。

ここには、かつての「総合誌」の重要な特徴がある。

現代であれば、

政治は政治サイト、 経済は経済誌、 文学は文芸誌、 科学は科学誌、

と分かれている。

しかし総合誌はそれらを一冊にまとめた。

その根底には、

社会問題は政治だけでは理解できない

という教養主義的な発想があったのである。

現在の『中央公論』も政治・経済、国際情勢、教育、医療、歴史、文化など広範なテーマを扱っている。つまり、規模や社会的影響力は変化しても、「複数分野を一つの知的空間で考える」という総合誌の構造を比較的強く残している。


3 『改造』~大正デモクラシーが生んだ「社会を変える」雑誌

『改造』は1919年に創刊された。

題名そのものが象徴的である。

「中央」でも「世界」でも「文藝」でもない。

改造する。

第一次世界大戦後の社会変動、大正デモクラシー、労働問題、社会主義、民主主義などが社会的関心を集めていた時代に登場した雑誌だった。

その意味で、『改造』には単なる時事評論誌以上に、

社会制度そのものを問い直す思想誌

としての色彩があった。

重要なのは、戦後になって突然進歩的思想が日本に現れたわけではないということである。

自由主義、社会主義、民主主義、労働問題、社会改革を論じる知的空間は、大正から昭和戦前期にも存在していた。

『改造』は、その一つの象徴だった。

戦時下では刊行が途切れ、1946年1月に「復刊第1号」を出して再出発する。しかし最終的には1955年2月の36巻2号で休刊した。

ここで1955年という年は興味深い。

日本政治では一般に、この頃から自由民主党と日本社会党を中心とする、いわゆる「55年体制」が成立する。

同時に社会は復興期から高度経済成長へ向かっていく。

つまり『改造』が退場した時期は、

「社会を根本からどう作り直すか」が最大の問題だった戦後直後から、「既存の社会をどう運営し成長させるか」という時代への移行期

とも重なっていた。

もちろん、『改造』の休刊を55年体制だけで説明することはできない。

しかし思想史的に見るならば、『改造』の消滅は、戦前から続いた「社会改造」という言葉そのものが持っていた時代的エネルギーの変化を象徴しているようにも見える。


4 『世界』~敗戦から生まれた戦後民主主義の論壇

四誌の中で、『世界』は最も明確に「戦後」という時代から生まれた雑誌である。

初代編集長・吉野源三郎は、その後、平和問題談話会などにも関わり、『世界』を中心に平和や民主主義について論陣を張った。岩波書店自身も、吉野について戦後日本の平和と民主主義を支える活動を行った人物として紹介している。

ここから、『世界』はしばしば「進歩的文化人の雑誌」「リベラル・左派系論壇誌」と理解されてきた。

その評価には一定の根拠がある。

しかし、『世界』の歴史的役割をそれだけで終わらせると重要な点を見落とす。

創刊時の問題意識は、

「どの政治勢力を支持するか」

より以前に、

なぜ日本の知識人は戦争を止めることができなかったのか

という問いにあったからである。

ここから、

平和、 民主主義、 基本的人権、 日本国憲法、 安全保障、 沖縄、 東アジア、

などが重要な論点になっていく。

実際、『世界』は長期にわたり、日本の講和、安全保障、日韓関係、沖縄など平和と外交にかかわる問題を扱ってきた一方、文学や文化についても重要な作品・論考を掲載してきた。

したがって『世界』は、

「総合誌」から次第に「思想的立場を明確にした論壇誌」へ重点を移していった雑誌

と見ることもできる。

ここに『中央公論』との違いが現れる。

『中央公論』が「異なる議論を載せる広場」という性格を比較的強く維持したのに対し、『世界』は「何を守るために議論するのか」という価値判断をより明確に持った。

これは長所にも短所にもなる。

立場が明確だからこそ、一貫した論陣を形成できる。

一方で読者が政治的立場によって分かれる時代になると、「異なる立場の人が同じ雑誌を読む」という総合誌本来の機能は弱まりやすい。


5 『文藝春秋』~思想体系よりも「人間が語ること」を重視した雑誌

『文藝春秋』は1923年、作家・菊池寛によって創刊された。

菊池は創刊に際し、自分が考えていることを編集者や読者に過度に気兼ねせず、自由に語りたいという趣旨を書いている。

創刊号には芥川龍之介、川端康成、横光利一らが参加し、3000部が短期間で売り切れたという。

この出発点は、『世界』や『改造』とかなり異なる。

最初に社会思想があったのではない。

「書き手が自由にものを言う場所」

という発想が先にある。

そのため『文藝春秋』は、文学から出発しながら、政治、社会、歴史、人物論へと領域を拡大していった。

昭和初期から時事問題の記事が掲載されるようになり、著名人を集めた座談会も同誌の重要な形式となった。

ここに『文藝春秋』の独特な性格が形成される。

『世界』が理念から社会を見る傾向が強いとすれば、『文藝春秋』は、

政治家、 官僚、 経営者、 軍人、 研究者、 作家、 芸能人、

といった具体的な「人」を通じて社会を見る傾向が強い。

これは必ずしも「保守だから」というだけではない。

編集方法そのものが違うのである。

『世界』が「問題」を中心に論理を組み立てやすいのに対し、『文藝春秋』は「人物」「証言」「回想」「対談」「事件」を中心に社会を描きやすい。

この違いは、両誌が同じ政治問題を扱った場合にも文章の雰囲気を大きく変える。


6 戦後直後~総合誌が「国家の設計図」を議論した時代

1945年の敗戦直後、日本社会には巨大な空白が生まれた。

帝国憲法から日本国憲法へ。 軍国主義から民主主義へ。 帝国から新しい国際秩序へ。

社会制度だけでなく、

「日本とは何か」 「民主主義とは何か」 「戦争責任とは何か」 「文化とは何か」

という問いそのものが社会に投げ出された。

この時期の総合誌は、現在の雑誌以上に大きな意味を持っていた。

新聞は日々の出来事を伝える。

しかし、

これから日本をどのような国にするのか

という問題は、新聞記事だけでは議論しにくい。

数十ページを使った論文や座談会が必要になる。

そのため戦後初期の総合誌には、現在で言えば、

新聞のオピニオン面、 大学の公開講座、 政策研究所、 テレビ討論番組、 専門家ブログ、

などの一部を合わせたような機能があったと考えられる。

『改造』の1953年号を見ても、民主政治、米国との関係、中国問題など、戦後日本の国家的位置そのものを問う論考が並んでいる。

総合誌とは単なる娯楽ではなく、

国家と社会について考えるためのインフラの一つだったのである。


7 1955年以降~「社会を作る議論」から「社会を評価する議論」へ

しかし、日本社会が安定すると総合誌の役割も変化する。

1950年代後半から高度経済成長が始まり、

所得、 企業、 雇用、 住宅、 教育、 消費生活

が急速に拡大した。

戦後直後には、

「日本という国をどう作るか」

が問題だった。

ところが社会制度が安定してくると、

「現在の日本社会をどう評価するか」

が問題になる。

この変化の中で、総合誌も分化していった。

『世界』は平和、憲法、安全保障などを中心とする戦後民主主義的論壇の一角を形成する。

『中央公論』は政治・経済・文化・学問を横断する総合的言論空間を維持する。

『文藝春秋』は政治から文学、事件、人物までを含む国民的総合誌として大型化していく。

そして『改造』は退場した。

戦前には四誌がある程度共有していた「総合誌」という市場が、

それぞれ異なる読者層を持つ複数の論壇へ分かれていった

と考えることができる。


8 1960年代~総合誌の政治性が最も見えやすくなった時代

1960年の日米安全保障条約改定をめぐる社会運動は、戦後論壇にとって大きな分岐点だった。

安全保障、憲法、米国との関係、社会主義、民主主義といった問題について、知識人の政治的立場が明確になる。

ここから、総合誌を読む行為そのものが、

「自分はどの立場から社会を見るのか」

という意味を帯びやすくなる。

この時期以後、

『世界』を読む人、 『中央公論』を読む人、 『文藝春秋』を読む人、

には、ある程度異なる政治的・文化的傾向が形成されていったと考えられる。

ただし、これを単純な左右対立として理解するのは危険である。

各誌には異なる立場の論者が登場するし、時代によって編集方針も変化する。

重要なのは、

雑誌そのものが一種の「知的共同体」を形成していた

ということである。


9 1970~80年代~「知識人」の権威が変化する

戦後初期の総合誌では、大学教授、哲学者、文学者、評論家など「知識人」が社会全体について語ることが比較的自然だった。

しかし高度経済成長によって社会は高度に専門化する。

経済政策なら経済学者。 医療なら医師。 外交なら国際政治学者。 科学技術なら研究者。

というように、問題ごとに専門家が必要になる。

ここで総合誌が依存していた「万能型知識人」の立場が弱くなる。

さらにテレビが普及する。

政治家や文化人の発言を知るために、必ずしも数十ページの論文を読む必要はなくなった。

それでも総合誌が生き残れた理由は、

テレビでは扱えない長さと複雑さ

を提供できたからだろう。

短時間の討論ではなく、

歴史的背景、 論理展開、 資料、 思想、

まで含めて問題を考える。

総合誌は「速報性」ではなく「熟考」に価値を置くメディアになっていった。


10 1990年代~冷戦終了が論壇の座標軸を崩した

1991年前後の冷戦終結は、日本の論壇にも大きな影響を与えた。

それまで、

資本主義対社会主義、 米国対ソ連、 保守対革新、

という軸で整理できた問題が、それほど単純ではなくなる。

さらに、

バブル崩壊、 少子高齢化、 グローバル化、 環境問題、 情報化、 格差、 地方衰退、

など、新しい問題が前面に出てくる。

これらは従来の「保守対革新」という一本の軸では説明できない。

例えば、

原子力政策では保守内部でも意見が分かれる。

グローバル化では経済的自由主義と文化的保守主義が衝突することがある。

社会保障では財政規律と生活保障が対立する。

こうして総合誌は、

一つの思想体系で世界を説明することが難しい時代

に入った。


11 インターネットが奪ったのは「文章」ではなく「入口」である

2000年代以降、総合誌にとって最大の変化はインターネットである。

かつて社会問題について考えようと思えば、

新聞を読む、 本を買う、 総合誌を読む、

という経路が中心だった。

しかし現在は検索すれば、

政府資料、 統計、 新聞記事、 専門家の解説、 海外メディア、 動画、 SNS、

へ直接アクセスできる。

つまり総合誌が失ったものは、必ずしも「長文を読む人」だけではない。

より本質的には、

知識へ到達するための入口としての独占的地位

を失ったのである。

これは大きな変化である。

昔の読者は『中央公論』を開くことで、自分が知らなかった問題に出会った。

現在は検索エンジンが、読者の「知りたい問題」へ直接連れていく。

一見すると便利になった。

しかし副作用もある。

自分が関心を持っていないテーマに偶然出会う機会が減る。

政治に関心のある人は政治だけを見る。

投資に関心のある人は投資だけを見る。

文学好きは文学だけを見る。

社会の知識が縦割りになる。

ここに、総合誌が失われることによる意外な問題がある。


12 四誌を「左右」ではなく四つの編集モデルとして見る

ここまでの歴史を踏まえると、四誌は次のように整理できる。

『改造』

社会を変えるために思想を提示する雑誌

社会改革そのものが大きな知的テーマだった時代の総合誌。

『世界』

守るべき価値から社会を問い続ける雑誌

平和、民主主義、人権などを重要な基準として現実社会を検証する。

『中央公論』

異なる専門領域と論者を一つの場所に集める雑誌

教養と論壇の「広場」としての総合誌。

『文藝春秋』

人物・証言・文学・政治を通じて社会を描く雑誌

抽象的思想体系より、人間や事件から時代を見る編集モデル。

もちろんこれは絶対的分類ではない。

四誌はいずれも長い歴史の中で編集方針を変えている。

だが政治的な「右・左」という一本の軸よりも、このように編集思想の違いとして見る方が、各誌の特徴を理解しやすい。


13 なぜ『改造』は消え、三誌は残ったのか

ここには興味深い問題がある。

なぜ『改造』だけが1955年で姿を消したのだろうか。

経営事情を無視して思想だけで説明することはできない。

しかしメディア史的に見ると、「改造」という概念そのものが特定の時代環境と強く結び付いていた点は注目できる。

社会制度そのものが激しく揺れている時代には、

「社会を改造する」

という言葉は強い意味を持つ。

しかし戦後体制が固定化し、高度経済成長に入ると、社会の中心課題は、

革命や改造

より、

成長、 経営、 政策、 生活、

へ移っていく。

一方、

「世界」 「中央公論」 「文藝春秋」

という名称は、特定の政治課題に限定されない。

その意味で長期的に編集内容を変化させやすかったとも考えられる。

これはあくまで一つの解釈だが、雑誌の寿命を考える上で興味深い点である。


14 現代では総合誌はもう必要ないのか

部数や社会的影響力だけを考えれば、総合誌の時代が最盛期を過ぎたことは否定しにくい。

しかし、

総合誌という形式そのものが不要になった

とは限らない。

むしろインターネット時代だからこそ、総合誌的思考には意味がある。

例えば少子化を考える。

出生数の統計だけを見ても理解できない。

雇用、 住宅、 教育費、 ジェンダー、 結婚観、 地域構造、 社会保障、 医療、 文化、

を同時に考える必要がある。

地方の人口減少も同じである。

人口統計だけではなく、

産業、 交通、 医療、 学校、 住宅、 自治体財政、 家族、 文化、

が結び付いている。

つまり現代社会の問題そのものが「総合的」なのである。

ところが情報メディアは逆に専門化している。

ここに矛盾がある。

問題は総合化しているのに、情報は細分化している。

総合誌が本来持っていた意味は、この分断された知識を一つの場所へ戻すことだった。


15 ただし、昔の総合誌を理想化してはいけない

ここで注意しなければならない。

「昔は知識人が総合誌を読み、社会について深く考えていた。それに比べ現代はSNSで短文ばかり読んでいる」

という結論は単純すぎる。

昔の総合誌にも限界はあった。

執筆者となれる人は限られていた。

東京の大学、出版社、新聞社などを中心とする知識人ネットワークに発言力が集中しやすかった。

一般市民は基本的に読者であり、発信者ではなかった。

現在のインターネットでは、地方在住者、専門職、市民、当事者などが直接情報を発信できる。

これは明らかな進歩でもある。

したがって、

総合誌の衰退=言論の衰退

とは言えない。

より正確には、

言論の中心が少数の雑誌編集部から、無数の発信者へ分散した

のである。

問題は、その結果として「共通して読む場所」も失われたことにある。


16 総合誌が作っていたのは「意見」ではなく「共通の議題」だった

総合誌の歴史を考えると、最も重要なのはここかもしれない。

『世界』の読者と『文藝春秋』の読者は、同じ意見を持っていたわけではない。

むしろ政治的には大きく異なることもあった。

しかし、

安全保障、 憲法、 中国、 経済成長、 教育、 文学、 人口問題、

といった「何について考えるべきか」はある程度共有されていた。

総合誌が社会に提供していた最大のものは、

正しい答えではなく、共通して議論すべき問い

だったのである。

インターネット時代には、この「共通の問い」が成立しにくい。

ある人の画面には政治が並び、別の人の画面には芸能が並び、さらに別の人には投資情報が並ぶ。

一人ひとりが違う情報世界を生きる。

これは情報の多様化であると同時に、公共圏の分裂でもある。


結論~総合誌の歴史は、日本人が「社会をどう考えてきたか」の歴史である

『中央公論』『改造』『文藝春秋』『世界』は、同じ「総合誌」と呼ばれていても、その出発点は異なっていた。

『中央公論』には明治以来の教養論壇の伝統がある。

『改造』には大正期から続く社会改革への強い問題意識があった。

『文藝春秋』は文人が自由にものを語る場所から始まり、人物、文学、政治、社会へ広がった。

『世界』は敗戦を出発点に、平和と民主主義を戦後社会にどう根付かせるかという問題を背負った。

四誌の違いは、単純な保守と革新の違いではない。

それぞれ、

社会を変える。 社会を問い直す。 異なる議論を集める。 人間を通じて時代を見る。

という異なる方法で、日本社会を文章にしてきたのである。

そして戦後80年を経た現在、総合誌がかつて持っていた圧倒的な影響力は小さくなった。

しかし、それは社会について総合的に考える必要がなくなったからではない。

むしろ逆である。

人口減少、人工知能、気候変動、安全保障、社会保障、地域衰退、格差など、現代の問題ほど複数分野が絡み合っている。

私たちは膨大な情報を手に入れた。

しかし、

異なる情報を一つの問題として考える場所

を失いつつある。

戦後総合誌の歴史から現代が学べるものがあるとすれば、それは特定の雑誌の政治思想ではないだろう。

重要なのは、

異なる専門、異なる思想、異なる世代の人間が、同じ社会について長い文章で考える場所を持つこと

なのではないか。

『改造』は消えた。

『世界』『中央公論』『文藝春秋』は現在まで刊行されている。『中央公論』は1887年以来、『文藝春秋』は1923年以来、『世界』は1946年以来、それぞれ異なる形で時代の議論を記録してきた。

その変遷を読むことは、雑誌史を読むことにとどまらない。

それは、

日本社会が何を問題と考え、誰の言葉を信頼し、どのような形で公共的な議論を成立させようとしてきたのかを読むことでもある。

そしておそらく、総合誌の歴史が現代に投げかける最大の問いは、

「どの雑誌が正しかったのか」

ではない。

「私たちはこれから、異なる考えを持つ人々と、どこで同じ社会について考えるのか」

という問いなのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ