リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

出版社は本を売っているだけなのか

本屋の棚には、出版社の名前が並んでいる。

岩波書店。

文藝春秋。

新潮社。

講談社。

中央公論新社。

筑摩書房。

河出書房新社。

私たちは通常、本を著者名や題名で選ぶ。

しかし長い読書生活を続けていると、

「岩波らしい本」

「文春らしい本」

という感覚を持つことがある。

もちろん、出版社が出している本をすべて一つの思想でまとめることはできない。

岩波書店にも多様な著者がいる。

文藝春秋にも政治的・思想的に異なる執筆者がいる。

それでも、

どんな本を出すか。

誰に書かせるか。

どの作品を古典として残すか。

どの問題を社会へ提示するか。

どの程度の難しさを読者に要求するか。

という編集上の選択が何十年も積み重なると、出版社そのものが一種の文化的性格を持ち始める。

本稿では、この違いを便宜的に、

「岩波文化」と「文春文化」

と呼んでみたい。

ただし、これは正式な学術概念ではない。

両社の出版活動を比較するための分析上の言葉である。

そして問いたいのは、

どちらが正しいか、

どちらが優れているか、

ではない。

出版社は、日本人が社会を考えるときの「入口」や「考え方の型」をどのように作ってきたのか。

そこを見ていきたい。

1 岩波書店は「知識を社会へ普及する出版社」として始まった

岩波書店は1913年、岩波茂雄によって創業された。

現在の岩波書店自身も、創業以来、学術研究、思想、芸術の成果を社会へ伝えてきた出版社として自社の歴史を位置付けている。

ここには、岩波書店の一つの重要な性格がある。

単に売れる本を作るというより、

価値のある知識を、社会へ残し、広く届ける

という発想である。

もちろん出版社である以上、経営は必要である。

売れなければ出版活動を続けられない。

しかし岩波文化には、

「市場で人気があるか」

とは別に、

「読む価値があるか」

「残す価値があるか」

という基準が強く存在してきたように見える。

その象徴が岩波文庫である。

2 岩波文庫~出版社が「古典」を選ぶということ

岩波文庫は1927年に創刊された。

創刊時には、古今東西の古典と価値ある良書を、廉価で普及させることが明確に掲げられていた。

岩波書店自身の資料によれば、学生用・携帯用の廉価版として、古典・良書を厳選し、読者が自由に選んで購入できる形を目指していた。

ここで重要なのは、

文庫とは単なる小型本ではない、

ということである。

出版社が、

「この本は読む価値がある」

と判断し、

古典として読者へ差し出す。

つまり文庫の編集には、

文化の選択

という機能がある。

プラトン。

カント。

夏目漱石。

万葉集。

海外文学。

哲学。

歴史。

社会科学。

こうしたものを一つのシリーズへ並べることで、

「教養とは何を読むことなのか」

という見取り図が作られる。

岩波文庫は長年にわたり、その見取り図の一つを日本社会へ提供してきた。

3 岩波文庫は「読者に少し背伸びを要求する」

岩波文庫の特徴の一つは、

読者に必ずしも分かりやすさだけを要求しないことにある。

古典は難しい。

思想書も難しい。

哲学書も簡単ではない。

古い日本語もある。

注釈が必要な作品も多い。

それでも出版する。

つまり、

「読者が読みやすいものを出す」

だけではなく、

「読む価値があるから、読者側にも努力してもらう」

という発想がある。

これは一種の教養主義である。

読者を消費者としてだけではなく、

学ぶ人

として見る。

ここに岩波文化の重要な特徴がある。

4 岩波新書~専門知を一般社会へ翻訳する

岩波文化を考える上で、岩波新書も重要である。

岩波新書は1938年に創刊された。

新書という形式は、

専門書ほど難しくない。

しかし新聞記事よりは深い。

一般読者が、あるテーマについて体系的に学ぶための中間的な形式である。

政治。

歴史。

科学。

社会問題。

経済。

教育。

文化。

こうした分野について、

研究者や専門家が一般読者へ説明する。

つまり岩波新書は、

専門知を公共知へ翻訳する装置

として機能してきた。

ここでは、

「面白い話を読む」

というより、

「知らなかったことを理解する」

という読書体験が中心になる。

5 『世界』~岩波文化が社会問題へ向かう

1946年には総合雑誌『世界』が創刊される。

岩波書店は現在も『世界』を、良質な情報と深い学識による評論を通して戦後史に関わってきた雑誌として位置付けている。

『世界』の誕生には、敗戦という歴史的背景がある。

戦前日本には高い教育を受けた人々も研究者も存在した。

それでも戦争を止められなかった。

その反省から、

知識を社会へ結び付けなければならない、

という問題意識が生まれた。

ここで岩波文化は、

古典や学問を読むことから、

社会そのものをどう考えるか

へ広がる。

平和。

民主主義。

憲法。

外交。

人権。

教育。

こうした問題について、研究者や知識人が長文で論じる。

岩波文化の一つの典型がここにある。

6 岩波文化は「理念から現実を見る」

岩波書店の出版物をすべて一つにまとめることはできない。

しかしあえて編集文化として整理するなら、

岩波文化には、

理念や原理から現実を見る

という傾向が比較的強い。

民主主義とは何か。

人権とは何か。

科学とは何か。

歴史をどう理解するか。

社会制度はどうあるべきか。

まず概念や原理を考える。

そのうえで現実を評価する。

この方法には強みがある。

目の前の出来事だけに流されず、

長期的・構造的に考えられる。

一方で弱点もある。

現実の人間は、

理念どおりには動かない。

利害。

感情。

嫉妬。

欲望。

恐怖。

偶然。

こうしたものが社会を動かす。

そこで、文春文化との違いが見えてくる。

7 文藝春秋は「自由にものを言う雑誌」から始まった

文藝春秋は1923年、菊池寛による雑誌『文藝春秋』の創刊から始まった。

菊池寛は創刊に際し、依頼されて発言することに飽き、自分が考えていることを読者や編集者に気兼ねせず語りたいという趣旨を書いた。

創刊号には芥川龍之介、川端康成、横光利一らが参加し、3000部が短期間で売り切れた。

ここには、岩波とは少し違う出発点がある。

「価値ある知識を普及する」

というより、

「面白い人間が、自分の言葉でものを言う」

ことから始まっている。

文藝春秋自身も、現在まで明文化された社是をあえて持たず、菊池寛の「自由な心持」を編集精神の根に置いている。

8 文春文化は「人間」から社会を見る

文藝春秋の特徴を考えると、

政治思想より前に、

人間への関心

がある。

作家。

政治家。

経営者。

官僚。

芸能人。

スポーツ選手。

犯罪者。

歴史上の人物。

こうした具体的な人間を通じて社会を見る。

文藝春秋の採用サイトでも、創業者菊池寛の雑誌作りの原点を、人間への強い関心として語っている。

これは編集方法として非常に重要である。

例えば政治問題を扱う場合でも、

制度そのものを説明するだけではなく、

誰が動いたのか。

誰が失敗したのか。

誰と誰が対立したのか。

本人は何を語ったのか。

という形で読ませる。

文春文化では、

制度より人物、理念より物語

が入口になりやすい。

9 『文藝春秋』~文学と政治が同じ場所にある

『文藝春秋』は、文芸雑誌として出発しながら、次第に政治、社会、歴史、人物論まで扱う総合誌へ成長した。

これは興味深い。

文学と政治を完全に分けない。

作家の文章の隣に政治家の回想がある。

歴史論の隣に人物評がある。

経済人の証言が掲載される。

つまり、

社会とは抽象的制度だけではなく、人間の集合である

という編集感覚がある。

ここが岩波文化との大きな違いである。

10 芥川賞・直木賞が作った「文春文化」

文藝春秋は1935年に芥川龍之介賞と直木三十五賞の制定を発表した。

両賞は、菊池寛が亡くなった友人である芥川龍之介、直木三十五を記念して作ったものである。

これは単なる文学賞ではない。

出版社が、

新人作家を発見し、

作品を社会へ紹介し、

読者へ「いま読むべき文学」を提示する、

という仕組みである。

つまり文藝春秋もまた、

読者の読書習慣を作っている。

ただし岩波文庫とは方向が違う。

岩波文庫が、

過去から何を残すか

を選ぶ装置だとすれば、

芥川賞や直木賞は、

現在から誰を未来へ送り出すか

を選ぶ装置である。

11 岩波文化は「古典化」、文春文化は「人物化」

ここまでを見ると、両社の違いを一つの対比として整理できる。

岩波は、

本を古典化する。

文春は、

人を物語化する。

もちろんこれは単純化である。

しかし編集文化として見ると分かりやすい。

岩波文化は、

「この本を読めば、社会や思想の背景が分かる」

という方向に向かう。

文春文化は、

「この人を知れば、時代が見える」

という方向に向かう。

同じ社会問題でも入口が違う。

12 岩波は「読者を学習者として扱う」

岩波書店の本を読むと、

読者に一定の努力を要求する場合がある。

用語を調べる。

背景を理解する。

原典を読む。

注釈を読む。

前提知識を身につける。

つまり読者は、

情報を受け取る消費者

というより、

知識を獲得する学習者

として想定される。

岩波文庫の創刊時にも、学生用・普及用という意識が明示されていた。

ここには、

読書を自己形成と結び付ける発想がある。

13 文春は「読者を好奇心のある観察者として扱う」

文春文化では少し違う。

読者は、

人間を知りたい。

事件の裏側を知りたい。

当事者の証言を読みたい。

著名人の人生を知りたい。

社会の表面からは見えない部分を知りたい。

そうした好奇心を持つ存在として扱われる。

文藝春秋自身も、現在の編集文化について「面白がる力」を重視していると説明している。

つまり、

岩波文化が、

「理解したい」

という読者の欲求に応えるとすれば、

文春文化は、

「知りたい」

という欲求に応える。

この二つは似ているようで違う。

14 「正しさ」と「面白さ」の違い

出版社にとって、

正確であること

と、

読ませること

は両方重要である。

しかし両社は、重点の置き方が違うように見える。

岩波文化では、

論理。

資料。

学問。

歴史的背景。

概念。

が前面に出やすい。

文春文化では、

人物。

証言。

事件。

対立。

人生。

が前面に出やすい。

つまり便宜的に言えば、

岩波文化は、

「正しく考える」

ことを重視し、

文春文化は、

「人間を通して考える」

ことを重視する。

ただし、どちらにも限界がある。

15 岩波文化の弱点~理念が現実から離れる危険

理念を重視すると、

社会の構造を長期的に見ることができる。

しかし、

理念が強すぎると、

現実の複雑さを見落とす場合がある。

例えば、

民主主義は重要だ。

平和は重要だ。

人権は重要だ。

という原則が正しくても、

実際の政策では、

安全保障。

財政。

雇用。

地域差。

外交。

など複数の条件が絡む。

理念だけで解けない問題もある。

また、特定の思想的枠組みが強くなると、

現実をその枠組みに合わせて解釈する危険もある。

これは岩波だけの問題ではなく、

理念中心の言論一般が持つ弱点である。

16 文春文化の弱点~人物が制度を隠す危険

一方、人物中心の編集にも弱点がある。

誰が悪いのか。

誰が裏切ったのか。

誰が失敗したのか。

という話は分かりやすい。

しかし社会問題の原因が、

制度、

構造、

人口、

経済、

歴史、

にある場合、

個人だけを見ても解決できない。

「悪い政治家がいたから」

「無能な経営者がいたから」

という説明だけでは不十分な問題も多い。

つまり文春文化には、

社会問題を人間ドラマへ縮小してしまう危険

がある。

17 岩波は「体系」、文春は「エピソード」

両社の違いをもう少し抽象化すると、

岩波文化は、

体系

を作ろうとする。

文春文化は、

エピソード

を集める。

岩波新書を数冊読むと、

ある分野の全体像が見えてくる。

文春系の人物記事やノンフィクションを読むと、

ある時代の人間の生々しさが見えてくる。

体系だけでは人間は見えない。

エピソードだけでは構造が見えない。

つまり両者は、本来補完関係にある。

18 戦後日本では「岩波を読むこと」が教養の記号になった

戦後日本では、

岩波書店の本を読むことそのものが、

一定の教養イメージと結び付いた時期があった。

岩波文庫。

岩波新書。

『世界』。

『思想』。

こうした出版物は、

大学。

研究者。

学生。

教員。

知識人。

との関係が強かった。

岩波書店自身も、現在なお学術、思想、科学などの雑誌を継続して刊行している。

ここで出版社名が、

単なる企業名ではなく、

教養のブランド

になる。

岩波の本を読むことは、

ある種の文化的所属を示すこともあった。

19 文春は「社会の裏側を見る」というブランドを作った

文藝春秋もまた、独自の文化的ブランドを作った。

『文藝春秋』。

『オール讀物』。

『週刊文春』。

文春文庫。

さらに文学賞やノンフィクション賞。

会社の沿革を見ると、1930年に『オール讀物』の前身を出し、1959年に『週刊文春』、1969年に大宅壮一ノンフィクション賞、1974年に文春文庫を創刊している。

こうした展開によって、

文学、

人物、

事件、

ノンフィクション、

時事、

を横断する文化が形成された。

文春を読むことには、

社会の表側だけではなく、裏側まで見たい

という読書欲求が結び付いた。

20 「岩波的な知識人」と「文春的な知識人」

戦後日本では、知識人にも二つのタイプが見えてくる。

一つは、

研究者。

思想家。

評論家。

専門家。

などが、

原理や制度を論じるタイプ。

これを便宜的に、

岩波的知識人

と呼べるかもしれない。

もう一つは、

作家。

記者。

ノンフィクション作家。

人物評論家。

などが、

人間や事件から社会を描くタイプ。

こちらを、

文春的知識人

と呼ぶことができる。

もちろん実際には両方の性格を持つ人も多い。

しかし日本の言論文化には、

この二つの流れが並存してきたと考えると理解しやすい。

21 岩波は「何を読むべきか」を作った

出版社が人々の考え方へ与える影響は、

特定の政治思想だけではない。

もっと根本的なところにある。

例えば岩波文庫を何年も読む。

すると、

古典を読む。

原典を重視する。

歴史的背景を調べる。

概念を正確に理解する。

という読書習慣が形成される。

つまり岩波文化が作ったのは、

特定の答えだけではない。

考え方の作法

でもある。

22 文春は「誰が何をしたのか」を考える習慣を作った

一方、文春文化では、

人物に注目する。

証言を読む。

事件の背景を探る。

権力者の行動を見る。

人間関係を見る。

動機を考える。

こうした読書習慣が形成される。

これも一つの考え方の作法である。

社会は制度だけで動くわけではない。

最終的には人間が決定する。

だから、

「誰が、なぜ、どう動いたのか」

を見ることには意味がある。

23 日本人の考え方を作ったのは「内容」より「編集形式」だったのかもしれない

ここで重要なのは、

岩波がある思想を広め、

文春が別の思想を広めた、

という話だけではない。

もっと重要なのは、

何を重要な情報として配置したか

である。

岩波は、

古典。

学術。

思想。

制度。

歴史。

を読者の前へ並べた。

文春は、

人物。

事件。

証言。

文学。

ノンフィクション。

を並べた。

つまり両社は、

内容だけではなく、

世界を見る枠組み

を読者へ提供していた。

24 右と左では説明できない

ここまでの違いを、

岩波=左、

文春=右、

とまとめるのは不正確である。

確かに『世界』は、戦後の平和主義やリベラルな論壇と強く結び付いてきた。

しかし岩波書店には、

古典文学、

哲学、

自然科学、

数学、

歴史、

辞典、

など膨大な出版領域がある。

文藝春秋についても、

政治的に単一の立場を持つ出版社と考えることは難しい。

そもそも同社は現在も明文化された社是を置かず、「自由な心持」を編集文化の源としている。

両社の違いは、

政治的位置だけではなく、

編集思想の違い

として見る方がよい。

25 出版社は「読者像」を作る

出版社は、

存在する読者へ本を売るだけではない。

長期的には、

読者そのものを作る。

難しい本を出し続ければ、

難しい本を読む読者が育つ。

人物中心の記事を出し続ければ、

人間から社会を見る読者が育つ。

つまり出版文化とは、

本を作る文化

であると同時に、

読者を育てる文化

でもある。

岩波文化と文春文化は、

異なる読者像を日本社会に作ってきたと考えることができる。

26 岩波読者と文春読者は本当に別なのか

しかし、

岩波を読む人。

文春を読む人。

を完全に分ける必要はない。

むしろ両方読む人も多い。

それが重要である。

社会問題を考えるとき、

岩波的な視点で、

構造や歴史を理解する。

同時に文春的な視点で、

当事者や人物を見る。

この二つを組み合わせると、

社会を立体的に理解しやすい。

例えば企業不祥事を考えるなら、

制度。

企業統治。

法律。

経済構造。

だけでなく、

経営者。

社員。

内部告発者。

組織文化。

も見る必要がある。

体系と人物の両方が必要なのである。

27 インターネット時代に出版社の役割はなくなるのか

現在では、

古典も検索できる。

論文も読める。

専門家の解説も動画で見られる。

人物情報も大量にある。

それなら出版社は不要になるのだろうか。

むしろ逆の問題が出てくる。

情報が多すぎる。

何を読むべきか分からない。

何が正確なのか分からない。

どこから学べばよいのか分からない。

ここで、

出版社の編集機能

が再び重要になる。

情報を増やすのではなく、読む順番を作る。

これが出版社の新しい価値になり得る。

28 岩波も文春もデジタルへ移動している

現在、岩波書店は『世界』のウェブ版である「WEB世界」など、デジタル上でも読者へコンテンツを届けている。

文藝春秋も、雑誌や書籍に加え、デジタルメディアやオンラインサービスへ領域を広げている。

つまり、

紙の岩波。

紙の文春。

という構図はすでに変化している。

しかし、

媒体が紙から画面へ変わっても、

何を選び、どう並べるか

という編集文化は残る。

29 AI時代には編集文化がさらに重要になる

AI(人工知能)が普及すると、

文章を要約する。

質問へ答える。

情報を整理する。

といったことが容易になる。

すると出版社の役割はさらに減るように見える。

しかし、

何を読む価値があると判断するか。

どの著者を残すか。

どの論点を社会へ提示するか。

どの資料を信頼するか。

という判断は、

単純な情報処理ではない。

出版社が長年行ってきたのは、

文化的な選択

である。

岩波文庫が古典を選んできたこと。

文藝春秋が作家や人物を社会へ紹介してきたこと。

これは単なる情報処理ではない。

「何を重要だと考えるか」という価値判断である。

30 岩波文化が残したもの

岩波文化が日本社会へ残したものを整理すると、

古典を読む文化。

原典を重視する文化。

学問を一般社会へ広げる文化。

長い文章を読む文化。

社会問題を理念や制度から考える文化。

などが挙げられる。

これらは、すべての読者へ同じ影響を与えたわけではない。

しかし、

日本の教養文化の一部を形作ったことは否定しにくい。

31 文春文化が残したもの

文春文化が残したものには、

人物から時代を見る文化。

証言を重視する文化。

ノンフィクションを読む文化。

文学と社会を分けない文化。

事件の裏側を知ろうとする文化。

などがある。

文藝春秋は雑誌、書籍、文学賞、ノンフィクション賞、文庫などを通して、こうした読書文化を広げてきた。

これも日本人の社会理解に一定の影響を与えてきた。

32 両方に共通するのは「編集への信頼」

実は岩波と文春には、大きな共通点もある。

それは、

出版社が読者の代わりに選ぶ

ということである。

岩波が選ぶ。

文春が選ぶ。

読者は、

その選択にある程度の信頼を置く。

だから、

岩波文庫なら読んでみよう。

文春文庫なら読んでみよう。

という行動が生まれる。

これは出版社ブランドの本質である。

著者だけではなく、

編集者の判断まで含めて本を買う。

出版文化は、

編集への信頼

によって成立している。

33 しかし出版社を無条件に信頼してはいけない

もちろん、

岩波だから正しい。

文春だから正しい。

ということにはならない。

出版社も間違える。

編集方針には偏りがある。

時代によって判断も変わる。

特定の読者層へ合わせることもある。

だから出版社ブランドは、

判断の参考にはなるが、

正しさの保証ではない。

むしろ重要なのは、

出版社ごとの編集文化を理解したうえで読むこと

である。

岩波なら、

このテーマをなぜ理念や学問から扱っているのか。

文春なら、

なぜこの人物や事件を入口にしているのか。

そう考えると、読書が一段深くなる。

34 令和の読者には「複数の出版社を読む力」が必要になる

昔より情報が増えた現在、

一つの出版社だけを読むことには限界がある。

あるテーマについて、

岩波新書を読む。

文春新書を読む。

新聞を読む。

政府資料を見る。

専門書を見る。

当事者の証言を読む。

こうして複数の入口を使う。

それによって、

一つの編集文化に依存しすぎることを避けられる。

現代の教養とは、

大量の本を読むことだけではない。

異なる編集文化を比較しながら読むこと

でもある。

結論~出版社は「本」だけでなく「ものの見方」を出版してきた

岩波書店と文藝春秋は、どちらも百年を超える歴史を持つ出版社である。

岩波書店は1913年に創業し、岩波文庫、岩波新書、『世界』などを通じて、

古典。

学問。

思想。

専門知。

を社会へ届けてきた。

文藝春秋は1923年に菊池寛が『文藝春秋』を創刊し、その後、

文学。

人物。

事件。

ノンフィクション。

時事。

を横断する出版文化を作ってきた。

両社を単純に、

岩波=左。

文春=右。

と分けるだけでは、本質を捉えられない。

より重要なのは、

世界をどこから見るか

という違いである。

岩波文化は、

原典。

概念。

歴史。

制度。

体系。

から世界を見る。

文春文化は、

人物。

証言。

事件。

人生。

物語。

から世界を見る。

一方だけでは社会を十分に理解できない。

理念だけ見れば、人間を見失う。

人物だけ見れば、構造を見失う。

だから本当は、

岩波文化と文春文化は、

対立するものというより、

社会を見る二つのレンズ

として考える方がよい。

そして出版社が日本人へ与えてきた最も大きな影響も、

特定の政治思想だけではない。

岩波書店は、

「背景を調べ、原典を読み、体系的に考える」

という読書の型を提供した。

文藝春秋は、

「人物を見て、証言を読み、人間の行動から時代を考える」

という読書の型を提供した。

つまり出版社は、

本を作ってきただけではない。

「社会をどう見るか」という思考習慣を、読者の中に作ってきた。

インターネットとAIの時代になり、出版社の独占的な情報発信力は弱くなっている。

しかし、

何を読むか。

誰を信頼するか。

どの順番で学ぶか。

何と何を比較するか。

という問題は、むしろ難しくなっている。

だからこそ、

出版社が一世紀かけて作ってきた「編集文化」を読み解く意味は残る。

岩波を読む。

文春を読む。

そして両方を比べる。

そのとき私たちは、

本の内容だけではなく、

自分自身がどのような方法で社会を見ているのか

まで問い直すことができる。

出版社の歴史とは、

本の歴史だけではない。

それは、

日本人が何を知識と考え、何を面白いと感じ、どのような方法で社会を理解してきたのかという、思考の歴史でもある。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

導入~かつて「雑誌」が社会を考える場所だった

現在、政治について知ろうと思えば、新聞だけでなく、テレビ、ニュースサイト、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)、動画配信、個人ブログなど無数の入口がある。

しかし、戦後の日本では事情が違った。

政治、経済、外交、思想、文学、科学、社会問題について、専門家や作家、政治家、評論家がまとまった文章を書き、それを一般読者が読む。その重要な舞台の一つが「総合誌」だった。

『世界』『中央公論』『改造』『文藝春秋』は、その代表として語られることが多い。

ただし、この四誌を単純に、

「左派の雑誌」 「保守の雑誌」 「知識人の雑誌」 「大衆向けの雑誌」

と分類するだけでは、日本の総合誌が果たしてきた役割を十分に理解できない。

なぜなら、四誌はそもそも誕生した時代も、編集思想も、想定した読者も異なるからである。

『中央公論』の起源は1887年(明治20年)、『改造』は1919年(大正8年)、『文藝春秋』は1923年(大正12年)、そして『世界』は敗戦直後の1946年(昭和21年)に創刊された。『改造』だけは1955年(昭和30年)に刊行を終えている。

つまり、この四誌を比較することは、四つの雑誌を比べるだけではない。

明治以来の教養主義、大正期の思想的大衆化、昭和のジャーナリズム、敗戦後の民主主義、冷戦、高度経済成長、そしてインターネット時代まで、日本人が「社会について考える場所」をどこに求めてきたのかを見ることでもある。


1 四誌は、最初から同じ種類の雑誌ではなかった

まず四誌の違いを簡単に整理してみよう。

雑誌 創刊 出発点の特徴 戦後の位置
中央公論 1887年 明治以来の言論・教養・文学 中道的な総合論壇
改造 1919年 大正期の社会問題・思想・社会改革 戦後復刊するが1955年休刊
文藝春秋 1923年 文人による自由な言論 文学・政治・社会を横断する大型総合誌
世界 1946年 敗戦後の平和・民主主義・知識人論壇 戦後進歩派・リベラル論壇の重要拠点

この表だけを見ても、『世界』と他の三誌には大きな違いがある。

『世界』は戦前から続いた雑誌ではない。

1945年の敗戦そのものを出発点としている。

岩波書店の社史によれば、創業者の岩波茂雄は、日本に優れた知性が存在していたにもかかわらず、国家が戦争へ向かうことを阻止できなかったことを強く問題視し、文化と広い国民を結び付ける必要があると考えて総合雑誌の創刊を構想した。編集主任となったのが吉野源三郎だった。1946年1月号として『世界』創刊号が発行されている。

これに対し、『中央公論』『改造』『文藝春秋』は、戦前日本の言論空間をすでに経験していた。

この差は、その後の雑誌の性格にも大きく影響する。


2 『中央公論』~「一つの思想」よりも「議論する場所」

『中央公論』の前身は、1887年に京都の西本願寺普通教校で創刊された『反省会雑誌』である。

現在まで続く日本の代表的総合誌の中でも、圧倒的に長い歴史を持つ。現在の『中央公論』自身も「日本最長寿雑誌」と位置付けている。

その長い歴史を考えると、『中央公論』を特定の政治思想だけで定義するのは難しい。

むしろ特徴的なのは、

「一定の教養を前提として、異なる立場の論者が国家や社会を論じる場所」

という性質である。

明治から大正、昭和へと社会が変わる中で、政治論だけではなく、文学、思想、科学、文化を同じ雑誌の中に置くことができた。

ここには、かつての「総合誌」の重要な特徴がある。

現代であれば、

政治は政治サイト、 経済は経済誌、 文学は文芸誌、 科学は科学誌、

と分かれている。

しかし総合誌はそれらを一冊にまとめた。

その根底には、

社会問題は政治だけでは理解できない

という教養主義的な発想があったのである。

現在の『中央公論』も政治・経済、国際情勢、教育、医療、歴史、文化など広範なテーマを扱っている。つまり、規模や社会的影響力は変化しても、「複数分野を一つの知的空間で考える」という総合誌の構造を比較的強く残している。


3 『改造』~大正デモクラシーが生んだ「社会を変える」雑誌

『改造』は1919年に創刊された。

題名そのものが象徴的である。

「中央」でも「世界」でも「文藝」でもない。

改造する。

第一次世界大戦後の社会変動、大正デモクラシー、労働問題、社会主義、民主主義などが社会的関心を集めていた時代に登場した雑誌だった。

その意味で、『改造』には単なる時事評論誌以上に、

社会制度そのものを問い直す思想誌

としての色彩があった。

重要なのは、戦後になって突然進歩的思想が日本に現れたわけではないということである。

自由主義、社会主義、民主主義、労働問題、社会改革を論じる知的空間は、大正から昭和戦前期にも存在していた。

『改造』は、その一つの象徴だった。

戦時下では刊行が途切れ、1946年1月に「復刊第1号」を出して再出発する。しかし最終的には1955年2月の36巻2号で休刊した。

ここで1955年という年は興味深い。

日本政治では一般に、この頃から自由民主党と日本社会党を中心とする、いわゆる「55年体制」が成立する。

同時に社会は復興期から高度経済成長へ向かっていく。

つまり『改造』が退場した時期は、

「社会を根本からどう作り直すか」が最大の問題だった戦後直後から、「既存の社会をどう運営し成長させるか」という時代への移行期

とも重なっていた。

もちろん、『改造』の休刊を55年体制だけで説明することはできない。

しかし思想史的に見るならば、『改造』の消滅は、戦前から続いた「社会改造」という言葉そのものが持っていた時代的エネルギーの変化を象徴しているようにも見える。


4 『世界』~敗戦から生まれた戦後民主主義の論壇

四誌の中で、『世界』は最も明確に「戦後」という時代から生まれた雑誌である。

初代編集長・吉野源三郎は、その後、平和問題談話会などにも関わり、『世界』を中心に平和や民主主義について論陣を張った。岩波書店自身も、吉野について戦後日本の平和と民主主義を支える活動を行った人物として紹介している。

ここから、『世界』はしばしば「進歩的文化人の雑誌」「リベラル・左派系論壇誌」と理解されてきた。

その評価には一定の根拠がある。

しかし、『世界』の歴史的役割をそれだけで終わらせると重要な点を見落とす。

創刊時の問題意識は、

「どの政治勢力を支持するか」

より以前に、

なぜ日本の知識人は戦争を止めることができなかったのか

という問いにあったからである。

ここから、

平和、 民主主義、 基本的人権、 日本国憲法、 安全保障、 沖縄、 東アジア、

などが重要な論点になっていく。

実際、『世界』は長期にわたり、日本の講和、安全保障、日韓関係、沖縄など平和と外交にかかわる問題を扱ってきた一方、文学や文化についても重要な作品・論考を掲載してきた。

したがって『世界』は、

「総合誌」から次第に「思想的立場を明確にした論壇誌」へ重点を移していった雑誌

と見ることもできる。

ここに『中央公論』との違いが現れる。

『中央公論』が「異なる議論を載せる広場」という性格を比較的強く維持したのに対し、『世界』は「何を守るために議論するのか」という価値判断をより明確に持った。

これは長所にも短所にもなる。

立場が明確だからこそ、一貫した論陣を形成できる。

一方で読者が政治的立場によって分かれる時代になると、「異なる立場の人が同じ雑誌を読む」という総合誌本来の機能は弱まりやすい。


5 『文藝春秋』~思想体系よりも「人間が語ること」を重視した雑誌

『文藝春秋』は1923年、作家・菊池寛によって創刊された。

菊池は創刊に際し、自分が考えていることを編集者や読者に過度に気兼ねせず、自由に語りたいという趣旨を書いている。

創刊号には芥川龍之介、川端康成、横光利一らが参加し、3000部が短期間で売り切れたという。

この出発点は、『世界』や『改造』とかなり異なる。

最初に社会思想があったのではない。

「書き手が自由にものを言う場所」

という発想が先にある。

そのため『文藝春秋』は、文学から出発しながら、政治、社会、歴史、人物論へと領域を拡大していった。

昭和初期から時事問題の記事が掲載されるようになり、著名人を集めた座談会も同誌の重要な形式となった。

ここに『文藝春秋』の独特な性格が形成される。

『世界』が理念から社会を見る傾向が強いとすれば、『文藝春秋』は、

政治家、 官僚、 経営者、 軍人、 研究者、 作家、 芸能人、

といった具体的な「人」を通じて社会を見る傾向が強い。

これは必ずしも「保守だから」というだけではない。

編集方法そのものが違うのである。

『世界』が「問題」を中心に論理を組み立てやすいのに対し、『文藝春秋』は「人物」「証言」「回想」「対談」「事件」を中心に社会を描きやすい。

この違いは、両誌が同じ政治問題を扱った場合にも文章の雰囲気を大きく変える。


6 戦後直後~総合誌が「国家の設計図」を議論した時代

1945年の敗戦直後、日本社会には巨大な空白が生まれた。

帝国憲法から日本国憲法へ。 軍国主義から民主主義へ。 帝国から新しい国際秩序へ。

社会制度だけでなく、

「日本とは何か」 「民主主義とは何か」 「戦争責任とは何か」 「文化とは何か」

という問いそのものが社会に投げ出された。

この時期の総合誌は、現在の雑誌以上に大きな意味を持っていた。

新聞は日々の出来事を伝える。

しかし、

これから日本をどのような国にするのか

という問題は、新聞記事だけでは議論しにくい。

数十ページを使った論文や座談会が必要になる。

そのため戦後初期の総合誌には、現在で言えば、

新聞のオピニオン面、 大学の公開講座、 政策研究所、 テレビ討論番組、 専門家ブログ、

などの一部を合わせたような機能があったと考えられる。

『改造』の1953年号を見ても、民主政治、米国との関係、中国問題など、戦後日本の国家的位置そのものを問う論考が並んでいる。

総合誌とは単なる娯楽ではなく、

国家と社会について考えるためのインフラの一つだったのである。


7 1955年以降~「社会を作る議論」から「社会を評価する議論」へ

しかし、日本社会が安定すると総合誌の役割も変化する。

1950年代後半から高度経済成長が始まり、

所得、 企業、 雇用、 住宅、 教育、 消費生活

が急速に拡大した。

戦後直後には、

「日本という国をどう作るか」

が問題だった。

ところが社会制度が安定してくると、

「現在の日本社会をどう評価するか」

が問題になる。

この変化の中で、総合誌も分化していった。

『世界』は平和、憲法、安全保障などを中心とする戦後民主主義的論壇の一角を形成する。

『中央公論』は政治・経済・文化・学問を横断する総合的言論空間を維持する。

『文藝春秋』は政治から文学、事件、人物までを含む国民的総合誌として大型化していく。

そして『改造』は退場した。

戦前には四誌がある程度共有していた「総合誌」という市場が、

それぞれ異なる読者層を持つ複数の論壇へ分かれていった

と考えることができる。


8 1960年代~総合誌の政治性が最も見えやすくなった時代

1960年の日米安全保障条約改定をめぐる社会運動は、戦後論壇にとって大きな分岐点だった。

安全保障、憲法、米国との関係、社会主義、民主主義といった問題について、知識人の政治的立場が明確になる。

ここから、総合誌を読む行為そのものが、

「自分はどの立場から社会を見るのか」

という意味を帯びやすくなる。

この時期以後、

『世界』を読む人、 『中央公論』を読む人、 『文藝春秋』を読む人、

には、ある程度異なる政治的・文化的傾向が形成されていったと考えられる。

ただし、これを単純な左右対立として理解するのは危険である。

各誌には異なる立場の論者が登場するし、時代によって編集方針も変化する。

重要なのは、

雑誌そのものが一種の「知的共同体」を形成していた

ということである。


9 1970~80年代~「知識人」の権威が変化する

戦後初期の総合誌では、大学教授、哲学者、文学者、評論家など「知識人」が社会全体について語ることが比較的自然だった。

しかし高度経済成長によって社会は高度に専門化する。

経済政策なら経済学者。 医療なら医師。 外交なら国際政治学者。 科学技術なら研究者。

というように、問題ごとに専門家が必要になる。

ここで総合誌が依存していた「万能型知識人」の立場が弱くなる。

さらにテレビが普及する。

政治家や文化人の発言を知るために、必ずしも数十ページの論文を読む必要はなくなった。

それでも総合誌が生き残れた理由は、

テレビでは扱えない長さと複雑さ

を提供できたからだろう。

短時間の討論ではなく、

歴史的背景、 論理展開、 資料、 思想、

まで含めて問題を考える。

総合誌は「速報性」ではなく「熟考」に価値を置くメディアになっていった。


10 1990年代~冷戦終了が論壇の座標軸を崩した

1991年前後の冷戦終結は、日本の論壇にも大きな影響を与えた。

それまで、

資本主義対社会主義、 米国対ソ連、 保守対革新、

という軸で整理できた問題が、それほど単純ではなくなる。

さらに、

バブル崩壊、 少子高齢化、 グローバル化、 環境問題、 情報化、 格差、 地方衰退、

など、新しい問題が前面に出てくる。

これらは従来の「保守対革新」という一本の軸では説明できない。

例えば、

原子力政策では保守内部でも意見が分かれる。

グローバル化では経済的自由主義と文化的保守主義が衝突することがある。

社会保障では財政規律と生活保障が対立する。

こうして総合誌は、

一つの思想体系で世界を説明することが難しい時代

に入った。


11 インターネットが奪ったのは「文章」ではなく「入口」である

2000年代以降、総合誌にとって最大の変化はインターネットである。

かつて社会問題について考えようと思えば、

新聞を読む、 本を買う、 総合誌を読む、

という経路が中心だった。

しかし現在は検索すれば、

政府資料、 統計、 新聞記事、 専門家の解説、 海外メディア、 動画、 SNS、

へ直接アクセスできる。

つまり総合誌が失ったものは、必ずしも「長文を読む人」だけではない。

より本質的には、

知識へ到達するための入口としての独占的地位

を失ったのである。

これは大きな変化である。

昔の読者は『中央公論』を開くことで、自分が知らなかった問題に出会った。

現在は検索エンジンが、読者の「知りたい問題」へ直接連れていく。

一見すると便利になった。

しかし副作用もある。

自分が関心を持っていないテーマに偶然出会う機会が減る。

政治に関心のある人は政治だけを見る。

投資に関心のある人は投資だけを見る。

文学好きは文学だけを見る。

社会の知識が縦割りになる。

ここに、総合誌が失われることによる意外な問題がある。


12 四誌を「左右」ではなく四つの編集モデルとして見る

ここまでの歴史を踏まえると、四誌は次のように整理できる。

『改造』

社会を変えるために思想を提示する雑誌

社会改革そのものが大きな知的テーマだった時代の総合誌。

『世界』

守るべき価値から社会を問い続ける雑誌

平和、民主主義、人権などを重要な基準として現実社会を検証する。

『中央公論』

異なる専門領域と論者を一つの場所に集める雑誌

教養と論壇の「広場」としての総合誌。

『文藝春秋』

人物・証言・文学・政治を通じて社会を描く雑誌

抽象的思想体系より、人間や事件から時代を見る編集モデル。

もちろんこれは絶対的分類ではない。

四誌はいずれも長い歴史の中で編集方針を変えている。

だが政治的な「右・左」という一本の軸よりも、このように編集思想の違いとして見る方が、各誌の特徴を理解しやすい。


13 なぜ『改造』は消え、三誌は残ったのか

ここには興味深い問題がある。

なぜ『改造』だけが1955年で姿を消したのだろうか。

経営事情を無視して思想だけで説明することはできない。

しかしメディア史的に見ると、「改造」という概念そのものが特定の時代環境と強く結び付いていた点は注目できる。

社会制度そのものが激しく揺れている時代には、

「社会を改造する」

という言葉は強い意味を持つ。

しかし戦後体制が固定化し、高度経済成長に入ると、社会の中心課題は、

革命や改造

より、

成長、 経営、 政策、 生活、

へ移っていく。

一方、

「世界」 「中央公論」 「文藝春秋」

という名称は、特定の政治課題に限定されない。

その意味で長期的に編集内容を変化させやすかったとも考えられる。

これはあくまで一つの解釈だが、雑誌の寿命を考える上で興味深い点である。


14 現代では総合誌はもう必要ないのか

部数や社会的影響力だけを考えれば、総合誌の時代が最盛期を過ぎたことは否定しにくい。

しかし、

総合誌という形式そのものが不要になった

とは限らない。

むしろインターネット時代だからこそ、総合誌的思考には意味がある。

例えば少子化を考える。

出生数の統計だけを見ても理解できない。

雇用、 住宅、 教育費、 ジェンダー、 結婚観、 地域構造、 社会保障、 医療、 文化、

を同時に考える必要がある。

地方の人口減少も同じである。

人口統計だけではなく、

産業、 交通、 医療、 学校、 住宅、 自治体財政、 家族、 文化、

が結び付いている。

つまり現代社会の問題そのものが「総合的」なのである。

ところが情報メディアは逆に専門化している。

ここに矛盾がある。

問題は総合化しているのに、情報は細分化している。

総合誌が本来持っていた意味は、この分断された知識を一つの場所へ戻すことだった。


15 ただし、昔の総合誌を理想化してはいけない

ここで注意しなければならない。

「昔は知識人が総合誌を読み、社会について深く考えていた。それに比べ現代はSNSで短文ばかり読んでいる」

という結論は単純すぎる。

昔の総合誌にも限界はあった。

執筆者となれる人は限られていた。

東京の大学、出版社、新聞社などを中心とする知識人ネットワークに発言力が集中しやすかった。

一般市民は基本的に読者であり、発信者ではなかった。

現在のインターネットでは、地方在住者、専門職、市民、当事者などが直接情報を発信できる。

これは明らかな進歩でもある。

したがって、

総合誌の衰退=言論の衰退

とは言えない。

より正確には、

言論の中心が少数の雑誌編集部から、無数の発信者へ分散した

のである。

問題は、その結果として「共通して読む場所」も失われたことにある。


16 総合誌が作っていたのは「意見」ではなく「共通の議題」だった

総合誌の歴史を考えると、最も重要なのはここかもしれない。

『世界』の読者と『文藝春秋』の読者は、同じ意見を持っていたわけではない。

むしろ政治的には大きく異なることもあった。

しかし、

安全保障、 憲法、 中国、 経済成長、 教育、 文学、 人口問題、

といった「何について考えるべきか」はある程度共有されていた。

総合誌が社会に提供していた最大のものは、

正しい答えではなく、共通して議論すべき問い

だったのである。

インターネット時代には、この「共通の問い」が成立しにくい。

ある人の画面には政治が並び、別の人の画面には芸能が並び、さらに別の人には投資情報が並ぶ。

一人ひとりが違う情報世界を生きる。

これは情報の多様化であると同時に、公共圏の分裂でもある。


結論~総合誌の歴史は、日本人が「社会をどう考えてきたか」の歴史である

『中央公論』『改造』『文藝春秋』『世界』は、同じ「総合誌」と呼ばれていても、その出発点は異なっていた。

『中央公論』には明治以来の教養論壇の伝統がある。

『改造』には大正期から続く社会改革への強い問題意識があった。

『文藝春秋』は文人が自由にものを語る場所から始まり、人物、文学、政治、社会へ広がった。

『世界』は敗戦を出発点に、平和と民主主義を戦後社会にどう根付かせるかという問題を背負った。

四誌の違いは、単純な保守と革新の違いではない。

それぞれ、

社会を変える。 社会を問い直す。 異なる議論を集める。 人間を通じて時代を見る。

という異なる方法で、日本社会を文章にしてきたのである。

そして戦後80年を経た現在、総合誌がかつて持っていた圧倒的な影響力は小さくなった。

しかし、それは社会について総合的に考える必要がなくなったからではない。

むしろ逆である。

人口減少、人工知能、気候変動、安全保障、社会保障、地域衰退、格差など、現代の問題ほど複数分野が絡み合っている。

私たちは膨大な情報を手に入れた。

しかし、

異なる情報を一つの問題として考える場所

を失いつつある。

戦後総合誌の歴史から現代が学べるものがあるとすれば、それは特定の雑誌の政治思想ではないだろう。

重要なのは、

異なる専門、異なる思想、異なる世代の人間が、同じ社会について長い文章で考える場所を持つこと

なのではないか。

『改造』は消えた。

『世界』『中央公論』『文藝春秋』は現在まで刊行されている。『中央公論』は1887年以来、『文藝春秋』は1923年以来、『世界』は1946年以来、それぞれ異なる形で時代の議論を記録してきた。

その変遷を読むことは、雑誌史を読むことにとどまらない。

それは、

日本社会が何を問題と考え、誰の言葉を信頼し、どのような形で公共的な議論を成立させようとしてきたのかを読むことでもある。

そしておそらく、総合誌の歴史が現代に投げかける最大の問いは、

「どの雑誌が正しかったのか」

ではない。

「私たちはこれから、異なる考えを持つ人々と、どこで同じ社会について考えるのか」

という問いなのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ