リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

開院まで八ケ月(九条レオン)

「特殊法人病院の建替えを『購買改革』で間に合わせた男」

 月曜の朝三時、室井茂は自宅の玄関で靴ひもを結び直す。 家の中はまだ眠っていて、廊下の時計の秒針だけがやけに大きい。キッチンの明かりは点けない。点けた瞬間、「戻りたい」が湧くのを知っているからだ。

 ドアを閉める音をできるだけ小さくする。 それでも金属のかすかな響きが胸の奥に刺さる。コートのポケットには、折り畳んだ工程表と、メモ帳と、充電器。車のエンジンをかけると暖気の匂いが夜気に混じる。 ――今日も、始まる。

 室井はMGH総合病院に勤務し、技士免許を持つ。現場も機器も分かる。導線も、運用も、会計の癖も。  だから今の室井は、杉村院長の片腕として経営提案、企画立案、地域調査――病院の「困った」を数字と段取りに翻訳して救う、コンサルタントのような仕事をしていた。

「室井くん、頼むよ」  杉村院長の言い方はいつも軽い。 困難を困難として語らない。焦りを焦りとして見せない。それが院長の強さであり、室井の胃を固くする原因でもある。

 今回の「頼むよ」は、県をまたいだ。 Y県の特殊法人SMS病院。建替えプロジェクト。

 病院建設は三年前から始動し、竣工まで残り八か月。建物工事は驚くほど順調で、工程表の線上を滑るように進んでいた。準備室には医事課から出向し、三年張り付いてきた川鍋係長がいる。建設側の打合せ、施工会社との調整、移転スケジュール――そこまでは滞りなく回っている。

 問題は、「建物の中身」だった。 医療機器、用度備品、各部署の必要物品の購入計画が、ほぼ手つかず。 建物に集中しすぎたのだ。あと八か月で、あの膨大な物品を揃え、契約し、納期を押さえ、導入し、配置し、運用を作る。普通に考えれば無謀だった。 「やばいんです。まったく、何も…」  学会の休憩時間、SMS病院の院長がそう漏らした相手が杉村院長だった。たまたま同窓。たまたま同じロビー。たまたま心の蓋が緩んだ。

「そんなの、うちの室井に任せればなんとかなるよ」  紙コップのコーヒーを揺らしながら、杉村院長は言ったらしい。 『なんとかなる』。 その四文字を聞いた瞬間、室井の背骨が冷えた。

 三日後、室井は「一度様子見」という名目でSMS病院へ向かった。外部から乗り込めば準備室の反感を買う。受け入れられるはずがない。――そう踏んでいたから、気楽に現場確認だけして帰るつもりだった。

 ところが会議室に通されて目にしたのは、反感ではなく安堵に近い顔だった。 視線が、救命ボートを見つけた漂流者のそれだった。 「室井さん……お願いがあります」

 川鍋係長が咳払いをして言った。声が少しだけ揺れている。

「建物関係は私が見ます。工程は押さえてます。建設は問題ありません。 でも……医療機器、用度備品、院内で購入するものは……正直、間に合いません」

 特殊法人の空気は、室井にもすぐ分かった。公務員的な気持ちが強い。決裁の階段が多い。責任の所在が曖昧で、そのぶん誰もが境界を死守する。守るために動かない。動かないから遅れる。遅れるから責任が怖い。――循環が完成している。

 院長は、椅子に深く沈みながら言った。 「間に合わなかった責任を取りたくないんです。……正直に言います。 だから、全部お任せします。室井さんに出向してほしい」 『全部』。  それは投げやりにも聞こえる。けれど室井には、別の温度で届いた。 『私たちはここから先に進む力を失った』。それを認めた声だった。

 室井は短く息を吸い、腹の奥で決めた。受けるしかない。受けないとこの病院は建物だけが完成し、中身が空のまま開院日を迎える。

「……分かりました。出向します」  準備室の空気が一段軽くなった。 室井はその軽さが怖かった。期待が軽いほど、失敗は重くなる。  そして、室井の生活は固定された。  毎週、月曜日の朝に飛行機でY県へ入り、土曜日の深夜便で戻って自宅へ帰る。  月曜は自宅を朝三時に出発し、車で空港へ。六時のフライトでY県へ。 土曜は夜九時か十時の最終便。空港から車で自宅に着くのは午前一時。 この繰り返しを、八か月間――一週たりとも崩さず続けた。

 土曜の帰りの機内は、毎回ほとんど記憶がない。 席に沈み、シートベルトを締め、頭を少しだけ窓側へ預けた瞬間に睡魔が襲う。離陸前のアナウンスが遠くなり、気づくと意識が暗転する。  そして目が覚めるのは、着陸時の「ドン」という音。胴体が滑走路を掴む衝撃が体の芯まで響き、そこで初めて「ああ、戻ってきた」と分かる。

 室井はそのたび、数秒だけ呆然と窓の外を見た。眠ったのか落ちたのか分からない時間が、毎週積み重なる。

 最初の一週間は、調査の形をした『足場づくり』だった。 室井は準備室の壁一面に、部署の一覧を書いた。内科、消化器内科、循環器内科、外科、整形外科、皮膚・形成外科、泌尿器科、婦人科、眼科、耳鼻咽喉科、放射線科、麻酔科、リハビリテーション科。  そして医事課、看護部、リハビリテーション室、検査室、システム管理室、栄養室、人間ドックを行う健康管理室。

その横に、太い赤字でこう書いた。

「みんな、新病院だから『いい物』を欲しがる」 「でも予算は増えない」

 新病院という言葉は魔法だ。  医師も看護師も事務も、「どうせなら」を口にする。どうせなら最新。どうせなら高性能。どうせなら『念のため』もう一台。 室井はその『どうせなら』が予算を溶かす音を、耳の奥で聞いていた。

交渉は、まず部長医師たちから始まった。

内科部長:万能機器の欲望 内科部長は開口一番、こう言った。 「室井さん、内科はね、何でも診る。だから何でも必要だよ」 『何でも』は、だいたい高い。  提示されたリストは、備品というより博物館の展示に近かった。検査機器も処置器具も、用途が広いぶん単価が高い。  室井は笑顔を崩さず、メモ帳に一本線を引いた。 「部長、じゃあ『何でも』を三つに分けましょう。 ①毎日使う、②週に数回使う、③年に数回使う。 ③はレンタルか共同利用でいけます。どうせなら、その分を①の質に回しましょう」

 内科部長は一瞬黙り、「共同利用って…」と渋ったが、室井が「医師会連携も含めた動線で、逆に内科の主導権取れます」と言うと、目の色が変わった。 『主導権』。 予算より、主導権は通る。

 消化器内科部長:最強の内視鏡センター 消化器内科はもっと露骨だった。 「新病院ですよ? 内視鏡センターは『フルスペック』で。今の流行りはこれです」  机の上に置かれたカタログは、光沢が強くて眩しい。機能が増えるほど、数字が増える。数字が増えるほど、見積が跳ねる。 室井はカタログを閉じ、静かに言った。 「部長、フルスペックの『使う機能』に丸を付けてください。 丸が付かなかった機能は、買わない勇気です」  消化器内科部長は笑った。 「いやいや、念のため必要だよ」 室井も笑って返した。 「念のためは、予算の中では『念のため死』です。 『念のため』を全部買うと、最後は『念のため開院できない』になります」  その言い方が妙にツボに入ったのか、部長は肩を揺らした。 笑いが取れた瞬間、交渉は半分終わる。

 循環器内科部長:モニターは愛、台数は正義 循環器内科は、モニターの台数だった。 「心電図モニターは、病棟も外来も検査室も。とにかく余裕が必要」 『余裕』は、台数になる。台数は、保守になる。保守は、毎年の固定費になる。  室井は「余裕」を具体化した。 「部長、患者数のピーク時、同時装着の最大を過去データで出せます。 それに『故障分』を加えましょう。 『余裕』は、感覚じゃなく算数で作ります」  循環器内科部長は「算数か…」と唸り、結局、過去データを出すことに同意した。  室井はその帰り道、ひとりで小さくガッツポーズをした。 算数は、感情を傷つけずに削れる。

 外科部長:手術室はロマンと現実の格闘技 外科部長は、設備を「夢」として語った。 「新しい手術室は『未来』であってほしいんだ。映像、照明、器械台、全部一流で」 未来は高い。 室井は手術室の『未来』を、手術件数と稼働率に変換した。 「未来は賛成です。 ただ、未来にするなら『稼働』も未来にしましょう。 稼働率が上がる仕様に絞れば、投資対効果が出ます。 映像は必要。でも最高画質の『全室』より、教育・カンファ用の『重点室』を作りませんか」  外科部長は一瞬ムッとしたが、室井が「重点室を外科主導で作れば、若手教育も病院の売りになります」と言うと、また目の色が変わった。 外科は、教育と名が付けば強い。

 整形外科部長:器械とインプラントの沼 整形外科は『道具』の沼だった。 「この器械がないと困る。あれも必要。いや、これも」 室井は正面から言った。 「部長、器械は『なくて困る』と『あったら便利』が混ざります。 『なくて困る』だけ先に決めましょう。便利は後で、増収とセットにします」  整形外科部長は「増収?」と食いついた。 室井は「手術枠が増える仕様、回転率が上がるセット、在庫圧縮の仕組み」を話した。 『便利』を『売上』に繋げる話をすると、現場は意外と合理的になる。

 皮膚・形成外科部長:見た目の品質は妥協しない 皮膚・形成外科は、照明と器具の『質』に厳しかった。 「安い照明だと色が違う。皮膚は色で診るんです」 室井はそこは譲らなかった。むしろ味方をした。 「そこは必要です。色再現は診療品質です。 ただし『全室』じゃなく、診察室のうち皮膚・形成の専用室に集中投資しましょう」 部長は頷いた。 譲るべきところで譲ると、その後の削減が通る。

 泌尿器科部長:導線の一言が鋭い 泌尿器科は機器より導線だった。 「トイレまでの距離、患者動線、検査室とのつながり。 『物を買う』より『動かし方』が重要です」  室井は内心で拍手した。 買い物に走らない部長医師は貴重だ。 「部長、その視点があると、他科の『どうせなら』も削れます。 導線改善で『必要台数』が減る可能性もあります」 泌尿器科部長は淡々と頷いた。 この科は、静かに強い。

 婦人科部長:安心とプライバシーの設備 婦人科は「安心」の設備を求めた。 「待合の区切り、診察室の遮音、動線の分離。 機器も大事ですが、患者さんの心理の負担を減らしたい」  室井は、ここも強く同意した。 「それは投資価値が高いです。評判に直結します。 機器は必要最小限で、環境整備にお金を回しましょう」  婦人科部長は珍しく笑った。 「分かってますね、室井さん」  室井は心の中で「分かってるというより、予算がないんです」と呟いたが、口には出さなかった。

 眼科部長:機器の数が、なぜか増える 眼科は、機器が『微増』していく不思議な科だった。 「視力検査はこれ。眼底はこれ。OCTも。 あと、予備にもう一台…いや、二台あってもいいか」  室井は笑顔のまま、ペンで「予備」の文字を丸で囲んだ。 「部長、予備は『故障率×修理日数』で決めましょう。 予備を買うより、保守契約の対応速度を上げたほうが安い場合があります」  眼科部長は「なるほど…」と唸り、「じゃあ保守で勝負する」と言った。 『買わない代わりにサービスで担保する』は、予算の味方だ。

 耳鼻咽喉科部長:小物が山になる 耳鼻咽喉科は、小物の山だった。 「これも必要、これも、これも…単価は安いですよ?」  単価は安い。でも数が多い。 室井は『山』を見た。 「部長、単価が安い物ほど、まとめると爆弾になります。 『全体でいくら』かを見ながら決めましょう」  その場でざっと計算すると、部長は目を丸くした。 『安い』の罠は、合計額で解除できる。

 放射線科部長:最新機器は『夢』じゃなく『戦略』に 放射線科は、最新の装置が欲しい。だが彼らは正直だった。 「新病院の目玉にするなら、ここで差がつく。 ただ、運用が回らないなら意味がない」  室井はうなずいた。 「だから、装置だけじゃなく、人と予約枠と検査導線までセットで作りましょう。 目玉は『装置の名前』じゃなく『回転率と待ち日数』です」  放射線科部長は、笑って言った。 「あなた、営業より怖いね」 室井は「怖くしないと予算が死にます」と返し、二人で笑った。

 麻酔科部長:見えないところが勝負 麻酔科は、設備より安全だった。 「麻酔器はもちろんだが、ガス、配管、バックアップ、モニタリング、教育。 『見えないところ』が事故を防ぐ」  室井は姿勢を正した。 ここは面白おかしくやる場面ではない。 「そこは最優先にします。 ただし、過剰にならないよう『標準』を決めて全室統一します。 統一すれば教育コストも下がります」  麻酔科部長は頷いた。 安全の話は、誠実に通す。

 リハビリテーション科部長:設備は『広さ』と『回転』の話 リハビリテーション科は、機器より空間だった。 「器械も欲しい。でも一番はスペースと導線です。 患者が安全に動ける、スタッフが回せる、そこが命」  室井は、ここで『買い物』を止めた。 「機器を増やすより、動線が詰まると回転が落ちます。 『買う』より『置かない』で稼働を上げましょう」  部長は笑って「置かないリハか」と言った。 置かない、という言葉が新鮮だったのだろう。 医師だけで終わらない。 病院は医師の希望だけで回らない。むしろ、回すのは『現場の部門』だ。

 医事課:請求と制度は、機器の影にいる 医事課は「算数の親玉」だった。 「その機器、算定できるの? その運用、記録は? 人間ドックのメニューに入れるなら、料金設定は?」  室井は医事課に頭が上がらなかった。 現場の夢を現実に引き戻す係。予算を守る最後の砦でもある。 「医事の目線で、『収益化できる導入』にします。 機器導入は『買って終わり』じゃなく『請求できて回せて初めて』です」  医事課の主任が、初めてニヤリとした。 「あなた、分かってるね」 その一言で、室井は少しだけ救われた。

 看護部:必要なのは『高い物』より『楽になる物』 看護部は、豪華な機器より実務だった。 「新しくなるなら、ナースステーションの配置。 物品庫の位置。 転倒が減る手すり。 運搬のカート。 腰が壊れない備品。――そっちが大事です」  室井は全力でうなずいた。 看護部の『本当に必要』は、病院を支える。 「看護部の要望は、最優先で『事故と離職』を減らす方向で組みます。 ただし、カートは『高級車』じゃなく『台数と耐久』で勝負しましょう」  看護部長が笑った。 「カートに高級車、いらないわね」 その笑いで、現場の空気が柔らかくなった。

 リハビリテーション室:器具より『管理』が地獄 リハビリテーション室のスタッフは、器具を欲しがるというより『管理の恐怖』を語った。 「器具が増えると、管理が増える。 点検、消耗品、洗浄、保管。 増やすなら、それを回す仕組みが必要」  室井はホワイトボードに大きく書いた。 「買う=管理が増える」 「買う前に『管理できるか』を確認しましょう。 管理できない物は、どんなに良い物でも病院にとって悪い物です」 現場は深く頷いた。 この頷きが、後の削減の盾になる。

 検査室:機器の『入れ替え』は儀式 検査室は、更新時期と精度と保守が絡む。 「今の機器はまだ使える。 でも新病院で更新すべきものもある。 精度保証、校正、外部精度管理…」 室井は、ここで『更新の理屈』を一本化した。 「更新は『使えるか』じゃなく『止まったときの損失』で判断しましょう。 止まると病院が止まる機器は更新。 止まっても代替があるものは延命。 ルールを作れば、揉めません」  検査室長は「ルールがあると助かる」と言った。 ルールは、感情を傷つけずに削れる。

 システム管理室:全部つなぐと、全部落ちる システム管理室は、医師の夢を一瞬で冷やした。 「その機器、ネットワークにつなぎます? 電子カルテと連携? 画像も? じゃあセキュリティと回線とサーバーと保守が増えます。 『全部つなぐ』は、『全部落ちる』の始まりです」  室井は思わず笑ってしまった。 「その言い方、強すぎます」 「強く言わないと、みんな『どうせなら連携』って言うんです」  室井はうなずいた。 『どうせなら』は病院全体に蔓延する。 そこで室井は「連携は段階導入」「必須連携と任意連携を分ける」「初年度は運用安定を優先」という方針を作り、医師たちに説明して回った。  説明すると、だいたいこう返ってくる。 「室井さん、夢がないね」 室井は笑って返す。 「夢は開院してから見ましょう。まず現実を動かします」

 栄養室:厨房は『機械』より『流れ』 栄養室は、設備の話が『料理』の話になっていく。 「蒸気の動線、洗浄の流れ、冷蔵の配置。 新しくなるなら、作業が早くて事故が少ない厨房にしたい」 室井は、栄養室が『高級機器』より『作業改善』を求めていることに安心した。 「高い機械を一台買うより、流れが整っているほうが勝ちです。 厨房は『機械の値段』じゃなく『毎日削れる時間』で決めましょう」  栄養室長は嬉しそうに頷いた。 厨房が回れば、病院が回る。地味だが決定的だ。

 健康管理室(人間ドック):豪華メニューの誘惑 最後が、健康管理室だった。人間ドックを行う部門は、夢が大きい。 「新病院の目玉に、ドックを強化したい。 最新機器を入れて、メニューを増やして、単価を上げて…」  室井は、ここで『楽しい地獄』を見た。 健康管理室の提案は魅力的で、聞いているとつい財布が緩む。だが予算は緩まない。 「メニューを増やすのは賛成です。 でも『増やし方』が大事です。 高い機器を買って単価を上げるのではなく、回転率と予約導線で稼ぐ。 それで利益が出たら、その利益で次の投資をしましょう」  健康管理室の担当者が言った。 「室井さん、それだと、今は買えないってことですか?」 室井は即答した。 「はい。今は買えません。 でも、今買って赤字になるより、開院後に黒字で買ったほうが楽しいです」  担当者は一瞬むっとしたが、室井が「開院後に『投資枠』を作る計画まで一緒に作ります」と言うと、表情が和らいだ。

 室井は内心で思った。 ――買わせたい人ほど、未来の約束に弱い。 未来を『計画書』にすると、今の出費は抑えられる。

 交渉は、面白おかしくも、胃が痛かった。

部長医師たちは言う。 「新病院なんだから」 「せっかくだから」 「どうせなら」  その三つが揃うと、見積書が一気に重くなる。 室井は、毎回その魔法を解くために、同じ技を使った。 1. 使用頻度で分ける(毎日/週数回/年数回) 2. 止まったときの損失で決める(止まると病院が止まるか) 3. 全室か重点かを分ける(『全部』を『ここだけ』にする) 4. 買う代わりにサービスで担保する(保守速度、レンタル、共同利用) 5. 『買う=管理が増える』を可視化する(管理できない物は買わない)  それでも最後は、人間の感情が残る。 「室井さん、そんなに削って、うちの科が弱くなったらどうするんです」 「弱くなりません。むしろ運用が回って強くなります」 「でも、新病院なのに、夢が…」 「夢は開院してから叶えましょう。まず、開院しないと夢は一つも叶いません」 そのやり取りを何十回繰り返したか分からない。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.

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 夜十一時が当たり前になった。警備員とは親密になり、缶コーヒーを置かれるようになった。  職員は六時、遅くても七時には帰る。廊下の足音が自分だけになる時間が増える。

 その頃から、室井は「予算」という単語を口にするとき、少しだけ笑う癖がついた。 笑わないと、泣きそうになるからだ。  しかし、『削る』には、もう一つの戦場があった。 メーカー、代理店、問屋との価格交渉である。  部長医師と交渉して「これでいく」と決めても、見積が予算を超えれば意味がない。

 室井の机の上には、同じような見積書が何枚も重なった。紙の厚みが、胃の重みになる。  最初に来たのは、医療機器メーカーの営業だった。スーツが妙に光っている。 「室井さん、これが『ベストプライス』です」 営業は笑顔で言う。 室井はその笑顔の下に、値引き余地が隠れているのを知っている。 「ベストって、誰にとってのベストですか?」  営業の口角が一瞬だけ引きつる。 「もちろん、病院様にとっての…」 「じゃあ、うちの『予算』に合わせるのがベストですね。 この価格だと、病院は開院できません。開院できないと、機器も売れません」  営業は「いや、それは…」と言いかけて、手元のタブレットを叩いた。 「…特別値引き、検討します」 室井は心の中で言う。 ――検討じゃない。今、出せ。

 次に来たのは代理店。代理店はもっと上手い。 「本体は下げます、その代わり保守を…」 「保守は手厚くします、その代わり消耗品を…」  値引きの代わりに、別の場所で回収する。病院の財布の穴を、場所を変えて開けようとする。 室井は笑って言う。 「代理店さん、病院は『総額』で倒れます。 本体を下げて消耗品で取るのは、患者さんに請求書を出すようなものです。 うちは病院なので、それはやりません」  代理店は笑顔を崩さず、しかし目だけが真剣になった。 「室井さん、厳しいですね」 「厳しいのは、うちの予算です」

 問屋はさらに違う。 問屋は「全部まとめて買ってくれたら下げます」を言う。 「室井さん、まとめ買いで単価が…」 室井は即答する。 「まとめると、余計な物も混ざります。 余計な物は、倉庫の奥で『化石』になります。 化石は病院の資産じゃなく、病院の墓標です」  問屋は一瞬黙り、「墓標は重いですね」と苦笑した。

 交渉のコツは、相手の『逃げ道』を作ることだった。 値引きだけを迫ると、相手も意地になる。  だから室井は、代わりに『勝ち筋』を渡す。 「この機器、他院にも紹介します。 成功事例にしましょう。 ただし、価格は成功事例にふさわしくしてください」  営業は目を輝かせる。成功事例は、次の契約を連れてくる。 室井はその期待を、値引きに換金する。 「導入後、操作説明会を2回。  それを『無償』で付けてください。 値引きが無理なら、サービスで落としてください」 メーカーは悩む。 だがサービスは原価が見えにくい。上司の許可が取りやすい。 室井はそこを突く。

 ある日、代理店の営業が言った。 「室井さん、これ以上は無理です。上に怒られます」 室井は真顔で頷いた。 「分かりました。じゃあ、私が上に怒られます。 どっちが怒られるか、勝負ですね」  営業は吹き出した。 「いや、勝負って…」 「勝負です。病院は八か月で開ける。 あなたは今月の売上を守る。 どっちが勝つか、見たいじゃないですか」 営業は笑いながら、スマホを取り出した。 「…上と、電話してみます」 室井は心の中でガッツポーズをした。 ――笑いが出たら、交渉は動く。  別の日、メーカーの担当者が「競合には負けられません」と言った。 室井は首を傾げる。 「負けたくないなら、勝ってください。 価格で勝つか、納期で勝つか、サポートで勝つか。 うちは『総合点』で決めます」 担当者は一瞬固まり、「総合点…」と呟いた。 病院は試験会場ではないのに、室井はいつも相手を試験に引きずり込む。  すると相手は、勝ちたくなる。 そうやって、値引きが出る。 納期が前倒しになる。 保守のレスポンスが改善される。 消耗品の初期セットが『おまけ』になる。 説明会が増える。 搬入の人員が増える。

 小さな勝利が積み上がり、予算の線の上に、なんとか全体が乗っていく。 それでも、最後に来るのは「図面地獄」だった。  ようやく、納入にこぎつけた。 医療機器の搬入はメーカーや代理店がその部署まで運び設置するので問題は少なかった。

 しかし、その他の物品は違う。業者が部署まで運び納品はしてくれるものの、病院側で「どこに」「何を」「何個」置くかを間違いなく整えねばならない。  ここで室井に降ってきたのが、とてつもなく大変な仕事だった。 新病院の図面に納品物品の番号を付け、図面にも同じ番号を入れる。 棚、カート、椅子、清掃用品、事務備品、名もないようで名があるもの全部。 番号はただの数字ではない。開院後に「どこにあるか分からない」を防ぐ命綱だ。

 室井は夜、図面を広げた。 大きな紙の上に病院が迷路のように描かれている。そこへ物品番号の小さな文字が雨のように降っていく。消しゴムかすが雪のように積もり、指先はペンの跡で黒くなる。  その夜、川鍋係長が珍しく残っていた。 室井の横に座り、図面を見つめて言う。 「病院って、建物じゃないんですね」  室井はペンを止めた。 「え?」 「建物は工事会社が作る。工程で進む。数字で動く。 でも病院は……人と物が動いて初めて病院になる。 それを、室井さんが、今ひとりでやってる」  室井は何か言おうとして、言葉が出なかった。 疲れのせいで感情が鈍っている。鈍っているのに胸の奥だけが熱くなる。 「ひとりじゃないです。川鍋さんが建物を守ってくれてる」  川鍋係長は黙って頷き、目に涙をためた。 室井はそれを見て、初めて「終わりが近い」と実感した。

 奇跡的に、オープニングセレモニーには間に合った。 招待した知事が壇上で言う。 「地域医療の新たな拠点として――」

 室井は少し離れた場所で拍手をしながら、自分の指先の黒い跡を見た。八か月の月曜三時と土曜深夜、空港の蛍光灯、図面の雨、交渉の笑いと胃痛――その全部が、ここに繋がっている。  知事が壇上から降りてきて準備室のメンバーにねぎらいの言葉をかけた。 「皆さん、お疲れさまでした」  その「皆さん」に自分が含まれていることが、不思議だった。 よそ者で、出向者で、外部の人間で、それでも今は確かに、この病院の一部だった。

 最後の仕事が終わり、室井が病院を去るとき、川鍋係長は目に涙をため、玄関まで送り出してくれた。 「室井さん……本当に、ありがとうございました」 室井は言葉を探し、結局、頷いた。 「……無事に開いた。それで十分です」

 その週の土曜も、室井は最終便に乗った。 座席に沈み、離陸前に襲ってくる睡魔に抗う力は残っていない。次に意識が浮上したのは、着陸の衝撃音だった。機体が滑走路を掴んだ瞬間の「ドン」が、心臓の奥まで響く。

 空港から車で自宅へ。 午前一時。玄関の鍵を開けたとき、家の匂いがして、ようやく「終わった」と思えた。  メンタルはギリギリ、体力は限界に近いのに、胸のどこかが妙に満ちている。ぎりぎりで走り切った充実感が、最後に残った。

 そして杉村院長への報告は、翌週の月曜日の朝だった。 MGH総合病院。 杉村院長室のドアをノックすると、返事はいつも通り軽い。 「おー、室井くん。戻った? どうだった?」  室井はほんの一拍置いて言った。 怒鳴ることもできる。笑うこともできる。泣くこともできる。 でも出てきたのは、乾ききった本音だった。 「院長。もう、こんな仕事は請けないで下さい」  杉村院長は眉を上げる。驚いたようで驚いていないようで、相変わらず気楽だ。 「そんなに大変だった? 室井くんなら大丈夫だと思ってさ」  室井は数秒黙った。 八か月分の月曜三時、土曜深夜の暗転、着陸の「ドン」、部署長たちの『どうせなら』、医事課の算数、看護部の実務、システム管理室の『全部落ちる』、メーカーの『ベストプライス』、代理店の『これ以上無理』、問屋の『まとめ買い』、川鍋係長の涙――それらが胸の中で渦を巻く。

 そして、室井は言った。 「……大丈夫でしたよ。だから困るんです」 杉村院長は声を出して笑った。 「それが室井くんの強みだよ」  室井は、今度は少しだけ笑えた。 笑えるのが悔しくて、笑えるのが救いだった。 「強みは、ほどほどでいいです。次は……せめて二人にしてください」 杉村院長は軽く頷く。 「うん。検討する」  その「検討する」がどれほど軽いかを知りながら、室井は院長室を出た。 廊下の窓から朝の光が差し込む。月曜の朝だ。普通なら始まりの時間。 だが室井にとっては、ようやく終わりの時間だった。

 自宅の玄関を静かに閉めた、あの三時。 あれから八か月。  室井はもう一度だけ深く息を吐き、次の「なんとかなる」に備えるように、背筋を伸ばした。

 オープニングセレモニーが終わり、知事の拍手が遠ざかった翌週。 SMS病院の準備室は、あっけないほど静かに解散した。  壁一面を埋めていた工程表も、付箋も、物品番号の地図も、最後は段ボールに吸い込まれていく。 「図面地獄」だの「念のため死」だの、室井が冗談めかして書いたメモまで、誰にも惜しまれずに片づいた。 床に落ちた消しゴムかすだけが、冬の名残みたいに白く残っていた。

 川鍋係長は医事課へ戻った。 戻った瞬間、周囲の反応が変わった。 「川鍋さん、お疲れさまでした」 「よく開けましたね」 「準備室、相当大変だったと聞きましたよ」  川鍋は、いつも通り淡々と答える。 「ええ、まあ。皆で動けたところが大きかったと思います」  その「皆」の中に、室井の名前は出てこない。 ……が、室井も別に気にしない。自分は『外』の人間だ。評価は組織の中で回る。そういうものだ。  それに、室井は、あの病院で拍手をもらうより、週末に自宅の玄関の鍵が回る音のほうがありがたかった。

 そして、開院から数か月後。 川鍋係長は今回の実績を評価され、医事課課長に昇進した。  MGHで噂を聞いた室井は、思わず笑った。 「そりゃそうですよ。川鍋さんは建物側の調整を最後まで守り切った人ですから」  杉村院長は軽い調子で返す。 「うん、良かったじゃない。室井くんも功績者だよ」 「院長、功績者というより『都合が良かっただけ』です」 「似たようなもんだよ」 「ぜんぜん違います」

 そんなやり取りをして、季節が一つ回った。 ちょうど一年後の、ある平日の夕方。 MGH総合病院の廊下は、外来の波が引いたあとで、少しだけ広く感じた。  ワックスの匂いが残る床を、清掃カートが静かに通り過ぎる。自動ドアの向こうからは、冬の空気が入り込んで、受付の近くの観葉植物が少しだけ揺れていた。  室井は資料を抱えて歩きながら、ひと息ついた。 ――あの八か月に比べれば、いまの忙しさは『普通』だ。 『普通』という言葉が、いつの間にか贅沢になっていることに気づいて、苦笑する。

 そのとき、ポケットでスマホが震えた。 バイブの音が、妙に心臓に近い。 画面には見慣れた名前が出ている。 川鍋。 室井は窓際に寄り、ガラス越しに駐車場を見下ろしながら電話に出た。  夕暮れの光が、車の屋根にうっすら反射していた。 「もしもし、川鍋さん。久しぶりですね」 『室井さん、久しぶりです。元気ですか』  受話器の向こうの声は、いつもより明るい。 明るすぎる。  室井は嫌な予感がした。川鍋の『明るさ』は、たいてい何かを隠す前触れだ。 「何とかやってますよ。川鍋さんは?」 『こっちも何とか。……で、ちょっと報告があって』  室井は、資料を抱え直して、背中を壁につけた。 廊下の先で看護師が二人、何か話しながら歩いてくる。室井は会釈して、声を落とす。 「報告、ですか」 『私、事務長になりました』 「……事務長?」  一瞬、言葉が遅れて出た。 室井の頭の中で、「医事課課長」の次にそんな階段があったかどうか、急いで検索が走る。 「いや、早くないですか。課長になって一年ですよね?」 『そうです。自分でもちょっと笑いました』 「笑ってる場合じゃないですよ。何が起きたんですか」  川鍋の笑い声が、受話器越しに少し弾んだ。 その笑いに、室井は「理由」を確信した。 ――これは、普通に昇進した笑いじゃない。仕掛けた側の笑いだ。 『東京の法人本部に、病院建替えの実績をアピールしたんですよ』 「それは、まあ、普通ですよね。実績は実績ですし」 『普通じゃないのは、その『言い方』でして』

 室井は小さく息を吸った。 「……まさか」 『ちょっとだけ、私の手柄っぽく見せるのに成功しました』 「『ちょっとだけ』って言う人ほど、大きくやってますよ」 『室井さん、よくご存じで』 「いや、知りたくて知ってるわけじゃないです」

 川鍋は楽しそうに続けた。 『室井さんの実績を、私の実績にさせてもらったよ、ってくらいです』 「それ、ちょっとじゃないですよ。限度がありますよ」 『限度はありますね。だから、限度の『手前』で止めました』 「止まってませんよ。たぶん、もう越えてます」 『越えてないです。『気持ち』は越えてますけど』 「そこを越えたら終わりなんですよ」

 室井は言いながら、なぜか笑ってしまった。 腹は立つのに、川鍋の『言い逃げの上手さ』が、あの準備室の夜を思い出させて可笑しい。 「で、具体的に、誰に何を言ったんですか」 『そこ、聞きます?』 「聞きます。今後の反省材料にします」 『反省するのは私じゃないですか』 「私は『学習』します。次に巻き込まれないために」

 川鍋は咳払いをして、妙にきちんとした声になった。 『まず、法人本部の施設担当の部長、いますよね。建物と予算の人。 そこに最初に当てました。「竣工八か月前、購買計画が実質ゼロだった案件を、開院までに整えました」って』 「最初から強いワードですね。煽ってますね」 『煽ってません。『事実』です』 「事実の選び方が、煽りなんですよ」 『で、次に総務系の役員。そこには『数字』を出しました。 「見積の取り直しを何十件、仕様の統一で比較可能にして、総額を予算内に収めました」って』 「その『何十件』って言い方、便利ですよね。どれだけでも入れられる」 『言い方って大事なんですよ』 「それは分かりますけど、便利にしすぎです」 『さらに、医療部門の理事にも話しました。医師に強い人。 「部長医師の『どうせなら』を、使用頻度と稼働率で整理して、重点投資に振り分けました」って』

 室井は額に手を当てた。 「それ、私が各科で言って回ったやつじゃないですか」 『そうです。あのフレーズ、法人本部の人に刺さりますよ。 『重点投資』って言うと、皆さん好きなんです』 「刺さるのは分かります。刺さるのは分かるんですけど、刺しどころが私です」  川鍋は笑いながら、さらに具体を重ねてくる。 『で、最後に決めたのが、事務方のトップ。人事も握ってる人。 そこには『仕組み』で話しました。 「購買のルールを作って、稟議の迷いを潰して、部署間の揉め事を最小化しました」って』 「うわ、全部『自分がやった風』に聞こえる」 『『風』です。風。あくまで風』 「風で人を飛ばすのやめてください」 『でもね、最後に言った一言が効きました』

 室井は嫌な予感しかしなかった。 「何です」 『「病院は建物じゃない。中身を動かすのが事務だ」って』  室井は天井を見上げた。 あの夜、図面を前に川鍋がぽつりと言った言葉に、勝手に芯が通っている。 「それ、私が言ったっていうより、川鍋さんが言った『感想』ですよね。 それを決め台詞に昇格させるの、ずるいですよ」 『ずるいのは認めます。でも、効果は抜群でした。

 その役員、メモ取りながら頷くんですよ。「いいね」って』 「いいね、じゃないんですよ。軽いな……本部も」 『軽いのは、乗せやすいってことです』 「いや、そこを営業目線で言わないでください」

 川鍋は、嬉しそうに息を吐く。 『で、「誰がやったの?」って聞かれたんです』 室井は、嫌な予感を現実として受け止める準備をした。 「……何て答えたんです」 『「私が中心になって、準備室を回しました」って』 「中心って」 『『中心』って便利な言葉です』 「便利にしすぎです。限度がありますよ」 『ええ、だから続けて言いましたよ。 「外部から実務に強い人に入ってもらって、現場を回せた」って。 室井さんの名前は出してませんけど、『外部の実務者』は出しました』 「……いや、それ、薄くないですか。薄すぎません? 私の存在」 『薄いほうが、話が通るんです』 「通しやすさ優先で、人の実績を薄めるのやめてください」

 川鍋は笑いながらも、少しだけ声のトーンを落とした。 『でもね、室井さん。冗談抜きで、感謝してるんです。 室井さんが来なかったら、開院は間に合ってない。 だから、その実績を少し借りました。ごめん』

 室井は少し黙った。 廊下の空気が、ほんの少しだけ静かになった気がした。 遠くでストレッチャーの車輪が鳴る音がして、消えていく。 「……川鍋さん、謝るなら、せめて『少し』の量を調整してください」 『調整しました。室井さんの分、三割くらい』 「三割って言う人は、七割持っていきますよ」 『さすが。読みが鋭い』 「褒めないでください。腹が立つだけです」

 川鍋が、また少し明るい声に戻る。 『でも、その七割を持っていったおかげで、五十歳で事務長です。 定年まで十年もあるのにですよ?』 「それ、武勇伝にする話じゃないです」 『武勇伝にしないと、やってられないです』 「……それは分かります」  室井は小さく笑った。 本部に向けて、あの地獄を『物語』にして売り込んだ川鍋の図太さ。 それを腹立たしく思いながら、どこかで「適材適所だな」とも思ってしまう。  病院の組織は、正しいだけでは上がれない。 川鍋はそれを、骨の髄まで知っている。 「で、事務長になって、何が変わりました?」 『まず、電話の出方が変わりました。 「川鍋です」じゃなくて、「事務長の川鍋です」って言うと、相手が一拍置くんですよ。あれ、気持ちいいです』 「やめてください、そういう話。小学生みたいで腹立ちます」 『小学生の頃に戻った気分ですよ。五十歳で』 「言い方が上手いのが余計に腹立つ」

 川鍋はケラケラ笑って、少しだけ真面目に言った。 『室井さん、今度東京に来ることがあったら連絡ください。 事務長室、見せますよ。ちゃんとお礼もしたいし』 「お礼って、何するんです。私の実績、返すんですか」 『それは難しいです』 「難しいって言うな」 『でも、奢ります。お茶でも、ちゃんとしたの』

 室井は即答した。 「缶コーヒーだけは勘弁してください。もう一生分飲みましたから」 『分かりました。ちゃんとしたの用意します。今度は『ベストプライス』で』 「その言葉、やめてください。耳に残るんですよ」 『じゃあ、『適正価格』で』 「それなら、まあ」

 二人の笑いが重なった。 廊下の先で看護師が振り返って、少し不思議そうな顔をした。 室井は「すみません」と目で合図して、声をさらに落とす。 「川鍋さん、最後に一つだけいいですか」 『はい』 「……次の建替え案件、取りに行く気ですか」  川鍋は、間を置かずに答えた。 『もちろんです』 「もちろん、じゃないですよ。 それでまた『外部の実務者』を呼ぶんですか」 『いえいえ。今度は――』  室井は身構えた。 『『室井さんじゃなくても大丈夫』って言っておきますから』 「それ、一番怖いタイプの安心ですよ」 『安心ですよ。たぶん』 「たぶん、って言いましたよね」 『言いました』 「正直だなあ」 『室井さん、また何とかしてくれるかなって』 「しません。しない方向で検討します」 『検討、って軽いですね』 「院長の口癖が感染しました」

 川鍋が笑う。 『じゃあ、また連絡します』 「しないでください。……いや、連絡はしてもいいですけど、案件は持ってこないでください」 『努力します』 「努力で済ませる話じゃないです」 『そこも含めて、努力します』 「含めなくていいです」  二人が笑ったところで、通話が終わった。 室井はスマホをポケットに戻し、廊下を歩き出した。 胸の中に、少しだけ熱が残っている。理不尽で腹立たしいのに、どこか可笑しい。

 そして室井は小さく呟いた。 「……次の電話は、出ないようにしよう」 出ない。 出ないはずだ。  だが室井は、自分がまた『なんとかしてしまう』人間だということを、誰よりよく知っていた。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.

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