リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

数字で読む町の奇譚 第五編

注記

この物語はフィクションです。

作中に登場する潮見町、自治体、人物、統計制度、行政手続、地図、選挙、郵便、公共サービスなどは、すべて架空のものです。

現実の国勢調査や住民基本台帳では、住民が一日だけ町外へ出たからといって、その自治体の人口が直ちにゼロとして確定することはありません。また、人口統計上の誤りを理由に、町が地図、郵便、予算、選挙制度などから自動的に消えることもありません。

本作は、町は人が住んでいるから存在するのか、それとも制度に記録されるから存在できるのか、という問いを描いた幻想小説です。


十月一日の午前八時、潮見町には誰もいなかった。

役場の正面玄関は閉まっていた。

町立診療所の待合室には、椅子だけが並んでいた。

商店街では、魚屋の冷蔵ケースが低い音を立て、新聞販売店の前には配達されなかった朝刊が束のまま置かれていた。

町営バスの車庫には、小型バスが一台止まっていた。

エンジンは冷えていた。

道路には車がなかった。

歩道にも人影はなかった。

海岸には波が寄せていた。

山では鳥が鳴いていた。

信号機は、誰も見ていない交差点で赤と青を繰り返していた。

家々の中では、炊飯器が保温を続けていた。

洗濯機の中には、脱水を終えた衣類が残されていた。

テレビがついたままの家もあった。

仏壇の線香は消えていたが、湯飲みにはまだ朝の茶が入っていた。

住民は、消えたのではなかった。

町の外へ出ていた。

七千六百二十一人。

住民基本台帳に記録された潮見町民の全員が、その日の午前零時から午後十一時五十九分まで、町の境界線の外側にいた。

理由を知る者はいなかった。

誰かが命令したわけではない。

避難指示も出ていない。

災害予報もなかった。

祭りでも、選挙でも、抗議活動でもない。

それでも、全員が町を出た。

ある者は隣市の大型商業施設へ行った。

ある者は県庁所在地の病院へ行った。

ある者は東京の子どもの家へ行った。

ある者は山を越えた道の駅で一日を過ごした。

町外の介護施設に入所している者もいた。

通勤や通学で、いつもどおり朝早く町を出た者もいた。

普段なら家にいる高齢者も、乳児を連れた母親も、その日は町外にいた。

町内の病院へ入院している者はいなかった。

町内の宿泊施設に泊まっていた観光客も、午前零時前に全員チェックアウトしていた。

留置場もない。

刑務所もない。

住み込みの施設もない。

潮見町という行政区域の中に、人間が一人もいなかった。

ただし、全員が自分の意思で町を出たわけではなかった。

後日、住民たちはそれぞれ違う説明をした。

「朝、なぜか海を見たくなくなった」

「家にいると、時計が進まない気がした」

「町の外へ買い物に行かなければならないと思った」

「夢の中で、今日だけは帰るなと言われた」

「何も考えず、車を走らせていた」

「気づいたら隣町の駅にいた」

説明は一致しなかった。

共通していたのは、その日が終わるまで潮見町へ戻ろうと思わなかったことだった。

町役場の職員も例外ではなかった。

町長の秋元は県庁へ出張していた。

副町長は病院で検査を受けていた。

総務課長は休暇を取り、妻と県外へ出かけていた。

企画財政課の長谷川拓郎は、退職後の手続きで年金事務所へ行っていた。

健康福祉課の大崎美奈は、町外施設で行われる研修に参加していた。

住民課の職員は全員、県主催の合同研修へ出席していた。

町営バスの運転手は、その日だけ一斉健康診断を受けていた。

消防団員も、民生委員も、学校教員も、郵便局員も、商店主も、偶然のように町を離れていた。

役場は無人だった。

防災無線は午前七時に、いつもの音楽を流した。

放送の終わりに、自動音声が言った。

「本日も、安心して暮らせる町づくりにご協力ください」

聞いている者はいなかった。

その日、潮見町では国勢調査の現地確認が行われる予定だった。

五年に一度の調査ではなかった。

前回調査後に人口の不一致が続いたため、県と国の担当者が特別確認に入ることになっていた。

第1編で、潮見町の人口が理由もなく一人増えたこと。

第3編で、死亡者数が一時的にゼロになったこと。

町外施設への住所異動と、実際の居住地が大きくずれていたこと。

空き家台帳と住民記録の不一致。

町営バスの利用者数が、乗車記録と合わなかったこと。

一つひとつは説明可能な事務上の問題として処理された。

しかし、県の担当者は潮見町の統計に、継続的な異常があると判断していた。

午前九時十五分、県の調査車両が町役場へ到着した。

乗っていたのは、県統計課の職員三人と、国から派遣された調査官一人だった。

正面玄関は閉まっている。

インターホンを押しても応答がない。

代表電話へかけても、庁舎内で着信音が鳴るだけだった。

県職員の一人が町長へ連絡した。

町長は県庁の会議室にいた。

「今日は休庁日ではありませんよね」

「違います」

「職員が誰もいません」

「そんなはずはない」

町長は総務課長へ電話をかけた。

つながらない。

副町長。

企画財政課長。

住民課長。

誰も町内にいなかった。

「何が起きているんですか」

県職員が尋ねた。

「こちらが聞きたい」

町長は答えた。

県職員は、役場裏口の緊急用キーボックスを使い、庁舎へ入った。

町の職員が不在の状態で庁内システムを操作することはできない。

しかし、その日は特別確認のため、事前に限定された閲覧権限が付与されていた。

調査官は、住民基本台帳から抽出された人口集計画面を開いた。

総人口、七千六百二十一人。

男性、三千六百四十二人。

女性、三千九百七十九人。

数字は正常だった。

地区別人口も一致している。

年齢別人口も一致している。

世帯数も問題ない。

「システム上は異常ありません」

県職員が言った。

国の調査官は、窓の外を見た。

駐車場には、公用車しかない。

庁舎前の道路にも車が通らない。

「実際には何人いるのでしょう」

調査官は尋ねた。

「町内にですか」

「はい」

県職員は笑った。

「全戸を確認するわけにはいきません」

「今日は現地確認です」

調査官は無表情だった。

「標本地区だけでも訪問しましょう」

四人は、あらかじめ選ばれた調査区へ向かった。

最初は、役場に近い中央地区。

住宅二十七戸。

インターホンを押しても応答はない。

郵便受けには朝刊が入っている。

玄関先に靴がある家もある。

犬が庭で吠えている。

しかし、人はいない。

次は南浜地区。

四十一戸。

不在。

青葉団地。

六十三戸。

不在。

山根地区。

十九戸。

不在。

海岸沿いの集合住宅。

七十八戸。

不在。

観光用の別荘ではなく、住民登録のある世帯を選んで訪問した。

どの家にも生活の痕跡がある。

食器。

洗濯物。

自転車。

園芸用品。

子どもの玩具。

介護用手すり。

玄関先の杖。

それでも、一人もいなかった。

午後一時、町立診療所へ行った。

自動ドアは電源が入っていた。

扉の前に立つと開いた。

受付には誰もいない。

診察室も空。

処置室も空。

診療予定表には、午前の予約患者の名前が並んでいる。

全員、来院していなかった。

調査官は町長へ再び電話をかけた。

「町民はどこにいますか」

町長は県庁から、住民課職員や関係者へ連絡を続けていた。

「町外にいるようです」

「何人が」

「確認できた範囲では、全員です」

「全員」

「住民から問い合わせも来ています。町へ戻れないという相談が」

「道路が封鎖されているのですか」

「封鎖されていません」

「鉄道は」

「通常運行です」

「では、なぜ戻れない」

町長は答えられなかった。

町の境界付近では、不思議なことが起きていた。

午後三時頃、隣市にいた住民の一人が、忘れ物を取りに自宅へ戻ろうとした。

自動車で国道を走り、潮見町の標識を越えた。

その直後、見慣れない交差点に出た。

道を間違えたと思い、カーナビゲーション・システムを確認した。

画面上では、まだ隣市を走っている。

しかし道路脇には、潮見町立小学校跡の校舎が見えた。

少し走ると、再び隣市の大型店舗前へ戻っていた。

別の住民は電車で潮見駅へ向かった。

駅名表示は、潮見駅の一つ手前から、二つ先の駅へ変わった。

列車は止まらず、潮見駅を通過したらしい。

しかし窓の外に駅は見えなかった。

町営バスで戻ろうとした者もいた。

行先表示には「潮見町役場前」と出ている。

バスは定刻どおり発車した。

ところが終点は、隣町の市民体育館前だった。

運転手は、

「潮見町役場前に到着しました」

と案内した。

乗客が違うと指摘すると、運転手は首をかしげた。

「潮見町という町は、この路線にはありません」

地図アプリケーションで潮見町を検索すると、その日の午後から結果が表示されなくなった。

住所を入力しても、

「該当する地点がありません」

と出る。

地図上には海岸線と山だけが描かれ、町の区域が空白になっていた。

道路は存在している。

建物もある。

衛星画像にも家並みが写っている。

それでも、町名だけが消えていた。

県統計課の調査官たちは、町内に残っていた。

外から入ることは難しくなったが、中にいる者は自由に移動できた。

ただし、外へ出ようとすると、町の境界を越えた瞬間に方向感覚を失った。

同じ道を走っているはずなのに、役場前へ戻ってくる。

海岸通りを北へ進んでも、南へ進んでも、最後には町役場の前に出た。

午後四時、国の調査官は役場へ戻った。

人口集計画面を再び開いた。

総人口は七千六百二十一人のままだった。

調査官は、別の画面を開いた。

「常住地確認状況」

住民が通常生活している場所を、調査時点の現地確認によって分類する項目だった。

確認済み、〇人。

不在、七千六百二十一人。

町内滞在、〇人。

調査官は長い間、画面を見ていた。

県職員が言った。

「不在だから人口ゼロになるわけではありません」

「当然です」

「住民票もあります」

「あります」

「なら、問題ありません」

調査官は画面を指した。

「調査時点で、この町に常住している人を一人も確認できない」

「一日だけです」

「一日だけでも、確認結果は結果です」

「国勢調査は一日の外出を居住地変更とは扱いません」

「通常は」

調査官は言った。

「しかし、全員が同時に不在となり、町へ戻れず、地図から町名が消えている状況を、通常の外出と呼べますか」

県職員は答えられなかった。

午後五時三十分。

町長は県庁から緊急会見を行った。

「潮見町が消滅した事実はありません」

記者から質問が相次いだ。

「町民全員が不在というのは事実ですか」

「現時点では、その可能性があります」

「なぜ全員が町外へ出たのですか」

「確認中です」

「町へ戻れないという相談があります」

「道路交通上の問題は確認されていません」

「地図サービスから町名が消えています」

「民間サービスの不具合と思われます」

「町内にいる県職員が外へ出られないという情報があります」

「事実関係を確認しています」

「町は存在していますか」

最後の質問に、町長はしばらく答えなかった。

「行政区域として、存在しています」

その言葉は、翌朝の新聞に大きく掲載された。

しかし、その新聞が潮見町へ届くことはなかった。

午後六時、役場の統計システムに警告が表示された。

「居住実態未確認」

続いて、

「人口集計再判定を実行しますか」

という画面が現れた。

調査官は実行しなかった。

画面を閉じる。

しかし数分後、再び表示された。

今度は、選択肢が変わっていた。

「実行」

一つしかない。

調査官は電源を切った。

庁舎内の照明が一瞬消えた。

非常灯がついた。

数秒後、システムは自動的に再起動した。

人口集計画面が開く。

総人口、〇人。

男性、〇人。

女性、〇人。

世帯数、〇世帯。

地区別人口もすべて〇。

高齢化率、算出不能。

出生数、〇。

死亡数、〇。

転入数、〇。

転出数、〇。

町の人口はゼロになった。

「元データは」

県職員が住民個票を検索した。

七千六百二十一人の記録は残っている。

氏名も住所も生年月日もある。

しかし、すべての記録に同じ注記が付いていた。

「所在自治体未確定」

住所欄には、潮見町南浜三丁目、潮見町中央一丁目など、従来の住所が表示されている。

自治体コード欄だけが空白だった。

「住所はあるのに、自治体がない」

県職員が言った。

第1編では、一人だけが年齢にも地区にも世帯にも属さなかった。

この日は、七千六百二十一人全員が、どの自治体にも属さなくなった。

午後七時、潮見町の自治体コードが国の行政情報システムから消えた。

最初に影響が出たのは、郵便だった。

町外の集配局で、潮見町宛ての郵便物がすべてエラーになった。

郵便番号は存在する。

番地も存在する。

しかし宛先自治体が見つからない。

荷物は配達不能として保留された。

次に、金融機関の住所確認システムで潮見町が選択できなくなった。

オンライン手続きで、都道府県の次に潮見町を指定しようとしても、一覧に表示されない。

住民票の写しを申請しようとしても、

「該当する地方公共団体がありません」

と出た。

午後八時、気象情報から潮見町が消えた。

天気予報は、隣市と海上予報に分割された。

潮見町の降水確率も、注意報も、日の出時刻も表示されない。

防災情報システムでは、町域が未指定区域として灰色に塗られた。

午後八時三十分、選挙管理システムから潮見町選挙区が消えた。

町民は選挙人名簿に登録されている。

しかし、投票すべき選挙区がない。

国政選挙。

県議会議員選挙。

町長選挙。

町議会議員選挙。

すべての欄が空白になった。

午後九時、地方交付税の算定画面で潮見町が表示されなくなった。

人口ゼロ。

世帯ゼロ。

道路延長、不明。

学校数、〇。

福祉施設数、〇。

基準財政需要額、算定対象外。

役場の画面上で、翌年度の歳入見込額が次々に消えた。

地方交付税。

国庫支出金。

県支出金。

地方消費税交付金。

人口や自治体コードを基準に配分される金額が、すべて〇円になった。

町の預金口座は残っている。

庁舎も車両も施設もある。

職員も住民も存在する。

それでも、制度の上では予算を受け取る主体がなくなった。

「人口がゼロだから、町が消えるのか」

県職員が言った。

国の調査官は首を横に振った。

「逆かもしれません」

「逆」

「町が消えたから、人口がゼロになった」

「何が違うんです」

「人は残っている。住所も残っている。消えたのは、人ではなく所属先です」

役場の外は暗かった。

海の方角から、町営バスのエンジン音が聞こえた。

運行しているはずはない。

その日は運転手が全員町外にいた。

四人は玄関へ出た。

道路の向こうから、小型バスが近づいてくる。

第2編で廃止された第一便だった。

行先表示には、

「所在自治体未確定」

と出ている。

バスは役場前へ止まった。

扉が開いた。

運転席には、江藤正明が座っていた。

すでに会社を退職しているはずの男だった。

「乗りますか」

江藤は尋ねた。

国の調査官が答えた。

「どこへ行くんです」

「町の外です」

県職員が言った。

「外へ出られないんです」

「今なら出られます」

「どこへ着きますか」

江藤は少し考えた。

「どこにも属していない人が集まる場所です」

車内には大勢の人影があった。

第1編で人口に入れなかった者。

第2編で廃止停留所から降りた者。

第3編で町の死亡者数から外れた者。

第4編で空き家に残された記憶。

見える人も、見えない人もいた。

「町民ですか」

調査官が尋ねた。

江藤は答えた。

「町民だった人です」

「今は」

「町がないので、町民ではありません」

役場庁舎の壁に、「潮見町役場」と書かれている。

看板は残っている。

文字も読める。

それでも、その場所が潮見町だという制度上の証拠は消えていた。

調査官はバスへ乗らなかった。

「町を戻す方法はありますか」

江藤はバックミラーを見た。

「町民を戻せばいい」

「戻れないんです」

「戻りたいと思っていません」

「全員がですか」

「全員ではありません」

「では、誰が」

江藤は役場の二階を指した。

「一人、残っています」

四人は庁舎へ戻った。

全室を確認したはずだった。

会議室。

町長室。

議場。

資料室。

機械室。

書庫。

誰もいなかった。

しかし二階の住民課窓口に、一人の男が座っていた。

六十代か、七十代。

黒い布製の鞄を持っている。

第1編で七千八百三十六人目と名乗った男だった。

男は整理券を持っていた。

番号は「一」。

「いつから、ここに」

調査官が尋ねた。

「最初からです」

「今日は町民全員が町外にいるはずです」

「私は町民ではありません」

「では、なぜ役場に」

「町民になりに来ました」

窓口に職員はいない。

男の前には、住民異動届が置かれていた。

氏名欄、空白。

生年月日、空白。

前住所、空白。

新住所、潮見町。

番地は書かれていない。

「住所がありません」

県職員が言った。

「町があれば、住所は後から決められます」

「町が消えているんです」

「だから、一人必要です」

男は言った。

「人口ゼロの町は、誰の町でもない。誰の町でもない場所には、最初の一人が必要です」

調査官は住民異動届を見た。

「あなたが一人目になる」

「前にも、一人増えたことがあります」

「あなたでしたか」

「私だけではありません」

男は黒い鞄を開けた。

中から、紙が何枚も出てきた。

死亡者の記録。

廃止停留所の時刻表。

空き家台帳。

住民異動届。

選挙人名簿。

学校名簿。

町内会名簿。

診療記録。

税台帳。

すべて、名前の一部が薄く消えている。

「町は、人を一人ずつ記録します」

男は言った。

「しかし、人は一つの記録だけでは町民になりません」

「住民票があれば町民です」

県職員が答えた。

「住民票だけなら、町外に暮らしていても町民です。住民票がなくても、ここで暮らしている人がいます。生まれた町、働いた町、家族を看取った町、墓のある町。どれがその人の町ですか」

調査官は言った。

「制度上は、生活の本拠です」

「今日、誰の生活の本拠もありません」

男は窓の外を見た。

「だから町が消えた」

午後十時。

町外では、住民たちが異変に気づき始めていた。

帰ろうとしなかった人々が、急に不安を覚えた。

自宅の住所を地図で検索できない。

固定電話へかけても、

「現在使われておりません」

という音声が流れる。

自宅の防犯カメラへ接続できない。

電力会社の契約画面から住所が消えている。

子どもの学校名が、学籍情報から消えている。

運転免許証の住所をオンラインで確認すると、町名の部分が空白になっている。

墓地の所在地も検索できない。

町外の施設にいる高齢者は、職員へ尋ねた。

「私はどこの人ですか」

職員は答えられなかった。

若い住民は、家族へ連絡した。

「町へ戻ろう」

最初は道路に迷った。

地図も使えない。

標識から潮見町の文字が消えている。

それでも住民たちは、記憶を頼りに動き始めた。

海のにおい。

山の形。

鉄道のカーブ。

古い煙突。

閉校した小学校の屋根。

町外からは見えないはずのものを目印にした。

東京にいた者は終電へ乗った。

隣市にいた者は歩き出した。

介護施設の入所者は、

「今夜だけ帰りたい」

と家族へ頼んだ。

病院にいた者も、外泊の許可を求めた。

しかし町へ戻るには、町の入口が必要だった。

すべての道路は別の場所へつながっている。

鉄道は潮見駅へ止まらない。

海から船で近づいても、海岸線が霧に覆われる。

午後十時二十分。

役場の防災無線が自動的に起動した。

放送室には誰もいない。

町内に聞く者もほとんどいない。

それでも、音声は町外へも流れた。

スマートフォン。

自動車のラジオ。

駅の放送設備。

病院のテレビ。

商業施設の館内放送。

あらゆる音声機器から、潮見町の防災無線が聞こえた。

「潮見町民の皆さまへお知らせします」

女声の自動音声だった。

「本日の人口は、〇人です」

住民たちは足を止めた。

「町へ戻る方は、ご自身が町民であることを証明してください」

証明。

住民票か。

免許証か。

保険証か。

それらの住所から町名は消えている。

放送は続いた。

「証明に、書類は必要ありません」

「潮見町で覚えていることを、一つ持って帰ってください」

住民たちは考えた。

住所ではない。

番号でもない。

書類でもない。

覚えていること。

閉校した小学校の校歌。

魚市場のにおい。

夏祭りの太鼓。

台風の夜に聞いた防災無線。

町営バスの降車ボタン。

役場前の桜。

診療所の待合室。

海岸の砂。

家の柱に刻んだ身長。

父が毎朝開けた雨戸。

母が使った台所。

亡くなった家族の名前。

誰かが、声に出した。

「潮見小学校の校庭には、大きな銀杏の木があった」

その瞬間、町の境界に一本の道が現れた。

別の者が言った。

「市場の食堂では、朝六時から味噌汁のにおいがした」

もう一本、道が現れた。

「駅前の時計は、いつも三分遅れていた」

線路の先に、潮見駅が現れた。

「南浜の坂から、冬の朝だけ島が見えた」

霧の中に海岸線が現れた。

「第一便の運転手は、誰もいない停留所でも必ず速度を落とした」

町営バスが、町外の道路へ一台ずつ現れた。

「父の家の柱時計は、十時二十三分で止まっていた」

空き家の玄関に灯りがついた。

住民たちは、自分の記憶を口にしながら町へ戻った。

一人。

十人。

百人。

道路、鉄道、バス、徒歩。

午後十時四十五分、最初の住民が町の境界を越えた。

役場の人口集計画面が変わった。

総人口、一人。

地区、未定。

年齢、未定。

住所、未定。

第1編の七千八百三十六人目ではない。

実際の潮見町民だった。

南浜三丁目に住む八十二歳の女性。

町外の娘宅から戻ってきた。

女性は町の入口で、海へ向かって頭を下げた。

「ただいま」

その言葉が記録されたわけではない。

しかし人口画面に、地区と年齢と住所が表示された。

総人口、一人。

女性、八十二歳。

南浜地区。

次の住民が戻った。

総人口、二人。

三人。

十人。

百人。

町は、帰ってきた人の数だけ形を取り戻した。

郵便番号が復活した。

地図に町名が表示された。

気象情報に潮見町が戻った。

選挙区が再設定された。

自治体コードが再び割り当てられた。

午後十一時三十分、人口は六千人を超えた。

まだ町外にいる者もいた。

遠方にいる者。

病院から動けない者。

町外施設で暮らしている者。

帰る意思のない者。

すべての住民が物理的に戻ることはできなかった。

それでも、町は消えなかった。

帰れない者は、電話で記憶を語った。

「潮見町の墓地に夫がいる」

「私はあの町で四十年働いた」

「家は売ったが、町の海を忘れていない」

「住民票は施設へ移したが、自分は潮見町の人間だと思っている」

「もう戻るつもりはない。それでも、町がなくなるのは嫌だ」

その言葉が届くたび、人口集計画面とは別の欄が増えた。

「居住人口」

「登録人口」

「帰属人口」

最後の項目は、制度には存在しなかった。

帰属人口。

その町を自分の町だと考える人の数。

登録人口、七千六百二十一人。

居住人口、六千九百八十二人。

帰属人口、八千四百三十七人。

町外へ転出した元住民。

町内に別荘を持つ人。

町で働くが住んでいない人。

町に墓がある人。

かつて町の学校へ通った人。

帰属人口には、さまざまな人が含まれていた。

統計的には定義できない。

重複もある。

本人の申告だけで増える。

行政指標としては使えない。

それでも、その数字が表示されると、町の輪郭は安定した。

午後十一時五十五分。

役場の住民課にいた黒い鞄の男は、住民異動届を手に取った。

「もう、私が一人目になる必要はありません」

国の調査官が尋ねた。

「あなたは、どこへ行くんです」

「人口の合わない町へ」

「ほかにもあるんですか」

「すべての町にあります」

男は言った。

「数えられる人と、数えられない人。住んでいる人と、帰りたい人。忘れた人と、忘れられた人。その差が一人分になったとき、私は現れます」

黒い鞄を閉じた。

「潮見町は戻ったのですか」

調査官は尋ねた。

「戻ったのではありません」

男は窓口の整理券を置いた。

番号は「一」。

「今日、初めて町になったのです」

男は役場を出た。

庁舎前には町営バスが止まっていた。

運転席には江藤がいる。

男が乗る。

扉が閉まった。

バスの行先表示は空白だった。

車両は海岸方向へ走り、暗闇の中へ消えた。

午後十一時五十九分。

潮見町の人口は七千六百二十一人に戻った。

すべての住民が町内にいたわけではない。

それでも登録人口は元の数字になった。

自治体コード。

郵便番号。

選挙区。

予算。

地図。

気象情報。

公共交通。

すべてが復旧した。

午前零時。

十月二日になった。

町内の時計が一斉に一分進んだ。

翌朝、住民たちは昨日の出来事について話した。

町へ戻れなかったこと。

住所が消えたこと。

地図に町がなかったこと。

防災無線から記憶を持ち帰れと言われたこと。

しかし、ニュースでは大きく扱われなかった。

国も県も、広域情報システムの一時的な障害と説明した。

地図サービス会社は、データ配信上の不具合と発表した。

鉄道会社は、表示機器の誤作動。

郵便事業者は、住所データ照合の障害。

金融機関は、自治体コード更新処理の不備。

それぞれの説明は、技術的には成立していた。

潮見町の住民が全員町外にいたという事実も、公式には確認されなかった。

調査時点で不在だっただけ。

国勢調査上の人口は、通常の居住実態に基づき七千六百二十一人とされた。

町長は記者会見で言った。

「潮見町が一日だけ消えたという事実はありません」

記者から尋ねられた。

「では、昨日、町内には何人いたのですか」

町長は答えた。

「把握していません」

「ゼロだった可能性は」

「人口は七千六百二十一人です」

「登録人口ではなく、実際に町内にいた人数です」

町長は資料を見た。

「一時的な外出状況について、行政が全住民を把握することはできません」

それ以上の質問には答えなかった。

国の調査官は、最終報告書を作成した。

「潮見町特別人口実態確認結果」

報告書には、住民基本台帳人口と実際の居住実態に差があること。

町外施設入所者や長期不在者がいること。

空き家の増加。

人口集計システムに一時的な不整合が生じたこと。

自治体コード連携に障害が発生したこと。

そうした内容が記された。

町内人口が一時ゼロになったとは書かなかった。

根拠を示せないからだった。

しかし、報告書の最後に一文だけ加えた。

「自治体の存在は、行政区域、住民登録、居住実態、住民の帰属意識のいずれか一つだけでは定義できない可能性がある」

上司から削除を求められた。

「統計報告として曖昧だ」

調査官は削除しなかった。

「一日だけ人口ゼロとなった事実を裏付けられない以上、せめて残すべき考察です」

最終的に、その一文は本文から外され、参考意見として別紙に付けられた。

別紙を読む者はほとんどいなかった。

潮見町では、十月一日を休日にしようという話が出た。

「町民帰還の日」

「潮見町再出発の日」

「人口の日」

名称案はいくつも出た。

しかし、公式の記念日にはならなかった。

町が一度消えたことを、行政が認めることになるからだった。

代わりに、住民たちは毎年十月一日の夜、家の外へ小さな灯りを置くようになった。

灯籠でも、ろうそくでも、電灯でもよい。

自分がその家に住んでいることを示す灯り。

町外に暮らす元住民も、同じ日に窓辺へ灯りを置いた。

潮見町へ向けて。

理由を尋ねられると、

「帰る場所を忘れないため」

と答えた。

数年後、潮見町の人口は七千人を下回った。

出生より死亡が多い。

転入より転出が多い。

人口減少は続いた。

町は以前より小さくなった。

学校は統合された。

商店も減った。

町営バスの便数も少なくなった。

それでも、十月一日の夜には、町の内外に多くの灯りがついた。

統計人口より多い数だった。

誰も正確に数えなかった。

数えれば、また一人合わなくなるかもしれない。

ある年、役場の若い職員が、人口統計の画面に見慣れない項目を見つけた。

登録人口。

居住推計人口。

世帯数。

その下に、小さな文字で、

「帰属人口」

とある。

数字は表示されていない。

職員がクリックすると、注意書きが出た。

「この値は集計できません」

「本人が帰る場所と考える町を、行政が一意に定めることはできないためです」

職員は上司に報告した。

システム業者へ問い合わせたが、そのような項目は実装していないという。

削除を試みても消えなかった。

ただし、十月一日にだけ、数字が表示された。

九千二百一人。

登録人口より二千人以上多い。

翌日には、再び空欄へ戻った。

町長は公表しないよう指示した。

根拠がない。

定義がない。

誰を含むか分からない。

統計として使えない。

判断は正しかった。

それでも、若い職員は数字を紙へ書き写し、机の引き出しへしまった。

引き出しの奥には、以前の職員が残した紙があった。

地区、未定。

年齢、未定。

住所、空欄。

人数、一。

死亡者数、百三十八。

その下に、新しい欄が増えている。

「一日だけ住民がゼロになった町」

人口、〇人。

帰属人口、算出不能。

さらに小さな文字で、こう書かれていた。

「町は、人がいなくなった日に消えるのではない」

「誰も帰ろうと思わなくなった日に消える」

若い職員は、その紙を処分しなかった。

窓の外では、町営バスが役場前へ止まった。

乗る人が二人。

降りる人が一人。

運転手は人数を正確に入力した。

バスが発車した後、誰もいない停留所に、黒い布製の鞄が一つ残されていた。

鞄の札には、住所ではなく一文だけ書かれていた。

「帰るところがある人は、まだゼロではない」

海から風が吹いた。

札が揺れた。

役場の人口表示板には、七千人に満たない数字が出ていた。

その下に、一瞬だけ別の数字が浮かんだ。

〇。

次に、一。

そして、数えきれないほどの数字が重なり、白い光になった。

職員が目をこすると、表示は元へ戻っていた。

潮見町人口、六千九百八十七人。

前月比、十一人減。

計算は正確に一致していた。

町は、まだ存在していた。

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数字で読む町の奇譚 第三編

注記

この物語はフィクションです。

作中に登場する潮見町、自治体、施設、制度、人物、統計資料は、すべて架空のものです。現実の自治体が、死亡率を下げる目的で、病気の住民や高齢者を他自治体へ転出させる施策を行っているという意味ではありません。

また、死亡率は人口構成、年齢構成、集計期間、分母となる人口、標準化の方法などによって数値が変わります。単純な死亡者数や粗死亡率だけで、地域の医療水準、住民の健康状態、行政の成果を評価することはできません。

本作は、正確な数字が必ずしも正しい現実を表すとは限らない、という仮定から生まれた社会幻想小説です。


四月最初の月曜日、潮見町役場の企画財政課に、県から一通の電子メールが届いた。

件名は、

「地域健康指標改善支援事業に係る事前照会」

だった。

担当係長の長谷川拓郎は、受信箱の一覧でその文字を見たとき、また新しい補助事業が始まるのだと思った。

国や県から送られてくる事業名は、年々長くなっていた。

健康。

地域。

連携。

包括。

支援。

推進。

強化。

持続可能。

そうした言葉を幾つか組み合わせれば、新しい政策の名称になる。

長谷川はメールを開いた。

本文には、県内市町村の健康関連指標を比較し、改善計画の提出を求める旨が記されていた。添付ファイルは七つあった。

事業概要。

提出様式。

評価指標一覧。

参考資料。

過去五年間の市町村別データ。

説明会資料。

よくある質問。

長谷川は評価指標一覧を開いた。

健康診査受診率。

特定保健指導実施率。

一人当たり医療費。

要介護認定率。

救急搬送件数。

平均寿命。

健康寿命。

死亡率。

最後の項目に、赤い印が付いていた。

潮見町の死亡率は、県内で最も高い区分に入っていた。

人口千人当たり、年間二十・八人。

県平均は十一・六人。

長谷川は驚かなかった。

潮見町では住民の四割以上が六十五歳以上である。若い世代が少なく、高齢者が多ければ、人口当たりの死亡者数が増えるのは当然だった。

町の医療が特別に悪いわけではない。

感染症が流行したわけでもない。

事故が多いわけでもない。

人は年齢を重ねれば、いずれ亡くなる。

高齢者の割合が高い町では、死亡率が高くなる。

長谷川はそう理解していた。

添付された説明資料にも、小さな文字で注意書きがあった。

「粗死亡率は年齢構成の影響を受けるため、市町村間比較には留意を要する」

しかし、その注意書きは資料の三十七ページ目にあった。

一方、県内順位を示す表は二ページ目にあった。

潮見町。

四十七位。

背景は赤色だった。

午前十時から、町長室で幹部会議が開かれた。

町長、副町長、総務課長、企画財政課長、健康福祉課長、町立診療所の事務長が出席した。

長谷川は説明担当として、壁面の画面に資料を映した。

「潮見町の粗死亡率は、県内で最も高い区分です。ただし、これは高齢化率の影響が大きく、年齢調整を行った場合には――」

「長谷川君」

町長の秋元が話を遮った。

「細かい説明は後でいい。県内で何番なんだ」

「四十七自治体中、四十七番です」

「最下位か」

「資料上はそうなっています」

町長は椅子の背にもたれた。

秋元は二年前に初当選した。

元県議会議員で、演説では「数字で変える潮見町」を掲げていた。

人口減少率。

観光客数。

ふるさと納税額。

空き家解消件数。

企業誘致数。

道路整備率。

行政の成果は、数値で示さなければならないというのが持論だった。

「このまま公表されるのか」

「県のウェブサイトへ掲載される予定です」

「死亡率が県内最悪の町と書かれる」

「正確には、人口千人当たりの粗死亡率が最も高いという意味です。医療の質が最も悪いという意味ではありません」

「町外の人間が、そんな読み方をしてくれると思うか」

長谷川は答えなかった。

町長は資料を指で叩いた。

「移住促進をやっているんだ。子育て世帯を呼び込もうとしている。そこへ死亡率県内最悪と出たら、どう見られる」

健康福祉課長が口を開いた。

「高齢化率を併記すれば、ある程度は説明できます」

「説明しなければ分からない数字は、もう負けている」

町長は言った。

副町長が長谷川に尋ねた。

「改善目標は、どの程度を求められている」

「県は一律の数値を示していません。各自治体が現状を分析し、三年間の目標を設定します」

「では、潮見町として目標を立てる必要がある」

「はい」

「どれくらい下げられる」

長谷川は資料をめくった。

「短期間で粗死亡率そのものを大きく下げるのは困難です。高齢者人口が多いため、健康増進施策の効果が出ても、死亡者数へ反映されるまで時間がかかります」

「何もしなくていいということか」

「そうではありません。健診、介護予防、重症化予防、在宅医療、救急体制など、取り組むべきことはあります。ただ、死亡率の低下だけを成果指標にするのは――」

「県は死亡率を指標にしている」

町長の声が強くなった。

「県が数字を出した以上、こちらも数字で答えるしかない」

会議は一時間続いた。

結論として、企画財政課、健康福祉課、町立診療所による横断チームが設置されることになった。

名称は、

「健康長寿指標改善プロジェクトチーム」

となった。

長谷川が事務局を務めることになった。

会議の最後に、町長は言った。

「三年で県平均とは言わない。まず最下位を脱出する。数字を一つでも上げる方法を考えてくれ」

順位を上げるためには、死亡率を下げる必要があった。

死亡率を下げるためには、死亡者数を減らすか、人口を増やす必要がある。

単純な式だった。

長谷川は自席へ戻り、白い紙に書いた。

死亡率=死亡者数÷人口

その下に、二つの方法を書いた。

一、死亡者数を減らす。

二、人口を増やす。

人口を増やすことは、三年間では難しい。

移住促進施策を行っても、年間数十人の転入があれば成功とされる。死亡率を大きく変えるほどの人口増加は期待できない。

残るのは、死亡者数を減らすことだった。

しかし、行政が三年で死亡者数を減らせる範囲には限界がある。

長谷川は、過去十年間の死亡者データを確認した。

年間百四十人から百七十人。

死因は、悪性新生物、心疾患、老衰、脳血管疾患、肺炎など。

年ごとの変動はあるが、長期的には増えていた。

七十五歳以上の人口が増えているためだった。

健康診査の受診率を上げる。

運動教室を開く。

減塩を呼びかける。

禁煙支援を行う。

それらは必要だった。

だが、翌年度の死亡率を目に見えて改善する施策ではない。

午後五時を過ぎた頃、健康福祉課の主査である大崎美奈が、長谷川の机へ来た。

「難しい顔をしていますね」

「簡単な式ほど難しい」

長谷川は紙を見せた。

大崎は式を読み、向かいの椅子へ座った。

「死亡者を減らすか、人口を増やすか」

「それしかない」

「年齢調整死亡率を使うように県へ求めた方がいいのでは」

「県は粗死亡率も公表する。町長は順位を気にしている」

「順位のために人を長生きさせるんですか」

「長生きしてもらうこと自体は悪くない」

「数字のためでなければ」

長谷川は苦笑した。

「とにかく、できることを並べるしかない」

二人は、施策案を書き出した。

健診受診率向上。

高血圧対策。

糖尿病重症化予防。

高齢者のフレイル予防。

救急搬送時間の短縮。

町立診療所と県立病院の連携。

独居高齢者の見守り。

肺炎球菌ワクチン接種。

熱中症対策。

転倒予防。

自殺対策。

どれも重要だった。

しかし、どの施策についても、三年間で何人の死亡を防げるかを正確に示すことはできなかった。

大崎が席を立とうとしたとき、長谷川は何気なく尋ねた。

「町外の病院で亡くなった人も、潮見町の死亡者に入るんだよな」

「住民票が潮見町にあれば入ります」

「施設に入所して、住民票を施設所在地へ移した場合は」

「その自治体の住民として扱われます」

大崎は答えた後、長谷川を見た。

「何を考えていますか」

「何も」

長谷川は紙を裏返した。

大崎はしばらく立ったまま、長谷川の顔を見ていた。

「その方法は、考えない方がいいです」

「まだ何も言っていない」

「言わなくても分かります」

「制度上の確認をしただけだ」

「制度上できることと、してよいことは違います」

大崎はそう言って、席を離れた。

長谷川も同じことを考えていた。

制度上できることと、してよいことは違う。

ただし、行政の仕事では、その境界がいつも明確とは限らなかった。

一週間後、県庁で説明会が開かれた。

県内各自治体から担当者が集まり、健康指標の分析方法や改善計画の作成について説明を受けた。

講師は、県の健康政策課長だった。

「重要なのは、結果指標と活動指標を分けることです」

課長は画面を指しながら話した。

「死亡率や健康寿命は結果指標です。一方、健診受診率、運動教室参加者数、訪問指導件数などは活動指標です。各自治体には、双方を設定していただきます」

質疑応答で、別の町の担当者が手を挙げた。

「高齢化率が高い自治体ほど粗死亡率が高くなるのは当然です。単純な順位公表は誤解を招きませんか」

会場の数人がうなずいた。

県の課長は、用意された回答を読むように答えた。

「粗死亡率のみで自治体の優劣を判断するものではありません。年齢調整値や人口構成と併せて、総合的にご覧いただく趣旨です」

「しかし、報道では順位だけが使われます」

「公表方法については、今後検討します」

それ以上の回答はなかった。

休憩時間、長谷川は廊下の自動販売機前で、隣の自治体の担当者と話した。

その自治体も高齢化率が高く、死亡率は県内下位だった。

担当者は紙コップのコーヒーを飲みながら言った。

「うちは昨年、少し下がりましたよ」

「何か特別な施策を」

「特別養護老人ホームが閉鎖されました」

「閉鎖」

「入所者の多くが県北の施設へ移りました。住民票も移したので、高齢者人口と死亡者数が同時に減った」

担当者は笑った。

「健康になったわけではありませんが、死亡率は改善しました」

長谷川は何も言わなかった。

「逆に、隣の市は新しい介護施設を誘致した。入所者が百人以上転入して、数年後から死亡者数が増えた。医療も介護も充実させたのに、指標だけ見れば悪化です」

「制度として、おかしいですね」

「制度は正しいですよ」

担当者は紙コップを捨てた。

「住んでいる人を数えている。亡くなった人を数えている。それぞれは正しい。ただ、正しい数字を並べても、正しい評価になるとは限らない」

帰りの電車で、長谷川はその言葉を手帳へ書いた。

正しい数字を並べても、正しい評価になるとは限らない。

その下に、もう一つ書いた。

居住地を変えれば、死亡する自治体が変わる。

すぐに線を引いて消した。

しかし、紙に残った筆圧までは消えなかった。

五月、プロジェクトチームの会議が始まった。

初回会議では、町の現状分析が行われた。

潮見町の死亡率が高い最大の理由は、高齢化だった。

特に、八十五歳以上の人口比率が県平均の約二倍に達している。

独居高齢者も多い。

町立診療所には入院病床がなく、重症者は隣市の総合病院へ搬送される。

町内には小規模な介護施設が二つあったが、特別養護老人ホームはなかった。

介護度が高くなると、町外の施設へ入る人が多かった。

その際、住民票を潮見町へ残す人と、施設所在地へ移す人がいた。

大崎が資料を説明した。

「現在、町外施設へ入所している潮見町民は、把握できる範囲で百八十六人です。このうち、住民票を潮見町に残している人は九十一人です」

町長が出席していた。

「その九十一人は、潮見町に住んでいないのか」

「生活の本拠は町外施設です。ただし、住民票をどこに置くかは個別事情があります」

「なぜ移さない」

「家族が実家を維持している、郵便物や財産管理の都合がある、本人や家族が住所を変えたくないなど、理由はさまざまです」

「行政サービスは施設所在地で受けるのか」

「介護保険には住所地特例があります。すべてが単純ではありません」

町長は資料をめくった。

「この九十一人が施設所在地へ住所を移したら、町の人口は減る」

「はい」

「死亡者数も減る」

会議室が静かになった。

大崎は慎重に答えた。

「将来的には、潮見町の死亡者として集計されない人が増える可能性があります」

「死亡率はどうなる」

長谷川が計算した。

九十一人が転出すると、分母となる人口も減る。

ただし、その多くが高齢で死亡リスクの高い層であるため、数年単位では死亡者数の減少効果の方が大きく出る可能性があった。

「試算しなければ分かりません」

長谷川は答えた。

町長は言った。

「試算してくれ」

会議後、大崎は長谷川を廊下へ呼び止めた。

「本当に計算するんですか」

「指示された」

「計算した数字は、一人歩きします」

「計算しなくても、誰かが同じことを考える」

「だから出すんですか」

長谷川は答えられなかった。

その夜、長谷川は自宅の食卓でノートパソコンを開いた。

妻は先に寝ていた。

画面には、町外施設入所者の年齢階級、要介護度、過去の死亡状況が表示されていた。個人を特定できない集計データだった。

長谷川は幾つかの仮定を置いた。

町外施設入所者のうち、住民票を残している九十一人。

平均年齢、八十七・四歳。

過去三年間の年間死亡割合。

転出による人口減少。

予測される死亡者数の変化。

計算上、九十一人全員が住民票を施設所在地へ移した場合、潮見町の粗死亡率は、翌年度にはわずかに上昇する可能性があった。

人口が先に減り、死亡者数の減少が遅れて表れるためだった。

しかし三年間で見ると、死亡率は低下する。

県内順位は、四十七位から四十一位程度まで改善する可能性がある。

長谷川は表を見つめた。

人の健康状態は、一人も変わっていない。

医療も改善していない。

介護予防も進んでいない。

それでも順位は六つ上がる。

長谷川はファイル名を付けた。

「参考試算」

保存した後、別の名前に変更した。

「町外施設入所者住所異動影響分析」

さらに変更した。

「高齢者人口動態に関する内部資料」

どの名称にしても、内容は同じだった。

翌週、町長室で試算を説明した。

町長は最後まで黙って聞いた。

「強制的に住所を移すことはできません」

長谷川は最初に念を押した。

「住民票は生活の本拠へ置くのが原則ですが、個々の事情を確認する必要があります。死亡率改善だけを目的に住所異動を促すことは適切ではありません」

「誰が強制と言った」

町長は答えた。

「生活実態に合わせて、正しい住所へ移してもらう。それだけだ」

「結果として死亡率が下がる可能性があります」

「それは副次的効果だ」

「副次的効果を目的に始めれば、順序が逆です」

副町長が口を挟んだ。

「住民票と居住実態の一致は、行政として当然のことだろう」

「原則としてはそうです」

「ならば、実態調査をして、必要な案内を行う。何も問題はない」

大崎は会議へ呼ばれていなかった。

健康福祉課長は、資料を見ながら黙っていた。

町長は言った。

「施策名を考えてくれ。高齢者の住所を移す事業だと受け取られない名称がいい」

長谷川は胸の奥が冷えるのを感じた。

数日後、事業名が決まった。

「高齢者生活拠点確認支援事業」

目的は、

「高齢者の生活実態と行政登録情報を適正化し、円滑な福祉サービス提供を図る」

とされた。

死亡率という言葉は、どこにも書かれなかった。

事業の対象は、町外の医療機関や介護施設へ長期入院・入所している町民だった。

家族へ案内文を送り、生活の本拠を確認する。

住民票の異動が必要と考えられる場合には、手続きを案内する。

法的には、特別なことをしているわけではない。

虚偽の説明もない。

不利益を示して脅すわけでもない。

ただ、案内文には次の一文が加えられた。

「現在の生活拠点と住民登録地が異なる場合、各種行政サービスの適正な提供のため、住所異動をご検討ください」

最初の月に、十二人が転出した。

翌月、九人。

その次の月、十五人。

家族からの問い合わせはあったが、大きな反発はなかった。

「施設に住んでいるのだから、住所も移した方がいいと思っていた」

「郵便物が二か所に届いて困っていた」

「本人はもう潮見町の家へ戻れない」

そう話す家族も多かった。

一方で、住所を移さない家族もいた。

「本人は潮見町へ帰りたがっている」

「家を処分していない」

「先祖代々の住所を変えたくない」

「亡くなるまでは町民でいさせたい」

役場は強制しなかった。

案内するだけだった。

それでも、半年で四十八人が潮見町から転出した。

町の人口は減った。

月次人口表には、通常より多い転出者数が並んだ。

しかし翌年、死亡者数は減少した。

前年百六十二人。

当年百四十七人。

死亡率は二十・八から十九・四へ下がった。

県内順位は四十七位から四十三位へ上昇した。

町長は議会で報告した。

「健康増進、重症化予防、医療・介護連携など、総合的な取り組みにより、本町の死亡率は改善傾向にあります」

嘘ではなかった。

健康教室も増やした。

健診受診率も少し上がった。

見守り事業も始めた。

死亡率の改善が、どの施策によるものかは特定できない。

町長は、住所異動について触れなかった。

県からは評価された。

「短期間で明確な改善が見られる」

「部局横断の取り組みが有効に機能している」

「他自治体の参考となる」

潮見町は、県主催の事例発表会で報告することになった。

発表資料を作ったのは長谷川だった。

表紙には、

「データに基づく健康長寿のまちづくり」

と書いた。

死亡率の折れ線グラフ。

健診受診率の棒グラフ。

保健指導件数。

介護予防教室参加者数。

救急連携会議の開催回数。

グラフはすべて事実だった。

ただし、町外施設入所者の転出数を示すグラフは入れなかった。

大崎は完成した資料を読み、長谷川へ返した。

「きれいな資料ですね」

「数字を並べただけだ」

「都合のよい数字を」

「嘘は書いていない」

「書いていないことがある」

長谷川は資料を閉じた。

「発表の目的は、健康施策の報告だ」

「死亡率が下がった主な理由を、健康施策だけのように見せるんですか」

「主な理由だと断定していない」

「聞く人はそう受け取ります」

「説明時間は十五分しかない」

大崎は窓の外を見た。

役場前のバス停には、誰もいなかった。

第一便が廃止されてから、朝の時間帯にバスが来ることはなくなっていた。

「数字は便利ですね」

大崎は言った。

「話したくないことを、話さずに済む」

その年の冬、町内で一人暮らしをしていた八十九歳の女性が、隣市の介護施設へ入所した。

名前は、菅原澄江。

潮見町で生まれ、結婚後も町内で暮らしてきた。

夫は十年前に亡くなった。

息子は東京に住んでいた。

足腰が弱り、自宅での生活が難しくなったため、町外施設への入所が決まった。

役場から住所異動の案内が届いた。

息子は、施設所在地へ住民票を移す手続きをした。

その三か月後、菅原澄江は施設で亡くなった。

死亡届は施設所在地の市へ提出された。

潮見町の死亡者数には含まれなかった。

長谷川は、その事実を個別には知らなかった。

しかし、ある日、役場の一階ロビーで、一人の男性に呼び止められた。

五十代後半くらいだった。

「企画財政課の長谷川さんですか」

「はい」

「菅原と申します」

男性は、折り畳んだ広報紙を持っていた。

「母が昨年、町外の施設へ入りました」

長谷川は、すぐに何の話か理解した。

「住所異動の案内についてでしょうか」

「母は亡くなりました」

「それは、ご愁傷さまでございます」

男性は頭を下げなかった。

怒っている様子でもなかった。

ただ、困惑していた。

「母は、どこの町の人として死んだのでしょうか」

長谷川は答えに詰まった。

「住民票のある自治体の住民として、統計上は扱われます」

「統計の話を聞いているんじゃありません」

男性は広報紙を開いた。

町の人口欄を示した。

前月比、人口十二人減。

死亡者十一人。

転出者十六人。

「母は、この死亡者十一人には入っていないんですね」

「住民票を移していた場合は、含まれません」

「でも、母は潮見町の墓に入ります」

「はい」

「家も残っています。近所の人も、母を潮見町の人だと思っています」

「生活の本拠は施設へ移っていましたので、住民登録上は――」

「三か月ですよ」

男性は言った。

「八十九年、潮見町で暮らして、最後の三か月を隣の市で過ごした。だから母は、隣の市で死んだ人になるんですか」

長谷川は、答える言葉を持っていなかった。

男性は広報紙を畳んだ。

「住所を移したのは私です。役場から案内が来て、施設の人にも、その方が手続きしやすいと言われた。誰かに強制されたわけではありません」

「はい」

「でも、母の死亡が潮見町の数字から消えることは、誰も教えてくれなかった」

長谷川は頭を下げた。

「説明が不足していました」

「説明されても、住所は移したと思います」

男性は静かに言った。

「ただ、母が町から二度出ていったように感じるんです。一度目は施設へ入ったとき。二度目は、死亡者の数からも消えたとき」

男性が帰った後、長谷川は人口動態の資料を開いた。

菅原澄江という名前はなかった。

個人情報を扱わない集計資料には、当然、名前は載らない。

前年の転出者数に一人として含まれ、その後は潮見町の統計から消えていた。

生まれたこと。

結婚したこと。

子どもを育てたこと。

夫を看取ったこと。

税金を納めたこと。

町内会の清掃に参加したこと。

選挙で投票したこと。

診療所へ通ったこと。

町営バスに乗ったこと。

それらの記録は、各所に残っているかもしれない。

しかし、死亡という最後の記録だけは、別の自治体に属していた。

その日の夕方、長谷川は大崎の机へ行った。

「菅原澄江さんを知っているか」

大崎はしばらく考えた。

「南浜地区の方ですか」

「たぶん」

「高齢者訪問で、何度か会ったことがあります」

「どんな人だった」

「静かな方でした。若い頃、魚市場の食堂で働いていたそうです。閉校した潮見小学校の給食室も手伝っていたと聞きました」

長谷川は、第1編の人口異動表と、第2編で問題になった町営バスの運行記録を思い出した。

数字に存在しない一人。

誰も乗っていないのに降りていく人々。

潮見町では、記録から外れた者が、別の場所に現れることがあった。

「菅原さんは、町営バスを利用していたか」

「足が悪くなる前は、よく乗っていたと思います」

「どこで降りていた」

「魚市場西口じゃないですか。昔の話ですが」

魚市場西口。

すでに廃止された停留所だった。

長谷川は、その夜、町営バスの古い運行記録を確認した。

江藤正明という運転手が、異常な降車人数を報告した日の記録。

公式記録では、乗車人数と降車人数はゼロに修正されていた。

しかし、修正前の控えが一枚だけ保存されていた。

魚市場西口跡。

見えない降車、二人。

氏名欄はない。

ただ、運転手の手書きで小さく記されていた。

「白い割烹着の女性一名」

長谷川は紙から目を離した。

菅原澄江が施設へ入所したのは、その記録より後だった。

したがって、その女性が菅原本人であるはずはない。

それでも、長谷川には偶然とは思えなかった。

町から失われた人々は、死んだ後に現れるのではない。

数字から居場所を失った時点で、すでに別の町へ降り始めているのかもしれない。

翌年度、潮見町の死亡率はさらに下がった。

十九・四から十七・九。

県内順位は三十六位になった。

町外施設入所者の住所異動は、七十三人に達していた。

県は潮見町を「重点改善自治体の成功例」として表彰した。

町長は記者会見で語った。

「住民一人ひとりの健康を守る地道な取り組みが、成果として表れたものと考えています」

記者から質問が出た。

「具体的に、死亡者数が減った要因は何ですか」

町長は答えた。

「健診、予防、医療、介護、地域の見守りなど、複合的な要因です」

それも嘘ではなかった。

人は一つの理由だけで生き延びたり、亡くなったりするわけではない。

しかし、会見後に作成された新聞記事の見出しは、

「潮見町、健康施策で死亡率大幅改善」

となった。

町長室では、記事のコピーが職員へ配られた。

長谷川の机にも一枚置かれた。

彼は記事を読まず、裏返した。

午後、町長から呼び出された。

「次の段階へ進みたい」

町長は上機嫌だった。

「何でしょうか」

「町内の介護施設整備計画だ」

長谷川は耳を疑った。

「介護施設を整備するんですか」

「高齢者が町外へ出なくても済むようにする。家族の負担も減る。雇用も生まれる」

「それは必要な施策だと思います」

「民間事業者が、百二十床の施設を建設したいと言っている」

長谷川は黙った。

百二十床。

町外からの入所者も受け入れることになる。

多くの高齢者が、潮見町へ住民票を移す可能性がある。

町長は続けた。

「健康長寿の町として、医療と介護を産業にする。これからは高齢者を外へ出すのではなく、受け入れる側になる」

「死亡率は上がります」

長谷川は言った。

町長の笑顔が消えた。

「何だと」

「高齢者人口が増えます。入所者の年齢構成によっては、数年後に死亡者数が大きく増えます」

「施設整備は必要だろう」

「必要です」

「ならば進める」

「死亡率は、県内下位へ戻る可能性があります」

町長は立ち上がり、窓の外を見た。

「それは困る」

「人を受け入れれば、当然です」

「健康長寿の町として施設を誘致するのに、死亡率が悪化したら説明がつかない」

「施設があるから死亡率が上がるのではありません。高齢者が増えるからです」

「県は、そんな事情を考慮してくれるのか」

「注意書きには書かれます」

町長は振り返った。

「注意書きは、誰も読まない」

長谷川は、二年前の会議を思い出した。

同じ言葉だった。

説明しなければ分からない数字は、もう負けている。

町長は尋ねた。

「施設入所者の住民票を、元の自治体へ残してもらうことはできないのか」

「生活の本拠が潮見町なら、潮見町へ置くのが原則です」

「住所地特例は」

「介護保険上の制度であって、人口統計そのものを都合よく操作する制度ではありません」

「方法を考えてくれ」

「何の方法ですか」

「施設は誘致する。雇用も税収も得る。しかし死亡率は上げない」

長谷川は町長を見た。

「それはできません」

「君は、死亡率を下げた」

「下げたのではありません」

長谷川は初めて、はっきりと言った。

「死亡する場所を、町の外へ移しただけです」

町長室が静かになった。

町長はゆっくり椅子へ座った。

「その言い方は聞き捨てならないな」

「人を長生きさせた結果ではありません。高齢者が転出した結果です」

「君が提案した事業だ」

「試算しただけです」

「実施に反対したのか」

長谷川は答えられなかった。

強く反対したとは言えない。

資料を作った。

事業名を考えた。

案内文を作成した。

実績を集計した。

県への報告書を書いた。

事例発表を行った。

新聞記事を訂正しなかった。

長谷川は、町の死亡率を下げる仕事をした。

町長は言った。

「今さら、自分だけ正しい側に立つつもりか」

長谷川は何も言えなかった。

その夜、役場を出たのは午後九時を過ぎていた。

庁舎前のバス停に、人が立っていた。

高齢の女性だった。

白い割烹着を着て、布製の買い物袋を持っている。

バスはすでに終わっている。

長谷川は声をかけた。

「バスをお待ちですか」

女性は答えなかった。

「最終便は、もう出ましたよ」

女性は時刻表を見上げた。

廃止された第一便の欄が、薄い灰色で塗りつぶされている。

「どちらへ行かれますか」

長谷川が尋ねると、女性は言った。

「帰るところです」

「ご自宅は」

「潮見町です」

「住所はどちらでしょう」

女性は長谷川を見た。

「住所が分からない人には、帰るところがないのですか」

長谷川は息を止めた。

女性の顔に見覚えはなかった。

それでも、菅原澄江ではないかと思った。

「菅原さんですか」

女性は答えなかった。

遠くから、エンジン音が聞こえた。

廃止されたはずの町営バスが、暗い道路の向こうから近づいてきた。

行先表示には、文字ではなく数字が並んでいた。

二十・八。

十九・四。

十七・九。

潮見町の死亡率だった。

バスは停留所へ止まった。

扉が開いた。

車内には、大勢の高齢者が座っていた。

病衣を着た人。

施設の室内着を着た人。

杖を持つ人。

車椅子の人。

皆、長谷川を見ていた。

運転席には誰もいなかった。

女性は乗ろうとしなかった。

「乗らないんですか」

長谷川は尋ねた。

「これは、降りる人のバスです」

女性は言った。

車内で降車ボタンが鳴った。

ポーン。

最前列の男性が立ち上がった。

扉から降りる。

男性の足が地面へ着いた瞬間、バスの行先表示が変わった。

十七・八。

次の女性が降りた。

十七・七。

一人降りるたび、死亡率が下がっていく。

十七・六。

十七・五。

十七・四。

長谷川は表示を見つめた。

「この人たちは、どこへ行くんですか」

白い割烹着の女性が答えた。

「数字に入らない場所です」

「そんな場所はありません」

「あなたが作りました」

高齢者たちは、次々にバスを降りた。

役場の敷地へ入る者。

海へ向かう者。

閉校した小学校の方角へ歩く者。

廃止された魚市場へ向かう者。

姿は一人ずつ、街灯の届かない場所で消えていった。

バスの行先表示は、ついにゼロになった。

死亡率、〇・〇。

町では誰も死なない数字だった。

車内には、誰も残っていなかった。

女性が長谷川へ言った。

「これで、よい町になりましたか」

長谷川は答えられなかった。

バスの扉が閉じた。

車両は音もなく走り去った。

女性もいなくなっていた。

翌朝、長谷川は役場へ早く出勤した。

人口統計のシステムを開いた。

潮見町の前年度死亡者数は、〇人になっていた。

粗死亡率、〇・〇。

県内順位、一位。

長谷川は画面を閉じ、再び開いた。

数字は変わらない。

住民課へ電話をかけた。

「死亡者数のデータがおかしい」

担当者は確認した。

「こちらでは百三十八人です」

「企画財政課の集計ではゼロになっている」

「システム障害では」

情報管理担当が調査した。

元データには百三十八人の死亡記録がある。

氏名も、住所も、死亡日も登録されている。

しかし、統計集計を行うと〇人になる。

死亡者は存在する。

死亡者数だけが存在しない。

長谷川は、第1編で退職した村瀬修一の古い引き出しを思い出した。

村瀬が使っていた机は、現在、空席になっていた。

人員削減で後任が配置されず、書類保管用として使われている。

長谷川は引き出しを開けた。

最下段に、一枚の紙があった。

地区、未定。

年齢、未定。

住所、空欄。

人数、一。

その下に、別の文字が加えられていた。

死亡者数、未定。

人数、百三十八。

誰が書いたのか分からない。

長谷川は紙を持ち、健康福祉課へ行った。

大崎は紙を読んだ。

「この人たちを、統計へ戻せますか」

長谷川は尋ねた。

「亡くなった人をですか」

「数字から消えた人を」

大崎は紙を机へ置いた。

「戻したら、死亡率は上がります」

「分かっています」

「県内順位も下がります」

「分かっています」

「町長は認めません」

長谷川は言った。

「認めてもらう必要はない」

二人は、統計システムの設定、抽出条件、集計区分を一つずつ確認した。

異常は見つからない。

百三十八人の死亡記録には、共通点があった。

全員、死亡時点では潮見町に住民票があった。

当然のことだった。

しかし、住所欄を過去へさかのぼると、そのうち四十一人は一度、町外施設へ転出し、その後、潮見町へ戻っていた。

帰宅した者は少ない。

施設を変えた際、家族の意向で住民票だけを潮見町へ戻した者。

自宅へ戻る予定があるとして住所を戻した者。

町外で暮らしながら、再び潮見町民になった者。

人の居場所と住所は、何度もずれていた。

長谷川は一人ずつ、死亡記録を印刷した。

個人情報を扱うため、閲覧権限を取り、施錠された会議室で確認した。

百三十八枚。

氏名。

生年月日。

住所。

死亡日。

紙として並べると、百三十八人は確かに存在した。

長谷川と大崎は、死亡者を地区別に分けた。

南浜。

中央。

青葉。

山根。

松ヶ浜。

霧生。

集計すると百三十八人になった。

年齢別に分けても、死因別に分けても百三十八人。

しかし、統計システムへ入力すると〇人になる。

大崎が言った。

「システムが、死亡者を数えたくないんでしょうか」

「機械に意思はない」

「町にはあります」

「町の意思が、機械に移ったとでも言うのか」

「死亡率を下げたいと、何年も数字を直し続けた」

大崎は百三十八枚の紙を見た。

「町にとって、この人たちは邪魔な数字になったんです」

長谷川は町長室へ向かった。

町長に事情を説明した。

町長は驚くより先に、尋ねた。

「県への報告前か」

「はい」

「ならば、復旧するまで前年値を使えばいい」

「前年の数値ではありません。死亡者数がゼロになっています」

「ゼロのまま出すわけではない」

「問題は報告値ではありません」

長谷川は紙の束を机へ置いた。

「この百三十八人が、町の統計から消えています」

「元データにはいるんだろう」

「います」

「ならば、消えていない」

「町の死亡者として数えられません」

町長は苛立った表情を見せた。

「統計システムの障害だ。業者に直させれば済む」

「それだけではありません」

「何だ」

「私たちが、消えるようにしたんです」

町長は長谷川を見た。

「また、その話か」

「死亡率を下げるため、死亡しそうな人が町外へ移る仕組みを作った。転出を促し、成果として報告した。町外の人を受け入れる施設には、死亡率が上がるから困ると言った」

「行政運営では、複数の指標を考慮する必要がある」

「人を指標の外へ動かした」

「本人と家族が決めたことだ」

「決める方向を、町が作った」

町長は立ち上がった。

「君は何を求めている」

「事実を公表します」

「何の事実だ」

「死亡率が下がった理由です。健康施策だけではなく、町外施設入所者の住所異動が影響した可能性を明記します。粗死亡率の限界も説明します」

「町の評価を、自分から下げるのか」

「評価方法が間違っていると伝えます」

「県も国も同じ指標を使っている」

「だから、町から言う必要があります」

町長は長谷川を見つめた。

「君一人の判断でできることではない」

「私一人で始めたことでもありません」

「責任を私に押しつけるつもりか」

「責任を数字へ押しつけるのをやめたいんです」

長谷川は百三十八枚の死亡記録を持ち、町長室を出た。

その日の午後、プロジェクトチームの臨時会議が開かれた。

長谷川は、死亡率改善の要因分析を説明した。

年齢構成。

人口減少。

町外施設入所者の転出。

死亡者数の自然変動。

健診や予防施策。

一つの要因だけでは説明できないこと。

粗死亡率だけで自治体を評価する危険。

そして、死亡率を下げることが行政目標になると、死亡する可能性の高い人を分母から外す誘因が生まれること。

会議室には、町長、副町長、各課長、診療所長、町議会議長がいた。

誰もすぐには発言しなかった。

最初に口を開いたのは、診療所長だった。

「医療の目的は、死亡率を下げることではありません」

町長が顔を上げた。

「人を救うことではないのか」

「救える命を救うことです。しかし、すべての死を失敗として扱えば、高齢者の多い地域は必ず劣った地域になります」

診療所長は続けた。

「九十歳の人が、家族に看取られて穏やかに亡くなる。その死亡は統計上、一件です。四十歳の人が、予防可能な病気で亡くなる。それも一件です。同じ一件ですが、意味は同じではありません」

健康福祉課長が言った。

「町外施設への住所異動案内は、生活実態の適正化という面では必要でした。ただし、死亡率改善の内部試算を前提に始まったことは事実です」

副町長が尋ねた。

「今後、どうする」

長谷川は答えた。

「死亡率を、町の単独目標から外します」

「県への計画は」

「年齢調整値、予防可能な死亡、健診受診率、救急搬送時間、在宅看取りの希望達成など、複数の指標を使います」

「順位は」

「追いません」

町長は苦い顔をした。

「町民に、県内四十七位でも気にするなと言うのか」

「四十七位が何を意味するか説明します」

「説明でイメージは変わらない」

長谷川は言った。

「数字を良く見せるために人を外へ出した町というイメージよりは、ましです」

会議の結論は、その場では出なかった。

しかし翌月、潮見町は県へ提出する改善計画を修正した。

粗死亡率の目標順位を削除した。

代わりに、年齢構成を考慮した分析と、住民の生活の質に関する指標を加えた。

町外施設入所者の住所異動が死亡率へ与えた影響についても、注記を入れた。

県から問い合わせが来た。

「他自治体への影響を考慮し、表現を穏当なものにできないか」

「住所異動が死亡率改善の主因であると断定しないでほしい」

「成功事例として公表済みであるため、整合性を確認したい」

長谷川は、断定を避けながらも、記述を削除しなかった。

県のウェブサイトに掲載された潮見町の事例には、以前のような大きな見出しは付かなかった。

表彰も取り消されなかったが、翌年度から成功事例集に掲載されなくなった。

町長は不満だった。

議会でも批判された。

「せっかく改善した数値を、自ら否定するのか」

「町の評判を落とす行為ではないか」

「担当職員の個人的見解ではないか」

長谷川は、一つずつ説明した。

死亡率は下がった。

それは事実。

健康施策を行った。

それも事実。

住所異動の影響があった。

それも事実。

一つの数字には、複数の事実が重なっている。

都合のよい一つだけを原因として語るべきではない。

議会後、役場へ戻る途中、長谷川は庁舎前のバス停で足を止めた。

白い割烹着の女性が立っていた。

今度は昼間だった。

通行人も、役場職員も、女性の横を通り過ぎた。

誰も気づかない。

長谷川は近づいた。

「菅原さんですか」

女性は、わずかに笑った。

「名前を覚えたのですね」

「あなたは菅原澄江さんですか」

「その名前の人も、私の中にいます」

「ほかにもいるんですか」

「町から出た人。町へ戻った人。住んでいるのに数えられない人。数えられているのに住んでいない人」

第1編で現れた、七千八百三十六人目の男と同じようなことを言った。

「あなたたちは、一人ではない」

「数字では、一人ずつです」

女性は答えた。

「人は、数字になると一人ずつになります。でも、生きている間は、誰も一人だけではありません」

遠くから町営バスが来た。

現在の時刻表にある第三便だった。

バスは停留所へ止まった。

扉が開く。

運転手は江藤ではない若い男性だった。

車内には三人の乗客がいた。

女性は乗らなかった。

「行かないんですか」

長谷川が尋ねた。

「今日は、ここに残ります」

「なぜ」

「町が、死んだ人を数えることにしたからです」

バスは発車した。

女性の姿は、排気の揺らぎの中で薄くなった。

「死亡率は上がりますよ」

長谷川は言った。

女性は笑った。

「人が死ぬ町は、生きていた人がいる町です」

そう言い残し、姿を消した。

翌朝、統計システムの死亡者数は百三十八人へ戻っていた。

死亡率は十七・九から十九・六へ上昇した。

県内順位は四十四位になった。

システム障害の原因は、最後まで特定できなかった。

情報管理担当者は、集計条件の一時的な不整合と報告した。

長谷川は、百三十八人分の死亡記録を正式な手続きに従って廃棄した。

ただし、氏名のない一覧表を一枚だけ残した。

地区別人数。

年齢階級別人数。

死亡場所。

町内。

町外病院。

町外施設。

自宅。

最後の欄に、新しい項目を加えた。

「この町で生きた人」

人数、百三十八。

統計上は不要な項目だった。

同じ年度、潮見町に新しい介護施設が開設された。

町内外から百人を超える高齢者が入所した。

施設で働く職員も増えた。

家族の面会で町を訪れる人も増えた。

町内の弁当店、理美容店、薬局の利用者が増えた。

一方、数年後には死亡者数も増えた。

潮見町の粗死亡率は、再び県内最下位になった。

新聞には、小さな記事が載った。

「潮見町、死亡率県内最高」

町長は記者会見を開いた。

以前なら、順位の理由を弁解したかもしれない。

しかしその日は、準備された原稿を途中で閉じた。

「潮見町には、高齢者が多く暮らしています」

町長は言った。

「町内の介護施設には、他地域から移ってきた方もいます。高齢者が多ければ、亡くなる方も多くなります。死亡率が高いことだけで、健康施策や医療、介護の良し悪しを判断することはできません」

記者が尋ねた。

「死亡率改善の目標は持たないのですか」

町長は少し間を置いた。

「防げる死を減らす努力は続けます。しかし、亡くなる人を町の外へ出すことで、数字を良くするつもりはありません」

長谷川は会見室の後方で、その言葉を聞いていた。

全面的に正しい政策へ変わったわけではない。

行政はこれからも数字を使う。

比較もする。

順位も付ける。

成果を求める。

都合の悪い説明を小さく書きたくなることもある。

それでも、一度、数字の外へ出された人々がいたことを、町は記録に残した。

年度末、長谷川は健康長寿指標改善プロジェクトチームの最終報告書を作成した。

最後のページには、次の文章を書いた。

「死亡率は、地域で亡くなった人の割合を示す指標である。しかし、その数値のみでは、住民がどのように生き、どのように支えられ、どこで最期を迎えたかを示すことはできない。行政は死亡を減らす努力を行う一方、死亡者を成果を損なう数字として扱ってはならない」

町長から、最後の一文を削るよう指示された。

「強すぎる表現だ」

長谷川は削らなかった。

代わりに、その前へ一文を加えた。

「本町が過去に行った施策への反省を含め、」

町長は長い間、修正原稿を見ていた。

最終的には押印した。

報告書は町のウェブサイトへ掲載された。

閲覧数は多くなかった。

新聞にも取り上げられなかった。

県から特別な評価を受けることもなかった。

それでも、資料は残った。

数年後、長谷川は役場を定年退職した。

最後の日、自分の机を整理した。

引き出しの奥から、白い紙が出てきた。

地区、未定。

年齢、未定。

住所、空欄。

人数、一。

死亡者数、百三十八。

その下に、見覚えのない文字が増えていた。

「町の死亡率を下げる仕事 完了」

さらに小さく、続きが書かれていた。

「人を町へ戻す仕事 未完了」

長谷川は紙を折り、上着の内ポケットへ入れた。

役場を出ると、庁舎前のバス停に大勢の人が並んでいた。

通院する高齢者。

施設で働く若い職員。

買い物袋を持つ女性。

学校帰りの子ども。

町外から面会に来た家族。

見える人もいた。

見えない人もいた。

町営バスが到着した。

扉が開く。

乗る人がいる。

降りる人もいる。

運転手は一人ずつ確認しながら、端末へ人数を入力した。

乗車、七人。

降車、四人。

数字は正確だった。

長谷川はバスへ乗らず、歩いて帰ることにした。

町を歩けば、自分がどこの人口に入っているかを、少しだけ確かめられるような気がした。

海から風が吹いてきた。

閉校した小学校の方角から、子どもたちの声が聞こえた。

廃止された魚市場の前には、白い割烹着の女性が立っていた。

女性は長谷川へ頭を下げた。

長谷川も頭を下げた。

翌月、潮見町の人口は三人減った。

出生、一。

転入、四。

死亡、十一。

転出、三。

計算は正確に一致していた。

死亡率は、わずかに上がった。

しかし、その月の人口動態表には、以前にはなかった備考欄が設けられていた。

そこには、こう書かれていた。

「死亡者十一人は、いずれもこの町で生きた人である」

統計としては、何の役にも立たない一文だった。

それでも町は、その一文を消さなかった。

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注記

この物語はフィクションです。

現実の住民基本台帳人口は、住民一人ひとりの記録を積み上げて集計されます。そのため、出生、死亡、転入、転出、訂正などの理由がないまま、人口が自然に一人だけ増えることは通常ありません。

実際に人口数が一致しない場合には、集計時点の違い、届出や処理の遅れ、入力・転記上の誤り、統計の定義の違いなど、何らかの行政上または技術上の理由があります。

本作は、そうした現実の制度を土台にしながら、数字の中に説明できない一人が現れたとしたら、という仮定から生まれた幻想小説です。


九月最初の月曜日、午前八時十三分。

潮見町役場の地域政策課で、村瀬修一は人口異動表を印刷した。

複合機から吐き出された紙には、まだ機械の熱が残っていた。村瀬は用紙の端を指でつまみ、自席へ戻った。

窓の外には、低い雲が海の方角から押し寄せていた。役場の駐車場では、塩気を含んだ風が二本の町旗を力なく揺らしている。

人口異動表は、毎月最初の開庁日に確認する。

前月末人口、出生、死亡、転入、転出、その他増減。数字を順番に追い、合計が一致していることを確かめる。村瀬にとっては三十年以上続けてきた習慣だった。

人口の減少は、もはや珍しいことではない。

潮見町では、毎月五人、十人、多い月には二十人近く人口が減った。出生が一人か二人である一方、死亡は十人を超える。転入者があっても、それ以上に転出者が出る。

昔は人口の増減に一喜一憂した時期もあったが、今では減ること自体よりも、どの程度の速さで減っているかを確認する作業になっていた。

村瀬は表の上段から数字を指でなぞった。

前月末人口、七千八百四十二。

出生、〇。

転入、三。

死亡、四。

転出、六。

その他増減、〇。

計算すれば、月末人口は七千八百三十五になる。

ところが、表の最下段には七千八百三十六と記されていた。

村瀬は指を止めた。

もう一度、計算した。

七千八百四十二に三を足し、四を引き、六を引く。

七千八百三十五。

印刷された月末人口は、七千八百三十六。

一人多い。

村瀬は卓上の計算機を引き寄せた。わざわざ使うほどの計算ではなかったが、念のため数字を入力した。

結果は同じだった。

七千八百三十五。

「また転記か」

独り言を言い、村瀬は庁内システムへログインした。

人口統計の画面を開く。処理日、異動区分、年齢、性別、地区。前月に行われた登録処理を一件ずつ確認した。

出生はない。

転入が三人。

死亡が四人。

転出が六人。

職権記載なし。

職権消除なし。

国籍取得、国籍喪失、帰化、国外からの転入、国外への転出、いずれにも該当者はいなかった。

一覧の最下部には、確かに月末人口七千八百三十六と表示されている。

村瀬は画面を閉じ、もう一度開いた。

数字は変わらなかった。

午前八時三十分になると、庁内放送が流れた。

「おはようございます。本日も住民の皆さまに丁寧で分かりやすい対応を心がけてください」

いつもと同じ声だった。

職員たちが次々に出勤し、椅子を引く音や書類を置く音が課内に広がった。電話が鳴り始め、窓口には最初の来庁者が現れた。

村瀬は表を裏返し、机の右端へ置いた。

入力上の問題だろうと思った。

人口統計の不一致など、過去にもなかったわけではない。異動日と届出日の混同、処理区分の誤選択、月末締め後の訂正、集計プログラムの反映遅れ。

一人という差は、むしろ事務上よくありそうな大きさだった。

問題なのは、原因がすぐに見つからなかったことだけである。

午前十時を過ぎた頃、村瀬は住民課へ内線をかけた。

「地域政策課の村瀬です。先月末の人口について、少し確認したいことがありまして」

電話に出たのは、住民記録担当の早坂だった。

早坂は三十代半ばで、異動処理に慎重な職員だった。

「人口ですか」

「異動数から計算すると、一人合わないんです」

「一人多いんですか、少ないんですか」

「多いです」

受話器の向こうでキーボードを打つ音がした。

「少々お待ちください」

村瀬は窓の外を見た。

午前の雲は薄くなり、国道沿いの海が細い銀色の線になって見えた。

「村瀬さん」

「はい」

「こちらの締めでは合っています。前月末七千八百四十二、月末七千八百三十六です」

「異動を足し引きすると七千八百三十五になりませんか」

「なりますね」

早坂の声が少し低くなった。

「その他増減は」

「ゼロです」

「訂正処理も」

「見当たりません」

再びキーボードの音が続いた。

「こちらで調べます。システム担当にも確認してみます」

「お願いします」

電話を切ると、村瀬は人口異動表を表に返した。

七千八百三十六。

印刷された数字を見ても、特に異常な感じはしなかった。一人多いと言っても、町の人口全体から見れば約〇・〇一パーセントにすぎない。

町民のほとんどは気づかない。

町長も、議員も、新聞記者も気づかないだろう。

人口減少対策の会議で資料を配っても、七千八百三十五と七千八百三十六の違いを問題にする者はいない。

人口は減っている。

その事実に変わりはなかった。

しかし村瀬には、一人という数字が小さいとは思えなかった。

一人は、一人である。

出生届一件。

死亡届一件。

転入届一件。

転出届一件。

役場では、一人の増減が一枚の書類として現れる。その紙には氏名があり、生年月日があり、住所がある。

一人が増えたなら、誰かがいるはずだった。

昼休み前、早坂から内線が入った。

「原因が分かりません」

「システムの問題ではないんですか」

「集計プログラムも確認してもらいました。個人記録の件数が、実際に七千八百三十六件あるそうです」

「では、一人分の記録がある」

「あるはずなんですが」

早坂はそこで言葉を切った。

「住民記録を個別に数えると七千八百三十六件です。ただ、異動履歴を追うと七千八百三十五人にしかならない」

「重複登録は」

「ありません」

「削除漏れは」

「ありません」

「では、どこから一人出てきたんですか」

「それが分からないんです」

早坂は、冗談を言っているような声ではなかった。

午後、住民課と情報管理担当を交えた確認作業が行われた。

会議室の長机に、人口表、異動者一覧、地区別人口表、年齢別人口表が並べられた。

情報管理担当の三谷がノートパソコンを開き、画面を大型モニターへ映した。

「まず、総人口は七千八百三十六です」

三谷は言った。

「これは住民記録データベースに存在する有効なレコード数です。無効化された記録、転出予定、削除済みの記録は除いています」

「男女別は合っていますか」

村瀬が尋ねた。

「男性三千七百二十一、女性四千百十五。合計七千八百三十六です」

「前月との差は」

「男性が三人減、女性が三人減です」

村瀬は手元の異動者一覧を見た。

男性は、転入一、死亡二、転出三。

差し引き四人減るはずだった。

女性は、転入二、死亡二、転出三。

差し引き三人減。

男性が一人多い。

「男性ですか」

「そうなります」

「年齢は」

三谷が画面を切り替えた。

年齢別人口の一覧が表示された。

〇歳から百歳以上まで、男女別の人数が並んでいる。

「全ての年齢階級を合計すると七千八百三十五になります」

三谷は言った。

「総人口と一致しません」

会議室が静かになった。

「年齢が設定されていない記録があるんですか」

早坂が尋ねた。

「検索上はありません。生年月日が空欄の有効レコードもありません」

「地区別では」

地区別人口を合計すると、七千八百三十五だった。

世帯別人口を合計しても、七千八百三十五だった。

外国人住民を含めても、除いても、一人分の説明はつかなかった。

「つまり」

村瀬は言った。

「総人口としては存在する。しかし、年齢にも、地区にも、世帯にも属していない」

三谷は腕を組んだ。

「データベースとしては、あり得ない状態です」

「でも、数字はそうなっている」

「総数の集計だけが壊れている可能性があります」

「個別レコードが七千八百三十六件あると、さっき言いませんでしたか」

「件数上は、そうです」

「その一件を表示できないんですか」

三谷は検索画面を操作した。

有効な全住民記録を一覧へ出力した。

行番号は一から始まり、七千八百三十六で終わっていた。

しかしCSV(Comma-Separated Values・項目をカンマで区切って保存するデータ形式)へ書き出し、表計算ソフトで開くと、データは七千八百三十五行しかなかった。

最終行の下には何もない。

それでも、画面左下には「七千八百三十六件」と表示されていた。

三谷は何度も条件を変えた。

結果は同じだった。

件数は七千八百三十六。

表示される住民は七千八百三十五人。

村瀬は、紙に印刷してみるよう頼んだ。

複合機から大量の用紙が出てきた。

氏名や住所を含むため、印刷物は会議室の中だけで確認し、後で裁断処理することになった。

三人で行数を数えた。

七千八百三十五人。

最後の一人は印刷されなかった。

「システム業者へ連絡します」

三谷は言った。

「データを外部へ持ち出すには手続きが必要ですが、検証用の複製環境を作れば原因は分かると思います」

会議は午後四時過ぎに終わった。

村瀬は自席へ戻り、人口異動表を机の引き出しへしまった。

翌日には原因が分かるだろう。

そう思っていた。

ところが、業者の回答は翌日にも、その次の日にも来なかった。

調査に時間がかかっているのではなく、検証環境では異常が再現しなかったのである。

データを複製すると、人口は七千八百三十五人になる。

役場の本番環境へ戻すと、七千八百三十六人になる。

サーバーを再起動しても変わらない。

集計プログラムを再導入しても変わらない。

一人は、潮見町役場のシステムの中にだけ存在していた。

「無理に直さない方がよいと思います」

金曜日の夕方、三谷は村瀬に言った。

「月末までにもう一度照合します。原因が分からない状態でデータを直接修正する方が危険です」

「国や県へ出す数字はどうするんですか」

「住民記録の件数なら七千八百三十六です」

「異動表なら七千八百三十五です」

「どちらを正とするかは、住民課と協議してください」

三谷は疲れた顔で笑った。

「人口一人で、こんなに時間を使うとは思いませんでした」

村瀬は笑わなかった。

その週の土曜日、村瀬は自宅で朝食を取りながら、町の広報紙を読んでいた。

一面には、防災訓練のお知らせが載っていた。

二面には、町の人口と世帯数が掲載されている。

前月末現在、人口七千八百三十六人。

男三千七百二十一人。

女四千百十五人。

世帯数三千九百八十二世帯。

すでに広報紙の印刷は終わっていた。

人口の一人は、町民へ公表されていた。

妻の由美子が台所から言った。

「また減ったのね」

村瀬は広報紙から顔を上げた。

「何が」

「人口。先月より六人少ない」

「よく見ているな」

「毎月載っているでしょう」

由美子は味噌汁の椀を運びながら、広報紙をのぞき込んだ。

「昔は一万人以上いたのにね」

村瀬は七千八百三十六という数字を見た。

減ったのは本当だった。

しかし、本来なら七人減るはずだったところを、六人しか減っていない。

一人が、町の減少を食い止めている。

「一人違ったら、気になるか」

村瀬は尋ねた。

「何が」

「人口が一人違ったら」

由美子は椅子に座り、少し考えた。

「一人くらいなら、数え間違いじゃないの」

「役場の人口を数え間違えると思うか」

「人がやることなら、間違えることもあるでしょう」

「その一人にとっては、数え間違いでは済まない」

由美子は怪訝そうに村瀬を見た。

「何の話をしているの」

村瀬は「仕事の話だ」とだけ答えた。

翌週、村瀬は人口以外の統計を調べ始めた。

最初は原因を特定するためではなかった。

一人多いという数字が、他の資料に何か影響していないかを確認したかっただけである。

国民健康保険の被保険者数。

介護保険の被保険者数。

選挙人名簿登録者数。

水道契約件数。

ごみ収集量。

学校の児童生徒数。

いずれも住民基本台帳人口とは直接一致しない。年齢条件があり、加入条件があり、世帯単位のものもある。

当然、一人分の差など簡単には見つからなかった。

しかし村瀬は、町営バスの利用実績を見たとき、手を止めた。

潮見町では、高齢者や通院者の移動手段として、一日六便の小型バスを運行している。

前月の利用者数は、千二百四十一人。

運行記録に残る乗車人数を便ごとに合計すると、千二百四十人だった。

一人多い。

村瀬は担当課へ行き、原票を見せてもらった。

運転手は各停留所で乗車人数を記録し、終点で一日の合計を記入する。

日別の合計を足すと千二百四十人。

月次集計表では千二百四十一人。

「単なる集計ミスですね」

担当者は言った。

「表計算の式が一行ずれているんじゃないですか」

式を確認した。

ずれていなかった。

入力された日別合計を再集計すると、なぜか千二百四十一になる。

数値を紙に書き出し、電卓で足すと千二百四十だった。

別の表計算ソフトへ貼り付けても千二百四十。

役場のファイルを元の場所で開いたときだけ、千二百四十一になる。

「人口と同じですね」

村瀬が言うと、担当者は笑った。

「まさか、同じ一人がバスに乗ったんですか」

冗談だった。

しかし村瀬は、その言葉を手帳に書いた。

同じ一人がバスに乗った。

その日の午後、村瀬は水道課を訪ねた。

町全体の使用水量は、前月より十二立方メートル増えていた。

季節変動の範囲だった。

一人分かどうか判断できる数字ではない。

ごみの収集量も調べた。

可燃ごみは前月より二百八十キログラム増えていた。観光客や連休の影響が大きく、一人分を推定することは不可能だった。

スーパーの販売量など、役場が把握できるはずもない。

診療所の受診者情報は個人情報であり、目的外に利用できない。

村瀬は、自分が何をしようとしているのか分からなくなった。

人口表の不一致を調べているだけだったはずだ。

いつの間にか、記録に現れない一人の生活を探している。

九月半ば、台風が町の沖合を通過した。

直撃は免れたが、強い雨が一晩中降った。

翌朝、町内の一部で停電が起こり、役場のシステムも一時的に停止した。

復旧後、人口は七千八百三十五人に戻っていた。

「直りましたよ」

三谷は明るい声で言った。

「停電の影響でキャッシュが消えたのかもしれません」

「原因は分かったんですか」

「完全には分かりません。ただ、現在の数字は異動表と一致しています」

年齢別人口も、地区別人口も、世帯別人口も、全て七千八百三十五人になった。

町営バスの利用者数も千二百四十人へ訂正された。

不可解な一人は消えた。

村瀬は安堵した。

県へ提出する人口報告も、正しい数字で作成できる。

広報紙だけは七千八百三十六人と掲載済みだったが、翌月号で訂正すれば済む。

その日の夕方、村瀬は役場を出た。

雨上がりの空は低く、道路には枯れ葉と小枝が散らばっていた。

庁舎前のバス停に、一人の男が立っていた。

年齢は六十代にも、七十代にも見えた。

薄い灰色の上着を着て、黒い布製の鞄を持っている。

村瀬は男の横を通り過ぎ、駐車場へ向かった。

間もなく町営バスが来た。

バスは停留所の手前で減速したが、止まらずに通過した。

男は手を上げなかった。

運転手も男に気づかなかったようだった。

村瀬は足を止めた。

「乗らないんですか」

男は答えなかった。

雨で濡れた時刻表を見上げている。

「次は一時間後ですよ」

村瀬がもう一度声をかけると、男はようやく顔を向けた。

見覚えのない顔だった。

町内で三十年以上働いていても、全ての町民を知っているわけではない。知らない人がいて当然だった。

「町の方ですか」

村瀬は尋ねた。

男は少し考えてから言った。

「そうだったと思います」

不思議な答えだった。

「住所はどちらですか」

「住所」

男はその言葉を確かめるように繰り返した。

「住所が必要ですか」

「バスに乗るだけなら必要ありませんが」

「人口に入るには必要ですか」

村瀬は男を見た。

台風の後の冷たい風が、濡れた道路を渡ってきた。

「何の話ですか」

「私がどこにいることになっているか、分からなくなりました」

男は黒い鞄を両手で持ち直した。

「家はあるんですか」

「家だったものはあります」

「住民票は」

「昔はありました」

「今は」

男は首を傾げた。

「消したのは、あなたではありませんか」

村瀬の背中に冷たいものが走った。

「私は住民記録を消す仕事はしていません」

「でも、数字から一人を消したでしょう」

村瀬は何も答えられなかった。

男は穏やかな声で続けた。

「私は一人ではありません」

役場の玄関から、職員が数人出てきた。

彼らは村瀬の近くを通ったが、男には目を向けなかった。

「どういう意味ですか」

「町を出た人。施設へ移った人。届けを出さずに暮らしている人。家だけ残して死んだ人。ここに住んでいるのに、別の町に数えられている人。別の町で暮らしているのに、まだここに数えられている人」

男の声は風の音に混じった。

「私たちは、どこにもぴったり入りません」

「あなたは誰なんですか」

「七千八百三十六人目でした」

男はそう言った。

遠くから、海鳴りのような低い音が聞こえた。

村瀬が一歩近づくと、男の輪郭が少し薄く見えた。

雨雲の下で光が変わっただけかもしれない。

「名前を教えてください」

「名前は、それぞれにあります」

「あなたの名前です」

「一人分にまとめられた者に、一つの名前が必要でしょうか」

男は時刻表から目を離した。

「あなたたちは、人数が合えば安心する」

村瀬は反論しようとした。

数字を合わせることは仕事である。

統計が正しくなければ、予算も計画も政策も成り立たない。学校、病院、道路、福祉、公共交通。全ては人数をもとに組み立てられる。

「数字が正しくなければ困るんです」

「正しい数字とは、何ですか」

男は尋ねた。

「一人ずつ数えた数字です」

「数えられなかった人は、一人ではありませんか」

村瀬は答えられなかった。

次のバスが来るまで一時間あるはずだった。

しかし、坂の向こうから小型バスが現れた。

行先表示は消えていた。

車内の照明もついていない。

バスはゆっくり停留所へ近づき、今度は男の前で止まった。

扉が開いた。

運転席に人影はなかった。

男は村瀬へ一礼し、バスへ乗った。

車内には誰もいない。

男が最後部の座席へ座ると、扉が閉まった。

バスは音もなく発車した。

村瀬は道路へ出て、後を追うように数歩歩いた。

バスは交差点を曲がらず、そのまま海へ向かう細い道へ進んだ。

その先は、十年前に廃止された旧道だった。

台風による崖崩れで通行止めになっている。

村瀬が角まで走ったとき、バスの姿はなかった。

翌朝、村瀬は早く役場へ行った。

庁舎には清掃員しかいなかった。

自席のパソコンを起動し、人口統計の画面を開いた。

総人口は七千八百三十五人。

異常はない。

村瀬は前月の人口表を開いた。

七千八百三十六という数字は消え、七千八百三十五に修正されていた。

変更履歴を確認した。

修正者の欄には、村瀬修一と表示されていた。

修正時刻は、昨日の午後六時十二分。

男と話していた時刻だった。

村瀬は画面を閉じた。

机の引き出しから、最初に印刷した人口異動表を取り出した。

紙の最下段には、今も七千八百三十六と印刷されていた。

村瀬は鉛筆を手に取った。

七千八百三十六の「六」に二本の線を引き、「五」と書き直そうとした。

しかし、鉛筆の先は紙の上で止まった。

一人を消せば、数字は合う。

数字が合えば、仕事は終わる。

では、消された一人はどこへ行くのか。

村瀬は別の紙を取り出した。

町内人口の空欄へ、地区名を書いた。

「未定」

年齢欄にも「未定」と書いた。

住所欄には何も書かなかった。

その下に、人数を記入した。

一。

正式な帳票ではなかった。

役場のどの規程にも存在しない数字だった。

村瀬はその紙を机の一番下の引き出しへ入れた。

午前八時三十分、庁内放送が流れた。

「おはようございます。本日も住民の皆さまに丁寧で分かりやすい対応を心がけてください」

窓口が開き、電話が鳴り始めた。

町は昨日までと変わらず動いていた。

正午前、町営バスの担当者から内線が入った。

「村瀬さん、ちょっと妙なことがありまして」

「何ですか」

「昨日の最終便です。乗車人数が一人合わないんです」

村瀬は受話器を握り直した。

「多いんですか」

「いえ」

担当者は言った。

「一人、少ないんです」

村瀬は窓の外を見た。

庁舎前のバス停には、誰もいなかった。

ただ、ベンチの端に黒い布製の鞄が置かれていた。

村瀬は電話を切り、階段を下りた。

外へ出ると、海から風が吹いてきた。

鞄は古く、角が白く擦れていた。持ち手には紙の札が結びつけられている。

札には、鉛筆で一文字だけ書かれていた。

「一」

村瀬が鞄を持ち上げると、見た目よりずっと重かった。

中に何が入っているのかは分からない。

留め金に手をかけたが、開けることはできなかった。

鞄の内側から、紙を一枚ずつめくるような音がした。

一枚。

また一枚。

町から消えていった人々の記録を、誰かが数えているような音だった。

村瀬は鞄を抱え、役場へ戻った。

人口表の数字は、その後、二度と狂わなかった。

潮見町の人口は、毎月、正しく減り続けた。

七千八百二十一人。

七千八百九人。

七千七百九十四人。

全ての数字が、出生、死亡、転入、転出と正確に一致していた。

それでも村瀬は、人口表を印刷するたび、最下段の余白を確認した。

そこには、印刷直後だけ、薄い鉛筆の跡のようなものが浮かぶことがあった。

数字ではなかった。

人の名前のようにも見えた。

しかし、目を近づけると消えてしまった。

定年を迎える前日、村瀬は机を整理した。

一番下の引き出しには、「未定、一人」と書いた紙が残っていた。

黒い鞄は、その日以来、開けていない。

村瀬は紙を処分せず、鞄の中へ入れた。

留め金は、今度は抵抗なく開いた。

中には何もなかった。

底に、小さな鏡が一枚置かれているだけだった。

鏡には村瀬の顔が映っていた。

その下に、細い文字が刻まれていた。

――あなたは、どこの人口に入っていますか。

村瀬は鏡を伏せ、鞄を閉じた。

翌日、町役場を退職した。

その月の人口異動表では、潮見町の人口が一人減っていた。

転出者欄にも、死亡者欄にも、村瀬の名前はなかった。

それでも数字は、正確に一人減っていた。

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