リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

地方移住の罠

全十章を、リベラル文庫で公開しています。 https://sv.ardre.net/book/category/the-pitfalls-of-relocating-to-the-countryside

――その親切は、どこまで受け入れればよかったのか

「自然の中で、家族らしく暮らしたい」

ただ、それだけだった。

都会のマンションを離れ、山あいの集落「谷野地区」へ移り住んだ若草家。

広い家。静かな夜。子どもたちをのびのび育てられる環境。 そこには、家族がもう一度ゆっくり暮らすための、新しい生活が待っているはずだった。

けれど、引っ越したその日から、若草家の暮らしには少しずつ「地域」が入り込んでくる。

温かい味噌汁。 採れたての野菜。 親切な助言。 回覧板。 地域行事への誘い。 防災のための連絡。

その一つひとつに、明確な悪意はない。

だからこそ、断ることができない。


帯文

悪い人は、誰もいなかった。

それでも家族は、ここで暮らせなくなった。

親切、見守り、協力、防災。 正しい言葉が積み重なるほど、 家族の境界は静かに失われていく。

地方移住の「失敗」を描くのではない。 人が共同体にのみ込まれていく過程を描いた、 全十章の社会心理小説。


作品紹介

『地方移住の罠』は、地方を悪者にする物語ではありません。

都会から地方へ移住した若草仁、妻の百合子、長男の翼、幼い娘レナ。 四人の家族が、新しい土地で暮らし始めてから、その土地を離れる決断に至るまでを描いた社会心理小説です。

物語の中で、暴力的な事件や露骨な嫌がらせが突然起こるわけではありません。

最初に届くのは、温かい食事です。 次に伝えられるのは、ごみ出しの決まりです。 その次に求められるのは、地域行事への「顔出し」です。

やがて、地区の連絡グループへの参加、既読や返信、防災訓練への協力、家族の在宅状況や行動の確認へと、共同体の関与は少しずつ深くなっていきます。

どれも、必要だと説明できることばかりです。

ごみ置き場を清潔に保つこと。 地域の清掃に参加すること。 連絡を確認すること。 災害時に住民の無事を確かめること。

一つひとつを切り離して見れば、合理的で、正しく、善意に基づいた仕組みに見えます。

しかし、その「正しさ」が家庭の中まで途切れることなく入り続けたとき、人はどこで休めばよいのでしょうか。

『地方移住の罠』が描くのは、地方の不便さではありません。

交通の不便さでも、買い物の難しさでも、古い住宅の問題でもありません。

本当の主題は、人と人との距離です。


悪意のない圧力

この物語の怖さは、分かりやすい悪人が存在しないことにあります。

若草家を最初に訪れる清水みゆきは、明るく、親切で、地域の事情を丁寧に教えてくれる女性です。

引っ越し当日の食事を用意し、学校やごみ出しについて助言し、地域との間を取り持とうとします。

その行動の多くは、実際に若草家を助けています。

しかし、親切を受け取るたびに、家族の中には目に見えない「借り」が残ります。

何かをもらえば、次は断りにくくなる。 助けてもらえば、協力を求められたときに拒みにくくなる。 事情を教えてもらえば、こちらも事情を話さなければならない気がする。

善意は、ときに命令よりも強い力を持ちます。

命令ならば反発できます。 悪意ならば距離を置けます。

けれど、親切には「嫌だ」と言いにくい。

本作は、その断りにくさが人の自由を少しずつ削っていく過程を、静かな日常の中に描いています。


ごみ袋から、暮らしが見られていく

地方での最初のごみ出し。

それは本来、生活上の小さな作業にすぎません。

しかし谷野地区では、袋の結び方、置き方、出す時間、中身の分け方まで、書かれていない基準が存在します。

百合子が出したごみについて、誰かが何かを感じる。 その感想が別の住民へ伝わる。 さらに、その日のうちに息子の学校まで届いていく。

たかが、ごみ袋。

けれど袋の中には、その家庭が何を食べ、何を買い、どのような生活をしているかが残っています。

ごみを出すことが、生活の一部を共同体へ提出することに変わっていく。

百合子は、正しく捨てることよりも、「間違っていると思われないこと」に神経を使い始めます。

誰も直接監視していないかもしれない。 誰も悪意を持って見ていないかもしれない。

それでも、一度「見られている」と知った暮らしは、以前と同じ暮らしには戻れません。


「協力」という断りにくい言葉

地域の清掃。 連絡グループ。 防災訓練。 安否確認。

若草家に求められることは、いずれも「協力」という言葉で説明されます。

地域で暮らす以上、一定の協力は必要です。

道路や水路を共同で管理し、災害時には互いの安全を確認し、高齢者や子どもを見守る。人口の少ない地域では、行政だけですべてを担うことが難しく、住民同士の支え合いが重要になる場合もあります。

仁も、その必要性を理解しています。

だからこそ、最初は地域に合わせようとします。

少しくらい面倒でも顔を出す。 連絡には返事をする。 決まりには従う。 多少の詮索も、小さな集落では仕方がないと考える。

しかし、「必要な協力」と「従うべき空気」の境界は、いつの間にか曖昧になっていきます。

返信が遅い。 既読がつかない。 行事に来ない。 家族がどこにいるのか分からない。

一つひとつは小さなことです。

ところが共同体の中では、それが「気持ちが見えない」「協力する意思がない」という評価へ変換されていきます。

行動の違いが、人格の評価へ変わる。

そこに、この物語が描く最大の危うさがあります。


監視する人も、また監視されている

物語の中盤では、それまで若草家を地域側から見ていた清水みゆきの生活が描かれます。

彼女は単純な監視者でも、共同体の悪意を代表する人物でもありません。

若草家へ地域の事情を伝え、返事を促し、周囲との間を取り持ってきたみゆき自身もまた、家庭と地域の中で役割を求められています。

義父の言葉を受け、住民の反応を読み、誰かが不満を持つ前に動く。

みゆきは地域の圧力を生み出す側であると同時に、その圧力の中で生きている一人でもあります。

誰か一人を排除すれば解決する問題ではない。

地域の全員が少しずつ周囲を気にし、少しずつ他人に合わせ、少しずつ次の人にも同じことを求める。

その連鎖によって、仕組みは維持されます。

だから、この物語には分かりやすい加害者がいません。

いるのは、役割を果たしている人々だけです。


全十章構成

第一章 最初が肝心

若草家が谷野地区へ到着した日。

広い家と静かな環境に安堵する仁の前に、地域の住民たちが次々と現れます。

温かい食事や野菜とともに持ち込まれる、回覧板、家族への質問、地域の予定。

歓迎されているはずなのに、百合子は、自分たちが家に入るより先に共同体の名簿へ入れられたような違和感を覚えます。


第二章 ゴミ袋は履歴書

最初のごみ出しで百合子を待っていたのは、自治体の規則だけではありませんでした。

「周りに合わせる」という、書かれていない基準。

出した袋への評価は住民の間を回り、その日のうちに翼の学校へ届きます。

家族の日常が、地域の話題へ変わり始めます。


第三章 顔出し

早朝の溝さらい。

作業への参加そのものより重要なのは、「最初だから顔を出す」ということでした。

地域活動は労働であると同時に、住民としての姿勢を示す場でもあります。

仁は、作業を終えても消えない別の疲労を感じ始めます。


第四章 既読つけろ

地区連絡用のメッセージグループへ招待された若草家。

防災や行事変更の連絡には便利な仕組みですが、通知は時間を選びません。

投稿を読んだか。 返事をしたか。 どのような言葉で返したか。

スマートフォンの画面を通じて、地域が家庭の中へ常時接続されていきます。


第五章 借り

味噌、野菜、料理、生活上の助言。

みゆきから差し出される親切は、百合子の負担を実際に軽くしてくれます。

しかし、受け取るたびに積み重なるのは感謝だけではありません。

返さなければならないという感覚。 断ってはいけないという感覚。 協力を求められたとき、拒否できないという感覚。

親切と支配の境界が揺らぎ始めます。


第六章 安否確認

地区の防災訓練として行われる、メッセージによる安否確認。

家族の在宅人数、外出者、避難の可否などを決められた形式で報告し、返事が遅ければ個別確認が行われます。

防災の必要性を理解しながらも、若草家は、家庭の状況を常に説明させられることへの違和感を深めていきます。


第七章 みゆきの握りこぶし

物語は、清水みゆきの側へ視点を移します。

若草家へ地域のルールを伝えてきた彼女自身もまた、義父や周囲の期待から自由ではありません。

「見ておいてやれ」 「間に入れ」 「最初が肝心だ」

人を監視する役割を担う者も、別の誰かに監視されている。

共同体を支えているのは、強い支配者ではなく、役割から降りられない人々なのかもしれません。


第八章 気持ちが見えない

露骨な排除はありません。

挨拶が少し短くなる。 目が合う時間が少し減る。 会話がそこで終わる。

訴えるには小さすぎ、気のせいで済ませるには重すぎる変化。

若草家は、「協力しない家」「気持ちの見えない家」として、静かに位置づけられていきます。


第九章 協力

仁は、地域の代表者と話すことを決めます。

必要な協力はする。 しかし、家庭の中まで踏み込まれることは受け入れられない。 子どもにまで話が伝わる状況は困る。

怒鳴るためではなく、境界線を示すための対話。

けれど、同じ言葉を使っていても、「協力」や「地域」の意味が双方で異なっていることが明らかになっていきます。


第十章 境界

家族は、一つの決断を下します。

それは勝利でも、敗北でもありません。

地域を変えたわけでも、相手を説得したわけでもない。

ただ、自分たちの家庭を守るために、どこに線を引くのかを決めたのです。

本当の移住とは、住所を移すことではない。

その土地の人間関係、役割、価値観の中へ入ることです。

そして、そこから出ることもまた、一つの選択です。


この物語が問いかけるもの

地方移住は、本当に「自然の中で自由に暮らすこと」なのでしょうか。

地域のつながりは、どこまでが支え合いで、どこからが干渉なのでしょうか。

住民同士の見守りは、いつ監視へ変わるのでしょうか。

防災や自治の必要性は、家庭のプライバシーより常に優先されるのでしょうか。

そして、地域に合わせられない人は、本当に協調性のない人なのでしょうか。

本作は、地方と都会のどちらが優れているかを決める物語ではありません。

共同体には、孤立を防ぎ、人を助け、災害時に命を守る力があります。

一方で、その結びつきが強すぎれば、個人や家庭が距離を取る自由を失うこともあります。

必要なのは、つながりを否定することではなく、つながりから一時的に離れる権利を認めることなのかもしれません。


こんな方におすすめします

地方移住や田舎暮らしに関心がある方。

自治会、町内会、地域活動に違和感を抱いた経験のある方。

人間関係の中で、頼まれたことを断れずに疲れてしまう方。

「善意なのだから受け入れるべきだ」と言われることに、息苦しさを感じたことのある方。

地域社会、同調圧力、監視、プライバシー、家族の境界について考えたい方。

大きな事件ではなく、日常の小さな違和感が積み重なる心理小説を読みたい方。


著者・九条レオンから読者へ

地方には、都会にはない温かさがあります。

人が人を知り、困っている家へ食べ物を届け、災害時には互いの無事を確かめる。

その関係によって救われる人は、確かにいます。

しかし、温かさと近さは、同じものではありません。

人には、助けてもらう権利と同時に、助けを断る権利があります。

共同体に参加する自由と同時に、家庭へ戻り、扉を閉じる自由があります。

『地方移住の罠』は、地方移住を否定するための物語ではありません。

移住する前に、家の価格や自然環境だけではなく、人間関係の距離、地域活動の実態、連絡方法、家庭のプライバシーがどのように扱われているのかを知ってほしい。

そして、どこで暮らすとしても、自分と家族の境界を守ることは、わがままではないと伝えるための物語です。


全十章・無料公開中

九条レオン作 社会心理小説『地方移住の罠』

静かな集落で起きた、静かすぎる物語。

悪意のない人々がつくる、逃げ場のない空気。 家族はどこまで地域に合わせ、どこから自分たちを守るべきだったのか。

移住先で最初に確認すべきものは、 家の間取りではなく、人と人との距離なのかもしれない。

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地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

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数字で読む町の奇譚 第五編

注記

この物語はフィクションです。

作中に登場する潮見町、自治体、人物、統計制度、行政手続、地図、選挙、郵便、公共サービスなどは、すべて架空のものです。

現実の国勢調査や住民基本台帳では、住民が一日だけ町外へ出たからといって、その自治体の人口が直ちにゼロとして確定することはありません。また、人口統計上の誤りを理由に、町が地図、郵便、予算、選挙制度などから自動的に消えることもありません。

本作は、町は人が住んでいるから存在するのか、それとも制度に記録されるから存在できるのか、という問いを描いた幻想小説です。


十月一日の午前八時、潮見町には誰もいなかった。

役場の正面玄関は閉まっていた。

町立診療所の待合室には、椅子だけが並んでいた。

商店街では、魚屋の冷蔵ケースが低い音を立て、新聞販売店の前には配達されなかった朝刊が束のまま置かれていた。

町営バスの車庫には、小型バスが一台止まっていた。

エンジンは冷えていた。

道路には車がなかった。

歩道にも人影はなかった。

海岸には波が寄せていた。

山では鳥が鳴いていた。

信号機は、誰も見ていない交差点で赤と青を繰り返していた。

家々の中では、炊飯器が保温を続けていた。

洗濯機の中には、脱水を終えた衣類が残されていた。

テレビがついたままの家もあった。

仏壇の線香は消えていたが、湯飲みにはまだ朝の茶が入っていた。

住民は、消えたのではなかった。

町の外へ出ていた。

七千六百二十一人。

住民基本台帳に記録された潮見町民の全員が、その日の午前零時から午後十一時五十九分まで、町の境界線の外側にいた。

理由を知る者はいなかった。

誰かが命令したわけではない。

避難指示も出ていない。

災害予報もなかった。

祭りでも、選挙でも、抗議活動でもない。

それでも、全員が町を出た。

ある者は隣市の大型商業施設へ行った。

ある者は県庁所在地の病院へ行った。

ある者は東京の子どもの家へ行った。

ある者は山を越えた道の駅で一日を過ごした。

町外の介護施設に入所している者もいた。

通勤や通学で、いつもどおり朝早く町を出た者もいた。

普段なら家にいる高齢者も、乳児を連れた母親も、その日は町外にいた。

町内の病院へ入院している者はいなかった。

町内の宿泊施設に泊まっていた観光客も、午前零時前に全員チェックアウトしていた。

留置場もない。

刑務所もない。

住み込みの施設もない。

潮見町という行政区域の中に、人間が一人もいなかった。

ただし、全員が自分の意思で町を出たわけではなかった。

後日、住民たちはそれぞれ違う説明をした。

「朝、なぜか海を見たくなくなった」

「家にいると、時計が進まない気がした」

「町の外へ買い物に行かなければならないと思った」

「夢の中で、今日だけは帰るなと言われた」

「何も考えず、車を走らせていた」

「気づいたら隣町の駅にいた」

説明は一致しなかった。

共通していたのは、その日が終わるまで潮見町へ戻ろうと思わなかったことだった。

町役場の職員も例外ではなかった。

町長の秋元は県庁へ出張していた。

副町長は病院で検査を受けていた。

総務課長は休暇を取り、妻と県外へ出かけていた。

企画財政課の長谷川拓郎は、退職後の手続きで年金事務所へ行っていた。

健康福祉課の大崎美奈は、町外施設で行われる研修に参加していた。

住民課の職員は全員、県主催の合同研修へ出席していた。

町営バスの運転手は、その日だけ一斉健康診断を受けていた。

消防団員も、民生委員も、学校教員も、郵便局員も、商店主も、偶然のように町を離れていた。

役場は無人だった。

防災無線は午前七時に、いつもの音楽を流した。

放送の終わりに、自動音声が言った。

「本日も、安心して暮らせる町づくりにご協力ください」

聞いている者はいなかった。

その日、潮見町では国勢調査の現地確認が行われる予定だった。

五年に一度の調査ではなかった。

前回調査後に人口の不一致が続いたため、県と国の担当者が特別確認に入ることになっていた。

第1編で、潮見町の人口が理由もなく一人増えたこと。

第3編で、死亡者数が一時的にゼロになったこと。

町外施設への住所異動と、実際の居住地が大きくずれていたこと。

空き家台帳と住民記録の不一致。

町営バスの利用者数が、乗車記録と合わなかったこと。

一つひとつは説明可能な事務上の問題として処理された。

しかし、県の担当者は潮見町の統計に、継続的な異常があると判断していた。

午前九時十五分、県の調査車両が町役場へ到着した。

乗っていたのは、県統計課の職員三人と、国から派遣された調査官一人だった。

正面玄関は閉まっている。

インターホンを押しても応答がない。

代表電話へかけても、庁舎内で着信音が鳴るだけだった。

県職員の一人が町長へ連絡した。

町長は県庁の会議室にいた。

「今日は休庁日ではありませんよね」

「違います」

「職員が誰もいません」

「そんなはずはない」

町長は総務課長へ電話をかけた。

つながらない。

副町長。

企画財政課長。

住民課長。

誰も町内にいなかった。

「何が起きているんですか」

県職員が尋ねた。

「こちらが聞きたい」

町長は答えた。

県職員は、役場裏口の緊急用キーボックスを使い、庁舎へ入った。

町の職員が不在の状態で庁内システムを操作することはできない。

しかし、その日は特別確認のため、事前に限定された閲覧権限が付与されていた。

調査官は、住民基本台帳から抽出された人口集計画面を開いた。

総人口、七千六百二十一人。

男性、三千六百四十二人。

女性、三千九百七十九人。

数字は正常だった。

地区別人口も一致している。

年齢別人口も一致している。

世帯数も問題ない。

「システム上は異常ありません」

県職員が言った。

国の調査官は、窓の外を見た。

駐車場には、公用車しかない。

庁舎前の道路にも車が通らない。

「実際には何人いるのでしょう」

調査官は尋ねた。

「町内にですか」

「はい」

県職員は笑った。

「全戸を確認するわけにはいきません」

「今日は現地確認です」

調査官は無表情だった。

「標本地区だけでも訪問しましょう」

四人は、あらかじめ選ばれた調査区へ向かった。

最初は、役場に近い中央地区。

住宅二十七戸。

インターホンを押しても応答はない。

郵便受けには朝刊が入っている。

玄関先に靴がある家もある。

犬が庭で吠えている。

しかし、人はいない。

次は南浜地区。

四十一戸。

不在。

青葉団地。

六十三戸。

不在。

山根地区。

十九戸。

不在。

海岸沿いの集合住宅。

七十八戸。

不在。

観光用の別荘ではなく、住民登録のある世帯を選んで訪問した。

どの家にも生活の痕跡がある。

食器。

洗濯物。

自転車。

園芸用品。

子どもの玩具。

介護用手すり。

玄関先の杖。

それでも、一人もいなかった。

午後一時、町立診療所へ行った。

自動ドアは電源が入っていた。

扉の前に立つと開いた。

受付には誰もいない。

診察室も空。

処置室も空。

診療予定表には、午前の予約患者の名前が並んでいる。

全員、来院していなかった。

調査官は町長へ再び電話をかけた。

「町民はどこにいますか」

町長は県庁から、住民課職員や関係者へ連絡を続けていた。

「町外にいるようです」

「何人が」

「確認できた範囲では、全員です」

「全員」

「住民から問い合わせも来ています。町へ戻れないという相談が」

「道路が封鎖されているのですか」

「封鎖されていません」

「鉄道は」

「通常運行です」

「では、なぜ戻れない」

町長は答えられなかった。

町の境界付近では、不思議なことが起きていた。

午後三時頃、隣市にいた住民の一人が、忘れ物を取りに自宅へ戻ろうとした。

自動車で国道を走り、潮見町の標識を越えた。

その直後、見慣れない交差点に出た。

道を間違えたと思い、カーナビゲーション・システムを確認した。

画面上では、まだ隣市を走っている。

しかし道路脇には、潮見町立小学校跡の校舎が見えた。

少し走ると、再び隣市の大型店舗前へ戻っていた。

別の住民は電車で潮見駅へ向かった。

駅名表示は、潮見駅の一つ手前から、二つ先の駅へ変わった。

列車は止まらず、潮見駅を通過したらしい。

しかし窓の外に駅は見えなかった。

町営バスで戻ろうとした者もいた。

行先表示には「潮見町役場前」と出ている。

バスは定刻どおり発車した。

ところが終点は、隣町の市民体育館前だった。

運転手は、

「潮見町役場前に到着しました」

と案内した。

乗客が違うと指摘すると、運転手は首をかしげた。

「潮見町という町は、この路線にはありません」

地図アプリケーションで潮見町を検索すると、その日の午後から結果が表示されなくなった。

住所を入力しても、

「該当する地点がありません」

と出る。

地図上には海岸線と山だけが描かれ、町の区域が空白になっていた。

道路は存在している。

建物もある。

衛星画像にも家並みが写っている。

それでも、町名だけが消えていた。

県統計課の調査官たちは、町内に残っていた。

外から入ることは難しくなったが、中にいる者は自由に移動できた。

ただし、外へ出ようとすると、町の境界を越えた瞬間に方向感覚を失った。

同じ道を走っているはずなのに、役場前へ戻ってくる。

海岸通りを北へ進んでも、南へ進んでも、最後には町役場の前に出た。

午後四時、国の調査官は役場へ戻った。

人口集計画面を再び開いた。

総人口は七千六百二十一人のままだった。

調査官は、別の画面を開いた。

「常住地確認状況」

住民が通常生活している場所を、調査時点の現地確認によって分類する項目だった。

確認済み、〇人。

不在、七千六百二十一人。

町内滞在、〇人。

調査官は長い間、画面を見ていた。

県職員が言った。

「不在だから人口ゼロになるわけではありません」

「当然です」

「住民票もあります」

「あります」

「なら、問題ありません」

調査官は画面を指した。

「調査時点で、この町に常住している人を一人も確認できない」

「一日だけです」

「一日だけでも、確認結果は結果です」

「国勢調査は一日の外出を居住地変更とは扱いません」

「通常は」

調査官は言った。

「しかし、全員が同時に不在となり、町へ戻れず、地図から町名が消えている状況を、通常の外出と呼べますか」

県職員は答えられなかった。

午後五時三十分。

町長は県庁から緊急会見を行った。

「潮見町が消滅した事実はありません」

記者から質問が相次いだ。

「町民全員が不在というのは事実ですか」

「現時点では、その可能性があります」

「なぜ全員が町外へ出たのですか」

「確認中です」

「町へ戻れないという相談があります」

「道路交通上の問題は確認されていません」

「地図サービスから町名が消えています」

「民間サービスの不具合と思われます」

「町内にいる県職員が外へ出られないという情報があります」

「事実関係を確認しています」

「町は存在していますか」

最後の質問に、町長はしばらく答えなかった。

「行政区域として、存在しています」

その言葉は、翌朝の新聞に大きく掲載された。

しかし、その新聞が潮見町へ届くことはなかった。

午後六時、役場の統計システムに警告が表示された。

「居住実態未確認」

続いて、

「人口集計再判定を実行しますか」

という画面が現れた。

調査官は実行しなかった。

画面を閉じる。

しかし数分後、再び表示された。

今度は、選択肢が変わっていた。

「実行」

一つしかない。

調査官は電源を切った。

庁舎内の照明が一瞬消えた。

非常灯がついた。

数秒後、システムは自動的に再起動した。

人口集計画面が開く。

総人口、〇人。

男性、〇人。

女性、〇人。

世帯数、〇世帯。

地区別人口もすべて〇。

高齢化率、算出不能。

出生数、〇。

死亡数、〇。

転入数、〇。

転出数、〇。

町の人口はゼロになった。

「元データは」

県職員が住民個票を検索した。

七千六百二十一人の記録は残っている。

氏名も住所も生年月日もある。

しかし、すべての記録に同じ注記が付いていた。

「所在自治体未確定」

住所欄には、潮見町南浜三丁目、潮見町中央一丁目など、従来の住所が表示されている。

自治体コード欄だけが空白だった。

「住所はあるのに、自治体がない」

県職員が言った。

第1編では、一人だけが年齢にも地区にも世帯にも属さなかった。

この日は、七千六百二十一人全員が、どの自治体にも属さなくなった。

午後七時、潮見町の自治体コードが国の行政情報システムから消えた。

最初に影響が出たのは、郵便だった。

町外の集配局で、潮見町宛ての郵便物がすべてエラーになった。

郵便番号は存在する。

番地も存在する。

しかし宛先自治体が見つからない。

荷物は配達不能として保留された。

次に、金融機関の住所確認システムで潮見町が選択できなくなった。

オンライン手続きで、都道府県の次に潮見町を指定しようとしても、一覧に表示されない。

住民票の写しを申請しようとしても、

「該当する地方公共団体がありません」

と出た。

午後八時、気象情報から潮見町が消えた。

天気予報は、隣市と海上予報に分割された。

潮見町の降水確率も、注意報も、日の出時刻も表示されない。

防災情報システムでは、町域が未指定区域として灰色に塗られた。

午後八時三十分、選挙管理システムから潮見町選挙区が消えた。

町民は選挙人名簿に登録されている。

しかし、投票すべき選挙区がない。

国政選挙。

県議会議員選挙。

町長選挙。

町議会議員選挙。

すべての欄が空白になった。

午後九時、地方交付税の算定画面で潮見町が表示されなくなった。

人口ゼロ。

世帯ゼロ。

道路延長、不明。

学校数、〇。

福祉施設数、〇。

基準財政需要額、算定対象外。

役場の画面上で、翌年度の歳入見込額が次々に消えた。

地方交付税。

国庫支出金。

県支出金。

地方消費税交付金。

人口や自治体コードを基準に配分される金額が、すべて〇円になった。

町の預金口座は残っている。

庁舎も車両も施設もある。

職員も住民も存在する。

それでも、制度の上では予算を受け取る主体がなくなった。

「人口がゼロだから、町が消えるのか」

県職員が言った。

国の調査官は首を横に振った。

「逆かもしれません」

「逆」

「町が消えたから、人口がゼロになった」

「何が違うんです」

「人は残っている。住所も残っている。消えたのは、人ではなく所属先です」

役場の外は暗かった。

海の方角から、町営バスのエンジン音が聞こえた。

運行しているはずはない。

その日は運転手が全員町外にいた。

四人は玄関へ出た。

道路の向こうから、小型バスが近づいてくる。

第2編で廃止された第一便だった。

行先表示には、

「所在自治体未確定」

と出ている。

バスは役場前へ止まった。

扉が開いた。

運転席には、江藤正明が座っていた。

すでに会社を退職しているはずの男だった。

「乗りますか」

江藤は尋ねた。

国の調査官が答えた。

「どこへ行くんです」

「町の外です」

県職員が言った。

「外へ出られないんです」

「今なら出られます」

「どこへ着きますか」

江藤は少し考えた。

「どこにも属していない人が集まる場所です」

車内には大勢の人影があった。

第1編で人口に入れなかった者。

第2編で廃止停留所から降りた者。

第3編で町の死亡者数から外れた者。

第4編で空き家に残された記憶。

見える人も、見えない人もいた。

「町民ですか」

調査官が尋ねた。

江藤は答えた。

「町民だった人です」

「今は」

「町がないので、町民ではありません」

役場庁舎の壁に、「潮見町役場」と書かれている。

看板は残っている。

文字も読める。

それでも、その場所が潮見町だという制度上の証拠は消えていた。

調査官はバスへ乗らなかった。

「町を戻す方法はありますか」

江藤はバックミラーを見た。

「町民を戻せばいい」

「戻れないんです」

「戻りたいと思っていません」

「全員がですか」

「全員ではありません」

「では、誰が」

江藤は役場の二階を指した。

「一人、残っています」

四人は庁舎へ戻った。

全室を確認したはずだった。

会議室。

町長室。

議場。

資料室。

機械室。

書庫。

誰もいなかった。

しかし二階の住民課窓口に、一人の男が座っていた。

六十代か、七十代。

黒い布製の鞄を持っている。

第1編で七千八百三十六人目と名乗った男だった。

男は整理券を持っていた。

番号は「一」。

「いつから、ここに」

調査官が尋ねた。

「最初からです」

「今日は町民全員が町外にいるはずです」

「私は町民ではありません」

「では、なぜ役場に」

「町民になりに来ました」

窓口に職員はいない。

男の前には、住民異動届が置かれていた。

氏名欄、空白。

生年月日、空白。

前住所、空白。

新住所、潮見町。

番地は書かれていない。

「住所がありません」

県職員が言った。

「町があれば、住所は後から決められます」

「町が消えているんです」

「だから、一人必要です」

男は言った。

「人口ゼロの町は、誰の町でもない。誰の町でもない場所には、最初の一人が必要です」

調査官は住民異動届を見た。

「あなたが一人目になる」

「前にも、一人増えたことがあります」

「あなたでしたか」

「私だけではありません」

男は黒い鞄を開けた。

中から、紙が何枚も出てきた。

死亡者の記録。

廃止停留所の時刻表。

空き家台帳。

住民異動届。

選挙人名簿。

学校名簿。

町内会名簿。

診療記録。

税台帳。

すべて、名前の一部が薄く消えている。

「町は、人を一人ずつ記録します」

男は言った。

「しかし、人は一つの記録だけでは町民になりません」

「住民票があれば町民です」

県職員が答えた。

「住民票だけなら、町外に暮らしていても町民です。住民票がなくても、ここで暮らしている人がいます。生まれた町、働いた町、家族を看取った町、墓のある町。どれがその人の町ですか」

調査官は言った。

「制度上は、生活の本拠です」

「今日、誰の生活の本拠もありません」

男は窓の外を見た。

「だから町が消えた」

午後十時。

町外では、住民たちが異変に気づき始めていた。

帰ろうとしなかった人々が、急に不安を覚えた。

自宅の住所を地図で検索できない。

固定電話へかけても、

「現在使われておりません」

という音声が流れる。

自宅の防犯カメラへ接続できない。

電力会社の契約画面から住所が消えている。

子どもの学校名が、学籍情報から消えている。

運転免許証の住所をオンラインで確認すると、町名の部分が空白になっている。

墓地の所在地も検索できない。

町外の施設にいる高齢者は、職員へ尋ねた。

「私はどこの人ですか」

職員は答えられなかった。

若い住民は、家族へ連絡した。

「町へ戻ろう」

最初は道路に迷った。

地図も使えない。

標識から潮見町の文字が消えている。

それでも住民たちは、記憶を頼りに動き始めた。

海のにおい。

山の形。

鉄道のカーブ。

古い煙突。

閉校した小学校の屋根。

町外からは見えないはずのものを目印にした。

東京にいた者は終電へ乗った。

隣市にいた者は歩き出した。

介護施設の入所者は、

「今夜だけ帰りたい」

と家族へ頼んだ。

病院にいた者も、外泊の許可を求めた。

しかし町へ戻るには、町の入口が必要だった。

すべての道路は別の場所へつながっている。

鉄道は潮見駅へ止まらない。

海から船で近づいても、海岸線が霧に覆われる。

午後十時二十分。

役場の防災無線が自動的に起動した。

放送室には誰もいない。

町内に聞く者もほとんどいない。

それでも、音声は町外へも流れた。

スマートフォン。

自動車のラジオ。

駅の放送設備。

病院のテレビ。

商業施設の館内放送。

あらゆる音声機器から、潮見町の防災無線が聞こえた。

「潮見町民の皆さまへお知らせします」

女声の自動音声だった。

「本日の人口は、〇人です」

住民たちは足を止めた。

「町へ戻る方は、ご自身が町民であることを証明してください」

証明。

住民票か。

免許証か。

保険証か。

それらの住所から町名は消えている。

放送は続いた。

「証明に、書類は必要ありません」

「潮見町で覚えていることを、一つ持って帰ってください」

住民たちは考えた。

住所ではない。

番号でもない。

書類でもない。

覚えていること。

閉校した小学校の校歌。

魚市場のにおい。

夏祭りの太鼓。

台風の夜に聞いた防災無線。

町営バスの降車ボタン。

役場前の桜。

診療所の待合室。

海岸の砂。

家の柱に刻んだ身長。

父が毎朝開けた雨戸。

母が使った台所。

亡くなった家族の名前。

誰かが、声に出した。

「潮見小学校の校庭には、大きな銀杏の木があった」

その瞬間、町の境界に一本の道が現れた。

別の者が言った。

「市場の食堂では、朝六時から味噌汁のにおいがした」

もう一本、道が現れた。

「駅前の時計は、いつも三分遅れていた」

線路の先に、潮見駅が現れた。

「南浜の坂から、冬の朝だけ島が見えた」

霧の中に海岸線が現れた。

「第一便の運転手は、誰もいない停留所でも必ず速度を落とした」

町営バスが、町外の道路へ一台ずつ現れた。

「父の家の柱時計は、十時二十三分で止まっていた」

空き家の玄関に灯りがついた。

住民たちは、自分の記憶を口にしながら町へ戻った。

一人。

十人。

百人。

道路、鉄道、バス、徒歩。

午後十時四十五分、最初の住民が町の境界を越えた。

役場の人口集計画面が変わった。

総人口、一人。

地区、未定。

年齢、未定。

住所、未定。

第1編の七千八百三十六人目ではない。

実際の潮見町民だった。

南浜三丁目に住む八十二歳の女性。

町外の娘宅から戻ってきた。

女性は町の入口で、海へ向かって頭を下げた。

「ただいま」

その言葉が記録されたわけではない。

しかし人口画面に、地区と年齢と住所が表示された。

総人口、一人。

女性、八十二歳。

南浜地区。

次の住民が戻った。

総人口、二人。

三人。

十人。

百人。

町は、帰ってきた人の数だけ形を取り戻した。

郵便番号が復活した。

地図に町名が表示された。

気象情報に潮見町が戻った。

選挙区が再設定された。

自治体コードが再び割り当てられた。

午後十一時三十分、人口は六千人を超えた。

まだ町外にいる者もいた。

遠方にいる者。

病院から動けない者。

町外施設で暮らしている者。

帰る意思のない者。

すべての住民が物理的に戻ることはできなかった。

それでも、町は消えなかった。

帰れない者は、電話で記憶を語った。

「潮見町の墓地に夫がいる」

「私はあの町で四十年働いた」

「家は売ったが、町の海を忘れていない」

「住民票は施設へ移したが、自分は潮見町の人間だと思っている」

「もう戻るつもりはない。それでも、町がなくなるのは嫌だ」

その言葉が届くたび、人口集計画面とは別の欄が増えた。

「居住人口」

「登録人口」

「帰属人口」

最後の項目は、制度には存在しなかった。

帰属人口。

その町を自分の町だと考える人の数。

登録人口、七千六百二十一人。

居住人口、六千九百八十二人。

帰属人口、八千四百三十七人。

町外へ転出した元住民。

町内に別荘を持つ人。

町で働くが住んでいない人。

町に墓がある人。

かつて町の学校へ通った人。

帰属人口には、さまざまな人が含まれていた。

統計的には定義できない。

重複もある。

本人の申告だけで増える。

行政指標としては使えない。

それでも、その数字が表示されると、町の輪郭は安定した。

午後十一時五十五分。

役場の住民課にいた黒い鞄の男は、住民異動届を手に取った。

「もう、私が一人目になる必要はありません」

国の調査官が尋ねた。

「あなたは、どこへ行くんです」

「人口の合わない町へ」

「ほかにもあるんですか」

「すべての町にあります」

男は言った。

「数えられる人と、数えられない人。住んでいる人と、帰りたい人。忘れた人と、忘れられた人。その差が一人分になったとき、私は現れます」

黒い鞄を閉じた。

「潮見町は戻ったのですか」

調査官は尋ねた。

「戻ったのではありません」

男は窓口の整理券を置いた。

番号は「一」。

「今日、初めて町になったのです」

男は役場を出た。

庁舎前には町営バスが止まっていた。

運転席には江藤がいる。

男が乗る。

扉が閉まった。

バスの行先表示は空白だった。

車両は海岸方向へ走り、暗闇の中へ消えた。

午後十一時五十九分。

潮見町の人口は七千六百二十一人に戻った。

すべての住民が町内にいたわけではない。

それでも登録人口は元の数字になった。

自治体コード。

郵便番号。

選挙区。

予算。

地図。

気象情報。

公共交通。

すべてが復旧した。

午前零時。

十月二日になった。

町内の時計が一斉に一分進んだ。

翌朝、住民たちは昨日の出来事について話した。

町へ戻れなかったこと。

住所が消えたこと。

地図に町がなかったこと。

防災無線から記憶を持ち帰れと言われたこと。

しかし、ニュースでは大きく扱われなかった。

国も県も、広域情報システムの一時的な障害と説明した。

地図サービス会社は、データ配信上の不具合と発表した。

鉄道会社は、表示機器の誤作動。

郵便事業者は、住所データ照合の障害。

金融機関は、自治体コード更新処理の不備。

それぞれの説明は、技術的には成立していた。

潮見町の住民が全員町外にいたという事実も、公式には確認されなかった。

調査時点で不在だっただけ。

国勢調査上の人口は、通常の居住実態に基づき七千六百二十一人とされた。

町長は記者会見で言った。

「潮見町が一日だけ消えたという事実はありません」

記者から尋ねられた。

「では、昨日、町内には何人いたのですか」

町長は答えた。

「把握していません」

「ゼロだった可能性は」

「人口は七千六百二十一人です」

「登録人口ではなく、実際に町内にいた人数です」

町長は資料を見た。

「一時的な外出状況について、行政が全住民を把握することはできません」

それ以上の質問には答えなかった。

国の調査官は、最終報告書を作成した。

「潮見町特別人口実態確認結果」

報告書には、住民基本台帳人口と実際の居住実態に差があること。

町外施設入所者や長期不在者がいること。

空き家の増加。

人口集計システムに一時的な不整合が生じたこと。

自治体コード連携に障害が発生したこと。

そうした内容が記された。

町内人口が一時ゼロになったとは書かなかった。

根拠を示せないからだった。

しかし、報告書の最後に一文だけ加えた。

「自治体の存在は、行政区域、住民登録、居住実態、住民の帰属意識のいずれか一つだけでは定義できない可能性がある」

上司から削除を求められた。

「統計報告として曖昧だ」

調査官は削除しなかった。

「一日だけ人口ゼロとなった事実を裏付けられない以上、せめて残すべき考察です」

最終的に、その一文は本文から外され、参考意見として別紙に付けられた。

別紙を読む者はほとんどいなかった。

潮見町では、十月一日を休日にしようという話が出た。

「町民帰還の日」

「潮見町再出発の日」

「人口の日」

名称案はいくつも出た。

しかし、公式の記念日にはならなかった。

町が一度消えたことを、行政が認めることになるからだった。

代わりに、住民たちは毎年十月一日の夜、家の外へ小さな灯りを置くようになった。

灯籠でも、ろうそくでも、電灯でもよい。

自分がその家に住んでいることを示す灯り。

町外に暮らす元住民も、同じ日に窓辺へ灯りを置いた。

潮見町へ向けて。

理由を尋ねられると、

「帰る場所を忘れないため」

と答えた。

数年後、潮見町の人口は七千人を下回った。

出生より死亡が多い。

転入より転出が多い。

人口減少は続いた。

町は以前より小さくなった。

学校は統合された。

商店も減った。

町営バスの便数も少なくなった。

それでも、十月一日の夜には、町の内外に多くの灯りがついた。

統計人口より多い数だった。

誰も正確に数えなかった。

数えれば、また一人合わなくなるかもしれない。

ある年、役場の若い職員が、人口統計の画面に見慣れない項目を見つけた。

登録人口。

居住推計人口。

世帯数。

その下に、小さな文字で、

「帰属人口」

とある。

数字は表示されていない。

職員がクリックすると、注意書きが出た。

「この値は集計できません」

「本人が帰る場所と考える町を、行政が一意に定めることはできないためです」

職員は上司に報告した。

システム業者へ問い合わせたが、そのような項目は実装していないという。

削除を試みても消えなかった。

ただし、十月一日にだけ、数字が表示された。

九千二百一人。

登録人口より二千人以上多い。

翌日には、再び空欄へ戻った。

町長は公表しないよう指示した。

根拠がない。

定義がない。

誰を含むか分からない。

統計として使えない。

判断は正しかった。

それでも、若い職員は数字を紙へ書き写し、机の引き出しへしまった。

引き出しの奥には、以前の職員が残した紙があった。

地区、未定。

年齢、未定。

住所、空欄。

人数、一。

死亡者数、百三十八。

その下に、新しい欄が増えている。

「一日だけ住民がゼロになった町」

人口、〇人。

帰属人口、算出不能。

さらに小さな文字で、こう書かれていた。

「町は、人がいなくなった日に消えるのではない」

「誰も帰ろうと思わなくなった日に消える」

若い職員は、その紙を処分しなかった。

窓の外では、町営バスが役場前へ止まった。

乗る人が二人。

降りる人が一人。

運転手は人数を正確に入力した。

バスが発車した後、誰もいない停留所に、黒い布製の鞄が一つ残されていた。

鞄の札には、住所ではなく一文だけ書かれていた。

「帰るところがある人は、まだゼロではない」

海から風が吹いた。

札が揺れた。

役場の人口表示板には、七千人に満たない数字が出ていた。

その下に、一瞬だけ別の数字が浮かんだ。

〇。

次に、一。

そして、数えきれないほどの数字が重なり、白い光になった。

職員が目をこすると、表示は元へ戻っていた。

潮見町人口、六千九百八十七人。

前月比、十一人減。

計算は正確に一致していた。

町は、まだ存在していた。

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注記

この物語はフィクションです。

現実の住民基本台帳人口は、住民一人ひとりの記録を積み上げて集計されます。そのため、出生、死亡、転入、転出、訂正などの理由がないまま、人口が自然に一人だけ増えることは通常ありません。

実際に人口数が一致しない場合には、集計時点の違い、届出や処理の遅れ、入力・転記上の誤り、統計の定義の違いなど、何らかの行政上または技術上の理由があります。

本作は、そうした現実の制度を土台にしながら、数字の中に説明できない一人が現れたとしたら、という仮定から生まれた幻想小説です。


九月最初の月曜日、午前八時十三分。

潮見町役場の地域政策課で、村瀬修一は人口異動表を印刷した。

複合機から吐き出された紙には、まだ機械の熱が残っていた。村瀬は用紙の端を指でつまみ、自席へ戻った。

窓の外には、低い雲が海の方角から押し寄せていた。役場の駐車場では、塩気を含んだ風が二本の町旗を力なく揺らしている。

人口異動表は、毎月最初の開庁日に確認する。

前月末人口、出生、死亡、転入、転出、その他増減。数字を順番に追い、合計が一致していることを確かめる。村瀬にとっては三十年以上続けてきた習慣だった。

人口の減少は、もはや珍しいことではない。

潮見町では、毎月五人、十人、多い月には二十人近く人口が減った。出生が一人か二人である一方、死亡は十人を超える。転入者があっても、それ以上に転出者が出る。

昔は人口の増減に一喜一憂した時期もあったが、今では減ること自体よりも、どの程度の速さで減っているかを確認する作業になっていた。

村瀬は表の上段から数字を指でなぞった。

前月末人口、七千八百四十二。

出生、〇。

転入、三。

死亡、四。

転出、六。

その他増減、〇。

計算すれば、月末人口は七千八百三十五になる。

ところが、表の最下段には七千八百三十六と記されていた。

村瀬は指を止めた。

もう一度、計算した。

七千八百四十二に三を足し、四を引き、六を引く。

七千八百三十五。

印刷された月末人口は、七千八百三十六。

一人多い。

村瀬は卓上の計算機を引き寄せた。わざわざ使うほどの計算ではなかったが、念のため数字を入力した。

結果は同じだった。

七千八百三十五。

「また転記か」

独り言を言い、村瀬は庁内システムへログインした。

人口統計の画面を開く。処理日、異動区分、年齢、性別、地区。前月に行われた登録処理を一件ずつ確認した。

出生はない。

転入が三人。

死亡が四人。

転出が六人。

職権記載なし。

職権消除なし。

国籍取得、国籍喪失、帰化、国外からの転入、国外への転出、いずれにも該当者はいなかった。

一覧の最下部には、確かに月末人口七千八百三十六と表示されている。

村瀬は画面を閉じ、もう一度開いた。

数字は変わらなかった。

午前八時三十分になると、庁内放送が流れた。

「おはようございます。本日も住民の皆さまに丁寧で分かりやすい対応を心がけてください」

いつもと同じ声だった。

職員たちが次々に出勤し、椅子を引く音や書類を置く音が課内に広がった。電話が鳴り始め、窓口には最初の来庁者が現れた。

村瀬は表を裏返し、机の右端へ置いた。

入力上の問題だろうと思った。

人口統計の不一致など、過去にもなかったわけではない。異動日と届出日の混同、処理区分の誤選択、月末締め後の訂正、集計プログラムの反映遅れ。

一人という差は、むしろ事務上よくありそうな大きさだった。

問題なのは、原因がすぐに見つからなかったことだけである。

午前十時を過ぎた頃、村瀬は住民課へ内線をかけた。

「地域政策課の村瀬です。先月末の人口について、少し確認したいことがありまして」

電話に出たのは、住民記録担当の早坂だった。

早坂は三十代半ばで、異動処理に慎重な職員だった。

「人口ですか」

「異動数から計算すると、一人合わないんです」

「一人多いんですか、少ないんですか」

「多いです」

受話器の向こうでキーボードを打つ音がした。

「少々お待ちください」

村瀬は窓の外を見た。

午前の雲は薄くなり、国道沿いの海が細い銀色の線になって見えた。

「村瀬さん」

「はい」

「こちらの締めでは合っています。前月末七千八百四十二、月末七千八百三十六です」

「異動を足し引きすると七千八百三十五になりませんか」

「なりますね」

早坂の声が少し低くなった。

「その他増減は」

「ゼロです」

「訂正処理も」

「見当たりません」

再びキーボードの音が続いた。

「こちらで調べます。システム担当にも確認してみます」

「お願いします」

電話を切ると、村瀬は人口異動表を表に返した。

七千八百三十六。

印刷された数字を見ても、特に異常な感じはしなかった。一人多いと言っても、町の人口全体から見れば約〇・〇一パーセントにすぎない。

町民のほとんどは気づかない。

町長も、議員も、新聞記者も気づかないだろう。

人口減少対策の会議で資料を配っても、七千八百三十五と七千八百三十六の違いを問題にする者はいない。

人口は減っている。

その事実に変わりはなかった。

しかし村瀬には、一人という数字が小さいとは思えなかった。

一人は、一人である。

出生届一件。

死亡届一件。

転入届一件。

転出届一件。

役場では、一人の増減が一枚の書類として現れる。その紙には氏名があり、生年月日があり、住所がある。

一人が増えたなら、誰かがいるはずだった。

昼休み前、早坂から内線が入った。

「原因が分かりません」

「システムの問題ではないんですか」

「集計プログラムも確認してもらいました。個人記録の件数が、実際に七千八百三十六件あるそうです」

「では、一人分の記録がある」

「あるはずなんですが」

早坂はそこで言葉を切った。

「住民記録を個別に数えると七千八百三十六件です。ただ、異動履歴を追うと七千八百三十五人にしかならない」

「重複登録は」

「ありません」

「削除漏れは」

「ありません」

「では、どこから一人出てきたんですか」

「それが分からないんです」

早坂は、冗談を言っているような声ではなかった。

午後、住民課と情報管理担当を交えた確認作業が行われた。

会議室の長机に、人口表、異動者一覧、地区別人口表、年齢別人口表が並べられた。

情報管理担当の三谷がノートパソコンを開き、画面を大型モニターへ映した。

「まず、総人口は七千八百三十六です」

三谷は言った。

「これは住民記録データベースに存在する有効なレコード数です。無効化された記録、転出予定、削除済みの記録は除いています」

「男女別は合っていますか」

村瀬が尋ねた。

「男性三千七百二十一、女性四千百十五。合計七千八百三十六です」

「前月との差は」

「男性が三人減、女性が三人減です」

村瀬は手元の異動者一覧を見た。

男性は、転入一、死亡二、転出三。

差し引き四人減るはずだった。

女性は、転入二、死亡二、転出三。

差し引き三人減。

男性が一人多い。

「男性ですか」

「そうなります」

「年齢は」

三谷が画面を切り替えた。

年齢別人口の一覧が表示された。

〇歳から百歳以上まで、男女別の人数が並んでいる。

「全ての年齢階級を合計すると七千八百三十五になります」

三谷は言った。

「総人口と一致しません」

会議室が静かになった。

「年齢が設定されていない記録があるんですか」

早坂が尋ねた。

「検索上はありません。生年月日が空欄の有効レコードもありません」

「地区別では」

地区別人口を合計すると、七千八百三十五だった。

世帯別人口を合計しても、七千八百三十五だった。

外国人住民を含めても、除いても、一人分の説明はつかなかった。

「つまり」

村瀬は言った。

「総人口としては存在する。しかし、年齢にも、地区にも、世帯にも属していない」

三谷は腕を組んだ。

「データベースとしては、あり得ない状態です」

「でも、数字はそうなっている」

「総数の集計だけが壊れている可能性があります」

「個別レコードが七千八百三十六件あると、さっき言いませんでしたか」

「件数上は、そうです」

「その一件を表示できないんですか」

三谷は検索画面を操作した。

有効な全住民記録を一覧へ出力した。

行番号は一から始まり、七千八百三十六で終わっていた。

しかしCSV(Comma-Separated Values・項目をカンマで区切って保存するデータ形式)へ書き出し、表計算ソフトで開くと、データは七千八百三十五行しかなかった。

最終行の下には何もない。

それでも、画面左下には「七千八百三十六件」と表示されていた。

三谷は何度も条件を変えた。

結果は同じだった。

件数は七千八百三十六。

表示される住民は七千八百三十五人。

村瀬は、紙に印刷してみるよう頼んだ。

複合機から大量の用紙が出てきた。

氏名や住所を含むため、印刷物は会議室の中だけで確認し、後で裁断処理することになった。

三人で行数を数えた。

七千八百三十五人。

最後の一人は印刷されなかった。

「システム業者へ連絡します」

三谷は言った。

「データを外部へ持ち出すには手続きが必要ですが、検証用の複製環境を作れば原因は分かると思います」

会議は午後四時過ぎに終わった。

村瀬は自席へ戻り、人口異動表を机の引き出しへしまった。

翌日には原因が分かるだろう。

そう思っていた。

ところが、業者の回答は翌日にも、その次の日にも来なかった。

調査に時間がかかっているのではなく、検証環境では異常が再現しなかったのである。

データを複製すると、人口は七千八百三十五人になる。

役場の本番環境へ戻すと、七千八百三十六人になる。

サーバーを再起動しても変わらない。

集計プログラムを再導入しても変わらない。

一人は、潮見町役場のシステムの中にだけ存在していた。

「無理に直さない方がよいと思います」

金曜日の夕方、三谷は村瀬に言った。

「月末までにもう一度照合します。原因が分からない状態でデータを直接修正する方が危険です」

「国や県へ出す数字はどうするんですか」

「住民記録の件数なら七千八百三十六です」

「異動表なら七千八百三十五です」

「どちらを正とするかは、住民課と協議してください」

三谷は疲れた顔で笑った。

「人口一人で、こんなに時間を使うとは思いませんでした」

村瀬は笑わなかった。

その週の土曜日、村瀬は自宅で朝食を取りながら、町の広報紙を読んでいた。

一面には、防災訓練のお知らせが載っていた。

二面には、町の人口と世帯数が掲載されている。

前月末現在、人口七千八百三十六人。

男三千七百二十一人。

女四千百十五人。

世帯数三千九百八十二世帯。

すでに広報紙の印刷は終わっていた。

人口の一人は、町民へ公表されていた。

妻の由美子が台所から言った。

「また減ったのね」

村瀬は広報紙から顔を上げた。

「何が」

「人口。先月より六人少ない」

「よく見ているな」

「毎月載っているでしょう」

由美子は味噌汁の椀を運びながら、広報紙をのぞき込んだ。

「昔は一万人以上いたのにね」

村瀬は七千八百三十六という数字を見た。

減ったのは本当だった。

しかし、本来なら七人減るはずだったところを、六人しか減っていない。

一人が、町の減少を食い止めている。

「一人違ったら、気になるか」

村瀬は尋ねた。

「何が」

「人口が一人違ったら」

由美子は椅子に座り、少し考えた。

「一人くらいなら、数え間違いじゃないの」

「役場の人口を数え間違えると思うか」

「人がやることなら、間違えることもあるでしょう」

「その一人にとっては、数え間違いでは済まない」

由美子は怪訝そうに村瀬を見た。

「何の話をしているの」

村瀬は「仕事の話だ」とだけ答えた。

翌週、村瀬は人口以外の統計を調べ始めた。

最初は原因を特定するためではなかった。

一人多いという数字が、他の資料に何か影響していないかを確認したかっただけである。

国民健康保険の被保険者数。

介護保険の被保険者数。

選挙人名簿登録者数。

水道契約件数。

ごみ収集量。

学校の児童生徒数。

いずれも住民基本台帳人口とは直接一致しない。年齢条件があり、加入条件があり、世帯単位のものもある。

当然、一人分の差など簡単には見つからなかった。

しかし村瀬は、町営バスの利用実績を見たとき、手を止めた。

潮見町では、高齢者や通院者の移動手段として、一日六便の小型バスを運行している。

前月の利用者数は、千二百四十一人。

運行記録に残る乗車人数を便ごとに合計すると、千二百四十人だった。

一人多い。

村瀬は担当課へ行き、原票を見せてもらった。

運転手は各停留所で乗車人数を記録し、終点で一日の合計を記入する。

日別の合計を足すと千二百四十人。

月次集計表では千二百四十一人。

「単なる集計ミスですね」

担当者は言った。

「表計算の式が一行ずれているんじゃないですか」

式を確認した。

ずれていなかった。

入力された日別合計を再集計すると、なぜか千二百四十一になる。

数値を紙に書き出し、電卓で足すと千二百四十だった。

別の表計算ソフトへ貼り付けても千二百四十。

役場のファイルを元の場所で開いたときだけ、千二百四十一になる。

「人口と同じですね」

村瀬が言うと、担当者は笑った。

「まさか、同じ一人がバスに乗ったんですか」

冗談だった。

しかし村瀬は、その言葉を手帳に書いた。

同じ一人がバスに乗った。

その日の午後、村瀬は水道課を訪ねた。

町全体の使用水量は、前月より十二立方メートル増えていた。

季節変動の範囲だった。

一人分かどうか判断できる数字ではない。

ごみの収集量も調べた。

可燃ごみは前月より二百八十キログラム増えていた。観光客や連休の影響が大きく、一人分を推定することは不可能だった。

スーパーの販売量など、役場が把握できるはずもない。

診療所の受診者情報は個人情報であり、目的外に利用できない。

村瀬は、自分が何をしようとしているのか分からなくなった。

人口表の不一致を調べているだけだったはずだ。

いつの間にか、記録に現れない一人の生活を探している。

九月半ば、台風が町の沖合を通過した。

直撃は免れたが、強い雨が一晩中降った。

翌朝、町内の一部で停電が起こり、役場のシステムも一時的に停止した。

復旧後、人口は七千八百三十五人に戻っていた。

「直りましたよ」

三谷は明るい声で言った。

「停電の影響でキャッシュが消えたのかもしれません」

「原因は分かったんですか」

「完全には分かりません。ただ、現在の数字は異動表と一致しています」

年齢別人口も、地区別人口も、世帯別人口も、全て七千八百三十五人になった。

町営バスの利用者数も千二百四十人へ訂正された。

不可解な一人は消えた。

村瀬は安堵した。

県へ提出する人口報告も、正しい数字で作成できる。

広報紙だけは七千八百三十六人と掲載済みだったが、翌月号で訂正すれば済む。

その日の夕方、村瀬は役場を出た。

雨上がりの空は低く、道路には枯れ葉と小枝が散らばっていた。

庁舎前のバス停に、一人の男が立っていた。

年齢は六十代にも、七十代にも見えた。

薄い灰色の上着を着て、黒い布製の鞄を持っている。

村瀬は男の横を通り過ぎ、駐車場へ向かった。

間もなく町営バスが来た。

バスは停留所の手前で減速したが、止まらずに通過した。

男は手を上げなかった。

運転手も男に気づかなかったようだった。

村瀬は足を止めた。

「乗らないんですか」

男は答えなかった。

雨で濡れた時刻表を見上げている。

「次は一時間後ですよ」

村瀬がもう一度声をかけると、男はようやく顔を向けた。

見覚えのない顔だった。

町内で三十年以上働いていても、全ての町民を知っているわけではない。知らない人がいて当然だった。

「町の方ですか」

村瀬は尋ねた。

男は少し考えてから言った。

「そうだったと思います」

不思議な答えだった。

「住所はどちらですか」

「住所」

男はその言葉を確かめるように繰り返した。

「住所が必要ですか」

「バスに乗るだけなら必要ありませんが」

「人口に入るには必要ですか」

村瀬は男を見た。

台風の後の冷たい風が、濡れた道路を渡ってきた。

「何の話ですか」

「私がどこにいることになっているか、分からなくなりました」

男は黒い鞄を両手で持ち直した。

「家はあるんですか」

「家だったものはあります」

「住民票は」

「昔はありました」

「今は」

男は首を傾げた。

「消したのは、あなたではありませんか」

村瀬の背中に冷たいものが走った。

「私は住民記録を消す仕事はしていません」

「でも、数字から一人を消したでしょう」

村瀬は何も答えられなかった。

男は穏やかな声で続けた。

「私は一人ではありません」

役場の玄関から、職員が数人出てきた。

彼らは村瀬の近くを通ったが、男には目を向けなかった。

「どういう意味ですか」

「町を出た人。施設へ移った人。届けを出さずに暮らしている人。家だけ残して死んだ人。ここに住んでいるのに、別の町に数えられている人。別の町で暮らしているのに、まだここに数えられている人」

男の声は風の音に混じった。

「私たちは、どこにもぴったり入りません」

「あなたは誰なんですか」

「七千八百三十六人目でした」

男はそう言った。

遠くから、海鳴りのような低い音が聞こえた。

村瀬が一歩近づくと、男の輪郭が少し薄く見えた。

雨雲の下で光が変わっただけかもしれない。

「名前を教えてください」

「名前は、それぞれにあります」

「あなたの名前です」

「一人分にまとめられた者に、一つの名前が必要でしょうか」

男は時刻表から目を離した。

「あなたたちは、人数が合えば安心する」

村瀬は反論しようとした。

数字を合わせることは仕事である。

統計が正しくなければ、予算も計画も政策も成り立たない。学校、病院、道路、福祉、公共交通。全ては人数をもとに組み立てられる。

「数字が正しくなければ困るんです」

「正しい数字とは、何ですか」

男は尋ねた。

「一人ずつ数えた数字です」

「数えられなかった人は、一人ではありませんか」

村瀬は答えられなかった。

次のバスが来るまで一時間あるはずだった。

しかし、坂の向こうから小型バスが現れた。

行先表示は消えていた。

車内の照明もついていない。

バスはゆっくり停留所へ近づき、今度は男の前で止まった。

扉が開いた。

運転席に人影はなかった。

男は村瀬へ一礼し、バスへ乗った。

車内には誰もいない。

男が最後部の座席へ座ると、扉が閉まった。

バスは音もなく発車した。

村瀬は道路へ出て、後を追うように数歩歩いた。

バスは交差点を曲がらず、そのまま海へ向かう細い道へ進んだ。

その先は、十年前に廃止された旧道だった。

台風による崖崩れで通行止めになっている。

村瀬が角まで走ったとき、バスの姿はなかった。

翌朝、村瀬は早く役場へ行った。

庁舎には清掃員しかいなかった。

自席のパソコンを起動し、人口統計の画面を開いた。

総人口は七千八百三十五人。

異常はない。

村瀬は前月の人口表を開いた。

七千八百三十六という数字は消え、七千八百三十五に修正されていた。

変更履歴を確認した。

修正者の欄には、村瀬修一と表示されていた。

修正時刻は、昨日の午後六時十二分。

男と話していた時刻だった。

村瀬は画面を閉じた。

机の引き出しから、最初に印刷した人口異動表を取り出した。

紙の最下段には、今も七千八百三十六と印刷されていた。

村瀬は鉛筆を手に取った。

七千八百三十六の「六」に二本の線を引き、「五」と書き直そうとした。

しかし、鉛筆の先は紙の上で止まった。

一人を消せば、数字は合う。

数字が合えば、仕事は終わる。

では、消された一人はどこへ行くのか。

村瀬は別の紙を取り出した。

町内人口の空欄へ、地区名を書いた。

「未定」

年齢欄にも「未定」と書いた。

住所欄には何も書かなかった。

その下に、人数を記入した。

一。

正式な帳票ではなかった。

役場のどの規程にも存在しない数字だった。

村瀬はその紙を机の一番下の引き出しへ入れた。

午前八時三十分、庁内放送が流れた。

「おはようございます。本日も住民の皆さまに丁寧で分かりやすい対応を心がけてください」

窓口が開き、電話が鳴り始めた。

町は昨日までと変わらず動いていた。

正午前、町営バスの担当者から内線が入った。

「村瀬さん、ちょっと妙なことがありまして」

「何ですか」

「昨日の最終便です。乗車人数が一人合わないんです」

村瀬は受話器を握り直した。

「多いんですか」

「いえ」

担当者は言った。

「一人、少ないんです」

村瀬は窓の外を見た。

庁舎前のバス停には、誰もいなかった。

ただ、ベンチの端に黒い布製の鞄が置かれていた。

村瀬は電話を切り、階段を下りた。

外へ出ると、海から風が吹いてきた。

鞄は古く、角が白く擦れていた。持ち手には紙の札が結びつけられている。

札には、鉛筆で一文字だけ書かれていた。

「一」

村瀬が鞄を持ち上げると、見た目よりずっと重かった。

中に何が入っているのかは分からない。

留め金に手をかけたが、開けることはできなかった。

鞄の内側から、紙を一枚ずつめくるような音がした。

一枚。

また一枚。

町から消えていった人々の記録を、誰かが数えているような音だった。

村瀬は鞄を抱え、役場へ戻った。

人口表の数字は、その後、二度と狂わなかった。

潮見町の人口は、毎月、正しく減り続けた。

七千八百二十一人。

七千八百九人。

七千七百九十四人。

全ての数字が、出生、死亡、転入、転出と正確に一致していた。

それでも村瀬は、人口表を印刷するたび、最下段の余白を確認した。

そこには、印刷直後だけ、薄い鉛筆の跡のようなものが浮かぶことがあった。

数字ではなかった。

人の名前のようにも見えた。

しかし、目を近づけると消えてしまった。

定年を迎える前日、村瀬は机を整理した。

一番下の引き出しには、「未定、一人」と書いた紙が残っていた。

黒い鞄は、その日以来、開けていない。

村瀬は紙を処分せず、鞄の中へ入れた。

留め金は、今度は抵抗なく開いた。

中には何もなかった。

底に、小さな鏡が一枚置かれているだけだった。

鏡には村瀬の顔が映っていた。

その下に、細い文字が刻まれていた。

――あなたは、どこの人口に入っていますか。

村瀬は鏡を伏せ、鞄を閉じた。

翌日、町役場を退職した。

その月の人口異動表では、潮見町の人口が一人減っていた。

転出者欄にも、死亡者欄にも、村瀬の名前はなかった。

それでも数字は、正確に一人減っていた。

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