リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

戦後昭和から現代までの総合誌の変遷~「世界」「中央公論」「改造」「文藝春秋」を比較する

- Posted in 人文・文化論 by

導入~かつて「雑誌」が社会を考える重要な場所だった

 現在、政治や経済、外交、社会問題について知ろうと思えば、新聞だけでなく、テレビ、ニュースサイト、SNS(Social Networking Service・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)、動画配信、専門家のウェブサイト、個人ブログなど無数の入口がある。しかし、戦後日本では事情がかなり異なっていた。政治、経済、外交、思想、文学、科学、社会問題について、専門家や作家、政治家、評論家がまとまった文章を書き、それを一般の読者が読む。その重要な舞台の一つが「総合誌」だった。

 『世界』『中央公論』『改造』『文藝春秋』は、その代表として語られることが多い。ただし、この四誌を単純に「左派」「保守」「知識人向け」「大衆向け」と分類するだけでは、その歴史的役割を十分に理解できない。四誌は誕生した時代も、創刊の目的も、編集方法も、主な読者層も異なっていたからである。

 私自身、若い頃には『世界』『中央公論』『文藝春秋』の三誌を不定期ながら読んでいた。毎号すべてを読むというより、その時々の社会問題や特集、執筆者に関心を持ったときに手に取る読み方だった。同じ政治や社会の問題を扱っていても、問題の立て方や登場する論者、文章の雰囲気はかなり違っていた。しかし現在では、三誌の中で読むことがあるのは主として『文藝春秋』になっている。これはあくまで一人の読者としての経験であり、日本の読者全体を代表するものではないが、総合誌を取り巻く情報環境が大きく変わったことを考える一つの入口にはなる。

 『中央公論』の前身『反省会雑誌』は1887年に創刊され、『改造』は1919年、『文藝春秋』は1923年に創刊された。『世界』は敗戦から約4か月後の1945年12月、1946年1月号として創刊されている。したがって、戦前から四誌が並び立っていたわけではない。戦前の主な比較対象は『中央公論』『改造』『文藝春秋』の三誌であり、敗戦後に『世界』が加わり、1955年に『改造』が刊行を終えるまで約9年間、四誌が併存したのである。

 この違いを踏まえると、四誌を比較することは単なる雑誌の比較ではない。明治以来の教養主義、大正デモクラシー、戦時下の言論統制、敗戦、占領、戦後民主主義、冷戦、高度経済成長、テレビの普及、冷戦終結、そしてインターネット時代まで、日本人が「社会について考える場所」をどこに求めてきたのかをたどることでもある。

1 四誌は、最初から同じ種類の雑誌ではなかった

 『中央公論』は、1887年に京都の西本願寺普通教校内で創刊された『反省会雑誌』を起源とする。その後、『反省雑誌』を経て、1899年に『中央公論』へ改題された。明治以来の言論、教養、文学を横断する伝統を持ち、現在まで刊行されている。

 『改造』は1919年に創刊された。第一次世界大戦後の社会変動、大正デモクラシー、労働問題、社会主義、普通選挙、民主主義などへの関心が高まる時代に登場し、国内外の新しい思想や社会改革論を積極的に紹介した。

 『文藝春秋』は1923年、作家の菊池寛によって創刊された。創刊の出発点には、特定の政治思想を広めること以上に、書き手が編集者や読者に過度に気兼ねせず自由に発言できる場所を作るという発想があった。創刊号には芥川龍之介、川端康成、横光利一らが参加し、3000部が短期間で売り切れたとされる。

 『世界』は三誌とは異なり、敗戦そのものを歴史的背景として生まれた。岩波茂雄は、日本に多くの知識人や文化人が存在していたにもかかわらず、なぜ戦争への流れを止められなかったのかという問題意識を持ち、吉野源三郎を中心に新しい総合誌の創刊を構想した。1945年12月に1946年1月号として創刊された『世界』は、戦後日本の再出発と強く結び付いた雑誌だった。

2 戦前の総合誌を考えるには「言論統制」を外せない

 戦前の総合誌史を、思想の違いや市場競争だけで説明することはできない。1930年代から戦時体制が強化されるにつれて、出版と言論に対する国家の統制も強まり、『改造』や『中央公論』はその影響を直接受けた。

 特に重要なのが横浜事件である。1942年、『改造』に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が問題視され、その後、編集者や執筆者などに対する検挙が拡大した。神奈川県特別高等警察による捜査は改造社や中央公論社などの出版関係者へ広がり、1944年7月には内閣情報局が改造社と中央公論社に対して事実上の廃業を求めるに至った。

 この事実は重要である。戦前の総合誌が衰退した理由を、「読者の関心が変わった」「市場競争に敗れた」といった経済的説明だけに求めることはできない。国家が出版活動そのものを制度的に制約し、批判的な言論空間を縮小させたのである。

 したがって、敗戦後の総合誌の復活は単なる雑誌市場の再開ではなかった。誰が何を発言できるのかという制度そのものが大きく変化する中での再出発だったのである。

3 『中央公論』~特定思想より「議論の広場」を目指してきた雑誌

 『中央公論』の長い歴史を考えると、特定の政治思想だけで性格を固定することは難しい。明治、大正、昭和、平成、令和という異なる社会環境を経験しながら、政治、経済、文学、思想、科学、歴史、教育などを同じ誌面で扱ってきた。

 この編集方式の特徴は、社会問題を一つの専門分野だけでは捉えないという総合的な発想にある。経済政策は経済だけで完結せず、教育、文化、科学、歴史、社会構造とも結び付いている。総合誌は、それらを同じ知的空間へ置くことで、専門分野を超えて社会を考える場所を作ってきた。

 ただし、『中央公論』が常に完全に中立な「広場」だったと考えるのも適切ではない。編集者、時代状況、執筆陣によって論壇上の位置は変化してきた。特に1960年の安保闘争や、同誌に掲載された小説「風流夢譚」をめぐって1961年に発生した嶋中事件などを経て、戦後の『中央公論』も変化している。したがって、「常に中道だった雑誌」とするより、異なる分野と複数の立場を比較的広く収容してきた総合誌と見る方が正確である。

4 『改造』~社会改革と新思想を前面に出した総合誌

 『改造』という誌名は、その編集思想を象徴している。第一次世界大戦後の社会変動、大正デモクラシー、労働問題、社会主義、民主主義などへの関心が高まる中で、社会制度そのものを問い直す姿勢を強く持っていた。

 重要なのは、社会主義、自由主義、民主主義、労働問題、社会改革といった思想が、敗戦後になって突然日本へ入ってきたわけではないという点である。大正から昭和戦前期にも、それらを議論する知的空間は存在し、『改造』はその代表的媒体の一つだった。文学面でも重要な役割を持ち、国内外の思想家や作家を日本の読者へ紹介する場となった。

 しかし、戦争が激化するとその言論空間は国家統制によって狭められた。横浜事件を経て、1944年には改造社自体が活動停止へ追い込まれる。敗戦後の1946年に『改造』は復刊したが、戦前と同じ環境へ戻ったわけではなかった。

 そして1955年2月号を最後に『改造』は刊行を終える。この理由を、高度経済成長や「社会改造」という思想の変化だけから説明することはできない。直接的には編集局員の解雇をめぐる労働争議が発生しており、経営・組織上の問題が刊行終了と深く関係していた。社会思想や出版市場の変化は背景として検討できるが、「社会改造の時代が終わったため『改造』が消えた」という単純な因果関係ではない。

5 『世界』~敗戦の反省から生まれた戦後民主主義の論壇

 四誌の中で、『世界』は最も明確に敗戦という歴史状況から生まれた。戦後、日本社会は政治制度、国際関係、軍事、安全保障、民主主義、人権などについて根本から再検討する必要に迫られた。『世界』の創刊も、その再検討の中に位置付ける必要がある。

 その後、『世界』は平和、民主主義、基本的人権、日本国憲法、安全保障、沖縄、東アジアなどを主要な論点としてきた。そのため「進歩派」「リベラル・左派系」と位置付けられることが多いが、それだけで歴史的役割を説明するのは十分ではない。

 創刊時に存在したのは、単に特定の政党や政治勢力を支持するという問題意識ではなく、日本の知識人や文化がなぜ戦争への流れを止められなかったのかという問いだった。その問題意識から、平和や民主主義をどのように戦後社会へ根付かせるのかという議論が展開された。

 したがって、『世界』を「総合誌から思想誌へ変わった」と断定するより、総合誌として幅広い分野を扱いながら、平和、民主主義、人権などについて比較的明確な価値判断を持つ論壇的性格を強く形成してきた、と理解する方が正確である。

6 『文藝春秋』~思想体系より「人」と「出来事」から社会を見る

 『文藝春秋』の出発点は、『改造』や『世界』とは異なる。菊池寛が重視したのは、まず書き手が自由にものを言える場所を作ることだった。文学者による雑誌として始まったが、その後、政治、社会、歴史、事件、人物論などへ領域を大きく広げていった。

 その違いは編集方法にも表れている。『世界』が平和、安全保障、人権といった「問題」や「理念」を起点に議論を組み立てることが多いとすれば、『文藝春秋』は政治家、官僚、経営者、研究者、作家、文化人など、具体的な人物の証言、回想、対談、座談会、事件などを通して社会を描く傾向が強い。

 この性格を単純に「保守だから」と説明するのは適切ではない。政治的位置とは別に、編集技法そのものが違うのである。抽象的な思想体系を前面に出すだけでなく、人と出来事を通して時代を理解させる方法が、『文藝春秋』の重要な特徴の一つとなった。

 若い頃の私は、『世界』『中央公論』『文藝春秋』の三誌をその時々の関心に応じて読んでいた。しかし現在では、三誌の中で読むことがあるのは主として『文藝春秋』である。その理由を、年齢、政治的立場、関心分野、編集方法などのどれか一つに決めることはできない。ここでは、一人の読者の読書行動も長い時間の中で変化してきた、という事実にとどめておきたい。

7 敗戦直後~自由化されたが、直ちに完全な言論の自由になったわけではない

 1945年の敗戦後、日本では大日本帝国憲法から日本国憲法へ、軍国主義的な政治体制から民主主義的な政治体制へと大きな変化が起きた。「日本とは何か」「民主主義とは何か」「戦争責任とは何か」「新しい国際社会の中で日本はどのように生きるのか」といった根本的な問いが社会に投げ出された。

 この時代、総合誌には現在以上に大きな意味があった。新聞が日々の出来事を伝える一方、数十ページに及ぶ論文や座談会を掲載できる総合誌では、国家制度、外交、文化、思想について時間をかけて議論することができた。現在でいえば、新聞のオピニオン面、政策研究機関、大学の公開講座、討論番組、専門家メディアなどの機能の一部を、一つの媒体が兼ねていたとも考えられる。

 ただし、「戦前の検閲が終わり、敗戦と同時に完全な言論の自由が実現した」と理解するのも正確ではない。占領期にはGHQ(General Headquarters, Supreme Commander for the Allied Powers・連合国軍最高司令官総司令部)のプレス・コードが存在し、新聞、雑誌、書籍などに対する検閲が行われた。

 一方、日本国憲法第21条では、言論、出版その他の表現の自由が保障され、検閲は禁止された。したがって戦後の言論空間は、「戦時統制が消え、直ちに完全な自由が成立した」という一段階の変化ではない。日本政府による戦時統制の崩壊、占領当局による検閲、日本国憲法による表現の自由の制度化という複数の段階を経て形成されたのである。

8 1955年は転換点だが、すべてが一度に変わったわけではない

 1955年は日本政治史で重要な年である。日本社会党が再統一され、自由民主党が結成され、いわゆる「55年体制」が成立した。また、『改造』が刊行を終えたのも同じ年だった。

 しかし、1955年を境に「社会を作る議論」が終わり、「社会を評価する議論」に一気に切り替わったと見るのは単純化しすぎである。1950年代後半から高度経済成長が本格化する一方、1960年の日米安全保障条約改定、1960年代の政治運動、学生運動、公害問題、ベトナム戦争など、社会制度そのものを問い直す議論はその後も続いた。

 したがって、総合誌の役割の変化は1955年の一点で起きたのではなく、1950年代後半から1970年前後にかけて段階的に進んだと考える方が妥当である。その中で、『世界』は平和、憲法、安全保障などを中心とする戦後進歩派・リベラル論壇の重要な拠点となり、『中央公論』は政治、経済、文化、学問を比較的広く扱い、『文藝春秋』は政治、文学、事件、人物などを横断する大規模な総合誌へ発展していった。

9 1960年代~総合誌の政治的位置が可視化された時代

 1960年の日米安全保障条約改定をめぐる社会運動は、戦後論壇にとって大きな出来事だった。安全保障、憲法、米国との関係、社会主義、民主主義などをめぐって、知識人や各雑誌の政治的位置も従来以上に見えやすくなった。

 この時代以降、『世界』『中央公論』『文藝春秋』の読者層にも、一定の政治的・文化的傾向の違いが形成された可能性はある。ただし、「1960年代が総合誌の政治性の最も強い時代だった」と断定するには慎重さが必要である。「最も」という比較を実証するには、年代別の政治関連記事数、記事ページ数、執筆者構成、発行部数、読者属性などを比較する必要があるからである。

 そのため、1960年代については「政治性が最も強かった」とするより、「総合誌の政治的位置がとりわけ可視化された時代」と表現する方が適切である。

10 1970~80年代~「知識人」と専門家の関係が変化する

 戦後初期の総合誌では、大学教授、哲学者、文学者、評論家などが専門分野を越えて社会全体について論じることが比較的自然だった。しかし、高度経済成長とともに社会制度や科学技術が複雑化すると、経済政策であれば経済学者、医療であれば医師や医学研究者、外交であれば国際政治や地域研究の専門家というように、分野ごとの専門知識がより重視されるようになった。

 この変化は、社会全体について語る「万能型知識人」の相対的な地位低下につながった可能性がある。ただし、専門化そのものが知識人の権威低下を直接引き起こしたと証明されているわけではない。大学進学率の上昇、テレビの普及、新聞や出版市場の変化、専門職の増加など、複数の要因を考える必要がある。

 テレビの普及も重要だった。政治家や文化人の発言を知るために、必ずしも長い論文を読む必要はなくなった。しかし、それによって総合誌の価値が完全に失われたわけではない。テレビが速報性や映像性に強みを持つ一方、総合誌は長い文章によって歴史的背景、論理、資料、反論まで含めて問題を検討することができた。総合誌は次第に、「速報を得る媒体」より「時間をかけて考える媒体」としての性格を強めたと見ることができる。

11 1990年代~冷戦終結で単純な左右軸が弱くなる

 1989年から1991年前後にかけて東欧社会主義体制が崩壊し、ソビエト連邦も解体した。これによって、資本主義対社会主義、米国対ソ連、保守対革新という戦後政治を長く規定してきた座標軸の意味は大きく変化した。

 一方、日本国内ではバブル経済崩壊、少子高齢化、グローバル化、情報化、環境問題、社会保障、格差、地方衰退などが前面に出るようになった。これらの問題は、単純な保守対革新という一本の軸では整理しにくい。

 例えば、市場競争を重視する立場でも文化や社会制度については保守的な場合があり、社会保障の充実を支持しながら財政規律も重視する立場も存在する。原子力政策、安全保障、自由貿易などについても、従来の左右分類だけでは説明できない意見の組み合わせが生じる。総合誌も、一つの思想体系だけで社会全体を説明することが難しい時代に入ったのである。

12 インターネットが変えたのは「長文」だけではなく情報への経路だった

 2000年代以降、総合誌を取り巻く環境を最も大きく変えた要因の一つがインターネットである。かつて社会問題を深く知ろうとすれば、新聞、書籍、総合誌などを通じて情報を得ることが中心だった。しかし現在は、検索によって政府資料、統計、学術論文、新聞記事、専門家の解説、海外報道、動画などへ直接到達できる。

 この意味で総合誌が失ったものは、単に「長い文章を読む読者」だけではない。より重要なのは、社会問題について考える際の「入口」として持っていた相対的な力である。以前は一冊の雑誌を開くことで、政治に関心のある読者が文学や科学の記事にも出会うことがあった。現在は、読者自身が特定の情報へ直接アクセスできる。

 ただし、「インターネットによって、人々が関心のない情報に偶然出会わなくなった」と断定することも科学的には適切ではない。ニュース利用に関する研究では、検索エンジンやSNSを利用することで、普段自分では選ばない情報源に接触する「偶発的な情報接触」も確認されている。検索やSNSを使う人の方が、特定のニュースサイトだけを直接訪問する人より多様な情報源へ接触する場合もある。

 したがって、インターネット時代の問題を単純に「情報が狭くなった」と説明することはできない。より重要なのは、同じ新聞や同じ総合誌を多数の人が共有し、その媒体が「今、社会として何を考えるべきか」を提示する構造が弱くなったことである。個人が接触できる情報源は増えても、社会全体が同じ情報や同じ論点を共有するとは限らない。

 私自身の読書習慣でも、若い頃には『世界』『中央公論』『文藝春秋』を不定期に読んでいたのに対し、現在では三誌すべてを読み比べることはなくなった。ただし、これは一人の読者の経験にすぎず、総合誌全体の読者行動を示す統計ではない。それでも、情報を得る経路が雑誌だけではなくなった現在と、総合誌を複数誌手に取っていた時代との違いを考える上では、一つの具体例にはなる。

13 現在の部数から見る総合誌~「存続」と「影響力」は同じではない

 総合誌の変化を考える際には、思想史だけでなく数量を見る必要がある。ただし、雑誌部数には印刷部数、販売部数、実売部数、電子版購読数など異なる指標があり、別々の基準で集計された数字を単純に比較してはいけない。

 日本雑誌協会が公表する印刷証明付き発行部数は、一定期間中に発売された各号についての1号当たり平均印刷部数であり、実際に販売された部数ではない。2026年1月から3月の同一指標では、『文藝春秋』が1号平均23万4667部、『中央公論』が1万7000部となっている。単純に比率を計算すると、『文藝春秋』の印刷規模は『中央公論』のおよそ13.8倍である。

 しかし、ここから「文藝春秋の社会的影響力が中央公論の13.8倍」と結論することはできない。印刷部数と販売部数は異なり、販売部数と実際の読者数も一致しない。図書館や職場で一冊を複数人が読む場合もあり、ウェブ記事や電子版を通じた接触、政治家、研究者、専門家への影響なども紙の印刷部数だけでは測れないからである。

 また、『世界』について同じ条件の部数データが得られない場合には、別基準による数字を並べて三誌を単純比較するべきではない。したがって、部数は総合誌の現在を理解する重要な指標ではあるが、それだけで社会的影響力を測ることはできない。

14 四誌を「右と左」ではなく、四つの編集モデルとして見る

 以上の歴史を踏まえると、四誌の違いは政治的な右派・左派という一本の軸だけではなく、「社会をどのように文章化するか」という編集モデルの違いとして捉えると理解しやすい。

 『改造』は、社会制度を変えるための新しい思想や社会改革論を積極的に提示した雑誌と整理できる。『世界』は、平和、民主主義、人権などの価値基準から社会を検証する性格を強く持つ。『中央公論』は、異なる専門領域と論者を一つの場所へ集める「論壇の広場」に近い性格を持ってきた。『文藝春秋』は、思想体系だけではなく、人物、証言、文学、事件、回想などを通じて時代を描く方法を発達させた。

 もちろん、これは絶対的な分類ではない。四誌にはそれぞれ例外があり、長い歴史の中で編集方針も変化している。しかし、「世界は左、文藝春秋は右」といった一軸の分類より、編集思想と情報提示方法の違いを見る方が、それぞれの特徴をより正確に捉えることができる。

15 なぜ『改造』は消え、三誌は残ったのか

 この問いには、少なくとも三つの階層を分けて考える必要がある。第一は直接的な原因であり、『改造』の1955年の刊行終了には、編集局員の解雇をめぐる労働争議や経営・組織上の事情が深く関係していた。したがって、「55年体制が成立したため『改造』が消えた」と説明することはできない。

 第二は、出版市場と論壇環境の変化である。戦後復興から高度経済成長へ向かうにつれて、読者が必要とする情報も変化し、政治、経済、経営、生活、科学、娯楽など雑誌市場の専門分化が進んだ。複数の雑誌が同じ「総合誌」という市場の中だけで競争する構造も変化していった。

 第三は思想史的な解釈である。社会制度そのものが激しく揺れている時代には、「社会を改造する」という言葉には強い現実性がある。一方、戦後の政治制度がある程度定着し、高度経済成長へ進むにつれて、社会的課題の一部は制度そのものの全面的な作り直しから、既存制度の運営、成長、分配、生活改善へ移っていった。その意味では、「改造」という言葉が持つ時代的な響きが変化したと解釈することは可能である。

 しかし、この思想史的説明を雑誌刊行終了の直接的原因と混同してはいけない。「社会改造という思想が衰退したから『改造』が消えた」のではなく、直接的には経営・組織上の問題があり、その背後の環境として出版市場や社会思想の変化を考えることができる、という順序で理解する必要がある。

16 総合誌の衰退は、言論そのものの衰退ではない

 部数や社会的影響力だけを見れば、紙の総合誌がかつてほど中心的な位置を占めていないことは否定しにくい。しかし、それをそのまま「日本人が長い文章を読まなくなった」「言論そのものが衰退した」と結論付けることも適切ではない。

 かつての総合誌にも限界はあった。執筆者になれる人は限られ、東京の大学、出版社、新聞社などを中心とした知識人ネットワークに発言力が集中しやすかった。一般の読者は主として受け手であり、自ら全国へ意見や情報を発信することは容易ではなかった。

 インターネットによって、地方在住者、専門職、研究者、市民、当事者などが出版社や新聞社を経由せず直接情報を発信できるようになったことは、言論空間の重要な変化である。したがって、総合誌の相対的な衰退を、そのまま言論の衰退と同一視することはできない。

 より正確に言えば、言論を発信する主体が少数の出版社や雑誌編集部から多数の個人や組織へ分散したのである。発信主体が増えた一方で、多数の人が同じ記事や同じ論点を共有する構造は弱まった可能性がある。この二つの変化を分けて考える必要がある。

17 総合誌が作っていたのは「正解」より「共通の議題」だった

 『世界』の読者と『文藝春秋』の読者が、同じ政治的意見を持っていたわけではない。安全保障、憲法、外交、経済政策などについて、大きく異なる考えを持つ読者もいただろう。

 それでも、安全保障、憲法、中国、経済成長、教育、文学、人口問題など、「社会として何について考えるべきか」という議題には一定の共通性が存在した。総合誌が社会に提供していた重要な機能の一つは、正しい答えを決めることではなく、社会が共有して議論すべき問題を提示することだったと考えられる。

 これは厳密な意味で統計的に証明された事実というより、総合誌の歴史から導かれるメディア論的な解釈である。本当に総合誌が社会全体の議題設定にどの程度影響したのかを検証するには、発行部数だけでなく、新聞での引用、政治家や研究者による参照、論壇時評への掲載、読者構成などを年代別に分析する必要がある。

 現代では、ある人は政治情報を中心に見て、別の人は投資情報を中心に見て、さらに別の人は芸能やスポーツを中心に見る。これは必ずしも情報量の減少を意味しない。むしろ、一人ひとりが接触できる情報は増えている。しかし、社会全体が同じ媒体を通じて「今、何を考えるべきか」を共有する力は相対的に弱くなったと考える余地がある。この点に、総合誌というメディアを歴史的に振り返る意味がある。

結論~総合誌の歴史は、日本人が社会をどう考えてきたかの歴史である

 『中央公論』『改造』『文藝春秋』『世界』は、同じ「総合誌」と呼ばれていても、その出発点も編集方法も歴史的役割も異なっていた。『中央公論』には明治以来の教養論壇の伝統があり、『改造』には大正期から続く社会改革と新思想への強い関心があった。『文藝春秋』は文人が自由に語る場所から始まり、人物、文学、政治、社会を横断する総合誌へ発展した。『世界』は敗戦を出発点として、平和と民主主義を戦後社会にどう根付かせるかという問題を背負った。

 同時に、その歴史は自由な市場の中だけで進んだわけではない。戦前には国家による言論統制と横浜事件があり、改造社や中央公論社は事実上の廃業を迫られた。敗戦後にも占領当局による出版物の検閲が存在し、その一方で日本国憲法によって表現の自由が制度的に保障された。総合誌の歴史は思想史であると同時に、日本における言論の自由の制度史でもある。

 また、1955年、高度経済成長、テレビ普及、冷戦終結、インターネット普及と総合誌の変化を結び付ける際には、「同じ時期に起きた」ことと「それが原因だった」ことを区別する必要がある。雑誌の社会的位置は、政治制度、経済環境、出版経営、広告、読者構成、教育水準、技術革新、流通、競合媒体、編集方針、社会思想など多数の要因によって決まるため、一つの原因だけから説明することはできない。

 それでも四誌を長期的に比較すると、それぞれに異なる方法が見えてくる。社会を変えるために思想を提示する。守るべき価値から社会を問い直す。異なる議論を一つの場所へ集める。人物と出来事を通して時代を見る。四誌は異なる方法で、日本社会を文章として記録してきたのである。

 私自身も若い頃には『世界』『中央公論』『文藝春秋』を不定期に読み、それぞれ異なる誌面に接してきたが、現在では三誌の中で読むことがあるのは主として『文藝春秋』になった。この変化の理由を一つに決めることはできないし、一人の読者の経験から総合誌全体の変化を論証することもできない。ただ、自分自身の読書行動さえ長い時間の中で変わってきたという事実は、総合誌と読者との関係も固定されたものではないことを実感させる。

 戦後80年以上を経た現在、紙の総合誌がかつてと同じ位置を占めているとは言い難い。しかし、それは社会について総合的に考える必要がなくなったからではない。人口減少、人工知能、気候変動、安全保障、社会保障、地域衰退、格差など、現代の主要問題ほど経済、政治、科学、医療、教育、文化など複数の分野が絡み合っている。

 問題は総合化している一方、情報を得る経路は専門化・多元化している。この状況では、異なる専門分野の知識を再び一つの問題として結び付ける能力が重要になる。紙の総合誌そのものを復活させることだけが答えではないが、総合誌が担ってきた「異なる分野の知識を同じ場所へ集め、同じ社会について考える」という機能には、現在でも意味がある。

 『改造』は1955年に刊行を終えたが、『世界』『中央公論』『文藝春秋』は現在まで刊行を続けている。それぞれの歴史を読むことは、単に古い雑誌を振り返ることではない。日本社会が何を問題と考え、誰の言葉を信頼し、どのような制度の下で言論を成立させ、どのような媒体を通じて異なる意見を共有してきたのかを読むことでもある。

 そして総合誌の歴史が現代に投げかける問いは、「どの雑誌が正しかったのか」というものではない。情報量がかつてとは比較にならないほど増え、誰もが発信者になれる社会で、異なる専門、異なる思想、異なる世代、異なる生活環境を持つ人々が、どこで同じ社会について考えるのか。その「共通の議題を形成する場所」をこれからどのように作るのかという問いこそ、総合誌の歴史から現代が引き継ぐ重要な問題なのである。

著者の他のブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログを見る