三島由紀夫の『金閣寺』を読み終えたとき、もっとも大きな疑問として残るのは、主人公・溝口がなぜ金閣を燃やしたのかということである。
金閣が嫌いだったからではない。むしろ逆である。
溝口にとって金閣は、幼いころから憧れ続けた、この世でもっとも美しいものだった。それほど愛し、崇拝した存在を、なぜ最後には自らの手で焼き払わなければならなかったのか。
この矛盾を理解するには、『金閣寺』を単なる放火事件の小説として読むのではなく、「美に支配された人間が、その支配から逃れようとする物語」として読む必要がある。
金閣は最初から現実の建物ではなかった
溝口にとって金閣は、実物を見る以前から特別な存在だった。
父親から金閣の美しさについて繰り返し聞かされるうちに、少年の心の中には現実の建築物とは別の「理想の金閣」が作られていく。
ここが重要である。
普通であれば、人は美しいものを見て感動する。しかし溝口の場合、順序が逆だった。実物を見る前に、頭の中ですでに絶対的な美が完成していたのである。
そのため、実際の金閣を初めて見たとき、現実の建物は想像していたほど圧倒的ではない。
ところが、それによって金閣への信仰が消えるわけではない。むしろ時間が経つにつれて、現実の金閣と心の中の金閣が再び重なり、彼にとって金閣は単なる寺院ではなくなっていく。
金閣は「美そのもの」に近い存在になっていった。
そして、この美が次第に溝口の人生を支配する。
溝口は自分自身を「美の反対側」に置いている
溝口には吃音がある。
彼にとって吃音は単なる話しにくさではない。自分と他人との間にある壁として意識されている。
言葉を自由に発することができないため、他者との関係に自信を持てない。そこから、自分は周囲の人間とは違うという意識が強くなっていく。
さらに溝口は、自分自身を美しい人間だとは考えていない。
つまり彼の世界には、
完全な美としての金閣
と、
不完全な存在としての自分
という対立がある。
この距離が大きければ大きいほど、金閣は美しくなる。
しかし同時に、自分自身は惨めになる。
金閣を愛することと、自分を否定することが、溝口の中ではほとんど同じことになってしまうのである。
この構造が、『金閣寺』の悲劇の中心にある。
金閣は溝口が現実へ進むことを妨げる
さらに重要なのは、金閣が単に眺める対象ではなく、溝口の行動を阻む存在として描かれていくことである。
溝口は女性との関係を持とうとする。しかし現実の世界に踏み込もうとする重要な場面になると、彼の意識の中に金閣が現れる。
本来、美しいものは人生を豊かにするはずである。
ところが溝口の場合は逆だった。
金閣の美しさがあまりに完全であるため、現実の恋愛や欲望、人間関係がすべて不完全なものに見えてしまう。
現実の女性より金閣のほうが美しい。
現実の経験より、頭の中にある美のほうが完全である。
そうなると、人は現実を生きられなくなる。
金閣は溝口にとって憧れであると同時に、現実世界へ出ていくことを妨げる巨大な壁になっていった。
戦争中、溝口は金閣が焼けることを期待していた
『金閣寺』を理解するうえで見逃せないのが、戦争である。
太平洋戦争末期、京都も空襲を受ける可能性があった。金閣もいつ焼失するかわからない。
この状況は、溝口に奇妙な感覚を与える。
永遠に存在するように思われた金閣が、戦争によって失われるかもしれない。
つまり、自分と金閣が同じ「滅びる世界」に存在することになる。
それまで金閣は、自分とは別の次元にある絶対的な美だった。しかし焼失する可能性を持った瞬間、金閣もまた有限な存在になる。
溝口にとって、それはある意味で救いだった。
ところが戦争は終わり、金閣は焼けなかった。
人間が死に、都市が焼かれ、社会が大きく変わったにもかかわらず、金閣は以前と同じ姿で残った。
ここで金閣は再び、溝口の前に圧倒的な存在として立ちはだかる。
自分の人生は変化する。
人間は老い、失敗し、死ぬ。
しかし金閣は変わらない。
この不均衡が、溝口にとって次第に耐え難いものになっていく。
「美しいから壊したい」という逆説
普通に考えれば、美しいものは保存したいと思う。
しかし『金閣寺』では、美が完全であればあるほど、それを破壊したいという逆説が生まれる。
なぜか。
金閣が存在し続ける限り、溝口は金閣と比較され続けるからである。
もちろん、実際に誰かが彼と金閣を比較しているわけではない。比較しているのは溝口自身である。
金閣を見るたびに、自分の不完全さが意識される。
金閣が美しければ美しいほど、自分の人生が貧弱に感じられる。
つまり溝口にとって、
金閣の存在=自分の劣等感を永続させる装置
になってしまった。
そう考えると、彼に残された選択肢は極端なものになる。
自分自身を変えるか。
金閣を消すか。
現実の人間関係を通じて自分を変えていくことができなかった溝口は、後者を選ぶ。
それが放火だった。
金閣を燃やすことは「美を所有する」ことでもあった
しかし、単に金閣が邪魔だから燃やしたと考えるだけでは、『金閣寺』の複雑さは十分に説明できない。
放火には、もう一つの意味がある。
それは、金閣を自分の行為の中へ取り込むことである。
それまで金閣は、溝口とは関係なく存在していた。
彼が苦しんでも、恋愛に失敗しても、人生に絶望しても、金閣は変わらない。
その意味で、金閣は溝口を必要としていない。
しかし自分が火をつければ事情は変わる。
金閣の運命を決めるのは溝口になる。
崇拝するだけだった人間が、美しいものの生死を決定する側へ回るのである。
これは非常に歪んだ形ではあるが、金閣を自分のものにしようとする行為とも解釈できる。
手に入らないものを破壊することで、初めてその存在に決定的に関与する。
溝口にとって放火は、美から逃げる行為であると同時に、美をもっとも強烈な形で自分と結び付ける行為でもあった。
柏木は「現実を生きる別の方法」を見せる
作品の中で溝口と対照的な人物が柏木である。
柏木もまた、自分の身体に強いコンプレックスを持っている。
しかし、そのコンプレックスへの向き合い方が溝口とは違う。
溝口が自分の劣等感によって現実から遠ざかっていくのに対し、柏木はむしろそれを利用しながら現実の人間関係の中へ入っていく。
倫理的に好ましい人物として描かれているわけではない。
それでも、柏木は「不完全な自分のまま現実を生きる」ことができる。
溝口には、それができない。
彼は完全な美にこだわり続ける。
ここに二人の決定的な違いがある。
人間は本来、不完全な存在である。
恋愛も友情も身体も人生も、不完全である。
柏木はその不完全さの中で生きる。
溝口はそれを受け入れられない。
だから最後には、不完全な自分ではなく、完全な美のほうを破壊することになる。
金閣放火は自殺ではなかった
物語の終盤で重要なのは、溝口が金閣とともに死ななかったことである。
放火という行為だけを見れば、破滅へ向かう物語のようにも見える。
しかし最後に残るのは、むしろ「生きる」という方向である。
ここに『金閣寺』の大きな転換がある。
溝口は金閣を燃やすことで、自分を支配していた絶対的な美を消した。
その結果、彼の前には不完全な現実だけが残る。
しかし、それこそが人間が生きる世界なのである。
美しくないかもしれない。
理想的でもない。
失敗するかもしれない。
それでも、自分自身が行動できる世界である。
したがって、金閣放火は単純な破滅ではない。
溝口にとっては、極端で犯罪的な方法ではあるものの、現実の人生へ戻ろうとする行為でもあったと考えることができる。
なぜ溝口は金閣を燃やしたのか
結局、溝口が金閣を燃やした理由を一つだけに絞ることはできない。
金閣への憎しみだけでもなければ、単純な劣等感だけでもない。
彼は金閣を愛していた。
しかし、その美しさに支配されていた。
金閣が完全であるほど、自分が不完全に見えた。
金閣が永遠であるほど、自分の人生が無意味に感じられた。
そして金閣が存在する限り、自分は現実の世界へ踏み出すことができないと考えるようになった。
だから彼は、美を手に入れようとするのではなく、美そのものを消すことを選んだ。
『金閣寺』の放火を理解する鍵は、ここにある。
溝口は金閣が醜かったから燃やしたのではない。美しすぎたから燃やしたのである。
そして、その美を破壊した先で初めて、完全ではない自分自身の人生を生きようとした。
『金閣寺』は、美とは何かを描いた小説であると同時に、さらに逆説的な問いを私たちに突きつける。
人間は、あまりにも完全な美を前にして、それでも自由に生きることができるのだろうか。
金閣を燃やした溝口の行動は決して肯定できない。
しかし、三島由紀夫が描こうとしたのは犯罪の是非だけではない。
人間が理想を絶対化したとき、その理想は憧れから支配へ変わることがある。
そして『金閣寺』は、その支配から逃れるために「美そのものを破壊する」という極端な地点まで追い詰められた一人の青年を描いた小説なのである。

