いま映画を見ようと思えば、スマートフォンを取り出して検索すればいい。上映中の作品も、映画館の場所も、開始時刻も、空席も、その場で分かる。コンサートに行きたければアーティスト名を検索し、演劇を見たければ劇団の公式サイトを開けばいい。便利になったというより、私たちは「情報を探している」という感覚さえ持たなくなった。
けれども、かつて東京で映画を見ようと思った若者は、そう簡単には目的の映画へたどり着けなかった。ロードショーが終わった作品が、どこの二番館に移ったのか。小さな劇場で面白そうな芝居をやっていないか。名前だけ聞いたバンドは、今月どこでライブをするのか。情報は確かに存在していたが、それぞれ別の場所に散らばっていた。
その散らばった文化情報を、一冊の雑誌の中に集めてしまったのが『ぴあ』だった。
1972年7月、当時大学生だった矢内廣らによって創刊された『ぴあ』は、映画、演劇、コンサートなどの情報をまとめた月刊誌として出発した。当時は「情報誌」という言葉そのものが一般的ではなかったという。ぴあ株式会社自身が後に『ぴあ』を「文化・街歩きの道しるべ」と表現しているのは、この雑誌が果たした役割をよく表している。
しかし、『ぴあ』が若者の必需品になった理由は、単に情報量が多かったからではない。
そこには、インターネットが存在しなかった時代ならではの、「自分で文化を探す」という行動の形があった。
見たいものがあっても、どこで見られるか分からなかった
『ぴあ』誕生の原点には、ひどく実用的な不便があった。
創刊者の矢内廣は映画好きの学生だったが、ロードショー料金は学生には高かった。そのため、ロードショーが終わった映画を二番館、三番館で安く見る。しかし問題は、その映画が次に「いつ、どこの映画館にかかるのか」を簡単に知る方法がなかったことだったという。そこで映画情報を一冊にまとめ、さらに演劇や音楽、美術展なども加えれば便利なのではないかという発想が生まれた。
この話は、現代から見ると意外なほど重要である。
現在なら、私たちは作品名から場所を探す。しかし当時は、作品を知っていても場所が分からないことがあり、逆に町を歩いて初めて面白そうな映画や芝居に出会うこともあった。
つまり文化と人との間に、いまよりはるかに大きな「情報の距離」が存在していた。
『ぴあ』は、その距離を縮めた。
しかし、距離を完全になくしたわけではない。むしろ、この中途半端さこそが面白かった。
ページをめくっていると、目的だった映画の隣に知らない映画が載っている。その下には小劇場の公演があり、さらにページを進めれば聞いたことのないミュージシャンのライブがある。
検索ではない。
一覧するのである。
ここに、現在のインターネットとの決定的な違いがある。
『ぴあ』を読むことは、予定を立てることだった
『ぴあ』は、一般的な雑誌のように文章を順番に読むものではなかった。
買ったらページをめくりながら、映画のタイトルを見る。上映館を確かめ、上映時間を見る。コンサートの日程を調べ、劇場の場所を確認する。そして、「土曜日はここへ行こう」と考える。
つまり『ぴあ』は、読む雑誌であると同時に、行動を組み立てる道具だった。
これは旅行における時刻表に少し似ている。
鉄道時刻表を読む人が、列車の発車時刻だけを見ているわけではないように、『ぴあ』を開く若者も、単に上映時間だけを調べていたのではない。その情報を組み合わせながら、自分の一日を設計していた。
午後から映画を一本見る。そのあと新宿を歩き、夕方からライブを見る。途中で喫茶店に入るかもしれない。本屋にも寄るかもしれない。
『ぴあ』に載っていたのはイベント情報だったが、その向こう側にあったのは「自分は今度の休日をどう過ごすか」という生活そのものだった。
だから、一冊の雑誌が若者のバッグの中に入った。
読み終えれば捨ててしまう雑誌ではなく、何度も開く必要があったからである。
若者は『ぴあ』によって東京を覚えていった
情報を調べることと、街を知ることもまた、当時は切り離せなかった。
1979年、『ぴあ』誌上に「ぴあMAP」が登場する。最初に扱われたのは新宿東口だった。映画館、劇場、ライブハウス、美術館などを載せる一方、一般的な地図に必要な行政界などは省き、実際に歩いて道路を確認して作られたという。その後、この地図は若者から支持され、1982年にはムックとして刊行された。
ここには、『ぴあ』という雑誌の性格がよく表れている。
普通の地図が「街そのもの」を描くのだとすれば、『ぴあ』の地図は「遊ぶための街」を描いていた。
新宿、渋谷、池袋、銀座、下北沢。
街の名前は単なる地名ではなく、「映画を見る街」「ライブへ行く街」「芝居を見る街」という文化的な意味を持つようになる。
地方から東京へ出てきた学生にとってはなおさらだっただろう。東京という巨大な都市は、最初から理解できる場所ではない。しかし『ぴあ』を開き、映画館へ行き、劇場へ行き、その間を歩くうちに、街の位置関係が身体の中に入ってくる。
そう考えると、『ぴあ』は情報誌であると同時に、一種の都市案内書でもあった。
東京という街の使い方を教える雑誌だったのである。
有名なものと無名なものが、同じページに並んでいた
『ぴあ』にはもう一つ、当時としては特徴的な思想があった。
ぴあ株式会社が振り返っている創刊当時の編集方針には、客観情報を中心として批評性をできるだけ排し、情報を選ぶのは読者自身であるという考え方があった。さらに、メジャーなものとマイナーなものを平等に扱うことも掲げられていた。
この思想は、『ぴあ』が若者に支持された理由を考えるうえで非常に重要である。
評論家が「この映画を見るべきだ」と決めるのではない。編集者が「今年はこれが流行する」と教えるのでもない。
情報を並べる。
そして、自分で選ぶ。
いまでは当たり前に見える考え方だが、これは1970年代という時代の空気ともつながっていた。学園紛争の熱が冷め、従来の権威への距離感が生まれる一方で、フォークソングやミニコミ誌など、それまでの大手メディアとは異なる若者文化が広がっていた。矢内自身も、そうした時代背景の中で『ぴあ』が生まれたことを語っている。
だから『ぴあ』には、どこか民主的なところがあった。
大スターの公演も、小さな劇団の芝居も、名画座の古い映画も、ページの中では「今日見ることのできるもの」として並ぶ。
若者はその中から自分で選ぶ。
その選択の積み重ねによって、「自分の趣味」が出来上がっていったのである。
表紙を見るだけで『ぴあ』だと分かった
そして忘れてはならないのが、及川正通による表紙である。
1975年から始まった独特の似顔絵風イラストは、長く『ぴあ』の顔になった。書店や駅の売店で並んでいても、タイトルを確認する前に「あ、ぴあだ」と分かるほど強い個性を持っていた。ぴあの資料によれば、情報誌『ぴあ』は最盛期に発行部数約80万部に達し、最終的には通巻1341号まで続いた。
中身は徹底して実用的なのに、表紙は遊んでいる。
この組み合わせも『ぴあ』らしかった。
時刻や場所や料金という無機質なデータだけを詰め込めば、単なる情報一覧になってしまう。しかし、あの表紙が付くことで、『ぴあ』そのものが若者文化の一部になった。
バッグから取り出したとき、それが何の雑誌であるかを説明する必要はなかった。
『ぴあ』を持っていることそのものが、「映画や音楽や芝居に関心のある人」という小さな自己表現にもなっていたのである。
そして「情報」と「チケット」がつながった
『ぴあ』の発展を考えると、1984年の「チケットぴあ」開始は自然な出来事だったようにも見える。
映画やコンサートの情報を知れば、次に必要になるのはチケットである。それまで情報を提供していた会社が、コンピュータのオンラインネットワークを使ったチケット販売へ進む。ぴあはこの時期、自らを単なる出版社ではなく「情報流通業」と捉えるようになっていった。
これはかなり先進的な発想だった。
雑誌を売ることが目的なのではない。
人が「何かを見たい」と思い、その情報を知り、実際に会場へ行く。その一連の流れを支えることが事業だった。
だから『ぴあ』という雑誌は、最初から普通の雑誌とは少し違っていたのかもしれない。
記事そのものを読むために買うというより、その先にある現実の体験へ行くために買う。
紙面は目的地ではなく、入口だったのである。
『ぴあ』の最大の魅力は、知らないものが目に入ることだった
ところが、この仕組みを現在のインターネットと比較すると、意外な逆転が見えてくる。
情報量では、もちろんインターネットの方が圧倒的に多い。
映画一本を調べるだけでも、上映時間だけでなく、予告編、出演者、レビュー、座席状況まで分かる。『ぴあ』の時代には想像できなかったほど便利である。
しかし便利になった結果、私たちは「自分が探していない情報」に出会いにくくなった。
検索窓に映画名を入れれば、その映画の情報が出る。
音楽配信サービスを使えば、これまでの視聴履歴から自分が好きそうな曲が推薦される。
つまり現代の情報環境は、自分の好みを知れば知るほど、自分の好みに合ったものを見せてくれる。
『ぴあ』は逆だった。
必要な映画の上映時間を探しているだけなのに、隣に知らない映画が載っている。
その下を見ると、聞いたこともない劇団の名前がある。
さらにページをめくれば、美術展がある。
情報が整理されているのに、そこには偶然が残っていた。
この「予定していなかった出会い」が、『ぴあ』を読む楽しさのかなり大きな部分だったのではないだろうか。
お金のない若者ほど『ぴあ』を必要とした
もう一つ、当時の若者文化を考えるときに重要なのは、若者には今も昔も、それほどお金がないという単純な事実である。
だからこそ、安く映画を見る方法を探す。
どこかで自主映画を上映していないか調べる。
小劇場へ行く。
まだ有名になる前のミュージシャンを見る。
限られたお金で、できるだけ面白いものに出会いたい。
『ぴあ』は、そのための道具として非常に合理的だった。
これは高級な文化を紹介する雑誌ではない。
むしろ、財布の中身が乏しい若者が、それでも映画を見たい、音楽を聴きたい、芝居を見たいと思ったときに役に立つ雑誌だった。
創刊そのものが「ロードショーは高いから、安くなった映画を見たい」という学生の感覚から始まっているのだから、当然なのかもしれない。
『ぴあ』には、文化を楽しむためには大金が必要だという発想がなかった。
必要なのは、少しの金と時間と情報だった。
その情報を提供したのである。
インターネットが『ぴあ』の役割を引き継いだ
『ぴあ』は2011年7月、39年の歴史を経て休刊した。
しかし、それを単純に「雑誌がインターネットに負けた」と考えると、本質を見失う。
なぜなら、『ぴあ』が目指していたものとインターネットには、よく似たところがあるからだ。
情報を集める。
できるだけ広く提供する。
権威が選んだものだけではなく、多様な選択肢を並べる。
そして、最終的に何を見るかは利用者自身が決める。
ぴあ株式会社自身も、創刊時の「送り手と受け手がフラットである」という思想を、後のインターネットの考え方と重なるものとして振り返っている。
そう考えると、『ぴあ』はインターネットによって否定された雑誌というより、インターネット以前にインターネット的なことを紙でやっていた雑誌だった、と考えた方が正確なのかもしれない。
紙という限界の中で、都市に存在する文化情報をできるだけ集め、一冊の中から利用者自身が選ぶ。
その仕組みそのものが新しかったのである。
若者が失ったのは『ぴあ』ではなく、「探す時間」なのかもしれない
それでも、『ぴあ』がなくなったことに、どこか寂しさを感じる人は少なくないだろう。
それは紙の雑誌が一冊なくなったからだけではない。
文化との出会い方が変わったからである。
かつては『ぴあ』を買い、ページをめくり、丸を付ける。友人と相談する。地図を見る。電車に乗る。駅を出て、少し迷いながら映画館やライブハウスを探す。
その一連の行動全部が、映画を見ることや音楽を聴くことの一部だった。
現在なら数分で終わる情報収集に、昔はずいぶん時間がかかった。
けれども、その不便な時間の途中で、知らない映画を知り、知らない街を歩き、知らない店に入り、予定していなかったものに出会った。
便利になるとは、目的地へ早く到着できることである。
しかし目的地へ早く到着できるようになればなるほど、途中で何かに出会う機会は減っていく。
『ぴあ』が若者の必需品だった理由は、そこに必要な情報が載っていたからである。
けれども、長い時間を経て振り返ってみれば、それだけではなかったことに気づく。
あの小さな文字が並んだページを眺めながら、
「今度の日曜日、どこへ行こうか」
と考える。
その瞬間、まだ行ったことのない映画館も、知らないバンドも、歩いたことのない街も、自分の未来の選択肢になった。
『ぴあ』が売っていたのは、映画情報でも、コンサート情報でもなかったのかもしれない。
若者が自分自身で休日を選び、自分自身で街へ出て、自分自身の好きなものを見つけていくための、無数の入口だったのである。

