リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

古典の現代語訳は、作品を現代人に近づけるのか、それとも原作から遠ざけるのか

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 古典を読もうとして、最初の数行で本を閉じた経験のある人は少なくないだろう。そこに書かれているのは確かに日本語なのに、自分が毎日使っている日本語とは別の言語のように見える。「いとをかし」と書かれていても、それを「とても趣がある」と頭の中で変換しなければ、文章の向こう側にある風景までたどり着けない。千年前の日本人が見ていた月も、桜も、恋も、死も、私たちが知っているものと大きく違わないはずなのに、その間には分厚い言葉の壁が立っている。

 そこで現代語訳が登場する。難しい助動詞や古語を取り払い、現代の読者が理解できる文章へと置き換えてくれる現代語訳は、古典の世界へ渡るための橋のような存在である。しかし、その橋を渡って向こう岸へ着いたとき、私たちが見ているものは、本当に原作者が書いた世界なのだろうか。それとも、現代語訳者が再構成した別の風景を見ているのだろうか。古典の現代語訳には、作品を私たちに近づければ近づけるほど、かえって原作から離れてしまうという奇妙な矛盾が潜んでいる。

読めなければ、古典は存在しないのと同じになる

 どれほど優れた作品でも、読者に読まれなければ、その魅力は閉ざされたままである。『源氏物語』が世界文学の傑作だと言われても、原文を数ページ読むだけで疲れてしまうのであれば、多くの人にとってそれは「偉いらしいが読んだことのない本」で終わってしまう。学校教育で古典に触れながら、その後の人生では一度も読み返さない人が多いのも、作品そのものに魅力がないからというより、言語上の距離があまりにも大きいからだろう。

 現代語訳は、その距離を一気に縮める。光源氏は突然、教科書の中の人物ではなく、恋をし、迷い、嫉妬し、過ちを犯す一人の人間として現れる。『平家物語』の武将たちも、歴史年表の中の名前ではなく、栄華のただ中にいながら没落の影を背負った人々として見えてくる。『枕草子』を読めば、千年前の宮廷に生きた女性が、人間関係に機嫌を損ね、美しいものに心を奪われ、気の利かない振る舞いに苛立っていたことに気づく。こうした感情は現代人にもよく分かるからこそ、古典は突然、遠い昔の文化財ではなく、自分たちと地続きの文学になる。

 この意味では、現代語訳は間違いなく古典を現代人へ近づけている。翻訳がなければ閉じていた扉を開き、「昔の人もこんなことで悩んでいたのか」と読者に感じさせることができるからである。しかし、その瞬間から別の問題も始まる。私たちは本当に昔の人の声を聞いているのか、それとも現代人に分かりやすい声へと整えられたものを聞いているのかという問題である。

「意味」が同じでも、文章は同じではない

 古典を現代語へ移すとき、最初に失われやすいのは文章の音である。言葉には辞書的な意味だけでなく、長さ、響き、間、繰り返し、語順によって生まれる独特の呼吸がある。『平家物語』の冒頭が長く読み継がれてきたのも、そこに書かれた無常という思想が重要だからだけではなく、声に出したときの響きそのものが、栄えるものはやがて滅びるという感覚を身体へ伝えてくるからだろう。

 ところが、現代語訳では意味を正確に伝えようとするほど、その響きが失われることがある。原文では短い言葉の中に余韻が残っていたところへ説明を加えれば、意味は分かりやすくなる一方、読者が想像する空間は狭くなる。逆に説明を減らして雰囲気を残そうとすれば、今度は何を意味しているのか分かりにくくなる。このため現代語訳とは、単純に古い単語を新しい単語へ置き換える作業ではなく、何を残し、何を失うかを選び続ける作業なのである。

 たとえば、古語の「をかし」を一つの現代語に固定することは難しい。美しい、趣がある、面白い、心ひかれる、風情があるといった感覚が、その場面によって微妙に重なっているからである。それを「美しい」と訳せば分かりやすくなるが、その瞬間に「面白さ」や「気の利いた感じ」が薄れるかもしれない。「趣がある」と訳せば文学的には見えるが、今度は現代の日常語から離れてしまう。つまり一つの単語を訳すだけでも、訳者は作品の意味を選び直しているのである。

現代語訳には、どうしても現代人が入り込む

 さらに厄介なのは、言葉だけではなく、人間の感覚そのものが時代によって変化することである。恋愛、家族、身分、宗教、死、男女関係、美しさといった概念は、同じ言葉を使っていても千年前と現在では必ずしも同じではない。現代語訳者が古典を分かりやすく説明しようとするとき、その説明には知らず知らずのうちに現代社会の価値観が入り込む。

 たとえば平安時代の恋愛を、現代の恋人同士の関係と同じ感覚で描けば読みやすくなる。しかし当時の結婚制度や身分秩序、男女の生活空間まで考えれば、そこにある恋愛は現代の恋愛とはかなり違っている。にもかかわらず、登場人物の行動を現代人の心理へ置き換え過ぎると、読者は理解したつもりになりながら、実際には別の物語を読んでいることになる。

 ここに現代語訳の最も面白い逆説がある。分かりやすくすればするほど読者は物語へ近づくが、その分かりやすさを作るために現代的な説明を加えるほど、原作が持っていた異質さは消えていくのである。古典を現代人の家まで連れてくるためには、古典の着物を脱がせ、現代の服を着せなければならない。しかし服をすべて着替えさせたあとで、その人物を見て「これが昔の人だ」と言ってよいのかという疑問は残る。

分からなさもまた、古典の一部である

 私たちは本を読むとき、理解できることを良いことだと考えがちである。しかし古典については、完全に分かってしまうことが必ずしも正しいとは限らない。千年前の人間が書いた文章なのだから、現代人には簡単には理解できない部分があって当然だからである。

 むしろ古典を読んでいて感じる違和感や居心地の悪さの中に、歴史の距離が残っているとも言える。なぜこの人物はこんなことで泣くのだろう、なぜこんな行動が美しいとされたのだろう、なぜ直接言わずに歌を交わすのだろうと戸惑う瞬間にこそ、現代とは異なる社会が姿を現す。そこをすべて現代人の感覚に置き換えてしまえば、作品は読みやすくなるものの、古典を読む最大の魅力の一つである「別の時代の人間に出会う経験」が薄れてしまう。

 古典を読むことは、昔の文章から現代にも通じる普遍的な人間性を探すことだけではない。自分たちとは異なる考え方をする人々が、かつて確かに存在していたことを知ることでもある。現代語訳がその違いまで消してしまえば、古典は歴史を超えてきた作品ではなく、現代小説に似せて作り直された物語になってしまう。

それでも現代語訳は必要である

 では原文だけを読むのが最も正しいのかと言えば、そう単純でもない。原文を読める人であっても、現代の読者である以上、千年前の人間とまったく同じ意味でその文章を受け取ることはできないからである。古語辞典を引き、当時の習慣を学び、注釈を読んだ時点で、すでに私たちはさまざまな解釈を通して作品を見ている。

 そもそも「原文なら原作そのものを読める」という考えにも、少し危ういところがある。文字が同じでも、言葉に結びついた文化や感情まで同じとは限らない。現代人が古文を一語ずつ理解できたとしても、その言葉が当時の読者に呼び起こした感覚まで完全に再現することはできないのである。

 そう考えると、現代語訳は原作を壊す存在というより、もともと存在していた距離を別の形で埋めようとする試みだと考えた方がよい。完全な現代語訳が存在しないのは欠陥ではなく、言葉と時代が違う以上、当然のことである。そして一つの作品に複数の現代語訳が存在することにも意味が生まれる。同じ場面が訳者によって柔らかくもなり、冷たくもなり、官能的にもなり、ユーモラスにもなることで、原文の中に一つではない可能性が眠っていたことが見えてくるからである。

原作へ近づくために、いったん現代語訳を通る

 古典と現代語訳の関係を、原作か翻訳かという二者択一で考える必要はないのだろう。むしろ現代語訳を入口として物語を知り、興味を持った部分だけでも原文へ戻ってみる読み方の方が、古典との自然な付き合い方かもしれない。最初から原文だけを読み、意味を取ることに疲れて作品そのものを嫌いになってしまうより、現代語訳によって人物や物語を知ったあとで原文に触れた方が、その言葉の響きや省略の面白さに気づきやすい。

 同じ場面をいくつかの現代語訳で読み比べれば、さらに面白いことが起こる。訳が違っているところほど、原文が一つの意味に決められない場所だからである。そこで初めて読者は、「原文には本当は何と書いてあるのだろう」と考え始める。つまり現代語訳は、原文の代用品であるだけではなく、ときには原文へ戻るための道にもなる。

 このとき大切なのは、現代語訳を透明な窓だと思わないことである。私たちは窓越しに古典を眺めているのではなく、一人の訳者が描いた案内図を手にして古典の世界へ入っている。その案内図には詳しく描かれた場所もあれば、省略された場所もあり、訳者自身が美しいと思った景色は強調されているかもしれない。それでも地図があるからこそ、知らない土地へ足を踏み入れることができる。

古典は、少し遠いままでいい

 結局、現代語訳は古典を現代人に近づけると同時に、原作から少し遠ざける。この二つは矛盾しているように見えるが、実はどちらも現代語訳の本質なのだろう。言葉を変えれば失われるものがあり、言葉を変えなければ届かないものがある。どちらか一方だけを選ぶことはできない。

 だから優れた現代語訳とは、古典を完全に現代化する文章ではないのかもしれない。読者に理解できる言葉を使いながら、それでもどこかに「これは自分たちとは違う時代の文章なのだ」と感じさせる距離を残す訳の方が、古典という存在にはふさわしい。分かりやすさの中に少しだけ異物が残り、その異物が気になって原文を覗いてみたくなるような訳である。

 千年前の人々を完全に現代人へ変えてしまう必要はない。私たちと似ているところがありながら、どうしても理解できないところもあるからこそ、古典を読む意味が生まれる。もし『源氏物語』の登場人物が近所に住んでいる人とまったく同じ感覚で話し始めたなら、物語は読みやすくなる一方で、千年という時間を越えて他者と出会う驚きは失われてしまうだろう。

 古典の現代語訳は、過去を現在へ連れてくる仕事ではあるが、過去を現在に塗り替える仕事ではない。最も豊かな読み方とは、おそらく現代語訳によって作品へ近づきながら、その向こう側にまだ自分の知らない言葉と時代が残っていることを忘れないことなのだ。古典は完全に近づいてしまわないからこそ古典であり、そのわずかな遠さが、何百年、何千年を越えて人を惹きつけ続ける理由なのかもしれない。

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