リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 谷崎潤一郎と川端康成の作品を続けて読んでいると、どちらも女性を描き、身体を描き、季節や光や風景を描いているにもかかわらず、読み終えたあとに残る感触が驚くほど違うことに気づく。谷崎の小説では、着物の布地や髪の艶、肌に落ちる影、室内に漂う気配までが身体的な記憶として残り、読者は物語を「見た」というより、その世界の湿度や匂いまで感じたような気持ちになることがあるのに対し、川端の小説では、雪山、窓ガラス、夕暮れ、水面、遠くの灯といった一瞬の映像が、手を伸ばせば消えてしまいそうな記憶として残り、人物そのものよりも、人物と風景が重なった一場面のほうが長く心にとどまることさえある。

 この違いを、谷崎は官能的で川端は叙情的だという言葉だけで片づけてしまうと、2人の文学のもっと深いところにある差を見落としてしまう。少なくとも『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』と、『雪国』をはじめとする川端の代表的な作品群を比較してみると、谷崎の美は人間を引き寄せ、近づくほどその力から逃れにくくなる方向へ向かうことが多いのに対し、川端の美は目の前に現れながら、同時に距離や別れや消失を感じさせる方向へ向かう傾向が見えてくるのであり、もちろん谷崎にも喪失や死はあり、川端にも身体や官能や欲望はあるため、これは2人の全作品を単純に分割する法則ではないが、それでも女性、身体、風景という3つの視点から比べると、それぞれの美意識の違いを読み解くための有力な軸になる。

谷崎の女性は「見られる人」でありながら、見る者を支配していく

 谷崎潤一郎の作品には、男性の視線を強く引きつけ、その視線そのものを次第に拘束していく女性が繰り返し登場し、『痴人の愛』のナオミは、その代表的な存在だろう。主人公の譲治は、自分の理想に近い女性を育てようとし、最初はナオミを自分の側から眺め、評価し、教育しているつもりでいるが、物語が進むにつれてその関係は少しずつ反転し、彼がナオミを自分の理想へ近づけようとしていたはずなのに、いつの間にか彼自身のほうがナオミの美と欲望に振り回され、そこから離れられなくなっていく。

 この関係を興味深くしているのは、ナオミの美が人格全体だけによって成立しているのではなく、髪、肌、脚、声、歩き方、衣服といった身体の細部を通して具体的に感じられることであり、谷崎は女性を抽象的な「美人」として置くのではなく、その身体の一部一部を執拗に見つめることで、美を感覚的な力へ変え、見る者の感覚を刺激し、判断を狂わせ、ときには生き方まで変えてしまう作用として描いている。

 その意味では、谷崎文学における女性は単純に「男性から見られる存在」だけではなく、見られることによってむしろ力を持ち、見る側の男性のほうを拘束していく存在でもあり、『痴人の愛』を男性が女性を所有しようとする物語としてだけ読むのではなく、見る者が見られる対象の美に逆に支配されていく物語として読むことができるのは、そのためである。

『春琴抄』では、美を見ることそのものが問題になる

 『春琴抄』では、この関係がさらに特異な形へ進み、佐助は春琴を愛するだけでなく、彼女に仕え、その美を崇拝し、自分の人生そのものをそこへ差し出していくが、ここで重要になるのは、単に美しい女性を所有したいという欲望ではなく、美の前で自己を失うことにさえ意味を見いだす感情である。

 佐助が自ら視覚を閉ざすという極端な行為は、谷崎における「見る」という行為を考えるうえで象徴的であり、美しいものをもっと見たいという欲望が、最後には美を現実の視覚から切り離し、記憶や幻想の中に守ろうとする方向へ反転していくため、『春琴抄』は美に服従する人間の物語として読むことができる一方、美というものが現実の視覚によってそのまま保持できるのかという問題を描いた作品としても読むことができる。

 この点から考えると、谷崎の美は単純な官能性だけでは説明できず、身体に強く執着しながら、その身体を現実以上に美しくしようとする想像力が働いており、実在する女性と、見る者の心の中で作られた女性像との境界はしだいに曖昧になっていくため、谷崎の美はきわめて身体的でありながら、同時に幻想的でもある。

川端の女性は、近くにいるのに最後まで遠い

 川端康成の女性もまた美しく描かれるが、そこには谷崎の女性に見られるような、相手を身体的に圧倒し、欲望の中へ引き込む強さとは少し違った魅力があり、彼女たちはすぐ近くにいるにもかかわらず、どこか最後まで届かない存在として描かれることが多く、その埋まらない距離そのものが美しさを生み出している。

 『雪国』の駒子を考えると、そのことがよく分かり、駒子は島村の近くにいて、酒を飲み、話し、笑い、怒り、感情を率直に表すほど現実的で生身の存在として描かれているにもかかわらず、島村は彼女の人生そのものへ完全に入ることができず、身体の距離は縮まっても精神の距離が完全には埋まらないという不均衡が、物語に独特の緊張を与えている。

 しかも川端の作品では、女性がしばしば直接そのまま見られるのではなく、窓ガラス、鏡、雪、水面、夕暮れの光といったものを介して現れ、『雪国』で汽車の窓ガラスに映る女性の顔と外の夕景色が重なって見える描写が強く印象に残るのは、女性が単なる登場人物としてではなく、現実と風景の境界に一瞬だけ現れる像として描かれているからである。

 顔はそこに存在しているのに、窓ガラスを通した瞬間、風景と重なり、現実の身体であると同時に幻のような像へ変わってしまうため、川端の美を考えるうえでは、この「そこにいるのに完全にはつかめない」という感覚が非常に重要になり、谷崎が対象へ近づくことで美を濃くしていく作家だとすれば、川端は対象との間にわずかな距離を残すことで、美を持続させる作家として読むことができる。

谷崎の身体は、細部に近づくほど濃くなる

 この違いは、身体の描き方にもはっきり表れており、谷崎にとって身体は美がもっとも強く現れる場所の一つで、人間全体よりも身体の一部分が異様なほど大きな意味を持つことさえあり、足、髪、指、肌、声といった細部が人物の性格以上に読者の記憶へ残るのは、谷崎が人間の美しさを抽象的な人格ではなく、感覚を刺激する具体的な細部の中に見いだす傾向が強かったからである。

 ただし、谷崎の身体は決して裸の身体だけではなく、着物、化粧、室内の暗さ、障子越しの光、漆器の艶、古い家屋の奥行きといった周囲の環境と結びつくことで、身体はさらに美しく見えるようになり、『陰翳礼讃』に示される美意識を考えれば、すべてを均一な明るさの下にさらしてしまうのではなく、暗がりの中で一部だけが浮かび上がるほうが、対象はかえって強い印象を与えるという感覚を理解しやすい。

 したがって谷崎の美は、身体それ自体に閉じ込められたものではなく、身体と布、光と影、木や紙や漆といった素材、そして人間が暮らす空間との関係の中で成立しており、その世界は非常に物質的で、読者はそれを頭の中だけで理解するのではなく、視覚や触覚、時には匂いまで想像しながら読むことになる。

川端では、身体が風景へ溶ける瞬間に美が生まれる

 川端も女性の顔や手や肌を描くが、その身体は谷崎ほど重く物質的にとどまらないことが多く、むしろ光や風景の中へ溶け、輪郭が不確かになった瞬間にかえって強い美しさを帯び、人の顔が窓に映るとき、その顔は実在する身体であると同時に光の反射が作り出した像でもあるため、「実在しているもの」と「消えてしまいそうなもの」が同時に存在することになる。

 川端はそうした境界の瞬間に強く惹かれていたと考えることができ、そのため川端作品では、美しいものの中にしばしば不安定さが入り込み、若さはいつか失われ、恋愛は形を変え、季節は移り、光は消えるが、それを単純に「川端は喪失だけを描いた」と言い切るのは適切ではなく、川端にも身体への強い関心や官能的な描写があり、美と欲望が切り離されているわけではない。

 それでも、谷崎が存在する身体へ近づき、その細部を濃密に見つめる方向へ進むことが多いのに対し、川端は身体が風景や光の中へ溶けていく瞬間をとらえることが多く、その違いは2人の作品を比較するうえで、かなり有効な手がかりになる。

『細雪』では、風景は単なる背景ではない

 谷崎の作品には、庭、古い家屋、京都や大阪の街、季節の移り変わりといった風景が数多く登場するが、少なくとも『細雪』では、風景や季節は人物から切り離された背景として置かれているわけではなく、花見、着物、食事、家族の習慣、土地の空気が互いに結びつき、その中で人物の姿や生活が描かれていくため、春の桜の中で見る人物と冬の室内で見る人物では、同じ女性でも印象が変わる。

 周囲の光や気温、衣服、行事が人物の見え方を変え、それらが積み重なることで『細雪』独特の美的世界が作られているのであり、その意味では、風景や季節が人物の美を際立たせる働きをしていると読むことができるが、それと同時に、『細雪』を「失われゆく古き日本の美を描いた作品」とだけ理解すると、この作品の複雑さを見失うことにもなる。

 そこには昭和という時代の現実があり、結婚、家制度、都市生活、社会の変化、戦争へ向かう時代の影も存在しているため、優雅に見える生活の中にも不安やずれがあり、その複雑さが作品を単なる伝統美の展示にはしていないのであって、谷崎の風景を「人間を美しく見せる額縁」と考えることは一つの有効な読み方ではあるものの、それだけで作品全体を説明することはできず、風景は人物を美しく見せると同時に、その人物が生きている時代や社会の変化を静かに映すものでもある。

川端では、人間が風景の中へ吸収されていく

 一方、川端では、風景が人物以上の大きさを持つように感じられる場面が少なくなく、『雪国』を読み終えたあと、島村や駒子の顔だけではなく、雪、山、夜、汽車、火事、そして空に広がる天の川が強く記憶に残るのは、人間が風景を眺めているだけではなく、人間そのものが風景の一部へ吸収されていくように描かれているからだろう。

 ただし、川端の自然を単純な感情の象徴として理解するのも十分ではなく、人物が悲しいから雪が降るのではなく、雪は人物の感情とは無関係に降り続け、恋愛が終わっても山はあり、誰かの人生が変わっても季節は巡るという、人間とは無関係に存在する自然の大きさが、かえって人間の感情や時間の短さを際立たせている。

 ここでは、風景は人間を慰めるものでも、人間の感情を単純に代弁するものでもなく、人間の生とは別の時間を持つものとして存在し、その中に一瞬だけ人物の姿が浮かび上がるため、その構図が川端の作品に独特の静けさと冷たさを与えている。

「谷崎=欲望、川端=喪失」は法則ではなく、比較のための軸である

 ここまで女性、身体、風景という3つの方向から見てくると、谷崎潤一郎と川端康成の美意識には明らかな違いが見えてくるが、その違いを単純に「谷崎は欲望、川端は喪失」と言い切ると、それぞれの作品が持つ幅を狭めてしまい、谷崎にも老い、記憶、死、失われるものへの意識があり、川端にも性愛や身体的欲望が存在することを見落としてしまう。

 それでも主要な作品を比較してみると、谷崎では美しいものを見たい、近づきたい、触れたい、あるいは美に支配されたいという方向へ感情が進むことが多いのに対し、川端では美しいものを見つめる行為の中に、距離や時間や消失の感覚が入り込むことが多いため、「谷崎は美しいから離れられないと描き、川端は失われるから美しいと描いた」という言葉は、2人の文学を完全に説明する結論ではなく、両者の違いを際立たせるための要約として受け取るのが適切だろう。

 この程度の距離を置いて考えれば、2人の作品の多様さを保ちながら、それぞれの特徴を見失わずに比較することができ、単純な二分法に陥ることなく、なぜ同じ「美」を扱いながら読後感がこれほど異なるのかという問いにも答えやすくなる。

同じ日本の風景を見ても、2人の視線は同じではなかった

 谷崎潤一郎と川端康成は、ともに日本の美を論じる際に名前を挙げられることの多い作家だが、その「日本の美」という言葉だけで2人を一つにまとめてしまうと、むしろ重要な違いが見えなくなり、谷崎が見つめたのは、暗い室内の中で着物や髪や肌がどのように光を受け、素材や影との関係の中で美がどのように生まれるかという世界であり、その視線は対象へ近づき、細部へ入り込み、美を触覚的な経験へ近づけていく。

 一方、川端の視線は、窓越しの顔、雪山、夕暮れ、遠くの灯のように、人間と風景の境界が曖昧になる瞬間へ向かい、対象へ近づこうとしながらも完全には触れない距離を残すため、そこに現れる美には、見ることの喜びと同時に、いつか消えてしまうものを見つめているような感覚が入り込む。

 谷崎の世界を象徴するものを一つ選ぶなら、暗がりの中でわずかな光を受ける女性の肌を思い浮かべることができるだろうし、川端の世界を象徴するものを一つ選ぶなら、汽車の窓ガラスに映り、外の風景と重なりながら一瞬だけ現れる女性の顔が浮かぶだろうが、どちらも美しいにもかかわらず、その美しさが成立する場所と、その美しさを見つめる視線の方向は大きく異なっている。

 谷崎の美には近づきたいという欲望が強く働き、川端の美には近づいてもなお残る距離があり、谷崎では身体の熱が美を支え、川端では風景や時間が身体の輪郭を揺らしていくが、こうした違いは絶対的な法則ではなくても、2人の代表作を読み比べると確かに繰り返し現れてくる。

 同じ女性を見ても、同じ身体を見ても、同じ日本の風景を見ても、谷崎潤一郎と川端康成が見ていたものは完全には同じではなく、谷崎は美をこの世界の中に濃く定着させ、その力が人間をどこまで引きつけるかを描こうとしたのに対し、川端は美が世界の中に現れては揺らぎ、やがて遠ざかっていく瞬間を見つめ、その視線の違いが、日本近代文学の中に、互いに似ているようで決して重ならない2つの「美」を残したのである。

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