リベラル文庫(九条レオン)

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三浦綾子が泥流地帯に託したもの~十勝岳噴火100年、被災地に残る文学と記憶

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 ある小学校では、災害が起きた日、授業が行われていなかった。それにもかかわらず、その学校に通っていた46人の児童のうち、11人が二度と教室に戻ることはなかった。1926年5月24日、北海道上富良野村の日新尋常小学校を襲った悲劇である。学校が休みだったのは、教師の菊池政美が正教員の検定試験を受けるため、旭川へ出かけていたからだった。児童たちは学校で犠牲になったのではない。家族とともに生活していた地域そのものが、十勝岳から押し寄せた泥流にのみ込まれたのである。

 菊池は翌25日、旭川で噴火による被害を知った。鉄道は寸断され、故郷へ戻ることも容易ではなかったが、ようやくたどり着いた彼を待っていたのは、跡形もなくなった校舎と、家族4人を失ったという現実だった。災害から約56年後の1982年、上富良野町の郷土研究誌『郷土をさぐる』に掲載された本人の手記には、被災地で児童たちが駆け寄ってきたとき、それまで出なかった涙があふれたことが記されている。長い年月を経て書かれた回想であるため、当日の感情や細部まで同時代の記録として扱うことはできないが、家族と児童を失った教師が、その出来事を生涯どのように記憶していたのかを伝える貴重な証言である。

 この教師の人生は、約50年後、作家・三浦綾子の小説『泥流地帯』の中で、菊川先生という人物を通じて描かれることになった。三浦が関心を寄せたのは、単に火山噴火という自然現象の恐ろしさではなかった。まじめに働き、家族を大切にし、日々の生活を誠実に積み重ねてきた人々が、なぜ突然、取り返しのつかない苦難を負わなければならなかったのか。そこには、自然科学によって災害の原因を説明することとは別の、人間の生き方に関わる問いがあった。

 2026年は十勝岳噴火から100年に当たる。泥流に埋まった農地は再び耕され、失われた学校は建て直され、被災地には新しい世代の生活が積み重なってきた。しかし、その復興は人々の努力だけで成し遂げられたわけではなく、財政負担をめぐる対立や長期にわたる土壌改良など、複雑な歴史を伴っていた。本稿では、三浦綾子本人の寄稿文、被災者の手記、上富良野町の郷土史、内閣府や気象庁の公的記録、農業分野の研究論文など、公開資料による文献取材を通じて、小説が生まれた背景と実際の復興をたどる。現在の風景を実地に訪ねた記録ではないが、100年という時間を隔てて残された資料を照らし合わせることによって、文学の背後にあるもう一つの歴史が見えてくる。

休校だった学校で、なぜ11人の児童が命を失ったのか

 1926年5月24日午後4時18分ごろ、北海道中央部に位置する十勝岳で大きな噴火が発生した。中央火口丘の一部が崩壊し、高温の岩石や土砂が山腹の残雪を融かしたことで、大量の水と土砂が一体となって流れ下る融雪型火山泥流が生じた。泥流は富良野川や美瑛川の流域を下り、集落や農地、道路、橋梁を襲った。気象庁の記録によれば、泥流の平均速度は時速約60キロメートルに達したと推定され、約25キロメートル離れた山麓の富良野原野まで、およそ25分で到達したとされている。

 時速60キロメートルという数字は、当時の住民にとって何を意味したのだろうか。単純に換算すると1分間に約1キロメートル進む速さであり、危険を認識してから家族を連れて高台へ避難するには、極めて厳しい条件だったことが分かる。ただし、これは泥流の平均的な速さを示したものであり、流れが全区間で一定速度を保っていたわけではない。実際の到達時間や流速は地形、流量、河道の状態によって異なり、個々の集落で避難に使えた時間を、この平均速度だけから正確に算出することはできない。それでも、短時間に広い地域が被災したという事実は、災害の深刻さを十分に物語っている。

 内閣府が2007年にまとめた『1926 十勝岳噴火』によると、被害を受けた上富良野、美瑛、中富良野の3村では、死者123人、行方不明者21人、合わせて144人の人的被害が発生した。そのうち137人は上富良野村に集中しており、残る7人は美瑛村の温泉関係者や湯治客だった。上富良野村の犠牲者137人には、山腹にあった平山硫黄鉱業所の関係者25人が含まれる。鉱業所では福島県などから季節的に働きに来ていた人も多かったため、当時の村の推計人口1万26人を単純に分母として死亡率を求めると、人口に含まれる人々と犠牲者の範囲が一致しない可能性がある。このため、村全体の死亡割合を一つの数字で示すよりも、被害が日新・草分地区などの住民と、山中の鉱業所関係者に集中したことを把握する方が正確である。

 住宅などの被害も甚大だった。上富良野村の推計1,507戸のうち315戸が罹災しており、その割合は約20.9%、ほぼ5戸に1戸に相当する。ただし、これは村内で一様に住宅が破壊されたという意味ではなく、泥流の流路に近い集落ほど被害が集中していた。なかでも日新尋常小学校では、在籍児童46人のうち11人が亡くなり、児童全体の約23.9%が失われた。この数字は地域全体の児童死亡率ではなく、同校の在籍者に対する犠牲者の割合であるが、一つの小規模な学校にとって、その喪失がいかに大きかったかを示している。

 災害の統計では、144人という数字が一つの結果として記録される。しかし、その内側には家族を失った教師がいて、同級生を失った児童がいて、長年耕してきた農地を失った人々がいた。自然科学は泥流が発生した仕組みを説明できるが、昨日まで隣にいた人間が突然いなくなるという経験の重さを、数値だけで表現することは難しい。後に三浦綾子が向き合うことになったのは、こうした統計の背後にある一人ひとりの人生だった。

約50年後、三浦綾子夫妻は何を求めて被災地を訪れたのか

 『泥流地帯』が誕生する直接のきっかけを作ったのは、夫の三浦光世だった。上富良野町の郷土研究誌『郷土をさぐる』第40号に掲載された調査記録によると、北海道新聞の日曜版連載小説を依頼された三浦夫妻は、新しい作品の題材について相談し、光世が1926年の十勝岳噴火を取り上げることを提案した。三浦綾子自身も1997年に上富良野町の記念誌へ寄稿した文章の中で、『泥流地帯』が夫の勧めによって書いた作品であることを明らかにしている。

 しかし、題材が決まったからといって、執筆の見通しが立ったわけではなかった。三浦は1995年の回顧文で、農村生活を十分に知らない自分にとって、被災農家の暮らしを小説にすることは極めて難しかったと振り返っている。そこには、災害の記録を読めば作品が書けるという安易な姿勢は見られない。被災地で暮らしていた人々が何を失い、その後どのように生活を続けたのかを理解するためには、実際に土地を歩き、当事者の声を聞く必要があると考えたのである。

 1975年9月22日、三浦夫妻は上富良野町を訪れ、北海道新聞の合田一道記者や町の関係者の協力を受けながら、災害を経験した住民たちへの聞き取りを行った。『郷土をさぐる』には、夫妻が泥流跡や記念碑を調査し、日新・草分・日の出地区などを訪れた記録が残っている。取材時に撮影された写真も保存されており、古老から話を聞く夫妻の姿や、災害の痕跡を確認する様子が紹介されている。噴火からすでに49年が経過していたが、当時の体験を語ることのできる人々がまだ生存していたことは、作品の成立に大きな意味を持っていた。

 ここで重要なのは、三浦綾子が実際の災害記録を忠実に再現することだけを目的としていたわけではないという点である。小説の主人公である石村拓一・耕作兄弟については、光世自身とその兄をモデルとしたという証言が残されている。吉田貞次郎村長の三女、安井弥生が2003年に寄稿した回想文に記されたもので、光世本人から聞いた説明として紹介されている。この証言からは、実際の被災地の歴史と、作者夫妻に身近な人物像が組み合わされて主人公が形成された可能性がうかがえるが、兄弟の具体的な性格や行動のどこまでがモデルに由来するのかについては、別の資料による検証が必要である。

 こうした取材を経て、『泥流地帯』は1976年1月4日から北海道新聞の日曜版で連載され、後に続編の『続泥流地帯』が書かれた。実際の災害を題材にしながら、架空の人物と実在の人物、史実と創作を組み合わせることによって、人間の苦難と再生を描く長編小説が生まれたのである。したがって、作品を歴史資料と照合する際には、実際に起きた出来事と、作者が文学的な意味を持たせるために構成した人物や場面を、慎重に区別する必要がある。

小説の菊川先生と、実在の菊池政美が歩んだ人生

 三浦綾子の取材と実際の被災者の関係を、最も明確に確認できる人物の一人が、菊川先生のモデルとなった菊池政美である。1982年発行の『郷土をさぐる』第2号には、三浦綾子の「日新小回顧録」と菊池本人の「日新小学校教師の手記」が収録されている。三浦は自らの文章で、菊川先生が菊池政美をモデルとした人物であることを明言しており、両者の関係は単なる研究者の推測ではない。ただし、人物のモデルが確認できることと、作中の会話や出来事のすべてが実際の菊池の経験と一致することは別である。

 菊池の手記を読むと、北海道開拓期の教育環境がどのようなものだったのかも見えてくる。1904年に家族とともに岩手県から北海道へ移住した彼は、小学校卒業後、農場の事務所で働きながら学問を続けた。東京で学ぶ機会を得ながら家庭の事情で断念した経験もあり、十分な教育を受けることが容易ではない時代に、通信講義などを利用して教師になるための勉強を重ねていた。1922年10月、日新小学校の代用教員に採用されたときの辞令には、日給30銭という給与が記されていた。

 その採用試験を行ったのが、当時の吉田貞次郎村長だった。菊池の回想によれば、村長から国語と数学の問題を出され、その場で解答した後に教員として採用されたという。後に災害復興を指揮する村長と、家族を失いながら教育の現場へ戻る教師との間には、実際の歴史においても関係があったことになる。このような小さな事実は、行政資料の数字だけでは見えにくいが、当時の地域社会における人間関係を理解するうえで意味を持つ。

 その4年後、菊池は噴火によって家族4人を失った。災害の翌日に被災地へ戻った彼は、校舎の跡もなくなった場所を確認し、遺体の捜索に加わった。手記には、発見された人々の名前や人数を手帳に記録したことが述べられている。教師としての生活は突然断ち切られ、彼自身も大きな喪失を抱える被災者となった。それでも地域では学校教育を再開するための動きが進められ、1926年6月16日には仮校舎で授業が再開された。

 当日の記録によれば、仮校舎に集まった児童は19人だった。在籍46人から犠牲者11人を差し引くと35人になるが、実際の登校者はそれより16人少なかったことになる。この差は、残る児童がさらに死亡したことを意味するものではなく、被災後の避難や転居、生活上の事情などによって登校できなかった可能性を考慮しなければならない。人数だけから個々の事情を断定することはできないものの、学校が授業を再開しても、児童たちの生活が災害前の状態に戻ったわけではなかったことは理解できる。

 6月24日には亡くなった11人の児童を弔う行事が行われた。建物を再建し、授業を再開することは、教育活動を維持するために必要だったが、それによって失われた家族や友人が戻るわけではない。学校の復旧という行政上の事実と、悲しみを抱えながら生活を続ける人々の時間には、異なる意味がある。菊池政美の手記が貴重なのは、災害と教育再開の経緯を伝えるだけでなく、その二つの時間を一人の教師の人生を通じて考えさせるところにある。

泥に埋まった農地を、なぜ人々は再び耕そうとしたのか

 災害の後、上富良野の住民が直面した最大級の問題は、生活の基盤となる農地をどうするかということだった。家屋が流失し、道路や橋が破壊されたことも深刻だったが、農業を中心に成り立っていた地域にとって、田畑が作物を育てられなくなったことは、将来にわたって生活を続けられるかどうかに直結していた。しかも、被災した農地は、多くの入植者が約30年にわたって森林や原野を開き、少しずつ耕作地として整えてきた土地だった。泥流は、単にその年の収穫を奪ったのではなく、親から子へと受け継がれるはずだった生活の基盤を覆ってしまったのである。

 内閣府の報告書によると、被災地には大量の泥土や流木が堆積し、農地の状態は場所によって大きく異なっていた。上富良野市街地より上流の被災地では、泥流の厚さが45~150センチメートル程度に達する場所もあり、流木の撤去や水路の復旧に多くの労力を要した。さらに問題だったのは、泥流が硫黄を含む物質を運んできたことである。土壌が強い酸性を示すなど、農作物に不適切な条件が生じており、表面を整地しただけでは以前のように稲を育てることができなかった。

 そこで実施されたのが、堆積した泥流土を取り除く方法と、周辺から良質な土を運び込んで覆う「客土」という方法だった。客土工事では、土を運搬するための軽便軌道を敷設するなど、大規模な土木作業が必要になった。さらに排水路や用水路を整え、土壌の状態を改善しなければ、水田として機能させることは難しかった。復興事業は、被災者が自分の田畑を耕し直すだけで完結するものではなく、行政の財政支援、農業技術者の研究、組織的な工事を必要とする地域全体の事業だったのである。

 1928年には約80町歩の水田で本格的な作付けが行われた。現在の面積単位に換算すれば約79ヘクタールに相当するが、発芽した稲の多くは十分に根を張ることができず、風で倒れたり流されたりするほど生育が不安定だった。当時の記録には、種もみの約80%が発芽したにもかかわらず、その後の生育が著しく悪かったことが示されている。発芽率が一定の水準に達していても、それが収穫量の回復を意味するわけではない。植物が発芽することと、根を伸ばして養分を吸収し、穂を実らせることは、農業生産の異なる段階だからである。

 それでも人々は改良を続け、1929年には作付面積が約180町歩、1930年には約250町歩へと広がった。1930年には1反当たり3俵程度、条件の良い場所では5俵程度の収穫が記録されているが、1931年から1932年には凶作が重なり、農業経営は再び厳しい状況に置かれた。1933年になって、ようやく平均して1反当たり2~3俵程度の収穫を継続的に得られる状態になったとされる。内閣府の報告書が水田の再生に約8年を要したと説明するのは、工事によって土地の形を整えることと、農業生産力が安定することの間に、長い時間差があったためである。

 『続泥流地帯』では、拓一と耕作が農地の再生へ向かう姿が物語の重要な軸になっている。しかし、小説の登場人物が特定の田んぼで作物を育てようとする過程と、被災地域全体の農業が生産力を取り戻すまでの歴史は区別しなければならない。前者は個人の経験を中心に描く文学の時間であり、後者は多数の農家や行政、技術者が長期にわたって関わった社会的な復興の時間である。両者を重ねて読むことによって、文学が描いた希望の背後に、実際にはどれほど複雑な課題が存在していたのかが分かる。

復興に反対した人々は、本当に間違っていたのか

 農地を再び耕作できるようにするまで8年近くを要したという事実は、被災直後の住民が復興をめぐって対立した理由を理解する手掛かりになる。現在から振り返れば、上富良野の農業が再建されたことを知っているため、土地を守ろうとした人々の判断が正しかったように見えるかもしれない。しかし、1926年の時点では、どれほど資金を投入すれば農地が回復するのか、そもそも以前と同じように作物を育てられるのか、確実な見通しは立っていなかった。

 内閣府の報告書には、被災した土地を復旧するべきだという意見に対して、農地を放棄して別の未開地へ移住した方がよいという意見や、科学的な調査によって復旧可能性を確かめてから判断すべきだという意見が存在したことが記されている。長年の労働によって開拓した土地を手放したくないという思いには十分な理由がある一方、将来の収穫が保証されない土地へ多額の資金を投じることに慎重になる判断にも、経済的な合理性があった。復興への賛否を、そのまま郷土愛の有無や人間の善悪に置き換えることはできないのである。

 実際に、被害の規模は村の財政能力を大きく上回っていた。内閣府の報告書が整理した上富良野村の被害額は194万7,020円であり、同じ資料に記載された1926年の村の歳入決算額8万7,974円の約22.1倍に相当する。ただし、被害額には民間の土地、家屋、家財などの損失も含まれており、その全額が村の財政負担になるわけではない。また、歳入決算額は自由に使える財源の額と同義ではないため、被害額を22.1年分の村の財政負担と解釈することもできない。それでも、地域全体の被害が当時の村の年間財政規模を大幅に上回っていたことは、資金調達が深刻な問題になった背景を説明している。

 1926年秋には、被災者の救済や信用組合への資金援助をめぐり、村内で激しい対立が起きた。特に信用組合の救済資金を村の借入金によって賄うことについて、市街地の商業者らを中心に反対運動が発生した。その背景には、直接の被害を受けていない住民まで将来の返済負担を負うことへの不満があった。この信用組合救済のための起債と、被災農地の復旧事業のための資金調達は、同じ災害から生じた問題であっても、制度上・財政上は異なるため、反対派の主張をすべて農業復興そのものへの反対と理解するのは正確ではない。

 対立はやがて、吉田貞次郎村長への告発にまで発展した。1926年12月10日、義援金の配分や信用組合救済などをめぐる複数の疑惑が告発されたが、翌1927年1月の調査では告発内容を裏付ける事実が認められず、村長は不起訴となったことが公的な災害報告書に記録されている。したがって、当時の対立が激しかったという事実から、村長に不正があったと断定することはできない。一方、不起訴という結果によって、復興費用の負担や住民間の公平性をめぐる問題そのものが消えるわけでもなかった。

 災害からの復興は、人々が一致団結して苦難を乗り越える物語として語られやすい。しかし、現実の上富良野では、同じ地域に暮らしていても、土地を再生したい人、別の土地で生活を再建したい人、将来の負債を負うことに反対する人がいた。そこにあったのは単純な善悪の対立ではなく、不確実な将来を前にした人々の異なる判断だったのである。文学が復興へ向かう人間の信念を描く一方、行政史や経済史は、その信念を実現するために必要だった資金や制度、合意形成の難しさを明らかにしている。

農地が再生しても、泥流の影響は数十年後まで残っていた

 1933年に水田の生産力が一定の水準まで回復したことは、復興の重要な到達点だった。しかし、農地が再び収穫をもたらすようになったことと、泥流が残した土壌の問題が完全に解消したことは同じではなかった。実際には、その後も農業技術者による調査と土壌改良が続けられ、噴火から半世紀以上が経過しても、泥流由来の物質が水稲栽培に影響していることが研究対象となっていた。

 1940年、農業技師の猪狩源三は『十勝岳爆発流泥に関する調査成績』をまとめ、泥流土の性質や作物への影響、土壌改良の方法などを検討した。この研究は後の農業技術者たちにも引き継がれ、1992年には水野直治、丸岡孔一、稲津脩による「1926年十勝岳泥流水田土壌のイオウと鉄の含有率」が『日本土壌肥料学雑誌』に発表された。噴火から約65年後の農地を調査し、泥流層と、その上に重ねられた客土層に含まれる硫黄や鉄の量、土壌の酸性度などを測定した研究である。

 この論文では、土壌の酸性・アルカリ性を示す水素イオン指数の平均値が、客土層で5.65、泥流層で5.28と報告されている。一般に、この指数は7が中性で、数値が小さいほど酸性が強いため、調査された泥流層は平均的に客土層より酸性が強かったことになる。また、土壌1キログラム当たりの全硫黄含有量は、客土層で平均6.3グラム、泥流層で平均13.6グラムだった。単純に比率を求めると、泥流層の平均硫黄含有量は客土層の約2.16倍に相当するが、これは異なる土層を比較した結果であり、時間の経過によって硫黄が2倍以上に増加したことを意味するものではない。

 研究では、泥流由来の硫黄が長期間にわたって土壌に影響し、客土層の硫黄含有量にも関係していることが示されている。硫黄を含む物質は、酸素と接触する条件では土壌の酸性化に関係し、水田のように酸素の少ない環境では硫化水素の生成につながる場合がある。硫化水素は稲の根に障害を与えることがあり、生育の後半に根の機能が低下して収量が減少する「秋落ち」と呼ばれる現象にも関連する。ただし、実際の障害の程度は硫黄の総量だけで決まるものではなく、鉄の化学的な状態や排水条件、水管理、気温、栽培方法など複数の要因によって左右されるため、一つの測定値から被害の原因を断定することはできない。

 この研究が重要なのは、噴火から約65年が経過しても、泥流によって運ばれた物質が農地の性質に影響を及ぼしていたことを、実際の化学分析によって示している点である。上富良野町では1990年代にも土壌の状態を調べる研究が続けられており、農業復興が一度の土木工事で完了するものではなかったことが分かる。ただし、1990年代の調査結果から、2026年現在のすべての農地に同じ問題が残っていると判断することはできない。現在の状態については、新しい土壌調査や農業生産に関する資料を確認する必要がある。

 『続泥流地帯』が描いた農地再生の物語を、こうした農業科学の歴史と重ねると、復興という言葉の意味が変わって見えてくる。人々が再び田んぼを耕し、最初の収穫を得たことは確かに重要な成果だったが、土地の生産力を維持するための努力は、その後も何十年と続いていた。文学の中で物語が一つの結末を迎えた後も、実際の農地では人々が働き、研究者が土壌を調べ、農業技術が少しずつ更新されていったのである。

三浦綾子が問い続けたのは、苦難を受ける人間の意味だった

 三浦綾子は1995年の回顧文で、十勝岳噴火を題材にした理由について、誠実に生きてきた農民たちが、なぜ大きな苦難に遭わなければならなかったのかという疑問を述べている。そして、人間は不幸や災難をその人自身の過去の行いの結果として理解しようとすることがあるが、実際の出来事は、そのような単純な因果関係では説明できないという問題意識を示した。

 その背景には、三浦自身のキリスト教信仰がある。彼女は同じ文章の中で、旧約聖書の「ヨブ記」にも触れている。ヨブ記は、正しく生きる人間が理不尽な苦しみを受けることの意味を問い、苦難をその人の罪や過失への報いとして単純に説明する考えに疑問を投げかける書物である。三浦が十勝岳噴火をどのように理解し、なぜ人々の苦難を小説にしようとしたのかを考えるうえで、この問題意識は重要な手掛かりになる。

 しかし、三浦の思想を、信仰によってすべての苦難に明確な答えを与えるものと理解するのは適切ではない。本人の回顧から読み取れるのは、むしろ容易には説明できない苦難の存在を強く意識していたということである。十勝岳の噴火には、火山内部の活動や地形、積雪などによる自然科学的な原因があり、泥流がどの方向へ流れ、どの地域に被害を与えたのかも、一定の範囲で科学的に説明できる。しかし、なぜ自分の家族が亡くなり、別の家族が助かったのかという問いは、自然現象の仕組みを説明することだけでは解消されない。

 ここには、自然科学と文学が扱う問題の違いがある。科学は現象の発生条件や危険性を明らかにし、将来の被害を減らすための知識を提供する。一方、文学は、災害によって人生を変えられた人間が、その経験をどう受け止め、残された時間をどう生きるのかという問題に近づくことができる。ただし、文学がその問いに唯一の答えを与えられるわけでもない。苦難の意味を考えることと、苦難そのものを美化することは別であり、災害を経験した人々の悲しみを、後世の読者にとって都合のよい教訓へと置き換えてしまうことには慎重でなければならない。

 実在の教師・菊池政美が残した手記には、家族を失った後も教育の現場へ戻り、学校の再建に関わった人間の姿が記録されている。しかし、彼を単純な英雄として描くことは、その人間的な苦しみをかえって見えにくくするかもしれない。菊池は教師としての責任を果たそうとした一方で、家族を失った一人の被災者でもあった。三浦綾子が関心を寄せたのも、困難を容易に乗り越える超人的な人間ではなく、理不尽な現実に直面しながら生きていかなければならない人間の姿だったと考えられる。ただし、これは本人の発言と取材記録から導かれる解釈であり、作品全体の唯一の読み方として断定するものではない。

100年後の十勝岳は、過去の災害として語れる山なのか

 1926年の噴火から100年となった2026年5月24日、上富良野町では犠牲者を追悼する式典が行われ、約80人が参加した。町の広報誌によれば、式典では泥流災害の記録映像が上映され、参加者が黙とうと献花によって犠牲者を悼んだ。災害を直接経験した人々がほとんどいなくなった時代に、記録映像や地域の歴史を通じて100年前の出来事を振り返ることは、過去の記憶を保存すると同時に、将来の火山災害への備えを考える意味も持っている。

 十勝岳は、1926年の噴火を最後に活動を終えた山ではない。1962年には新たな噴火で5人が死亡し、1988年から1989年にも噴火活動が発生している。火山は人間の生活や行政の区切りとは無関係に活動を続けるため、100年前の災害が歴史上の出来事になったからといって、同じ地域の火山災害の危険性が消えるわけではないのである。

 実際、2026年9月12日には十勝岳の噴火警戒レベルが2から3へ引き上げられた。気象庁が10月12日に発表した情報でも、噴火警戒レベル3に当たる入山規制が継続しており、火口からおおむね3キロメートルの範囲では、大きな噴石などへの警戒が必要とされている。気象庁は、山体付近の地殻変動や火山ガスの放出量、火山性地震の状況などを監視しており、2026年10月15日時点では、火口周辺に影響を及ぼす噴火の可能性を踏まえた警戒が求められている。

 ただし、現在の警戒情報は、1926年と同じ規模の融雪型火山泥流が差し迫っていると予測したものではない。噴火警戒レベル3という情報を、100年前の大災害と直接結び付けて危険性を過大に評価することは避けなければならない。火山活動の監視、噴火警戒レベルの判断、避難の必要性は、最新の観測情報や地形、現時点で想定される現象に基づいて考える必要がある。

 一方、災害の歴史を地域社会がどのように記憶するかという問題には、観測技術や防災施設だけでは扱い切れない側面がある。気象庁の記録は火山活動の変化を伝え、砂防施設は泥流などによる被害の軽減を目指し、行政の防災計画は住民の生命を守るための体制を整える。そして、郷土史や文学は、かつてその土地で暮らし、災害によって人生を変えられた人々の存在を伝える。これらは互いに代わりになるものではなく、異なる役割を果たしながら、地域が災害と向き合うための知識と記憶を支えているのである。

泥流の向こうに、三浦綾子が残した問い

 三浦綾子は1982年、日新小学校の閉校を知ったときの思いを文章に残している。『泥流地帯』と『続泥流地帯』を書くために取材した学校が、長い年月を経て閉じられることに、深い感慨を覚えたという。かつて泥流によって校舎を失い、多くの児童が犠牲となった学校は、地域の人々の努力によって再建され、教育活動を続けてきた。その学校が、災害とは別の時代の変化の中で役割を終えようとしていたのである。

 復興とは、災害によって失われたものを元に戻すことだと考えられがちである。しかし、実際の地域社会は一度復旧すれば同じ姿のまま続くわけではない。学校が再建されても、児童の数や地域の人口構成は変わり、農地が再生しても、農業技術や経営環境は時代とともに変化する。災害からの復興は、過去の状態を永久に保存することではなく、失われたものを抱えながら、その後の生活を築き続ける過程と考えることもできる。

 1926年に家族を失った教師の手記、農地復旧をめぐる村の記録、土壌を研究し続けた農業技術者の報告、約50年後に被災者の声を聞いた三浦夫妻の取材記録、そして100年後の追悼式。これらを一つの時間の流れとして重ねると、『泥流地帯』が生まれた背景には、一度の噴火によって始まり、その後何十年にもわたって続いた人々の営みが存在していたことが分かる。災害の犠牲者数や復興費用を正確に記録することは重要だが、そうした数字の背後にある人間の生活を考えるには、別の視点も必要になる。

 もっとも、文学だけで災害のすべてを理解することはできない。小説には創作があり、登場人物の言葉や行動がそのまま史実を表しているとは限らない。一方、行政資料や科学論文にも、それぞれが対象とする範囲の限界がある。公的記録は被害の規模や制度の経緯を明らかにし、研究論文は土壌の性質や農業への影響を数値として示すが、それだけで被災者一人ひとりの人生を十分に伝えられるわけではない。資料の性質を区別しながら重ねて読むことによって、災害の歴史は、より立体的に理解できるものになる。

 三浦綾子が『泥流地帯』に託したものを、一つの言葉で表すことは難しい。しかし、本人の寄稿文や取材記録からは、誠実に生きる人間がなぜ理不尽な苦難を受けなければならないのかという疑問と、その苦難の中で人はどう生きるのかという問いを読み取ることができる。それは、災害を経験した人間だけに向けられた問いではなく、平穏な生活がいつまでも続くとは限らない社会に生きる、私たち自身にも関わる問題である。

 十勝岳の噴火から100年。泥流に埋まった農地では再び作物が育てられ、災害を経験した人々の声は、郷土史や手記、文学の中に残されている。一方で、火山は今も活動を続け、地域社会には将来の災害へ備える責任がある。過去の悲劇を知ることは、単に犠牲者を悼むことだけではなく、災害を引き起こす自然現象を理解し、被害を減らす方法を考え、生活を再建するための社会の仕組みを検証することにもつながる。

 災害を理解するには科学が必要であり、復興を実現するには制度と技術、そして人々の協力が欠かせない。しかし、失われた命と残された人々の人生をどう受け止めるのかという問題には、それだけでは答え切れない部分が残る。三浦綾子が約50年前に被災地を訪れ、そこで生きた人々の経験を小説へと変えた意味も、その残された部分にあるのではないだろうか。

 『泥流地帯』が生まれてから半世紀、十勝岳の大正泥流から100年。時代が変わり、地域の姿が変わっても、理不尽な苦難に直面した人間がどのように生き続けるのかという問いは、過去のものにならない。三浦綾子の文学は、災害の歴史を知るための入り口であると同時に、その歴史の中に生きた人々の存在を、後世の読者がもう一度考えるための手掛かりを残している。

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