リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

小説は同じなのに、読んでいる物語が違ってくる

 20歳のころに読んだ小説を、60歳になってもう一度開く。ページに並んでいる文章は40年前と変わらず、登場人物の年齢も性格も、彼らが選んだ仕事も恋愛も失敗も変わっていない。それなのに読み進めていると、ときどき「こんな話だっただろうか」と思う瞬間が訪れ、以前は魅力的に見えた主人公がひどく身勝手に思えたり、ほとんど記憶に残っていなかった脇役の一言が妙に心に残ったりする。

 変わったのは小説ではなく読者である。しかし、ここで「人は年を取るほど人間を見る目が深くなる」と簡単に片づけてしまうと、おそらく本当の面白さを取り逃がす。心理学の研究を見ても、加齢によって他人の気持ちを読み取る能力が一方向に向上していくわけではなく、むしろ年齢とともに低下しやすい認知能力がある一方で、対人関係の葛藤について複数の立場を考えたり、簡単には答えが出ないことを受け入れたりする傾向が強くなる場合もあることが報告されている。

 したがって、20歳の読者より60歳の読者のほうが優れているという話ではない。同じ文章を前にしても、どこに視線を向けるか、どの人物の事情を想像するか、何を重大な問題だと感じるかが変わっていくのである。

20歳の読者は、主人公のすぐ近くにいる

 20歳前後で小説を読むとき、物語の中心にいる人物と自分との距離は近い。主人公が家を出れば、その先にある自由を感じ、会社や学校に反発すれば、その息苦しさに共感し、恋のために仕事を捨てようとする人物が登場すれば、その選択の危険よりも、そこにある情熱のほうが鮮やかに見える場合もある。

 これは若い人が単純だからではない。20歳前後という年代では、自分自身の人生もまだ大きく開かれており、「これから何になるのか」「どこで生きるのか」「誰を選ぶのか」という問いが現実の問題として目の前にあるため、物語の中でも未来へ向かって走る人物が自然に中心になるのである。

 ところが60歳で同じ場面を読むと、主人公の後ろに別の人々が見えてくることがある。主人公が仕事を辞めれば、その収入を前提として暮らしている家族はいないのかと思い、恋のために家庭を離れれば、残された配偶者や子どもの翌朝まで想像してしまうので、若いころには主人公と一緒に走っていた読者が、いつの間にか少し離れた場所から物語全体を見るようになる。

 ただし、これは年齢だけで起こる変化とは限らない。仕事を続けた経験、結婚、子育て、親の老い、介護、病気、死別、金銭的な責任など、その人が40年間に経験した出来事が読書の中へ入り込んでいる可能性が大きく、60歳という数字そのものより、そこへ至るまでに積み重なった生活のほうが重要なのかもしれない。

昔は邪魔に見えた人物が、急に理解できることがある

 再読で最も不思議なのは、以前は物語の邪魔をしているようにしか思えなかった人物が、突然、存在感を持ちはじめることである。主人公を止めようとする父親、現実的なことばかり言う母親、夢より生活を選ぶ友人、家族を守るために慎重になる配偶者などは、若い読者から見ると臆病で保守的な人間に見えることがある。

 ところが長い時間を生きたあとで読むと、「そんな無茶はやめなさい」という言葉にも別の響きが生まれ、その人物は単に変化を嫌っているのではなく、失敗したあとの生活まで想像していたのではないか、自分自身も若いころには似た夢を持っていたのではないかと考えはじめることで、物語には書かれていない時間まで見えてくる。

 社会心理学の研究では、対人関係の葛藤について考える場合、高齢者のほうが複数の視点、不確実性、妥協といった要素を考慮することがあると報告されているが、これはすべての人に当てはまるわけではなく、文化によっても違いがある。日本の若者と米国の若者を比較した研究では、日本側では若い段階から複数の立場を考慮する傾向が比較的強く、年齢による変化が米国ほど明瞭ではないという結果もある。

 つまり、20歳では単純で60歳では複雑になるという一本道ではない。それでも、長い人生経験が小説の中にある空白を埋める材料になることはあり得るし、読者は書かれている言葉だけではなく、その言葉を言わせた人生まで想像するようになるのである。

悪人が悪人だけではなくなり、善人も善人だけではなくなる

 若いころの読書では、人物の輪郭をはっきりさせることで物語を理解することがある。勇敢な人と臆病な人、誠実な人と卑怯な人、自由な人と古い価値観に縛られた人というように分ければ、物語は分かりやすい。

 しかし現実の人間関係を何十年も経験すると、その分類が少しずつ不安定になる。誠実な人が誰かを傷つけることもあれば、身勝手に見えた選択が長い時間のあとでは別の意味を持つこともあり、愛情から相手を束縛する人もいれば、責任感が強すぎるために冷酷になる人もいるので、現実の人間がそんなに整然とは分類できないことを知ると、小説の登場人物もまた単純な善人や悪人ではなくなる。

 だからといって、年を取れば何でも許せるようになるわけではない。むしろ逆に、若いころには大胆で格好よく見えた行動を、60歳になってから読むと無責任だと感じる場合もあるが、それでも「この人物は間違っている」で思考を止めず、「なぜ、この人物はこういう選択をしたのだろう」と考える余地が生まれる。

 年齢とともに他者の感情や意図を正確に読み取る能力が必ず高くなるわけではないことも、心理学研究では示されている。それでも、正解を当てる能力と、複数の可能性を考える姿勢とは同じものではなく、60歳の読者が20歳の読者より人間を正確に理解できるとは限らないものの、人間を簡単には決めつけなくなる場合はあるのである。

恋愛小説では、物語の「その後」が見えてくる

 恋愛を扱った小説は、再読による変化が特に分かりやすい。20歳で読むとき、「2人は結ばれるのか」という問いが物語の中心に見えることがあり、告白するのか、別れるのか、再会するのかという出来事が大きく見え、恋愛の成否が人生そのものを決めるように感じられる。

 ところが60歳になって同じ物語を読むと、物語が終わった場所の先に、30年、40年の時間を想像してしまうことがある。激しく愛し合った2人が結婚したとして、同じ気持ちのまま何十年も暮らせるのか、病気になったらどうするのか、収入が減ったらどうするのか、親の介護が始まったらどうするのか、どちらかが先に老いたらどうするのかと考えているうちに、20歳では「結ばれた」という場所に結末を感じていたのに、60歳ではそこが人生の入口に見えてくる。

 もちろん、60歳の読者が必ずこう考えるという科学的証拠があるわけではなく、これは人生経験と時間感覚の変化から考えられる、十分あり得る読み方の1つである。しかし、人は年齢とともに将来の時間を無限に感じにくくなり、現在の感情的な意味や重要な人間関係を重視するようになるという心理学の理論は、この変化を考えるうえで示唆的である。

 若い読者が「この恋は始まるのか」を読み、年齢を重ねた読者が「この関係は続くのか」を読むことがあるとすれば、同じ恋愛小説の中で見ている時間の長さそのものが変わったということなのだろう。

親を描いた人物は、自分の立っている場所によって変わる

 親子関係を描いた場面では、読者自身の立場が人物評価に強く影響する。20歳で小説を読んでいるとき、多くの読者は子どもの側から親を見るため、親が進学や就職、結婚に口を出せば、それは干渉に見え、主人公が家を出れば解放に感じられる。

 しかし、その後に自分が親になったり、親の老いを見たり、介護を経験したり、親を失ったりすると、同じ小説の父親や母親に別の表情が見えることがある。かつてはただ口うるさいと思っていた言葉の中に、不器用な心配を感じるようになり、子どもを束縛しているように見えた親にも、自分の手から子どもが離れていく寂しさがあったのではないかと想像する。

 ここでも重要なのは、60歳だから理解できるのではないということである。20代で親の介護を経験する人もいれば、60代でも子どもを持たない人もいるため、登場人物の評価を変えるのは年齢だけではなく、その読者が何を経験したかである。

 年齢は時計で測れるが、人生経験は時計だけでは測れない。同じ60歳でも40年間に経験した出来事はまったく違い、その違いがあるからこそ、同じ小説を60歳の10人が読んでも、10通りの再読になる。

60歳だから変わったのか、それとも2回目だから変わったのか

 再読について考えると、さらに厄介な問題が出てくる。20歳のときが初読で、60歳のときが2回目なら、評価が変わった原因は年齢だけではないからである。

 初めて読む小説では、「次に何が起こるのか」が大きな関心になり、誰が裏切るのか、恋は成就するのか、事件はどう解決するのかを知らないため、物語の展開そのものに注意が向く。しかし2回目には結末をある程度知っているため、細かな会話や脇役の反応、最初の読書では気づかなかった伏線に目を向ける余裕ができる。

 文学作品の再読についての研究でも、2回目の読書では理解の仕方や注意の向け方が変化することが示されているため、60歳になって脇役が気になるようになったとしても、それがすべて40年間の人生経験によるものとは限らず、単純に2回目だから見えるようになった部分もある。

 20歳から60歳までの変化を本当に確かめるなら、同じ人物に同じ小説を何十年も隔てて読んでもらい、そのたびに登場人物への好感度、共感、責任の評価などを記録しなければならないだろう。それほど長い研究は容易ではないため、「20歳と60歳では必ずこう変わる」と科学的に断定できるほど直接的な証拠はまだ十分ではないが、それでも再読という行為に年齢、経験、記憶が同時に入り込むからこそ、昔の本を読むことは興味深いのである。

その典型例の一つが森鷗外『舞姫』かもしれません。豊太郎を若い時に読む場合と、人生経験を重ねてから読む場合では評価が変わる可能性があります。「舞姫の豊太郎は本当にひどい男なのか」でも、この問題を別の角度から考えました。

同じ作品を読むことは、昔の自分を測ることでもある

 40年前に読んだ小説を読み直したとき、昔嫌いだった人物を好きになっていたなら、それは作品が変化したからではないし、かつて憧れていた主人公に違和感を覚えたなら、それもまた、現在の自分と過去の自分との間に何かが起きたということである。

 ただし、その変化を「成長」という一語で片づける必要はない。若いころには見えていたものを、年齢を重ねることで失う場合もあり、20歳だからこそ主人公の衝動を理解でき、60歳になると現実を知りすぎたために、その無謀さの中にあった美しさを感じにくくなることもあるだろう。

 反対に、若いころには退屈だと思った慎重な人物の苦しみが、後になって理解できることもある。つまり読書の変化は、若い自分から成熟した自分へ一直線に進む物語ではなく、何かが見えるようになる一方で別の何かが見えにくくなるという交換を繰り返していくものであり、その交換こそが、年齢を重ねることなのかもしれない。

20歳の読みと60歳の読みは、どちらが正しいのか

 ここまで考えると、最後に奇妙な問題が残る。20歳で「この主人公は正しい」と思い、60歳で「いや、この主人公は身勝手だ」と思った場合、本当に正しいのはどちらなのだろうかという問題であるが、おそらくこの問いには簡単な答えがない。

 20歳の読者には、60歳の読者には戻れない感覚がある。人生がまだ大きく開かれていて、失敗しても先があると思える時期だからこそ、無謀な人物の決断に込められた希望を強く感じることができる一方で、60歳の読者は、選択には代償があり、その代償を本人以外の誰かが引き受けることもあると知っているため、どちらかが物語を誤読しているのではなく、人生の異なる場所から同じ人物を見ているのである。

 だから名作と呼ばれる小説は、一度読んで理解して終わる作品ではないのかもしれない。20歳には20歳の読書があり、40歳には40歳の読書があり、60歳には60歳の読書があって、さらに70歳や80歳になれば、また別の人物が気になり始める可能性さえある。

再読とは、昔の自分に会いに行くことである

 昔読んだ本を本棚から取り出すとき、そこに待っているのは登場人物だけではなく、その本を読んでいた過去の自分もページのどこかに残っている。20歳の自分は、この主人公に憧れ、あの人物を嫌い、ある場面で胸を熱くし、別の場面をほとんど覚えていなかったかもしれないが、60歳になった自分は、その若い読者の隣にもう一度座り、同じ文章を読みながら、少し違う場所で立ち止まる。

 20歳の自分が「この主人公は勇敢だ」と言えば、60歳の自分は「その勇気の代償を誰が払ったのだろう」と考えるかもしれず、60歳の自分が「この父親の気持ちは分かる」と言えば、20歳の自分は「それでも主人公には自分の人生を選ぶ権利がある」と反論するかもしれないが、その2人のうち、どちらか一方だけが正しいわけではない。

 心理学の研究からも、人間の考え方は年齢とともに単純に向上するのではなく変化していくと考えたほうが現実に近く、情報処理の速さや他者の意図を素早く読み取る力が変化する一方で、人生経験や時間に対する感覚が判断に別の奥行きを与えることもあり、読書の場合にはさらに再読そのものの効果が加わる。

 そう考えると、20歳で読んだ小説を60歳でもう一度読むという行為は、「同じ本をもう一度読む」ことではないのだろう。同じ文章を使って、異なる人生を生きた2人の自分が、それぞれの物語を読んでいるのであり、小説は40年間ほとんど同じ場所にいたとしても、読者はその間ずっと生きていた。

 だからページをめくったときに物語が違って見えるのは当然なのかもしれない。本が変わったのでも、登場人物が変わったのでもなく、40年という時間を歩いてきた自分が、かつてとは違う場所から同じ人々を見ているのである。

 再読とは、懐かしい物語を訪ねることではなく、昔の自分と現在の自分を同じページの上で出会わせる、静かな実験なのかもしれない。

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「聴く読書」に感じる小さな違和感

 電車の中で本を開いている人を見ると、私たちは迷わず「あの人は読書をしている」と考える。では、同じ電車の中でイヤホンを耳に入れ、小説の朗読を聴いている人はどうだろう。その人が夏目漱石の『こころ』を聴き、登場人物の言葉に胸を締めつけられ、物語の結末を考え続けていたとしても、私たちはそれを紙の本とまったく同じ意味で「読書」と呼ぶことに、どこか小さなためらいを覚える。

 そのためらいの正体は、おそらく「読書とは文字を目で追う行為である」という長い習慣にある。本を読む人は、紙や画面に並んだ文字を目で捉え、それを言葉として認識し、意味を組み立てながら文章の世界へ入っていく。一方、オーディオブックでは、文字を音声へ変換する仕事のかなりの部分を朗読者が引き受けるため、聴く側はすでに声になった言葉から意味を受け取ることになる。その違いだけを見れば、紙の本とオーディオブックは同じではない。

 しかし、そこで問題になるのは、小説を読む本当の目的が文字そのものを見ることにあるのか、それとも言葉から人物や風景や感情を立ち上げることにあるのかという点である。私たちが小説を読み終えた後に覚えているのは、活字の形ではなく、雪の降る町であったり、古びた家の匂いであったり、主人公が言えなかった一言であったりする。読者の頭の中には、紙の上には存在しない風景や人物の声が生まれ、ときには現実の記憶よりも鮮やかな感情さえ残る。

目から入るか、耳から入るか~脳はどう処理しているのか

 この部分については、単なる印象論だけでなく、認知科学や神経科学の研究からも一定の裏付けが得られている。読む場合と聴く場合では、最初に情報を受け取る経路が異なり、文字は視覚から、音声は聴覚から入ってくるが、その後に言葉の意味を理解し、文脈をつなぎ、物語全体を解釈していく過程にはかなり共通した部分があることが、脳機能を調べた研究から示されている。つまり、入口は違っていても、意味を処理する段階に進むほど、読むことと聴くことには重なりが大きくなるのである。

 理解度についても興味深い結果がある。2022年に発表されたメタ分析では、46研究、合計4,687人について、文章を読む場合と聴く場合の理解度が比較されている。その結果、全体として両者の差は非常に小さく、統計的に明確な差は認められなかった。効果量はHedgesのgで0.07程度であり、この数字だけを見るなら、平均的な理解度について「読む方が圧倒的に優れている」とは言えない。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、「差が見つからなかった」ということと、「完全に同じである」ということは別だという点である。研究によって結果にはかなり大きなばらつきがあり、文章の難しさ、読む人の能力、自由に読み返せるかどうか、課題が単純な内容確認なのか、それとも深い推論を必要とするのかによって結果は変わる。したがって、オーディオブックは紙の本と完全に同じというより、条件が整えば理解や記憶の面でかなり近い結果になり得る、と表現するのが最も正確である。

紙の本には「時間を自分で支配できる」という強みがある

 実際、自分の速度で文章を読める場合には、読む方がわずかに有利になる研究結果もある。これは考えてみれば自然なことで、紙の本や電子書籍であれば、意味の分からない1文に出会ったときに、その場で止まることができるからである。少し前へ戻って読み直すこともできれば、美しい文章に出会ったときに、同じ1行を何度も眺めることもできる。読書では、時間の流れを読者自身が細かく支配できるのである。

 オーディオブックにも一時停止や巻き戻しの機能はあるが、通常は朗読者の速度で物語が進んでいく。そのため、複雑な文構造を細かく検討したり、比喩の意味を考えたり、登場人物の関係を行き来しながら確認したりする読み方では、文字の方が扱いやすい。特に文章から深い推論を求められる課題では、読む方が有利になる傾向が示された研究もあるため、「難しい文章ほど音声でも同じように理解できる」とまでは言えない。

 その一方で、小説のように物語の流れが重要な文章では、オーディオブックの強みもはっきりしている。実際にオーディオブックと電子書籍を比較した実験では、直後の理解度や2週間後の記憶について、両者に大きな違いが見られなかった研究もある。少なくとも、内容に注意を向けて聴いている限り、オーディオブックだから著しく理解が落ちると考える根拠は弱い。

「ながら聴き」は、どこまで読書と呼べるのか

 それでも、オーディオブックには文字読書にはない別の問題がある。それが注意の逸れやすさである。人間は耳から言葉を聞いていても、意識が別のことへ向かってしまうことがある。研究では、文章を黙読する場合よりも、聴いている場合の方がマインドワンダリング、つまり注意が文章から離れて別のことを考えてしまう現象が起こりやすいという結果も報告されている。

 そのため、「ながら聴き」をすべて同じものとして扱うのは適切ではない。散歩をしながら小説を聴くことと、複雑な計算をしながら聴くことでは、必要とされる注意の量がまるで違う。単純な家事や歩行であれば物語へ十分に注意を向けられる人もいるが、判断や記憶を強く必要とする作業と同時に聴けば、内容の理解が浅くなる可能性は高くなる。

 もっとも、注意がそれる問題はオーディオブックだけの弱点ではない。紙の本を開いていても、別のことを考えながら目だけが数ページ進んでしまうことはある。ページをめくったという事実と、その文章を理解したという事実は同じではなく、同様に、音声が流れていたという事実と、物語を聴いていたという事実も同じではない。結局のところ、媒体そのものよりも、どれだけ注意を向けて内容を処理しているかが大きな意味を持つ。

朗読者という「もう1人の解釈者」

 さらに、オーディオブックでは朗読者という存在を無視できない。紙の本では、登場人物がどのような声で話すのか、怒っているのか、疲れているのか、諦めているのかという多くの部分を読者自身が頭の中で補う。しかしオーディオブックでは、朗読者が声の高さ、速さ、間の取り方、抑揚を与えるため、作品と聴き手の間にもう1人の解釈者が加わることになる。

 この違いも、単なる好みの問題だけではない。音声に含まれる抑揚や間、アクセントなどはプロソディーと呼ばれ、人間が文章の意味や感情を理解するうえで重要な役割を持っている。不自然な抑揚や不自然な区切り方をすると、文章の理解が低下することが研究でも示されており、朗読者の読み方によって作品の受け取り方が変化することには、言語学的な根拠がある。

 優れた朗読者に出会うと、紙で読んだときには気づかなかったユーモアや悲しみが浮かび上がることがある一方、自分が思い描いていた人物とは違う声が与えられることで、作品の印象が変わってしまうこともある。したがってオーディオブックは、紙の本を単純に音へ置き換えたものではなく、原作と朗読者と聴き手の3者によって成立する、少し異なる物語体験だと考えた方がよい。

物語を「耳で受け取る」ことは新しいのか

 それでは、オーディオブックを聴いた人が「この小説を読んだ」と言うのは間違いなのだろうか。歴史を振り返れば、この問題は意外に単純ではない。物語は、文字が広く普及する以前から声によって伝えられてきたし、神話や伝説、詩、昔話の多くは、人が語り、それを別の人が聴くことによって受け継がれてきた。声を通して物語を受け取る文化には非常に長い歴史があり、オーディオブックは突然現れたまったく新しい習慣ではない。

 ただし、昔の人々がすべて声に出して本を読み、黙読をほとんどしなかったと断定するのは正確ではない。古代にも黙読は存在していたと考えられており、歴史的には音読と黙読が時代や社会によって異なる形で共存していたと見る方が安全である。ここから言えるのは、声によって物語を受け取る行為そのものは、人類の読書文化から外れた異例のものではないということなのである。

読書の価値は「苦労の量」で決まるのか

 興味深いのは、私たちが「読書」という言葉に、知らないうちに努力の量まで含めて考えてしまうことである。厚い本を何時間もかけて読んだ人には、どこか立派なことをしたという印象を持ちやすいのに、同じ作品を散歩や家事をしながら聴いた人には、少し手軽な方法を選んだような印象を抱きやすい。しかし、小説を味わう価値が苦労した時間の長さによって決まるわけではない。

 もちろん、文章そのものの形を味わいたい作品では、文字を見ることに特別な意味がある。句読点の置き方、漢字とひらがなの使い分け、改行、余白、文の長さまで含めて作品になっている文学では、紙や電子書籍で読むことでしか受け取れないものがある。推理小説で人物関係を何度も確認したい場合や、難解な文章を往復しながら理解したい場合にも、文字の方が向いている。

 反対に、会話が多く、物語の流れそのものを楽しむ小説では、声によって人物が立ち上がり、紙で読んだとき以上に作品の世界へ入り込める場合がある。とりわけ目の疲れを感じる人や、長時間本を持つことが難しい人、日常生活の中で読書時間を取りにくい人にとって、オーディオブックは単なる代用品ではなく、文学へ戻るための新しい入口になり得る。

「同じではない。しかし、かなり近い」

 そう考えると、「オーディオブックで小説を聴くことは読書と同じなのか」という問いに、完全な「はい」か「いいえ」を求めること自体が少し乱暴なのかもしれない。文字を読む行為と音声を聴く行為は、感覚の入口も、時間の使い方も、注意の働き方も同じではない。しかし、言葉から意味を受け取り、登場人物を想像し、物語の続きを予想し、ときには自分自身の人生を重ねながら考えるという中核部分については、両者にはかなり大きな共通領域がある。

 科学的に最も慎重に表現するなら、「読むことと聴くことは完全には同じではないが、注意を十分に向け、内容を理解するという条件では、理解度や記憶の面でかなり近い結果になることが多い」ということになる。逆に言えば、読む側にも聴く側にも絶対的な優位があるわけではなく、文章の種類、難しさ、環境、目的によって適した方法が変わるのである。

最後に残るのは、文字でも声でもない

 本を閉じた後、その物語はもう紙の上だけにあるのではない。読者の記憶の中へ移り、登場人物の言葉や情景が、その人自身の経験と混ざりながら残っていく。オーディオブックも同じであり、イヤホンを外した瞬間に声そのものは消えても、物語は頭の中に残る。

 だから読書とは、単に目で文字を追う技術の名前ではなく、言葉を通して、自分ではない誰かの人生を一時的に生きる行為でもあるのだろう。紙の本を開く人も、電子書籍の画面を見る人も、イヤホンから物語を聴く人も、入口はそれぞれ違っているが、物語の森に入った後に歩く道は驚くほど近い。そして、その森から戻ってきたとき、入る前とはほんの少し違う人間になっているのであれば、その体験を読書と呼ぶことに、大きな無理はない。

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 同じ小説なら、紙の本で読んでも電子書籍で読んでも、そこに書かれている文章そのものは変わらない。主人公が駅に降り立つ場面も、恋人と別れる場面も、最後に明かされる秘密も同じであり、それならば読書という経験も同じになるように思える。しかし実際には、同じ作品を紙と電子の両方で読んだ人のなかには、どこか違う感触が残ったと感じる人もいる。その違いは、紙のほうが優れていて電子書籍が劣っているという単純な話ではなく、人間が文章をどのように記憶し、物語の時間をどのように感じ、読むという行為を身体と結びつけているのかという、意外に奥深い問題につながっている。

 まず確認しておかなければならないのは、小説の「内容を理解する」という点では、紙と電子書籍の違いは私たちが想像するほど大きくないということである。紙とデジタルの読書を比較した多くの研究をまとめた分析では、説明文や学習教材については紙で読んだほうが成績のよい傾向が見られることがある一方、物語文だけに限ると、その差は非常に小さくなる。二千人を超える読者を含む複数の研究をまとめた分析でも、小説などの物語を読んだ場合、紙と電子の間に統計的に明確な理解度の差が確認されないという結果が報告されている。

 この事実は重要である。電子書籍で読んだから物語を理解できなくなるわけではなく、紙で読めば必ず記憶に残るわけでもない。優れた小説は、紙のページからでも電子端末の画面からでも、読者を物語の中へ連れていくことができる。それにもかかわらず、両者を読み比べるとどこか違うと感じる人がいるのだとすれば、その違いは文章の理解そのものではなく、文章を取り囲んでいる別の要素にあるのかもしれない。

物語には「場所」が生まれる

 紙の本を読んでいると、文章は一冊の本の内部に物理的な場所を持つ。ある場面がまだ前半だったのか、中央付近だったのか、結末に近いところだったのかを、読者は必ずしも意識して覚えているわけではないが、内容と本の位置が結びついたように感じることがある。「確か、あの出来事はまだ本の前のほうだった」「この会話は半分を少し過ぎたあたりにあった」という感覚であり、こうした記憶にはページ番号だけでなく、本の厚みやページをめくった経験も関わっている可能性がある。

 実験研究でも、このような考えを部分的に支持する結果が得られている。紙の本と電子書籍端末で同じミステリー小説を読ませた実験では、一般的な内容理解や読書時間、物語への没入度には大きな違いが見られなかった一方で、物語の出来事を正しい順番に並べ直す課題では、紙で読んだ人のほうが正確だったという結果が報告されている。この研究だけですべての読者や小説について結論を出すことはできないが、紙の本が持つ物理的な位置情報が、物語の出来事を時間の流れの中に配置するときの手掛かりになる可能性は考えられる。

 ただし、「紙の本なら文章が右ページの上にあったことまで正確に覚えられる」と断定することはできない。同じ実験でも、ある出来事が文章全体のどこに書かれていたかという空間的位置について、紙と電子の間に明確な差が確認されなかった項目があるからである。したがって、紙は位置記憶に必ず優れていると考えるよりも、紙では文章に加えて本の厚みやページの移動といった複数の手掛かりを利用でき、それが特定の条件では記憶を助けることがある、と考えるほうが科学的には妥当である。

ページをめくるという身体的な読書

 紙の本では、読者は文章だけを見ているわけではない。右手にはまだ読んでいないページがあり、左手には読み終えたページが積み重なっていき、その厚みは読書が進むにつれて少しずつ変化する。指で一枚ずつページをめくりながら読み進めるため、物語の進行と身体の動作が連続しているのであり、こうした触覚や運動感覚を考えれば、読書には視覚だけでは説明できない身体的な側面があると言える。

 電子書籍にも進行率やページ番号、残り読書時間などを表示する機能があり、物語のどこまで進んだかという情報だけなら、紙より正確に示すことさえできる。しかし「現在43%」と数字で知ることと、右手に残っているページの束が薄くなっていくことを指先で感じることは、同じ情報を受け取っているようでいて経験としては異なる。前者は数値として把握する進行であり、後者は本という物体そのものの変化として感じる進行だからである。

 もっとも、この身体的な違いが、そのまま小説の理解度の差になるわけではない。そこを混同すると、「紙のほうが身体的だから優れている」という結論に飛躍してしまう。研究から比較的確かに言えるのは、媒体によって利用できる感覚的な手掛かりが異なるということであり、それが記憶や順序把握にどの程度影響するかは、文章の種類や端末の設計、読み方によって変わると考えるほうが自然である。

本当に重要なのは「紙か電子か」だけではない

 紙と電子書籍を比較するとき、つい二つの媒体だけを向かい合わせて考えたくなるが、近年の研究を見ると、それだけでは十分ではないことが分かってきている。デジタル読書といっても、スマートフォンで長い文章を上下にスクロールして読む場合と、電子書籍専用端末で一ページずつ送って読む場合とでは、読書環境が大きく異なるからである。

 多数の研究を統合した分析では、画面を上下にスクロールしながら読む条件では紙のほうが読解成績で有利になる傾向が見られる一方、紙の本に近いページ送り方式を採用したデジタル読書では、紙との明確な差が見られなくなる場合がある。この結果から考えると、「電子だから理解しにくい」のではなく、スクロールによって文章全体の位置関係を把握しにくくなったり、画面上の操作が注意を分散させたりすることが影響している可能性がある。

 つまり読書体験を決めるものは、「紙か電子か」という一つの変数だけではない。小説なのか説明文なのか、スマートフォンなのか電子書籍専用端末なのか、スクロールなのかページ送りなのか、文字の大きさはどうか、読む時間に余裕があるのかといった条件が複雑に重なっている。紙と電子を単純に優劣で比較するよりも、どのような条件で読んでいるかを考えたほうが、現実の読書をよく説明できるのである。

本の残り具合は、物語の未来を教えてしまうのか

 紙の本には、電子書籍にはない興味深い特徴がある。どれだけ意識しないようにしても、読者には本の残りの厚さが見えてしまうことである。物語がまだ三分の一しか進んでいないのか、残り十ページしかないのかを身体的に感じ取れるため、それが物語の展開を予測する材料になることは十分に考えられる。

 推理小説で残りページがほとんどないのに新しい容疑者が登場すれば、「この人物が中心となる長い展開はもうないだろう」と考える読者もいるかもしれないし、反対に分厚いページが残っていれば、「まだ大きな展開が待っているのではないか」と期待することもあるだろう。紙の本では、物語そのものとは別に、本の物理的な残量が読者に情報を与えているのである。

 ただし、この現象については慎重に考える必要がある。残りページの厚みが読者の予測をどの程度変え、それが物語への驚きや没入感にどれほど影響するのかについては、現在の研究だけで強く断定できる段階ではない。そのため、「紙の本は物理的にネタバレをする」「電子書籍のほうが結末を予測しにくい」と言い切るよりも、紙の本では残りの分量が見えるため、展開を推測する一つの手掛かりになる可能性がある、と捉えるほうが適切である。

電子書籍には、本の厚みが消えることで生まれる自由がある

 紙の本が触覚的な手掛かりを持っている一方で、電子書籍には本という物体から文章を切り離すことによって生まれる利点がある。百ページの短編も千ページの長編も端末の重さはほとんど変わらず、何十冊もの本を一度に持ち歩くことができ、文字を大きくしたり背景の明るさを調整したりすることもできるため、視力や読む場所に合わせて読書環境を変えられる。

 さらに、本の残りの厚みが視界に入らないことを好む読者もいるだろう。進行率を表示しなければ、紙の本ほど直接的には終わりの近さを感じないため、「あとどれくらいで終わるのか」という意識から離れて物語を読める可能性がある。ただし、これによって電子書籍のほうが小説への没入度が高くなると一般化することはできず、紙と電子書籍を比較した実験では、物語への没入そのものには明確な差が確認されない研究もある。

 この結果は、紙か電子かという媒体そのものより、読者と物語との相性のほうが大きいことを示唆している。紙の本を持つと落ち着いて物語に入れる人もいれば、分厚い本を意識せず電子端末で読んだほうが集中できる人もいるのであり、そこには普段の読書習慣や端末への慣れも関係しているはずである。

読み終わった本は、記憶の中だけでなく部屋にも残る

 紙の本には、読んでいる最中だけではなく、読み終えたあとにも電子書籍とは異なる時間がある。本棚に置かれた小説は、読まれていないあいだも生活空間の中に存在し続け、何年か後に偶然その背表紙を目にしたとき、物語だけでなく、その本を読んでいたころの生活まで思い出すことがある。

 十年前に読んだ本を手に取ったとき、当時暮らしていた部屋や仕事、旅行先、季節まで突然思い出すことがあるのは、それほど不思議なことではない。心理学では、人間の自伝的な記憶はさまざまな手掛かりによって呼び起こされ、具体的な物体が過去の出来事を思い出すきっかけになることも知られているため、一冊の本が過去への入口になるという経験には一定の心理学的な合理性がある。

 ただし、「紙の本は電子書籍より自伝的記憶を強く残す」と直接証明されたわけではない。電子書籍でも購入履歴やライブラリーを眺めたときに昔の記憶が戻ることはあり、端末そのものや読んでいた場所が記憶の手掛かりになることも考えられる。違いがあるとすれば、紙の本は検索しなくても本棚の中から偶然視界に入りやすく、その偶然の再会が過去を思い出す機会を増やすかもしれないという点だろう。

 古い本を開いたとき、昔の書店のレシートや電車の切符が挟まっていることもある。そこまでいけば、それは小説の内容とは直接関係のない個人的な記憶であるが、本という物体には文章の外側に時間が積み重なっていくことを象徴している。電子書籍にも履歴は残るが、紙には傷や折れ、書き込み、変色といった時間の痕跡まで残り、それらが一冊の本を個人的な物体へ変えていく。

それでも小説の中心にあるのは媒体ではない

 ここまで紙の本に特有の身体感覚や空間性を考えてくると、紙のほうが小説を読むのに優れているように感じるかもしれないが、研究結果はそれほど単純な結論を支持していない。物語文を対象にした多数の研究をまとめると、紙と電子のあいだで内容理解に明確な差が見つからない場合が多く、紙だから深く理解でき、電子だから浅くしか読めないという一般化はできないのである。

 これは、読書にとって最も大切なものが最終的には文章そのものだからでもある。優れた小説であれば、通勤電車のスマートフォンから読んでも物語に引き込まれることがあり、紙の匂いやページの手触りがなくても登場人物の人生に心を動かされることはある。反対に、高価な装丁の紙の本を手にしていても、文章に集中できなければ深い読書になるとは限らない。

 電子書籍によって読書の時間そのものが増える人もいる。自宅では紙の本を読む時間が取れなくても、移動中にスマートフォンで数ページ読み、昼休みに続きを読み、夜は電子書籍端末で再開することができれば、一冊の小説との付き合い方は大きく変わる。これは伝統的な読書とは違うかもしれないが、それもまた現代に生まれた一つの読書の形である。

同じ文章なのに、同じ体験にはならない

 では、紙の本と電子書籍で同じ小説を読んだとき、体験は同じなのだろうか。この問いに対する最も妥当な答えは、「物語の内容を理解するという意味では大きく違わないことが多いが、読書という経験全体まで同じとは限らない」ということになるだろう。

 紙の本には厚みがあり、重さがあり、ページをめくる動作があり、物語が本のどのあたりにあるかという物理的な位置が存在する。電子書籍ではそれらの一部が失われる代わりに、文字の大きさを自由に変え、多数の本を持ち歩き、検索や辞書を利用し、場所を選ばず読み続けられる。どちらも同じ文章を読ませる媒体でありながら、読者に与える手掛かりや身体感覚は同一ではない。

 そして、この違いを考えるときに重要なのは、紙と電子のどちらが「正しい読書」なのかを決めることではない。紙の本が持つ物理的な手掛かりが心地よい人もいれば、それらを意識せず電子書籍で物語だけに向き合いたい人もいるし、読む作品や場所によって両方を使い分ける人もいる。

 昔読んだ小説を十年後に読み返すと、同じ文章であるにもかかわらず、まったく別の作品のように感じることがある。文章が変わったのではなく、読者の経験や年齢、置かれている環境が変わったからであり、紙と電子書籍の違いも、それと少し似ているのかもしれない。同じ言葉が並んでいても、それを受け取る身体や状況が変われば、そこから生まれる読書の感触まで完全に同じである必要はない。

 紙の本を読み終えて表紙を閉じたときには、物語が終わったという事実を手の動きでも感じる。一方、電子書籍の最後のページを送れば、その画面の向こうには別の作品がすぐに待っている。その違いは、小説の内容を変えるほど大きなものではないかもしれないが、読者が一冊の物語をどのように記憶するかには、わずかな違いを残す可能性がある。

 私たちは小説を読むとき、文字だけを読んでいるわけではないのだろう。文章を読みながら、そのとき手にしているもの、その場所、その時間、そして自分自身の身体まで含めて、一つの読書体験をつくっている。だから同じ小説であっても、紙で読んだ一冊と電子書籍で読んだ一冊は、内容は同じでありながら、記憶の中では少し違う姿で残ることがあるのである。

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 ある小説が発売される。最初は静かだったのに、誰かが一節を取り上げて「これはひどい」と書き込んだ瞬間から空気が変わり、別の誰かが「文脈を読めば意味は違う」と反論し、さらに「作者はなぜこんな人物を描いたのか」「こんな本を世に出してよいのか」という議論が重なっていく。数日後には、その小説を一ページも読んでいなかった人まで題名を知り、書店では目立つ場所に置かれ、SNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)では批判者と擁護者が同じ作品名を繰り返している。誰も宣伝しているつもりはないのに、結果だけ見れば巨大な宣伝装置が動いている。

 ここには文学をめぐる奇妙な逆説がある。本来なら作品に対する激しい批判は評価を下げるはずなのに、ときとしてその批判自体が作品の存在を広く知らせ、販売や貸出を増やすことがあるのである。そうなると、「炎上した小説ほど読まれるのなら、炎上は文学にとって失敗なのか、それとも成功なのか」という問いが生まれる。しかし、この問いに答えるためには、まず「炎上した」「売れた」「読まれた」「高く評価された」「文学として残った」という五つの出来事を、一つの成功という言葉でまとめないところから始めなければならない。

悪評は、本当に本を売れなくするのか

 私たちは普通、評判のよい商品が売れ、評判の悪い商品は売れなくなると考える。レストランについて「まずい」と聞けば足は遠のき、家電について「すぐ壊れる」と聞けば購入をためらうからである。しかし書籍、とりわけ小説では、少し違うことが起こる。「そんなにひどい作品なのか」「なぜそこまで怒る人がいるのか」「問題とされている場面を自分で確かめたい」という好奇心が、否定的な評判そのものから生まれることがある。

 これは単なる印象論ではない。2010年にマーケティング研究者のジョナ・バーガーらが書籍販売を分析した研究では、否定的な書評は著名な作家の本では売上を下げる一方、あまり知られていない作家では売上を増やす場合があることが示された。重要なのは、悪評そのものに本を売る力があるのではなく、それまで知られていなかった作品の認知度を大きく押し上げる効果が、評価低下による悪影響を上回る場合があるという点である。

 この関係は、簡単な数字で考えると分かりやすい。たとえば炎上前には一万人しか作品を知らず、そのうち一割が購入していたとすれば販売数は千冊になる。ところが炎上によって作品を知る人が三万人に増え、悪評のため購入率が六%まで下がったとしても、販売数は千八百冊になる。作品への評価は悪化したのに、売上は八割増えるのである。

 一方、すでに百万人が知っている著名作家なら事情は逆になる。炎上しても認知度を大きく増やす余地は小さいのに、購入をやめる人だけが増えれば売上は下がる。つまり「炎上すると売れる」のではなく、炎上によって生じる認知度の増加が、悪評による購買意欲の低下を上回った場合にだけ、結果として販売が増えると考える方が正確なのである。

禁止されるほど、読まれるという逆説

 この構造をさらに強く示すのが、米国で論争になった「禁止された本」を調べた近年の研究である。学校や図書館などで閲覧や所蔵が問題視された書籍を追跡した研究では、禁止の対象になった本は、比較対象となる本より平均して貸出が約一二%増加し、その効果はとりわけ知名度の低い著者で強く現れていた。

 もちろん、図書館での禁止とSNS上の炎上は同じ現象ではない。しかし、「読むべきではない」「問題がある」と社会的に注目されたことが作品の存在を知らせ、結果として新しい読者を呼び込むという点では共通している。人間には「見てはいけない」と言われたものほど確かめたくなる心理があり、文学はときとして批判されることによって、それまで作品の存在すら知らなかった読者の前に姿を現す。

 しかし、ここで注意しなければならないのは、禁止された本の貸出が一二%増えたからといって、「問題視されればされるほど売れる」という単純な法則が成立するわけではないことである。効果は作品の知名度や読者層、論争の内容、作品に触れるための費用や手間によって変わり、同じ騒動でも結果は一定ではない。文学をめぐる炎上は、万能の販売装置ではなく、条件によって効果が逆転する不安定な現象なのである。

「読まれた」と「話題になった」は同じではない

 さらに厄介なのは、炎上によって何が増えたのかを慎重に見なければならないことである。作品名を見た人が増えること、作品に興味を持つ人が増えること、本を買う人が増えること、実際に読み始めること、最後まで読むこと、読み終えたあと高く評価することは、すべて別の段階に属している。

 炎上した作品について、百万人がSNSで題名を見たとしても、その全員が本を買うわけではない。二十万人が興味を持ち、そのうち五万人が購入し、四万人が読み始め、二万人しか最後まで読まなかったということは十分に考えられる。それでも表面上は「五万部売れた」という数字だけが残り、やがて「炎上によって五万人に読まれた」という物語に変わっていく。

 とりわけ現在のSNSでは、小説そのものより小説について語られた言葉の方が圧倒的に速く流通する。問題視された数行、誰かの怒り、作者の発言、出版社の説明、それに対する反論が切り取られて共有されるうちに、原作を開いていない人まで「どんな作品なのか知っている」という感覚を持ち始める。数百ページの小説が数行の証拠へ圧縮され、その断片が作品全体を代表するようになれば、小説は読まれる前から判決を受けることになる。

 だから「炎上した小説ほど読まれる」という言葉を検証するには、売上だけでは足りない。本当に増えたのは読者なのか、購入者なのか、それとも作品名を知っている人なのかという区別が必要であり、注意、購入、読了を一つの「人気」にまとめてしまえば、炎上の効果を実際以上に大きく見積もることになる。

怒りはなぜ広がりやすいのか

 それでも炎上が大きく見えるのには理由がある。人間は穏やかな情報より、驚きや怒り、不安といった感情を強く刺激する情報に反応しやすく、社会的・道徳的な問題を扱ったSNS研究でも、感情の強い言葉を含む投稿ほど広がりやすい傾向が報告されている。

 ただし、この知見をそのまま文学へ当てはめることには慎重であるべきだろう。政治や社会問題についての怒りが拡散されやすいからといって、小説への否定的感想が肯定的感想より必ず拡散すると証明されたわけではない。それでも、「面白かった」という静かな感想より、「なぜこんな作品が許されるのか」という強い言葉の方が多くの人を議論へ巻き込みやすい可能性はある。

 その結果、批判している人も、擁護している人も、論争そのものを批判している人さえ、同じ作品名を繰り返すことになる。文学作品が宣伝費を一円も払わずに何度も人々の画面へ現れるとすれば、炎上は少なくとも「作品の存在を知らせる」という一点において、非常に強い効果を持つことがある。

文学はもともと人を不快にする

 しかし文学と炎上の関係は、販売だけで考えると本質を見失う。そもそも小説は、読者を心地よくするためだけに書かれてきたわけではない。犯罪者の心の中へ入り込み、不倫をする人物に共感させ、利己的な人間を魅力的に描き、社会が触れたがらない性愛、暴力、貧困、差別、宗教、階級をあえて物語の中心に置くことによって、人間の理解しにくい部分へ読者を連れていくことも文学の役割だった。

 その意味では、小説が人を怒らせたという事実だけで、作品を文学的な失敗と判定することはできない。読者が当然だと思っていた価値観を揺さぶった結果として反発が生じる場合もあり、文学史には、不道徳、不快、猥褻、読むべきではないと非難された作品が、後世まで読み継がれた例が存在する。

 その象徴的な一例が、D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』である。露骨な性描写をめぐって長く論争となり、英国では一九六〇年に完全版の出版をめぐる猥褻裁判にまで発展したが、出版社側の無罪判決後には大量に読まれ、出版と言論の自由をめぐる歴史的な作品としても記憶されるようになった。

 もっとも、この例から「論争したから名作になった」と考えるのも誤りである。作品そのものの文学的価値と、裁判によって知名度が上昇したことは区別しなければならない。騒動は読者を本の前まで連れてくることはできても、作品を名作に変えることまではできないからである。

小説の中の悪と、作者の賛同は同じではない

 炎上が文学と衝突しやすいもう一つの理由は、小説が本質的に曖昧な表現形式だからである。悪人を書くことは悪を勧めることではなく、差別的な人物を書くことも直ちに差別を支持することにはならない。不倫を描いたから不倫を勧めているわけでも、犯罪者の心理を細かく描いたから犯罪を肯定しているわけでもない。

 小説はしばしば、作者の意見を直接述べず、矛盾した人物や不快な出来事を読者の前に置いて判断を委ねる。「この人物は善か悪か」と簡単には決められない状態そのものを作ることで、人間を単純な分類から救い出すことさえある。

 ところが炎上は、その曖昧さと相性が悪い。「作者は賛成なのか反対なのか」「この作品は正しいのか間違っているのか」「この人物を描いた作者はどちら側なのか」という二択を求めるからである。文学が曖昧さを残すことで成立する表現だとすれば、炎上は曖昧さを消して即座に結論を求める社会現象であり、両者の摩擦は偶然ではない。

炎上を狙えば文学は強くなるのか

 それなら出版社や作家は、あえて炎上を利用すればよいのだろうか。ここにも大きな罠がある。

 炎上によって注目が集まり、売上が伸びることが繰り返されれば、刺激の強い表現を使うことに経済的な動機が生まれる可能性はある。複雑な人物を時間をかけて描くより、賛否が割れそうな設定を置く方が早く話題になり、微妙な倫理的葛藤を書くより、一部分だけ切り取られて拡散される言葉を入れた方が注目されると考える人が出てきても不思議ではない。

 人間の行動は報酬によって強化されることがあり、SNSでも反応の多かった投稿形式が繰り返されやすくなる傾向が研究されている。ただし、そこから直ちに「出版社や作家が実際に炎上を狙って小説を書いている」と結論することはできない。科学的に言えるのは、炎上が経済的・社会的な報酬を生む場合、炎上を誘発する表現を選ぶ動機が生まれる可能性があるというところまでである。

 そして仮にその傾向が強まれば、文学は読者を揺さぶるものから、読者を怒らせる仕掛けへ少しずつ近づいていく。両者は似ているようで違う。優れた文学が結果として読者を怒らせることと、怒らせることを目的に作品を作ることは同じではないからである。

「炎上して成功した作品」ばかりを見てはいないか

 もう一つ、忘れてはならない統計上の罠がある。私たちの記憶に残るのは、炎上したあと大きく売れた作品であって、炎上したまま売れずに消えた作品ではない。

 これは生存者バイアスと呼ばれる考え方に近い。成功して残った事例だけを観察すると、成功しなかった多数の事例が視界から消え、ある戦略の効果を実際以上に高く評価してしまうのである。「炎上したのに百万部売れた」という作品はニュースになるが、「炎上して三千部のまま終わった」という作品はほとんど記録されない。

 そのため、目立つ成功例だけを集めれば「炎上は本を売る」という結論が簡単に作れてしまう。しかし実際には、炎上によって作品を知る人が増えても、同時に購入を拒む人も増えるため、どちらの力が勝つかは作品ごとに違う。成功した炎上だけを後から選べば、炎上は実際以上に万能な販売戦略に見えてしまうのである。

文学の成功を一つの数字で測れるのか

 結局、この問題は「文学にとって成功とは何か」という問いへ戻ってくる。

 出版社は販売部数を見る。書店は売れ行きを見る。作者は読者の反応を見る。研究者や評論家は作品の構造、文体、思想、同時代への影響を見る。読者は自分にとって面白かったか、何かが残ったかを見る。そして数十年後の社会は、その本がまだ読まれているかどうかを見る。同じ一冊でも、成功を測る物差しは一つではない。

 一か月で十万部売れ、その後ほとんど読まれなくなった作品と、初版は少なくても二十年、三十年、五十年と新しい読者を獲得し続ける作品のどちらが成功なのかという問いには、単純な答えがない。商業的成功なら前者かもしれないが、文学的な生命の長さでは後者かもしれない。

 炎上によって生まれた注目の多くは、時間とともに弱まっていく可能性が高い。社会の関心が別の問題へ移れば、当時は大騒ぎだった発言や一場面も、やがて話題に上らなくなる。そのとき作品は、炎上という追い風を失った状態で、もう一度読者の前に立たなければならない。

 そこで初めて、その本に炎上とは別の力があったのかが試される。

炎が消えたあとに、何が残るのか

 文学にとって炎上は、成功とも失敗とも一言では決められない。短期的には評価を傷つけながら売上を伸ばす場合があり、商業的には成功しても作品そのものへの理解を浅くする場合がある。逆に、激しい批判を受けたことで、それまで作品を知らなかった人が読み始め、結果として長く読み継がれる入口になることもある。

 だから問題は、どれだけ大きく燃えたかではない。

 怒って読む人がいてもよいし、擁護するために読む人がいてもよい。「そんなに問題なら自分で確かめよう」と初めてページを開く人がいてもよい。炎上が文学にもたらす数少ない確かな力は、本来ならその本を手に取らなかった人の注意を作品へ向けることにある。しかし、そこから先は炎上には決められない。作品名を覚えさせることはできても、最後まで読ませることはできず、本を買わせることはできても、読者の記憶に残すことまではできないからである。

 読み終えたあと、騒動のことは忘れたのに一つの場面だけが頭から離れず、嫌いだった登場人物について何年も考え続け、自分なら絶対にしないと思っていた行為をほんの少し理解してしまい、別の人生の局面で突然その小説を思い出すことがある。そこまで来れば、その本はもう単なる「炎上した小説」ではない。

 文学の成功とは、炎上の大きさではなく、炎が消えたあとにも、読者の中で何かが燃え続けていることなのかもしれない。

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