リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 駅のホームに立っていると、列車がゆっくりと入ってくる。多くの人にとって、それは目的地へ向かうための乗り物であり、扉が開けば乗り、目的の駅に着けば降りる。しかし、その列車を眺めながら車両の形式や製造年代、塗装の違い、走行音、行先表示、さらにはその路線が造られた時代まで思い浮かべる人がいる。彼らにとって列車は単なる移動手段ではなく、技術と歴史と地域社会の記憶をまとった存在である。

 同じことは地図にもいえる。普通なら目的地までの道が分かれば、地図の役目はそこで終わるが、地図を好む人は道路の曲がり方や不自然な空き地、川の流れ、行政界、土地の高低差まで眺めながら、そこに現在とは違う風景があったのではないかと考える。一本の細い道から旧街道を想像し、住宅地の中に残された緩やかな曲線から廃線跡を疑い、地名の配置から昔の集落の姿を探ろうとするようになると、地図は単なる案内図ではなく、時間を閉じ込めた記録として見えてくる。

 さらに不思議なのが工場である。煙突、配管、タンク、鉄骨、夜間照明といった設備は、関心のない人には無機質な産業施設として映るかもしれないが、そこに魅力を感じる人は何時間でも眺めていられる。とりわけ夜になると、昼には巨大な構造物だった設備が光と影によって複雑な立体物へ変わり、絡み合う配管の向こうに蒸気が立ち、塔の上の航空障害灯が暗闇の中で点滅する光景には、都市の建築物とは違った機能美が現れる。

 鉄道、地図、工場。一見すると、この三つにはほとんど共通点がないように思える。しかし少し深く眺めてみると、そこには共通する楽しみがある。それは、普段なら通り過ぎてしまうものの中から、自分がそれまで気づかなかった違いや秩序を発見していく面白さである。

「同じもの」が、同じに見えなくなる

 マニアになるということは、珍しいものを集めることだと思われがちだが、実際にはそれだけではない。より大きな変化は、それまで一括して認識していたものの中に、意味のある違いが見えるようになることである。

 鉄道に詳しくなれば、ホームに入ってくる電車がすべて同じ「電車」ではなくなる。車両の世代が分かれ、運用が分かれ、設計思想の違いが見え始め、同じ路線を走っていても製造時期によって窓の形や座席配置が異なり、モーターの音まで違うことに気づく。それまで一つのカテゴリーにまとめられていた世界が細かく分かれ、それぞれに名前と意味を持ちはじめるのである。

 地図でも似た変化が起こる。以前なら道路はただの線であり、川はただの水の流れだったものが、知識や経験を重ねると、真っ直ぐ延びる道路と曲がりくねった道路には異なる成立事情があるのではないかと考えるようになり、川沿いの土地の形から昔の流路を想像することもできるようになる。何気なく歩いていた町が、地形と歴史によって書かれた巨大な文章のように見えてくるのである。

 工場についても同じで、遠くから見れば複雑に入り組んだ鉄の塊にしか見えなかった設備でも、その役割を少しずつ知っていくと、そこに物質やエネルギーの流れが見えてくる。原料が入り、加熱され、分離され、反応し、冷却され、製品として出ていく過程を想像できるようになると、配管やタンクは単なる景観ではなく、機能を持つ構造として理解されるようになる。

 この変化は、認知科学で研究されている知覚学習や専門性の形成ともよく似ている。人間は経験を重ねることで、ある領域について意味のある特徴をより細かく見分けられるようになるが、それは視力そのものが良くなるという意味ではない。変わるのは、何に注意を向け、何を違いとして認識するかという「見方」の側である。

 だから、マニアの世界では物そのものの数が増えるのではなく、そこから読み取れる意味の数が増えていく。

知識が増えると、知らないことが見えてくる

 普通、知識が増えれば分からないことは減っていくと考えられているが、趣味の世界では少し違った感覚が生まれることがある。ある程度まで知識が増えると、それまでは存在すら認識できなかった疑問が見えるようになるからである。

 鉄道路線の歴史を少し知れば、なぜこの町には駅があるのに隣町にはないのかが気になり、その理由を調べると、今度はかつて存在した産業や人口移動へ行き当たる。地図を眺めて廃線跡を見つければ、なぜその鉄道が造られ、なぜ廃止されたのかを知りたくなり、そこから地域産業の盛衰や港湾、鉱山、工場、住宅地の形成へと関心が広がることもある。

 工場について調べても同じで、巨大な設備を見て「これは何だろう」と考え、その役割を知れば、次にはなぜその工場が海岸部にあるのかが気になってくる。そこから原料輸送、港湾施設、電力、水、道路、鉄道との関係へと疑問がつながり、一つの施設を調べていたはずが、地域全体の産業構造へ入り込んでいることさえある。

 ただし、知識が増えれば必ず好奇心も増え続けるわけではない。何も知らなければ何を疑問に思えばよいのかさえ分からず、反対にすべてを知り尽くしたと感じれば、新しい疑問は生まれにくくなる。人間の好奇心は、まったく知らない状態と完全に理解した状態の中間、つまり「少し分かるが、まだ分からないことがある」という場所で強く働きやすいと考えられている。

 この点から見ると、マニアの面白さとは、知識を増やし続けることそのものよりも、知識を得るたびに新しい「分からなさ」が見つかるところにあるのかもしれない。

一つの趣味から、別の世界へ

 ここまで来ると、鉄道、地図、工場は別々の趣味ではなくなってくる。鉄道は町を結び、工場は鉄道や港を必要とし、その痕跡は地図に残り、地図を読めば産業が見え、産業を追えば交通が見え、交通を調べれば町の成り立ちが見えてくる。

 もちろん、すべての鉄道好きが地理や産業史に関心を持つわけではなく、すべての地図好きが工場に興味を持つわけでもない。しかし、ある対象について深く知ろうとすると、その対象が社会の他の部分と結びついていることに気づきやすくなる。

 入口は一両の電車かもしれないし、一枚の古地図かもしれないし、夜の工場かもしれないが、その入口を通って奥へ進むと、交通、産業、都市、歴史、地理、人間の暮らしへと世界が広がっていくことがある。一つの趣味に深く入ったはずなのに、いつの間にか自分が社会全体を眺めていたという経験が起こるのである。

「役に立たない知識」が面白い

 現代社会では、何かを学ぶときに「それは何の役に立つのか」と問われることが多い。資格になるのか、仕事になるのか、収入につながるのかという尺度で知識の価値を測ろうとするが、マニアの世界では、その問いがほとんど意味を持たない場面がある。

 昭和の時刻表を集めても、現在の列車に乗るためには直接役立たず、昔の地形図を眺めても今日のカーナビの代わりにはならず、工場設備の配置を覚えたところで日常生活が便利になるとは限らない。それでも人は調べ、記録し、ときには遠くまで出かけて現物を見る。

 そこには、直接的な実用目的を持たない知識を求める楽しさがある。

 心理学では、単に報酬を得るためではなく、「知りたいから知る」という動機そのものが研究されている。人間は、自分の知識の中に空白があることに気づくと、それを埋めようとすることがあり、答えを得ること自体が満足につながる。そう考えると、マニアが時刻表や古地図や車両形式を調べ続けることは、決して不可解な行動ではない。

 役に立つ知識には、その外側に目的があることが多い。試験に合格するため、仕事をするため、生活を便利にするために学ぶのに対して、趣味では「知ること」そのものが目的になることがある。

 考えてみれば、これはかなり贅沢な行為である。何かの成果を求めるのではなく、純粋な好奇心のために時間を使うことができるからである。

マニアは世界の断片を集めている

 子どものころ、石や昆虫、切手を集めた経験のある人は多いだろう。マニアの趣味にもそれに似たところがあるが、大人になると、集めるものが必ずしも手で持てる物体とは限らなくなる。

 鉄道ファンは車両を所有することはできなくても、写真を撮り、乗車記録を残し、形式や運用を覚えることで鉄道の一部を自分の記憶にとどめる。地図好きは土地そのものを所有するわけではないが、地形や町の変化を記録し、自分の中に地域の時間軸を築いていく。工場を好む人も設備を持ち帰ることはできないが、構造や風景を観察し、その姿を記録する。

 ここで「世界の断片を集めている」という言い方は科学的な定義ではなく、あくまで比喩である。しかし、写真や記録、分類、記憶を通して自分が出会った対象を残していくという行為を考えると、その比喩にはある程度の実感がある。

 しかも、その世界は少しずつ変わっていく。古い車両は引退し、路線は廃止され、道路は付け替えられ、工場は閉鎖され、昨日まで存在していた風景が、ある日突然なくなることもある。だから記録する行為には、単なる収集を越えた意味が生まれる。

 かつて走っていた列車の写真、埋め立てられる前の海岸線が描かれた地図、解体される前の工場の姿は、時間が過ぎれば個人の趣味の記録を越えて、一つの時代を伝える資料になることもある。細部にこだわるというマニアの性質は、ときに結果として、社会の小さな変化を記録する働きを持つのである。

なぜ細部に引き込まれるのか

 人間の認知は、経験の中から規則性や意味のある差異を見つけ、それを使って対象を分類し、次に起こることを予測する性質を持っている。鉄道車両の微妙な違いを見分けたり、地図の形から昔の土地利用を推測したり、工場設備の構造から役割を想像したりする行為には、小さな発見が何度も繰り返されている。

 最初は何も分からなかった世界が、知識を得るにつれて少しずつ読めるようになり、読めるようになると、それまで見えなかった違いが現れ、その違いが見えると、さらに理由を知りたくなる。この循環が続く限り、趣味は簡単には終わらない。

 ただし、長年その趣味を続けていることと、専門家であることは同じではない。経験年数が長いだけで、自動的に対象を正確に理解できるようになるわけではなく、観察し、比較し、間違いを修正しながら知識を組み立てていくことが重要になる。

 それでも、知識と経験が積み重なれば、その対象について以前より細かな特徴に気づける可能性は高くなる。だからマニアの世界では、対象が狭くなっていくようでいて、実際にはそこから新しい関連が広がっていく。

 一両の電車を調べていた人が鉄道会社の歴史へ進み、沿線の町や都市計画を調べ始めることもあれば、古地図を見ていた人が地形や災害、行政区画の歴史へ進むこともある。工場夜景が好きだった人が、産業史やエネルギー、港湾物流まで調べ始めることもある。

 入口は小さい。しかし奥へ進むほど、別の世界へ通じる扉が増えていくのである。

「知らない人には全部同じ」という幸福

 鉄道ファンが車両の違いを熱心に説明している横で、興味のない人が「どれも同じ電車でしょう」と言うことがある。地図好きが旧道の痕跡について語っても「ただの細い道ではないか」と思われ、工場夜景の魅力を話しても「工場は工場でしょう」と返されるかもしれない。

 しかし、この「全部同じ」という感覚こそ、マニアの面白さをよく表している。

 なぜなら、詳しくなる前には、本人にとっても全部同じように見えていた可能性が高いからである。

 知識を持つ前と後で、目の前に存在している物は変わっていない。変わったのは見る人の側であり、以前なら一秒で通り過ぎていた風景の前で立ち止まり、以前なら気づかなかった形を見つけ、そこから何十年も前の出来事を想像するようになる。

 「世界の解像度が上がる」という表現は、もちろん比喩である。鉄道に詳しくなったから視力が上がるわけでも、人間の知覚能力全般が向上するわけでもない。しかし、その対象について意味のある違いを見つけやすくなり、注意を向ける場所が変わるという意味では、この比喩はかなり実感に近い。

 そしてこれは、鉄道や地図や工場に限った話ではない。古い建築物、マンホール、道路標識、送電鉄塔、橋、バス停、商店街、レコード、鉱物、昆虫、城跡、船舶など、ほとんどどんな対象でも同じような変化は起こり得る。興味を持った瞬間、それまで背景に溶け込んでいたものが、突然前景へ浮かび上がってくる。

世界は、知っている人に少し違う顔を見せる

 旅行先で有名な観光地を訪れ、美しい景色を見ることは楽しい。しかしマニアの旅には、それとは少し違った喜びがある。

 何の変哲もない地方駅で古いホームの痕跡を見つけ、住宅地の脇に残る不自然な空間から昔の線路を想像し、港の向こうに立つ巨大なタンク群を眺める。観光案内には載っていない場所で、本人だけが何かを発見しているように感じる瞬間がある。

 そのとき世界は、ただ「見る場所」であることをやめて、「読む場所」に変わっていく。

 鉄道を読めば人の移動が見え、地図を読めば土地の記憶が見え、工場を読めば社会を動かしている物質やエネルギーの流れが見えてくる。もちろん、本当にそこまで読み取れるかどうかは、その人の知識や経験によって異なるが、対象について学ぶほど、風景から受け取れる情報が増えることはあり得る。

 マニアになることは、世界から離れて狭い趣味の中へ閉じこもることだと思われることもある。しかし、一つの対象を徹底して見ることで、それまで気づかなかった社会とのつながりを見つける人もいる。

 駅を通り過ぎるだけだった人が、駅を眺めるようになる。地図で道を探すだけだった人が、地図そのものを読むようになる。工場を無機質な施設だと思っていた人が、その構造に美しさを感じるようになる。

 そう考えると、マニアとは特別な物だけを愛している人ではないのかもしれない。多くの人が通り過ぎてしまうものに立ち止まり、その中に違いと意味を見つけてしまった人なのである。

 そして一度その面白さを知ると、以前とまったく同じ世界の見え方には戻りにくい。列車が一本走っていること、地図に一本の線が引かれていること、夜の海岸に工場の灯がともっていること、その一つ一つの背後に、歴史や技術、人間の営み、土地の記憶が折り重なっていることに気づいてしまうからである。

 マニアの世界が面白い理由は、珍しいものがそこにあるからだけではない。

 それまで何でもなかったものが、もう何でもないものには見えなくなるからなのである。

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 古い喫茶店の壁に、店主が何十年もかけて集めたジャズのレコードが並んでいる。棚の一角には、名前を聞いても多くの人には分からない演奏家の盤があり、それを見つけた常連客が「ああ、これを置いているんですね」と笑うと、店主は多くを説明せず、「分かる人には分かるからね」と返す。その瞬間、この言葉にはどこか温かな響きがあり、世間ではほとんど忘れられてしまった音楽を、それでも覚えている者同士が偶然出会ったような親密さが生まれる。

 ところが、同じ言葉をその店に初めて入った若い客が聞いたなら、受け取り方は少し違うかもしれない。「あなたにはまだ分からない」と言われたように感じる可能性があるからだ。「分かる人には分かる」という一言は、ある場所では文化を守る合言葉になり、別の場所では人を遠ざける門番の言葉になる。興味深いのは、その二つが正反対の性質から生まれているのではなく、むしろ同じ文化的な境界から生まれていることである。

説明しすぎないことで守られるもの

 文化には、説明すればするほど伝わりやすくなるものがある一方で、説明だけではどうしても届かないものがある。落語の間、ジャズの即興、古い映画のカメラワーク、工芸品のわずかな形の違い、地方に残る祭りの作法などは、情報として意味を知ることはできても、その面白さまで直ちに理解できるとは限らない。何度も触れ、比較し、失敗し、ときには退屈さえ経験する時間を通じて、ようやく見えてくるものがあるからである。

 ワインについて何も知らない人に、ある一本がなぜ評価されているのかを説明することはできる。産地や品種、香りや熟成について知識を伝えることもできるが、その説明を聞いただけで、何十本、何百本と飲み比べてきた人と同じ感覚が生まれるわけではない。知識として説明できることと、経験の積み重ねによって分かることの間には、どうしても一定の距離が残る。

 だから「分かる人には分かる」という言葉には、本来、文化の奥行きを守る働きがある。あらゆるものを短時間で説明し、誰にでもすぐ理解できる形に変えなければならないという圧力から、文化を守る役割である。現代では、本も映画も音楽も料理も、「数分で分かる」「初心者でもすぐ理解できる」「これだけ知れば十分」といった形に編集されやすいが、文化のすべてがその形式に向いているわけではない。

 理解に時間がかかるものには、理解に時間がかかるという性質そのものに価値がある場合がある。「今すぐ分からなくてもいい」という余白を認めなければ、長い時間をかけて身につける文化ほど不利になる。その意味で「分かる人には分かる」という言葉は、ときとして大衆化や過度な単純化から文化を守る、小さな防波堤として働くのである。

しかし、その防波堤は壁にもなる

 問題は、その防波堤がいつの間にか城壁へ変わることである。

 ある趣味の世界に長くいる人ほど、初心者には見えにくい違いが分かるようになる。クラシック音楽を長く聴いていれば演奏解釈の違いが聞こえ、写真を続けていれば構図や光の微妙な差に気づき、日本酒を飲み比べていれば香りや味わいの輪郭を細かく感じ取れるようになる。それは経験によって能力が育った結果であり、文化を深く楽しむことの一つの価値でもある。

 ところが人間は、自分が時間をかけて身につけた知識や感覚を、単なる経験ではなく自分自身の価値と結びつけることがある。「私はこれが分かる」という感覚が、ときには「分からない人とは違う」という意識へ変わり、さらに状況によっては「自分のほうが上である」という感覚にまで発展する。その瞬間、「分かる人には分かる」は文化について語る言葉ではなく、人を分類する言葉になる。

 社会心理学では、人は自分が属する集団と、それ以外の集団とを分けて認識しやすいことが知られている。好きな音楽、文学、服装、料理、スポーツといった趣味も、自分が何者であるかを示す手がかりになり、文化に関する知識は単なる情報ではなく、集団への所属を確認する印のように働くことがある。社会学でいう文化資本という考え方も、知識や教養、趣味の違いが、ときとして人と人との境界をつくることを説明している。

 そのため、初心者が「どこが面白いのですか」と尋ねたときに、「説明しても分からないよ」と返すことは、一見すると文化の奥深さを守っているようでいて、実際には単に入口を閉ざしているだけの場合がある。本当に一度の説明ですべてを理解することは難しいとしても、「最初はここを見ると面白い」「この作品と比べると違いが分かりやすい」と入口を示すことはできる。文化を薄めることと、入口を分かりやすくすることは、本来まったく別の問題なのである。

人は「所属したい」と同時に「特別でありたい」

 「分かる人には分かる」という言葉が魅力を持つ理由を考えると、人間の少し矛盾した心理が見えてくる。

 人は誰かとつながりたい一方で、誰とでも同じでありたいわけではない。自分が仲間に属しているという安心感を求めながら、その集団にはどこか特別であってほしいとも感じる。社会心理学では、この二つの欲求の間にちょうどよい均衡があると考えられており、あまりにも誰でも入れる集団では特別感が弱くなる一方、あまりにも閉鎖的な集団では所属すること自体が難しくなる。

 この考え方は文化にもよく当てはまる。誰でも瞬時に理解できるものになれば、その文化独特の深さや専門性が弱まることがあるが、反対に、極端に知識や作法を要求するようになれば、興味を持った新しい人が近づくことさえ難しくなる。文化にとって重要なのは、開くか閉じるかという二者択一ではなく、どの程度の境界を持たせるかという問題なのである。

 そこには、一見すると矛盾する二つの条件がある。文化の中身には簡単には尽くせない深さが必要だが、その深さへ向かう入口まで難しくする必要はない。入口は広くても、奥行きは深くできる。この二つを混同すると、「初心者に説明することは文化を安っぽくすることだ」という誤解が生まれる。

初心者と熟達者では、必要な説明が違う

 学習研究でも、初心者と経験者では、役に立つ説明の量が違うことが知られている。初めて触れる人には、考え方の枠組みや見るべきポイントをある程度丁寧に示したほうが理解しやすいが、経験を積んだ人に同じ説明を繰り返せば、かえって煩わしくなり、自分で考える妨げになることもある。

 これは文化にも応用して考えることができる。初心者に対して「自分で感じればいい」とだけ言うのは、一見すると自由を尊重しているようでいて、見るための手がかりを何も渡していない可能性がある。一方で、経験者に対して作品の意味を最初から最後まで説明してしまえば、自分で発見する楽しみを奪うことになる。

 必要なのは、すべてを説明することでも、何も説明しないことでもない。最初は少し多めに道しるべを置き、経験が増えるにつれてそれを減らしていくことである。優れた案内人は、答えそのものを渡すのではなく、「この映画では人物が黙っている時間を見てみると面白い」「この絵は近くから細部を見るだけでなく、少し離れて全体を見ると印象が変わる」と、鑑賞するための視点を渡す。

 文化を伝えるというのは、答えを教えることではなく、見るための目を一つ貸すことなのかもしれない。

文化は、変わらなければ守られるのか

 古くから続いている文化の世界では、新しく入ってくる人を警戒する心理が生まれることがある。突然人気が高まれば、昔からの作法が崩れ、静かな場所が騒がしくなり、長年大切にされてきたものが単なる流行商品として消費されることもあるため、「分かる人だけでよかったのに」と感じる人が現れるのは不思議ではない。

 しかし、新しい人が文化を変えることと、文化を壊すことは同じではない。文化は本来、人から人へ伝わる過程で少しずつ変化していくものであり、音楽も料理も文学もファッションも、異なる世代や地域の人々が交わることで新しい形を生み出してきた。いまでは伝統と呼ばれているものの中にも、かつては新しい流行や異文化との接触から生まれたものが少なくない。

 文化の継承を考えるうえで重要なのは、「外から人が入らなければ必ず消える」と単純化することではなく、次の担い手へ知識や技術、価値観が伝わり続けることである。その担い手は、家族や弟子、地域の次世代である場合もあれば、外から興味を持って入ってきた人である場合もある。どの経路であれ、伝える相手がいなくなれば、文化は担い手とともに縮小していく可能性が高くなる。

 だからこそ、文化を守るという行為には二つの方向が必要になる。何でも変えてしまえば、その文化をその文化たらしめている特徴が失われるかもしれないが、何も変えず、誰にも教えず、内部だけで完結しようとすれば、担い手が減ったときに立ち行かなくなる。保存と変化の間にあるこの緊張こそが、文化の継承を考えるうえで本当の難しさなのである。

文化には「ちょうどよい境界」があるのかもしれない

 これを少し数理的な発想で考えると、文化の難しさがよく見える。文化への参入障壁がほとんどなければ、多くの人が入りやすくなる一方で、そこに特有の知識や作法が薄まる可能性がある。逆に、参入障壁を極端に高くすれば、文化の内部では高い専門性を維持できるかもしれないが、新しい担い手が入りにくくなる。

 つまり、文化の持続性は、単純に「開放すればするほどよい」わけでも、「閉鎖すればするほどよい」わけでもない。新しい担い手を確保する力と、文化の中身をある程度忠実に受け継ぐ力、その二つの組み合わせによって決まると考えたほうが自然である。

 仮に、入口が広すぎれば文化の独自性が失われ、狭すぎれば継承者が減るとすれば、その中間のどこかに、文化の深さと参加しやすさが最もよく両立する地点があるかもしれない。もちろん文化は数学の関数のように単純ではなく、その最適な地点も時代や分野によって異なるが、「開放か閉鎖か」という二択よりは、実態に近い考え方である。

「分かりやすさ」は文化の敵ではない

 文化について語るとき、「分かりやすくすると本質が失われる」という意見もよく聞かれる。確かに、複雑な作品を単純な説明へ置き換えてしまえば、本来の豊かさが失われることはある。小説をあらすじだけで理解したことにしたり、絵画を作者の経歴だけで説明したり、音楽を技術的な難易度だけで評価したりすれば、作品そのものから離れてしまう。

 しかし、分かりやすく説明することと、単純化することは同じではない。説明とは、複雑なものを削って単純なものへ変えることではなく、複雑なものへ近づくための足場をつくることでもある。

 難しい言葉をそのまま使うことが、必ずしも深い理解の証明になるわけではない。逆に、初心者がどこで迷うかを想像し、その人が自分の力で先へ進めるような説明をするには、対象へのかなり深い理解が求められる。ただし、「説明が上手い人ほど必ず理解が深い」とまで言い切ることもできないため、大切なのは、説明能力そのものを文化的な優劣の基準にすることではなく、必要な人に必要なだけの足場を提供できるかどうかである。

人はなぜ「分かる側」に入りたがるのか

 もう一つ興味深いのは、「分かる人には分かる」という言葉が、言われた側だけでなく、言う側にも強い魅力を持っていることである。

 誰でも知っているものより、自分だけが知っている店、自分だけが評価している作家、まだ有名ではない音楽に強い愛着を感じることがある。「売れる前から知っていた」「昔から通っていた」という言葉に、わずかな誇らしさが混じるのもそのためだろう。

 文化は、作品そのものを楽しむ場であると同時に、人が「自分はどのような人間なのか」を確認する場にもなる。好きな作家や音楽、映画、服装、料理について語るとき、私たちは対象の魅力だけでなく、自分自身についても少し語っているのである。

 そのため、「分かる人には分かる」という言葉には、文化への純粋な愛情だけでなく、「自分はこちら側の人間である」という所属意識や独自性への欲求が入り込むことがある。それ自体は決して異常なことではなく、人間が集団をつくる以上、ある程度は自然な心理である。

 ただし、その快感が文化そのものより大きくなると、奇妙な逆転が起きる。作品を楽しむために仲間がいるのではなく、仲間であることを確認するために作品を使うようになり、「何が好きなのか」よりも「誰が分かっているのか」が重要になる。そのとき文化は、鑑賞するものから、仲間と部外者を判定する資格試験のようなものへ変わってしまう。

文化を守るとは、入口まで隠すことではない

 長く続く文化がすべて開放的であるとは限らないし、歴史的には強い閉鎖性によって独自の技術や作法が守られてきた例もある。したがって、「本当に文化を守る人は必ず入口を開く」とまで言うことはできない。

 それでも、文化を次の担い手へ伝えたいのであれば、どこかに入口が必要になる。その入口は必ずしも誰にでも同じ形で開いている必要はないが、「興味を持った人が少しずつ学べる道」が存在することは、継承という点では大きな意味を持つ。

 落語なら一席を聞いて笑うところから入ることができ、クラシック音楽なら有名な旋律から楽しめる。文学なら一冊の短編から始めればよく、美術なら知識がなくても「この絵が気になる」という感覚から始められる。最初から専門用語や歴史を知らなくても、興味そのものが入口になる。

 そして、そこから少しずつ奥へ進むと、以前は見えなかったものが見えてくる。昔は退屈に感じた作品が突然面白くなり、最初は同じに聞こえた二つの演奏の違いが分かり、何気なく眺めていた工芸品の細部に作り手の技術を発見する。その瞬間、人は初めて「分かる人には分かる」という言葉のもう一つの意味に近づく。

 それは「分からない人を排除する」という意味ではなく、「分かるまでには時間がかかるが、その時間には価値がある」という意味である。

「分かる人には分かる」の後に何を言うか

 結局、この言葉が文化を守る言葉になるか、人を遠ざける言葉になるかは、「分かる人には分かる」という一言だけでは決まらない。その後に何を続けるかによって、その意味は大きく変わる。

 「分かる人には分かる。だから分からない人は来なくていい」と続くなら、それは境界を守る言葉であると同時に、排除の言葉にもなる。しかし、「分かる人には分かる。でも興味があるなら、ここから見てみると面白い」と続くなら、それは深さを保ったまま文化への入口をつくる言葉になる。

 文化には、簡単には分からない部分があってよい。むしろ、すぐには理解し尽くせないからこそ、十年、二十年と人を惹きつけるものもある。ただし、その奥深さを守ることと、入口に立つ人を追い返すことは同じではない。

 古い喫茶店で若い客がレコード棚を眺め、「これはどんな音楽なんですか」と尋ねたとする。店主は「分かる人には分かるよ」と笑ったあと、一枚のレコードを取り出してターンテーブルに載せる。そして、「まあ、一曲聴いてみればいい」と言う。

 おそらく文化が次の人へ渡っていくのは、そんな瞬間なのだと思う。

 文化を守ることは、秘密にして誰にも触れさせないことではないし、反対に、すべてを簡単な説明へ変えてしまうことでもない。簡単には分からないものを、簡単には分からないまま残しながら、それでも興味を持った人には椅子を一つ空けておく。その椅子があるかどうかが、「分かる人には分かる」という言葉を、文化を守る言葉にも、人を遠ざける言葉にもするのではないだろうか。

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 世の中には、知っていても人生がそれほど便利にはならない知識がある。鉄道の線路のわずかな違い、専門業者しか使わない道具の名称、街角に残された妙な設備、外国の歌が偶然日本語のように聞こえる一瞬。試験には出ないし、履歴書にも書けない。それを知ったからといって給料が上がるわけでもなければ、仕事が速くなるわけでもない。それなのに人間は、そういう知識に出会ったとき、なぜか少し嬉しくなる。

 『タモリ倶楽部』という番組は、40年以上にわたって、その不思議な喜びをテレビの中に残していた。

 1982年10月に始まり、2023年3月に終了したこの番組を振り返ると、普通のテレビ番組とは少し違った場所に立っていたことに気づく。世間で話題になっているものを急いで追いかけるわけでもなければ、社会的に重要な問題を真正面から論じるわけでもない。むしろ、普通なら企画会議で「それを誰が見るのだろう」と心配されそうな題材を、面白そうだからという理由で拾い上げ、そこに時間を費やしていた。

 鉄道、地図、地形、楽器、機械、工具、道路、建築物。ある分野では知られていても、世間一般にはほとんど名前の通っていない専門家や愛好家が現れ、普通の人には見分けのつかない違いについて熱心に語る。するとタモリも、その細部へ面白がって入っていく。そこでは「この知識は何の役に立つのですか」という問いが、ほとんど必要とされていなかった。

 いま考えると、それこそがこの番組の珍しさであり、同時に知識というものの本来の面白さを映していたのかもしれない。

「何の役に立つのか」と聞かない世界

 私たちは子どものころから、知識には何か目的が必要だと教えられることが多い。学校で勉強するのは試験のため、資格を取るのは仕事のため、外国語を学ぶのは海外で使うため、情報を集めるのは判断のためというように、知ることにはいつの間にか「その先」が要求される。

 もちろん、それ自体は間違っていない。知識が生活を便利にし、仕事を助け、社会の問題を解決してきたことは疑いようがない。しかし、知識の価値を役に立つかどうかだけで測り始めると、まだ用途の分からないもの、あるいはそもそも用途を必要としないものは、知らなくてもよいものとして扱われやすくなる。

 ところが人間の好奇心は、それほど実用一点張りにはできていないらしい。心理学や行動科学では、直接的な報酬や意思決定に役立たなくても、人が情報を知りたがる行動が研究されている。例えば、結果を事前に知っても当選確率や受け取る金額を変えられないくじについて、それでも結果を早く知るために対価を支払う人がいることが実験で確認されている。情報を知ること自体に、何らかの主観的な価値があると考えられるのである。

 もっとも、これは情報が何の利益ももたらさないという意味ではない。不確実なことが分かる安心感や、知らなかったことを知る満足感も、人間にとっては利益になり得る。経済学的に考えても、ある知識が収入や仕事の効率を高めないからといって、その知識の価値がゼロになるわけではない。実用的な利益と、知ることによって得られる楽しさや満足感は、区別して考える必要がある。

 『タモリ倶楽部』は、その人間の性質を番組の形式にしていたように思える。

 何かを知る理由は、それが面白いからでもよい。道路の片隅にあるものの名前を知りたくなったら調べればよく、普通の人には見分けのつかない機械の違いを見分けられる人がいるなら、その人の話を聞いてみればよい。その世界に入ったところで明日から人生が変わらなくても、昨日まで存在すら意識していなかったものが、今日から少し違って見えるなら、それだけでも知る価値はある。

 考えてみれば、子どもの学びにはそのような場面がいくつもある。将来何かに使えるからという理由ではなく、ただ気になるから質問し、石を拾い、雲を眺め、乗り物の名前を覚え、同じことを何度も確かめる。もちろん子どもの好奇心にも個人差はあるが、少なくとも人間には、外から目的を与えられなくても「知りたい」と感じる力がある。

 大人になるにつれて、仕事や生活の中で、目の前の目的とは関係のないことに関心を向ける機会は少なくなるのかもしれない。しかし、好奇心そのものが年齢とともに単純に衰えるわけではない。心理学の研究では、普段から幅広い情報を探求する傾向と、具体的な情報に出会ったときに生じる好奇心は、年齢との関係が異なることも報告されている。新しい知識に触れたことで、それまで意識していなかった関心が呼び起こされることは、大人になってからも十分にあり得る。

 『タモリ倶楽部』は、大人がそうした好奇心を遠慮なく表に出せる場所でもあった。

世界には、自分の知らない専門家がいる

 『タモリ倶楽部』を見ていると、もう一つ不思議なことに気づかされた。世の中には、こちらが存在さえ知らなかった世界について、驚くほど詳しい人がいるということである。

 テレビ番組には、有名な俳優や歌手、芸人の知名度を中心に構成されるものも多い。しかし『タモリ倶楽部』では、取り上げる題材によって、専門家や愛好家が話の中心になることがあった。ある専門分野について話し始めれば、その瞬間だけは芸能人の知名度よりも、その世界を長年観察し続けてきた人の知識や経験の方が、番組を面白くする力を持つ。

 そこには、知識についての小さな民主主義のようなものがあった。

 世間的な地位や知名度と、ある分野について深く知っていることは、必ずしも一致しない。一見すれば狭すぎる趣味であっても、長い時間をかけて観察し続ければ、そこには固有の知識と見方が生まれる。もちろん、専門的な知識の獲得には教育や経験、時間、資料へのアクセスなどの条件も必要になるが、社会的な知名度が低いからといって、その知識まで価値が低いわけではない。

 面白いのは、知識そのものだけではなく、その知識を語る人の熱意が伝わってくることである。こちらにはまったく興味のなかった分野なのに、詳しい人が嬉しそうに話しているのを聞いているうちに、なぜかこちらまで面白くなってくる。それは単に新しい情報を受け取っているのではなく、「こんなふうに世界を見ることができるのか」という別の視点を教えられているからだろう。

 同じ道路を歩いていても、建築に詳しい人は建物の形や構造を見るかもしれず、道路設備に詳しい人は標識やガードレールを見るかもしれない。鉄道好きなら線路の分岐や構造に目が向き、電気設備に関心があれば電柱や配線が気になる。私たちは同じ景色を見ていても、知識や経験によって、そこから受け取る情報が異なっているのである。

 心理学では、経験や訓練によって知覚や識別の能力が変化する現象を、知覚学習と呼ぶ。繰り返し対象を観察し、その違いを見分ける経験を重ねることで、それまで同じように見えていたものの差異に気づけるようになる場合がある。ただし、名称や説明を一度覚えただけで、直ちに専門家と同じように識別できるわけではない。知識と実際の観察経験が結びつくことで、世界の見え方が変わっていくのである。

 つまり知識とは、頭の中に情報を蓄えることだけではない。何に注意を向け、どのような違いを見つけ、何を面白いと感じるかにも関係している。知らなかったものが見えるようになるという意味で、知識は世界の解像度を少し上げるものなのかもしれない。

 『タモリ倶楽部』の専門家や愛好家たちは、そのことを理屈ではなく、自分たちの話しぶりによって示していた。

「空耳アワー」が見せた、間違えることの豊かさ

 その意味では、長く親しまれた「空耳アワー」も、この番組を象徴する存在だった。

 外国語の歌詞が偶然日本語のように聞こえる。冷静に考えれば、それは本来の歌詞とは異なる聞き取りである。外国語の学習なら訂正すべき対象になるし、正確な情報伝達なら誤りとして扱われる。

 ところが『タモリ倶楽部』は、その間違いを捨てなかった。むしろ「そう聞こえてしまう」という人間の耳の曖昧さを面白がり、そこへ映像まで付けて一つの作品にしてしまった。正しい歌詞を確認すれば数秒で終わる話を、わざわざ遠回りして遊び、その無駄の中から笑いを作ったのである。

 これは考えてみれば、少し不思議な態度である。

 そもそも、人間は音を耳から受け取ったとおりに、機械的に認識しているわけではない。私たちの脳は、聞こえてきた音の特徴だけでなく、それまでに知っている言葉や文脈、次に何が聞こえるかという予測などを手掛かりにして、音声を解釈している。そのため、同じ音を聞いていても、あらかじめどのような言葉が聞こえると言われたかによって、聞こえ方が変わることがある。

 実際に、歌曲の歌詞が別の言語の言葉として聞こえる現象を調べた心理学の実験では、別の歌詞の解釈を事前に知っていることが、そのような聞こえ方に影響することが報告されている。空耳は単に外国語が分からないために生じるものではなく、人間の知覚が過去の知識や期待によって影響を受けることを示す現象でもある。

 「空耳アワー」で一度紹介された日本語の歌詞を覚えてしまうと、次に同じ曲を聞いたとき、どうしてもその言葉が頭に浮かんでしまうことがある。本来の歌詞を知っていても、別の言葉に聞こえる感覚が簡単には消えない。そうした経験には、私たちの耳がいかに柔軟で、同時に思い込みの影響を受けやすいかが表れている。

 現代では、情報へ到達する速度は以前よりはるかに速くなった。検索すれば短時間で大量の情報に触れることができ、人工知能も質問に素早く回答する。しかし、情報を得る速さと、その情報が正しいかどうかは別の問題であり、正確さを確かめる作業は依然として必要である。そして、仮に正解へ早く到達できたとしても、途中に現れた間違いや偶然を面白がることとは、また違う価値がある。

 人間の文化を振り返れば、勘違い、聞き間違い、言葉遊び、偶然の連想から、新しい冗談や表現や物語が生まれることもある。もちろん、医療や交通、災害情報のように、間違いを放置してはならない場面もある。誤りはどのような場合でも歓迎されるものではないが、正確さが求められる場面と、間違いを創造的に楽しめる場面は区別できるはずである。

 「空耳アワー」が面白かったのは、誤った認識を正解に置き換えるのではなく、その認識が生み出す別の可能性を楽しんだからだろう。そこには、正解を見つける能力とは異なる、言葉や知覚の曖昧さを遊びに変える人間の知性があった。

検索できる時代ほど、偶然に出会うことが重要になる

 インターネットが普及してから、「知識を覚える必要は以前ほどない」という考えを耳にすることが増えた。分からなければ検索すればよいというわけで、必要な情報を素早く参照できる環境には、確かに大きな利点がある。

 しかし、検索という行為には構造上の特徴がある。検索は、すでに言葉になっている疑問を調べることには非常に強いが、そもそも自分が存在を知らないものについては、検索語を思いつくことさえ難しい。

 街の片隅に奇妙な設備があったとして、その存在に気づかなければ調べようとは思わない。誰かが鉄道について楽しそうに話しているのを見なければ、自分が鉄道の構造を面白いと思う人間だったことに、いつまでも気づかなかったかもしれない。

 情報を得るためには、何を知りたいのかが最初から分かっていなければならないわけではない。むしろ、まだ自分の中に問いが存在していない段階で、予想外の情報に出会うことがある。その情報が気になって調べ始め、初めて自分が何を知りたかったのかに気づくことさえある。

 情報学では、このように明確な探索目的がないときや、別の情報を探している途中に、偶然興味深い情報を見つける現象が研究されている。情報との偶然の出会いは、情報探索の失敗や脱線としてだけでなく、新しい関心や知識を生み出す契機として捉えられている。

 もちろん、偶然見つけた情報が必ず有益だとは限らない。誤った情報や、関心を引くだけで内容に乏しい情報に出会うこともある。偶然の発見が知識の広がりにつながるためには、その情報の正確さや意味を考え、必要に応じてさらに確かめることも大切になる。

 また、現代のインターネットには、検索だけではなく、関連情報や推薦システムを通じて未知のものに出会う仕組みも存在する。動画の推薦から知らなかった音楽に出会ったり、興味のなかった学問の解説に触れたりすることもある。デジタル化によって偶然の発見が失われたという単純な話ではなく、偶然の出会いが生まれる場所や仕組みが変化しているのである。

 『タモリ倶楽部』が毎週のように差し出していたものも、答えというより、そのような入口だったのではないだろうか。

 知らなくても困らない。しかし、知ってしまえば少し気になる。その小さな気掛かりから別の知識へ進み、さらに別の世界へ横道をそれていく。そこには、最短距離で答えを得ることとは違う、知識との付き合い方があった。

好奇心は、記憶にも影響する

 役に立つ知識には、多くの場合、学ぶ理由が外側から与えられている。試験に合格するため、仕事をするため、収入を得るため、生活を便利にするためである。それに対して、すぐには何の役に立つか分からない知識の場合、そうした外側の目的が弱くても、人はただ知りたいという理由だけで調べることがある。

 心理学では、報酬や評価のためではなく、活動そのものへの興味や楽しさによって行動することを、内発的動機づけと呼ぶ。好奇心はこうした動機づけと深く関係しており、知りたいという気持ちが情報探索や学習を促すことがある。ただし、好奇心と内発的動機づけはまったく同じ概念ではない。好奇心は未知の情報を知りたいという心理的な状態や傾向であり、その好奇心が行動の動機となることがあると考える方が正確である。

 興味深いのは、好奇心が学習の意欲だけでなく、実際の記憶成績にも関係することである。雑学問題を利用した心理学の実験では、答えに対する好奇心が高いときの方が、低いときよりも、その答えを記憶しやすいことが報告されている。さらに、答えを待っている間に偶然示された人物の顔についても、好奇心が高い状態では記憶が促進される場合が確認されている。

 その後、複数の研究結果を統合した分析でも、好奇心の高さと記憶成績の間には一定の関連が認められている。ただし、知りたかった情報そのものに対する効果と、周辺で偶然触れた情報に対する効果は同じではなく、後者の効果は比較的小さい。また、好奇心が高ければ、どのような情報でも必ず記憶に残るという意味ではない。

 それでも、「面白いから知りたい」という状態が、単なる気分の問題ではなく、学習の結果にも関係するという点は重要である。

 そう考えると、「誰にも覚えろと言われていないのに覚えてしまう」という経験にも、少し説明がつく。試験のために覚えた用語は忘れてしまったのに、何年も前にテレビで聞いた奇妙な道具の名前は、なぜか今でも覚えている。興味を持って知ったことは、自分の経験や感情と結びつき、後になって思い出しやすくなる場合がある。

 もちろん、役に立たない知識だから記憶に残るわけではない。大切なのは、その情報にどれだけ関心を持ち、どのように接し、その後どれだけ思い出したり使ったりしたかということである。番組を見ることで視聴者全員の記憶力が高まったという証拠があるわけでもないし、もともと好奇心の強い人が『タモリ倶楽部』を好んで見ていた可能性もある。番組の視聴と知識への関心の間に関係があったとしても、それだけで因果関係を断定することはできない。

 しかし、少なくとも私たちの経験として、誰にも求められず、何の目的もなく覚えてしまったことが、長い年月を経ても残っている場合はある。そして、そのような知識こそ、妙に自分らしい。

無駄だからこそ、自分で選んだものになる

 誰にも覚えろと言われていないのに覚えてしまう。試験に出ないのに調べてしまう。人に話せば「それを知ってどうするの」と言われそうなのに、なぜか気になる。そうした知識には、実用性とは別の魅力がある。

 もちろん、趣味の知識であっても、仲間との交流や社会的評価、将来の仕事など、外側の目的と結びつくことはある。好きなことを続けた結果、専門家として活動するようになる人もいれば、趣味を通じて新しい人間関係を築く人もいる。趣味と実用、楽しみと利益の間に、はっきりした境界線があるわけではない。

 それでも、少なくとも始まりのところでは、「面白いから」という理由だけで十分な場合がある。

 趣味というものも、おそらくそのような場所から育っていく。

 効率だけを考えれば、模型を作る必要も、古いレコードを集める必要も、廃線跡を歩く必要も、珍しい道具を調べる必要もない。しかし人生からそうした「必要ではないこと」をすべて取り除けば、残るのは生活を維持するための行動ばかりになってしまうだろう。

 人間の生活を豊かにしているもののかなりの部分は、生命を維持するという基準だけで考えれば、必須とはいえない。音楽も、小説も、旅行も、趣味も、それがなければ生きていけないというものではない。それでも私たちは、それらのために時間やお金を使う。人間はただ生き延びるだけではなく、世界に意味や面白さを見つけながら生きているからだろう。

 「役に立たない」という言葉は、ときに「価値がない」という意味で使われる。しかし、役に立つことと価値があることは、本来同じではない。仕事に役立つという価値もあれば、心が満たされるという価値もある。仲間との会話が生まれることも、日常の風景が違って見えることも、本人にとっては大切な価値になり得る。

 そして、自分で面白いと思ったものを、自分の意思で追いかけることには、他人から決められた目標に従うこととは違う意味がある。何かを達成するためではなく、そのこと自体を楽しめる時間は、生活の中で自分の関心を自由に選べる時間でもある。

 『タモリ倶楽部』が大切にしていたように見えるのは、そのような自由だった。

「無駄」を許せる場所は残っているか

 そのように考えると、『タモリ倶楽部』が40年以上続いたこと自体が、少し不思議に思えてくる。

 テレビ番組にも視聴率があり、広告には効果が求められ、インターネットの記事には閲覧数があり、動画には再生回数が表示される。何かを作れば、その成果が数字になって返ってくる場面は、現在の情報環境の中に数多く存在している。

 数字が悪ければ改善し、成果の出ないものを見直す。それは組織を運営するうえで合理的な判断であり、効率を求めること自体が悪いわけではない。番組や記事を継続するには費用がかかり、それを支える収入や人員も必要になる。どれほど面白い企画であっても、経済的な条件から完全に自由であることは難しい。

 ただし、数字による評価が必ずしも小さな趣味や専門的な関心を排除するわけではない。インターネットでは、従来の大衆向け番組では取り上げにくかった非常に専門的な話題でも、少数の熱心な愛好者に届けられることがある。閲覧数や視聴データによって、これまで見えなかった関心の存在が明らかになる場合もある。

 問題は数字そのものではなく、何を成果とみなし、どのくらいの時間をかけて評価するかということなのだろう。短期的な閲覧数や視聴率だけを重視すれば、すぐに大勢の関心を集める企画が有利になる。一方、最初は注目されなくても、時間をかけて支持される内容や、少数の人に深い満足を与える内容を評価するなら、違った選択も可能になる。

 もともと放送には、報道や教育、教養とともに娯楽という役割がある。娯楽が存在するために、必ずしも直接的な実用性や大きな社会的意義を証明しなければならないわけではない。しかし、商業放送として番組を継続するには、制作費、広告収入、編成方針、視聴者の支持など、さまざまな条件を満たす必要がある。『タモリ倶楽部』も、そうした現実の中で40年以上続いてきた番組だった。

 それでも、この番組には、数字だけでは説明しきれない面白さがあったように思える。

 大げさな感動を作る必要もなく、社会的意義を宣言する必要もなく、人生の教訓へ結びつける必要もない。ある世界について異様に詳しい人がいて、タモリが興味を示し、周囲の人間も面白がる。それだけで番組になる。

 そこには、知的好奇心を急いで成果へ変換しない自由があった。

 もちろん、この番組が続いた理由を、自由な企画だけに求めることはできない。タモリ自身の存在感、出演者とのやり取り、制作スタッフの工夫、長年の視聴者の支持など、さまざまな要因が重なっていたはずである。けれども、そうした条件のもとで、実用性を簡単には説明できない題材に時間をかける番組が長く存在したことには、やはり特別な意味があったように感じる。

「役に立たない」という言葉を疑ってみる

 しかし、ここまで考えてくると、そもそも「役に立たない知識」という言い方自体が少し怪しくなってくる。

 知ったことで仕事の能率が上がるわけではない。収入も増えない。資格も取れない。しかし、それまで見えていなかったものが見えるようになるなら、その知識はまったく役に立っていないのだろうか。

 道路を歩いているとき、それまで単なる鉄の箱にしか見えなかったものの意味が分かる。電車に乗ったとき、線路の分岐や形が少し気になる。音楽を聞いていると、妙な聞こえ方に気づく。それだけで、昨日とまったく同じ街が少し違って見える。

 知識には、問題を解決するための道具としての役割だけではなく、世界の見え方そのものを変える役割もある。何かを知ることで注意を向ける場所が変わり、今まで見過ごしていた違いに気づくことがある。それは新しい道具を手に入れることとは違うが、自分と世界との関係が少し変わる経験といえるだろう。

 さらに、その知識がいつ、どのような形で役に立つかは、最初から分かるとは限らない。趣味で覚えた地形の知識が地域の歴史への関心につながることもあれば、何となく調べた機械の仕組みが、別の分野を理解する手掛かりになることもある。ただし、こうした可能性を理由に、あらゆる雑学が将来必ず役立つと考えるのも適切ではない。後になって具体的な用途が生まれない知識も、当然ある。

 それでも、その知識を得る過程が楽しかったという事実まで消えるわけではない。知識の価値は、将来の利益だけでなく、知るという経験そのものにも存在し得るからである。

 そう考えるなら、「役に立たない知識」とは、本当に何の価値もない知識ではなく、役立ち方を仕事の成果や収入といった数字に簡単には置き換えられない知識なのかもしれない。

知識とは、世界を少し面白くするもの

 『タモリ倶楽部』が2023年に終了したとき、テレビ朝日は、1982年の放送開始以来40年という節目を迎え、番組としての役割を十分に果たしたという趣旨の説明をした。終了については総合的な判断があったとされ、その理由を一つに特定することはできない。長年続いた番組にも、さまざまな事情の中で終わりが訪れる。

 しかし、番組が残した見方まで終わったわけではない。

 街を歩いているとき、誰も気にしていない看板が気になる。電車に乗っているとき、線路の分岐を眺めてしまう。知らない専門用語を見つけると意味を調べたくなる。外国の歌を聞いて、妙な日本語が聞こえたような気がして、一人で笑ってしまう。

 その瞬間、私たちは少しだけ『タモリ倶楽部』の視聴者に戻っている。

 役に立つかどうかを決める前に、まず面白がってみる。知らないものに出会ったとき、それをすぐ自分には関係のないものとして閉じるのではなく、もう少し眺めてみる。詳しい人がいるなら、その人の話を聞いてみる。すぐには理解できなくても、何がそんなに面白いのかを知ろうとしてみる。

 すると世界は、思っていたよりずっと細かくできていることに気づく。道路には道路の事情があり、鉄道には鉄道の事情があり、工具には工具の事情があり、歌には聞き間違える余地があり、それぞれについて驚くほど詳しい誰かがどこかにいる。

 人生に本当に必要なのは、すぐに役に立つ知識だけなのだろうか。

 「こんなことを知っていて何になるのだろう」と笑いながら覚えたことの方が、何十年も記憶に残っていることがある。その知識は仕事を助けなかったかもしれないし、お金にもならなかったかもしれない。しかし、それを知ったことで世界の一部分が昨日より面白く見えたのなら、それを完全に「役に立たなかった」と呼ぶことは難しい。

 『タモリ倶楽部』が長い時間をかけて見せてくれたのは、知識にはもう一つの使い道があるということだったのかもしれない。問題を解くためでも、誰かに勝つためでも、効率よく目的へ到達するためでもなく、知らなかった世界に一歩だけ入り込み、その世界を昨日より少し面白く見るために知るのである。

 知ることが楽しいから知る。誰かが面白がっている世界を、自分も少しのぞいてみる。その先に具体的な利益が待っているかどうかは、最初から分かっていなくてもかまわない。

 役に立つかどうかは、そのあとで考えればいい。

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