世の中には、知っていても人生がそれほど便利にはならない知識がある。鉄道の線路のわずかな違い、専門業者しか使わない道具の名称、街角に残された妙な設備、外国の歌が偶然日本語のように聞こえる一瞬。試験には出ないし、履歴書にも書けない。それを知ったからといって給料が上がるわけでもなければ、仕事が速くなるわけでもない。それなのに人間は、そういう知識に出会ったとき、なぜか少し嬉しくなる。
『タモリ倶楽部』という番組は、40年以上にわたって、その不思議な喜びをテレビの中に残していた。
1982年に始まり、2023年に終了したこの番組を振り返ると、普通のテレビ番組とは少し違った場所に立っていたことに気づく。世間で話題になっているものを急いで追いかけるわけでもなければ、社会的に重要な問題を真正面から論じるわけでもない。むしろ、普通なら企画会議で「それを誰が見るのだろう」と心配されそうな題材を、面白そうだからという理由で拾い上げ、そこに時間を費やしていた。
鉄道、地図、地形、楽器、機械、工具、道路、建築物。ある分野では知られていても、世間一般にはほとんど名前の通っていない専門家が現れ、普通の人には見分けのつかない違いについて熱心に語る。するとタモリも、その細部へ面白がって入っていく。そこでは「この知識は何の役に立つのですか」という問いが、ほとんど必要とされていなかった。
いま考えると、それこそがこの番組の珍しさであり、同時に知識というものの本来の面白さを映していたのかもしれない。
「何の役に立つのか」と聞かない世界
私たちは子どものころから、知識には何か目的が必要だと教えられている。学校で勉強するのは試験のため、資格を取るのは仕事のため、外国語を学ぶのは海外で使うため、情報を集めるのは判断のためというように、知ることにはいつの間にか「その先」が要求される。
もちろん、それ自体は間違っていない。知識が生活を便利にし、仕事を助け、社会の問題を解決してきたことは疑いようがない。しかし、知識の価値を役に立つかどうかだけで測り始めると、まだ用途の分からないもの、あるいはそもそも用途を必要としないものは、知らなくてもよいものとして扱われやすくなる。
ところが人間の好奇心は、それほど実用一点張りにはできていないらしい。心理学では、直接的な報酬や意思決定に役立たなくても情報を知りたがる行動が研究されている。すぐに得になるわけでもないのに、人は結果を知りたがり、答えを確かめたがり、知らなかったことを知った瞬間に満足を感じる。こうした性質は、知識を単なる道具として考えるだけでは説明しきれない。
『タモリ倶楽部』は、その人間の性質を番組の形式にしていたように思える。
何かを知る理由は、それが面白いからでもよい。道路の片隅にあるものの名前を知りたくなったら調べればよく、普通の人には見分けのつかない機械の違いを見分けられる人がいるなら、その人の話を聞いてみればよい。その世界に入ったところで明日から人生が変わらなくても、昨日まで存在すら意識していなかったものが、今日から少し違って見えるなら、それだけでも知る価値はある。
考えてみれば、子どもの学びにはそのような場面がいくつもある。将来何かに使えるからという理由ではなく、ただ気になるから質問し、石を拾い、雲を眺め、乗り物の名前を覚え、同じことを何度も確かめる。もちろん子どもの好奇心にも個人差はあるが、少なくとも人間には、外から目的を与えられなくても「知りたい」と感じる力がある。
大人になるにつれて、私たちはその感覚を少しずつ忘れてしまうのかもしれない。
世界には、自分の知らない専門家がいる
『タモリ倶楽部』を見ていると、もう一つ不思議なことに気づかされた。世の中には、こちらが存在さえ知らなかった世界について、驚くほど詳しい人がいるということである。
普通のテレビでは、出演者の価値は知名度によって左右されやすい。有名な俳優、有名な歌手、有名な芸人が画面の中心になる。しかし『タモリ倶楽部』では、題材によって主役が簡単に入れ替わった。ある専門分野について話し始めれば、その瞬間だけは芸能人よりも、その世界を何十年も見続けてきた人の方が圧倒的に面白くなる。
そこには、知識についての小さな民主主義のようなものがあった。
世間的な地位や知名度とは別に、人は誰でも何かについて詳しくなることができる。一見すれば狭すぎる趣味であっても、長い時間をかけて観察し続ければ、そこには固有の知識と見方が生まれる。そして、その世界を本当に好きな人の話には独特の熱がある。
面白いのは、知識そのものより、その熱が伝染することである。こちらにはまったく興味のなかった分野なのに、詳しい人が嬉しそうに話しているのを聞いているうちに、なぜかこちらまで面白くなってくる。それは単に新しい情報を受け取っているのではなく、「こんなふうに世界を見ることができるのか」という別の視点を教えられているからだろう。
同じ道路を歩いていても、建築に詳しい人は建物の形を見るかもしれず、道路設備に詳しい人は標識やガードレールを見るかもしれない。鉄道好きなら線路の構造に目が向き、電気設備に関心があれば電柱や配線が気になる。人間の注意や識別能力は経験によって変化し、知識を持つことで、それまで一つにしか見えなかったものの違いが見えるようになることがある。心理学では、こうした経験による知覚や識別の変化は知覚学習という考え方から研究されてきた。
知識とは、頭の中に情報を蓄えることだけではなく、世界の解像度を少し上げるものなのかもしれない。
「空耳アワー」が見せた、間違えることの豊かさ
その意味では、長く親しまれた「空耳アワー」も、この番組を象徴する存在だった。
外国語の歌詞が偶然日本語のように聞こえる。冷静に考えれば、それは聞き間違いである。外国語の学習なら訂正すべき対象になるし、正確な情報伝達なら誤りとして扱われる。
ところが『タモリ倶楽部』は、その間違いを捨てなかった。むしろ「そう聞こえてしまう」という人間の耳の曖昧さを面白がり、そこへ映像まで付けて一つの作品にしてしまった。正しい歌詞を確認すれば数秒で終わる話を、わざわざ遠回りして遊び、その無駄の中から笑いを作ったのである。
これは考えてみれば、少し不思議な態度である。
現代では、情報へ到達する速度は以前よりはるかに速くなった。検索すれば短時間で大量の情報に触れることができ、機械は誤字を訂正し、人工知能は質問に即座に回答する。しかし、正解へ早く到着できることと、途中に現れた間違いや偶然を面白がることは同じではない。
人間の文化を振り返れば、勘違い、聞き間違い、言葉遊び、偶然の連想から、新しい冗談や表現や物語が生まれることもある。だからといって間違いそのものが価値を持つわけではないが、間違いをただ捨てるのではなく、そこから何かを見つける能力は、正解へ到達する能力とは別の種類の知性なのだろう。
「空耳アワー」は、そのことを難しい理屈ではなく、笑いとして見せていた。
検索できる時代ほど、偶然に出会うことが重要になる
インターネットが普及してから、「知識を覚える必要は以前ほどない」という考えを耳にすることが増えた。分からなければ検索すればよいというわけで、実用という観点だけなら、その考えには十分な合理性がある。
しかし、検索という行為には構造上の特徴がある。検索は、すでに言葉になっている疑問を調べることには非常に強いが、そもそも自分が存在を知らないものについては、検索語を思いつくことさえ難しい。
街の片隅に奇妙な設備があったとして、その存在に気づかなければ調べようとは思わない。誰かが鉄道について楽しそうに話しているのを見なければ、自分が鉄道の構造を面白いと思う人間だったことに、一生気づかなかったかもしれない。
もちろん現代のインターネットには、検索だけではなく、関連情報や推薦などを通じて偶然未知のものに出会う仕組みも存在する。そのため、デジタル化によって偶然の発見が消えたと考えるのは正確ではない。それでも、自分が探していなかった情報に偶然出会い、そこから新しい関心が生まれる現象が、知識を広げるうえで重要であることに変わりはない。
情報研究の世界では、こうした偶然の情報との出会いそのものが研究対象になっている。人間は必ずしも、最初から明確な目的を持って情報を探しているわけではない。別のものを探している途中に気になるものを見つけたり、偶然目にした話題から新しい関心を持ったりする。その寄り道から、自分でも予想していなかった知識の領域が開くことがある。
『タモリ倶楽部』が毎週のように差し出していたものも、答えというより、そのような入口だったのではないだろうか。
知らなくても困らない。しかし、知ってしまえば少し気になる。その小さな気掛かりから別の知識へ進み、さらに別の世界へ横道をそれていく。そこには、最短距離で答えを得ることとは違う、知識との付き合い方があった。
好奇心は、記憶にも影響する
役に立つ知識には、多くの場合、学ぶ理由が外側から与えられている。試験に合格するため、仕事をするため、収入を得るため、生活を便利にするためである。それに対して、すぐには何の役に立つか分からない知識の場合、そうした外側の目的が弱くても、人はただ知りたいという理由だけで調べることがある。
心理学では、活動そのものを面白いと感じて行動することを内発的動機づけとして捉えてきた。好奇心もその一つとして考えることができ、興味を持って知ろうとしているときには、情報の記憶が促されることを示した研究もある。
興味深いのは、好奇心を抱いている状態では、知りたかった情報だけでなく、その周辺で偶然触れた情報まで記憶されやすくなる場合が報告されていることである。つまり「面白いから知りたい」という状態は、単なる気分ではなく、学習そのものにも影響する可能性がある。
そう考えると、「誰にも覚えろと言われていないのに覚えてしまう」という経験にも、少し説明がつく。
もちろん、役に立たない知識だから記憶に残るわけではない。重要なのは、その情報に対してどれだけ好奇心や関心を持ったかである。それでも、試験にも仕事にも関係のないことを何十年も覚えているという経験は、多くの人にあるのではないだろうか。
そして、そのような知識こそ妙に自分らしい。
無駄だからこそ、自分で選んだものになる
誰にも覚えろと言われていないのに覚えてしまう。試験に出ないのに調べてしまう。人に話せば「それを知ってどうするの」と言われそうなのに、なぜか気になる。
もちろん、趣味の知識であっても、仲間との交流や社会的評価など外側の目的と結びつくことはある。それでも、少なくとも始まりのところでは、「面白いから」という理由だけで十分な場合がある。
趣味というものも、おそらくそのような場所から育っていく。
効率だけを考えれば、模型を作る必要も、古いレコードを集める必要も、廃線を歩く必要も、珍しい道具を調べる必要もない。しかし人生からそうした「必要ではないこと」をすべて取り除けば、残るのは食事と睡眠と仕事と事務手続きばかりになってしまう。
人間の生活を豊かにしているもののかなりの部分は、生存だけを基準にすれば不要である。音楽も、小説も、旅行も、趣味も、それがなければ生命を維持できないという意味では必要不可欠ではない。それでも私たちは、それらのために時間を使う。人間はただ生き延びるだけではなく、世界に意味や面白さを見つけながら生きているからだろう。
「役に立たない」という言葉は、ときに「価値がない」という意味で使われる。しかし、役に立つことと価値があることは、本来同じではない。
「無駄」を許せる場所は残っているか
そのように考えると、『タモリ倶楽部』が40年以上続いたこと自体が、少し不思議に思えてくる。
テレビ番組にも視聴率があり、広告には効果が求められ、インターネットの記事には閲覧数があり、動画には再生回数が表示される。何かを作れば、その成果が数字になって返ってくる場面は増えている。
数字が悪ければ改善し、成果の出ないものを見直す。それは組織を運営するうえで当然の判断であり、効率を求めること自体が悪いわけではない。
ただ、その合理性をあまりに広い範囲へ押し広げていけば、「何の役に立つかは説明できないが、なぜか面白い」というものが存在できる場所は、少なくなっていくのではないだろうか。
『タモリ倶楽部』には、その反対側にある空気があった。
大げさな感動を作る必要もなく、社会的意義を宣言する必要もなく、人生の教訓へ結びつける必要もない。ある世界について異様に詳しい人がいて、タモリが興味を示し、周囲の人間も面白がる。それだけで番組になる。
そこには、知的好奇心を急いで成果へ変換しない自由があった。
「役に立たない」という言葉を疑ってみる
しかし、ここまで考えてくると、そもそも「役に立たない知識」という言い方自体が少し怪しくなってくる。
知ったことで仕事の能率が上がるわけではない。収入も増えない。資格も取れない。しかし、それまで見えていなかったものが見えるようになるなら、その知識はまったく役に立っていないのだろうか。
道路を歩いているとき、それまで単なる鉄の箱にしか見えなかったものの意味が分かる。電車に乗ったとき、線路の形が少し気になる。音楽を聞いていると、妙な聞こえ方に気づく。それだけで、昨日とまったく同じ街が少し違って見える。
知識には、問題を解決するための道具としての役割だけではなく、世界の見え方そのものを変える役割もある。
そう考えるなら、「役に立たない知識」とは本当に役に立たないのではなく、役立ち方を簡単には数字にできない知識なのかもしれない。
知識とは、世界を少し面白くするもの
『タモリ倶楽部』が2023年に終了したとき、テレビ朝日は、1982年の放送開始以来40年という節目を迎え、番組としての役割を十分に果たしたと説明した。実際、どんな長寿番組にも終わりはある。
しかし、番組が残した見方まで終わったわけではない。
街を歩いているとき、誰も気にしていない看板が気になる。電車に乗っているとき、線路の分岐を眺めてしまう。知らない専門用語を見つけると意味を調べたくなる。外国の歌を聞いて、妙な日本語が聞こえたような気がして、一人で笑ってしまう。
その瞬間、私たちは少しだけ『タモリ倶楽部』の視聴者に戻っている。
役に立つかどうかを決める前に、まず面白がってみる。知らないものに出会ったとき、それをすぐ自分には関係のないものとして閉じるのではなく、もう少し眺めてみる。
すると世界は、思っていたよりずっと細かくできていることに気づく。道路には道路の事情があり、鉄道には鉄道の事情があり、工具には工具の事情があり、歌には聞き間違える余地があり、それぞれについて驚くほど詳しい誰かがどこかにいる。
人生に本当に必要なのは、すぐに役に立つ知識だけなのだろうか。
「こんなことを知っていて何になるのだろう」と笑いながら覚えたことの方が、何十年も記憶に残っていることがある。その知識は仕事を助けなかったかもしれないし、お金にもならなかったかもしれない。しかし、それを知ったことで世界の一部分が昨日より面白く見えたのなら、それを完全に「役に立たなかった」と呼ぶことは難しい。
『タモリ倶楽部』が長い時間をかけて見せてくれたのは、知識にはもう一つの使い道があるということだったのかもしれない。問題を解くためでも、誰かに勝つためでも、効率よく目的へ到達するためでもなく、知らなかった世界に一歩だけ入り込み、その世界を昨日より少し面白く見るために知るのである。
役に立つかどうかは、そのあとで考えればいい。

