リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 日曜日の夕方になると、特に悲しい出来事があったわけでもないのに、何となく寂しい気持ちになることがある。休日を十分に楽しめなかったからなのか、翌日から始まる仕事や学校が気になるからなのか。それとも、日が傾き、町の風景が少しずつ夜へと変わっていく時間帯そのものに、人の心を沈ませる何かがあるのだろうか。

 筆者には、若い頃の日曜日について、今でも不思議に思う記憶がある。夕方17時台、テレビのニュースを何気なく見ていると、理由のはっきりしない淋しさが胸の中に広がってくる。ニュースの内容が特別に悲しかったという記憶ではなく、テレビを眺めているうちに、休日の楽しい時間が遠ざかっていくような、何とも説明しにくい感覚が生まれていたのである。ところが、18時台になってアニメが始まると、その淋しさが不思議と収まった。画面に登場人物が現れ、物語が動き始める頃には、先ほどまでの気分を忘れていた。

 考えてみれば、奇妙なことである。17時から18時へと時計が進めば、月曜日はさらに近づく。休日の残り時間は確実に減っているのだから、時間の経過そのものが寂しさの原因なら、18時台の方が気持ちは沈んでいてもおかしくない。しかし、実際には逆だった。わずか1時間ほどの間に、同じ日曜日の夕方が、寂しい時間から楽しい時間へと変わっていたのである。

 この小さな記憶を手掛かりに考えてみると、日曜日の夕方の寂しさには、休日が終わるという予感だけでなく、時間の受け止め方、翌日への心理的な準備、テレビ番組の性格、そして人間の注意や記憶の働きが関係している可能性が見えてくる。ただし、心理学の研究で確かめられている事実と、一人の体験を説明するための仮説は区別しなければならない。その違いを意識しながら、あの夕方の不思議を考えてみたい。

休日は、まだ終わっていないうちから終わり始める

 人間が感じる時間は、時計の針が示す時間と必ずしも一致しない。好きなことに夢中になっている時間は短く感じられ、退屈な時間はなかなか進まないように感じられる。日曜日の夕方には、それとは少し異なる現象が起こることがある。現在の時間を過ごしているにもかかわらず、気持ちだけが翌日の生活へと先回りしてしまうのである。

 例えば、日曜日の午前中なら、休日はまだ十分に残っている。朝食を終えてから出掛けてもよいし、何もせずに過ごすこともできる。昼食後の午後にも、散歩や買い物、読書などに使える時間がある。ところが夕方になると、翌日の予定や準備が現実味を帯び始める。明日の朝は何時に起きなければならないのか、仕事や学校で何をするのか、まだ済ませていない用事はないか。そうした考えが浮かぶと、日曜日が終わっていないにもかかわらず、心の中では月曜日が始まりかけている。

 この感覚を理解する手掛かりとして、米国ロチェスター大学のリチャード・ライアンらが2010年に発表した心理学研究がある。研究では、さまざまな職業に就く男女74人を対象に、3週間にわたって気分や活動状況などを繰り返し調べ、週末と平日、仕事中と仕事をしていない時間の違いを検証した。その結果、週末や仕事をしていない時間には、心理的な状態が良好になる傾向が確認された。

 研究者たちは、こうした違いを、単純に仕事があるかどうかだけでは説明していない。自分の行動を自分で選べるという自律性や、人とのつながりを感じられることが、心理的な良好さと関係していると考えたのである。休日には、平日よりも自分の意思で時間を使える機会が多くなる人がいる。誰かに決められた予定ではなく、自分で選んだ予定に従って生活できることが、心の余裕につながる可能性がある。

 興味深いのは、この研究で、週末を金曜日の夕方から日曜日の午後までと捉え、日曜日の夕方を平日側に分類していることである。研究者たちは、翌日に仕事を控えた時間帯が、心理的にはすでに週末とは異なる性格を持つと考えた。ただし、これは分析のために設定された時間区分であって、日曜日の17時になった瞬間に人間の感情が変化すると証明されたわけではない。研究対象も就業者74人であり、すべての人に同じ傾向が当てはまるとは限らない。

 それでも、休日の終わりが単に休みの時間を失うことではなく、自分で自由に使える時間が減っていく感覚と関係しているという考え方は、日曜日の夕方を理解するうえで参考になる。日曜日の夕方に何となく寂しくなるのは、翌日の仕事や学校が嫌だからという理由だけではなく、自分の意思で過ごせる時間が残り少なくなることへの惜しさなのかもしれない。

17時から18時への1時間は、本当に短いのだろうか

 しかし、休日の残り時間が減ることによって寂しさが生まれると考えると、筆者の記憶には説明できない部分が残る。17時台よりも18時台の方が、休日は確実に終わりへ近づいている。それにもかかわらず、ニュースからアニメに切り替わると気分が回復したのである。ここには、時計で測る時間と、人間が心理的に受け止める時間の違いが隠れているのではないだろうか。

 仮に、土曜日の0時から月曜日の0時までの48時間を休日と考えてみよう。日曜日の17時には41時間が経過しているため、休日全体の約85.4%が過ぎたことになる。18時には42時間が経過して87.5%となるので、この1時間で休日全体の経過率は約2.1ポイント上昇する。

 ところが、同じ1時間でも、残された時間を基準にすると違った数字になる。17時の時点では休日が7時間残っているのに対し、18時には6時間しか残っていない。つまり、17時時点の残り時間を基準にすれば、わずか1時間で約14.3%が失われたことになる。休日全体を基準にすれば小さく見える変化も、残り時間を基準にすると、必ずしも小さくないのである。

 もちろん、現実の休日は土曜日の0時から始まるとは限らず、日曜日の何時までを自由時間と考えるかも人によって異なる。この計算は、実際の生活を再現したものではなく、時間の捉え方によって同じ1時間の重みが変わることを示すための仮定にすぎない。さらに、人間の寂しさが休日の残り時間に比例するという証拠もない。残り時間が一定の長さを下回ったときに急に寂しくなる人もいれば、翌日の予定が気にならない限り、夕方になっても気分が変わらない人もいるだろう。

 したがって、17時から18時への気分の変化を、休日の経過率だけで説明することは難しい。むしろ重要なのは、残された時間をどう使おうとしているのか、あるいは、その時間に何が始まると期待しているのかという点なのかもしれない。17時に感じていた寂しさが18時に和らいだとすれば、単に時計が進んだのではなく、時間の意味そのものが変わった可能性がある。

夕方のニュースは、休日の外にある世界を連れてくる

 ここで改めて考えたいのが、筆者が寂しさを感じていたとき、テレビのニュースを見ていたという点である。ニュースは、世界で実際に起きている出来事を知らせる番組であり、視聴者を社会の現実へと向かわせる。休日を家でゆっくり過ごしている人にとって、ニュースは、自分の周囲とは別の場所で社会が動き続けていることを思い出させる機会にもなる。

 ニュースの内容が人間の気分に及ぼす影響については、実験研究が存在する。英国の心理学研究者ウェンディ・ジョンストンとグラハム・デイビーが1997年に発表した研究では、肯定的、中立的、否定的な内容に編集した14分間のテレビニュースを、異なる参加者群に視聴させて比較した。その結果、否定的なニュースを見た人では、不安や悲しみが増加し、自分自身の心配事をより深刻に受け止めやすくなる傾向が確認された。

 この研究が示しているのは、ニュースという番組全般が人間を憂うつにするということではない。否定的な内容を含むニュースが、一定の実験条件のもとで、視聴者の感情や心配事の捉え方に影響したということである。明るいニュースや身近な出来事を伝えるニュースには、異なる作用があるかもしれない。また、筆者が若い頃に見ていたニュースの内容を詳しく記録しているわけではないため、当時の寂しさが報道内容によって直接引き起こされたと断定することもできない。

 ただし、ニュースが人の意識を現実の社会へ向けさせるという性格については、考える余地がある。日曜日の午後、家の中で自由に過ごしていた時間に、テレビから社会の出来事が流れてくる。事件や事故だけでなく、政治や経済、天気、翌日以降の予定に関係する情報などを聞くうちに、休日の内側にいた感覚から、平日の社会へ戻っていく感覚が生まれる可能性がある。

 もちろん、これは筆者の記憶を説明するための一つの仮説であり、ニュース番組の視聴が必ず月曜日への不安を生むという科学的な結論ではない。それでも、夕方のニュースが終わる頃には、休日の静けさと、まもなく始まる日常とが、心の中で重なっていたのかもしれない。

アニメが始まったとき、何が変わったのだろうか

 17時台のニュースを見ていると寂しくなるのに、18時台のアニメが始まると気分が回復する。この変化を考えるとき、最も分かりやすい説明は、意識を向ける対象が変わったというものである。ニュースを見ている間は社会の出来事や翌日の生活に気持ちが向いていたとしても、好きなアニメが始まれば、登場人物の会話や物語の展開に注意が引き寄せられる。月曜日が近づいているという現実は変わらないが、そのことを意識する時間は少なくなる。

 こうした感情の変化に関連する研究として、2006年に台湾の研究者チンチン・チャンが発表した、メディア視聴と気分の改善に関する実験がある。研究では、先に接したメディア内容によって悲しい気分になった参加者が、好ましい広告に接することで、気分を改善させる効果が確認された。別の実験でも、肯定的な表現の広告が、悲しい気分の人の否定的な感情を弱める結果が得られている。

 この研究で使われたのは広告であり、ニュースからアニメへの切り替えを直接調べたわけではない。しかし、メディアの内容が変わることで、それまでの否定的な感情が和らぐ場合があるという点では、筆者の経験を考える手掛かりになる。特に、物語を楽しむことによって不安や寂しさから注意が離れれば、気分が自然に変化する可能性がある。

 アニメには、映像や音楽、登場人物の声、物語の展開など、人の注意を引き付ける多くの要素がある。見慣れた番組なら、放送開始の音楽を聞いただけで、これから楽しい時間が始まるという期待が生まれることもあるだろう。そうした期待自体が気分を変えている可能性もある。まだ休日が終わったわけではなく、今から楽しめる時間が残っていると感じられれば、夕方の寂しさは薄らいでも不思議ではない。

 もっとも、ここで注意すべきなのは、アニメが気分の回復を引き起こしたと断定できるわけではないという点である。17時台から18時台にかけて変化したのは番組だけではなく、時間の経過、夕方の明るさ、気分の自然な揺れ、番組が始まることへの期待なども同時に変化している。もし17時台からアニメを見ていたら同じ寂しさが生じたのか、あるいは18時台もニュースを見続けていたら寂しさが残ったのかを確かめなければ、番組の効果だけを切り離すことは難しい。

 それでも、筆者が経験した気分の変化そのものには意味がある。休日が終わりに近づいているという状況が同じでも、その瞬間に何を見て、何を楽しみ、何を考えているかによって、時間の感じ方は変わり得るということである。あの18時台のアニメは、未来に向かっていた意識を、もう一度、目の前の時間へ引き戻してくれたのかもしれない。

日曜日は、本当にほかの曜日より寂しいのか

 ここまで考えると、日曜日の夕方には多くの人が同じような寂しさを感じるように思えてくる。しかし、心理学の研究を詳しく調べると、そのような単純な結論にはならない。曜日による気分の違いは確認されているものの、その傾向は研究方法や対象者によって異なっている。

 米国の研究者アーサー・ストーンらは、2012年に発表した研究で、約34万人の電話調査データを分析し、曜日による気分の違いを調べた。その結果、金曜日や週末には気分が良好になる傾向が認められた一方、土曜日と日曜日の間には明確な差が見られなかった。また、月曜日の気分が火曜日から木曜日より特別に悪いという、いわゆる月曜日の憂うつについても、強い裏付けは得られなかった。

 これに対して、2011年に発表されたチャールズ・アレニらの研究では、複数の先行研究を統合するメタ分析が行われ、月曜日の気分がわずかに悪化する傾向が確認されている。現在の気分を曜日ごとに報告した34標本の分析では、標準化平均差という、平均値の違いを標準偏差で調整した指標で、約-0.06~-0.08という小さな効果が示された。これは統計的には検出され得る差であっても、一般的な日常生活で誰もがはっきり感じるほど大きな差とは限らない。

 この2つの研究は、必ずしも完全に矛盾しているわけではない。調査対象者や気分を尋ねる方法、曜日の比較方法が異なれば、検出される差も変わり得る。そもそも、ある研究で統計的に明確な差が見られなかったことは、その差が存在しないと証明されたことを意味しない。一方、小さな差が確認されたとしても、すべての人に同じ現象が起こると結論付けることはできない。

 何より、これらの研究で比較しているのは主として曜日単位の感情であり、日曜日の17時台という短い時間に限定した寂しさではない。日曜日の午前中には楽しく過ごしていても、夕方の数十分間だけ気分が沈む人はいるだろう。1日を通した平均値を比較すると、こうした短時間の変化は見えにくくなる。統計的な平均と、一人の人間が特定の時間帯に感じる感情とは、分けて考える必要がある。

2025年の研究が示した、時刻と心の意外な関係

 人間の感情を曜日だけでなく、時刻との関係から調べた研究もある。2025年2月に公表されたユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの研究では、イングランドの成人49,218人について、約90万件の反復観測データを分析し、回答した時刻や曜日、季節と、心理的な健康状態との関係を調べている。

 この研究では、全体として午前中に心理的な状態が良好で、深夜には悪くなる傾向が確認された。また、幸福感や生活満足度などの一部の指標では、日曜日より月曜日や金曜日の方が良好な結果も示された。一方、孤独感については、曜日による明確な違いが確認されなかった。人間の感情は曜日だけで一律に決まるわけではなく、何を測定するかによっても見えてくる姿が異なるのである。

 ただし、この研究を読む際には重要な注意点がある。調査は2020年から2022年にかけて実施され、新型コロナウイルス感染症の流行期と重なっていた。また、回答時刻と心理状態の関連を分析した観察研究であり、同じ人の感情が1日の中でどのように変わったかを、常時直接測定した実験ではない。幸福感などの質問には過去1週間を振り返るものも含まれており、結果をそのまま「朝は楽しく、夕方は寂しい」という瞬間的な感情の変化と同一視することはできない。

 さらに、研究で測定された孤独感と、筆者が若い頃に日曜日の夕方に感じた淋しさも、必ずしも同じ感情ではない。人とのつながりが不足していると感じる孤独感と、楽しい時間が過ぎ去ることを惜しむ寂しさでは、その背景が異なる可能性がある。日曜日の夕方の感覚を科学的に理解するためには、曜日や時刻だけでなく、その人が何を考え、どのような生活を送り、何を楽しみにしているのかまで調べる必要があるだろう。

日本人の日曜日は、生活時間の数字から見えるのか

 日本に目を向けると、総務省統計局が実施する社会生活基本調査が、人々の曜日別の生活を知るための重要な資料となる。2021年の調査では、平日、土曜日、日曜日を区別した生活時間の集計に加えて、1日を15分単位に区切り、各時間帯にどのような行動をしている人が多いかを調べている。こうした統計を用いれば、日曜日の夕方に仕事や家事、食事、休養、テレビ視聴などをしている人の割合を比較することができる。

 ただし、生活時間の統計から、人々の感情をそのまま読み取ることはできない。例えば、日曜日の18時にテレビを見ている人の割合が分かったとしても、その人たちが楽しい気分なのか、寂しい気分なのかまでは分からない。また、同じテレビ視聴でも、ニュースとアニメでは内容が異なり、同じ番組を見ていても受け止め方は人それぞれである。

 さらに、日曜日の夕方がどのような意味を持つかは、働き方によっても変わる。月曜日から金曜日まで働く人にとっては、日曜日の夕方が翌週の仕事を意識する時間になりやすいだろうが、日曜日に働いて月曜日に休む人には、異なる時間感覚があるかもしれない。退職後の生活でも、曜日による自由時間の違いが小さくなれば、日曜日の夕方の受け止め方は変わる可能性がある。

 2012年のストーンらの研究でも、高齢者や退職者では曜日による気分の違いが小さくなる傾向が報告されている。もっとも、これは米国の調査結果であり、そのまま日本人全体に当てはまると断定することはできない。年齢を重ねれば必ず日曜日の寂しさが消えるということでもない。曜日の感覚は、就業状況だけでなく、家族との生活、地域の行事、余暇の習慣などによっても形作られるからである。

 統計は、多くの人々に共通する生活の傾向を教えてくれる。しかし、一人の人間が日曜日の17時台に感じた寂しさが、18時台のアニメによって収まったという記憶を、そのまま数字で説明してくれるわけではない。社会全体の時間の流れと、一人ひとりの心の中にある時間の流れは、同じとは限らないのである。

「サザエさん症候群」とは逆だった、筆者の日曜日

 日曜日の夕方の憂うつを表す言葉として、「サザエさん症候群」が知られている。日曜日の夕方に放送されるアニメを見て、休日が終わりに近づいていることを実感し、翌日からの仕事や学校を思って気分が沈む現象を表す俗称である。医学的に確立された独立の診断名ではないが、日曜日の夕方特有の気分を表現する言葉として広く用いられてきた。

 ところが、筆者の若い頃の記憶は、この一般的な説明とは正反対だった。アニメが始まることで休日の終わりを意識したのではなく、むしろアニメが始まると、それまでの寂しさが収まったのである。日曜日の夕方という同じ時間帯でありながら、ある人にとっては休日の終わりを告げる番組が、別の人にとってはまだ楽しめる時間が残っていることを知らせる番組になる。

 日本のテレビ放送史を振り返ると、日曜日の18時台とアニメとの結び付きが長い歴史を持つことが分かる。フジテレビが公表した1969年10月5日の番組編成では、18時から『ハクション大魔王』、18時30分から『サザエさん』が放送されていた。『サザエさん』のテレビアニメが放送を開始したのも、この日である。日曜日の夕方にアニメを見る習慣は、長い年月を通じて、日本の家庭生活の一部分となってきた。

 かつてのテレビは、現在のように好きな番組を都合のよい時刻に自由に再生できる環境とは異なり、基本的には放送時刻に合わせて視聴するものだった。見たい番組が始まる時刻を待つこと自体が、日常の小さな楽しみになっていた人も多かっただろう。日曜日の18時台にアニメが始まることは、単にテレビの番組表が切り替わるという以上に、家庭で過ごす時間の雰囲気が変わるきっかけになっていた可能性がある。

 このような習慣を長く繰り返していると、特定の時刻や音楽、番組の始まりと感情が結び付くことも考えられる。いつも同じような時間帯に同じ種類の番組を見ていれば、その時刻が近づくだけで楽しみを予期するようになるかもしれない。反対に、ある番組の終了が休日の終わりを思い出させるようになる場合もあるだろう。

 つまり、同じ18時台のアニメでも、人によって心の中で果たす役割は異なるのである。ある人にとっては月曜日が近づく合図になり、別の人にとっては日曜日の楽しみが続いている証しになる。この違いを考えると、日曜日の夕方の寂しさを理解するには、番組の内容だけでなく、その人が番組とともに過ごしてきた時間や記憶にも目を向ける必要がある。

日曜日の夕方の寂しさを、実際に測るとしたら

 筆者の記憶が示しているような変化を科学的に確かめるには、どのような方法が考えられるだろうか。例えば、複数の日曜日について、17時台と18時台の気分を同じ基準で測定し、そのときに見ていた番組や活動内容、翌日の予定、睡眠状況などを記録する方法がある。気分を0から10までの数値で評価し、何週間か続ければ、少なくとも本人の中でどのような変化が繰り返されているかを確かめる手掛かりになる。

 ただし、アニメを見ている日曜日だけ気分が良かったとしても、それだけでアニメに原因があると結論付けることはできない。アニメを見る余裕のある日は、そもそも仕事の心配が少なかった可能性があるし、天気や体調、家族との過ごし方が影響していたかもしれない。より厳密に調べるなら、異なる番組を見る条件を設け、視聴する順序を変えて比較する必要がある。それでも、番組への好みや期待を完全に取り除くことは難しい。

 日曜日の寂しさを説明するには、未来への予期、現在の活動、過去の記憶という異なる働きを考える必要がありそうである。翌日のことを思えば、これから始まる生活が気になる。目の前の物語に集中すれば、その間は現在の楽しみが意識の中心になる。そして、昔から親しんだ番組に接すれば、過去の楽しかった経験が感情に影響する可能性もある。これらは互いに排他的な説明ではなく、同じ人の中で重なり合っていても不思議ではない。

 ただし、それぞれの影響の大きさを、この体験談だけから数値化することはできない。どの要因が最も重要だったのかも分からない。それでも、あの夕方の気分の変化は、単純な時計の経過だけではなく、人間が時間に与える意味によって感情が変わり得ることを考えさせてくれる。

あの夕方、寂しかったのは何を失うからだったのか

 ここまで心理学の研究や生活時間の統計を調べてみても、若い頃に筆者が17時台のニュースを見ながら感じた淋しさを、完全に説明することはできない。ニュースの内容が影響していたのか、夕暮れの雰囲気が関係していたのか、翌日からの生活を予期していたのか。どの説明にも考える価値はあるが、当時の心の中で起きていたことを、後から一つの原因に決めることはできない。

 それでも、18時台のアニメが始まると寂しさが収まったという記憶は、今でも興味深い。もし休日が終わりに近づくことだけで感情が決まるなら、時間が進むほど寂しさは強くなるはずだが、人間の心はそのように単純には動かない。これから楽しいことが始まると感じれば、休日が終わりに近づいていても、気分が明るくなることは十分に考えられる。

 考えてみれば、人間はまだ失っていないものを、まもなく失うと感じただけで寂しくなることがある。楽しい旅行の最終日、帰り道の車窓、久しぶりに会った人と別れる前の時間などにも、似た感情が生まれることがあるだろう。そこでは、現在が不幸だから寂しいのではない。むしろ、現在の時間に何らかの価値を感じているからこそ、それが過ぎ去っていくことを惜しむ気持ちが生まれるのかもしれない。

 日曜日の夕方にも、それと似たところがある。土曜日から続いていた自由な時間が、いつまでも続くわけではないことを実感する。夕方のニュースは、筆者にとって、その現実を意識するきっかけになっていた可能性がある。一方、18時台のアニメは、まだこの時間にも楽しみが残っていることを思い出させてくれたのかもしれない。休日は終わりに近づいているけれど、今この瞬間まで終わってしまったわけではない。その小さな違いが、寂しさと楽しさの境目にあったようにも思える。

 年齢を重ねると、日曜日の夕方の意味も少しずつ変わっていく。仕事や学校が生活の中心だった頃と、時間の使い方が変わった後とでは、同じ17時であっても感じ方は異なるだろう。それでも、昔見ていたテレビの声や音楽、夕暮れの雰囲気を思い出すと、当時の気分がふとよみがえることがある。生活が変わっても、記憶の中にある日曜日の夕方だけは、昔の時間のまま残っているのかもしれない。

 日曜日の夕方が少し寂しく感じられるのは、必ずしも翌日が嫌だからとは限らない。自由に過ごせる時間が減っていくこと、今の楽しさがいつまでも続くわけではないこと、そして新しい1週間が始まることを、まだ休日の途中にいながら感じ取っているためなのかもしれない。もちろん、すべての人がそう感じるわけではなく、人それぞれの生活や記憶によって、日曜日の夕方は異なる表情を見せる。

 若い頃の筆者にとって、17時台のニュースは、何となく寂しさを感じる時間だった。しかし、18時台になってアニメが始まると、その感覚は静かに消えていった。月曜日が遠ざかったわけでも、休日の残り時間が増えたわけでもない。ただ、明日という未来に向かっていた心が、もう一度、目の前にある日曜日へ戻ってきたのかもしれない。

 そう考えると、あの不思議な淋しさは、日曜日が嫌だったから生まれたものではなく、日曜日という時間をどこかで惜しんでいたからこそ生まれたものだったようにも思える。

 そして18時台のアニメは、過ぎていく時間を惜しむよりも、まだ残っている時間を楽しむことを、知らず知らずのうちに教えてくれていたのかもしれない。

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 初めて訪れた町で、知らない道を歩いている。駅から離れるにつれて人通りが少なくなり、見慣れない住宅や畑が道路の両側に続いている。スマートフォンの地図を見れば現在地は分かるものの、近くにどんな店があり、どこで休憩できるのかまではよく分からない。道を間違えたわけでもなく、何か危険が迫っているわけでもないのに、周囲の様子が気になり始める。

 そんなとき、道路の向こうに見慣れたコンビニエンスストアの看板が現れると、なぜか少し安心することがある。まだ店に入ってもいなければ、何かを買う予定もない。店員が親切かどうかも分からず、その町について新しい情報を得たわけでもない。それなのに、看板の色や明るい店内が目に入っただけで、知らない土地に対する緊張が少し和らぐ。

 考えてみれば、不思議なことである。コンビニは商品を販売する民間の商業施設であって、訪れる人の安全を保証する施設ではない。それでも私たちは、見慣れた看板を、単なる店の目印以上のものとして受け取っているのかもしれない。そこには、人間が未知の環境を理解する仕組みや、日常生活で蓄積してきた経験、そして地域社会の中で商業施設が果たしている役割が複雑に重なっている。

 なぜ、初めて見るはずの店に安心するのだろうか。その疑問を追っていくと、私たちが何を手掛かりに知らない町を歩き、どのような条件がそろえば安心できると感じるのかが見えてくる。

知らない道で失うのは、現在地ではなく、これから先の見通しかもしれない

 慣れた町を歩いているとき、私たちは周囲のすべてを注意深く観察しているわけではない。曲がり角の先に何があり、どの道が駅へ続き、どの店なら気軽に立ち寄れるのかを、過去の経験からおおよそ把握している。道路の名前を思い出せなくても目的地へ向かうことができ、特に意識しなくても次の行動を選べるのは、周囲の環境について一定の予測が成立しているからである。

 ところが、初めての場所では、その予測が十分に働かなくなる。道路がどこへ続くのか、近くに休憩できる場所があるのか、体調が悪くなったときにどこへ行けばよいのかなど、普段なら考える必要のないことにも注意を向けるようになる。地図によって位置を把握できても、その土地で何ができるのかという生活上の知識までは得られない。

 心理学や神経科学では、こうした将来の予測の難しさと不安との関係が研究されている。2013年、研究者のダニエル・グルーペとジャック・ニチュケは、将来起こり得る脅威について、発生する可能性や結果を十分に予測できないことが、不安の形成や持続にどのように関係するかを整理した。この研究が扱うのは主に脅威に関する不確実性であり、知らない町を訪れた人が必ず不安になることを示したものではない。

 実際、知らない町を歩くことに楽しさを感じる人もいるし、旅先で予定外の出来事に出会うことを好む人もいる。未知の環境は、それ自体が危険なのではなく、好奇心の対象にもなり得る。しかし、疲れているときや日が暮れ始めたとき、あるいは目的地までの道のりに自信が持てないときには、周囲の状況を予測できないことが心理的な負担になる可能性がある。

 そのような場所でコンビニを発見すると、町全体を理解できたわけではないものの、少なくともその店舗については、何があり、どのように利用できるかをある程度想像できる。分からないことばかりだった風景の中に、自分の経験が通用する場所がひとつ現れるのである。

初めて入る店なのに、なぜ以前から知っているように感じるのか

 日本の主要なコンビニチェーンには、全国の店舗に共通する特徴がある。看板の色や店舗の外観、商品棚の配置、レジでの支払い方などには一定の共通性があり、初めて訪れた地域の店舗であっても、利用者は過去の経験から店内の様子を予測しやすい。店舗ごとに設備やサービスが異なる場合はあるものの、まったく知らない個人商店と比べれば、利用方法を想像するための手掛かりが多いことは確かだろう。

 この感覚を考えるうえで興味深いのが、心理学の「単純接触効果」である。1968年、心理学者ロバート・ザイアンスは、ある対象に繰り返し接することで、その対象への好意的な評価が高まり得ることを研究した。実験では、意味を持たない語や図形などへの接触頻度を操作し、繰り返し目にした対象に対する評価がどのように変化するかを調べている。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、見慣れていることと、好きであること、そして安心できることは、心理学的には同じではないという点である。繰り返し見たものへの評価が好意的に変化したからといって、その対象が安全だと判断されるとは限らない。過去に不快な経験をした場所なら、見慣れていることがかえって警戒につながる場合も考えられるし、接触回数を増やせば好意が際限なく高まるわけでもない。

 それでも、見慣れたコンビニの看板が持つ意味を考えると、単純接触効果とは別に、もうひとつ重要な心理学の概念が浮かび上がってくる。それが「処理流暢性」である。これは、目にした情報をどれほど容易に認識し、理解できるかという、認知処理のしやすさを表す概念である。

 2004年、ロルフ・レーバー、ノルベルト・シュワルツ、ピョートル・ウィンキールマンは、対象を容易に認識・処理できることが、好意的な感情評価と結び付く仕組みを理論的に整理した。人間は、分かりやすく処理できる対象に対して肯定的な評価を示す場合があるという考え方であり、親しみやすさが生まれる仕組みを理解する手掛かりとなる。

 知らない町でコンビニの看板を見つけたとき、私たちは看板の意味を考え込む必要がない。店の中にどのような商品が並び、どこから入り、どのように会計を済ませるのかを、過去の経験から比較的容易に想像できる。その瞬間、初めて訪れた土地の一部分だけが、自分の知識によって理解できる空間へと変わるのである。

 もっとも、処理しやすい対象への好意的評価が、そのまま安心感になると証明されているわけではない。コンビニに関する具体的な心理を説明するには、単純接触効果、処理流暢性、不確実性への反応などが、どの程度関係しているのかを別途検証する必要がある。

 それでも、まったく知らない場所で見慣れた看板が目に入ることには、単なる視覚的な親しみ以上の意味がありそうである。そこでは、過去に積み重ねてきた日常の経験が、初めて訪れた町を理解するための道具として働いている。

夜のコンビニが明るく見えるのは、照明だけの問題ではない

 日中であれば何とも思わなかったコンビニが、夜になると急に頼もしく見えることがある。周囲の商店が閉まり、住宅の窓から漏れる明かりも少なくなった道路では、照明のついた店舗が強い存在感を持つ。ガラス越しに商品棚が見え、店内に人がいる様子が分かれば、単に明るい場所というだけでなく、人の活動が続いている場所として感じられる。

 こうした感覚については、日本国内にも興味深い実証研究がある。2000年、東京工業大学の小林茂雄、海野宏樹、中村芳樹は、「夜間商店街における店舗からの漏れ光と安心感」という研究を発表した。研究では、商店街の閉店前後における光環境の変化を評価するとともに、店舗から外へ漏れる光の量や、店舗正面の内部の見通しやすさを変化させ、人が感じる印象を調べている。

 その結果、路上で感じられる人の気配や安心感は、店舗から漏れる光の強さだけでなく、建物の正面がどのような形状で、内部がどの程度見えるかにも関係していることが示された。閉店によって光が消えた商店街では、不安感や周囲から見守られているという感覚にも変化が見られ、店舗の照明が単なる明るさ以上の心理的な役割を持つ可能性が示されている。

 この研究はコンビニだけを対象にしたものではないが、夜間の店舗の明かりがなぜ安心感と結び付き得るのかを考えるうえで、単純接触効果より直接的な手掛かりを与えてくれる。人は光の量だけを見ているのではなく、その向こうに人の存在や活動を感じ取っているのかもしれない。

 ただし、明るい場所だから犯罪が起こりにくいと断定することはできない。実際の安全性には周囲の見通し、道路の構造、人通り、犯罪が発生する状況など、さまざまな条件が関係する。照明によって安心感が高まったという実験結果は、犯罪が減少したという実証結果とは異なるものである。

 したがって、夜のコンビニを見て安心する心理を理解するには、客観的な安全性と主観的な安心感を分けて考える必要がある。実際に危険が少ないことと、危険が少ないように感じることは、重なる場合があっても同一ではない。それでも、暗い道路に明るい店舗があり、内部の様子を確認できることが、人の心理に一定の影響を及ぼすという説明には、国内の実証研究からも根拠が得られるのである。

安心の正体は、困ったときに「次の行動を選べる」という期待なのか

 コンビニの看板を見つけたときの感覚を、もう少し実用的な側面から考えてみよう。知らない町で喉が渇いたときには飲み物を購入できる可能性が高く、道に迷ったときには、店の場所を目印に現在地を確認し直すこともできる。必要な商品を扱っていれば、その場で困り事を解決できるかもしれないし、緊急時には、状況に応じて店員に助けを求められる可能性もある。

 もちろん、これらの機能がすべてのコンビニで利用できるわけではない。トイレを設置していない店舗や利用を制限している店舗もあり、営業時間が短い店舗もある。充電用品などの取り扱いは店舗によって異なり、店員が必ず相談に対応できるとも限らない。しかし、私たちはコンビニという業態について一定の知識を持っているため、困ったときに何ができる可能性があるのかを想像しやすい。

 ここで重要なのは、実際に問題を解決できることと、問題を解決できそうだと感じることの違いである。何も困っていないときであっても、必要になれば利用できる場所が近くにあると思えることが、心理的な余裕につながる可能性がある。つまり、コンビニの存在は、商品やサービスを提供するだけでなく、将来取り得る行動の選択肢を思い浮かべやすくする働きを持っていると考えられる。

 この関係を数理的に整理するなら、ある施設から期待できる便益は、「必要なときに利用できると考える確率 × 利用できた場合の便益 − 利用するための負担」という形で考えることができる。たとえば、近くに店舗があっても営業時間外で利用できなければ期待できる便益は小さくなり、営業していても徒歩で到達するのが難しければ、移動に必要な負担が大きくなる。

 ただし、これは施設の利用価値を考えるための概念的なモデルであり、実験によって確認された安心感の計算式ではない。利用者が考えている利用可能性と、実際に利用できる確率が一致するとは限らず、複数の店舗がある場合にも、それぞれの便益を単純に足し合わせられるわけではない。また、安心感は金額のように直接測定できるものではないため、期待便益が大きいから安心感も比例して高まるとは言えない。

 それでも、この考え方から見えてくるのは、安心を左右するのが店舗の存在そのものだけではないということである。必要なときに利用できると予測できること、その予測が過去の経験によって支えられていることが、心理的な安心につながっている可能性がある。

 そう考えると、コンビニを見つけた瞬間の安心感とは、何かを手に入れた喜びというより、困ったときに自分が取れる行動の幅が少し広がったという感覚に近いのかもしれない。

全国に約5万6000店あるのに、なぜ見つけた1店舗が特別に感じられるのか

 ここまでの話を地域社会の問題へ広げると、もうひとつ興味深いことが分かる。日本には数多くのコンビニが存在するものの、どこに住んでいても同じように利用できるわけではないということである。

 日本フランチャイズチェーン協会の統計調査によると、主要7社を対象とした2025年12月末の国内店舗数は5万6054店だった。一方、総務省統計局が2026年9月29日に公表した2025年国勢調査の人口等基本集計によると、2025年10月1日時点の日本の総人口は約1億2297万3000人である。両者の調査時点には約2か月の差があり、店舗数も調査対象の主要7社に限られるが、単純に人口を店舗数で割ると、約2194人に対して1店舗という計算になる。

 この数字を見ると、コンビニは全国的に身近な施設のように感じられる。しかし、約2194人に1店舗という値は、あくまで全国人口を調査対象店舗数で割った比率であり、人口2194人ごとに店舗が均等に配置されていることを意味しない。また、店舗を利用するのは周辺住民だけではなく、通勤者や旅行者、道路を通過する人々も含まれるため、この比率をそのまま各店舗の商圏人口と考えることもできない。

 店舗の立地は人口密度だけで決まるわけではない。交通量、周辺の事業所や商業施設、道路の構造、競合店舗の存在、土地や建物の費用、人手の確保など、さまざまな条件が関係している。そのため、人口が同程度の地域であっても、コンビニの数や実際の利用しやすさには差が生じる。

 たとえば、千葉県の外房地域を考えてみると、御宿町、勝浦市、いすみ市、大多喜町には、海岸沿いの市街地から農村部、丘陵地まで異なる地理的環境が広がっている。鉄道駅の周辺と内陸の集落では、人の移動の仕方も商業施設へのアクセス条件も異なるため、同じ1店舗であっても、地域住民にとっての意味が同じとは限らない。

 地域間でコンビニの利用しやすさを比較するなら、人口1万人当たり店舗数のほか、面積1平方キロメートル当たりの店舗数や道路1キロメートル当たりの店舗数なども考えられる。しかし、山林や農地が広い自治体では、行政面積を使った店舗密度が低く出やすく、道路の延長も実際の歩きやすさを直接示すものではない。地形や道路の接続状況を無視して単一の指標で比較すれば、かえって地域の実態を誤って理解する可能性がある。

 そこで重要になるのが、実際の移動経路に沿って店舗までの所要時間を計算し、徒歩で到達できる住民の割合や、夜間にも利用できる店舗までの距離を調べることである。高齢者や自動車を利用できない人にとっては、自宅から直線距離で近い店舗よりも、安全な経路で無理なく到達できる店舗のほうが重要になる場合がある。さらに、道路の通行止めや公共交通の運休を想定すれば、普段は便利な店舗が災害時にも利用できるとは限らないことが分かる。

 このように考えると、知らない町でコンビニを発見したときの安心感は、周囲の商業施設の密度によっても変わる可能性がある。数百メートルごとに店舗がある市街地と、長い距離を移動してようやく1店舗が見つかる地域とでは、その看板の存在感は同じではないだろう。

 ただし、店舗が少ない地域ほど必ず安心感が大きくなるという実証結果があるわけではない。店舗の希少性、道路環境、訪問者の経験などがどの程度影響するのかは、実際の店舗配置と利用者の心理を組み合わせて調べなければ分からない。それでも、全国平均の店舗数だけでは、知らない土地でコンビニを見つけたときの感覚を十分に説明できないことは確かである。

見慣れた看板の向こうには、地域の安全を支える仕組みもある

 コンビニが安心感と結び付く理由を考えていくと、心理学だけでは説明しきれない側面も見えてくる。私たちが日常的に利用している店舗には、商品を販売するだけでなく、地域社会の安全に関わる取り組みを行っているところもあるからである。

 日本フランチャイズチェーン協会は、2005年10月から「セーフティステーション活動」を全国的に展開している。これは、コンビニが地域社会の一員として安全で安心できる環境づくりに協力する自主的な取り組みであり、自主防犯や緊急時の通報、女性や子どもの駆け込みへの対応、高齢者への支援などが活動内容に含まれている。

 もっとも、この活動は業界団体による自主的な取り組みであって、全国のすべての店舗に同一の法的義務を課す制度ではない。店舗ごとの設備や人員、営業状況によって対応できる内容にも限界があるため、コンビニを見つけたから必ず保護を受けられると考えることは適切ではない。それでも、日常的に利用できる商業施設が、地域の安全にも一定の役割を果たそうとしている点には意味がある。

 千葉県を含む首都圏では、これとは別に、災害時の徒歩帰宅者を支援する仕組みも設けられている。千葉県などの九都県市は、コンビニエンスストアやファミリーレストラン、ガソリンスタンドなどの事業者と「災害時における帰宅困難者支援に関する協定」を締結しており、協定に基づいて支援を行う店舗などは「災害時帰宅支援ステーション」と呼ばれている。

 この仕組みでは、大規模災害によって交通機関が途絶した場合、対応可能な店舗などが徒歩帰宅者に水道水やトイレ、道路情報、休憩場所などを提供することが想定されている。2026年2月27日には、新たな事業者との協定締結により、九都県市の協定締結先が合計33団体になったことも千葉県から公表された。ただし、33団体という数字は協定相手方の数であり、支援を提供できる店舗数を表しているわけではない。

 注意しなければならないのは、災害時帰宅支援ステーションが、すべての災害で必ず機能する施設ではないという点である。店舗自体が被災していれば支援できない場合があり、すべてのコンビニが協定の対象になっているわけでもない。また、大規模地震の直後には、むやみに移動を始めるのではなく、まず自身の安全を確保し、周囲の被害状況や公的な情報を確認することが基本となる。

 こうした制度は、コンビニの看板を見た人が安心する心理を直接証明するものではない。実際、利用者がセーフティステーション活動や帰宅支援協定を知らなければ、それらの制度が看板を見た瞬間の心理に作用しているとは考えにくい。しかし、日常生活の中で地域の人々を受け入れる施設が、行政や業界の取り組みを通じて安全上の役割も担っているという事実は、コンビニを単なる小売店舗だけで評価できないことを示している。

 店内の明かりに人の気配を感じ、商品棚に生活上の選択肢を見いだし、必要なときには立ち寄れると思えること。その安心感は個人の経験から生まれるものだとしても、経験を支えているのは、店舗が日常的に営業し、人々の暮らしと接しているという社会的な環境なのである。

もし町からコンビニが消えたら、何が遠くなるのだろう

 ここまで考えると、コンビニが存在することの意味は、買い物の便利さだけには収まらない。ある町から店舗がなくなったとき、失われるのは商品を購入できる場所だけでなく、必要なときに立ち寄れる場所や、人と接する機会、困ったときに利用できるかもしれないという選択肢でもある。

 もちろん、コンビニの閉店によって地域の安心感が必ず低下するとは断定できない。近くにスーパーマーケットや商店、公共施設などがあれば、必要な機能を補える場合もある。反対に、コンビニが営業していても、徒歩で到達できなかったり、必要な商品やサービスを利用できなかったりすれば、地域住民にとって十分な生活の支えにならない場合もある。

 この問題は、人口減少が進む地域で商業施設の価値を考えるときに重要になる。店舗の存続には売上、賃料、仕入れ費用、光熱費、人件費などが関わるが、地域住民が店舗から得ている便益は、その店舗の売上高だけでは表せない。必要なものを買えること、日常生活の途中で立ち寄れること、夜間にも人の活動が感じられること、困ったときの選択肢として認識できることは、それぞれ異なる価値を持っている。

 経済学的に考えれば、店舗の採算性と地域社会全体にとっての価値は必ずしも一致しない。ただし、住民が感じる安心感のすべてを店舗の社会的便益として金額換算できるわけではなく、施設が存在することによる効果と、周辺の人通りや道路環境などによる効果を区別する必要がある。また、社会的な価値があるからといって、民間店舗に採算を無視した営業を求めることが適切とも限らない。

 地域の生活機能を維持するためには、特定の店舗の存続だけを考えるのではなく、移動販売、地域商店、公共交通、行政サービスなども含め、住民が必要な機能へ到達できる仕組みを検討する必要がある。特に、移動手段が限られる人にとって重要なのは、自治体内に何店舗あるかという数字よりも、自分が必要なときに利用できる場所が存在するかどうかである。

 そして、この違いは、知らない町を訪れた人の感覚にも通じている。都市部では何気なく通り過ぎてしまうコンビニが、建物の少ない地域では、道路の先に見える数少ない立ち寄り先となることがある。その存在は、買い物の便利さだけでなく、次に何かが必要になったときの行動を想像できるという意味でも、心理的な支えになっている可能性がある。

本当に安心させているものを、科学的に確かめることはできるのか

 ここまで、見慣れた看板への親しみやすさ、情報を理解する容易さ、将来の行動を予測できること、夜間の照明や人の気配、店舗が持つ生活上の機能などを考えてきた。しかし、これらの要因が実際にどの程度安心感を生み出しているのかは、まだ明らかではない。

 たとえば、初めて訪れる町の風景を再現した画像や映像を用意し、見慣れたコンビニチェーン、知らないチェーン店、個人商店などを配置して、安心感の評価がどのように変わるかを比較する方法が考えられる。ただし、店舗の種類を変えるだけでは、看板の色や明るさ、内部の見通しなども同時に変わってしまうため、何が安心感に影響したのかを判断しにくい。

 そこで、店舗の種類と照明の強さ、人通り、営業時間、利用可能なサービスなどの条件を分けて操作し、実験参加者を無作為に異なる条件へ割り当てれば、それぞれの要因による影響を調べられる可能性がある。さらに、昼間と夜間、徒歩と自動車で移動している場合、都市部と地方部などを比較すれば、同じ看板であっても環境によって心理的な意味が変わるかどうかを検証できる。

 統計分析では、参加者の平均的な安心感の変化だけでなく、その差の不確実性を表す信頼区間や、参加者ごとの評価のばらつきも確認する必要がある。コンビニを頻繁に利用する人と、ほとんど利用しない人では、同じ看板に対する反応が異なる可能性もあるため、個人の経験や普段の移動手段なども考慮しなければならない。

 ただし、実験でコンビニの看板が安心感を高める結果が得られたとしても、それだけで実際の町が安全であることを証明できるわけではない。心理的な安心感と、犯罪や事故などの客観的な危険は別の指標であり、それぞれ異なる方法で測定する必要がある。

 この区別を守ることによって、私たちは日常の小さな感覚を、単なる思い込みとして片付けることも、科学的に証明された事実として過大評価することもせずに考えられる。コンビニを見つけると安心するという何気ない経験は、人間の認知や感情だけでなく、都市の環境、商業施設の配置、地域社会との関係を調べる入口にもなるのである。

知らない町で見つけたのは、コンビニではなく、自分の知っている世界の一部なのかもしれない

 最初の疑問に戻ってみよう。なぜ、知らない場所では、コンビニを見つけると少し安心するのだろうか。

 心理学の研究から考えれば、見慣れた対象に対する親しみやすさ、情報を容易に認識できること、将来の行動をある程度予測できることなどが、関係している可能性がある。夜間の店舗照明に関する国内研究は、光の強さだけでなく、人の気配や建物内部の見通しが安心感と関連することを示している。さらに、コンビニが商品やサービスを提供し、地域の安全にも一定の役割を持っていることを考えれば、利用できる場所が近くにあるという期待も、安心感の一因になっていると考えられる。

 ただし、これらの研究や制度から、コンビニの看板が安心感を生み出す仕組みのすべてが明らかになったわけではない。見慣れた看板への親しみがどれほど影響し、明るさや人の存在がどの程度作用し、実用的な期待がどれほど心理を変えるのかについては、直接的な実験や調査が必要である。現段階で言えるのは、複数の科学的知見から説明可能な仮説を組み立てられるということであり、それぞれの因果的な寄与が確定しているということではない。

 それでも、知らない町で見慣れたコンビニを見つけたときの感覚を、単に店があるから便利だというだけで説明するのは、少し物足りないように思える。初めて訪れた土地では、道路の名前も、地元の商店の評判も、そこで暮らす人々の日常も知らない。普段は意識することのない自分の経験や知識が、思ったほど役に立たないこともある。

 ところが、見慣れたコンビニの看板を見つけると、その小さな空間については、いつもの経験を使って考えることができる。何が売られていそうか、どのように利用するか、必要になったときに立ち寄れるかを、ある程度想像できるのである。知らない町そのものが突然理解できるようになるわけではないが、分からないことばかりだった風景の中に、自分の知識が通用する場所が現れる。

 おそらく私たちは、コンビニという建物だけに安心しているのではない。そこで自分が何をできるのかを想像できること、過去の経験を使って次の行動を考えられることに、心理的な余裕を感じているのかもしれない。

 そして、少し安心したあとで周囲を見渡せば、コンビニの向こうには、その土地にしかない風景が広がっている。古くから続く商店や住宅、田畑へ向かう細い道、海へ続く道路など、見慣れた全国チェーンとは異なる町の表情も見えてくる。

 コンビニの看板は、未知の土地を既知の土地へ変えてくれるわけではない。しかし、知らない世界の中に、自分が理解できる小さな場所を見つけることで、その先へ進む余裕が生まれることはあるだろう。

 知らない場所でコンビニを見つけたときの、あのわずかな安心感。それは、私たちが不確実な世界を歩きながら、これまで積み重ねてきた経験を手掛かりに、少しずつ周囲を理解しようとしていることの表れなのかもしれない。

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初めて来たはずなのに、知っているような気がする

 旅先の駅を降り、地図を確かめながら知らない道を歩いていると、不意に奇妙な感覚に包まれることがある。その街を訪れたのは初めてで、曲がり角の先に何があるのかさえ知らない。それなのに、古い商店の軒先や緩やかに曲がる坂道、夕方の光を受けた住宅の屋根を眺めているうちに、「ここを昔歩いたことがあるような気がする」と感じるのである。記憶をたどっても思い当たる場所はなく、以前旅行した土地でも、幼いころに暮らした町でもない。それでも胸の奥には、単なる見覚えとは少し違う、安心感と寂しさの入り混じったような感情が生まれる。

 私自身にも、こうした感覚をはっきり覚えている場所がある。今から20年ほど前に群馬県桐生市を旅行したとき、そして25年ほど前に沖縄県名護市を訪れたときである。どちらも、それまで自分が暮らしてきた土地とは異なる町で、その場所に個人的な思い出があったわけでもない。それにもかかわらず、街を歩いているうちに、理由をうまく説明できないまま「なぜか懐かしい」という感覚が湧いてきた。桐生と名護では気候も地形も街の成り立ちも大きく異なるはずなのに、両方で似た感情が生じたことを考えると、懐かしさは特定の町そのものに宿っているというより、目の前の風景と自分の過去との間に、本人にも意識できない何らかの重なりが生じたときに現れるのではないかと思えてくる。

 こうした経験は、すぐにデジャヴ、つまり既視感と呼びたくなるかもしれない。しかし心理学的には、既視感と懐かしさは同じものではない。既視感は、現在の場面を「以前にも経験したように感じる」現象であるのに対し、懐かしさは、自分にとって意味のある過去や、それに結び付いた感情へ心が向かう、より複雑な感情である。それでも両者はまったく無関係というわけではなく、「なぜか知っている気がする」という親近感が生まれ、そこに過去の情景や感情が重なることによって、それが「懐かしい」という感情として経験される可能性がある。

 つまり、知らない街で感じる懐かしさを理解するためには、「その場所を実際に知っているか」だけを見るのではなく、「目の前の場所が、自分の過去に蓄積された何かとどのように重なっているのか」を考える必要がある。

人間は街を写真のようには記憶していない

 私たちは、自分が暮らしてきた街について膨大な情報を持っている。しかし、その情報のすべてを言葉にして説明できるわけではない。子どものころに毎日通った道について尋ねられても、道路の正確な幅、塀の高さ、家と家の間隔、電柱の位置、庭木の種類、夕方に影がどちらへ伸びていたかまで説明できる人はほとんどいないだろう。それでも、そうした特徴は繰り返し目に入ることで、意識されないまま「馴染みのある風景」の一部として記憶に蓄積されていく。

 現代の記憶研究では、少なくとも出来事に関する記憶は、過去の経験を完全な映像として保存し、必要になったときにそのまま再生する装置のようなものではないと考えられている。私たちが何かを思い出すときには、過去に保存された複数の情報や意味、感情、現在の状況などを使いながら記憶を再構成している。そのため、昔暮らしていた町とまったく同じ場所でなくても、道路と住宅の位置関係、坂道の傾斜、建物の密度、庭木の見え方といった空間的特徴が似ていると、具体的な記憶を呼び出せないまま「どこか知っている」という感覚だけが現れることがある。

 この点については実験的な裏付けもある。仮想的な空間を使った心理学研究では、参加者が以前に見た場面そのものを思い出せない場合でも、過去に見た場面と空間配置が似ている新しい場面に対して、より強い親近感や既視感を示すことが確認されている。研究によって効果の大きさには違いがあり、空間的な類似性だけですべての既視感や懐かしさを説明できるわけではないが、「場所全体の構造が似ているだけで、知っている感じが生じ得る」という点には、単なる思いつき以上の根拠がある。

「思い出せないのに知っている」という記憶

 人の記憶には、「知っている気がすること」と、「どこで知ったのかを思い出すこと」が別々に起こる場合がある。たとえば街ですれ違った人を見て、「どこかで会ったことがある」と感じても、いつ、どこで会ったのかまったく思い出せないことがある。その後になって、以前よく行った店の店員だったと気付く場合もあれば、最後まで分からないこともある。それでも、最初に感じた「見覚えがある」という感覚まで、必ずしも間違いだったとは限らない。

 心理学では、このような「知っているように感じること」をfamiliarity(親近感・既知感)と呼び、具体的な出来事や状況を思い出すrecollection(回想・想起)とは分けて考えることがある。両者が脳の中でどのように働いているのかについては今も議論が続いているが、「何だったかは思い出せないのに、なぜか馴染みを感じる」という現象そのものは、多くの実験で確かめられている。

 知らない街で感じる不思議な懐かしさも、この仕組みと関係している可能性がある。私たちは「この建物を前にも見た」とはっきり思い出しているのではなく、街全体の配置や雰囲気のどこかが、過去に見た風景と似ていることを、意識する前に感じ取っているのかもしれない。ただし、その時点で生じているのは、まず「知っているような気がする」という親近感であり、それがそのまま懐かしさになるとは限らない。そこに幼いころの記憶や家族との経験、昔の生活感覚、失われた時間への思いなどが重なることで、初めて「懐かしい」という感情として意識される可能性がある、と考えるのが現在の科学的知見に照らして慎重な説明だろう。

街の一部分が、別々の記憶を呼び起こす

 目の前の街が、過去の1つの街に丸ごと似ている必要もない。ある家の庭木は祖父母の家を思わせ、細い路地は小学校への通学路に似ていて、遠くから聞こえる踏切の音は少年時代の夕方を連想させるというように、現在の1つの風景が、過去の異なる時期や場所の記憶を同時に刺激することがある。それぞれは別々の経験だったとしても、現在の風景の中で重なれば、結果として「どこか懐かしい」という1つの感情として意識されることは十分に考えられる。

 この考え方から見ると、桐生市と名護市という、互いにかなり異なる土地で同じような懐かしさを感じたことにも説明の余地が生まれる。2つの都市に共通する何か1つの風景があったとは限らず、ある場所では道路の幅や家並みが、別の場所では光の色や店の佇まい、空気や匂いが、それぞれ過去の異なる記憶と結び付いていた可能性がある。私自身にはその対応関係を具体的に思い出せなくても、複数の弱い手掛かりが重なることで、結果として同じ「懐かしい」という感情が生まれたのかもしれない。

 ただし、道路幅や電柱の間隔、山の見え方といった個々の要素が、それぞれどの程度懐かしさを生み出すのかまで科学的に細かく解明されているわけではない。現在の研究から比較的確かに言えるのは、空間的な配置や視覚的な構造が過去の経験と似ていると親近感が高まり得ること、そして現在の刺激が自伝的な記憶や感情を呼び起こし得ることである。したがって、知らない街の懐かしさは、特定の1つの要素だけで生じるというより、多くの弱い手掛かりが重なった結果として生じると考える方が自然である。

 その意味で、私たちは過去の町そのものを発見しているのではない。現在の風景の中に散らばっている手掛かりを材料にして、自分の記憶の中にある過去を再構成しているのである。

匂いは、景色より先に過去を連れてくることがある

 街の懐かしさには、目に見える景色だけではなく、音や匂いも関係している。雨に濡れた土、古い木造家屋、夏の夕方の草、商店から漂う揚げ物、冬の朝に感じる灯油など、特定の匂いに触れた瞬間、長い間思い出していなかった過去が突然よみがえる経験を持つ人は少なくない。

 嗅覚と自伝的記憶の関係については多くの研究が行われており、匂いによって呼び起こされた記憶には、過去へ引き戻されたような感覚や強い情動を伴う場合があることが報告されている。神経解剖学的にも、嗅覚に関する情報処理は、感情や記憶に関係する脳の領域と密接なつながりを持っているため、ある場所で漂ってきた匂いが、本人には理由の分からない懐かしさを引き起こすことには科学的にも一定の説明が可能である。

 もっとも、「匂いの記憶は必ず視覚より強い」と単純化することはできない。研究によっては、匂いに結び付いた記憶そのものが常に特別に古く、感情的であるという見方に慎重な結果も報告されており、匂いを実際に嗅いだときに感じる強い印象と、記憶そのものの性質とを分けて考える必要がある。それでも、街を歩いている最中に、本人が意識していなかった匂いが過去の感情を刺激し、目の前の風景全体を「懐かしいもの」として感じさせる可能性は十分に考えられる。

昭和を知らない世代が昭和を懐かしむのはなぜか

 さらに興味深いのは、自分が実際には暮らしたことのない時代にまで、人が懐かしさを感じることである。昭和の商店街、古い駅舎、木造旅館、昔の看板などを見て、その時代を直接経験していない世代が「懐かしい」と表現することは珍しくない。

 これは単なる言葉の誤用とは言い切れない。心理学では、自分が直接経験していない過去への懐かしさも研究対象となっており、historical nostalgia(歴史的ノスタルジア)や、他者を通じて形成される間接的なノスタルジアといった概念が使われることがある。人間は自分自身が実際に経験した風景だけから過去のイメージをつくっているわけではなく、家族の写真、親や祖父母の話、映画、テレビドラマ、漫画、広告、学校教材などを通じて、生まれる前の時代についても大量の情報を受け取っている。

 ただし、映画や家族写真を見れば必ず未経験の時代を懐かしく感じるという因果関係まで確立されているわけではない。人によって過去への関心も異なり、家族との関係、文化的経験、作品との接触頻度、社会が過去をどのように語っているかといった要因も影響すると考えられる。それでも、自分が経験していない時代であっても、繰り返し触れてきたイメージが心理的な親近感を形成し、その時代への感傷につながる可能性があること自体は、現在の研究と矛盾しない。

古い街だから懐かしいとは限らない

 ここまで考えると、懐かしさを決めるのは、必ずしも建物の古さではないことが分かる。江戸時代の町並みが保存された場所を歩けば、「歴史的だ」「美しい」と感じても、自分の過去とつながらなければ強い懐かしさを感じないことがある。一方で、文化財でも観光名所でもない1970年代や1980年代の住宅地を歩いたときに、突然胸を突かれるような懐かしさを感じる人もいる。

 それは、自分が育った時代の日常風景に近いからかもしれない。ブロック塀、側溝、小さな公園、古いアパート、商店の看板、住宅の外壁、電柱が続く道などは、当時そこに住んでいたときには特別なものではなかったはずである。しかし、再開発や建て替えによって身近な場所から同じような風景が消えていくと、別の土地に残された何気ない日常風景が、失われた自分の時間の一部のように見えてくることがある。

 ノスタルジア研究では、単に「古い物」に触れることよりも、その対象が本人にとって意味のある過去や、自分という存在が過去から現在まで続いているという感覚と結び付いていることが重要だと考えられている。そのため、「古いほど懐かしい」という単純な関係よりも、「自分の過去との心理的な結び付きが強いほど懐かしさが生じやすい」と考える方が、現在の研究にはよく合っている。

懐かしさは1つの原因では説明しにくい

 知らない街で感じる懐かしさについて、空間配置の類似性という1つの要因だけですべてを説明することはできない。実験研究では、過去の場面と似た空間構造によって親近感や既視感が高まることが統計的に確認されているものの、その効果の大きさは研究条件によって異なり、小さいものから中程度のもの、条件によってはそれより大きいものまで幅がある。つまり、過去と似た道や建物を見れば誰でも同じように懐かしくなるわけではなく、空間的な類似性はあくまで複数ある要因の1つと考えるのが妥当である。

 実際の街で感じる懐かしさには、現在の風景と過去の経験との類似だけでなく、年齢、個人の記憶、過去の感情、匂い、音、光、季節、そのときの心理状態など、多くの要因が重なっていると考えられる。同じ町を歩いても、ある人には何の感情も起こらず、別の人には強い懐かしさが生じるのは、その街が持つ性質だけでなく、見る側がどのような人生を通ってきたかによって、同じ風景が持つ意味そのものが変わるからである。

 「知らない街が懐かしい」という現象は、1つの原因と1つの結果だけで説明できるほど単純ではない。しかし、だからといって科学的に扱えないわけでもない。心理学では、複数の要因が判断や感情にどの程度影響しているのかを統計モデルによって分析することができるため、将来、空間的類似性、過去の居住経験、年齢、感覚刺激などを同時に測定すれば、「どのような条件で知らない街に懐かしさを感じやすいのか」をより数量的に調べることも可能である。現在の段階では、空間的な類似によって親近感が生じ、その親近感に自伝的な記憶や感情などが重なることで、懐かしさとして経験される可能性がある、という程度に捉えておくのが最も慎重だろう。

夢のように感じても、それは夢と同じ仕組みという意味ではない

 知らない街で感じる懐かしさには、ときに夢を見ているときのような奇妙さがある。夢の中では、現実には見覚えのない家なのに「昔から知っている家だ」と疑わずに感じることがあるが、目覚めてから考えると、その場所は実際には存在しなかったことに気付く。

 もっとも、夢と知らない街への懐かしさが、同じ神経機構によって起こると確認されているわけではないため、両者をそのまま同じ現象として扱うことはできない。それでも、過去のさまざまな記憶が現在の経験の中で組み合わされ、実際にはそのまま存在したことのない「知っている場所」の感覚がつくられるという点を考えると、知らない街の懐かしさがどこか夢を思わせるのは不思議ではない。

 私たちは、目の前にあるものだけを見ているつもりで、実際には過去に見た無数のものを重ねながら世界を見ている。その重なりが普段は意識されないまま働いているからこそ、ときに初めて訪れた場所が、ずっと昔から知っていた場所のように見えるのである。

私たちは現在の街を見ながら、自分の過去を見ている

 年齢を重ねるにつれて、育った町の風景は少しずつ変わっていく。空き地には住宅が建ち、個人商店は閉まり、駅舎は改築され、公園の遊具は入れ替わり、かつて大きく見えた道路も、大人になって訪れると驚くほど狭く感じることがある。現実の故郷が変化する一方で、記憶の中にある故郷は完全には更新されないため、やがて「現在の故郷」と「自分が覚えている故郷」は少しずつ別の場所になっていく。

 ところが、その失われた風景の一部分が、遠く離れた知らない町に残っていることがある。昔の故郷そのものではないにもかかわらず、似た坂道や商店、住宅の並び、踏切の音、夕方の光に出会うことで、記憶の中にしか残っていなかった風景が一瞬だけ現在へ戻ってくる。私が桐生市や名護市で感じた懐かしさについても、実際にはその2つの街そのものを昔から知っていたのではなく、その場所の何かを手掛かりとして、自分の中に蓄積されていた別の時間や感覚が呼び起こされた可能性がある。何が引き金になったのかを今になって特定することはできないが、むしろ、その「思い出せないのに懐かしい」という曖昧さ自体が、この現象の本質に近いのかもしれない。

 だから初めて訪れた街で立ち止まり、「なぜか懐かしい」と思ったとしても、それを単なる不思議な錯覚として片付ける必要はない。ただし、脳科学ですべてが解明された現象でもなく、知らない街への懐かしさだけを直接対象とした研究が十分に蓄積しているわけでもない。現在の研究から比較的確かに言えるのは、人間が具体的な出来事を思い出せなくても空間的な類似性から親近感を抱くことがあり、現在の感覚刺激が過去の自伝的記憶や感情を呼び起こし得るということである。そして、そのいくつもの働きが重なったところに、私たちが「懐かしい」と呼ぶ感情が生まれる可能性がある。

 考えてみれば、懐かしさとは奇妙な感情である。私たちは目の前にある家や道や駅を懐かしんでいるつもりでも、本当に懐かしんでいるのは、その風景そのものではないのかもしれない。そこで暮らした人、歩いた帰り道、夕暮れの色、当時の自分、そして二度と同じ形では戻ってこない時間が、現在の風景を借りて一瞬だけ姿を現しているのである。

 知らない街が懐かしく見えるとき、私たちはその街を昔から知っていたわけではない。むしろ、その街という鏡に映った、自分でも忘れかけていた過去を見ているのである。

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 試験会場へ向かう人に「頑張って」と声をかけ、試合を控えた選手にも、大切な仕事を前にした同僚にも同じ言葉を送るように、私たちは日常のさまざまな場面で「頑張って」を使っている。わずか4文字の中に、「応援している」「うまくいってほしい」「あなたならできると思っている」という複数の気持ちをまとめて込められるため、これほど便利な励ましの言葉も少ないのだが、その一方で、善意から差し出されたはずの「頑張って」が、相手を勇気づけるどころか、胸の上に新しい重石を置いてしまうこともある。しかも、その違いは「励まされる性格の人」と「プレッシャーを感じる性格の人」という単純な区別では説明できず、同じ人であっても、ある場面では力が湧き、別の場面では逃げ出したいほど重く感じることがある。

私にとって「頑張って」は、2つの違う言葉だった

 私自身、若い頃を振り返ると、「頑張って」という言葉に対して、場面によってまるで正反対の反応をしていた記憶がある。勉強について「頑張って」と言われると、「よし、もう少しやってみよう」というファイトが自然に湧いてきたのに、スポーツの場面で同じように言われると、励まされるというより、「期待に応えなければならない」「失敗したらどうしよう」という気持ちが先に立ち、胸のあたりに重さを感じていたのである。

 当時、言葉をかけた人たちが勉強とスポーツでまったく違う意味を込めていたとは考えにくく、おそらくどちらの場合も「応援している」という善意から発せられた言葉だったのだろう。それでも自分の中で起きた反応は正反対だったのだから、違いを生み出していたものは「頑張って」という言葉そのものではなく、その言葉を受け取った時の自分の側にあったと考える方が自然である。

 今になって振り返れば、私にとって勉強では、努力をすれば少しずつでも前へ進めるという感覚が比較的強く、「頑張って」と言われることが、自分の中にすでにあった意欲へもう少し燃料を足してくれるように感じられていたのかもしれない。それに対してスポーツでは、同じように努力していても、自分が期待されたようにできるのかという不安の方が強く、「頑張って」という言葉の中に応援よりも結果への期待を感じ取っていた可能性がある。ただし、これは「勉強は努力で結果を変えやすく、スポーツは変えにくい」という一般論ではなく、あくまで当時の私がそれぞれの場面をどのように受け止めていたかという違いであり、別の人ならスポーツの「頑張って」に力をもらい、試験前の「頑張って」に強い圧力を感じても不思議ではない。

人は言葉ではなく、その向こうにある意味を聞いている

 「頑張って」が励ましになる時と負担になる時の違いを考えるうえで大切なのは、人は言葉の辞書的な意味だけを受け取っているわけではないということである。同じ4文字であっても、誰が言ったのか、その人が自分の事情をどこまで知っているのか、それまでにどのくらい努力してきたのか、失敗した時にどう思われるのか、そして今の自分にどれほどの余力が残っているのかまで含めて、人はその言葉の意味を読み取っている。

 長い間勉強を続けてきた人が試験当日の朝に、「ここまでよくやったね。頑張って」と言われたなら、その最後の「頑張って」は「もっと努力しなさい」という要求ではなく、「これまでやってきたことを知っているし、今日も応援している」という確認として受け取られやすい。ところが、仕事に疲れ切った人が「もう限界かもしれない」と訴えた時、事情を聞かないまま「みんな大変なんだから、もう少し頑張って」と返されたなら、同じ言葉でも「今までの努力では足りない」「苦しいと言っても休ませてもらえない」という意味に変わってしまう。

 つまり、言葉の意味は送り手だけが決めるものではなく、受け手の状態との間で完成する。「応援するつもりだった」という善意は大切だが、善意があれば必ず励ましになるとは限らず、むしろ相手の状態を読み違えた善意ほど、本人にとって重くなることさえある。

「できそうだ」と思える時、人は同じ言葉を違って聞く

 心理学では、自分がある課題に対処できるという感覚が、人の行動や意欲に大きく関わることが知られており、これを自己効力感と呼ぶ。自己効力感が高いというのは、単純に「自分は何でもできる」と楽観することではなく、「この課題なら、自分の努力や工夫によってある程度は対処できそうだ」と感じられることであり、この感覚がある時、人は困難を避けるべき脅威ではなく、取り組む価値のある挑戦として受け止めやすくなる。

 「頑張って」という言葉も、こうした受け止め方の違いによって作用が変わると考えれば分かりやすい。「難しいけれど、何とかできそうだ」と感じている人にとっては、その一言が「もう少しやってみよう」という力に変わりやすいが、「自分には難しすぎる」「失敗する可能性が高い」と感じている人にとっては、同じ言葉が「それでも結果を出さなければならない」という圧力に変わりやすい。

 研究でも、人が課題に直面した時、自分の持っている力や支援によって要求に対応できると評価する場合と、要求の方が自分の持つ力を上回っていると評価する場合とでは、その後の心理状態やパフォーマンスに違いが生じることが示されている。ただし、これは「自信さえ持てば必ず成功する」という話ではなく、実際の能力、課題の難しさ、経験、疲労、周囲の支援など複数の要素が絡むため、「頑張って」の効果を1つの心理要因だけで説明することはできない。

励ましは、時に「期待」という服を着てやって来る

 「頑張って」という言葉の中には、多くの場合、「あなたならできる」「うまくいってほしい」という期待が含まれており、その期待が人を支えることもあれば、逆に追い詰めることもある。自分を信じてもらえていると感じれば心強いが、期待に応えなければならないと感じ始めれば、励ましだった言葉はいつの間にか義務へ姿を変えてしまう。

 例えば、試験を控えた子どもに「あなたなら絶対に合格できるから頑張って」と繰り返し伝えれば、最初は自信につながったとしても、やがて「不合格だったら期待を裏切る」という気持ちが生まれることがあり、そこで重要なのは期待をなくすことではなく、期待とその人自身の価値を結び付けないことである。「合格してほしい」と願いながら、「結果がどうであっても、努力してきたことまでなくなるわけではない」と伝えることはできるし、むしろ失敗しても居場所がなくならないという安心があるからこそ、人は思い切って挑戦できることがある。

 スポーツでも同じであり、声援によって力が出る人がいる一方で、観衆から評価されているという感覚や、失敗してはいけないという意識が強くなると、声援がプレッシャーになることがある。実際、スポーツにおける言語的な励ましは平均的には運動強度や一部のパフォーマンスを高める傾向が研究で確認されているが、すべての人が肯定的に受け取るわけではなく、励ましを中立的、あるいは負担として受け取る人もいるため、「声をかければ必ず力になる」と考えることはできない。

 これは私自身の若い頃の経験ともよく重なる。スポーツだから「頑張って」が悪かったのではなく、当時の私は、その場面で「応援されている」よりも「期待されている」「結果を求められている」という意味を強く受け取っていたのかもしれない。

すでに頑張っている人に「頑張って」と言うということ

 もう1つ見落としやすいのは、相手にどのくらい余力が残っているかという問題である。まだ進みたいと思っている人の背中を押すことと、すでに力を使い果たしかけている人をさらに押すことは、同じ「励ます」という行為に見えても意味がまったく違い、マラソンでゴールが見えている選手に送る「頑張れ」は最後の力を引き出すことがあっても、長期間の疲労で倒れそうになっている人に送る「もっと頑張って」は、休むことさえ許されないという感覚を生むことがある。

 特に、人が「疲れた」「もう無理かもしれない」と口にした時には、必ずしも「どうすればもっと頑張れるか」を尋ねているわけではなく、「ここまで苦しかったことを分かってほしい」「これ以上つらいということを認めてほしい」という意味が含まれていることがある。そこで「あなたなら大丈夫」「もう少し頑張ろう」と返してしまえば、本人からすれば、重い荷物を抱えていることを訴えたのに、「まだ持てるでしょう」と言われたように感じるかもしれない。

 公的なメンタルヘルス支援でも、強く悩んでいる人に対して安易に励ますことより、まず話を聴き、その人が置かれている状況や気持ちを受け止めることが重視されているが、これは「頑張って」という言葉を禁止するという意味ではない。問題なのは言葉そのものではなく、相手の状態を確かめることなく、自分の望む方向へ動かそうとするような励ましなのである。

「頑張って」の前に過去を見る

 誰かを励ましたいと思った時、私たちはつい未来のことを言いたくなる。「次は大丈夫」「明日も頑張って」「もっとできるよ」と前を向かせようとするが、その人が未来の言葉を受け取れるかどうかは、過去の努力を認めてもらえたと感じられるかによって変わることがある。

 「ここまでよくやってきたね。明日も頑張って」と言われる場合と、「明日も頑張って」とだけ言われる場合では、同じ「頑張って」であっても響き方は違い、前者には「今までやってきたことを私は見ている」という確認があるため、その後の励ましが追加の要求ではなく応援として聞こえやすくなる。人は、自分が立っている場所を理解してくれた相手からなら前へ進む言葉を受け取りやすいが、自分が歩いてきた道を見ようとしない相手から「もっと先へ」と言われれば、その正しさとは別に心を閉ざすことがある。

 この点は、人間の動機づけを考える研究とも矛盾しない。人は、自分で選んでいるという感覚、自分にはある程度できるという感覚、周囲とのつながりを感じられる時に意欲を持ちやすく、逆に過度に管理されたり、能力を否定されたり、孤立していると感じたりすると、同じ課題であっても負担が大きくなりやすい。「頑張って」が力になるかどうかも、この人間の基本的な感覚と無関係ではない。

誰が言うかによっても、4文字の重さは変わる

 同じ「頑張って」でも、長い間自分の努力を見てきた人から言われる場合と、事情をほとんど知らない人から言われる場合とでは、受け取る印象が違う。前者なら「大変だったことを分かったうえで応援してくれている」と感じられても、後者から簡単に「もっと頑張ればいい」と言われれば、「何も知らないのに」と反発したくなることがあるのは、私たちが言葉の内容だけでなく、話し手との関係そのものまで含めて意味を判断しているからである。

 そのため、励ます時に本当に必要なのは、巧みな言葉を探すことよりも、その人が今どこにいるのかを知ろうとする姿勢なのだろう。前へ進みたいのか、少し休みたいのか、何を怖がっているのか、自分ならできそうだと思っているのか、それとも失敗への不安の方が大きいのかを知らずに励ませば、善意がそのまま相手に届くとは限らない。

「頑張って」が悪いのではない

 ここまで考えると、「頑張って」という言葉は使わない方がよいという結論になりそうだが、それもまた単純すぎる。この言葉によって勇気をもらう人は多く、スポーツでも、勉強でも、仕事でも、信頼する人からの一言によって「もう少しやってみよう」と立ち上がれることは確かにあり、問題は「頑張って」が良い言葉なのか悪い言葉なのかではなく、その人にとって、その時の「頑張って」がどのような意味に聞こえるかなのである。

 私自身、若い頃に勉強で「頑張って」と言われれば力が湧き、スポーツでは同じ言葉にプレッシャーを感じたことを思い返すと、言葉が変わったのではなく、その時の自分が立っていた場所が違っていたのだと思う。勉強では、「もう少しやれば前へ進める」という感覚が比較的強く、スポーツでは、「期待通りにできなかったらどうしよう」という不安が強かったのかもしれず、同じ言葉が一方では追い風になり、もう一方では向かい風になっていたのである。

 おそらく、人を本当に励ますということは、相手をこちらの望む方向へ動かすことではなく、その人が今どこに立っているのかを見つけ、その場所をまず認めることなのだろう。「まだ進みたい」と思っている人には「頑張って」が力になり、「少し休みたい」と思っている人には「もう十分頑張った」が救いになることがあり、そのどちらが正しいかを決めるのは言葉ではなく、目の前にいる人の状態である。

 だから誰かに「頑張って」と言いたくなった時には、その言葉を口にする前にほんの少しだけ相手を見るとよい。その人はこれから挑戦しようとしているのか、それともすでに長い時間戦ってきたのか、自分ならできそうだと思っているのか、それとも失敗を恐れているのか、今欲しいのは背中を押す手なのか、それとも荷物を下ろすことを許してくれる言葉なのか。同じ4文字が人を前へ運ぶ風になることもあれば、肩にのしかかる荷物になることもあるが、その違いを生むのは、言葉の巧さ以上に、相手の現在地を想像しようとする私たちの側の想像力なのかもしれない。

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入ったことのない店なのに、なくなると気になる

 いつもの道を歩いていて、昨日まで何となく視界の端にあった店の看板が外され、窓の内側から商品棚や椅子が消え、入口に「閉店しました」と書かれた紙だけが残されているのを見ると、それほど思い入れのある店でもないのに、街の一部が急に冷たくなったような感覚を覚えることがある。何度も利用した店なら、その寂しさは昔の記憶や店員との会話、そこで買った物や食べた料理と結びつけて説明できるが、不思議なのは、一度も中へ入ったことがなく、店主の顔さえ知らない店が閉じた場合にも、「なくなってしまったのか」と少し残念な気持ちになることである。

 さらに奇妙なのは、閉店を知った瞬間になって初めて「あの店、一度くらい入ってみればよかった」と思うことであり、本当に強い関心があったのなら営業している間に入っていたはずなのだから、この感情を単純な後悔と呼ぶには少し無理がある。では、私たちは店そのものを惜しんでいるのか、それとも、その店が存在していた風景や、そこへ行くこともできた可能性や、その店の前を通っていた自分自身の時間まで含めて惜しんでいるのだろうか。

 最初に区別しておきたいのは、「一度も利用したことのない店が閉店すると人は寂しく感じる」という単独の心理法則が科学的に確立しているわけではないという点である。しかし、その感情を構成している可能性のある現象については、心理学、環境心理学、意思決定研究、都市研究などに相当な研究蓄積があり、見慣れた対象への親近感、場所への愛着、環境変化の認識、選択肢を失ったときの心理、場所と自己の記憶との関係などは個別に研究されている。そこで、どこまでが研究によって確認されていることで、どこからがそれらを組み合わせた推論なのかを区別しながら、この小さな寂しさの正体を考えてみたい。

見慣れた店は、利用しなくても日常へ入り込む

 研究で確認されているのは、同じ対象に繰り返し接することによって、その対象への親近感や好意が生じやすくなるMere-Exposure Effect(単純接触効果・繰り返し接触した対象を好意的に評価しやすくなる現象)であり、この効果については多数の実験研究や統合的な分析が行われている。ただし、接触回数が増えれば好意が際限なく高まるという単純な関係ではなく、刺激の種類や接触回数によって効果の大きさが変わることも知られているため、「何度も見れば必ず好きになる」という意味ではない。

 それでも、ここから確実に言えるのは、「店を利用したことがあるか」と「その店を見慣れているか」は別の問題だということである。一度も入ったことのない喫茶店でも、通勤や買い物の途中に5年、10年と前を通り続ければ、その看板や入口、窓の位置、夜につく照明などは視覚的に見慣れたものとなり、本人が意識していなくても「いつもの道」を構成する要素になり得る。

 ここからは推論になるが、そのように長期間見慣れた店が突然なくなれば、「知らない店が1軒消えた」という情報以上に、「いつも存在していたものがなくなった」という違和感が生じ、その違和感の一部が寂しさとして経験される可能性はある。つまり、客としての関係がなかったとしても、風景としての関係までなかったとは限らず、閉店によって失われるのは店舗との利用関係ではなく、長い時間をかけて形成された「見慣れた状態」なのかもしれない。

人は店だけでなく、その店がある場所にも愛着を持つ

 研究で確認されているのは、人間が住宅や故郷だけでなく、地域、道路、広場、店舗などの「場所」にも心理的な結びつきを形成することがあり、環境心理学ではこれをPlace Attachment(場所愛着・特定の場所に対して形成される情緒的、認知的な結びつき)として研究してきたことである。また、ある場所が自分の記憶や自己認識と結びつく現象はPlace Identity(場所アイデンティティ・場所が自己認識の一部になること)という概念からも研究されており、人と場所との関係が単純な利便性や利用頻度だけでは説明できないことについては、多くの研究が蓄積されている。

 店舗についても、利用する店への愛着が形成され得ることや、その店への愛着と地域そのものへの愛着が関連することは研究されているが、ここで注意しなければならないのは、こうした研究の多くが実際の利用者を対象としていることである。したがって、「一度も入ったことのない店にも、利用していた店と同じような場所愛着が必ず生じる」と言うことはできない。

 ここからは慎重な推論になるが、一度も利用していない店そのものへの愛着というより、その店を含む街路や地域全体への愛着の一部として、店の存在が心理的な意味を持つことは十分考えられる。毎日眺めていた店があることで、その通りが「いつもの通り」に見えていたのであれば、閉店によって失われたのは好きだった店ではなく、その店まで含めて成立していた見慣れた風景であり、「あの店が好きだった」というより「あの店がある景色に慣れ親しんでいた」と表現する方が、科学的にはより慎重である。

変化には、気づくものと気づかないものがある

 研究で確認されているのは、人間が環境の変化を正確に認識するためには注意や、変化前と変化後の情報を比較する過程が重要であり、実際にはかなり大きな変化であっても、それに適切な注意が向けられなければ見落とすことがあるということである。この現象はChange Blindness(変化盲・視覚的な変化が起きても、それに注意が向けられていないと気づかないことがある現象)として研究されており、「環境の変化は常に自動的に強く意識される」と考えるのは正確ではない。

 その一方で、いったん「以前と違う」と気づけば、それまで背景として処理していたものを改めて意識することがある。毎日前を通っていた店が営業しているうちは特に気に留めていなかったとしても、看板がなくなり、店内が空になったことに気づいた瞬間、「そういえば、ここにはあの店があった」と以前の状態を思い出し、現在との違いを比較することになる。

 ここからは推論になるが、この「以前」と「現在」の比較が、閉店後の寂しさを生む一つの契機になっている可能性がある。つまり、店がなくなったことで突然その店自体の価値が高くなったのではなく、消失によって過去の状態が意識され、その結果として「昨日まであったものが、今日はもうない」という時間的な差が感情を伴って認識されるのかもしれない。

「いつか入れる」という未来は、営業している間だけ存在する

 研究で確認されているのは、人間の意思決定では、利用できなくなった選択肢がその後の評価や選択に影響したり、選ばなかった選択肢を後から魅力的に感じたりする場合があるということである。また、選択肢が制限されることによって意思決定への満足感が変化することも研究されており、人間は実際に選んだものだけではなく、「選ぶこともできたもの」に対しても心理的な反応を示す。

 ここからは推論になるが、一度も入らなかった洋食店でも、営業している限り、「今度時間があったら入ってみよう」「誰かと一緒なら行ってもいい」という未来は残されているため、実際にはその予定を立てていなくても、行こうと思えば行けるという選択肢そのものは存在している。しかし閉店した瞬間、昨日までなら選べた行動が永久に選べないものへ変わり、「一度くらい入ってみればよかった」という感情が初めて生まれることがある。

 これは必ずしも、本当はその店へ行きたかったという意味ではない。むしろ「行かなかった」という状態から「もう行けない」という状態へ変化したことによって、初めてその選択肢を意識したと考えることもできる。ただし、「選択可能性の消失が閉店時の寂しさを直接引き起こす」という因果関係そのものが実験的に確立しているわけではないため、この説明は意思決定研究から導いた合理的な仮説として扱う必要がある。

知らない店にも、知らない誰かの時間があった

 研究で確認されているのは、人間が他者の行動や意図を推測し、断片的な情報から他人の生活や背景を想像する社会認知能力を持っていることである。しかし、「長年続いた個人商店が閉店すると、店主の人生を想像するため寂しくなる」という特定の因果関係が直接検証されているわけではないため、この部分については科学的知見と文学的な解釈を明確に分ける必要がある。

 ここからは推論になるが、30年、40年と続いてきた店のシャッターが下りているのを見れば、店主の名前を知らなくても、そこには毎朝店を開け、商品を並べ、客を迎え、夕方になると片付けをして店を閉める生活が何十年も続いていたのだろうと想像することができる。開店したころには若かった店主も年齢を重ね、その間に常連客が変わり、周囲の建物も建て替わり、街を走る車や人々の服装まで変化してきたはずであり、その具体的な歴史を知らなくても、「ここで続いていた誰かの日常が終わった」と感じることはあり得る。

 この想像が閉店への寂しさをどの程度強めるのかは統計的に明らかになっていないが、個人商店の閉店が単なる店舗の入れ替わりではなく、そこで長く続いてきた人の生活の終わりとしても見えることがあるという解釈は、人間の社会認知の性質とは矛盾しない。

店が消えると、自分が過ごした年月まで見えてくる

 研究で確認されているのは、場所が過去の自分と現在の自分を結びつける手掛かりとなり、Self-Continuity(自己連続性・過去の自分と現在の自分を連続した存在として感じること)を支える場合があるということである。昔住んでいた家、通学路、古くからある街並みなどを見ると、その場所に結びついた記憶が呼び起こされ、「昔の自分」と「今の自分」が同じ場所を通してつながることがあり、Place-Referent Continuity(場所参照的連続性・場所を手掛かりとして自己の時間的な連続性を感じること)という考え方からも研究されている。

 ただし、「近所の店が閉店すると自分が年を取ったことを実感する」という現象が、閉店店舗を対象とした直接的な実験によって確立しているわけではない。ここからは推論になるが、「この店は自分が若いころからあった」という記憶を持つ人にとって、その店がなくなることは年月の経過を急に意識するきっかけになる可能性があり、「この店もなくなったのか」という感覚の奥に、「あれからそんなに時間がたったのか」という驚きが混ざることは十分考えられる。

 長年変わらなかった店は、本人が意識していなくても街の中に置かれた時間の目盛りのような役割を果たしており、その目盛りが一つ消えたとき、私たちは店の歴史だけでなく、その横を通り続けてきた自分自身の年月まで振り返ることがある。閉店した店がときに自分の過去を映す小さな鏡のように感じられるとすれば、その背景にはこうした場所と自己の記憶との結びつきがあるのかもしれない。

街には、現在だけではなく過去の風景も残っている

 研究で確認されているのは、場所と記憶が強く結びつき、特定の場所を見ることが過去の経験を呼び起こす手掛かりになり得るということである。ただし、「店がなくなれば以前より記憶が鮮明になる」という単純な法則が確立しているわけではなく、何を記憶し、何を忘れるかには個人差があり、時間の経過によって記憶が薄れる場合も当然ある。

 ここからは推論になるが、新しい店になった場所を見ることで、「ここは昔、本屋だった」「その前は喫茶店だった」と過去の風景を思い出す機会が生まれれば、現在と過去の違いそのものが記憶を呼び起こす手掛かりになることは考えられる。新しい店が何年も営業すれば、やがてその新しい風景も日常になるだろうが、以前の店を知る人の記憶から古い風景が完全に消えるとは限らず、同じ場所に複数の時代の街並みが重なって残ることになる。

 街を長く知っている人ほど、「いま目の前にある街」だけを見ているのではなく、その場所に以前あった店や建物を重ねながら歩いているのかもしれない。若い人には新しい店しか見えていない場所でも、長く暮らした人には2つ、3つ前の風景まで重なって見えることがあり、街とは建物の集合であると同時に、それを見る人の記憶の中に積み重なった時間の集合でもある。

制度面でも、商店街は「売買するだけの場所」ではない

 制度面で確認できるのは、日本の商店街政策において、商店街が商品を販売するだけの場所ではなく、地域の賑わい、住民の交流、生活支援、情報発信などを担う「地域の顔」やコミュニティの拠点として位置づけられていることである。また、行政は商店街について空き店舗、来街者、景況などを継続的に調査しており、店舗の減少や空洞化を個々の商店だけの経営問題ではなく、地域環境にも関わる課題として扱っている。

 ただし、制度上のこの評価は主として「商店街」という面的な単位に対するものであり、個々の商店すべてが、それぞれ単独で地域コミュニティの拠点として認定されているという意味ではない。また、1軒の店が閉店したからといって、それだけで地域社会が弱体化すると結論づけることもできず、人口構成、交通、商業集積、代替店舗の有無などによって影響は大きく異なる。

 ここからは記事としての推論になるが、人が街を感じるとき、自分が実際に利用するスーパーや病院や飲食店だけを見ているわけではなく、一度も入らない商店、夕方になると明かりがつく事務所、知らない人が集まる居酒屋、季節によって商品が変わる店先などを含めた全体の風景から「この町らしさ」を感じているのではないだろうか。その意味では、自分が利用しない店であっても、その存在が街の雰囲気の一部を構成していた可能性があり、閉店による寂しさの中には、客としての不便とは別の、景観や地域環境の変化への反応が含まれているのかもしれない。

数理的に考えると、寂しさは一つの原因では説明しにくい

 研究で確認されている各要素を数理的に考えるなら、閉店時の寂しさを一つの原因だけに結びつけるよりも、複数の要因が重なって生じる現象として考える方が自然である。仮に閉店した店に対する寂しさを目的変数とすれば、店の前を通る頻度、店を利用した回数、その地域に暮らしてきた年数、店舗の営業年数、個人店かチェーン店か、その場所への愛着、閉店によって失われる選択肢の大きさなどを説明変数として考えることができる。

 ただし、ここで重要なのは、それぞれの要因が寂しさにどの程度影響するのかという係数が分かっているわけではないことである。店の前を通る頻度が高いほど寂しさが強くなるのか、長く営業していた店ほど影響が大きいのか、利用経験がゼロでも通過頻度が高ければ利用経験のある店と同程度の感情が生じることがあるのかといった点は、実際にデータを集めなければ判断できない。

 したがって、現在の研究状況を数理的に表現するなら、「閉店への寂しさを説明できそうな変数の候補はかなり見えているが、それぞれの変数の重みはまだ推定されていない」という段階に近い。これは理論が間違っているという意味ではなく、理論的なモデルと、そのモデルを検証する実証研究とを分けて考える必要があるということである。

統計的には、まだ分からないことが多い

 統計的に確認されているのは、単純接触効果、場所愛着、場所アイデンティティ、利用不能になった選択肢への反応などについて、それぞれ多数の研究や実験が存在するということである。一方で、「一度も利用したことのない店が閉店したとき、何%の人が寂しさを感じるのか」「その寂しさのうち、見慣れた風景の消失が何%を説明し、選択肢の消失が何%を説明するのか」といった直接的な統計値は、現時点では十分に確立していない。

 もしこの現象を本格的に検証するなら、閉店した店舗について、利用回数、前を通る頻度、店舗の営業年数、その土地への居住年数、個人店かチェーン店か、閉店後に空き店舗になったのか別の店が入ったのかなどを測定し、閉店時の寂しさを5段階や7段階で評価してもらう方法が考えられる。そうしたデータを用いれば、順序ロジスティック回帰などで各要因の影響を推定したり、Structural Equation Modeling(構造方程式モデリング・直接観測できない心理概念を含め、複数の要因の関係を同時に分析する統計手法)によって、見慣れ、場所愛着、自己連続性などが寂しさに至る経路を検証したりすることも可能になる。

 したがって、現在科学的に言えるのは、人が反復接触した対象に親近感を形成し得ること、場所にも心理的な結びつきを持つこと、環境変化の認識には注意と比較が関係すること、場所が自己の記憶や連続性と結びつくこと、利用できなくなった選択肢への評価が変化する場合があることまでである。それらが組み合わさって「一度も入ったことのない店の閉店まで寂しく感じる」という現象が生じるという説明は、科学的知見と整合する有力な推論ではあるが、その現象全体が一つの法則として直接証明されているわけではない。

「一度くらい入ればよかった」という言葉の正体

 ここまで研究で確認されていることと、そこから合理的に導ける推論とを分けて考えてみると、閉店した店を前にして「あの店、一度くらい入ってみればよかった」と感じる心理を、一つの理由だけで説明することが難しいことが分かる。そこには、何年も見てきた対象がなくなったこと、店を含めた場所への愛着、行こうと思えば行けた可能性が失われたこと、その場所が自分の過去を呼び起こすこと、そして長く続いていた他人の日常を想像することなどが、程度の差はあっても重なっている可能性がある。

 ここから先は、この現象全体についての推論になる。閉店した店を惜しんでいるように見えても、実際には私たちは店だけを惜しんでいるのではなく、その店が存在していた状態そのものを惜しんでいるのかもしれない。昨日までは店があり、その前をいつものように通り、行こうと思えば入ることもできたが、今日はシャッターが下り、その未来はもう選べず、昨日まで当たり前だった風景にも戻ることはできないため、そこでは店舗の消失と同時に、小さな時間の断絶が起きている。

 だから、一度も入ったことのない店が閉店したと知ったときにも、私たちはほんの少し足を緩めることがある。その寂しさは、「好きだった店を失った」という単純な感情ではなく、何度も見てきた風景が変わったこと、選べたはずの未来が閉じたこと、その場所に積み重なっていた時間が途切れたこと、そして昨日までその風景の中を歩いていた自分自身も、同じ時間だけ前へ進んでいたことを一度に感じるために生まれるのかもしれない。

 一度も入らなかった店なのに、なくなると寂しいという感覚は、一見すると矛盾しているように見える。しかし、人間が利用したものだけで自分の世界をつくっているのではなく、見慣れたもの、選ばなかったもの、知らない誰かが暮らしている場所、そして自分の記憶と結びついた風景まで含めて日常をつくっていると考えれば、その寂しさはそれほど不思議なものではなくなる。閉店した店の前で失われたように感じるのは、一軒の店だけではなく、その店が何気なく存在していた「昨日までの世界」なのである。

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小説は同じなのに、読んでいる物語が違ってくる

 20歳のころに読んだ小説を、60歳になってもう一度開く。ページに並んでいる文章は40年前と変わらず、登場人物の年齢も性格も、彼らが選んだ仕事も恋愛も失敗も変わっていない。それなのに読み進めていると、ときどき「こんな話だっただろうか」と思う瞬間が訪れ、以前は魅力的に見えた主人公がひどく身勝手に思えたり、ほとんど記憶に残っていなかった脇役の一言が妙に心に残ったりする。

 変わったのは小説ではなく読者である。しかし、ここで「人は年を取るほど人間を見る目が深くなる」と簡単に片づけてしまうと、おそらく本当の面白さを取り逃がす。心理学の研究を見ても、加齢によって他人の気持ちを読み取る能力が一方向に向上していくわけではなく、むしろ年齢とともに低下しやすい認知能力がある一方で、対人関係の葛藤について複数の立場を考えたり、簡単には答えが出ないことを受け入れたりする傾向が強くなる場合もあることが報告されている。

 したがって、20歳の読者より60歳の読者のほうが優れているという話ではない。同じ文章を前にしても、どこに視線を向けるか、どの人物の事情を想像するか、何を重大な問題だと感じるかが変わっていくのである。

20歳の読者は、主人公のすぐ近くにいる

 20歳前後で小説を読むとき、物語の中心にいる人物と自分との距離は近い。主人公が家を出れば、その先にある自由を感じ、会社や学校に反発すれば、その息苦しさに共感し、恋のために仕事を捨てようとする人物が登場すれば、その選択の危険よりも、そこにある情熱のほうが鮮やかに見える場合もある。

 これは若い人が単純だからではない。20歳前後という年代では、自分自身の人生もまだ大きく開かれており、「これから何になるのか」「どこで生きるのか」「誰を選ぶのか」という問いが現実の問題として目の前にあるため、物語の中でも未来へ向かって走る人物が自然に中心になるのである。

 ところが60歳で同じ場面を読むと、主人公の後ろに別の人々が見えてくることがある。主人公が仕事を辞めれば、その収入を前提として暮らしている家族はいないのかと思い、恋のために家庭を離れれば、残された配偶者や子どもの翌朝まで想像してしまうので、若いころには主人公と一緒に走っていた読者が、いつの間にか少し離れた場所から物語全体を見るようになる。

 ただし、これは年齢だけで起こる変化とは限らない。仕事を続けた経験、結婚、子育て、親の老い、介護、病気、死別、金銭的な責任など、その人が40年間に経験した出来事が読書の中へ入り込んでいる可能性が大きく、60歳という数字そのものより、そこへ至るまでに積み重なった生活のほうが重要なのかもしれない。

昔は邪魔に見えた人物が、急に理解できることがある

 再読で最も不思議なのは、以前は物語の邪魔をしているようにしか思えなかった人物が、突然、存在感を持ちはじめることである。主人公を止めようとする父親、現実的なことばかり言う母親、夢より生活を選ぶ友人、家族を守るために慎重になる配偶者などは、若い読者から見ると臆病で保守的な人間に見えることがある。

 ところが長い時間を生きたあとで読むと、「そんな無茶はやめなさい」という言葉にも別の響きが生まれ、その人物は単に変化を嫌っているのではなく、失敗したあとの生活まで想像していたのではないか、自分自身も若いころには似た夢を持っていたのではないかと考えはじめることで、物語には書かれていない時間まで見えてくる。

 社会心理学の研究では、対人関係の葛藤について考える場合、高齢者のほうが複数の視点、不確実性、妥協といった要素を考慮することがあると報告されているが、これはすべての人に当てはまるわけではなく、文化によっても違いがある。日本の若者と米国の若者を比較した研究では、日本側では若い段階から複数の立場を考慮する傾向が比較的強く、年齢による変化が米国ほど明瞭ではないという結果もある。

 つまり、20歳では単純で60歳では複雑になるという一本道ではない。それでも、長い人生経験が小説の中にある空白を埋める材料になることはあり得るし、読者は書かれている言葉だけではなく、その言葉を言わせた人生まで想像するようになるのである。

悪人が悪人だけではなくなり、善人も善人だけではなくなる

 若いころの読書では、人物の輪郭をはっきりさせることで物語を理解することがある。勇敢な人と臆病な人、誠実な人と卑怯な人、自由な人と古い価値観に縛られた人というように分ければ、物語は分かりやすい。

 しかし現実の人間関係を何十年も経験すると、その分類が少しずつ不安定になる。誠実な人が誰かを傷つけることもあれば、身勝手に見えた選択が長い時間のあとでは別の意味を持つこともあり、愛情から相手を束縛する人もいれば、責任感が強すぎるために冷酷になる人もいるので、現実の人間がそんなに整然とは分類できないことを知ると、小説の登場人物もまた単純な善人や悪人ではなくなる。

 だからといって、年を取れば何でも許せるようになるわけではない。むしろ逆に、若いころには大胆で格好よく見えた行動を、60歳になってから読むと無責任だと感じる場合もあるが、それでも「この人物は間違っている」で思考を止めず、「なぜ、この人物はこういう選択をしたのだろう」と考える余地が生まれる。

 年齢とともに他者の感情や意図を正確に読み取る能力が必ず高くなるわけではないことも、心理学研究では示されている。それでも、正解を当てる能力と、複数の可能性を考える姿勢とは同じものではなく、60歳の読者が20歳の読者より人間を正確に理解できるとは限らないものの、人間を簡単には決めつけなくなる場合はあるのである。

恋愛小説では、物語の「その後」が見えてくる

 恋愛を扱った小説は、再読による変化が特に分かりやすい。20歳で読むとき、「2人は結ばれるのか」という問いが物語の中心に見えることがあり、告白するのか、別れるのか、再会するのかという出来事が大きく見え、恋愛の成否が人生そのものを決めるように感じられる。

 ところが60歳になって同じ物語を読むと、物語が終わった場所の先に、30年、40年の時間を想像してしまうことがある。激しく愛し合った2人が結婚したとして、同じ気持ちのまま何十年も暮らせるのか、病気になったらどうするのか、収入が減ったらどうするのか、親の介護が始まったらどうするのか、どちらかが先に老いたらどうするのかと考えているうちに、20歳では「結ばれた」という場所に結末を感じていたのに、60歳ではそこが人生の入口に見えてくる。

 もちろん、60歳の読者が必ずこう考えるという科学的証拠があるわけではなく、これは人生経験と時間感覚の変化から考えられる、十分あり得る読み方の1つである。しかし、人は年齢とともに将来の時間を無限に感じにくくなり、現在の感情的な意味や重要な人間関係を重視するようになるという心理学の理論は、この変化を考えるうえで示唆的である。

 若い読者が「この恋は始まるのか」を読み、年齢を重ねた読者が「この関係は続くのか」を読むことがあるとすれば、同じ恋愛小説の中で見ている時間の長さそのものが変わったということなのだろう。

親を描いた人物は、自分の立っている場所によって変わる

 親子関係を描いた場面では、読者自身の立場が人物評価に強く影響する。20歳で小説を読んでいるとき、多くの読者は子どもの側から親を見るため、親が進学や就職、結婚に口を出せば、それは干渉に見え、主人公が家を出れば解放に感じられる。

 しかし、その後に自分が親になったり、親の老いを見たり、介護を経験したり、親を失ったりすると、同じ小説の父親や母親に別の表情が見えることがある。かつてはただ口うるさいと思っていた言葉の中に、不器用な心配を感じるようになり、子どもを束縛しているように見えた親にも、自分の手から子どもが離れていく寂しさがあったのではないかと想像する。

 ここでも重要なのは、60歳だから理解できるのではないということである。20代で親の介護を経験する人もいれば、60代でも子どもを持たない人もいるため、登場人物の評価を変えるのは年齢だけではなく、その読者が何を経験したかである。

 年齢は時計で測れるが、人生経験は時計だけでは測れない。同じ60歳でも40年間に経験した出来事はまったく違い、その違いがあるからこそ、同じ小説を60歳の10人が読んでも、10通りの再読になる。

60歳だから変わったのか、それとも2回目だから変わったのか

 再読について考えると、さらに厄介な問題が出てくる。20歳のときが初読で、60歳のときが2回目なら、評価が変わった原因は年齢だけではないからである。

 初めて読む小説では、「次に何が起こるのか」が大きな関心になり、誰が裏切るのか、恋は成就するのか、事件はどう解決するのかを知らないため、物語の展開そのものに注意が向く。しかし2回目には結末をある程度知っているため、細かな会話や脇役の反応、最初の読書では気づかなかった伏線に目を向ける余裕ができる。

 文学作品の再読についての研究でも、2回目の読書では理解の仕方や注意の向け方が変化することが示されているため、60歳になって脇役が気になるようになったとしても、それがすべて40年間の人生経験によるものとは限らず、単純に2回目だから見えるようになった部分もある。

 20歳から60歳までの変化を本当に確かめるなら、同じ人物に同じ小説を何十年も隔てて読んでもらい、そのたびに登場人物への好感度、共感、責任の評価などを記録しなければならないだろう。それほど長い研究は容易ではないため、「20歳と60歳では必ずこう変わる」と科学的に断定できるほど直接的な証拠はまだ十分ではないが、それでも再読という行為に年齢、経験、記憶が同時に入り込むからこそ、昔の本を読むことは興味深いのである。

その典型例の一つが森鷗外『舞姫』かもしれません。豊太郎を若い時に読む場合と、人生経験を重ねてから読む場合では評価が変わる可能性があります。「舞姫の豊太郎は本当にひどい男なのか」でも、この問題を別の角度から考えました。

同じ作品を読むことは、昔の自分を測ることでもある

 40年前に読んだ小説を読み直したとき、昔嫌いだった人物を好きになっていたなら、それは作品が変化したからではないし、かつて憧れていた主人公に違和感を覚えたなら、それもまた、現在の自分と過去の自分との間に何かが起きたということである。

 ただし、その変化を「成長」という一語で片づける必要はない。若いころには見えていたものを、年齢を重ねることで失う場合もあり、20歳だからこそ主人公の衝動を理解でき、60歳になると現実を知りすぎたために、その無謀さの中にあった美しさを感じにくくなることもあるだろう。

 反対に、若いころには退屈だと思った慎重な人物の苦しみが、後になって理解できることもある。つまり読書の変化は、若い自分から成熟した自分へ一直線に進む物語ではなく、何かが見えるようになる一方で別の何かが見えにくくなるという交換を繰り返していくものであり、その交換こそが、年齢を重ねることなのかもしれない。

20歳の読みと60歳の読みは、どちらが正しいのか

 ここまで考えると、最後に奇妙な問題が残る。20歳で「この主人公は正しい」と思い、60歳で「いや、この主人公は身勝手だ」と思った場合、本当に正しいのはどちらなのだろうかという問題であるが、おそらくこの問いには簡単な答えがない。

 20歳の読者には、60歳の読者には戻れない感覚がある。人生がまだ大きく開かれていて、失敗しても先があると思える時期だからこそ、無謀な人物の決断に込められた希望を強く感じることができる一方で、60歳の読者は、選択には代償があり、その代償を本人以外の誰かが引き受けることもあると知っているため、どちらかが物語を誤読しているのではなく、人生の異なる場所から同じ人物を見ているのである。

 だから名作と呼ばれる小説は、一度読んで理解して終わる作品ではないのかもしれない。20歳には20歳の読書があり、40歳には40歳の読書があり、60歳には60歳の読書があって、さらに70歳や80歳になれば、また別の人物が気になり始める可能性さえある。

再読とは、昔の自分に会いに行くことである

 昔読んだ本を本棚から取り出すとき、そこに待っているのは登場人物だけではなく、その本を読んでいた過去の自分もページのどこかに残っている。20歳の自分は、この主人公に憧れ、あの人物を嫌い、ある場面で胸を熱くし、別の場面をほとんど覚えていなかったかもしれないが、60歳になった自分は、その若い読者の隣にもう一度座り、同じ文章を読みながら、少し違う場所で立ち止まる。

 20歳の自分が「この主人公は勇敢だ」と言えば、60歳の自分は「その勇気の代償を誰が払ったのだろう」と考えるかもしれず、60歳の自分が「この父親の気持ちは分かる」と言えば、20歳の自分は「それでも主人公には自分の人生を選ぶ権利がある」と反論するかもしれないが、その2人のうち、どちらか一方だけが正しいわけではない。

 心理学の研究からも、人間の考え方は年齢とともに単純に向上するのではなく変化していくと考えたほうが現実に近く、情報処理の速さや他者の意図を素早く読み取る力が変化する一方で、人生経験や時間に対する感覚が判断に別の奥行きを与えることもあり、読書の場合にはさらに再読そのものの効果が加わる。

 そう考えると、20歳で読んだ小説を60歳でもう一度読むという行為は、「同じ本をもう一度読む」ことではないのだろう。同じ文章を使って、異なる人生を生きた2人の自分が、それぞれの物語を読んでいるのであり、小説は40年間ほとんど同じ場所にいたとしても、読者はその間ずっと生きていた。

 だからページをめくったときに物語が違って見えるのは当然なのかもしれない。本が変わったのでも、登場人物が変わったのでもなく、40年という時間を歩いてきた自分が、かつてとは違う場所から同じ人々を見ているのである。

 再読とは、懐かしい物語を訪ねることではなく、昔の自分と現在の自分を同じページの上で出会わせる、静かな実験なのかもしれない。

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