リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

知らない街なのに、懐かしいと感じる場所があるのはなぜか

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初めて来たはずなのに、知っているような気がする

 旅先の駅を降り、地図を確かめながら知らない道を歩いていると、不意に奇妙な感覚に包まれることがある。その街を訪れたのは初めてで、曲がり角の先に何があるのかさえ知らない。それなのに、古い商店の軒先や緩やかに曲がる坂道、夕方の光を受けた住宅の屋根を眺めているうちに、「ここを昔歩いたことがあるような気がする」と感じるのである。記憶をたどっても思い当たる場所はなく、以前旅行した土地でも、幼いころに暮らした町でもない。それでも胸の奥には、単なる見覚えとは少し違う、安心感と寂しさの入り混じったような感情が生まれる。

 私自身にも、こうした感覚をはっきり覚えている場所がある。今から20年ほど前に群馬県桐生市を旅行したとき、そして25年ほど前に沖縄県名護市を訪れたときである。どちらも、それまで自分が暮らしてきた土地とは異なる町で、その場所に個人的な思い出があったわけでもない。それにもかかわらず、街を歩いているうちに、理由をうまく説明できないまま「なぜか懐かしい」という感覚が湧いてきた。桐生と名護では気候も地形も街の成り立ちも大きく異なるはずなのに、両方で似た感情が生じたことを考えると、懐かしさは特定の町そのものに宿っているというより、目の前の風景と自分の過去との間に、本人にも意識できない何らかの重なりが生じたときに現れるのではないかと思えてくる。

 こうした経験は、すぐにデジャヴ、つまり既視感と呼びたくなるかもしれない。しかし心理学的には、既視感と懐かしさは同じものではない。既視感は、現在の場面を「以前にも経験したように感じる」現象であるのに対し、懐かしさは、自分にとって意味のある過去や、それに結び付いた感情へ心が向かう、より複雑な感情である。それでも両者はまったく無関係というわけではなく、「なぜか知っている気がする」という親近感が生まれ、そこに過去の情景や感情が重なることによって、それが「懐かしい」という感情として経験される可能性がある。

 つまり、知らない街で感じる懐かしさを理解するためには、「その場所を実際に知っているか」だけを見るのではなく、「目の前の場所が、自分の過去に蓄積された何かとどのように重なっているのか」を考える必要がある。

人間は街を写真のようには記憶していない

 私たちは、自分が暮らしてきた街について膨大な情報を持っている。しかし、その情報のすべてを言葉にして説明できるわけではない。子どものころに毎日通った道について尋ねられても、道路の正確な幅、塀の高さ、家と家の間隔、電柱の位置、庭木の種類、夕方に影がどちらへ伸びていたかまで説明できる人はほとんどいないだろう。それでも、そうした特徴は繰り返し目に入ることで、意識されないまま「馴染みのある風景」の一部として記憶に蓄積されていく。

 現代の記憶研究では、少なくとも出来事に関する記憶は、過去の経験を完全な映像として保存し、必要になったときにそのまま再生する装置のようなものではないと考えられている。私たちが何かを思い出すときには、過去に保存された複数の情報や意味、感情、現在の状況などを使いながら記憶を再構成している。そのため、昔暮らしていた町とまったく同じ場所でなくても、道路と住宅の位置関係、坂道の傾斜、建物の密度、庭木の見え方といった空間的特徴が似ていると、具体的な記憶を呼び出せないまま「どこか知っている」という感覚だけが現れることがある。

 この点については実験的な裏付けもある。仮想的な空間を使った心理学研究では、参加者が以前に見た場面そのものを思い出せない場合でも、過去に見た場面と空間配置が似ている新しい場面に対して、より強い親近感や既視感を示すことが確認されている。研究によって効果の大きさには違いがあり、空間的な類似性だけですべての既視感や懐かしさを説明できるわけではないが、「場所全体の構造が似ているだけで、知っている感じが生じ得る」という点には、単なる思いつき以上の根拠がある。

「思い出せないのに知っている」という記憶

 人の記憶には、「知っている気がすること」と、「どこで知ったのかを思い出すこと」が別々に起こる場合がある。たとえば街ですれ違った人を見て、「どこかで会ったことがある」と感じても、いつ、どこで会ったのかまったく思い出せないことがある。その後になって、以前よく行った店の店員だったと気付く場合もあれば、最後まで分からないこともある。それでも、最初に感じた「見覚えがある」という感覚まで、必ずしも間違いだったとは限らない。

 心理学では、このような「知っているように感じること」をfamiliarity(親近感・既知感)と呼び、具体的な出来事や状況を思い出すrecollection(回想・想起)とは分けて考えることがある。両者が脳の中でどのように働いているのかについては今も議論が続いているが、「何だったかは思い出せないのに、なぜか馴染みを感じる」という現象そのものは、多くの実験で確かめられている。

 知らない街で感じる不思議な懐かしさも、この仕組みと関係している可能性がある。私たちは「この建物を前にも見た」とはっきり思い出しているのではなく、街全体の配置や雰囲気のどこかが、過去に見た風景と似ていることを、意識する前に感じ取っているのかもしれない。ただし、その時点で生じているのは、まず「知っているような気がする」という親近感であり、それがそのまま懐かしさになるとは限らない。そこに幼いころの記憶や家族との経験、昔の生活感覚、失われた時間への思いなどが重なることで、初めて「懐かしい」という感情として意識される可能性がある、と考えるのが現在の科学的知見に照らして慎重な説明だろう。

街の一部分が、別々の記憶を呼び起こす

 目の前の街が、過去の1つの街に丸ごと似ている必要もない。ある家の庭木は祖父母の家を思わせ、細い路地は小学校への通学路に似ていて、遠くから聞こえる踏切の音は少年時代の夕方を連想させるというように、現在の1つの風景が、過去の異なる時期や場所の記憶を同時に刺激することがある。それぞれは別々の経験だったとしても、現在の風景の中で重なれば、結果として「どこか懐かしい」という1つの感情として意識されることは十分に考えられる。

 この考え方から見ると、桐生市と名護市という、互いにかなり異なる土地で同じような懐かしさを感じたことにも説明の余地が生まれる。2つの都市に共通する何か1つの風景があったとは限らず、ある場所では道路の幅や家並みが、別の場所では光の色や店の佇まい、空気や匂いが、それぞれ過去の異なる記憶と結び付いていた可能性がある。私自身にはその対応関係を具体的に思い出せなくても、複数の弱い手掛かりが重なることで、結果として同じ「懐かしい」という感情が生まれたのかもしれない。

 ただし、道路幅や電柱の間隔、山の見え方といった個々の要素が、それぞれどの程度懐かしさを生み出すのかまで科学的に細かく解明されているわけではない。現在の研究から比較的確かに言えるのは、空間的な配置や視覚的な構造が過去の経験と似ていると親近感が高まり得ること、そして現在の刺激が自伝的な記憶や感情を呼び起こし得ることである。したがって、知らない街の懐かしさは、特定の1つの要素だけで生じるというより、多くの弱い手掛かりが重なった結果として生じると考える方が自然である。

 その意味で、私たちは過去の町そのものを発見しているのではない。現在の風景の中に散らばっている手掛かりを材料にして、自分の記憶の中にある過去を再構成しているのである。

匂いは、景色より先に過去を連れてくることがある

 街の懐かしさには、目に見える景色だけではなく、音や匂いも関係している。雨に濡れた土、古い木造家屋、夏の夕方の草、商店から漂う揚げ物、冬の朝に感じる灯油など、特定の匂いに触れた瞬間、長い間思い出していなかった過去が突然よみがえる経験を持つ人は少なくない。

 嗅覚と自伝的記憶の関係については多くの研究が行われており、匂いによって呼び起こされた記憶には、過去へ引き戻されたような感覚や強い情動を伴う場合があることが報告されている。神経解剖学的にも、嗅覚に関する情報処理は、感情や記憶に関係する脳の領域と密接なつながりを持っているため、ある場所で漂ってきた匂いが、本人には理由の分からない懐かしさを引き起こすことには科学的にも一定の説明が可能である。

 もっとも、「匂いの記憶は必ず視覚より強い」と単純化することはできない。研究によっては、匂いに結び付いた記憶そのものが常に特別に古く、感情的であるという見方に慎重な結果も報告されており、匂いを実際に嗅いだときに感じる強い印象と、記憶そのものの性質とを分けて考える必要がある。それでも、街を歩いている最中に、本人が意識していなかった匂いが過去の感情を刺激し、目の前の風景全体を「懐かしいもの」として感じさせる可能性は十分に考えられる。

昭和を知らない世代が昭和を懐かしむのはなぜか

 さらに興味深いのは、自分が実際には暮らしたことのない時代にまで、人が懐かしさを感じることである。昭和の商店街、古い駅舎、木造旅館、昔の看板などを見て、その時代を直接経験していない世代が「懐かしい」と表現することは珍しくない。

 これは単なる言葉の誤用とは言い切れない。心理学では、自分が直接経験していない過去への懐かしさも研究対象となっており、historical nostalgia(歴史的ノスタルジア)や、他者を通じて形成される間接的なノスタルジアといった概念が使われることがある。人間は自分自身が実際に経験した風景だけから過去のイメージをつくっているわけではなく、家族の写真、親や祖父母の話、映画、テレビドラマ、漫画、広告、学校教材などを通じて、生まれる前の時代についても大量の情報を受け取っている。

 ただし、映画や家族写真を見れば必ず未経験の時代を懐かしく感じるという因果関係まで確立されているわけではない。人によって過去への関心も異なり、家族との関係、文化的経験、作品との接触頻度、社会が過去をどのように語っているかといった要因も影響すると考えられる。それでも、自分が経験していない時代であっても、繰り返し触れてきたイメージが心理的な親近感を形成し、その時代への感傷につながる可能性があること自体は、現在の研究と矛盾しない。

古い街だから懐かしいとは限らない

 ここまで考えると、懐かしさを決めるのは、必ずしも建物の古さではないことが分かる。江戸時代の町並みが保存された場所を歩けば、「歴史的だ」「美しい」と感じても、自分の過去とつながらなければ強い懐かしさを感じないことがある。一方で、文化財でも観光名所でもない1970年代や1980年代の住宅地を歩いたときに、突然胸を突かれるような懐かしさを感じる人もいる。

 それは、自分が育った時代の日常風景に近いからかもしれない。ブロック塀、側溝、小さな公園、古いアパート、商店の看板、住宅の外壁、電柱が続く道などは、当時そこに住んでいたときには特別なものではなかったはずである。しかし、再開発や建て替えによって身近な場所から同じような風景が消えていくと、別の土地に残された何気ない日常風景が、失われた自分の時間の一部のように見えてくることがある。

 ノスタルジア研究では、単に「古い物」に触れることよりも、その対象が本人にとって意味のある過去や、自分という存在が過去から現在まで続いているという感覚と結び付いていることが重要だと考えられている。そのため、「古いほど懐かしい」という単純な関係よりも、「自分の過去との心理的な結び付きが強いほど懐かしさが生じやすい」と考える方が、現在の研究にはよく合っている。

懐かしさは1つの原因では説明しにくい

 知らない街で感じる懐かしさについて、空間配置の類似性という1つの要因だけですべてを説明することはできない。実験研究では、過去の場面と似た空間構造によって親近感や既視感が高まることが統計的に確認されているものの、その効果の大きさは研究条件によって異なり、小さいものから中程度のもの、条件によってはそれより大きいものまで幅がある。つまり、過去と似た道や建物を見れば誰でも同じように懐かしくなるわけではなく、空間的な類似性はあくまで複数ある要因の1つと考えるのが妥当である。

 実際の街で感じる懐かしさには、現在の風景と過去の経験との類似だけでなく、年齢、個人の記憶、過去の感情、匂い、音、光、季節、そのときの心理状態など、多くの要因が重なっていると考えられる。同じ町を歩いても、ある人には何の感情も起こらず、別の人には強い懐かしさが生じるのは、その街が持つ性質だけでなく、見る側がどのような人生を通ってきたかによって、同じ風景が持つ意味そのものが変わるからである。

 「知らない街が懐かしい」という現象は、1つの原因と1つの結果だけで説明できるほど単純ではない。しかし、だからといって科学的に扱えないわけでもない。心理学では、複数の要因が判断や感情にどの程度影響しているのかを統計モデルによって分析することができるため、将来、空間的類似性、過去の居住経験、年齢、感覚刺激などを同時に測定すれば、「どのような条件で知らない街に懐かしさを感じやすいのか」をより数量的に調べることも可能である。現在の段階では、空間的な類似によって親近感が生じ、その親近感に自伝的な記憶や感情などが重なることで、懐かしさとして経験される可能性がある、という程度に捉えておくのが最も慎重だろう。

夢のように感じても、それは夢と同じ仕組みという意味ではない

 知らない街で感じる懐かしさには、ときに夢を見ているときのような奇妙さがある。夢の中では、現実には見覚えのない家なのに「昔から知っている家だ」と疑わずに感じることがあるが、目覚めてから考えると、その場所は実際には存在しなかったことに気付く。

 もっとも、夢と知らない街への懐かしさが、同じ神経機構によって起こると確認されているわけではないため、両者をそのまま同じ現象として扱うことはできない。それでも、過去のさまざまな記憶が現在の経験の中で組み合わされ、実際にはそのまま存在したことのない「知っている場所」の感覚がつくられるという点を考えると、知らない街の懐かしさがどこか夢を思わせるのは不思議ではない。

 私たちは、目の前にあるものだけを見ているつもりで、実際には過去に見た無数のものを重ねながら世界を見ている。その重なりが普段は意識されないまま働いているからこそ、ときに初めて訪れた場所が、ずっと昔から知っていた場所のように見えるのである。

私たちは現在の街を見ながら、自分の過去を見ている

 年齢を重ねるにつれて、育った町の風景は少しずつ変わっていく。空き地には住宅が建ち、個人商店は閉まり、駅舎は改築され、公園の遊具は入れ替わり、かつて大きく見えた道路も、大人になって訪れると驚くほど狭く感じることがある。現実の故郷が変化する一方で、記憶の中にある故郷は完全には更新されないため、やがて「現在の故郷」と「自分が覚えている故郷」は少しずつ別の場所になっていく。

 ところが、その失われた風景の一部分が、遠く離れた知らない町に残っていることがある。昔の故郷そのものではないにもかかわらず、似た坂道や商店、住宅の並び、踏切の音、夕方の光に出会うことで、記憶の中にしか残っていなかった風景が一瞬だけ現在へ戻ってくる。私が桐生市や名護市で感じた懐かしさについても、実際にはその2つの街そのものを昔から知っていたのではなく、その場所の何かを手掛かりとして、自分の中に蓄積されていた別の時間や感覚が呼び起こされた可能性がある。何が引き金になったのかを今になって特定することはできないが、むしろ、その「思い出せないのに懐かしい」という曖昧さ自体が、この現象の本質に近いのかもしれない。

 だから初めて訪れた街で立ち止まり、「なぜか懐かしい」と思ったとしても、それを単なる不思議な錯覚として片付ける必要はない。ただし、脳科学ですべてが解明された現象でもなく、知らない街への懐かしさだけを直接対象とした研究が十分に蓄積しているわけでもない。現在の研究から比較的確かに言えるのは、人間が具体的な出来事を思い出せなくても空間的な類似性から親近感を抱くことがあり、現在の感覚刺激が過去の自伝的記憶や感情を呼び起こし得るということである。そして、そのいくつもの働きが重なったところに、私たちが「懐かしい」と呼ぶ感情が生まれる可能性がある。

 考えてみれば、懐かしさとは奇妙な感情である。私たちは目の前にある家や道や駅を懐かしんでいるつもりでも、本当に懐かしんでいるのは、その風景そのものではないのかもしれない。そこで暮らした人、歩いた帰り道、夕暮れの色、当時の自分、そして二度と同じ形では戻ってこない時間が、現在の風景を借りて一瞬だけ姿を現しているのである。

 知らない街が懐かしく見えるとき、私たちはその街を昔から知っていたわけではない。むしろ、その街という鏡に映った、自分でも忘れかけていた過去を見ているのである。

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