リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

本棚に並んだ百科事典は、家庭の風景の一部だった

 昭和の家庭を写した古い写真を眺めていると、居間や応接間の本棚に、同じ装丁の分厚い本が何十冊も並んでいる光景に出会うことがあるが、それは特別な研究者や読書家の家に限ったものではなく、会社員や商店を営む家庭などにも見られた百科事典であり、現在ではほとんど目にすることがなくなったこの大きな本の集合体が、かつては家庭で知識を得るための重要な道具だった。

 もちろん、昭和のすべての家庭に百科事典が置かれていたわけではないが、百科事典が決して一部の富裕層だけの商品ではなかったことは販売実績からも分かり、平凡社が1961年に刊行した『国民百科事典』は「一家庭一百科」を掲げて販売され、当初の予想を大きく超えて4年間で約100万セットが売れたとされているため、少なくとも高度経済成長期の日本で、家庭向け百科事典という商品が大きな市場を持っていたことは確かである。

 それほど多くの家庭が百科事典を購入した背景には、単なる読書需要だけではなく、「子どもが何かを知りたくなったとき、自宅で調べられる環境を用意しておきたい」という教育への期待があり、本棚いっぱいに並んだ百科事典は、その家がどれほど頻繁に利用していたかとは別に、知識や教育を大切にしたいという家族の意識を目に見える形にした存在でもあったと考えることができる。

分からないことがあれば、本棚へ向かう時代だった

 インターネットが存在しなかった時代、テレビを見ていて知らない外国の名前が出てきたり、新聞に聞いたことのない歴史上の人物が登場したりしても、その場ですぐ詳しい説明を得る方法は限られており、図書館へ出かけるか、学校の先生や詳しい人に尋ねるか、あるいは家庭にある辞書や百科事典を開くしかなかったため、百科事典を家に置くことには、膨大な知識を所有するという以上に、「疑問を持った瞬間に、自宅の中で答えを探し始めることができる」という実用的な意味があった。

 子どもが「月はなぜ光っているのか」と尋ね、親も正確な答えを知らなかったとしても、一緒に百科事典を開いて「月」や「太陽」の項目を探すことができ、その途中で宇宙飛行や惑星、重力といった別の記事が目に入れば、本来調べようとしていた疑問から別の興味へ進んでいくこともあったため、百科事典は単に正解を取り出すための道具ではなく、ページをめくる途中で知らなかった世界へ入り込む装置でもあった。

 現在の検索では、自分が知りたい言葉を入力すれば、その言葉に関係する情報が瞬時に表示されるため、目的の答えへ到達するという点では圧倒的に効率がよいが、百科事典をめくる行為には、目的の記事へ向かう途中で別の項目が視界に入り、その寄り道から新しい関心が生まれるという独特の性質があり、効率という尺度だけでは測りにくい知識との付き合い方がそこには存在していた。

高価な本を買うことが「教育への投資」と考えられた

 百科事典は決して安価な商品ではなく、1961年に刊行された『国民百科事典』全7巻は1万円で販売されていたが、当時の平均的な給与水準と比較すると家計にとって決して軽い支出ではなかったため、それでも大量に売れたという事実は、百科事典が単なる本としてではなく、長期間使える教育用品として受け止められていたことを示している。

 その後に刊行された大型百科事典にはさらに高価なものもあり、何十巻にも及ぶ百科事典一式は、現在の感覚でいえば気軽に購入する本というより、家庭が一度決断して買う耐久消費財に近い存在であり、学習机やピアノなどと全く同じものだったとは言えないものの、「子どもの将来のために家に置いておく」という意味では、教育環境を整えるための支出という性格を持っていた。

 こうした高額商品を家庭に販売するため、訪問販売や分割払いも広く用いられ、百科事典の販売方法をめぐるトラブルが社会問題になったことから、1970年代には行政による対応も進められ、訪問販売や割賦販売に対する消費者保護制度が整備されていったため、百科事典は出版文化だけではなく、戦後日本の消費社会や消費者保護制度の歴史とも意外なところで結び付いている。

百科事典は、インターネットの登場と同時に消えたわけではない

 百科事典が家庭から姿を消した理由として最も分かりやすいのはインターネットの普及だが、実際の変化はもう少し段階的であり、紙の百科事典が突然インターネットに置き換えられたのではなく、その途中にはCD-ROM(読み出し専用光ディスク)などを使った電子百科事典の時代が存在していた。

 1990年代には、それまで何十冊もの本に収められていた百科事典が電子媒体に収録されるようになり、平凡社『世界大百科事典』などでもCD-ROM版が登場したことで、紙の百科事典を棚から取り出して索引を引く代わりに、パソコンから言葉を入力して検索するという新しい利用方法が生まれたが、この段階ではまだ百科事典そのものを購入し、自分の手元に置いて利用するという基本構造は残っていた。

 その後、日本では1990年代後半からインターネットが急速に家庭へ広がり、世帯のインターネット利用率は1997年にはまだ1割未満だったものが、2000年代初めには大幅に上昇していったため、家庭で何かを調べる行為そのものが、本棚や電子百科事典の中から情報を探す方式から、外部の巨大な情報空間へ接続して必要な情報を取り出す方式へ急速に変わっていった。

大きく変わったのは「知識を持つ」ことの意味だった

 紙の百科事典の時代には、家庭で必要になるかもしれない知識をあらかじめ本として購入し、家の中に保管しておくことに合理性があり、百科事典だけではなく、国語辞典、漢和辞典、英和辞典、地図帳、家庭医学事典、料理全集など、さまざまな情報を本という形で所有することが、ごく自然な生活習慣として成立していた。

 ところがインターネットが普及すると、知りたいことが生じた瞬間に外部の情報へ接続できるようになったため、「いつ使うか分からない情報をあらかじめ自宅に置いておく」という必要性が急速に低下し、これは音楽を聴くためにレコードやCDを何枚も所有していた時代から、配信サービスを通じて必要な曲へその都度アクセスする時代へ移った変化と似ている。

 この違いは単なる媒体の変化ではなく、知識の価値の置き場所そのものを変えたものであり、以前は「どれだけ多くの情報を自宅に持っているか」に意味があったのに対し、現在は「必要になった情報へどれだけ早く到達できるか」が重要になったため、何十冊もの百科事典を所有する価値は相対的に小さくなった。

紙に固定された知識は、更新速度の競争で不利になった

 百科事典には、もう一つ避けることのできない弱点があり、それは一度印刷されると内容を書き換えることができないことで、歴史上の出来事や数学、古典文学のように短期間では大きく変化しない分野では問題になりにくいものの、政治、企業、科学技術、医療、スポーツ記録、社会制度など、数年で状況が変わる分野では、刊行された瞬間から少しずつ情報が古くなり始める。

 紙の百科事典でも改訂版を刊行することはできたが、何十巻もの内容を編集し直して印刷し、再び販売するには長い時間と大きな費用が必要だったのに対し、デジタル化された百科事典では内容を継続的に修正することが可能になり、現在のオンライン百科事典には定期的に項目が更新されるものもあるため、百科事典そのものが完全に消滅したというより、「一度完成した本を長期間使うもの」から「継続的に更新される情報サービス」へ姿を変えたと考えたほうが実態に近い。

 さらに一般のウェブ検索では、その日に起きた出来事についても短時間で情報を得られるようになったため、最新情報を必要とする場面では紙の百科事典が対抗することは難しくなり、この更新速度の差が、家庭に大型百科事典を置く必要性を大きく低下させたことは、百科事典衰退の中でも比較的はっきりした要因だと考えられる。

「家が狭くなったから百科事典が消えた」とは言えない

 大型百科事典が場所を取ることも、現在の家庭で敬遠される理由としてよく挙げられるが、ここには注意が必要であり、日本の住宅全体を統計的に見ると、1住宅当たりの延べ面積は1970年代以降、長期的にはむしろ増えているため、「昔より住宅が狭くなったので百科事典を置けなくなった」と単純に説明することはできない。

 ただし、一戸建てと都市部の共同住宅では事情が大きく異なり、限られた収納空間の中で何十冊もの百科事典を置くには相当な場所が必要になるうえ、デジタル情報ならほとんど物理的な空間を使わずに膨大な情報を利用できるため、問題は住宅が全国的に狭くなったかどうかではなく、「同じ収納空間を使うなら、年に数回しか開かない可能性のある百科事典に大きな場所を割く必要があるのか」という相対的な価値の変化にあったと考えたほうが合理的である。

 さらに、大型百科事典は重量もあり、引っ越しの際には運搬の負担になり、情報が古くなってから古書として売ろうとしても購入時のような価値が残っているとは限らないため、購入した当時には「長く使える知識の財産」と考えられたものが、何十年か後には処分しにくい大量の本になってしまう場合もあり、このような物理的な負担とデジタル情報の利便性との差も、百科事典を新たに購入する動機を弱くしたと考えられる。

教育も、情報を「探す」だけでは足りない時代になった

 学校教育の変化も、百科事典をめぐる環境の変化と深く関係しており、以前の調べ学習では図書館や百科事典から必要な項目を見つけ、その内容を整理することが中心だったのに対し、現在では検索によって膨大な情報を得られるようになったため、複数の資料を比較し、誰が発信した情報なのか、いつ作成されたものなのか、根拠が示されているのかを確認しながら、情報の信頼性そのものを評価する能力が重要になっている。

 これは百科事典が衰退した直接の原因というより、情報環境が変化したことによって教育も変化したと考えるほうが自然であり、出版社や編集者が内容を整理した百科事典を読む時代には、読者はある程度整理された情報を受け取ることができたが、インターネットでは政府機関や大学、専門家による資料と、個人の意見、広告、誤った情報などが同じ画面に現れることもあるため、情報を見つける能力以上に、その情報を選別する能力が求められるようになった。

 したがって、検索が便利になったから学ぶことが簡単になったとは必ずしも言えず、答えに到達する速度は速くなった一方で、その答えを信用してよいのかを自分で判断する責任は以前より大きくなったと見ることもできる。

百科事典のページをめくる「寄り道」は、本当に失われたのか

 紙の百科事典を懐かしむとき、よく語られるのが、目的の項目を探している途中で全く別の知識に出会う楽しさであり、たとえば恐竜について調べようとした子どもが、近くに載っていた古代文明の写真に興味を持ち、そこからエジプトやメソポタミアの歴史を読み始めるというような経験は、百科事典を順番にめくる構造だからこそ起こりやすいものであった。

 情報科学では、このように探していなかった有益な情報へ偶然出会うことは、セレンディピティ、つまり偶然から生まれる有益な発見の一つとして研究されているが、この現象は紙の本だけに存在するわけではなく、インターネットでも検索結果の関連項目、リンク、動画の推薦、オンライン図書館などから予想外の情報に出会うことがあるため、「紙の百科事典では偶然の発見があり、インターネットでは失われた」と単純に結論付けることはできない。

 それでも両者には性質の違いがあり、百科事典では隣り合うページという物理的な配置によって、自分の過去の関心とは無関係な情報が突然視界に入ることがあるのに対し、現在のデジタルサービスでは利用者の検索履歴や閲覧傾向に近い情報が提示される場合も多いため、偶然の発見そのものが消えたのではなく、その仕組みが変化したと考えるほうが適切なのだろう。

百科事典が消えたのではなく、百科事典という形が消えた

 ここまで考えてくると、家庭から百科事典が消えたという現象を、「人々が知識を求めなくなった」と解釈するのは明らかに間違っており、実際には私たちが日常的に接している情報量は百科事典全盛期とは比較にならないほど増え、かつてなら図書館まで行かなければ確認できなかったことを、現在では自宅や外出先から数秒で調べられるようになっている。

 つまり、失われたのは百科事典が担っていた機能そのものではなく、その機能を何十冊もの本として家庭の中に置いておくという形式であり、1960年代には「一家庭一百科」という言葉が成立したほど価値のあった知識の所有が、電子百科事典を経て、インターネット上の検索やオンライン情報サービスへ移動した結果として、本棚に並ぶ百科事典は役割を終えていった。

 その変化は技術の進歩として見れば合理的であり、検索速度、情報量、更新性、収納効率のどれを比べてもデジタル情報は非常に優れているが、その一方で、かつては子どもが疑問を持つと本棚へ歩いて行き、重い1冊を引き抜き、家族の目の前でページをめくりながら答えを探すという、知識を得る行為そのものが家庭の中で目に見える光景として存在していた。

消えたのは、知識が置かれていた「風景」なのかもしれない

 現在では、誰かがスマートフォンを見ていても、その人が歴史について調べているのか、地図を確認しているのか、買い物をしているのか、あるいは動画を見ているのかは外からほとんど分からないが、百科事典が本棚に並んでいた時代には、「この棚の中には、自分たちがまだ知らないことが入っている」という事実が家族の目に見える形で存在していた。

 情報量だけを比較すれば、現在のほうが圧倒的に豊かであり、数十巻の百科事典では到底収録できなかった膨大な知識にいつでも接続できるため、百科事典がなくなったことを単純に文化の衰退として語ることはできないが、それでも昔の百科事典を懐かしく感じる人がいるのは、紙の手触りや豪華な装丁だけではなく、「分からないことがあれば調べてみる」という家庭の姿勢が、本棚いっぱいの背表紙となって目に見えていたからなのかもしれない。

 百科事典の歴史を振り返ると、そこには高度経済成長期の教育熱、訪問販売を中心とした消費社会、電子化の始まり、インターネットの急速な普及、そして情報を所有する社会から必要なときにアクセスする社会への移行が重なっており、そう考えると、百科事典のある家をほとんど見なくなったという身近な変化は、単に1種類の本が売れなくなったという話ではなく、日本の家庭が「知る」という行為をどのように変えてきたのかを映し出す、小さな社会史として見ることができる。

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 部屋の本棚を眺めていると、ときどき小さな後ろめたさを覚えることがある。書店で見つけたときには確かに「読みたい」と思い、財布を開いて持ち帰ったはずなのに、その後一度も開いていない本が何冊も並んでいるからだ。一冊だけならまだよいが、二冊、十冊、数十冊と増えてくると、それらは次第に「これから読む本」ではなく、「読めなかった本」のように見えてくる。読み終えた本には達成感があるのに、未読の本には宿題のような気配がまとわりつき、積み上がった冊数そのものが、自分の計画性のなさを告発しているようにも感じられる。

 日本では、この状態を古くから「積ん読」と呼んできた。「積んでおく」と「読書」を掛け合わせたしゃれのような言葉だが、その歴史は意外に古い。『精選版 日本国語大辞典』によれば、明治12年(1879年)の『東京新誌』に「つんどく家」「つんどく先生」という表現が見られるとの指摘がある。少なくとも明治時代には、本を入手しながら読まずに置いておく行為が、言葉として認識されていたことがうかがえる。ただし、こうした用例が存在することと、当時の社会で積ん読がどれほど広まっていたかは別の問題である。それでも、積ん読が現代の大量出版やインターネット通販によって突然生まれた現象ではないことは確かだろう。

 それでも私たちは、積ん読をどこか失敗として考えやすい。本は読むためのものなのだから、買っただけで読まなければ目的を果たしていない、という考え方は分かりやすい。購入を入力、読了を出力とするならば、未読本とは処理されないまま残ったデータのようなものになる。年間何冊読んだか、月に何冊読破したかという数字で読書を管理する習慣が強くなれば、積ん読の山は「未達成」の量として数えられてしまう。読書記録を数字で管理できる仕組みは、読書を継続する励みにもなるが、冊数だけでは測れない読書経験を見落とす可能性もある。

 しかし、人間が本を買う理由は、本当に最後のページまで読むことだけなのだろうか。書店で一冊の歴史書を手に取った人は、その瞬間に歴史を学んだわけではないが、「いつかこの時代について知りたい」と思っている。難しそうな哲学書を買った人も、その日のうちに哲学者になるわけではない。それでも、その本を持ち帰るときには「いつかこの問題を考える自分」が、かすかに想像されている。そう考えるなら、本を買うという行為には、現在の自分が未来の自分にひとつの可能性を渡すという側面がある。

 もちろん、「未読本を所有すれば未来の自分が豊かになる」という因果関係が、科学的に証明されているわけではない。それでも、所有物が単なる物ではなく、人間の自己像と結びつくことは、心理学や消費者行動研究で長く論じられてきた。アメリカの消費者研究者ラッセル・ベルクは、1988年に発表した研究で、所有物を「拡張された自己」という観点から捉え、私たちが持つ物が「自分はどのような人間なのか」という感覚に関係すると論じた。所有物は単に実用的な役割を果たすだけでなく、持ち主の過去や価値観、自己認識を表すことがあるという考え方である。

 本も、そのような所有物の一つとして考えることができる。実際に個人の本棚を扱った研究では、蔵書が他人への自己演出に利用されるだけでなく、持ち主自身が読者としての自分をどのように理解し、確認するかにも関係することが指摘されている。本棚は、人に見せるための知性の展示場所であると同時に、持ち主が自分の関心や読書経験を振り返る場所にもなり得る。ただし、こうした研究から、未読本を多く持つほど知的能力が高まるとか、将来の読書量が増えるといった結論まで導くことはできない。

 本棚を見れば、その意味は直感的にも分かる。そこには、実際に読んだ本だけでなく、かつて読みたいと思った本が残っている。若い頃に買った社会思想の本、仕事のために必要だと思って買った専門書、旅先で偶然見つけた地方出版社の本、新聞の書評を読んで衝動的に購入した小説。現在の自分なら選ばない本が並んでいることさえあるが、それらを眺めていると、「あの頃の自分は、こんなことに関心を持っていたのか」と思い出す。本棚とは知識の倉庫である以前に、選択の痕跡が堆積した場所なのかもしれない。

 この意味で、積ん読された本は少し奇妙な存在である。読了した本ならば、「面白かった」「難しかった」「途中から退屈だった」と何らかの評価を下すことができる。しかし未読本には、まだそのような評価を十分に下すことができない。その本が人生を変える一冊になるのか、二十ページで読むのをやめる本になるのか、持ち主にとっての結論は出ていない。内容そのものはすでに書かれているのに、読者との関係はまだ定まっていないのである。読まない限り、その本は内容を持ちながら、持ち主にとっては可能性のまま存在し続ける。

 だから未読本には、既読本とは違う時間が流れている。買った直後には読みたかったのに、数年間まったく興味を失うこともあれば、十年前には退屈そうに見えた本が、ある日突然必要になることもある。社会で大きな出来事が起きたとき、かつて買った歴史書が気になり始めるかもしれない。親を亡くした後で、以前なら何も感じなかった小説の題名が急に胸に引っ掛かることもある。仕事を辞めた後で、若い頃に買った思想書が突然身近な問いを語り始めることさえある。購入したときには漠然としていた関心が、生活の変化によって具体的な意味を持ち始めるのである。

 本は変わっていない。変わったのは読者の方である。

 このことは、単なる文学的感傷とも言い切れない。読解に関する心理学研究では、年齢によって物語を理解する際の情報処理に違いが生じる場合があることが示されている。また、文学作品を読んでいるときに、自分自身の過去の経験が呼び起こされ、それが作品への共鳴に関係することも実験的に研究されている。私たちは文章に書かれている情報を受け取るだけでなく、自分がすでに持っている知識や記憶を使いながら、その意味を理解しているのである。

 もっとも、年齢を重ねれば必ず物語の心理的意味を重視するようになるとか、若い人は文章の表面的な情報しか理解しないといった単純な区別はできない。読解の仕方には、年齢だけでなく、読書経験、教育、専門知識、関心、作品の内容など、さまざまな要因が関係している。また、人生経験が豊かになったからといって、誰もが同じように作品を理解するわけでもない。それでも、読者の記憶や経験が変われば、同じ文章から受け取る意味も変わり得るということは、心理学的にも十分に考えられる。

 そうであるならば、「買ったときにすぐ読むこと」が、必ずしもその本と出会う最良の時期とは限らない。二十歳で読んでも通り過ぎてしまった一節が、六十歳では立ち止まらずにいられない言葉になることがある。反対に、若い頃には鮮烈だった小説が、何十年後かに読み返すと驚くほど平板に感じられることもある。こうした変化がすべて年齢によって生じるわけではないが、読む側の記憶、経験、関心、価値観が変化することで、同じ文章から取り出される意味が変わることはあり得る。

 ここで積ん読という現象を考え直してみると、未読本は「読むべきなのに放置された本」というだけではなく、「まだ読者との時間が一致していない本」と見ることもできる。もちろん、それは美しい解釈にすぎない場合もある。実際には、単に買ったことを忘れているだけの本もあるし、二度と興味を持たない本もあるだろう。読む機会を逃したために、必要な知識を得られなかったという場合もある。それでも、購入から読書までの間に時間が空くこと自体を、直ちに失敗と判断する必要はない。

 紙の本では、この時間差が特に目に見える。電子書籍にも未読本はいくらでも存在するが、購入した本の存在を意識するには、端末やアプリの書棚を開くなどの操作が必要になる場合がある。それに対して紙の本は、読まれていなくても机の上にあり、本棚に背表紙を向け、時には床に積まれながら、所有者の生活空間に居続ける。紙の本と電子書籍の心理的所有感には違いが生じ得ることも消費者研究で指摘されており、紙の本棚が読者としての自己認識に関係することも研究されている。

 ただし、紙の本だけが記憶や関心を呼び起こすわけではない。電子書籍でも、購入履歴や読書記録、端末上の書棚、推薦機能などを通じて、忘れていた本を再発見することはある。電子書籍には検索や携帯の容易さ、保管場所をあまり必要としないことなど、紙の本とは異なる利点もある。両者の違いは、どちらが優れているかという単純な問題ではなく、読者と本との接触の仕方が異なるという点にある。紙の本には、意識的に探さなくても日常生活の中で目に入り得るという特徴があり、その物理的な可視性が、過去の関心を思い出す機会を生む可能性がある。

 その物理的な存在は、記憶との関係でも興味深い。心理学には、将来しようと思っている行動を適切な時点で思い出す「展望記憶」という研究分野があり、人間は環境にある手掛かりによって、以前に予定していた行動を思い出すことがある。また、過去の個人的な経験を思い出す「自伝的記憶」も、本棚と人間の関係を考えるうえで重要である。背表紙を見て「今日はこの本を読むつもりだった」と思い出すことと、「昔、この本に興味を持っていた」と思い出すことは、厳密には異なる記憶の働きであるが、いずれも環境にある物が記憶を呼び起こすきっかけになるという点では共通している。

 もっとも、本棚の背表紙を目にしたからといって、必ず読書への意欲が高まるわけではない。毎日同じ場所にある本は、見慣れてしまえば意識されなくなることもあるし、未読本が積み重なることで、かえって心理的な負担を感じる人もいるだろう。紙の本が見える場所に存在することによって、実際の読書行動がどれほど促進されるのかについては、個人差や環境条件を含めて検証する必要がある。それでも、偶然目にした一冊から「そういえば、これを読みたかったのだ」と過去の関心を思い出すという経験は、記憶の仕組みから考えて不自然なものではない。

 考えてみれば、積ん読本は不思議なほど控えめである。読めとは命令しないし、読まなかったからといって罰も与えない。ただそこに置かれている。それでも、ときどき背表紙が目に入り、「あなたは以前、この世界に興味を持ったことがあります」と思い出させる。過去の自分から現在の自分へ届く、非常に遅い手紙のようなものとも言える。もっとも、その手紙がいつまでも開封されないこともあるし、受け取った現在の自分が、もうその内容を必要としていないこともある。それもまた、人間の関心が変化するという、ごく自然な出来事なのだろう。

 さらに興味深いのは、未読本が知識ではなく「無知」を可視化する点である。本棚に読了した本だけが並んでいれば、それは自分が読んできた世界の展示室になる。しかし未読本が混じっていれば、そこには「まだ知らない世界」も並ぶ。分厚い世界史、古典哲学、知らない国の小説、理解できる自信のない科学書。それらの背表紙を眺めれば、自分が知っている範囲がどれほど限られているかを思わされることがある。ただし、読了した本であっても、その内容を十分に理解したとは限らない。読み終えたことと理解したことも、決して同じではないのである。

 もっとも、「本をたくさん読むほど人間は自分の無知を正確に認識する」とまで科学的に断定することはできない。知識が増えることで、自分の知らない領域に気づく場合もあるが、反対に、限られた知識によって理解したつもりになる場合もあるだろう。それでも、一冊の本が別の本への関心を生むという経験は珍しくない。ある歴史書を読めば参考文献に別の本が並び、その本を読めばさらに別の思想家が現れる。知識の世界は、奥へ進めば壁に突き当たるのではなく、むしろ新しい通路が増えていくことがある。その過程で未読本が増えるなら、それは必ずしも読書の敗北とは言えない。

 もちろん、未読本が一冊もない本棚が、知的好奇心の乏しさを表しているわけではない。読みたいと思った本をすぐに読む人もいれば、図書館を利用して必要な本を借りる人もいる。電子書籍だけを使う人もいれば、一冊を何度も読み返しながら、そこから新しい問いを見つける人もいる。知的な関心は、未読本の冊数によって測定できるものではない。積ん読とは、知的好奇心の必要条件でも、その優劣を決める指標でもなく、人間の関心が本という具体的な物の形になって残る、一つのあり方なのだろう。

 ここには、もう一つ考えるべき問題がある。私たちは本を買うとき、必ずしも同じ目的を持っているわけではない。資格試験に合格するために買う参考書と、いつか読みたいと思って買う古典文学とでは、購入の目的も、その価値を評価する基準も異なる。試験対策のために購入した本を一度も開かず、必要な知識も習得できなかったなら、少なくとも当初の学習目的は達成されていない。一方、以前から関心のあった作品を、将来読めるよう手元に置いておくこと自体に意味を見いだしているなら、未読であることだけを理由に失敗と決めつけることはできない。

 この違いは、経済学的に考えても整理できる。本を購入することによって得られる便益には、実際に読んで得られる知識や楽しさのほか、必要なときに利用できる可能性、所有する満足感、記憶や自己認識との結びつきなどが考えられる。一方で、購入費用、保管場所、管理に要する手間、ほかの用途に使えたはずのお金や時間といった負担も存在する。将来その本を読む可能性が低く、所有することへの満足感も小さければ、購入が合理的だったとは言いにくい場合がある。反対に、実際に読む機会が少なくても、手元にあることによる価値が負担を上回るなら、その所有には本人にとって合理的な理由がある。

 ただし、こうした価値は必ずしも金銭で正確に測定できるものではない。また、本を購入するときの判断と、購入後に保有し続けるかどうかの判断も区別する必要がある。すでに支払った購入代金は、原則として取り戻せない過去の費用であり、今後その本を読むか、手元に残すか、処分するかを考える際には、これから得られる便益と今後生じる負担を比較することが合理的である。「せっかく買ったのだから読まなければならない」と考えるあまり、現在は関心のない本を無理に読み続けることが、必ずしも最善の選択とは限らない。

 積ん読の文化的意味を認めることと、無制限に本を購入することを肯定することは、別の問題である。家には広さがあり、家計にも限界がある。本を買う行為そのものが目的になれば、読書ではなく収集に近づく場合もあるし、本棚を自分の知性を誇示する舞台として使うこともできる。読まない本を大量に所有しているだけで、知識が増えるわけでもない。未読の医学書を百冊持っていても医療知識が身につくわけではなく、哲学全集を並べても哲学を理解したことにはならない。所有することと学ぶことは、密接に関係する場合があっても、同じ行為ではないのである。

 それでも、読んでいないという一事だけで、その本との関係を「失敗」と判定するのも早すぎる。本は情報を受け取るための媒体であると同時に、文化を保存する物でもあるからだ。このことは図書館を考えるとよく分かる。日本の図書館法では、図書館が資料を収集、整理、保存し、一般の利用に供する施設として位置づけられている。図書館の役割は、現在多く読まれている本を提供することだけではなく、必要とする人が将来現れたときに利用できるよう、資料を保持することにもある。

 大規模な図書館には、多数の図書や資料が所蔵されている。そのすべてが毎年貸し出されるわけではなく、長期間ほとんど利用されない資料も存在する。ただし、貸出記録がないことは、館内で読まれていないことの証明にはならないし、利用されない資料のすべてに無条件で高い保存価値があるという意味でもない。図書館には予算や保存スペースの制約があり、資料の選定や保存には判断が必要である。それでも、現在の利用頻度だけでは将来の資料価値を判断できないという点は、文化の保存を考えるうえで重要である。

 もちろん、公共図書館と個人の積ん読を同じものと考えることはできない。図書館には収集・保存・提供という制度的な目的があり、公共的な利用可能性や資料の多様性を考慮する責任もある。一方、個人の本棚には、そこまで整然とした使命はない。しかし、個人の本棚にも「いま必要ではないが、いつか必要になるかもしれない本を残しておく」という働きが生じることはある。その意味では、本棚は極めて私的で偏った小さな図書館に似ている。

 その偏りこそが面白い。公共図書館では一定の分類体系に従って資料が整理されることが多いが、個人の本棚では、哲学書の隣に旅行記があり、その隣に料理本があり、さらに昔好きだった推理小説が挟まっていることもある。そこには体系的な分類だけでは説明できない、人生の偶然が並んでいる。仕事のために買った本、失恋したときに買った本、旅先の古書店で何となく手に取った本、友人に勧められたまま読まずにいる本。その一見した無秩序には、本人にしか分からない時間が保存されている。たとえ読まれていなくても、その本を選んだという事実まで消えるわけではない。

 文化全体に視野を広げれば、「いま読まれていない」という状態が、その作品の最終的な価値を決めるわけではないことにも気づく。文学史を振り返れば、刊行当時に十分評価されなかった作品や、一時期ほとんど読まれなくなった作品が、後世の研究や復刊によって再評価されることがある。逆に、ある時代には広く読まれながら、その後ほとんど忘れられた本もある。作品の評価は、社会の価値観、研究上の関心、出版環境、読者層などによって変化するため、ある時点での人気や読者数が、その作品の価値を完全に表しているとは限らないのである。

 もっとも、個人が一冊の本を読まずに所有していることと、社会が文学作品を保存し、後世に伝えることの間には、大きな違いがある。個人の本棚に残された未読本が、必ず文化の継承に貢献するわけではないし、読まれない期間そのものが作品の価値を高めるわけでもない。しかし、作品が一時的に読まれなくなったとしても、それだけで将来の利用可能性や文化的価値が消滅するわけではない。資料が保存されていれば、後世の読者が改めて読み、その意味を見いだす機会が残される。読まれない時間が存在することと、文化的な価値を失うことは、同じではないのである。

 そう考えると、積ん読には「利用されていないもの」と「利用できる状態にあるもの」という二つの側面があることが分かる。前者に注目すれば、購入してから一度も読んでいない本は、当初の計画が実行されていない証拠になる。後者に注目すれば、その本は将来の必要に応じて取り出せる状態にあり、読むという選択肢が保存されていることになる。ただし、選択肢を残すことにも費用がかかる以上、あらゆる本を保管し続けることが合理的だとは限らない。それでも、今すぐ利用しないという理由だけで、その選択肢の価値をゼロと判断する必要もない。

 現代では、読書の成果を数字として把握する機会が増えている。読書記録サービスを利用すれば、年間の読了冊数や読書の進捗を確認でき、目標を設定して継続の励みにすることもできる。これは読書習慣を身につけるうえで有益な方法の一つだろう。しかし、人間の読書は本来、それほど直線的ではない。途中で読むのをやめることもあれば、同じ本を何度も読み返すこともある。数ページだけ読んだ本から重要な示唆を得ることもあれば、一冊を最後まで読み終えても、ほとんど内容が記憶に残らないこともある。読了冊数は読書活動の一つの指標ではあっても、理解の深さや人生への影響をそのまま表す数字ではない。

 そもそも、読書の成果を何によって測るかという問題自体が簡単ではない。専門知識を得ることを目的とする読書ならば、読後にどの程度理解できたか、実務に応用できたかといった観点が重要になる。文学作品を読む場合には、作品を楽しむことや、自分とは異なる人生への想像力を働かせることが目的になる場合もある。ただし、文学を読むことによって共感力や人格が必ず向上するといった効果を、個々の作品や読者について一律に保証することはできない。読書にはさまざまな目的があり、その成果も一つの尺度だけでは測れないのである。

 こうした違いを踏まえるならば、積ん読を評価する際にも、未読冊数だけでなく、その本をなぜ購入したのか、現在どのような意味を持っているのかを考える必要がある。読まないまま忘れていた本に価値を感じる人もいれば、未読本を減らすことで精神的な負担が軽くなる人もいるだろう。限られた費用で必要な本だけを購入することも合理的であり、関心のある本を少しずつ手元に残すことも、本人の目的や生活条件によっては合理的である。どちらか一方を優れた読書態度と決めつける理由はない。

 さらに言えば、積ん読と読書の関係を科学的に調べるためには、単に未読本の冊数を数えるだけでは足りない。購入目的、保有期間、読書習慣、未読本を再発見した経験、所有への満足感、後悔の程度、生活空間への負担などを区別して調べる必要がある。例えば、未読本を多く所有する人ほど知的好奇心が強かったとしても、それだけでは本の所有が好奇心を高めたとは言えない。もともと知的関心が強い人が、多くの本を購入している可能性もあるからだ。積ん読が読書行動や心理状態にどのような影響を与えるのかを判断するには、こうした因果関係の方向を慎重に検証しなければならない。

 それでも、学術的に証明されていない意味を、人間が自分の生活の中に見いだすことまで否定する必要はない。文化や文学には、数量化できる側面もあれば、個人的な経験や解釈を通じて成立する側面もある。本棚の隅に残された一冊が、ある人にとっては無駄な買い物の記録であり、別の人にとっては大切な時代の思い出であることもある。同じように未読であっても、その本が持ち主にとって何を意味するのかは一様ではない。科学的に検証できる事実と、個人がそこに見いだす文化的な意味は、区別したうえで考えることができるのである。

 本には本の時間があり、読者には読者の時間がある。その二つが重なる瞬間は、必ずしも本を買った日ではない。買ったときには理解できなかった問題が、年月を経て身近なものになることもあるし、かつて切実だった関心が、いつの間にか失われていることもある。そうした変化を経ながら、人間は本と出会い、離れ、また出会う。読書とは、購入から読了までをできるだけ短くする作業だけではなく、変わり続ける自分と、書かれた言葉との関係を築いていく営みでもあるのだろう。

 積ん読された本の中には、生涯開かれない一冊も当然あるだろう。その本については、最後まで「読む可能性」のまま終わる。実際には、買わなければよかったと思う本もあるだろうし、読まないまま処分することで、新しい本との出会いが生まれることもある。それでも、それを完全な失敗と呼ぶかどうかは、本というものを何だと考えるかによって変わってくる。情報を効率よく取得する道具だと考えれば、未読で終わった本は目的を果たせなかったことになるかもしれない。しかし、人間の関心、記憶、自己像、文化への入口として考えれば、未読であることにも別の意味が現れてくる。

 積ん読は、知識を獲得できなかった痕跡であると同時に、まだ知ることのできる世界を手元に残している状態でもある。すべての本を読み終え、未読の本が一冊もない本棚には確かな達成感があるだろう。しかし、そこに次に読みたい本が一冊加われば、また別の未来が始まる。知的な関心は、未読本があるかどうかによって決まるものではないが、未読本はその関心が目に見える形となったものの一つなのである。読み終えることに価値があるのと同じように、これから読むかもしれない本を持っていることにも、場合によっては意味がある。

 本棚の隅で何年も眠っている一冊を見つけたとき、「まだ読んでいない」と自分を責める必要はない。今も読みたいと思うなら、最初のページを開けばよいし、もう関心がなくなっているなら、手放すことを考えてもよい。大切なのは、未読本の存在を無条件に肯定することでも、読まなかった自分を責め続けることでもなく、その本が現在の自分にとってどのような意味を持つのかを考えることだろう。本棚の中には、すでに役割を終えた本もあれば、まだ役割を持ち始めていない本もある。

 そして、何年も読まずにいた一冊が、思いがけない日に必要になることもある。それは購入した当時の自分が、未来の自分の生活を正確に予測していたからではない。むしろ、そのときには理由を十分に説明できなかった関心が、年月を経て新しい意味を持ったということなのだろう。明日開くかもしれないし、十年後かもしれない。あるいは最後まで開かないかもしれない。それでも、その本がそこにある限り、自分の知っている世界の外側に、まだ別の世界が存在することを思い出す機会は残されている。

 積ん読とは、読書の失敗というより、読むことのできないほど多くの本と、そのすべてには決して追いつけない有限な人間との間に生まれた、ごく自然な文化の風景なのかもしれない。本を読まなければ得られない知識がある一方、まだ読んでいない本が手元にあることで保たれる関心や記憶もある。その二つを混同せず、それぞれの意味を認めることができれば、積ん読の山は単なる未達成の記録とは違って見えてくる。

 読了した本が、これまで歩いてきた知の道筋を示すものだとすれば、未読本は、まだ歩いていない道が残っていることを知らせるものなのだろう。その道をいつか歩くのか、別の道を選ぶのかは分からない。しかし、すべてを読み終えることのできない人間にとって、まだ知らない世界があるという事実は、必ずしも後ろめたいものではない。

 それは、これからも知ることのできる何かが残されているという、人間の知的生活の豊かさを映した風景でもある。

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