注記
この物語はフィクションです。
現実の住民基本台帳人口は、住民一人ひとりの記録を積み上げて集計されます。そのため、出生、死亡、転入、転出、訂正などの理由がないまま、人口が自然に一人だけ増えることは通常ありません。
実際に人口数が一致しない場合には、集計時点の違い、届出や処理の遅れ、入力・転記上の誤り、統計の定義の違いなど、何らかの行政上または技術上の理由があります。
本作は、そうした現実の制度を土台にしながら、数字の中に説明できない一人が現れたとしたら、という仮定から生まれた幻想小説です。
九月最初の月曜日、午前八時十三分。
潮見町役場の地域政策課で、村瀬修一は人口異動表を印刷した。
複合機から吐き出された紙には、まだ機械の熱が残っていた。村瀬は用紙の端を指でつまみ、自席へ戻った。
窓の外には、低い雲が海の方角から押し寄せていた。役場の駐車場では、塩気を含んだ風が二本の町旗を力なく揺らしている。
人口異動表は、毎月最初の開庁日に確認する。
前月末人口、出生、死亡、転入、転出、その他増減。数字を順番に追い、合計が一致していることを確かめる。村瀬にとっては三十年以上続けてきた習慣だった。
人口の減少は、もはや珍しいことではない。
潮見町では、毎月五人、十人、多い月には二十人近く人口が減った。出生が一人か二人である一方、死亡は十人を超える。転入者があっても、それ以上に転出者が出る。
昔は人口の増減に一喜一憂した時期もあったが、今では減ること自体よりも、どの程度の速さで減っているかを確認する作業になっていた。
村瀬は表の上段から数字を指でなぞった。
前月末人口、七千八百四十二。
出生、〇。
転入、三。
死亡、四。
転出、六。
その他増減、〇。
計算すれば、月末人口は七千八百三十五になる。
ところが、表の最下段には七千八百三十六と記されていた。
村瀬は指を止めた。
もう一度、計算した。
七千八百四十二に三を足し、四を引き、六を引く。
七千八百三十五。
印刷された月末人口は、七千八百三十六。
一人多い。
村瀬は卓上の計算機を引き寄せた。わざわざ使うほどの計算ではなかったが、念のため数字を入力した。
結果は同じだった。
七千八百三十五。
「また転記か」
独り言を言い、村瀬は庁内システムへログインした。
人口統計の画面を開く。処理日、異動区分、年齢、性別、地区。前月に行われた登録処理を一件ずつ確認した。
出生はない。
転入が三人。
死亡が四人。
転出が六人。
職権記載なし。
職権消除なし。
国籍取得、国籍喪失、帰化、国外からの転入、国外への転出、いずれにも該当者はいなかった。
一覧の最下部には、確かに月末人口七千八百三十六と表示されている。
村瀬は画面を閉じ、もう一度開いた。
数字は変わらなかった。
午前八時三十分になると、庁内放送が流れた。
「おはようございます。本日も住民の皆さまに丁寧で分かりやすい対応を心がけてください」
いつもと同じ声だった。
職員たちが次々に出勤し、椅子を引く音や書類を置く音が課内に広がった。電話が鳴り始め、窓口には最初の来庁者が現れた。
村瀬は表を裏返し、机の右端へ置いた。
入力上の問題だろうと思った。
人口統計の不一致など、過去にもなかったわけではない。異動日と届出日の混同、処理区分の誤選択、月末締め後の訂正、集計プログラムの反映遅れ。
一人という差は、むしろ事務上よくありそうな大きさだった。
問題なのは、原因がすぐに見つからなかったことだけである。
午前十時を過ぎた頃、村瀬は住民課へ内線をかけた。
「地域政策課の村瀬です。先月末の人口について、少し確認したいことがありまして」
電話に出たのは、住民記録担当の早坂だった。
早坂は三十代半ばで、異動処理に慎重な職員だった。
「人口ですか」
「異動数から計算すると、一人合わないんです」
「一人多いんですか、少ないんですか」
「多いです」
受話器の向こうでキーボードを打つ音がした。
「少々お待ちください」
村瀬は窓の外を見た。
午前の雲は薄くなり、国道沿いの海が細い銀色の線になって見えた。
「村瀬さん」
「はい」
「こちらの締めでは合っています。前月末七千八百四十二、月末七千八百三十六です」
「異動を足し引きすると七千八百三十五になりませんか」
「なりますね」
早坂の声が少し低くなった。
「その他増減は」
「ゼロです」
「訂正処理も」
「見当たりません」
再びキーボードの音が続いた。
「こちらで調べます。システム担当にも確認してみます」
「お願いします」
電話を切ると、村瀬は人口異動表を表に返した。
七千八百三十六。
印刷された数字を見ても、特に異常な感じはしなかった。一人多いと言っても、町の人口全体から見れば約〇・〇一パーセントにすぎない。
町民のほとんどは気づかない。
町長も、議員も、新聞記者も気づかないだろう。
人口減少対策の会議で資料を配っても、七千八百三十五と七千八百三十六の違いを問題にする者はいない。
人口は減っている。
その事実に変わりはなかった。
しかし村瀬には、一人という数字が小さいとは思えなかった。
一人は、一人である。
出生届一件。
死亡届一件。
転入届一件。
転出届一件。
役場では、一人の増減が一枚の書類として現れる。その紙には氏名があり、生年月日があり、住所がある。
一人が増えたなら、誰かがいるはずだった。
昼休み前、早坂から内線が入った。
「原因が分かりません」
「システムの問題ではないんですか」
「集計プログラムも確認してもらいました。個人記録の件数が、実際に七千八百三十六件あるそうです」
「では、一人分の記録がある」
「あるはずなんですが」
早坂はそこで言葉を切った。
「住民記録を個別に数えると七千八百三十六件です。ただ、異動履歴を追うと七千八百三十五人にしかならない」
「重複登録は」
「ありません」
「削除漏れは」
「ありません」
「では、どこから一人出てきたんですか」
「それが分からないんです」
早坂は、冗談を言っているような声ではなかった。
午後、住民課と情報管理担当を交えた確認作業が行われた。
会議室の長机に、人口表、異動者一覧、地区別人口表、年齢別人口表が並べられた。
情報管理担当の三谷がノートパソコンを開き、画面を大型モニターへ映した。
「まず、総人口は七千八百三十六です」
三谷は言った。
「これは住民記録データベースに存在する有効なレコード数です。無効化された記録、転出予定、削除済みの記録は除いています」
「男女別は合っていますか」
村瀬が尋ねた。
「男性三千七百二十一、女性四千百十五。合計七千八百三十六です」
「前月との差は」
「男性が三人減、女性が三人減です」
村瀬は手元の異動者一覧を見た。
男性は、転入一、死亡二、転出三。
差し引き四人減るはずだった。
女性は、転入二、死亡二、転出三。
差し引き三人減。
男性が一人多い。
「男性ですか」
「そうなります」
「年齢は」
三谷が画面を切り替えた。
年齢別人口の一覧が表示された。
〇歳から百歳以上まで、男女別の人数が並んでいる。
「全ての年齢階級を合計すると七千八百三十五になります」
三谷は言った。
「総人口と一致しません」
会議室が静かになった。
「年齢が設定されていない記録があるんですか」
早坂が尋ねた。
「検索上はありません。生年月日が空欄の有効レコードもありません」
「地区別では」
地区別人口を合計すると、七千八百三十五だった。
世帯別人口を合計しても、七千八百三十五だった。
外国人住民を含めても、除いても、一人分の説明はつかなかった。
「つまり」
村瀬は言った。
「総人口としては存在する。しかし、年齢にも、地区にも、世帯にも属していない」
三谷は腕を組んだ。
「データベースとしては、あり得ない状態です」
「でも、数字はそうなっている」
「総数の集計だけが壊れている可能性があります」
「個別レコードが七千八百三十六件あると、さっき言いませんでしたか」
「件数上は、そうです」
「その一件を表示できないんですか」
三谷は検索画面を操作した。
有効な全住民記録を一覧へ出力した。
行番号は一から始まり、七千八百三十六で終わっていた。
しかしCSV(Comma-Separated Values・項目をカンマで区切って保存するデータ形式)へ書き出し、表計算ソフトで開くと、データは七千八百三十五行しかなかった。
最終行の下には何もない。
それでも、画面左下には「七千八百三十六件」と表示されていた。
三谷は何度も条件を変えた。
結果は同じだった。
件数は七千八百三十六。
表示される住民は七千八百三十五人。
村瀬は、紙に印刷してみるよう頼んだ。
複合機から大量の用紙が出てきた。
氏名や住所を含むため、印刷物は会議室の中だけで確認し、後で裁断処理することになった。
三人で行数を数えた。
七千八百三十五人。
最後の一人は印刷されなかった。
「システム業者へ連絡します」
三谷は言った。
「データを外部へ持ち出すには手続きが必要ですが、検証用の複製環境を作れば原因は分かると思います」
会議は午後四時過ぎに終わった。
村瀬は自席へ戻り、人口異動表を机の引き出しへしまった。
翌日には原因が分かるだろう。
そう思っていた。
ところが、業者の回答は翌日にも、その次の日にも来なかった。
調査に時間がかかっているのではなく、検証環境では異常が再現しなかったのである。
データを複製すると、人口は七千八百三十五人になる。
役場の本番環境へ戻すと、七千八百三十六人になる。
サーバーを再起動しても変わらない。
集計プログラムを再導入しても変わらない。
一人は、潮見町役場のシステムの中にだけ存在していた。
「無理に直さない方がよいと思います」
金曜日の夕方、三谷は村瀬に言った。
「月末までにもう一度照合します。原因が分からない状態でデータを直接修正する方が危険です」
「国や県へ出す数字はどうするんですか」
「住民記録の件数なら七千八百三十六です」
「異動表なら七千八百三十五です」
「どちらを正とするかは、住民課と協議してください」
三谷は疲れた顔で笑った。
「人口一人で、こんなに時間を使うとは思いませんでした」
村瀬は笑わなかった。
その週の土曜日、村瀬は自宅で朝食を取りながら、町の広報紙を読んでいた。
一面には、防災訓練のお知らせが載っていた。
二面には、町の人口と世帯数が掲載されている。
前月末現在、人口七千八百三十六人。
男三千七百二十一人。
女四千百十五人。
世帯数三千九百八十二世帯。
すでに広報紙の印刷は終わっていた。
人口の一人は、町民へ公表されていた。
妻の由美子が台所から言った。
「また減ったのね」
村瀬は広報紙から顔を上げた。
「何が」
「人口。先月より六人少ない」
「よく見ているな」
「毎月載っているでしょう」
由美子は味噌汁の椀を運びながら、広報紙をのぞき込んだ。
「昔は一万人以上いたのにね」
村瀬は七千八百三十六という数字を見た。
減ったのは本当だった。
しかし、本来なら七人減るはずだったところを、六人しか減っていない。
一人が、町の減少を食い止めている。
「一人違ったら、気になるか」
村瀬は尋ねた。
「何が」
「人口が一人違ったら」
由美子は椅子に座り、少し考えた。
「一人くらいなら、数え間違いじゃないの」
「役場の人口を数え間違えると思うか」
「人がやることなら、間違えることもあるでしょう」
「その一人にとっては、数え間違いでは済まない」
由美子は怪訝そうに村瀬を見た。
「何の話をしているの」
村瀬は「仕事の話だ」とだけ答えた。
翌週、村瀬は人口以外の統計を調べ始めた。
最初は原因を特定するためではなかった。
一人多いという数字が、他の資料に何か影響していないかを確認したかっただけである。
国民健康保険の被保険者数。
介護保険の被保険者数。
選挙人名簿登録者数。
水道契約件数。
ごみ収集量。
学校の児童生徒数。
いずれも住民基本台帳人口とは直接一致しない。年齢条件があり、加入条件があり、世帯単位のものもある。
当然、一人分の差など簡単には見つからなかった。
しかし村瀬は、町営バスの利用実績を見たとき、手を止めた。
潮見町では、高齢者や通院者の移動手段として、一日六便の小型バスを運行している。
前月の利用者数は、千二百四十一人。
運行記録に残る乗車人数を便ごとに合計すると、千二百四十人だった。
一人多い。
村瀬は担当課へ行き、原票を見せてもらった。
運転手は各停留所で乗車人数を記録し、終点で一日の合計を記入する。
日別の合計を足すと千二百四十人。
月次集計表では千二百四十一人。
「単なる集計ミスですね」
担当者は言った。
「表計算の式が一行ずれているんじゃないですか」
式を確認した。
ずれていなかった。
入力された日別合計を再集計すると、なぜか千二百四十一になる。
数値を紙に書き出し、電卓で足すと千二百四十だった。
別の表計算ソフトへ貼り付けても千二百四十。
役場のファイルを元の場所で開いたときだけ、千二百四十一になる。
「人口と同じですね」
村瀬が言うと、担当者は笑った。
「まさか、同じ一人がバスに乗ったんですか」
冗談だった。
しかし村瀬は、その言葉を手帳に書いた。
同じ一人がバスに乗った。
その日の午後、村瀬は水道課を訪ねた。
町全体の使用水量は、前月より十二立方メートル増えていた。
季節変動の範囲だった。
一人分かどうか判断できる数字ではない。
ごみの収集量も調べた。
可燃ごみは前月より二百八十キログラム増えていた。観光客や連休の影響が大きく、一人分を推定することは不可能だった。
スーパーの販売量など、役場が把握できるはずもない。
診療所の受診者情報は個人情報であり、目的外に利用できない。
村瀬は、自分が何をしようとしているのか分からなくなった。
人口表の不一致を調べているだけだったはずだ。
いつの間にか、記録に現れない一人の生活を探している。
九月半ば、台風が町の沖合を通過した。
直撃は免れたが、強い雨が一晩中降った。
翌朝、町内の一部で停電が起こり、役場のシステムも一時的に停止した。
復旧後、人口は七千八百三十五人に戻っていた。
「直りましたよ」
三谷は明るい声で言った。
「停電の影響でキャッシュが消えたのかもしれません」
「原因は分かったんですか」
「完全には分かりません。ただ、現在の数字は異動表と一致しています」
年齢別人口も、地区別人口も、世帯別人口も、全て七千八百三十五人になった。
町営バスの利用者数も千二百四十人へ訂正された。
不可解な一人は消えた。
村瀬は安堵した。
県へ提出する人口報告も、正しい数字で作成できる。
広報紙だけは七千八百三十六人と掲載済みだったが、翌月号で訂正すれば済む。
その日の夕方、村瀬は役場を出た。
雨上がりの空は低く、道路には枯れ葉と小枝が散らばっていた。
庁舎前のバス停に、一人の男が立っていた。
年齢は六十代にも、七十代にも見えた。
薄い灰色の上着を着て、黒い布製の鞄を持っている。
村瀬は男の横を通り過ぎ、駐車場へ向かった。
間もなく町営バスが来た。
バスは停留所の手前で減速したが、止まらずに通過した。
男は手を上げなかった。
運転手も男に気づかなかったようだった。
村瀬は足を止めた。
「乗らないんですか」
男は答えなかった。
雨で濡れた時刻表を見上げている。
「次は一時間後ですよ」
村瀬がもう一度声をかけると、男はようやく顔を向けた。
見覚えのない顔だった。
町内で三十年以上働いていても、全ての町民を知っているわけではない。知らない人がいて当然だった。
「町の方ですか」
村瀬は尋ねた。
男は少し考えてから言った。
「そうだったと思います」
不思議な答えだった。
「住所はどちらですか」
「住所」
男はその言葉を確かめるように繰り返した。
「住所が必要ですか」
「バスに乗るだけなら必要ありませんが」
「人口に入るには必要ですか」
村瀬は男を見た。
台風の後の冷たい風が、濡れた道路を渡ってきた。
「何の話ですか」
「私がどこにいることになっているか、分からなくなりました」
男は黒い鞄を両手で持ち直した。
「家はあるんですか」
「家だったものはあります」
「住民票は」
「昔はありました」
「今は」
男は首を傾げた。
「消したのは、あなたではありませんか」
村瀬の背中に冷たいものが走った。
「私は住民記録を消す仕事はしていません」
「でも、数字から一人を消したでしょう」
村瀬は何も答えられなかった。
男は穏やかな声で続けた。
「私は一人ではありません」
役場の玄関から、職員が数人出てきた。
彼らは村瀬の近くを通ったが、男には目を向けなかった。
「どういう意味ですか」
「町を出た人。施設へ移った人。届けを出さずに暮らしている人。家だけ残して死んだ人。ここに住んでいるのに、別の町に数えられている人。別の町で暮らしているのに、まだここに数えられている人」
男の声は風の音に混じった。
「私たちは、どこにもぴったり入りません」
「あなたは誰なんですか」
「七千八百三十六人目でした」
男はそう言った。
遠くから、海鳴りのような低い音が聞こえた。
村瀬が一歩近づくと、男の輪郭が少し薄く見えた。
雨雲の下で光が変わっただけかもしれない。
「名前を教えてください」
「名前は、それぞれにあります」
「あなたの名前です」
「一人分にまとめられた者に、一つの名前が必要でしょうか」
男は時刻表から目を離した。
「あなたたちは、人数が合えば安心する」
村瀬は反論しようとした。
数字を合わせることは仕事である。
統計が正しくなければ、予算も計画も政策も成り立たない。学校、病院、道路、福祉、公共交通。全ては人数をもとに組み立てられる。
「数字が正しくなければ困るんです」
「正しい数字とは、何ですか」
男は尋ねた。
「一人ずつ数えた数字です」
「数えられなかった人は、一人ではありませんか」
村瀬は答えられなかった。
次のバスが来るまで一時間あるはずだった。
しかし、坂の向こうから小型バスが現れた。
行先表示は消えていた。
車内の照明もついていない。
バスはゆっくり停留所へ近づき、今度は男の前で止まった。
扉が開いた。
運転席に人影はなかった。
男は村瀬へ一礼し、バスへ乗った。
車内には誰もいない。
男が最後部の座席へ座ると、扉が閉まった。
バスは音もなく発車した。
村瀬は道路へ出て、後を追うように数歩歩いた。
バスは交差点を曲がらず、そのまま海へ向かう細い道へ進んだ。
その先は、十年前に廃止された旧道だった。
台風による崖崩れで通行止めになっている。
村瀬が角まで走ったとき、バスの姿はなかった。
翌朝、村瀬は早く役場へ行った。
庁舎には清掃員しかいなかった。
自席のパソコンを起動し、人口統計の画面を開いた。
総人口は七千八百三十五人。
異常はない。
村瀬は前月の人口表を開いた。
七千八百三十六という数字は消え、七千八百三十五に修正されていた。
変更履歴を確認した。
修正者の欄には、村瀬修一と表示されていた。
修正時刻は、昨日の午後六時十二分。
男と話していた時刻だった。
村瀬は画面を閉じた。
机の引き出しから、最初に印刷した人口異動表を取り出した。
紙の最下段には、今も七千八百三十六と印刷されていた。
村瀬は鉛筆を手に取った。
七千八百三十六の「六」に二本の線を引き、「五」と書き直そうとした。
しかし、鉛筆の先は紙の上で止まった。
一人を消せば、数字は合う。
数字が合えば、仕事は終わる。
では、消された一人はどこへ行くのか。
村瀬は別の紙を取り出した。
町内人口の空欄へ、地区名を書いた。
「未定」
年齢欄にも「未定」と書いた。
住所欄には何も書かなかった。
その下に、人数を記入した。
一。
正式な帳票ではなかった。
役場のどの規程にも存在しない数字だった。
村瀬はその紙を机の一番下の引き出しへ入れた。
午前八時三十分、庁内放送が流れた。
「おはようございます。本日も住民の皆さまに丁寧で分かりやすい対応を心がけてください」
窓口が開き、電話が鳴り始めた。
町は昨日までと変わらず動いていた。
正午前、町営バスの担当者から内線が入った。
「村瀬さん、ちょっと妙なことがありまして」
「何ですか」
「昨日の最終便です。乗車人数が一人合わないんです」
村瀬は受話器を握り直した。
「多いんですか」
「いえ」
担当者は言った。
「一人、少ないんです」
村瀬は窓の外を見た。
庁舎前のバス停には、誰もいなかった。
ただ、ベンチの端に黒い布製の鞄が置かれていた。
村瀬は電話を切り、階段を下りた。
外へ出ると、海から風が吹いてきた。
鞄は古く、角が白く擦れていた。持ち手には紙の札が結びつけられている。
札には、鉛筆で一文字だけ書かれていた。
「一」
村瀬が鞄を持ち上げると、見た目よりずっと重かった。
中に何が入っているのかは分からない。
留め金に手をかけたが、開けることはできなかった。
鞄の内側から、紙を一枚ずつめくるような音がした。
一枚。
また一枚。
町から消えていった人々の記録を、誰かが数えているような音だった。
村瀬は鞄を抱え、役場へ戻った。
人口表の数字は、その後、二度と狂わなかった。
潮見町の人口は、毎月、正しく減り続けた。
七千八百二十一人。
七千八百九人。
七千七百九十四人。
全ての数字が、出生、死亡、転入、転出と正確に一致していた。
それでも村瀬は、人口表を印刷するたび、最下段の余白を確認した。
そこには、印刷直後だけ、薄い鉛筆の跡のようなものが浮かぶことがあった。
数字ではなかった。
人の名前のようにも見えた。
しかし、目を近づけると消えてしまった。
定年を迎える前日、村瀬は机を整理した。
一番下の引き出しには、「未定、一人」と書いた紙が残っていた。
黒い鞄は、その日以来、開けていない。
村瀬は紙を処分せず、鞄の中へ入れた。
留め金は、今度は抵抗なく開いた。
中には何もなかった。
底に、小さな鏡が一枚置かれているだけだった。
鏡には村瀬の顔が映っていた。
その下に、細い文字が刻まれていた。
――あなたは、どこの人口に入っていますか。
村瀬は鏡を伏せ、鞄を閉じた。
翌日、町役場を退職した。
その月の人口異動表では、潮見町の人口が一人減っていた。
転出者欄にも、死亡者欄にも、村瀬の名前はなかった。
それでも数字は、正確に一人減っていた。

