リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

なぜ松尾芭蕉は旅を続けたのか

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~「不易流行」から考える、変わるものと変わらないもの

 松尾芭蕉という人を考えるとき、一つの素朴な疑問が残る。なぜ彼は、あれほど旅を続けたのだろうか。江戸時代にはすでに五街道をはじめとする街道や宿場が整えられ、旅籠などの宿泊施設も存在していたため、当時の旅をすべて命懸けの冒険として描くのは正確ではない。しかし、徒歩を基本とする長距離旅行には、天候の急変、河川の増水、山越え、病気、疲労といった、現代の旅行とは比較にならない身体的負担が伴っていた。それでも芭蕉は、江戸に腰を落ち着けて俳諧を教える生活だけを選ぶことなく、何度も草鞋を履いて外へ出ていった。

 しかも、その旅は若者が未知の世界へ飛び出していく冒険旅行とは少し違っている。『おくのほそ道』の旅に出た元禄二年、一六八九年、芭蕉は数え年で四十六歳だった。それ以前にも『野ざらし紀行』や『笈の小文』につながる旅を経験しており、長い移動が身体にどれほどの負担を与えるかを知らなかったわけではない。それでも彼は、旅をやめなかったのである。

 この理由を単純に「風景が好きだったから」と考えてしまうと、芭蕉という人物の重要な部分を取り落としてしまう。芭蕉の旅には、名所を見る楽しみだけでなく、西行や能因といった古い時代の歌人たちが歩いた場所を訪ね、歌枕や歴史の痕跡に自ら触れるという明確な文学的目的があった。つまり彼にとって旅とは、見知らぬ土地を見るだけでなく、過去の文学と現在の風景を自分自身の身体を通して結び直す行為でもあったのである。

江戸にいても、芭蕉は生きていけた

 芭蕉は、生涯を通して無名の放浪者だったわけではない。江戸では俳諧師として門人を持ち、深川には後に芭蕉庵と呼ばれる拠点もあった。弟子や知人との交流を続け、俳諧を教えながら暮らすこともできたと考えられるため、生活を成立させるためだけに旅へ出なければならなかったわけではない。

 それでも彼が旅を続けたことを考えると、旅には生活上の必要とは別の意味があったと考える方が自然である。もちろん、芭蕉本人が「安定した生活では感覚が鈍るから旅をする」と明記した史料があるわけではないため、その内面を断定することはできない。しかし、旅の経験とともに作風を変化させ、晩年まで新しい表現を模索し続けた事実を見るならば、旅が彼の俳諧を更新する重要な契機となっていたと考えることには十分な根拠がある。

 同じ場所で同じ生活を続けていると、人間はしばしば、目の前の世界を見る前に、それについて何を感じるべきかを知ったつもりになる。春には桜が咲き、秋には月が美しく、旅には寂しさがあるというように、昔から積み重ねられてきた言葉が現実よりも先に立つようになるからである。芭蕉が目指した俳諧が、単に古い美辞麗句を繰り返すものではなかったとすれば、旅は既成の言葉と現実とのずれを改めて確かめる場になったと考えることができる。

 知らない土地へ行けば、天候も道も人との出会いも、自分の思いどおりにはならない。期待して訪れた名所が想像とは違うこともあれば、何気ない風景が思いがけず心に残ることもある。その予測できなさのなかで、既に知っていた言葉が通用しなくなり、新しい見方が必要になる。芭蕉の旅には、そうした自己更新の働きもあったのではないだろうか。

古池は、なぜ新しかったのか

 芭蕉の代表句として知られる、

 古池や蛙飛びこむ水の音

という句には、豪華な風景も壮大な物語も登場しない。古い池があり、蛙が飛び込み、水の音が響くという、ごく小さな出来事だけが描かれている。それにもかかわらず、三百年以上を経た現在でも、この句を読むと静寂と音との対比が鮮やかに立ち上がってくる。

 ここには、芭蕉の表現の一つの特徴がよく現れている。重要なのは、誰も見たことのない珍しいものを発見することではなく、誰もが見ているものを、それまでとは違う角度から捉え直すことである。平凡な景色であっても、見る者の感覚が変われば、まったく別の世界として立ち現れる。

 旅にも似た働きがある。普段なら気にも留めない風の冷たさが、旅先では強く意識されることがあり、毎日聞いているような鳥の声が、見知らぬ土地の夕暮れでは妙に心に残ることもある。世界そのものが突然変化したのではなく、自分と世界との関係が変わったのである。

 したがって、芭蕉にとって旅が感覚や表現を更新する契機になったと考えることはできる。ただし、それを芭蕉本人が意識的に「感覚を更新する装置」として設計していたとまで断定する必要はない。作品と生涯の変化を見る限り、そのような機能を旅が結果として果たしていた、と考えるのがより慎重である。

「不易」と「流行」は、反対のものではない

 芭蕉の思想を考えるうえで重要になる言葉が、「不易流行」である。ただし、ここでは一つ注意が必要である。今日では「芭蕉の不易流行論」と広く呼ばれているものの、芭蕉本人が「不易流行」という四字を用いて体系的な理論書を書き残したわけではない。現在知られている考え方は、向井去来や服部土芳をはじめとする門人たちの記録を通じて伝えられたものであり、その解釈にも多少の幅がある。

 一般的に「不易」は時代を超えて変わらない価値や本質を示し、「流行」は時代とともに変化し、新しく生まれていく表現や感覚を指すと説明される。この二つを単純に並べれば、変わらないものと変わるものは互いに反対の概念に見える。

 しかし芭蕉の俳諧を考えると、その二つは必ずしも対立しない。むしろ新しい表現を追い求め続けることによって、時代を超えて人間に共有されるものへ近づくことができるという逆説的な関係がある。新しいだけで中身のない表現はすぐに古びてしまう一方、永遠性だけを求めて昔の表現をそのまま繰り返せば、生きた文学にはなりにくい。

 人が夕暮れを見て寂しさを覚えたり、人を失って悲しんだり、遠く離れた土地を懐かしんだりする感情は、時代が変わっても大きくは変わらない。しかし、その感情を表す言葉や背景となる暮らしは、時代によって大きく変わる。変わらない人間の感情と、変わり続ける表現の形式が重なるところに、文学が生まれる。

 芭蕉の旅も、その構造のなかで見ると理解しやすい。彼は昔の歌人が訪れた土地を歩きながら、同じ景色が今ではどのように変わっているのかを見つめ、その変化のなかから、人間にとって変わらないものを捉えようとしたと考えることができる。

だから芭蕉は、古人の跡を訪ねた

 『おくのほそ道』を読むと、芭蕉が単に珍しい土地を探して旅行しているのではないことに気づく。彼は西行や能因をはじめとする先人たちの足跡を意識し、古い和歌や物語に登場する歌枕、名所旧跡を訪ねている。

 もし芭蕉が新奇なものだけを求めていたのであれば、誰にも知られていない土地へ向かえばよかったはずである。しかし実際には、多くの人が古くから歌に詠み、物語を重ねてきた場所へ足を運んだ。そこにこそ、芭蕉の旅の大きな意味があった。

 昔の歌人が見た山を、自分も見る。同じ川のほとりに立ち、同じ土地の名を口にする。しかし、そこに広がっている景色は決して同じではない。建物は失われ、人は死に、町の姿は変わり、戦乱の記憶が草木の下に埋もれている。場所は同じであっても、時間がその姿を変えてしまう。

 その象徴的な例が平泉である。藤原氏が栄華を極めた都市は、芭蕉が訪れたころには、かつての姿をほとんど失っていた。その地で詠まれた、

 夏草や兵どもが夢の跡

という句では、目の前にある夏草と、かつてそこに生きた武士たちの記憶が重ねられている。芭蕉が見ているのは現在の草だけではなく、その背後に消えてしまった人々の栄光や野望であり、現在と過去が一句のなかで交差している。

 ここには、「不易」と「流行」の関係を考えるための格好の材料がある。権力者は入れ替わり、都市は繁栄し、やがて滅びるというように、人間社会の形は絶えず変化する。しかし、栄華を求め、その栄華が失われ、その跡を後世の人が見つめるという人間の営みそのものには、時代を超えて繰り返される部分がある。

 芭蕉は、変わってしまった平泉を見ることによって、変わらない人間の姿を感じ取ったと読むことができるのである。

旅をしなければ、時間を見ることができなかった

 芭蕉の旅には、空間を移動するだけでなく、時間を行き来するような側面がある。古い歌に詠まれた場所へ行けば、現在の景色と過去の言葉が重なり、先人が見た風景と自分が今見ている風景との間に、長い時間の隔たりが現れるからである。

 その二つが一致することもあれば、まったく違ってしまっていることもある。しかし、むしろその違いこそが時間の存在を実感させる。建物が崩れ、町が変わり、人がいなくなり、草木だけが残っているからこそ、人間は時間の流れを目に見えるものとして感じることができる。

 その意味で、『おくのほそ道』における「奥」という言葉を、単なる地理的な東北地方だけでなく、過去や記憶の奥へ向かう比喩として読むこともできる。ただし、これは作品全体の構造から導く文学的解釈であり、「奥」という語に芭蕉が必ずその意味を込めたと断定できるわけではない。

 それでも、旅が進むにつれて遠い土地へ向かう一方、芭蕉が西行や義経、奥州藤原氏といった過去の人々へ近づいていく構造は明らかである。そこに昔の世界がそのまま残っているのではなく、残っているのは痕跡であり、その痕跡と現在の風景を重ね合わせるところに『おくのほそ道』の大きな魅力がある。

変わらないために、変わり続ける

 「不易流行」という考え方を現代の生活に引き寄せてみると、それは決して古典文学だけの問題ではない。人間は年齢とともに変化し、住む場所や仕事、家族の形、身体の状態も変わっていく。十年前の自分と現在の自分では、生活も考え方もかなり違っているかもしれない。

 それでも、その変化のなかで長く残り続けるものがある。何を美しいと感じるのか、何を大切にしたいのか、どのような生き方を好むのかという感覚は、姿を変えながらも持続することがある。

 興味深いのは、その変わらない部分が、何も変化しない生活のなかではかえって見えにくいことである。環境が変わったとき、何かを失ったとき、知らない場所へ行ったときに初めて、自分が何を大切にしていたのかに気づくことがある。

 変化することによって、変わらないものが見えてくる。この構造を、不易流行という言葉と重ねて考えることができる。

芭蕉は自らの様式に安住しなかった

 芭蕉は晩年まで作風を変化させ続けた。ある様式を完成させ、それをそのまま繰り返すという道には進まず、後年には「軽み」と呼ばれる新しい境地を模索している。

 ここから「芭蕉は完成することを恐れていた」とまで心理を断定することはできない。しかし、少なくとも作品の変遷を見る限り、一度確立した自らの表現に安住しなかったことは確かである。

 人は一度成功した方法を手に入れると、それを繰り返したくなる。仕事でも芸術でも、成功した型を守る方が安全だからである。しかし同じ型を繰り返しているうちに、それが生きた表現ではなく、単なる慣習や癖になってしまうこともある。

 芭蕉の作風が生涯を通して変化したことを考えるならば、彼は少なくとも自らの表現を固定化することを選ばなかったと言える。旅先で新しい風景や人々、古い歴史の痕跡に触れ、その経験を通じて自らの俳諧を変化させていった。

 その意味では、旅は芭蕉にとって単なる移動ではなく、表現を更新するための重要な契機だったと考えることができる。

「月日は百代の過客にして」という言葉の向こう側

 『おくのほそ道』は、

 月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。

という有名な一節から始まる。

 この表現を読むと、芭蕉が時間そのものを旅人として捉えていたことが分かる。ただし、この発想も芭蕉だけが完全にゼロから生み出したものではない。中国・唐代の詩人である李白の「春夜宴桃李園序」には、「光陰者百代之過客」というよく知られた表現があり、芭蕉の冒頭はこうした中国古典文学の影響を受けていると考えられている。

 ここは、不易流行というテーマを考えるうえで非常に興味深い。芭蕉は過去の言葉をそのまま保存したわけではなく、古い文学から受け継いだ表現を、自らの旅の思想に結びつけ、新しい作品の冒頭として生かした。古いものを受け継ぎながら、新しい文脈へ置き直すという行為そのものが、まさに不易と流行の交差する場所にある。

 時間そのものが旅人であるなら、人間だけが一か所に留まり、これで完成したと言い切ることの方が不自然なのかもしれない。春が来れば花が咲き、夏には草が茂り、秋には葉が落ち、冬には雪が降るという循環は昔から変わらないが、同じ春は二度と訪れない。同じ桜の木であっても枝は少しずつ伸び、見る人間も一歳ずつ年を取っていく。

 そこに、「不易」と「流行」が同時に存在する。

芭蕉が旅を続けた理由

 では、なぜ芭蕉は旅を続けたのだろうか。

 その理由を一つに限定することはできない。芭蕉本人が「これが私の旅の唯一の目的である」と書き残したわけではない以上、後世の私たちができるのは、作品、門人の記録、旅程、作風の変化を手掛かりにして、その意味を慎重に考えることだけである。

 しかし、そこから見えてくる一つの像はある。芭蕉は旅を通して古人の足跡を訪ね、過去と現在を重ね、変わってしまった風景のなかに変わらない人間の姿を見いだそうとした。また、新しい土地や経験に触れることによって、自らの俳諧を変化させ続けた。

 つまり彼の旅は、新しいものだけを探す旅でも、古いものだけを守る旅でもなかった。過去を訪ねながら現在を見る旅であり、変化を経験しながら、その奥にある普遍的なものを探す旅だったと考えることができる。

 その意味では、「不易流行」という考え方は、芭蕉の俳諧理論を説明するためだけの言葉ではない。彼の旅そのものを読み解く鍵にもなる。

 変わらないものと変わるものは、二つの別々の世界に存在するのではなく、変わり続ける現実のなかにこそ、変わらないものが姿を現す。芭蕉が古人の跡を訪ねながら新しい句を生み出し、過去の言葉を受け継ぎながら自らの文学へと作り変えていった姿を見ると、そのことがよく分かる。

 芭蕉が三百年以上前に歩いた「細道」は、その意味ではまだ終わっていない。社会も仕事も暮らしも、そして私たち自身も変わり続けているが、その変化のなかで何を残し、何を変えるのかという問題は、現在を生きる私たちにもそのまま残されている。

 変わらないものを守るためには、ときには変わらなければならない。そして、正しく変わるためには、自分にとって何が変わらないものなのかを知る必要がある。

 芭蕉の旅が今も私たちを引きつけるのは、おそらく彼が歩いた道の珍しさだけによるのではない。変化のなかで何を残すのかという、人間が時代を超えて抱え続ける問いを、その旅と俳諧が今も私たちに投げかけているからなのである。

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