数字で読む町の奇譚 第四編
注記
この物語はフィクションです。
作中に登場する潮見町、自治体、人物、住宅、制度、契約、査定額、税額、解体費用などは、すべて架空のものです。現実の空き家が意思を持って所有者を選んだり、どの処分方法を選んでも同一の損失額になることはありません。
実際の空き家では、建物の状態、土地の価格、接道条件、相続関係、税制、地域需要、修繕費、解体費、管理状況などによって、売却、賃貸、維持、解体の結果は大きく異なります。
本作は、家を所有するとは何を引き受けることなのか、という問いを、地方の空き家問題と数字の不一致を通して描いた幻想小説です。
父が亡くなった翌月、桐原直樹は潮見町へ戻った。
戻ったといっても、住むためではなかった。
父の家を片づけるためだった。
潮見町南浜三丁目。
海から直線距離で六百メートルほど内側に入り、旧商店街へ向かう坂の途中に、その家はあった。
木造二階建て。
築四十八年。
敷地六十二坪。
延べ床面積三十一坪。
瓦屋根。
南向き。
駐車場一台分。
不動産の広告に書けば、それなりの形にはなる。
実際の家は、広告の言葉より古かった。
外壁には細い亀裂が走り、雨戸の戸袋は下側が腐っている。庭の梅の木は枝が伸びすぎ、隣家の屋根へ触れそうになっていた。
玄関の鍵は固かった。
直樹は何度か左右へ揺らし、力を入れて回した。
扉を開けると、湿った畳と古い木材のにおいがした。
父が入院してから一年近く、人が暮らしていなかった。
玄関には、父の茶色い靴がそろえて置いてある。
杖も立てかけられていた。
廊下の先には、止まった柱時計が見えた。
十時十七分。
父が倒れた時刻ではない。
電池が切れた時刻でもないだろう。
ただ、家の中では時間が止まると、すべてに意味があるように見えてしまう。
直樹は窓を開けた。
潮のにおいを含んだ風が入った。
居間のカレンダーは、前年十一月のままだった。
父が救急搬送されたのは十一月二十三日。
二十四日以降の日付には、何も書かれていない。
二十三日の欄には、青いボールペンで、
「市立病院 十時」
とある。
それ以外に特別な記載はなかった。
父は一人暮らしだった。
母は七年前に亡くなっている。
直樹は東京で会社員をしていた。妻と二人の娘がいる。
潮見町へ戻るのは、年に二、三回だった。
正月。
盆。
父の通院に付き添う必要があるとき。
父は、家のことをほとんど話さなかった。
「古いから、俺が死んだら好きにしろ」
何度かそう言った。
好きにしろと言われても、家は好きにはならない。
売る。
貸す。
使う。
壊す。
放置する。
どれかを選ばなければならない。
選ばなければ、所有している状態だけが続く。
直樹は居間の座卓にノートパソコンを置いた。
父の死亡に伴う手続きは、まだ終わっていなかった。
年金。
健康保険。
公共料金。
預金。
生命保険。
固定資産。
墓。
相続人は直樹一人だった。
兄弟はいない。
遺言書もなかった。
相続関係そのものは単純だった。
しかし、単純であることと、楽であることは違った。
家を相続すれば、土地も建物も直樹のものになる。
相続しなければ、預金などほかの財産も含めて放棄しなければならない。
父の預金は約九百万円あった。
住宅ローンはない。
借金もない。
相続放棄を考える理由はなかった。
家だけを除いて相続することはできない。
直樹は不動産会社へ査定を依頼した。
町内の業者。
隣市の大手系列。
空き家専門を名乗る会社。
三社に見てもらった。
最初の会社は、土地建物で三百八十万円と査定した。
「建物の価値は、ほぼありません」
担当者は言った。
「土地値から解体費の一部を考慮した金額です」
二社目は、二百五十万円。
「接道は問題ありませんが、需要が弱いです。買い手が見つかるまで時間がかかると思います」
三社目は、百八十万円だった。
「買取なら、このくらいです」
直樹は思っていたより安いと感じた。
父は何十年も固定資産税を払い、屋根を直し、外壁を塗り、庭を手入れしてきた。
家を建てた当時の金額を直樹は知らない。
ただ、父の人生の大部分が、この家に使われたことは分かる。
それが百八十万円。
中古車一台より安い。
しかし、値段が安いからといって、買い手がいるとは限らない。
三社とも、すぐに売れるとは言わなかった。
直樹は売却以外の方法も調べた。
賃貸に出す。
月額五万円程度。
ただし、屋根、浴室、給湯器、配管、床、壁紙の修繕が必要になる。
最低でも四百万円。
状態によっては六百万円。
入居者が見つかる保証はない。
管理会社への手数料もかかる。
空室期間中も、固定資産税と維持費は続く。
解体する。
見積額は二百七十万円から三百六十万円。
庭木とブロック塀を含めれば、さらに上がる可能性がある。
更地にすると、土地の固定資産税が上がる場合もある。
維持する。
固定資産税。
火災保険。
電気の基本料金。
水道。
草刈り。
換気。
清掃。
屋根や外壁の補修。
十年間で、少なく見積もっても数百万円。
どの方法にも金がかかった。
父の預金がある。
その中から払えばよい。
理屈ではそうだった。
しかし、父の預金を使って父の家を壊すことに、直樹は抵抗を感じた。
残された金で、残されたものを消す。
合理的ではある。
それでも、何かを二度失うようだった。
直樹は表計算ソフトを開いた。
売却。
賃貸。
維持。
解体。
四つの案について、十年間の収支を比較する表を作った。
売却価格。
仲介手数料。
登記費用。
残置物処分。
修繕費。
解体費。
固定資産税。
保険料。
管理費。
賃料収入。
空室率。
所得税。
将来の売却価格。
数字を一つずつ入れた。
直樹は経理の仕事をしている。
厳密な不動産投資の計算ではないが、比較表を作ることには慣れていた。
最初の結果は、次のようになった。
すぐ売却する場合、十年間の実質収支はプラス九十四万円。
賃貸する場合、プラス百三十二万円。
維持して十年後に売却する場合、マイナス二百八十六万円。
解体して土地を売る場合、マイナス百四十万円。
賃貸が最も有利だった。
ただし、修繕費を四百万円、空室率を二十パーセントと仮定した場合である。
直樹は修繕費を五百万円に変更した。
賃貸の収支はプラス三十二万円になった。
空室率を三十パーセントにすると、マイナス五十八万円。
給湯器交換を追加すると、マイナス八十九万円。
条件を変えると、結果は大きく変わる。
当然だった。
将来のことは分からない。
直樹は夜まで作業を続けた。
窓の外は暗くなった。
町営バスが坂を下っていく音がした。
廃止された第一便とは違い、現在の時刻表にある最終便だった。
車内灯が家々の壁を一瞬だけ照らし、そのまま海側へ消えた。
直樹は表へ戻った。
何かがおかしかった。
賃貸案の最終収支が、マイナス三百二十七万四千円になっている。
さきほどまで、マイナス八十九万円だった。
数式を確認した。
家賃収入。
空室率。
修繕費。
管理費。
税金。
計算式に誤りはない。
しかし結果だけが変わっている。
売却案を見る。
マイナス三百二十七万四千円。
維持案。
マイナス三百二十七万四千円。
解体案。
マイナス三百二十七万四千円。
四つの案が、すべて同じ金額になっていた。
直樹は数式を一つずつ確認した。
参照セルの誤りかと思った。
違った。
独立した式になっている。
入力値を変えた。
売却価格を三百万円から一千万円にする。
最終収支は、マイナス三百二十七万四千円。
賃料を月五万円から十万円にする。
同じ。
修繕費をゼロにする。
同じ。
固定資産税をゼロにする。
同じ。
解体費を一円にする。
同じ。
どの数字を変えても、最終結果は変わらなかった。
マイナス三百二十七万四千円。
直樹はファイルを閉じた。
保存せず、もう一度開いた。
元の結果へ戻っていた。
売却、プラス九十四万円。
賃貸、マイナス八十九万円。
維持、マイナス二百八十六万円。
解体、マイナス百四十万円。
直樹は安堵した。
疲れて数式を壊したのだろう。
時計を見ると、午後十一時を過ぎていた。
その日は父の寝室で休むことにした。
布団は押し入れに入っていた。
父が最後まで使っていたベッドには寝たくなかった。
客用の布団を居間へ敷いた。
電気を消すと、家の音が聞こえた。
木材が縮む音。
冷蔵庫のモーター。
風が雨戸を揺らす音。
二階から、何かを引きずるような音がした。
直樹は目を開けた。
音はすぐに止んだ。
この家には昔から、夜になると音がした。
子どもの頃、二階で誰かが歩いているように聞こえることがあった。
父は、
「木が鳴っているだけだ」
と言った。
母は、
「家も寝返りを打つのよ」
と言った。
直樹は母の言葉を思い出した。
家も寝返りを打つ。
その夜、二階から何度も足音がした。
翌朝、直樹は二階へ上がった。
自分が高校を卒業するまで使っていた部屋。
両親の寝室。
物置。
どの部屋にも人はいなかった。
窓は閉まっている。
床に異常もない。
自分の部屋には、古い学習机が残っていた。
引き出しを開ける。
高校時代のノート。
大学受験の参考書。
使わなくなった腕時計。
切れたギターの弦。
父は何も捨てていなかった。
直樹が家を出た後も、部屋をそのまま残していた。
机の一番下の引き出しに、茶封筒が入っていた。
表には父の字で、
「家の費用」
と書かれている。
中には、領収書と手書きの一覧表が入っていた。
屋根修理。
外壁塗装。
給湯器交換。
浴室改修。
畳替え。
庭木剪定。
固定資産税。
火災保険。
町内会費。
浄化槽点検。
父は、家にかかった費用を何十年も記録していた。
直樹は一覧表を居間へ持っていった。
年度ごとの金額を表計算ソフトへ入力した。
合計は、三百二十七万四千円だった。
直樹は手を止めた。
昨夜、どの選択肢を計算しても現れた損失額。
マイナス三百二十七万四千円。
父が家の維持に使った金額と、完全に一致していた。
ただし、一覧表は全期間の記録ではなかった。
日付が確認できるものだけで、二十七年間分。
家を建てた費用も、住宅ローンの利息も含まれていない。
日常的な電気や水道も入っていない。
それでも、三百二十七万四千円という数字は同じだった。
直樹は父の字を見た。
一覧表の最後に、小さな文字がある。
「ここまで返した」
何を返したのか。
誰に返したのか。
家へ返したのか。
直樹は封筒の中をもう一度調べた。
最後に、折り畳まれた古い便箋が入っていた。
父の字ではなかった。
青いインクで、こう書かれている。
「この家は、買った人のものにはなりません。払い終えた人のものになります」
署名はない。
日付は、父が家を購入した年だった。
直樹は不動産登記を確認した。
父は四十八年前、この土地と建物を中古で購入している。
建築したのは父ではなかった。
それまで直樹は、父が建てた家だと思っていた。
子どもの頃から、そう聞かされていた気がする。
しかし登記上、建物は父が購入する七年前に建てられていた。
最初の所有者は、榊原雄一。
次が、桐原昭夫。
父である。
榊原雄一について、直樹は何も知らなかった。
町内の古い住宅地図を見ると、家は確かに榊原宅と記されている。
直樹は市役所ではなく、潮見町役場へ行った。
固定資産の記録は、本人の所有物ではないため自由に見られない。
過去の所有者の個人情報も教えてもらえない。
それでも、父が取得した当時の課税資料や登記情報から、確認できる範囲はあった。
窓口の職員は、古い台帳を見ながら言った。
「榊原さんは、この家を手放した後、町外へ転出しています」
「理由は分かりますか」
「そこまでは記録にありません」
「その後は」
「申し訳ありませんが、お答えできません」
役場を出ると、庁舎前のバス停に高齢の男性が立っていた。
黒い布製の鞄を持っている。
直樹は、その男を知らない。
男は時刻表ではなく、役場の建物を見ていた。
町営バスが来た。
扉が開いたが、男は乗らなかった。
バスはそのまま発車した。
直樹が歩き出すと、男も同じ方向へ歩いた。
南浜三丁目へ向かう坂。
直樹の少し前を歩いている。
歩幅は小さいが、距離が縮まらない。
直樹が速度を上げると、男も同じ速さになる。
家の前まで来た。
男は門の前で立ち止まった。
「何か御用ですか」
直樹が尋ねた。
男は家を見上げた。
「まだ残っていたんですね」
「この家をご存じですか」
「住んでいました」
直樹は男を見た。
「榊原さんですか」
男は答えなかった。
年齢を考えると、最初の所有者本人でも不思議ではない。
家は築四十八年。
当時三十代なら、今は八十歳前後になる。
「父の前に住んでいた方ですか」
「あなたのお父さんは、払い終えましたか」
男は尋ねた。
直樹の背中が冷たくなった。
「何をですか」
「家が決めた額です」
「三百二十七万四千円ですか」
男は少し驚いた顔をした。
「あなたには、そう見えましたか」
「父が払った修理費と同じです」
「私のときは違いました」
「いくらだったんですか」
「二百四十八万円」
男は門柱へ手を置いた。
「妻が亡くなるまでに使った医療費と同じでした」
直樹は意味を理解できなかった。
「この家の修繕費がですか」
「売ろうとしても、貸そうとしても、壊そうとしても、最後には同じ額を失う」
男は言った。
「その額は、その人が人生で返せなかったものと同じになる」
「返せなかったもの」
「私の場合は、妻でした」
男は家の窓を見た。
「病気に気づくのが遅かった。もっと早く病院へ連れていけばよかったと思い続けた。治療に使った金額を、何度も計算した」
「それと家に何の関係があるんです」
「関係はありません」
男は静かに言った。
「だから怖いんです」
家は何も説明しない。
ただ、持ち主が忘れられない金額を見つけ、それと同じだけを要求する。
男は、妻が亡くなった後に家を売ろうとした。
売却価格から手数料や修繕費を引くと、二百四十八万円の損失。
賃貸へ出そうとすると、必要な改修費が二百四十八万円。
解体見積もりも、追加工事を含めて二百四十八万円。
偶然だと思った。
別の業者へ頼んだ。
条件を変えた。
それでも最終的な負担は同じ額になった。
「それで父に売ったんですか」
「あなたのお父さんが、私の代わりに二百四十八万円を払ったわけではありません」
「では、どうやって売れたんです」
「私が認めたからです」
「何を」
「二百四十八万円では、妻は戻らないことを」
男は門柱から手を離した。
「家は、金を払わせたいわけではありません。金額にして持ち続けているものを、手放せるか確かめている」
「父は何を持ち続けていたんですか」
男は直樹を見た。
「それは、あなたが知ることではありません」
「父が払った三百二十七万四千円は何だったんです」
「あなたのお父さんが、誰にも返せなかったものです」
男は坂を下り始めた。
「待ってください」
直樹は追いかけた。
角を曲がる。
男の姿はなかった。
黒い鞄だけが、道路脇の石垣に置かれていた。
直樹は近づいた。
鞄には触れなかった。
第1編で町役場の前に置かれたという、記録にない一人の鞄の話を、直樹は知らない。
ただ、その鞄を持ち帰ってはいけないと感じた。
家へ戻ると、玄関の扉が開いていた。
鍵をかけたはずだった。
居間の机に、父の費用一覧が広げられている。
直樹が置いた位置とは違う。
最後の行の下に、新しい数字が書かれていた。
三百二十七万四千円。
その下に、
「直樹」
とある。
父の字だった。
直樹は紙を裏返した。
裏面には、さらに文章が書かれていた。
「お前に払わせるつもりはない」
直樹は父の字を見間違えるはずがなかった。
短く角張った文字。
「払わせるつもりはない。そのために、私はここまで返した」
父は何を返したのか。
直樹は母のことを考えた。
母は七年前、膵臓がんで亡くなった。
見つかったときには進行していた。
父は母を自宅で看取った。
病院への通院。
介護用ベッド。
手すり。
浴室の改修。
給湯器。
畳の交換。
一覧表にある修繕の多くは、母の療養中に行われていた。
三百二十七万四千円。
母の医療費ではない。
家を、母が最後まで暮らせる場所にするために父が使った金額だった。
父はそれを「返した」と書いている。
母に返したのか。
家に返したのか。
共に暮らした年月に返したのか。
直樹には分からなかった。
その夜、直樹は表計算ソフトを開いた。
四つの案を再計算した。
売却。
賃貸。
維持。
解体。
結果は、すべてマイナス三百二十七万四千円。
前日と同じだった。
直樹は数字を見つめた。
父は、もう三百二十七万四千円を払っている。
それなのに、なぜ同じ額が直樹へ現れるのか。
試しに、新しい項目を加えた。
「父が支払済み」
三百二十七万四千円。
最終収支は変わらない。
「母のための改修」
三百二十七万四千円。
変わらない。
「父の後悔」
金額は入力できない。
直樹はセルへ、
〇円
と入力した。
結果が変わった。
四つの案すべて、マイナス六百八十四万円。
直樹は画面を見た。
三百二十七万四千円ではない。
六百八十四万円。
その金額に覚えがあった。
大学進学から卒業まで、父が直樹に送った仕送りの合計。
入学金。
授業料。
家賃。
生活費。
正確な総額を計算したことはない。
しかし、父の古い通帳を見れば、おそらくそのくらいになる。
直樹は通帳を探した。
寝室の机の引き出し。
銀行ごとに束ねられた古い通帳。
直樹名義の大学時代の振込記録。
四年間の総額を計算した。
六百八十四万円。
完全に一致した。
直樹は椅子から立ち上がった。
家が要求する金額は、父の後悔ではなかった。
直樹自身が、父へ返していないと思っている金額だった。
父に大学へ行かせてもらった。
東京で就職した。
結婚した。
家を買った。
潮見町へ戻らなかった。
母の介護も、父に任せた。
父が入院してからも、毎週は来られなかった。
仕事がある。
家庭がある。
距離がある。
理由はすべて正しい。
正しい理由を積み重ねた結果、父は一人で家を守り、母を看取り、自分も病院で亡くなった。
六百八十四万円。
直樹は、その金額を返していないと感じていた。
父から返せと言われたことはない。
仕送りを貸付金だと言われたこともない。
それでも直樹の中では、金額として残っていた。
家は、それを見つけた。
直樹は表の数字を消した。
代わりに、
「返済不要」
と入力した。
最終収支は、マイナス六百八十四万円のままだった。
「贈与」
変わらない。
「親の責任」
変わらない。
「感謝している」
変わらない。
「仕方がなかった」
変わらない。
言葉を変えても、家は受け付けなかった。
翌朝、不動産会社から電話があった。
最初に査定を依頼した町内業者だった。
「購入を検討したい方がいます」
担当者は言った。
「まだ正式ではありませんが、潮見町への移住希望者です。古い家を自分で直したいそうです」
提示価格は三百万円。
直樹が想定していたより高い。
残置物は直樹が処分する。
契約不適合責任は一定範囲で免責。
境界確認が必要。
それでも、現実的な話だった。
直樹は内覧を受け入れた。
購入希望者は、三十代の夫婦だった。
夫は在宅勤務が可能な会社員。
妻は陶芸をしている。
子どもはいない。
海に近く、庭のある家を探していた。
二人は、古さを嫌がらなかった。
「この柱、いいですね」
夫が言った。
「台所は直さないと使えませんが、土間を作っても面白いかもしれません」
妻は庭の梅の木を見た。
「切らずに残したいです」
直樹は、初めてこの家を欲しいと言う人を見た。
父も、最初に買ったときは同じような顔をしていたのかもしれない。
内覧後、夫婦は前向きに検討すると言った。
その夜、直樹は表計算ソフトを開いた。
売却案。
売却価格三百万円。
諸費用を入力する。
最終収支、マイナス六百八十四万円。
直樹は予想していた。
残置物処分費が異常に増えている。
見積書を確認すると、百万円以下だったはずが、表の中では七百万円を超えている。
セルを修正する。
今度は境界確定費用が増える。
そこを直すと、譲渡費用が変わる。
どこを修正しても、最終結果は六百八十四万円の損失へ戻った。
直樹は画面を閉じた。
パソコンではなく、紙と電卓で計算した。
三百万円から費用を引いても、六百八十四万円の損失にはならない。
現実の契約では、家の計算は通用しない。
数字が勝手に変わるのは、直樹のパソコンの中だけかもしれない。
それなら売ればよい。
家が何を見せても、登記を移せば終わる。
直樹はそう考えた。
売買契約の日、購入希望者夫婦と不動産会社の担当者が家へ来た。
重要事項説明が行われた。
契約書。
物件状況報告書。
設備表。
印紙。
手付金。
書類は順調に進んだ。
最後に、夫が契約書へ署名しようとしたとき、玄関の柱時計が動き出した。
止まっていた時計。
十時十七分を示していた針が、一度だけ進んだ。
十時十八分。
全員が音の方を見た。
「時計、動くんですね」
妻が言った。
「いえ、電池は切れているはずです」
直樹が答えた。
再び針が進んだ。
十時十九分。
柱時計の振り子は動いていない。
秒針もない。
それでも、長針だけが一分ずつ進んでいく。
十時二十分。
十時二十一分。
夫は笑った。
「古い時計だから、残った力で動いたんでしょう」
契約書へ署名した。
その瞬間、家全体が低く鳴った。
風ではない。
地震でもない。
柱、床、壁、屋根が同時に息を吐いたような音だった。
妻が顔を上げた。
「今、何か聞こえませんでしたか」
不動産会社の担当者も黙っていた。
夫は契約書を見た。
署名欄に、自分の名前がない。
確かに書いたはずだった。
黒いインクの跡だけが、紙の中へ沈んだように消えている。
もう一度書いた。
また消えた。
ボールペンを替えた。
消えた。
妻が書いても同じだった。
担当者が試しに余白へ線を引いた。
その線は残った。
購入者欄へ書いた文字だけが消える。
「紙の不良でしょうか」
担当者は別の契約書を取り出した。
同じだった。
夫婦の署名は残らない。
直樹が自分の名前を書く。
売主欄には、はっきり残った。
契約は中止になった。
不動産会社は、書類を作り直して後日改めると言った。
夫婦は気味悪がってはいなかった。
ただ、妻は帰り際、梅の木を見ながら言った。
「この家、私たちを嫌っているのでしょうか」
直樹は答えられなかった。
二日後、夫婦は購入を辞退した。
理由は、家族の反対ということだった。
直樹は不動産会社を責めなかった。
不動産会社も、直樹を責めなかった。
誰も、署名が消えたことには触れなかった。
直樹は一人で家に残った。
父の費用一覧。
自分の仕送り総額。
売却計算。
すべてを居間の机に並べた。
「何をすればいい」
直樹は家へ向かって言った。
返事はない。
「六百八十四万円を払えばいいのか」
柱時計が一分進んだ。
「誰に払う」
進まない。
「父か」
進まない。
「この家か」
進まない。
「自分にか」
長針が一分進んだ。
十時二十二分。
直樹は椅子へ座った。
自分に払う。
その意味が分からない。
六百八十四万円を自分の口座へ移しても何も変わらない。
父から受け取ったものを、損失として数え続ける自分に何を返すのか。
直樹は高校を卒業して、この家を出た。
東京の大学へ進み、そのまま就職した。
父は、戻ってこいと言わなかった。
母も言わなかった。
帰省するたび、両親は、
「向こうの生活を大事にしなさい」
と言った。
直樹はその言葉に従った。
両親が望んだとおりに生きた。
それでも、親元を離れたことに負債を感じている。
親が使った金額を、借金のように覚えている。
感謝と負債を、同じものにしていた。
家は、その計算を終わらせろと言っているのかもしれない。
直樹は父の通帳を閉じた。
六百八十四万円と書いた紙を破った。
ごみ箱へ入れた。
柱時計は動かなかった。
「返さない」
直樹は言った。
「返せないからではない。返すものではなかった」
家は静かだった。
「父が自分で使った金だ。父が選んだ。母も選んだ。俺に返せとは言わなかった」
風が窓を揺らした。
「俺がここに戻らなかったことも、借金ではない」
二階から足音がした。
一歩。
二歩。
階段へ近づいてくる。
直樹は立ち上がらなかった。
足音は階段を下りた。
一段ずつ。
姿は見えない。
廊下を通り、居間の入口で止まった。
父の気配だと思った。
父であってほしいと思った。
しかし、何も見えない。
「ごめんとは思っている」
直樹は言った。
「でも、金額にはしない」
柱時計が鳴った。
本来なら時刻を知らせる音。
一度。
二度。
何時を示しているのか分からないほど、長く鳴り続けた。
音が止まると、家の中が急に明るくなった。
朝でもない。
照明も変わっていない。
ただ、空気に積もっていたものが消えたように感じた。
直樹はパソコンを開いた。
売却案を計算した。
プラス百十六万円。
賃貸案。
条件によって、プラスにもマイナスにもなる。
維持案。
マイナス三百万円前後。
解体案。
マイナス百数十万円。
現実的な、ばらばらの数字に戻っていた。
六百八十四万円は、どこにもなかった。
父の費用一覧を見る。
三百二十七万四千円。
その下の「直樹」という文字は消えていた。
「お前に払わせるつもりはない」
という文章だけが残っている。
直樹は家を売ることにした。
ただし、最初の夫婦ではなかった。
夫婦はすでに別の物件を決めていた。
次の買い手が現れるまで、半年かかった。
購入を申し込んだのは、潮見町内で賃貸住宅に暮らす四十二歳の女性だった。
中学生の息子と二人暮らし。
町内の介護施設で働いている。
新しく開設された施設だった。
女性は家を内覧し、長い時間、台所を見ていた。
「ここ、母が昔働いていた家に似ています」
「この家でですか」
「いえ、別の家です。もう解体されました」
女性は玄関の柱時計を見た。
「この時計は残してもらえますか」
「動きませんよ」
「それでも構いません」
購入価格は二百四十万円。
大きな利益は出ない。
残置物処分、測量、登記、仲介手数料を引けば、直樹の手元に残るのは多くなかった。
それでも契約を進めた。
署名の日。
女性は契約書へ名前を書いた。
文字は消えなかった。
息子も隣で見ていた。
柱時計は、十時二十二分を示して止まっている。
何も起こらない。
不動産会社の担当者が書類を確認した。
契約は成立した。
直樹は女性に尋ねた。
「失礼ですが、なぜこの家を選んだのですか」
「安かったからです」
女性は笑った。
「それと、息子がここがいいと言ったので」
息子は庭に出て、梅の木を見上げている。
「古いですよ」
「直せるところから直します」
「費用もかかります」
「分かっています」
女性は家の中を見回した。
「でも、家賃を払い続けても、最後には何も残りません。この家なら、直した分だけ残るかもしれない」
直樹は、家が女性を選んだのかどうか考えた。
家は、所有者を選ぶ。
最初の榊原。
父。
直樹。
そして、この女性。
しかし、女性に特別な力があるようには見えない。
父のように何かを払い終えたわけでもないだろう。
榊原のように後悔を手放したとも限らない。
直樹は気づいた。
家が選ぶのは、罪のない人でも、正しい人でもない。
家を資産だけとして見ない人。
過去の値段だけで価値を決めない人。
自分が払うものを、誰かへの返済と混同しない人。
その家でこれから使う金を、損失だけとは考えない人。
女性が契約書を閉じた。
「この家、嫌がりませんでしたね」
以前の出来事を不動産会社から聞いたのかもしれない。
直樹は答えた。
「たぶん、決まったんだと思います」
「何がですか」
「次に住む人が」
引き渡しの日、直樹は最後に家の中を歩いた。
二階の自分の部屋。
両親の寝室。
居間。
台所。
浴室。
母が最後まで使った手すり。
父が座っていた椅子。
処分するものは処分した。
残すものは、女性と相談して残した。
柱時計。
梅の木。
居間の柱に刻まれた身長の跡。
直樹が小学生の頃から高校生になるまでの印。
女性の息子が、それを消さないでほしいと言った。
「誰の身長ですか」
「私です」
直樹が答えると、少年は自分の背を並べた。
「もう少しで同じです」
直樹は笑った。
玄関を出る前、父の費用一覧を取り出した。
家へ置いていくつもりだった。
しかし、女性に渡すものではない。
父の記録であり、直樹の記憶だった。
持ち帰ることにした。
玄関の鍵を女性へ渡した。
その瞬間、柱時計が動いた。
十時二十三分。
一分だけ進み、また止まった。
女性も息子も気づかなかった。
直樹だけが見ていた。
家は、直樹を追い出したのではない。
手放すことを認めたのだと思った。
直樹は東京へ戻った。
父の預金から、家の処分にかかった費用を支払った。
残った相続財産は、自分の口座へ入れた。
以前なら、その金額を父からの最後の借金のように感じたかもしれない。
今は違った。
父が残したものを受け取った。
それだけだった。
一年後、直樹は潮見町を訪れた。
墓参りの帰り、南浜三丁目の家の前を通った。
外壁は薄い灰色に塗り直されていた。
屋根の一部も補修されている。
庭の梅の木は剪定され、低い枝に洗濯物が揺れていた。
玄関先には自転車が二台ある。
家の中から、少年の声がした。
女性の笑い声も聞こえた。
直樹は立ち止まらず、そのまま歩いた。
角を曲がる前、柱時計の音が聞こえた。
一度。
二度。
今度は正しい時刻を知らせているようだった。
その年、潮見町の空き家数は一戸減った。
役場の統計では、
「売買による居住再開 一件」
と記録された。
家が誰を拒み、誰を選び、何を払い終えさせたのかは記録されない。
統計上は、ただ一件の空き家が解消しただけだった。
その後、南浜三丁目の家は何度か修理された。
給湯器。
雨どい。
床。
台所。
塀。
費用は少しずつ増えた。
女性は家計簿へ記録した。
しかし、どの合計額も、彼女が人生で失った金額と一致することはなかった。
家が要求しなくなったのか。
女性が金額として抱えているものがなかったのか。
それは誰にも分からない。
ただ、家は空き家ではなくなった。
夜になると灯りがつき、朝には窓が開いた。
人が出ていき、人が帰った。
雨の日には屋根が家族を守り、晴れた日には洗濯物の影が庭へ落ちた。
家は再び、所有されるものではなく、暮らす場所になった。
それでも、ときどき玄関の柱時計が、一分だけ遅れることがあった。
その家に住む者が、自分の人生を金額へ置き換えようとしたときだった。
失った時間。
返せなかった恩。
言えなかった言葉。
選ばなかった道。
それらを費用として計算し始めると、時計は静かに止まった。
家は何も話さない。
数字も示さない。
ただ、その計算が終わるまで、次の一分を進めなかった。
空き家が所有者を選ぶのではない。
本当は、家を持つ人間が、何を自分の負債として抱え続けるかを選んでいる。
しかし潮見町では今も、南浜三丁目の古い家について、別の話が残っている。
売ろうとして署名が消えた人がいる。
壊そうとして見積額が変わった人がいる。
貸そうとして、入居者の名前だけが契約書から消えた人がいる。
そして、家に選ばれた人だけが、玄関の時計を一分先へ進められる。
町の空き家台帳には、そのような項目はない。
所在地。
所有者。
建築年。
構造。
管理状態。
危険度。
利活用意向。
すべての欄が埋められている。
南浜三丁目の家は、現在、
「居住中」
と記録されている。
備考欄は空白だった。
ただ、台帳を印刷した直後にだけ、空白の中へ薄い文字が浮かぶことがある。
「所有者 選定済み」
職員が目を近づけると、その文字は消える。
そして家では、柱時計がもう一分だけ進む。

