リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 外国文学を読み直していて、奇妙な感覚に襲われることがある。以前に読んだはずの小説なのに、どこか違うのである。登場人物の名前も同じなら、起こる事件も同じで、物語の結末まで変わっていない。それなのに主人公が以前より饒舌に感じられたり、恋愛の場面が妙に生々しくなったり、かつては重苦しかった作品が意外なほど軽快に読めたりする。そこで表紙や奥付を確かめてみると、翻訳者の名前が違っている。

 この瞬間、外国文学を読むという行為の少し不思議な正体が見えてくる。私たちはドストエフスキーを読み、カフカを読み、ヘミングウェイを読んでいると思っている。しかし日本語で作品を読んでいる限り、実際に目の前に並んでいる日本語の文章を書いたのは原作者その人ではない。原作者の文章を読み取り、それを別の言語体系の中で組み立て直した翻訳者が、読者と原作者の間にいる。

 それなら翻訳者が変わったとき、私たちは本当に「同じ作品」を読んでいるのだろうか。この問いは単なる言葉遊びではない。翻訳研究や文体研究を見ても、翻訳者ごとの語彙や文章構造の違いは実際に分析できることが分かっており、一方で、それだけを理由に別作品だと言い切ることもできない。問題は、「作品の何を同じと考えるのか」にある。

物語は同じなのに、声が違う

 小説を筋書きとして考えるなら、翻訳者が変わっても作品はかなりの部分で同じである。青年が故郷を離れ、誰かと出会い、事件が起こり、別れが訪れるという出来事の順序は通常変わらず、登場人物の関係も舞台も結末も基本的には保存される。物語の骨格という点では、二つの翻訳は明らかに同じ原作に属している。

 しかし、小説を読む楽しみは筋書きだけにあるわけではない。もし出来事の順序さえ分かれば作品を読んだことになるのなら、数百ページの小説を数ページのあらすじに縮めても、ほぼ同じ読書体験が得られるはずである。実際にはそうならないのは、私たちが小説の中で受け取っているものの相当な部分が、「何が書かれているか」だけではなく、「どのように書かれているか」に宿っているからである。

 たとえば、ある人物が相手からの申し出を拒絶する場面を考えてみる。「嫌だ」「いやです」「お断りします」「そんなことはできません」「冗談じゃない」と訳せば、伝えている中心的な意味は似ていても、人物の年齢、性格、社会的距離、感情の強さは少しずつ違って見える。同じ場面を読んでいるはずなのに、読者の頭の中に立ち上がる人物像は完全には一致しない。

 しかも違いは単語の選択だけではない。一文を長く保つか短く区切るか、主語を明示するか省略するか、敬語を使うか、句読点をどこに置くかによって、文章の呼吸そのものが変わる。翻訳研究では、こうした語彙や文体上の特徴を数量的に調べ、翻訳者ごとの傾向を検出しようとする研究も行われている。つまり「翻訳者によって文章の感じが違う」という経験は、単なる気分の問題ではなく、ある程度は実際の言語的特徴として捉えることができる。

 もっとも、ここで注意しなければならないのは、訳文が翻訳者だけの文体になるわけではないということである。そこには原作者の文章の特徴があり、原語と日本語の違いがあり、翻訳された時代の言語感覚があり、出版社や編集方針の影響も加わる。そのため訳文とは、原作者の特徴と翻訳者の特徴が単純に入れ替わるのではなく、複数の要因が重なった結果として生まれる文章だと考えるほうが実態に近い。

翻訳者は透明なガラスではない

 翻訳について語るとき、翻訳者は原作者と読者の間に置かれた透明なガラスのように考えられることがある。理想的な翻訳とは翻訳者自身の存在を消し、原文をそのまま読者へ届けることだ、という考え方である。しかし、言語が違えば意味の区切り方も語感も異なる以上、完全に透明な翻訳を作ることは原理的に難しい。

 一つの外国語の単語に対して、一つの日本語だけが機械的に対応しているわけではない。ある語には複数の意味があり、その場面でどれが最もふさわしいかを判断しなければならず、同じ発言であっても、それが親愛なのか皮肉なのか怒りなのか照れ隠しなのかによって訳し方は変わる。翻訳者は辞書の単語を横に移しているのではなく、作品全体を読みながら、「この人物はこの場面で何を感じ、どういう調子で語っているのか」を解釈し続けている。

 その意味で、翻訳は言語の変換であると同時に読解でもある。そして読解を伴う以上、選択は避けられない。どの言葉を使うのか、どの程度原文の構造を残すのか、どこまで自然な日本語へ寄せるのかという判断の一つ一つに、翻訳者の文学観や言語感覚が反映される。

 だからといって、翻訳者が自由に作品を書き換えているわけではない。むしろ原文に忠実であろうとするほど、「この表現を日本語でどう響かせれば、原文に最も近い働きをするのか」という難しい選択を繰り返さなければならない。翻訳者が目立たない訳文ほど、実はその背後で膨大な判断が行われているのである。

「正しい翻訳」は一つなのか

 翻訳が二つあれば、読者はどちらが正しいのかを知りたくなる。もちろん原文の事実関係を取り違えたり、語句の意味を誤認したりした場合には誤訳が存在するため、すべての翻訳を同じように正しいと考えることはできない。しかし問題は、誤訳ではない部分に複数の訳し方が存在することである。

 たとえば、ある原語を文脈によって「寂しい」「孤独だ」「心細い」などと訳せる場合を考えると、どれも完全に同じ日本語ではない。「寂しい」は日常的な感情に近く、「孤独だ」にはより重い響きがあり、「心細い」には不安や頼りなさが加わる。それでも原文が持つ意味の幅によっては、いずれも一定の妥当性を持ち得る。

 このことから、原文の意味をただ一つの点として捉えるより、ある程度の幅を持った意味の領域として考えたほうが翻訳の実態を理解しやすい。翻訳者はその範囲の中から、日本語として最も適切だと考える位置を選ぶ。複数の優れた翻訳が存在できるのは、一方が間違っているからではなく、原文が一種類の日本語だけでは完全には覆い尽くせない意味や響きを持っているからでもある。

 この点で、翻訳を読み比べることは単なる正誤判定ではなくなる。一つの翻訳では目立たなかった人物の感情が、別の翻訳でははっきり見えることがあり、逆に最初の訳にあった曖昧さが、新しい訳では消えてしまうこともある。どちらが常に優れているという単純な関係ではなく、それぞれの翻訳が原文の異なる部分を照らし出す場合がある。

翻訳によって登場人物は変わるのか

 翻訳の違いがとりわけ鮮明に現れるのは会話である。人間は話し方によって人格を判断されるため、「そう思う」「そう思います」「そう考えているのだ」「私はそう考えています」という違いだけでも、同じ人物の印象は変化する。

 外国語では年齢や社会的立場の違いが、日本語ほど語尾や敬語体系にはっきり現れない場合もある。それを日本語へ移すとき、翻訳者は何らかの話し方を選ばなければならず、その選択によって、原作の人物像のどの部分が前面に出るかが変わることがある。

 ただし、「翻訳者が人物を作る」とまで言ってしまうのは正確ではない。人物の基本的な性格や行動は原作者によって設計されており、翻訳者がゼロから人格を創造するわけではないからである。より正確に言えば、翻訳者の言語選択によって、原作に存在する人物像の輪郭や、読者が受け取る印象の強弱が変化し得る。

 乱暴な人物なのか、理知的な人物なのか、気取った人物なのか、素朴な人物なのか。同じ原文であっても、日本語の語尾や語彙の選択によってその傾向が多少違って見えることがある。読者がその声を聞いて登場人物に親しみを抱いたり、不快感を覚えたりするとすれば、翻訳者は原作者と読者の間で、人物の印象を調整する重要な役割を担っていることになる。

文体まで訳すことはできるのか

 さらに難しいのは文体である。小説家の個性は、描かれている物語だけでなく、文章の速度や長さ、比喩の使い方、感情の示し方にも宿っている。長い文章を何層にも重ねる作家もいれば、必要なものだけを切り取るように短く書く作家もいる。感情を直接書く作家もいれば、行動や風景だけを示して読者に感じ取らせる作家もいる。

 翻訳者が内容だけを伝えればよいのなら、こうした違いは重要ではない。しかし文学作品では、文体そのものが作品の一部である以上、意味だけを保存して文体を失えば、何か大切なものが消えてしまう。

 とはいえ、原文の構造を一字一句そのまま再現すればよいわけでもない。言語によって自然な語順や文章の長さが異なるため、原文の形を守りすぎれば日本語として極端に不自然になり、逆に読みやすく整えすぎれば原作者独特の癖や違和感が消えてしまう。

 ここで翻訳者は二種類の忠実さの間に立つ。原文の表面の形に忠実であることと、原文が読者に与える感覚に忠実であることは、必ずしも一致しない。原文そのものが複雑で息苦しく、不安定な文章なら、それを滑らかな日本語へ整えることは親切である一方、作品の性格を変えてしまう可能性もある。

 この難しさを考えると、文学翻訳とは、「意味を損なわずに日本語へ置き換える仕事」という説明だけでは足りない。何を残し、何を変えざるを得ないのかを判断しながら、別の言語の中に似た読書体験を再構築しようとする仕事なのである。

古い翻訳は本当に古くなるのか

 外国文学には、原作そのものは変わっていないのに、何十年か前の翻訳を読むと古く感じることがある。かつて自然だった語彙や言い回しが、後の時代には仰々しく聞こえたり、若い登場人物の会話が必要以上に古風に感じられたりするからである。

 ただし、「翻訳は必ず古くなる」という法則が科学的に確立されているわけではない。古い訳であっても文学的価値を失わず読み継がれることはあり、反対に新訳だからといって必ず原文に近くなるわけでもない。翻訳が古びて感じられる現象は確かに存在するが、その程度は作品、翻訳者、時代、読者によって異なる。

 それでも、言語そのものが変化する以上、訳文と読者との距離が時代とともに変化することは避けられない。新訳が生まれる理由の一つには、この距離を縮めようとする試みがある。ただし、新訳が作られる理由はそれだけではなく、原典研究の進展、翻訳規範の変化、出版社の企画、旧訳との差別化など、複数の事情が重なっている。

 新しい翻訳者の仕事も、単に古い表現を現代語へ置き換えることではない。作品が書かれた時代の距離感まで消してしまえば、十九世紀の人物が二十一世紀の若者のように話すことになりかねないため、翻訳者は現代の読者に届く日本語を使いながら、作品が本来持つ歴史的な距離も残さなければならない。古さを和らげながら、古さを消しすぎないという微妙な調整が求められるのである。

翻訳が変わると読後感は変わるのか

 ここまで考えると、「翻訳者が違えば読後感も変わる」という最初の感覚はかなり説得力を持つ。しかし科学的に厳密に言うなら、翻訳者が変われば必ず読後感が変化すると断言することはできない。

 訳文の語彙、文の長さ、敬語、会話表現などが違うことは比較できる。しかし、それを読んだ人間がどの程度違う感情を抱くかについては、読者自身の年齢、読書経験、原作についての知識、どの翻訳を先に読んだかといった多くの要因が影響する。そのため、訳文の違いから読者の反応を一対一で予測することは難しい。

 それでも、言葉遣いや文体が人物の印象や読みやすさに影響し得る以上、翻訳の違いが読者の感情や作品評価を変える可能性は十分にある。重要なのは、「翻訳が違えば必ず別の感想になる」と考えるのではなく、「翻訳の違いは読書体験を変化させる一つの要因になる」と考えることである。

同じ音楽を違う演奏家が弾くように

 翻訳について考えていると、音楽の演奏に少し似ているように思えてくる。ベートーヴェンの楽譜は同じでも、演奏者が変わればテンポも強弱も間の取り方も異なり、ある演奏は厳格に、別の演奏は情熱的に聞こえる。それでも私たちは、一方だけがベートーヴェンで、もう一方は別の作品だとは通常考えない。

 文学翻訳にも似たところがある。原文という共通の基礎があり、それを翻訳者が別の言語で表現する。同じ原作から異なる翻訳が生まれるのは、必ずしも作品が壊れているからではなく、一つの原文を別の言語で完全に一通りだけ再現することが難しいからである。

 もっとも、音楽との比較には限界もある。演奏では作曲者と演奏者の存在がはっきり意識されるのに対し、翻訳小説では翻訳者の存在が読者から見えにくい。「この文章は美しい」と感じたとき、読者はまず原作者の文章が美しいと考えるが、その日本語の美しさには翻訳者の判断も含まれている。

 だから翻訳者の名前を意識して読むことは、原作者の価値を下げることではない。むしろ、外国文学が日本語として私たちの前に現れるまでに、どのような知的・言語的作業が介在しているのかを見ることにつながる。

「私はこの作家が好き」の中に誰がいるのか

 翻訳文学を長く読んでいると、少し不思議な問いが生まれる。自分が好きだと思っていた外国作家は、本当にその作家だけだったのだろうか。

 ある翻訳者の文章で初めて海外文学に触れ、その日本語のリズムや言葉遣いに強く惹かれた読者がいるとする。後になって別の翻訳者による同じ作品を読んだところ、以前ほど魅力を感じなかったなら、最初に好きになったのは原作者だったのか、それとも翻訳者だったのかという疑問が出てくる。

 おそらく、この問いをどちらか一方だけで答える必要はない。物語と人物を生み出したのは原作者だが、その人物を日本語の中で語らせたのは翻訳者であり、翻訳文学における読書体験は両者の仕事が重なったところに成立している。

 だから「この作家が好き」という感覚の中には、原作者の物語世界への好みだけではなく、翻訳者の文章に対する好みが混じっている場合もある。どの程度混じっているかを一人の読者について正確に測定することは難しいが、少なくともその可能性を無視することはできない。

数学的に考えると「同じか、違うか」では足りない

 この問題を少し数理的に考えてみると、「同じ作品か、別作品か」という二択そのものが粗すぎることに気づく。二つの翻訳を比べた場合、物語の出来事、登場人物、舞台、主題といった要素は非常によく一致していても、語彙、文章の長さ、会話の調子、比喩、リズムといった要素には差がある。

 つまり作品の同一性は、〇か×かで決まるものではなく、どの層を比較するかによって異なる。物語構造という尺度なら二つの翻訳はほぼ同じだが、文章表現という尺度なら明らかな距離があるということである。

 現在では文章の特徴を数値化し、単語の使い方や文の構造から翻訳者ごとの傾向を調べる研究も可能になっている。だから翻訳者の違いは文学的印象だけの問題ではなく、一部は数量的に検討できる。しかし、文章の違いを数字で示せたとしても、「その差が作品を別物と呼ぶほど大きいか」という判断は数字だけでは決められない。

 ここに科学と文学の境界がある。どれだけ違うのかは計測できても、その違いを「別作品」と呼ぶべきかどうかは、最後には作品という概念をどう定義するかという問題になる。

作品はどこに存在するのか

 そこまで考えると、問いは翻訳の技術を越えて、「そもそも作品とは何なのか」というところまで広がっていく。

 同じ文章であっても、十代で読んだ小説を五十代で読み返せば、まるで違う作品のように感じることがある。文章は一文字も変わっていないのに、昔は気にも留めなかった人物の言葉が胸に残り、理解できなかった別れの場面が突然現実味を帯びる。

 だからといって、「作品は読者の心の中にしか存在しない」と科学的事実のように断定することはできない。これは文学理論や哲学の領域に属する問題であり、作品を物理的な本と考えるのか、書かれた文章と考えるのか、それとも読者によって具体化されるものと考えるのかによって立場は分かれる。

 しかし少なくとも、読書体験が読者によって変わるという事実を考えれば、作品を本の中に完全に固定されたものとしてだけ捉えるのでは足りないことも確かである。翻訳文学ではそこにさらに翻訳者が加わり、原作者が書いた文章を最初に深く読み、その解釈を日本語の文章として次の読者へ渡していく。

 新しい翻訳を読むことは、同じ建物へ別の入口から入り直すことに似ている。一度目には見えなかった階段が見え、以前は気づかなかった窓から違う景色が現れる。それでも建物そのものが完全に別物になったわけではない。その微妙な関係こそが、翻訳文学の面白さなのだろう。

では、翻訳者が変わると別の作品になるのか

 結局、この問いに最も近い答えは、「同じでありながら、同じではない」というものになる。

 物語の骨格、人物関係、舞台、歴史的背景、原作者が構築した世界という点では、翻訳者が変わっても同じ作品である。しかし読者が直接触れる文章の呼吸、人物の声、感情の温度、文章の速度という点では、それぞれの翻訳が異なる読書体験を生む可能性がある。

 科学的に言えば、二つの翻訳の言語的な差はある程度測ることができるし、翻訳者固有の文体的特徴も分析できる。しかし、その違いをもって「別の作品になった」と判断することは科学的測定だけでは決められない。そこには、作品とは筋書きなのか、文章なのか、読書体験なのかという定義の問題が残る。

 だから一冊の外国小説について「読んだことがある」と言うことさえ、本当は少し曖昧なのかもしれない。ある翻訳で読んだ作品を別の翻訳で読み直すと、二度目なのに初めて出会ったように感じることがある。その瞬間、最初の翻訳が間違っていたわけでも、新しい翻訳だけが正しかったわけでもない。むしろ原作という一つの世界が、一種類の日本語だけでは収まりきらないほど広かったと考えることもできる。

 翻訳文学の面白さは、そこにもう一つ隠されている。同じ小説を繰り返し読むだけでなく、違う翻訳者を通して読むことで、一つの作品の中に複数の声を聞くことができる。そしていくつかの翻訳を読み比べたあと、読者の中には、どの一冊とも完全には一致しない作品の像が残る。

 翻訳者が変わると、同じ小説は別の作品になるのか。その答えは、「なる」か「ならない」かという二つの箱のどちらかに収めるよりも、どこまで同じで、どこから違って見えるのかを考えるところにある。その境界をたどっていくと、私たちは翻訳について考えていたはずなのに、いつの間にか「文学作品とは何なのか」という、もっと大きな問いの前に立っているのである。

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 小説から表紙を外し、作者名と作品名を伏せ、登場人物の名前や地名のように作品を特定できそうな手掛かりまで隠して、本文だけを読者の前に置いたとする。それでも、文学に親しんだ人なら「これは太宰治ではないか」「この硬質な文章は芥川龍之介に近い」と感じることがあるだろう。作者の名前がなくても、その人らしい語り口や文章の運び方が、どこかに残っているように思えるからである。

 ところが、なぜそう感じたのかと尋ねられると、説明は急に難しくなる。太宰らしい、芥川らしい、川端らしいという印象はあっても、それを具体的な言葉で説明しようとすると、作品の題材、作家の人生、思想、あるいは誰もが知っている有名な一節に頼りたくなる。しかし、それでは作者について知っている情報から作品を判断しているのであって、文章そのものから作者を見分けたことにはならない。

 では、作家について何も知らされず、一定の長さをもった文章だけを渡された場合、それでも作者を推定できるのだろうか。さらに、もし推定できるとすれば、作者らしさは文章のどこに現れ、どの程度まで数量的に説明できるのだろうか。

 これは文学好きの遊びのようにも見えるが、実際には「計量文体学」と呼ばれる研究分野が長年取り組んできた問題である。計量文体学では、文章を意味や思想だけでなく、語彙、品詞、助詞、句読点、文の長さなど、数値として測定できる特徴から捉え、作者や時代、ジャンルによる違いを統計的に調べていく。つまり、「文体には作家の個性が現れる」という文学的な直感を、再現可能な分析によって検証しようとする研究なのである。

作家の特徴は「何を書くか」だけでなく「どう書くか」に現れる

 作者を判別しようと考えたとき、最初に思いつくのは語彙の違いだろう。ある作家は古風な言葉を好み、ある作家は日常的な口語を多用し、またある作家は漢語を好む。言葉の選び方は文章の印象を大きく左右するため、使われている単語を調べれば、作者を見分けられるように思える。

 しかし、語彙には厄介な問題がある。作家はいつも同じ題材を書いているわけではなく、戦争を扱った作品と恋愛を扱った作品では使われる名詞が異なるし、歴史小説を書けば、その作家が普段ほとんど使わない言葉も大量に登場する。そのため、単語の出現頻度を比較しただけでは、作者の文体を判別しているのか、作品の題材を判別しているのかが分からなくなる。

 そこで著者識別の研究では、作品の内容から比較的独立した、目立たない文章上の特徴が重視されてきた。一文をどのくらいの長さで終えるのか、「は」と「が」をどのように使い分けるのか、接続詞をどの程度挟むのか、どのような品詞の後に読点を置くのか、名詞や動詞、助詞がどのような順序で現れるのかといった特徴である。こうした特徴を一つだけ取り出しても作品の意味はほとんど分からないが、大量の文章から繰り返し測定すると、文章を組み立てる際の一定の傾向が見えてくることがある。

 特に研究上よく利用されるのが、助詞や助動詞などの「機能語」である。機能語とは、主として語と語の関係や文法的な働きを担う言葉であり、作品の題材を直接表す名詞などと比べて、内容の違いに左右されにくい場合がある。また、文章中に頻繁に現れるため、出現頻度や組み合わせを統計的に測定しやすいという利点もある。

 ただし、機能語が作者だけの特徴を表しているわけではない。文章が小説なのか評論なのか、学術論文なのかブログなのかによっても、機能語の出現傾向は変化することが研究によって示されている。つまり、文章から測定した特徴には、作者の個性だけでなく、時代、ジャンル、題材、語り手、執筆目的などの影響が重なっているのである。

 ここが、人間の指紋と文体の「指紋」が根本的に異なるところである。身体の指紋は、その人が小説を書こうが手紙を書こうが基本的には変わらないが、文体は同じ作家であっても作品によって変化する。それでも完全に自由に変化するわけではなく、文章を多数集めて比較すると、一定の傾向が繰り返し現れる場合がある。その変化する部分と、比較的安定して残る部分を区別することが、計量文体学の重要な課題なのである。

太宰治を太宰治にしているのは、独特の言葉だけではない

 太宰治を例にすると、この問題はいっそう分かりやすくなる。太宰の文章には、読者へ直接話しかけてくるような近さがあり、告白するように語ったかと思えば、急に自分自身を笑い、自嘲と誇張の間を揺れながら文章が進んでいく。文学作品として読む側からすれば、それを「太宰らしい語り」と呼ぶことができるだろう。

 しかし、計量的に文章を見ると、その印象の背後に、もっと細かな特徴が存在する可能性が見えてくる。尾城奈緒子と金明哲による2018年の研究では、太宰治、芥川龍之介、菊池寛、坂口安吾、織田作之助という5人の作家について、合計113作品を対象に文章上の特徴が比較された。研究では、隣接する品詞の組み合わせや、読点を打つ位置に関係する特徴などが分析されている。

 その結果、太宰には動詞、副詞、普通名詞などの後に読点を置く傾向が見られ、比較したほかの4人と比べて、読点を置く位置が多様であることが報告された。私たちが太宰の文章を読んで「独特の呼吸がある」と感じるとき、その印象の一部が、読点をどこに置くのかという具体的な文章上の特徴と関係している可能性がある。

 もっとも、この研究は太宰の前期文体における芥川作品からの影響を検討したものであり、読点だけを使えば太宰の作品を常に正確に識別できると証明した研究ではない。読点の使い方は、比較対象となる作家や作品、文章の種類によっても変化するため、観測された特徴をそのまま普遍的な識別基準と考えることはできない。

 また、太宰文学の魅力が読点の頻度や位置だけで説明できるわけでもない。『人間失格』の痛切さも、『斜陽』の寂しさも、『走れメロス』の疾走感も、句読点を数えれば理解できるという話ではない。文学作品が生み出す意味や感情は、文章の統計的特徴よりもはるかに多面的なものであり、読点の分析はその一部分に光を当てているにすぎない。

 それでも、これまで感覚的にしか説明できなかった文章の特徴について、測定可能な指標が見つかることには意味がある。数字は文学の代わりになるものではなく、文学的な印象を別の角度から検証するための道具なのである。

作者が問題になった小説を、文章そのものから調べた研究もある

 著者識別は、すでに作者が分かっている作品を分類するだけの研究ではない。文学史の中で実際に作者が問題となった作品について、文章そのものを分析し、著者を推定しようとした研究も存在する。その代表的な例の一つが、菊池寛の『受難華』をめぐる研究である。

 『受難華』については、横光利一が代筆したのではないかという説があり、その背景には川端康成の証言などもあった。しかし、証言や文学史上の事情だけでなく、残された文章を数量的に比較することによって、この問題に近づこうとした研究がある。

 柳燁佳と金明哲による2020年の研究では、菊池寛と横光利一の既知の作品をそれぞれ32作品、合計64作品用意し、『受難華』の全22回の連載について、どちらの作家に近い文章上の特徴を持つのかが分析された。使用されたのは、読点の打ち方、品詞の連続するパターン、文節の構造などであり、複数の統計的方法と機械学習によって比較が行われている。

 研究では、既知の64作品について、一つの作品を評価用に残し、残りの作品で判別方法を構築する作業を繰り返す交差検証も実施された。これは、すでに判定に使用した作品だけでなく、判定規則を作る際には使わなかった作品に対して、どの程度正しく作者を識別できるかを確認する方法である。複数の特徴量と分類方法を用いた結果、研究では高い判別性能が報告され、最終的に『受難華』の全22回を菊池寛に帰属させる結論が示された。

 ただし、その結果には興味深い例外的な傾向もあった。第7回と第20回については、ほかの回より横光利一に近いと判定される結果が多く見られ、研究者は、その背景として両回に共通する場面や文章構造の特徴を検討している。つまり、作者を示すと考えられる特徴量にも、作品の内容や場面設定が影響する可能性を、研究そのものが示しているのである。

 さらに、22回の連載は、一つの小説を分割した文章であって、互いに独立した22作品ではない。そのため、22回すべてが同じ作者に判定されたからといって、22件の完全に独立した証拠が得られたことにはならない。また、複数の分類方法が同じ結論を示しても、それらが同じ作品群や似た特徴量を利用していれば、判定結果の間には共通する誤差や偏りが存在する可能性がある。

 この研究から合理的に導ける結論は、比較対象となった菊池寛と横光利一の作品群の中で、『受難華』の文体が菊池寛の作品に強く類似していた、ということである。一方、創作過程において誰がどの部分を執筆したのか、編集や加筆に誰が関わったのかといった問題まで、統計分析だけで確定できるわけではない。

 それでも、この研究には大きな意義がある。日記や手紙、編集者の証言など、作品の外側にある資料とは異なる形で、作品の内部から著者に関する統計的な証拠を取り出せるからである。計量文体学は、従来の文学史研究に取って代わるものではなく、別の種類の証拠を提供することで、著者問題を多面的に検討する手段となるのである。

作家名を消せば、どの程度の確率で作者を当てられるのか

 ここまで読むと、作者名を消しても文章だけからかなりの確率で作者を当てられるように思える。しかし、科学的に考えるなら、まず「何人の作家から選ぶのか」という条件を明確にしなければならない。

 例えば、「この文章は太宰治、芥川龍之介、菊池寛、坂口安吾、織田作之助の5人のうち誰のものか」と尋ねられる場合を考えてみよう。本当の作者が必ずこの5人の中に含まれているなら、統計モデルは与えられた候補を比較し、最も特徴が近い作家を選ぶことができる。著者識別では、このような条件を「閉集合型」と呼ぶ。

 一方、作品だけを渡されて、「日本文学史上のあらゆる作家から作者を見つけなさい」と言われたら、問題は格段に難しくなる。比較対象の中に本当の作者が存在する保証がなく、場合によっては、既知の候補の誰にも該当しないという判断も必要になる。このような条件は「開集合型」と呼ばれ、単に複数の候補から最も近い作家を選ぶ問題とは区別される。

 閉集合型の問題では、候補となる作家が5人で、それぞれが同じ確率で出現すると仮定すれば、無作為に1人を選んだ場合の正解率は20%である。この条件で統計モデルが80%の正解率を示したなら、無作為な推測より高い判別能力を示したと評価できる。ただし、これは説明のための仮想例であり、実際の研究における正解率を示したものではない。

 また、正解率が高いからといって、個別の文章について作者を確実に推定できるわけではない。例えば、判別モデルの正解率が95%であったとしても、それは判定された一つの文章について、その作者が書いた確率が95%であることを意味しない。正解率は、一定の条件下でモデルがどの程度正しい判定を行ったかという評価指標であり、個別の文章についての確率とは区別しなければならない。

 さらに、候補作家の数が増えれば、似た文体を持つ作家が含まれる可能性も高まり、判別の難しさが変化する。作品の時代やジャンルが大きく異なる場合には、作者とは別の要因によって分類できてしまう可能性もあるため、単に正解率の数値だけを比較して、著者識別技術の優劣を判断することはできない。

 したがって、「文章だけから作者を識別できる」という主張は、候補作家が限定され、それぞれについて十分な比較作品があり、ジャンルや時代などの条件が適切に調整されている場合には、統計的な特徴から作者を一定程度識別できる、と理解するのが正確である。無制限にあらゆる作家を識別できるという意味ではないが、条件を明確にした実験で有効な判別結果が得られること自体に、十分な学術的意義がある。

数行の文章でも作者を当てられるのか

 著者識別の精度を考えるうえで、もう一つ重要なのが文章量である。一般に、文章が短くなるほど、作者固有の統計的特徴を安定して測定することは難しくなる。短い文章では、偶然の影響が相対的に大きくなるためである。

 例えば、ある作家が平均的には短い文を書くとしても、一文だけを取り出せば、普段よりはるかに長い文章を書いていることもある。また、読点を頻繁に使う作家でも、偶然取り出された数行には読点がほとんど含まれていないかもしれない。文章量が増えるほど、こうした偶然の変動を平均化しやすくなり、作家の特徴をより安定して推定できる可能性が高くなる。

 ただし、何文字あれば作者を識別できるのかという問いに、すべての作家や研究方法に共通する基準が存在するわけではない。必要な文章量は、作家同士の文体がどれほど似ているか、候補作家の数、利用する特徴量、比較作品の質などによって異なる。短い文章でも特徴的な表現が現れることはあるが、それが作者に固有の傾向なのか、たまたま現れた特徴なのかを区別するには、複数の文章による検証が必要になる。

 したがって、「この一文を読んだだけで太宰治だと分かった」という文学的な読書体験と、一定量の匿名文章を統計的に比較し、太宰作品である可能性が高いと判定することは、似ているようで異なる。前者は読書経験や作家についての知識、直感に支えられた判断であり、後者は比較作品、文章量、特徴量、判定方法などを明確にしたうえで、結果を検証する作業なのである。

一人の作家の文体も、時間とともに変化する

 もし文章に作者の指紋があるなら、同じ作家の作品はすべて似た特徴を持ち、統計的にも一つの集団にまとまるはずだと考えたくなる。しかし、実際の文学作品はそれほど単純ではない。

 二十代の作家と五十代の作家が同じ文体で書き続けるとは限らないし、長編小説、短編、随筆、新聞連載でも文章の組み立て方は変化する。語り手が少年であれば少年らしく書き、老人であれば老人らしく書こうとすることもある。作家自身が他の作家から影響を受けたり、意識的に従来とは異なる表現を試みたりすれば、同じ人物の文章であっても統計的な特徴が変わってくる。

 太宰治についても、作品の時期による文体変化が数量的に研究されている。尾城奈緒子と金明哲による2017年の研究では、太宰の前期作品31編を対象として、品詞、助詞、記号など複数の特徴から作品間の違いが分析された。その結果、1935年前後の作品を境として、文体上の変化が見られることが報告されている。

 ただし、すべての特徴が同じ作品を境に変化していたわけではなく、使用する特徴量によって区分のされ方には違いがあった。したがって、1935年のある時点で太宰の文体が突然切り替わったと断定することはできない。また、この研究は太宰の前期作品を対象とするものであり、生涯を通じたすべての文体変化を明らかにしたものでもない。

 それでも、この研究からは、同じ作家の文章にも時期によって測定可能な違いが存在することが分かる。「太宰治」という一つの固定された文体があるのではなく、太宰自身も時間とともに変化していたのである。

 そう考えると、「文体の指紋」という表現よりも、「歩き方の癖」という比喩の方が近いのかもしれない。人間は若いころと年老いてからでは歩く速さが違い、疲れている日や急いでいる日にも歩き方が変わる。それでも、長い時間観察すれば、足の運び方や身体の重心に、その人らしい傾向が残っていることがある。文章もまた、作品ごとに変化しながら、比較的安定した特徴を部分的に残している可能性があるのである。

統計モデルの正解率が高くても、安心できない理由

 著者識別を実際に行う場合、統計学的に特に注意しなければならないのが、判別モデルの評価方法である。どれほど複雑な統計手法や機械学習を利用しても、実験の設計に問題があれば、実際の識別能力より高い正解率が得られてしまう。

 例えば、太宰治の『人間失格』を100個の文章断片に分割し、そのうち80個を学習用、残り20個を評価用に使用したとする。一見すると、学習に使用していない20個の文章を評価するため、公平な実験のように見える。しかし、学習用と評価用の文章は同じ作品から取り出されているため、登場人物、題材、語彙、物語の構成など、多くの特徴を共有している。

 その結果、統計モデルは太宰治の一般的な文体を学習したのではなく、『人間失格』という特定の作品の特徴を覚えただけでも、高い正解率を示す可能性がある。これでは、未知の太宰作品を正しく判別できるのかどうかは分からない。

 この問題を避けるには、同一作品から取り出した文章を、原則として学習用と評価用の両方に混在させないことが重要になる。例えば、ある作家の複数の作品を使って学習し、その作家の別の作品を使って評価する方法であれば、少なくとも同一作品の情報を直接共有する問題を軽減できる。ただし、その場合でも、シリーズ作品や同じ題材を扱う作品などの間には共通する特徴が存在するため、実験の目的に応じた慎重な設計が必要である。

 さらに、時代やジャンルの違いが判別に影響する可能性もある。例えば、比較する一方の作家の作品がすべて明治期に書かれ、もう一方の作家の作品がすべて昭和期に書かれているなら、統計モデルは作者ではなく、時代による語彙や表記の違いを利用して分類しているかもしれない。同じように、一方が小説ばかり、もう一方が評論ばかりであれば、文章のジャンルを判別しただけで、作者を当てたように見える場合もある。

 信頼できる著者識別の実験では、学習用と評価用の作品を適切に分けるだけでなく、文章量、執筆時期、ジャンル、表記方法などの条件をできる限り調整することが必要になる。そして、全体の正解率だけでなく、どの作家がどの作家と間違えられやすいのか、文章量が変化すると性能がどう変わるのか、別の作品群でも同様の結果が得られるのかを調べることが重要なのである。

文章に残る特徴は、すべて作者本人のものとは限らない

 文体を数量的に分析するときには、使用する文章がどのような経緯で現在の形になったのかという問題も無視できない。現在読める文学作品の文章が、必ずしも作者の原稿と完全に一致しているとは限らないからである。

 小説が雑誌に掲載され、単行本になり、全集に収録されるまでの間には、校正や編集が行われることがある。旧字や旧仮名遣いが現代表記に変更される場合もあり、版によって句読点や漢字表記などが異なる可能性もある。こうした変更は読書の際には大きな問題にならなくても、文字や句読点の出現頻度を測定する研究では、結果に影響することがある。

 特に、読点の位置や表記の特徴を作者識別に利用するなら、その読点が作者本人によるものなのか、編集や校正の過程で変更されたものなのかは重要な問題となる。実際に『受難華』の研究でも、分析に際して旧字・旧仮名遣いを現代表記に置き換える処理が行われており、文章を数値化する前の資料処理が分析の一部になっている。

 したがって、実証研究では使用した底本を明確にし、表記をどのように統一したのか、句読点をどのように扱ったのかなどを記録することが望ましい。可能であれば、異なる版を使用した場合にも同じ結果が得られるのかを検証することで、作者固有の特徴と編集過程による影響を区別しやすくなる。

 また、作品の文章を研究用のデータとして利用する場合には、著作権や利用条件にも注意する必要がある。日本の著作権法には、一定の条件の下で情報解析を目的とした著作物の利用を認める規定があるが、分析のために文章を利用することと、その本文を自由に公開・再配布することは別の問題である。文学作品を研究データとして扱う際には、科学的な再現可能性だけでなく、資料の出所や利用方法を適切に管理することも求められる。

本当に実験するなら、正解率だけでなく「間違い」を調べたい

 では、実際に作家名を消して著者識別の実験を行うとしたら、どのようなことができるだろうか。まず、複数の近代作家から、それぞれ一定数の作品を選び、作者名や作品名、章題など、作者を直接推測できる情報を除く。そのうえで、文章量やジャンル、執筆時期などの条件を可能な範囲でそろえ、一文の長さ、文長のばらつき、読点や句点の頻度、助詞の使い方、品詞の並び方などを測定する。

 例えば、読点の頻度であれば、単純な個数を比較するのではなく、一定の文字数当たりに何個の読点が現れるのかを計算する必要がある。一文の長さについても、平均値だけでなく、ばらつきや分布を確認することで、文章の組み立て方の違いをより詳しく捉えられる。さらに、複数の特徴量を組み合わせれば、単一の特徴だけでは見えなかった作家間の違いが現れる可能性がある。

 ただし、分析の結果、太宰作品がある場所にまとまり、芥川作品が別の場所にまとまったとしても、その分布が作者の違いだけによって生じたと考えるのは早計である。どの特徴量を選んだのか、どの統計的方法で数値を整理したのかによって、作品間の距離やまとまり方は変わる。図の上で集団がきれいに分かれて見えることと、未知の作品を正しく判別できることも同じではない。

 だからこそ、単に作品を分類して終わるのではなく、学習に使用していない作品で判別性能を検証する必要がある。その際には、正解率だけでなく、どの作家同士で誤判別が生じたのか、その誤りが特定の時期やジャンルに集中していないかまで確認したい。

 そして、文学研究として最も興味深いのは、むしろ誤判別が発生した作品かもしれない。もし太宰作品なのに芥川作品に近いと判定された文章があったなら、その作品の執筆時期、両作家の影響関係、語り手の設定、作品の題材などを調べることで、文学史的な理由が見つかる可能性がある。

 もちろん、誤判別に必ず文学的な意味があるとは限らない。文章量が不足していたのかもしれず、選んだ特徴量が適切でなかったのかもしれないし、単なる統計的な偶然である可能性もある。したがって、モデルの誤りをすぐに文学史上の発見と結びつけることはできないが、誤判別の原因を検討する過程で、従来は注目されていなかった作品間の類似性や文体変化に気づくことはあり得る。

 統計モデルの結果は、文学作品についての最終的な判決ではない。むしろ、「なぜこの作品だけ別の作家に近いと判定されたのか」という新しい問いを作り、その理由を文学研究と統計分析の双方から検討するための出発点になり得るのである。

人間の読者と統計分析は、同じものを見ているのか

 同じ匿名文章を、人間にも読ませてみたらどうなるだろう。長年文学を読んできた人なら、文章の皮肉、感情の距離、語り手と読者の関係、全体を覆う緊張感などを手掛かりにして、作者を推定できるかもしれない。こうした特徴は、助詞や句読点の出現頻度だけでは捉えにくく、人間の読書経験が有効に働く可能性がある。

 しかし、人間の読者にも弱点がある。作家についてよく知っているほど、文章そのものではなく、作者の人生や作品の題材に引きずられやすいからである。自殺、病気、故郷、戦争、家庭といった話題が現れれば、それを特定の作家の人生と結びつけて判断することがあるかもしれない。その場合、読者は文体を識別しているのではなく、文学史の知識から作者を推測している可能性がある。

 一方、計量分析は、人間が普段ほとんど意識しない助詞、句読点、品詞の配列などを大量に測定できるという利点を持つ。ただし、統計モデルも作品の題材や時代の特徴に影響されるため、人間より常に客観的で正確な判断を行えるわけではない。機械学習を利用しても、学習データや特徴量の選び方に偏りがあれば、その偏りを反映した結果が得られることになる。

 人間と統計モデルの判別能力を比較するなら、同じ匿名文章を使用し、候補作家に関する情報などの条件をそろえた実験が必要になる。そのうえで、それぞれの正解率や誤判別の傾向を比較すれば、人間が得意とする判断と、統計モデルが得意とする判断にどのような違いがあるのかを検討できるだろう。文学に詳しいことと、未知の文章の作者を高精度に識別できることは、必ずしも同じではないのである。

 ここで重要なのは、人間と機械のどちらが文学を正しく読めるのかという単純な競争ではない。文学作品の意味や感情を理解することと、文章の統計的特徴から作者を推定することは、そもそも目的が異なる。両者を組み合わせることで、これまで「文体」という一語で表していたものを、感覚的な印象と測定可能な特徴の両面から捉えられる可能性がある。

作家の名前を消すと、かえって作家が見えてくる

 結局、「作家名を消しても文章だけで作者を当てられるのか」という問いに、無条件の「はい」と答えることはできない。候補作家が限定されているか、比較に使える十分な作品があるか、文章量は十分か、ジャンルや時代はそろっているか、同じ作者の文体変化をどう扱うのかによって、識別の難しさは大きく変わる。

 それでも、条件を適切に設定すれば、語彙、助詞、品詞、句読点、文の長さなどに表れる統計的な特徴から、作者を一定程度識別できることは、これまでの計量文体学研究によって示されてきた。さらに、太宰治の文体変化や『受難華』の著者問題のように、数量分析によって文学史上の問題を検討した具体的な研究も存在する。

 ただし、統計的な類似性は、それだけで作者の確定的な証明になるものではない。文章には作者の個性だけでなく、作品の題材、執筆時期、語り手、編集過程など、さまざまな要因が重なっている。だからこそ、著者識別の研究では、高い正解率を得ること以上に、その結果がどのような条件で成立し、どこまで一般化できるのかを明らかにすることが重要になる。

 しかし、この問いの面白さは、統計や人工知能によって作家の名前を当てられるという技術的な成果だけにあるのではない。作者名を消し、作品名を消し、文学史の知識までできるだけ遠ざけたあとに、それでも文章の中に残っているものは何なのかという、文学そのものに関わる問題が浮かび上がってくるからである。

 作家本人さえ意識していないかもしれない助詞の選び方や、読点を置く位置、一文をどこまで伸ばしてどこで終えるのかという判断は、一つひとつを見れば偶然のようにも思える。しかし、一人の作家が長い年月をかけて大量の文章を書き続ければ、そうした無数の選択が積み重なり、一定の傾向を生み出すことがある。その傾向の一部を、読者はこれまで「この人らしい文章」という感覚で受け取ってきたのかもしれない。

 計量文体学は、その感覚を数字に置き換えて文学を解体しようとするものではない。むしろ、「らしさ」という曖昧な言葉の内部に何があるのかを、測定と検証によって少しずつ明らかにしようとする試みである。数字によって説明できる部分もあれば、数字だけでは十分に説明できない部分もあるが、その両方を認めることで、文体という複雑な現象をより深く理解できるようになる。

 そう考えると、作家の名前を消すという実験は、作家を文章から消し去るためのものではない。名前や経歴を手掛かりにせず、文章そのものに何が残されているのかを確かめるための実験なのである。

 作家が作品に署名するのは、原稿用紙の最後だけではないのかもしれない。名前をすべて消したあとにも、句読点の位置、助詞の選び方、一文を終える場所といった無数の小さな選択の中に、本人さえ意識していなかった文章上の特徴が残っている可能性がある。

 そして私たちは、そうした特徴を数字で測る方法が生まれるよりもずっと前から、その一部を「文体」と呼んできたのである。

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