数字で読む町の奇譚 第二編
注記
この物語はフィクションです。
現実の路線バスや自治体運営交通では、乗車人数、降車人数、運賃、運行記録、車両重量などが、すべて完全に連動して記録されるわけではありません。また、乗車した記録がない人が、実際に車内から次々に降りてくるという現象は起こりません。
本作は、人口減少地域における公共交通の縮小、路線廃止、地域から失われていく施設や生活の記憶を背景にした幻想小説です。
潮見町営バスの第一便は、午前六時四十分に車庫を出る。
始発の停留所は、潮見町役場前だった。
そこから海岸通りを南へ走り、旧市街、潮見駅、町立診療所、青葉団地、山側の集落を回って、終点の松ヶ浜公民館まで行く。
一周、四十七分。
走行距離、二十三・四キロメートル。
停留所、二十六か所。
一日の運行回数、六便。
かつては朝夕の通勤便があり、車両も三台あった。高校生や工場勤務者、買い物へ行く主婦、病院へ通う高齢者が乗り、雨の日には立っている客もいたという。
今では、運行するのは十八人乗りの小型バス一台だけだった。
運転手の江藤正明は、六十三歳だった。
民間のバス会社を定年退職した後、町の委託を受ける交通会社へ再就職し、潮見町営バスを運転していた。
町内の道は、ほとんど目をつぶっていても走れる。
海岸沿いでは横風が強い。
青葉団地の坂には、雨の日だけ水が流れる。
山根集落の細い道では、午前七時頃に白い軽トラックが出てくる。
旧商店街の交差点では、使われなくなった信号が、今も一定の時間で赤と青を繰り返している。
道路だけではない。
江藤は、客の顔もほとんど覚えていた。
火曜日の第一便には、診療所へ通う黒田さんが乗る。
木曜日の第三便には、町内唯一の大型スーパーへ行く中村さんが乗る。
月末には、年金を下ろしに行く夫婦が潮見駅前で降りる。
冬になると利用者が少し減り、夏には観光客が間違えて乗ることがある。
バスの乗客は、年々減っていた。
江藤が運転を始めた六年前には、一日平均四十人ほど乗った。
昨年度は二十三人。
今年度に入ってからは十八人を下回る日も珍しくない。
第一便など、始発から終点まで誰も乗らない日さえあった。
それでも江藤は、すべての停留所で速度を落とした。
屋根の下に人影がなくても、時刻表の前に立つ者がいなくても、必ず一度は停車位置へ車体を寄せた。
民間会社にいた頃、先輩運転手から教えられたことがある。
バスを待つ者は、運転席から見える場所に立っているとは限らない。
雨宿りをしていることもある。
足の悪い者が、少し離れた場所から歩いてくることもある。
時刻を間違えた子どもが、家の陰から走ってくることもある。
客がいないと決めつけるな。
その教えだけは、町営バスに移っても守っていた。
異変が起きたのは、十月二日の第一便だった。
その朝、江藤はいつもより十五分早く車庫へ着いた。
前夜に強い風が吹き、車体へ潮が付着していた。フロントガラスを拭き、タイヤを確認し、車内の忘れ物を点検した。
座席に異常はなかった。
一番後ろの座席に、小さな枯れ葉が一枚落ちていた。江藤はそれを拾い、運転席横のごみ箱へ捨てた。
午前六時三十七分、エンジンを始動した。
燃料計、正常。
ブレーキ圧、正常。
扉、正常。
車内灯、正常。
運行記録用の端末には、乗車人数ゼロと表示されていた。
車庫を出て、町役場前へ向かった。
始発停留所には誰もいなかった。
江藤は定刻まで待ち、扉を開けた。
朝の冷たい空気が車内へ入った。
誰も乗らなかった。
扉を閉め、発車した。
次の停留所は、中央公民館前。
誰もいない。
その次は、旧郵便局前。
誰もいない。
海岸通りへ出る頃、空はようやく明るくなり始めていた。
雲の切れ間から差す光が、海面へ細い帯を作っている。
四番目の停留所、南浜二丁目に近づいたとき、降車ボタンが鳴った。
ポーン。
車内前方の表示板に、「次、止まります」と赤い文字が点灯した。
江藤はバックミラーを見た。
誰も乗っていない。
空の座席が並んでいる。
最前列。
中央。
最後部。
人影はない。
誤作動だと思った。
古い車両では、湿気や接触不良で降車ボタンが反応することがある。
江藤は南浜二丁目へ停車した。
扉を開けた。
誰も降りない。
当然だった。
車内には誰もいない。
十秒ほど待ち、扉を閉めた。
運行端末を見ると、降車人数が一人と表示されていた。
江藤は眉を寄せた。
通常、乗客が降りても人数は自動では記録されない。運転手が端末の操作ボタンを押して入力する。
江藤は操作していなかった。
表示は、乗車ゼロ、降車一。
端末の不具合だろう。
江藤は画面を一度消し、再起動した。
乗車ゼロ。
降車ゼロ。
数字は戻った。
バスを発車させた。
次の停留所は、潮見小学校前だった。
校舎は二年前に閉校している。
校庭には草が伸び、錆びた鉄棒の下に落ち葉が積もっていた。正門には立入禁止の札が掛かっている。
停留所の手前で、再び降車ボタンが鳴った。
ポーン。
表示板に赤い文字が点灯する。
江藤はバックミラーを見た。
やはり誰もいない。
それでもバスを止めた。
前扉を開ける。
冷たい風が入ってきた。
その瞬間、車体がわずかに浮き上がった。
人が一人、降りたような感覚だった。
バスの車高がほんの少し上がり、右側のサスペンションが小さく揺れた。
江藤は運転席から振り返った。
座席には誰もいない。
開いた扉の向こうには、閉鎖された小学校の門があるだけだった。
端末を見る。
乗車ゼロ。
降車一。
江藤は再起動しなかった。
そのまま扉を閉めた。
潮見駅では、実際の乗客が二人乗った。
買い物袋を持った高齢の女性と、作業着姿の男性だった。
江藤は乗車人数を二人と入力した。
次の診療所前で、女性が降りた。
江藤は降車一を入力した。
端末には、乗車二、降車二と表示された。
一人多い。
「どうかしましたか」
作業着の男性が尋ねた。
「いえ、端末の調子が少し悪いだけです」
江藤は答えた。
男性は青葉団地入口で降りた。
江藤が降車ボタンを押すと、表示は乗車二、降車三になった。
車内には誰もいなくなった。
それでも、まだ誰かが一人乗っていることになる。
その後、山根入口、杉谷橋、松ヶ浜公民館の三か所で、降車ボタンが鳴った。
そのたびに江藤は停車し、扉を開けた。
誰も見えなかった。
だが、扉が開くたび、車体が少しずつ軽くなった。
終点へ着いたとき、端末には乗車二、降車六と表示されていた。
四人多く降りている。
江藤はエンジンを切り、車内を確認した。
座席の下。
最後部。
荷物置き場。
何もない。
忘れ物もなかった。
ただ、一番後ろの座席に、朝捨てたはずの枯れ葉が落ちていた。
江藤は拾い上げた。
葉は乾いておらず、雨に濡れたように冷たかった。
その日の運行を終え、江藤は会社の営業所へ報告した。
「降車ボタンと運行端末の故障だと思います」
所長の山倉は、整備担当者を呼んだ。
車両の配線、ボタン、端末を確認した。
異常は見つからなかった。
「ボタンの接点が一時的に誤作動したんでしょう」
整備担当者は言った。
「古い車ですから」
「車体が軽くなる感じもした」
江藤が言うと、整備担当者は笑った。
「空気ばねの調整ですよ。乗客がいなくても、路面の傾きで車高は変わります」
江藤はそれ以上何も言わなかった。
翌日の第一便。
始発時点の乗客はゼロ。
旧郵便局前で、降車ボタンが鳴った。
潮見小学校前でも鳴った。
診療所前。
杉谷橋。
廃止された市場前。
一度も誰かが乗らないまま、五人が降りた。
三日目には七人。
四日目には九人。
降車する停留所は、日によって違った。
しかし、共通点があった。
降車ボタンが鳴る場所は、かつて何かが存在していた場所だった。
潮見小学校前。
旧郵便局前。
市場前。
紡績工場跡。
産婦人科医院前。
青葉団地北口。
漁業組合倉庫前。
海浜劇場前。
名前だけが残っている停留所もあれば、停留所自体が移設され、昔の場所から数十メートル離れているものもあった。
江藤は古い路線図を営業所で探した。
書庫の奥に、昭和五十八年の民間バス会社の時刻表が残っていた。
現在の町営バスとは違い、路線は海岸線、山側線、駅前循環線の三系統に分かれていた。
停留所は全部で五十二か所。
江藤は現在の路線図と重ねた。
降車ボタンが鳴った場所の多くは、廃止された停留所の近くだった。
潮見小学校前ではなく、昔の「小学校裏門前」。
旧郵便局前ではなく、「銀座通り」。
市場前ではなく、「魚市場西口」。
杉谷橋ではなく、「製材所前」。
現在の停留所名と、降りる場所が少しずつずれている。
まるで、見えない乗客たちは、昔の路線図を使っているようだった。
江藤は、運転日報へ正確に記録することにした。
十月二日、見えない降車四人。
十月三日、五人。
十月四日、七人。
十月五日、九人。
所長は、その書き方を見て顔をしかめた。
「見えない降車という項目はありません」
「実際に端末へ数字が出ています」
「端末が故障しているなら、故障と書いてください」
「整備では異常なしでした」
「では、入力ミスです」
「私は入力していません」
所長は鉛筆を置いた。
「江藤さん。こういう記録が町へ提出されたら困ります。町営バスは来年度の継続がまだ決まっていないんです」
潮見町営バスは、毎年多額の赤字を出していた。
運賃収入だけでは、燃料費にも届かない。
車両更新の時期も近い。
町議会では、予約制の乗合交通へ切り替える案や、路線を半分に縮小する案が議論されていた。
利用者が少ないことは、誰もが知っている。
乗車人数が減れば、廃止の理由になる。
一方で、降車人数だけが増えるという記録は、説明のしようがなかった。
「数字が合わないものを、そのまま出すわけにはいきません」
所長は言った。
「乗った人数と降りた人数は、原則として一致させてください」
「乗っていない人を、乗ったことにするんですか」
「故障による補正です」
「どの停留所から乗ったことにすればいいんです」
所長は答えなかった。
「始発から乗っていたことにしてください」
しばらくして、所長は言った。
「始発時点で車内にいた、と処理すれば数字は合います」
「車庫からですか」
「町役場前からです」
「誰もいませんでした」
「実際の人間の話ではなく、帳簿上の処理です」
江藤は日報を持って営業所を出た。
始発から乗っていたことにする。
見えない者たちは、どこから乗ったのか。
江藤はその疑問を考えたことがなかった。
降りる場所ばかり気にしていた。
乗った場所は、もっと前にあるのかもしれない。
現在の路線が始まる前。
バスが車庫へ入る前。
町営バスになる前。
あるいは、江藤が運転するずっと前から、彼らは乗り続けていたのかもしれない。
十月八日、第一便。
江藤は車庫でエンジンをかけた後、すぐには出発しなかった。
車内を一周した。
誰もいない。
運転席へ戻り、すべての扉を閉めた。
運行端末を初期化する。
乗車ゼロ。
降車ゼロ。
その隣に、車両総重量が表示されている。
通常、乗客を含まない状態の重量は、およそ五千六百キログラムだった。
表示は、六千四百八十キログラム。
約八百八十キログラム重い。
一人六十キログラムとすれば、十四人から十五人分。
江藤は息を止めた。
車内には誰もいない。
座席も空だ。
だが車両は、ほぼ満員に近い重さだった。
江藤は運転席に座った。
バックミラーに、空の座席が映っている。
その一番後ろに、誰かが座っているような気がした。
黒い影ではない。
輪郭もない。
ただ、座席の布地がわずかに沈んでいる。
隣の座席も。
その前も。
通路側も。
江藤は始発時刻まで待った。
午前六時四十分。
町役場前を発車した。
その日のバスは、いつもより重かった。
加速が鈍く、坂道ではエンジン音が高くなった。
最初の降車は、中央公民館前だった。
ポーン。
扉を開ける。
車両重量が六十七キログラム減った。
二人目は、旧郵便局前。
五十四キログラム減少。
三人目は、潮見小学校前。
二十一キログラム。
子ども一人分だった。
江藤はハンドルを握る手に力を入れた。
閉校した校舎の窓に、朝日が反射している。
誰もいないはずの二階の窓に、小さな影が並んで見えた。
黄色い帽子。
白いシャツ。
赤いランドセル。
バスが動き出すと、影は消えた。
魚市場西口跡で、七十三キログラム。
産婦人科医院前で、五十八キログラム。
紡績工場跡で、六十一キログラム、五十九キログラム、五十二キログラム。
三人続けて降りた。
扉の外には、草に覆われた工場跡地が広がっていた。
かつて五百人以上が働いていた工場は、二十年前に閉鎖された。
江藤は現役時代、この停留所で毎朝多くの従業員を降ろした。
制服姿の女性たち。
作業着の男性。
遅刻しそうになって走る若者。
夜勤を終え、眠そうな顔で乗り込む者。
工場がなくなった日、バス停も廃止された。
路線図から名前が消えた。
その日を境に、誰もそこで降りなくなったはずだった。
ポーン。
再びボタンが鳴った。
江藤はまだ扉を閉めていなかった。
車両重量が四十八キログラム減った。
さらに六十三キログラム。
五十六キログラム。
次々に人が降りていく。
空の通路を、見えない足音が進んでいるようだった。
車体が一人分ずつ浮き上がる。
扉の外の草が、人が通る幅だけ左右に倒れていく。
江藤は運転席に座ったまま、帽子を取った。
誰に対してか分からなかった。
それでも、長年乗せてきた客を最後に見送るように、頭を下げた。
重量表示が五千六百二十キログラムになったところで、降車は止まった。
あと一人分ほど重い。
江藤は扉を閉めた。
終点の松ヶ浜公民館まで、降車ボタンは鳴らなかった。
終点には誰もいなかった。
江藤は停車し、扉を開けた。
「終点です」
誰もいない車内へ向かって言った。
反応はない。
「終点ですよ」
もう一度言った。
車両重量は五千六百二十キログラムのままだった。
二十キログラムほど重い。
子どもかもしれない。
荷物かもしれない。
機器の誤差かもしれない。
江藤は運転席を立ち、車内を後ろへ歩いた。
座席を一つずつ見る。
誰もいない。
一番後ろの窓側の席まで来たとき、座面に浅いへこみがあった。
江藤は向かい側の座席へ座った。
「どこで降りるんだ」
声に出して尋ねた。
返事はない。
「終点まで来たぞ」
窓の外には、松ヶ浜公民館がある。
公民館は今年度末で閉鎖される予定だった。
利用者が減り、耐震補強に費用がかかるためである。
その隣には、かつて保育所があった。
今は更地になり、防草シートの上に雨水がたまっている。
江藤は古い路線図を取り出した。
昭和五十八年の終点は、松ヶ浜公民館ではなかった。
路線はさらに山側へ三・八キロメートル続いている。
最終停留所の名前は、「霧生分校前」。
霧生分校は四十年以上前に閉校していた。
道路は今も残っているが、町営バスの運行区間には含まれていない。
江藤は運転席へ戻った。
会社へ連絡すべきだった。
決められた路線を外れることは認められていない。
乗客がいない以上、行く理由もない。
しかし、車両重量は二十キログラム重いままだった。
江藤は方向指示器を出した。
バスは終点を越え、山側の旧道へ入った。
道幅は狭く、両側から木の枝が張り出していた。
舗装には亀裂が入り、落ち葉が積もっている。
路線バスが走った形跡はない。
江藤はゆっくり進んだ。
古い電柱。
空き家。
崩れかけた石垣。
小さな墓地。
集落には人の姿がなかった。
かつて霧生地区には、百人以上が暮らしていた。
今では住民登録上、三世帯五人だけになっている。
その五人も高齢で、冬の間は町外の家族宅や施設へ移ることが多かった。
十分ほど走ると、錆びた標識が見えた。
「霧生分校前」
文字はほとんど消えている。
停留所の柱は傾き、草に埋もれていた。
江藤はバスを止めた。
降車ボタンは鳴らない。
「着いたぞ」
扉を開けた。
何も起きなかった。
車両重量は二十キログラム重いまま。
江藤はエンジンを切った。
辺りが静かになった。
風が木の葉を揺らす音。
遠くの沢の音。
バスの金属部品が冷えて鳴る音。
その中に、小さな呼吸音が混じった。
後ろからだった。
江藤は振り返った。
最後部の座席に、少年が座っていた。
十歳くらいだった。
白い半袖のシャツ。
紺色の半ズボン。
膝の上に、古い革製の鞄を置いている。
少年は窓の外を見ていた。
江藤は声を出せなかった。
少年の姿は透けていない。
影もある。
座席も確かに沈んでいる。
どこにでもいる子どものようだった。
「ここでいいのか」
江藤が尋ねた。
少年はうなずいた。
「いつ乗った」
少年は答えなかった。
「名前は」
しばらくして、少年は言った。
「分からない」
「家はどこだ」
少年は窓の外を指さした。
分校跡の奥に、一本の細い道が続いている。
「帰るのか」
「帰るところがなくなったから、降りられなかった」
少年の声は、ひどく静かだった。
「家はなくなったのか」
「家も、学校も、停留所も、全部なくなった」
「それで、ずっと乗っていたのか」
少年はまたうなずいた。
「ほかの人たちは」
「降りる場所が残っていた」
少年は革の鞄を抱え直した。
「学校だった場所、働いていた場所、病院だった場所。建物がなくても、名前が残っていれば降りられる」
「ここにも名前は残っている」
江藤は錆びた停留所標識を見た。
「今日まで、バスが来なかった」
少年は言った。
「バスが来なければ、停留所ではない」
江藤は運転席から立ち、扉の横へ移動した。
「降りられるか」
少年は座席から下りた。
通路を歩く。
靴音はしなかった。
前扉の前で立ち止まり、江藤を見上げた。
「もう一度、来ますか」
「ここへか」
「はい」
江藤は答えに迷った。
町営バスの路線ではない。
会社にも町にも無断で走っている。
道路状況も悪い。
明日も来られると約束できない。
しかし江藤は言った。
「来る」
少年は小さく笑った。
「誰も乗らなくても」
「誰も乗らなくても来る」
少年はバスを降りた。
車両重量が二十キログラム減った。
表示は五千六百キログラム。
完全な空車重量になった。
少年は分校跡へ続く道を歩いていった。
途中で一度振り返った。
江藤が手を上げると、少年も手を上げた。
木々の間へ入り、姿が見えなくなった。
江藤は営業所へ戻った。
予定より四十五分遅れていた。
所長は激しく怒った。
「どこへ行っていたんですか」
「霧生分校前です」
「運行区間外ですよ」
「客を降ろしました」
「誰を」
江藤は答えなかった。
運行端末の記録を提出した。
乗車人数ゼロ。
降車人数十五。
始発時車両重量六千四百八十キログラム。
終点到着時五千六百二十キログラム。
霧生分校前到着後、五千六百キログラム。
所長は何度も画面を確認した。
「こんな記録は出せません」
「機械が記録した数字です」
「乗車ゼロで、十五人降りるわけがないでしょう」
「私もそう思います」
「では、故障です」
「故障なら、修理してください」
整備担当者が呼ばれた。
重量計測装置を確認した。
異常はなかった。
端末も正常だった。
その日の午後、町の交通担当者が営業所へ来た。
江藤は事情を聞かれた。
見えない乗客のことは話さなかった。
古い停留所で降車反応が出たこと。
車両重量が一人分ずつ減ったこと。
霧生分校前で最後の二十キログラムが消えたこと。
事実だけを話した。
担当者は困惑した顔でメモを取った。
「霧生分校前という停留所は、現在の台帳にはありません」
「古い路線図にはあります」
「廃止日は昭和六十年三月三十一日です」
「その翌日から、バスは一度も行っていないんですか」
「正式な路線としては」
「四十年以上」
担当者は書類を閉じた。
「江藤さん。これは運行上の重大な問題です。今後、許可なく路線外へ出ないでください」
「分かりました」
「今日の記録は機器異常として処理します」
「十五人はどうしますか」
「削除します」
「降りた人たちをですか」
担当者は江藤を見た。
「数字をです」
翌日、江藤は通常どおり第一便を運転した。
車庫での重量は五千六百キログラム。
見えない乗客はいなかった。
町役場前。
中央公民館前。
旧郵便局前。
降車ボタンは鳴らない。
潮見小学校前でも鳴らなかった。
町営バスは、本来の静かな路線へ戻っていた。
実際の乗客が三人乗り、三人降りた。
乗車数と降車数は一致した。
その翌日も。
その次の日も。
すべての数字が合っていた。
江藤は毎朝、車両重量を確認した。
五千六百キログラム。
空車。
誰も乗っていない。
一週間後、潮見町議会の全員協議会で、町営バスの縮小案が示された。
第一便と第六便を廃止する。
山側区間を予約制に変更する。
利用者の少ない八つの停留所を廃止する。
その中には、潮見小学校前、旧郵便局前、紡績工場跡、松ヶ浜公民館前が含まれていた。
江藤は営業所の掲示板で資料を読んだ。
降りる場所が、またなくなる。
建物が消え、名前が消え、バスが止まらなくなる。
そうなれば、まだ乗り続けている者たちは、どこで降りればよいのか。
十月二十一日。
第一便。
車庫でエンジンをかけた。
車両重量は、六千七百二十キログラムだった。
前回より重い。
十八人乗りの小型バスに、ほぼ定員いっぱいの重量が加わっている。
座席は空だった。
だが、バックミラーに映る窓ガラスが、乗客の息で曇っていた。
一枚ずつ、曇りが広がっていく。
江藤は運行端末を見た。
乗車人数の欄には、ゼロではなく、文字が表示されていた。
「始発以前」
江藤はゆっくりバスを発車させた。
町役場前には誰もいなかった。
定刻になり、扉を開けた。
一人も乗らない。
江藤はマイクのスイッチを入れた。
「お待たせしました。潮見町営バス、松ヶ浜公民館行きです」
空の車内へ声が流れた。
「停車する場所は、古い停留所を含みます」
運行端末が警告音を鳴らした。
登録された路線から外れる予定が入力されたためだった。
江藤は警告を解除した。
「降りる方は、ボタンを押してください」
扉を閉めた。
バスは走り出した。
旧郵便局前で一人。
潮見小学校前で三人。
魚市場西口跡で二人。
産婦人科医院前で一人。
紡績工場跡で五人。
廃止された海浜劇場前で四人。
青葉団地北口で二人。
停留所の名前が残っている場所。
標識だけが残っている場所。
道路拡張で跡形もなくなった場所。
そのすべてで、降車ボタンが鳴った。
扉を開けるたび、風景の中に一瞬だけ昔の建物が現れた。
市場の屋根。
学校の窓。
映画館の看板。
工場の煙突。
診療所の白い壁。
買い物袋を下げた人。
制服姿の子ども。
作業着の若者。
乳児を抱く母親。
江藤には、それらがはっきり見えた。
扉を閉めると、現在の空き地や閉鎖された建物へ戻った。
終点の松ヶ浜公民館へ着いた時、車両重量は五千八百キログラムだった。
まだ二百キログラム重い。
江藤はそのまま旧道へ入った。
霧生分校前へ向かった。
停留所には、あの少年が立っていた。
今度は一人ではなかった。
少年の後ろに、十人ほどの子どもが並んでいる。
皆、古い鞄や布製の手提げを持っていた。
江藤は停車し、扉を開けた。
「乗るのか」
少年は首を横に振った。
「今日は降りる人を待っています」
車内で降車ボタンが鳴った。
ポーン。
最初に、七十キログラム減った。
次に、五十五キログラム。
四十八キログラム。
二十七キログラム。
最後に、車両重量が五千六百キログラムになった。
扉の外には、子どもたちに加えて、大人の姿があった。
教師らしい女性。
作業着姿の男性。
白い割烹着を着た女性。
杖をついた老人。
誰も江藤を見なかった。
彼らは分校跡へ続く道を歩いていった。
少年だけが残った。
「もう、みんな降りました」
「本当に全員か」
「今日の人は」
「まだ乗っている人がいるのか」
少年は町の方角を見た。
「町がなくしたものの数だけ、います」
「それでは、いつまでも終わらないな」
「町は、毎日何かをなくします」
江藤は運転席に座ったまま、しばらく黙っていた。
「この路線は、なくなるかもしれない」
少年は驚かなかった。
「バスがなくなったら、どうなる」
「降りられなくなります」
「では、乗ったままか」
「町がどこにあったか、分からなくなるまで」
少年は一歩下がった。
「また来ますか」
江藤は答えた。
「来る」
「誰も乗らなくても」
「誰も乗らなくても走る」
少年は笑った。
バスの扉が閉まった。
江藤は町へ戻った。
営業所では、所長と町の担当者が待っていた。
路線外運行を繰り返したため、江藤はその日から乗務を外された。
始末書を書き、事情聴取を受けた。
運行端末の記録は、また機器異常として削除された。
車両重量の変化も、計測誤差とされた。
江藤は反論しなかった。
一か月後、町営バスの運行縮小が正式に決まった。
翌年四月から、第一便は廃止。
八つの停留所がなくなる。
霧生分校前へ路線が延びることはなかった。
江藤は年度末で会社を退職した。
最後の乗務日。
三月三十一日。
第一便の始発前、江藤は車庫で車両重量を確認した。
五千六百キログラム。
完全な空車だった。
町役場前へ行く。
誰も待っていない。
定刻になった。
江藤は扉を開けた。
しばらく待った。
誰も乗らない。
それでも、車内のすべての座席が少しずつ沈んだ。
車両重量の数字は変わらなかった。
江藤はマイクを入れた。
「おはようございます」
自分の声が、空の車内へ響いた。
「本日、第一便は最後の運行となります」
窓ガラスが白く曇った。
小さな手の跡が一つ現れた。
次に、大人の手の跡。
指の細いもの。
太いもの。
幾つもの手形が、窓一面に浮かび上がった。
「長い間、ご利用ありがとうございました」
江藤は言った。
発車時刻になった。
バスはゆっくり動き始めた。
その日の第一便では、降車ボタンは一度も鳴らなかった。
潮見小学校前。
旧郵便局前。
紡績工場跡。
松ヶ浜公民館前。
どこでも誰も降りなかった。
終点へ着いても、座席のへこみは戻らなかった。
江藤はエンジンを切らず、そのまま旧道へ入った。
誰にも連絡しなかった。
霧生分校前を越え、さらに山道を進んだ。
古い路線図にもない道だった。
舗装は途中で終わった。
それでもバスは進んだ。
木々の間を抜けると、広い場所へ出た。
そこには、潮見町から消えた建物が並んでいた。
潮見小学校。
魚市場。
紡績工場。
海浜劇場。
旧診療所。
郵便局。
木造の駅舎。
商店街。
霧生分校。
どの建物も新しくはなかった。
人が使っていた最後の日の姿で、静かに残っていた。
建物の間には、大勢の人が立っていた。
江藤の知っている顔もあった。
亡くなった利用者。
町を出た若者。
工場で働いていた人。
学校へ通っていた子ども。
バスを待ち続けた老人。
誰も手を振らなかった。
ただ、バスが来るのを当然のように待っていた。
降車ボタンが鳴った。
一つ。
また一つ。
車内のすべてのボタンが、順番に光った。
ポーン。
ポーン。
ポーン。
江藤は停車した。
扉を開けた。
座席のへこみが、一つずつ戻っていく。
誰かが降りるたび、窓の曇りが消えた。
最後に、後部座席の小さな手形が残った。
少年が通路を歩いてきた。
「ここが終点か」
江藤は尋ねた。
少年は答えた。
「ここは、なくならなかった町です」
「地図にはない」
「地図から消えたから、ここにあります」
少年は扉の前で止まった。
「運転手さんは、戻りますか」
江藤は運転席から外を見た。
消えた町の人々が、静かにこちらを見ている。
遠くで、朝の放送を知らせる音楽が流れた。
潮見町で、かつて正午に流れていた曲だった。
「戻らないと、バスがなくなる」
江藤は言った。
「バスは、町に必要ですか」
「乗る人がいれば」
「乗る人がいなくても走ると言いました」
江藤は笑った。
「そうだったな」
少年はバスを降りた。
最後の手形が消えた。
車内は完全に空になった。
江藤は扉を閉めた。
ミラーを確認する。
方向指示器を出す。
バスをゆっくり転回させた。
消えた町の人々は、道の両側に並んでいた。
江藤が手を上げると、大勢が同時に頭を下げた。
バスは来た道を戻った。
車庫へ到着したのは、予定より一時間二十三分遅れだった。
所長は江藤を叱らなかった。
最後の日だったからではない。
江藤が戻った時、車両の走行距離計は、出発前と同じ数字を示していた。
燃料も減っていなかった。
運行端末には、通常の路線を定刻どおり走った記録だけが残っていた。
乗車、ゼロ。
降車、ゼロ。
遅延、なし。
異常、なし。
江藤は制服を返し、営業所を出た。
四月一日から、第一便はなくなった。
午前六時四十分の町役場前には、バスが来なくなった。
それでも、近隣の住民は時折、不思議な音を聞いた。
まだ暗い早朝。
誰もいないバス停で、降車ボタンの音がする。
ポーン。
その直後、見えない扉が開くような空気の動きがあり、舗道の草が一人分だけ踏まれる。
潮見小学校前。
旧郵便局前。
紡績工場跡。
松ヶ浜公民館前。
廃止された停留所では、毎朝少しずつ、誰かが降り続けた。
町の交通統計では、その後も利用者数が減り続けた。
乗車人数は、正確に記録された。
降車人数も、乗車人数と必ず一致した。
帳簿上の誤差は、一度も発生しなかった。
ただし、廃止された第一便の時刻になると、車庫の奥に止められたバスの車両重量が、一人分ずつ軽くなった。
誰も乗っていないのに。
一人。
また一人。
町から消えたものが、ようやく自分の降りる場所を見つけたように。

