リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

連載~町の死亡率を下げる仕事~第3編

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数字で読む町の奇譚 第三編

注記

この物語はフィクションです。

作中に登場する潮見町、自治体、施設、制度、人物、統計資料は、すべて架空のものです。現実の自治体が、死亡率を下げる目的で、病気の住民や高齢者を他自治体へ転出させる施策を行っているという意味ではありません。

また、死亡率は人口構成、年齢構成、集計期間、分母となる人口、標準化の方法などによって数値が変わります。単純な死亡者数や粗死亡率だけで、地域の医療水準、住民の健康状態、行政の成果を評価することはできません。

本作は、正確な数字が必ずしも正しい現実を表すとは限らない、という仮定から生まれた社会幻想小説です。


四月最初の月曜日、潮見町役場の企画財政課に、県から一通の電子メールが届いた。

件名は、

「地域健康指標改善支援事業に係る事前照会」

だった。

担当係長の長谷川拓郎は、受信箱の一覧でその文字を見たとき、また新しい補助事業が始まるのだと思った。

国や県から送られてくる事業名は、年々長くなっていた。

健康。

地域。

連携。

包括。

支援。

推進。

強化。

持続可能。

そうした言葉を幾つか組み合わせれば、新しい政策の名称になる。

長谷川はメールを開いた。

本文には、県内市町村の健康関連指標を比較し、改善計画の提出を求める旨が記されていた。添付ファイルは七つあった。

事業概要。

提出様式。

評価指標一覧。

参考資料。

過去五年間の市町村別データ。

説明会資料。

よくある質問。

長谷川は評価指標一覧を開いた。

健康診査受診率。

特定保健指導実施率。

一人当たり医療費。

要介護認定率。

救急搬送件数。

平均寿命。

健康寿命。

死亡率。

最後の項目に、赤い印が付いていた。

潮見町の死亡率は、県内で最も高い区分に入っていた。

人口千人当たり、年間二十・八人。

県平均は十一・六人。

長谷川は驚かなかった。

潮見町では住民の四割以上が六十五歳以上である。若い世代が少なく、高齢者が多ければ、人口当たりの死亡者数が増えるのは当然だった。

町の医療が特別に悪いわけではない。

感染症が流行したわけでもない。

事故が多いわけでもない。

人は年齢を重ねれば、いずれ亡くなる。

高齢者の割合が高い町では、死亡率が高くなる。

長谷川はそう理解していた。

添付された説明資料にも、小さな文字で注意書きがあった。

「粗死亡率は年齢構成の影響を受けるため、市町村間比較には留意を要する」

しかし、その注意書きは資料の三十七ページ目にあった。

一方、県内順位を示す表は二ページ目にあった。

潮見町。

四十七位。

背景は赤色だった。

午前十時から、町長室で幹部会議が開かれた。

町長、副町長、総務課長、企画財政課長、健康福祉課長、町立診療所の事務長が出席した。

長谷川は説明担当として、壁面の画面に資料を映した。

「潮見町の粗死亡率は、県内で最も高い区分です。ただし、これは高齢化率の影響が大きく、年齢調整を行った場合には――」

「長谷川君」

町長の秋元が話を遮った。

「細かい説明は後でいい。県内で何番なんだ」

「四十七自治体中、四十七番です」

「最下位か」

「資料上はそうなっています」

町長は椅子の背にもたれた。

秋元は二年前に初当選した。

元県議会議員で、演説では「数字で変える潮見町」を掲げていた。

人口減少率。

観光客数。

ふるさと納税額。

空き家解消件数。

企業誘致数。

道路整備率。

行政の成果は、数値で示さなければならないというのが持論だった。

「このまま公表されるのか」

「県のウェブサイトへ掲載される予定です」

「死亡率が県内最悪の町と書かれる」

「正確には、人口千人当たりの粗死亡率が最も高いという意味です。医療の質が最も悪いという意味ではありません」

「町外の人間が、そんな読み方をしてくれると思うか」

長谷川は答えなかった。

町長は資料を指で叩いた。

「移住促進をやっているんだ。子育て世帯を呼び込もうとしている。そこへ死亡率県内最悪と出たら、どう見られる」

健康福祉課長が口を開いた。

「高齢化率を併記すれば、ある程度は説明できます」

「説明しなければ分からない数字は、もう負けている」

町長は言った。

副町長が長谷川に尋ねた。

「改善目標は、どの程度を求められている」

「県は一律の数値を示していません。各自治体が現状を分析し、三年間の目標を設定します」

「では、潮見町として目標を立てる必要がある」

「はい」

「どれくらい下げられる」

長谷川は資料をめくった。

「短期間で粗死亡率そのものを大きく下げるのは困難です。高齢者人口が多いため、健康増進施策の効果が出ても、死亡者数へ反映されるまで時間がかかります」

「何もしなくていいということか」

「そうではありません。健診、介護予防、重症化予防、在宅医療、救急体制など、取り組むべきことはあります。ただ、死亡率の低下だけを成果指標にするのは――」

「県は死亡率を指標にしている」

町長の声が強くなった。

「県が数字を出した以上、こちらも数字で答えるしかない」

会議は一時間続いた。

結論として、企画財政課、健康福祉課、町立診療所による横断チームが設置されることになった。

名称は、

「健康長寿指標改善プロジェクトチーム」

となった。

長谷川が事務局を務めることになった。

会議の最後に、町長は言った。

「三年で県平均とは言わない。まず最下位を脱出する。数字を一つでも上げる方法を考えてくれ」

順位を上げるためには、死亡率を下げる必要があった。

死亡率を下げるためには、死亡者数を減らすか、人口を増やす必要がある。

単純な式だった。

長谷川は自席へ戻り、白い紙に書いた。

死亡率=死亡者数÷人口

その下に、二つの方法を書いた。

一、死亡者数を減らす。

二、人口を増やす。

人口を増やすことは、三年間では難しい。

移住促進施策を行っても、年間数十人の転入があれば成功とされる。死亡率を大きく変えるほどの人口増加は期待できない。

残るのは、死亡者数を減らすことだった。

しかし、行政が三年で死亡者数を減らせる範囲には限界がある。

長谷川は、過去十年間の死亡者データを確認した。

年間百四十人から百七十人。

死因は、悪性新生物、心疾患、老衰、脳血管疾患、肺炎など。

年ごとの変動はあるが、長期的には増えていた。

七十五歳以上の人口が増えているためだった。

健康診査の受診率を上げる。

運動教室を開く。

減塩を呼びかける。

禁煙支援を行う。

それらは必要だった。

だが、翌年度の死亡率を目に見えて改善する施策ではない。

午後五時を過ぎた頃、健康福祉課の主査である大崎美奈が、長谷川の机へ来た。

「難しい顔をしていますね」

「簡単な式ほど難しい」

長谷川は紙を見せた。

大崎は式を読み、向かいの椅子へ座った。

「死亡者を減らすか、人口を増やすか」

「それしかない」

「年齢調整死亡率を使うように県へ求めた方がいいのでは」

「県は粗死亡率も公表する。町長は順位を気にしている」

「順位のために人を長生きさせるんですか」

「長生きしてもらうこと自体は悪くない」

「数字のためでなければ」

長谷川は苦笑した。

「とにかく、できることを並べるしかない」

二人は、施策案を書き出した。

健診受診率向上。

高血圧対策。

糖尿病重症化予防。

高齢者のフレイル予防。

救急搬送時間の短縮。

町立診療所と県立病院の連携。

独居高齢者の見守り。

肺炎球菌ワクチン接種。

熱中症対策。

転倒予防。

自殺対策。

どれも重要だった。

しかし、どの施策についても、三年間で何人の死亡を防げるかを正確に示すことはできなかった。

大崎が席を立とうとしたとき、長谷川は何気なく尋ねた。

「町外の病院で亡くなった人も、潮見町の死亡者に入るんだよな」

「住民票が潮見町にあれば入ります」

「施設に入所して、住民票を施設所在地へ移した場合は」

「その自治体の住民として扱われます」

大崎は答えた後、長谷川を見た。

「何を考えていますか」

「何も」

長谷川は紙を裏返した。

大崎はしばらく立ったまま、長谷川の顔を見ていた。

「その方法は、考えない方がいいです」

「まだ何も言っていない」

「言わなくても分かります」

「制度上の確認をしただけだ」

「制度上できることと、してよいことは違います」

大崎はそう言って、席を離れた。

長谷川も同じことを考えていた。

制度上できることと、してよいことは違う。

ただし、行政の仕事では、その境界がいつも明確とは限らなかった。

一週間後、県庁で説明会が開かれた。

県内各自治体から担当者が集まり、健康指標の分析方法や改善計画の作成について説明を受けた。

講師は、県の健康政策課長だった。

「重要なのは、結果指標と活動指標を分けることです」

課長は画面を指しながら話した。

「死亡率や健康寿命は結果指標です。一方、健診受診率、運動教室参加者数、訪問指導件数などは活動指標です。各自治体には、双方を設定していただきます」

質疑応答で、別の町の担当者が手を挙げた。

「高齢化率が高い自治体ほど粗死亡率が高くなるのは当然です。単純な順位公表は誤解を招きませんか」

会場の数人がうなずいた。

県の課長は、用意された回答を読むように答えた。

「粗死亡率のみで自治体の優劣を判断するものではありません。年齢調整値や人口構成と併せて、総合的にご覧いただく趣旨です」

「しかし、報道では順位だけが使われます」

「公表方法については、今後検討します」

それ以上の回答はなかった。

休憩時間、長谷川は廊下の自動販売機前で、隣の自治体の担当者と話した。

その自治体も高齢化率が高く、死亡率は県内下位だった。

担当者は紙コップのコーヒーを飲みながら言った。

「うちは昨年、少し下がりましたよ」

「何か特別な施策を」

「特別養護老人ホームが閉鎖されました」

「閉鎖」

「入所者の多くが県北の施設へ移りました。住民票も移したので、高齢者人口と死亡者数が同時に減った」

担当者は笑った。

「健康になったわけではありませんが、死亡率は改善しました」

長谷川は何も言わなかった。

「逆に、隣の市は新しい介護施設を誘致した。入所者が百人以上転入して、数年後から死亡者数が増えた。医療も介護も充実させたのに、指標だけ見れば悪化です」

「制度として、おかしいですね」

「制度は正しいですよ」

担当者は紙コップを捨てた。

「住んでいる人を数えている。亡くなった人を数えている。それぞれは正しい。ただ、正しい数字を並べても、正しい評価になるとは限らない」

帰りの電車で、長谷川はその言葉を手帳へ書いた。

正しい数字を並べても、正しい評価になるとは限らない。

その下に、もう一つ書いた。

居住地を変えれば、死亡する自治体が変わる。

すぐに線を引いて消した。

しかし、紙に残った筆圧までは消えなかった。

五月、プロジェクトチームの会議が始まった。

初回会議では、町の現状分析が行われた。

潮見町の死亡率が高い最大の理由は、高齢化だった。

特に、八十五歳以上の人口比率が県平均の約二倍に達している。

独居高齢者も多い。

町立診療所には入院病床がなく、重症者は隣市の総合病院へ搬送される。

町内には小規模な介護施設が二つあったが、特別養護老人ホームはなかった。

介護度が高くなると、町外の施設へ入る人が多かった。

その際、住民票を潮見町へ残す人と、施設所在地へ移す人がいた。

大崎が資料を説明した。

「現在、町外施設へ入所している潮見町民は、把握できる範囲で百八十六人です。このうち、住民票を潮見町に残している人は九十一人です」

町長が出席していた。

「その九十一人は、潮見町に住んでいないのか」

「生活の本拠は町外施設です。ただし、住民票をどこに置くかは個別事情があります」

「なぜ移さない」

「家族が実家を維持している、郵便物や財産管理の都合がある、本人や家族が住所を変えたくないなど、理由はさまざまです」

「行政サービスは施設所在地で受けるのか」

「介護保険には住所地特例があります。すべてが単純ではありません」

町長は資料をめくった。

「この九十一人が施設所在地へ住所を移したら、町の人口は減る」

「はい」

「死亡者数も減る」

会議室が静かになった。

大崎は慎重に答えた。

「将来的には、潮見町の死亡者として集計されない人が増える可能性があります」

「死亡率はどうなる」

長谷川が計算した。

九十一人が転出すると、分母となる人口も減る。

ただし、その多くが高齢で死亡リスクの高い層であるため、数年単位では死亡者数の減少効果の方が大きく出る可能性があった。

「試算しなければ分かりません」

長谷川は答えた。

町長は言った。

「試算してくれ」

会議後、大崎は長谷川を廊下へ呼び止めた。

「本当に計算するんですか」

「指示された」

「計算した数字は、一人歩きします」

「計算しなくても、誰かが同じことを考える」

「だから出すんですか」

長谷川は答えられなかった。

その夜、長谷川は自宅の食卓でノートパソコンを開いた。

妻は先に寝ていた。

画面には、町外施設入所者の年齢階級、要介護度、過去の死亡状況が表示されていた。個人を特定できない集計データだった。

長谷川は幾つかの仮定を置いた。

町外施設入所者のうち、住民票を残している九十一人。

平均年齢、八十七・四歳。

過去三年間の年間死亡割合。

転出による人口減少。

予測される死亡者数の変化。

計算上、九十一人全員が住民票を施設所在地へ移した場合、潮見町の粗死亡率は、翌年度にはわずかに上昇する可能性があった。

人口が先に減り、死亡者数の減少が遅れて表れるためだった。

しかし三年間で見ると、死亡率は低下する。

県内順位は、四十七位から四十一位程度まで改善する可能性がある。

長谷川は表を見つめた。

人の健康状態は、一人も変わっていない。

医療も改善していない。

介護予防も進んでいない。

それでも順位は六つ上がる。

長谷川はファイル名を付けた。

「参考試算」

保存した後、別の名前に変更した。

「町外施設入所者住所異動影響分析」

さらに変更した。

「高齢者人口動態に関する内部資料」

どの名称にしても、内容は同じだった。

翌週、町長室で試算を説明した。

町長は最後まで黙って聞いた。

「強制的に住所を移すことはできません」

長谷川は最初に念を押した。

「住民票は生活の本拠へ置くのが原則ですが、個々の事情を確認する必要があります。死亡率改善だけを目的に住所異動を促すことは適切ではありません」

「誰が強制と言った」

町長は答えた。

「生活実態に合わせて、正しい住所へ移してもらう。それだけだ」

「結果として死亡率が下がる可能性があります」

「それは副次的効果だ」

「副次的効果を目的に始めれば、順序が逆です」

副町長が口を挟んだ。

「住民票と居住実態の一致は、行政として当然のことだろう」

「原則としてはそうです」

「ならば、実態調査をして、必要な案内を行う。何も問題はない」

大崎は会議へ呼ばれていなかった。

健康福祉課長は、資料を見ながら黙っていた。

町長は言った。

「施策名を考えてくれ。高齢者の住所を移す事業だと受け取られない名称がいい」

長谷川は胸の奥が冷えるのを感じた。

数日後、事業名が決まった。

「高齢者生活拠点確認支援事業」

目的は、

「高齢者の生活実態と行政登録情報を適正化し、円滑な福祉サービス提供を図る」

とされた。

死亡率という言葉は、どこにも書かれなかった。

事業の対象は、町外の医療機関や介護施設へ長期入院・入所している町民だった。

家族へ案内文を送り、生活の本拠を確認する。

住民票の異動が必要と考えられる場合には、手続きを案内する。

法的には、特別なことをしているわけではない。

虚偽の説明もない。

不利益を示して脅すわけでもない。

ただ、案内文には次の一文が加えられた。

「現在の生活拠点と住民登録地が異なる場合、各種行政サービスの適正な提供のため、住所異動をご検討ください」

最初の月に、十二人が転出した。

翌月、九人。

その次の月、十五人。

家族からの問い合わせはあったが、大きな反発はなかった。

「施設に住んでいるのだから、住所も移した方がいいと思っていた」

「郵便物が二か所に届いて困っていた」

「本人はもう潮見町の家へ戻れない」

そう話す家族も多かった。

一方で、住所を移さない家族もいた。

「本人は潮見町へ帰りたがっている」

「家を処分していない」

「先祖代々の住所を変えたくない」

「亡くなるまでは町民でいさせたい」

役場は強制しなかった。

案内するだけだった。

それでも、半年で四十八人が潮見町から転出した。

町の人口は減った。

月次人口表には、通常より多い転出者数が並んだ。

しかし翌年、死亡者数は減少した。

前年百六十二人。

当年百四十七人。

死亡率は二十・八から十九・四へ下がった。

県内順位は四十七位から四十三位へ上昇した。

町長は議会で報告した。

「健康増進、重症化予防、医療・介護連携など、総合的な取り組みにより、本町の死亡率は改善傾向にあります」

嘘ではなかった。

健康教室も増やした。

健診受診率も少し上がった。

見守り事業も始めた。

死亡率の改善が、どの施策によるものかは特定できない。

町長は、住所異動について触れなかった。

県からは評価された。

「短期間で明確な改善が見られる」

「部局横断の取り組みが有効に機能している」

「他自治体の参考となる」

潮見町は、県主催の事例発表会で報告することになった。

発表資料を作ったのは長谷川だった。

表紙には、

「データに基づく健康長寿のまちづくり」

と書いた。

死亡率の折れ線グラフ。

健診受診率の棒グラフ。

保健指導件数。

介護予防教室参加者数。

救急連携会議の開催回数。

グラフはすべて事実だった。

ただし、町外施設入所者の転出数を示すグラフは入れなかった。

大崎は完成した資料を読み、長谷川へ返した。

「きれいな資料ですね」

「数字を並べただけだ」

「都合のよい数字を」

「嘘は書いていない」

「書いていないことがある」

長谷川は資料を閉じた。

「発表の目的は、健康施策の報告だ」

「死亡率が下がった主な理由を、健康施策だけのように見せるんですか」

「主な理由だと断定していない」

「聞く人はそう受け取ります」

「説明時間は十五分しかない」

大崎は窓の外を見た。

役場前のバス停には、誰もいなかった。

第一便が廃止されてから、朝の時間帯にバスが来ることはなくなっていた。

「数字は便利ですね」

大崎は言った。

「話したくないことを、話さずに済む」

その年の冬、町内で一人暮らしをしていた八十九歳の女性が、隣市の介護施設へ入所した。

名前は、菅原澄江。

潮見町で生まれ、結婚後も町内で暮らしてきた。

夫は十年前に亡くなった。

息子は東京に住んでいた。

足腰が弱り、自宅での生活が難しくなったため、町外施設への入所が決まった。

役場から住所異動の案内が届いた。

息子は、施設所在地へ住民票を移す手続きをした。

その三か月後、菅原澄江は施設で亡くなった。

死亡届は施設所在地の市へ提出された。

潮見町の死亡者数には含まれなかった。

長谷川は、その事実を個別には知らなかった。

しかし、ある日、役場の一階ロビーで、一人の男性に呼び止められた。

五十代後半くらいだった。

「企画財政課の長谷川さんですか」

「はい」

「菅原と申します」

男性は、折り畳んだ広報紙を持っていた。

「母が昨年、町外の施設へ入りました」

長谷川は、すぐに何の話か理解した。

「住所異動の案内についてでしょうか」

「母は亡くなりました」

「それは、ご愁傷さまでございます」

男性は頭を下げなかった。

怒っている様子でもなかった。

ただ、困惑していた。

「母は、どこの町の人として死んだのでしょうか」

長谷川は答えに詰まった。

「住民票のある自治体の住民として、統計上は扱われます」

「統計の話を聞いているんじゃありません」

男性は広報紙を開いた。

町の人口欄を示した。

前月比、人口十二人減。

死亡者十一人。

転出者十六人。

「母は、この死亡者十一人には入っていないんですね」

「住民票を移していた場合は、含まれません」

「でも、母は潮見町の墓に入ります」

「はい」

「家も残っています。近所の人も、母を潮見町の人だと思っています」

「生活の本拠は施設へ移っていましたので、住民登録上は――」

「三か月ですよ」

男性は言った。

「八十九年、潮見町で暮らして、最後の三か月を隣の市で過ごした。だから母は、隣の市で死んだ人になるんですか」

長谷川は、答える言葉を持っていなかった。

男性は広報紙を畳んだ。

「住所を移したのは私です。役場から案内が来て、施設の人にも、その方が手続きしやすいと言われた。誰かに強制されたわけではありません」

「はい」

「でも、母の死亡が潮見町の数字から消えることは、誰も教えてくれなかった」

長谷川は頭を下げた。

「説明が不足していました」

「説明されても、住所は移したと思います」

男性は静かに言った。

「ただ、母が町から二度出ていったように感じるんです。一度目は施設へ入ったとき。二度目は、死亡者の数からも消えたとき」

男性が帰った後、長谷川は人口動態の資料を開いた。

菅原澄江という名前はなかった。

個人情報を扱わない集計資料には、当然、名前は載らない。

前年の転出者数に一人として含まれ、その後は潮見町の統計から消えていた。

生まれたこと。

結婚したこと。

子どもを育てたこと。

夫を看取ったこと。

税金を納めたこと。

町内会の清掃に参加したこと。

選挙で投票したこと。

診療所へ通ったこと。

町営バスに乗ったこと。

それらの記録は、各所に残っているかもしれない。

しかし、死亡という最後の記録だけは、別の自治体に属していた。

その日の夕方、長谷川は大崎の机へ行った。

「菅原澄江さんを知っているか」

大崎はしばらく考えた。

「南浜地区の方ですか」

「たぶん」

「高齢者訪問で、何度か会ったことがあります」

「どんな人だった」

「静かな方でした。若い頃、魚市場の食堂で働いていたそうです。閉校した潮見小学校の給食室も手伝っていたと聞きました」

長谷川は、第1編の人口異動表と、第2編で問題になった町営バスの運行記録を思い出した。

数字に存在しない一人。

誰も乗っていないのに降りていく人々。

潮見町では、記録から外れた者が、別の場所に現れることがあった。

「菅原さんは、町営バスを利用していたか」

「足が悪くなる前は、よく乗っていたと思います」

「どこで降りていた」

「魚市場西口じゃないですか。昔の話ですが」

魚市場西口。

すでに廃止された停留所だった。

長谷川は、その夜、町営バスの古い運行記録を確認した。

江藤正明という運転手が、異常な降車人数を報告した日の記録。

公式記録では、乗車人数と降車人数はゼロに修正されていた。

しかし、修正前の控えが一枚だけ保存されていた。

魚市場西口跡。

見えない降車、二人。

氏名欄はない。

ただ、運転手の手書きで小さく記されていた。

「白い割烹着の女性一名」

長谷川は紙から目を離した。

菅原澄江が施設へ入所したのは、その記録より後だった。

したがって、その女性が菅原本人であるはずはない。

それでも、長谷川には偶然とは思えなかった。

町から失われた人々は、死んだ後に現れるのではない。

数字から居場所を失った時点で、すでに別の町へ降り始めているのかもしれない。

翌年度、潮見町の死亡率はさらに下がった。

十九・四から十七・九。

県内順位は三十六位になった。

町外施設入所者の住所異動は、七十三人に達していた。

県は潮見町を「重点改善自治体の成功例」として表彰した。

町長は記者会見で語った。

「住民一人ひとりの健康を守る地道な取り組みが、成果として表れたものと考えています」

記者から質問が出た。

「具体的に、死亡者数が減った要因は何ですか」

町長は答えた。

「健診、予防、医療、介護、地域の見守りなど、複合的な要因です」

それも嘘ではなかった。

人は一つの理由だけで生き延びたり、亡くなったりするわけではない。

しかし、会見後に作成された新聞記事の見出しは、

「潮見町、健康施策で死亡率大幅改善」

となった。

町長室では、記事のコピーが職員へ配られた。

長谷川の机にも一枚置かれた。

彼は記事を読まず、裏返した。

午後、町長から呼び出された。

「次の段階へ進みたい」

町長は上機嫌だった。

「何でしょうか」

「町内の介護施設整備計画だ」

長谷川は耳を疑った。

「介護施設を整備するんですか」

「高齢者が町外へ出なくても済むようにする。家族の負担も減る。雇用も生まれる」

「それは必要な施策だと思います」

「民間事業者が、百二十床の施設を建設したいと言っている」

長谷川は黙った。

百二十床。

町外からの入所者も受け入れることになる。

多くの高齢者が、潮見町へ住民票を移す可能性がある。

町長は続けた。

「健康長寿の町として、医療と介護を産業にする。これからは高齢者を外へ出すのではなく、受け入れる側になる」

「死亡率は上がります」

長谷川は言った。

町長の笑顔が消えた。

「何だと」

「高齢者人口が増えます。入所者の年齢構成によっては、数年後に死亡者数が大きく増えます」

「施設整備は必要だろう」

「必要です」

「ならば進める」

「死亡率は、県内下位へ戻る可能性があります」

町長は立ち上がり、窓の外を見た。

「それは困る」

「人を受け入れれば、当然です」

「健康長寿の町として施設を誘致するのに、死亡率が悪化したら説明がつかない」

「施設があるから死亡率が上がるのではありません。高齢者が増えるからです」

「県は、そんな事情を考慮してくれるのか」

「注意書きには書かれます」

町長は振り返った。

「注意書きは、誰も読まない」

長谷川は、二年前の会議を思い出した。

同じ言葉だった。

説明しなければ分からない数字は、もう負けている。

町長は尋ねた。

「施設入所者の住民票を、元の自治体へ残してもらうことはできないのか」

「生活の本拠が潮見町なら、潮見町へ置くのが原則です」

「住所地特例は」

「介護保険上の制度であって、人口統計そのものを都合よく操作する制度ではありません」

「方法を考えてくれ」

「何の方法ですか」

「施設は誘致する。雇用も税収も得る。しかし死亡率は上げない」

長谷川は町長を見た。

「それはできません」

「君は、死亡率を下げた」

「下げたのではありません」

長谷川は初めて、はっきりと言った。

「死亡する場所を、町の外へ移しただけです」

町長室が静かになった。

町長はゆっくり椅子へ座った。

「その言い方は聞き捨てならないな」

「人を長生きさせた結果ではありません。高齢者が転出した結果です」

「君が提案した事業だ」

「試算しただけです」

「実施に反対したのか」

長谷川は答えられなかった。

強く反対したとは言えない。

資料を作った。

事業名を考えた。

案内文を作成した。

実績を集計した。

県への報告書を書いた。

事例発表を行った。

新聞記事を訂正しなかった。

長谷川は、町の死亡率を下げる仕事をした。

町長は言った。

「今さら、自分だけ正しい側に立つつもりか」

長谷川は何も言えなかった。

その夜、役場を出たのは午後九時を過ぎていた。

庁舎前のバス停に、人が立っていた。

高齢の女性だった。

白い割烹着を着て、布製の買い物袋を持っている。

バスはすでに終わっている。

長谷川は声をかけた。

「バスをお待ちですか」

女性は答えなかった。

「最終便は、もう出ましたよ」

女性は時刻表を見上げた。

廃止された第一便の欄が、薄い灰色で塗りつぶされている。

「どちらへ行かれますか」

長谷川が尋ねると、女性は言った。

「帰るところです」

「ご自宅は」

「潮見町です」

「住所はどちらでしょう」

女性は長谷川を見た。

「住所が分からない人には、帰るところがないのですか」

長谷川は息を止めた。

女性の顔に見覚えはなかった。

それでも、菅原澄江ではないかと思った。

「菅原さんですか」

女性は答えなかった。

遠くから、エンジン音が聞こえた。

廃止されたはずの町営バスが、暗い道路の向こうから近づいてきた。

行先表示には、文字ではなく数字が並んでいた。

二十・八。

十九・四。

十七・九。

潮見町の死亡率だった。

バスは停留所へ止まった。

扉が開いた。

車内には、大勢の高齢者が座っていた。

病衣を着た人。

施設の室内着を着た人。

杖を持つ人。

車椅子の人。

皆、長谷川を見ていた。

運転席には誰もいなかった。

女性は乗ろうとしなかった。

「乗らないんですか」

長谷川は尋ねた。

「これは、降りる人のバスです」

女性は言った。

車内で降車ボタンが鳴った。

ポーン。

最前列の男性が立ち上がった。

扉から降りる。

男性の足が地面へ着いた瞬間、バスの行先表示が変わった。

十七・八。

次の女性が降りた。

十七・七。

一人降りるたび、死亡率が下がっていく。

十七・六。

十七・五。

十七・四。

長谷川は表示を見つめた。

「この人たちは、どこへ行くんですか」

白い割烹着の女性が答えた。

「数字に入らない場所です」

「そんな場所はありません」

「あなたが作りました」

高齢者たちは、次々にバスを降りた。

役場の敷地へ入る者。

海へ向かう者。

閉校した小学校の方角へ歩く者。

廃止された魚市場へ向かう者。

姿は一人ずつ、街灯の届かない場所で消えていった。

バスの行先表示は、ついにゼロになった。

死亡率、〇・〇。

町では誰も死なない数字だった。

車内には、誰も残っていなかった。

女性が長谷川へ言った。

「これで、よい町になりましたか」

長谷川は答えられなかった。

バスの扉が閉じた。

車両は音もなく走り去った。

女性もいなくなっていた。

翌朝、長谷川は役場へ早く出勤した。

人口統計のシステムを開いた。

潮見町の前年度死亡者数は、〇人になっていた。

粗死亡率、〇・〇。

県内順位、一位。

長谷川は画面を閉じ、再び開いた。

数字は変わらない。

住民課へ電話をかけた。

「死亡者数のデータがおかしい」

担当者は確認した。

「こちらでは百三十八人です」

「企画財政課の集計ではゼロになっている」

「システム障害では」

情報管理担当が調査した。

元データには百三十八人の死亡記録がある。

氏名も、住所も、死亡日も登録されている。

しかし、統計集計を行うと〇人になる。

死亡者は存在する。

死亡者数だけが存在しない。

長谷川は、第1編で退職した村瀬修一の古い引き出しを思い出した。

村瀬が使っていた机は、現在、空席になっていた。

人員削減で後任が配置されず、書類保管用として使われている。

長谷川は引き出しを開けた。

最下段に、一枚の紙があった。

地区、未定。

年齢、未定。

住所、空欄。

人数、一。

その下に、別の文字が加えられていた。

死亡者数、未定。

人数、百三十八。

誰が書いたのか分からない。

長谷川は紙を持ち、健康福祉課へ行った。

大崎は紙を読んだ。

「この人たちを、統計へ戻せますか」

長谷川は尋ねた。

「亡くなった人をですか」

「数字から消えた人を」

大崎は紙を机へ置いた。

「戻したら、死亡率は上がります」

「分かっています」

「県内順位も下がります」

「分かっています」

「町長は認めません」

長谷川は言った。

「認めてもらう必要はない」

二人は、統計システムの設定、抽出条件、集計区分を一つずつ確認した。

異常は見つからない。

百三十八人の死亡記録には、共通点があった。

全員、死亡時点では潮見町に住民票があった。

当然のことだった。

しかし、住所欄を過去へさかのぼると、そのうち四十一人は一度、町外施設へ転出し、その後、潮見町へ戻っていた。

帰宅した者は少ない。

施設を変えた際、家族の意向で住民票だけを潮見町へ戻した者。

自宅へ戻る予定があるとして住所を戻した者。

町外で暮らしながら、再び潮見町民になった者。

人の居場所と住所は、何度もずれていた。

長谷川は一人ずつ、死亡記録を印刷した。

個人情報を扱うため、閲覧権限を取り、施錠された会議室で確認した。

百三十八枚。

氏名。

生年月日。

住所。

死亡日。

紙として並べると、百三十八人は確かに存在した。

長谷川と大崎は、死亡者を地区別に分けた。

南浜。

中央。

青葉。

山根。

松ヶ浜。

霧生。

集計すると百三十八人になった。

年齢別に分けても、死因別に分けても百三十八人。

しかし、統計システムへ入力すると〇人になる。

大崎が言った。

「システムが、死亡者を数えたくないんでしょうか」

「機械に意思はない」

「町にはあります」

「町の意思が、機械に移ったとでも言うのか」

「死亡率を下げたいと、何年も数字を直し続けた」

大崎は百三十八枚の紙を見た。

「町にとって、この人たちは邪魔な数字になったんです」

長谷川は町長室へ向かった。

町長に事情を説明した。

町長は驚くより先に、尋ねた。

「県への報告前か」

「はい」

「ならば、復旧するまで前年値を使えばいい」

「前年の数値ではありません。死亡者数がゼロになっています」

「ゼロのまま出すわけではない」

「問題は報告値ではありません」

長谷川は紙の束を机へ置いた。

「この百三十八人が、町の統計から消えています」

「元データにはいるんだろう」

「います」

「ならば、消えていない」

「町の死亡者として数えられません」

町長は苛立った表情を見せた。

「統計システムの障害だ。業者に直させれば済む」

「それだけではありません」

「何だ」

「私たちが、消えるようにしたんです」

町長は長谷川を見た。

「また、その話か」

「死亡率を下げるため、死亡しそうな人が町外へ移る仕組みを作った。転出を促し、成果として報告した。町外の人を受け入れる施設には、死亡率が上がるから困ると言った」

「行政運営では、複数の指標を考慮する必要がある」

「人を指標の外へ動かした」

「本人と家族が決めたことだ」

「決める方向を、町が作った」

町長は立ち上がった。

「君は何を求めている」

「事実を公表します」

「何の事実だ」

「死亡率が下がった理由です。健康施策だけではなく、町外施設入所者の住所異動が影響した可能性を明記します。粗死亡率の限界も説明します」

「町の評価を、自分から下げるのか」

「評価方法が間違っていると伝えます」

「県も国も同じ指標を使っている」

「だから、町から言う必要があります」

町長は長谷川を見つめた。

「君一人の判断でできることではない」

「私一人で始めたことでもありません」

「責任を私に押しつけるつもりか」

「責任を数字へ押しつけるのをやめたいんです」

長谷川は百三十八枚の死亡記録を持ち、町長室を出た。

その日の午後、プロジェクトチームの臨時会議が開かれた。

長谷川は、死亡率改善の要因分析を説明した。

年齢構成。

人口減少。

町外施設入所者の転出。

死亡者数の自然変動。

健診や予防施策。

一つの要因だけでは説明できないこと。

粗死亡率だけで自治体を評価する危険。

そして、死亡率を下げることが行政目標になると、死亡する可能性の高い人を分母から外す誘因が生まれること。

会議室には、町長、副町長、各課長、診療所長、町議会議長がいた。

誰もすぐには発言しなかった。

最初に口を開いたのは、診療所長だった。

「医療の目的は、死亡率を下げることではありません」

町長が顔を上げた。

「人を救うことではないのか」

「救える命を救うことです。しかし、すべての死を失敗として扱えば、高齢者の多い地域は必ず劣った地域になります」

診療所長は続けた。

「九十歳の人が、家族に看取られて穏やかに亡くなる。その死亡は統計上、一件です。四十歳の人が、予防可能な病気で亡くなる。それも一件です。同じ一件ですが、意味は同じではありません」

健康福祉課長が言った。

「町外施設への住所異動案内は、生活実態の適正化という面では必要でした。ただし、死亡率改善の内部試算を前提に始まったことは事実です」

副町長が尋ねた。

「今後、どうする」

長谷川は答えた。

「死亡率を、町の単独目標から外します」

「県への計画は」

「年齢調整値、予防可能な死亡、健診受診率、救急搬送時間、在宅看取りの希望達成など、複数の指標を使います」

「順位は」

「追いません」

町長は苦い顔をした。

「町民に、県内四十七位でも気にするなと言うのか」

「四十七位が何を意味するか説明します」

「説明でイメージは変わらない」

長谷川は言った。

「数字を良く見せるために人を外へ出した町というイメージよりは、ましです」

会議の結論は、その場では出なかった。

しかし翌月、潮見町は県へ提出する改善計画を修正した。

粗死亡率の目標順位を削除した。

代わりに、年齢構成を考慮した分析と、住民の生活の質に関する指標を加えた。

町外施設入所者の住所異動が死亡率へ与えた影響についても、注記を入れた。

県から問い合わせが来た。

「他自治体への影響を考慮し、表現を穏当なものにできないか」

「住所異動が死亡率改善の主因であると断定しないでほしい」

「成功事例として公表済みであるため、整合性を確認したい」

長谷川は、断定を避けながらも、記述を削除しなかった。

県のウェブサイトに掲載された潮見町の事例には、以前のような大きな見出しは付かなかった。

表彰も取り消されなかったが、翌年度から成功事例集に掲載されなくなった。

町長は不満だった。

議会でも批判された。

「せっかく改善した数値を、自ら否定するのか」

「町の評判を落とす行為ではないか」

「担当職員の個人的見解ではないか」

長谷川は、一つずつ説明した。

死亡率は下がった。

それは事実。

健康施策を行った。

それも事実。

住所異動の影響があった。

それも事実。

一つの数字には、複数の事実が重なっている。

都合のよい一つだけを原因として語るべきではない。

議会後、役場へ戻る途中、長谷川は庁舎前のバス停で足を止めた。

白い割烹着の女性が立っていた。

今度は昼間だった。

通行人も、役場職員も、女性の横を通り過ぎた。

誰も気づかない。

長谷川は近づいた。

「菅原さんですか」

女性は、わずかに笑った。

「名前を覚えたのですね」

「あなたは菅原澄江さんですか」

「その名前の人も、私の中にいます」

「ほかにもいるんですか」

「町から出た人。町へ戻った人。住んでいるのに数えられない人。数えられているのに住んでいない人」

第1編で現れた、七千八百三十六人目の男と同じようなことを言った。

「あなたたちは、一人ではない」

「数字では、一人ずつです」

女性は答えた。

「人は、数字になると一人ずつになります。でも、生きている間は、誰も一人だけではありません」

遠くから町営バスが来た。

現在の時刻表にある第三便だった。

バスは停留所へ止まった。

扉が開く。

運転手は江藤ではない若い男性だった。

車内には三人の乗客がいた。

女性は乗らなかった。

「行かないんですか」

長谷川が尋ねた。

「今日は、ここに残ります」

「なぜ」

「町が、死んだ人を数えることにしたからです」

バスは発車した。

女性の姿は、排気の揺らぎの中で薄くなった。

「死亡率は上がりますよ」

長谷川は言った。

女性は笑った。

「人が死ぬ町は、生きていた人がいる町です」

そう言い残し、姿を消した。

翌朝、統計システムの死亡者数は百三十八人へ戻っていた。

死亡率は十七・九から十九・六へ上昇した。

県内順位は四十四位になった。

システム障害の原因は、最後まで特定できなかった。

情報管理担当者は、集計条件の一時的な不整合と報告した。

長谷川は、百三十八人分の死亡記録を正式な手続きに従って廃棄した。

ただし、氏名のない一覧表を一枚だけ残した。

地区別人数。

年齢階級別人数。

死亡場所。

町内。

町外病院。

町外施設。

自宅。

最後の欄に、新しい項目を加えた。

「この町で生きた人」

人数、百三十八。

統計上は不要な項目だった。

同じ年度、潮見町に新しい介護施設が開設された。

町内外から百人を超える高齢者が入所した。

施設で働く職員も増えた。

家族の面会で町を訪れる人も増えた。

町内の弁当店、理美容店、薬局の利用者が増えた。

一方、数年後には死亡者数も増えた。

潮見町の粗死亡率は、再び県内最下位になった。

新聞には、小さな記事が載った。

「潮見町、死亡率県内最高」

町長は記者会見を開いた。

以前なら、順位の理由を弁解したかもしれない。

しかしその日は、準備された原稿を途中で閉じた。

「潮見町には、高齢者が多く暮らしています」

町長は言った。

「町内の介護施設には、他地域から移ってきた方もいます。高齢者が多ければ、亡くなる方も多くなります。死亡率が高いことだけで、健康施策や医療、介護の良し悪しを判断することはできません」

記者が尋ねた。

「死亡率改善の目標は持たないのですか」

町長は少し間を置いた。

「防げる死を減らす努力は続けます。しかし、亡くなる人を町の外へ出すことで、数字を良くするつもりはありません」

長谷川は会見室の後方で、その言葉を聞いていた。

全面的に正しい政策へ変わったわけではない。

行政はこれからも数字を使う。

比較もする。

順位も付ける。

成果を求める。

都合の悪い説明を小さく書きたくなることもある。

それでも、一度、数字の外へ出された人々がいたことを、町は記録に残した。

年度末、長谷川は健康長寿指標改善プロジェクトチームの最終報告書を作成した。

最後のページには、次の文章を書いた。

「死亡率は、地域で亡くなった人の割合を示す指標である。しかし、その数値のみでは、住民がどのように生き、どのように支えられ、どこで最期を迎えたかを示すことはできない。行政は死亡を減らす努力を行う一方、死亡者を成果を損なう数字として扱ってはならない」

町長から、最後の一文を削るよう指示された。

「強すぎる表現だ」

長谷川は削らなかった。

代わりに、その前へ一文を加えた。

「本町が過去に行った施策への反省を含め、」

町長は長い間、修正原稿を見ていた。

最終的には押印した。

報告書は町のウェブサイトへ掲載された。

閲覧数は多くなかった。

新聞にも取り上げられなかった。

県から特別な評価を受けることもなかった。

それでも、資料は残った。

数年後、長谷川は役場を定年退職した。

最後の日、自分の机を整理した。

引き出しの奥から、白い紙が出てきた。

地区、未定。

年齢、未定。

住所、空欄。

人数、一。

死亡者数、百三十八。

その下に、見覚えのない文字が増えていた。

「町の死亡率を下げる仕事 完了」

さらに小さく、続きが書かれていた。

「人を町へ戻す仕事 未完了」

長谷川は紙を折り、上着の内ポケットへ入れた。

役場を出ると、庁舎前のバス停に大勢の人が並んでいた。

通院する高齢者。

施設で働く若い職員。

買い物袋を持つ女性。

学校帰りの子ども。

町外から面会に来た家族。

見える人もいた。

見えない人もいた。

町営バスが到着した。

扉が開く。

乗る人がいる。

降りる人もいる。

運転手は一人ずつ確認しながら、端末へ人数を入力した。

乗車、七人。

降車、四人。

数字は正確だった。

長谷川はバスへ乗らず、歩いて帰ることにした。

町を歩けば、自分がどこの人口に入っているかを、少しだけ確かめられるような気がした。

海から風が吹いてきた。

閉校した小学校の方角から、子どもたちの声が聞こえた。

廃止された魚市場の前には、白い割烹着の女性が立っていた。

女性は長谷川へ頭を下げた。

長谷川も頭を下げた。

翌月、潮見町の人口は三人減った。

出生、一。

転入、四。

死亡、十一。

転出、三。

計算は正確に一致していた。

死亡率は、わずかに上がった。

しかし、その月の人口動態表には、以前にはなかった備考欄が設けられていた。

そこには、こう書かれていた。

「死亡者十一人は、いずれもこの町で生きた人である」

統計としては、何の役にも立たない一文だった。

それでも町は、その一文を消さなかった。

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