リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

毎年、夏と冬になると「芥川賞」「直木賞」という言葉がニュースに現れる。文学にそれほど関心がない人でも、この二つの名前だけは知っているだろう。受賞者が記者会見を開き、書店には受賞作を積み上げた棚ができ、ときには作品そのもの以上に、受賞した作家の経歴や人物像がニュースになる。

ところが、考えてみると少し不思議である。

なぜ日本には、これほど有名な文学賞が二つ並んで存在しているのだろう。芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学やエンターテインメント小説を対象とする、という説明はよく知られている。しかし、それだけでは両賞の「違い」は分かっても、「なぜ二つの賞が必要だったのか」という問いにはまだ答えていない。

その答えを探すには、1935年の第1回授賞より、さらに一年さかのぼる必要がある。

1934年4月、『文藝春秋』の「話の屑籠」で、菊池寛はすでに二つの文学賞の構想を書いていた。直木三十五を記念する賞を大衆文芸の新進作家に、芥川龍之介を記念する賞を純文芸の新進作家に贈りたい、というのである。つまり芥川賞と直木賞は、後になって一つの文学賞を二種類に分割したものではない。構想された最初の段階から、異なる二つの文学領域に新しい書き手を送り出す、二本立ての制度として考えられていた。

ここを起点にすると、芥川賞と直木賞の姿は、現在私たちが抱いている「権威ある文学賞」というイメージとは少し違って見えてくる。

この二つの賞の原点にあったのは、文学作品に順位をつけることだけではない。

まだ名前の知られていない作家を、文学の世界へ押し出すことだった。

二つの賞は、二人の死から生まれた

物語の中心にいるのは、芥川龍之介でも直木三十五でもない。『文藝春秋』を創刊した作家・菊池寛である。

芥川龍之介は1927年に亡くなり、直木三十五も1934年に世を去った。二人はいずれも菊池寛と親しく、『文藝春秋』とも深い関係を持っていた。芥川は創刊号から「侏儒の言葉」を連載し、直木も小説だけでなく多くの記事を寄稿していた。

現在から振り返れば、芥川龍之介は近代日本文学を代表する作家であり、直木三十五は大衆文芸を代表する名前として記憶されている。しかし、当時の二人は教科書や文学史の中にいる「文豪」ではなかった。雑誌という新しいメディアの中で作品を書き、読者に読まれ、同時代の文壇を生きていた現役の作家だった。

その二人を相次いで失った菊池は、1934年の段階で二つの賞を構想し、翌1935年1月号の『文藝春秋』で、その実施を正式に表明する。

その目的について菊池は、亡くなった友人を記念すると同時に、無名、あるいは無名に近い新進作家を世に出したいという趣旨を明確に書いている。さらに当選者については、賞を与えるだけではなく、その後の作家としての進展も文藝春秋社が援助するという考えを示していた。

つまり、この賞の出発点にあったのは、すでに完成した大家を表彰することではなかった。

まだ世間が知らない才能を見つけ、名前を与え、その後の作家人生まで押し出していこうという発想だったのである。

ここを理解すると、芥川賞と直木賞の見え方はかなり変わってくる。

あれはもともと、「その年の日本で最も優れた小説を決める大会」として始まったわけではないのだ。

文学賞というより「作家を世に出す装置」だった

作家になるということを、少し昔の時代に置き換えて考えてみたい。

インターネットはなく、個人が自分の作品を世界中へ公開することもできない。小説を書いた若者がどれほど才能を持っていても、雑誌編集者の目に留まり、作品が掲載され、そこで初めて読者に名前を覚えてもらう。その回路に乗れなければ、優れた作品を書いていても、その存在を知ってもらうことさえ難しかった。

だからこそ、近代以降の文学の世界では、「誰が新人を見つけるのか」という問題が大きな意味を持つ。

菊池寛は、そこに文学賞を置いた。

しかも興味深いことに、芥川賞も直木賞も、公募によって原稿を集める新人賞ではない。その性格は現在まで引き継がれており、芥川賞は雑誌や同人雑誌に発表された新進作家の純文学作品、直木賞は新進・中堅作家によるエンターテインメント作品の単行本から選ばれる。

作家自身が「芥川賞に応募します」「直木賞に応募します」と原稿を送る制度ではない。

すでに文学や出版の世界のどこかに姿を現し始めている作品を探し、その中から次に広く世に送り出す作品と作家を選ぶ仕組みなのである。

これは一般的なコンクールとはかなり違う。

文学賞が作品を選ぶ。その名前を新聞や雑誌が報じる。書店が本を並べる。そこで初めて、多くの読者がその作家の存在を知る。読者が作品を読み、出版社が次の本を出し、作家はさらに新しい作品を書く。

そう考えると文学賞とは、作品に栄誉を与える制度であると同時に、才能と読者のあいだに橋を架ける出版文化の仕組みでもあったことが分かる。

菊池寛が創設時に、受賞者について賞を与えるだけでなく、その後の進展まで援助する考えを示していたのは、この賞の性格をよく表している。

賞金を渡して終わりではない。

「この人を世に出す」。

そこまで含めて、文学賞を考えていたのである。

では、なぜ芥川賞と直木賞の二つが必要だったのか

ここでようやく、「なぜ一つではなく二つなのか」という疑問に戻ることができる。

その答えは、1934年に菊池寛が最初の構想を記した時点ですでに示されていた。純文芸の新進作家には芥川の名を冠した賞を、大衆文芸の新進作家には直木の名を冠した賞を与える。二つの文学を一つの物差しで測るのではなく、それぞれの世界から新しい書き手を送り出そうとしていたのである。

現在の制度では、芥川賞は新進作家による純文学の中・短編作品、直木賞は新進・中堅作家によるエンターテインメント作品の長編小説や短編集が対象となっている。

しかし、これを「芥川賞の方が文学的に上で、直木賞は読みやすい小説の賞」と理解してしまうと、二つの賞を設けた意味を見失ってしまう。

小説には、そもそも一つの物差ししかないわけではない。

文章そのものをどこまで研ぎ澄ますか。人間の内面をどこまで深く掘り下げるか。これまで存在しなかった表現をどのように生み出すか。そうした方向へ進む小説がある。

一方では、物語をどのように動かし、人物をどのように生かし、読者を何百ページも先へ連れていくのかを追求する小説もある。

両者は重なり合うこともあり、境界が明確に引けるわけでもない。しかし、少なくとも「どちらが上か」という関係ではない。小説という同じ器の中に、異なる価値の方向が存在しているのである。

芥川賞と直木賞が長く並び続けてきた面白さは、一つの基準で文学全体を序列化しなかったことにあるのかもしれない。

文学の新しい表現を探す道と、多くの読者を物語へ引き込む道。

二本の街道を残し、それぞれの先頭に新しい作家を送り出してきたのである。

芥川賞と直木賞では、受賞作が読者に届く道も少し違う

二つの賞の違いは、現在の発表のされ方にも表れている。

芥川賞の受賞作は『文藝春秋』に全文が掲載される。一方、直木賞の受賞作は『オール讀物』に一部が掲載される。

これは単なる編集上の違いではなく、そもそもの対象作品の形とも関係している。

芥川賞は雑誌に発表された中・短編作品が対象であるため、受賞作を一つの雑誌の中に全文収めることができる。読者は「今年の芥川賞は何だろう」と思えば、『文藝春秋』を買い、その場で作品そのものを読むことができる。

これに対して直木賞では、単行本として刊行された長編小説や短編集が対象になる。興味を持った読者は、受賞作が収録された本そのものを手に取ることになる。

その違いは、両賞が読者と出会う風景にも微妙な差を生んできた。

芥川賞では、それまで広く知られていなかった名前が受賞をきっかけに全国的に報じられ、その作品が一気に広い読者の注目を集めることがある。そこには現在も、「無名に近い新進作家を世に出す」という創設時の劇的な構造が残っている。

一方、現在の直木賞は新進作家だけでなく中堅作家も対象としており、芥川賞より作家歴の幅が広い。すでに何冊もの作品を発表し、一定の読者を持っている作家が候補になることも珍しくない。

そのため直木賞には、まったく知られていなかった新人を発見するだけでなく、それまで一部の読者に知られていた作家を、さらに広い読者へ届ける役割も生まれる。

二つの賞は似たように見えて、作家が受賞する時点の位置も、作品が読者へ届く道筋も、少しずつ違っているのである。

「受賞作なし」があることの意味

文学賞を単なる競争だと考えると、もう一つ不思議なことがある。

芥川賞にも直木賞にも「受賞作なし」がある。

競技大会なら、一位は原則として存在する。参加者の中で最も速かった人、最も高く跳んだ人を選べばよい。

しかし文学賞では、候補作品が並んでいても「今回は選ばない」という判断ができる。

これは文学の価値が、タイムや得点のようには測れないことを象徴している。

そして同時に、文学賞が「候補作品の中から機械的に一番を選ぶ仕組み」ではないことも示している。

芥川賞であれば、この作品には純文学の世界へ新しい何かを送り込む力があるのか。直木賞であれば、この作品はエンターテインメント小説の世界に新しい広がりをもたらすのか。

もちろん、実際の選考委員一人ひとりが同じ基準で判断しているわけではない。しかし、両賞が新しい文学や作家を世に送り出すという制度の趣旨から考えれば、問われているのは作品の完成度だけではなく、その作品がこれからの文学に何を加えるのか、ということでもあるのだろう。

だから意見が割れる。

だから選評が面白い。

そして、ときには何十年たってから、「なぜこの作品が受賞し、あの作品が選ばれなかったのか」と再び議論される。

文学賞の選考そのものが、その時代の文学観を記録する批評になっているのである。

文学賞は名作を決めるものなのか

ここまで来ると、さらに厄介な疑問が生まれる。

芥川賞や直木賞を取った作品は、本当に「名作」なのだろうか。

答えは、おそらくそれほど単純ではない。

受賞した瞬間には大きく報道されながら、その後ほとんど読まれなくなった作品もある。一方で、賞とは関係なく何十年も読み継がれる小説もある。

文学賞は、未来の読者まで決めることはできない。

そもそも菊池寛が作ろうとしたものも、百年後まで残る作品を予言する装置ではなかった。

まだ知られていない作家に光を当てることだった。

ここに、文学賞を見るときの重要な違いがある。

文学史は、後世の読者や研究者が長い時間をかけて作っていく。一方、文学賞は、その時代を生きている人間が「いま、この作品を世に送り出したい」と判断する制度である。

だから両者は一致しなくても不思議ではない。

むしろ何十年も前の受賞作を読み返してみれば、その作品が永遠の名作だったかどうかとは別に、「当時の文学者たちは何を新しいと考えていたのか」が見えてくる。

その意味では、文学賞の歴史を読むことは、日本人が小説に何を求めてきたのかを読むことでもある。

二つの文学賞が九十年以上残った理由

1935年に始まった二つの賞は、九十年以上たった現在まで続いている。

文学雑誌の発行部数が縮小し、本が以前ほど売れない時代になっても、芥川賞と直木賞の発表はニュースになる。書店には受賞作の棚ができ、普段は純文学を読まない人まで「今年の芥川賞は何だろう」と作品を手に取ることがある。

それは、この二つの賞が単なる表彰制度ではなく、文学と社会を定期的につなぎ直す「行事」になったからではないだろうか。

毎年、膨大な数の本が出版される。

そのすべてを読むことは誰にもできない。読者はいつも、本の海の前で「何を読めばいいのか」という問題に直面している。

そこへ半年に一度、芥川賞と直木賞が現れる。

今、この作家を読んでみませんか。

今、この小説について話してみませんか。

文学の世界から社会へ向かって、そう問いかける。

文学賞とは作家のためだけに存在しているのではないのかもしれない。読者に対して、まだ知らない一冊と出会う理由を与える制度でもあるのだ。

死者の名前を使って、未来の作家を生み出す

芥川賞と直木賞の歴史には、最後に一つの美しい逆説が残る。

二つの賞は、亡くなった作家の名前を記念するところから始まった。

芥川龍之介はすでにいない。

直木三十五もすでにいない。

それでも菊池寛は、二人の名前を記念碑の上に刻んで終わらせなかった。

芥川の名前を、これから現れる純文学の新進作家へ渡した。

直木の名前を、これから現れる大衆文芸の新進作家へ渡した。

だから芥川龍之介という名前の下から、何十人もの新しい作家が現れた。直木三十五という名前の下からも、時代ごとに新しい物語を書く作家が現れ続けた。

死者を記念するために作られた制度が、新しい書き手を生み出し続ける。

そう考えると、芥川賞と直木賞は過去を顕彰するための賞でありながら、最初から未来へ向かって設計された文学賞だったことが分かる。

では、芥川賞と直木賞は、そもそも何のための賞なのか。

優れた小説を表彰するため、と答えても間違いではない。

しかし、それだけでは、この二つの賞が九十年以上にわたって日本の文学と出版の中心に存在し続けてきた理由までは説明できない。

亡くなった二人の作家の名前を残しながら、その名前を次の世代の作家へ渡す。まだ広く知られていない才能を見つけ、出版社が押し出し、新聞や雑誌が伝え、書店が並べ、そして読者がその名前を覚える。

1934年、菊池寛が考えていたのは、純文芸と大衆文芸という二つの世界へ、それぞれ新しい作家を送り出すことだった。

九十年以上が過ぎても、その基本的な構図は驚くほど残っている。

芥川賞と直木賞が選び続けているものは、完成した「名作」だけではない。

これから誰が小説を書き続け、誰の言葉を私たちが読んでいくのか。

二つの賞が半年ごとに選んでいるのは、いわば日本文学の「次の時間」なのである。

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かつて町の書店の文庫棚には、赤川次郎の本が何冊も並んでいた。『三毛猫ホームズ』があり、『三姉妹探偵団』があり、『セーラー服と機関銃』があり、その隣にはまだ読んだことのない題名がいくつも続いている。一冊を読み終えても世界は閉じず、書店へ行けば次の一冊が待っていた。

赤川次郎という作家を考えるとき、この「いつも本があった」という記憶は軽く扱えない。

1976年、「幽霊列車」でオール讀物推理小説新人賞を受賞して作家としてデビューし、1978年に刊行された『三毛猫ホームズの推理』によって、一躍ベストセラー作家となった。新潮社の著者紹介では2024年1月時点ですでに著書は650冊を超えており、さらに2026年の山陰中央新報の報道では、これまでに刊行した本は約670冊、累計発行部数は3億部を超えるとされている。

3億部という数字は、単に「人気作家だった」という言葉だけでは説明しきれない。

ところが赤川次郎について語ろうとすると、しばしば最初に出てくる言葉は「読みやすい」である。それは確かに彼の作品の大きな特徴だろう。しかし、それだけでは何十年にもわたって膨大な読者を獲得した理由を説明したことにはならない。

むしろ考えるべきなのは、なぜ赤川次郎の「読みやすさ」が、あの時代のこれほど多くの人に必要とされたのかということである。

小説を読むための「構え」を取り払った

赤川次郎の小説を開くと、文章がこちらを威圧してこない。

長い背景説明を読み解いてからようやく物語が始まるのではなく、人が現れ、話し、何かが起こり、その結果として次の場面へ進んでいく。会話が物語を運び、登場人物の性格も、作者による長い説明ではなく、言葉や行動のなかから少しずつ見えてくる。

赤川作品について語られる「読みやすさ」は、単に漢字が少ないとか、一文が短いという意味ではない。むしろ、読者が物語へ入るまでに必要とする労力が小さいのである。

赤川次郎本人はインタビューのなかで、映画会社に勤めていた父親の影響から幼いころより映画を身近に見て育ったことを語っている。そうした経験を考えれば、彼の小説に見られる会話の速度や場面転換の軽快さに、映像的な感覚を見ることもできるだろう。出版社による作品紹介でも、赤川作品では会話やテンポの良さが大きな魅力として扱われてきた。

もちろん、映画を多く見たからそのまま文章が映像的になった、と単純に因果関係を決めつけることはできない。ただ、赤川作品を読んでいると、登場人物が現れ、しゃべり、場面が切り替わり、そのうち読者も事件のなかへ入り込んでいるという感覚がある。小説を読んでいるのに、どこか映画やテレビドラマを追っているような速度があるのだ。

しかし、この読みやすさを「簡単な小説」と言い換えてしまえば、本質を取り逃がす。

赤川次郎の小説では殺人が起こり、嫉妬があり、裏切りがあり、家族の秘密があり、ときにはかなり陰惨な出来事も起こる。題材だけを抜き出してみれば、決して軽いものばかりではない。それでも読者が重苦しさに押しつぶされずページを進められるのは、作者が物語と読者との間に巨大な壁をつくらないからである。

本を読むには教養が必要で、文学を理解するには訓練が必要で、名作を前にしたら少し襟を正さなければならない。そんな文学につきまとう無言の緊張から読者を解放し、「面白そうだから読んでみる」という、ごく普通の入口を大きく開いた。

赤川次郎の重要性は、まずそこにあったのではないだろうか。

強くない男と、動き出す女性たち

赤川次郎の小説には、もう一つ興味深い特徴がある。

主人公が必ずしも強くない。

『三毛猫ホームズ』の片山義太郎は刑事でありながら血を見ることが苦手で、女性にも弱い。昔ながらの探偵小説や刑事小説を考えれば、冷静沈着で頭脳明晰な男性主人公が事件を支配していても不思議ではない。しかし片山の周囲には行動力のある妹の晴美がいて、さらには人間以上の存在感を持つ三毛猫ホームズがいる。

事件解決の中心にいるのが、必ずしも「強い男」ではないのである。

この構図は『セーラー服と機関銃』になると、さらに鮮明になる。

主人公の星泉は17歳の女子高校生でありながら、父の死をきっかけとして小さな暴力団の組長になる。女子高校生と暴力団という、本来なら決して結びつかない二つの世界を組み合わせることで、物語そのものに強烈な入口をつくった。

ここで面白いのは、赤川次郎が最初から超人的な人物を主人公にしたのではなく、ごく普通の人物を、普通なら起こり得ない状況へ放り込んだことである。

女子高校生が組長になる。猫が人間よりも鋭く事件を見る。女性が苦手な刑事が女性たちに囲まれて捜査する。

設定だけ取り出せば漫画のようにも見える。しかし、その軽やかな入口があったからこそ、それまで本格的な推理小説には近づかなかった読者も物語へ入ることができた。

文春文庫の歴史を振り返る出版社側の回顧でも、1980年代には赤川次郎や星新一が中学生、高校生に広く読まれ、それまで以上に若い世代へ文庫読者が広がったことが語られている。

これは赤川次郎を考えるうえで非常に重要な事実である。

彼は、すでに本をたくさん読んでいる人だけを相手にしたのではなかった。

これから本を読む人を、読者にしたのである。

赤川次郎が現れたころ、文庫本そのものが変わっていた

しかし、どれほど読みやすく面白い作家であっても、時代と出会わなければ3億部という巨大な数字にはならない。

赤川次郎が作家として走り始めた1970年代後半から1980年代は、日本の文庫をめぐる環境そのものが大きく変わっていた。

1970年代前半には講談社文庫、中公文庫、文春文庫などが相次いで創刊され、それまでの岩波文庫、新潮文庫、角川文庫などを中心とした文庫市場に新しい競争が生まれた。文庫本は、すでに評価の定まった文学作品を廉価版で読むためだけの存在ではなく、新しい作品や娯楽小説を楽しむための身近な商品へと変わっていく。

その流れをさらに加速させたのが角川書店だった。

角川映画では映画と原作本を結びつけ、大規模な広告宣伝によって作品そのものを一つの文化現象へと変えていった。国立国会図書館による戦後ベストセラー史の整理でも、この時代には映画と文庫を結びつけたメディアミックスが多くのベストセラーを生み出したことが指摘されている。

そこへ『セーラー服と機関銃』が現れる。

1978年に刊行された原作は、1981年に薬師丸ひろ子主演で映画化され、大きな話題となった。作品は書店で「読むもの」であるだけでなく、映画館で「見るもの」となり、主題歌を通じて「聴くもの」にまで広がっていった。

文学作品が書店の棚だけに存在するのではなく、映画、テレビ、雑誌、音楽、広告を行き来する。その流れの中心近くに赤川次郎の作品はあった。

だから赤川作品を手に取った人すべてが、最初から「赤川次郎という作家を読もう」と考えていたわけではなかっただろう。

映画を見たから読む。テレビドラマで知ったから読む。友人が持っていたから読む。書店の棚に何冊も並んでいたから一冊買ってみる。そして一冊が面白ければ、別の作品へ進む。

文学史を考えるとき、私たちはつい、作家が作品を書き、作品が評価され、その結果として読者が読むという順序を想像する。

しかし実際の大衆的な読書は、そんなに整然としていない。

表紙が気になったから買うこともある。映画を見たから原作を読むこともある。題名が面白そうだから手に取ることもある。

赤川次郎は、そうした偶然の入口から入ってきた人を、きちんと次のページへ連れていくことのできる作家だった。

一冊で終わらせなかった「シリーズ」という力

赤川次郎の膨大な作品数を、単純に「多作だった」という言葉だけで説明するのも十分ではない。

『三毛猫ホームズ』『三姉妹探偵団』『幽霊』『杉原爽香』『吸血鬼』など、彼は数多くのシリーズを書いてきた。

そこには、本を読むという行為を一回限りの勝負にしない強さがある。

初めて読む小説には、わずかな緊張がある。知らない世界に入り、知らない人物の名前を覚え、作者の文体にも慣れなければならない。

しかし一度知ったシリーズなら、その負担は小さくなる。

読者は片山義太郎を知っている。晴美を知っている。ホームズを知っている。本を開いた瞬間、しばらく会っていなかった知人のところへ帰ってきたような安心感がある。

これは連続テレビドラマにも少し似ている。

事件は毎回変わる。しかし帰る場所は変わらない。

シリーズ小説の強さとは、毎回新しい事件を提供することだけではなく、「またここへ来たい」と思わせる世界をつくることにある。

だから一冊のベストセラーが、一冊だけで終わらない。

赤川次郎を一冊読んだ人が二冊目を読み、二冊目を読んだ人が三冊目へ進む。その積み重ねが、やがて信じがたいほど巨大な読者数へつながっていく。

そして1978年に始まった『三毛猫ホームズ』は、半世紀近くを経た2026年にも新作が刊行されている。

その事実だけでも、赤川次郎と読者との関係が、一時的な流行では説明できないほど長く続いてきたことが分かる。

「軽い」という評価で見えなくなったもの

これほど読まれた作家でありながら、赤川次郎を語るときには、ときどき奇妙な遠慮がつきまとう。

読みやすいけれど、文学的にはどうなのか。

そんな問いである。

しかし、そもそも小説は難しくなければ文学ではないのだろうか。

文章に長い修飾があり、思想的な言葉が並び、一度読んだだけでは意味をつかみにくいことが、文学の価値なのだろうか。

もちろん、難解さからしか生まれない文学がある。時間をかけて読み返すことで初めて見えてくる作品もある。それを否定する必要はまったくない。

けれどもその反対に、複雑な人間関係や社会の不条理を、できるだけ平易な言葉に落とし込み、読者を物語から離さない文学もある。

赤川次郎の小説は、読者に努力を要求するより先に、物語の面白さを渡した。

一見すると簡単なことのように思えるが、実際には難しい。

説明を減らしすぎれば人物が薄くなる。会話を増やしすぎれば物語が軽くなる。展開を速くすれば感情を描く時間がなくなる。それでも読者を迷わせず、事件を進め、登場人物を生かし、一冊の物語として着地させなければならない。

しかも、それを何百冊にもわたって続けている。

読みやすい文章とは、必ずしも書きやすい文章ではないのである。

本を読まなかったかもしれない人を、本の側へ連れてきた

赤川次郎の文学的な役割を考えるとき、作品の技巧や売上だけでは見えにくいものがある。

それは、本を読む習慣のなかった人を、本の側へ連れてきたことである。

中学生や高校生にも、通勤電車のなかで少しだけ読みたい会社員にも、難しい小説には気後れしてしまう人にも、赤川作品には入っていける入口があった。

そこには猫がいて、女子高校生がいて、少し頼りない刑事がいる。殺人事件が起こっているのに、思わず笑ってしまう会話もある。

気がつけば事件が始まり、「もう少しだけ」とページをめくっているうちに一冊が終わる。

そして書店へ行けば、また次の一冊がある。

こうして何百万人もの人が小説を読んだ。

考えてみれば、これは文学にとって決して小さな仕事ではない。

文学史には、文学の形式そのものを変えた作家がいる。新しい文体を生み出した作家、新しい思想を作品に持ち込んだ作家、新しい文学運動をつくった作家もいる。

その一方で、文学と読者との距離を変えた作家もいる。

赤川次郎は、おそらく後者だった。

文学の側へ読者を引き上げるのではなく、文学の方から読者の日常へ降りてきた。

文庫本を一冊買えば始まり、難しい準備はいらない。読み始めれば物語が動き、読み終えれば次の本が待っている。

その仕組みと文章の感覚が、1970年代後半から1980年代に急速に広がった文庫文化、映画、テレビ、若者文化と非常によく噛み合った。

だから「赤川次郎はなぜあれほど読まれたのか」という問いへの答えを、「読みやすかったから」という一言で終わらせるのは惜しい。

読みやすい文章があった。物語へ入りやすい設定があった。普通の人間が思いがけない事件へ巻き込まれる楽しさがあった。シリーズを読むことで再び帰ってこられる世界があった。そしてその背景には、文庫本が若者の日常へ入り込み、映画やテレビと小説の境界が薄くなっていく時代があった。

作家の資質と時代の仕組みが、ほとんど理想的な場所で出会ったのである。

3億部という数字は、その結果の一つだったのだろう。

しかし、本当に興味深いのは、その数字の向こう側である。

赤川次郎を一冊読んだことをきっかけに、別の推理小説を読み、さらに別の作家へ進んでいった人がどれほどいたのかは、どこにも統計として残らない。

少年少女のころに『三毛猫ホームズ』を一冊手に取り、それまで「自分は本を読む人間ではない」と思っていたのに、いつの間にか読書をするようになった人もいたはずである。

その一冊は、文学史の年表には載らない。

しかし文学というものが、本棚の中に置かれているだけではなく、読者のなかで生きるものだとするなら、赤川次郎が残した最も大きなものは、約670冊という著書の数でも、3億部という発行部数でもないのかもしれない。

「本って、こんなに面白かったのか」

そう思った読者の数こそが、赤川次郎という作家の本当の大きさを示しているのではないだろうか。

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国語の教科書を久しぶりに開いてみると、不思議な再会がある。

芥川龍之介、夏目漱石、宮沢賢治、森鴎外、中島敦。使われている作品や教科書会社、学校段階によって顔ぶれは異なるが、何十年分かの国語教科書を眺めていると、同じ作家や同じ作品が驚くほど長く読み継がれていることに気づく。何十年も前に学校を卒業した人が現在の教科書を見ても、「これは自分も習った」と感じることが珍しくない。

文学の世界には毎年、新しい小説が生まれている。昭和から平成、令和へと社会が変わり、私たちが日常で読む文章も大きく変化した。それなのに、教科書の中では百年以上前に生まれた文学作品がなかなか席を立たない。

いったいなぜなのだろう。

そこには「名作だから」という一言では説明できない、教科書という本に特有の事情がある。

文部科学省が「芥川龍之介を載せなさい」と決めているわけではない

まず知っておきたいのは、国語教科書に掲載する作家や作品を、文部科学省が一つ一つ指定しているわけではないということである。

日本の教科書制度では、基本的に民間の教科書発行者が学習指導要領や教科用図書検定基準などをもとに教科書を著作・編集し、文部科学大臣の検定を受ける。検定に合格した教科書の中から、教育委員会や学校などが実際に使用するものを採択する仕組みになっている。したがって出版社には教材を選ぶ余地がある一方、どんな文章でも自由に掲載できるという意味ではない。教科書として教育上適切であり、学習指導要領との整合性を持っていることが求められる。

ここが、一般の文学全集と教科書との決定的な違いである。

文学全集なら、「文学史上重要な作品だから」という理由で収録することができる。しかし教科書の場合、作品そのものの価値だけでは十分ではない。その文章を使って何を学ばせるのか、どの年齢の生徒にどのような思考を促すことができるのか、限られた授業時間の中で教材として成立するのかまで問われる。

教科書に載っている文学作品は、文学であると同時に「教材」なのである。

ここに、同じ作家や作品が長く教科書に残り続ける理由を解く鍵がある。

「良い小説」と「良い教材」は必ずしも同じではない

世の中には傑作と呼ばれる小説が数多くある。しかし、そのすべてが国語の授業に向いているわけではない。

長大な小説を一冊丸ごと扱うには授業時間が足りない。高度な背景知識がなければ理解しにくい作品もある。文学作品として魅力的であっても、授業の中で文章を手掛かりに考えを深めていくことが難しい場合もある。

反対に、長く教科書に残る作品には、何度読んでも問いを生み出せるという特徴がある。

芥川龍之介の『羅生門』を読めば、下人はなぜ老婆の着物を奪う側へ回ったのかという問いが生まれる。中島敦の『山月記』なら、李徴を虎にしたものは才能への執着だったのか、臆病な自尊心だったのか、それとも社会との関係だったのかを考えることができる。夏目漱石の『こころ』では、先生とKの行動を追ううちに、友情や嫉妬、罪悪感、さらには明治という時代そのものへと問題が広がっていく。

教師が正解を一つ説明して終わるのではなく、生徒が本文の言葉へ何度も戻りながら考えることができる。

これは教材として非常に強い。

高等学校学習指導要領解説でも、文学的な文章を読むことは、単に物語の筋を理解することではなく、登場人物の考え方や生き方に共感したり疑問を持ったりしながら思索を深め、人間や社会などについての見方や考え方を広げていく学習と結び付けられている。

そう考えると、教科書会社が長い時間をかけて同じ作品へ戻ってくることは、それほど不思議ではなくなる。

優れた文学作品だから教科書に残る。それだけではない。

優れた作品の中でも、授業という場所に置いたときに、生徒に考えさせる余地を持ち続ける作品が残っていくのである。

『羅生門』は最初から「定番」だったわけではない

さらに興味深いのは、現在では定番と思われている教材も、最初から教科書の指定席を持っていたわけではないことである。

その代表が『羅生門』だろう。

国語教育研究によれば、『羅生門』が高等学校の教科書教材として初めて採録されたのは1956年とされる。その後、採録率は1973年には40%、1982年には83%へと上昇し、2003年に「国語総合」が始まった時期には100%に達したとされている。

これは重要な事実である。

『羅生門』は、ある日突然、「国民的教材」に選ばれたわけではない。

教室で使われ、研究され、次の教科書にも採用され、その積み重ねの中で少しずつ定番になっていった。

研究では、『羅生門』が定着した理由の一つとして、小説の基本的な読み方を学ばせやすく、指導すべき内容が比較的明確であることも指摘されている。

ここに、教科書という世界の興味深い性質が見える。

一度教材として定着すると、その作品について多くの授業実践が生まれる。教師用の指導資料が整い、どのような問いを立てれば生徒の読みが深まるのかという研究も蓄積していく。教師自身が学生時代に同じ作品を読んでいることもある。

昨日まで誰も歩いたことのない山道より、何十年も人が歩き続けた登山道の方が歩きやすいのと少し似ている。

道には標識が立ち、どこが急坂なのかが知られ、どこで迷いやすいのかについても情報が積み重なっている。

そうなると、「良い作品だから教科書に載る」という一方向の関係は、やがて「教科書に載り続けたことによって、さらに教材として使いやすくなる」という循環へ変わっていく。

定番は、名作だから生まれるだけではない。

使われ続けることによって、定番としての強さを増していくのである。

定番化には「出版社が外しにくくなる」という側面もある

しかし、『羅生門』が2003年に採録率100%に達した理由を、「作品が優れていたから」「授業で教えやすかったから」だけで説明すると、もう一つ重要な側面を見落とす。

国語教育の研究では、教科書市場そのものの構造にも注目されている。

少子化によって高校生の数が減れば、当然ながら教科書市場も縮小する。その中で複数の出版社が採択を競えば、すでに学校現場で広く受け入れられている教材を外して、未知の教材へ大きく入れ替えることには一定のリスクが生じる。実際、『羅生門』の採録率100%という現象については、作品固有の価値だけではなく、教科書市場の縮小や、出版社間で教材のラインナップや配列が似ていく「同質化」という側面からも説明すべきだという研究がある。

これは、教科書を考えるうえで非常に面白い視点である。

ある教材が多くの学校で使われる。教師がその教材に慣れる。指導法が蓄積する。すると次の教科書でもその教材を採用する利点が大きくなり、他社も同じ教材を残す。

こうして定番は、文学的評価だけではなく、教育現場と出版市場の双方によって強化されていく可能性がある。

「昔から名作と決まっていたから残っている」のではない。

文学的価値、教材としての使いやすさ、現場の慣れ、出版側の判断が互いに作用しながら、長い時間をかけて「教科書の定番」が形成されていくのである。

同じ作品を読む人が変われば、作品も違って見える

それでも、別の疑問は残る。

昔から読まれてきた作品ばかりを扱うくらいなら、もっと新しい作家や作品を教科書に入れた方がよいのではないか。

これはもっともな疑問である。

一方で、一度読んだ文学作品を後になって読み返すことにも、文学ならではの意味がある。

十二歳の読者と十七歳の読者では、同じ文章を読んでも見えているものが違う。さらに三十歳、五十歳になれば、学生時代には理解できなかった登場人物の弱さが突然分かることもある。

作品の文字は変わっていない。

変わっているのは読者である。

高等学校学習指導要領解説でも、文学作品の解釈は読む人の年齢や経験などによって異なり得ることが説明されている。文学には、作品を読むことと、読み手自身の人生経験とが切り離せない部分がある。

子どものころには、ただ奇妙だと思った登場人物が、大人になって読むと痛々しく感じられることがある。若いころには理解できなかった人物の妥協に、何十年か後には自分自身の姿を見つけることさえある。

文学には、読む人間の年齢によって、作品の方が姿を変えたように感じられる瞬間がある。

だから昔、学校で読んだ文学作品を大人になって読み返すことは、単なる復習ではない。

それは作品との再会であると同時に、その作品を読んでいた昔の自分との再会でもある。

しかし「定番」であることには危うさもある

ここまで読めば、「それなら昔からの教材を残しておけばよい」と思うかもしれない。

しかし、話はそれほど単純ではない。

定番教材が使いやすければ使いやすいほど、新しい作品が入り込みにくくなるという逆の問題が生まれるからである。

長年使われている作品には授業実践がある。教師用資料がある。生徒がどこで迷いやすいかについても経験が共有されている。一方で、新しい作品にはその蓄積がない。

すると、新しい作品が文学的には優れていても、「教材としてどう使えばよいか分からない」という理由で不利になる可能性がある。

しかも、社会そのものは変化している。

家族のあり方も、仕事も、人と人との関係も変わった。日本社会の中で暮らす人々の背景も多様になった。インターネットやスマートフォンによって言葉との付き合い方さえ変化している。

百年前の作品から人間について考える意味は失われていない。しかし、百年前の作品だけで現代社会を生きる人間のすべてを映し出せるわけでもない。

だから定番教材は、「昔から載っているから」という理由だけで残るべきではない。

なぜ今、この作品を読むのか。

この問いは、文学作品を読む生徒だけではなく、作品を選ぶ側にも向けられなければならない。

長く使われているという事実は、その作品が教材として優れてきたことを示す一つの材料になる。しかし、長く使われていること自体を、永遠に使い続ける理由にしてしまえば、教科書は少しずつ現代社会から離れてしまう。

伝統とは、おそらくそういうものなのだろう。

ただ残っているものを守ることではなく、なぜ残すのかを問い直しながら、それでも価値があると考えられるものを次の世代へ渡していくことである。

教科書は「日本文学ベスト100」ではない

国語教科書を文学史上の名作ランキングだと思って眺めると、不思議なことがたくさん起きる。

なぜ、あの大作家が載っていないのか。

なぜ、この作品は何十年も残っているのか。

なぜ、現代のベストセラー作家より百年前の作家の方が目立つのか。

しかし教科書を「優れた文学を順番に並べた本」ではなく、「言葉を通じて考えるために設計された本」と考えると、その景色は変わってくる。

そこでは作品の文学史的価値だけでなく、文章の長さや難易度、表現の豊かさ、問いを生み出す力、学習目標との関係、長年蓄積された授業実践、さらには教科書会社がどの教材を採用するかという出版上の判断までが絡み合っている。

だから、同じ作家や作品が何十年にもわたって教科書へ戻ってくる。

彼らは単に偉大だから教科書に住み続けているのではない。

何世代もの生徒を相手にしながら、それでもなお問いを生み出すことのできた作品なのである。

『羅生門』を読んだ高校生が、「自分なら下人と同じことをしないと言い切れるだろうか」と考える。

『こころ』を読んだ生徒が、「先生はなぜもっと早く誰かに話すことができなかったのだろう」と考える。

その瞬間、百年前の文章は文学史の資料ではなくなる。

教室の中で、もう一度現在形になる。

おそらく国語教科書に長く残る作品とは、古くならない作品なのではない。

古くなっても、その時代を生きている読者に新しい問いを返してくる作品なのだ。

そして何十年たっても同じ作家の名前を教科書で見つける理由も、最後にはそこへ戻ってくる。

作品は同じでも、それを読む私たちは、もう昔と同じ読者ではないのである。

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~ 本が売られる街ではなく、知識が出会う街だった

東京・神保町を歩いていると、ときどき不思議な感覚に襲われる。

店先に並んでいるのは、誰かが一度手放した本である。新刊書店の棚のように、いま売れているものが整然と並んでいるわけではない。刊行から半世紀を過ぎた評論集の隣に、少し日に焼けた文庫本があり、その下には戦前の雑誌が積まれている。さらに数軒歩けば、映画のパンフレット、古地図、哲学書、浮世絵、洋書、自然科学の専門書に出会う。

一冊一冊には、もともと何の関係もない。

ところが、それらが同じ街に集められると、そこには図書館とも書店とも違う奇妙な知的空間が生まれる。目的の本を探しに来た人が、目的ではなかった本を買って帰る。文学を探していた学生が思想書を見つけ、歴史を調べていた人が古地図に足を止める。その偶然が何十年、何百年と繰り返されることで、街そのものが巨大な編集者のようになっていく。

古本屋街が文化を生み出した理由を考えるとき、重要なのは「たくさんの本が売られていたから」という説明だけでは足りない。

古本屋街には、本と人、人と人、過去と現在を予定外の形で結びつける力があったのである。

大学のそばに本屋ができ、本屋のそばに知識が集まった

神保町が本の街になった背景には、この地域と教育機関との深い関係がある。

明治初期、現在の神田・一ツ橋周辺には近代日本の教育機関が集まり、その後も周辺には多くの大学や学校が置かれていった。千代田区観光協会も、この地域に学生を相手とする書店が生まれ、そこから出版、印刷、製本などの関連産業が発展していったことを神保町書店街形成の背景として説明している。

これは考えてみれば自然な流れだった。

学生がいれば教科書が必要になる。研究者がいれば専門書が必要になる。しかし当時、本はいまほど安価でも大量でもなかった。明治期には印刷技術や流通も現在ほど整っておらず、古書そのものが貴重な知識資源だった。1881年創業の三省堂書店についても、当時この周辺に大学が次々と生まれる一方、新刊だけでなく古書も高価で貴重だったことが伝えられている。

ここで興味深い循環が始まる。

学生がいるから本屋ができる。本屋が増えるから学生や研究者が集まる。学生や研究者が集まれば、出版社や印刷会社も仕事をしやすくなる。出版社が集まれば、編集者や著者や翻訳者が街を訪れる。そして本を必要とする人がさらに増える。

つまり神保町は、単に需要に応じて書店が増えた街ではなかった。

需要が店を生み、その店が新しい需要を生むという自己増殖的な循環によって、「知識を必要とする人間が集まりやすい場所」そのものになっていったのである。

現在でも神保町にはおよそ130店の古書店があり、文学、歴史、思想、自然科学、美術、映画、武道、洋書など、店ごとに異なる専門分野を持つ。そこには新刊書店、出版社、取次、編集関連の仕事も共存している。

街が本を売っているのではない。

本を中心にした生態系が、街をつくっているのである。

古本屋では「探していなかった本」に出会う

インターネットで本を買うことは便利である。

書名が分かっていれば、数秒で検索できる。著者名も分からなければ、キーワードから候補を探せる。おすすめ機能を使えば、自分が過去に読んだ本に近い本まで提示してくれる。

それでも古本屋を歩く体験とは、どこか根本的に違う。

検索には、基本的に「探したいもの」が先に存在するからである。

古本屋では、それが逆転する。

何を探しているのか自分でもよく分からないまま棚を眺め、背表紙に引かれて一冊を抜く。題名を見て戻そうとしたとき、その隣の一冊が目に入る。そこから別の棚へ移り、気がつけば最初の目的とはまったく関係のない本を持ってレジに立っている。

この一見すると無駄な迂回こそ、文化にとって重要だった。

効率のよい検索は、自分が知っている言葉の世界を深くしてくれる。しかし偶然の出会いは、自分がまだ名前すら知らなかった世界へ連れていく。

経済学を学んでいる学生がマルクスを探しに行き、その隣に並んでいた大正期の文学雑誌を手にするかもしれない。近代文学を研究する人が古書店の棚で当時の広告や旅行案内を見つければ、作品だけを読んでいたときには見えなかった時代の空気に触れるかもしれない。

文化は、専門分野の内部だけで成熟するわけではない。

むしろ異なる分野が偶然接触する場所で、新しい解釈や表現が生まれる。

古本屋街は、その偶然を大量に発生させる装置だったのである。

古本には「前の読者」がいる

新刊書店から買った本と古本屋から買った本には、内容そのものに違いはない。

しかし古本には、ときどき別のものが付着している。

鉛筆の線が引かれている。欄外に小さな書き込みがある。古い新聞の切り抜きが挟まっている。大学名の入った蔵書印が押されていることもある。昭和四十年代の日付とともに、誰かの名前が記されていることさえある。

本来なら、それらは商品の傷なのかもしれない。

けれども、その痕跡を見つけた瞬間、本は奇妙に立体的になる。

ここに自分より前の読者がいた。

その人も、この文章のところで立ち止まった。

同じ一文に線を引いたのか、それとも自分とはまったく違う意味で重要だと思ったのか。

古本を読むという行為には、著者と読者だけではなく、過去の読者まで入り込んでくる。

こうして一冊の本が、世代を越えた小さな対話の場所になる。

本とは本来、時間を越えて思想を保存する媒体である。しかし古本になると、そこには著者の思想だけでなく、その本が実際に社会を通過してきた時間まで残る。

だから古本屋の棚には、単なる情報ではなく「時間」が並んでいる。

古地図を開けば失われた町並みがあり、古雑誌を開けば当時の広告や流行語があり、文学全集の奥付を見れば、その本がどの時代にどれほど読まれていたかがうかがえる。

歴史とは教科書の中だけにあるものではない。

古本屋では、歴史が値札を付けて棚に立っている。

本を売る商売が、記憶を保存する仕事になった

古書店のもう一つの役割は、市場から消えそうになった本を拾い上げることにある。

新刊市場にはどうしても時間の制約がある。新しい本が刊行されれば棚は入れ替わり、売れ行きの弱い本は姿を消していく。それは商業として当然のことであり、新刊書店が悪いわけではない。

しかし文化の価値と、その時点での売上は一致しない。

刊行時にはほとんど注目されなかった本が、数十年後に重要な資料となることがある。ある作家の無名時代の作品、地方でわずかに発行された雑誌、すでに存在しない会社の社史、古い鉄道時刻表、昔の映画パンフレット。発行された当時には日用品に近かったものが、時間を経ることで歴史資料へ変わっていく。

その変化を支えてきたのが古書市場だった。

古書業者には業者間で本を売買する交換会という仕組みもあり、東京では大正期からそのための施設が整えられていった。現在の東京古書会館につながる東京図書倶楽部は1916年に落成し、その後も古書市場の拠点として機能してきた。関東大震災や東京空襲によって会館が失われても、古書市場そのものは再建されている。

ここには、少し面白い逆説がある。

古本屋は本を保存するための博物館ではない。本を売らなければ商売にならない。

ところが、本を商品として何度も市場へ戻すからこそ、結果的に本が捨てられず、別の読者へ渡っていく。

売買という経済活動が、文化保存の仕組みとして働いてきたのである。

専門店があるから、知識は深くなる

神保町の面白さは、古書店が大量に存在することだけではない。

それぞれの店に癖がある。

文学、美術、思想、宗教、歴史、自然科学、映画、演劇、洋書、浮世絵、古典籍。現在の公式古書店地図を見ても、店はさまざまな専門分野に分類されている。

専門店が成立するということは、その分野についてかなり細かな需要が存在するということである。

そして専門店があると、今度はその分野の本が全国からそこへ集まってくる。

たとえば映画関係の資料を扱う店があれば、映画研究者や収集家が訪れるようになる。彼らが本を買う一方、不要になった資料を売る。店にはさらに専門的な資料が集まり、それを求めて別の研究者が訪れる。

ここでも循環が起きる。

客が専門店を育て、専門店が客を育てるのである。

その結果、普通なら全国に散らばっているはずの知識が、一つの小さな地区に高密度で蓄積される。

これは図書館とは少し違う。

図書館では分類体系に従って本が整理されるが、古本屋では店主の経験や価値判断が棚をつくる。ある意味では、それぞれの古本屋が一つの思想を持っている。

棚を見るということは、その店主が数十年かけて行ってきた巨大な選書を見ることでもある。

だから良い古本屋に入ると、こちらが本を探しているのか、店に本を選ばされているのか分からなくなる。

本の街には、なぜ喫茶店が似合うのか

神保町を語るとき、古本屋だけを見ていると、街の半分しか見たことにならない。

古書店街の周辺には、昔から喫茶店や飲食店が多い。現在の千代田区観光協会の紹介でも、神保町は古書店だけでなく喫茶やカレーの街として案内されている。

これは単なる観光上の組み合わせではない。

本を買った人間には、その本をすぐに開きたくなる習性があるからだ。

古本屋を出て数十メートル歩き、喫茶店に入り、コーヒーを注文する。紙袋から本を取り出す。「少しだけ読む」つもりが、気がつけば三十分たっている。

街の中に、本を探す場所と読む場所が連続して存在する。

さらに大学があり、出版社があり、編集者がいて、作家がいる。その人々が同じ喫茶店の椅子に座れば、本をめぐる会話が始まる。

文化というものは、大きな会議室だけで生まれるわけではない。

むしろ原稿の相談や、新しい企画や、思想をめぐる議論の多くは、こうした半私的な場所から生まれてきた。

古本屋が知識を集め、喫茶店が時間を与える。

街はその二つを徒歩でつないでいた。

古本屋街は、巨大な「知識の交差点」だった

ここまで考えてくると、古本屋街が文化を生んだ理由が少し見えてくる。

本が多かったからではない。

本を求める学生がいた。研究者がいた。大学があった。出版社と印刷会社が集まり、古書商が専門性を磨き、読み終えられた本が再び市場へ戻った。そこへ別の読者がやってきて、予定していなかった一冊を見つけた。そして街角の喫茶店でその本を開いた。

一つ一つは小さな出来事である。

しかし、それらが狭い地域で毎日繰り返されると、文化が蓄積していく。

言い換えるなら、古本屋街とは「知識の密度」が異常に高い場所だったのである。

しかも、その知識は閉じた倉庫に保存されているわけではない。

売られ、買われ、読まれ、語られ、また売られていく。

動いている。

だから文化になる。

検索の時代に、古本屋街が残しているもの

現在では、欲しい本を探すだけなら古本屋街へ出かける必要はなくなった。

東京都古書籍商業協同組合自身も1996年に古書検索サイト「日本の古本屋」を開設し、古書の流通は早くからインターネットへ広がってきた。

これは古本屋にとって大きな変化だった。

全国の在庫を検索できるようになり、かつて何日も歩かなければ見つからなかった一冊が、数分で見つかることもある。

それでも神保町から古本屋が消えたわけではない。

現在も古書店が集まり、古本まつりが続き、新しい形の書店まで生まれている。棚の一部を個人が借り、自分の選んだ本を販売する「シェア型書店」のような試みまで登場している。

おそらくこれは、本というものが情報だけではないからだろう。

検索は目的地へ最短距離で連れていってくれる。

しかし文化は、ときに寄り道から生まれる。

何となく入った店で知らない作家を知る。目的の本を見つけられない代わりに、もっと面白い本を見つける。隣の棚から自分とは違う思想が顔を出す。

アルゴリズムなら、その人の好みに合わないとして表示しなかったかもしれない本が、古本屋では平然と目の前に立っている。

その無秩序さには価値がある。

人間の世界そのものが、本来そうだからである。

街そのものが、一冊の本になる

古本屋街を歩くとき、私たちは本だけを見ているのではない。

店の看板を見る。昔から残る建物を見る。店主と客の短い会話を聞く。学生が店頭の百円均一の棚をのぞき込んでいる。誰かが大量の専門書を抱えて出てくる。

その風景の中には、百年以上続いてきた本と人との関係が重なっている。

だから神保町という街は、一冊の巨大な本のようにも見える。

古書店の一軒一軒が章であり、棚がページであり、そこを歩く人間が読者である。

ただし、この本には読む順番がない。

どこから入ってもいい。

途中で喫茶店に寄ってもいい。

一冊も買わずに帰る日があってもいい。

それでも何度か歩いているうちに、ある日、思いがけない一冊に出会う。

おそらく古本屋街が長いあいだ文化を生み出してきた秘密は、そこにある。

人は、自分が何を探しているのかを、いつも知っているわけではない。

知らないものと出会う場所があるから、新しい興味が生まれる。

新しい興味が生まれるから、新しい文章が書かれ、新しい研究が始まり、新しい思想が育つ。

文化とは、完成した知識の集積ではない。

知らなかったものに偶然出会い、その人の中で何かが少し動くことの積み重ねなのだろう。

古本屋街は、本を売ることでそれを続けてきた。

そして今日も棚のどこかで、一冊の古い本が、自分をまだ知らない次の読者を待っている。

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本屋に入ると、ときどき一冊の本だけが妙に明るく見えることがある。平積みされた本の帯には、「○○賞受賞」と大きな文字が印刷されている。その文字は、まだその作家を知らない読者に向かって、「これは読む価値のある本です」と静かに保証しているようにも見える。

文学賞には不思議な力がある。

無名だった作家の名前が一夜にして新聞やテレビに現れ、それまで数千人しか知らなかった作品を、何十万人もの人が手に取ることがある。昨日まで書店の棚の一角に置かれていた本が、翌日には入口近くの台を占領する。文学という、本来ならばひどく個人的で静かな営みが、賞の発表された瞬間だけ社会的な事件になる。

しかし、そこで一つ疑問が生まれる。

その本は、十年後にも読まれているのだろうか。五十年後にも書店に並んでいるのだろうか。

文学賞を取ることと、文学として残ることは、本当に同じなのだろうか。

賞を取った瞬間と、本が生き残る時間

文学賞について考えるとき、私たちはつい「受賞作=優れた作品」と一本の線で結びたくなる。もちろん、選考委員が読み、議論し、一定の評価を与えた作品なのだから、受賞にはそれなりの意味がある。

だが、ここには時間の問題がある。

文学賞が選んでいるのは、基本的には「いま」の作品である。その時代の言葉、その時代の問題意識、その時代の文学観の中で、どの作品に新しさがあるのか、どの作家に可能性があるのかを判断する。

たとえば芥川龍之介賞は、そもそも完成された大家を顕彰する賞というより、新しい文学を担う新人を見いだす性格を持つ。日本文学振興会も、芥川龍之介賞について「日本文学に新風を送る作品を著した有為の新人」を選ぶ賞として位置づけている。

ここが重要である。

文学賞は未来から作品を眺めることができない。

選考委員にも、ある作品が五十年後に高校の教科書へ載るのか、文庫として読み継がれるのか、あるいは古書店でしか見つからない本になるのかは分からない。賞が判断できるのは、その作品が発表された時点で持っている価値までである。

ところが、読者はそこから先を生きる。

そして文学の本当の選考は、受賞式が終わってから始まる。

文学史には、受賞者より有名になった「落選者」もいる

文学賞の歴史を振り返ると、少し奇妙なことに気づく。

過去の受賞者一覧を眺めていると、現代の一般読者にはほとんど知られていない作家や作品が少なからず並んでいる。第1回芥川龍之介賞は1935年、石川達三の『蒼氓』に与えられた。その後も多くの作家が受賞してきたが、すべての作品が現在まで同じように読まれているわけではない。公式の歴代一覧を見れば、それだけでも文学賞と文学的寿命が別物であることが分かる。

それは賞の失敗というより、むしろ当然のことである。

文学史そのものが、賞の選考よりはるかに長い時間をかけて行われる巨大な選考だからだ。

ある作品は受賞した年には鮮烈に新しく見える。しかし、その「新しさ」が時代に依存していた場合、社会が変われば輝きも弱くなる。一方、その年には目立たなかった作品が、人間の孤独や愛情、死、嫉妬、貧困、家族といった時代を越える問題を抱えていたために、何十年も後になって読み返されることもある。

文学というものは、発表された瞬間の順位表だけでは決まらないのである。

競馬ならばゴール板を通過した瞬間に着順が決まる。

文学には、そのゴール板がない。

十年後に順位が変わり、三十年後にも変わり、作者が亡くなった後にさらに変わる。生前には評価されなかった作家が後世に巨大な存在となることさえあるのだから、文学史という競技は、参加者自身がいなくなっても続いていることになる。

賞には「読まれるきっかけ」を作る力がある

だからといって、文学賞に意味がないわけではない。

むしろ文学賞の最大の力は、作品を永遠に残すことではなく、作品と読者が出会う確率を劇的に高めるところにある。

国立国会図書館が紹介している日本のベストセラー史を見ると、この作用がよく分かる。石原慎太郎の『太陽の季節』、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』、綿矢りさの『蹴りたい背中』などは、芥川龍之介賞受賞を契機として社会的な注目を集め、大きな販売部数につながった代表的な例である。『限りなく透明に近いブルー』は1976年末までに130万部、『蹴りたい背中』も130万部を超えたとされる。

ここには文学賞のもう一つの顔が見えてくる。

賞は評価制度であると同時に、巨大な読書案内でもある。

実際、芥川龍之介賞と直木三十五賞を創設した菊池寛自身、賞に宣伝的な性格があることを早くから認めていた。

考えてみれば当然でもある。

世の中には毎年、数え切れないほどの小説が出版される。読者はそのすべてを読むことなどできない。本屋で一冊を選ぶためには、何らかの手掛かりが必要になる。好きな作家の名前、書店員の推薦、新聞の書評、友人の口コミ、表紙の美しさ。そしてその中でも、「文学賞受賞」という表示は非常に強い情報になる。

したがって賞とは、作品の価値を最終決定する判決ではない。

むしろ、「この作品を一度読んでみませんか」と大量の読者に差し出す招待状なのである。

売れた本と、残る本もまた違う

さらに話を複雑にするのが、ベストセラーとロングセラーの違いである。

ある年に百万人が読んだ本が、そのまま百年後まで残るとは限らない。反対に、刊行当初には爆発的に売れなかった本が、世代から世代へ細く長く読み継がれることもある。

本には「高さ」と「長さ」がある、と考えると分かりやすい。

発売直後に一気に売れる本は、グラフにすれば高い山を描くだろう。しかし、その山が急激に下がれば、累積された読書の時間は意外に短い。一方、一年あたりの読者数はそれほど多くなくても、五十年、百年と読み継がれる本は、低いながらも長い線を描く。

文学史に残るのは、必ずしも最も高い山ではない。

長い線を描いた作品なのである。

国立国会図書館が戦後出版史を紹介する中でも、文庫や文学全集が作品を継続的に読者へ届ける重要な仕組みになってきたことが分かる。 一度話題になっただけでは本は残らない。文庫に入り、全集に収録され、書店に置かれ、図書館に入り、誰かが誰かに薦める。その繰り返しによって、作品は世代を越えていく。

文学賞はその長い旅の出発駅にはなれる。

しかし、終着駅を決めることまではできない。

時代の問題を書いた作品ほど、時代とともに苦しくなることもある

受賞当時にはきわめて鮮烈だった作品が、その後あまり読まれなくなる理由の一つは、「時代との結びつき」が強すぎる場合である。

これは少し皮肉である。

文学賞ではしばしば、その時代を鋭く捉えた作品が評価される。新しい若者像、新しい家族像、新しい社会問題、新しい性意識、新しい言語感覚。それらを最も早く文学に取り込んだ作品は、発表時には強烈な印象を与える。

だが、「新しい」という言葉ほど早く古くなるものもない。

新しかった風俗は普通の風俗となり、衝撃的だった言葉は誰も驚かない言葉になる。社会制度が変われば、作品の前提そのものが説明なしには分からなくなることさえある。

それでも残る作品は、その時代固有の出来事の奥に、人間そのものを描いている。

舞台になった社会が消えても、その人物が感じる羞恥や嫉妬や孤独だけは消えない。服装も街並みも制度も古くなったのに、登場人物の心だけが妙に現在の自分に似ている。

読者がそこで時間を越える。

古典とは、おそらく「古い本」のことではない。

何度時代が変わっても、新しい読者の現在形に入り込んでくる本のことである。

作品を残す最後の審査員は、名前のない読者たちである

文学賞には選考委員がいる。

しかし文学史には、正式な選考委員会がない。

そこにいるのは、何百万人という名前のない読者である。

ある人は高校生のときに一冊を読み、二十年後に子どもへ薦める。ある教師は授業で取り上げ、ある評論家は論文を書き、ある出版社は文庫を再刊する。図書館員が棚から除籍せず、古書店主が本を捨てず、誰かがSNS(Social Networking Service・インターネット上で人々が交流するサービス)で突然話題にする。

そうした無数の小さな判断が積み重なって、一冊の本の寿命が決まっていく。

ここには文学賞とはまったく違う選考原理がある。

文学賞の選考は数人で行われ、数時間あるいは数日の議論によって結論が出る。しかし読者による選考には百年かかることがある。

しかも投票用紙はない。

読むという行為そのものが一票なのである。

読み終えて誰かに薦めれば、もう一票増える。新しい版が出版されれば、作品は次の選挙に立候補する。そして誰にも読まれなくなったとき、その作品は静かに文学史の表舞台から退いていく。

だから、文学作品にとって本当に厳しい審査は、賞の選考会ではないのかもしれない。

受賞後の長い時間なのである。

文学賞は「正解」ではなく、その時代から届いた手紙である

では、文学賞受賞作を私たちはどう読めばよいのだろう。

「賞を取ったのだから名作に違いない」と読む必要はない。また、「受賞作など権威が決めたものだから信用できない」と反発する必要もない。

もっと面白い読み方がある。

なぜ、この作品はこの時代に選ばれたのだろう、と考えて読むのである。

すると文学賞は、一冊の作品だけではなく、その背後にある時代まで見せてくれる。

何を新しいと感じたのか。何に社会が驚いたのか。どのような文章が文学的だと考えられていたのか。何を人間の重要な問題としていたのか。

そう考えると、現在ほとんど読まれていない受賞作にも意味が生まれる。

後世まで残らなかったから価値がなかったのではない。その作品は、その時代の文学が何を見ていたかを記録している。

文学賞の受賞作一覧とは、名作ランキングではない。

文学が時代ごとに残してきた足跡なのである。

百年後に残る一冊を、私たちはまだ知らない

今年の文学賞受賞作の中に、百年後にも読まれている作品があるかもしれない。

ないかもしれない。

それを現在の私たちは知ることができない。

いま書店の中央に山積みされている一冊より、棚の隅に一冊だけ差し込まれている小説のほうが、百年後には有名になっている可能性さえある。

文学にはその逆転がある。

だから面白い。

文学賞は一晩で作家の運命を変えることができる。しかし、一冊の本の寿命を決めることはできない。

賞が与えるのは「選ばれた」という事実であり、「残る」という保証ではない。

作品を残すのは、結局のところ時間と読者である。

何十年という歳月の中で社会が変わり、価値観が変わり、言葉が変わっても、それでも誰かが本を開く。その人物に笑い、その孤独に胸を締めつけられ、自分が生まれる前に書かれた一行の中に自分自身を見つける。

その瞬間、文学賞の肩書はもう必要ない。

表紙の帯がなくなっても、作者が亡くなっても、受賞した年を誰も覚えていなくても、その物語だけが読者の前でもう一度生き始める。

おそらく、それが文学作品にとって最も長く、最も厳しく、そして最も公平な「賞」なのだろう。

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いま映画を見ようと思えば、スマートフォンを取り出して検索すればいい。上映中の作品も、映画館の場所も、開始時刻も、空席も、その場で分かる。コンサートに行きたければアーティスト名を検索し、演劇を見たければ劇団の公式サイトを開けばいい。便利になったというより、私たちは「情報を探している」という感覚さえ持たなくなった。

けれども、かつて東京で映画を見ようと思った若者は、そう簡単には目的の映画へたどり着けなかった。ロードショーが終わった作品が、どこの二番館に移ったのか。小さな劇場で面白そうな芝居をやっていないか。名前だけ聞いたバンドは、今月どこでライブをするのか。情報は確かに存在していたが、それぞれ別の場所に散らばっていた。

その散らばった文化情報を、一冊の雑誌の中に集めてしまったのが『ぴあ』だった。

1972年7月、当時大学生だった矢内廣らによって創刊された『ぴあ』は、映画、演劇、コンサートなどの情報をまとめた月刊誌として出発した。当時は「情報誌」という言葉そのものが一般的ではなかったという。ぴあ株式会社自身が後に『ぴあ』を「文化・街歩きの道しるべ」と表現しているのは、この雑誌が果たした役割をよく表している。

しかし、『ぴあ』が若者の必需品になった理由は、単に情報量が多かったからではない。

そこには、インターネットが存在しなかった時代ならではの、「自分で文化を探す」という行動の形があった。

見たいものがあっても、どこで見られるか分からなかった

『ぴあ』誕生の原点には、ひどく実用的な不便があった。

創刊者の矢内廣は映画好きの学生だったが、ロードショー料金は学生には高かった。そのため、ロードショーが終わった映画を二番館、三番館で安く見る。しかし問題は、その映画が次に「いつ、どこの映画館にかかるのか」を簡単に知る方法がなかったことだったという。そこで映画情報を一冊にまとめ、さらに演劇や音楽、美術展なども加えれば便利なのではないかという発想が生まれた。

この話は、現代から見ると意外なほど重要である。

現在なら、私たちは作品名から場所を探す。しかし当時は、作品を知っていても場所が分からないことがあり、逆に町を歩いて初めて面白そうな映画や芝居に出会うこともあった。

つまり文化と人との間に、いまよりはるかに大きな「情報の距離」が存在していた。

『ぴあ』は、その距離を縮めた。

しかし、距離を完全になくしたわけではない。むしろ、この中途半端さこそが面白かった。

ページをめくっていると、目的だった映画の隣に知らない映画が載っている。その下には小劇場の公演があり、さらにページを進めれば聞いたことのないミュージシャンのライブがある。

検索ではない。

一覧するのである。

ここに、現在のインターネットとの決定的な違いがある。

『ぴあ』を読むことは、予定を立てることだった

『ぴあ』は、一般的な雑誌のように文章を順番に読むものではなかった。

買ったらページをめくりながら、映画のタイトルを見る。上映館を確かめ、上映時間を見る。コンサートの日程を調べ、劇場の場所を確認する。そして、「土曜日はここへ行こう」と考える。

つまり『ぴあ』は、読む雑誌であると同時に、行動を組み立てる道具だった。

これは旅行における時刻表に少し似ている。

鉄道時刻表を読む人が、列車の発車時刻だけを見ているわけではないように、『ぴあ』を開く若者も、単に上映時間だけを調べていたのではない。その情報を組み合わせながら、自分の一日を設計していた。

午後から映画を一本見る。そのあと新宿を歩き、夕方からライブを見る。途中で喫茶店に入るかもしれない。本屋にも寄るかもしれない。

『ぴあ』に載っていたのはイベント情報だったが、その向こう側にあったのは「自分は今度の休日をどう過ごすか」という生活そのものだった。

だから、一冊の雑誌が若者のバッグの中に入った。

読み終えれば捨ててしまう雑誌ではなく、何度も開く必要があったからである。

若者は『ぴあ』によって東京を覚えていった

情報を調べることと、街を知ることもまた、当時は切り離せなかった。

1979年、『ぴあ』誌上に「ぴあMAP」が登場する。最初に扱われたのは新宿東口だった。映画館、劇場、ライブハウス、美術館などを載せる一方、一般的な地図に必要な行政界などは省き、実際に歩いて道路を確認して作られたという。その後、この地図は若者から支持され、1982年にはムックとして刊行された。

ここには、『ぴあ』という雑誌の性格がよく表れている。

普通の地図が「街そのもの」を描くのだとすれば、『ぴあ』の地図は「遊ぶための街」を描いていた。

新宿、渋谷、池袋、銀座、下北沢。

街の名前は単なる地名ではなく、「映画を見る街」「ライブへ行く街」「芝居を見る街」という文化的な意味を持つようになる。

地方から東京へ出てきた学生にとってはなおさらだっただろう。東京という巨大な都市は、最初から理解できる場所ではない。しかし『ぴあ』を開き、映画館へ行き、劇場へ行き、その間を歩くうちに、街の位置関係が身体の中に入ってくる。

そう考えると、『ぴあ』は情報誌であると同時に、一種の都市案内書でもあった。

東京という街の使い方を教える雑誌だったのである。

有名なものと無名なものが、同じページに並んでいた

『ぴあ』にはもう一つ、当時としては特徴的な思想があった。

ぴあ株式会社が振り返っている創刊当時の編集方針には、客観情報を中心として批評性をできるだけ排し、情報を選ぶのは読者自身であるという考え方があった。さらに、メジャーなものとマイナーなものを平等に扱うことも掲げられていた。

この思想は、『ぴあ』が若者に支持された理由を考えるうえで非常に重要である。

評論家が「この映画を見るべきだ」と決めるのではない。編集者が「今年はこれが流行する」と教えるのでもない。

情報を並べる。

そして、自分で選ぶ。

いまでは当たり前に見える考え方だが、これは1970年代という時代の空気ともつながっていた。学園紛争の熱が冷め、従来の権威への距離感が生まれる一方で、フォークソングやミニコミ誌など、それまでの大手メディアとは異なる若者文化が広がっていた。矢内自身も、そうした時代背景の中で『ぴあ』が生まれたことを語っている。

だから『ぴあ』には、どこか民主的なところがあった。

大スターの公演も、小さな劇団の芝居も、名画座の古い映画も、ページの中では「今日見ることのできるもの」として並ぶ。

若者はその中から自分で選ぶ。

その選択の積み重ねによって、「自分の趣味」が出来上がっていったのである。

表紙を見るだけで『ぴあ』だと分かった

そして忘れてはならないのが、及川正通による表紙である。

1975年から始まった独特の似顔絵風イラストは、長く『ぴあ』の顔になった。書店や駅の売店で並んでいても、タイトルを確認する前に「あ、ぴあだ」と分かるほど強い個性を持っていた。ぴあの資料によれば、情報誌『ぴあ』は最盛期に発行部数約80万部に達し、最終的には通巻1341号まで続いた。

中身は徹底して実用的なのに、表紙は遊んでいる。

この組み合わせも『ぴあ』らしかった。

時刻や場所や料金という無機質なデータだけを詰め込めば、単なる情報一覧になってしまう。しかし、あの表紙が付くことで、『ぴあ』そのものが若者文化の一部になった。

バッグから取り出したとき、それが何の雑誌であるかを説明する必要はなかった。

『ぴあ』を持っていることそのものが、「映画や音楽や芝居に関心のある人」という小さな自己表現にもなっていたのである。

そして「情報」と「チケット」がつながった

『ぴあ』の発展を考えると、1984年の「チケットぴあ」開始は自然な出来事だったようにも見える。

映画やコンサートの情報を知れば、次に必要になるのはチケットである。それまで情報を提供していた会社が、コンピュータのオンラインネットワークを使ったチケット販売へ進む。ぴあはこの時期、自らを単なる出版社ではなく「情報流通業」と捉えるようになっていった。

これはかなり先進的な発想だった。

雑誌を売ることが目的なのではない。

人が「何かを見たい」と思い、その情報を知り、実際に会場へ行く。その一連の流れを支えることが事業だった。

だから『ぴあ』という雑誌は、最初から普通の雑誌とは少し違っていたのかもしれない。

記事そのものを読むために買うというより、その先にある現実の体験へ行くために買う。

紙面は目的地ではなく、入口だったのである。

『ぴあ』の最大の魅力は、知らないものが目に入ることだった

ところが、この仕組みを現在のインターネットと比較すると、意外な逆転が見えてくる。

情報量では、もちろんインターネットの方が圧倒的に多い。

映画一本を調べるだけでも、上映時間だけでなく、予告編、出演者、レビュー、座席状況まで分かる。『ぴあ』の時代には想像できなかったほど便利である。

しかし便利になった結果、私たちは「自分が探していない情報」に出会いにくくなった。

検索窓に映画名を入れれば、その映画の情報が出る。

音楽配信サービスを使えば、これまでの視聴履歴から自分が好きそうな曲が推薦される。

つまり現代の情報環境は、自分の好みを知れば知るほど、自分の好みに合ったものを見せてくれる。

『ぴあ』は逆だった。

必要な映画の上映時間を探しているだけなのに、隣に知らない映画が載っている。

その下を見ると、聞いたこともない劇団の名前がある。

さらにページをめくれば、美術展がある。

情報が整理されているのに、そこには偶然が残っていた。

この「予定していなかった出会い」が、『ぴあ』を読む楽しさのかなり大きな部分だったのではないだろうか。

お金のない若者ほど『ぴあ』を必要とした

もう一つ、当時の若者文化を考えるときに重要なのは、若者には今も昔も、それほどお金がないという単純な事実である。

だからこそ、安く映画を見る方法を探す。

どこかで自主映画を上映していないか調べる。

小劇場へ行く。

まだ有名になる前のミュージシャンを見る。

限られたお金で、できるだけ面白いものに出会いたい。

『ぴあ』は、そのための道具として非常に合理的だった。

これは高級な文化を紹介する雑誌ではない。

むしろ、財布の中身が乏しい若者が、それでも映画を見たい、音楽を聴きたい、芝居を見たいと思ったときに役に立つ雑誌だった。

創刊そのものが「ロードショーは高いから、安くなった映画を見たい」という学生の感覚から始まっているのだから、当然なのかもしれない。

『ぴあ』には、文化を楽しむためには大金が必要だという発想がなかった。

必要なのは、少しの金と時間と情報だった。

その情報を提供したのである。

インターネットが『ぴあ』の役割を引き継いだ

『ぴあ』は2011年7月、39年の歴史を経て休刊した。

しかし、それを単純に「雑誌がインターネットに負けた」と考えると、本質を見失う。

なぜなら、『ぴあ』が目指していたものとインターネットには、よく似たところがあるからだ。

情報を集める。

できるだけ広く提供する。

権威が選んだものだけではなく、多様な選択肢を並べる。

そして、最終的に何を見るかは利用者自身が決める。

ぴあ株式会社自身も、創刊時の「送り手と受け手がフラットである」という思想を、後のインターネットの考え方と重なるものとして振り返っている。

そう考えると、『ぴあ』はインターネットによって否定された雑誌というより、インターネット以前にインターネット的なことを紙でやっていた雑誌だった、と考えた方が正確なのかもしれない。

紙という限界の中で、都市に存在する文化情報をできるだけ集め、一冊の中から利用者自身が選ぶ。

その仕組みそのものが新しかったのである。

若者が失ったのは『ぴあ』ではなく、「探す時間」なのかもしれない

それでも、『ぴあ』がなくなったことに、どこか寂しさを感じる人は少なくないだろう。

それは紙の雑誌が一冊なくなったからだけではない。

文化との出会い方が変わったからである。

かつては『ぴあ』を買い、ページをめくり、丸を付ける。友人と相談する。地図を見る。電車に乗る。駅を出て、少し迷いながら映画館やライブハウスを探す。

その一連の行動全部が、映画を見ることや音楽を聴くことの一部だった。

現在なら数分で終わる情報収集に、昔はずいぶん時間がかかった。

けれども、その不便な時間の途中で、知らない映画を知り、知らない街を歩き、知らない店に入り、予定していなかったものに出会った。

便利になるとは、目的地へ早く到着できることである。

しかし目的地へ早く到着できるようになればなるほど、途中で何かに出会う機会は減っていく。

『ぴあ』が若者の必需品だった理由は、そこに必要な情報が載っていたからである。

けれども、長い時間を経て振り返ってみれば、それだけではなかったことに気づく。

あの小さな文字が並んだページを眺めながら、

「今度の日曜日、どこへ行こうか」

と考える。

その瞬間、まだ行ったことのない映画館も、知らないバンドも、歩いたことのない街も、自分の未来の選択肢になった。

『ぴあ』が売っていたのは、映画情報でも、コンサート情報でもなかったのかもしれない。

若者が自分自身で休日を選び、自分自身で街へ出て、自分自身の好きなものを見つけていくための、無数の入口だったのである。

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