リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 部屋の本棚を眺めていると、ときどき小さな後ろめたさを覚えることがある。書店で見つけたときには確かに「読みたい」と思い、財布を開いて持ち帰ったはずなのに、その後一度も開いていない本が何冊も並んでいるからだ。一冊だけならまだよいが、二冊、十冊、数十冊と増えてくると、それらは次第に「これから読む本」ではなく、「読めなかった本」のように見えてくる。読み終えた本には達成感があるのに、未読の本には宿題のような気配がまとわりつき、積み上がった冊数そのものが、自分の計画性のなさを告発しているようにも感じられる。

 日本では、この状態を古くから「積ん読」と呼んできた。「積んでおく」と「読書」を掛け合わせたしゃれのような言葉だが、その歴史は意外に古く、明治時代にはすでに「つんどく家」「つんどく先生」といった表現が現れている。つまり、本を買いながら読まずに置いておくという行為は、現代の大量出版やインターネット通販によって突然生まれたものではなく、本を所有する文化が広がったかなり早い時期から、人々が自覚していた現象だったのである。

 それでも私たちは、積ん読をどこか失敗として考えやすい。本は読むためのものなのだから、買っただけで読まなければ目的を果たしていない、という考え方は分かりやすい。購入を入力、読了を出力とするならば、未読本とは処理されないまま残ったデータのようなものになる。年間何冊読んだか、月に何冊読破したかという数字で読書を管理する習慣が強くなれば、積ん読の山は「未達成」の量として数えられてしまう。

 しかし、人間が本を買う理由は、本当に最後のページまで読むことだけなのだろうか。書店で一冊の歴史書を手に取った人は、その瞬間に歴史を学んだわけではないが、「いつかこの時代について知りたい」と思っている。難しそうな哲学書を買った人も、その日のうちに哲学者になるわけではない。それでも、その本を持ち帰るときには「いつかこの問題を考える自分」が、かすかに想像されている。そう考えるなら、本を買うという行為には、現在の自分が未来の自分にひとつの可能性を渡すという側面がある。

 もちろん、「未読本を所有すれば未来の自分が豊かになる」という因果関係が科学的に証明されているわけではない。それでも、所有物が単なる物ではなく、人間の自己像と結びつくことは、心理学や消費者行動研究で長く論じられてきた。アメリカの研究者ラッセル・ベルクは、人間が所有する物を「拡張された自己」として捉え、所有物が「自分はどのような人間なのか」という感覚に関係すると論じた。本もその例外ではなく、個人の本棚についての研究では、蔵書が他人への自己演出だけでなく、持ち主自身が自分をどのような読者だと考えるか、その確認にも関わることが指摘されている。

 本棚を見れば、その意味は直感的にも分かる。そこには、実際に読んだ本だけでなく、かつて読みたいと思った本が残っている。若い頃に買った社会思想の本、仕事のために必要だと思って買った専門書、旅先で偶然見つけた地方出版社の本、新聞の書評を読んで衝動的に購入した小説。現在の自分なら選ばない本が並んでいることさえあるが、それらを眺めていると、「あの頃の自分は、こんなことに関心を持っていたのか」と思い出す。本棚とは知識の倉庫である以前に、選択の痕跡が堆積した場所なのかもしれない。

 この意味で、積ん読された本は少し奇妙な存在である。読了した本ならば、「面白かった」「難しかった」「途中から退屈だった」と何らかの評価を下すことができる。しかし未読本には、それができない。その本が人生を変える一冊なのか、二十ページで投げ出す本なのか、まだ何も決まっていない。読まない限り、その本は内容を持ちながら、持ち主にとっては可能性のまま存在し続ける。

 だから未読本には、既読本とは違う時間が流れている。買った直後には読みたかったのに、数年間まったく興味を失うこともあれば、十年前には退屈そうに見えた本が、ある日突然必要になることもある。社会で大きな出来事が起きたとき、かつて買った歴史書が気になり始めるかもしれない。親を亡くした後で、以前なら何も感じなかった小説の題名が急に胸に引っ掛かることもある。仕事を辞めた後で、若い頃に買った思想書が突然身近な問いを語り始めることさえある。

 本は変わっていない。変わったのは読者の方である。

 このことは、単なる文学的感傷とも言い切れない。読解に関する心理学研究では、年齢や人生経験によって文章の受け取り方が変わり得ることが示されている。若い読者が文章そのものの情報を比較的忠実に追うのに対して、年齢を重ねた読者では、物語の心理的意味や背景を自分の経験と結びつけて再構成する読み方が現れることがある。文学を読んでいる途中で、自分自身の過去の経験が呼び起こされ、それが作品への共鳴に影響することも研究されている。

 そうであるならば、「買ったときにすぐ読むこと」が、必ずしもその本と出会う最良の時期とは限らない。二十歳で読んでも通り過ぎてしまった一節が、六十歳では立ち止まらずにいられない言葉になることがある。反対に、若い頃には鮮烈だった小説が、何十年後かに読み返すと驚くほど平板に感じられることもある。本の内容が変わったわけではなく、読む側の記憶、経験、価値観が変化したことで、同じ文章から取り出される意味が変わったのである。

 ここで積ん読という現象を考え直してみると、未読本は「読むべきなのに放置された本」というだけではなく、「まだ読者との時間が一致していない本」と見ることもできる。もちろん、それは美しい解釈にすぎない場合もある。実際には、単に買ったことを忘れているだけの本もあるし、二度と興味を持たない本もあるだろう。それでも、購入から読書までの間に時間が空くこと自体を、直ちに失敗と判断する必要はない。

 紙の本では、この時間差が特に目に見える。電子書籍にも未読本はいくらでも存在するが、端末やアプリを開かなければタイトルを見ることさえない。それに対して紙の本は、読まれていなくても机の上にあり、本棚に背表紙を向け、時には床に積まれながら、所有者の生活空間に居続ける。紙の本と電子書籍の心理的所有感には違いが生じ得ることも研究されており、紙の本棚が読者としての自己認識に関係することも指摘されている。

 その物理的な存在は、記憶との関係でも興味深い。心理学には、将来しようと思っている行動を適切な時点で思い出す展望記憶という研究分野があり、人間は環境にある手掛かりによって、以前の意図を思い出すことがある。本棚の背表紙を目にしたからといって必ず「読もう」と思い出すわけではないが、そこに本が存在し続けることが、かつて抱いた関心を呼び戻す手掛かりになる可能性はある。「そういえば、これを読みたかったのだ」という小さな再発見は、紙の本が生活空間に残っているからこそ起こりやすい場面の一つだろう。

 考えてみれば、積ん読本は不思議なほど控えめである。読めとは命令しないし、読まなかったからといって罰も与えない。ただそこに置かれている。それでも、ときどき背表紙が目に入り、「あなたは以前、この世界に興味を持ったことがあります」と思い出させる。過去の自分から現在の自分へ届く、非常に遅い手紙のようなものとも言える。

 さらに興味深いのは、未読本が知識ではなく「無知」を可視化する点である。本棚に読了した本だけが並んでいれば、それは自分が知った世界の展示室になる。しかし未読本が混じっていれば、そこには「まだ知らない世界」も並ぶ。分厚い世界史、古典哲学、知らない国の小説、理解できる自信のない科学書。それらの背表紙を眺めれば、自分が知っている範囲がどれほど限られているかを思わされる。

 もっとも、「本をたくさん読むほど人間は自分の無知を正確に認識する」とまで科学的に断定することはできない。だが、読書を続けていると、一冊を読むたびに新しい知らない本へたどり着くという経験は珍しくない。ある歴史書を読めば参考文献に別の本が並び、その本を読めばさらに別の思想家が現れる。知識の世界は、奥へ進めば壁に突き当たるのではなく、むしろ新しい通路が増えていく。その結果として本棚に未読本が増えるなら、それは必ずしも読書の敗北とは言えない。

 むしろ、未読本がまったくない状態を想像すると少し奇妙である。読みたいと思った本をすべて読み終え、新たに読みたい本も一冊もない。本棚にあるのはすべて理解済みの本だけで、知らない領域への入口がどこにも残されていない。その状態は整然としていて気持ちがよいかもしれないが、知的生活という点では、どこか閉じているようにも見える。

 もちろん、ここから「積ん読は多いほど優れている」という話にはならない。家には広さがあり、家計にも限界がある。本を買う行為そのものが目的になれば、読書ではなく収集に近づく場合もあるし、本棚を自分の知性を誇示する舞台として使うこともできる。読まない本を大量に所有しているだけで、知識が増えるわけでもない。未読の医学書を百冊持っていても医療知識が身につくわけではなく、哲学全集を並べても哲学を理解したことにはならない。

 それでも、読んでいないという一事だけで、その本との関係を「失敗」と判定するのも早すぎる。本は情報を受け取るための媒体であると同時に、文化を保存する物でもあるからだ。このことは図書館を考えるとよく分かる。図書館にある何十万冊という本のすべてが毎年読まれているわけではない。何年も誰にも借りられない本もある。それでも、必要とする人が現れたときに取り出せるよう保存されていること自体に意味がある。

 もちろん、公共図書館と個人の積ん読を同じものと考えることはできない。図書館には収集・保存・提供という制度的な目的があり、個人の本棚にはそこまで整然とした使命はない。しかし、個人の本棚にも「いま必要ではないが、いつか必要になるかもしれない本を残しておく」という働きが生じることはある。その意味では、本棚は極めて私的で偏った小さな図書館に似ている。

 その偏りこそが面白い。公共図書館なら分類体系に従って並ぶところを、個人の本棚では、哲学書の隣に旅行記があり、その隣に料理本があり、さらに昔好きだった推理小説が挟まっていることもある。そこには体系ではなく人生の偶然が並んでいる。仕事のために買った本、失恋したときに買った本、旅先の古書店で何となく手に取った本、友人に勧められたまま読まずにいる本。その無秩序には、本人にしか分からない時間が保存されている。

 文化全体に視野を広げれば、「いま読まれていない」という状態が、その作品の最終的な価値を決めるわけではないことにも気づく。文学史を振り返れば、刊行当時に十分評価されなかった作品や、一時期ほとんど読まれなくなった作品が、後世の研究や復刊によって再評価されることがある。逆に、ある時代には広く読まれながら、その後ほとんど忘れられた本も少なくない。作品の価値と、その時代にどれだけ読まれているかは、必ずしも一致しないのである。

 だから文化には、読まれない時間も必要なのかもしれない。本は常に誰かに読まれ続けなければ存在価値を失うものではなく、書庫や図書館や個人の本棚で長い沈黙を過ごしながら、別の時代の読者を待つことができる。一冊の本から見れば、人間の十年や二十年はそれほど長い時間ではない。持ち主が買った直後に読まなくても、その本が消えてしまうわけではない。

 現代では、読書にも効率が求められやすい。一冊を短時間で読み、要点をまとめ、次の本へ進む。何冊読んだかが数字になり、読了冊数が成果のように扱われる。しかし、人間の読書は本来、それほど直線的ではない。途中でやめることもあれば、二十年後に読み直すこともあり、買ったことさえ忘れていた本に突然救われることもある。

 本には本の時間があり、読者には読者の時間がある。その二つが重なる瞬間は、必ずしも本を買った日ではない。

 積ん読された本の中には、生涯開かれない一冊も当然あるだろう。その本については、最後まで「読む可能性」のまま終わる。それでも、それを完全な失敗と呼ぶかどうかは、本というものを何だと考えるかによって変わってくる。情報を効率よく摂取する道具だと考えれば失敗かもしれないが、人間の関心、記憶、自己像、文化への入口として考えれば、未読であることにも別の意味が現れてくる。

 積ん読は、知識を獲得できなかった痕跡であると同時に、まだ知ることのできる世界を手元に残している状態でもある。すべての本を読み終え、未読の本が一冊もない本棚には確かな達成感があるだろう。しかしそこには、ほんの少しだけ未来が足りないようにも見える。

 本棚の隅で何年も眠っている一冊を見つけたとき、「まだ読んでいない」と自分を責める必要はない。その本は単なる宿題ではなく、過去の自分が未来の自分に残した問いなのかもしれない。明日開くかもしれないし、十年後かもしれない。あるいは最後まで開かないかもしれない。それでも、その本がそこにある限り、自分の知っている世界の外側に、まだ別の世界が残っている。

 積ん読とは、読書の失敗というより、読むことのできないほど多くの本と、そのすべてには決して追いつけない有限な人間との間に生まれた、ごく自然な文化の風景なのかもしれない。

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 「太宰治を知っていますか」と尋ねれば、小説をほとんど読まない人でも、その名前くらいは聞いたことがあるだろう。『人間失格』を思い浮かべる人もいれば、中学校の国語で読んだ『走れメロス』を思い出す人もいる。作品を一冊も読んでいなくても、「心中した作家」「暗い作家」「破滅的な人生を送った人」といった断片的な人物像まで知っている人は珍しくない。

 もちろん、「誰でも知っている」という言い方を文字どおり受け取ることはできない。日本人全体を対象に太宰治と織田作之助の知名度を比較した大規模な無作為調査があるわけではないからである。それでも、現在の出版状況や作品へのアクセス数、教科書への掲載状況などを見るかぎり、太宰治と織田作之助の社会的な知名度にかなり大きな差があること自体は否定しにくい。

 では、「織田作之助を知っていますか」と尋ねたらどうだろう。

 文学好きなら、『夫婦善哉』の作者としてすぐに名前が出るかもしれない。しかし一般には、作品名を聞いたことはあっても作者までは知らないという人もいるだろう。ところが文学史の本を開けば、太宰治と織田作之助は、坂口安吾や石川淳らとともに「無頼派」と呼ばれる戦後文学の作家として近い位置に並べられている。

 そもそも無頼派とは、同じ綱領を掲げ、同じ雑誌を中心に活動した正式な文学結社の名称ではない。敗戦後の既成道徳や文学的権威に背を向けるような姿勢を見せた作家たちを、後世の文学史が一つのまとまりとして呼んだ言葉である。したがって太宰と織田が同じ無頼派だからといって、その作風や人生、読者層まで似ていたわけではない。

 それでも文学史上では近い場所にいる二人が、八十年近く後の社会ではこれほど異なる知名度を持っている。この差を単純に「太宰の方が優れた作家だったから」と説明してしまえば話は簡単だが、おそらくそれでは重要なものを見落としてしまう。文学作品が後世に残るかどうかは、その文学的価値だけで決まるわけではなく、学校教育、出版、映画やテレビ、地域文化、さらには作者自身の人生の語られ方まで含めた巨大な仕組みの中で決まっていくからである。

太宰治には、人生の違う時期に何度も出会う

 太宰治の知名度を考えるうえで、まず見逃せないのが『走れメロス』である。

 現在の中高年世代にとっても若い世代にとっても、『走れメロス』は国語教材として非常に馴染みの深い作品であり、その教科書採録の歴史は1950年代までさかのぼる。つまり日本では何十年にもわたり、中学生になると一定数の子どもたちが学校という制度を通して「太宰治」という名前に出会う仕組みが続いてきた。

 ここで重要なのは、『走れメロス』そのものが太宰治を有名にしたと単純に考えないことである。太宰がすでに重要な作家だったから教材として選ばれ、その教材化によって次の世代が太宰を知り、その知名度がさらに出版や研究を支えるという循環が起きたと考える方が自然である。人気が教科書掲載を生み、教科書掲載がさらに人気を強化するという相互作用であり、この循環が数十年続けば、一回限りのベストセラーとはまったく違う文化的な強さを持つことになる。

 しかも太宰との出会いは、中学校で終わらない。

 『走れメロス』で知った太宰が、数年後には『人間失格』の作者として再び現れるからである。友情と信頼を描く『走れメロス』と、「恥の多い生涯を送って来ました」という言葉から始まる『人間失格』を比べれば、同じ作家の作品とは思えないほど印象が違う。しかしその違いこそが、太宰の知名度を支える強みになっている。

 中学生のころには友情を描く作家として太宰に出会い、その後、自意識や孤独、人間関係の息苦しさといった問題に向き合う年代になると、『人間失格』や『斜陽』を通してもう一度太宰に出会う読者もいる。一人の作家が、人生の異なる時期に異なる作品によって何度も読者の前へ戻ってくるのである。

 この「入口の多さ」は数字にも表れている。青空文庫の2022年年間アクセスを見ると、テキスト版では『人間失格』が約41,000、『走れメロス』が約20,000であるのに対し、『夫婦善哉』は約2,000にとどまる。閲覧形式によって数字は変わるものの、『人間失格』と『夫婦善哉』の間には十倍を大きく超える差が見られる。

 もちろん、青空文庫の利用者は日本国民全体を無作為に抽出した標本ではないから、この数字から「太宰の知名度は織田の二十倍だ」と結論することはできない。しかし少なくとも、現在のオンライン上で古典文学に接触する人々のあいだで、太宰作品への接触量が圧倒的に多いことは分かる。

 しかも太宰には一冊だけが突出しているのではなく、『人間失格』『斜陽』『走れメロス』という性格の異なる作品が、それぞれ独立した入口として存在している。ここに織田作之助との大きな違いがある。

太宰治は、作者自身まで「物語」になった

 さらに太宰には、作品とは別のもう一つの強力な入口がある。それが「太宰治という人物」である。

 文学研究として作品を読むなら、主人公と作者本人を単純に同一視するべきではない。『人間失格』の大庭葉蔵を、そのまま太宰治本人だと考えるのは乱暴である。しかし社会の中で作家のイメージが形成される過程では、作品と作者の人生はしばしば混ざり合う。

 自殺未遂、薬物への依存、女性関係、文学者との対立、そして最後の入水という太宰の人生へ、『斜陽』や『人間失格』の世界を重ねると、作者自身の人生まで一つの文学作品のように見えてくる。とりわけ1947年の『斜陽』は「斜陽族」という言葉まで社会に生み出し、その翌年には『人間失格』が発表され、その直後に太宰自身が亡くなる。

 この出来事の並びには、偶然とはいえ強烈な物語性がある。作品を書き終えた作家が、その作品の余韻の中へ自ら消えていったように見えてしまうからである。

 人は小説の細部を忘れても、物語を覚えている。そして太宰治の場合、その物語は作品の中だけではなく作者自身の人生にも存在した。死後の知名度を考えるなら、この「作者そのものが語られ続ける構造」は無視できないだろう。

 ただし、ここにも注意が必要である。太宰の人生が劇的だったから現在まで人気が続いた、と直接証明できる研究があるわけではない。より慎重に言えば、太宰の人生が作品と結びついて繰り返し語られてきたことが、彼の名前を忘れにくくする一つの要因になった可能性が高い、というところまでである。

織田作之助は、有名になる前に死んだわけではない

 これに対して、織田作之助についてしばしば生まれやすい誤解がある。それは、「有名になる前に若くして死んだ作家」というイメージである。

 実際にはそうではない。

 織田は1913年に大阪で生まれ、1947年1月10日、33歳で亡くなったが、その前年には『世相』などによってすでに売れっ子作家となっていた。したがって、織田は無名のまま死んだのではなく、戦後文学の表舞台へ出たところで急死したのである。

 そして、この「出たところ」という時間が重要だった。

 織田が亡くなった1947年に、太宰は『斜陽』を発表し、翌1948年には『人間失格』を残して亡くなる。現在の私たちが「太宰治」と聞いて思い浮かべる代表作と作者像のかなりの部分が、この最後の一年半ほどのあいだに集中して形成されたのである。

 織田作之助にも、その後さらに十年、あるいは二十年の執筆時間があったなら、別の代表作が生まれた可能性も、新しい読者層を獲得した可能性もある。しかしこれは反実仮想であり、証明することはできない。確実に言えるのは、織田が売れっ子になった直後に亡くなったため、その人気を複数の代表作や長期的な作家像へ展開する時間をほとんど持てなかったということである。

 太宰も38歳という若さで亡くなっているから、単純に「長生きした太宰と早死にした織田」という比較にはならない。むしろ重要なのは、二人が死ぬまでの数年間に何を残したかというタイミングの違いなのである。

『夫婦善哉』は織田作之助を有名にし、同時に「大阪の作家」にした

 織田作之助には、『夫婦善哉』という強烈な代表作がある。

 1940年に発表されたこの作品は織田の出世作となり、1955年には豊田四郎監督、森繁久彌と淡島千景主演で映画化された。映画『夫婦善哉』は日本映画史でも高く評価され、出演した二人の代表作として語られるほどの作品になった。

 普通に考えれば、これほど強い代表作を持つ作家なら、その名も太宰と同じくらい知られていてよさそうに思える。

 しかし、ここに少し皮肉なことが起きる。

 『夫婦善哉』は、あまりにも見事に「大阪の物語」だった。

 大阪大学の斎藤理生による研究でも、『夫婦善哉』が織田作之助を「大阪の作家」として印象づけ、そのイメージが後世まで強く残ったことが論じられている。もちろん、大阪を書いたこと自体が文学的な弱点なのではない。むしろ織田文学の魅力は、法善寺や道頓堀、上町台地、食べ物、商売、男女関係、金銭感覚といった具体的な土地の感触が作品の中に染み込んでいるところにある。

 人物たちは人生の意味について大仰な哲学を語るより、食べ、働き、惚れ、金に困り、それでも翌日を生きている。

 太宰の人物が「なぜ自分は人間とうまく生きられないのか」と内側へ沈んでいくとすれば、織田の人物は「それでも明日は腹が減る」と街へ出ていく。その違いは文学として非常に面白い。

 ところが文化の記憶という面では、具体性の強さが別の作用を持つことがある。太宰が描いた孤独、自意識、自己嫌悪は、東京でも大阪でも北海道でも、あるいはインターネット社会に生きる若者でも自分自身の問題として読み替えやすい。一方、織田作之助の大阪は具体的であるがゆえに、「大阪文学」「大阪もの」という棚へ分類されやすい。

 本来なら、織田は大阪という場所を通して普遍的な人間を書いた作家である。それでも受容する側が作品を「大阪の話」として整理してしまえば、作家のイメージまで地域に限定される可能性がある。

 ただし、これも「大阪の作家と見なされたから全国的な知名度が低くなった」と因果関係を断定することはできない。言えるのは、「大阪の作家」という強いイメージが、織田作之助の受容の仕方を長く規定してきたというところまでである。

『夫婦善哉』という作品だけが歩いていったのか

 もう一つ、織田作之助には興味深い現象がある。

 『夫婦善哉』という言葉そのものが、作者を離れて一人歩きできるほど強いのである。

 映画として知った人もいれば、大阪の法善寺周辺の文化からその名前を知った人もいる。しかし「夫婦善哉」という言葉を知った人が、必ずそこから「織田作之助」まで戻ってくるとは限らない。

 これに対して、『人間失格』と聞けば太宰治、『走れメロス』と聞いても太宰治という結びつきはかなり強い。しかも一つの作品から作者へ戻ると、その先に『斜陽』や『女生徒』など別の作品があり、そこから再び「太宰治」という作家像が強化されていく。

 『夫婦善哉』は織田作之助という作家を世に出した作品でありながら、あまりに作品自体の生命力が強かったため、その題名だけが作者から離れて文化の中を歩いてきたようにも見える。

 ただし、これを事実として断定するには、「『夫婦善哉』を知っているが織田作之助を知らない人がどれほどいるか」という知名度調査が必要になる。現段階では、これはあくまで文化的な現象を説明する仮説である。しかし少なくとも、代表作が有名になれば作者も同じ割合で有名になるとは限らない、という問題を考えるきっかけにはなる。

有名な作家ほど優れた作家なのか

 ここまで考えてくると、太宰治と織田作之助の話は、二人だけの問題ではなくなってくる。

 私たちは文学史を眺めるとき、現在でも有名な作家ほど「昔から特別に優れた作家だった」と無意識に考えがちである。しかし知名度は文学的価値だけから生まれるわけではない。学校の教科書に載るか、安価な文庫として何十年も流通するか、映画やテレビで繰り返し作品が紹介されるか、代表作が複数存在するか、作者本人の人生に語りやすい物語があるかといった条件が重なり、その結果として私たちはある名前を「誰でも知っている作家」と感じるようになる。

 そこには、心理学でいう反復接触の問題も関係している。人間は同じ対象に繰り返し接触すると、その対象を認識しやすくなり、親近感を持ちやすくなることが知られている。文学でも、学校で名前を見て、書店で再び見て、映画やテレビでまた見れば、その作家は文化の中でますます「知っていて当然の存在」になっていく。

 そして一度その状態になると、人気はさらに人気を呼ぶ。

 売れているから文庫が残り、文庫が残っているから新しい読者が読み、読者が多いから映像化され、映像化されるからさらに名前が知られる。文学的価値とは別に、「記憶されやすい作家がさらに記憶されやすくなる」という自己増殖的な循環が生まれるのである。

 太宰治はまさにこの循環に入った作家だったと考えることができる。

 もともとの文学的人気が教科書や文庫を支え、教科書や文庫が次世代の読者を生み、その巨大な読者層が『人間失格』『斜陽』『走れメロス』という複数の代表作を維持し、その上に太宰本人の劇的な人生まで重なった。

 一方の織田作之助も、決して忘れ去られた作家ではない。作品は現在も刊行され、研究も続いている。1024年にも新しい傑作選が刊行され、2026年7月にも新たな作品集が出版されている。大阪では文学碑や顕彰活動もあり、『夫婦善哉』も読み継がれている。

 したがって、「太宰は残り、織田は消えた」と考えるのは正確ではない。

 太宰は日本社会全体の共有記憶に深く入り込み、織田は文学史と大阪文化の中に濃く残ったのである。

作家の知名度とは、名前を呼ばれた回数なのかもしれない

 そう考えると、太宰治と織田作之助の知名度差は、文学作品の優劣を示す成績表には見えなくなってくる。

 むしろそれは、一つの社会がその作家の名前を何度思い出す仕組みを持っていたかという「文化的記憶の履歴」なのではないだろうか。

 太宰治という名前は、中学校の教室で呼ばれ、書店の文庫棚で呼ばれ、映画や舞台で呼ばれ、若者の孤独を語る文章の中で呼ばれ、作家の破滅的な人生を語るたびにまた呼ばれてきた。一度呼ばれた名前が次の機会を生み、その機会がさらに次の世代へ名前を渡していく。

 織田作之助という名前も大阪では何度も呼ばれてきた。しかし、日本全国で、しかも十代から大人になるまで何度も同じ名前に出会う仕組みという点では、太宰ほど巨大な反復回路を持たなかった。

 その小さな差が、一年や十年ではなく、八十年近く積み重なった。

 だから現在の知名度は、文学者に対して後世が与えた最終成績ではない。優れた作品だから残った部分もあれば、残る仕組みに入ったからさらに評価された部分もある。その二つを完全に切り分けることは難しい。

 そして、そこまで考えたとき、織田作之助は急に面白い作家になる。

 私たちはそこで、「知られていない作家」を発見するだけではないからである。

 なぜ自分は太宰治を知っていて、織田作之助を知らなかったのか。

 その問いをたどっていくと、教科書、出版社、映画、地域、文学史、読者の記憶という巨大な仕組みが見えてくる。そして最後には、私たちが「名作」や「有名な作家」と呼んでいるものが、作品そのものだけで作られているわけではないことにも気づかされる。

 文学史とは、優れた作品を順番に並べた一覧表ではない。

 そこには、何度も名前を呼ばれた作家と、同じ時代に確かに読まれていたのに、次第に呼ばれる回数が減っていった作家がいる。

 太宰治と織田作之助のあいだにあるのは、単なる人気の差ではない。

 それは、社会が文学をどのように記憶し、どのように忘れていくのかという、もっと大きな問題なのである。

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 かつて日本には、「コピーライター」という職業名そのものが、妙に格好よく響いた時代があった。広告会社に勤めているというだけではない。会社員でありながら作家のようでもあり、商売の世界にいながら芸術家にも近く、短い言葉によって時代の気分を言い当てる人。1980年代から平成初期にかけて、コピーライターはそんな少し不思議な職業として一般社会から眺められていた。

 糸井重里や仲畑貴志といった名前は、広告業界の内側だけにとどまらなかった。広告の作者そのものに関心が集まり、コピーを書く人が雑誌に登場し、本を書き、テレビに出演し、やがて文化人として語られるようになっていく。後年、仲畑自身が「あのころにはコピーライターブームのようなものがあった」と振り返っていることからも、この現象が単なる後世の思い込みではなかったことが分かる。

 けれども、ここで一つ奇妙なことに気づく。コピーライターという仕事そのものは、1980年代に突然生まれたわけではないのである。

コピーライターは、ブームになるずっと前からいた

 東京コピーライターズクラブの前身である「コピー十日会」が結成されたのは1958年で、1962年には東京コピーライターズクラブへ名称を変更し、翌1963年には『コピー年鑑』が創刊されている。当時すでに広告業界では「文案家」という古い呼称に代わって「コピーライター」という名称が定着し始めており、専門職としての地位を確立しようとする動きも進んでいた。つまり、1980年代に起きたのはコピーライターという仕事の誕生ではなく、すでに存在していた専門職が、広告業界の壁を越えて一般社会から見えるようになったことだった。

 なぜ、それまで広告の裏側にいた人々が突然、時代の表舞台へ姿を現したのだろうか。その理由を「バブルだったから」の一言で説明してしまうと、時系列を取り違えることになる。コピーライターへの注目は1980年代前半にはすでに始まっており、日本のバブル経済が本格化するより早い。むしろ、その背景には戦後の消費社会そのものが成熟し、企業が商品を売る方法を変えざるを得なくなっていたという、もっと長い変化があった。

商品が豊かになるほど、商品の説明だけでは売れなくなった

 高度経済成長期の商品には、それ自体に強い物語があった。冷蔵庫のない家に冷蔵庫が来れば生活は明らかに便利になり、白黒テレビしか知らない家庭にカラーテレビが入れば、目の前の世界が変わった。自動車を所有すれば移動できる範囲が広がる。新しい商品には新しい機能があり、その便利さを説明すること自体が広告になった。

 しかし、豊かさが広がるにつれて状況は変わる。すでに冷蔵庫を持っている人に次の冷蔵庫を買ってもらい、テレビを持っている家庭に新しいテレビを選んでもらわなければならない。自動車も衣服も飲料も化粧品も、一定以上の品質を備えた商品が市場に増えれば、企業は「なぜ必要なのか」を説明するだけでは足りなくなり、「似たような商品の中から、なぜこれを選ぶのか」という、はるかに難しい問いに答えなければならなくなる。

 仲畑貴志は後年、自分たちがコピーライターとして仕事を始めたころには商品の機能が豊富になり、モノ同士の差が小さくなっていたため、単純な「機能の翻訳」だけではコピーとして十分ではなくなっていたという趣旨のことを語っている。それ以前なら、商品の特徴を的確な言葉に置き換えるだけでも仕事になったが、商品そのものだけでは差がつきにくくなると、広告はその商品がもたらす気分や生活、価値観まで語らなければならなくなったのである。

 ここに、コピーライターが表舞台へ出てくる重要な条件が生まれた。

 商品の機能を説明する人ではなく、商品に「意味」を与える人が必要になったのである。

「おいしい生活。」は、何を売っていたのか

 この変化を象徴する言葉の一つが、西武百貨店の「おいしい生活。」だった。糸井重里によって考えられたこのコピーは1982年の広告に使われたが、よく考えてみれば、百貨店の広告としてはかなり奇妙である。洋服が安いとも、食器が丈夫だとも、品揃えが豊富だとも言っていない。具体的な商品をほとんど説明していないのに、なぜか百貨店という場所の魅力を語っているように感じられる。

 それは、この広告が一つの商品ではなく、「どんな暮らしをしたいのか」という問いを売っていたからだろう。

 生活必需品が不足している社会では、広告は「何を持つべきか」を教える。しかし、多くの人が必要な物をすでに持っている社会では、「どう暮らすのが楽しいのか」「何を選ぶ自分でありたいのか」が新しい消費の理由になる。そのとき、広告は商品説明から生活編集へ近づき、コピーライターは商品の特徴をまとめる技術者というより、まだ言葉になっていない時代の気分に名前を付ける人物として見えるようになる。

 「おいしい生活。」という言葉が興味深いのは、それが1980年代を単純に礼賛しているわけではないところにもある。糸井自身が後年語った制作の経緯は、豪華な消費を称えるというより、自分が心地よく暮らすことへの素朴な感覚から生まれたものだった。それでも社会の側は、その一言に豊かになった日本の気分を読み込み、時代を象徴するコピーとして記憶していった。広告の言葉は作者の意図だけで完成するのではなく、それを読む時代によって意味を与えられる。この点でも、コピーは文学とどこか似ている。

一つの広告を、多くの人が知っていた時代

 ただし、優れた言葉が生まれただけでは、コピーライターが社会的なスターになることは難しい。1980年代には、その言葉を巨大な規模で社会へ届ける装置があった。

 テレビ、新聞、雑誌、ラジオというマスメディアが情報の中心にあり、現在のように一人ひとりがまったく別の動画やウェブサイト、ソーシャルメディアを見る環境ではなかった。そのため、大規模な広告キャンペーンは非常に多くの人の目に触れ、テレビコマーシャルで聞いた言葉を翌日には学校や職場で誰かが知っているということが起こりやすかった。

 もちろん、「日本人全員が同じ広告を見ていた」とまで言うのは正確ではない。それでも、現在よりはるかに少数の巨大メディアへ人々の視線が集まっていたため、一つの広告表現が社会の共通知識になりやすかったことは重要である。コピーライターが書いた一行は広告主のためだけに存在するのではなく、繰り返し放送され、新聞や雑誌に掲載され、人々の会話へ入り込み、ときには流行語のように広告の外側まで歩き始めた。

 そうなると、人々は次第に「この言葉を書いたのは誰なのだろう」と作者に興味を持つようになる。小説なら作家の名前を見るのが当然なのに、広告については長い間、作者の存在を意識すること自体が少なかった。ところが広告が単なる商品説明ではなく、一つの表現作品として見られ始めると、その背後にいるコピーライターもまた、一人の表現者として見えるようになったのである。

バブル経済はブームを生んだのではなく、すでにあった舞台を大きくした

 ここでようやく、バブル経済が登場する。

 コピーライターへの注目そのものは1980年代前半から始まっていたので、バブル景気だけをその原因とすることはできない。しかし、80年代後半の景気拡大と広告市場の膨張が、すでに起きていた変化をさらに大きくしたことは確かである。

 電通の長期統計によると、日本の総広告費は1985年の3兆5049億円から、1988年には4兆4175億円、1989年には5兆715億円へ増加し、1991年には5兆7261億円に達した。なお、広告費の推定範囲は途中で改定されているため長期比較には注意が必要だが、少なくとも1980年代後半に広告市場が急速に拡大していたことは数字から確認できる。

 広告市場が大きくなるということは、単に広告の本数が増えるということだけではない。企業が商品名や価格を知らせる広告だけではなく、企業イメージやブランドの世界観を伝える広告にも資金を投入できる余地が広がる。映像、写真、音楽、デザイン、文章が組み合わさった大規模なキャンペーンが増えれば、その中心に置かれた短いコピーも目立つ。

 ただし、ここで「一人のコピーライターが広告を作った」と考えてしまうのも正確ではない。広告はアートディレクター、クリエイティブディレクター、写真家、映像制作者、広告主など、多くの人間によって作られる共同制作物であり、東京コピーライターズクラブも創設期から、コピーだけを完成した広告表現から切り離して評価することには慎重だった。それでも、見る側にとっては、複雑な制作過程の最後に置かれた短い一行が広告全体の記憶を代表することがある。そのため、共同制作の世界にいるはずのコピーライターが、あたかも広告そのものの作者であるかのように見える現象が起きた。

会社員でも作家でもないという、不思議な魅力

 しかし、広告業界の景気がよかっただけなら、コピーライターが若者の憧れの職業になる理由としてはまだ足りない。そこには、この仕事が持っていた独特の曖昧さもあったのではないだろうか。

 小説家になるには小説を書かなければならず、画家になるなら絵を描き、音楽家なら演奏や作曲という専門性が求められる。コピーライターにも当然高度な技術が必要なのだが、外から見ると、その仕事は「言葉を考える人」であり、紙と鉛筆さえあれば始められそうに見える。一方で純粋な芸術家とは違い、広告会社や企業という現実の経済活動の中に仕事が存在している。

 つまりコピーライターは、普通の会社員と自由な表現者との中間にいるように見えた。

 収入を得ながら、自分の感性を使って言葉を生み、それが自分の名前と結びつく。こうした姿が、仕事の中に自己表現を求める人々に魅力的に映った可能性は十分にある。ただし、「当時の若者が皆そう考えていた」と証明できるわけではないため、ここは社会心理を断定するより、コピーライターという職業がそうしたイメージをまといやすかったと考える方が妥当だろう。

 そして、そのイメージを現実に見せる人物たちもいた。糸井重里はコピーの世界を越えて出版やテレビなどへ活動を広げ、林真理子もコピーライターとして活動した後、1982年に『ルンルンを買っておうちに帰ろう』で作家としてデビューした。広告を書く技術が広告会社の中だけに閉じ込められるものではなく、出版や放送、文学へ通じる入口にも見えたことは、コピーライターという職業の文化的な魅力を強めただろう。

商品を有名にする人が、自分まで有名になった

 こうして1980年代には少し倒錯した現象が生まれた。本来、コピーライターは商品や企業を目立たせるために働く人であるはずなのに、その仕事が評価されるにつれて、広告の向こう側から作者本人が姿を現し始めたのである。

 広告を見る。その言葉を覚える。誰が書いたのかを知る。その人の文章を読む。その人がテレビで話す姿を見る。そして、その人物が「コピーライター」と呼ばれていることを知る。

 この循環によって、コピーライターという職業名そのものがブランド化していった。

 それは、小説を読んで小説家に憧れるのとは少し違っていた。コピーライターの場合、人々が毎日のように接していたテレビや新聞、百貨店や自動車、飲料や衣服の広告が、そのまま職業の展示場になっていたからである。優れたコピーを書くことと有名になることの距離が、少なくとも外からは非常に近く見えた。

 コピーライターが広告界の裏方から「時代を読む人」へと見え方を変えた1980年代は、広告を書く人自身が一つの文化的商品になった時代でもあった。

昭和の終わりは「物」より「意味」が高く売れ始めた時代だった

 ここまで考えると、コピーライターブームは単なる広告業界の流行ではなく、戦後日本の豊かさが一つの段階を越えたことを示す現象にも見えてくる。

 物が足りない社会では、価値は物そのものに宿る。冷える冷蔵庫、速い自動車、よく映るテレビには、説明しやすい価値がある。しかし、十分に性能のよい商品が市場に並ぶ社会では、価値の一部が商品そのものから、その商品を選ぶ理由へ移っていく。

 そこで企業が売るものは、少しずつ「物」だけではなくなる。

 この車に乗る人はどんな人なのか。この服を着る生活はどんな生活なのか。この百貨店で買い物をすることは、どんな価値観を選ぶことなのか。広告は商品の外側に意味を作り始め、その意味を短い言葉に圧縮する仕事が目立つようになった。

 言ってみれば、コピーライターは商品の説明書を書く人から、商品の周囲に小さな物語を作る人へ変わったのである。

 その転換期にコピーライターがスターになったのは、偶然ではなかったのかもしれない。

平成になって、すぐにコピーの時代が終わったわけではない

 では、昭和が終わって平成に入ると、コピーライターの魔法は消えてしまったのだろうか。

 実際には、それほど単純ではない。

 電通の統計によれば、日本の広告費は1991年に5兆7261億円となったあと、1992年には5兆4611億円、1993年には5兆1273億円へ減少した。ただし1991年が日本広告史上の最高額だったわけではなく、広告費はその後いったん回復し、1997年には5兆9961億円、2000年には6兆1102億円となっている。したがって、「1991年を境に広告産業そのものが衰退した」と考えるのは正しくない。

 より正確には、変化は二段階で考えた方がよい。

 最初に起きたのは、1990年代初頭のバブル崩壊と景気後退によって、企業が広告投資を以前ほど無条件には拡大できなくなったことである。それでも平成初期には、強いコピーを中心とした広告表現はまだ十分に存在していたし、コピーライターという職業そのものが消えたわけでもない。

 その後、1990年代後半から2000年代へ入ると、今度はインターネットの普及という別の変化が起きる。テレビ、新聞、雑誌、ラジオに集中していた人々の注意は次第に分散し、誰もが同じ広告を見る社会から、一人ひとりが違う情報を見る社会へ移っていった。電通の現在の広告統計でも、インターネット広告が独立して推計されるようになるのは1990年代後半以降であり、今日では広告市場の中心そのものが大きく変わっている。

 つまり、昭和末期のコピーライターを支えた舞台は、一夜にして消えたわけではない。景気の変化によってまず照明が少し暗くなり、その後、インターネットによって観客そのものが一つの劇場から無数の小さな画面へ散っていったと考える方が近い。

コピーライターが消えたのではなく、「スターになれる構造」が変わった

 現在もコピーライターは存在し、優れた広告コピーも作られている。それどころか、商品の名前、ウェブサイトの文章、企業理念、ブランドの物語など、言葉を設計する仕事の領域はむしろ広がっているという見方もできる。コピーライターの仕事がテレビコマーシャルや新聞広告だけに限定されなくなったことは、広告業界側からも指摘されている。

 それでも、1980年代のようにコピーライターという職業そのものが社会的スターになる現象は起こりにくくなった。

 理由は、言葉の価値が下がったからではない。

 一つの広告へ社会全体の視線が集中し、その一行を書いた人物の名前まで多くの人が知るという仕組みが弱くなったからである。

 現在なら、一つの広告が100万人に届くより、100種類の広告がそれぞれ異なる1万人へ届くことの方が合理的な場合もある。広告の効果はクリック数や購入率などによって細かく測定され、文章も一つの大きなコピーに集約されるとは限らない。言葉を作る人は必要であっても、その人物一人が時代の言葉を代表する構造ではなくなったのである。

私たちが憧れていたのは、「コピーライター」という名刺ではなかった

 では結局、なぜ昭和の終わりから平成初期にかけて、コピーライターという職業はあれほど魅力的に見えたのだろう。

 商品の品質が成熟し、企業が機能以外の意味を売らなければならなくなったこと。テレビや新聞など少数の巨大なメディアへ人々の視線が集まっていたこと。広告市場が拡大し、企業がイメージや文化まで広告で表現できたこと。そしてコピーライター本人が広告の裏側から姿を現し、出版やテレビへ活動領域を広げていったこと。これらの条件が同じ時代に重なった結果として、コピーライターという専門職は一時期、広告業界の職種を越えた文化的な存在になったと考えるのが最も自然だろう。

 それは、バブルという一つの原因から生まれたブームではなかった。経済、商品、メディア、若者文化、企業文化がそれぞれ少しずつ変わり、その交点にコピーライターが立ったのである。

 そして何より、あの時代には、自分が机の上で考えたわずか数文字の日本語がテレビに映り、新聞いっぱいに印刷され、電車の中に貼られ、やがて見知らぬ誰かの口から語られるという光景が実際にあった。

 言葉が社会へ出ていく姿が、目に見えた時代だった。

 おそらく人々が憧れたのは、「コピーライター」という肩書そのものではない。会社に勤めながら言葉を書くという働き方だけでもなかった。

 たった一行の言葉によって、それまで誰も名前を付けていなかった気分を言い当て、その言葉が商品を離れて時代の記憶になっていく。そんなことが本当にできるのではないか、という物語に人々は惹かれたのだろう。

 昭和の終わりから平成の初め、日本にはほんのしばらく、言葉を書く人そのものがスターになれる季節があった。

 そして、その季節が過ぎてしまったからこそ、「おいしい生活。」のような古い広告コピーをいま読み返すと、私たちはそこに商品の宣伝だけではなく、もう存在しないメディアの風景と、言葉に社会を動かす力があると多くの人が信じていた時代の気配まで感じるのである。

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近松門左衛門の虚実皮膜論は、令和の文学にも通じるのか

 「これは実話をもとにした物語です」という一言が付いただけで、作品の見え方が少し変わることがある。同じ悲劇でも、本当に起きた出来事だと思えば登場人物の苦しみが急に身近に感じられる読者もいるだろうし、逆に完全な創作だと知っているからこそ安心して物語へ入り込める人もいる。実際、心理学の研究でも「実話に基づく」という情報が作品のもっともらしさや評価を高める場合がある一方、没入感や好感度に明瞭な違いが生じない場合も報告されている。つまり、人間は単純に「事実だから感動する」のではなく、事実と虚構の関係を意識しながら物語を読んでいるのである。

 この複雑な感覚を考えていくと、三百年ほど前の大坂で人形浄瑠璃を書いていた近松門左衛門の言葉へ行き着く。近松の芸術論として有名な「虚実皮膜論」である。しかし、この言葉を「文学は現実と嘘を半分ずつ混ぜればよい」という意味に取ってしまうと、近松が考えていた問題の面白さはほとんど失われてしまう。彼が問うていたのは、事実と虚構をどの割合で混ぜるかではなく、現実そのものと、人間が「現実らしい」と感じる表現との間には、なぜずれが生じるのかという問題だった。

「虚実皮膜論」という本を近松が書いたわけではない

 まず押さえておきたいのは、近松自身が『虚実皮膜論』という著書を書いたわけではないということである。近松は体系化された芸術論を著書として残しておらず、今日「虚実皮膜論」と呼ばれている考え方は、近松の死後、穂積以貫が近松から聞いた話として『難波土産』に記したものを中心に後世まとめられたものである。そこには「芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也」という有名な言葉が伝えられており、現在では一般に、芸術は現実そのものでも完全な作り事でもなく、その微妙な接触面に成立するという芸論として理解されている。

 ただし、この「間」という言葉を数学的な中間地点のように考えてはいけない。現実が五割、虚構が五割という話ではなく、現実に忠実でありすぎても芸にはならず、現実から離れすぎても観客には届かないという、表現の微妙な距離について語られているからである。

 近松がこの問題を考えた背景には、人形浄瑠璃という芸能そのものが抱えていた矛盾がある。舞台上の人形は木でできており、本当の感情も人生経験も持っていない。それにもかかわらず、観客は人形の恋に胸を痛め、人形の死に涙を流す。生きていない木偶が、ときには生身の人間以上に「生きている」と感じられるのである。これは現実を忠実に再現するだけでは説明できない現象だった。

本物そっくりなら、本当にリアルなのか

 『難波土産』に伝えられた近松の話には、この問題を象徴する興味深い例がある。家老を演じる役者について、本物の家老そのままに振る舞えば、それで優れた芝居になるのかという問題である。現実の家老が舞台役者のような化粧をしているわけではないのだから、現実を忠実に再現しようとすれば、むしろ舞台上では地味で分かりにくい人物になってしまうかもしれない。そこで役者は現実を少し変形し、観客が「家老らしい」と感じる身振りや表情を作り出す。そのとき舞台上に現れるのは現実の家老のコピーではないが、観客にはかえって家老らしく見える。

 さらに『難波土産』には、恋する女性のために、愛する男性の姿を毛穴や歯の数までそっくりに再現した木像を作ったところ、あまりにも生身の人間そのままであったため女性が気味悪がってしまった、という趣旨の逸話も伝えられている。この話を史実そのものとして受け取る必要はないが、近松の芸論を説明する比喩としては非常に分かりやすい。私たちが「本物らしい」と感じるものと、本物を寸分違わず複製したものとは、必ずしも同じではないのである。

 写真より肖像画の方が、その人物らしく見えることがある。実際の会話より、巧みに作られた映画の台詞の方が人間の本音を言い当てているように感じることもある。人間がリアリティと呼んでいるものは、現実との物理的な一致だけによって生まれるのではなく、見る側が持っている経験、期待、感情、物語の文脈などによって作り上げられている。

小説は、現実を削ることで現実に近づく

 この考えを小説に置き換えると、虚実皮膜論は急に現代的になる。例えば実際の夫婦喧嘩を三十分録音し、一言一句そのまま文字に起こしたとする。そこには沈黙、言い直し、同じ話の繰り返し、話題の脱線、本人たちにしか分からない言葉などが大量に含まれているだろう。それは記録としては忠実だが、読者がその夫婦の関係を理解する文章として優れているとは限らない。

 小説家はそこから不要な部分を削り、何度も繰り返された言葉を一つの台詞へまとめ、実際には数日離れて起きた出来事を一晩の出来事として組み直すかもしれない。現実には降っていなかった雨を降らせることさえあるだろう。そうして事実から離れていくにもかかわらず、作品の中では、二人の間にあった怒りや寂しさや未練が現実以上にはっきり見えてくることがある。

 ここに文学の奇妙さがある。虚構を加えることによって事実から離れているはずなのに、人間の感情については、かえって現実へ近づく場合があるのである。

 近松が女形について語った話も、この問題とつながっている。現実の女性なら実際には口にしないような言葉を舞台上の女性に言わせることで、現実の女性が胸の内に秘めている「情」を表現できることがある。実際の言動をそのままコピーするのではなく、現実には存在しなかった言葉を作ることで、現実に存在していた感情が観客に見えるようになる。

 したがって、虚実皮膜論を単なる「嘘を上手に混ぜる技術」と考えるのは適切ではない。そこにはむしろ、「事実を正確に写すことと、人間についての真実を表現することは同じなのか」という、現在の文学にもそのまま残っている問いがある。

「虚構だから感情移入できない」は本当なのか

 心理学的に考えても、虚構であると分かっている物語が人間の感情を動かすこと自体は不思議なことではない。私たちは映画を見ながら、スクリーンに映っている人物が俳優であることを知っている。それでも登場人物が死ねば悲しくなり、危険な場面では緊張する。小説についても同様で、そこに書かれている人物が実在しないと理解していても、その人物の人生を頭の中で想像し、感情を追体験することができる。

 物語研究や認知心理学では、フィクションを人間関係や感情を疑似的に経験する一種のシミュレーションとして捉える考え方がある。ただし、文学を読めば必ず共感性が高まるとか、実話だと分かれば必ず感動が強くなる、とまで言うことはできない。読者の性格、作品のジャンル、物語への没入の程度などによって結果は変わり、研究でも一貫した効果が出ているわけではないからである。

 それでも、虚構だと理解しながら人間が泣いたり笑ったりできるという現象そのものは確かに存在する。近松が人形浄瑠璃の舞台で向き合っていたのも、結局はこの問題だったのではないだろうか。観客は人形が木でできていることを知っている。それでも、その木偶の中に人間を見る。その瞬間、虚構は現実の代用品ではなく、現実を感じるための別の経路になる。

令和の文学では「皮膜」がますます見えやすくなった

 虚実皮膜論が令和になって突然復活したわけではない。文学は昔から、現実から距離を取るためだけではなく、現実を別の角度から見せるためにも虚構を用いてきた。したがって、「昔の虚構は現実から逃げるためのものだったが、現代になって現実と近づいた」と単純に整理することはできない。

 ただし現代文学では、事実と虚構の境界そのものを作品の仕掛けにする作品が以前にも増して意識されている。その代表として挙げられるのが、オートフィクションである。

 オートフィクションという言葉そのものは令和になって生まれたものではなく、一般にはフランスの作家セルジュ・ドゥブロフスキーが1977年に用いた概念として知られている。作者自身の人生と物語上の人物を近づけながら、どこまでが事実でどこからが創作なのかを意図的に揺らす作品では、読者は「これは作者本人の経験なのだろうか」と考えながら読むことになる。そのため、事実と虚構の境界が消えるというより、むしろ境界そのものが目立つようになる。

 日本文学には、それ以前から私小説という大きな伝統がある。もちろん私小説とオートフィクションは同じものではなく、その成立事情も文学制度も異なる。しかし、作者、語り手、主人公の距離が読者の読み方に影響するという点では、両者を比較する意味はある。作者本人に似た人物が登場すれば、読者は作品世界の外側にいる作者の人生まで意識するようになり、その結果、作品の中の一文が単なる創作ではなく、作者自身の告白のように感じられることさえある。

 ここでも不思議な逆転が生じる。虚構を加えれば現実から遠ざかるはずなのに、読者にはかえって「これは作者の本音なのではないか」と感じられる場合がある。作れば作るほど本当らしくなり、本当らしく書けば書くほど、どこまでが本当なのか分からなくなる。その不安定な境界こそ、現代の読者が歩いている「皮膜」なのである。

文学の虚構と「嘘」は同じではない

 もっとも、虚実皮膜論を令和へ持ち込む際には、慎重に区別しておかなければならないことがある。現在では事実と虚構の境界が揺らぐ現象が、文学だけでなくニュース、広告、動画、SNS(Social Networking Service・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)にも広がっているため、「真実と嘘の境界など曖昧なのだ」と言ってしまえば、文学の虚構と偽情報を同じものとして扱うことになりかねないからである。

 しかし両者は根本的に違う。小説を読むとき、読者は基本的にそこに書かれている出来事が創作であり得ることを承知している。芝居を見る観客も、舞台上で起きた殺人を現実の事件だとは考えない。その暗黙の約束が存在するからこそ、作者は実際には起きなかった出来事を作り、現実には存在しない人物を生きさせることができる。

 一方、ニュースとして提示される情報には、「これは現実に起きた出来事について述べている」という別の約束がある。そこで意図的に虚偽を事実として示せば、作品内部で虚構を作るのとは意味がまったく違う。

 したがって近松の「虚と実の皮膜」は、真実と嘘を区別しなくてもよいという思想ではない。むしろ虚構であると分かったうえで、その虚構から人間についての真実を感じ取るという、芸術固有の仕組みを考えたものとして読む方が自然である。

生成AIは、現代の「人形」なのか

 そして令和には、近松の時代には存在しなかった新しい問題が加わった。生成AI(Generative Artificial Intelligence・生成型人工知能)である。

 生成型人工知能は、大量の文章から言語のパターンを学習し、小説らしい文章、恋愛小説らしい台詞、悲しい回想のような文章まで生成することができる。その登場によって、「作者とは誰なのか」「創造性とは何なのか」「人間と道具の境界をどこに置くのか」といった問いが、文学や芸術の世界でも改めて議論されるようになった。

 ここで人形浄瑠璃を思い出すと、不思議な類似が見えてくる。木偶には人生経験も感情もない。それにもかかわらず、近松の文章、太夫の語り、人形遣いの動きが重なれば、観客はその人形の悲しみに涙する。生成型人工知能にも、人間と同じ意味で幼少期の記憶や失恋経験があるわけではない。それでも生成された文章を読んだ人間が、そこに悲しみや孤独を感じることはあり得る。

 もちろん、人形浄瑠璃と生成型人工知能が同じだということではない。これは科学的な同一性ではなく、表現の構造を比較するための類推にすぎない。しかし、感情を持たない媒体を通して、人間が感情を受け取るという点では興味深い共通性がある。

 むしろ近松から学べるのは、木偶だけを見ても人形浄瑠璃を理解できないということである。そこには作者がおり、太夫がおり、三味線があり、人形遣いがいる。同じように生成型人工知能を用いた作品についても、機械が文章を生成したという一部分だけを見るのではなく、誰が指示を与え、誰が文章を選び、どこを削り、どのような作品として提示したのかという制作過程全体を見る必要があるだろう。

 そう考えると、令和に現れた「皮膜」は、事実と虚構の境界だけではない。人間と機械、経験と言葉、作者と道具、創作と編集の境界にも、新しい皮膜が生まれている。

文学は「本当のことを書く技術」ではない

 では、近松門左衛門の虚実皮膜論は、令和の文学にも通じるのだろうか。結論を言えば、十分に通じる。ただし、それは近松が三百年前にオートフィクションや生成型人工知能を予言していたという意味ではないし、人形浄瑠璃のために語られた芸論を、そのまま現代の文学理論として使えるという意味でもない。

 それでも、近松が向き合った問いそのものは古びていない。現実そのものよりも作られた物語の方が、人間に現実を強く感じさせることがあるのはなぜなのか。実際には誰も口にしなかった台詞が、なぜ人間の本心を言い当てているように聞こえるのか。作者が体験した出来事をそのまま記録した文章より、存在しない人物について書かれた小説の方が、なぜ自分自身の人生について考えさせてくれることがあるのか。

 文学は現実をそのまま映す鏡ではない。もし完全な鏡ならば、そこに映るのは私たちが毎日見ている現実と同じものだけである。しかし文学は現実を削り、並べ替え、誇張し、時には存在しなかった出来事を加える。その加工された像を通して初めて、日常の中では見落としていた人間の感情や社会の姿が見えてくることがある。

 だから優れた小説を読み終えた読者は、ときに「こんなことは現実には起こらないだろう。それでも、なぜか分かる」と感じる。考えてみれば不思議な感想である。事実ではないと理解しながら、その物語を真実のように受け取っているからである。

 三百年前、近松門左衛門が「実」と「虚」の間に見ていたものは、まさにこの奇妙な場所だったのかもしれない。事実だけでは届かず、嘘だけでも届かない。その薄い境界で、作り物が突然、人間の現実へ触れる。

 令和になっても文学が文学であり続ける限り、その皮膜が消えることはないだろう。むしろ実話と創作、人間と生成型人工知能、記録と物語の境界が以前より複雑になった現在だからこそ、近松の古い言葉は思いがけず新しく響く。三百年前の人形浄瑠璃の舞台と、令和の小説や生成型人工知能との間には途方もない時間が流れているが、そこで人間が問うていることは、案外変わっていないのである。

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 平野啓一郎と三島由紀夫を並べると、最初に目につくのは文体である。平野が『日蝕』によって文壇に登場したとき、その古風で濃密な文章から三島由紀夫を連想する読者は少なくなく、実際に平野自身も、十代で『金閣寺』を読んだ経験が文学へ向かう大きな契機になったことを繰り返し語っている。後年には大部の『三島由紀夫論』を書き上げているから、両者を比較すること自体に無理はない。

 しかし、二人を「華麗な文章を書く純文学作家」として並べるだけでは、あまり面白くない。むしろ興味深いのは、三島から強い文学的刺激を受けた平野が、自己とは何かという問題について、最終的には三島とはかなり違う場所へ進んだように見えることである。二人の距離を測るためには、文体よりも「私は誰なのか」という問いを見る方がよい。

 三島には「仮面」があり、平野には「分人」がある。この二つの言葉を並べると、戦後文学から現代文学へ、人間の「自己」をめぐる考え方がどのように変化したのかまで見えてくる。

仮面の下に「本当の自分」はいるのか

 『仮面の告白』という題名からは、本当の自分を隠すために人が仮面をつけているという単純な構図を想像しやすい。ところが三島が描いた世界は、それほど単純ではない。社会に適応するために始めた演技が長く続けば、演じている人格そのものが自分の一部になっていく。仮面を外せば、その下から純粋な「本当の私」が現れるとは限らないのである。

 ここには、今日から見ても古びない自己の問題がある。仕事をしているときの自分、家族といるときの自分、親しい友人といるときの自分、一人でいるときの自分は、必ずしも同じではない。だからといって、会社で礼儀正しく振る舞う自分が偽物で、家で冗談を言っている自分だけが本物だということにもならない。それぞれの場面で現れる人格は違っていても、すべて同じ一人の人間から生じている。

 平野啓一郎の「分人主義」は、この問題をさらに押し進める。平野は、人間の中心に唯一の「本当の自分」があり、その周囲で複数の人格を演じているとは考えない。相手や環境との関係によって生まれる人格を「分人」と捉え、それらをすべて本当の自分だと考える。恋人といるときに現れる自分も、仕事をしているときに現れる自分も、昔の友人と再会したときに現れる自分も、それぞれがその人自身なのである。

 この点だけを見ると、三島の「仮面」と平野の「分人」は意外なほど近い。二人とも、人格の奥深くに一つだけ純粋で透明な「本当の私」が存在するという素朴な自己観に疑問を投げかけているからである。ただし、ここから先で二人の方向は大きく分かれていく。

三島は「一致」を求め、平野は「複数性」を受け入れる

 三島の文学をたどると、内面と外面、思想と行為、言葉と身体のあいだに生じるずれを、そのまま放置できない作家だったことが見えてくる。平野自身も三島論の中で、三島が肉体の一回性や個体性を重視し、認識と行動、思想と人生を一致させようとした問題を論じている。

 この観点から『金閣寺』を読むと、主人公の溝口が金閣について考え続けるだけでは終われず、最後には放火という行為へ進むことにも、一つの筋が見えてくる。美について認識するだけでは世界は変わらず、言葉によって考えたことを行為へ変換しなければならない。もちろん、これは放火という行為を肯定するという意味ではない。重要なのは、三島文学の内部で「考えること」と「行うこと」の距離そのものが重大な問題になっていることである。

 平野は、この地点から別の方向へ進んだように見える。平野の分人主義では、人間が一つの矛盾のない人格へ収束することは必ずしも理想ではない。仕事場の自分と家庭での自分が違っていても、それだけで人格が破綻しているわけではなく、むしろ人間が複数の関係の中で生きている以上、その違いは自然に生じる。

 ここで「三島は一つの自己を完成させようとした」と断定してしまうと、三島文学を単純化しすぎる。より慎重に言えば、三島には、内面と外面、認識と行為、思想と人生の乖離を克服し、それらを一つの生の中で一致させようとする強い志向があった。それに対して平野は、人間が複数の関係の中で異なる人格を持つこと自体を否定せず、むしろその複数性を自己の構造として引き受けようとしているのである。

 同じ「私は誰なのか」という問いから出発しながら、三島は自己の不一致に緊張し、平野は自己の複数性に居場所を与えた。この対照こそ、二人を比較する最も面白い地点の一つだろう。

三島が身体へ向かったとき、平野は関係へ向かった

 三島にとって、言葉だけでは自己を保証できないという問題は次第に大きくなっていった。小説家は勇気について書くことも、美について語ることも、死を描くこともできる。しかし文章を書いている身体は、その間も安全な椅子に座って生きている。言葉で語る自分と、現実の身体として存在する自分との距離は消えない。

 だから三島にとって身体は単なる健康や美貌の問題ではなかった。身体を鍛え、自らを写真にさらし、肉体を一つの表現として提示したことは、言葉の世界だけに存在する作家から、現実の肉体を持つ主体へ近づこうとした試みとして読むことができる。『太陽と鉄』において言葉と肉体の関係が正面から問題になるのも、その延長線上にある。

 一方、平野が自己を考えるときに前面へ出てくるのは、身体そのものよりも他者との関係である。『マチネの終わりに』では、一人の相手と出会ったことによって、それ以前とは異なる自分が生まれる。『ある男』では、名前や戸籍や過去の物語が揺らいだとき、それでもその人物を同じ一人として愛せるのかが問われる。『本心』では、死んだ母を技術によって再現しようとする試みを通じて、最も親しい相手でさえ、その「本心」を完全には知ることができないという他者性が浮かび上がる。

 三島が自己の一貫性を支える場所を、より身体や行為の側へ求めたとすれば、平野はより関係の側から人間を考えている。この違いは決して小さくない。身体は原則として一人に一つしかなく、その人生には取り返すことのできない一回性があるが、関係は複数存在し、新しい関係の中では新しい分人が生まれる可能性があるからである。

「人生の決定版」を求める文学と、過去を書き換える文学

 三島の作品にはしばしば、一回的で決定的な瞬間への強い関心が現れる。美が最も美しく見える瞬間、認識が行為へ転化する瞬間、人間が後戻りできない決断をする瞬間である。そのため三島文学では、「一度きりであること」が独特の緊張を生み出す。

 ただし、三島を「瞬間だけを愛した作家」と決めつけることはできない。『豊饒の海』のように、長い時間、記憶、老い、転生を扱った作品もあり、三島の時間意識はもっと複雑である。それでも、取り返しのつかない行為や人生の一回性が、三島文学で重要な位置を占めていることは否定しにくい。

 これに対して平野の小説では、ある出来事が起きた「あと」で、その意味がどう変化するのかが大きな問題になることが多い。恋愛が思い通りに終わらなかったあと、かつて愛した相手について知らなかった事実を知ったあと、死者の言葉を別の角度から理解したあと、過去そのものは変わらなくても、現在の自分が変化することで過去の意味は書き換えられていく。

 この違いを、「三島は決定的瞬間を愛し、平野はその後を考える」と完全に二分してしまうのは乱暴だろう。しかし、三島が人生の一回性や取り返しのつかない行為に強く引き寄せられたのに対して、平野は出来事の意味がその後の人生によって変化し続けることに、より大きな関心を寄せていると読むことはできる。

 そう考えると、二人の人間観の違いは時間の捉え方にも表れている。三島の作品では、ある瞬間が人生全体を決定してしまうことがあるが、平野の作品では、一度決まったはずの人生の意味が後から変わっていく。人生には最終稿がなく、現在が変われば過去の読み方も変わるという感覚が、平野の小説には強く流れている。

二人とも「私は誰か」を考えすぎる作家である

 ここまで相違点を追ってくると、三島と平野は正反対の作家のように見えてくる。しかし、不思議なことに、正反対だからこそ二人はよく似ている。

 そもそも、人間は日常生活を送るだけなら、「私は誰なのか」をここまで執拗に考える必要はない。朝起きて仕事をし、人と話し、食事をし、眠るだけなら、自己とは何かという問題を毎日問い直さなくても生活は成立する。ところが三島も平野も、その問いからなかなか離れない。

 『仮面の告白』では、社会の中で演じている自己と内面の自己との関係が問題となり、『金閣寺』では、美を認識する自己と現実へ働きかける自己との裂け目が描かれる。さらに『豊饒の海』まで進めば、同じ人物であることを保証するものは身体なのか、記憶なのか、それとも別の何かなのかという、自己同一性そのものの問題が姿を現す。

 平野の場合も、『ドーン』『マチネの終わりに』『ある男』『本心』と作品を追っていけば、別の角度から同じ問いが繰り返されていることに気づく。人は他者との関係によって変化する。それでも同じ人物なのか。過去が嘘だったと分かったとき、その人は別人になるのか。最も愛している人についてさえ理解できない部分が残るのなら、そもそも「本当のその人」とは何なのか。

 二人とも、安定した一つの自己という考えを簡単には信用していない。しかし、そこから導く答えが違う。三島は不一致を強く意識し、その裂け目を身体や行為によって埋めようとする方向へ進んだ。平野は裂け目を消すよりも、人間そのものが複数の関係によって成り立っていると考えることで、その複数性を引き受けようとする。

「仮面」は「分人」になったのか

 三島の「仮面」から平野の「分人主義」が直接生まれた、と考えることには慎重でなければならない。平野の思想には三島だけでは説明できないさまざまな背景があり、両者の間に単純な思想的継承関係を設定する資料的根拠も十分ではない。

 しかし、影響関係を証明するのではなく、二つの人間観を比較するという意味ならば、「仮面」と「分人」を並べることには大きな意味がある。三島の『仮面の告白』では、社会のために始めた演技が本人の一部になってしまうという逆説が描かれる。そこからさらに一歩進めて、「そもそも仮面の奥に唯一の素顔があると考える必要があるのか」と問うたところに、平野の分人主義を置いてみることができる。

 恋人といる自分、仕事をしている自分、親といる自分、昔の友人といる自分を、一枚ずつ偽物の仮面として剥がしていっても、最後に誰にも影響されていない純粋な「本当の私」が現れる保証はない。むしろ人間は、そうした複数の関係によって作られているのではないかというのが、平野の側から見た自己の姿である。

 この地点から振り返ると、三島と平野は同じ問いに対して異なる回答を出した作家として見えてくる。三島は、内面と外面、思想と行為、言葉と身体がばらばらであることに耐え難い緊張を感じ、その一致を求め続けた。平野は、人間がそもそも複数であることを前提に、その複数性のまま生きる方法を考えようとした。

 だから、平野啓一郎が三島由紀夫から受け取った最も重要なものを一つ挙げるとすれば、それは必ずしも華麗な文体でも、美に対する感覚でもなかったのかもしれない。「人間とは、いったい誰なのか」という問いそのものだった、と考えてみることができる。

 三島は、その問いに対して、人生を一つの形へ近づけようとした。平野は、その問いに対して、一つの形に収まらないことこそ人間なのだと考えた。ここに単純な継承関係があるわけではなく、むしろ一方の問いが、別の時代に別の答えを引き出したと見る方が自然である。

 そう考えて『仮面の告白』と『ある男』を並べてみると、時代も物語もまったく違う二つの小説が、遠い場所で同じ問いを交わしているように思えてくる。

 「本当の自分は、どこにいるのか」。

 その問いに対して三島は、一生をかけて一つの答えを形にしようとした。そして平野は、その問いの立て方そのものを変えようとしているのかもしれない。本当の自分を一人だけ探すのではなく、誰かといるときに生まれるいくつもの自分を、そのまま自分として引き受ければよいのではないか、と。

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 本屋の平台に、著者名の見えない三冊の本が並んでいるところを想像してみたい。

 一冊目の題名は『こゝろ』。二冊目は『先生の遺書』。三冊目には『親友を裏切った男の告白』とある。じつは三冊とも本文は一字一句同じで、夏目漱石の『こゝろ』だったとしたら、私たちは本当に同じ本として手に取るだろうか。

 『こゝろ』という題名からは、何が起こる小説なのかほとんど分からない。それに対して『先生の遺書』なら、誰が死ぬのか、なぜ遺書を残したのか、その遺書には何が書かれているのかという疑問が生まれる。さらに『親友を裏切った男の告白』まで説明されれば、明治の古典というより、友情と恋愛と罪悪感を描く心理小説のように見えてくる。

 ここから一つの妙な疑問が生まれる。

 私たちが「近代文学は古い」と感じているとき、本当に古いのは本文なのだろうか。それとも、題名、表紙、作者名、教科書で読んだ記憶、「日本文学の名作」という重々しい肩書まで含めた、本の周囲にあるものなのだろうか。

 もし本文をまったく変えず、題名だけを2026年の新刊らしく付け直したなら、突然読んでみたくなる近代文学はあるのか。

 これは単なる改題遊びのようでいて、突き詰めるとなかなか厄介な問題である。なぜなら題名は、本の内容を知らせる名札であると同時に、読者が作品を見る方向を決める最初のレンズでもあるからだ。

本は第一行から始まっているわけではない

 小説を読むという行為を考えると、私たちは本文の第一行から突然作品世界へ入るわけではないことに気づく。その前に題名を見て、作者名を知り、表紙の絵を眺め、帯があればその言葉を読み、文庫なら出版社やシリーズ名まで目にしている。

 文学理論では、こうした本文を取り巻く要素を考えるために「パラテクスト」という概念がある。フランスの文学理論家ジェラール・ジュネットは、題名や作者名、序文、表紙などを、本文そのものとは区別しながらも、本が読者の前に現れ、受け取られるための重要な領域として論じた。彼の比喩を借りれば、そこは作品の内部でも外部でもない「敷居」のような場所である。

 この考え方が面白いのは、作品の意味が本文だけから生まれると考えなくてよくなるところにある。

 たとえば何の情報もなく、「ある男が長いあいだ他人を恐れ、自分を道化として演じ続け、次第に社会との関係を失っていく小説」を読んだ場合と、表紙に大きく『人間失格』と書かれた状態で読む場合では、同じ文章であっても、読者の構えは完全には同じではないだろう。

 題名はまだ物語が始まっていない段階で、読者の頭の中に小さな仮説を作る。「この話はこういう話なのではないか」という予測である。そして私たちは、その予測を持ったまま本文へ入っていく。

 これは文学理論だけの想像でもない。1981年に発表された文章理解の実験では、文章にその主題を示す題名が付いていることで、一定の条件では読後の自由再生、つまり何を思い出せるかが増えることが示された。翌1982年に報告された別の実験では、一つの文章に異なる題名を与えると、それぞれの題名と関係する内容が相対的によく記憶されるという結果が得られている。

 つまり題名は、文章の上に置かれた飾りではない。少なくとも、読者がどこに注意を向け、何を記憶するかには影響し得る。

 さらにSara BartlとErnestine Laheyが2023年に発表した研究では、Amazon.comの書評から構成された約5800万語という大規模なコーパスを調べ、読者が題名を手掛かりとして作品についての期待を形成していることを示す証拠が得られている。これは題名を実験的に変更して販売数を比較した研究ではないため、「題名を変えれば売れる」という因果関係を証明するものではない。しかし、読者が本文を読む前から題名によって何らかの期待を作っている、というこの記事の出発点を支える研究ではある。

 そう考えると、近代文学の題名だけを変えてみるという遊びは、少し違って見えてくる。

 改題とは看板の掛け替えではない。同じ家に、別の入口を作ることなのである。

『こゝろ』を『先生の遺書』に変える、という思考実験の意外な落とし穴

 そこで最初に夏目漱石の『こゝろ』を考えてみたい。

 現代の編集者なら、この小説を『先生の遺書』と題して売り出すのではないか。そう考えると、なかなか魅力的である。『こゝろ』より何が起こるか分かりやすく、秘密と死の気配もある。書店で初めて見る人には、こちらの方が強い題名かもしれない。

 ところが、この改題案には大きな問題がある。

 それは、すでに漱石自身が考えていた題名なのである。

 漱石は『心』の自序で、もともとはいくつかの短篇を書き、それらをまとめて『心』とする予定だったと説明している。そして、その最初の一篇として書き始めたものが『先生の遺書』だった。ところが書いているうちに予想以上に長くなり、それ一篇だけで単行本にすることになったため、「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」という三つの部分に分け、全体には当初の『心』という題を残したのである。

 つまり、2026年の私たちが「もっと内容の分かる題名にしたら売れそうだ」と思って『先生の遺書』を提案すると、1914年の漱石に「それはもう考えた」と言われてしまう。

 しかも、この事実は単なる文学史の小話ではない。

 ここには、題名というものの二つの働きがきれいに現れている。

 『先生の遺書』は非常に具体的である。読者は、先生が何かを書き残すことを知った状態で物語へ入る。一方、『心』あるいは現在一般に『こゝろ』と表記される題名は、ほとんど何も説明してくれない。

 初版をめぐっては表記自体も興味深く、1914年の単行本は『こゝろ』として書誌に登録されている一方、漱石自身の自序では『心』と表記され、初版本の装丁にも「心」と「こゝろ」が併存している。少なくとも、現在の私たちが固定された一種類のロゴのように考えるほど単純な題名ではなかった。

 それでも作品を読み終えてみると、『先生の遺書』より『こゝろ』の方が不思議に大きく見える。

 先生の心だけではない。「私」の心があり、Kの心があり、妻の心があり、親と子の心があり、明治という時代の終わりを前にした人間の心まで、その短い題名の中へ吸い込まれていくからである。

 『先生の遺書』は作品の入口としては強い。しかし『こゝろ』は、出口に立ったときに初めて大きくなる題名なのだ。

 もし本を買わせることだけを目的にするなら、前者が有利な場面はあるかもしれない。しかし、読み終えたあとまで作品を支える題名としては後者の方が強い可能性がある。

 ここで早くも、「売れる題名」と「残る題名」は同じではないのではないか、という問題が現れる。

もし『舞姫』が『ベルリンで彼女を捨てた』だったなら

 森鴎外の『舞姫』は1890年、『國民之友』に発表された。

 ところが、まだ作品を知らない現代の読者が『舞姫』という二文字を見たとき、そこから物語の内容をどこまで想像できるだろう。

 日本舞踊の話かもしれない。芸者や舞妓を描いた小説だと思う人がいても不思議ではない。少なくとも、ドイツへ留学した若い日本人官僚がベルリンで一人の女性と出会い、恋愛と出世、個人的幸福と国家・組織への帰属の間で揺れ、結局彼女を置き去りにして帰国する物語だとは、題名だけではほとんど分からない。

 そこで、2026年の出版社が本文だけ渡され、作品名を自由に付けてよいと言われたとする。

 『ベルリンで彼女を捨てた』

 そんな題名が付いていても、それほど不思議ではない。

 少し刺激的にするなら、『出世のために恋人を捨てた男』でもよいかもしれない。

 もちろん、どちらも文学史上の題名としては耐え難いほど俗っぽい。しかし、書店の新刊台に置くマーケティング上の言葉だと考えれば、恐ろしく内容が分かりやすい。恋愛小説として読むこともできるし、キャリアと人生の選択をめぐる小説として読むこともできる。「明治文学を勉強する」という構えがなくても、人間関係の物語として本を開ける。

 ただし、その瞬間に重大なことが起こる。

 同じ文章なのに、物語の中心が移動するのである。

 『舞姫』という題名なら、読者の視線は自然にエリスへ向かう。しかし『ベルリンで彼女を捨てた』なら、豊太郎の選択と責任が前面に出る。『出世のために恋人を捨てた男』とまで言えば、読者は第一頁を開く前から豊太郎を裁き始めるだろう。

 題名を分かりやすくした結果、物語の解釈が一つの方向へ狭められてしまう。

 これこそ、題名が読者の注意を方向づけるという研究結果と重なる部分である。ただし、ここには注意が必要で、『舞姫』を実際に複数の題名で読ませ、解釈や購買行動の違いを測定した実験があるわけではない。したがって「必ず読み方が変わる」と断定することはできない。

 それでも、題名が読者の期待形成や記憶に影響し得るという実証研究を踏まえれば、「改題によって作品の見え方が変わる可能性がある」という推論には十分な根拠がある。

 そして、その可能性こそが少し怖い。

 売りやすくすることと、作品を豊かに読むことが、同じ方向を向いているとは限らないからだ。

『羅生門』には現代風の題名が必要ない

 では、古い文学ほど現代風の題名に変えた方がよいのか。

 そう単純でもない。その好例が芥川龍之介の『羅生門』である。

 『羅生門』は1915年11月の『帝国文学』に発表され、『今昔物語集』の説話を素材にした作品である。

 この作品を内容の分かる題名にするなら、『生きるために悪人になる夜』くらいは考えられるだろう。もう少し刺激的にするなら、『死体の髪を抜く老婆に出会った夜』でもよい。

 確かに何が起こるかはよく分かる。

 しかし、題名として本当に『羅生門』より強いだろうか。

 巨大な門があり、夕暮れがあり、荒廃した都があり、二階には死体が転がっている。『羅生門』という固有名詞には、作品をまだ知らない人にとっても何か薄暗い響きがある。それが何なのか分からないからこそ、気になる。

 しかも三文字である。

 短く、覚えやすく、視覚的な像を持ち、意味を説明しすぎず、作品を読み終えたあとには場所そのものが倫理的境界のように見えてくる。

 これは現代のコピーライターが考えても、なかなか作れない題名である。

 つまり近代文学の題名が古いという仮説そのものが、ここで崩れる。

 古い作品には古い題名が付いているのではない。百年以上経っても強い題名と、内容を知らなければ入口が見えにくい題名が混在しているだけなのである。

『人間失格』を変えようとすると、たいてい弱くなる

 さらに決定的なのが太宰治の『人間失格』である。

 作品は1948年6月から8月にかけて『展望』に発表された。

 この題名を、現代の読者に分かりやすくしようとしてみる。

 『社会になじめない僕の告白』

 『人が怖くて道化を演じ続けた』

 『誰にも本当の自分を見せられなかった』

 内容との関係だけを考えれば、どれも完全に間違っているわけではない。しかし並べてみると、『人間失格』の恐ろしさが際立つ。

 四文字しかない。

 しかも「この主人公は人間として失格したのだ」と説明しているようでいて、誰が誰を失格と判定したのかは書かれていない。主人公自身なのか、社会なのか、周囲の人間なのか、それとも題名を読んだ私たちなのか。

 その曖昧さの中に、読者自身まで巻き込まれる。

 もし『社会になじめない僕の告白』なら、読者は「そういう人の話なのだ」と一歩離れたところから見ることができる。ところが『人間失格』と言われると、「人間として合格とは何なのか」という問いが、読む側にも返ってくる。

 説明を増やした瞬間に、作品が小さくなるのである。

 これは題名について考えるうえで重要な逆説だろう。

 商品について情報を増やせば、普通は買う側の不確実性が減る。しかし文学の題名では、不確実性を消しすぎることが魅力を消す場合がある。

 優れた題名には情報だけではなく、空白が必要なのかもしれない。

では、題名を変えれば本当に売れるのか

 ここまで読むと、「それなら古典を現代風に改題して売ればよい」という話になりそうだが、科学的にはそこまで言うことはできない。

 これは重要なので、線を引いておきたい。

 題名が読者の期待を形成すること、文章の記憶や注意に影響することについては実証研究が存在する。しかし、『こゝろ』を『先生の遺書』に変えれば販売部数が何%増えるのか、『舞姫』を『ベルリンで彼女を捨てた』にすれば若者の購入率が上がるのか、といった近代文学を対象とした比較実験は確認できない。

 したがって、この記事の「売れそう」という言葉は仮説である。

 ただし、本の中身以外の情報が読者の関心に影響することについては、別の研究から手掛かりがある。Alain d’Astous、François Colbert、Imene Mbarekが新刊への関心を実験的に調べた研究では、著者や出版社の評判、表紙の魅力度など複数の要因が読者の関心に影響することが確認されている。題名そのものを改題して比較した研究ではないため、その結果を題名の効果へ直接置き換えることはできないが、「読者は本文だけを見て本を選んでいるわけではない」という点では重要な示唆を与える。

 つまり科学的に言えるのは、「題名を変えれば売れる」ではない。

 より慎重に言えば、題名は読者の期待形成や記憶を方向づけ得る。そして、本への関心は本文以外の情報にも影響される。したがって、題名を変えることで作品への入口が変化し、その結果として手に取る読者の層や関心が変わる可能性は十分に考えられる、というところまでである。

 それ以上は、まだ実験してみなければ分からない。

 だが、この「分からない」という部分こそ、案外面白い。

 同じ『舞姫』を千人に見せ、半分には『舞姫』、残り半分には『ベルリンで彼女を捨てた』という題名を付け、どちらを読みたいと思うか、その後どの人物を中心に記憶しているかまで調べたなら、一つの立派な文学心理実験になるだろう。

 近代文学は、研究し尽くされた古い標本なのではない。読み手を変え、入口を変えれば、まだ新しい実験のできる対象でもある。

「若者が近代文学を読まないのは題名のせい」とは言えない

 もう一つ、誘惑に負けてはいけない推論がある。

 近代文学が現代の読者、特に若い読者から遠く感じられるのは、題名が古いせいだ、と考えることである。

 これは現時点では証明されていない。

 近代文学への距離感には、旧字体・旧仮名遣い、語彙、文体、歴史的背景、学校教育での扱われ方、読書習慣、作品の長さ、入手方法、映像作品やSNS(インターネット上で人と情報を共有するサービス)との時間競争など、さまざまな要因が考えられる。その中から題名だけを取り出し、「これが原因だ」と言うことはできない。

 ただ、逆のことも言える。

 本文だけを原因だと決めることもできないのである。

 読者は本文へ到達する前に、すでに多くの情報に触れている。題名があり、装丁があり、作者の肖像写真があり、「文豪」という呼び名があり、「高校国語で習った」という記憶があり、場合によっては「名作だから読まなければならない」という義務感まで付いてくる。

 本当は嫉妬や恋愛や裏切り、孤独、貧困、野心、恐怖といった極めて生々しいものを書いた作品が、「日本近代文学」という透明なケースに入れられた瞬間、博物館の展示物のように見えることがある。

 作品を保存するために作った額縁が、作品から読者を遠ざけることもあるのではないか。

 ここから先は、科学的に確立された結論ではない。しかし、題名や表紙といったパラテクストが読者の受容に関係するという研究を踏まえれば、十分検討する価値のある仮説である。

改題すると作品が「分かりやすくなりすぎる」

 それにしても、近代文学を現代風に改題する作業を続けていると、奇妙な傾向に気づく。

 新しい題名は、だいたい説明的になる。

 『こゝろ』は『先生の遺書』になり、『舞姫』は『ベルリンで彼女を捨てた』になる。『羅生門』なら『生きるために悪人になる夜』となり、『人間失格』なら『社会になじめない僕の告白』になる。

 確かに分かりやすい。

 ところが分かりやすくなるほど、小説が小さくなっていく。

 作品には本来、複数の入口がある。『こゝろ』を恋愛の物語として読むこともできれば、友情と罪悪感の物語としても、世代交代や明治の終焉をめぐる物語としても読める。ところが『親友を裏切った男の告白』という題を与えた瞬間、その巨大な作品世界の中から「裏切り」という一本の道だけが太くなる。

 しかも「先生がKを裏切ったからKは自殺した」とまで単純化すれば、作品が意図的に残している不確定性まで消してしまう。先生自身はKの死の理由を完全に知っているわけではなく、その分からなさを抱えながら罪責感を深めていく。その曖昧さこそ、小説の重要な部分なのである。

 題名を売れるようにすることは、作品の説明書を書くことではない。

 説明しすぎれば、まだ読んでいない本を先に解釈してしまうことになる。

もしかすると、変えるべきなのは題名ではない

 そう考えていくと、この思考実験は意外な場所へたどり着く。

 近代文学を現代の読者へ届けるために、本当に題名を変える必要があるのだろうか。

 『こゝろ』はそのままでよい。

 その代わり、帯にこう書く。

 「先生は、なぜ親友への罪を何十年も抱えていたのか。」

 『舞姫』も変えない。

 ただし、「ベルリンで恋人を置き去りにした若きエリート官僚の告白」と紹介する。

 『羅生門』なら、「生きるためなら、人はどこまで悪くなれるのか」と問いかければよい。

 そうすれば百年以上生き残ってきた題名そのものを壊さず、現代の読者に物語への入口だけを差し出すことができる。

 これはジュネットのいうパラテクストを考えると、むしろ自然な方法でもある。本というものは、題名だけで読者へ届くわけではない。表紙、帯、紹介文、版型、デザインといった複数の入口を持っている。

 ならば、作品の名前を変えてしまう前に、その周囲を変えることができる。

 そして、おそらくこちらの方が文学に対して誠実である。

売れる題名と、百年残る題名

 最初の問いに戻ろう。

 タイトルだけ変更したら売れそうな近代文学はあるのか。

 たぶん、ある。

 少なくとも『舞姫』のように、題名から現代の読者が内容を想像しにくい作品には、別の題名を与えることで新しい読者が興味を持つ可能性はある。『こゝろ』についても、『先生の遺書』という具体的な題名の方が、初めて見る人には物語を想像しやすいかもしれない。

 ただし、それによって実際の販売部数が増えるとまでは、現在の研究から断言できない。

 それより興味深いのは、題名を変えてみることで、元の題名がなぜ残ったのかが見えてくることである。

 『人間失格』を現代風にしようとすると、どうしても元より弱くなる。『羅生門』も変えない方がよい。そして『こゝろ』は、一見何も説明していないようで、読み終わったあとには『先生の遺書』よりはるかに広い場所を占めている。

 売れる題名は、読む前に強い。

 優れた題名は、読んだ後にも強い。

 その二つは重なることもあるが、必ずしも同じではない。

 そして近代文学の面白さは、百年前の作者たちが、現代のマーケティング理論など知らなかったにもかかわらず、ときに恐ろしく強い題名を残しているところにある。

 もし今日、『人間失格』という新刊が、作者名を伏せて本屋の平台に置かれていたらどうだろう。

 おそらく私たちは、一瞬見る。

 四文字しかないのに、少し嫌な感じがする。

 自分とは関係のない人間の話だと思いたいのに、題名の方からこちらを見ているような気もする。

 そして、もしかすると手に取る。

 百年近く経ってもそういう力を持つ題名なら、それを現代風に変える必要などないのだろう。

 むしろ「タイトルを変えたら売れるのではないか」と考えるこの実験が最後に教えてくれるのは、反対のことなのかもしれない。

 名作の題名は、作品を売るための包装紙ではない。

 読み始める前には入口であり、読み終わったあとには作品そのものの一部になる。

 だから題名を変えてみると、作品の古さではなく、題名が百年生き残ってきた理由の方が見えてくるのである。

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