リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

伊丹十三について語ろうとすると、いつも一つの困難にぶつかる。俳優、映画監督、エッセイスト、商業デザイナー、テレビ制作者、雑誌編集者、イラストレーター。肩書を並べれば並べるほど、かえって彼が何者だったのか分からなくなるのである。多才だった、という言葉でまとめることもできる。しかし、それでは伊丹十三という人物の輪郭を十分に捉えたことにはならない。

むしろ彼の仕事を長い時間軸で眺めてみると、そこには一つの共通した姿勢が見えてくる。伊丹十三は、生涯にわたって「人間が日常をどのように生きているか」を見続けた人だったのではないか。

食べること、着ること、買うこと、車を運転すること、人と話すこと、子どもを育てること、病院へ行くこと、葬式を出すこと。私たちの生活は、そのような無数の行為によってできている。しかし普通、それらについて深く考えることはない。毎朝コーヒーを飲むとき、なぜこの器を使うのかとは考えない。店で物を買うとき、売る側と買う側との間にどのような心理が働いているかを分析したりもしない。葬式に参列すれば周囲に合わせて頭を下げ、決められた順序に従って動く。それで日常生活は問題なく進んでいく。

伊丹十三は、そこで立ち止まることのできる人だった。

なぜ人間は、この場面でこのように振る舞うのだろう。なぜこちらの国では自然に見える仕草が、別の国では不自然に見えるのだろう。なぜ便利なはずの道具が、使い方ひとつでみっともなく見えるのだろう。なぜ誰もが当然だと思っている習慣に、これほど妙なところがあるのだろう。

この「なぜ」が、伊丹十三の文章と映画を貫いている。

彼の初期のエッセイを読むと、そのことがよく分かる。外国へ出かけても、彼の関心は名所旧跡だけに向かわない。むしろレストランで人がどのように注文するのか、料理をどう食べるのか、車をどう扱うのか、服をどう着るのかといった、ごく普通の生活の細部へ向かっていく。そこで彼は、日本と外国の違いを大上段から論じるのではなく、目の前で起きている小さな出来事から考え始める。

一見すると、それは趣味や生活作法の話に見える。けれども、読み進めていくと、その向こう側から社会が姿を現す。食べ方には階級意識や家庭教育が現れ、服装には身体に対する感覚が現れ、サービスの仕方には人間関係についての社会的な考え方が現れる。車の扱い方一つをとっても、その国の道具観や公共意識が透けて見える。

伊丹十三が優れていたのは、こうした細部を単なる雑学として終わらせなかったことである。小さな生活習慣から、その背後にある大きな構造を感じ取っていた。

おそらく彼にとって、文化とは美術館や劇場の中だけにあるものではなかった。文化は食卓にもあり、商店にもあり、台所にもあり、道路にもあり、家族の会話にもある。人間が長い時間をかけて身につけてきた振る舞いそのものが文化なのである。

だから伊丹十三の文章には、独特の「見る速度」がある。

多くの人が何も考えず通り過ぎるところで、彼だけが速度を落とす。そして眺める。少し角度を変えて見る。外国と比べてみる。過去と比べてみる。自分の感覚を疑いながら、それでももう一度見る。そのうち、それまで平凡だった風景の中から妙なものが浮かび上がってくる。

この力は、後年の映画にそのまま受け継がれていった。

『お葬式』という題名を改めて考えてみれば、それだけでも伊丹十三の映画が普通ではなかったことが分かる。葬式は誰にでも関係する。しかし、映画の題材として考えれば華やかではない。主人公が世界を救うわけでもなければ、壮大な歴史が展開するわけでもない。親族が集まり、僧侶を迎え、慣れない儀礼を行い、周囲に気を遣いながら故人を送り出す。

ところが、そこには驚くほど多くの人間の姿がある。悲しみながらも段取りを気にする人がいる。作法を知らず戸惑う人がいる。世間体を考える人がいる。専門家に任せるしかないこともある。厳粛であるはずの場に、どこか滑稽さも入り込んでくる。

伊丹十三は、その矛盾を見逃さなかった。

人間は、悲しいときでさえ完全に悲しみだけの中にはいられない。お腹も減るし、電話も鳴るし、金のことも考えなければならない。人生の重大事のすぐ隣に、どうでもよい日常が存在している。そこに人間のおかしさがある。

伊丹映画のユーモアは、人を上から笑うものではない。むしろ、人間という存在そのものが持っている不格好さを見つめるところから生まれている。

『タンポポ』も同じである。ラーメン一杯という極めて日常的な対象から、伊丹十三は一つの世界を作り出した。食べることは誰もが毎日繰り返している。それにもかかわらず、いざ真正面から眺めてみると、そこには欲望も技術も美意識も競争もある。料理する者と食べる者がいて、上手な者と下手な者がいて、知識を誇る者もいれば、ただ純粋においしいものを食べたい者もいる。

ラーメンを描きながら、結局は人間を描いているのである。

『マルサの女』では税金という、普通なら映画から最も遠そうな世界を題材にした。『スーパーの女』では食品スーパーの売り場が物語の舞台になる。伊丹十三にかかると、税務署もスーパーも、一つの社会として見えてくる。そこには独自の言葉があり、慣習があり、専門知識があり、権力関係があり、善意も悪意も欲望もある。

彼が特別だったのは、非日常的な出来事を見つける能力ではなく、日常そのものの中に劇を見つける能力だったのだろう。

では、なぜ伊丹十三にはそれができたのか。

一つには、彼が「編集する人」だったことが大きいように思う。

編集という仕事は、何もないところからすべてを生み出す仕事ではない。すでに存在しているものを見つけ、選び、順序を与え、並べ直すことによって、新しい意味を生み出す仕事である。写真を一枚選ぶ。文章の位置を変える。余計なものを捨てる。二つの出来事を隣に置く。ただそれだけで、世界の見え方が変わる。

伊丹十三は商業デザインや編集の仕事を経験していた。その感覚は、後の文章にも映画にも深く残っている。

彼は、生活の中から素材を拾ってくる。食事を拾う。服装を拾う。車を拾う。葬式を拾う。税金を拾う。スーパーを拾う。そして、それらをいつもとは少し違う場所に置いてみせる。

すると読者や観客は、「こんなものが面白いのか」と驚く。

けれども伊丹十三が面白いものを発明したわけではない。もともとそこにあったものを、私たちが面白いと気づく位置まで動かしたのである。

ここに、彼が日常生活を「文化」に変えることができた理由がある。

文化という言葉には、ときとして大げさな響きがある。文学、絵画、音楽、思想。長い歴史を持つ作品だけが文化であるかのようにも感じられる。しかし、文化をもう少し広く捉えるならば、人間が繰り返してきた生活の型もまた文化である。

家族がどこに座って食事をするか。人前で何を恥ずかしいと思うか。祝い事のときに何を食べるか。客にどう接するか。死者をどのように送るか。

そうしたものは、誰か一人が決めたわけではない。無数の人間が長い時間をかけて作り、次の世代へ渡してきたものである。

伊丹十三は、それを見ていた。

だから彼が洋服について書けば、それは単なるファッションの話ではなくなる。料理について書けば、単なるグルメ談義ではなくなる。外国について書いても、単なる旅行記にはならない。

伊丹十三の文章には、美意識と同時に倫理があるからである。

どの服が格好いいかということだけではなく、人間は物をどう扱えばよいのか。どの料理がおいしいかということだけではなく、食べるという行為をどのように楽しむべきなのか。どこの国が優れているかということではなく、自分たちはなぜこのような振る舞いをしているのか。

その問いは、最後には自分自身へ戻ってくる。

彼は外国を使って日本を見た。そして日本を語りながら、人間そのものを見ていたのである。

そこには、伊丹十三特有の距離感がある。

完全に外側へ出るのではない。しかし、中に埋没もしない。

日本人として日本の生活を知りながら、ほんの少しだけ外側へ立ってみる。その半歩ほどの距離から眺めると、日常の奇妙さがよく見える。

考えてみれば、優れたエッセイストにはこの距離感が必要なのだろう。

生活に近すぎれば、すべてが当たり前になってしまう。遠すぎれば、生活の温度が失われる。

伊丹十三は、その中間に立っていた。

だから彼の文章を読んでいると、「自分も見たことがある」と思うのに、「そんなふうに考えたことはなかった」と感じる。

これは、非常に不思議な読書体験である。

未知の世界を教えられたのではない。むしろ、自分が毎日暮らしてきた世界を改めて見せられている。

本当の意味での観察とは、そこにあるものを発見することだけではないのかもしれない。見慣れすぎて見えなくなったものを、もう一度見えるようにすることである。

伊丹十三は、それができた。

そして、その能力は単なる知識の豊富さから生まれたのではない。彼には、自分自身の感覚を信用する強さがあったのだと思う。

世間では普通とされている。しかし、自分には何となくおかしく見える。

多くの人が気にしていない。しかし、自分には気になる。

普通なら、そこで自分の感覚を引っ込めてしまう。みんなが何も言わないのだから、たぶん自分の方がおかしいのだろう、と考える。

伊丹十三は、そこで考えることをやめなかった。

この違和感はどこから来るのだろう、と掘り下げていった。

その姿勢が、彼の文章に独自の切れ味を与えた。

文化を見るということは、結局、違いを見ることでもある。

美しいものと美しくないもの。自然な振る舞いと不自然な振る舞い。合理的な仕組みと不合理な仕組み。品のある態度と品のない態度。

伊丹十三は、その境界線に敏感だった。

もちろん、その判断には彼自身の好みもあった。すべてが普遍的な基準だったわけではない。それでも彼の文章が今なお魅力を失わないのは、結論そのものよりも、物事を見る過程が面白いからである。

何となく感じる。

よく見る。

比較する。

考える。

言葉にする。

この繰り返しによって、日常の風景に意味が生まれていく。

伊丹十三が教えてくれるのは、文化とは最初から立派な姿で存在しているものではないということなのかもしれない。

文化は、生活の中に沈んでいる。

食卓にも、道路にも、衣服にも、店にも、家族の会話にも、人間の癖にも沈んでいる。

しかし、それはあまりにも近くにあるため、普通は見えない。

伊丹十三は、その沈んでいるものを一つずつ拾い上げた。

そして文章にし、映像にした。

すると、それまで何でもなかった行為が、急に興味深いものに見えてくる。

自分が箸を持つ手まで気になってくる。店員との会話まで気になってくる。スーパーの商品棚の並び方まで気になってくる。葬式の席で人々がどのように振る舞うのかまで見えてくる。

世界が少しだけ濃くなるのである。

だから伊丹十三の仕事を「生活文化」と呼ぶだけでも、まだ十分ではないように思う。

彼は、生活を文化へ格上げしたわけではなかった。

もともと生活の中に文化があることを発見し、それを私たちにも見えるようにした。

おそらく、そこに伊丹十三という人のもっとも大きな才能があった。

特別な場所へ出かけなくても、人間について考える材料は目の前にある。大事件が起こらなくても、社会は毎日の暮らしの中に現れている。難しい思想書を開かなくても、人間が何を大切にしているかは、その人の食べ方や話し方や物の扱い方に現れる。

伊丹十三は、そうした小さな事実を軽く扱わなかった。

それどころか、小さな事実の方が人間について多くを語ることを知っていた。

伊丹十三が見ていたのは、遠いところにある「文化」ではない。

毎朝起きてから夜眠るまで、私たちが無意識のうちに繰り返している、その生活そのものだった。

そして彼の文章や映画に触れたあと、私たちは少しだけ以前とは違う目で、自分の暮らしを見るようになる。

それこそが、伊丹十三が日常生活を「文化」に変えたように見える、本当の理由なのだろう。

彼は日常を別のものに変えたのではない。

日常の中に、最初から文化があったことを見つけたのである。

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「文豪」と呼ばれる作家と呼ばれない作家の違いは何か

夏目漱石を「文豪」と呼んでも、ほとんど違和感はない。森鴎外にも、芥川龍之介にも、その言葉はよく似合う。川端康成や谷崎潤一郎についても、おそらく多くの人が同じように感じるだろう。

ところが、時代を少し下ってみると事情が変わってくる。

松本清張を文豪と呼ぶ人はいるだろうが、「社会派推理小説の巨匠」と呼ぶ方が普通かもしれない。星新一なら「ショートショートの神様」、司馬遼太郎なら「国民的作家」、赤川次郎なら「ベストセラー作家」という言葉が先に浮かぶ。村上春樹ほど世界的に読まれている日本人作家であっても、「文豪・村上春樹」と書けば、どこか少し大げさな響きを感じる人は少なくないだろう。

この違いは、単純に作品の質だけで説明できるものではない。

そもそも「文豪」とは文学上の資格ではない。国家試験があるわけでもなければ、文学賞のように選考委員会が認定するものでもない。ある作家が何冊売れば文豪になるという基準もなく、芥川賞を取れば文豪になれるわけでもない。それなのに私たちは、ある作家については自然に「文豪」という言葉を使い、別の作家についてはほとんど使わない。

そこには、日本人が文学をどのように記憶し、後世へ残してきたのかという、作品そのものとは別の仕組みが隠れている。

「文豪」は生前の人気だけでは生まれない

作家にとって、売れることは重要である。しかし、売れた作家がそのまま文豪になるわけではない。

日本文学史を振り返れば、生前に圧倒的な人気を得た作家は数え切れないほどいる。その時代の新聞や雑誌を賑わせ、多くの読者を熱狂させたにもかかわらず、現在では文学史の専門書を開かなければ名前に出会わない作家もいる。その一方で、生前の販売部数だけを見れば必ずしも最大級ではなかった作家が、百年後には「日本を代表する作家」として語られていることもある。

つまり、人気と文学史上の地位は、同じものではない。

ベストセラーは「その時代にどれだけ読まれたか」を示すが、文豪という評価には「その時代が終わったあとにも読まれたか」という、もう一つの時間軸が加わる。

ここに文豪という言葉の面白さがある。

作家本人が亡くなったあと、新刊が出なくなり、新聞にもテレビにも本人が登場しなくなる。それでも作品だけが残り、新しい世代の読者に読み直される。社会の価値観が変わってもなお、そこに別の意味が見いだされる。その繰り返しのなかで、作家は少しずつ「同時代の人気作家」から「文学史上の人物」へ変わっていく。

文豪とは、ある意味では時間によってつくられる称号なのである。

教科書に載ると、作家は「国民の記憶」になる

夏目漱石を読んだことがない人でも、夏目漱石という名前は知っている。

芥川龍之介の作品を一冊も買ったことがない人でも、『羅生門』や『蜘蛛の糸』という題名を聞いたことがあるかもしれない。森鴎外なら『舞姫』、太宰治なら『走れメロス』が学校教育を通して記憶されている。

ここで重要なのが国語教科書である。

文学作品が教科書に採用されるということは、単に作品が教材になるというだけではない。毎年、何十万人、何百万人という子どもたちが、その作家の名前を見ることになる。それが何十年も続けば、実際にその作家の本を読む人よりはるかに多くの人が、その名前だけは知っているという状態が生まれる。

これは非常に大きな力を持つ。

文学は本来、読もうとした人が書店や図書館で出会うものである。しかし教科書に入った作品だけは違う。本人の意思とは関係なく、ほぼ全国民が一度はその作家と出会うことになる。

こうして漱石や芥川は、「読書をする人が知っている作家」から、「日本人なら名前を知っている作家」へと変わっていく。

文豪というイメージには、この国民的共有記憶がかなり深く関係している。

「全集が出る」という特別な出来事

かつて日本の家庭の本棚には、文学全集が並んでいることが珍しくなかった。

世界文学全集、日本文学全集、現代文学全集。革張り風の装丁を施された重厚な本が、応接間の本棚を一段まるごと占領している。全部読んだ家庭がどれほどあったかは別として、それを所有すること自体が、ある種の教養の象徴でもあった。

そこで名前を連ねる作家は、単に「面白い小説を書いた人」ではなくなっていく。

全集とは、その作家の仕事を保存する装置だからである。

一冊の小説なら絶版になることがある。流行作家なら、時代が変われば書店から姿を消す。しかし全集が編まれ、研究者が作品を整理し、書簡や日記まで収録されるようになると、作家は個々の作品を超えた「研究対象」になる。

夏目漱石全集、森鴎外全集、芥川龍之介全集という言葉には、どこか文化財のような響きがある。

作家本人の原稿だけではない。年譜が作られ、書簡が集められ、作品の初出が調べられ、研究論文が書かれる。それらが積み重なることで、一人の作家を中心に巨大な知識の体系が形成されていく。

文豪とは作品を書いた人であると同時に、死後も読み解かれ続ける人なのだ。

作家の人生まで「物語」になる

文豪と呼ばれる作家には、奇妙なほど強い人物像が付随していることが多い。

漱石には神経衰弱や英国留学の孤独があり、鴎外には軍医としての顔がある。芥川龍之介には若くして死を選んだ知識人という像があり、太宰治には破滅的な人生そのものが作品と重なるような印象がある。三島由紀夫に至っては、その最期を文学から完全に切り離して語ることが難しい。

もちろん、本来なら作品と作家本人の人生は別のものである。

しかし文学史は、必ずしも作品だけを保存しない。

「この人はどんな人生を送り、なぜこの作品を書いたのか」という物語まで一緒に保存する。その結果、作家自身が一つの文化的キャラクターになっていく。

学校で名前を覚え、写真を見る。年表には出生と死去が記され、文学館には書斎が再現され、愛用の万年筆まで展示される。かつて生身の人間だった作家は、少しずつ歴史的人物へ変わっていく。

この変化が十分に進んだところで、「作家」という呼び名の前に「文豪」という二文字が置かれるようになる。

文豪という言葉には、作品への敬意だけではなく、その人物がすでに「歴史の側」に移ったことを示す響きも含まれているのである。

なぜ現代作家は文豪と呼ばれにくいのか

そう考えると、現在活躍している作家が文豪と呼ばれにくい理由も見えてくる。

たとえば村上春樹は、日本国外でも極めて広く読まれ、多数の言語に翻訳されている。日本文学史に残る可能性という意味では、すでに重要な作家であることを否定するのは難しい。それでも「文豪」という呼称には、まだ微妙な距離がある。

その理由の一つは、私たちと同じ時間を生きているからだろう。

新刊が出れば書評が掲載され、インタビューも行われ、読者は作品について賛否を語る。その作家はまだ「評価が確定していない現在の人物」である。

文豪には、どこか銅像のようなところがある。

現在進行形の人間には似合いにくい。

文学史という長い廊下の奥に立ち、何世代もの読者がその作品を読み終えたあとでもなお名前が残っている。そんな時間的距離が生じたとき、初めて文豪という言葉が違和感なく馴染んでくる。

だから、今日「人気作家」と呼ばれている人のなかから、百年後の文豪が生まれる可能性は十分にある。ただし、それを現在の私たちが確定することはできない。

純文学だから文豪になるわけではない

もう一つ興味深い問題がある。

文豪という言葉には、どうしても純文学的な響きがまとわりつく。しかし、文学史に残るために純文学でなければならないという決まりはどこにもない。

江戸川乱歩は探偵小説を書いた。松本清張は推理小説を通して社会を描いた。司馬遼太郎は歴史小説によって、多くの日本人の歴史観にまで影響を与えた。星新一は短い物語のなかに未来社会の構造を閉じ込めた。

彼らの影響力は決して小さくない。

それでも「文豪」という呼称の中心には、長い間、近代文学史と学校教育が置いてきた正統的な文学の系譜がある。

つまり、文豪は純粋に作品の文学的価値だけで決まるのではなく、「文学史という物語のなかで、どの位置に置かれたか」にも左右される。

文学史そのものが一つの編集作業なのである。

無数に存在した作家のなかから何人かを選び、近代文学の始まりを語り、自然主義を説明し、白樺派、新思潮派、無頼派、戦後文学へと線を引いていく。その線の上に何度も名前が登場する人ほど、後世から見ると巨大な存在に見える。

反対に、膨大な読者を持ちながら、その文学史の線から少し外れている作家は、「大作家」にはなっても「文豪」と呼ばれにくい。

ここには評価というものの、少し不思議な性質が表れている。

売れた作家と残った作家

文学の世界には、「売れた」という評価と「残った」という評価がある。

二つは重なることもあるが、同じではない。

ある時代に百万人が読んだ作品が、五十年後にはほとんど読まれなくなることがある。一方、発表当時には限られた読者しか持たなかった作品が、何十年もかけて評価を高めることもある。

文学には、出版された瞬間には分からない価値がある。

社会が変わると、作品の意味まで変わるからだ。

たとえば、ある時代には恋愛小説として読まれていた作品が、後世には女性の社会的立場を描いた作品として読み直されることがある。家族小説が、当時の家制度を記録した社会史的資料に見えてくることもある。未来を描いた小説が、数十年後には驚くほど現実的な社会批評として読めることさえある。

優れた文学は、読者が変わるたびに別の顔を見せる。

文豪になる作家とは、その再読に耐え続けた作家だとも言えるだろう。

「文豪」は出版社と書店にもつくられる

もちろん、作品が残るためには、それを読める状態にしておかなければならない。

文学史に残った作家の作品が現在でも容易に読めるのは、出版社が何十年にもわたって文庫を再版しているからである。旧字体を新字体に直し、注釈を加え、解説を付け、新装版を作る。著作権が切れれば電子化され、無料で読める作品も増えていく。

つまり名作は、自然に残っているわけではない。

誰かが残しているのである。

出版社、編集者、研究者、書店、図書館、教師、評論家、そして読者。その無数の人々が「これは次の世代にも読む価値がある」と判断し続けた結果として、作品は百年後まで運ばれていく。

この仕組みを考えると、「文豪とは誰か」という問いは、そのまま「私たちはどの文学を残してきたのか」という問いに変わる。

文豪ではないから、文学的価値が低いわけではない

ここで最も注意したいことがある。

文豪と呼ばれない作家が、文豪より劣っているわけではない。

むしろ「文豪」という言葉は、文学作品の価値を測る精密な物差しとしてはかなり曖昧である。

大量に読まれた作家、特定のジャンルを完成させた作家、若者文化を変えた作家、文章表現に革命を起こした作家。その重要性は、それぞれ違う尺度で測らなければならない。

赤川次郎を漱石と同じ物差しで測る必要はないし、星新一を鴎外と同じ方法で評価する必要もない。

むしろ文学史を面白くするのは、その違いである。

数十ページを費やして人間の内面を描く作家もいれば、数ページの物語で文明そのものを風刺する作家もいる。歴史を巨大な物語として描く人もいれば、家庭の食卓に置かれた小さな茶碗から一つの時代を描く人もいる。

文学は一種類ではない。

だから文豪という称号も、文学の頂点を示すランキングだと考えない方がよい。

百年後、誰が文豪になっているのだろう

結局のところ、文豪と呼ばれる作家と呼ばれない作家を分けているのは、作品の質だけではない。

作品が長期間読まれたこと、学校教育に取り込まれたこと、文学史のなかに位置づけられたこと、全集や文庫として保存されたこと、研究の対象になったこと、そして作家自身の人生まで含めて後世に語り継がれたこと。そうしたいくつもの条件が重なったところに、「文豪」という存在が生まれる。

だから文豪とは、作家が自分一人でなるものではない。

作家が作品を書き、読者が読み、批評家が論じ、出版社が残し、教師が教え、次の世代がもう一度読み直す。その長い共同作業の果てに、いつの間にか一人の作家の名前の前へ「文豪」という二文字が置かれる。

そう考えると、文学史は少し違って見えてくる。

私たちがいま何気なく読んでいる作家のなかにも、まだ「文豪」と呼ばれていない未来の文豪がいるかもしれない。そして反対に、現在は巨大に見える作家が、百年後にはほとんど読まれていない可能性もある。

その判定を下すのは、文学賞の選考委員でも、出版社でも、評論家でもない。

最後に決めるのは、時間である。

本棚から本棚へ、世代から世代へと作品が渡され、それでもなお誰かがページを開く。その小さな行為が百年ほど積み重なったとき、一人の「作家」は、いつしか「文豪」になっているのである。

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向田邦子の文章を読んでいると、ときどき不思議な気持ちになる。

そこに書かれているものは、決して特別なものではない。食卓があり、父親がいて、母親がいて、姉妹がいる。台所から匂いがして、誰かが機嫌を損ね、誰かが黙り込み、また何事もなかったように夕飯が始まる。

世界を揺るがすような事件が起きるわけではない。

それなのに、何十年も前に書かれた文章の一節が、妙に鮮やかにこちらへ届いてくる。

古い写真を見ているのとは少し違う。写真なら、そこに写っている髪型や服装や家具を見て、「昔だな」と思う。しかし向田邦子の文章を読んでいると、昔を見ているはずなのに、いつの間にか自分の家のことを考えている。

父親の咳払い。

母親の台所仕事。

食卓で交わされる、どうでもいいような会話。

子供のころには気づかなかった、大人たちの小さな嘘。

そういうものが、文章の向こう側から静かに立ち上がってくる。

向田邦子の文章が今も美しい理由は、昭和を書いたからではない。

昭和という時代を借りながら、その奥にある、人間が家族と暮らすときの「どうにも説明できない感情」を書いたからなのだと思う。

美しい文章なのに、美しく見せようとしない

文章の美しさというと、私たちはつい華麗な比喩や、難しい言葉や、長く流れるような文体を想像する。

しかし向田邦子の文章は、そういう美しさとは少し違う。

むしろ、言葉は驚くほど普通である。

普通の言葉を普通に並べているように見える。

ところが読み終えると、一枚の絵が残っている。

それも、輪郭のはっきりした絵ではない。

夕方の台所の明かりであったり、食卓の上に置かれた皿であったり、黙って新聞を読んでいる父親の横顔であったりする。

向田邦子は、読者に「ここで感動してください」と言わない。

悲しい場面でも、悲しいと大声で言わない。

寂しい人間が出てきても、「この人は寂しい人なのです」と説明しない。

その代わり、ちょっとした仕草を書く。

返事の間を書く。

食べものを書く。

着ているものを書く。

人間というものは、本当に悲しいときほど「私は悲しい」とは言わない。

むしろ味噌汁をすすったり、窓を閉めたり、テレビをつけたりする。

向田邦子は、そのことをよく知っていた。

だから文章が芝居がからない。

読者が感動するための場所を、作者が先回りして埋めてしまわないのである。

文章の中に、少しだけ空白が残されている。

その空白に、読者自身の記憶が入り込む。

そこに、向田邦子の文章の強さがある。

食べものを書けば、人間が見えてくる

向田邦子の文章には、食べものがよく似合う。

豪華な料理である必要はない。

むしろ、家庭の中にあるごく普通の食べもののほうがいい。

汁物、煮物、漬物、御飯。

そうしたものを書いているだけなのに、家族の姿が見えてくる。

考えてみれば、家族ほど不思議な集団はない。

会社なら嫌いな人とは距離を置ける。友人なら付き合わなくなることもできる。しかし家族は、腹を立てながら同じ鍋をつつき、口をきかなくても翌朝には同じ味噌汁を飲んでいたりする。

そこには愛情もある。

しかし愛情だけではない。

鬱陶しさもある。

嫉妬もある。

諦めもある。

それでも同じ卓袱台を囲んでいる。

向田邦子の描く食卓が美しいのは、家庭を理想化していないからだ。

仲のよい家族という、きれいな額縁には入れない。

父親には父親の勝手があり、母親には母親の我慢があり、子供には子供の反抗がある。

誰も完全には善人ではない。

それでも夕飯になると、みんなが集まってくる。

人間は理屈で家族をしているわけではない。

この当たり前だが説明しにくい事実を、向田邦子は料理の湯気の向こうから見せてくる。

昭和の父親を、単純な悪役にしなかった

向田邦子の世界には、昭和の父親がいる。

今の感覚で見れば、かなり横暴な父親もいる。

家では威張り、妻や子供に厳しく、自分の都合を押し通す。今日なら到底そのまま肯定されないような人物も少なくない。

しかし向田邦子は、そういう父親を単純な悪役にしなかった。

そこが重要である。

人間は、悪いところだけを切り取れば悪人になる。

よいところだけを集めれば聖人になる。

しかし現実の人間はそんなふうにはできていない。

腹を立てるほど嫌なところがあるのに、死んでしまえば思い出す。

怖かった父親の背中に、ある日突然、小ささを感じる。

子供のころには絶対者に見えた人が、こちらが大人になって振り返ると、実は一人の不器用な男にすぎなかったことに気づく。

向田邦子は、その距離を書く。

子供から見た父。

大人になって思い出す父。

生きている父。

記憶の中の父。

同じ人物なのに、見る場所によって姿が変わる。

人を理解するということは、相手の性格を分析することではなく、その人を見る自分自身もまた変わっていくことなのだと、彼女の文章は教えてくれる。

だから向田邦子の家族像は古びない。

父権的な家族制度そのものは変わっても、「親を完全には理解できない子供」と「子供には理解されない親」という関係は、今もほとんど変わっていないからである。

記憶には、いつも少し嘘がある

子供のころの家を思い出してみる。

不思議なことに、間取りの全部は思い出せないのに、どうでもよいものだけが残っている。

柱についた傷。

食器棚の取っ手。

雨の日の玄関の匂い。

誰かが着ていたセーター。

夕食前に流れていたテレビの音。

人間の記憶とは、歴史年表のようにはできていない。

重要な出来事から順番に残っているわけではない。

むしろ、何の意味があるのか分からない断片ばかりが残る。

向田邦子の文章は、この記憶の仕組みによく似ている。

だから読んでいると、読者の中に眠っていた記憶まで引き出される。

「ああ、こういうことがあった」

と思う。

しかし実際には、向田邦子と同じ経験をしたわけではない。

時代も家も家族も違う。

それでも懐かしい。

文学の不思議はここにある。

優れた文章は、作者の記憶を書いているはずなのに、いつの間にか読者自身の記憶へ変わってしまう。

向田邦子は、その変換が驚くほどうまい。

人間のおかしさを知っている文章

向田邦子の文章には、悲しさと一緒に、どこかおかしさがある。

ここも大きな魅力だと思う。

人間は、悲劇の中でも妙なことをする。

深刻な場面なのに腹が減る。

喧嘩をしている最中に、鍋が吹きこぼれる。

泣いていた人が、突然くしゃみをする。

葬式の日にも誰かが靴を間違える。

現実の人生とは、本来そういうものなのだろう。

悲しい日だから一日中悲しい音楽が流れるわけではない。

深刻な出来事の横に、くだらない出来事が普通に置いてある。

向田邦子は、この人生の「調子の外れ方」をよく知っている。

そのため文章が湿っぽくならない。

哀しい話を書いていても、どこか乾いている。

乾いているからこそ、かえって哀しさが残る。

読者を泣かせようとする文章より、泣かせようとしない文章のほうが、人を泣かせることがある。

向田邦子の文章には、その逆説がある。

説明しすぎないから、時代を越える

現代の文章は、説明が多い。

何が問題なのか。

誰が悪いのか。

なぜそうなったのか。

どう考えるべきなのか。

情報を伝える文章なら、それは必要である。

しかし文学では、説明するほど消えてしまうものもある。

たとえば、ある夫婦の間に流れている微妙な空気を、「二人の関係は冷え切っていた」と書けば、一行で説明できる。

けれども向田邦子なら、おそらく別のものを書く。

茶碗の置き方かもしれない。

呼び方かもしれない。

夫が帰ってきたときの妻の返事かもしれない。

人間関係というものは、説明ではなく、そうした細部に現れるからだ。

文章が美しいというのは、飾られていることではない。

必要以上に言わないことで、見えないものまで見えるようにすることなのだろう。

向田邦子の文章には、その節度がある。

読者を信用している文章、と言ってもいい。

全部説明しなくても、読者は分かる。

全部言わなくても、読者には届く。

その信頼が文章を軽くし、同時に深くしている。

昭和を書いたのではなく、「失われていくもの」を書いた

向田邦子を読むと、昭和という時代への郷愁を感じる人は多いだろう。

しかし彼女の文章を単なる昭和懐古として読むと、大切なものを取り逃がす気がする。

向田邦子が書いたのは、昭和そのものではない。

失われていくものではなかったか。

家族の形。

食卓。

父親。

母親。

若かった自分。

子供だった自分。

誰かと過ごした時間。

そのときには何とも思わなかったものが、失ってから初めて意味を持つ。

これは昭和だけの話ではない。

令和を生きる私たちも、今この瞬間、何かを失いつつある。

家族と食べている夕飯も、毎日見ている部屋も、電話をかければ声を聞ける人も、永遠には続かない。

だが私たちは、続いている間はその価値に気づかない。

向田邦子の文章を読んでいると、その当たり前のことを、不意に思い知らされる。

だから懐かしいのだ。

昔が懐かしいのではない。

失ってしまったものを持っていた自分が懐かしいのである。

美しい文章とは、記憶に残る文章なのかもしれない

向田邦子の文章を読み終えたあと、難しい言葉はほとんど残らない。

思想を一文で説明しろと言われても、案外困る。

しかし、景色が残る。

人が残る。

匂いが残る。

食卓の音が残る。

そして数日後、スーパーで昔ながらの惣菜を見かけたり、古い食器を手に取ったりしたとき、突然その文章を思い出す。

これこそ文章の強さなのだと思う。

読んでいる間だけ感心させる文章はたくさんある。

しかし本当に美しい文章は、本を閉じたあとから始まる。

日常のどこかに潜み込み、何でもない瞬間にふっと戻ってくる。

向田邦子の文章は、そういう文章である。

彼女が書いた昭和の家は、もうほとんど残っていない。

卓袱台を囲む家族も減った。

父親の権威も変わった。

食生活も変わった。

電話もテレビも、家族の会話の仕方さえ変わった。

それでも、人は家族に腹を立てる。

言わなくていいことを言い、言うべきことを言わない。

愛している人に素直になれず、いなくなってから思い出す。

その部分だけは、あまり変わらない。

だから向田邦子は古くならない。

彼女が書いていたのは、昭和の茶の間ではなく、その茶の間に座っていた人間だったからである。

そして人間というものは、時代が変わっても、驚くほど同じところで笑い、同じところで腹を立て、同じように後悔する。

向田邦子の文章の美しさとは、結局そこにあるのではないだろうか。

大げさな人生を書かずに、人生そのものを書いてしまう。

特別な言葉を使わずに、忘れられない文章を残してしまう。

そうして私たちは、何十年も前の昭和の食卓を読みながら、いつの間にか自分自身の家族を思い出しているのである。

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筒井康隆の小説を読んでいると、ときどき自分が何を読んでいるのか分からなくなる。

笑っていたはずなのに、いつの間にか怖くなっている。現実の話だと思っていたら、その現実自体がどこか怪しくなってくる。真面目な社会の話が突然ばかばかしい方向へ暴走し、逆に、ばかばかしい話を読んでいたはずなのに、最後には社会そのものの異様さを見せつけられる。

普通の小説なら、作者は読者を物語の中へ連れていこうとする。しかし筒井康隆は、ときどき物語そのものを揺さぶり、読者が安心して寄りかかっていた前提まで壊してしまう。

それは偶然ではない。

どうやら筒井康隆という作家は、私たちが「小説とはこういうものだ」「社会ではこう振る舞うものだ」「これは普通で、これは普通ではない」と無意識に決めている、その境界線を見つけると、そこを押してみたくなる人なのである。

では、なぜ彼はこれほど長いあいだ「常識」を壊し続けてきたのだろうか。

SFは、常識を疑うための装置だった

筒井康隆は1934年に大阪市で生まれた。1960年には弟たちとSF(Science Fiction・科学や未来、架空の設定などを用いて現実を問い直す文学)の同人誌『NULL』を創刊し、創刊号に発表した「お助け」が江戸川乱歩に認められて『宝石』に転載された。そこから本格的な作家活動へと進んでいく。

筒井康隆の出発点はSFだった。

しかし、彼の作品を読んでいると、科学技術の未来を予測することそのものが目的ではなかったことが分かる。むしろSFという形式は、現実社会から少し離れた場所に立ち、今の社会を別の角度から眺め直すための装置として使われている。

たとえば私たちは、満員電車に乗る。会社へ行く。学校へ行く。テレビを見る。人の噂を気にする。肩書によって相手への態度を変える。

毎日繰り返しているうちに、それらは「普通のこと」になる。

ところが、その普通の行動を少しだけ極端にしてみる。

全員が同じことを始めたらどうなるのか。ある制度を徹底したら何が起こるのか。人間の欲望を遠慮なく拡大したら社会はどうなるのか。

そこまでやると、それまで普通に見えていた社会が突然奇妙なものに見えてくる。

筒井康隆の風刺には、この方法が何度も現れる。

彼が壊しているのは、現実そのものではない。現実を見るときに私たちが無意識に使っている「これは普通だ」という物差しなのである。

笑わせることで、読者の警戒心を解いてしまう

筒井作品には笑いが多い。

しかも、上品なユーモアだけではない。誇張、悪ふざけ、ナンセンス、ブラックユーモア、ときには下品ささえもためらわずに使う。

ここが重要なのだと思う。

人は正面から「あなたが信じている社会常識は間違っています」と言われれば反発する。けれども、笑っているときには少し無防備になる。

「そんな馬鹿な話があるか」と笑いながら読み進めているうちに、ふと気づく。

これは本当に馬鹿な話なのだろうか。

極端に描かれているだけで、似たようなことは現実社会でも起きているのではないか。

筒井康隆の笑いには、ときとして鏡のような役割がある。

鏡に映っている人物を笑っていたはずなのに、その人物が自分自身に似ていることに気づいてしまう。

だから、笑ったあとに妙な後味が残る。

筒井康隆の風刺が、単なる悪ふざけで終わらない理由はそこにある。

やがて「小説という常識」まで疑い始めた

しかし筒井康隆は、社会の常識を壊すだけでは満足しなかった。

やがて疑い始めたのは、小説そのものだった。

小説には文章があり、登場人物がいて、時間が進み、読者は作者が用意した物語を読む。

考えてみれば、これも一つの約束事である。

では、その約束を壊したらどうなるのか。

筒井康隆は1970年代以降、前衛的、実験的な小説へ本格的に踏み込んでいく。本人も後年の対談で、前衛的なものへの憧れがあったことを語っている。

一方で、単に難しい文学を書きたかったわけではない。本人は、読者をもっと広げたいという意識も持っていた。

ここが筒井康隆の面白いところである。

実験文学というと、一般の読者から遠ざかっていくように思える。

ところが筒井康隆は逆だった。

難しいことをやりながら、面白さを捨てない。文学の仕組みを壊しながら、その壊れていく様子そのものを娯楽にしてしまう。

読者にとっては、文学理論を学ばなくても「何かがおかしい」「普通の小説とは違う」と感じられる。

その違和感そのものが、筒井文学の入口になっている。

『残像に口紅を』では、日本語そのものが実験の対象になった

その到達点の一つが『残像に口紅を』だろう。

この小説では、世界から一つずつ文字が消えていく。

文字が消えれば、その文字を使った言葉が使えなくなる。そして言葉が消えるにつれて、その言葉によって表現されていたものまで世界から失われていく。

つまり筒井康隆は、小説を書くために絶対に必要なはずの「言葉」を、自分から少しずつ減らしていった。

普通なら作家は、使える言葉が多いほど有利である。

筒井康隆は逆に、自分の道具を一つずつ捨てながら小説を書いた。

これほど奇妙な文学的ゲームもない。

しかし読み進めていると、単なる言葉遊びでは済まなくなってくる。

ある文字が消え、その文字を含む言葉が使えなくなる。それによって、それまで当たり前に語ることのできた世界が少しずつ狭くなっていく。

そうなると読者は、言葉が世界をどのように切り取り、認識するためにどれほど大きな役割を果たしているのかまで考えさせられる。

これは、作者が一つの答えを提示しているというより、実験的な仕掛けを通じて読者の側に問いが生まれてくる作品だと言った方がよいだろう。

1989年に発表された作品でありながら、その後も長く読まれ、近年には漫画化もされている。

数十年前の言語実験小説が、今なお新しい読者を獲得しているのは興味深い。

常識を壊す文学は、案外古くなりにくいのかもしれない。

なぜなら、常識そのものが時代によって作り替えられていくからである。

『文学部唯野教授』では、文学を語る側まで小説の中に入れた

筒井康隆が壊してきた対象は、日常生活だけではない。

文学そのものを権威化する世界も例外ではなかった。

『文学部唯野教授』では、大学という制度、教授たちの人間関係、文学研究や文学理論の世界が、小説の材料になっていく。

文学を分析する側にいた人間が、今度は小説の登場人物として描かれ、その権威や欲望や人間臭さまで笑いの対象になる。

ここには筒井康隆らしい逆転がある。

普通なら文学理論は、小説を外側から分析するための道具である。

ところが筒井康隆は、その文学理論を扱う人々まで小説の内側へ引きずり込んでしまう。

分析する側だった人間が、分析される側になる。

権威とは、外側から眺めると立派に見える。しかし、その内部にいる人々の欲望や嫉妬や打算まで描いてしまえば、急に滑稽になる。

筒井康隆は、こうして何度も「偉そうに見えるもの」を地上へ引き下ろしてきた。

『パプリカ』では、現実そのものが信用できなくなる

そして『パプリカ』まで来ると、揺さぶられるのは現実と夢の境界である。

他人の夢に入り込む技術をめぐって物語が進み、夢と現実が次第に混ざり合っていく。

私たちは普通、「これは現実で、これは夢だ」と区別できることを前提に生活している。

その境界が壊れたらどうなるのか。

筒井康隆は、ここでも人間が当然だと思っている認識の土台を揺らす。

考えてみれば、彼が長年やってきたことは一貫している。

社会の常識を疑う。文学の常識を疑う。言葉の常識を疑う。そして最後には、現実とは何かという常識まで疑う。

壊す対象が次々に変わっているだけで、「本当にそれは当然なのか」という問いそのものは変わっていない。

「何を書いてもいい作家」になろうとした

筒井康隆自身の言葉をたどると、さらに興味深い。

近年の対談で筒井は、自分が目指してきた作家像について語っている。

一つのジャンルに固定されるのではなく、「筒井康隆なら何を書いてもよい」と読者から思ってもらえるような作家になりたかった、という趣旨である。

これはかなり重要な発言だと思う。

普通、作家は「この人はミステリー作家」「この人はSF作家」「この人は純文学作家」と分類される。

分類された方が、読者にも出版社にも分かりやすい。

しかし分類とは、別の言い方をすれば、「この人はここから出てはいけない」という境界線でもある。

筒井康隆は、その境界まで壊そうとした。

SFを書く。

風刺を書く。

実験小説を書く。

娯楽小説を書く。

文学理論まで小説にしてしまう。

夢と現実の境界まで揺さぶる。

一つの作家像に収まること自体を拒む。

だから筒井康隆について説明しようとすると、説明する側が困るのである。

「結局、この人は何の作家なのか」

その質問に簡単に答えられないこと自体が、筒井康隆という作家の成功なのかもしれない。

常識を壊すことは、自由になることでもある

では、筒井康隆はなぜ常識を壊し続けたのか。

単に人を驚かせることが好きだったから、と説明することもできる。

実際、本人は人を驚かせることが好きだという趣旨の発言もしている。

権威を嫌ったから、と考えることもできる。笑わせたかったから、文学の可能性を試したかったから、新しい表現を求め続けたからという説明も、それぞれ間違いではないだろう。

しかし、その根底にはもっと単純なものがあるように思える。

「そうしなければならない」と言われると、本当にそうなのか確かめたくなる。

社会が正しいと言えば、本当に正しいのか疑う。

文学はこう書くものだと言われれば、別の書き方を試す。

使ってはいけない方法があれば、使ったら何が起きるのか見てみる。

そこには非常に強い知的好奇心がある。

常識を壊すとは、何でも否定することではない。

いったん常識の外側に出てみることである。

外側から眺めたとき、それでも必要だと思えるものなら残せばよい。

しかし、ただ誰も疑わなかったから残っているだけなら、笑い飛ばしてしまってもよい。

筒井康隆は、その作業を文学の中で長く繰り返してきた。

だから彼の作品を読むと、ときどき居心地が悪くなる。

笑ってよいのか迷う。

これは本当に小説なのかと戸惑う。

作者にからかわれているような気さえする。

しかし、その戸惑いこそが筒井文学なのだろう。

読者が「これはこういうものだ」と安心した瞬間、その足元にある床板を一枚抜いてみる。

落ちた読者を見て、作者は少し笑っている。

そして読者も、仕方なく笑う。

床が最初からそこにあると思い込んでいた自分自身を。

筒井康隆が壊し続けてきた「常識」とは、結局のところ、社会の常識でも文学の常識でもないのかもしれない。

それは、私たち一人ひとりの頭の中にある、

「世界とは、こういうものだ」

という思い込みなのである。

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梶井基次郎の『檸檬』を読んで、少し困った経験のある人は多いのではないだろうか。

大きな事件が起きるわけではない。恋愛があるわけでもなく、殺人もなければ、人生を変えるような決断が語られるわけでもない。

主人公らしき「私」は京都の街を歩き、果物屋で一個の檸檬を買う。そして最後には、その檸檬を丸善の本の上に置いて店を出ていく。

それだけである。

しかも彼は、その檸檬を「爆弾」に見立てる。

丸善が爆発したところを想像して、妙に愉快な気分になる。

初めて読んだときには、「それで、結局何の話だったのだろう」と感じても不思議ではない。

しかし、『檸檬』のおもしろさは、まさにそこにある。

この小説は、檸檬について書かれた小説ではない。

丸善を爆破したい男の小説でもない。

もっと言えば、京都の街を歩く青年の日常を描いた作品ですらない。

『檸檬』が描いているのは、自分を押しつぶしていた世界が、ほんの一瞬だけ別のものに見える瞬間なのである。

主人公は、最初から世界に疲れている

『檸檬』の冒頭には、作品全体を決めてしまう重要な言葉が出てくる。

「えたいの知れない不吉な塊」。

これが「私」の心を押さえつけている。

ここで梶井基次郎は、不安の原因をはっきり説明しない。

仕事に失敗したとも、恋人と別れたとも、誰かに裏切られたとも書かない。ただ何か分からないものが胸に居座り、以前は好きだったものまで楽しめなくなっている。

この感覚は、現代の私たちにも意外なほど分かりやすい。

何か重大な事件があったわけではない。それなのに気分が重い。本を読んでも楽しくない。買い物に行っても心が動かない。以前なら魅力的だったものが、なぜか色褪せて見える。

原因を一つに特定できないからこそ、厄介なのである。

「私」は病んでいるとも読めるし、貧困や将来への不安を抱えているとも読める。しかし梶井は、それを診断名のように整理しない。

ただ、世界との間に薄い膜が張られてしまったような青年を置く。

そして重要なのは、彼自身が暗いだけではなく、彼の目には世界そのものまで重く見えているということである。

なぜ、立派なものではなく「みすぼらしいもの」に惹かれるのか

そんな「私」は、以前なら好んでいた立派な店や美しい品物を避けるようになる。

代わりに惹かれるのが、裏通りや安っぽいもの、壊れかけたもの、少し怪しげな場所である。

これは単なる変わった趣味ではない。

自分が弱っているとき、人は「完成された世界」に居心地の悪さを覚えることがある。

立派な建物、整然と並んだ商品、文化的な書物、高価な品々。そうしたものは本来美しいはずなのに、自分の内側が崩れていると、その完全さがかえって圧力になる。

『檸檬』の「私」にとって丸善がまさにそうだった。

丸善は本や美術品や舶来品が並ぶ、知的で洗練された場所である。

かつてなら心を躍らせた場所だった。

ところが今の「私」には、その豊かさが苦しい。

欲しいものがたくさん並んでいるのに買えないから、というだけではないだろう。

むしろそこには、「文化」「知性」「美」「豊かさ」といった、完成された価値の世界がある。

その世界に対して、自分だけがうまく参加できない。

だから丸善に入ると、ますます気持ちが沈んでしまう。

ここに『檸檬』の一つの重要な構造がある。

世界が醜いから苦しいのではない。美しい世界に自分が入れないこともまた、人を苦しませるのである。

そこで一個の檸檬が現れる

そんな青年が、寺町の果物屋で檸檬を見つける。

ここから、小説の空気が変わる。

檸檬は高価なものではない。

芸術作品でもなければ、知識を与えてくれるものでもない。社会的な地位を示す商品でもない。

ただの果物である。

ところが「私」は、その色、形、重さ、冷たさに強く惹きつけられる。

ここが非常におもしろい。

それまで彼を苦しめていたものは、頭の中にある正体の分からない不安だった。

それに対して檸檬は、徹底的に具体的である。

黄色い。

丸みがある。

手のひらに収まる。

重さがある。

冷たい。

つまり檸檬は、「考えなければ分からないもの」ではなく、「触れば分かるもの」なのである。

将来の不安には形がない。

貧困にも、憂鬱にも、人生の行き詰まりにも、手でつかめる形はない。

しかし檸檬には形がある。

その一点だけでも、この小さな果実は「えたいの知れない不吉な塊」と正反対の存在になっている。

正体不明の重苦しさに対して、鮮やかで、単純で、触れることのできる黄色い物体。

だから檸檬を手にした瞬間、「私」の世界は少しだけ変わり始める。

檸檬が美しいのではなく、世界を見る目が変わった

ここで『檸檬』を「美しい果物に癒やされた物語」と読んでしまうと、少し物足りない。

重要なのは檸檬そのものの美しさだけではない。

檸檬を持ったことで、主人公の世界を見る方法が変わったことなのである。

それまで街は重苦しかった。

丸善も苦しかった。

本も画集も彼を疲れさせるものだった。

ところが檸檬という一個の異物を手にした途端、同じ世界が遊び場のように変わっていく。

そして彼は丸善へ入る。

そこで画集を積み上げ、その頂上に檸檬を置く。

考えてみれば、実にくだらない行為である。

しかし、このくだらなさこそが重要なのだ。

丸善の商品には、本来それぞれ意味がある。

本は読むものだし、画集は鑑賞するものである。店の商品は丁寧に扱わなければならない。

ところが「私」は、その意味を勝手に壊してしまう。

画集を積み木のように積み上げ、その上に果物を載せる。

つまり彼は一瞬だけ、社会が決めた物の意味から自由になる。

本は「読むべきもの」ではなくなる。

檸檬は「食べるもの」ではなくなる。

丸善は「買い物をする場所」ではなくなる。

全部が彼の想像力によって別のものに変換される。

その瞬間、これまで自分を圧迫していた世界に対して、「私」の側が主導権を握るのである。

なぜ檸檬は「爆弾」になったのか

そして檸檬は、ついに爆弾になる。

もちろん本物の爆弾ではない。

「私」は、積み上げた画集の上に檸檬を置き、そのまま丸善を出る。

そして想像する。

あの檸檬が爆発して、丸善が大変なことになっているのではないか。

ここだけ取り出せば、少し危ない青年にも見える。

しかし彼が本当に破壊したいのは建物ではない。

彼が壊したいのは、自分を押しつぶしてきた世界の秩序なのではないだろうか。

丸善に並ぶ本や画集は、美しく文化的で価値のあるものだ。

しかし今の彼には、その価値の体系そのものが重い。

そこで一個の安い檸檬を持ち込み、それを爆弾にしてしまう。

文化の殿堂ともいえる空間の真ん中に、果物一個を置く。

そして頭の中で全部吹き飛ばす。

これは現実の破壊ではない。

想像力による小さな反乱である。

会社を辞めるわけでもない。

社会を変えるわけでもない。

貧困から抜け出すわけでもない。

病気が治るわけでもない。

それでも人間は、自分の頭の中で世界との関係を少し変えることができる。

『檸檬』は、そのごく小さな自由を描いている。

だから、この小説では何も解決していない

ここは大切なところである。

物語の最後で、「私」の問題は何一つ解決していない。

お金が増えたわけでもない。

健康になったわけでもない。

将来が開けたわけでもない。

胸を押さえていた「不吉な塊」の根本原因が消えたとも書かれていない。

つまり『檸檬』は、問題解決の物語ではないのである。

普通の物語なら、主人公は何かを乗り越え、成長し、状況を変えて終わる。

しかし現実の人生では、そんな劇的な解決などめったに起こらない。

憂鬱な日に一冊の本を読んだからといって人生は変わらないし、美しい夕焼けを見ても借金はなくならない。

それでも、ほんの数分だけ気持ちが軽くなることはある。

帰り道で急に風が気持ちよく感じられることがある。

どうにもならない現実を、少しだけ違った角度から眺められる瞬間がある。

梶井基次郎が書いたのは、おそらくその種類の救いである。

大きな救済ではない。

人生を立て直すほどの力もない。

しかし、その一瞬があるから人間は歩いていける。

『檸檬』の最後にある妙な爽快感は、そこから生まれている。

「黄色」がこれほど鮮烈に残る理由

『檸檬』を読み終えたあと、多くの人の頭には黄色い果実が残る。

なぜだろう。

作品の冒頭にある世界は、どこか灰色である。

不安、倦怠、貧しさ、病、憂鬱。

そこへ突然、鮮烈な黄色が入ってくる。

色彩というものは理屈より速い。

「希望とは何か」と説明されれば、人は考えなければならない。

しかし真っ黄色な檸檬を目の前に置かれれば、考えるより先に目に飛び込んでくる。

だからこの作品では、「私は少し元気になった」と説明する必要がない。

檸檬がある。

その黄色だけで、主人公の内部に起きた変化が読者にも伝わる。

梶井基次郎の巧さは、心理状態を長々と説明するのではなく、色や重さや手触りによって見せてしまうところにある。

読者は「私」の憂鬱について完全には理解できなくても、檸檬の鮮やかさなら理解できる。

そこに文学としての強さがある。

『檸檬』は青春小説でもある

そして、もう一つ忘れてはいけない。

この奇妙な行為には、どこか若さがある。

大人になってから丸善のような書店へ入り、画集を積み上げ、その上に檸檬を置いて「爆弾だ」と想像する人はあまりいない。

くだらない。

役に立たない。

現実を何も変えない。

しかし、その無意味な行為によって世界が一瞬おもしろく見える。

そこには若者特有の感覚がある。

若い時代、人は世界に強く傷つく一方で、世界を勝手に作り替える力も持っている。

路地一本が特別な場所になる。

安い果物一個が宝物になる。

本屋が爆破される空想だけで、街を歩く足取りが軽くなる。

年齢を重ねるほど私たちは、「そんなことをして何になるのか」と考えるようになる。

だが『檸檬』の主人公は、そんな計算をしない。

だからこそ、この作品には百年近くたっても消えない若さがある。

結局、『檸檬』は何を描いているのか

では改めて問いたい。

『檸檬』は結局、何を描いているのだろう。

一言でいえば、

どうにもならない現実の中で、人間が想像力によって一瞬だけ自由になる物語

なのだと思う。

「私」を苦しめているものは最後まで消えない。

しかし檸檬を一個手にしたことで、彼は世界を見る方法を変える。

重苦しかった街が遊びの空間になる。

自分を圧迫していた丸善が、想像上の爆破対象になる。

ただの果物が爆弾になる。

現実そのものは変わらない。

変わったのは、現実との距離である。

そこに『檸檬』の不思議な明るさがある。

人生には、ときどき何も解決できない日がある。

努力しても答えが出ず、原因すら分からないまま気分だけが沈んでいる日もある。

そんな日に必要なのは、必ずしも壮大な人生論ではないのかもしれない。

一杯のコーヒーかもしれない。

一本の音楽かもしれない。

偶然入った路地かもしれない。

そして梶井基次郎にとって、それは一個の檸檬だった。

だから『檸檬』は、一個の果物についての小説ではない。

世界に押しつぶされそうになった人間が、想像力を使ってほんの一瞬だけ世界の上に立つ。

その小さな逆転を描いた小説なのである。

そして丸善を出た「私」が楽しそうに京都の街を歩いていく姿を思うと、私たちは少しだけ分かる気がする。

人生を救うものは、必ずしも人生を変えるほど大きなものでなくてもよい。

ときには、一個の檸檬くらいの大きさで十分なのだ。

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昭和40年代から50年代に青春時代を過ごした人にとって、「深夜ラジオ」という言葉は、単なる放送番組のジャンルを意味するものではないだろう。

家族が眠ったあとの部屋で、音量を絞ったラジオに耳を傾ける。勉強机の上には教科書や参考書が開かれているけれど、本当に待っているのは午前零時、あるいは午前一時から始まる番組だった。少し雑音の混じった声の向こうに、自分と同じ時間を起きている誰かがいる。

テレビが家族で共有することの多いメディアだった時代、小型化したラジオは、若者が自分の部屋で一人で聴くことのできる、より個人的なメディアになっていった。なかでも深夜放送は、親や学校とは少し違った世界を若者に見せてくれた。

だから昭和の深夜ラジオを振り返ることは、懐かしい番組を思い出すだけではない。それは、インターネットもスマートフォンもなかった時代に、若者たちがどのように自分だけの時間を持ち、自分たちの文化をつくっていったのかを考えることでもある。

深夜に「若者の時間」が生まれた

日本の深夜放送が若者文化として大きく広がっていったのは、1960年代後半だった。

TBSラジオの『パック・イン・ミュージック』は1967年に始まり、1982年まで15年間放送された。放送番組センターの放送ライブラリーも、この番組を当時の若者を強く引きつけた代表的な深夜番組として位置づけている。

同じ1967年10月2日深夜25時、すなわち10月3日午前1時には、ニッポン放送の『オールナイトニッポン』が放送を開始した。半世紀以上にわたり続くことになる、若者向け深夜放送を代表する番組の誕生だった。

さらに文化放送では、1969年6月2日深夜に『セイ!ヤング』が始まった。当時、深夜放送を聴く人々は「みみずく族」と呼ばれることもあったという。『セイ!ヤング』は、そうした夜更かしをする若い聴取者と結びつきながら人気を広げていった。

こうして1960年代末には、主要なラジオ局で若者を強く意識した深夜番組が相次いで登場した。

重要なのは、単に放送時間が夜遅くなったということではない。

深夜という、それまで社会的には目立たなかった時間帯に、「若者のための時間」が生まれたことである。

テレビは家族のもの、深夜ラジオは自分のものだった

昭和の家庭では、テレビは茶の間や居間に置かれ、一台を家族で見ることが多かった。

何を見るかは必ずしも自分一人では決められない。チャンネルを誰が選ぶかという小さな争いさえ、当時の家庭の日常の一つだった。

それに対して、小型のラジオなら自分の部屋へ持っていくことができた。イヤホンを使えば、家族が眠ったあとでも一人で聴くことができる。

この違いは大きい。

昼間の若者は、学校では生徒であり、家庭では子どもだった。しかし深夜になり、周囲が眠りにつくと、その役割から一時的に離れることができる。

そこへラジオから聞こえてくるのは、昼間のテレビ番組とは少し違う言葉だった。

くだらない冗談を延々と話すこともあれば、恋愛について語ることもある。音楽の話、学校への不満、若者自身の悩みが取り上げられることもあった。

当時の深夜放送が若者にどのように受け止められていたかを示す興味深い記録も残っている。文化放送のアーカイブには、1969年に高校生が制作した「深夜放送をさぐる」という番組があり、同世代の若者がなぜ深夜放送を聴くのかを調べている。つまり、深夜ラジオが若者の生活文化として意識される現象は、すでに1960年代末には起きていたのである。

また当時の文化放送には、『セイ!ヤング』とは別に、若者を取り巻く社会問題などを本音で語る深夜番組も存在した。

深夜という時間帯そのものが、昼間とは違う言葉を許す場所になっていたと考えることができる。

パーソナリティは「遠い芸能人」ではなかった

深夜放送を特徴づけたもう一つの存在が、パーソナリティだった。

テレビのスターは、画面の向こう側にいる華やかな存在だった。しかしラジオから聞こえてくる人間は、それとは少し違った距離に感じられる。

姿が見えないからこそ、聞き手は声や話し方から人物像を想像する。

しかも深夜である。

周囲が静まり返った部屋で一人で聴いていると、スタジオから発せられた言葉が、自分一人に向けて語られているように感じられることがある。

もちろん実際には、多くのリスナーが同じ番組を聴いている。

それでも、聴取体験そのものは一人である。

この「大勢が聴いているのに、一対一のように感じる」という距離感が、深夜ラジオ独特の親密さを生んだのではないだろうか。

『セイ!ヤング』の初期には、みのもんた、なかにし礼、土居まさるらが曜日ごとのパーソナリティを務めていたことが文化放送の記録から確認できる。

その後も各局の深夜番組には、アナウンサー、音楽家、タレント、文化人などさまざまな人物が登場した。

ラジオのパーソナリティは、テレビのスターとは別の意味で、「自分のことを分かってくれる少し年上の人」のような位置にいたのかもしれない。

ハガキを出せば、自分が番組の一部になれた

昭和の深夜ラジオを考えるうえで欠かせないのが、ハガキによる投稿文化である。

電子メールもSNS(Social Networking Service・インターネット上で利用者同士が交流するサービス)もない。

リスナーが番組へ言葉を届ける代表的な方法の一つが、ハガキだった。

番組を聴きながら思いついたことを書く。宛名を書き、切手を貼り、ポストへ入れる。そして次の放送を待つ。

採用される保証はない。

それでも、自分の書いたハガキが読まれるかもしれないと思ってラジオを聴く。

そして自分の名前やペンネームが突然ラジオから聞こえてくる。

それは当時の若者にとって、かなり特別な経験だっただろう。

放送史の研究でも、1960年代から1970年代にかけて、リスナーから届いたハガキをパーソナリティが読み、それに応じる番組が数多く生まれたことが指摘されている。電話リクエストなども含め、番組をつくる側と聴く側との距離が近づいていった時代だった。

つまりリスナーは、番組を受動的に聴いていただけではない。

ハガキを送り、それが読まれ、その言葉にパーソナリティが反応し、さらに別のリスナーがそれを聴く。

現在のインターネット上のコミュニティーとは技術的にまったく異なるが、聞き手自身が番組を構成する一員になる仕組みが、すでに存在していたのである。

それは、一方向に情報を受け取るだけのメディアとは少し違っていた。

深夜ラジオは音楽への入口でもあった

もう一つ忘れてはならないのが音楽である。

現在なら、気になる曲があれば検索して、その場で聴くことができる。

しかし昭和の若者に、そのような環境はなかった。

レコードを買わなければ聴けない曲も多い。しかも若者にとって、何枚ものレコードを自由に購入できるほど安価な商品ではなかった。

だからこそ、ラジオから流れてくる音楽そのものに大きな価値があった。

知らない外国の曲が流れる。

まだ買っていない歌手の新曲がかかる。

好きな曲を偶然耳にする。

そして、その数分間が終われば、次にいつ聴けるか分からない。

『オールナイトニッポン』も、長い歴史の中で新しい才能や文化を発信してきた番組として位置づけられている。

1970年代以降になると、ラジオから好きな曲をカセットテープへ録音することも、若者の音楽生活の一部になっていった。

深夜ラジオ、レコード、カセットテープ、雑誌、文庫本。

昭和の若者文化は、それぞれが完全に独立していたわけではない。

ラジオから曲を知り、その歌手について雑誌で読み、レコード店へ行く。番組で紹介された本を読んだり、映画を見たりする。

一つのメディアとの出会いが、別のメディアへつながっていく。

現在のように一瞬で検索結果が表示されるわけではない。しかし時間をかけながら、一人の若者の世界は少しずつ広がっていった。

「全国で自分だけが起きている」ような感覚

深夜ラジオには、昼間の放送にはない奇妙な感覚があった。

午前一時。

外を走る車も少なくなり、家族は眠っている。

その静けさの中でラジオをつける。

すると東京のスタジオから声が聞こえてくる。

そして、その声を日本のどこかで、同じように布団の中や勉強机の前で聴いている若者がいる。

実際には一人ではない。

けれども、一人で聴いている。

この「孤独なのに孤独ではない」という感覚こそ、深夜ラジオの魅力の一つだったのではないだろうか。

学校で友達とうまく話せない若者もいただろう。

受験勉強をしている若者もいた。

恋愛で悩んでいる人も、将来を考えて眠れない人もいたはずだ。

深夜ラジオは彼らの問題を解決してくれたわけではない。

ただ、同じ時間に誰かが起きていて、話していた。

それだけでも夜は少し違った。

放送史研究の中で、当時の深夜ラジオが「若者たちの解放区」と表現されていることは、この独特の位置づけをよく示している。昼間の社会とは少し違う価値観や言葉が許される場所が、夜のラジオの中に形成されていたのである。

スマートフォンの時代には再現しにくいもの

現在の若者には、昭和の若者とは比較にならないほど多くの情報がある。

好きな音楽は好きな時間に聴ける。動画も映画も見ることができる。誰かと話したければ、インターネットを通じてすぐにつながることもできる。

便利さだけを比較すれば、昭和の深夜ラジオより現在のメディア環境の方が圧倒的に優れている。

それでも、失われたものがあるとすれば、それは「待つ時間」なのかもしれない。

好きな番組が始まる時刻まで待つ。

好きな曲が流れるのを待つ。

送ったハガキが読まれるかどうか、次の放送まで待つ。

そして聞き逃せば、その言葉にもう一度出会えるとは限らない。

現在では、情報は保存され、検索され、繰り返し再生されることを前提としている。

しかし、かつてのラジオ放送は基本的に、その時間に流れていくものだった。

だからこそ、その瞬間に耳を澄ませた。

不便だったからこそ、一つの番組との関係が濃くなったという側面もあったのではないだろうか。

深夜ラジオがつくった「自分だけの青春」

昭和という時代を振り返るとき、ついヒット曲やテレビ番組、流行した商品などを並べてしまう。

しかし青春の記憶は、そうした大きな歴史だけでできているわけではない。

夜中の一時にラジオのスイッチを入れたこと。

雑音の向こうから聞こえてきた声。

眠くなりながら聴いた知らない曲。

読まれるかどうかも分からない一枚のハガキを書いたこと。

翌朝、学校で友達と昨夜の放送について話したこと。

そうした小さな記憶の積み重ねも、昭和という時代をつくっている。

深夜ラジオは若者に何かを教えるための学校ではなかった。

けれども学校や家庭だけでは知ることのできない音楽、言葉、大人の世界、そして価値観に触れる場所の一つだった。

何よりそこには、自分で選んで聴いているという感覚があった。

昼間は親や教師によって予定を決められていた少年や少女が、家族が眠ったあと、自分の意思でラジオのスイッチを入れ、ダイヤルを合わせる。

その瞬間だけは、誰にも選ばされていない。

おそらく昭和の深夜ラジオが若者をあれほど惹きつけた理由は、番組そのものの面白さだけではなかった。

深夜ラジオとは、若者が自分の意思で選ぶことのできた「自分だけの時間」だったのである。

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