リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

数字で読む町の奇譚 第二編

注記

この物語はフィクションです。

現実の路線バスや自治体運営交通では、乗車人数、降車人数、運賃、運行記録、車両重量などが、すべて完全に連動して記録されるわけではありません。また、乗車した記録がない人が、実際に車内から次々に降りてくるという現象は起こりません。

本作は、人口減少地域における公共交通の縮小、路線廃止、地域から失われていく施設や生活の記憶を背景にした幻想小説です。


潮見町営バスの第一便は、午前六時四十分に車庫を出る。

始発の停留所は、潮見町役場前だった。

そこから海岸通りを南へ走り、旧市街、潮見駅、町立診療所、青葉団地、山側の集落を回って、終点の松ヶ浜公民館まで行く。

一周、四十七分。

走行距離、二十三・四キロメートル。

停留所、二十六か所。

一日の運行回数、六便。

かつては朝夕の通勤便があり、車両も三台あった。高校生や工場勤務者、買い物へ行く主婦、病院へ通う高齢者が乗り、雨の日には立っている客もいたという。

今では、運行するのは十八人乗りの小型バス一台だけだった。

運転手の江藤正明は、六十三歳だった。

民間のバス会社を定年退職した後、町の委託を受ける交通会社へ再就職し、潮見町営バスを運転していた。

町内の道は、ほとんど目をつぶっていても走れる。

海岸沿いでは横風が強い。

青葉団地の坂には、雨の日だけ水が流れる。

山根集落の細い道では、午前七時頃に白い軽トラックが出てくる。

旧商店街の交差点では、使われなくなった信号が、今も一定の時間で赤と青を繰り返している。

道路だけではない。

江藤は、客の顔もほとんど覚えていた。

火曜日の第一便には、診療所へ通う黒田さんが乗る。

木曜日の第三便には、町内唯一の大型スーパーへ行く中村さんが乗る。

月末には、年金を下ろしに行く夫婦が潮見駅前で降りる。

冬になると利用者が少し減り、夏には観光客が間違えて乗ることがある。

バスの乗客は、年々減っていた。

江藤が運転を始めた六年前には、一日平均四十人ほど乗った。

昨年度は二十三人。

今年度に入ってからは十八人を下回る日も珍しくない。

第一便など、始発から終点まで誰も乗らない日さえあった。

それでも江藤は、すべての停留所で速度を落とした。

屋根の下に人影がなくても、時刻表の前に立つ者がいなくても、必ず一度は停車位置へ車体を寄せた。

民間会社にいた頃、先輩運転手から教えられたことがある。

バスを待つ者は、運転席から見える場所に立っているとは限らない。

雨宿りをしていることもある。

足の悪い者が、少し離れた場所から歩いてくることもある。

時刻を間違えた子どもが、家の陰から走ってくることもある。

客がいないと決めつけるな。

その教えだけは、町営バスに移っても守っていた。

異変が起きたのは、十月二日の第一便だった。

その朝、江藤はいつもより十五分早く車庫へ着いた。

前夜に強い風が吹き、車体へ潮が付着していた。フロントガラスを拭き、タイヤを確認し、車内の忘れ物を点検した。

座席に異常はなかった。

一番後ろの座席に、小さな枯れ葉が一枚落ちていた。江藤はそれを拾い、運転席横のごみ箱へ捨てた。

午前六時三十七分、エンジンを始動した。

燃料計、正常。

ブレーキ圧、正常。

扉、正常。

車内灯、正常。

運行記録用の端末には、乗車人数ゼロと表示されていた。

車庫を出て、町役場前へ向かった。

始発停留所には誰もいなかった。

江藤は定刻まで待ち、扉を開けた。

朝の冷たい空気が車内へ入った。

誰も乗らなかった。

扉を閉め、発車した。

次の停留所は、中央公民館前。

誰もいない。

その次は、旧郵便局前。

誰もいない。

海岸通りへ出る頃、空はようやく明るくなり始めていた。

雲の切れ間から差す光が、海面へ細い帯を作っている。

四番目の停留所、南浜二丁目に近づいたとき、降車ボタンが鳴った。

ポーン。

車内前方の表示板に、「次、止まります」と赤い文字が点灯した。

江藤はバックミラーを見た。

誰も乗っていない。

空の座席が並んでいる。

最前列。

中央。

最後部。

人影はない。

誤作動だと思った。

古い車両では、湿気や接触不良で降車ボタンが反応することがある。

江藤は南浜二丁目へ停車した。

扉を開けた。

誰も降りない。

当然だった。

車内には誰もいない。

十秒ほど待ち、扉を閉めた。

運行端末を見ると、降車人数が一人と表示されていた。

江藤は眉を寄せた。

通常、乗客が降りても人数は自動では記録されない。運転手が端末の操作ボタンを押して入力する。

江藤は操作していなかった。

表示は、乗車ゼロ、降車一。

端末の不具合だろう。

江藤は画面を一度消し、再起動した。

乗車ゼロ。

降車ゼロ。

数字は戻った。

バスを発車させた。

次の停留所は、潮見小学校前だった。

校舎は二年前に閉校している。

校庭には草が伸び、錆びた鉄棒の下に落ち葉が積もっていた。正門には立入禁止の札が掛かっている。

停留所の手前で、再び降車ボタンが鳴った。

ポーン。

表示板に赤い文字が点灯する。

江藤はバックミラーを見た。

やはり誰もいない。

それでもバスを止めた。

前扉を開ける。

冷たい風が入ってきた。

その瞬間、車体がわずかに浮き上がった。

人が一人、降りたような感覚だった。

バスの車高がほんの少し上がり、右側のサスペンションが小さく揺れた。

江藤は運転席から振り返った。

座席には誰もいない。

開いた扉の向こうには、閉鎖された小学校の門があるだけだった。

端末を見る。

乗車ゼロ。

降車一。

江藤は再起動しなかった。

そのまま扉を閉めた。

潮見駅では、実際の乗客が二人乗った。

買い物袋を持った高齢の女性と、作業着姿の男性だった。

江藤は乗車人数を二人と入力した。

次の診療所前で、女性が降りた。

江藤は降車一を入力した。

端末には、乗車二、降車二と表示された。

一人多い。

「どうかしましたか」

作業着の男性が尋ねた。

「いえ、端末の調子が少し悪いだけです」

江藤は答えた。

男性は青葉団地入口で降りた。

江藤が降車ボタンを押すと、表示は乗車二、降車三になった。

車内には誰もいなくなった。

それでも、まだ誰かが一人乗っていることになる。

その後、山根入口、杉谷橋、松ヶ浜公民館の三か所で、降車ボタンが鳴った。

そのたびに江藤は停車し、扉を開けた。

誰も見えなかった。

だが、扉が開くたび、車体が少しずつ軽くなった。

終点へ着いたとき、端末には乗車二、降車六と表示されていた。

四人多く降りている。

江藤はエンジンを切り、車内を確認した。

座席の下。

最後部。

荷物置き場。

何もない。

忘れ物もなかった。

ただ、一番後ろの座席に、朝捨てたはずの枯れ葉が落ちていた。

江藤は拾い上げた。

葉は乾いておらず、雨に濡れたように冷たかった。

その日の運行を終え、江藤は会社の営業所へ報告した。

「降車ボタンと運行端末の故障だと思います」

所長の山倉は、整備担当者を呼んだ。

車両の配線、ボタン、端末を確認した。

異常は見つからなかった。

「ボタンの接点が一時的に誤作動したんでしょう」

整備担当者は言った。

「古い車ですから」

「車体が軽くなる感じもした」

江藤が言うと、整備担当者は笑った。

「空気ばねの調整ですよ。乗客がいなくても、路面の傾きで車高は変わります」

江藤はそれ以上何も言わなかった。

翌日の第一便。

始発時点の乗客はゼロ。

旧郵便局前で、降車ボタンが鳴った。

潮見小学校前でも鳴った。

診療所前。

杉谷橋。

廃止された市場前。

一度も誰かが乗らないまま、五人が降りた。

三日目には七人。

四日目には九人。

降車する停留所は、日によって違った。

しかし、共通点があった。

降車ボタンが鳴る場所は、かつて何かが存在していた場所だった。

潮見小学校前。

旧郵便局前。

市場前。

紡績工場跡。

産婦人科医院前。

青葉団地北口。

漁業組合倉庫前。

海浜劇場前。

名前だけが残っている停留所もあれば、停留所自体が移設され、昔の場所から数十メートル離れているものもあった。

江藤は古い路線図を営業所で探した。

書庫の奥に、昭和五十八年の民間バス会社の時刻表が残っていた。

現在の町営バスとは違い、路線は海岸線、山側線、駅前循環線の三系統に分かれていた。

停留所は全部で五十二か所。

江藤は現在の路線図と重ねた。

降車ボタンが鳴った場所の多くは、廃止された停留所の近くだった。

潮見小学校前ではなく、昔の「小学校裏門前」。

旧郵便局前ではなく、「銀座通り」。

市場前ではなく、「魚市場西口」。

杉谷橋ではなく、「製材所前」。

現在の停留所名と、降りる場所が少しずつずれている。

まるで、見えない乗客たちは、昔の路線図を使っているようだった。

江藤は、運転日報へ正確に記録することにした。

十月二日、見えない降車四人。

十月三日、五人。

十月四日、七人。

十月五日、九人。

所長は、その書き方を見て顔をしかめた。

「見えない降車という項目はありません」

「実際に端末へ数字が出ています」

「端末が故障しているなら、故障と書いてください」

「整備では異常なしでした」

「では、入力ミスです」

「私は入力していません」

所長は鉛筆を置いた。

「江藤さん。こういう記録が町へ提出されたら困ります。町営バスは来年度の継続がまだ決まっていないんです」

潮見町営バスは、毎年多額の赤字を出していた。

運賃収入だけでは、燃料費にも届かない。

車両更新の時期も近い。

町議会では、予約制の乗合交通へ切り替える案や、路線を半分に縮小する案が議論されていた。

利用者が少ないことは、誰もが知っている。

乗車人数が減れば、廃止の理由になる。

一方で、降車人数だけが増えるという記録は、説明のしようがなかった。

「数字が合わないものを、そのまま出すわけにはいきません」

所長は言った。

「乗った人数と降りた人数は、原則として一致させてください」

「乗っていない人を、乗ったことにするんですか」

「故障による補正です」

「どの停留所から乗ったことにすればいいんです」

所長は答えなかった。

「始発から乗っていたことにしてください」

しばらくして、所長は言った。

「始発時点で車内にいた、と処理すれば数字は合います」

「車庫からですか」

「町役場前からです」

「誰もいませんでした」

「実際の人間の話ではなく、帳簿上の処理です」

江藤は日報を持って営業所を出た。

始発から乗っていたことにする。

見えない者たちは、どこから乗ったのか。

江藤はその疑問を考えたことがなかった。

降りる場所ばかり気にしていた。

乗った場所は、もっと前にあるのかもしれない。

現在の路線が始まる前。

バスが車庫へ入る前。

町営バスになる前。

あるいは、江藤が運転するずっと前から、彼らは乗り続けていたのかもしれない。

十月八日、第一便。

江藤は車庫でエンジンをかけた後、すぐには出発しなかった。

車内を一周した。

誰もいない。

運転席へ戻り、すべての扉を閉めた。

運行端末を初期化する。

乗車ゼロ。

降車ゼロ。

その隣に、車両総重量が表示されている。

通常、乗客を含まない状態の重量は、およそ五千六百キログラムだった。

表示は、六千四百八十キログラム。

約八百八十キログラム重い。

一人六十キログラムとすれば、十四人から十五人分。

江藤は息を止めた。

車内には誰もいない。

座席も空だ。

だが車両は、ほぼ満員に近い重さだった。

江藤は運転席に座った。

バックミラーに、空の座席が映っている。

その一番後ろに、誰かが座っているような気がした。

黒い影ではない。

輪郭もない。

ただ、座席の布地がわずかに沈んでいる。

隣の座席も。

その前も。

通路側も。

江藤は始発時刻まで待った。

午前六時四十分。

町役場前を発車した。

その日のバスは、いつもより重かった。

加速が鈍く、坂道ではエンジン音が高くなった。

最初の降車は、中央公民館前だった。

ポーン。

扉を開ける。

車両重量が六十七キログラム減った。

二人目は、旧郵便局前。

五十四キログラム減少。

三人目は、潮見小学校前。

二十一キログラム。

子ども一人分だった。

江藤はハンドルを握る手に力を入れた。

閉校した校舎の窓に、朝日が反射している。

誰もいないはずの二階の窓に、小さな影が並んで見えた。

黄色い帽子。

白いシャツ。

赤いランドセル。

バスが動き出すと、影は消えた。

魚市場西口跡で、七十三キログラム。

産婦人科医院前で、五十八キログラム。

紡績工場跡で、六十一キログラム、五十九キログラム、五十二キログラム。

三人続けて降りた。

扉の外には、草に覆われた工場跡地が広がっていた。

かつて五百人以上が働いていた工場は、二十年前に閉鎖された。

江藤は現役時代、この停留所で毎朝多くの従業員を降ろした。

制服姿の女性たち。

作業着の男性。

遅刻しそうになって走る若者。

夜勤を終え、眠そうな顔で乗り込む者。

工場がなくなった日、バス停も廃止された。

路線図から名前が消えた。

その日を境に、誰もそこで降りなくなったはずだった。

ポーン。

再びボタンが鳴った。

江藤はまだ扉を閉めていなかった。

車両重量が四十八キログラム減った。

さらに六十三キログラム。

五十六キログラム。

次々に人が降りていく。

空の通路を、見えない足音が進んでいるようだった。

車体が一人分ずつ浮き上がる。

扉の外の草が、人が通る幅だけ左右に倒れていく。

江藤は運転席に座ったまま、帽子を取った。

誰に対してか分からなかった。

それでも、長年乗せてきた客を最後に見送るように、頭を下げた。

重量表示が五千六百二十キログラムになったところで、降車は止まった。

あと一人分ほど重い。

江藤は扉を閉めた。

終点の松ヶ浜公民館まで、降車ボタンは鳴らなかった。

終点には誰もいなかった。

江藤は停車し、扉を開けた。

「終点です」

誰もいない車内へ向かって言った。

反応はない。

「終点ですよ」

もう一度言った。

車両重量は五千六百二十キログラムのままだった。

二十キログラムほど重い。

子どもかもしれない。

荷物かもしれない。

機器の誤差かもしれない。

江藤は運転席を立ち、車内を後ろへ歩いた。

座席を一つずつ見る。

誰もいない。

一番後ろの窓側の席まで来たとき、座面に浅いへこみがあった。

江藤は向かい側の座席へ座った。

「どこで降りるんだ」

声に出して尋ねた。

返事はない。

「終点まで来たぞ」

窓の外には、松ヶ浜公民館がある。

公民館は今年度末で閉鎖される予定だった。

利用者が減り、耐震補強に費用がかかるためである。

その隣には、かつて保育所があった。

今は更地になり、防草シートの上に雨水がたまっている。

江藤は古い路線図を取り出した。

昭和五十八年の終点は、松ヶ浜公民館ではなかった。

路線はさらに山側へ三・八キロメートル続いている。

最終停留所の名前は、「霧生分校前」。

霧生分校は四十年以上前に閉校していた。

道路は今も残っているが、町営バスの運行区間には含まれていない。

江藤は運転席へ戻った。

会社へ連絡すべきだった。

決められた路線を外れることは認められていない。

乗客がいない以上、行く理由もない。

しかし、車両重量は二十キログラム重いままだった。

江藤は方向指示器を出した。

バスは終点を越え、山側の旧道へ入った。

道幅は狭く、両側から木の枝が張り出していた。

舗装には亀裂が入り、落ち葉が積もっている。

路線バスが走った形跡はない。

江藤はゆっくり進んだ。

古い電柱。

空き家。

崩れかけた石垣。

小さな墓地。

集落には人の姿がなかった。

かつて霧生地区には、百人以上が暮らしていた。

今では住民登録上、三世帯五人だけになっている。

その五人も高齢で、冬の間は町外の家族宅や施設へ移ることが多かった。

十分ほど走ると、錆びた標識が見えた。

「霧生分校前」

文字はほとんど消えている。

停留所の柱は傾き、草に埋もれていた。

江藤はバスを止めた。

降車ボタンは鳴らない。

「着いたぞ」

扉を開けた。

何も起きなかった。

車両重量は二十キログラム重いまま。

江藤はエンジンを切った。

辺りが静かになった。

風が木の葉を揺らす音。

遠くの沢の音。

バスの金属部品が冷えて鳴る音。

その中に、小さな呼吸音が混じった。

後ろからだった。

江藤は振り返った。

最後部の座席に、少年が座っていた。

十歳くらいだった。

白い半袖のシャツ。

紺色の半ズボン。

膝の上に、古い革製の鞄を置いている。

少年は窓の外を見ていた。

江藤は声を出せなかった。

少年の姿は透けていない。

影もある。

座席も確かに沈んでいる。

どこにでもいる子どものようだった。

「ここでいいのか」

江藤が尋ねた。

少年はうなずいた。

「いつ乗った」

少年は答えなかった。

「名前は」

しばらくして、少年は言った。

「分からない」

「家はどこだ」

少年は窓の外を指さした。

分校跡の奥に、一本の細い道が続いている。

「帰るのか」

「帰るところがなくなったから、降りられなかった」

少年の声は、ひどく静かだった。

「家はなくなったのか」

「家も、学校も、停留所も、全部なくなった」

「それで、ずっと乗っていたのか」

少年はまたうなずいた。

「ほかの人たちは」

「降りる場所が残っていた」

少年は革の鞄を抱え直した。

「学校だった場所、働いていた場所、病院だった場所。建物がなくても、名前が残っていれば降りられる」

「ここにも名前は残っている」

江藤は錆びた停留所標識を見た。

「今日まで、バスが来なかった」

少年は言った。

「バスが来なければ、停留所ではない」

江藤は運転席から立ち、扉の横へ移動した。

「降りられるか」

少年は座席から下りた。

通路を歩く。

靴音はしなかった。

前扉の前で立ち止まり、江藤を見上げた。

「もう一度、来ますか」

「ここへか」

「はい」

江藤は答えに迷った。

町営バスの路線ではない。

会社にも町にも無断で走っている。

道路状況も悪い。

明日も来られると約束できない。

しかし江藤は言った。

「来る」

少年は小さく笑った。

「誰も乗らなくても」

「誰も乗らなくても来る」

少年はバスを降りた。

車両重量が二十キログラム減った。

表示は五千六百キログラム。

完全な空車重量になった。

少年は分校跡へ続く道を歩いていった。

途中で一度振り返った。

江藤が手を上げると、少年も手を上げた。

木々の間へ入り、姿が見えなくなった。

江藤は営業所へ戻った。

予定より四十五分遅れていた。

所長は激しく怒った。

「どこへ行っていたんですか」

「霧生分校前です」

「運行区間外ですよ」

「客を降ろしました」

「誰を」

江藤は答えなかった。

運行端末の記録を提出した。

乗車人数ゼロ。

降車人数十五。

始発時車両重量六千四百八十キログラム。

終点到着時五千六百二十キログラム。

霧生分校前到着後、五千六百キログラム。

所長は何度も画面を確認した。

「こんな記録は出せません」

「機械が記録した数字です」

「乗車ゼロで、十五人降りるわけがないでしょう」

「私もそう思います」

「では、故障です」

「故障なら、修理してください」

整備担当者が呼ばれた。

重量計測装置を確認した。

異常はなかった。

端末も正常だった。

その日の午後、町の交通担当者が営業所へ来た。

江藤は事情を聞かれた。

見えない乗客のことは話さなかった。

古い停留所で降車反応が出たこと。

車両重量が一人分ずつ減ったこと。

霧生分校前で最後の二十キログラムが消えたこと。

事実だけを話した。

担当者は困惑した顔でメモを取った。

「霧生分校前という停留所は、現在の台帳にはありません」

「古い路線図にはあります」

「廃止日は昭和六十年三月三十一日です」

「その翌日から、バスは一度も行っていないんですか」

「正式な路線としては」

「四十年以上」

担当者は書類を閉じた。

「江藤さん。これは運行上の重大な問題です。今後、許可なく路線外へ出ないでください」

「分かりました」

「今日の記録は機器異常として処理します」

「十五人はどうしますか」

「削除します」

「降りた人たちをですか」

担当者は江藤を見た。

「数字をです」

翌日、江藤は通常どおり第一便を運転した。

車庫での重量は五千六百キログラム。

見えない乗客はいなかった。

町役場前。

中央公民館前。

旧郵便局前。

降車ボタンは鳴らない。

潮見小学校前でも鳴らなかった。

町営バスは、本来の静かな路線へ戻っていた。

実際の乗客が三人乗り、三人降りた。

乗車数と降車数は一致した。

その翌日も。

その次の日も。

すべての数字が合っていた。

江藤は毎朝、車両重量を確認した。

五千六百キログラム。

空車。

誰も乗っていない。

一週間後、潮見町議会の全員協議会で、町営バスの縮小案が示された。

第一便と第六便を廃止する。

山側区間を予約制に変更する。

利用者の少ない八つの停留所を廃止する。

その中には、潮見小学校前、旧郵便局前、紡績工場跡、松ヶ浜公民館前が含まれていた。

江藤は営業所の掲示板で資料を読んだ。

降りる場所が、またなくなる。

建物が消え、名前が消え、バスが止まらなくなる。

そうなれば、まだ乗り続けている者たちは、どこで降りればよいのか。

十月二十一日。

第一便。

車庫でエンジンをかけた。

車両重量は、六千七百二十キログラムだった。

前回より重い。

十八人乗りの小型バスに、ほぼ定員いっぱいの重量が加わっている。

座席は空だった。

だが、バックミラーに映る窓ガラスが、乗客の息で曇っていた。

一枚ずつ、曇りが広がっていく。

江藤は運行端末を見た。

乗車人数の欄には、ゼロではなく、文字が表示されていた。

「始発以前」

江藤はゆっくりバスを発車させた。

町役場前には誰もいなかった。

定刻になり、扉を開けた。

一人も乗らない。

江藤はマイクのスイッチを入れた。

「お待たせしました。潮見町営バス、松ヶ浜公民館行きです」

空の車内へ声が流れた。

「停車する場所は、古い停留所を含みます」

運行端末が警告音を鳴らした。

登録された路線から外れる予定が入力されたためだった。

江藤は警告を解除した。

「降りる方は、ボタンを押してください」

扉を閉めた。

バスは走り出した。

旧郵便局前で一人。

潮見小学校前で三人。

魚市場西口跡で二人。

産婦人科医院前で一人。

紡績工場跡で五人。

廃止された海浜劇場前で四人。

青葉団地北口で二人。

停留所の名前が残っている場所。

標識だけが残っている場所。

道路拡張で跡形もなくなった場所。

そのすべてで、降車ボタンが鳴った。

扉を開けるたび、風景の中に一瞬だけ昔の建物が現れた。

市場の屋根。

学校の窓。

映画館の看板。

工場の煙突。

診療所の白い壁。

買い物袋を下げた人。

制服姿の子ども。

作業着の若者。

乳児を抱く母親。

江藤には、それらがはっきり見えた。

扉を閉めると、現在の空き地や閉鎖された建物へ戻った。

終点の松ヶ浜公民館へ着いた時、車両重量は五千八百キログラムだった。

まだ二百キログラム重い。

江藤はそのまま旧道へ入った。

霧生分校前へ向かった。

停留所には、あの少年が立っていた。

今度は一人ではなかった。

少年の後ろに、十人ほどの子どもが並んでいる。

皆、古い鞄や布製の手提げを持っていた。

江藤は停車し、扉を開けた。

「乗るのか」

少年は首を横に振った。

「今日は降りる人を待っています」

車内で降車ボタンが鳴った。

ポーン。

最初に、七十キログラム減った。

次に、五十五キログラム。

四十八キログラム。

二十七キログラム。

最後に、車両重量が五千六百キログラムになった。

扉の外には、子どもたちに加えて、大人の姿があった。

教師らしい女性。

作業着姿の男性。

白い割烹着を着た女性。

杖をついた老人。

誰も江藤を見なかった。

彼らは分校跡へ続く道を歩いていった。

少年だけが残った。

「もう、みんな降りました」

「本当に全員か」

「今日の人は」

「まだ乗っている人がいるのか」

少年は町の方角を見た。

「町がなくしたものの数だけ、います」

「それでは、いつまでも終わらないな」

「町は、毎日何かをなくします」

江藤は運転席に座ったまま、しばらく黙っていた。

「この路線は、なくなるかもしれない」

少年は驚かなかった。

「バスがなくなったら、どうなる」

「降りられなくなります」

「では、乗ったままか」

「町がどこにあったか、分からなくなるまで」

少年は一歩下がった。

「また来ますか」

江藤は答えた。

「来る」

「誰も乗らなくても」

「誰も乗らなくても走る」

少年は笑った。

バスの扉が閉まった。

江藤は町へ戻った。

営業所では、所長と町の担当者が待っていた。

路線外運行を繰り返したため、江藤はその日から乗務を外された。

始末書を書き、事情聴取を受けた。

運行端末の記録は、また機器異常として削除された。

車両重量の変化も、計測誤差とされた。

江藤は反論しなかった。

一か月後、町営バスの運行縮小が正式に決まった。

翌年四月から、第一便は廃止。

八つの停留所がなくなる。

霧生分校前へ路線が延びることはなかった。

江藤は年度末で会社を退職した。

最後の乗務日。

三月三十一日。

第一便の始発前、江藤は車庫で車両重量を確認した。

五千六百キログラム。

完全な空車だった。

町役場前へ行く。

誰も待っていない。

定刻になった。

江藤は扉を開けた。

しばらく待った。

誰も乗らない。

それでも、車内のすべての座席が少しずつ沈んだ。

車両重量の数字は変わらなかった。

江藤はマイクを入れた。

「おはようございます」

自分の声が、空の車内へ響いた。

「本日、第一便は最後の運行となります」

窓ガラスが白く曇った。

小さな手の跡が一つ現れた。

次に、大人の手の跡。

指の細いもの。

太いもの。

幾つもの手形が、窓一面に浮かび上がった。

「長い間、ご利用ありがとうございました」

江藤は言った。

発車時刻になった。

バスはゆっくり動き始めた。

その日の第一便では、降車ボタンは一度も鳴らなかった。

潮見小学校前。

旧郵便局前。

紡績工場跡。

松ヶ浜公民館前。

どこでも誰も降りなかった。

終点へ着いても、座席のへこみは戻らなかった。

江藤はエンジンを切らず、そのまま旧道へ入った。

誰にも連絡しなかった。

霧生分校前を越え、さらに山道を進んだ。

古い路線図にもない道だった。

舗装は途中で終わった。

それでもバスは進んだ。

木々の間を抜けると、広い場所へ出た。

そこには、潮見町から消えた建物が並んでいた。

潮見小学校。

魚市場。

紡績工場。

海浜劇場。

旧診療所。

郵便局。

木造の駅舎。

商店街。

霧生分校。

どの建物も新しくはなかった。

人が使っていた最後の日の姿で、静かに残っていた。

建物の間には、大勢の人が立っていた。

江藤の知っている顔もあった。

亡くなった利用者。

町を出た若者。

工場で働いていた人。

学校へ通っていた子ども。

バスを待ち続けた老人。

誰も手を振らなかった。

ただ、バスが来るのを当然のように待っていた。

降車ボタンが鳴った。

一つ。

また一つ。

車内のすべてのボタンが、順番に光った。

ポーン。

ポーン。

ポーン。

江藤は停車した。

扉を開けた。

座席のへこみが、一つずつ戻っていく。

誰かが降りるたび、窓の曇りが消えた。

最後に、後部座席の小さな手形が残った。

少年が通路を歩いてきた。

「ここが終点か」

江藤は尋ねた。

少年は答えた。

「ここは、なくならなかった町です」

「地図にはない」

「地図から消えたから、ここにあります」

少年は扉の前で止まった。

「運転手さんは、戻りますか」

江藤は運転席から外を見た。

消えた町の人々が、静かにこちらを見ている。

遠くで、朝の放送を知らせる音楽が流れた。

潮見町で、かつて正午に流れていた曲だった。

「戻らないと、バスがなくなる」

江藤は言った。

「バスは、町に必要ですか」

「乗る人がいれば」

「乗る人がいなくても走ると言いました」

江藤は笑った。

「そうだったな」

少年はバスを降りた。

最後の手形が消えた。

車内は完全に空になった。

江藤は扉を閉めた。

ミラーを確認する。

方向指示器を出す。

バスをゆっくり転回させた。

消えた町の人々は、道の両側に並んでいた。

江藤が手を上げると、大勢が同時に頭を下げた。

バスは来た道を戻った。

車庫へ到着したのは、予定より一時間二十三分遅れだった。

所長は江藤を叱らなかった。

最後の日だったからではない。

江藤が戻った時、車両の走行距離計は、出発前と同じ数字を示していた。

燃料も減っていなかった。

運行端末には、通常の路線を定刻どおり走った記録だけが残っていた。

乗車、ゼロ。

降車、ゼロ。

遅延、なし。

異常、なし。

江藤は制服を返し、営業所を出た。

四月一日から、第一便はなくなった。

午前六時四十分の町役場前には、バスが来なくなった。

それでも、近隣の住民は時折、不思議な音を聞いた。

まだ暗い早朝。

誰もいないバス停で、降車ボタンの音がする。

ポーン。

その直後、見えない扉が開くような空気の動きがあり、舗道の草が一人分だけ踏まれる。

潮見小学校前。

旧郵便局前。

紡績工場跡。

松ヶ浜公民館前。

廃止された停留所では、毎朝少しずつ、誰かが降り続けた。

町の交通統計では、その後も利用者数が減り続けた。

乗車人数は、正確に記録された。

降車人数も、乗車人数と必ず一致した。

帳簿上の誤差は、一度も発生しなかった。

ただし、廃止された第一便の時刻になると、車庫の奥に止められたバスの車両重量が、一人分ずつ軽くなった。

誰も乗っていないのに。

一人。

また一人。

町から消えたものが、ようやく自分の降りる場所を見つけたように。

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注記

この物語はフィクションです。

現実の住民基本台帳人口は、住民一人ひとりの記録を積み上げて集計されます。そのため、出生、死亡、転入、転出、訂正などの理由がないまま、人口が自然に一人だけ増えることは通常ありません。

実際に人口数が一致しない場合には、集計時点の違い、届出や処理の遅れ、入力・転記上の誤り、統計の定義の違いなど、何らかの行政上または技術上の理由があります。

本作は、そうした現実の制度を土台にしながら、数字の中に説明できない一人が現れたとしたら、という仮定から生まれた幻想小説です。


九月最初の月曜日、午前八時十三分。

潮見町役場の地域政策課で、村瀬修一は人口異動表を印刷した。

複合機から吐き出された紙には、まだ機械の熱が残っていた。村瀬は用紙の端を指でつまみ、自席へ戻った。

窓の外には、低い雲が海の方角から押し寄せていた。役場の駐車場では、塩気を含んだ風が二本の町旗を力なく揺らしている。

人口異動表は、毎月最初の開庁日に確認する。

前月末人口、出生、死亡、転入、転出、その他増減。数字を順番に追い、合計が一致していることを確かめる。村瀬にとっては三十年以上続けてきた習慣だった。

人口の減少は、もはや珍しいことではない。

潮見町では、毎月五人、十人、多い月には二十人近く人口が減った。出生が一人か二人である一方、死亡は十人を超える。転入者があっても、それ以上に転出者が出る。

昔は人口の増減に一喜一憂した時期もあったが、今では減ること自体よりも、どの程度の速さで減っているかを確認する作業になっていた。

村瀬は表の上段から数字を指でなぞった。

前月末人口、七千八百四十二。

出生、〇。

転入、三。

死亡、四。

転出、六。

その他増減、〇。

計算すれば、月末人口は七千八百三十五になる。

ところが、表の最下段には七千八百三十六と記されていた。

村瀬は指を止めた。

もう一度、計算した。

七千八百四十二に三を足し、四を引き、六を引く。

七千八百三十五。

印刷された月末人口は、七千八百三十六。

一人多い。

村瀬は卓上の計算機を引き寄せた。わざわざ使うほどの計算ではなかったが、念のため数字を入力した。

結果は同じだった。

七千八百三十五。

「また転記か」

独り言を言い、村瀬は庁内システムへログインした。

人口統計の画面を開く。処理日、異動区分、年齢、性別、地区。前月に行われた登録処理を一件ずつ確認した。

出生はない。

転入が三人。

死亡が四人。

転出が六人。

職権記載なし。

職権消除なし。

国籍取得、国籍喪失、帰化、国外からの転入、国外への転出、いずれにも該当者はいなかった。

一覧の最下部には、確かに月末人口七千八百三十六と表示されている。

村瀬は画面を閉じ、もう一度開いた。

数字は変わらなかった。

午前八時三十分になると、庁内放送が流れた。

「おはようございます。本日も住民の皆さまに丁寧で分かりやすい対応を心がけてください」

いつもと同じ声だった。

職員たちが次々に出勤し、椅子を引く音や書類を置く音が課内に広がった。電話が鳴り始め、窓口には最初の来庁者が現れた。

村瀬は表を裏返し、机の右端へ置いた。

入力上の問題だろうと思った。

人口統計の不一致など、過去にもなかったわけではない。異動日と届出日の混同、処理区分の誤選択、月末締め後の訂正、集計プログラムの反映遅れ。

一人という差は、むしろ事務上よくありそうな大きさだった。

問題なのは、原因がすぐに見つからなかったことだけである。

午前十時を過ぎた頃、村瀬は住民課へ内線をかけた。

「地域政策課の村瀬です。先月末の人口について、少し確認したいことがありまして」

電話に出たのは、住民記録担当の早坂だった。

早坂は三十代半ばで、異動処理に慎重な職員だった。

「人口ですか」

「異動数から計算すると、一人合わないんです」

「一人多いんですか、少ないんですか」

「多いです」

受話器の向こうでキーボードを打つ音がした。

「少々お待ちください」

村瀬は窓の外を見た。

午前の雲は薄くなり、国道沿いの海が細い銀色の線になって見えた。

「村瀬さん」

「はい」

「こちらの締めでは合っています。前月末七千八百四十二、月末七千八百三十六です」

「異動を足し引きすると七千八百三十五になりませんか」

「なりますね」

早坂の声が少し低くなった。

「その他増減は」

「ゼロです」

「訂正処理も」

「見当たりません」

再びキーボードの音が続いた。

「こちらで調べます。システム担当にも確認してみます」

「お願いします」

電話を切ると、村瀬は人口異動表を表に返した。

七千八百三十六。

印刷された数字を見ても、特に異常な感じはしなかった。一人多いと言っても、町の人口全体から見れば約〇・〇一パーセントにすぎない。

町民のほとんどは気づかない。

町長も、議員も、新聞記者も気づかないだろう。

人口減少対策の会議で資料を配っても、七千八百三十五と七千八百三十六の違いを問題にする者はいない。

人口は減っている。

その事実に変わりはなかった。

しかし村瀬には、一人という数字が小さいとは思えなかった。

一人は、一人である。

出生届一件。

死亡届一件。

転入届一件。

転出届一件。

役場では、一人の増減が一枚の書類として現れる。その紙には氏名があり、生年月日があり、住所がある。

一人が増えたなら、誰かがいるはずだった。

昼休み前、早坂から内線が入った。

「原因が分かりません」

「システムの問題ではないんですか」

「集計プログラムも確認してもらいました。個人記録の件数が、実際に七千八百三十六件あるそうです」

「では、一人分の記録がある」

「あるはずなんですが」

早坂はそこで言葉を切った。

「住民記録を個別に数えると七千八百三十六件です。ただ、異動履歴を追うと七千八百三十五人にしかならない」

「重複登録は」

「ありません」

「削除漏れは」

「ありません」

「では、どこから一人出てきたんですか」

「それが分からないんです」

早坂は、冗談を言っているような声ではなかった。

午後、住民課と情報管理担当を交えた確認作業が行われた。

会議室の長机に、人口表、異動者一覧、地区別人口表、年齢別人口表が並べられた。

情報管理担当の三谷がノートパソコンを開き、画面を大型モニターへ映した。

「まず、総人口は七千八百三十六です」

三谷は言った。

「これは住民記録データベースに存在する有効なレコード数です。無効化された記録、転出予定、削除済みの記録は除いています」

「男女別は合っていますか」

村瀬が尋ねた。

「男性三千七百二十一、女性四千百十五。合計七千八百三十六です」

「前月との差は」

「男性が三人減、女性が三人減です」

村瀬は手元の異動者一覧を見た。

男性は、転入一、死亡二、転出三。

差し引き四人減るはずだった。

女性は、転入二、死亡二、転出三。

差し引き三人減。

男性が一人多い。

「男性ですか」

「そうなります」

「年齢は」

三谷が画面を切り替えた。

年齢別人口の一覧が表示された。

〇歳から百歳以上まで、男女別の人数が並んでいる。

「全ての年齢階級を合計すると七千八百三十五になります」

三谷は言った。

「総人口と一致しません」

会議室が静かになった。

「年齢が設定されていない記録があるんですか」

早坂が尋ねた。

「検索上はありません。生年月日が空欄の有効レコードもありません」

「地区別では」

地区別人口を合計すると、七千八百三十五だった。

世帯別人口を合計しても、七千八百三十五だった。

外国人住民を含めても、除いても、一人分の説明はつかなかった。

「つまり」

村瀬は言った。

「総人口としては存在する。しかし、年齢にも、地区にも、世帯にも属していない」

三谷は腕を組んだ。

「データベースとしては、あり得ない状態です」

「でも、数字はそうなっている」

「総数の集計だけが壊れている可能性があります」

「個別レコードが七千八百三十六件あると、さっき言いませんでしたか」

「件数上は、そうです」

「その一件を表示できないんですか」

三谷は検索画面を操作した。

有効な全住民記録を一覧へ出力した。

行番号は一から始まり、七千八百三十六で終わっていた。

しかしCSV(Comma-Separated Values・項目をカンマで区切って保存するデータ形式)へ書き出し、表計算ソフトで開くと、データは七千八百三十五行しかなかった。

最終行の下には何もない。

それでも、画面左下には「七千八百三十六件」と表示されていた。

三谷は何度も条件を変えた。

結果は同じだった。

件数は七千八百三十六。

表示される住民は七千八百三十五人。

村瀬は、紙に印刷してみるよう頼んだ。

複合機から大量の用紙が出てきた。

氏名や住所を含むため、印刷物は会議室の中だけで確認し、後で裁断処理することになった。

三人で行数を数えた。

七千八百三十五人。

最後の一人は印刷されなかった。

「システム業者へ連絡します」

三谷は言った。

「データを外部へ持ち出すには手続きが必要ですが、検証用の複製環境を作れば原因は分かると思います」

会議は午後四時過ぎに終わった。

村瀬は自席へ戻り、人口異動表を机の引き出しへしまった。

翌日には原因が分かるだろう。

そう思っていた。

ところが、業者の回答は翌日にも、その次の日にも来なかった。

調査に時間がかかっているのではなく、検証環境では異常が再現しなかったのである。

データを複製すると、人口は七千八百三十五人になる。

役場の本番環境へ戻すと、七千八百三十六人になる。

サーバーを再起動しても変わらない。

集計プログラムを再導入しても変わらない。

一人は、潮見町役場のシステムの中にだけ存在していた。

「無理に直さない方がよいと思います」

金曜日の夕方、三谷は村瀬に言った。

「月末までにもう一度照合します。原因が分からない状態でデータを直接修正する方が危険です」

「国や県へ出す数字はどうするんですか」

「住民記録の件数なら七千八百三十六です」

「異動表なら七千八百三十五です」

「どちらを正とするかは、住民課と協議してください」

三谷は疲れた顔で笑った。

「人口一人で、こんなに時間を使うとは思いませんでした」

村瀬は笑わなかった。

その週の土曜日、村瀬は自宅で朝食を取りながら、町の広報紙を読んでいた。

一面には、防災訓練のお知らせが載っていた。

二面には、町の人口と世帯数が掲載されている。

前月末現在、人口七千八百三十六人。

男三千七百二十一人。

女四千百十五人。

世帯数三千九百八十二世帯。

すでに広報紙の印刷は終わっていた。

人口の一人は、町民へ公表されていた。

妻の由美子が台所から言った。

「また減ったのね」

村瀬は広報紙から顔を上げた。

「何が」

「人口。先月より六人少ない」

「よく見ているな」

「毎月載っているでしょう」

由美子は味噌汁の椀を運びながら、広報紙をのぞき込んだ。

「昔は一万人以上いたのにね」

村瀬は七千八百三十六という数字を見た。

減ったのは本当だった。

しかし、本来なら七人減るはずだったところを、六人しか減っていない。

一人が、町の減少を食い止めている。

「一人違ったら、気になるか」

村瀬は尋ねた。

「何が」

「人口が一人違ったら」

由美子は椅子に座り、少し考えた。

「一人くらいなら、数え間違いじゃないの」

「役場の人口を数え間違えると思うか」

「人がやることなら、間違えることもあるでしょう」

「その一人にとっては、数え間違いでは済まない」

由美子は怪訝そうに村瀬を見た。

「何の話をしているの」

村瀬は「仕事の話だ」とだけ答えた。

翌週、村瀬は人口以外の統計を調べ始めた。

最初は原因を特定するためではなかった。

一人多いという数字が、他の資料に何か影響していないかを確認したかっただけである。

国民健康保険の被保険者数。

介護保険の被保険者数。

選挙人名簿登録者数。

水道契約件数。

ごみ収集量。

学校の児童生徒数。

いずれも住民基本台帳人口とは直接一致しない。年齢条件があり、加入条件があり、世帯単位のものもある。

当然、一人分の差など簡単には見つからなかった。

しかし村瀬は、町営バスの利用実績を見たとき、手を止めた。

潮見町では、高齢者や通院者の移動手段として、一日六便の小型バスを運行している。

前月の利用者数は、千二百四十一人。

運行記録に残る乗車人数を便ごとに合計すると、千二百四十人だった。

一人多い。

村瀬は担当課へ行き、原票を見せてもらった。

運転手は各停留所で乗車人数を記録し、終点で一日の合計を記入する。

日別の合計を足すと千二百四十人。

月次集計表では千二百四十一人。

「単なる集計ミスですね」

担当者は言った。

「表計算の式が一行ずれているんじゃないですか」

式を確認した。

ずれていなかった。

入力された日別合計を再集計すると、なぜか千二百四十一になる。

数値を紙に書き出し、電卓で足すと千二百四十だった。

別の表計算ソフトへ貼り付けても千二百四十。

役場のファイルを元の場所で開いたときだけ、千二百四十一になる。

「人口と同じですね」

村瀬が言うと、担当者は笑った。

「まさか、同じ一人がバスに乗ったんですか」

冗談だった。

しかし村瀬は、その言葉を手帳に書いた。

同じ一人がバスに乗った。

その日の午後、村瀬は水道課を訪ねた。

町全体の使用水量は、前月より十二立方メートル増えていた。

季節変動の範囲だった。

一人分かどうか判断できる数字ではない。

ごみの収集量も調べた。

可燃ごみは前月より二百八十キログラム増えていた。観光客や連休の影響が大きく、一人分を推定することは不可能だった。

スーパーの販売量など、役場が把握できるはずもない。

診療所の受診者情報は個人情報であり、目的外に利用できない。

村瀬は、自分が何をしようとしているのか分からなくなった。

人口表の不一致を調べているだけだったはずだ。

いつの間にか、記録に現れない一人の生活を探している。

九月半ば、台風が町の沖合を通過した。

直撃は免れたが、強い雨が一晩中降った。

翌朝、町内の一部で停電が起こり、役場のシステムも一時的に停止した。

復旧後、人口は七千八百三十五人に戻っていた。

「直りましたよ」

三谷は明るい声で言った。

「停電の影響でキャッシュが消えたのかもしれません」

「原因は分かったんですか」

「完全には分かりません。ただ、現在の数字は異動表と一致しています」

年齢別人口も、地区別人口も、世帯別人口も、全て七千八百三十五人になった。

町営バスの利用者数も千二百四十人へ訂正された。

不可解な一人は消えた。

村瀬は安堵した。

県へ提出する人口報告も、正しい数字で作成できる。

広報紙だけは七千八百三十六人と掲載済みだったが、翌月号で訂正すれば済む。

その日の夕方、村瀬は役場を出た。

雨上がりの空は低く、道路には枯れ葉と小枝が散らばっていた。

庁舎前のバス停に、一人の男が立っていた。

年齢は六十代にも、七十代にも見えた。

薄い灰色の上着を着て、黒い布製の鞄を持っている。

村瀬は男の横を通り過ぎ、駐車場へ向かった。

間もなく町営バスが来た。

バスは停留所の手前で減速したが、止まらずに通過した。

男は手を上げなかった。

運転手も男に気づかなかったようだった。

村瀬は足を止めた。

「乗らないんですか」

男は答えなかった。

雨で濡れた時刻表を見上げている。

「次は一時間後ですよ」

村瀬がもう一度声をかけると、男はようやく顔を向けた。

見覚えのない顔だった。

町内で三十年以上働いていても、全ての町民を知っているわけではない。知らない人がいて当然だった。

「町の方ですか」

村瀬は尋ねた。

男は少し考えてから言った。

「そうだったと思います」

不思議な答えだった。

「住所はどちらですか」

「住所」

男はその言葉を確かめるように繰り返した。

「住所が必要ですか」

「バスに乗るだけなら必要ありませんが」

「人口に入るには必要ですか」

村瀬は男を見た。

台風の後の冷たい風が、濡れた道路を渡ってきた。

「何の話ですか」

「私がどこにいることになっているか、分からなくなりました」

男は黒い鞄を両手で持ち直した。

「家はあるんですか」

「家だったものはあります」

「住民票は」

「昔はありました」

「今は」

男は首を傾げた。

「消したのは、あなたではありませんか」

村瀬の背中に冷たいものが走った。

「私は住民記録を消す仕事はしていません」

「でも、数字から一人を消したでしょう」

村瀬は何も答えられなかった。

男は穏やかな声で続けた。

「私は一人ではありません」

役場の玄関から、職員が数人出てきた。

彼らは村瀬の近くを通ったが、男には目を向けなかった。

「どういう意味ですか」

「町を出た人。施設へ移った人。届けを出さずに暮らしている人。家だけ残して死んだ人。ここに住んでいるのに、別の町に数えられている人。別の町で暮らしているのに、まだここに数えられている人」

男の声は風の音に混じった。

「私たちは、どこにもぴったり入りません」

「あなたは誰なんですか」

「七千八百三十六人目でした」

男はそう言った。

遠くから、海鳴りのような低い音が聞こえた。

村瀬が一歩近づくと、男の輪郭が少し薄く見えた。

雨雲の下で光が変わっただけかもしれない。

「名前を教えてください」

「名前は、それぞれにあります」

「あなたの名前です」

「一人分にまとめられた者に、一つの名前が必要でしょうか」

男は時刻表から目を離した。

「あなたたちは、人数が合えば安心する」

村瀬は反論しようとした。

数字を合わせることは仕事である。

統計が正しくなければ、予算も計画も政策も成り立たない。学校、病院、道路、福祉、公共交通。全ては人数をもとに組み立てられる。

「数字が正しくなければ困るんです」

「正しい数字とは、何ですか」

男は尋ねた。

「一人ずつ数えた数字です」

「数えられなかった人は、一人ではありませんか」

村瀬は答えられなかった。

次のバスが来るまで一時間あるはずだった。

しかし、坂の向こうから小型バスが現れた。

行先表示は消えていた。

車内の照明もついていない。

バスはゆっくり停留所へ近づき、今度は男の前で止まった。

扉が開いた。

運転席に人影はなかった。

男は村瀬へ一礼し、バスへ乗った。

車内には誰もいない。

男が最後部の座席へ座ると、扉が閉まった。

バスは音もなく発車した。

村瀬は道路へ出て、後を追うように数歩歩いた。

バスは交差点を曲がらず、そのまま海へ向かう細い道へ進んだ。

その先は、十年前に廃止された旧道だった。

台風による崖崩れで通行止めになっている。

村瀬が角まで走ったとき、バスの姿はなかった。

翌朝、村瀬は早く役場へ行った。

庁舎には清掃員しかいなかった。

自席のパソコンを起動し、人口統計の画面を開いた。

総人口は七千八百三十五人。

異常はない。

村瀬は前月の人口表を開いた。

七千八百三十六という数字は消え、七千八百三十五に修正されていた。

変更履歴を確認した。

修正者の欄には、村瀬修一と表示されていた。

修正時刻は、昨日の午後六時十二分。

男と話していた時刻だった。

村瀬は画面を閉じた。

机の引き出しから、最初に印刷した人口異動表を取り出した。

紙の最下段には、今も七千八百三十六と印刷されていた。

村瀬は鉛筆を手に取った。

七千八百三十六の「六」に二本の線を引き、「五」と書き直そうとした。

しかし、鉛筆の先は紙の上で止まった。

一人を消せば、数字は合う。

数字が合えば、仕事は終わる。

では、消された一人はどこへ行くのか。

村瀬は別の紙を取り出した。

町内人口の空欄へ、地区名を書いた。

「未定」

年齢欄にも「未定」と書いた。

住所欄には何も書かなかった。

その下に、人数を記入した。

一。

正式な帳票ではなかった。

役場のどの規程にも存在しない数字だった。

村瀬はその紙を机の一番下の引き出しへ入れた。

午前八時三十分、庁内放送が流れた。

「おはようございます。本日も住民の皆さまに丁寧で分かりやすい対応を心がけてください」

窓口が開き、電話が鳴り始めた。

町は昨日までと変わらず動いていた。

正午前、町営バスの担当者から内線が入った。

「村瀬さん、ちょっと妙なことがありまして」

「何ですか」

「昨日の最終便です。乗車人数が一人合わないんです」

村瀬は受話器を握り直した。

「多いんですか」

「いえ」

担当者は言った。

「一人、少ないんです」

村瀬は窓の外を見た。

庁舎前のバス停には、誰もいなかった。

ただ、ベンチの端に黒い布製の鞄が置かれていた。

村瀬は電話を切り、階段を下りた。

外へ出ると、海から風が吹いてきた。

鞄は古く、角が白く擦れていた。持ち手には紙の札が結びつけられている。

札には、鉛筆で一文字だけ書かれていた。

「一」

村瀬が鞄を持ち上げると、見た目よりずっと重かった。

中に何が入っているのかは分からない。

留め金に手をかけたが、開けることはできなかった。

鞄の内側から、紙を一枚ずつめくるような音がした。

一枚。

また一枚。

町から消えていった人々の記録を、誰かが数えているような音だった。

村瀬は鞄を抱え、役場へ戻った。

人口表の数字は、その後、二度と狂わなかった。

潮見町の人口は、毎月、正しく減り続けた。

七千八百二十一人。

七千八百九人。

七千七百九十四人。

全ての数字が、出生、死亡、転入、転出と正確に一致していた。

それでも村瀬は、人口表を印刷するたび、最下段の余白を確認した。

そこには、印刷直後だけ、薄い鉛筆の跡のようなものが浮かぶことがあった。

数字ではなかった。

人の名前のようにも見えた。

しかし、目を近づけると消えてしまった。

定年を迎える前日、村瀬は机を整理した。

一番下の引き出しには、「未定、一人」と書いた紙が残っていた。

黒い鞄は、その日以来、開けていない。

村瀬は紙を処分せず、鞄の中へ入れた。

留め金は、今度は抵抗なく開いた。

中には何もなかった。

底に、小さな鏡が一枚置かれているだけだった。

鏡には村瀬の顔が映っていた。

その下に、細い文字が刻まれていた。

――あなたは、どこの人口に入っていますか。

村瀬は鏡を伏せ、鞄を閉じた。

翌日、町役場を退職した。

その月の人口異動表では、潮見町の人口が一人減っていた。

転出者欄にも、死亡者欄にも、村瀬の名前はなかった。

それでも数字は、正確に一人減っていた。

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本を読む人間として始まったわけではなかった

振り返ってみると、私は幼い頃から本ばかり読んでいた子どもではない。

小学生の頃に読んだ本といえば、学校から指定された課題図書が中心だった。夏休みになると、感想文を書くために本を読む。自分から書店へ行き、棚の中から一冊を探し出して読むというより、まず読むべき本が先に決められていた。

課題図書には、子どもが自分では選ばない本に触れられるという意味がある。しかし、当時の私にとって、読書はまだ自発的な楽しみというより、学校生活の一部だった。

本を読めば、読書感想文を書かなければならない。

何を感じたのか、どこが印象に残ったのかを、原稿用紙の升目に合わせて書く。実際に深い感動があったかどうかより、感想として成立する文章を作ることの方が先にあったようにも思う。

私は、最初から読書家だったわけではない。

後年の自分から過去を振り返り、幼い頃から文学に親しんでいたように話を整えることもできる。しかし、それは正確ではない。

私の読書は、課題として与えられた本を読むところから始まった。

文学は、まだ遠くにあった。

中学生の私が読んだ『天声人語』

中学生になると、新聞の『天声人語』を読むようになった。

『天声人語』は、朝日新聞の朝刊に掲載されてきたコラムで、その起源は1904年にさかのぼる。掲載が中断された時期や名称の変遷はあるものの、長く日本の新聞コラムを代表する存在の一つとして読まれてきた。

中学生の私は、その長い歴史を意識して読んでいたわけではない。

一回の文章は長すぎず、時事問題、社会、歴史、文化、季節の話題などが、限られた文字数の中でまとめられていた。学校の教科書とは違い、その時に社会で起きていることが文章の題材になっていた。

一つの出来事から別の話題へ移り、最後には最初の話へ戻ってくる。短い文章の中に引用や比喩が置かれ、時事的な事実と書き手の見方が組み合わされる。

その論調にいつも賛成していたわけではない。

当時は、賛成や反対を明確に判断できるほど、政治や社会を理解してもいなかった。それでも、出来事をただ知らせる新聞記事とは異なり、出来事をどう読み、どのような言葉で捉えるかという文章の働きを知った。

小学生の頃、文章は課題図書の感想を書くためのものだった。

中学生になると、文章は社会について考えるためのものになった。

文学を読む前に、私は新聞の短いコラムを通じて、文章の形に触れていたのである。

後になってブログで政治、経済、地域社会、文化について書くようになったことを考えると、この時期の経験は小さくなかったのかもしれない。

一つの出来事だけを孤立させず、その背景や別の問題とのつながりを考える。短い話題から、より大きな社会を見ようとする。

その方法を、十分に自覚しないまま『天声人語』から学んでいたように思う。

高校生になって、ようやく文学へ入った

私が本格的に文学を読むようになったのは、高校生になってからである。

太宰治、三島由紀夫、芥川龍之介、川端康成。

日本文学の名著と呼ばれる作品を、少しずつ読むようになった。

学校の授業や文学史の中では、彼らはすでに評価の定まった作家だった。しかし、高校生の私は文学史上の位置づけを確認するためだけに読んでいたのではない。

むしろ、なぜこれほど多くの人が読み続けているのかを知りたかった。

太宰治の作品には、人間の弱さや自己嫌悪、他人からどう見られるかという不安が、隠されずに書かれていた。

三島由紀夫の文章には、美しさと緊張感があり、その思想や人生を十分に理解できなくても、言葉そのものに強い力を感じた。

芥川龍之介の作品は比較的短いものが多かったが、その短さの中に、人間の利己心、矛盾、不安、残酷さが凝縮されていた。

川端康成の作品では、説明し尽くされない感情や、情景の背後に残る沈黙が印象に残った。

もちろん、高校生の私が、これらの作品を深く理解していたとは思わない。

年齢を重ねてから読み返せば、当時は見えていなかったものが多くあるはずだ。

しかし、文学はすべてを理解してから読むものではない。

よく分からない部分があっても、言葉や場面だけが記憶に残ることがある。作品全体の意味はつかめなくても、そこに自分の日常とは違う世界が存在することは感じられる。

高校生の私にとって文学は、知識として理解する対象というより、まだ自分では言葉にできない感情に触れる場所だった。

新潮文庫と角川文庫の棚

当時の読書を思い出すと、個々の作家だけでなく、新潮文庫や角川文庫の存在を抜きにすることはできない。

新潮文庫の歴史は古く、最初の創刊は1914年で、ドイツのレクラム文庫にならい、海外の名著を一般読者へ普及させる意図を持って始められた。戦後には昭和文学を中心とする文庫として再出発している。

角川文庫は1949年に創刊され、第1回配本にはドストエフスキーの『罪と罰』が含まれていた。1950年には現在につながる小型の判型へ改められ、戦後の文庫本普及に大きな役割を果たした。

しかし、高校生だった私が、そのような出版史を考えて文庫本を選んでいたわけではない。

書店の棚に並んでいる本を見て、題名、作家名、表紙、裏表紙の紹介文などを手掛かりに選んだ。

文庫本は単行本よりも小さく、比較的購入しやすかった。

一冊を鞄に入れて持ち歩くことができる。読んだ本を本棚に並べれば、自分がどのような本を読んできたのかが背表紙によって見える。

現在では、検索すれば作品のあらすじも評価もすぐに分かる。読者の感想を読み、内容を比較してから購入できる。

当時は、店頭で偶然目に入った本を手に取ることが多かった。

よく知らない作品を買い、読み始めてから、自分に合うかどうかを知る。

外れることもあった。

最後まで読めない本もあった。

それでも、書店の棚には、自分がまだ知らない考え方や人生が無数に並んでいるように見えた。

名著と同時代の文学を一緒に読む

高校生の頃に読んだのは、近代日本文学の名著だけではなかった。

当時読まれていた片岡義男や三田誠広の作品も手に取った。

文学の読書歴を語るとき、後世に評価された名作だけを並べると、実際の読書生活とは違うものになる。

現実の読書は、文学史の順番には進まない。

太宰治を読んだ次に、片岡義男を読む。

芥川龍之介の短編を読んだ後で、当時書店に並んでいた現代小説を読む。

古典的な作品と流行している作品が、同じ読者の中で混ざり合う。

片岡義男の小説には、車やオートバイ、音楽、男女の関係、都市的な生活など、当時の若者にとって新しく見える世界があった。

日本を舞台にしながら、どこかアメリカ文化の影響を感じさせる軽さや映像的な感覚があった。

太宰や三島とは違う。

しかし、違うからこそ読んだ。

文学には重い人生論や苦悩だけでなく、時代の空気、生活様式、会話、服装、乗り物、音楽なども含まれる。

三田誠広は、1977年に『僕って何』で第77回芥川賞を受賞している。自己とは何かという問いを題名そのものに掲げた作品が、当時の若い世代の感覚と重なる時代だった。

私は、後世に残る作品だけを選別して読んでいたのではない。

その時代に生きながら、その時代に売られ、その時代に話題になっている本を読んでいた。

それは、昭和という時代を、文学を通じて同時進行で読むことでもあった。

フランス文学とロシア文学で立ち止まる

日本文学を読むようになると、次第に海外文学にも関心が向いた。

フランス文学やロシア文学にも挑戦した。

しかし、ここで私の読書が順調に広がったわけではない。

途中で挫折した作品も少なくなかった。

海外の名作は、題名も作家名もよく知られている。文学を読むのであれば、一度は通らなければならないようにも感じられた。

ところが、実際にページを開いてみると、簡単には入っていけない。

国の歴史、社会階級、宗教、政治、家族制度、恋愛観など、日本の高校生にはなじみの薄い背景がある。

登場人物の名前を覚えるだけでも苦労することがある。特にロシア文学では、一人の人物が複数の呼び名で呼ばれることがあり、物語の関係を追うだけでも集中力を要した。

長編作品では、物語がすぐに動くとは限らない。

人物の思想や社会状況について長い記述が続く。読んでいる間は理解したつもりでも、少し間を置くと誰が誰だったのか分からなくなる。

文学史上の名作であることと、当時の自分が読み通せることは別問題だった。

フランス文学にも同じ難しさがあった。

洗練された恋愛や心理を描いた作品であっても、その背後には階級社会や当時の道徳、宗教、結婚制度がある。

言葉だけを追っても、人物がなぜそのように行動するのかを十分に理解できない。

私は、名作だから読めるのではなく、読む側にも経験や背景知識が必要なのだと知った。

最後まで読めなかった本は、読書歴の失敗として忘れられがちである。

しかし、挫折したこともまた読書の一部である。

本には、読むのに適した時期がある。

高校生の自分には難しかった本が、成人してから読むと理解できることもある。反対に、若い時に強く響いた作品が、後年にはそれほど響かないこともある。

読書は、作品だけで決まるものではない。

読む人間の年齢、経験、知識、生活状況によって変わる。

高校生には難しかったスタンダール『恋愛論』

フランス文学の中でも、特に記憶に残っているのが、スタンダールの『恋愛論』である。

スタンダールは『赤と黒』『パルムの僧院』などで知られるフランスの作家である。『恋愛論』は1822年に刊行され、恋愛を心理、社会、文化、階級など複数の面から考察した作品である。恋愛によって相手を理想化していく精神の働きを「結晶作用」と表現したことでも知られている。

私は、この本を高校生の頃に読もうとした。

題名だけを見れば、恋愛について説明した本である。

高校生にも身近な題材のように思える。

しかし、実際には簡単な恋愛指南書ではなかった。

人はなぜ恋をするのか、恋する相手をどのように理想化するのか、恋愛と虚栄、社会、身分、習慣がどのように結びついているのか。

その分析は抽象的で、歴史的・社会的背景も含んでいた。

当時の私には難しかった。

文章を追っても、スタンダールが何を分類し、何を証明しようとしているのか、十分には理解できなかった。

恋愛という題材を扱っているのだから、感情的に分かりやすい本だろうと思っていた。しかし、そこで論じられていたのは、単純な恋の喜びや悲しみではない。

恋愛を観察し、分類し、心理の働きとして分析する文章だった。

高校生の私は、恋愛についての経験も、当時のヨーロッパ社会についての知識も乏しかった。

恋愛における理想化や虚栄といわれても、それを自分の経験と結びつけることができない。

名著とされる本を手に取ったものの、読み進めるほど、自分の理解が追いついていないことを感じた。

私は途中で挫折した。

しかし、『恋愛論』を読み通せなかったことは、不思議に記憶に残っている。

容易に読めた本よりも、歯が立たなかった本の方が、後になって思い出されることがある。

それは、自分の外側に、まだ理解できない広い世界があることを知らせるからだろう。

高校生の私には、『恋愛論』は早すぎた。

けれども、早すぎる本に出会ったこと自体には意味があった。

本は、いつでも読者に合わせて分かりやすく書かれているわけではない。

理解できない文章に出会い、自分の知識や経験の不足を知ることも読書なのである。

雑誌によって社会へ出ていく

小説や文庫本とともに、『朝日ジャーナル』『文藝春秋』『サンデー毎日』などの雑誌も読んだ。

これらは性格の異なる媒体だった。

『朝日ジャーナル』は1959年に創刊され、1992年まで発行された週刊誌で、報道、解説、評論を掲げ、戦後日本の政治、社会、思想を論じる媒体の一つだった。

『文藝春秋』は菊池寛が1923年に創刊した月刊総合誌で、文学だけでなく政治、社会、人物論、座談会などを広く扱ってきた。創刊号には芥川龍之介や川端康成らも寄稿している。

『サンデー毎日』は1922年4月2日に創刊され、『週刊朝日』と並ぶ日本の初期の週刊誌の一つである。

私は、それぞれの雑誌を体系的に比較研究していたわけではない。

小説とは異なる文章を読みたかった。

政治、社会、文化、事件、教育、人間について、新聞記事よりも長く、書籍よりも早く論じる文章が雑誌にはあった。

雑誌には、その時代の熱があった。

後から歴史書を読めば、出来事の原因と結果が整理されている。しかし、その時代に発行された雑誌では、まだ結論が出ていない問題が扱われている。

何が正しいのか分からない。

社会がどこへ向かうのかも分からない。

書き手の主張には偏りもある。

しかし、未確定な時代の中で、人々が何を問題だと考えていたのかが見える。

文学が人間の内面を読むものだとすれば、雑誌は、その人間が生きている社会を読むものだった。

私は、小説から社会へ、社会からまた小説へと行き来するようになった。

学生時代には理系雑誌へ

学生時代になると、読むものは理系雑誌へ広がった。

文学から理系へ転向したというより、関心の対象が増えたといった方が正確だろう。

文学は、人間の感情や行動を言葉によって描く。

理系雑誌は、自然、技術、医学、数学、機械などの仕組みを説明する。

一見すると、この二つは遠く離れている。

しかし、私にとっては、どちらも知らない世界を文章によって理解しようとする行為だった。

文学作品を読むときには、登場人物がなぜそのように考え、行動したのかを追う。

科学や技術の記事を読むときには、現象がなぜ起こり、どのような仕組みで成り立っているのかを追う。

対象は違っても、「なぜ」を考えることは共通している。

学生時代の読書では、楽しみだけでなく、学習や専門知識の獲得という性格が強くなった。

分からない用語を調べる。

図や数式を読み直す。

一度では理解できない説明を、前のページへ戻って確認する。

フランス文学やロシア文学で感じた「分からなさ」と、理系雑誌で感じる「分からなさ」は性質が違う。

しかし、理解できない文章の前で立ち止まるという経験は同じだった。

文学での挫折も、無駄ではなかったのかもしれない。

成人してから、ジャンルの境界がなくなった

成人してからは、特定のジャンルに限らず、あらゆる分野の本を広く読むようになった。

文学、政治、経済、歴史、科学、医学、宗教、社会問題、資格、技術、実用書。

仕事や生活の中で必要になった本もあれば、純粋な関心から読んだ本もある。

高校生の頃には、文学を読むことに、一種の背伸びがあった。

名著を読まなければならない。

有名作家を理解しなければならない。

難しい本を最後まで読まなければならない。

成人後は、そのような義務感が少し薄れた。

必要な本を読む。

関心を持った本を読む。

難しければ、関連する入門書を先に読む。

途中で読むのをやめることもある。

一冊の本をすべて理解しなくても、必要な部分から何かを得ることができる。

読書に対する考え方が柔軟になった。

一方で、広いジャンルを読むことには問題もある。

一つの作家を長く追い続けることが難しくなる。

次々に別の分野へ関心が移り、知識が断片化する。

文学作品をゆっくり味わうより、必要な情報を探す読み方が増える。

多くの本を読んでも、それぞれの内容が深く残るとは限らない。

広く読むことと深く読むことは、必ずしも両立しない。

それでも、さまざまな分野を横断して読むことで、一つの問題を一つの視点だけで見ない習慣が生まれた。

医療の問題には、医学だけでなく、経済、倫理、家族、制度が関係する。

地域社会の問題には、人口、交通、産業、行政、教育、文化が関係する。

人間の生活は、学問の分類どおりには分かれていない。

文学、科学、社会、実用の本を分けずに読んできたことは、複数の視点を結びつける基礎になったと思う。

昭和の読書は、書店と紙の中にあった

昭和の読書を思い返すと、本に出会う場所は限られていた。

書店、図書館、学校、新聞広告、雑誌の書評、友人や教師の紹介。

自分が知らない本は、存在しないのと同じだった。

現在のように、作家名を検索すれば著作一覧が出てくるわけではない。読者の感想や評価をすぐに読めるわけでもない。

地方では、書店に置かれる本の種類にも限界があった。

取り寄せには時間がかかる。

外国文学の背景を知りたいと思っても、関連資料を簡単に集めることはできない。

その不便さを美化する必要はない。

情報が少ないために、理解できないまま終わった本もあったはずである。

スタンダールの『恋愛論』も、現在なら作品解説、時代背景、「結晶作用」の意味などを調べながら読むことができる。

高校生だった当時は、難しいと感じても、その難しさを解くための手掛かりを簡単には得られなかった。

しかし、情報が少なかったからこそ、一冊の本を長く手元に置くこともあった。

分からなくてもページをめくる。

途中でやめても、本棚に残しておく。

何年か後に、もう一度開く。

本は、すぐに答えを出す道具ではなく、理解できないまま自分のそばに存在するものでもあった。

平成、本を探す方法が変わった

平成になると、読書を取り巻く環境は大きく変化した。

大型書店が増え、書店の品ぞろえは広がった。

やがてインターネットが普及し、書名や作家名を検索して本を探せるようになった。オンライン書店を使えば、近くの書店にない本も購入できる。

昭和には「本が見つからない」ことが問題だった。

平成以降は、「本が多すぎて選べない」ことが問題になった。

書評や読者の感想を読んでから購入できるようになったことは便利だった。

一方で、他人の評価を先に知ることによって、自分だけの印象で作品と出会う機会は減ったかもしれない。

作品のあらすじを詳しく知りすぎれば、読む前から理解したような気持ちになることもある。

情報が増えれば、読書が必ず深くなるわけではない。

選択肢の増加は、一冊の本へ集中する時間を奪うこともある。

平成の読書は、入手の自由を広げると同時に、注意を分散させる時代でもあった。

令和、読む側から書く側へ

令和の現在、文章を読む環境はさらに変わった。

紙の本だけでなく、電子書籍、ウェブ記事、電子資料、個人ブログなど、さまざまな形で文章を読める。

スマートフォン一台で、多くの文章へ接続できる。

そして、読むだけでなく、個人が文章を公開することも容易になった。

私はいま、自分が読んできた本、使ってきた機械、聴いてきたラジオ、暮らしてきた時代について文章を書いている。

小学生の頃、課題図書を読んで感想文を書くことから始まった。

中学生では『天声人語』を読んだ。

高校生では太宰治、三島由紀夫、芥川龍之介、川端康成を読み、片岡義男や三田誠広を読んだ。

新潮文庫と角川文庫の棚を眺めた。

フランス文学やロシア文学に挑み、途中で挫折した。

スタンダールの『恋愛論』は難しく、最後まで十分には理解できなかった。

『朝日ジャーナル』『文藝春秋』『サンデー毎日』から社会を読んだ。

学生時代には理系雑誌を読み、成人してからは、ジャンルを限定せず幅広い本を読んだ。

そして今度は、自分が文章を書く側にいる。

もちろん、読むことと書くことは同じではない。

多くの本を読んだからといって、優れた文章を書けるとは限らない。

しかし、これまで読んだ文章は、自分の中に残っている。

文章のリズム。

場面の始め方。

一つの事実から考えを広げる方法。

人間を簡単に善悪で決めつけない視点。

理解できないものを、理解できないまま抱えておく姿勢。

それらは、一冊の本から直接教えられたものではない。

長い読書の中で、少しずつ形づくられたものだと思う。

読み通せなかった本も、読書遍歴に含まれる

読書歴を語るとき、人は読み終えた本を並べたくなる。

何を読破したか。

どの作家を理解したか。

どれほど難しい本を読んだか。

しかし、本当の読書遍歴は、もっと不完全なものである。

読み始めたまま、途中でやめた本がある。

内容をほとんど覚えていない本がある。

当時は感動したのに、なぜ感動したのか説明できない本がある。

難しくて理解できなかった本がある。

読み終えたつもりでも、実際にはほとんど分かっていなかった本もある。

フランス文学やロシア文学での挫折も、スタンダールの『恋愛論』を読み通せなかったことも、私の読書遍歴から除く必要はない。

むしろ、そこで初めて、本には自分の理解を超えるものがあると知った。

すべてを理解できると思うことの方が危うい。

文学は、簡単に答えを与えるものではない。

人間の感情や社会は複雑で、一度読んだだけでは理解できない。

年齢を重ねても、完全に理解できるとは限らない。

だからこそ、もう一度読む意味がある。

三つの時代を通じて残ったもの

昭和、平成、令和を通じて、読書の環境は大きく変わった。

昭和には書店の棚から本を選び、紙の文庫本を持ち歩いた。

平成にはインターネットで本を探し、遠くの書店やオンライン書店から購入できるようになった。

令和には電子書籍やウェブ上の文章を読み、自分自身もブログや電子書籍を通じて文章を発表できる。

本の形は変わった。

本を探す方法も変わった。

読む速度や、文章へ向き合う時間も変わった。

それでも、人が文章を読む理由の根本は、それほど変わっていないのかもしれない。

自分とは違う人生を知りたい。

自分の中にある感情を言葉にしたい。

世界がどのようにできているのかを知りたい。

過去の人が何を考えていたのかを知りたい。

自分が一人ではないことを確かめたい。

文学は、人生の問題を解決してくれるわけではない。

病気、仕事、家族、孤独、老いといった現実は、本を読んだだけで消えるものではない。

しかし文学は、自分だけが抱えていると思っていた感情が、別の時代、別の国、別の人間にも存在していたことを教えてくれる。

答えを与えるというより、問いに言葉を与えてくれる。

それが文学の役割なのだと思う。

課題として始まった読書が、人生の一部になるまで

小学生の頃、私は課題図書を読む程度だった。

その時点では、読書がその後の人生にこれほど長く関わるとは思っていなかった。

中学生で新聞のコラムを読み、高校生で文学に出会った。

名著を読み、流行作家を読み、文庫本を買った。

外国文学に挑み、挫折した。

雑誌を読み、社会へ関心を広げた。

理系雑誌を読み、自然や技術の仕組みを知ろうとした。

成人してからは、ジャンルを越えて本を読んだ。

振り返れば、読書の対象は変わり続けている。

しかし、知らないものを文章によって知ろうとする姿勢は変わっていない。

読み終えた本だけが、自分を作ったのではない。

理解できなかった本も、途中で閉じた本も、書店で手に取っただけの本も、自分の中に何らかの痕跡を残している。

高校生には難しかったスタンダールの『恋愛論』も、その一冊である。

内容を十分に理解できなかった。

それでも、理解できない本が世界には存在することを教えてくれた。

そして、いつかもう一度開けば、当時とは違うものが見えるかもしれないと思わせた。

課題として始まった読書は、やがて自分から本を選ぶ読書になり、社会を知る読書になり、専門を学ぶ読書になった。

そして令和の今、それは、自分が生きてきた時代を文章として残すための読書へつながっている。

昭和に開いた一冊の文庫本も、平成に探した専門書も、令和に読む電子書籍も、すべてが同じ形で記憶に残るわけではない。

けれども、読み終えて本を閉じた後、自分の人生や社会について少し考える時間が残るなら、その読書は無駄ではなかった。

本を読む人間として始まったわけではない私が、長い時間をかけて本を読む人間になった。

それが、昭和、平成、令和を通じた、私の読書遍歴である。

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谷野地区へ入る道は、地図で見るより細かった。

 若草仁は、ハンドルを握りながら、前方のカーブに目を凝らした。山の斜面を縫うように続く道は、舗装されているとはいえ幅に余裕がなく、対向車が来たらどちらかが待たなければならなそうだった。  ガードレールの向こうには、まだ色を残した冬の草が倒れ伏し、その下に用水路らしい黒い線が見え隠れしている。  三月の終わりにしては風が冷たく、曇った空のせいで、山影の色がいっそう濃く見えた。

 助手席で百合子が、スマートフォンの画面を消して膝に置いた。 「あと、どれくらい?」 「もう少し。たぶん次の橋を渡ったあたりだと思う」  仁はそう答え、ナビゲーションの画面に目をやった。表示された細い線は、まるで誰かが迷いながら鉛筆で引いたみたいに頼りない。都市部なら、ここで一本裏道に入っても大差ないと思えるような狭い道でも、このあたりでは一本違えばまったく別の場所へ行ってしまいそうだった。  後部座席では、翼が窓の外を見たり、飽きたように膝を揺らしたりしていた。小学校高学年の体は、もうチャイルドシートに納まる年ではないが、荷物に挟まれた狭い席でずっと同じ姿勢を取らされるのは退屈に違いなかった。隣ではレナが半分眠っていて、ときどき頭が揺れるたびに目を開け、何が起きたのか分からないような顔をしてまたまぶたを下ろしていた。

「静かだね」 百合子が言った。  ただの感想のようでもあり、確認のようでもあった。仁は、あえて明るい調子で返した。 「いいだろ。夜なんか、きっともっと静かだよ。子どもには悪くない環境だと思う」  そう言いながら、自分でもその言葉が、百合子に向けた説明である以上に、自分自身に向けたものでもあると分かっていた。

 都会のマンションを引き払って、家族で地方へ移る。画面の中なら、いくらでも整った言葉で言い表せる選択だった。自然の近くで暮らす。  子どもをのびのび育てる。少し広い家に住む。通勤は多少不便になるが、そのぶん生活の密度は下がる。人の多さに押しつぶされる毎日から、少し距離を取る。  そうした理由は一つ一つ嘘ではなかったし、だからこそ仁は、この移住を失敗だと思いたくなかった。

 けれど、谷野へ近づくほど、景色は「自然が豊か」という言葉だけでは足りない別の表情を見せ始めていた。山に囲まれている、というより、山に挟まれている。家々の間に余白はあっても、空気に開放感がない。広いというより、閉じている。道ばたの電柱、低い屋根、畑の脇に積まれた黒い肥料袋、集落の入口に立つ色褪せた看板。  目に映るものはどれも大げさではないのに、よそから入ってくる側の背筋を、わずかに伸ばさせる何かがあった。

 翼が、窓に額を寄せたまま言った。 「店とか、ほんとにないね」 「そのうち慣れるよ」と仁は言った。「車で出ればあるだろ」 「コンビニも見てないけど」 「さっき一軒あっただろ」 「二十分前のやつ?」  翼の言い方に、百合子が小さく笑う。仁もつられて口元をゆるめたが、次の瞬間、対向から軽トラックが現れ、思わずハンドルを左へ寄せた。タイヤが路肩の砂利を踏んでざっと鳴る。  軽トラックの運転席にいた男が、ほんの一瞬こちらを見た。すれ違いざまに軽く会釈したようにも見えたが、それが挨拶なのか、よそ者を一瞥しただけなのかは分からなかった。

 車が通り過ぎたあとも、仁はしばらく肩に力を入れたまま走った。 「大丈夫?」と百合子が言う。 「大丈夫。狭いだけだよ」  それでも、指先には少し汗がにじんでいた。引っ越しの荷物を載せた車で、見通しの悪い山道を行く。それだけなら誰でも多少は緊張する。仁はそう思うことにした。

 やがて道の先に、小さな橋が見えた。欄干の白い塗装はところどころ剥げていて、橋の下の水は驚くほど細く浅かった。  橋を渡ると、道の脇に家がぽつぽつと現れ始めた。 古い瓦屋根の家、トタンの倉庫、畑の隅に並ぶ農機具。洗濯物は干されていないのに、人の暮らしの気配だけはどこにも薄く残っている。見えている家の数より、見ていない人の方が多そうだった。

「ここかな」  仁がナビゲーションを見て言った。画面上の到着予想時刻が消え、目的地の文字が固定される。

 少し先、坂をゆるく下った先に、今回借りる家が見えた。古いが、二階建てで、敷地は思っていたより広い。門柱はなく、道路からそのまま玄関まで土のままの空間が続いている。家の横には車を二台置けそうな余地があり、裏手には細い畑の名残のような場所も見えた。

「着いた」  口にした瞬間、仁の胸に、ようやく張りつめていたものが少し緩んだ。地図の上でしか知らなかった場所が、いま現実の家として目の前にある。それだけで、ひとまずは前へ進んだ気がした。  その安堵が形になる前に、百合子が窓の外を見たまま、小さく言った。 「……見てる」 「え?」  仁がそちらを見る。家の少し先、道が折れるところの脇に、人影があった。年齢も性別も分からない。畑の様子を見ているだけにも見えるし、こちらが来るのを前から知っていたようにも見えた。相手は仁たちと視線が合っても、あわてて逸らすでもなく、ただそこに立っていた。 ようやく着くと思ったとき、先にこちらへ気づいていた目があった。

 車を停め、エンジンを切ると、急に静かになった。 その静けさは、都市部で深夜に訪れるような、音が引いていく静けさではなかった。最初からそこにあって、人が入り込んでも揺らがない種類の静けさだった。  遠くで鳥の声がして、もっと遠くで何かの機械音がかすかに続いている。それでも全体としては、音より空気の方が前に出ていた。

「着いたの?」  レナが目をこすりながら言う。 「着いたよ」 百合子が振り向いて答え、レナの髪を撫でた。

 翼は先にドアを開け、外へ出た。伸びをして、周囲を見回す。その顔に、期待と警戒が半分ずつ乗っているように仁には見えた。

 仁も車を降りた。地面は昨日の雨が乾ききっていないのか、土が少し柔らかい。家を見上げると、古さはあるが、住めない感じではない。窓枠の塗装は剥げているし、軒下の一部は色褪せていたが、それでも、都会で同じ予算なら到底手に入らない広さだった。玄関脇に小さな鉢がひとつだけ置かれていて、誰が置いたのか分からない枯れかけの草が入っていた。

「思ったより悪くないな」 仁は、半分は本心で、半分は家族に聞かせるために言った。

 百合子は返事をせず、先に玄関の鍵を開けた。 扉が少し重く、開けると中から乾いた匂いが流れてくる。長く無人だった家の匂い、というほどではない。けれど、誰かの生活が終わったあと、まだその輪郭だけが床や壁に薄く残っているような匂いだった。

 レナが「ひろい」と言って先に上がろうとし、百合子が「まだ靴」と制した。翼はすでに玄関から覗き込んでいて、「二階あるじゃん」と声を弾ませた。仁は、それを聞いて少しほっとした。子どもがまず広さに反応してくれるなら、悪い出だしではない。

 荷下ろしを始めると、時間はすぐ形を失った。段ボールを降ろし、必要なものを玄関先に寄せ、寝具を運び、台所用品の箱を分ける。仁が車と玄関を行き来するあいだに、百合子は家の中をざっと見て回っていた。水は出るか、ガスの立ち会いの時間は間に合うか、台所の棚はどれくらい使えるか、子どもたちをどの部屋に入れるか。仁が「思ったより悪くない」と家そのものを見ている間に、百合子はもう、ここで生活を立ち上げる段取りを考えているのだと分かった。  ところが、その段取りに集中するには、妙に視線が多かった。

 向かいの家の二階の窓。少し離れた道路脇で止まった軽自動車。さっき見たのとは別の軽トラック。通りすがりを装ってこちらを見ていく人影。どれも、はっきり見張っているわけではない。新しく越してきた家族がいれば、そりゃ気になるだろう、と言われればそれまでの程度の視線だった。けれど、それが一つではなく、荷物を運ぶたびに違う場所から現れると、家に着いたはずなのに、まだどこかへ到着できていない気分になった。

「この箱、台所?」  仁が持ち上げた段ボールを示すと、百合子が「うん」と答える。その返事のあと、彼女は少し声を落として言った。 「なんか、落ち着かないね」 「珍しいんだよ。引っ越しなんて、ここじゃ目立つだろ」 「そういうのじゃなくて」 百合子はそこで言葉を切り、視線だけで道路の方を示した。

 仁も分からないわけではなかった。ただ、ここで百合子の違和感に深く同意すると、この家に最初の足を下ろした瞬間から「失敗かもしれない」という話になってしまう。それだけは避けたかった。 「最初だけだよ」  仁は箱を抱え直しながら言った。「こっちも顔覚えてもらわないといけないだろうし」

 翼が玄関の内側から言った。 「さっきからずっと誰か見てるけど」 「気にしなくていい」 「でも見てるじゃん」  子どもの口からそのまま言われると、逆に過敏な話題にしたくなくなる。仁は、苦笑いでごまかすように肩をすくめた。 「見られるのは最初だけ。こっちだって向こう見てるだろ」

 自分で言って、少し薄い理屈だと思った。そのとき、玄関の中から鈍い物音がして、レナの「これなに」という声がした。百合子がすぐそちらへ向かう。 仁も続こうとしたところで、背後から電子音が鳴った。  インターホンだった。 荷物より先に、この家に届いたのは人の気配だった。

 扉を開けると、明るい声が先に入ってきた。 「こんにちは。お引っ越し、お疲れさまです」  立っていたのは三十代後半から四十代前半くらいに見える女だった。濃すぎない化粧、整えられた髪、気取りのない服装。片手に紙袋、もう片方の腕に回覧板らしいバインダーを抱えている。笑顔に嫌味がなく、立ち方もあくまで自然で、こちらが身構える隙を作らない。

「清水みゆきです。すぐ隣ではないんですけど、すぐそこの班で。区長のところの嫁です」  言いながら軽く頭を下げる。その名乗り方に慣れがあった。相手にとって何が分かりやすいか、どの順で言えば場が滑らかに始まるかを、考えなくても分かっている人の話し方だった。 「あ、どうも。若草です」 仁もあわてて頭を下げた。 「本当はもっと早く来たかったんですけど、引っ越しの最中だろうなと思って。これ、よかったら。ほんの気持ちだけ」  差し出された紙袋は、まだ温かかった。中から味噌の匂いと、何か煮た野菜のやわらかな匂いがする。百合子が後ろから来て、仁の横に立った。

「ありがとうございます」と百合子が言う。 「いえいえ。最初って大変ですもんね。台所、今日中に全部は整わないだろうし」  その言い方はまったくもっともで、押しつけがましさがない。仁は素直にありがたいと思った。引っ越しの日の食事ほど面倒なものはない。受け取る理由として十分すぎた。

 みゆきは玄関の内側をちらりと見て、すぐ視線を戻した。見すぎない程度に見ている、その加減がうまかった。 「お子さん、二人でしたよね。男の子と女の子」 百合子が、一瞬だけまばたきをした。 「はい」 「やっぱり。学校の話、ちょっと聞いてたので。上のお兄ちゃん、翼くん? 四年生でしたっけ」 「五年です」  答えたのは翼だった。廊下の奥から、半分だけ顔を出している。 「そうそう、ごめんね、五年生か。下はレナちゃんで、まだ小さいんですよね?」  レナは百合子の足元から相手を見上げて、なにも言わなかった。 「かわいいねえ。慣れるまで大変だけど、このへん、子どもはわりとすぐ顔覚えられるから」

 にこやかにそう言ってから、みゆきは回覧板を持ち上げた。 「それで、これが班の回覧板です。まだ引っ越したばっかりで頭に入らないと思うんですけど、行事とか当番とか、だいたいここに入ってるので。あと、分からないことがあったら、ほんと聞いてください。ゴミとか、学校とか、学童とか」 「助かります」と仁が言う。「まだ全然分からなくて」 「ですよねえ。お仕事も、もうこっちから通われるんですか?」

 自然な流れだった。会話の中で出てもおかしくない問いだったし、助けが必要かどうかを確かめる意味にも見える。 「ええ、しばらくは車で」と仁は答えた。「ちょっと遠いですけど」 「大変ですね。朝早いですか?」 「まあ、そこそこ」 「じゃあ百合子さんが送り迎えですか?」  百合子は、ごく短く「はい」と答えた。 「お仕事はされてるんですか? それとも、しばらくは家のこと中心で」 「今はまだ、家のことを」 「そうなんですね。じゃあ慣れるまで大変だ。車は二台でしたっけ?」

 ここまで来て、仁はようやく、みゆきの質問がひとつの方向へ揃っていることに気づいた。仕事、出勤時間、送り迎え、就労、車の台数。家族の生活の動きが、会話の中で次々と輪郭を持っていく。  けれど、その輪郭を取る手つきがあまりに柔らかいために、いやらしさが前面に出ない。詮索されている、とは言い切れない。 助けるために必要な範囲を知ろうとしているだけだ、と解釈しようと思えばできてしまう。

「二台です」と仁は答えた。 「よかった。このへん、車ないとどうにもならないから。あ、でも夜はほんと静かですよ。最初は暗いなって思うかもしれないけど、すぐ慣れます」 「そうなんですね」 「あと、うちの班、みんなわりと気にかけてくれるんで。困ったことあったら遠慮なく。あ、学校のことなら先生の雰囲気とかも分かるし、学童も、誰がどこまで預けてるかとか」

 言葉は親切だった。実際、この土地に先に暮らしている人がそういう情報を持っているのは心強いはずだった。なのに、百合子の横顔は、礼儀を崩さないまま、ほんの少しだけ硬かった。

 みゆきは、その硬さに気づいていないのか、気づいても出さないのか、変わらない笑顔のままで続けた。 「若草さんたち、どこから来られたんでしたっけ。都内の方?」 「前は都内です」と仁が答える。「駅の近くで」 「ああ、じゃあ全然違いますねえ。このへん、不便は不便だけど、慣れたら静かでいいですよ。子どもにはいいし」  最後の一言に、仁は少し救われるような気がした。自分たちがここへ来た理由を、外からも肯定してもらえた感じがしたからだ。

 その一方で、百合子は、みゆきの目が一度も空回りしていないことを感じていた。子どもの年齢、学校、親の就労、車、生活時間。聞いた情報を、相手の前で整理しすぎない程度に、きちんと持ち帰る人の目だった。  翼は黙ってそのやりとりを見ていた。子ども特有の無遠慮さで口を挟むわけでもなく、ただ、母親の表情が少しずつ変わっていくのを見ていた。  ひとしきり話したあと、みゆきは回覧板を玄関脇の棚に置いた。 「じゃあ、ほんと、今日は忙しいでしょうし。あとでまた班の人も顔出すかもしれないですけど、びっくりしないでくださいね。最初だけだから」  そう言って笑う。その笑い方は軽く、冗談めいていた。 「ありがとうございます」  仁が頭を下げると、みゆきも笑顔のまま一歩下がった。 「こちらこそ。よろしくお願いします」

 明るい声が帰ったあと、訊かれたことだけが部屋に残った。 紙袋を開けると、味噌汁の入った容器と、煮物の小鉢がきれいに包まれていた。まだあたたかく、湯気こそ立っていないが、ついさっき火を止めたばかりのような匂いがした。

「ありがたいね」と仁は言った。  それは本当にそうだった。引っ越しの日の夕食を一品でも人が用意してくれている、そのありがたさを否定する理由はなかった。

 百合子は「うん」とだけ答え、容器のふたを確かめたあと、台所の流しにそっと置いた。新しい家の台所は、まだどの引き出しに何を入れるかも決まっていない。段ボール箱が足元にあり、布巾も食器も仮置きのままだ。 その中に、よそから来た容器だけが先に場所を取っているのが、妙に目についた。

 回覧板を開くと、班の名前、連絡事項、行事予定、清掃当番、防災訓練、資源ごみの日程、祭りの準備、草刈り予定などが何枚もの紙に挟まっていた。名前の並びは手書きで補足されていて、若草家の欄にはすでに「転入」と書き足されている。誰かが、彼らが来る前から、ここに名前を入れる準備をしていたのだ。 「けっこうあるな」  仁がページをめくりながら言う。「でもまあ、こんなもんか」 「こんなもん?」百合子が聞き返す。 「いや、地区の行事とか。田舎ならあるだろ」 「そうじゃなくて」  百合子は回覧板の端に指を置いたまま、そこに載っている名前の列を見ていた。

「まだ引っ越してきたばっかりなのに、もう最初から入ってる感じがしない?」 「班に入るんだから、そりゃ入るだろ」 「そういう意味じゃなくて……」

 百合子は言葉を探すように少し黙った。「なんていうか、家に入る前から、もう向こうの中に入れられてる感じ」  仁は、すぐには返せなかった。分からないわけではない。ただ、その感覚を正面から認めてしまうと、さっきの親切まで別のものに見え始める気がした。 「最初が肝心なんだよ、たぶん」  仁は回覧板を閉じながら言った。「こっちが感じよくしてれば、向こうもやりやすいだろうし」 「感じよく、ね」  百合子は声を荒げたわけではない。ただ、その短い繰り返しの中に、納得していないことだけははっきり含まれていた。

「だって、さ」と彼女は続けた。「子どものこととか学校とか、まだ分かるよ。でも仕事とか、何時に出るとか、車何台とか、あそこまで最初に聞く?」 「会話の流れだろ」 「流れであそこまで揃う?」  仁はそこで、答えに詰まった。正直に言えば、少し揃いすぎていた気もした。けれど、だからといって今すぐそこを問題にするほどのことかと言われれば、まだそうとも言い切れない。 「考えすぎじゃないか」 結局、そう言うしかなかった。

 百合子は反論しなかった。そのかわり、回覧板の紙をもう一度見た。そこに載っているのは名前だけのはずなのに、彼女にはそれが名簿ではなく、見えない座席表のように見えていた。どこに誰がいて、自分たちはこれからどこに座ることになるのか。その位置は、まだ自分たちが決めていないのに、向こうはもう知っているような気がした。

 歓迎されているはずなのに、百合子には名簿の中へしまわれた気がした。 そのあとも、家はなかなか閉じなかった。

 荷解きを再開して一時間も経たないうちに、また声がかかった。 今度は、みゆきではない年配の女が、畑で採れたという青菜を新聞紙に包んで持ってきた。言うことはほとんど決まっている。 「引っ越しで大変でしょう」「何もないとこだけどよろしくね」「困ったら言ってね」。 善意として受け取るのに無理のない言葉ばかりだった。

 その少しあとには、道路の向こうから男が軽トラックを止め、「今度の掃除のこと、回覧に入ってるから見といて」と窓越しに声をかけてきた。名乗りはしたが、仁には一度で覚えきれなかった。相手は仁が覚えられないことも分かった上で、すぐに「まあそのうち」と笑った。その笑い方の中に悪意はなかった。ただ、こちらの生活が始まるより先に、向こうの予定が家の中へ入ってくる感覚だけが残った。

 さらに夕方近くになると、また別の家の人が、畑の大根を二本置いていった。「うちじゃ食べきれないから」。それもまた、断る理由のない好意だった。

 声をかけられるたび、仁は手を止めて玄関へ向かった。いちいち応対するのは疲れたが、ここで無愛想にするわけにはいかないと思った。最初だけだろう、という言葉を、彼は何度も心の中で使った。  最初だから。引っ越してきたばかりだから。向こうも悪気はない。ここで感じよくしておけば、あとがやりやすい。そうやって一つ一つ納得していくしかなかった。

 しかし百合子にとっては、納得より先に、生活の立ち上がりが遅れていくことの方が現実だった。台所の棚を拭きたい。子どもの着替えを出したい。寝る場所だけでも整えたい。そういう「家の中を家にする仕事」が、来客のたびに切れる。  玄関が開くたび、自分たちのペースが途中で外へ引っぱられる。丁寧に応対しながら、百合子は、自分たちの一日がまだ始まってもいないことに焦っていた。

 翼は何度目かの「どこから来たの」に、露骨に飽きた顔を見せ始めていた。答えれば答えるほど、自分がこの家の子どもではなく、「外から来た家族の長男」という説明の一部にされていくようで嫌だった。  レナは逆に、人が来るたび少しはしゃぎ、紙袋の中身を覗きたがったり、もらった野菜を触りたがったりした。その無邪気さが、この場の空気にいちばん自然に馴染んでいるようにも見えた。

 夕方になって、ようやく玄関を閉められる時間ができたとき、家の中には段ボール、差し入れ、回覧板、見知らぬ人の名前、次の予定、そして応対に使った微笑みの残りが散らばっていた。 戸は閉まったのに、家のなかだけがまだ外の続きだった。

 夜になって、子どもたちがようやく静かになるころには、家の中の最低限の形だけはどうにか整っていた。寝具を敷き、歯ブラシを出し、明日の朝に必要なものを手の届くところへ移す。台所はまだ半分段ボールのままだが、もらった味噌汁と煮物のおかげで、夕食は思っていたよりずっと楽に済んだ。

それでも、一日が終わったという感じは薄かった。

 翼は二階の部屋を自分の場所にできるかどうかだけ確認して、すぐ布団にもぐり込んだ。  レナは途中まで起きていたが、歯を磨いているうちにまた眠そうになり、そのまま百合子に抱えられるようにして寝室へ入っていった。

 ようやく居間に二人きりになると、仁は座ったまま大きく息をついた。疲れていた。肉体的にも疲れていたが、それ以上に、一日じゅうどこかに肩を張っていたような疲れ方だった。 「今日はさすがに疲れたな」 「うん」  百合子は短く答え、流し台の脇に置いた容器を見た。洗うのは明日にしようと思っているのか、そのまま伏せてある。 「でも、感じのいい人たちで助かったよ」  仁がそう言うと、百合子は椅子を引いて座った。

「感じはいい」 「だろ?」 「でも、近い」  仁は笑って受け流そうとしたが、百合子の顔が真面目なままだったので、そのまま口を閉じた。

「親切なのは分かる」と百合子は言った。「分かるけど、あの人、最初から知りたいことがちゃんと決まってる感じしなかった?」 「清水さん?」 「うん」 「生活しやすいように聞いてくれただけじゃないのか」 「だとしても、なんか……」 百合子はうまく言葉にできないようで、手元のコップを指で回した。

「普通、引っ越し初日にあんなに揃えて聞くかなって思ったの。仕事のこと、車のこと、子どものこと、学童のこと。悪い言い方したくないけど、聞き方が上手すぎるっていうか」 「世話焼きなんだろ。ああいう人、いるじゃん」

「いるよ。でも、世話焼きっていうより、最初に必要なこと全部取っていく感じだった」  仁は、そこまで言われて初めて、自分も少し似た印象を受けていたことを思い出した。だが、それを認めると、今日は一日ずっと正しい対応をしてきたつもりの自分の足場が少し崩れる気がした。

「田舎って、こんなものじゃないか」  そう言うと、百合子はすぐには返事をしなかった。 「そうかもしれない」と彼女はやがて言った。「でも、こんなもの、で済ませていいのかなって思ってる」  仁は、その言葉のあとに続くものを待ったが、百合子はそれ以上は言わなかった。神経質に騒ぎ立てたいわけではないのだと分かった。むしろ逆で、騒ぎ立てるほどの何かがまだ起きていないからこそ、言葉にしづらいのだろう。 「最初に悪く思わない方がいいよ」と仁は、できるだけ柔らかく言った。「こっちだって、まだ何も分かってないんだし」

 百合子は「そうだね」と答えた。その返事は反論ではなかったが、納得でもなかった。

 会話はそこで途切れた。遠くで犬の鳴く声がして、しばらくしてまた静かになる。都市部の夜なら、完全に音が切れることはない。 どこかで車が走り、人が歩き、エレベーターが動く。その薄い生活音が、逆にこちらの暮らしを守ってくれていたのだと、仁はそのとき初めて少し思った。  ここでは静けさが厚く、音がないぶん、わずかな物音や気配の方が強く感じられる。

 百合子は先に寝室へ行った。仁は一人残って、まだ開けきれていない段ボールをなんとなく眺めた。  ふと、スマートフォンを手に取る。通知は引っ越し業者からの完了連絡と、仕事関係の短いメッセージが一件だけだった。たいしたものではないのに、なぜか画面を見たあともしばらく気が休まらなかった。

 知らない土地の最初の夜なのに、静けさだけが休ませてくれなかった。

 寝る前に、仁はもう一度だけ居間を見回した。  回覧板が棚の上にある。差し入れの容器が流し台にある。開けかけの段ボールが積まれ、その横に、今日もらった青菜と大根が立てかけてある。  新居に運び込んだはずの自分たちの荷物と、今日この家へ外から持ち込まれたものとが、もう区別しにくくなり始めていた。

 窓の外を見ると、向かいの家の明かりがまだ点いていた。外灯の白い光が、庭先の土をぼんやり照らしている。誰かがこちらを見ているわけではない。  けれど、見られようと思えば見られる距離だと分かる。それだけで、カーテンを閉める手つきが少し早くなった。

 考えすぎだ、と仁は自分に言った。百合子も疲れているのだろう。自分も引っ越しで神経が尖っているだけだ。親切を親切として受け取れないのはよくない。 ここでうまくやると決めたのだから、最初から疑ってかかるべきではない。

 そう頭で並べた理屈は、どれも間違っていないはずだった。

 それでも、床に置かれた回覧板と、流しにある容器と、まだ片づかない段ボールを同じ部屋で見ると、この家の中心がもう自分たちだけのものではないような気がした。

 越してきたばかりの家なのに、もう誰かの目が住みついている気がした。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.

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引っ越して最初の平日の朝、百合子はまだ台所のどこに何を入れたのか完全には覚えていなかった。

 皿は左の棚、子どものコップはその下、ラップは流しの横の引き出し、ゴミ袋はまだ段ボールの中。そうした配置を、体より頭で思い出しながら動かなければならない。それだけでも落ち着かないのに、家の外はもう起きているらしかった。  障子の向こうに薄い朝の明るさが広がり、どこかで戸の開く音がした。車のエンジン音が一度だけ響いて、すぐ遠ざかる。鶏の鳴き声ではないが、なにか生き物の高い声が山の方から聞こえてくる。

 百合子は、湯を沸かしながら流し台の端に置いておいた紙を手に取った。自治体のごみ分別表だった。 色分けされた一覧には、燃えるごみ、不燃ごみ、資源ごみ、容器包装、粗大ごみなどが整然と並んでいる。どこの自治体にもある、ごく普通の紙だ。  だが、その上に、地区の人から渡された別のメモが重ねてあるのが気になった。  その紙には、手書きで補足が入っていた。

 燃えるごみは朝八時まで。  袋の口は見やすいように。  汚れ物はなるべくきれいに。  資源ごみはひもをきちんと。  初めは周りに合わせてください。

 どれも命令口調ではない。むしろ柔らかい。だが柔らかいぶんだけ、何が「きちんと」で、どこまでが「なるべく」で、どの程度が「周りに合わせる」なのかが分からなかった。自治体の紙の方には書いていないことが、こちらでは大事なのだろうと察せられる。その察しなければならない部分が、百合子には朝の冷えた水より嫌だった。

「もう起きてるの?」  後ろから仁の声がした。寝癖のついたまま居間へ入ってきて、まだ完全には開いていない目で時計を見る。 「ごみの日だから」 「今日だっけ」 「うん。最初の」  仁は「ああ」とだけ言って、紙をちらりと見た。 「細かいな」 「細かいっていうか、曖昧」  百合子が答えると、仁はあくびを噛み殺しながら椅子に座った。 「最初なんだから、周り見ながら合わせればいいだろ」 「それが嫌なんだけど」 「何が?」 「書いてあるルールならいいの。見て分かるから。でもこれ、結局、誰かの感覚で決まるってことでしょ」

 仁はコップに水を注ぎながら、「まあ、ある程度はそうだろうな」と言った。それは軽く流したというより、まだ問題の中心が見えていない人の返事だった。 「都会だって、暗黙のルールくらいあったじゃないか」 「でも、ごみ袋の口が見やすいようにって何?」 「中が分かるようにじゃないの」 「どこまで分かればいいの」 「百合子」 仁は少し笑って言った。「朝からそんなに構えなくても」

 その言い方には悪意がなかった。むしろ、引っ越したばかりの朝から神経を使いすぎない方がいいと気遣っているのだろう。だから百合子も言い返しきれなかった。ただ、構えているのは自分の性格ではなく、紙の方だと思った。読む人に「空気まで読め」と要求している紙の書き方そのものが、最初からこちらを試しているように思えた。

 流しの下から、昨夜まとめておいたごみ袋を引っ張り出す。透明な袋の中に、段ボールをほどいた紐の切れ端、食品トレーを洗ったもの、使い終えたティッシュ、野菜くず、梱包材の細かな破片が入っている。引っ越し直後のごみは、生活がまだ固まりきっていない分だけ雑多だ。百合子は袋の口をいったん開いて、中身を見直した。発泡トレーは本当にこれでいいのか、ペットボトルのラベルはもう一度剥がした方がいいのか、少し汚れの残ったプラスチックは燃えるごみでいいのか。普段なら迷わないものまで、ひとつずつ気になった。  袋の口を結び直しながら、百合子は自分が何かの書類を整えているみたいだと思った。これで提出していいのか、誰に見られるのか、どこで減点されるのかが分からない書類だった。 書いてあることより、書いていないほうを間違えそうで嫌だった。       朝食を簡単に済ませたあと、百合子はごみ袋を持って外へ出た。 仁が「俺が行こうか」と言ったが、百合子は首を振った。  別に意地ではない。家の中を整える仕事のひとつとして、自分で最初に見ておきたかっただけだ。 どこにあるのか、どんな場所なのか、自分の目で確かめておきたかった。

 玄関を出ると、朝の空気は想像していたより冷たかった。山の陰に入っているせいか、日差しはあっても体感はまだ薄い。 道路を挟んだ向かいの家の前には軽自動車がなく、代わりに勝手口の方から金属の触れ合う音が聞こえた。誰かがもう起きて仕事をしているのだろう。  ごみ置き場は、家から歩いて二分ほどの、道路が少しふくらんだ角にあった。屋根だけの簡素な小屋のような造りで、正面にネットがたたんで掛けてある。近づくにつれて、百合子の足取りは自然と遅くなった。

 もう何袋か並んでいた。

 それぞれ透明か半透明の袋で、中身は見える。見えるのだが、不思議なくらい雑然としていない。袋の大きさが揃っているわけではないのに、置かれ方に妙な整いがあった。口の結び目はきちんと上に来ていて、向きが揃っている。紙ごみが飛び出していたり、袋の形が崩れていたりするものがない。どの家も、ごみを「出した」のではなく、「置いた」あとまで考えているように見えた。

 百合子は、自分の袋を手にしたまま少し立ち止まった。

 たかがごみを出すだけなのに、その場の空気に身体を合わせなければならない気がした。  袋の置き方ひとつで、初めての人間かどうかが分かるような気がしてしまう。誰も見ていないならまだよかった。だが、視界の端で、少し離れた家の窓が開くのが見えた。直接こちらを見たのかどうかは分からない。ただ、窓が開いたというだけで、自分の動きが一段とぎこちなくなる。

 百合子は袋をそっと並べた。他の袋と不自然に離れないように、しかし触れすぎないように。置いたあと、一度離れて見直したくなったが、それをすると余計に不慣れさを晒す気がしてやめた。

 帰ろうとして背を向けたとき、庭先にいた年配の女が視線だけこちらへ寄こした。会釈するほど近くもなく、無視するほど遠くもない曖昧な距離だった。百合子は軽く頭を下げたが、相手は見ていたのかどうか分からないまま、剪定ばさみのようなものを動かし続けていた。

 家へ戻る道すがら、百合子は、いま置いてきた袋のことばかり考えていた。中に何が入っていたか。 発泡トレーの洗い方は十分だったか。袋の口はきちんと見えていたか。 紙に書かれていた「見やすいように」という言葉が、何度も頭の中で形を変えた。中身を見やすいように。結び目を見やすいように。こちらの生活が見やすいように。

 たかがゴミを置いただけなのに、自分の名前まで置いてきたような気がした。

 その日の昼過ぎ、みゆきがまた来た。

 昨日と同じように、声は明るく、歩き方にも遠慮がない。遠慮がないといっても、ずかずか上がり込む種類のものではなく、「来て当然」というより「来てもおかしくない」位置に自分を置くのが上手い人の足取りだった。

「こんにちは。少し慣れました?」 「まだ全然です」と仁が答える。ちょうど玄関先で段ボールを畳んでいたところだった。 百合子も奥から出てきて、軽く頭を下げた。 「ですよねえ。最初の一週間はばたばただもんね」  みゆきはそう言ってから、少し声を落とした。 「ごみ、もう出された?」 「はい」と百合子が答えた。 「あ、よかった。あのね、別に全然大したことじゃないんだけど、このへん細かい人いるから、最初だけちょっと気をつけた方がいいかも」

 仁がすぐに「何かありました?」と聞く。 「いやいや、怒られたとかじゃないの。そういうんじゃなくて」  みゆきは笑った。その笑い方は、安心させるためのものだった。けれど、安心させる必要のある何かがすでに発生していることも同時に示していた。

「袋の口ね、あんまりぎゅっと縛りすぎない方がいいって言う人がいて。あと、発泡トレーとか、洗ってあっても別にしてる家もあるし。ほんと、このへん人によって言うこと違うから面倒なんだけど」

「そうなんですね」  仁は頷いた。「教えてもらえて助かります」 「最初だけ、ほんと。慣れちゃえばどうってことないから」

 百合子は、みゆきの言葉の中身よりも、その言葉がどこから来たかの方が気になった。誰かが見ていたのだ。見て、何かを感じて、それがみゆきのところまで届いた。みゆきは責めているわけではない。むしろ柔らかく教えてくれている。だからこそ余計に、どこかに目があって、しかもそれが人づてに動くことの方が気持ち悪かった。

「袋の口って、やっぱり見える方がいいんですか」 百合子が聞くと、みゆきは一瞬だけ肩をすくめた。 「うーん、正解があるようでないんだよね。だからみんな周り見ながらやってる感じ。あ、でも時間はなるべく早めがいいかな。遅いと目立つし」

 その「目立つ」という一語だけが、妙に素の重さで落ちた。

 そこへ、道路の方から男の声がした。 「若草さん、もう覚えたか、ごみ出し」  水谷利雅だった。軽トラックを止めたまま窓から顔を出し、こちらへ笑っている。 「都会の人は豪快だからなあ。袋ひとつで性格出るぞ」  冗談の口調だった。笑えば済む一言として投げられている。仁も苦笑いで返すしかない。 「勉強します」 「最初はみんなそう言うんだ。まあ、みゆきさんが先生なら安心だな」

 みゆきが「やめてくださいよ」と笑い、場はそのまま流れる。軽い。誰も刺していない。なのに、百合子の胃のあたりには、冗談と一緒に細い針のようなものが残った。

 しばらくしてみゆきが帰ると、玄関先に少しだけ静けさが戻った。仁は段ボールを手にしたまま、「助かったな」と言った。

 百合子はすぐに返事をしなかった。 「なんであの人、うちのゴミのこと知ってるの」  小さく言うと、仁は「誰かが気にしたんだろ」と答えた。 「その誰かが気にしたってことが嫌なの」  仁はそれ以上は言わず、畳んだ段ボールを持って裏手に回った。言い合いになるほどのことでもない、と思っているのが分かった。百合子も、まだこの時点ではそれ以上強く言えなかった。ごみ袋の口がどうこうという話だけ聞けば、たしかに大したことではないからだ。

 だが注意されたことより、誰かが見ていたことのほうが気持ち悪かった。      その日の夕方、翼が学校から帰ってきた。

 転入初日で疲れているはずなのに、表情はそこまで沈んでいなかった。教室や担任や座席や、そういう初日の緊張をどうにかこなしてきた顔だった。ただ、ランドセルを下ろす手つきが少し雑で、靴を脱いだあとにしばらく黙って廊下に立っていた。 「どうだった?」と仁が聞く。 「ふつう」  翼はそう答えた。小学生の「ふつう」はだいたい幅が広い。ひどく悪くはない、でも楽しかったとも言い切れない、その中間全部を飲み込む言葉だ。

「先生は?」 「ふつう」 「友だちはできそう?」 「まだ分かんない」  百合子は台所からそのやりとりを聞きながら、無理に聞き出さない方がいいと思った。初日はそれだけで消耗する。転校してきた子どもに親が知りたいことは山ほどあるが、子どもの方だって、どこから話せばいいのか分からないだろう。

 夕食のときになって、翼はようやく少しずつ口を開いた。担任は男の先生だったこと、クラスに知り合いはいないこと、でも隣の席の子はノートを見せてくれたこと。  そういう断片がぽつぽつ出てきて、百合子も仁も、それを拾いながら会話をつないだ。

 その流れの中で、翼が箸を動かしながら、何でもないふうに言った。 「今日さ、変なこと言われた」  百合子が顔を上げる。「何を?」 「別に、たいしたことじゃないけど」  そう前置きしてから、翼は味噌汁を一口飲んだ。 「なんか、うち、ごみで言われてたらしいなって」  一瞬、食卓の上の空気が止まった。

「誰に?」と百合子が聞く。 「同じ班のやつ。名前まだちゃんと覚えてないけど。おまえんち、まだ慣れてないんだって、みたいな」 「そんな言い方?」 「いや、もっと普通に。悪口って感じじゃない。話題として言ってきた感じ」 仁が苦笑いを作った。 「田舎だから話が早いんだろ」  そう言った瞬間、自分でも軽すぎると分かったのか、仁はすぐ黙った。

 百合子は、胸の奥を冷たいものが通るのを感じた。朝出したごみのことが、その日のうちに子どもの学校まで行く。大人同士の会話が、夕方には子どもの口から戻ってくる。その速さより何より、家のことが家の外で「その家のこと」として扱われている感覚が嫌だった。 「何て返したの」 「別に、まだ引っ越してきたばっかだからって」 「それで?」 「それで終わり。ほんとにそれだけ」  翼はそう言ったが、最後の「それだけ」が少し硬かった。大したことじゃないと言いながら、もう一度思い出したくない出来事の言い方だった。  仁は「気にしなくていいよ」と言った。

 翼は「別に気にしてない」と答えた。その返事もまた、小学生の「別に」で、気にしていないときほど軽くはなかった。  しばらくして、翼は箸を置くとき、いつもより少しだけ強く音を立てた。 家で出したゴミが、もう学校まで先回りしていた。      夜、子どもたちが寝たあとで、百合子は我慢していたものをようやく言葉にした。 「あれ、おかしいよね」

 居間にはまだ引っ越しの箱が残り、照明は新しい家に慣れない目に少し白すぎた。仁は畳んだ洗濯物を手に持ったまま、「何が」と聞いた。 「翼の学校の話。なんであの子の耳にまで入るの」 「このへんは近いんだよ」 「近いで済む?」  百合子の声は大きくなかったが、その分だけ抑えているものが透けた。 「ごみの出し方の話が、その日のうちに学校の子まで知ってるって、普通じゃないでしょ」 「普通じゃないって言っても、じゃあどうするんだよ。誰かが悪意で言いふらしたって決まったわけでもないだろ」 「でも伝わってる」 「伝わること自体はあるだろ。小さい地区なんだし」

 仁は、争いたいわけではなく、問題をまだ問題の大きさに育てたくないのだと百合子には分かった。都会で暮らしていた頃だって、近所のちょっとした話はどこかで共有されていたかもしれない。仁はそういう現実の延長として処理しようとしている。だが百合子には、これは単に情報が早いという話ではなく、暮らしの中身が最初から共有される前提で置かれている感じがした。

「合わせるしかないって、どこまで?」と百合子は言った。「書いてないことまで読んで、向こうが嫌がりそうなことを先回りして直して、それでもどこまでで足りるか分からないんだよ」

「最初だけだって」 「その『最初だけ』って、誰が決めるの」

 仁は返事をしなかった。

 百合子はそこで初めて、仁が鈍いのではなく、うまくやろうとしているのだと改めて思った。家族のために、この土地で波風を立てずにやっていきたい。その善意がある。だからこそ、いまここで強く「おかしい」と言い切ることが、彼には家族の足場を崩す行為に見えるのだろう。

 そのことは分かる。分かるが、分かるから余計に孤立した。  百合子は、それ以上は言わなかった。言えば言うほど、自分だけが細かいことを気にしている人のようになりそうだったからだ。けれど頭の中では、次のごみの日のことがもう浮かんでいた。何をどこまで洗って、どんなふうに畳んで、何時に持っていけばいいのか。考えるだけで、まだ来ていない朝に先に疲れた。 次に何を捨てるかより、次に何を見られるかのほうが気になった。  二度目のごみの日の朝、百合子は目覚ましが鳴る前に起きた。

 まだ暗さの残る台所で、流しの水が冷たく響く。前回より丁寧にやろう、と自分で決めたわけではない。だが手は勝手にそう動いた。食品トレーはもう一度洗い直し、牛乳パックは角まで開いて乾かし、ペットボトルのキャップを確認し、汚れのついたプラスチックは燃えるごみへ分ける。紙ごみはまとめ、紐の結び方まで気にする。誰かに命じられたわけではない。けれど前回より減点されないように、という意識だけが、はっきり身体に入っていた。

 そのことに気づいたとき、百合子は一瞬、手を止めた。

 こんなことをしても、褒められるわけではない。ただ言われないためだけに、朝の時間と神経を余計に使っている。しかも、その「言われない」が安心ではなく、採点を一回やり過ごしたという感覚でしかないことまで分かっていた。

 袋の口を結ぶ。見やすいように、という言葉を思い出し、ぎゅっと締めすぎないようにする。中身が見えることが望ましいのか、見えすぎない方がいいのか、その答えは結局どこにも書いていない。百合子は、自分がごみ袋ではなく、誰かの目に対する態度を整えているのだと思った。

 今回は仁が「一緒に行こうか」と言ったが、百合子は「大丈夫」と首を振った。一人で行った方が気が楽というわけではない。ただ、二人で行くと余計に「若草家」として見られる気がした。

 ごみ置き場には、前回と同じようにいくつか袋が並んでいた。百合子は深く考えすぎないように、自分の袋を置いた。位置、向き、結び目。意識しないようにするほど意識しているのが分かる。

 だが、何も起きなかった。 窓が開く音もしない。誰も声をかけてこない。庭先に人影はあっても、こちらに興味を示す様子はない。百合子は袋を置いて、そのまま帰ってきた。  それでよかったはずなのに、家へ戻ったあと、胸のあたりに残ったのは安堵ではなかった。

 ようやく今回は減点されなかった、という気分だった。

 それがいちばん嫌だった。

 手を洗いながら、百合子は妙な疲労感を覚えた。ごみを出しただけだ。重いものを運んだわけでも、誰かと長く話したわけでもない。なのに、朝のうちに一日のどこかをもう使い切ってしまったようなだるさがあった。流し台の水が指先から流れていくのを見ながら、ここでは何かを正しくすることより、間違って見られないことの方が重いのだと思った。

 褒められたわけでもないのに、採点だけは終わった気がした。

 その夜、台所のごみ箱が目に入ったとき、百合子はまた立ち止まった。  ごみ箱の中には、野菜の皮、使い終えた包装、子どもが破ったプリントの切れ端、ティッシュ、乾いた茶葉。どこの家にもある、ただの生活の痕跡だった。以前なら、そこにあるものはそのまま「もういらないもの」でしかなかった。けれど、いまは違う。それが次に袋へ移され、外へ出され、誰かの目に触れるものとして先に見えてしまう。

 何を食べたか。どんな買い物をしたか。子どもがどんな紙を持ち帰ったか。忙しかったのか、余裕があったのか。そういうものが、ひとつの袋に入る。もちろん、そこまで細かく誰も見ていないのかもしれない。見ていたとしても、いちいち判断しているわけではないのかもしれない。だが、一度そういう目があると分かってしまうと、ただ捨てるという動作が成立しなくなる。

 仁が後ろから来て、ごみ箱のふたを閉めた。

「今日は何も言われなかったんだろ」 「うん」 「ならよかったじゃないか」  百合子は、その「よかった」にすぐ頷けなかった。

 よかった、のだろうか。何も言われなかったのは、前回より自分がうまくやったからなのか。それとも今回はたまたま誰も気にしなかっただけなのか。理由は分からない。  分からないまま、次も同じように気をつけるしかない。その構造がもう嫌だった。

「この土地ではさ」と百合子は、ほとんど独り言のように言った。「ごみって、ごみじゃないんだね」  仁が「え?」と聞き返す。 「その家のことなんだよ。たぶん」

 仁は何も言わなかった。否定しようとしても、翼の学校での一言がある以上、完全には退けられないのだろう。百合子はそれ以上続けなかった。  説明したところで、自分の感じている重さがそのまま伝わるとも思えなかった。  流しの横にあるごみ箱は、ただの容器のはずだった。それなのに百合子には、それが家の中に置かれた提出箱のように見え始めていた。毎日の暮らしの切れ端を入れ、いっぱいになったら袋へ移し、外へ出す。そうして家族の痕跡を、週に何度も共同体の前へ差し出しているような気がした。

 この土地では、捨てたものまで家族の履歴書になるのだった。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.

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