リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

第一章(全十章) 最初が肝心

- Posted in 地方移住の罠(九条レオン) by

谷野地区へ入る道は、地図で見るより細かった。

 若草仁は、ハンドルを握りながら、前方のカーブに目を凝らした。山の斜面を縫うように続く道は、舗装されているとはいえ幅に余裕がなく、対向車が来たらどちらかが待たなければならなそうだった。  ガードレールの向こうには、まだ色を残した冬の草が倒れ伏し、その下に用水路らしい黒い線が見え隠れしている。  三月の終わりにしては風が冷たく、曇った空のせいで、山影の色がいっそう濃く見えた。

 助手席で百合子が、スマートフォンの画面を消して膝に置いた。 「あと、どれくらい?」 「もう少し。たぶん次の橋を渡ったあたりだと思う」  仁はそう答え、ナビゲーションの画面に目をやった。表示された細い線は、まるで誰かが迷いながら鉛筆で引いたみたいに頼りない。都市部なら、ここで一本裏道に入っても大差ないと思えるような狭い道でも、このあたりでは一本違えばまったく別の場所へ行ってしまいそうだった。  後部座席では、翼が窓の外を見たり、飽きたように膝を揺らしたりしていた。小学校高学年の体は、もうチャイルドシートに納まる年ではないが、荷物に挟まれた狭い席でずっと同じ姿勢を取らされるのは退屈に違いなかった。隣ではレナが半分眠っていて、ときどき頭が揺れるたびに目を開け、何が起きたのか分からないような顔をしてまたまぶたを下ろしていた。

「静かだね」 百合子が言った。  ただの感想のようでもあり、確認のようでもあった。仁は、あえて明るい調子で返した。 「いいだろ。夜なんか、きっともっと静かだよ。子どもには悪くない環境だと思う」  そう言いながら、自分でもその言葉が、百合子に向けた説明である以上に、自分自身に向けたものでもあると分かっていた。

 都会のマンションを引き払って、家族で地方へ移る。画面の中なら、いくらでも整った言葉で言い表せる選択だった。自然の近くで暮らす。  子どもをのびのび育てる。少し広い家に住む。通勤は多少不便になるが、そのぶん生活の密度は下がる。人の多さに押しつぶされる毎日から、少し距離を取る。  そうした理由は一つ一つ嘘ではなかったし、だからこそ仁は、この移住を失敗だと思いたくなかった。

 けれど、谷野へ近づくほど、景色は「自然が豊か」という言葉だけでは足りない別の表情を見せ始めていた。山に囲まれている、というより、山に挟まれている。家々の間に余白はあっても、空気に開放感がない。広いというより、閉じている。道ばたの電柱、低い屋根、畑の脇に積まれた黒い肥料袋、集落の入口に立つ色褪せた看板。  目に映るものはどれも大げさではないのに、よそから入ってくる側の背筋を、わずかに伸ばさせる何かがあった。

 翼が、窓に額を寄せたまま言った。 「店とか、ほんとにないね」 「そのうち慣れるよ」と仁は言った。「車で出ればあるだろ」 「コンビニも見てないけど」 「さっき一軒あっただろ」 「二十分前のやつ?」  翼の言い方に、百合子が小さく笑う。仁もつられて口元をゆるめたが、次の瞬間、対向から軽トラックが現れ、思わずハンドルを左へ寄せた。タイヤが路肩の砂利を踏んでざっと鳴る。  軽トラックの運転席にいた男が、ほんの一瞬こちらを見た。すれ違いざまに軽く会釈したようにも見えたが、それが挨拶なのか、よそ者を一瞥しただけなのかは分からなかった。

 車が通り過ぎたあとも、仁はしばらく肩に力を入れたまま走った。 「大丈夫?」と百合子が言う。 「大丈夫。狭いだけだよ」  それでも、指先には少し汗がにじんでいた。引っ越しの荷物を載せた車で、見通しの悪い山道を行く。それだけなら誰でも多少は緊張する。仁はそう思うことにした。

 やがて道の先に、小さな橋が見えた。欄干の白い塗装はところどころ剥げていて、橋の下の水は驚くほど細く浅かった。  橋を渡ると、道の脇に家がぽつぽつと現れ始めた。 古い瓦屋根の家、トタンの倉庫、畑の隅に並ぶ農機具。洗濯物は干されていないのに、人の暮らしの気配だけはどこにも薄く残っている。見えている家の数より、見ていない人の方が多そうだった。

「ここかな」  仁がナビゲーションを見て言った。画面上の到着予想時刻が消え、目的地の文字が固定される。

 少し先、坂をゆるく下った先に、今回借りる家が見えた。古いが、二階建てで、敷地は思っていたより広い。門柱はなく、道路からそのまま玄関まで土のままの空間が続いている。家の横には車を二台置けそうな余地があり、裏手には細い畑の名残のような場所も見えた。

「着いた」  口にした瞬間、仁の胸に、ようやく張りつめていたものが少し緩んだ。地図の上でしか知らなかった場所が、いま現実の家として目の前にある。それだけで、ひとまずは前へ進んだ気がした。  その安堵が形になる前に、百合子が窓の外を見たまま、小さく言った。 「……見てる」 「え?」  仁がそちらを見る。家の少し先、道が折れるところの脇に、人影があった。年齢も性別も分からない。畑の様子を見ているだけにも見えるし、こちらが来るのを前から知っていたようにも見えた。相手は仁たちと視線が合っても、あわてて逸らすでもなく、ただそこに立っていた。 ようやく着くと思ったとき、先にこちらへ気づいていた目があった。

 車を停め、エンジンを切ると、急に静かになった。 その静けさは、都市部で深夜に訪れるような、音が引いていく静けさではなかった。最初からそこにあって、人が入り込んでも揺らがない種類の静けさだった。  遠くで鳥の声がして、もっと遠くで何かの機械音がかすかに続いている。それでも全体としては、音より空気の方が前に出ていた。

「着いたの?」  レナが目をこすりながら言う。 「着いたよ」 百合子が振り向いて答え、レナの髪を撫でた。

 翼は先にドアを開け、外へ出た。伸びをして、周囲を見回す。その顔に、期待と警戒が半分ずつ乗っているように仁には見えた。

 仁も車を降りた。地面は昨日の雨が乾ききっていないのか、土が少し柔らかい。家を見上げると、古さはあるが、住めない感じではない。窓枠の塗装は剥げているし、軒下の一部は色褪せていたが、それでも、都会で同じ予算なら到底手に入らない広さだった。玄関脇に小さな鉢がひとつだけ置かれていて、誰が置いたのか分からない枯れかけの草が入っていた。

「思ったより悪くないな」 仁は、半分は本心で、半分は家族に聞かせるために言った。

 百合子は返事をせず、先に玄関の鍵を開けた。 扉が少し重く、開けると中から乾いた匂いが流れてくる。長く無人だった家の匂い、というほどではない。けれど、誰かの生活が終わったあと、まだその輪郭だけが床や壁に薄く残っているような匂いだった。

 レナが「ひろい」と言って先に上がろうとし、百合子が「まだ靴」と制した。翼はすでに玄関から覗き込んでいて、「二階あるじゃん」と声を弾ませた。仁は、それを聞いて少しほっとした。子どもがまず広さに反応してくれるなら、悪い出だしではない。

 荷下ろしを始めると、時間はすぐ形を失った。段ボールを降ろし、必要なものを玄関先に寄せ、寝具を運び、台所用品の箱を分ける。仁が車と玄関を行き来するあいだに、百合子は家の中をざっと見て回っていた。水は出るか、ガスの立ち会いの時間は間に合うか、台所の棚はどれくらい使えるか、子どもたちをどの部屋に入れるか。仁が「思ったより悪くない」と家そのものを見ている間に、百合子はもう、ここで生活を立ち上げる段取りを考えているのだと分かった。  ところが、その段取りに集中するには、妙に視線が多かった。

 向かいの家の二階の窓。少し離れた道路脇で止まった軽自動車。さっき見たのとは別の軽トラック。通りすがりを装ってこちらを見ていく人影。どれも、はっきり見張っているわけではない。新しく越してきた家族がいれば、そりゃ気になるだろう、と言われればそれまでの程度の視線だった。けれど、それが一つではなく、荷物を運ぶたびに違う場所から現れると、家に着いたはずなのに、まだどこかへ到着できていない気分になった。

「この箱、台所?」  仁が持ち上げた段ボールを示すと、百合子が「うん」と答える。その返事のあと、彼女は少し声を落として言った。 「なんか、落ち着かないね」 「珍しいんだよ。引っ越しなんて、ここじゃ目立つだろ」 「そういうのじゃなくて」 百合子はそこで言葉を切り、視線だけで道路の方を示した。

 仁も分からないわけではなかった。ただ、ここで百合子の違和感に深く同意すると、この家に最初の足を下ろした瞬間から「失敗かもしれない」という話になってしまう。それだけは避けたかった。 「最初だけだよ」  仁は箱を抱え直しながら言った。「こっちも顔覚えてもらわないといけないだろうし」

 翼が玄関の内側から言った。 「さっきからずっと誰か見てるけど」 「気にしなくていい」 「でも見てるじゃん」  子どもの口からそのまま言われると、逆に過敏な話題にしたくなくなる。仁は、苦笑いでごまかすように肩をすくめた。 「見られるのは最初だけ。こっちだって向こう見てるだろ」

 自分で言って、少し薄い理屈だと思った。そのとき、玄関の中から鈍い物音がして、レナの「これなに」という声がした。百合子がすぐそちらへ向かう。 仁も続こうとしたところで、背後から電子音が鳴った。  インターホンだった。 荷物より先に、この家に届いたのは人の気配だった。

 扉を開けると、明るい声が先に入ってきた。 「こんにちは。お引っ越し、お疲れさまです」  立っていたのは三十代後半から四十代前半くらいに見える女だった。濃すぎない化粧、整えられた髪、気取りのない服装。片手に紙袋、もう片方の腕に回覧板らしいバインダーを抱えている。笑顔に嫌味がなく、立ち方もあくまで自然で、こちらが身構える隙を作らない。

「清水みゆきです。すぐ隣ではないんですけど、すぐそこの班で。区長のところの嫁です」  言いながら軽く頭を下げる。その名乗り方に慣れがあった。相手にとって何が分かりやすいか、どの順で言えば場が滑らかに始まるかを、考えなくても分かっている人の話し方だった。 「あ、どうも。若草です」 仁もあわてて頭を下げた。 「本当はもっと早く来たかったんですけど、引っ越しの最中だろうなと思って。これ、よかったら。ほんの気持ちだけ」  差し出された紙袋は、まだ温かかった。中から味噌の匂いと、何か煮た野菜のやわらかな匂いがする。百合子が後ろから来て、仁の横に立った。

「ありがとうございます」と百合子が言う。 「いえいえ。最初って大変ですもんね。台所、今日中に全部は整わないだろうし」  その言い方はまったくもっともで、押しつけがましさがない。仁は素直にありがたいと思った。引っ越しの日の食事ほど面倒なものはない。受け取る理由として十分すぎた。

 みゆきは玄関の内側をちらりと見て、すぐ視線を戻した。見すぎない程度に見ている、その加減がうまかった。 「お子さん、二人でしたよね。男の子と女の子」 百合子が、一瞬だけまばたきをした。 「はい」 「やっぱり。学校の話、ちょっと聞いてたので。上のお兄ちゃん、翼くん? 四年生でしたっけ」 「五年です」  答えたのは翼だった。廊下の奥から、半分だけ顔を出している。 「そうそう、ごめんね、五年生か。下はレナちゃんで、まだ小さいんですよね?」  レナは百合子の足元から相手を見上げて、なにも言わなかった。 「かわいいねえ。慣れるまで大変だけど、このへん、子どもはわりとすぐ顔覚えられるから」

 にこやかにそう言ってから、みゆきは回覧板を持ち上げた。 「それで、これが班の回覧板です。まだ引っ越したばっかりで頭に入らないと思うんですけど、行事とか当番とか、だいたいここに入ってるので。あと、分からないことがあったら、ほんと聞いてください。ゴミとか、学校とか、学童とか」 「助かります」と仁が言う。「まだ全然分からなくて」 「ですよねえ。お仕事も、もうこっちから通われるんですか?」

 自然な流れだった。会話の中で出てもおかしくない問いだったし、助けが必要かどうかを確かめる意味にも見える。 「ええ、しばらくは車で」と仁は答えた。「ちょっと遠いですけど」 「大変ですね。朝早いですか?」 「まあ、そこそこ」 「じゃあ百合子さんが送り迎えですか?」  百合子は、ごく短く「はい」と答えた。 「お仕事はされてるんですか? それとも、しばらくは家のこと中心で」 「今はまだ、家のことを」 「そうなんですね。じゃあ慣れるまで大変だ。車は二台でしたっけ?」

 ここまで来て、仁はようやく、みゆきの質問がひとつの方向へ揃っていることに気づいた。仕事、出勤時間、送り迎え、就労、車の台数。家族の生活の動きが、会話の中で次々と輪郭を持っていく。  けれど、その輪郭を取る手つきがあまりに柔らかいために、いやらしさが前面に出ない。詮索されている、とは言い切れない。 助けるために必要な範囲を知ろうとしているだけだ、と解釈しようと思えばできてしまう。

「二台です」と仁は答えた。 「よかった。このへん、車ないとどうにもならないから。あ、でも夜はほんと静かですよ。最初は暗いなって思うかもしれないけど、すぐ慣れます」 「そうなんですね」 「あと、うちの班、みんなわりと気にかけてくれるんで。困ったことあったら遠慮なく。あ、学校のことなら先生の雰囲気とかも分かるし、学童も、誰がどこまで預けてるかとか」

 言葉は親切だった。実際、この土地に先に暮らしている人がそういう情報を持っているのは心強いはずだった。なのに、百合子の横顔は、礼儀を崩さないまま、ほんの少しだけ硬かった。

 みゆきは、その硬さに気づいていないのか、気づいても出さないのか、変わらない笑顔のままで続けた。 「若草さんたち、どこから来られたんでしたっけ。都内の方?」 「前は都内です」と仁が答える。「駅の近くで」 「ああ、じゃあ全然違いますねえ。このへん、不便は不便だけど、慣れたら静かでいいですよ。子どもにはいいし」  最後の一言に、仁は少し救われるような気がした。自分たちがここへ来た理由を、外からも肯定してもらえた感じがしたからだ。

 その一方で、百合子は、みゆきの目が一度も空回りしていないことを感じていた。子どもの年齢、学校、親の就労、車、生活時間。聞いた情報を、相手の前で整理しすぎない程度に、きちんと持ち帰る人の目だった。  翼は黙ってそのやりとりを見ていた。子ども特有の無遠慮さで口を挟むわけでもなく、ただ、母親の表情が少しずつ変わっていくのを見ていた。  ひとしきり話したあと、みゆきは回覧板を玄関脇の棚に置いた。 「じゃあ、ほんと、今日は忙しいでしょうし。あとでまた班の人も顔出すかもしれないですけど、びっくりしないでくださいね。最初だけだから」  そう言って笑う。その笑い方は軽く、冗談めいていた。 「ありがとうございます」  仁が頭を下げると、みゆきも笑顔のまま一歩下がった。 「こちらこそ。よろしくお願いします」

 明るい声が帰ったあと、訊かれたことだけが部屋に残った。 紙袋を開けると、味噌汁の入った容器と、煮物の小鉢がきれいに包まれていた。まだあたたかく、湯気こそ立っていないが、ついさっき火を止めたばかりのような匂いがした。

「ありがたいね」と仁は言った。  それは本当にそうだった。引っ越しの日の夕食を一品でも人が用意してくれている、そのありがたさを否定する理由はなかった。

 百合子は「うん」とだけ答え、容器のふたを確かめたあと、台所の流しにそっと置いた。新しい家の台所は、まだどの引き出しに何を入れるかも決まっていない。段ボール箱が足元にあり、布巾も食器も仮置きのままだ。 その中に、よそから来た容器だけが先に場所を取っているのが、妙に目についた。

 回覧板を開くと、班の名前、連絡事項、行事予定、清掃当番、防災訓練、資源ごみの日程、祭りの準備、草刈り予定などが何枚もの紙に挟まっていた。名前の並びは手書きで補足されていて、若草家の欄にはすでに「転入」と書き足されている。誰かが、彼らが来る前から、ここに名前を入れる準備をしていたのだ。 「けっこうあるな」  仁がページをめくりながら言う。「でもまあ、こんなもんか」 「こんなもん?」百合子が聞き返す。 「いや、地区の行事とか。田舎ならあるだろ」 「そうじゃなくて」  百合子は回覧板の端に指を置いたまま、そこに載っている名前の列を見ていた。

「まだ引っ越してきたばっかりなのに、もう最初から入ってる感じがしない?」 「班に入るんだから、そりゃ入るだろ」 「そういう意味じゃなくて……」

 百合子は言葉を探すように少し黙った。「なんていうか、家に入る前から、もう向こうの中に入れられてる感じ」  仁は、すぐには返せなかった。分からないわけではない。ただ、その感覚を正面から認めてしまうと、さっきの親切まで別のものに見え始める気がした。 「最初が肝心なんだよ、たぶん」  仁は回覧板を閉じながら言った。「こっちが感じよくしてれば、向こうもやりやすいだろうし」 「感じよく、ね」  百合子は声を荒げたわけではない。ただ、その短い繰り返しの中に、納得していないことだけははっきり含まれていた。

「だって、さ」と彼女は続けた。「子どものこととか学校とか、まだ分かるよ。でも仕事とか、何時に出るとか、車何台とか、あそこまで最初に聞く?」 「会話の流れだろ」 「流れであそこまで揃う?」  仁はそこで、答えに詰まった。正直に言えば、少し揃いすぎていた気もした。けれど、だからといって今すぐそこを問題にするほどのことかと言われれば、まだそうとも言い切れない。 「考えすぎじゃないか」 結局、そう言うしかなかった。

 百合子は反論しなかった。そのかわり、回覧板の紙をもう一度見た。そこに載っているのは名前だけのはずなのに、彼女にはそれが名簿ではなく、見えない座席表のように見えていた。どこに誰がいて、自分たちはこれからどこに座ることになるのか。その位置は、まだ自分たちが決めていないのに、向こうはもう知っているような気がした。

 歓迎されているはずなのに、百合子には名簿の中へしまわれた気がした。 そのあとも、家はなかなか閉じなかった。

 荷解きを再開して一時間も経たないうちに、また声がかかった。 今度は、みゆきではない年配の女が、畑で採れたという青菜を新聞紙に包んで持ってきた。言うことはほとんど決まっている。 「引っ越しで大変でしょう」「何もないとこだけどよろしくね」「困ったら言ってね」。 善意として受け取るのに無理のない言葉ばかりだった。

 その少しあとには、道路の向こうから男が軽トラックを止め、「今度の掃除のこと、回覧に入ってるから見といて」と窓越しに声をかけてきた。名乗りはしたが、仁には一度で覚えきれなかった。相手は仁が覚えられないことも分かった上で、すぐに「まあそのうち」と笑った。その笑い方の中に悪意はなかった。ただ、こちらの生活が始まるより先に、向こうの予定が家の中へ入ってくる感覚だけが残った。

 さらに夕方近くになると、また別の家の人が、畑の大根を二本置いていった。「うちじゃ食べきれないから」。それもまた、断る理由のない好意だった。

 声をかけられるたび、仁は手を止めて玄関へ向かった。いちいち応対するのは疲れたが、ここで無愛想にするわけにはいかないと思った。最初だけだろう、という言葉を、彼は何度も心の中で使った。  最初だから。引っ越してきたばかりだから。向こうも悪気はない。ここで感じよくしておけば、あとがやりやすい。そうやって一つ一つ納得していくしかなかった。

 しかし百合子にとっては、納得より先に、生活の立ち上がりが遅れていくことの方が現実だった。台所の棚を拭きたい。子どもの着替えを出したい。寝る場所だけでも整えたい。そういう「家の中を家にする仕事」が、来客のたびに切れる。  玄関が開くたび、自分たちのペースが途中で外へ引っぱられる。丁寧に応対しながら、百合子は、自分たちの一日がまだ始まってもいないことに焦っていた。

 翼は何度目かの「どこから来たの」に、露骨に飽きた顔を見せ始めていた。答えれば答えるほど、自分がこの家の子どもではなく、「外から来た家族の長男」という説明の一部にされていくようで嫌だった。  レナは逆に、人が来るたび少しはしゃぎ、紙袋の中身を覗きたがったり、もらった野菜を触りたがったりした。その無邪気さが、この場の空気にいちばん自然に馴染んでいるようにも見えた。

 夕方になって、ようやく玄関を閉められる時間ができたとき、家の中には段ボール、差し入れ、回覧板、見知らぬ人の名前、次の予定、そして応対に使った微笑みの残りが散らばっていた。 戸は閉まったのに、家のなかだけがまだ外の続きだった。

 夜になって、子どもたちがようやく静かになるころには、家の中の最低限の形だけはどうにか整っていた。寝具を敷き、歯ブラシを出し、明日の朝に必要なものを手の届くところへ移す。台所はまだ半分段ボールのままだが、もらった味噌汁と煮物のおかげで、夕食は思っていたよりずっと楽に済んだ。

それでも、一日が終わったという感じは薄かった。

 翼は二階の部屋を自分の場所にできるかどうかだけ確認して、すぐ布団にもぐり込んだ。  レナは途中まで起きていたが、歯を磨いているうちにまた眠そうになり、そのまま百合子に抱えられるようにして寝室へ入っていった。

 ようやく居間に二人きりになると、仁は座ったまま大きく息をついた。疲れていた。肉体的にも疲れていたが、それ以上に、一日じゅうどこかに肩を張っていたような疲れ方だった。 「今日はさすがに疲れたな」 「うん」  百合子は短く答え、流し台の脇に置いた容器を見た。洗うのは明日にしようと思っているのか、そのまま伏せてある。 「でも、感じのいい人たちで助かったよ」  仁がそう言うと、百合子は椅子を引いて座った。

「感じはいい」 「だろ?」 「でも、近い」  仁は笑って受け流そうとしたが、百合子の顔が真面目なままだったので、そのまま口を閉じた。

「親切なのは分かる」と百合子は言った。「分かるけど、あの人、最初から知りたいことがちゃんと決まってる感じしなかった?」 「清水さん?」 「うん」 「生活しやすいように聞いてくれただけじゃないのか」 「だとしても、なんか……」 百合子はうまく言葉にできないようで、手元のコップを指で回した。

「普通、引っ越し初日にあんなに揃えて聞くかなって思ったの。仕事のこと、車のこと、子どものこと、学童のこと。悪い言い方したくないけど、聞き方が上手すぎるっていうか」 「世話焼きなんだろ。ああいう人、いるじゃん」

「いるよ。でも、世話焼きっていうより、最初に必要なこと全部取っていく感じだった」  仁は、そこまで言われて初めて、自分も少し似た印象を受けていたことを思い出した。だが、それを認めると、今日は一日ずっと正しい対応をしてきたつもりの自分の足場が少し崩れる気がした。

「田舎って、こんなものじゃないか」  そう言うと、百合子はすぐには返事をしなかった。 「そうかもしれない」と彼女はやがて言った。「でも、こんなもの、で済ませていいのかなって思ってる」  仁は、その言葉のあとに続くものを待ったが、百合子はそれ以上は言わなかった。神経質に騒ぎ立てたいわけではないのだと分かった。むしろ逆で、騒ぎ立てるほどの何かがまだ起きていないからこそ、言葉にしづらいのだろう。 「最初に悪く思わない方がいいよ」と仁は、できるだけ柔らかく言った。「こっちだって、まだ何も分かってないんだし」

 百合子は「そうだね」と答えた。その返事は反論ではなかったが、納得でもなかった。

 会話はそこで途切れた。遠くで犬の鳴く声がして、しばらくしてまた静かになる。都市部の夜なら、完全に音が切れることはない。 どこかで車が走り、人が歩き、エレベーターが動く。その薄い生活音が、逆にこちらの暮らしを守ってくれていたのだと、仁はそのとき初めて少し思った。  ここでは静けさが厚く、音がないぶん、わずかな物音や気配の方が強く感じられる。

 百合子は先に寝室へ行った。仁は一人残って、まだ開けきれていない段ボールをなんとなく眺めた。  ふと、スマートフォンを手に取る。通知は引っ越し業者からの完了連絡と、仕事関係の短いメッセージが一件だけだった。たいしたものではないのに、なぜか画面を見たあともしばらく気が休まらなかった。

 知らない土地の最初の夜なのに、静けさだけが休ませてくれなかった。

 寝る前に、仁はもう一度だけ居間を見回した。  回覧板が棚の上にある。差し入れの容器が流し台にある。開けかけの段ボールが積まれ、その横に、今日もらった青菜と大根が立てかけてある。  新居に運び込んだはずの自分たちの荷物と、今日この家へ外から持ち込まれたものとが、もう区別しにくくなり始めていた。

 窓の外を見ると、向かいの家の明かりがまだ点いていた。外灯の白い光が、庭先の土をぼんやり照らしている。誰かがこちらを見ているわけではない。  けれど、見られようと思えば見られる距離だと分かる。それだけで、カーテンを閉める手つきが少し早くなった。

 考えすぎだ、と仁は自分に言った。百合子も疲れているのだろう。自分も引っ越しで神経が尖っているだけだ。親切を親切として受け取れないのはよくない。 ここでうまくやると決めたのだから、最初から疑ってかかるべきではない。

 そう頭で並べた理屈は、どれも間違っていないはずだった。

 それでも、床に置かれた回覧板と、流しにある容器と、まだ片づかない段ボールを同じ部屋で見ると、この家の中心がもう自分たちだけのものではないような気がした。

 越してきたばかりの家なのに、もう誰かの目が住みついている気がした。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.