リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 満開の桜の下に立つとき、私たちは花だけを見ているのではないのかもしれない。風が吹けば何枚かの花びらが枝を離れ、まだ盛りのただ中にあるはずの桜に、すでに終わりの気配が宿っていることに気づく。美しいと思う心のどこかに、もうすぐこの景色が失われるという予感が混じるからこそ、咲き誇る桜だけでなく、散り始めた桜までもが深く胸に残る。

 人は、なくなってから初めて大切さを知ることがあるが、不思議なのは、まだそこにあるものに対しても、その喪失を先取りするような感情を抱くことである。子どもの成長を喜びながら、昨日までの幼さが消えていくことを寂しく思い、久しぶりに故郷を歩けば、昔と変わらない道を見ながら、同じ時間にはもう戻れないことを知る。何かが存在しているその瞬間に、私たちはしばしば「いつか失われる」という影まで同時に見ている。

 江戸時代の国学者、本居宣長が古典文学を通して深く考えたのも、このように物事に触れたときに生まれる人間の心の動きだった。宣長は、人間はどうあるべきかという規範だけで文学を読むのではなく、人が喜び、悲しみ、恋しがり、懐かしみ、ときには理性では割り切れない思いに揺れることそのものに目を向けた。その考えを理解するうえで中心となる言葉の一つが、「もののあはれ」である。

「あはれ」とは、悲しみだけの名前ではない

 現代の「あわれ」という言葉からは、かわいそうな人を見たときの同情や悲哀が連想されやすい。しかし宣長が論じた「あはれ」は、それほど狭い感情ではなかった。『石上私淑言』などに示された説明を見ると、人が物事に触れて深く心を動かされることそのものが「あはれ」と結びつけられており、悲しさだけでなく、うれしさ、恋しさ、懐かしさなどもそこに含まれる。

 たとえば、何十年ぶりに子どものころ住んでいた町を訪れたとする。昔と同じ道が残っていても、角にあった店はなくなり、空き地には家が建ち、かつて大きく見えた坂道は驚くほど短く感じられるかもしれない。そのとき胸に浮かぶものは、単純な悲しみでも単純な喜びでもなく、懐かしさとうれしさと寂しさが重なり、町が変わったのか、自分が変わったのか、簡単には切り分けられない感情になる。

 宣長が考えた「あはれ」は、そのように一語では整理しにくい心の動きを含んでいる。「もの」とは物体だけではなく、人間、出来事、季節、恋、別れ、そして時間の移ろいまでを広く指し得るため、「もののあはれ」は、世界の出来事に触れた心が、その意味を深く感じ取る働きとして理解することができる。

 ただし、「もののあはれ」を「無常を悲しむ感情」だけに狭めてしまうのは正確ではない。桜が散ることや夕暮れが消えていくことは、その感覚を説明する象徴的な例にはなるが、宣長のいう「あはれ」は、喜びや恋しさまで含んだ、より広い感情の領域に及んでいる。

宣長が『源氏物語』に見いだしたもの

 宣長が「もののあはれ」を考えるうえで特に重要視した作品が、『源氏物語』だった。

 現代の感覚から読めば、光源氏をはじめとする登場人物の行動には、倫理的にそのまま肯定できないものが少なくない。恋愛関係は複雑であり、誰かを傷つけながら自らも傷つき、ときには理性では説明しにくい選択を繰り返す。

 しかし宣長は、『源氏物語』を儒教や仏教の道徳基準によって単純に裁こうとはしなかった。誰が善人で、誰が悪人であるかを判定することよりも、人がある状況に置かれたときにどのような感情を抱き、その感情がどのように揺れ動くのかを描き出すことに、物語の重要な働きを見ていた。

 その意味で、宣長にとって文学は、登場人物を裁くための法廷ではなかったと表現することができる。ただし、これは宣長自身の言葉ではなく、その文学観を現代的に言い換えた表現である。重要なのは、人間の行為を理解することと、その行為を道徳的に肯定することとは別であるという点であり、宣長の『源氏物語』論は、この違いを考える手がかりを与えてくれる。

 人間は、正しいことだけをして生きる存在ではない。好きになってはいけない相手を好きになり、忘れたほうがよいと分かっていても忘れられず、理性では整理できない思いに引きずられることがある。『源氏物語』が描くのは、そのように自分の心さえ思いどおりにできない人間の姿であり、宣長はそこに文学の価値を見いだした。

「正しい心」だけでは、人間は見えてこない

 道徳や宗教や哲学は、長い間、人間がどのように生きるべきかを考えてきた。それは社会を成り立たせるために必要な問いであるが、「どう生きるべきか」だけを考えていると、「実際の人間はどのように感じ、どのように迷うのか」という問題がこぼれ落ちることがある。

 人は、忘れようとしても忘れられず、捨てる必要がないと分かっていても古いものを手元に残すことがある。亡くなった人からの手紙、昔の家の鍵、長年使った時計、何十年も前の写真などは、経済的な価値だけを見れば重要でないものかもしれないが、その物に時間と記憶が積み重なれば、別の意味を持ち始める。

 新しい時計は古い時計より正確かもしれないが、二十年間使った時計と同じ意味にはならない。新しい町は便利かもしれないが、幼いころ歩いた路地と同じ場所にはならない。物の実用的価値と、その物に結びついた時間や記憶の価値は、同じ尺度では測れないのである。

 宣長の思想が現在も読まれる理由の一つは、人間を合理的な判断だけで説明しきろうとしなかったところにある。私たちは考える存在であると同時に、思い出し、惜しみ、恋しがり、ときには理由を説明しきれないまま心を動かされる存在でもある。

なぜ、散るものに心を動かされるのか

 「もののあはれ」を現代の私たちが理解しようとするとき、時間の問題は避けて通れない。人が深く心を動かされるものの多くは、同じ姿のまま永遠には存在しないからである。

 春の桜、秋の紅葉、夕暮れ、子どもの成長、若さ、恋、そして人生そのものも、同じ状態にとどまり続けることはない。もし桜が一年中咲き続けていたなら、春を待つ気持ちは現在と同じだろうか、もし夕焼けが何時間も同じ色のまま続いていたなら、私たちは今ほど足を止めて空を眺めるだろうかと考えると、変化や有限性が美的感情に関わっていることは理解しやすい。

 日本の文学や芸術の一つの大きな流れには、盛りそのものだけでなく、盛りが過ぎていく瞬間や、変化していくものに美を見いだす感覚が繰り返し現れてきた。咲き誇る桜だけでなく散る桜が歌われ、昼の明るさだけでなく夕暮れが愛され、若さだけでなく老いや古びたものにも味わいを見いだそうとする表現が積み重ねられてきた。

 ただし、それをもって「日本文化とはすべて無常を愛する文化である」と一般化することはできない。日本文化の中には、永続性、力強さ、華麗さ、祝祭性を重んじる表現も数多くあり、「もののあはれ」は日本文化を構成する一つの重要な感性であって、その全体を一語で代表するものではない。

 それでも、変化していくものに目を向け、その変化の中で生じる感情を文学の重要な対象としたという点で、宣長の「もののあはれ」論は、日本の古典文学を理解するうえで大きな意味を持っている。

「日本人の感情」と呼ぶことの危うさ

 ここで慎重に考えなければならないのは、「もののあはれ」をそのまま「日本人だけが持つ特別な感情」と理解することである。

 恋することも、別れを惜しむことも、老いを恐れることも、昔を懐かしむことも、日本人だけに見られる感情ではない。世界各地の文学や芸術には、喪失、恋愛、懐旧、死、時間の経過といった主題が繰り返し現れており、それらに対して心を動かされること自体は、人間に広く見られる経験である。

 現代の文化心理学でも、人間の感情には文化を越えて共有される側面がある一方で、どの感情に名前を与え、どのように表現し、どのような場面で重要なものとして扱うかには、文化的な差が存在すると考えられている。そのため、「もののあはれ」を日本人だけの特殊な感情とみなすよりも、人間に広く見られる感情経験の一部を、日本の古典文学が特に細やかに捉え、独自の言葉と表現によって育ててきたものと考える方が慎重である。

 宣長自身は、日本の古典を中国由来の思想から切り離し、日本固有の言葉や心のあり方を明らかにしようとした国学者であり、現代的な意味で普遍的人間論を唱えた思想家ではない。そのため、「宣長は人類共通の感情を研究していた」と言い切るのは正確ではないが、宣長が日本の古典から見いだした感情の働きの中に、現代の私たちにも理解できる普遍的な部分を読み取ることはできる。

合理性だけでは捉えられないもの

 仕事、行政、経済、医療など、現代社会の多くの場面では、客観的な情報や合理的判断が必要とされる。人口の減少は統計によって測ることができ、地域経済の変化は売上高や地価、事業所数などの数字によって分析することができる。

 しかし、一つの学校が閉校するとき、その意味を児童数の減少だけで説明することはできない。そこを卒業した人にとっては、自分の記憶を預けていた場所がなくなることでもあり、商店街から一軒の店が消えることも、経済統計の上では売上や事業所数の変化であっても、長年そこに通った人にとっては日常の一部が失われる出来事になる。

 数字は社会の構造を理解するために不可欠だが、その構造の中で人間が何を感じるかまで自動的に説明してくれるわけではない。反対に、感情だけで社会を考えれば、人口減少や経営悪化といった現実を正確に把握することもできないため、必要なのは数字か感情かという二者択一ではなく、数字によって現実を知り、感情によってその現実が人間にとってどのような意味を持つのかを知ることだろう。

 そのように考えると、「もののあはれ」は現代社会の分析手法ではないものの、人間の経験には数量化しにくい側面があることを思い出させる考え方として読むことができる。

記録できる時代に、なぜ私たちは懐かしむのか

 本居宣長が生きた時代と現在では、記憶を残す方法が大きく違う。今では子どもの成長を何千枚もの写真や動画に保存することができ、昔住んでいた町の風景も映像として残せるうえ、遠く離れた人とも瞬時に連絡を取ることができるため、かつてより多くのものを失わずに済むようになったようにも見える。

 ところが、記録が増えても懐かしさは消えない。十年前の写真を見れば、その日の服装も表情も背景も確かめることができるが、その日の午後そのものへ戻ることはできず、映像は残っても時間は戻らないからである。

 むしろ、記録が鮮明であるほど、戻れなさがはっきりすることさえある。幼い子どもの動画を見れば、声も動きもそのまま残っている一方、画面を閉じたときには成長した姿が目の前にある。そのとき感じるうれしさと寂しさが入り混じった感情は、宣長のいう「あはれ」を現代の生活の中で考える一つの手がかりになる。

 もちろん、宣長が写真や映像の時代を想定していたわけではない。ここで語っているのは、宣長の思想を現在の経験に重ね合わせて読む試みであり、それを宣長本人の主張と混同する必要はない。

「もののあはれ」を、愛着の思想として読む

 「もののあはれ」という言葉には、どうしても寂しさがつきまとうため、無常を嘆く悲観的な思想として受け取られることがある。しかし、現代の私たちの側から読み直してみれば、「もののあはれ」は失われるものへの愛着を見つめる思想として理解することもできる。

 別れが悲しいのは、その人と過ごした時間に価値を感じていたからであり、昔の町を懐かしく思うのは、そこで過ごした日々が自分にとって大切だったからである。子どもの成長をどこか寂しく思うのも、幼かった時間を愛していたからであり、悲しみや懐かしさは、しばしば何かを大切にしてきたことの裏側に現れる。

 ただし、「もののあはれとは愛着の思想である」と宣長自身が定義したわけではない。この表現は、宣長の感情論を現代の視点から読み直したときに可能になる一つの解釈であり、宣長の直接的な主張と区別しておく必要がある。

 それでも、いつか失われると知りながら、人は人に心を寄せ、町に愛着を持ち、物に思い出を重ねる。その人間の姿を考えるうえで、「もののあはれ」は今も豊かな言葉であり続けている。

花は散る。それでも人は、春を待つ

 人生を振り返るとき、人は意外なほど小さな場面を覚えている。大きな成功よりも、ある夕方の空の色を覚えていることがあり、何気なく交わした言葉を何十年たっても忘れず、昔住んでいた家の廊下の匂いや、夏の夕方に聞こえた虫の声が、不意に心の奥からよみがえることもある。

 なぜ、それほど小さな出来事が残るのだろうか。おそらく私たちは、人生を出来事の大きさだけではなく、心が動いた瞬間によっても記憶しているからだろう。

 ある一日の価値は、その日に何を達成したかだけでは決まらない。誰かと笑ったこと、夕暮れがきれいだったこと、今ではもう会えない人と同じ食卓を囲んだことなど、そのときには何でもなかった瞬間が、後になって人生の奥深くに沈んでいることがある。

 本居宣長が日本の古典文学の中から見いだしたのは、こうした心の動きを考えるための一つの言葉だった。

 世界は、私たちを待ってはくれない。春は過ぎ、子どもは育ち、親は老い、町は姿を変え、昨日と同じ今日を望んでも、時間は静かに先へ進んでいくが、それでも人はときどき立ち止まり、散っていく花を見たり、昔の写真を開いたり、誰も住まなくなった家の前に立ったり、もう会えない人の声を思い出したりする。

 そのとき胸に浮かぶものは、単なる悲しみではない。そこには「あの時間が確かにあった」という喜びがあり、「もう戻らない」という寂しさがあり、それでも出会えてよかったという静かな肯定が重なっている。

 花が散るから、春が無意味になるわけではない。別れがあるから、出会いが無意味になるわけでもなく、むしろ終わりがあるからこそ、その時間がかけがえのないものとして感じられることがある。

 「もののあはれ」は、消えていくものをただ嘆くための言葉ではない。少なくとも現代の私たちは、そこに、移ろう世界の中で何かに心を寄せ、その価値を感じ取ろうとする人間の姿を読むことができる。

 今年も桜は散り、来年になれば人はまた桜を待つ。散ることを知っていながら、それでも春を待つという、その一見矛盾した心の動きの中に、「もののあはれ」を考える手がかりがあるのかもしれない。

 宣長が日本の古典の中から見いだした感情のあり方には、彼自身が考えた「日本の心」という歴史的な枠を越えて、現代の私たちにも理解できるものが残っている。

 失うことを知りながら、それでも何かを愛してしまう。その感情を、二百年以上を隔てた私たちもまた、自分自身の経験として読むことができるのである。

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 古典を読もうとして、最初の数行で本を閉じた経験のある人は少なくないだろう。そこに書かれているのは確かに日本語なのに、自分が毎日使っている日本語とは別の言語のように見える。「いとをかし」と書かれていても、それを「とても趣がある」と頭の中で変換しなければ、文章の向こう側にある風景までたどり着けない。千年前の日本人が見ていた月も、桜も、恋も、死も、私たちが知っているものと大きく違わないはずなのに、その間には分厚い言葉の壁が立っている。

 そこで現代語訳が登場する。難しい助動詞や古語を取り払い、現代の読者が理解できる文章へと置き換えてくれる現代語訳は、古典の世界へ渡るための橋のような存在である。しかし、その橋を渡って向こう岸へ着いたとき、私たちが見ているものは、本当に原作者が書いた世界なのだろうか。それとも、現代語訳者が再構成した別の風景を見ているのだろうか。古典の現代語訳には、作品を私たちに近づければ近づけるほど、かえって原作から離れてしまうという奇妙な矛盾が潜んでいる。

読めなければ、古典は存在しないのと同じになる

 どれほど優れた作品でも、読者に読まれなければ、その魅力は閉ざされたままである。『源氏物語』が世界文学の傑作だと言われても、原文を数ページ読むだけで疲れてしまうのであれば、多くの人にとってそれは「偉いらしいが読んだことのない本」で終わってしまう。学校教育で古典に触れながら、その後の人生では一度も読み返さない人が多いのも、作品そのものに魅力がないからというより、言語上の距離があまりにも大きいからだろう。

 現代語訳は、その距離を一気に縮める。光源氏は突然、教科書の中の人物ではなく、恋をし、迷い、嫉妬し、過ちを犯す一人の人間として現れる。『平家物語』の武将たちも、歴史年表の中の名前ではなく、栄華のただ中にいながら没落の影を背負った人々として見えてくる。『枕草子』を読めば、千年前の宮廷に生きた女性が、人間関係に機嫌を損ね、美しいものに心を奪われ、気の利かない振る舞いに苛立っていたことに気づく。こうした感情は現代人にもよく分かるからこそ、古典は突然、遠い昔の文化財ではなく、自分たちと地続きの文学になる。

 この意味では、現代語訳は間違いなく古典を現代人へ近づけている。翻訳がなければ閉じていた扉を開き、「昔の人もこんなことで悩んでいたのか」と読者に感じさせることができるからである。しかし、その瞬間から別の問題も始まる。私たちは本当に昔の人の声を聞いているのか、それとも現代人に分かりやすい声へと整えられたものを聞いているのかという問題である。

「意味」が同じでも、文章は同じではない

 古典を現代語へ移すとき、最初に失われやすいのは文章の音である。言葉には辞書的な意味だけでなく、長さ、響き、間、繰り返し、語順によって生まれる独特の呼吸がある。『平家物語』の冒頭が長く読み継がれてきたのも、そこに書かれた無常という思想が重要だからだけではなく、声に出したときの響きそのものが、栄えるものはやがて滅びるという感覚を身体へ伝えてくるからだろう。

 ところが、現代語訳では意味を正確に伝えようとするほど、その響きが失われることがある。原文では短い言葉の中に余韻が残っていたところへ説明を加えれば、意味は分かりやすくなる一方、読者が想像する空間は狭くなる。逆に説明を減らして雰囲気を残そうとすれば、今度は何を意味しているのか分かりにくくなる。このため現代語訳とは、単純に古い単語を新しい単語へ置き換える作業ではなく、何を残し、何を失うかを選び続ける作業なのである。

 たとえば、古語の「をかし」を一つの現代語に固定することは難しい。美しい、趣がある、面白い、心ひかれる、風情があるといった感覚が、その場面によって微妙に重なっているからである。それを「美しい」と訳せば分かりやすくなるが、その瞬間に「面白さ」や「気の利いた感じ」が薄れるかもしれない。「趣がある」と訳せば文学的には見えるが、今度は現代の日常語から離れてしまう。つまり一つの単語を訳すだけでも、訳者は作品の意味を選び直しているのである。

現代語訳には、どうしても現代人が入り込む

 さらに厄介なのは、言葉だけではなく、人間の感覚そのものが時代によって変化することである。恋愛、家族、身分、宗教、死、男女関係、美しさといった概念は、同じ言葉を使っていても千年前と現在では必ずしも同じではない。現代語訳者が古典を分かりやすく説明しようとするとき、その説明には知らず知らずのうちに現代社会の価値観が入り込む。

 たとえば平安時代の恋愛を、現代の恋人同士の関係と同じ感覚で描けば読みやすくなる。しかし当時の結婚制度や身分秩序、男女の生活空間まで考えれば、そこにある恋愛は現代の恋愛とはかなり違っている。にもかかわらず、登場人物の行動を現代人の心理へ置き換え過ぎると、読者は理解したつもりになりながら、実際には別の物語を読んでいることになる。

 ここに現代語訳の最も面白い逆説がある。分かりやすくすればするほど読者は物語へ近づくが、その分かりやすさを作るために現代的な説明を加えるほど、原作が持っていた異質さは消えていくのである。古典を現代人の家まで連れてくるためには、古典の着物を脱がせ、現代の服を着せなければならない。しかし服をすべて着替えさせたあとで、その人物を見て「これが昔の人だ」と言ってよいのかという疑問は残る。

分からなさもまた、古典の一部である

 私たちは本を読むとき、理解できることを良いことだと考えがちである。しかし古典については、完全に分かってしまうことが必ずしも正しいとは限らない。千年前の人間が書いた文章なのだから、現代人には簡単には理解できない部分があって当然だからである。

 むしろ古典を読んでいて感じる違和感や居心地の悪さの中に、歴史の距離が残っているとも言える。なぜこの人物はこんなことで泣くのだろう、なぜこんな行動が美しいとされたのだろう、なぜ直接言わずに歌を交わすのだろうと戸惑う瞬間にこそ、現代とは異なる社会が姿を現す。そこをすべて現代人の感覚に置き換えてしまえば、作品は読みやすくなるものの、古典を読む最大の魅力の一つである「別の時代の人間に出会う経験」が薄れてしまう。

 古典を読むことは、昔の文章から現代にも通じる普遍的な人間性を探すことだけではない。自分たちとは異なる考え方をする人々が、かつて確かに存在していたことを知ることでもある。現代語訳がその違いまで消してしまえば、古典は歴史を超えてきた作品ではなく、現代小説に似せて作り直された物語になってしまう。

それでも現代語訳は必要である

 では原文だけを読むのが最も正しいのかと言えば、そう単純でもない。原文を読める人であっても、現代の読者である以上、千年前の人間とまったく同じ意味でその文章を受け取ることはできないからである。古語辞典を引き、当時の習慣を学び、注釈を読んだ時点で、すでに私たちはさまざまな解釈を通して作品を見ている。

 そもそも「原文なら原作そのものを読める」という考えにも、少し危ういところがある。文字が同じでも、言葉に結びついた文化や感情まで同じとは限らない。現代人が古文を一語ずつ理解できたとしても、その言葉が当時の読者に呼び起こした感覚まで完全に再現することはできないのである。

 そう考えると、現代語訳は原作を壊す存在というより、もともと存在していた距離を別の形で埋めようとする試みだと考えた方がよい。完全な現代語訳が存在しないのは欠陥ではなく、言葉と時代が違う以上、当然のことである。そして一つの作品に複数の現代語訳が存在することにも意味が生まれる。同じ場面が訳者によって柔らかくもなり、冷たくもなり、官能的にもなり、ユーモラスにもなることで、原文の中に一つではない可能性が眠っていたことが見えてくるからである。

原作へ近づくために、いったん現代語訳を通る

 古典と現代語訳の関係を、原作か翻訳かという二者択一で考える必要はないのだろう。むしろ現代語訳を入口として物語を知り、興味を持った部分だけでも原文へ戻ってみる読み方の方が、古典との自然な付き合い方かもしれない。最初から原文だけを読み、意味を取ることに疲れて作品そのものを嫌いになってしまうより、現代語訳によって人物や物語を知ったあとで原文に触れた方が、その言葉の響きや省略の面白さに気づきやすい。

 同じ場面をいくつかの現代語訳で読み比べれば、さらに面白いことが起こる。訳が違っているところほど、原文が一つの意味に決められない場所だからである。そこで初めて読者は、「原文には本当は何と書いてあるのだろう」と考え始める。つまり現代語訳は、原文の代用品であるだけではなく、ときには原文へ戻るための道にもなる。

 このとき大切なのは、現代語訳を透明な窓だと思わないことである。私たちは窓越しに古典を眺めているのではなく、一人の訳者が描いた案内図を手にして古典の世界へ入っている。その案内図には詳しく描かれた場所もあれば、省略された場所もあり、訳者自身が美しいと思った景色は強調されているかもしれない。それでも地図があるからこそ、知らない土地へ足を踏み入れることができる。

古典は、少し遠いままでいい

 結局、現代語訳は古典を現代人に近づけると同時に、原作から少し遠ざける。この二つは矛盾しているように見えるが、実はどちらも現代語訳の本質なのだろう。言葉を変えれば失われるものがあり、言葉を変えなければ届かないものがある。どちらか一方だけを選ぶことはできない。

 だから優れた現代語訳とは、古典を完全に現代化する文章ではないのかもしれない。読者に理解できる言葉を使いながら、それでもどこかに「これは自分たちとは違う時代の文章なのだ」と感じさせる距離を残す訳の方が、古典という存在にはふさわしい。分かりやすさの中に少しだけ異物が残り、その異物が気になって原文を覗いてみたくなるような訳である。

 千年前の人々を完全に現代人へ変えてしまう必要はない。私たちと似ているところがありながら、どうしても理解できないところもあるからこそ、古典を読む意味が生まれる。もし『源氏物語』の登場人物が近所に住んでいる人とまったく同じ感覚で話し始めたなら、物語は読みやすくなる一方で、千年という時間を越えて他者と出会う驚きは失われてしまうだろう。

 古典の現代語訳は、過去を現在へ連れてくる仕事ではあるが、過去を現在に塗り替える仕事ではない。最も豊かな読み方とは、おそらく現代語訳によって作品へ近づきながら、その向こう側にまだ自分の知らない言葉と時代が残っていることを忘れないことなのだ。古典は完全に近づいてしまわないからこそ古典であり、そのわずかな遠さが、何百年、何千年を越えて人を惹きつけ続ける理由なのかもしれない。

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