リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

三島由紀夫の『金閣寺』を読み終えたとき、もっとも大きな疑問として残るのは、主人公・溝口がなぜ金閣を燃やしたのかということである。

金閣が嫌いだったからではない。むしろ逆である。

溝口にとって金閣は、幼いころから憧れ続けた、この世でもっとも美しいものだった。それほど愛し、崇拝した存在を、なぜ最後には自らの手で焼き払わなければならなかったのか。

この矛盾を理解するには、『金閣寺』を単なる放火事件の小説として読むのではなく、「美に支配された人間が、その支配から逃れようとする物語」として読む必要がある。

金閣は最初から現実の建物ではなかった

溝口にとって金閣は、実物を見る以前から特別な存在だった。

父親から金閣の美しさについて繰り返し聞かされるうちに、少年の心の中には現実の建築物とは別の「理想の金閣」が作られていく。

ここが重要である。

普通であれば、人は美しいものを見て感動する。しかし溝口の場合、順序が逆だった。実物を見る前に、頭の中ですでに絶対的な美が完成していたのである。

そのため、実際の金閣を初めて見たとき、現実の建物は想像していたほど圧倒的ではない。

ところが、それによって金閣への信仰が消えるわけではない。むしろ時間が経つにつれて、現実の金閣と心の中の金閣が再び重なり、彼にとって金閣は単なる寺院ではなくなっていく。

金閣は「美そのもの」に近い存在になっていった。

そして、この美が次第に溝口の人生を支配する。

溝口は自分自身を「美の反対側」に置いている

溝口には吃音がある。

彼にとって吃音は単なる話しにくさではない。自分と他人との間にある壁として意識されている。

言葉を自由に発することができないため、他者との関係に自信を持てない。そこから、自分は周囲の人間とは違うという意識が強くなっていく。

さらに溝口は、自分自身を美しい人間だとは考えていない。

つまり彼の世界には、

完全な美としての金閣

と、

不完全な存在としての自分

という対立がある。

この距離が大きければ大きいほど、金閣は美しくなる。

しかし同時に、自分自身は惨めになる。

金閣を愛することと、自分を否定することが、溝口の中ではほとんど同じことになってしまうのである。

この構造が、『金閣寺』の悲劇の中心にある。

金閣は溝口が現実へ進むことを妨げる

さらに重要なのは、金閣が単に眺める対象ではなく、溝口の行動を阻む存在として描かれていくことである。

溝口は女性との関係を持とうとする。しかし現実の世界に踏み込もうとする重要な場面になると、彼の意識の中に金閣が現れる。

本来、美しいものは人生を豊かにするはずである。

ところが溝口の場合は逆だった。

金閣の美しさがあまりに完全であるため、現実の恋愛や欲望、人間関係がすべて不完全なものに見えてしまう。

現実の女性より金閣のほうが美しい。

現実の経験より、頭の中にある美のほうが完全である。

そうなると、人は現実を生きられなくなる。

金閣は溝口にとって憧れであると同時に、現実世界へ出ていくことを妨げる巨大な壁になっていった。

戦争中、溝口は金閣が焼けることを期待していた

『金閣寺』を理解するうえで見逃せないのが、戦争である。

太平洋戦争末期、京都も空襲を受ける可能性があった。金閣もいつ焼失するかわからない。

この状況は、溝口に奇妙な感覚を与える。

永遠に存在するように思われた金閣が、戦争によって失われるかもしれない。

つまり、自分と金閣が同じ「滅びる世界」に存在することになる。

それまで金閣は、自分とは別の次元にある絶対的な美だった。しかし焼失する可能性を持った瞬間、金閣もまた有限な存在になる。

溝口にとって、それはある意味で救いだった。

ところが戦争は終わり、金閣は焼けなかった。

人間が死に、都市が焼かれ、社会が大きく変わったにもかかわらず、金閣は以前と同じ姿で残った。

ここで金閣は再び、溝口の前に圧倒的な存在として立ちはだかる。

自分の人生は変化する。

人間は老い、失敗し、死ぬ。

しかし金閣は変わらない。

この不均衡が、溝口にとって次第に耐え難いものになっていく。

「美しいから壊したい」という逆説

普通に考えれば、美しいものは保存したいと思う。

しかし『金閣寺』では、美が完全であればあるほど、それを破壊したいという逆説が生まれる。

なぜか。

金閣が存在し続ける限り、溝口は金閣と比較され続けるからである。

もちろん、実際に誰かが彼と金閣を比較しているわけではない。比較しているのは溝口自身である。

金閣を見るたびに、自分の不完全さが意識される。

金閣が美しければ美しいほど、自分の人生が貧弱に感じられる。

つまり溝口にとって、

金閣の存在=自分の劣等感を永続させる装置

になってしまった。

そう考えると、彼に残された選択肢は極端なものになる。

自分自身を変えるか。

金閣を消すか。

現実の人間関係を通じて自分を変えていくことができなかった溝口は、後者を選ぶ。

それが放火だった。

金閣を燃やすことは「美を所有する」ことでもあった

しかし、単に金閣が邪魔だから燃やしたと考えるだけでは、『金閣寺』の複雑さは十分に説明できない。

放火には、もう一つの意味がある。

それは、金閣を自分の行為の中へ取り込むことである。

それまで金閣は、溝口とは関係なく存在していた。

彼が苦しんでも、恋愛に失敗しても、人生に絶望しても、金閣は変わらない。

その意味で、金閣は溝口を必要としていない。

しかし自分が火をつければ事情は変わる。

金閣の運命を決めるのは溝口になる。

崇拝するだけだった人間が、美しいものの生死を決定する側へ回るのである。

これは非常に歪んだ形ではあるが、金閣を自分のものにしようとする行為とも解釈できる。

手に入らないものを破壊することで、初めてその存在に決定的に関与する。

溝口にとって放火は、美から逃げる行為であると同時に、美をもっとも強烈な形で自分と結び付ける行為でもあった。

柏木は「現実を生きる別の方法」を見せる

作品の中で溝口と対照的な人物が柏木である。

柏木もまた、自分の身体に強いコンプレックスを持っている。

しかし、そのコンプレックスへの向き合い方が溝口とは違う。

溝口が自分の劣等感によって現実から遠ざかっていくのに対し、柏木はむしろそれを利用しながら現実の人間関係の中へ入っていく。

倫理的に好ましい人物として描かれているわけではない。

それでも、柏木は「不完全な自分のまま現実を生きる」ことができる。

溝口には、それができない。

彼は完全な美にこだわり続ける。

ここに二人の決定的な違いがある。

人間は本来、不完全な存在である。

恋愛も友情も身体も人生も、不完全である。

柏木はその不完全さの中で生きる。

溝口はそれを受け入れられない。

だから最後には、不完全な自分ではなく、完全な美のほうを破壊することになる。

金閣放火は自殺ではなかった

物語の終盤で重要なのは、溝口が金閣とともに死ななかったことである。

放火という行為だけを見れば、破滅へ向かう物語のようにも見える。

しかし最後に残るのは、むしろ「生きる」という方向である。

ここに『金閣寺』の大きな転換がある。

溝口は金閣を燃やすことで、自分を支配していた絶対的な美を消した。

その結果、彼の前には不完全な現実だけが残る。

しかし、それこそが人間が生きる世界なのである。

美しくないかもしれない。

理想的でもない。

失敗するかもしれない。

それでも、自分自身が行動できる世界である。

したがって、金閣放火は単純な破滅ではない。

溝口にとっては、極端で犯罪的な方法ではあるものの、現実の人生へ戻ろうとする行為でもあったと考えることができる。

なぜ溝口は金閣を燃やしたのか

結局、溝口が金閣を燃やした理由を一つだけに絞ることはできない。

金閣への憎しみだけでもなければ、単純な劣等感だけでもない。

彼は金閣を愛していた。

しかし、その美しさに支配されていた。

金閣が完全であるほど、自分が不完全に見えた。

金閣が永遠であるほど、自分の人生が無意味に感じられた。

そして金閣が存在する限り、自分は現実の世界へ踏み出すことができないと考えるようになった。

だから彼は、美を手に入れようとするのではなく、美そのものを消すことを選んだ。

『金閣寺』の放火を理解する鍵は、ここにある。

溝口は金閣が醜かったから燃やしたのではない。美しすぎたから燃やしたのである。

そして、その美を破壊した先で初めて、完全ではない自分自身の人生を生きようとした。

『金閣寺』は、美とは何かを描いた小説であると同時に、さらに逆説的な問いを私たちに突きつける。

人間は、あまりにも完全な美を前にして、それでも自由に生きることができるのだろうか。

金閣を燃やした溝口の行動は決して肯定できない。

しかし、三島由紀夫が描こうとしたのは犯罪の是非だけではない。

人間が理想を絶対化したとき、その理想は憧れから支配へ変わることがある。

そして『金閣寺』は、その支配から逃れるために「美そのものを破壊する」という極端な地点まで追い詰められた一人の青年を描いた小説なのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

村上龍の『限りなく透明に近いブルー』が発表されたのは1976年である。村上龍は当時24歳。この作品で第19回群像新人文学賞を受賞し、さらに第75回芥川龍之介賞を受賞した。デビュー作がそのまま芥川賞受賞作となり、大きな社会的反響を呼んだ作品である。

しかし、約半世紀が過ぎた現在、この作品をあらためて読む意味は、当時「若者のセックスやドラッグを赤裸々に描いた小説」として話題になったことだけにはない。

『限りなく透明に近いブルー』が変えたものは、日本文学が描くことのできる対象であり、若者の描き方であり、そして日本人が文学の中でアメリカを見る角度だったのではないか。

1976年、日本文学の中に突然現れた異質な風景

物語の舞台は米軍基地周辺である。そこに暮らす若者たちは、酒、ドラッグ、セックス、音楽などに囲まれながら日々を過ごしている。

重要なのは、それらが特別な事件として描かれていないことである。

何か重大な出来事が起こり、それによって主人公が成長するという、一般的な青春小説の構造とはかなり違う。若者たちは何かを目指しているわけでもなければ、社会を変えようとしているわけでもない。ただ目の前にある刺激の中を漂っている。

有隣堂の情報紙「有鄰」に掲載された芥川賞を論じる記事でも、この作品はでも、この作品は米軍基地を背景として薬物や性の世界に生きる若者を描き、それまでの純文学の枠には収まりにくい視覚性の強い文体によって、当時の空気を伝えた作品として位置づけられている。

ここに、この小説の最初の大きな転換がある。

若者を「未来を持つ存在」として描かなくても、小説は成立するのである。

「反抗する若者」から「空白を抱えた若者」へ

戦後文学にも、既成社会に反発する若者は何度も登場してきた。

しかし、反抗するということは、裏返せば反抗すべき対象を強く意識しているということである。親の世代、社会制度、道徳、政治体制など、何かに対して「否」と言うからこそ反抗が成立する。

『限りなく透明に近いブルー』の若者たちには、その構図が弱い。

彼らが社会に適応しているわけではない。しかし、社会を変革しようとしているようにも見えない。

ここには1960年代的な若者像とは違う感覚がある。

政治的な理想を掲げて社会と対立するのでもなく、高度経済成長の中で立身出世を目指すのでもない。豊かになったはずの社会の片隅で、刺激だけが大量に存在している。

その中で人間の内側が少しずつ空洞になっていく。

『限りなく透明に近いブルー』は、その空洞そのものを青春として描いた小説だったと考えることができる。

アメリカは「憧れ」ではなくなった

戦後日本の若者文化を考えるとき、アメリカの存在は非常に大きい。

音楽、映画、ファッション、自動車、オートバイ、雑誌。1950年代から1970年代にかけて、多くの若者にとってアメリカは豊かさや自由、新しい生活様式を象徴する存在でもあった。

しかし、『限りなく透明に近いブルー』に現れるアメリカは、それほど単純ではない。

ここにあるのは観念としてのアメリカではなく、米軍基地を通じて物理的に日本へ入り込んでいるアメリカである。

音楽がある。酒がある。ドラッグがある。外国人兵士がいる。若者たちは、その文化と直接接触している。

だからこそ、この小説のアメリカには明るい憧れだけではない、生々しさがある。

片岡義男の作品にもアメリカ文化は濃厚に存在する。しかし、片岡義男が描くアメリカが、オートバイや道路、音楽、男女関係などを通じて日本の日常とは少し違う自由な空間を想像させることが多いのに対し、村上龍の初期作品に現れるアメリカはもっと暴力的で身体的である。

同じ1970年代の日本からアメリカを見ていても、その距離感はかなり違う。

この違いを知ると、村上龍と片岡義男を同じ時代に読む面白さが見えてくる。

村上龍は「説明」を減らした

この作品を特徴づけているもう一つの要素が、文章の視覚性である。

登場人物が何を考えているのかを延々と説明するのではなく、身体、光、色、音、匂い、食べ物、昆虫、血液、部屋の中にある物などが次々と視界に入ってくる。

文章を読んでいるというより、カメラで撮影された映像を見せられているような感覚になることがある。

『限りなく透明に近いブルー』を論じた研究者の対談でも、主人公リュウは積極的に行動する人物というより「見る」側の人物として捉えられている。周囲で起きている出来事を観察し続け、自分自身さえ空虚な存在として認識していくという読み方である。

これは重要である。

作者が「この若者たちは間違っている」と説明するわけではない。

逆に「彼らこそ新しい時代の若者なのだ」と賛美するわけでもない。

そこにあるものを見せる。

読者は、その映像の意味を自分で考えなければならない。

この距離感が、『限りなく透明に近いブルー』を単なる風俗小説では終わらせなかった一つの理由だろう。

なぜタイトルは「ブルー」なのか

そして、この小説を単なる退廃的な若者の記録から少し違う場所へ引き上げているのが、タイトルである。

「限りなく透明に近いブルー」。

非常に美しい言葉である。

小説の中で描かれている世界の激しさや汚れとは、一見すると正反対に思える。

物語の終盤ではガラスの破片と「ブルー」が結びつき、主人公自身の空虚さとも重なっていく。この部分についても、作品論では主人公が自分を人形や空っぽな存在として捉えていることと、タイトルの「限りなく透明に近いブルー」が密接に関連していると論じられている。

透明とは、何もないということでもある。

しかし完全に透明なのではなく、わずかに青い。

そこにはまだ色が残っている。

もし、この小説を単なるドラッグやセックスの物語として読んでしまえば、このタイトルの美しさは説明できない。

むしろ作品全体を覆っているのは、刺激の強さとは反対側にある空虚さなのではないか。

激しいことが起き続けているのに、中心には何もない。

その奇妙な感覚を、「限りなく透明に近いブルー」という言葉ほど的確に表した題名はなかったように思える。

芥川賞そのものの見え方も変えた

この作品は文学史だけでなく、出版史の上でも大きな存在になった。

国立国会図書館は、芥川賞受賞を契機として作品がマスメディアに大きく取り上げられ、ベストセラーになった代表的な事例として、石原慎太郎の『太陽の季節』とともに『限りなく透明に近いブルー』を紹介している。

日本ペンクラブの電子文藝館に掲載された文章では、同作が130万部を超えたと紹介されている。

ここで興味深いのは、「純文学」と「若者文化」が大規模に接続したことである。

芥川賞作品は文学好きだけが読むものではなくなった。

若い作家が、若者の現実を、若者自身の感覚に近い文章で描き、それを大量の読者が読む。

文学が社会現象になる。

『限りなく透明に近いブルー』は、その一つの象徴になった。

「純文学らしさ」の境界を動かした

もちろん、一冊の小説だけが日本文学を変えた、と考えるのは正確ではない。

1970年代の文学はすでに大きく変化していたし、村上龍の翌年には村上春樹が『風の歌を聴け』を書き始め、1979年に群像新人文学賞を受賞することになる。

後に「二人の村上」と呼ばれる作家たちは、それぞれ全く異なる方法で、それまでの日本文学とは違う感覚を持ち込んだ。

有隣堂の情報紙「有鄰」に掲載された芥川賞を論じる記事でも、この作品はも、村上龍と村上春樹を、その後の現代文学の状況を変えていった存在として位置づけている。

だから『限りなく透明に近いブルー』を「この作品以前と以後で文学が完全に変わった」と評価する必要はない。

むしろ重要なのは、文学の境界線を動かしたことである。

こんな若者を主人公にしてもいい。

こんな生活を書いてもいい。

思想を語らなくてもいい。

登場人物を成長させなくてもいい。

作者が善悪を説明しなくてもいい。

音楽やドラッグやセックスや米軍基地といった、当時の若者が実際に接触していた文化そのものを純文学へ持ち込んでもいい。

その範囲を大きく広げた作品の一つが、『限りなく透明に近いブルー』だったのである。

半世紀後に読むと、むしろ「静かな小説」に見えてくる

1976年当時、この作品を読んだ人が最初に感じたのは、その刺激の強さだっただろう。

しかし現代から読むと、別の姿も見えてくる。

大量の刺激に囲まれながら、何を求めているのか分からない若者。

人とつながっているようで、深くはつながっていない人間関係。

外国文化や商品や音楽が身の回りにあふれているのに、自分自身が何者なのかは分からない。

これは1976年だけの問題なのだろうか。

スマートフォンを通じて膨大な映像、音楽、商品、情報、人間関係が流れ込み続ける現在の方が、むしろ理解しやすい部分さえある。

そう考えると、『限りなく透明に近いブルー』が残したものは、ドラッグや性を文学に持ち込んだという表面的な新しさではなかったことが分かる。

人間は刺激に満たされれば、満たされるのか。

自由になれば、自分自身を見つけることができるのか。

豊かな社会では、若者は何を求めればよいのか。

村上龍は、その問いに答えてはいない。

ただ、答えのない状態そのものを一冊の小説にした。

だから『限りなく透明に近いブルー』は、1976年のスキャンダラスなベストセラーとして終わらなかった。

この作品が変えたのは、文学の中で「何を書くことができるか」という境界だけではない。

何も見つけられない若者を、その何も見つけられない状態のまま描いても文学になる。

そのことを、日本の読者の前にはっきりと示した。

『限りなく透明に近いブルー』の本当の新しさは、おそらくそこにある。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

森鴎外の『舞姫』を読み終えたとき、主人公の太田豊太郎に強い反感を持つ人は少なくないでしょう。

ドイツで若い女性エリスと恋に落ち、彼女が自分の子を身ごもっているにもかかわらず、最後には日本へ帰る道を選ぶ。結果としてエリスは精神を病み、豊太郎は彼女を残して帰国します。

現代の感覚から読めば、「あまりにも無責任ではないか」「結局、出世のために女性を捨てただけではないか」と感じるのも当然です。

しかし、『舞姫』を単純な「ひどい男の物語」として読んでしまうと、この作品の重要な部分を取り落としてしまいます。

豊太郎は確かにエリスを傷つけました。その責任は消えません。しかし同時に、彼自身もまた、自分の人生を自分で選択することのできない人間として描かれています。

『舞姫』が現在まで読み継がれてきた理由の一つは、豊太郎が善人でも悪人でもなく、自分で決断できない弱さを持った人間として描かれていることにあるのではないでしょうか。

『舞姫』はどんな物語だったのか

『舞姫』は森鴎外が明治23年(1890年)に発表した小説で、鴎外の代表作の一つです。文京区立森鴎外記念館によれば、鴎外が発表した創作小説の第一作でもあり、1957年以降、高等学校の国語教科書にも取り上げられてきました。

主人公の太田豊太郎は、優秀な青年官僚としてドイツへ留学します。

ところがベルリンで暮らすうち、豊太郎はそれまで当然のものとして受け入れてきた国家や官僚組織の価値観に疑問を持つようになります。その結果、上司との関係が悪化し、官職を失います。

そんな豊太郎が出会うのが、貧しい踊り子エリスです。

父を亡くし、経済的にも苦しい状況に置かれていたエリスを豊太郎は助けます。やがて二人は恋愛関係になり、一緒に暮らすようになります。

ここまでは、国家や組織から離れた一人の青年が、自分自身の人生と愛を見つける物語にも見えます。

ところが、日本からやって来た友人の相沢謙吉によって状況が変わります。

相沢は豊太郎に、もう一度社会的地位を取り戻す道を示します。さらに天方大臣の仕事を手伝うようになった豊太郎には、日本へ帰り、再び国家の中で生きる可能性が開かれていきます。

その一方で、エリスは豊太郎の子を身ごもっていました。青空文庫で公開されている本文でも、エリスは生まれてくる子どもについて幸福そうに語っています。

つまり豊太郎の前には、

「エリスと子どもとともにドイツで生きる人生」

と、

「日本へ帰り、社会的地位を回復する人生」

という二つの道が現れることになります。

『舞姫』とは、実はこの二つの人生の間で決断できない男の物語なのです。

豊太郎が「ひどい男」に見える最大の理由

豊太郎を批判するなら、最も大きな問題はエリスと別れることそのものよりも、重大な決断を自分自身で引き受けなかったことにあります。

相沢は豊太郎とエリスの関係を断つよう勧めます。

それに対して豊太郎は、エリスへの愛情を完全に失っていたわけではありません。むしろ本文では、貧しくてもエリスと暮らす現在の生活を楽しいと感じ、彼女への愛を捨てがたいと思っています。

それにもかかわらず、豊太郎は相沢の意見に従います。

青空文庫の本文には、豊太郎自身が「友に対して否とはえ対へぬが常なり」と語る部分があります。つまり豊太郎自身が、自分は相手に強く言われると拒否できない人間であることを認識しているのです。

ここに豊太郎の最大の問題があります。

「日本に帰る」と自分で決断したのであれば、少なくともその選択について自分で責任を負うことができます。

しかし豊太郎はそうではありません。

相沢に勧められ、大臣に評価され、周囲の状況が日本へ帰る方向へ動いていく中で、結果としてその流れに乗っていきます。

つまり彼は人生で最も重大な選択を、自分の意思で選ぶというよりも、周囲に選ばせてしまうのです。

その代償を最も大きく支払ったのがエリスでした。

この意味では、「豊太郎はひどい男なのか」という問いに対して、かなり厳しい評価をすることができます。

豊太郎は悪意のある男ではありません。

しかし、悪意がないことと、他人を傷つけないことは同じではありません。

優柔不断な人間もまた、場合によっては誰かの人生を決定的に壊してしまいます。

『舞姫』はそのことを非常に冷酷に描いています。

では豊太郎は出世のためにエリスを捨てたのか

ただし、「豊太郎は出世欲に負けてエリスを捨てた」とだけ説明するのも少し単純です。

豊太郎自身は、一度は官僚としての出世コースから外れています。

エリスと暮らし始めた後も、彼は必ずしも以前の地位へ戻ることだけを願っていたわけではありません。

相沢から将来の道を示されたときにも、本文ではエリスとの生活を「棄て難き」と感じています。

それでは、なぜ日本へ帰る方向へ動いてしまったのでしょうか。

ここで重要なのが、豊太郎の生い立ちです。

豊太郎は幼いころから学問に励み、国家から選ばれ、官僚として生きてきた人物です。つまり「社会から評価されること」が、ほとんど彼の人格そのものになっています。

現代の私たちは、仕事を辞めて別の人生を選ぶことを少なくとも理念上は個人の自由として考えることができます。

しかし豊太郎にとって、官僚としての人生を捨てるということは、単に職業を変える程度の問題ではありません。

それまで築いてきた自分自身の存在理由を失うことでもありました。

ベルリンでエリスと暮らしている豊太郎は、国家から離れて初めて個人として生きようとします。

ところが、その自由を最後まで引き受けることができません。

だから豊太郎の選択は、

「愛か出世か」

という単純な二者択一ではありません。

より正確には、

「一人の個人として生きるのか、それとも社会から与えられた自分へ戻るのか」

という選択だったと考えた方がよいでしょう。

エリスから見れば、事情など関係ない

ここで注意しなければならないことがあります。

豊太郎の置かれていた社会的事情を理解することと、豊太郎の行動を正当化することは別問題です。

エリスから見れば、豊太郎がどれほど悩んでいたとしても結果は同じです。

エリスは豊太郎を愛し、彼との子どもを身ごもり、二人の将来を信じています。

大臣に会いに行く豊太郎の服を整えながら、エリスは彼が成功しても自分を捨てないだろうと信じています。本文では、豊太郎のために服を選び、襟飾りまで結びながら、「われをば見棄て玉はじ」と語っています。

読者にとってこの場面がつらいのは、すでに豊太郎が相沢との間でエリスとの関係を断つ方向へ動いていることを知っているからです。

エリスは知らない。

豊太郎は知っている。

それでも豊太郎は何も話しません。

ここでは、彼の弱さはかなり明確に「無責任」と呼べるものになります。

本当にエリスを捨てるのであれば、自分の口からその事実を伝えるべきでした。

反対にエリスを選ぶのであれば、相沢や大臣に対して日本へ戻らないと言うべきでした。

しかし豊太郎はどちらもできません。

その意味で彼の悲劇は、「選択を間違えたこと」以上に、選択する責任から逃げ続けたことにあります。

相沢だけを悪者にすることもできない

『舞姫』を読むと、友人の相沢に腹が立つ人もいるでしょう。

豊太郎とエリスを別れさせるよう働きかけ、豊太郎を日本へ連れ戻す方向へ動いた人物だからです。

実際、『舞姫』研究には相沢を批判的に読み直す論考も存在しており、この人物をどう評価するかは作品研究の一つの論点になっています。

しかし、すべての責任を相沢に負わせるのも適切ではありません。

相沢が何を言おうと、最終的にエリスとの関係を続けるかどうかを決めるのは豊太郎だからです。

むしろ相沢という人物は、豊太郎の内側に存在していた「日本社会へ戻りたい自分」を外から言葉にした人物とも考えられます。

もし豊太郎が本当にエリスとの生活を選ぶ覚悟を持っていたなら、相沢に反対することもできたはずです。

しかし豊太郎にはそれができません。

だから相沢が現れた瞬間、豊太郎がそれまで押さえ込んでいた社会的な自分が再び表面に出てきます。

そう考えると、相沢は豊太郎の人生を破壊した悪人というより、豊太郎自身の弱さを露出させる存在だったとも読めます。

豊太郎はエリスを愛していなかったのか

では、豊太郎のエリスへの愛情そのものが偽物だったのでしょうか。

私は、そう読む必要はないと思います。

もし豊太郎が最初からエリスを一時的な恋愛相手としてしか考えていなかったのであれば、『舞姫』はもっと単純な物語になっていたでしょう。

豊太郎はエリスとの生活に幸福を感じていますし、別れることにも苦しんでいます。

だからこそ、この作品は読者を苛立たせます。

愛していないから捨てたのではない。

愛しているのに、その愛を守るために必要な決断ができないのです。

人を愛する感情と、その人に対して責任を負う能力は同じではありません。

豊太郎には前者はあっても、後者が決定的に不足していました。

これは現代にも十分通じる問題ではないでしょうか。

「好きだ」と言うことはできます。

「大切だ」と思うこともできます。

しかし、その人の人生に関わる決断を迫られたとき、自分の利益を失ってでも責任を取れるかとなると話は違います。

『舞姫』が描いている恋愛の厳しさは、まさにそこにあります。

豊太郎自身もまた被害者なのか

一方で、豊太郎を完全な加害者として見ることにも違和感が残ります。

なぜなら豊太郎自身も、明治という時代の国家と社会によって作られた人間だからです。

森鴎外自身も陸軍軍医としてドイツへ留学し、帰国後は軍医として国家組織の中を生きました。国立国会図書館系のジャパンサーチによれば、鴎外は1884年にドイツへ留学し、1888年に帰国しています。『舞姫』はその後の1890年に発表されました。

もちろん豊太郎と鴎外本人をそのまま同一人物と考えることはできません。

しかし、国家から選ばれてドイツへ渡った日本人青年が、西洋社会の中で個人というものを意識し、日本へ戻るときに再び国家との関係を問われるという構造には、鴎外自身の時代経験が深く関係していると考えることはできます。

豊太郎は自由を知ってしまった人間です。

しかし自由に生きる訓練を受けていません。

それまでの彼は、勉強し、試験に合格し、上から評価されることで人生を進んできました。

自分で人生の目的を決める必要がなかったのです。

ところがベルリンで初めて、

「自分は何を望むのか」

という問題に直面します。

そして結局、その問いに最後まで答えることができませんでした。

そう考えると、『舞姫』は恋愛の悲劇であると同時に、近代日本で初めて「個人」になろうとした人間の失敗の物語として読むこともできます。

最後に豊太郎が憎んだのは相沢だった

作品の最後で、豊太郎は相沢について、親友ではあるものの、心のどこかに彼を憎む気持ちが今も残っていると語ります。

文京区立森鴎外記念館が紹介する自筆草稿でも、最後は「我が脳裏に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり」という趣旨の一文で閉じられています。

この結末は非常に興味深いところです。

豊太郎はエリスを捨てる決断について、完全には自分自身の責任として引き受けていません。

どこかで相沢のせいにしている。

しかし本当は、相沢の言葉に従うことを選んだのも豊太郎自身です。

だからこの最後の恨みは、相沢に向けられているようでいて、実は自分自身に向けるべきものだったのかもしれません。

もしそう考えるなら、『舞姫』の最後はかなり残酷です。

豊太郎は日本へ帰り、社会的には人生を立て直すでしょう。

しかし、自分が本当は何を選ぶべきだったのかという問いだけは、一生消えない。

エリスを失っただけではありません。

豊太郎は、自分自身の意思で人生を選ぶ可能性も同時に失ったのです。

結局、豊太郎は「ひどい男」なのか

では最初の問いに戻りましょう。

豊太郎は本当にひどい男なのでしょうか。

エリスに対して行ったことだけを見れば、批判されて当然です。

妊娠している女性に将来を期待させながら、自分では別離を伝えることさえできず、最終的には彼女を残して日本へ帰る。その責任を、時代や相沢だけに負わせることはできません。

その意味では、豊太郎は確かに「ひどい男」です。

しかし彼は、冷酷だからエリスを捨てたわけではありません。

むしろ人を傷つけたくない、自分も傷つきたくない、社会からも外れたくない、エリスも失いたくないという思いのすべてを抱えたまま、何一つ捨てる覚悟を持てませんでした。

そして結局、最も弱い立場にいたエリスが、その代償を引き受けることになります。

だから豊太郎の本当の問題は「悪人だったこと」ではありません。

自分の人生を自分で決める勇気がなかったことです。

『舞姫』を学生時代に読むと、「エリスを捨てたひどい男の話」という印象が残るかもしれません。

しかし年齢を重ねて読むと、少し違って見えてきます。

仕事か家庭か。

組織か個人か。

安定か自由か。

周囲の期待か、自分が本当に望む人生か。

私たちも程度の差こそあれ、同じような選択を何度も迫られます。

そして誰もが常に、自分の意思だけで決断できるわけではありません。

だから豊太郎を簡単に許す必要はありません。

同時に、簡単に笑うこともできない。

『舞姫』が発表されて130年以上たっても読まれているのは、豊太郎の弱さが明治時代だけのものではなく、現代の私たちの中にも残っているからなのかもしれません。

豊太郎は「ひどい男」だった。

しかし、それだけでは終わらない。

『舞姫』が描いたのは、悪人の物語ではなく、人生を自分で選ぶことができなかった人間の悲劇だったのではないでしょうか。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

1970年代後半から1980年代にかけて、「角川映画」という言葉には、単なる映画会社の名前以上の響きがあった。

映画館へ行けば角川映画があり、書店へ行けば角川文庫が積まれている。テレビでは映画の宣伝が流れ、ラジオからは主題歌が聞こえてくる。そして映画に出演した若い俳優が、そのまま時代を象徴するスターになっていった。

現在から振り返れば、これは「メディアミックス」と呼ばれる販売戦略として説明できる。しかし、当時の若者が感じていたものは、もう少し大きかったのではないだろうか。

角川映画は、本を読むこと、映画を見ること、音楽を聴くこと、そして新しいスターに憧れることを、一つの青春文化へまとめてしまったのである。

『犬神家の一族』から始まった角川映画

角川映画の出発点とされるのは、1976年に公開された市川崑監督の『犬神家の一族』である。KADOKAWA自身も、この作品を角川映画の第1作として位置づけている。

原作は横溝正史だった。

角川書店は映画を公開するだけではなく、原作となる文庫本も大規模に販売した。そして有名になったのが、

「読んでから見るか、見てから読むか。」

という宣伝だった。

この発想は、現在では珍しくない。小説が映画化され、映画の公開に合わせて書店に原作本が並ぶことは、ごく普通に行われている。

しかし1970年代半ばには、出版社が自ら映画製作へ本格的に進出し、映画と出版を一体として売っていく方法は画期的だった。国立国会図書館も、1975年に角川書店社長となった角川春樹が映画と文庫本を組み合わせた戦略によってベストセラーを生み、出版界に大きな影響を与えたと整理している。

重要なのは、本が映画の「原作」にとどまらなくなったことである。

映画を見て横溝正史を読み始める人がいる。横溝正史を読んでいた人が映画館へ行く。書店と映画館の間を、読者と観客が往復するようになった。

角川映画は、映画ファンだけを相手にしていたのではなかったのである。

映画そのものより「角川映画を見ること」がイベントになった

その後、角川映画は急速に存在感を強めていく。

『人間の証明』が1977年、『野性の証明』が1978年、『戦国自衛隊』と『蘇える金狼』が1979年、『復活の日』が1980年に公開された。さらに1981年には『セーラー服と機関銃』、1983年には『探偵物語』『時をかける少女』『里見八犬伝』、1984年には『Wの悲劇』などが続いた。現在KADOKAWAが角川映画50周年企画で代表作として並べている作品を見るだけでも、その集中ぶりが分かる。

もちろん作品の内容はまったく違う。

ミステリーがあり、青春映画があり、アクションがあり、SF(Science Fiction・科学的想像を基礎とするフィクション)がある。

それでも、そこには共通する雰囲気があった。

大きな広告、印象的なコピー、耳に残る音楽、華やかな出演者。そして「今度の角川映画は何だろう」という期待感である。

映画を見るという行為そのものに、お祭りのような性格が加わっていた。

現在なら、大作映画の予告編はインターネットで何度でも見ることができる。出演者の情報も、作品の評判も公開前から大量に手に入る。

しかし当時は違った。

テレビのコマーシャル、映画雑誌、書店のポスター、新聞広告などから断片的な情報を受け取りながら公開を待つ。その時間そのものが映画体験の一部だった。

角川映画は、この「待つ時間」を非常にうまく演出したのである。

薬師丸ひろ子が象徴した新しいスターの誕生

角川映画を若者文化として考えるうえで、薬師丸ひろ子の存在は欠かせない。

薬師丸ひろ子は『野性の証明』のオーディションをきっかけに映画デビューし、1981年の『セーラー服と機関銃』で人気を決定的なものにした。KADOKAWAも同作品について、主演だけでなく薬師丸が歌った同名主題歌も大ヒットし、社会現象となったと説明している。

ここに角川映画の特徴がよく表れている。

映画がヒットする。

主演俳優が人気になる。

主題歌も売れる。

原作小説も読まれる。

これらが別々の出来事ではなく、一つの大きな流れとして動いていた。

『セーラー服と機関銃』という題名を聞けば、映画の場面だけではなく、薬師丸ひろ子の姿や歌声まで一緒に思い出す人は少なくないだろう。

映画と音楽とスターの記憶が分離していないのである。

その後、原田知世が主演した大林宣彦監督の『時をかける少女』も、角川映画を象徴する青春映画となった。現在でもKADOKAWAは同作品を「青春SF映画の金字塔」と位置づけている。

角川映画は完成したスターを映画に出演させるだけではなかった。

映画そのものがスターを誕生させる場所になっていたのである。

角川文庫を持つことも若者文化だった

角川映画を映画だけから考えると、その魅力の半分しか見えてこない。

当時の角川書店には「文庫」というもう一つの強力なメディアがあったからである。

1970年代には文庫市場の競争が激しくなり、講談社文庫、中公文庫、文春文庫などが相次いで登場した。そうした環境の中で角川書店は、映画と文庫を結び付けることで独自の位置を築いていった。

映画館で見た作品の原作を、帰りに書店で買う。

あるいは文庫を先に読み、その映像を想像しながら映画館へ行く。

この往復が成立したことは大きい。

文庫本は比較的安く、小さく、学生でも持ち歩けた。

電車の中で読める。学校や大学へ持っていける。喫茶店でも読める。

映画は数時間で終わるが、本は自分の手元に残る。

したがって角川映画の文化は、映画館の中だけで完結しなかった。

映画を見た後も、文庫本という形で日常生活の中へ持ち帰ることができたのである。

現在の若者文化がスマートフォンの中に存在するとすれば、当時の若者文化の一部は文庫本やレコード、カセットテープの中に存在していたと言ってもよいだろう。

なぜ角川映画には「青春」の記憶が残るのか

興味深いのは、角川映画のすべてが青春映画だったわけではないことである。

『犬神家の一族』はミステリーであり、『人間の証明』は社会派サスペンス、『戦国自衛隊』は異色のアクション映画、『復活の日』は壮大なSF作品だった。

それにもかかわらず、角川映画そのものを「青春時代の記憶」として語る人がいる。

おそらく、作品の中に青春が描かれていたからだけではない。

角川映画を見ていた側が若かったからである。

中学生や高校生だった人もいる。

大学生だった人もいる。

就職したばかりだった人もいるだろう。

映画を見るために友人と街へ出かけ、映画が終わればレコード店や書店へ寄る。喫茶店で映画について話すこともあったかもしれない。

その一連の行動まで含めて、一つの記憶になっている。

だから数十年後に映画の題名を目にすると、物語だけではなく、その映画を見た頃の自分まで思い出す。

文化の記憶とは、作品だけからできているのではない。

作品に接した場所や、一緒にいた人、その頃聞いていた音楽、自分が何歳だったかという個人的な記憶が重なってできている。

角川映画には、その力が特に強かったのではないだろうか。

「メディアミックス」という言葉だけでは説明できない

角川映画は、日本における本格的なメディアミックスの先駆けとして語られることが多い。KADOKAWA自身も、初期10年間について、小説・映画・主題歌を連動させ、ベストセラー作家やスターを生み出していった時代として説明している。

確かにビジネスとして見れば、それは非常に合理的な仕組みだった。

一つの作品を、本だけで売らない。

映画だけでも売らない。

音楽、俳優、広告まで含めて、一つの大きな市場を作る。

現在の映画、アニメ、ゲーム、音楽などで当たり前になった仕組みの原型を見ることができる。

しかし、角川映画が人々の記憶に残った理由を販売戦略だけで説明するのも不十分だろう。

戦略が優れているだけなら、ここまで作品名が世代の記憶として残るとは限らない。

そこには市川崑、佐藤純彌、深作欣二、相米慎二、大林宣彦といった監督たちが作った映画そのものの力があり、薬師丸ひろ子や原田知世のような新しいスターの魅力があり、主題歌があり、そして角川文庫があった。

それぞれが独立した商品でありながら、全体として一つの時代の空気を作った。

これこそが角川映画の強さだった。

私たちは映画だけを見ていたのではなかった

1976年の『犬神家の一族』から始まった初期角川映画の黄金期について、KADOKAWAは1976年から1986年までの10年間を一つの時代として振り返っている。

わずか10年ほどである。

しかし、その10年間に作られた作品の題名を並べると、日本の1970年代後半から1980年代前半の文化史そのものを見ているようにも感じられる。

なぜ角川映画は若者を惹きつけたのか。

映画が面白かったから。

スターが魅力的だったから。

広告がうまかったから。

原作小説と映画を結び付けたから。

どれも正しい。

しかし、もう一つ理由を付け加えるなら、角川映画は若者に「次の作品を待つ楽しみ」を与えたからではないだろうか。

次はどんな映画なのか。

誰が主演するのか。

どんな音楽が流れるのか。

原作はどんな小説なのか。

その期待が、映画館、書店、レコード店、テレビ、ラジオをつないでいた。

今では一台のスマートフォンの中で完結してしまう情報や娯楽を、私たちは街のいくつもの場所を歩きながら探していた。

だから角川映画を思い出すとき、映画のスクリーンだけではなく、当時の書店や映画館、レコード店、街の風景まで一緒に浮かんでくる。

角川映画が若者を惹きつけた時代とは、映画が若者文化の中心にあり、本と音楽と街がまだ強く結び付いていた時代でもあったのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

田中康夫の『なんとなく、クリスタル』という題名を聞くと、1980年代のブランド文化を思い浮かべる人は多いだろう。

高価な洋服、洒落たレストラン、輸入車、洋楽、東京の街。若者たちが、何を着て、どこで食事をし、どんな音楽を聴くのかによって、自分自身を表現し始めた時代である。

しかし、この小説を単なる「1980年代の流行を並べた作品」と考えると、その重要な部分を見落としてしまう。

『なんとなく、クリスタル』が描いたのは、ブランドそのものではない。

それまでとは違う「豊かさの中で生きる人間」の姿だった。

バブル経済より前に現れた新しい若者

『なんとなく、クリスタル』は1980年に第17回文藝賞を受賞した田中康夫のデビュー作である。当時、田中康夫は一橋大学の学生だった。作品は大きな反響を呼び、のちに発行部数100万部に達した。

重要なのは、この作品が書かれた1980年という時期である。

日本で一般に「バブル経済」と呼ばれる時代が本格化するのは、もう少し後になる。つまり『なんとなく、クリスタル』は、バブル時代を後から振り返って描いた作品ではない。

日本社会がこれから一段と消費社会へ向かっていこうとしていた、その入口に立って書かれた小説だった。河出書房新社も新装版を「日本がバブル経済に沸く直前の東京」を描いた作品として紹介している。

主人公の由利は、東京で暮らす女子大生であり、モデルでもある。

彼女の生活には大きな事件が起こるわけではない。恋愛をし、友人と会い、食事をし、音楽を聴き、服を選び、東京の街を移動する。

従来の小説から見れば、「何も起きない」とさえ言える生活である。

ところが田中康夫は、その何気ない日常そのものを小説の中心に置いた。

そこに、この作品の新しさがあった。

「何を考えるか」より「何を選ぶか」

それ以前の若者を描いた文学では、思想や政治、社会との対立、家族との葛藤、貧困、恋愛などが物語を動かす大きな要素になっていた。

ところが『なんとなく、クリスタル』の世界では、人間を形づくるものが少し違っている。

どのブランドを選ぶのか。

どの店へ行くのか。

どんな音楽を聴くのか。

どの街に住むのか。

つまり「何を考えている人間なのか」だけではなく、「何を選んでいる人間なのか」によって、その人の輪郭が作られていく。

これは1980年代以降の日本社会を考えるうえで、非常に象徴的な変化だった。

大量生産された同じ商品を多くの人が所有することが豊かさだった時代から、自分の感覚に合った商品や店や音楽を選び、それによって他人との差異を示す時代へ移ろうとしていたのである。

だから、この小説に登場する商品名や店名は単なる背景ではない。

それ自体が登場人物を説明する言葉になっている。

膨大な「註」は何のためにあったのか

『なんとなく、クリスタル』を特徴づけているものとして、本文以上に有名なのが膨大な註である。

作品には実在するブランド、レストラン、学校、地名、音楽などが次々と登場し、それらに442もの註が付けられている。

普通の小説なら、

「彼女は高級な服を着ていた」

と書けばよいところを、この作品では具体的なブランド名が出てくる。

しかし、そのブランドを知らない読者には、そこに込められた意味が分からない。

だから註が必要になる。

言い換えれば、この作品では商品や店についての「知識」そのものが、一種の文化的な暗号になっている。

知っている人には説明しなくても分かる。

知らない人には註釈が必要になる。

そして、その「知っている/知らない」という境界そのものが、当時の都市文化の一部分だった。

この構造は現在にも通じる。

今日なら、どのスマートフォンを使い、どのSNS(インターネット上で人間関係や情報を共有するサービス)を使い、どのカフェへ行き、どの動画配信サービスを見ているのかによって、ある程度その人の生活や価値観を想像できる。

『なんとなく、クリスタル』は、そのような社会が日本に現れ始めた瞬間を記録した作品でもあった。

「クリスタル」とは何だったのか

では、題名にある「クリスタル」とは何なのだろう。

もちろん、何か特定の商品を意味しているわけではない。

むしろ重要なのは「なんとなく」という言葉である。

絶対的な思想や信念によって行動するのではなく、「なんとなく気分がいい」「なんとなくこちらの方が好き」という感覚によって物や生活を選んでいく。

朝日新聞の田中康夫への取材記事でも、この作品は「なんとなく気分がいい」ことを買い物や行動の尺度にする若者の生き方を描いた作品として整理されている。

それまでの日本では、何かを選ぶときに「役に立つ」「長持ちする」「安い」といった実用的な価値が重視されてきた。

ところが経済的な豊かさが広がるにつれて、「自分の感覚に合う」「雰囲気がいい」「格好いい」といった価値が重要になっていく。

クリスタルとは、その新しい感覚を象徴する言葉だったと考えると分かりやすい。

実は「豊かな日本」を礼賛した小説ではない

この作品は、しばしばブランド志向の若者を描いた小説として語られる。

しかし、田中康夫がその生活を全面的に肯定していると読むのも少し違う。

作品を読んでいると、華やかな都市生活に対する奇妙な距離感がある。

ブランドを詳しく紹介しながら、そのブランドを選ぶ人間を観察している。

流行を知り尽くしているようでありながら、その流行そのものを少し離れた場所から眺めてもいる。

そのため、『なんとなく、クリスタル』は消費文化の内側から書かれた小説であると同時に、消費文化を観察した小説でもある。

ここが、この作品を単なる風俗小説にしなかった重要な部分だろう。

最後に突然現れる「人口」の話

そして『なんとなく、クリスタル』を現在から読み返したとき、最も興味深いのが作品の終わり方である。

華やかな東京の若者たちを描いた物語の最後に、突然、人口問題に関する公的資料が登場する。

そこでは、出生力の低下や高齢化に関する将来予測が示されている。作品末尾に人口問題審議会の報告や当時の厚生白書から人口動向を示す資料が置かれていたことは、後年の解説でも確認できる。

なぜ、ブランドと恋愛と音楽に囲まれた若者の物語の最後に、人口統計が出てくるのか。

ここに、この作品のもう一つの顔がある。

1980年の日本は、まだ「これからもっと豊かになる国」に見えていた。

しかし、その同じ時代に、出生率の低下と高齢化はすでに始まっていた。

目の前には新しい服があり、新しいレストランがあり、新しい音楽があり、消費社会は華やかになっていく。

その一方で、長期的に見れば日本社会の人口構造は静かに変化し始めている。

この二つを同じ作品の中に置いたことが重要なのである。

『なんとなく、クリスタル』が本当に描いたもの

そう考えると、この作品が描いたものは「1980年代のブランド生活」だけではない。

より正確に言えば、

日本人が「生きるために物を買う社会」から、「自分らしくあるために物を選ぶ社会」へ移っていく瞬間

だったのではないだろうか。

高度経済成長を経て、若者たちは親の世代より豊かになった。

海外の商品や音楽に触れ、自分の趣味で生活を組み立てることができるようになった。

自由になったのである。

しかし、その自由を何に使うのかという問いには、必ずしも明確な答えがない。

だから「なんとなく」なのである。

この言葉には、豊かさと同時に、どこか頼りなさも含まれている。

40年以上たった今だから分かること

1980年から40年以上が過ぎた現在、この小説に登場する店や商品を知らない読者も増えた。

その意味では、『なんとなく、クリスタル』は確かに時代を映した作品である。

しかし不思議なことに、その基本構造はそれほど古びていない。

ブランドが別のものに置き換わっただけで、私たちは今も「何を選ぶか」によって自分自身を表現しているからである。

服だけではない。

スマートフォン、クルマ、旅行先、食事、音楽、動画、SNS。

私たちは無数の選択を通じて、「自分はこういう人間である」という像を作っている。

その意味では、現在の私たちもまた、形を変えた「クリスタル」の時代を生きているのかもしれない。

ただし、1980年と現在には大きな違いがある。

当時の若者たちの背後には、「明日は今日より豊かになる」という日本社会全体の空気があった。

現在の私たちは、人口減少、高齢化、社会保障、地方の衰退といった問題が現実になった社会に生きている。

『なんとなく、クリスタル』の最後に置かれていた人口の話は、もはや未来予測ではない。

私たちが現在暮らしている社会そのものになった。

だからこそ、この小説は懐かしいだけでは終わらない。

『なんとなく、クリスタル』が描いたのは、1980年の若者たちの華やかな生活であると同時に、豊かさの頂上へ向かって歩きながら、その先にある黄昏にはまだ気づいていなかった日本社会の姿だったのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ